by Rainbow School
<< July 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
エゴと人間性と霊性

地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない。これは地球人の霊性の発達度合いに関して、高次元の存在からしばしば指摘されている言葉です。あなたも、何かの本をお読みになって目にしたことがあるかも知れません。一体これはどういう意味なのでしょう? どうして地球人類は、小学生レベルにも達していないのでしょうか?

 

このことを考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というもののあり方に着目しなければなりません。私たちは普段、自分の「意識」というものについて深く考えたことが殆どありません。自分の内側に湧き上がる、思考や感情や感覚やインスピレーションなどを、すべて「心」という、いわばオモチャ入れのBOXの中に放り込んで、それで済ましているのです。

 

これが、自分の「心」にどうにも治りがつけられない、ワケの分からないものにしてしまっている大きな原因なのです。自分が今ほしいオモチャを見つけようと思ったら、BOXの中を仕切って整理しておいた方が取り出しやすいでしょう? 全部を一緒くたにしていたら、表面上は整理されているように見えても、そのつど、箱の中を引っ掻き回さなくてはならなくなります。

 

私たちが普段「心」と呼んでいるものは、人間が持つ「意識」の中では、かなり限定的なものです。実際には、人間の「意識」というものはもっとずっと幅が広い。そのことは、「意識」の多層構造として前に紹介しました。多層構造の分類法と名称については各種がありますが、今回は「表層意識」「潜在意識」「深層意識」の三層で考えてみることにしましょう。

 

「表層意識」というのは、思考や感情や感覚などの、自分が普段意識している「意識」です。これがいわゆる「心」の大部分を形成しています。

 

しかしその奥に、普段は隠れているのですが、深く仕舞い込まれているもう一つの「意識」が眠っています。今は忘れてしまった幼少時の体験記憶や、過去世から引き摺っている恐怖、歓喜の感情、特殊な感覚などです。

 

これが「潜在意識」と呼ばれるものです。いわば塗装の際の下地のようなもので、表面的な意識はされていないのですが、下地として、知らず知らずのうちに「表層意識」に多大な影響を与えているのです。ですから広い意味では、「心」というものは「潜在意識」の支配下にあると言えます。五感が外部刺激を知覚した際に、その情報の解釈というものを、「潜在意識」が「表層意識」に与えているのです。

 

ところが、「深層意識」というものは、前の二つとはちょっと次元が違うのです。「深層意識」は「魂」レベルにある意識であって、「脳」とは関係がありません。肉体の有無に関係なく、あなたという「個」に備わっている、永続性を持った「意識」なのです。ですが、一般の人々にそのような知識はなく、想像もしていませんので、「潜在意識」よりもさらに無視される傾向にあります。

 

けれども、あなたの本質は「魂」にあると、これまで繰り返し言ってきたことを思い起こしていただければ、この次元における「意識」の重みもご解りいただけるのではないでしょうか? この「意識」は、常時「宇宙意識」と繋がっている意識であり、自己の深層に迫ることによって、あなたは自分が何者であるかということはもちろん、宇宙哲学の一切までをも知ることが出来るのです。

 

「地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない」ということの意味は、この「深層意識」の存在に、人々が全く注意を向けていないだけでなく、「潜在意識」からのネガティブな支配を、上手にコントロールする術すらも身につけていない、という段階にあるからなのです。しかし、いま地球に迫りつつある大転換は、人類の学習を一挙に飛躍させる大チャンスともなっているのです。

 

私たちの「表層意識」は、「エゴ(ego:自我)」を中心に動いています。この「エゴ」というのは、地上で肉体を持って生活する際に、「生き延びる」ということの必要性から、派生的に〈人間に〉誕生した性質です。ここで注目すべきは、人間以外の動物は「エゴ」を持っていないということです。「弱肉強食」と言われる肉食獣の世界ですら、「エゴ」に従って生きているわけではないのです。

 

自然界には食物連鎖という仕組みがありますが、食物連鎖の上位に位置する動物は、下位に位置する動物を必要以上に食べ尽くしたりはしません。そんなことをしたら、種(しゅ)を継続させていけなくなることを知っているからです。羊は弱いものの象徴ですが、旺盛な繁殖力を持つことで肉食獣に対抗しています。逆にトラやライオンや熊は、力は強くても繁殖力が弱く、個体数が増えません。

 

このように、自然の仕組みはすべて循環型で出来ており、循環の中にうまく調整されているのです。それは彼らが、「生命」というものの意味(つながって行くもの)を、本質的に理解しているということを示しています。ところが人間だけが理解していない。人間は、故意に、不必要な殺生までしてしまう。時には人間までをも殺す。人間は、そこに「エゴ(自我)」をプラスしてしまったのです。

 

「自然界はバランスのもとに自動調整される」ということを、今の人間はまるで信じていないのです。「この世に不足は何もない」「すべてが満たされている」ということを、ある時点から、信じることを止めたのです。その代わりに「全員には行き渡らない」「だから早い者勝ちだ」「そして、他人より多く溜めるんだ」ということを信じたのです。

 

ここから、独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものが生じたのです。みなさん、そこで考えてみてください。今の世の中の根底に流れている価値観とは、どういったものでしょうか? 全部、いま上げたものです。結局、「エゴ」が溢れている社会では、「エゴ」に長けた人がもてはやされ、組織の上に君臨できるようになっているのです。これが今の地球人類です。

 

ところが、それを前面に出し続けておりますと、当然ながら社会に著しいアンバランスが生じます。これを、人類は未だにコントロール出来ていません。

 

ある人は、だから倫理や道徳を教える「徳育」というものが必要なのだと力説します。しかし「徳育」の中身は、(所詮は人間であるところの)施政者が考えるのですから、「エゴ」の上に、施政者の(それが正しいと信じる)思惑で蓋を被せるだけのことです。すると、今度は別の問題が生じて来ます。「徳育」が示す「観念」に、人々が縛られてしまうのです。

 

「徳育」と言うと、一見よいもののような感じがします。けれども、それに類するものは過去にもさんざん行われて来たのであって、社会体制が変わると、価値観が180度ひっくり返るということもよく起こりました。いい例が、戦後の教科書の墨塗りです。同じ教師が、戦前に自分が教えていたことを全否定した。生徒にしてみたら、正に青天の霹靂だったことでしょう。

 

人間が持つ「エゴ」を、いくら「教育」で抑えようと思っても無理なのです。社会が、政治が、金融が、企業が、マスコミが、教師が、親が、みんな「エゴ」に縛られ、「エゴ」の下に動き、「エゴ」をけしかけている今の世の中では、「徳育」など単にジョークでしかない。政治家やマスコミや大人が「いじめ」が大好きなのに、子どもたちに「いじめは止めようね」と言って、そんなもの効くものですか。

 

ですからね、視点をジャンプさせなければならないのですよ。先ずは自分の「エゴ」を認めること。「エゴ」のプールに浸りきっているから、自分の「エゴ」にみんな気づけないのです。いったん「エゴ」のプールから出て、自分を冷静に見つめ直すこと。「エゴ」への埋没状態から抜け出すのです。プールから上がるのです。タオルで濡れた体を拭くんです。そうやって、ようやく反省が起きる。

 

ことここに至って、人類はようやく小学校入学ていどには成長できるでしょう。そして次の段階へと進む。それが次の段階、「人間性(humanity)」の学習です。独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものから脱して、代わりに、同情、共感、いたわり、慈しみ、思いやり、手助け、シェア精神、博愛、といった感情や思考や感覚を体験して行くのです。

 

あなた方が、この世に生まれてきた第一の目的は、これらの体験を積むことにあります。それまで野放し状態にしてきた「エゴ」からジャンプして、一段上の「人間性」を身につけて行くのです。この時、何より大切なことは素直さ。人は多くの観念体系に縛られて生きていますが、これらを持たない人ほど豊かな体験ができるのです。「信念を持たないように」と言っているのはそのためです。

 

自分に制限を設ける人は、それだけ体験できる感情や感覚の機会を遠ざけます。また、体験できる「意識」の広がりを減らした分、凝り固まった「信念」をますます強化させて行くので、これがカルマとなって、ちっとも成長が得られないまま、何度も輪廻転生を繰り返すことになるのです。イエスが「幼子のように」と言ったのはこのためであり、子どものような好奇心に返れという意味なのです。

 

さて、「人間性」を向上させることは、人がこの世に生まれて来たことの第一の目的ではあるのですが、「魂」の成長の観点からすれば、これでもまだ充分ではありません。豊かな「人間性」を持つということは、なるほど素晴らしいことです。ですが、それだけでは人間が抱えている本質的な矛盾に、答えを見いだすことは出来ません。次の「霊性(spirituality)」の段階にまで進まなくてはならないのです。

 

なぜかと言いますと、「人間性」というものは、「エゴ」に対する反省から生じたもので、いまだ肉(脳)に留まった感覚に過ぎないからです。この段階では、人はまだ「善悪二元対立」の中に解決策を見出そうとします。

 

そして、悪を憎み自分を善的なものであろうとする。それは「エゴ」に比べれば、確かに一歩進んだ状態ではあるのですが、二元対立から生じる「葛藤」から抜け出ることまではできません。そこには、根本的な錯覚があるのです。

 

先日、ルワンダの虐殺事件の、その後に関するドキュメンタリーを観ました。ルワンダでは1994年にフツ族とツチ族との間で内戦が起き、推定では80万人ほどが亡くなったと言われています。このとき攻撃に使われた武器が、ふだん農耕用に使用していたナタで、これで人を次々と叩き殺したのです。しかもこの信じがたい規模の虐殺は、隣人間で起きた。

 

この事件は、人間が持つ「観念」と、それが集合体となった際のエネルギーが、間違った方向に使われた場合、すさまじい破壊力になるということの一つの実例です。お隣さんをナタで殺すなんてことは、人としてあるまじき残虐さだとみんな分かっている。でも「そうすることが正義」とアジる人がいて、同調圧力が一気に高まった時には、このような信じがたいことが実際に起きるのです。

 

その虐殺を行った加害者が、20年の刑期を終えて出所し、村に続々と戻って来ている。その結果、加害者と被害者遺族が、再びお隣さん同士として生活していかなければならないのです。どちらも大変な苦しみを背負っています。一体なぜそんなことになってしまったのか。ここで、「エゴ」と「人間性」との間に、もの凄い葛藤が生じることになります。(それが成長の機会なのですけれど‥‥)

 

そもそも、人間に「エゴ(自我)」がどうして生じたかと言いますと、「魂」の独立というところに原因があるのです。これは、例のアダムとイブの楽園追放という物語の中に、象徴的に表されています。アダムとイブは蛇にそそのかされて、禁断の木の実(それは「智恵」の果実なのですが)を食べたことによって、楽園から追放されてしまいます。

 

この時に、木の実を食べたアダムとイブは、互いが裸であることに気づいて、慌ててイチジクの葉っぱで陰部を隠しました。これが「自我(ego)」の芽生えということを表しています。それまでは、裸であるということをべつだん意識していなかったわけですね。さて、この時の「智恵」とは何だったのでしょうか? それは「分ける」ということだったのです。

 

このブログでは、「三角形の法則」として何度か紹介していますが、もともと一つだったものを、△の左右の辺のように二つに分けた。ご承知のように、イブはアダムの肋骨から創られました。つまり元々一つだったものが、「智恵」を獲得した途端、「分離」という概念が生じ、男と女という「二元性」を意識するようになったのです。

 

この「二元性」は、プラスとマイナス、上と下、大と小、東と西、S極とN極、昼と夜、白と黒、左スピンと右スピン、オスとメスといったように、万物すべてに見ることができ、その一環として、「善と悪」という概念も生じたのです。このようにして、末広がりに万物が生じて行った。そこで、末広がりの「八」を「刀」で切るという文字が「分」になっているのです。

 

さて、アダムとイブの物語では、「智恵」の木の実を食べたから「善悪」の概念が生じたということになっています。がしかし「神」は全てですので、アダムとイブも「神」の内側ですし、蛇も「神」の一部です。ですから、蛇がそそのかしたのではなく、「神」が自ら希望して自己の一部を宇宙に解き放ったのです。その時に、副産物として「善と悪」という果実が実った。人に、自由意志が与えられた結果として。これが真相です。

 

つまり、一つだった「宇宙意識」から、個々の「意識」=「魂」が分離した瞬間、その「魂」に自由意志が与えられたのです。このことは、後に「魂」に決定的な二律背反の感情をもたらしました。それは、分離状態を謳歌して、自由意志をとことん行使したいという欲求と、元の一つの状態に帰りたい、つながりを回復して安心したいという欲求です。

 

この「分離」と「合一」という二つの相反する欲求は、どんな人の中にもあります。その中で、「エゴ」の強い人というのは、「分離」意識が非常に強くて、万物は一つという「合一」の感覚を、殆ど忘れてしまった「魂」なのです。言うなれば、地上に降りて来てからの成長が遅れている。しかしそのような「魂」であっても、いつかは成長を果たして帰るのですから、無闇に排斥したり攻撃してはなりません。

 

それよりも、人類全体としての大問題は、実は「魂」としては成長の遅れている「分離」主義者が繰り出す扇動に、(ルワンダの例を見ても解るように)大衆がいとも簡単に引っ張られてしまうということです。どんな人間の中にも「分離」と「合一」という相反する欲求が同居しています。けれども、「エゴ」に長けた「分離」主義者は、巧みに敵を設定し、人々に恐怖心を植え付けては「分離」意識の高揚の中へと大衆を引き込むのです。

 

なぜだか解りますか? そうすれば、自分がそのピラミッド構造の頂点に立てるからです。自分の「エゴ」を満足させられるからです。

 

兵隊がいなければ、戦争は出来ません。甘言に引っ掛かる人が誰もいなければ、詐欺師は成り立ちません。こうした構造は、みんな両者の協力によって成り立っているのです。このカラクリに、いまだに気づけないということが、地球人類の大きな課題です。つまり、地球人類は、与えられた「自由意志」の、よき使い方を知らない。その結果として、人類は、何度も何度も同じ過ちを繰り返しているのです。

 

「戦争」が悲劇しかもたらさないということは、みんな知っています。「環境破壊」が人類の生存そのものを脅かすことも、みんな知っています。「お金」の魔力が時に人を堕落させることも、みんな知っています。それでも、「戦争だ」「テロだ」「原発推進だ」「経済成長だ」「金融資産だ」と言う指導層の声に刺激されて、人々は導かれて行くのです。自分の中に眠る「エゴ」が、同調して喜ぶから。

 

ここで明確に述べておきますが、人は、あきらかに誤りだと認識したものを、何度も何度も経験する必要はありません。体験は重要ですが、宇宙に残るものは結局は「思念」だということを前に申し上げました。ですから、たとえば原爆というものの悲惨さをとことん認識すれば、その「思念」は、体験したことと同じものとなり、その痛みを思えば、再び「核戦争」をする必要など全くないのです。

 

これは全てのことについて言え、環境破壊も、原発事故も、テクノロジーの暴走も、貧困も、金融システムの崩壊も、一度経験すれば、それでもう充分なのです。それなのに、人類が何度も何度も同じ誤ちを重ねるのは、人類全体として見た場合の学習効果が、ほとんど見られないということです。いまだに、幼稚園レベルを行ったり来たりしている情けない状態だということです。

 

その根本原因はどこにあるのでしょうか? それは、地球人類の大多数が「因の世界」を知らないということ、これに尽きるのです。結果を見て、「結果の世界」を論じているに過ぎないということ。ですから、その奥にある「真理」が理解できずに何度も馬鹿げた騒動を繰り返しているのです。そしてその度に、苦悩し、涙を流し、「もう二度とゴメンだ」と固く誓い、しばらくすると、その誓いを忘れる。

 

「因の世界」の「真理」とは実にシンプルなものです。全部は一つ、一つが全部ということ。輪廻の背後にあるものは、「分離」と「合一」の繰り返しであって、私たちには、その間において、創造的体験を積むために「自由意志」が与えられました。ですから私たちとしては、その与えられた「自由意志」というものを、「真理」に沿って行使し、生きるだけなのです。

 

「自由」とは何か? それは束縛から逃れることではありません。「自らに由る」という意志を示すこと。それが真の「自由」。つまり「ありのまま」です。あなたの「ありのまま」とは何でしょうか? あなたの本質であるところの「魂」が、万物とつながっているという感覚を取り戻すことです。あなたが先ず、それを取り戻してください。そうすれば、人類は変わります。

自分の思考パターンをチェックする

現実とリアリティとは違う。このことは、基本中の基本として、記憶しておいてください。私たちが何気なく「現実」と呼んでいるものは、「現実(実の現れ)」という名とは全く裏腹に、その存在を確認することが不可能なものなのです。そこで神秘学においては、昔から「この世は幻(まぼろし)」と言われているのです。

 

たとえば、どこかの都市でテロ事件が起きたというニュース映像を見ます。「ああ、そんな事件が起きたのか」と思う。けれども、あなたはその事件を本当に目撃しているわけではないのです。見ているのは、事件をある方向からカメラで切り取った映像です。もっと言うと、単にディスプレイ画面の光の明滅を知覚しているだけなのです。

 

その光の明滅と音に、意味を見出す(というよりも付与している)のは、あなたなのだということです。これが、あなたの「リアリティ」です。でも世間の常識として、本当はあなただけの「リアリティ」であるのに、それを「現実」だと思い込むように訓練されてしまっている。そこでこの世では、壮大な錯覚がまかり通っていて、誰もこれを気に掛けないのです。

 

ですから、かつてアポロ11号の月面着陸映像の中継を世界中の人々が信じるという、集団催眠事件が起こったのです。この事件は、『2001年宇宙の旅』の監督であるスタンリー・キューブリックが、スタジオで放送用のフェイク映像を撮影し、その依頼を若き日のドナルド・ラムズフェルドが行ったことが、本人たちの証言で明らかになっています。

 

では、今度は実際に目撃した、あるいは体験した、という場合を考えてみましょう。たった今グラグラっと来て「あ、地震だ!」とあなたが思ったとします。急いでテレビを点けると、震源地と各地の震度を表すテロップが流れています。そこであなたは「地震」という「現実」が起きたのだと思う。

 

ところが、その「地震」というものの総体を完全に把握できる人間など、実は一人もいないのです。うちでは棚の上の皿が落ちて来て割れたとか、うちは壁にヒビが入ったとか言う。それは、それぞれの「リアリティ」であって、同じものは一つもありません。でもみんなが口車を合わせることによって、そういう「現実」が起きたと、人間は「解釈」しているのです。

 

このように、あなたが「現実」だと思っている世界、自分とは別個に、確実に存在していると思っている世界は、実は不確かで、極めてあやふやなものです。その総体を把握することなどは不可能です。身の周りに起こる現象に意味を与えている、もっと言えば「リアリティ」を〈創造している〉のは、他ならぬあなただということです。

 

よく、理想と現実は違うとか、現実に押し潰されるとかと言いますが、これらの言葉は全く正しくありません。「現実」があなたを押し潰すのではなく、押し潰されるという「リアリティ」をあなたが〈創造〉した時、あなたは「押し潰された」と思うのです。つまりそれらは、すべてあなたの「想念」の働きによるものです。

 

いま言ったことはとても重要なことで、よく考えてみれば、なるほどそうだと解るはずです。それなのに、人間はこの単純な理屈に気づいておらず、人類全体が壮大なフィクションの世界に巻き込まれているのです。太古の時代から、少数の賢者が繰り返しこの真実を伝えてはいるのですが、人間はいっこうに耳を貸そうとはして来なかったのです。

 

けれども、賢明な読者はすでにお解りでしょう。自分の「リアリティ」は自分が創っている。それはいつも言っているように、あなたの自由な選択が創り出すのです。外部から来る刺激に対して、どのような感情を選ぶのか、どのような思考を展開するのか、どのような行動を取るのかは、全く自由だということです。

 

ところがその時に、各人特有の「選択のクセ」というものが表れて来るのです。将来に対して常に悲観的に考える人、変化に対していつも不安を感じる人、直感で何かを思いついても必ず打ち消しの言葉を探し出す人、目の前にチャンスが訪れてもすぐにリスクを考える人、etc. もちろん今あげた例とは正反対のクセの人もいます。

 

この「選択のクセ」を、別の言葉で「性格」と呼んでいるのです。よく「性格は変えられない」とか「変えられる」とかが議論になりますが、自分の「性格」を変える方法は、この自分特有の「選択のクセ」に気づいて、それを改められるかどうかに掛かっているのです。

 

理屈はそういうことなのですが、これが非常に難しい。先ず、自分の「性格」というものの正体が、実は「選択のクセ」にあるのだということに、みんな気づいていません。第二に、そのため、今まで自分が創り上げて来た想念(別の言葉では、観念、信念、思い込み、こだわり)の世界に完全に埋没していて、自分という者をなかなか客観視できないのです。

 

このため、同じ思考パターン、ひいては行動パターンを、グルグルグルグル回っている人というが大半なのです。こういう人には、もう何を言っても効きません。どんなアドバイスをしてあげても、結局は自分の慣れ親しんだ思考パターンに帰ってしまい、それを決して手放そうとはしません。これが「性格は変えられない」と言われるゆえんです。

 

もう本人が気づくのを待つしかない。でも、周囲の人たちはみな分かっているんですよ。内心「あの人は、こういうタイプ」と分析した上で接しているんです。ただ、面と向かって指摘したりしないだけです。本人だけが、自分の「性格」つまり「選択のクセ」を分かっていないんですね。

 

以前に、幸福になるには、「自分が幸福だ」と思うだけでいいと書きましたね。覚えておられますか? 晩ごはんのおかずがサバ缶しかなかったとしましょう。「ちぇ、サバ缶だけか」と思うことも出来るし、「わーい、サバ缶があるぞ」と思うことだって出来る。それは自由。

 

でも後者を選択するクセの人は、前者を選択するクセの人よりも、ずっとハッピーに生きられるし、生きているのです。解りますか? サバ缶を「お金」に替えて、同じことを考えてみてください。

 

周囲の現象に対するあなたの「選択のクセ」は、あなた特有の「想念」を内側に形づくります。これまで生きて来て、あなたは既にたくさんの「想念」を自分の中に抱え込んでいます。これが-ベースとなって、自分の「選択のクセ」をますます強化し、ついには、自分で創った「観念、信念、思い込み、こだわり」によって、自分自身を縛るようになるのです。

 

これが俗に言う、囚われ、執着、の状態です。自由意志の行使の仕方を、間違ってしまったんですね。ほんのちょっとしたことで、ハッピーになれたはずなのに。

 

ですから、ご自分の「思考パターン」というものに、先ずは気づくということがどれほど重要なことであるか。そこで、次の作業をお勧めします。夜、床につく前に、その日一日に起きた出来事、その時の感情の動き、自分の中に形成された想念を、良いことも悪いことも、全部ノートに書き出してみてください。

 

そしてそれが、その日のあなたの生活に、どんな影響を及ぼしたのかを調べてみてください。この作業を繰り返すことによって、ご自分の「選択のクセ」を、遠からず発見できることでしょう。そうすれば、自分のイヤな面を変えられます。

辛さから逃げたっていいんだよ

元「SEALDs」の中心メンバー(SEALDsは2016年8月に解散)だった奥田愛基さんが、Eテレの『ハートネットTV』に出演されていて、自身が中学時代に体験したイジメについて語っておられました。

 

いつの間にかクラス全員から無視される存在となっていた奥田さんは、辛さにどうにも耐えられなくなった時、新聞でたまたま、劇作家の鴻上尚史さんの書かれていた記事に眼を留めたのだそうです。そこには「逃げていいんだよ」ということが書かれてあったそうです。それで奥田さんは直ちに反応して、実際に沖縄の島に渡った、というのですから凄い。

 

やはり、こういう行動力が抜群で、だから「SEALDs」というものも立ち上げられたのでしょう。「SEALDs」については、同年代の中に、揶揄したりバッシングしたりすることに情熱を傾けている人もいるようですが、そういう人には、果たして彼と同じことが出来るのかと問いたいです。

 

誰かがやったことを、こたつに入ってぬくぬくしながら、キーボードを叩いて批判するなんてことは誰だって出来ます。でも、まだ誰もやっていないことを、先頭を切って走る勇気は、誰もが持ち得るというものじゃないです。少なくとも、私には出来ない。だから、気骨のある凄い青年だなぁと、私は感服します。

 

他人の褌を借りていながら、その人を批判することが自己主張だと思っているとしたら大間違いだと思う。もしその褌がぶらさがっていなかったとしたら、どんな主張をするんだい? 誰かを批判するエネルギーがあるのなら、なぜ、マイ・プロジェクトを始めないのかな? その方が楽しいだろうし、そうやって自己主張すればいいじゃないか。そうは思わないかい?

 

話を戻して、目の前にある問題から逃げる。この「逃げる」という言葉に引っ掛かって、葛藤を抱えている人は少なくないと思います。しかし、身に降り掛かった「問題」というものも、よくよく観察すれば、立ち向かって乗り越えた方がいいものもあれば、逆に逃げる(あるいは無視する)ことで乗り越えた方がいい場合もあるのです。ですから、この区別をしっかりつけることが重要です。

 

「我慢」と「忍耐」は違う、というのが私の考えです。「我慢」はする必要はないが、「忍耐」は時に必要とされる。「我慢」という言葉は、字面を見ても解るように、元々の意味(己の慢心)が転用されて、辛さに耐えるといった意味で使われるようになりました。でもその辛さが、どう考えても理不尽な辛さであるのなら、「我慢」する必要はいささかもない、と私は思います。

 

なぜなら、それが自分を守ることになるからです。この世には、残念ながら、他者を支配したり、揶揄したり、攻撃したりすることに情熱を傾ける人が少なからずおります。実はそういう人たちも、内面に強い葛藤を抱えているのですが、そのエネルギーの噴出のさせ方が歪んでしまっているのです。それはその人の問題ですから、それを受けて、こっちまでお付き合いする必要はないのです。

 

これまでにも何度か書いて来ましたが、同じ土俵には乗らないことです。理不尽な状況やネガティブなメッセージに対して、カーッとなって返り討ちにしてやろうと思ったり、逆に自分の存在意義まで否定されたと思ってひどく落ち込んだりするようなことは、結局、同じ土俵に乗せられたということを意味します。それは、自分自身の成長にとっては、時間の無駄遣い以外の何物でもありません。なぜって、あなたの問題じゃなかったのですから。

 

そんな不毛なことにエネルギーを浪費するのなら、自分のことに使った方がいい。そう思いませんか? でも人間には感情がありますから、そりゃあ理不尽なことやネガティブな声に接すれば、心は動揺します。ですからそこは否定しないで、そういう自分の感情的反応を認めて上げて、一日二日で早めに手放し、気持ちを切り替えるということが大事なのです。

 

もしそうした辛い状況が固定的なものであるのなら、そこから「逃げる」ことが、唯一あなたの身を守ることになります。ネガティブな波動を出す人、ネガティブな波動を出す場、そういうところに居続けますと、そのバイブレーションに巻き込まれてしまって、あなたも、ご自身の波動を著しく下げます。その結果、心に変調を来したり、場合によっては病気にもなったりします。

 

「逃げる」ということに多少の後ろめたさを感じるかも知れませんが、早めに心を癒して、その分のエネルギーを、今度は「挑む」に変えればよいのです。「逃」の字と「挑」の字は似ているでしょう。つくりの「兆(きざし)」は〈亀甲占い〉の表意文字です。ですから「直感」に従って「辶(移動する)」のが「逃げる」、「直感」を得て、自分の「手」で何か始めるのが「挑む」です。

 

つまり「直感」に従って、自分のエネルギーをポジティブな行動に変えればよいのです。そうすれば、たとえ困難に遭ったとしても耐えられる。これが「忍耐」だと思うのです。自分を成長させるためのハードルです。理不尽な辛さを「我慢」する必要はないけれども、自分を成長させるためのハードルなら「忍耐」によって乗り越えていける。上手くやれば「楽しみ」にさえ変えられる。

 

このハードルは人それぞれです。美容師の修行は辛くて務まらなかったけれども、料理人の修行は楽しんで出来る。そういうことだってあり得ると思います。ですから、何かの問題が生じたら、それが「我慢」になってしまうのか、「忍耐」に通じるものなのか、よ〜く吟味して、次のアクションをしていただきたいと思います。

痛みと苦しみ

痛みと苦しみは違います。この二つを混同しないように。痛みというのは客観的事実で、苦しみとは主観的な想念です。病気や怪我で痛みを覚える、暴力を振るわれて痛みを覚える、誰かにひどいことを言われて痛みを覚える、手ひどい失敗をして痛みを覚える、自分という存在を無視されて痛みを覚える、自分が加害者となり痛みを覚える。

 

そういうことは、生きている以上はしょっちゅう起こること。それを引きずって、苦しみに変えてしまうのは、その人の主観的な想念、その人自身だということです。その苦しみは、最初の痛みという「因」から生じた「果」であることは間違いありません。でも「縁」を変えれば、「果」も違って来るのです。

 

喜劇役者の小松政夫さん。私はこの方のシュールさと真面目さが大好きなのですが、以前に『わたしが子どもだったころ』という小松政夫さんの自伝のドキュメンタリーを見ていて、凄いなぁと思わされたことがあります。

 

小学生だった小松(当時は松崎)少年が、学校で先生に叩かれるかなにかした。(この経緯は、よく覚えていません。もしかしたら違っているかも)そのとき彼は、とっさに机の上に上がって「イテーな、イテーな、イテーなぁー」と身振りを交えてやって、クラス中の笑いを取ったというのです。きっと当時から、笑いの才能の片鱗があったということなんでしょう。

 

*「イテーな、イテーな、イテーなぁー」は、リンクしたビデオの中でもやっていますよ。

 

私が凄いと思ったのは、「痛み」を「笑い」に変えたということです。ですから、小松政夫さんは普通の人とは「縁」が違っていたんですね。「縁」というのは、この場合、心グセです。「笑い」が好き、どうにかして「笑い」を生み出したい。そういう心グセが、「痛み」のインプットを、瞬時に「笑い」というアウトプットに変えてしまったのです。

 

このことから解るのは、多くの人が、「痛み」を「苦しみ」に変えてしまうのは、そういう心グセ(縁)を持っているということです。「自分を被害者にしてしまう」という心グセです。自分を被害者にしてしまいたがるのは、対抗するもの(Something)を自分が持っていない場合に、自己をアピールする一つの方法なんですね。子どもが泣いて訴えるのと同じです。

 

でも、いつまでもそれをやっていたら、成長はありません。小松少年は「笑い」という Something を持っていました。だから、「痛み」を自分の得意分野にチェンジ出来たんです。あなたには、あなた独自の才能がある。痛みは痛みとして受け止めて、味わって、味わったら今度は手放して、自分の得意分野にプラスになるようにチェンジするといいです。小松少年のようにね。

理性は、時に自分を支配する道具になってしまう

NHKの『100分 de 名著』で、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』を取り上げていた回がありました。『エミール』のことはひとまず置くとして、ルソーのことを書いておきますと、ルソーはまぎれもなくメッセンジャーの一人でした。ルソーの言動の不可解さは、そのことを前提に置いて考えればすんなり理解することができるのですが、普通の人はそれを知りません。

 

さて、この回の中でこんなことがありました。司会の伊集院光さんが、解説をしていた哲学研究者の方に、こう訊ねるのです。

「先生、この中に書かれてある “光” って何ですか?」

するとその哲学の先生が、すかさずこう答えました。

「あ、それは “理性” のことです」

 

「違う!」私は思わず、テレビの前で叫んでいました。どうして「光」を「理性」と読み解いてしまうのか? これがやはり「哲学」というものの限界なのでしょう。「理性」を突き詰めていけば、「人間なぜ生きるか」が解ると考えている。しかし実際には解らない。もし「哲学」でそれが解ったとしたら、悩める人などとっくにこの世から消えていた筈です。

 

ルソーが、もし「理性」を意味する言葉を書きたかったのであれば、ちゃんと「理性」と書いた筈です。わざわざ「光」などという譬喩の言葉を当てるわけがありません。それでは譬喩を使って、かえって話を解りにくくしていることになってしまう。そうじゃないんです。ルソーが「光」と書いたのは、まさにそれが「光」のことだったからです。

 

万物の元であるところの「光」、全知全能の始原であるところの「光」。「光」は「光」としか言いようがない。ですからルソーは「光」と書いた。そこにウソーはない。「光」は、「理性」など遥かに超えたものなのです。

「光」については、こちら▶︎に書きましたので、どうぞ参考になさってください。

 

「理性」をトコトン突き詰めることによって、人間が抱くあらゆる諸問題に対処していく。それが正しいあり方だとする考え方が、一部の知識人層には根強くあります。でもそれは本当に可能で、しかもよいことなのでしょうか?

 

「理性」はよく「感情」と対比されます。「感情」あるいは「情動」を制御することはなかなか難しいけれども、それを「理性」によって統御し、「感情」の暴走を抑える。こういうことが、一般には推奨されています。私なども、一時期はずいぶんこれを意識して過ごした経験があります。「感情」を見せることは恥ずかしいことだという観念があって、努めて冷静であろうとしたのです。

 

確かにそれを意識することで、ある種の気づきは得られます。しかし今度は、「感情を抑え込む」ことで沸き上がる、別の「感情」が出て来てしまう。たとえば怒りを押さえ込むと、今度は押さえ込んだことによる鬱積の感情に、長いこと支配されてしまうのです。結局このやり方じゃあダメだ、と気づくまでに何十年も掛かってしまいました。

 

「理性」というのは、ものの道理を知り、道理に従って行動しようという能力です。ところが人間が考えた「道理」には、宇宙の理法からすれば間違った点も非常に多い。どうりでおかしいと思った、な〜んてことも多々ある。所詮それは、人間の作り出した浅知恵なんです。

 

さてそうすると、理性的に生きようとすることは、人間に間違った規範や行動原理をおっかぶせてしまう危険性が出て来てしまいます。つまり「理性」というものは、時に自分を支配する道具になってしまいかねない。そしてそれを押し進めると、今度は「倫理」に突き進んで行ってしまうのです。教育者の中で「倫理」の必要性を訴える方は多いです。

 

でも人間の「心」というものは、思考だけではなくて、感情と感覚が揃ってワンセットです。確かに感情は暴走する時があるし、感覚は他人には伝えることが難しいものですから、それほど重要視されていません。だからと言って、思考の面ばかりにフォーカスを当てることは、この本来のバランスを崩すことになってしまいます。

 

人間というものは、思考と感情と感覚のバランスが取れているということが非常に大事なのです。それが「心」の豊かさというものです。この三つのうちのどれか一つを肥大させたり、逆に抑え込もうとしたりすると、たちまちバランスが崩れて「心」は貧しくなって行ってしまう。でも、この三つの「バランスが大切」だという人は、あんまりいないんですね。

 

故意に理性的であろうとする必要はありません。思考も感情も感覚も大いに使って、「心」そのものを豊かにして行く。その先に見えて来るものが「光」なんです。諸問題を「理性」の働きだけで乗り越えようとしないでください。「心」全体を豊かにすることで乗り越えて行ってください。それが「光」へと通ずる道なのです。

希望とは、それを信じてはいないこと

あなたに希望はありますか? 

希望‥‥。暗いトンネルの先に、ほのかな光が見えるイメージ。それは、あなたに明るい未来をもたらしてくれるのでしょうか?

 

1970年に岸洋子さんの『希望』という歌が大ヒットし、レコード大賞の歌唱賞を受賞しました。1960年ころまでにお生まれの方は、たぶんご記憶でしょう。この歌は、「希望」という言葉のニュアンスを、とてもよく表しています。

 

曲はマイナー調で、終始もの悲しい。歌詞の一番、二番、三番の終わりは、それぞれ「私の旅は終わりのない旅」「私の旅は返事のない旅」「私の旅は今またはじまる」となっています。要は、トンネルの先にちっとも出ないのです。

 

この歌は、今は音信不通となってしまった昔の初恋の人に、ただ逢いたいという「希望」だけを持って生きている乙女の心情を、切々と歌ったものです。でも今の私なら「そんなものはさっさと捨てなさい」と言います。

 

その「希望」と称するものも、自分が作り出した観念ならば、初恋というものも、実は自分だけの片思いであった可能性が大です。いま改めて聴いてみると、まるでストーカーのようなものです。でも当時は、これが多くの人に共感を与えたんですね。

 

「希望」は「絶望」の反対言葉ではありません。両者は同じ土俵の上の言葉。それは「好き」の反対が「嫌い」ではないように。「好き」も「嫌い」も、両方とも「関心がある」ということです。「好き」や「嫌い」の本当の反対は「無関心」です。

 

「絶望」の反対は「希望」ではなく、「信頼」です。「希望」とは、それが実現することを信じてはいないこと。「信頼」とは、それが実現することを知っていることです。ですから、それが「希望」である限り、根っこには「成就しない」という意識が働いているのです。

 

あなたは、あなたの現実を創造します。あなたの現実は、先ずイメージから始まります。晩ご飯を作るのだって、最初にイメージがあって、それから出来上がるでしょう。あなたが「成就しない」という意識を潜在意識に絶えず植え付けているものは、その望み通り、成就はしません。

 

ですから「希望」ではなく自分自身への「信頼」が必要なのです。あなたが抱く「願望」が、本当に実現して欲しいと思ったら、先ずありありとしたイメージを描くことです。細部に至るまで、詳細な視覚化を行うのです。そうすれば、あなたの現実は、それに向かって動き出します。

 

その時、こう自分に言ってください。「私のこの願いが、宇宙の理法に適うのならば、それは成就した!」

不快な気分が生じた時の消し方

人と接していて、何かの文言を見て、あるいは何かの事件に遭遇して、急に不快な気分が湧き起こった。そんな経験はありませんか? これは、その時にもたらされた外部刺激と、自分のバイブレーションとのギャップが大きい時に現れる症状なのです。いわゆる「波長が合わない」ということです。

 

人はみな、その人の現在の霊性の高さに応じたバイブレーションを周囲に発しています。宇宙のあらゆるものはバイブレーションですから、そこで互いの振動数が干渉し合うのです。音楽を考えてみればお解りだと思いますが、これには三種類があります。同調(共鳴)と、ハーモニーと、不協和です。物質では、これが結晶化、化合、分離として現れます。

 

この不協和が起きた時、その人には「不快」として認識されるのです。不協和がどうして起こるかと言うと、これには二種類があります。相手のバイブレーションが自分よりも低過ぎて不協和が起きる場合と、反対に相手のバイブレーションが自分よりも高過ぎて不協和が起きる場合とです。どちらも、「不快」であるために、同じ場に長く居続けることはできません。

 

人間社会ではいろんな人が一緒くたになって生活していますが、その人の本質はあくまで「魂」であって、人はみな生霊のわけですから、そういうことが起きるのです。霊界というのは、霊性の高さに応じた完全な階層構造になっているので、生霊としての人間もまた、あまりにもバイブレーションが違う人とは一緒になれないのです。

 

テレビの討論番組などで、よく喧々諤々の議論をしているのを見るでしょう。一見、意見が真っ二つに分かれて闘っているように見えますが、実は両者のバイブレーションは同じ程度なのです。だから同じ土俵に立てるのです。もし、あまりにもかけ離れていたら、その場に居続けることは出来ません。高過ぎる人も低過ぎる人も離れてしまい、同程度の人たちだけがその場に集まって来るのです。

 

私のこのブログに惹かれて来る人は、ほんの僅かです。ここにも同じ理由があります。自分とは「波長が合わない」と思った人は、訪れても、自然と離れて行きます。

 

さてここで、次のような疑問が湧きませんか? だとすれば、自分の霊性を高めようと思っても、高いバイブレーションとは縁が生じないわけだから、結局、無理ということではないのか? ここでハーモニーという手段が出てくるのです。完全同調できなくても先ずハーモニーを目指せば、やがては引き上げられて行くことになります。

 

ハーモニーを目指すためには、自分を解放することです。先ず開放弦にしておくのです。心を開いていれば、協和するバイブレーションが自然と見つけられて行きます。でも、自分をこうだと決めつけたり、主義主張にこだわっていると、その振動数にガッチリ固定されてしまいますから、結局、ハーモニーが起こらないのです。

 

さて、冒頭の話に戻りましょう。「不快」な気分がどうして生じているかという、深〜い話がお解りいただけましたね。こういう気分が生じた時、そのままにして放置していますと、その「不快」な気分にやがて支配されてしまいます。そしてこれが何日も続く。下手をすると、そこから自分の余計な「観念」を作り出しかねません。これは誉められたことではありません。

 

ではどうしたらいいのでしょう? 「不快」は感情面の反応ですが、これを感情のままにせずに、その裏に隠れた自分へのメッセージを探るとよいのです。あらゆる「不快」な出来事には、あなたへの特別なメッセージが隠されています。あなたのハイアーセルフは、「不快」な思いをさせることで、あなたの生き方に軌道修正を迫っているのです。

 

これを、読み解いてください。心を静かにして、この「不快」な感情が、どういう理由で湧き起こったのかを見つけてください。この隠されたメッセージを理解した時、あなたの「不快」は消えます。あなたはもう、その感情に束縛される状態から脱し、自分を成長させる鍵を掴むことになるのです。このようにして、人は「不快」な出来事を、人生のプラスに転じることが出来るのです。

調子のよい時を思い出す

心の調子が悪い時には、人は、「どうして自分にばかりこんな不運が続くのか」とか、「この先、自分が浮かばれることは一生ないのだろうか」などと、ネガティブな思考をエスカレートさせてしまいがちです。自己否定があまりに過ぎるのは考えものですが、そのようにして「内省」の機会を持つこと事態はよいことです。

 

何かの技能について向上を図ろうと思った時には、それまでの自分の過程や、今現在のレベルを分析してみるでしょう? それと同じことで、「心」の成長を図るためには、立ち止まって「内省」する機会が必要なのです。調子のよい時には、みんなイケイケで生きているので、普通の人は、内省する機会を持とうとはしないものです。

 

昨日は、調子が悪い時の原因として、三つの種類があるということを書きました。繰り返しになりますが、基本として覚えておいて欲しいことは、人生に好不調の波は必ずあるし、それは自然なことなのだということ。よく言われる譬えですが、晴れない雨はないのです。これはその通りで、不調の後には、好調が待っているということです。

 

その際、不調の時期をどう過ごすか、ということが重要になって来ます。これもよく言われる譬えですが、ジャンプしようと思ったら、その前に身を屈めなけれなりません。ですから、不調の時期にはどのように身を屈めるか、それを意識的に考えて行動することが大切なのです。このことを知らずに、気分に突き動かされて自暴自棄に陥ったり、ヤケ酒を煽ったりするのは損なことです。

 

プロ野球選手のピッチャーが、勝利者インタビューで、よくこんなことを言っていますよね。「今日は、調子がよくなかったけれども、凌げたのが大きい」と。ピッチャーというのはローテーションが決まっていますから、調子の悪い時にも登板機会が巡って来ます。そのような時にどう凌ぐかが、年間通してみると、勝利数に影響してくるんですね。

 

ではどうやって、調子の悪い時を凌いだのか? この方法論は大いに参考になります。彼らは「調子のよい時を思い出す」ようにして、不調時を上手く切り抜けるんですね。プロ野球選手は職業ですから、自分の調子のよい時のフォームや指先の感覚を、普段から徹底して分析しています。ここが一般人とは違うところです。一般人は、調子がよい時のことを分析したりはしません。

 

そのため、調子が悪くなると、とたんにオタオタしてしまうわけです。けれども、よくよく考えてみれば、自分がこれまで生きて来た中で、そんな悪い時ばかりだったなんてことはないんですね。よい時だって、それ以上にたっぷりあった筈なんですよ。ただその時の状態というものを、振り返ったことがあまりない。それで、プロ野球選手のようには行かないわけです。

 

ということで、「内省」の機会に、「調子のよい時を思い出す」というのを付け加えて欲しいのです。自分のどこがいけなかったのか、その裏にはどんなメッセージが隠れているのか? それを一度分析したら、それ以上は反省せずに、ご自分の「調子のよい時を思い出す」ように、気持ちを切り替えて欲しいのです。

 

この二つはセットです。セットで使用してこそ「心」の成長の効果が上がります。たぶん、調子のよい時には、創造的な活動に、「今ここ」の気持ちで、夢中になって取り組んでいたことを思い出される筈です。そこに答えがあります。そしてそれは、「魂」が喜んでいた時に他ならないのです。

恐れを解放する

「恐れ」という感情の背後にあるものは,結局のところ、自分が未体験の事柄に対する抵抗感です。これは生体防衛本能の一つで、たとえば「火」を恐れるというのは、それがもし無ければ、火傷に容易に身をさらすことになってしまい、下手をすれば死んでしまいかねません。ですから、自分の中にある「恐れ」そのものを卑下することはないのです。

 

ただ、「恐れ」の種類によっては、よりよい人生を送ろうとする上で、支障になることが出て来てしまいます。私にも恐いことがたくさんあって、最近では高速道路でのクルマの運転が恐怖でした。高い場所と高スピードが共に苦手で、スキーも出来ないし、ジェットコースターにも乗りたくはありません。でもクルマの運転だけは、必要に迫られて、何とかしなければなりませんでした。

 

長野との往復をするようになって3年余り。毎回、凄く恐かったです。それが去年の11月になって、突如、道路が止まって見える感じに変わり、びっくりしました。巨人軍のV9時代の監督だった川上哲治さんが「ボールが止まって見える」と言った話は有名ですが、「これがそうなのか?」な〜んて思いました。これ以降、初期の頃のような恐怖感がなくなりました。

 

そこに行き着くまでには、月に1回走って3年掛かったわけですが、そう考えると、結局「慣れ」なのかなと。ですから、ちょとずつ慣らして行くということは、「恐れ」というものを解放するための、先ずは、いちばん有効な手段であるということが解ります。「千里の道も一歩から」という諺がありますが、これは「恐れ」の解放についても言えることだと思います。

 

さて、今の例は、生活習慣上の問題でしたが、これが「仕事を変える」といったことだったらどうでしょう。自分にはこういう夢がある。将来はこんなことをしてみたい。心から打ち込めるライフワークを見つけたい。そう思ってはいても、「恐れ」から二の足を踏んでおられる方が、きっとたくさんいらっしゃることでしょう。

 

しかしこれこそ「千里の道も一歩から」であって、とにかく一歩を踏み出さない限りは、夢に近づきようがありません。今はまだ遠くに感じられる理想像と、現在の姿とを比べたら、そのギャップの大きさにビビってしまうかもしれません。けれども、目の前の簡単な一歩を踏み出す勇気さえ持てばよい。そう考えたら、ほんのちょっとの方向転換でいいわけです。後はその積み重ねです。

 

「恐れ」というのは、実はその人にとっての、飛躍への扉なんですね。「恐れ」の〈克服〉というところばかりにフォーカスを当てていますと、この真実を見逃してしまいます。たとえば「人と会うのが恐い」という「恐れ」があったとしましょう。それはその人にとって、重要な人との出会いという扉が、開かれるのを待っているということなんですね。ですから「恐れ」は、自分へのギフトです。

 

ギフトですから、拒絶せずに受け取りましょうよ。受け取って、包みを拡げてあげましょう。「恐れ」に蓋をして、見ないようにして、暗いところに押し込めてしまってはいけません。その「恐れ」は、潜在意識の中にずっと居座ることになってしまいますから。

 

そうではなくて、自分の「恐れ」を素直に認めて、その原因がどこにあるかをよく見て、調べて、そこに光を当てるんです。そうすれば、「恐れ」の裏にある意味のギフトに気づけます。それが出来れば、変化を「恐れ」から「楽しみ」に変えることが出来るし、その楽しい変化に向かって、一歩を踏み出すことも可能です。

 

イタリアのカンツォーネの歌詞にもあるじゃありませんか。

恐れ、見よ。

“ O sole mio ”

これって、「私の太陽」って意味なんですよね。そうやって、「恐れ」に光を当ててくださいな。

自分マニアからの脱却

いま苦しみの渦中にある、という人へのアドバイスは、難しいものです。客観意識というものを失っている状態の人には、何を言っても素通りか、逆にあまりにも自分に引き付けて形だけを取り入れてしまうからです。この状態に対する特効薬はなく、いたわりだけを示して、あとは放っておくしかありません。

 

自分の今の苦しみ、それが「苦しみ」への集中から起きているということが、悩みの渦中にある人には解らないのです。

 

調理中、うっかりして指先を切ったとしましょう。深く切ったので、血が出て鋭い痛みがあります。その事件は確かに起きて、具体的に被害もありました。でも指先の痛みがその後もずっと気になる、四六時中気になって他のことが手につかない、化膿するのではないかと心配だ、となると話は少し違って来ます。後のその思いは、みんな自分の「心」が創ったものです。

 

ステージはもう次の段階へ移っているのです。けれども、そこには明確な因果関係があるものですから、みんな、Aという事件からBという思いが生じたことを一体と考えてしまう。そうして、もはやどうにもならない、過ぎ去ってしまったA事件を、いつまでも悔やんだり、悲しんだり、怒ったり、恨んだりし続けているのです。

 

よく言う「ありのままを受け留めなさい」というのは、このAとBの分離ということを、促す言葉なのです。A事件は、A事件だと。しかしそれを、どう感じ、どう考えるかというB段階は、もうあなたのハンドリングなんですよ、ということです。お好きにどうぞということです。このメカニズムに「気づく」ことが、客観意識に立つということなんですね。

 

ところが、客観意識に立つということがどうしても出来ない、そういう性癖の人がおられます。いま言ったメカニズムをいくら説明しても、理解して貰えません。「だって、私は苦しいんだもの。私が求めているのは、そんなことじゃないんです。とにかく、今すぐ誰かに苦しみを取ってもらいたいのよ!」う〜ん、やっぱり放っておくしかありませんよね。

 

このような性癖の人たちは、いわば「自分マニア」なのです。エゴというものとはちょっと違う。要は、自分について、あまりにも熱心過ぎるのです。いつも自分のあり方を気にし、他人と比べ、未熟で劣っている部分を探し出し、それを責め、自分を決して許そうとはしない。こういう人には、何を話しても、全部、自分を責める道具に置き替えてしまいます。「気づき」というものがないのです。

 

「自分」というものを、自分の部分、たとえば「膝小僧」に置き替えて、考えてみてください。ですから今度は「膝小僧マニア」です。この「膝小僧」は、いつも他人と比べ、劣っている部分を探し出し、それを責め、自分を決して許そうとはしません。これでは「膝小僧」クンが、くたびれ果ててしまうとは思いませんか?

 

そんな風に責めることよりも、信頼し、敬い、いたわって上げることの方が、「膝小僧」クンのためにはずっといいとは思いませんか? 「膝小僧」クンを最もよく活かす道だとは思いませんか?

 

なぜ「自分マニア」に陥ってしまうのでしょうか? それは「関係」の中にこそ真実がある、ということを知らないためなのです。自分がいる。他者がいる。という存在のことしか考えていないのです。ですから、他者をすぐに比較対象と見なしてしまう。けれども、その他者も、他者にとってはやはり自分なのです。つまり、全部が自分です。社会は自分の集合体なのです。

 

みな、自分がより良く生きたいと願っているのです。その自分をハンドリングしているのは自分です。いかに他者の影響を受けようが、最後は自分です。ですから、他者に対して、必要以上に責任を感じたり、比べて思い悩んだりする必要はないということです。みんな、ただ自分を生きているだけなのです。庭の植物を見てください。そうじゃありませんか?

 

けれども、ただ自分を生きているだけの生命の集合体である森にも、ちゃんと秩序が存在します。なぜでしょうか? 生き物どうしの中に、適切な「関係」が営まれているからです。人間の体だって同じでしょう? 各器官が適切な「関係」を保っていればこそ、その人は健康体を保てるのです。

 

「自分マニア」に陥っている人は、果たしてそこを考えたことがあるでしょうか?

 

自分は、ただ自分が生きたいように生きればよいのです。あなたが意識を向けるべき先は「自分」ではなく、「関係」です。あなたから見て「他者」に見える人も、ただ自分を必死に生きている。そこに、どういう「関係」を築くか、「意味」を与えるか。それがあなたのテーマです。そして、それはどうしようと「自由」であり、あなたにハンドリングが任されているのです。

 

良い「関係」を築きたいと望み、自分が良い振る舞いをすれば、良い人が集まってきます。自分がいたわりを示せば、いたわりが返って来ます。微笑みかければ、微笑みが返ってきます。いつも親切であれば、感謝や親切が返って来ます。反対に、怒りを示せば怒りが、憎悪を示せば憎悪が、軽蔑を示せば軽蔑が返って来るのです。

 

さあ、どうしますか? どういう「関係」を築きたいと望みますか? そして望むだけではなく、具体的なアクションを起こし始めたとき、あなたは「自分マニア」の段階を脱します。そして、しばらくしてこう思うでしょう。「あの時、自分は何であんなことにとらわれ、思い悩んでいたのだろうか」と。