by Rainbow School
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「輪廻」は思想ではなくて観察結果
「輪廻」思想という言い方がありますよね。仏教学者でも、時にそういう言い方をされています。でも「思想」というと、そのような「考え方」があるといった意味合いで、本当は定かではないという建前に立っています。ある意味、腰が引けちゃっているわけですね。

ところが腰をグッと入れると、今度は「信じる」という話になってしまうので、それは学問的態度ではない。ということで、学者は「◯◯思想」とか、「◯◯主義」とか、「◯◯派」といった言い方にして、客観性をもって眺めているというポーズを取ろうとするのです。

でも違うんですよ。「輪廻」は思想なんかじゃない。観察結果の報告なんです。

夜空を見上げると月が出ている。毎日観察すると、一定の周期で満ち欠けを繰り返しているのが分かった。それは観察の結果です。それを「月の満ち欠け」思想とか、「月の満ち欠け」主義とは言わないでしょう? 「輪廻」はそれと同じなんです。

同じようなことで、西洋に「グノーシス(Gnosis)」というのがあります。これも「グノーシス主義」とか「グノーシス派」と言って、一つの「考え方」という位置づけにされています。でも「Gnosis」は、ギリシャ語で「智慧」という意味で、要するに「知っているよ」ということなんです。

何を? 宇宙の真理を。これも、観察結果で得た智慧なんです。

ただ、観察方法がちょっと特殊というだけです。通常の五感じゃなくて、六感、七感、八感を使う。ブッダが覚りを開いたといわれるのは、どういう瞬間だったでしょうか? 苦行を止めて菩提樹の下で瞑想をしている時に、人間の過去世を観察して、「輪廻」と「カルマ」の関係を発見したんです。自分の六感、七感、八感を使ってね。

「輪廻」のことは、それ以前にもバラモンから聞いて知っていました。つまり知識はあった。それを今度は自分で観察してみたら、確かにそうだと。しかもそれだけではなくて、「輪廻」と「カルマ」の関係まで理解した。さらに、宇宙の理法(dharma)までも理解した。それがブッダの覚りです。眠りからの目覚めです。

ところが、六感、七感、八感を使う技術というものを、殆どの人は知りませんし、また知ろうともしないですから、「覚り」を「悟り」に置き換え、観察結果を、頭でこねくりまわした「思想」なんだ、という風に置き換えてしまったのです。

そうじゃないんです。難しい屁理屈などいらないんです。六感、七感、八感を使う技術を磨きさえすれば、誰にでもそれが解る。解るんだから「信じる」必要はない。「信じる」必要はないから「宗教」は要らないんです。

この技術を持った人が、少数ながら古代から居て、その人たちはみな同じ「観察結果」を報告して来たのです。ですから、霊的知識というものは世界共通。東洋も西洋もないんですね。近年になってたくさん語られている臨死体験の「報告」も、殆ど同じパターンだというのは、それが「観察結果」だからなのです。

「信じる」のも止める、「思想」にするのも止める。ただただ、自分の霊性を磨けばよいのです。そこに、多くの人が気がついてくれるといいんだけれど。
日本仏教が誤解して来たもの
日本に伝わった仏教は、ブッダの教えではありません。これは学術的にハッキリしていることです。エッセンスを宿してはいるのですが、今日ではブッダが説いたものとは相当違ったものになっています。ところが未だにほとんどの人が、それを知りません。知らないまま、それがお釈迦様が説いたことだと信じて熱心に勉強しています。

別にそれがブッダの教えでなくてもよいのです。有用でありさえすれば。ブッダの教えであるかないかに拘ることは一種の権威主義であり、ブッダだって2500年前の人です。ブッダ以外にもマスターはたくさんおられますし、「真理」というものは、いついかなる時代、場所にも、普遍的に働いているものだからです。

ところが、ボタンの掛け違えのようにして浸透して来た日本式仏教が、もう役に立たなくなって来ているし、むしろ弊害を起こしているとさえ、最近になって強く思うのです。弊害の一つは、「お寺さん」という言葉が代名詞になっているように、仏教がすっかり、葬式と法事の専門請負人になってしまったことです。

ブッダが考えたことは、あくまでも「生きる」ことであって、その中に、いわゆる「死」の解釈の転換というものも含まれていたわけです。つまり、肉体の「死」は終わりではなく、「魂」は永遠であって、人は輪廻転生するということ。そして、なぜ輪廻転生するかについては、深い意味があるということです。

ところが日本式仏教は、葬式仏教に特化する中で、死を悼むとか、死者の霊を弔うとか、「この世」的な視点に立って「死」を考えるという、一般人が行う解釈に引き戻してしまったのです。そして肝心の輪廻転生を説かない。それは一般人ウケするために、商売としては良かったのかも知れませんが、死後の世界、霊的世界についての知識を、相当に歪めてしまいました。

ビッグバン理論が出てきた現在、素粒子物理学が発展した現在、超ひも理論が出てきた現在、大統一理論の完成が近づいて来ている現在、多くの臨死体験者が死後世界を語り出した現在に、未だに「西方浄土に阿弥陀如来様がいらして‥‥」はないだろうと私は思うのです。そんなファンタジーを、現代の人々が信用するのだろうか? 今の人々は、霊的世界の「真実」を知りたいんだと、私は思うのです。

弊害の二つめは、「生き方の智恵」が歪められてしまったことです。日本式仏教では、人生を先ず「苦」と考える。何より「苦」が前提となっているのです。ですから「苦」を乗り越える、人生の辛さを克服するのが悟りへの道だという解釈をする。これが、相当な廻り道を人々に強いることになったと思います。私自身、40年間の廻り道をしました。

この基になったのは、「四苦八苦」と「カルマ」の理論ですが、「四苦八苦」と「カルマ」の理論は、「生き方」を説いたものではなくて、ブッダが人間観察をした際のレポートだったと私は思うのです。「あなた方が感じている『苦しみ』の大本には、実はこういう原因があるのだよ」と、明快に示した。その上で、「生き方」を説いたと思うのです。

ブッダは、最初はバラモンに着いてヨーガを学んでいましたので、ヨーガの行法は体得していました。その上で、さらに苦行を行い、その後に三昧(サマーディ:深い瞑想)に入りました。ですから、よい行いを心がけること、肉体の健康法、呼吸法、心のコントロール法、瞑想行を指導したと思います。ところが、日本式仏教には、それらが殆どないのです。抜け落ちてしまったのです。

その結果、どういうことになったかと言いますと、「『苦しみ』を乗り越えるのが修行なんだ」という考え方を、「生き方」として推奨するようになってしまいました。ですから、今でも僧侶に「苦行」を課す宗派が多いですし、一般人もその延長として「苦しみに耐えれば、先に何かある」と思い込んでいる人が大勢いるのです。

しかしこの考え方では、「人生は大いに謳歌するものだ」というラテン系のノリの人は、けっして悟りには至れないということになってしまいます。そんな馬鹿なことがあるでしょうか? 「真理」というものは人類に普遍的な筈です。それにブッダは、「六年麻麦の行」をしたあとで、「苦行」を明確に否定しています。「苦行」に成果なし、という結論を出して、瞑想行に切り替えたのです。

ところが、そこが理解されていません。「六年麻麦の行」という前人未到の「苦行」をやったという凄さの方ばかりがクロースアップされて、「それを否定した」という事実と意味はスルーされているのです。その結果、「苦しみを乗り越える」という発想の上に、様々な形而上学的な理屈が幾重にもくっつけられて、それが「仏教」だということにされてしまいました。

でも、そういう考え方はもう要らないのではないでしょうか? 現代という時代に合わないと思います。霊的世界についても、古典や神話ではなく、人々は普遍的な「真実」を知りたいと思うようになっていると私は思いますし、同様に「生き方」についても、古典ではなく、現代にフィットした「真理」を人々は求めていると思います。

『虹の学校』は、そうした人々のお役に立ちたいと考えています。
今さら聖書研究などして何になろうか?
聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。今から2500年前くらいを皮切りに、今日「聖人」と言われる預言者が何人も現れて、それらの「聖人」が語った言葉や行動が、周囲の者たちの手によって記述され、それらの一部が聖書・聖典となりました。

その書物が、2000年の時を経て、多くの人に今も読み継がれて来たのは、ひとえに、それらが組織宗教を支える基本原理として位置づけられて来たからです。過去2500年間は「魚座の時代」。つまり宗教が花開いた時代で、それらの聖書・聖典類は、この時代の要請にぴったりと合ったのです。ここを、取り違えてはいけないのです。

「宇宙の真理」を語った言葉は、それこそ星の数ほどもあります。いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャー(語り手)が居て、たくさんの言葉を語って来ました。その中には、注目されたものもあれば、素通りされてしまったものもあります。歴史の彼方に埋もれてしまい、「秘教」の位置づけに置かれてしまったものもあります。

そして今日でも、世界中にたくさんのメッセンジャーが居て、各々の活動をしているのです。みなさんはそのことを知って、今の自分にぴったりする言葉を、お選びになればそれでいいのです。どんな言葉も、今のあなたに響かなければ、それはあなたへの価値あるメッセージとはなりません。「響いた」言葉、それは元々あなたの中にあったものが、その瞬間に耕されたということなのです。

ここを、間違えないようにしなければなりません。しかし人間は、外に頼り、かつ「権威」に弱い。本当は「価値」というものは、自分が認めなければそれは「価値」ではない筈です。それなのに、大勢が支持するもの、大勢が認めるものを「価値」だと思ってしまう。そしてそれに従う。組織宗教は、その人間心理を巧みに利用し、そこに聖書・聖典類を位置づけたのです。

これが、今日に至り大問題となっています。言わずと知れた宗教対立です。各々が、自分たちが崇める「神」のみが正統だと主張し、「神」の名の下に戦争や殺戮や破壊を行っています。同じ起源を持つ宗教内ですら、派閥争いをするという愚かしさ。これらはみな、自分で思考判断することを停止し、「権威」に盲従するようにしつけられた結果なのです。

しかしここで、考えてみてください。「宇宙」は、昔も今も未来もあるのです。もしそこに「真理」があるとすれば、昔も今も未来も、それがあり続ける筈です。いついかなる時代でも、どんな世界であっても、どんな人にでも、普遍性を持つものだけが「真理」です。特定の時代の、特定の組織の、選ばれた人々にだけ作用するものが「真理」の筈がないではありませんか。

聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。しかし同時に、組織宗教が、自分たちの「権威」づけのために、内容を意図的に改竄(かいざん)したり、解釈をねじ曲げたりした部分もたっぷりと含まれているのです。それを知らないまま、「権威」に頼って盲従的にそれらを信じたら、本来の目的とは違ったところへ運ばれて行ってしまいます。

それと、今とは言葉が違うことや、当時の弾圧の影響下で、暗号によって書かれたものも多いのです。そうなると、その暗号を解きたいと思うのが人の常。しかしそこに「権威」が被さっていると、ある句を、人類の未来に関する重大な予言と解釈してしまう誤りが生じかねません。この悪影響が、もの凄く大きいのです。それこそ、世界を破壊しかねない。

これを読んで下さっているみなさんは、これからは一切の「権威」を無視して、ご自分の思考と判断で、数多あるメッセージを取捨選択し、読んでいただきたいのです。いかに「権威」ある聖書・聖典と言えども、みんな One of them に過ぎないと思っていただきたいのです。実際、そうなのですから。

いかなるメッセージにも、「権威」を与えてはならないのです。なぜなら、あなたにとってもっとも重大なメッセージは、すでにあなたの中に有るのですから‥‥。なにゆえ、外に頼る必要があるでしょうか?

「真理」は普遍的であり、普遍的なもののみが「真理」と言えるのです。ですから、いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャーが居て、いつも「真理」の言葉を語っています。今、アセンションの時を迎えて、その内容も一段と濃くなり、多様性も増しています。

今までは暗号のように記述されていたことも、分かり易く示されるようになって来ています。情報革新は何もスマホだけの世界ではないのです。霊的世界でも、情報革新が急激な勢いで進んでいるのです。そのような時代に、何を今さら聖書研究でしょうか?

判じ物(謎解き)のように書かれた古代の書物を研究する時間があったら、今の言葉で書かれたものや、科学や、芸術や、自然に接する方がずっといい。なぜなら、それら全てがメッセージだからです。「権威」を崇める必要もなければ、「権威」に従う必要もありません。あなたは、もっともっと自分を信頼してよいのです。
「正統派」を自認するものにホンモノがあった試しはない
我こそが「正統派」である。このように主張する者が世の中にはゴマンといる。正統な血脈、正統な家系、正統な伝承、正統な師弟関係、正統な教え、‥‥etc.。人々はみな拠り所が欲しく、権威や肩書きに弱いものだから、こういうものにコロッと騙されてしまう。そして、いざそちら側に取り込まれてしまうと、今度は自分が「正統派」を主張するようになるのです。

でも、「正統」というものはそもそも何なのでしょうか。それが「正統」だと決めるものはいったい誰で、何を基準にしているのでしょうか。唯一、それを決められるものがあるとすれば、それは「天」しかありません。ある人間が、もしもそれを「正統」だと決めたのだとしたら、その決めた人間が「正統」かどうかは、いったい誰が決めるのでしょう?

ましてや、自分で自分を「正統派」だと主張して憚らないとは、何事でしょうか。宗教界では、昔からこれが繰り返し行われて来て、「◯◯正宗」(自分たちこそ正しい宗派)を看板に掲げるところも少なくありません。しかし、その発想こそが宗教間の対立、そして宗教戦争を生み出して来たことに、もういい加減気づいてもいいのではないでしょうか。

そもそも、自分たち以外は、邪教、邪宗だと決めつけるその懐の狭さこそが、ニセモノであることを見事に証明しているではありませんか。(ここでいうホンモノとは、宇宙の真理に適っているということ)宇宙の真理は「全部が一つ、一つが全部」なのですから、「正統派」などという区別は意味を為しません。

「◯◯派」というのは、表現形式の一つに過ぎず、元は一つであると認識することの方が、よほど重要なのです。そこに、慈愛、友愛、世界平和が実現される可能性が見出されるのです。

ところが、多くの指導者はこれとは全く逆の主張をし、自分たちのみが「正統派」であって、他は邪教、邪宗だと排斥することに一生懸命になっています。こんな人たちが、はたして指導者と言えるのでしょうか。権威をつくり、権威の中にあぐらをかき、確立した権威を守ろうとしているだけではないでしょうか。

いつの時代でも、ホンモノは「異端」にあったのです。「異端」は自ら「異端」と主張したわけではありません。「正統派」を自認するところから危険思想として排斥され、「異端」のレッテルを貼られたのです。なぜなら、その「異端」は、「正統派」の権威を根底から覆しかねないものであったから。そこにこそ、ホンモノがあったからです。

ということで、みなさんは、自分の眼と耳と頭で、ホンモノを見つけてくださいね。
「清貧」である必要はない
私はどこからどうみても貧乏人です。54歳の時に「もうダメだ、自分は通じない」と実感して、それまでの仕事を捨てる決心をしました。その後はアルバイトで生計を立てようと思っていたのですが、上手く行きませんでした。年齢ではねられてしまって、まずもって雇って貰えない。労働市場の過酷な実態を目の当たりにしました。

「清貧」という言葉がありますよね。自分が「清」であるかは判りませんが、「貧」であることは間違いない。ヒヒーン。他に「貧すれば鈍す」(貧乏をすると、生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる)という言葉もありますが、そうならないように「貧して、ますます鋭す」を心掛けています。略して「貧鋭」。

貧乏というのは、結局相対的なもので、絶対的な貧乏とか、絶対的な金持ちというものはないわけです。お金のない人はないなりに工夫して暮らし、ある人はそれなりに使えばいいだけのことです。私も今はこうですが、お金がある時にはそれなりに使いました。いちばんいけないのは、お金を溜め込むこと。流れをストップさせることです。

お金は、よく血液に例えられます。社会の中で健全に回っている間は健康で、そこに鬱滞、鬱血があると、社会は病気になってしまいます。甚だしい時には、動脈瘤破裂などの症状も起こすのです。

お金持ちというのは、要するに大動脈を担っているわけで、動かす血液量が多いわけです。ですから、それをストップさせたら影響が大きい。全身に血液が回らなくなる。この血液を適切に回すことで、小さな血管にも流れて行き、果ては毛細血管まで行き渡るのです。私などは、さしずめ毛細血管の役割を担っているというわけです。でもこれだって、なければ困る。

結局のところ、それぞれに応じた働きをすればいいのであって、別に「清貧」である必要はない。逆にみんなが「清貧」を目指したら、社会は困ってしまいます。

いま富者である人は、前世で人々を労ったり、施しをしていた経験があって、今世そうなっているのかも知れません。ですから、次に極貧に陥ったりしないように、その恵まれた境遇を活かして、他の人々に役立つようなお金の使い方をすればいいわけですね。残念ながら、そういう人が少ないようですけれども。
「水子の霊」などない

私の子どもの頃は、小学校の高学年から幼児に至るまでの幅広い年齢の子たちが、よく一緒に遊んでいました。そうやって、年長の子が年下の子に遊びを教えていったわけです。その遊びの中で、かくれんぼや缶蹴りなど「鬼」が生じる遊びの時には、小学校に上がる前の子は捕まっても「ミズッコだから」と言って、これを免除されました。

「ミズッコってなに?」と訊いても、「小学校に上がる前の子をミズッコって言うんだ」という答えが返ってくるだけで、誰もその意味を知りませんでした。この「ミズッコ」は、おそらく「水子」の意味だったのでしょう。そして「水子」は、「水に流した子」「見ず子」「未ず子」の意味を含んでいるのではないかと思われます。
アメリカ大統領選挙の争点の一つに、「拳銃の所持」に並んで、必ず「中絶の是非」というものが入って来ます。これらは日本人の感覚からすると奇妙な感じがしますが、前者は武力によって他者を従属させて来た歴史の肯定、後者はアメリカ合衆国がキリスト教国(プロテスタントの一派である清教徒が、迫害を逃れて新天地に移住)であることが色濃く反映しています。
日本では、さすがに「中絶の是非」が選挙の争点になったりすることはありませんが、それでも「水子の霊」の供養をウリにする宗教団体が多く存在します。これは、堕胎や流産に伴う後ろめたさ、本来ならば生まれて来た子を自分は殺してしまったのではないか、という想いを払拭する手段として用意されていると言っていいと思います。
しかしそれは、まさに「想い」の問題、つまり「観念」の問題であって、「水子の霊」など存在しない、ということをここで申し上げておきます。
ここには、「命」とは何であるか、という根本的な問いが隠されていて、一般の人はその知識を持ちません。あいまいにした中で、生と死というものを考えているので、堕胎や流産に対して後ろめたさを感じたり、その延長として「水子の霊」といった概念を構築しているのです。
「命」とは、万物の流転、変化の循環のことを、全部ひっくるめてそう呼ぶのです。自然界はこの循環サイクルにしたがって、ある生物が、次の生物を生かすように使われて行きます。人間が生きるためには、他の生物を殺さなければ生きていけません。また逆に人間の肉体が死ねば、そこに蛆が沸き、分解され、他の生物に供されるのです。
つまり「命」とは、万物そのものであり、「命」の消滅などは決してあり得ないのです。人間に「命」を生み出すことは出来ず、「命」は生物から生物へ形を変えて運ばれるだけなのです。
この「命」を形づくっている要素には、大きく二つがあります。一つはその素となる物質的な要素、これを神秘学では「質料」と言っています。もう一つは、この「質料」によって構成された物質を稼働させるエネルギーで、「根源的生命力」と言っています。この「根源的生命力」が、呼気として入って来るものを特に「プラーナ」と呼んでいます。
息を吸った時に、この「プラーナ」が流入します。「息」はだから「生き」であり、呼吸こそがその生物の活動を支えている根本なのです。
しかし人間は、上記の二つの要素だけでは成り立ちません。ここに「魂」が宿ってこそ初めて人間となるのです(三位一体:さんみいったい)。上記の二つの要素だけがあって、「魂」が離れている場合には、いわゆる植物状態、生物体としての肉体の命は続いているが、精神活動は停止している状態となるわけです。(「魂」が元に戻れば、植物状態からは脱する)
さてそこで、新生児の「魂」は、いったいいつから宿るのかということになるのですが、これには受胎時を主張する一派と、誕生時を主張する一派があります。しかし神秘学が示すところによれば、そのどちらでもなく、最初に息をした瞬間に宿るのです。オギャーと泣いた瞬間に「魂」が入る。ですから、泣かなかった場合は「魂」が入らずに死産となってしまうのです。
中間世(あの世)に居て、次の転生を待つ「魂」は、マスターやガイドと相談して、いくつかの候補の中から次の自分に相応しいボディを決定し、受胎時にその予約をします。そして、予約から誕生まで(つまり妊娠期間中)は、母親に寄り添って、母親を胎教しながらマザーになることを応援するのです。(一般に信じられている「胎教」とは、実は逆なのです)
ですから、何らかのアクシデントによって、赤ちゃんの誕生が無かったとしても、その「魂」は、次の機会を待つだけだということなのです。お解りいただけましたでしょうか。
「水子の霊」などというものは、人間が作った想念の産物に過ぎないのです。
「神」を自分の外に置くことが、なぜダメなのか
“それ”を仮に「神」と呼ぶならば、「神」は自分の内にある。このことは、当ブログで一貫して主張して来たことです。ロシアの文豪トルストイは、同様の主張を胸に秘め、ひっそりと暮らしていたドゥホボルの人々を支援するために1899年に『復活』を書き、1893年にはその名もズバリ『神の国は汝らのうちにあり』を執筆しています。

これらは、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となり、そのせいで政府からは危険人物視され、ロシア正教からは破門にされています。今の時代では、もうそんな迫害を受けることはないでしょうが、政府・社会・宗教の堕落は、今も何も変わっていないと思います。

さて、18日に、イエスが「わたしが、父に至る唯一の道」と語った意味について書いたのですが、それに関連してもう一つの重要なポイントをお伝えしましょう。なぜ、「神」を自分の外に置くことがいけないのか、という問題です。

「神」を自分の外側に置いて、その対象を拝んだり、祈ったりすることは、「神」と「我」とを分離するということに他なりません。「神」を畏れ多い存在と考えた場合には、分離は当然のように思うかも知れませんが、自己の霊性を高めて「神の国」へ至ることを目標とする人にとっては、その道は、遠い道になってしまいます。

そうではなくて、この「分離意識」を失くして一体化してしまえば、道と到達点は一致し、一つになってしまいます。これが、「神」は我が内にあり、という最大の理由なのです。この時の心境、状態を「神我一如」(しんがいちにょ:神と我は一つの如し)と言います。つまり、「神我一如」にたどり着けば、即ゴールなのだということです。

それが解ったところで、イエスが何と言ったかをもう一度振り返ってみてください。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言った。続けて、
「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と言いました。
これが、まさしく「神我一如」を語った言葉であることにお気づきでしょう。
イエスが、「わたしが、父に至る唯一の道である」と語った意味
その言葉は、『ヨハネによる福音書』の第14章にあります。最後の晩餐の席で、イエスがこれから起きる出来事について弟子たちに語った際、動揺したトマスが「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかると言うのでしょう?」とイエスに問いかけます。その答えとして、イエスが次のように語るのです。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」(14章6節〜7節)

実にこの言葉が、非常に大きな問題を孕んでいるのです。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。《父》というのは、キリスト教では「神」の代名詞ですから、イエスは「自分によらなければ、神の国には、絶対に到達できないのだ」と、ここで宣言したわけです。

これが、イエスを「ただ一人の神の子」とするキリスト教においては、非常に強い求心力となり、他方で、キリスト教以外の宗教では神の国へは行けないという、排他主義と独善のバックボーンを形成する理由になったのです。

キリスト教徒たちは、みな「信仰」を土台にして『聖書』を読み、解釈を行おうとします。先ず「信仰」ありきなのです。そのため、キリスト教成立時の歪み、『聖書』編纂時の歪みを一切考慮することなく、「歪み」のままを信じ切って、言葉を捉えようと努力します。これが、今日に続く大きな間違いを生んでいるのです。

イエスはキリスト教の教祖ではない、ということは前にも書きました。ではどういう人物だったのか? 今日の言葉で言えば、チャネラーだったのです。しかも類いまれな能力を持った‥‥。ですから「真理」を、「宇宙の法則」を、私見を交えずに正確に下ろすことができたのです。そのようにして見ると、イエスが「私が、父に至る唯一の道」と語った真の意味が解るのではないでしょうか。

イエスは最初にこう言っています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。このことから解るように、チャネラーであったイエスは、この時「大いなる存在」を自分の中に下ろしているのです。ですから「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。」と言っているのです。チャネラーとしてのイエスと、神とが、もう渾然一体となっているわけですね。

その「大いなる存在」が、「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と、イエスの口を借りて語ったのです。ですからこの言葉は、イエスの傲慢でも、キリスト教だけの選民思想でもなく、普遍的真理を語っているだけなのです。

「道」とは霊性を向上させていく階梯のこと、「真理」とは法則のこと、「命」とは宇宙全体の成り立ちであり輪廻ということ。この三つが全部一つとなった存在が「わたし」であり、「命」の仕組みと「真理」を正しく理解して、愛の人となって「道」を歩むこと以外には、絶対に神の世界には到達できないのだという人類に共通した課題を、その存在がそこで示したのです。

イエスがチャネリングをしていたことは、この章の他の文章からも解ります。
ピリポに語った言葉。
「わたしを見た者は、父を見たのである。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」

イスカリオテでない方のユダに語った言葉。
「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」

素直に読めば、人間イエスがチャネリングをして「真理の法則」を語っているということは、これはもう明らかなのです。それなのに、父と子と聖霊の「三位一体説」を前提として言葉を解釈し、しかも神に父という人格を与え、イエスを「唯一の神の子」と言って特別視したことから、そこで語られている普遍的真理が、大きく歪められてしまったのです。

魚座の時代が終わり、水瓶座の時代となって、これらの歪みが、正されなければならない時期が来ています。

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注:創造神、神、神々について
創造者と被創造物は、必ず一対一の関係として存在します。したがって全宇宙を創造したものも、どこかに居られるはずです。それを一般には《創造神》と呼び、それは論理的に考えて一者です。けれども、この《創造神》が何であるかは分かりません。なぜなら、《創造神》が居るとしたとたん、その《創造神》の創造者が存在しなければならず、パラドックスに陥ってしまうからです。

ですから、一般に《神》と呼んでいる存在は、《創造神》ではないことになります。では何なのか? 非常に高いレベルの霊的存在ということになります。宇宙は多次元(霊性密度)で構成されており、高い波動になればなるほど、人格的なものは消えて行き、それらの霊が合体してより普遍的な、宇宙的な存在となって行きます。

これらの高い霊性を持った存在たちが居る領域を、一般には「神界」と呼んでいて、ここには複数の存在がおられるのです。ですから、一般に《神》と呼んでいる存在は一者ではなく、複数が居る。つまり《神々》を構成しています。我々に話しかけて来る《神》は、これら《神々》の中のどなたかであり、唯一絶対の存在である《創造神》が直接語ることはあり得ないのです。

*もし、《創造神》が自ら語ったとしたら、《創造神》が居るということになり、冒頭で書いたパラドックスに再び陥ってしまいます。

イエスが《父》と呼んでいる存在は曖昧模糊としていますが、イエスを通して言葉を発しているのですから、「神界」に居る《神々》のことを語っていると見られます。またこの「神界」の中も多次元構造になっており、たくさんのレベルの違う霊たちが居るということを付け加えておきます。
それ(=神)の人格化という誤解が起こった理由
世界三大一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同一の神を仰いでいます。これは奇妙に思われるかも知れませんが、神は一つと言っているわけですから、同一でないとすれば論理的に矛盾します。ですから仰いでいるものは基本的に同じです。ただこの三者は、成立年代の違いによって解釈や戒律が異なっている。その結果として、今日に見られる近親憎悪のような関係になってしまったのです。

三者の中で、一番古いユダヤ教では、神のことを四文字のマントラで表しました。マントラというのは聖なる語ということですが、このヘブライ語の四文字を、英語のアルファベットに置き替えたものが「YHVH」です。ヘブライ語の発音では、「ヨッド・ヒー・バウ・ヒー」と読みます。

この四文字には、見て分る通り、母音が含まれておりません。口に出すのも憚れるほど恐れ多いものであるということから、これを発音しなかったのです。そして、この四文字のことを「テトラグラマトン(Tetragrammaton)」と言ったのです。さてテトラという文字が含まれていることから、これが三角形を意味していることがお解りでしょう。

YとVを底辺に置き、これに高さとしてHを置いてみてください。
三角形が出来上がるでしょう。三角形の意味については以前にも書きましたが、正三角形△は「この世」の意味(一点から陰陽二極に分かれて物質世界が出来上がる)、逆三角形▽は「あの世」の意味で、あちら側が「眞(シン・マ)」の世界。両者を合わせると六芒星✡(ダビデの星)となります。

さてこの三角形を底面として、もう一つ高さHを加えてみてください。平面が立体となり、正四面体が出来上がりますよね。これが「テトラグラマトン」です。四つの頂点と、四つの面を持つ立体で、全部の面が三角形で構成されています。正多面体には五種類がありますが、その中で正四面体は最少の辺と面と頂点で出来上がっています。つまりこれは基本中の基本の形なのです。

四という数字は、四方(十字)を表し、また自然界を構成する四つの基本的力(重力、電磁力、強い核力、弱い核力)を意味しています。これらことから、「テトラグラマトン」は、完全なる宇宙を表現したものとしたのです。(注:四つの力は、現代物理学による発見ですが、言葉は違うものの、古代より四つの力については分かっていた)

さらに言うと、三角形の3と、四面体の4から、3×4=12となり、これは天界の十二宮を表しているのです。

このような意味を持つ、「聖なる四文字」なのですが、母音がないので発音ができません。そこでユダヤ教の聖職者たちは、これに代えて「Adonai(主)」と言っていたのです。それを聞いた翻訳者たちが、「Adonai」の中に含まれる母音「aoe」を、「YHVH」に付け加えて、無理やりこれを読み下したのです。それが、

Yahveh(ヤハウェ、ヤーヴェ)または、
Yehovah(エホバ)

です。今日、英語表記では、前者は Yahweh または Jahveh、後者は Jehovah と表記されることが多いようです。ですから、ヤハウェもエホバも、人工的に作られた神の名だということですね。

このようにして、元々は数学によって「法則」の精緻さを表していた「テトラグラマトン」に、名前が付与されたことによって、人格的な意味が発生したのです。そしてこれが、後のキリスト教にも受け継がれ、父なる神と、唯一の子イエスという関係が作られていったのです。
キリスト教がもたらした弊害(2)
私は、大きく次の四つの問題点を指摘したいと思います。

(1)神を法則ではなく、父(人格神)にしたこと
(2)天使と悪魔という二元対立論を強調したこと
(3)原罪論を持ち込んだこと
(4)他力信仰を奨励したこと

これらは、教会と僧侶に権威づけをし、宗教を広めるためにはどれも非常に有効な優れた戦略であったと言えます。だからこそ、世界の3分の1の人々に浸透したわけです。しかし逆に言えば、非常に多くの人々が、キリスト教の「教義」の洗脳下に置かれてしまいました。欧米人の間では、あまりにも長く、かつ深く浸透したために、この洗脳を解くのがとても難しい状態にあるのです。

ではこの四つの何がいけないかを順番に見て行きましょう。

先ず(1)の《神を法則ではなく、父(人格神)にしたこと》については、「法則」という視点に立てなかった、つまり「真理」に迫れなかったということだけではなく、そこに人間的な「情愛」というものが持ち込まれてしまいました。それは、感情というものを持つ人間には合っていたのですが、「沈黙する神」【注1】という問題を解決できずに、却って苦悩をもたらしました。

キリスト教教会内部の荘厳な雰囲気、あまりにも美し過ぎる演出の数々は、「父に対する愛」という人間的な感情を美化するためには、非常に都合がよかった。しかしそれによって、「法則」の普遍性というものが顧みられなくなってしまったのです。

エッセネ派の人々は、荘厳な神殿を持ちませんでした。洞窟で、あるいは道端で、話し合っていたのです。いつでも、どこにでもあるものだけが「真理」であり、教会に行かなければ出会えないようなものが「真理」であるはずがありません。「法則」こそが「真理」であり、ですから答えはすでにあるということなのです。

(2)の《天使と悪魔という二元対立論を強調したこと》の弊害については、言うまでもありません。これが「神」の名の下に戦争を行うという、今日に続く大問題の下地になってしまいました。

天使と悪魔というのは、「観念」を象徴化したもので、そのベースにあるのは、利他愛と自己愛の対立なのです。これは誰の中にも共存している事柄です。ところが、自己を天使側、つまり「善」なる者と位置づけ、自己以外を「悪」と見なす極端を行った結果、「悪」を叩くことが「善」を浮上させるという独善を生み、戦争そのものを肯定してしまったのです。

世の中に、しじゅう悪巧みを考えている人というのはおります。しかし、詐欺に心を動かされる人が一人もいなければ、詐欺師というものは成り立ちません。悪というものは、見たい人が見るということです。認めなければ悪はないのです。悪を認めることは悪に力を与えることであり、善悪二元論はこの誤りを強調してしまったのでした。

さて(3)の《原罪論を持ち込んだこと》を説明する前に、「原罪」とは何かについて話しておかなくてなりません。

「原罪」というのは、人類というものがそもそも「罪」を背負った存在だとする考えです。この「罪」とは、神に対する不従順ということで、人類の始祖とされるアダムが、禁断の木の実を食べて楽園を追放された。アダムは始祖ですから、よって人類すべてにこの「罪」が及んでいると見なすのです。

この「原罪」論が、戻るべき天国に対する渇望、ひいては教会への帰属意識を掻き立てたことは言うまでもありません。

しかし、「真理」を言えば、罪も罰も宇宙にはないのです。いったい宇宙は誰が創ったのでしょうか? それは解りません。しかし、創造者と被創造物が一対一の関係で成り立つ因果律を考えれば、やはり宇宙を創ったものがいるはずであり、それは論理的に考えて、一者です。ただ一つの存在です。【注2】

その同じ一つが、罪と罰を創るものでしょうか? 何のために罪と罰が必要なのでしょうか? 罰を与えたいために罪を創ったというのでしょうか? それは、それほどイジワルな存在なのでしょうか? 論理的に考えてあり得ません。ましてや、なぜ罪を背負った人間をわざわざ創り出す必要があったというのでしょうか?

少し考えてみれば、これほど馬鹿げた教義はないのに、世界中のキリスト教徒たちが、このおかしな論理に嵌められてしまった。自分は「原罪」を背負っている。やることなすこと上手く行かないのは「原罪」のせいだ。この、本来なくてもいい蓋を自分に被せて、過去どれだけ多くの人が道を迷ってしまったことか‥‥。

(4)の《他力信仰を奨励したこと》。これまで見て来た三つは、どれも教会とその組織への帰属意識を深めることになったのですが、その副産物として「他力信仰」の考えが徹底されて行きました。父なる神に祈る。そしてその神によって自分を引き上げて貰う、という「他力信仰」です。

確かに、最後の最後は「他力」なのです。また、宇宙のすべては「一なるもの」によって創られたのですから、我々がその手のひらの上にあるという意味では、「絶対他力」であるということも間違いではありません。しかしそれが「自力」を否定したり、おろそかにするものであってはならないのです。

「自力」あっての「他力」、「他力」あっての「自力」なのです。もし「他力」だけでよいのであれば、いったい何のために肉体を持ってこの世に誕生したのでしょうか? いったい何のために、苦悩を味わわされるのでしょうか? 試練というものは、それを乗り越える「学び」としてあるのであって、それは「自力」で取り組めということなのです。

「もっと苦しめ」ということなのです。必死に祈ったら、苦しみを解いて救い上げてあげるよ。果たしてそれが「愛」でしょうか? その苦しみを自分でよく考えて乗り越えろ。それこそが、もっと大きな「愛」だとは思いませんか? それは、どちらに「成長」があるかを考えてみれば、すぐに解るはずです。

以上、キリスト教がもたらした四つの弊害について書いて来ました。日本人にはあまり馴染みがないことですが、世界は未だにキリスト教の強い影響下にあって、この弊害をどう乗り越えるかは、人類全体にとっての大きな試練でもあるのです。今後起きるであろう世界の動向を、そのような視点で見ていただければ幸いです。(了)

【注1】沈黙する神:必死に祈ったり、お願いしたりしたとしても、自分の望むものが得られない、回答がないという問題。

【注2】論理的に考えて一者:宇宙を創ったものがもし二者だとしたら、互いに半分の宇宙しか創っていないのですから、それは真の創造者とは言えません。ですから二者を創ったさらに上位のものがいるということになり、結局それは一者でしかあり得ないのです。神秘学では、それはロゴス(LOGOS:理法)だと教えています。