by Rainbow School
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すべてに偶然はないということと、シンクロニシティの意味

この世に、偶然というものは何一つない。

スピリチュアルなことに興味のある方なら、たぶん一度は目にしたことのある言葉でしょう。裏を返せば、「自分の身に起こるすべては必然」だというのです。これを、あなたは信じられるでしょうか?

 

あなたには自由意志が与えられています。選択の自由です。このブログでも、何度も強調して来ました。あなたが為している、今この瞬間の行動は、山ほどもある選択肢の中から、自由意志によって、あなたが確かに選び取ったものです。言い換えれば、捨てた選択肢の方が山ほどある。それなのに、あなたが選んだたった一つのことは、必然なのだと言うのです。

 

イベントの余興でやっている三角くじ。あれを想像して貰えれば解りやすいでしょうか。箱の中には、当たりくじを含むたくさんの券が入っています。その中から「どうか一等が当たりますように」と念じて一枚を引く。それがもう偶然ではなく、必然だというのですから‥‥。

 

えっ、自分はハズレばっかりですって?

私もそうですよ、もうハズレばっかり! (ノ_-。)

 

これはどういう意味なのでしょう?

(だから、ハズレばっかりの意味じゃなくて、選んだ券が常に「必然」だということの意味ね)

 

一方で、シンクロニシティ(Synchronicity)という言葉もあります。これは、一般的には、同じようなことが重なる現象だと説明されています。たぶんあなたにも、何かしらの経験がお有りでしょう。ちょうど思い浮かべていた人に街でバッタリ出会ったり、一日に二度も交通事故を目撃したり、何かの数字が同じだったり、たまたま手に取った本に、疑問に対する答えが書いてあったり。

 

分かりやすいシンクロニシティに出会った時には、本当にびっくりしますよね。でも、前に書いたこととはちょっと矛盾していませんか? シンクロニシティは、〈偶然〉の重なり、と説明されることが多いです。でもすべてが必然なら、偶然の重なりもなにもない。すべて必然なのですから、必然の中に、重なり現象が見られたということに過ぎません。

 

実はその通りなのです。分かりやすいシンクロニシティ現象に出会った時には、ちょっとびっくりしてしまいますが、それは何かに気づかせるためのサインとして、わざわざそのような形をとって示されたものです。言って見れば、狭義のシンクロニシティ。でも実際には、身の上に起きていることのすべてが、シンクロニシティだと言ってもよいのです。今日はこれを説明しましょう。

 

宇宙のあらゆるものを構成している基本要素は、たった一つです。それは振動するエネルギー体です。万物は、この振動するエネルギー体の振動数が、ちょっとずつ違うことで、あらゆるものが形づくられているのです。物も、電磁波も、想念も。このことは、現代物理学もかなりのところまで迫って来てはいますが、まだ完全に証明されたわけではありません。

 

なぜ証明できないかと言いますと、我々が暮らしている三次元(第三霊性密度)の物質世界が、多次元的宇宙全体からみれば、ごく限られた範囲の振動数しか知覚できないからです。それはちょうど、ごく狭いスリットから、向こう側の広大な世界を覗こうとしているようなものです。しかしその限られた範囲であっても、いま言ったことの一端はかいま見ることは出来ます。

 

あなたがよく知っている、X線、紫外線、可視光線、赤外線、音波等。これらが、それぞれ異なる性質と働きを持っているというのはご存知でしょう。ではそれらに異なる性質を与えているものは何だと思いますか? 実に、これが振動数だけなのです。あるいは、波長、密度と言い換えてもいいです。全部が、波には違いがないのですが、それぞれの振動数が異なるのです。すると、性質がまるで違ったものになってしまうんですね。

 

このことを、私はセミナーなどでもよくお話しているのですが、なぜかみなさん感動がないのですよ。なぜでしょうねぇ。

 

私が最初にこれを知った時には、もの凄く感動しました。なんだ、そうだったのか。元はたった一つだったんだ。古代から言われて来たエーテルっていうのは、本当のことだったんだ。なんてシンプルな結論なんだ。なんて Beautiful なんだろう。そうか、「神」ってぇやつは、結局‥‥と、部屋の中で一人で小躍りしていたくらいです。

 

それはさて置き、宇宙のすべては「波」である、「振動するエネルギー体」である、ということを(少なくともこのブログを読んでくださっている方には)最初に認めていただきたいのです。音波や電磁波が「波」だということは、すぐにお認めになるでしょうが、固い物質も、人間の想念も、みんな「波」なのです。「振動するエネルギー体」なのです。

 

ということは、「波」というものが持っている性質や特徴が、物質にも、想念(思考や感情、感覚等)にも当てはまるということなのです。その一つを簡単に言うと、調和する波長は互いに惹かれ合い、合わない波長は反発し合うということが起こるのです。これを音楽で説明すると、共鳴(同調)、和音(調和)、不協和音(不調和=離反)の大きく3つの状態があるのです。

 

物質では、共鳴した時には結晶となり、和音となった時には化合し、不協和音となった時には分離します。人間関係でも同じです。共鳴する関係、調和する関係、不調和となる関係が存在します。物と人間との関係においても同じことが言えます。好む物と好まない物が生じるのは、同調、調和、不調和のセオリーが見えないところで働いているからです。

 

これらのセオリーを、精神世界では、一般に「波動の法則」と言っています。しかしこの「波動の法則」については、頭から毛嫌いする人も多く、インテリを自認する人は「エセ科学」などと言って、小馬鹿にしたり、罵声を浴びせたりしています。このような人たちは、結果から結果を見る狭い科学しか認めず、因の世界と結果の世界との関係を知ろうとする、真の科学というものを知りません。

 

私はどのように馬鹿にされても、糾弾されても構わないのですが、「波動の法則」は真理です。しかも最重要の。これが真理だと確信を持って言えるわけは、この世の機器では計測できない「波動」を、私はハッキリと知覚することが出来るからです。しかしこれは、何も自分が特別だなどと言いたいわけではありません。それどころか、人間誰しもが持っている普通の能力なのです。

 

あなたにも、ちゃんと「波動」は知覚出来ています。ただ、それを認めなかったり、理論を知らなかったり、気のせいだと解釈したりしているだけのことです。あなたが「ふと」思う。「なんとなく」そう感じる。急に何かの味や匂いを思い出した。空耳が聞こえた。ちょっとした事件が重なった。体が熱くなった。涼しい空気を感じる。気分が清々しい。etc.これらはすべて、あなたが知覚した「波動」です。

 

今これを言ったのは、そのことを意識して、セオリーを正しく学んで、正しく生活に応用していけば、あなたの生活が、よりよいものに変わるということを申し上げたいからです。人間は、今、そのことを真摯に学ぶ時期に来ています。あなたは、ただ物質世界に生きているだけの人間ではありません。多次元世界を知覚できる、多次元的存在なのです。そしてそれが、本当の人間の姿なのです。

 

ここで強調した「正しく」の意味は、「波動の法則」の応用には、エゴを一切持ち込んではならないということです。自分の欲のために「波動の法則」を応用しようという本末転倒があまりにも多いために、あえて強調しました。

 

さて、あらゆるものには固有の振動数というものがあります。あなたの肉体を造っているそれぞれの細胞、またその元である原子も、それぞれの振動数を持っています。またあなたの魂も想念も振動数を持っています。そしてこれらを総合して、今のあなたは、ご自分の「波動」というものを、絶えず周囲に発散しているのです。この「波動」を、オーラの色として見分けられる人もいます。

 

その時、互いの人間が出す「波動」、物が出す「波動」、インターネットやテレビが出す「波動」、文字が出す「波動」、自然が出す「波動」、等々の間で、先に言った、同調、調和、不調和のセオリーが正しく働いているのです。同じレベルの「波動」や似通ったものを含む「波動」を持ったもの同士は惹かれ合い、著しく離れたものは反発し合います。

 

高い波動を持った人間と、低い波動を持った人間が出会った場合、低い波動を持った人間は、大きく二つの反応に分かれます。その高い波動に親しみや共感を覚える場合と、嫌悪する場合です。その人の「魂」が反応すれば、近づきたいという願望が自然に生じ、「心」が反応すれば、今の自分を変えられたくないという防御意識(=怯え)が生じて、自然と嫌悪する態度に変わります。

 

強さを誇示する、強圧的態度に出るなどは、すべて弱さ、不安の裏返しです。

 

あなた方が、日々、テレビやインターネットで見ている怒号や、悲鳴や、罵り合いや、相手を小馬鹿にした態度などは、すべてそうした自己の防御意識の結果として顕れ出たものです。もちろん逆もあります。あたたかな、ふんわりした、リラックスできる、ほのぼのとした愛を感じるものです。また、魂の奥深くに突き刺さるような、深い感動を覚えるといった瞬間もあるでしょう。

 

ここで注目していただきたいのは、あなたが、どんなものに同調意識を持つか、ということです。先ほども申し上げたように、同じもの、似たもの同士は互いに惹き付け合います。ということは、怒号や、悲鳴や、罵り合いや、小馬鹿にした態度などに心惹かれるという人は、その「波動」に、現在の自分がよく調和しているということなのです。

 

通販広告で、これを飲みさえすれば努力なしに痩せられるとか、見違えるような素肌になれるとか、自宅にいて何もせずにお金が稼げるとかの誘いに反応する人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるぞと言って怯えたり、いつ来るかも分からない大地震を不安に思ったりする人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。

 

美女が、肌もあらわに「うっふーん」なんてのに興奮するのは、そのレベルの「波動」に合っているということです。(あ、俺か!)

 

ということで、人間というものは、所詮は自分の「波動」レベルに応じたものしか取捨選択しないものなのです。例えばこの『気づきの啓示板』ブログもしかりです。はなから全く興味関心がない人、誰かに勧められて読んでも「つまらん」と思う人、一つつまみ喰いでもしてみようかなという人、何かを感じすべてを知りたいと思う人、もの凄く感動したという人、などいろいろです。

 

すべては「波動の法則」です。あなたが見たもののすべては、あなたが決している。あなたは、今の自分のレベルに応じた色メガネを掛けて、それで世の中を見ています。そこでは、その色メガネに反応したものしか、あなたに興奮や、興味関心をもたらさないのです。これが、広義の意味でのシンクロニシティ。つまり、あなたのレベルと、周囲にあるもののレベルが同調した「瞬間」なのです。

 

狭義のシンクロニシティ(同じことが重なる現象)は、あなたのガイド(守護霊)や、マスターや、他の多次元的存在や、ハイヤーセルフが、何かの気づきを与えようとして仕組んできます。そこにどんなメッセージがあるかは、すぐには解らなくても、しばらくしてからパッと解る時があります。

 

もうお解りでしょう。「この世に偶然というものは何一つない」ということの意味が。あなたの周囲に起きていること、あなたが体験するあらゆることは、すべてシンクロニシティなのです。今のあなたに、必然的に顕れたものです。そして、あなたが選んだその瞬間々々の軌跡が、あなたの人生を決め、あなたが何者であったかを明らかにすることになるのです。

 

だからこそ、ここであなたにお願いしたいのです。ご自分を高めなさい。あなたには、あなた固有の凄い能力が与えられています。その能力を喜ばせ、そして周囲の人も喜ばせてあげなさい。それを、今日からの、あなたのシンクロニシティとしなさい。あなたがご自分を高めなければ、世の中は高まらないのですよ。社会は、個々の能力の集合体であることを、肝に命じて生きていってください。

生と死の意味

長年に渡り訪問医療を推進され、家での看取りを続けて来られたある医師の今を記録したドキュメンタリー番組を見ました。

 

この医師は、90歳を超えて自身が癌を患い、在宅医療を受ける側となって、こう自問するのです。「在宅医療は天国だと、自分はずっと言い続けてきたけれども、これはひょっとしたら地獄かもしれない」と。天国から地獄へ。医師として、長年患者を看取ってきた立場から、看取られる立場に変わって、どういう心境変化があったのか?

 

「結局、医療をどうにかしたところで、生活の苦しみがなくならないことには何も解決しない」と、今になって気づいたんだと、その医師は語ります。そして、「だから、総合人間医療のようなものが必要だ」と思うに至るのですが、その答えが見つからないと言って、煩悶しておられるのです。

 

とても熱心で真面目な方です。「医師として」真面目すぎるくらい真面目です。

けれども、この方が、人生の終末期に差し掛かって、天から示された《学びのテーマ》は、明らかです。「医師として」ではなく、「患者として」でもなく、「人として」その日を迎える体験をするということです。

 

一般論とするために、「生活の苦しみがなくならないことには」と、ぼかして語っておられるのですが、この方にとっての「生活の苦しみ」とは、端的に言えば「死への恐怖」です。

 

人間、誰もが死ぬ。ですからそれは特別なことではなく、「人として」当たり前のことです。ところが、「医師として」のもう一人の自分が、その問題に介入して来るために、今ある状況を素直に見つめられなくなって煩悶しているのです。死にゆく自分と、生かし続けようとする医師が、自分の中で激しく闘っているのです。

 

これは、現代の「医療」が持つ、ある種の観念性の問題を端的に示していると思います。医療者は、生命が何であるかを知りません。生とは何か、死とは何か、自分がなぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、を知りません。ただ、「生きている」という状態、「死んだ」という状態に対する知見だけがあって、それで「生」と「死」というものを捉えているのです。

 

ですから、多くの人は、その時が来て初めて「自分は何も知らない」と気づく。知らないから、ただ「死」を忌み嫌い、恐怖し、「生きている」ことだけを善しとした医療行為を行い、延命治療に精を出すのです。そして、「いろいろ手を尽くしましたが、ダメでした」となってから、やっと関係者全員が「それなら、仕方ないね」と納得する。

 

これが、今の「死」に対する考え方、対処の仕方のスタンダードになっています。

 

しかしここで、考えていただきたいのです。「生」とは何か、「死」とは何かを知らないまま、(ということは人生の目的を知らないまま)いくら「延命」をしたところで、所詮この世でいうところの「死」は避けられません。だとすれば、現代医療というものは、結局は苦悩の時を長らえさせるだけになってしまっている、とは言えないでしょうか?

 

50年前には、今のような考え方は「常識化」されてはいませんでした。わずか半世紀で、常識が一変してしまったのです。自分が子どもの頃には、「寝たきり」という老人は殆ど見かけませんでした。基本的に、ピンピンコロリ(死ぬ直前まで元気で、脳溢血等でコロリと死ぬ)でした。病気で床に着くようなことになっても、ほどなくみんな死んだのです。

 

ですから、「ポックリ逝きてぇ」というのが、その時分の老人の共通の願いで、そのために多くの人が願かけ(ポックリ寺というものがある)までしていたのです。深沢七郎氏の『楢山節考』には、歳を取っても自分があまりにも元気なものだから、このままでは世代交代がうまくいかないと気にした老婆が、石で自分の前歯を打ち砕くという描写まであるのです。

 

ところが今は、介護ベッド、看護ベッドを自分のホームベースにさせられて、各種の検査データをしょっちゅう取られ、安静と服薬を誓わされて、ヨレヨレの状態になりながらも、でも「できるだけ長く生きること」が、関係者みんなの願いになっている。生きて何をするのか? 「生きる」質を問うことなく、ただ「生きている」という証拠だけが尊ばれています。

 

たぶん、あれは7、8歳の頃だったと思うのですが、「人間、死んだらどうなるのだろう?」「なぜ、自分は生まれてきたのだろう?」「死後の世界というものはあるのだろうか?」といったことの疑問が、しだいに膨らんで、親に尋ねてみたことがあるのです。ところが明確な回答はありません。それで学校へ行って、理科の先生に訊いてみました。でも、先生も知らない。

 

この時は、もの凄いショックを受けました。生きる理由を知らなくても、みんな生きている。疑問など持たずに生きている大人がいる、という事実にです。みんな平気な顔をして、毎日を生きている。それで、そんな疑問を抱く自分はおかしいんだろうか。そんなことを気にしている自分は、よっぽどの小心者なんだろうか、と思いました。

 

それからは、自分が人一倍小心者であるということを気づかれまいとして、そうした素朴な疑問を口に出すことは、一切止めたのです。代わりに、内部でブツブツつぶやきを始める習慣が始まり、そのうち、内部の声がうるさすぎて、頭の中が爆発しそうになったのです。

 

でも冒頭の、医師の例に見るように、終末期における煩悶は、結局、「人間なぜ生きるのか?」「死んだらどうなるのか?」という基本問題に、答えを見つけぬまま「生きている」ということから、発しているのではないでしょうか?

 

人は、人生にとって、重要な問題ほど後回しにする。

そして、どうでもいいことばかりに時間を費やして、大切な一生を終わる。

 

大人になってから、「生きる意味」を考える学問があるということを知りました。「哲学」です。「生きる意味」を考えることは、別にタブーでは無かったのです。ですが「哲学」では、この問いに、真の答えを見つけることは出来ないと、結局知りました。この世の「現象」から推論した、結果の世界の「哲学」には、自ずと限界があるからです。

 

なぜなら、宇宙の始まり、宇宙の存在に関しての合理的な答えが、「哲学」というものにはないのです。根本であるところの宇宙の存在に関しての答えが見つからないのですから、その上に「生きる」ことに、合理的な回答が得られる筈がありません。結局のところ、「現象」から、さらに奥の「因の世界」にまで踏み込んだ「宇宙哲学」に、答えを見つけるしかなかったのです。

 

けれども、「宇宙哲学(=真理)」を語ることは、依然としてタブーです。数学でも、科学でも、医学でも、哲学でも、「結果の世界」だけを語る者には権威が与えられ、「因の世界」にまで踏み込んで考えようとする者には、「トンデモ」とか「ニセ科学」とか「インチキ」といったレッテルが貼られ、罵詈雑言と、バッシングの栄誉が与えられるのです。

 

これはもう仕方がありません。解る人には解るし、解らない人には解らない、としか言えない。それは知識だけの問題ではありませんから。ある種の「感覚」の目覚めを伴うものですから。本当は、この「感覚」は誰でも持っていて、それを呼び覚ましたり、鍛えることも可能なのですが、この世の「常識」がそれを否定し、封印させているので、気づく人は本当に少ないのです。

 

人間の本質は「魂」にあります。肉体であるあなたが、あなたの全てなのではありません。それはあなたが選んだ、この世における活動のための器官なのです。一般に言われている「生」と「死」の境界は、実は大した問題ではなく、この世という三次元世界を生きるための、活動器官を持ったか、手離したかという問題でしかないのです。いわゆる肉体の死後も、あなたの「魂」は生き続けます。

 

そもそも、宇宙には「誕生」も「死」もありません。あるのは「生」の循環だけです。我々が「生きている」とか「死んだ」と呼んでいるものは、循環時の、ある変化の「状態」を特定して、「生きている」とか「死んだ」とか、勝手に名づけているだけなのです。

 

では、あなたにお訊きしたい。あなたは「宇宙」が「死んだ」のを見たことがあるでしょうか? 絶対に無いはずです。なぜって、あなたも「宇宙」の一員なんですから。その「宇宙」が死んだら、あなたも生きてはいません。「宇宙」が「死んだ」ことを分かる人は、もうどこにもいない。

 

結局、「宇宙」には、永遠の「生」しかないのです。ただ「変化(=無常)」のみがあるのです。それが「輪廻」と呼ばれる現象です。「宇宙」に「死」はあり得ない。ですから、「宇宙」の一員であるあなたにも「死」があるわけがありません。あるのは「状態」の変化だけです。それが「輪廻転生」なのです。

 

かりに私に、この世で言うところの「死」が訪れたとしましょう。かつて私を構成していたその肉体を庭先に埋めておくと、やがてそこからは植物が芽を生やすでしょう。その時、かつて肉体だった元素は、植物の栄養となるべくして使われたのです。つまり「生命」が、次のものに運ばれたのです。このように「宇宙」に「死」というものはないのです。

 

では「意識」はどうなるのでしょうか? 現代科学では証明されていませんが、「意識」はエネルギー体です。「魂」の「意識」は、脳を失っても、無くなることはありません。真のホームである霊界に帰還し、休息をとった後、そこでいくつかの選択肢を示された上で、地上での活動をもう一度経験したいと願う「魂」に対しては、その機会が与えられ、また転生してくることになります。

 

こうしたことは「知識」として知っただけでは不充分です。そこにある種の「感覚」というものが伴わないと、なかなか納得していただけないとは思います。しかし最近では、臨死体験や体外離脱体験を語る人も多くなりましたし、深い瞑想状態に至ることで、「宇宙」の永遠性と「魂」の存在の確証についての感覚をしだいに掴むようになることは可能です。

 

疑い深い人は、それでもなお、こうした超意識の感覚を、脳の活動のみによって説明しようとするでしょう。そういう人を説得しようとは思いません。ただ「体験してみては?」と言うことしか出来ません。どの道、地上の今の物質科学では証明することが出来ませんから。

 

しかし反対にこうも言えます。どんな地上の機器を使っても、「感覚」を丸ごと捉えることは不可能だということ。データというものは、「感覚」の一部を切り取って、ある指標(スケール)の上に置き換えたものに過ぎません。

 

あなたに、最近どうも体調が悪いという「感覚」があったとしましょう。そこでいろいろと検査をして、データを収集します。血圧がどう、血糖値がどうとか。その結果、「どこも悪いところはありません」と言われるかも知れません。でもあなたには、「いつもとは変だ」という「感覚」がある。この「感覚」を、他者に丸ごと示し、理解してもらうことは、不可能なのです。

 

しかしここで、驚くべき点に注目していただきたいのです。臨死体験や、体外離脱体験や、深い瞑想体験によって得られた情報が、古今東西で、ほとんど同じだということです。「宇宙」の永遠性や、「魂」の存在や、「輪廻転生」についても、太古の昔から同じことが繰り返し述べられているということです。

 

これは、私が何度も言っているように、「元は一つ」ということの間接的な証明になってはいないでしょうか? ですから、組織宗教になど頼る必要はないのです。霊能者のご託宣などを仰ぐ必要もないのです。何をどうしようが、帰るところは一つ。みんな一緒。ただ、早いか遅いかの違いがあるだけ、ということです。

 

いま言ったことを、信じる必要はありません。疑っていただいて結構なのです。けれども、唯物主義を振りかざす方に尋ねてみたい。あなたが、この世で「死」と呼んでいる現象を迎えたあと、自分がどうなると言うのか? そこには「虚無」しかないのか? 「虚無」しかないとすれば、それまであなたが生きて来たことに、どんな意味があったと言うのか?

 

この迷いこそ、医師が直面したものだったのではないでしょうか?

 

この世は栄枯盛衰です。どんな物も、あの世へは持っていけない。その通りです。ならば「生きる」ことにどんな意味があるのか? 何をやっても、人間、最後は死ぬのなら、人生に意味などないではないか? まさしくその通り。

 

でもちょっと違う。意味はないけれど、あなたの「意識」は残る。「魂」によって運ばれて、この先もずっと、ずっと‥‥。

 

さてそこで、

あなたの「意識」とは、常に〈今ここ〉のものである、ということに気づいて欲しいのです。

Be Here Now. 今ここ。

 

3分前にこういうことがあった。昨日こういう経験をした。学生時代にこういうことがあった。幼少時に親からこんなふうにされた。それは「過去」じゃないんです。「過去」なんてものはどこにもない。そういう体験をしたという、〈今ここ〉の想い、〈今ここ〉の解釈があるだけなのです。解りますか? あなたとは、あなたという「魂」とは、「〈今ここ〉を想う存在」なのです。

 

ルネ・デカルトは、そこでこう言いました。

Cogito, ergo sum 我想う、ゆえに我あり。

 

ということは、〈今ここ〉の想いを変えれば、「過去」の意味など容易に変わるということです。自分が変わるということなのです。そして、この「変わる」きっかけをもたらすものとして、人生におけるあなたの様々な「体験」がある。そのシナリオを、あなたは、霊界において、自分であらかじめ設定した上で、この世に誕生して来ました。

 

人が感じるあらゆる「不安感」の底には、結局のところ、「死」に対する誤った観念というものがあるのです。死んだら何もかも終わりだ。自分という存在が消滅してしまう。「死」は怖い。人生など所詮は空しい。そこで厭世的気分に落ち込む人がいる一方で、刹那的に生きたり、享楽に耽ったり、贅沢三昧をしたり、他者を支配したり、他人の財産を奪い取ったりする人が出てくるのです。

 

つまり、人が「死」と呼んでいるものに対する無智が、これまで地球人類の成長を阻んできた大きな原因になっているのです。

 

しかし、自分の本質は「魂」にあって、自分が「永遠に〈今ここ〉を想う存在」であると知れば、誕生の目的、そして人生の目的がどこにあるのかは、もうお解りでしょう? 成功でも、名声でも、何かを Get することでもない。様々な体験にチャレンジし、それを存分に味わい、そこに何かの意味を見出す(与える、創造する)ことです。

 

そうやって築いた、「魂」の意識だけが、次に運ばれるのです。

 

同じ体験も、辛いと想えば辛い。不幸だと想えば不幸。でも楽しいと想えば楽しい。幸福だと想えば幸福になる。すべては、「〈今ここ〉を想う存在」である、あなたの選択いかんなのです。そして、前者を出来るだけ手離し、後者の想いを増やして行った時、それを指して、宇宙では「魂」の成長と言うのです。

 

いま言ったことは、生と死の意味を正しく理解し、「魂」の永遠性に気づかなければ、どんなに「哲学」を学んだところで、解り得ないことです。結局は、最期になって煩悶する。人生は、そんなに難しいことじゃない。己を信じて、周囲に思いやりを持って、互いに助け合って、楽しく、生き生きと、〈今ここ〉を、思う存分体験すればいい。

 

体験だけがすべて。体験の「解釈」だけが、あの世へそして次の生へと運ばれる。ですから、その時には、辛く苦しいと思ったことでも、全部が役に立っている。あなたの「意識」の層を豊かに積み重ねるについては、全部の体験が貢献しているのです。「苦労は買ってでもしろ」と言われるゆえんです。

 

辛く苦しいことほど、ジャンピングボードのバネが厚い。つまりそれは、「魂」の成長にとって、飛躍のチャンスが与えられたということ。だからあなたも、この「宇宙の真理」を知って、日々をたくましく生きなさい。失敗などどこにもなく、あなたを責めるものなど何もなく、宇宙からは完全に愛されているということを、胸にしっかりと受けとめなさい。

宇宙の健全、身体の健康

これから書くような知識を、あの時に自分が持っていたら、死をまぬがれることは出来なかったにせよ、もっと違った展開になっていたかも知れません。いや、たとえ自分だけが知識を持っていたところで、本人も、医者も、医療関係者も、友人知人も、親戚も、マスコミも、ほぼ全部が現代の医療システムの中に埋没している状況下では、やはりどうにもならなかったことでしょう。

 

あの日あの時、カミさんの癌死という手痛い出来事を体験させられ、いかに自分が馬鹿であったか、未熟であったか、無智であったかを痛感し、そして今日があります。やはりその体験は必然で、今では「伝える」という役目を果たすために、自分が選んだ学習だった気がしています。そのストーリー創りに、彼女は身をもって協力してくれたんですね。

 

さて、いきなり核心に迫る質問です。

あなたは、「宇宙」に病気があると思いますか? 言い方を変えると、「神」が病気になることがあると思いますか?

 

「神」とは全てです。宇宙の総体です。創造主であり同時に被創造物です。従って宇宙には、(特定の宗教で強調されているような)罪や罰はありません。もし罪と罰があるとするならば、「神」は、おイタをする自分の左手を、自分の右手で「コラ!」と言ってひっぱたくということになってしまいます。まるで、漫才のボケとツッコミを一人でするようなものです。こんなバカな話はありません。

 

同じように、宇宙に病気はありません。総体であるところの「神」が、どうして自分で自分の病気を創り、自分で治す必要があるでしょうか? つまり宇宙は、そのままで、ありのままで、まったくの「健全」だということです。言い換えれば、宇宙はつねに「健全」であるように「生きている」ということ。「健全」のもとに自動調整されるということ。それが宇宙の本質であり、真理だということです。

 

ところで、あなたという存在は何であったでしょうか? そうです、「神」の落とし子です。だとすれば、「神」の一部であるあなたが、「病気」になるわけがありません。本来、人間に「病気」はないのです。ところが人間社会では、「病気」が頻繁に見られます。他の動物よりもはるかに高い割合で「病気」なるものが発生しています。これは一体どうしてなのでしょうか?

 

その答えは、前に書いた文中にあります。人間が、「ありのまま」に生きていないからです。自然界に生きる動植物も、人間に飼育された途端に病気になりやすくなるのは、「ありのまま」に生きられなくなるからです。そして人間は、「ありのまま」を忘れただけでなく、「健全」のもとに「自動調整される」ことを信じなくなりました。その代わりに、こう信じた。

 

人は病気になるものだ。齢をとったら体にガタが来るものだ。世の中には病原菌や危険なウイルスが溢れている。病気予防に定期健康診断を受けなさい。早期発見早期治療が大切です。ちょっとおかしいと思ったら、自己判断をせずにすぐに病院へ。今はいい薬がどんどん開発されているし、ハイテクの高度医療機器だってあります。でも、ちとお金が掛かるのね。だから、まさかの時に備えて保険にはちゃんと入っておきたいものですね。

 

過去半世紀で、この刷り込みが、あまりにも壮大な規模で、あまりにも徹底したものですから、今ではその宣伝に疑いを差し挟む人など、ほとんどいません。その延長上に、健康食品ブームがあり、多くの人があれを飲まなきゃ、これを食べなきゃと、ほとんど強迫観念のようにして摂取しています。

 

でもおかしいとは思いませんか? そうやって医療費や健康関連の支出がどんどん増えているということは、健康〈不安〉産業の成長が止まらないということなんですよ。もし本当に「健康」が図られるのであれば、また実現されるのであれば、これらの支出は減っていかなきゃならない。でも逆に増えている。ということは、今のシステムが根本的に間違っているということを明白に示しています。

 

今こそ、あなた方は、「健康」の源泉がどこにあるかということの宇宙的な知識と、「ありのままに生きる」ということの意味を学ぶ時です。

 

宇宙に、想念なしに実体化するものなど、なに一つありません。これはすでに何度も書いてきたことですが、宇宙の根本原理として、ぜひ頭に入れておいて欲しい事柄です。またここで「実体化」と言った時に、それは必ずしも形あるものだけを意味しません。他ならぬ、想念自体(思考や、感情や、感覚など)が、すでに「実体化」なのです。

 

「想念」は目には見えませんが、振動するエネルギー体であって、それ自体がパワーを持っています。その証拠に、「想念」を他者に伝達して影響を与えることが出来ます。たとえば上司が部下に命令を下す。この時、通常は言葉を使うわけですが、それは言語に変換されたところの上司の「想念」なのです。そして、言葉を受け取った部下は、次にこの言葉を自分の「想念」に再構成します。

 

このようにして、普段あまり意識することはありませんが、人間は「想念」パワーによって、互いに周囲に影響を与え合っているのです。今のは言葉を使った例ですが、「目は口ほどにものを言う」という諺もあるように、人はテレパシック(telepathic)な伝達も日常的によく行っておりますし、中には植物と会話したり、動物と会話できるという感覚を持つ人だっているのです。

 

一方、身の回りにある道具や衣服などが、すべてその製作者の「想念」を下敷きに創られたものであるということはすぐにお分かりでしょう。では、物質化している「想念」と、物質化に至っていない「想念」とは、何がどう違うのでしょうか?

 

私たちはみな肉体を持ち、三次元(3D)の世界に身を置いているせいで、自分の周囲をつい「物」ベースで見て、あるとかないとかと言う癖があります。でもここで、ちょっと想像力を働かせ、ドラえもんのポケットの中から、見えるものと見えないものが逆転するメガネを取り出して掛けてみてください。すると、物質化している・いないに関わらず、様々な「想念」が行き交っている姿が見えることになります。これが、いわゆる霊的世界なのです。

 

霊的世界においては、物質化しているかどうかということは大きな問題ではないのです。たとえばあなたが、あることの実現化に向けて、Aプラン、Bプラン、Cプランを構想したとしましょう。あなたにとっていちばん思い入れが強かったのはAプランだったのですが、諸般の事情でBプランが実現化したとします。この場合、霊的世界においては、BよりもAプランの方が「実体」として強く残り続けるのです。

 

つまり、霊的世界というのは「想念」だけの世界であり、ですから消滅することはなく、永遠に記憶として残り続けるのです。一方、物質化された世界というのは、エネルギー体が振動数を下げた時に出現する世界であり、物質の元となる素粒子は、吸引、反発、粘着、凝集という四つの力の作用によって、絶えず離合集散を繰り返します。これが、物質界の掟、いわゆる「無常(常なるものは何も無く、全てが変化し続ける)」です。

 

*実際には、霊的世界に「時間」というものはないので、この言い方はおかしいのですが、三次元に住む我々には「無時間」という概念が理解し難いので、仮にそう表現しています。

 

よく、「この世は幻」とか「この世は映し絵」と言われるわけは、このような理由によるものなのです。つまり、あなたという「魂」が真に〈生きて〉関わっている世界は、実は霊的世界の方なのです。この世は、物質世界でしか味わえない体験学習をするために、あなたが自ら希望して入学してきた寄宿舎つきの学校というわけです。

 

ですから、高い授業料(生涯費用2億円!)の、元をしっかり取って帰らないといけませんね。はて、あなたは、元、取ってるかな?

 

あなたに限らず、人間たちは、たいてい自分の身体というものと意識というものを、分離して考えています。特に、脳科学がクロースアップされるに連れて、この傾向はますます強まっています。しかし、これまで述べて来たように、すべての物質には、それが成立するための理由(四つの力を組み合わせて行使している原因)があります。言い換えれば、背後に何らかの「意識」があるのです。

 

ということは、あなたの身体も、身体を構成する各器官、各細胞も、脳とは別の「意識」を持っているということなのです。あなたの皮膚上にある古傷がそれを証明しています。皮膚細胞はどんどん新陳代謝を繰り返しているのに、古傷が生じた際の記憶は、新しく作り出される細胞にもちゃんと伝達されているのです。

 

さてこの「意識」ですが、以前にも述べたように、多層構造を為しています。この分類や呼び方については各種のバリエーションがありますが、今回は、その意味をもっとも的確に表現していると思われる「sense mind(感覚的な意識)」と「cause mind(原因の意識)」という言葉を使って説明しましょう。「sense mind」が顕在意識、「cause mind」が潜在意識(無意識)に当たります。

 

あなたがいま借り受けている身体は、いくつかの系、系を構成する器官、器官を作る細胞、細胞を作る分子、分子の素である原子、原子を構成する素粒子という階層構造で構成されています。ここまでは現代物理学においても常識化されています。がしかし、素粒子というものも、結局は万物を形づくっているたった一つの原因、無形の振動するエネルギー体(Sprit)から生じているのです。

 

この「Sprit」は、物質が形成される際のたった一つの根本的原因なのですから、宇宙全体は常に「Sprit」のもとに連動しており、それゆえ「宇宙意識」と繋がった状態での個別の「意識」を持っているのです。これが「cause mind」、因の意識です。ここで「宇宙意識」は、別名「神」の意識と言ってもよいわけですから、結局「cause mind」は、「神」の意識に従っていると言えるのです。

 

もし人が、「cause mind」だけの意識体であれば、人間は病気にはなりません。なぜなら、「宇宙」は完全に「健全」のもとに働いているからです。ところが人間は、「sense mind」を、「cause mind」の上に上乗せする形で動かしています。これは物質世界を知覚し、物質世界を生きるための方策として必要なものであり、いわゆる五感というセンサーから取り入れる情報により形成されています。

 

ここで問題が起きるのです。「sense mind」が、「cause mind」を無視した自由な振る舞いをするということです。しかも、一般的に言って、「cause mind」が自分の身体の深部を支えているという認識を持っている人は、ほとんど皆無に等しいのです。その結果、多くの人間は、与えられた自由意志をエゴに突き動かされる形で行使しているのです。しかもこのエゴには、前世から引きずった意識が含まれているのです。

 

するとどういうことが起きるでしょうか? 「sense mind」と「cause mind」の意識内衝突です。「cause mind」は、深いところで「宇宙意識」に沿った生き方を希求しているのですが、エゴが創り出した「sense mind」がそれを否定し、「こっちの方がいいよ」というメッセージを自分に送り出します。そしてメッセージは、直ちに全身に伝えられ、身体を構成している細胞に影響を与えるのです。

 

このようにして、両意識間に生じた軋轢が、調和を乱し、「病気」というものを発生させるのです。人間社会では、ひとこと「ストレス」で片付けられていますが、その背後にあるメカニズムはいま言った通りで、「ストレス」があらゆる病気の元というのは、正しい見解です。こうして軋轢に精神が耐えられなくなれば、心に病いが生じ、身体が耐えられなければ、そのエゴの性質に対応した身体の箇所に病変を創り出して行きます。

 

*このエゴの性質、言い換えればあなたという「魂」にとっての今世における課題と、生じた病変箇所との関係については、対応表が出来ています。が、今回は説明を割愛します。

 

ここで、おそらくこういう疑問を持たれる方もいらっしゃることでしょう。自分がそれを選んでいるのだとすれば、なぜわざわざそんなムダと思えることをするのかと。しかしこれこそが、この世でしか体験出来ない学習というものであり、自分の周囲で起こるあらゆる出来事同様、「病気」も、使い方によってはその人の「魂」を成長させる大きなジャンピングボードと成り得るのです。

 

要は、そこにどんなメッセージを感じ取るか、そして次に活かしていくかということです。そしてこれが、本ブログのタイトルにもなっている『気づき』なのです。本稿をお読みになって、あなたが「宇宙の健全」と「身体の健康」との密接な関係に気づき、「sense mind」を「cause mind」と調和する生き方を選択して行くとき、あなたは「病気」の不安から解放されます。これが「ありのまま」に生きるということです。

 

また今「病気」を患っている方も、そこから受け取れるメッセージをよく吟味し、「宇宙の法則」に則った生き方をするように、日々心がけていれば、しだいに健康を回復して行きます。あなたの身体を創造しているのは、間違いなくあなたの「意識」です。身体は、そして表情は、あなたの「意識」の鏡であり、あなたの今の「意識」のあり方を、そこに正しく映し出しています。

 

ですから、先ずは自分の「心」の有り様を見つめ直してみてください。いったい自分のどこがいけなかったのか? そして改めるべきは改め、次に向かってください。その際、「病気を治す」とか「病気と闘う」とは思わないでください。ただただ、元気で、活力に満ちて、朗らかに、心を清々しくして、満面に笑顔を浮かべている自分の姿を強く強く想像してください。

 

その上で、適切な呼吸、適切な食事、清浄な水の摂取、血行を促進し身体をほぐす運動を心がけ、一日の中にリラックスタイムを頻繁に設けてください。

未来は明るい。そのことに自信を持って、この体験の機会を活かして参りましょう。

近親者の「自殺」ということについて

これからお話することは、ある人にとっては、感情を逆撫でするような腹立たしさを誘発してしまうことになるかも知れません。しかしある人にとっては、大いに慰めとなり、生命(いのち)というものについての理解がいっそう進むものになるかも知れません。私としては、できれば後者であって欲しいと願って、今日このテーマを書くことにします。

 

実は先日、同様の件である方から相談を受け、お話をする機会がありました。その時には、その方のご事情に添った回答をして差し上げたのですが、後で同じように悩まれている方も多くいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、普遍的な観点から、「魂」および「宇宙の法則」に照らして「自殺」というものをどう考えていったらよいかをお話することにしました。

 

統計によると、平成10年から14年連続して3万人を超えていた年間自殺者数も、ここ3年は減少に転じ、平成26年は2万5千人ほどであったそうです。しかしこの数字は、警察庁の基準に照らして「自殺」と断定されたもののみの人数です。そのため、実際にはもっと多いのではないかという声もあります。私の親戚にも自殺者がおりますし、友人の中で親兄弟が自殺したという人も何人かおられます。

 

さて、最初にみなさんに考えていただきたいことは、病死、老衰死、事故死といった死亡原因と、「自殺」とでは何がどう違うのかということです。さらに言えば、殺人、孤独死といったものと「自殺」とでは、何がどう違うというのでしょうか? 何か「自殺」だけを、特別視しなければいけない理由というものがあるのでしょうか?

 

「自殺」を特別視してしまう理由は解ります。自殺者がそれを決意し実行するに至った心境をおもんぱかって、自分の心がザワザワと騒ぐからです。さぞかし無念であったろう。どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。もっと自分が思いやりを示していれば、なんとかしてあげることも出来たのではないだろうか。あの一瞬、あの時のひとことが悔やまれる‥‥。etc.

 

しかしそうやっていくら考えても、死んだ者は戻っては来ません。そこに、処理しきれない感情がいつまでも残ってしまうのですね。でもね、そのことは、病死であっても、老衰死であっても、事故死であっても、殺人であっても、孤独死であっても、みな同じことなのではないでしょうか? 要は、遺された者が、その「死」に対してどのような意味をそこに見出すかということです。

 

釈迦は、説法に歩いた旅先で供養に出された食事(一説によると毒キノコだったと言われている)に当たって亡くなりました。この時の弟子たち、さらにはさまざまな生き物たちがこぞって嘆き悲しむ姿を描いた絵が『釈迦涅槃図』です。この時、釈迦は自分の死に際して、「死は珍しいものではない。だから弟子たちよ、みな力強く生きよ。」と語ったと伝えられています。

 

そうなんです。「死」は珍しいものではありません。どの「死」も「死」です。「死」に特別な意味を見出している、あるいは付与しているのは、遺された者たちの方なのです。それは、残された者の心の中に創り出された「観念」であるということ。そしてこの「観念」をどう創り出すか、身近な者の「死」に対してどんな「意味」を付け加えるかは、自由意思に任されているということです。

 

さらに言えば、これまで何度も申し上げてきたように、この世で言うところの「死」は消滅ではありません。「魂」は永遠であって、肉体の死後も生き続けますし、肉体を構成していた原子も決して消滅することはなく、組成を変えて他の生命を育む素になって行くのです。つまり、この世で「死」と呼ばれている現象は、「魂」の永遠性の中の一つの変化に過ぎないのです。

 

一般的に言って、人は「死」という現象を重々しく捉え過ぎています。このことは、とりもなおさず「生」に対しても重々しく考え過ぎているということを意味しています。「生きること」を重々しく考え過ぎているから、反対の「死」も重々しいものになってしまうのです。そこでは、「生きていること」のみに価値があり「死んだら何もかも終わり」という概念がまかり通っているのです。

 

結局のところ、「生命(いのち)」というものの実相について何も理解しないまま、多くの人はただ「死」を忌み嫌い、その延長で、「自殺」することや「自殺」の話題に触れることをタブー視しているのです。

 

いいですか。人生は「たった一度きり」なのではありません。

 

霊性の向上を目指し、物質界でしか味わえない体験をするために、「魂」は何度も何度も生まれ変わります。この時、個々の「魂」は、みな次の「生」での課題を自ら設定し、この世に誕生を果たしているのです。その意味でも、自分の「生」に関して、全面的に責任を有しているのは、その人自身なのだということです。このことは肝に命じてください。

 

私たちは一生のうちに、実にたくさんの人と出会います。そして相互に影響を与えあっています。中でも近親者は、過去世においても縁の深かった「魂」である場合が多く、輪廻転生する過程で、役どころを変えて再び縁を結びます。なぜそうなるかと言えば、前世までに積んだカルマを解消するチャンスとして、そのようなチャンスが設けられているのです。

 

さて、人間関係というものは常に相互的なものであって、一方通行ということは絶対にありません。たとえそれが支配と被支配の関係だったとしても、その関係を成立させているのは、お互いの意思による相互作用の結果なのです。そのことから、次のように言うことができます。あなたは、他の「魂」のこの世における生死について、責任を負うことは出来ない。

 

これは多分に誤解や反発を与えてしまう言葉かも知れません。この世の常識とはまるで違うからです。たとえば、飛行機を操縦するパイロットは乗客の命に対して責任はないのか、人の命を奪った殺人者に罪はないというのか、といったことです。しかしここでは敢えて、霊的世界における真実を述べておきます。そもそも宇宙には罪も罰もないのです。それを設定したのは、人間社会なのです。

 

この件については、いつかまた詳しく取り上げるかも知れませんが、今ここで強調しておきたいことは、近親者の「死」に関して、あなたが過度の責任観念を持つ必要は一切ないということです。一時は、激しいショックに襲われるかも知れません。また、喪失の悲しみに打ちひしがれるかも知れません。しかし、それをいつまでも引きずってしまってはなりません。

 

そう言うと、薄情な気がして納得がいかないかも知れませんが、では逆を考えてみてください。あなたが自殺をしたとして、今は「魂」のみとなったあなたは、遺された近親者に対して、いつまでも自責の念に駆られていて欲しいと望むでしょうか? たぶん逆でしょう。元気に、明るく暮らして欲しいと願うのではないでしょうか。なぜなら、そのように「生きる」ことは、〈彼ら自身の責任〉だからです。

 

こうして人は、それぞれが自分の「生」に対してのみ責任を持っているのです。それは、転生時に設定して来た課題の現実化にちゃんと向き合い、その体験から意味を引き出し、そして乗り越えるという人生行路です。人間関係というものは、そのために設定されたドラマの配役なのです。そこでは、誰もが主役であり、そして同時に他者の脇役としても存在しているのです。

 

と、ここまで語っても、「いや、自殺は特別だ」となお納得できない方もきっとおられることでしょう。それは、自殺者の「魂」の行方について、誤った知識が世間に流布されているからです。いわく、「自殺者の森に閉じ込められる」「無間地獄に堕ちてさまよう」「永遠に成仏できず、懲罰的苦しみを得る」等々。ここでハッキリ言っておきますが、そのようなことは絶対にありません。

 

中間生に帰ってから、今世での課題にちゃんと取り組まなかったことに気づいて恥ずかしい思いをすることはあったとしても、「自殺」もやはり一つの「転化」のバリエーションに過ぎないのです。しばらくすれば、「今度こそ」と、再び課題に取り組むチャンスが与えられます。

 

また、思いを残して逝った、混乱のまま亡くなったという「魂」に対しては、落ち着くまでの癒しの場が、ガイドたちによって提供されますのでどうぞ安心してください。

 

まれにですが、現世の物質的世界に非常に執着の強かった「魂」の中には、自分が死んだことに気づかないで、生前に縁のあった場所に留まる場合があります。しかしそうした場合であっても、成長スピードは遅いかも知れませんが、いつかは必ず元へ帰って行くことになります。

 

重要なことは、そうした「魂」の存在を怖れないことです。怖れなければ実害はありません。考えてみてください。実害ということで言えば、生き霊(つまり生きている人間)の方がはるかに怖いじゃありませんか。なにしろ、生き霊が繰り出したパンチは、あなたの顔面を確実にヒットすることになるんですからね。

 

ということで、「いま地獄をさまよっている」などと言う怪しげな霊能者の口車には乗らないようにしてください。そういう脅しや、不安を掻き立てる者の言うことに耳を傾けたら、その術中にハマってしまいますよ。いいですか? あなたのリアリティというものは、常にあなたの想像が創造しているんですよ。

 

不安を煽るようなことを言う者はみな無智なのです。宇宙の全てを創造した創造主が、なにゆえ自身の子であるところの「魂」に、恐怖や不安や罰を与えると言うのでしょうか? 宇宙の法則から言って、そんなことは絶対にありません。なぜなら、宇宙の全創造物、それは創造主ご自身でもあるからです。

 

ですから、何も心配することなく、明るく、元気に、楽しく生きることです。それが、あなたの今度の「生」に対する責任を全うするということであり、同時に来世にもつながるポジティブなカルマを演出する元にもなって行くのですから。

細胞の記憶と輪廻転生

あなたに終わりはありません。この世で「死」と呼んでいるものでさえも、ただ「変化」というもののドラスティックな一局面に過ぎないのです。春に蒔いた種モミから芽が顔を出し、青々とした葉が繁る。夏の強い陽射しを受けた茎はグングン成長し、やがて実をつけ黄金色に染まる。熟した実は刈り取られて、そして精米され胃袋に収まる。さてその時、そこで稲は死んだのでしょうか?

 

宇宙で、ただ一つの変わらないもの。それは「変わり続ける」ということだけです。始まりもなく、終わりもなく、ただ「変化」し続けている。それが、宇宙というものの真実の姿です。あなたも、間違いなく宇宙の一員なのですから、同じく「変化」し続けるだけなのです。病気で死のうが、誰かに殺されようが、自殺しようが、あなたに終わりはありません。

 

「輪廻転生」と言うとき、そこには二つの側面があります。あなたの本質は、あくまで「魂」にあり、今世で得た肉体は、いわば乗り物です。たくさんある乗り物の中から、事情があって、とにかく今のものを選んだのです。その乗り物のパイロットはあなたです。ですから、あなたはご自分の乗り物をいたわり、メンテナンスを心掛け、上手にコントロールしていく義務を負っています。

 

「魂」は、地上でしか出来ない学習をするために、地球に人間として誕生します。そして成長し、様々な体験をし、齢を重ね、やがてまた元のところへと帰って行くのです。でも残念ながら、今の地球人はそれほど賢くはないので、学習は遅々として進まず、何度も何度も留年を重ね、また地上に戻って来るのです。これが一つめの「輪廻転生」です。

 

では、乗り物であったかつての肉体はどうなったのでしょう? それは死んだのでしょうか? この世で「死」と呼ばれている「変化」を迎えると、その肉体は、大抵は焼かれるか土中に埋められます。骨は比較的長く形態を持ち続けますが、その他の部分は一年もしないうちに腐ってバクテリアに分解されてしまいます。いずれにせよ、最後はみんな「土」になってしまいます。

 

「土に還る」とか、人が「土から生まれた」というのは本当のことで、象徴的意味合いで言われているのではありません。人体の70パーセントは水分です。あとは炭素やカルシウムや他の微量元素で、言ってみれば、泥だんごから肉体が造られているのです。今では90種類くらいの元素が人体から見つかっています。それはとりもなおさず、人体が「神に似せて創られた」、つまり大宇宙を模した小宇宙(microcosmos)に他ならないということを証明しています。

 

さて、土に還った肉体は、その後どうなるのでしょうか? その土は、また何かの植物を育てるための養分となります。そしてその植物を、昆虫や小動物が食べ、さらにそれを大型の動物が食べ、回り回ってまた人間の肉体を維持するための栄養素として取り込まれて行くのです。これがもう一つの「輪廻転生」であり、実は「生命(いのち)」というものの本質なのです。

 

「生命」とは何か? それは、宇宙エネルギーの永遠のバトンリレーと言えるのです。

さて今、「輪廻転生」という言葉が持つ、二つの側面を挙げました。「魂」の輪廻と「物質」の輪廻です。でもこの両者は、究極的に見れば、同じことなのです。それをもう少し説明しましょう。


「魂」とは何か? これは「宇宙意識」という芯(core)の周りを、「想念エネルギー」が包みこんだ塊と思ってもらえばよく、それ自体が、目に見えない一つのエネルギー体です。そうですねぇ、梅干しオニギリを思い浮かべてみると解りやすいでしょうか? (*「宇宙」の総体をもし「神」と呼ぶとすれば、「神に通じる意識」と言ってもいい)

 

みなさんは、誰もが、宇宙の本体そして総体であるところの「宇宙意識」から放たれた一つのピース(かけら)なんです。ですから、芯の部分には、ちゃんと「宇宙意識」との繋がりを宿しているのです。でもそれが、地上で様々な体験を重ねるうちに、たくさんの「想念」を持つようになり、それが芯の周りにペタペタくっついて、そこに「魂」の個性というものが生じて来るのです。

 

この個性は、想念の違い、また想念の深さによって多種多様なヴァリエーションを生み出し、一つとして同じものはありません。実に73億人全員が異なるのです。でもコアは一つに繋がっている。ところが、「想念」が「観念」を生み、「観念」が「信念」を育てるように教育されてしまうと、いつしか、自分の主体が「宇宙意識」に在ったことを忘れてしまい、「信念」の亡者になってしまうのです。

 

恐ろしいことに、地上では「信念」を持つことが逆に「良いこと」とされています。強い「信念」でリーダーシップを取る人に、多くの民衆がフォロワーとなって付いていってしまうのです。誰かが「正義のための戦争だ!」と言うと、何度悲惨な戦争体験を重ねようが、「そうだ、敵をやっつけろ!」と賛同する人が必ず出てくる。これが、地球人がちっとも進歩しない最大の理由なのです。

 

「信念」と言うと、みんな良いことのように思っていますが、別の言葉で言えば「偏狭なこだわり」です。これを人間は、まるで雪だるまを作るように芯の周りに積み重ね、真ん中にある「宇宙意識」を覆い尽くして行く。最近では「こだわりのラーメン屋」などど言って、「こだわり」という言葉すら「良いこと」を意味するようになってしまったのですから、もうどうしようもありません。

 

「こだわり」の漢字「拘り」は、「拘束」の「拘」の字なんですけどねぇ。人間はみんなそうやって、自ら好んで縛られる道を選択する。そうして「苦しい、苦しい」と言っている。金品・財産を持っては自分を縛り、地位・名声を誇っては自分を縛り、資格・肩書きを得ては自分を縛り、先生をあがめ立てては隷属して自分を縛る。この「拘り」を、ヨーガでは「カルマ」と呼んだんですね。

 

そして、「そんなものは無意味である」「真の自由とは何か」を心底から実感するまで、何度でも転生して来るというわけです。ああ、まったく気の長い話です。そして、転生する際には、今世の課題であるところの「カルマ」の解消を果たすために、いちばん相応しい肉体と環境とを選ぶのです。さらに、選ぶだけではありません。選んだ肉体を、次には自分の自由意思をもって、育てて行くのです。

 

船を操るのも、修繕するのも、磨き上げるのも自分です。あなたの自由意志です。手荒に扱うのも、いたわりながら扱うのもあなた次第。つまり、あなたの今の意思が、次のあなたの「肉体」を創り出すのです。でもたぶん、今のあなたはそれを信じないでしょう。かつての私もそうでした。前後不覚になるまで大酒を飲むこともしょっちゅう(渋谷駅の階段から転げ落ちた)。自分で自分の心を不安定にさせては、調子が悪いとこぼしていました。

 

俳優の渡辺謙さんが二度の白血病の発症を克服され、国際的に大活躍されていることはご存知でしょう。私は「この人には、何かがある」とずっと思っていました。すると、あるインタビュー番組で、<白血病の細胞をプチプチと潰していく瞑想を行っていた>と語っておられるのを聞いて、「やっぱりね」と、大いに納得したものです。セオリーをご存知であったかは分かりませんが、それは全く理に適ったことです。

 

これは医学界では証明されていませんが、全身の細胞にも「意識」があり、「記憶」というものを持っているのです。たとえば皮膚細胞は、神秘数の7の4倍の28日周期で新陳代謝していますが、新しい細胞とどんどん入れ替わっているというのに、なぜ古傷やホクロが消えないのでしょうか? これは細胞が持っている記憶が、新しい細胞にも伝達されていくためです。

 

この細胞の「脳」に相当する箇所が「核」です。ですから「核」は宇宙意識とつながっていて、一つひとつの細胞はみな知性を持っています。だからこそ、肉体細胞は血液を通じて独自に栄養を取り入れ、老廃物を排出できるのです。またシャーレの中での培養も可能なのです。この細胞群の知性と、あなたの意識のネットワークが、円滑に、かつ健全に保たれていれば、あなたは健康体をずっと維持できます。

 

しかし、自然の理に背くようなことをしたり、心に過度のストレスを溜めたりすれば、ネットワークに齟齬を来し、やがて細胞は悲鳴を上げます。そして不協和音が混入したコピーを創り出します。これが癌です。また癌にまで至らなくても、様々な不調を、体を通じて訴えかけて来ます。それは、あなたの生き方が「正しくない方向に向かっているよ」という警告なのです。

 

蟻が大挙して一つの目的に向かって動く。モズの大群が衝突することなくサッと方向を変え乱舞する。大魚に狙われたイワシの大群が、まるで一匹の魚のように集まって渦を作り出す。コンダクターもいないのに、一体どうしてこんな芸当が出来るのでしょうか? 曲技飛行もマーチングバンドも、人間は相当な練習を積まなければ、同じことはできません。

 

これは、一匹の個体が、人間で言えばちょうど一つの細胞のように機能し、全体として大きな意識を共有しているからなのです。人間は、意識の主体が脳に傾きすぎていて、それと肉体全体の細胞とのネットワークを形成するようになっています。でも、蟻やモズやイワシは、一つの個体が一つの細胞のように機能し、同時に全体が一つの脳でもあるのです。ですから、衝突することなく、瞬時に方向を変えられるのです。

 

彼らは、このネットワークを「feel」という感覚でつないでいるのです。(ブルース・リーが語ったあの「feel」です)自然界の動植物は、すべてその感覚を有しています。ところが人間だけは、「feel」を忘れて(それは、あまりにも脳に傾き過ぎたということ)、退化させてしまったために、自然と会話することや、生命を感じることや、テレパシーでやり取りすることも、殆ど出来なくなってしまったのです。

 

さて、細胞の記憶は、細胞が腐って分解された後にはどうなるでしょうか? 一つの細胞は、何十種類かの元素によって構成され、それは分解された後には別のものに変化します。しかし、元素の総量自体は変わりません。別のものに変化するだけです。その中には、何百万年も地中に留まり、鉱物になるものだってあることでしょう。これらの中にも、ちょっとずつ記憶は宿るのです。

 

自称霊能者の中には「自分は◯◯の生まれ変わりだ」と公言する人がおられます。その◯◯は、大抵は歴史上の有名人。「自分は親鸞だった」と主張する人は10人を下らない。驚くなかれ、前世が「釈迦だった」という人まで居るのにはもうびっくり! 生まれ変わりを終えた存在がブッダなのに‥‥。(´ー`;)ゞ

 

そうかと思えば、時に前世が亀だったとか、ワシだったとか、大木だったとか、レタスだったとか言ったりする人もいます。釈迦だって、人間になる前にいろんな動物の生まれ変わりを経験してきたということになっています。果たしてこれは、本当でしょうか?

 

想念エネルギーの塊である「魂」は、人間にしか転生しません。人間にペットとして飼われていた犬が、人間に昇格したという報告を一回聞いたことがありますが、神秘学では人間以外のものへの転生はないというのが大方の結論です。でもいま言った、細胞の記憶、原子の記憶、もっと小さい単位では素粒子の記憶、(もっと小さくすると「Sprit(霊)」の記憶)ということにまで遡れは、それが全く無いとは言えないのです。

 

私たちは、生きるために、他の生命を取り込みます。ですからレタスを食べたら、レタスの記憶が体に入る。そのレタスを育てた土や水には、大勢の人や動物の記憶が含まれていたかも知れません。ですから、好意的に見れば、同じ時期に「私は親鸞の生まれ変わり」と自称する人が10人居たとしても、「そんなの嘘だろう?」とは言えないのです。

 

このように、「記憶」というものは、結果的に全部につながっているのです。そこで、「宇宙」はこれまでの記憶を全部持っているということになり、自分が本体である「宇宙意識」に帰って、「宇宙」と一体となれば、そこから、あらゆる情報を引き出すことも、理論上は可能ということになるのです。これが、いわゆる「アカシック・レコード」というものの意味です。

 

この「宇宙」を形づくっているものは、究極的には一つです。それは振動するエネルギー体であるということは、これまでにも何度もお話して来ましたね。そしてこの振動するエネルギー体は、その働きから、大きく三つに分けられます。知性(意識)と、物質を作り出す元になるSprit(霊)と、生命を維持するためのエネルギーとにです。これは働きが違うというだけで、元々は一つです。

 

さてこの時、知性(宇宙意識)は、分かれて「魂」を創り出します。また「Sprit(霊)」は、物質を創り出し、これに生命エネルギーが加わることによって、生物が創られて行くのです。実を言うと、鉱物もただ振動数が低い(ということは変化のスピードが遅い)というだけであって、生きているのです。その証拠に、かつての海底であったところが、高い山に隆起している例はたくさん見られます。

 

冒頭では、「魂」の輪廻転生ということと、「自然界」の輪廻転生という二つの側面を別々に見て来たわけですが、このように、結局は同じことであると言えるのです。

二度目の生まれ変わりと、即身成仏

「よくよくあながたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(『ヨハネによる福音書』3:3

イエスは、ファリサイ派の教師であったニコデモに向かい、そう断言しました。お時間がある方は、先ずリンク先の該当文章を読んでみてください。

 

この文中にある「新しく生まれる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? どうして「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のでしょうか? この「新生」の意味は、「輪廻転生」を指しているのではなくて、実はこの身をもって二度目の生まれ変わりをするということ。すなわち、空海が言うところの「即身成仏」と全く同じことを言っているのです。

 

ところが、キリスト教も仏教も、この意味の深淵をはかりかねて、非常に歪んだ解釈をしたまま今日に至っています。いま深淵と書きましたが、この文が示している「意味」そのものは、それほど難しいものではありません。ですからイエスは、この後でニコデモに向かって、「イスラエルの教師でありながら、こんなことも知らないのか」と嘆いて言っているのです。

 

しかし、たとえ「意味」が解ったとしても、その「感覚」を掴むのは容易ではありません。いつも言っている通り、「解る」にも三段階があり、頭で解る → それが体に入って来る → そして一体となる、というところまで行かなければ、本当の意味で「解った」ことにはならないのです。イエスは「地上界の論理も理解できない者に、天のことを説いても解るはずがない」と、続けてニコデモに言うのでした。

 

だからというわけではないのですが、キリスト教では、この「新しく生まれる」ということの意味を、「水による洗礼」というイニシエーション(入門儀式)に置き換えてしまいました。これは、同じ『ヨハネによる福音書』第3章の中に、「誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と重ねて説かれているからです。この文言中の「水」を、キリスト教は文字通りの「Water」にしてしまったんですね。

 

このようにしたのも、おそらくは組織宗教を形成していくための意図的な改ざんだったのでしょう。もし本当のことを説いてしまったら、宗教がいらなくなってしまいますし、教会に人を集めることも出来なくなってしまうからです。そしてキリスト教では、ただバプテスマ(洗礼)を受けただけでは不充分で、その後もクリスチャンとして歩み続けなければ「神の国」に入ることは出来ないと説いているのです。

 

ではこの「水」とは何なのでしょうか? 「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」とイエスが語っていることの真意は、先ずここで、「水と霊」の二つが揃っていなければダメなんだよと言っているのです。そして、よく見てください。「水」が「霊」に対比する形で述べられています。ですから、これが単に「Water」を意味しているのではないことは明らかです。

 

さて、この5節の次の文に「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」とあります。これは人間の本当の姿、「霊主体従」の二重性を語っています。そして、「肉(物質的な体)」しか見ない視点も、「霊」しか見ない視点も、共に誤りなんだよと言っているのです。両方揃っているのが人間なんだよ、ということです。

 

ではなぜイエスは、「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と断言したのでしょうか? 今を生きる私たちは、誰でもが「肉と霊」から生まれた存在です。これが、地上世界への最初の誕生です。でも「神の国」に入るためには、これを「肉と霊」から「水と霊」に置き換えなければならないとイエスは言っているのです。これが二度目の生まれ変わりということです。

 

「肉」のままではダメで、「肉」を「水」に変える必要があるというわけですね。さて改めて、「水」とは何でしょうか? 地球のことを「水の惑星」と言います。宇宙から見ると、地球は青く見える。これは地球の大部分が海表面に覆われていて、それが光を青色に反射しているからです。それほど、この地上世界には「水」が豊富にあるということです。

 

また、私たちの肉体の70パーセントは「水」です。ですから肉体というものは、一見しっかりした固体のように見えて、実は「水」の中に他の分子がプカプカと泳いでいるようなものなのです。大根だって、キュウリだって、トマトだって9割以上が「水」。私たちは「水」があるからこそ生きていられるのです。そのようなことから、「水」というのは先ず「生命」を育むものとしての意味があります。

 

もう一つ重要なのは、「水」は万能の溶剤で、ほとんどのものをその中に溶かすのです。現に海水中には、地球上に存在するほとんど全ての元素が溶けています。「水」はこれらの元素を溶かすことによって、その元素を「運ぶ」役割を担っているのです。言い換えれば、「生命」を運ぶ通路であり、「生命」のコミュニケーションを仲立ちする媒体だと言えるのです。

 

何かが運ばれるためには、その担い手となる「媒体」が必要です。霊的世界のエネルギーやテレパシーを運ぶ「媒体」が、よく言われるところの「エーテル」であり、物質世界でこれと同等の役割を果たしているものが、実は「水」なのです。整理しますと、霊的世界における万能媒体が「エーテル」、物質世界における万能媒体が「水」というわけです。

 

そして「水」は、いわゆる宇宙の「波動」を非常によく通し、かつ保持する性質を持っています。このことから、高い波動を注入した「波動水」というものも存在するわけなのです。このように、「水」は「物質界」における「生命」というものの成り立ちを根本で支え、決定づけるとともに、この「真理(法則)」を象徴する意味合いも持っているのです。

 

つまり、イエスが「水と霊とから生まれなければ」と語った意味は、今までの「肉」の論理(物質そのもの)ではなくて、「水」の論理(すなわち物質界における「生命」に関する「真理」)を理解することがなければ、決して次へは進めないんだよ、と語っているのです。ですからイエスは、「地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」と言って、嘆いたのです。

 

「水と霊とから生まれる」とは、〈物質界における「生命」の意味・仕組みというものを理解した上で、改めて、霊的存在であるところの本来の自分に立ち返りなさい。そうして、宇宙人として宇宙に再び生まれ変わりなさい。〉という意味なのです。それなくしては、「神の国(宇宙の本当の姿)」を見ることは出来ない、とイエスは断言しているのです。

 

次のことは以前にも書きましたが、霊的世界こそが「眞(まこと、魔)」の世界(“因”の世界)で、古来よりこれを「火」で象徴しています。「火」は「日」に通じ、「日」は「陽」であり、すなわち「光」のことです。また陰陽の「陽」でもあります。この、鏡の向こう側にこそあらゆるものの真の原因があるということを、図では下側を向いた「▽」で表し、「下」つまりそれを「火(カ)」と言ったわけです。

 

この「“因”の世界」から、物質界が、つまりは「結果の世界(現象界)」が生まれて、どんどん広がって人間の目に見える世界ができる。これを、今度は上側を向いた「△」図(頂点の一点から陰陽の末広がりになる)で表し、いま述べた「水(ミ)」をもって象徴しているのです。上側を見るとは「御(ミ)」であり、「上」は「カミ」です。また物質界は、陽である「“因”の世界」に対しては「陰」の世界となります。

 

この、「▽」と「△」が合わさると、皆さんがよくご存知の「🔯六芒星」、いわゆる「ダビデの星」、日本で言うところの「籠目紋(かごめもん)」となるのです。これは陰陽二つの世界の統合、つまり真実の宇宙の姿を表しています。そのため、小宇宙である人間もまた、同じ二重性を有しているのです。

 

こうして、「▽(カ)」と「△(ミ)」が合わさって、「カミ」となるのです。このようにして、宇宙全体の構造を理解し「“因”の世界」へ帰るということが、イエスの説いた「生まれ変わり」だったのです。

 

そしてこれは、空海も「即身成仏」と言って、全く同じことを説いているのです。「即身成仏」とは何でしょうか? この身を持って(持ったまま)仏になるということです。これは一般には、「肉体の死を迎えることなく仏(つまりブッダ=覚者)となること」と解釈され、これが極論を生んで、生きたまま土中で行をし続け、その果てに入滅すること、のようにされてしまいました。

 

しかしこれは全く違うのです。このような曲解が生じた原因には、「仏(ほとけ)」というものに対する誤った解釈が流布してしまったことがあります。「仏陀(Buddha)」というのは「目覚めた人」の意味で、個人名ではなくて、釈迦がそのような意識状態に至ったので「仏陀」と言ったわけですね。そしてご承知のように、釈迦は、生きたままそのような意識にまで到達しました。

 

つまり「仏陀」というのは、もともとが「即身成仏」を言っていたのです。ところが、漢訳経典を日本語読みして行く過程で、「仏陀」は「仏」と略され、それが「仏(ほとけ)」と訓読みされて、いつしか死者のことを表すようになってしまったのです。ここには、死んだら地上の一切の苦しみから解放され天国へ行けるという庶民の願望と、宗教的な方便の応答がありそうなってしまったのでしょう。

 

イエスの言う「生まれ変わり」も、「Reborn」であって「Reincarnation」ではないことに注意してください。「re」は再びということ。「born」は生まれるですが、「in-carnation」は肉に入るという意味、すなわち「受肉」です。ですから「Reincarnation」は「輪廻転生」のことですが、「Reborn」は、「即身成仏」のことを語っているのです。

 

しかし、残念ながら、ただ肉を滅しただけでは、天国(神の国)へは行くことは出来ません。もともと「死」というものは宇宙にはありませんし、「神の国」へ行けないからこそ、人は何度も何度も地上世界に「輪廻転生」して来ているわけです。このことをよくよく考えれば、「魂」が「輪廻転生」を繰り返すことの意味はもう明らかです。

 

あなたは、「輪廻転生」を、カルマの働きによる「罰」のようにだけ考えてはいないでしょうか? 確かに、メカニズムとしてはそういう力学が働いています。しかし同時に、もっと重要なことがあるのです。それは、地上世界でなければ「仏陀に成る(=成仏)」ことは出来ないということです。つまり「輪廻転生」は、「即身成仏」へのいわばチャンスとして与えられているのです。

 

ですからイエスは、この同じ章の13節で「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はない。 」と語っているのです。この言葉には三つの意味があります。一つは、いま言ったように、天から下った(輪廻転生して来た)者でなければ、天に上れないということです。つまり、それはチャンスなのだということ。

 

二つめは、「その者」は、もともと天に居たものが、下ってきた「魂」なのだということです。どうして下って来たのか? それは自ら希望してである。何のために? 地上世界での出来事を体験するために。ずっと天に居ればよいものを、わざわざ記憶を無くしてまで地上に生まれ、そこで様々な体験を重ねる。そういう道を、あなたという「魂」も選んだのです。いったいどうしてそんなしちめんどくさいことをするのか?

 

それが永遠の進化だからです。生命の実相だからです。その果てしない活動が、宇宙の息(Breath=生き)であり、「神」というものだからです。ですから、「神」のかけらである一人ひとりは、みな「神」より出発し、そうやって新たな体験を積み重ねて、ちょとずつ霊性を高めながら、やがて「神」の本体に帰って行くのですね。そのようにして、総体であるところの「神」自身が果てしなく成長している。

 

この意味において、個々の「魂」に一切の差別はありません。誰もが等しく愛されている。その永遠の旅の、地上における終止符が「即身成仏」であり、イエスが語った「生まれ変わり」ということなのです。

自由と神との関係

自由とは、何事も自分の意志によって選ぶことが出来るということです。要するに選択することの自由です。人間はこの自由を、本来的に与えられています。この中には、行動、思考、そして感情の選び方までもが含まれます。それら一切合切を、人は自由に選ぶことが出来るのです。

 

そう言うと、「自分には自由がない」と仰る方が、きっとおられるでしょう。この世は何もかも制約だらけだ。自由な行動などちっとも出来やしない。たとえば会社だ。どんなに眠くたって満員電車に揺られて通勤しなくちゃならない。会社に行けば行ったで上司の顔色うかがって奴隷のように働かされる。一体このどこに自由があるって言うんだ。

 

そうかも知れませんが、それらの全部を拒否することだって、あなたには出来るんですよ。今日は会社に行きたくないなと思ったら行かなくてもいいし、上司と考え方が違っていたら楯突いたっていいんです。もちろんそれ相応の結果が予想されますが、それが自由と責任というもので、それをどう使うかは、全部あなたに委ねられているのです。まさに自由なのです。

 

さてそうすると、このような疑問が沸かないでしょうか? 人は悪を為す自由もあるというのか? 神はそれを許すのか?

 

これは素朴でありながら核心を突いた問いで、エルサレムを起源とする三大一神教は「神がそんなことを許すはずがない」として、みな対立概念に打倒すべき「悪」を設定したのです。しかしこれは、よく考えてみれば、大いなる矛盾であることは明らかです。なぜなら、神に対抗軸があるということは、それすなわち「一神」ではないからです。この矛盾が、まさに今の世界に噴出しているのです。

 

さてそうすると、神は悪を許すということになるのでしょうか? 何が「善」で何が「悪」と思うかは、人によって、また状況によっても違ってきますが、ここではひとまず万人が「悪」と認めるであろう「殺人」をテーマに考えてみましょう。人が人の生命を奪う。こんなことが許されていい筈がない。もしそれを許してしまったら、世の中がメチャクチャになってしまうではないか。

 

その通りです。ですが、現に「殺人」の自由選択は行われています。ですから殺人事件があちこちで起きているのです。そればかりではありません。国家が推奨する合法的殺人、つまり「戦争」さえこの世にはあるじゃありませんか。そこで武勲を立てた人は、なんと英雄として誉め称えられる。死刑制度を容認する人だって、日本では8割に上っているんですよ。

 

つまり、すでに世の中はメチャクチャなんです。ちょっと前に、少年の小学生殺害事件などをきっかけにして「なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?」という問いが、物議をかもしたことがありましたね。その時、世の大人たちはその問いにちゃんと答えられなかったんです。問いを発した人に、「そんなことも分からないのか!」とは言えなかったんです。

 

なぜなら、自分にも分からない。この世では、殺人を犯した人の罪を、殺人をもって裁くというダブルスタンダードが堂々とまかり通っていて、そのことに根本的な疑問を投げかける人は極めて少ないのです。ですから、国家が推奨する殺人も、大多数が容認しているのです。

 

しかしここで「自由」ということに帰ると、徴兵制があっても忌避する自由はあるし、軍隊に入っても脱走する自由はあるし、戦闘場面に遭遇しても相手を殺さないという自由選択だってあるのです。もちろん、それ相応の結果が予想されます。しかしそれらを全部ひっくるめて、何をどう選択するかは、全くの自由なのです。それが「自由」というものの本質です。

 

ところが、普通の人はそうは考えないのです。「自由」は絶対的なものではなく、限定的なものだと考えている。ある部分に関しては自由は与えられているが、ある部分では制約を課すのが、この世の常識だと考えている。そこから、「倫理」とか「戒律」とか「罪と罰」という考えが生じて来るのです。それを課さなければ、この世の平和安穏は実現されないと信じているのです。

 

この世に「悪」は存在する。しかしその「悪」を「神」は許す筈がない。だから、「善」をもって「悪」を懲らしめるのだ。そうすれば「神」はそれをお喜びになる筈だ。我々に祝福を下さる筈だ。一神教は、そう結論づけました。そこで、「神」の対極に「悪魔(デビル)」を置いたのです。

 

その結果、どうなったでしょう? 冒頭に示した通り、善悪の基準など、極めて曖昧なものです。キリスト教国家であるアメリカ大統領選挙では、毎回、人工妊娠中絶をどう思うか、LGBT(性的マイノリティ)をどう思うか、銃の所持をどう思うかが争点になります。なぜ争点になるかというと、キリスト教の視点に照らして、それを「善」か「悪」かと判断する有権者が多いからです。

 

ご承知のように、イスラム教の社会では、女性の自由はかなり制限されています。これも、イスラム教が考える善悪の判断基準というものがベースにあって、女性はそれに従っているわけです。これらのことは非常に根の深い問題で、ユダヤ教も含め一神教のそれぞれが、みな各自で善悪の基準を設けているために、それが対立を生み、戦争を誘発しているのです。

 

これは、ちょっと考えてみれば、矛盾に満ち満ちた結果になっていることに気づかないのかと思うのですが、宗教という巨大な洗脳システムは、その矛盾を易々と超えてしまう力を持っているのです。

 

さて、これまで見てきた通り、人には悪を為す自由もあるということは明らかです。神がそれを許すのかと問えば、許しているからこそ現に存在しているわけです。これも明らかです。ですから、人間社会では大っぴらに「悪」がまかり通り、「悪」を懲らしめると言って「悪」の上塗りをする行為も絶えません。それらすべてを、神は許容しているのです。

 

いま述べたことは、熱心な信仰者の方が聞いたらたぶん卒倒してしまう、あるいは怒り狂うような結論かも知れません。でも真実はそうなんですから受け留めなくてはなりません。これは私が主張していることではないのです。世の中の「現象」というのは「結果」の世界ですから、その結果に既に全部顕れているということです。

 

でもこれは、決してニヒリズム(虚無主義)ではないのですよ。それどころか、まったく逆です。まったき愛の世界がそこに在る、ということにお気づきいただきたいのです。ちょっと考えてみてください。何もかも一切合切を許す。あなたのすべてを許している。罪も罰もない。これ以上の「愛」が、果たしてあるでしょうか? そこには「愛」しかないのです。これこそが「真の神」です。

 

その「真の神」に比べたら、「悪」と闘う「神」が、いかに低級なものであるか、人間が勝手に創り出した概念に過ぎないということがお解りでしょう。あなたは(つまり誰もが)、いま言った「真の神」の懐に、分け隔てなく抱かれているのです。Always, All times, All places. いつどこに居たって。その幸福に目覚めてください。すべての「自由」が許容されている、その「愛」の懐の深さに目覚めてください。

 

では「真の神」は、「悪」を為すことを推奨するのでしょうか? それはあなた自身がお考えください。すべては自由です。ただ、これまで何度も語ってきた法則をもう一度書いておきます。他人に為したことは自分に為したことと同じである。自分が為したことは、やがて宇宙を回って自分に返ってくる。そのようにして、人は「体験」から気づきを得て、「魂」の成長を図って行くのです。

“因”の世界を知る

物事の結果には、必ずそれを為さしめた原因というものがあります。これが「因果の法則」、よく言うところの「因果律」です。この世のあらゆる現象というものは、何かの結果として今そこにあるのですが、これが原因となって、また次の現象を生じさせているのです。

 

たとえば、空気中の水蒸気が凝結して雨が降る。この雨が低いところに集まって川になる。川はやがて海に注ぐ。海が温められて水蒸気が発生する。その水蒸気が雲を作り、これがまた雨を降らすといったように。このようにして、「因果の法則」は永遠にグルグルと回り続けるのです。そしてこれは、「生命」とは何かという答えを、同時に表しているのです。

 

ところで、科学には2種類があるということをご存知でしょうか? この世の現象(という結果)の真の原因を探ろうとする科学と、現象から現象を導く科学です。そして今のこの世で、「科学」と言った場合には、ほとんどが後者、つまり現象から現象を導く(結果から結果を導く)ものを「科学」と称しているのです。

 

たとえば、フレミングの左手の法則というものがあります。たぶん中学校で習ったでしょう。覚えておられますか? 〈磁場〉の中を〈電流〉が流れる際に、導体に〈力〉が発生するという現象と、その向きについての法則です。こういう現象があるから、それを応用した電動モーターが動いているんですよね。

 

とまあ、そういう法則が自然界で成り立っていると。そこまではいいです。でも、なぜそうなのか? どうして〈磁場〉と〈電流〉と〈力〉が、きれいに90度で交差するという現象が起きるのか? これは分からない。分かっているのは、そういう現象(結果)があるということだけです。そしてこういう法則(公理)を基に、次の法則を導き出しているのが、現代の「科学」と称する学問なのです。

 

つまり、いま主流の「科学」は、ちっとも真の原因を探ろうとはしていないのです。電荷にプラスとマイナスがある。じゃあどうしてプラスとマイナスがあるのだろうか? そこまで追究して知ろうとは、決してしない。プラスとマイナスがあると言っているだけです。そういうものは、問うのも愚かな「公理」ということになっています。

 

でも、こうした〈現象から現象を導き出す〉現代の「科学」は、必ず矛盾に突き当たってしまいます。

 

宇宙はビッグバンによって始まったと言う。じゃあ、その始まりの前は何だと。「無」だと。「無」から突如、宇宙が誕生したんだと言う。じゃあ「無」から「有」が生じたプロセスを説明してみてください、ある日突然と言うけれど、その「ある日突然」がどうして訪れたのかを説明してください、と言ってもできない。

 

心は、脳の部位が活動した結果、生じているんだと言う。だから心の変調は脳の機能障害なんだと言う。じゃあ、その脳を動かしているのはいったい誰なんだい? 脳が勝手に動くとでも言うのかい? ということは、自分の「意志」は、自分のものではないということ? 俺はいったい誰なんだ? Oh, No!

 

人間は死んだら「絶命」して「無」になるという。じゃあ逆に、「誕生」って何なの? 生殖行為が「無」から「生命」を創り出すとでも言うわけ? もしそれが本当だとしたら凄いことだよ。人間のビッグバンだ! でも待てよ、本当にそれが「無」から生じたって言えるのかな? そもそも、卵子と精子という〈生きた〉素材があったわけでしょう?

 

こういうシンプルな疑問に、現代の自称「科学」は何一つ答えられません。それは現代の「科学」が、依然として物質領域の世界にのみ留まっていて、現象から現象を導き出しているだけだからです。「その奥があるのでは?」とは言えないし、名のある科学者は決して言わない。それが建前になっている。そっちの領域にまで踏み込んだ科学者は、みなウソつき呼ばわりされてしまうからです。

 

この、さらに奥の原因を探ろうとする科学が、もう一つの科学、つまり神秘学なのです。そしてこれを「“因”の世界」と言うのです。この世だけを見ていますと、一見、現象が現象を次々と生み出しているように見える。でもその根源には、“因”の世界というものがあるのです。先ず“因”の世界での活動があって、その結果が、この世(物質世界)に、〈現象として〉立ち現れているのです。

 

ところが、以前にも真逆様(まっさかさま)の解説で述べたように、この世では価値観が逆転していますから、「真理」を知らない人たちは、“因”の世界を知ろうとする「真」の科学を、逆にエセ科学とかトンデモ説といって攻撃します。でも、どっちがエセ科学なのでしょうか? 現象から現象を導き出しているだけの、矛盾だらけの学問が、果たして「科学」と言えるのかどうかということです。

 

よく「見えない世界は信じない」と簡単に言う方がおられるのですが、その人に問いたいです。あなたに電気は見えるんですか? 電波は見えたんですか? 磁場は見たんですか? 放射線は見えますか? 意識は見えますか? 心は見えますか? 想念が見えますか? 生命が見えますか? どうです? 見えないものを、既にいっぱい信じちゃっているのではありませんか?

 

では、電気という見えないものをあなたが信じている理由はなんですか? そういうものがあると、どこかで習ったからでしょう? 放射性物質の近くに行くのは危険だと、あなたが信じる理由はなんですか? そう習ったからでしょう? あなた自身が確かめたわけじゃない。じゃあ、1000年前の人に、それを説いてみてくださいよ。あなたの言葉を信じる人がいると思いますか?

 

子どもの頃に、隊列を作って地面を忙しく動き回る蟻さんを、不思議な眼でじーっと見続けたことはなかったでしょうか? 星座盤を片手に夜空を見上げ、宇宙の果てはどうなっているのだろうと思いを馳せたことはなかったでしょうか? 結局それが、「真の科学(=神秘学)」というものの視点なのです。「不思議だなぁ?」「なぜだろう?」「どうしてかな?」と思うことが出発点。

 

ところが現代人は、そういう好奇心よりも、他人から聞いた「知識」を先に仕入れてしまう。しかも学校では、「知識」の有無を採点対象にしてしまうものだから、受け売りの「知識」をみんな無条件に信じるようになってしまったのです。そればかりか、知識量を誇る人たちは、子どもの視点をずっと持ち続ける「真の科学者(=神秘家)」を、キチガイ扱いして糾弾する始末なのです。

 

あと1000年、いや100年経ってご覧なさい。「“因”の世界」のことは、もう常識になっている筈です。私が話すことは、別に信じなくていいです。ただ生活の周りに、いつも子どもと同じ視線で、好奇心や疑問を持ち続けていて欲しい。「知識」を鵜呑みにしているだけでは成長はありません。疑問があるから気づきがあり、気づきがあるからこそ、成長があるわけですからね。

我と吾

我と吾、どちらも自分自身を示す言葉で「われ」と読みます。でも吾の字は、今ではあまり使われなくなりましたね。明治38年に上梓された夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の「わが輩」は「吾」の字になっていますから、この頃にはまだ「吾」が主流だったのでしょうか? でも明治43年『尋常小学読本唱歌』に発表された唱歌「我は海の子」は「我」の字です。この辺りが境目なんでしょうかねぇ?

 

さて「我」と「吾」、いったいどう違うのか? この違いを知ると、とても興味深いです。「我」というのは象形文字で、左側がギザギザの歯がついたノコギリ状の武器、右側が剣に長い柄を取り付けた武器「戈(ほこ)」を表しています。ですから「我」という字には、武器が2つ入っているんですね。

 

どうして武器が2つ重なって、自分自身を表す言葉になっているのか? それを考えた時、左手にノコギリ、右側に戈を持って身構えている姿が浮かびませんか? ですからこの「我」は、外敵から身を守る自分、そのようにして外界と分断することによってある「自己」というものを強く感じさせます。これが、「自我」「我儘」「我を張る」といった言葉にも通じているのではないでしょうか?

 

これに対して「吾」は、上部が「五」、下部が「口」で構成されています。この「五」というのは、鼓状(⧖)に棒を組んだ形で、分かりやすく言えばコックリさんをする時に組む棒です。ですからこの象形には占断の意味があります。

 

この形に、九宮魔法陣の数字を当てると左図のようになります。

 

九宮魔法陣は、縦横斜め、どこを足しても合計が15になる配置の数列で、中心にある数字は「五」です。ですから「五」は万物の中心を表す数字となっています。万物の中心を表すシンボルには他にもいろいろありますが、最もよく知られた「+」は天地と左右に広がるすべてを表し、英語ではこれを ten(天)と言うわけです。さらにこの天と地に横棒を引いて、これを治める者の意味が「王」(OM/AUM)です。

 

「五」はこの「王」に縦棒の補助が1本付いたもので、「王」を占断によって補佐するの意味もあります。ですから「吾」という字は、そういう「五」の下の「口」から発せられた言葉(神のお告げ)が本当の「吾」である、という意味なんですね。つまり「吾」という自己観は、「我」とは違い、自分の内側から上がって来るもの、自分自身の中心にあるもの、そして宇宙に繋がっているという意識なんです。

 

そして、そういう「吾」というものの認識が「心」の中に広がって来る、充満して来る。本当の「吾」を知るということ。自分が何者かが解った状態。そういう状態が、「吾」に〈りっしんべん=心〉を付けた「悟り」という文字です。

 

そう見てみると、「我」と「吾」の違いは、非常に対照的です。そして、「吾」の字が今では殆ど使われなくなってしまい、「我」ばかりが使われるようになったというのも、なんだか近代社会というものを映しているように思います。

みなエゴのために霊的パワーを利用しようとしている

生まれつき霊感の強い人はおりますし、熱心に行に励んでいれば、この世で「超能力」と呼ばれている霊能もしだいに発現して来ることは確かです。しかしこれは、『オカルトへの興味を捨てる』の稿でも書いたように、オマケのようなもので、そこにだけ注目することによって、この地球に生まれたことの目的を錯覚し、本末転倒してはならないのです。

 

ところが一般の人は、この地上世界で五感を使って知覚している世界のみが常識的世界であって、その範疇を逸脱するものはすべて「超常現象」だと見なし、「超常」というラベルを貼ったボックスになんでもかんでも放り込んでしまうのです。どうしても、そういう見方から離れられない。NHK BSの『幻解!超常ファイル』などその最たるもので、内容もレベルも本当にヒドいです。

 

でも、そうではないということ。プラトンが言ったように、逆なんです。地球の地上世界の方が、限定された特殊領域なんです。ですから、みんなが「超常現象」と呼ぶものは、宇宙からみたら常識。その常識の、地球という限定領域における通過現象なんです。いわゆる「超能力」も、特殊能力でもなんでもない。それらは誰でもが持っているもので、ただそれに気づかないだけなのです。

 

ところが、そういう宇宙の基本構造をみな知らないし、いわゆる霊能が、どのようなメカニズムで成り立っているのかも知らない。自分には「霊能がある」と思っている人であっても、そういう基本を知らない。

 

そこで、これを「特殊能力」だと思い込んで、そこに付加価値をつけ、診断してやると言っては高い金を取ったり、予言と称して恐怖を与えたり、療法や健康法の家元制度を作ってこれをウリにしたりする人が後を絶たない。それが人類にとって、本当によいことなら、なぜ分け与えようとしないのでしょうか?

 

結局、霊的パワーというものを、みんなエゴのために利用しようとするのです。これはとても残念なことです。この世に生まれて、そこで様々な体験をする目的は、それらの体験を通じて自己の霊性を向上させる(別の言い方をすればエゴから脱却する)ためにあるのです。それなのに、霊的パワーを逆にエゴに利用しようとして、一体どうするんですか? これほどの本末転倒はありません。

 

よく言う「引き寄せの法則」。これは「波動の法則」の中のいいとこ取りで、まさしくエゴのために霊的パワーを利用しようとするものです。同じ波長どうしが引きつけ合う。そのこと自体は正しいし法則に合致しています。でもそれを、エゴに利用しようとすることは、エゴが持つ低い波動に同調するものを引きつけるということなんですよ! これがどういう意味を持つか、解りますか?

 

誰しもがちょっとはエゴを持っていますから、そのエゴの部分が「引き寄せの法則」に、まさに引き寄せられるわけです。このようにして、「引き寄せの法則」によって、今や巨大なエゴの塊が創られている。そしてその低い波動が生み出すパワーが、それぞれの人のエゴをますます強化していく。そこに、大勢の人が嵌っているわけです。これ以上の本末転倒があるでしょうか?

 

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そんなことで、いま崖っぷちにある人類を、地球を、救えると思っているのですか? 地球人よ、いい加減に眼を覚ませ! エゴを集めれば、そのエゴに苦しむことになるということが、これほどになってもまだ解らないのか! 今の地球の惨状を見れば、もう明らかではないか?

 

いいとこ取りをした結果、無視してしまった「波動の法則」の別の面を、改めて言ってあげよう。それは、自分が為したことは、自分に返って来る、ということだ。地球人よ、本物とニセモノを見抜くのだ。刺激的な言葉と映像を使ってあなたたちを誘い、低い波動に固定しようとしている策略が分からないか? 

 

わたしが、わたしの創った者たちに、なぜ焦りや恐怖や不安を与える必要がある? わたしが創った者たち、それもまたわたしなのだよ。わたしが左手で罪を為し、右手でそれを罰するとでも言うのか。それがどんなに馬鹿げた虚妄か、もう気づいてもいい頃だ。

 

あなたたちに与えた自由意志を、もっと有効に使いなさい。己が生まれた意味を、生命の意味を、よくよく考えて行動するのだよ。