by Rainbow School
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ひっくりカエル
今日は、部落のお祭りです。この日のために5日間、産土神を祀ったお宮さんの清掃と草取りを続けて来ました。一面に苔が生えたところがあって、その中の草を抜こうとすると、苔が持ち上がり、中からミミズが這い出して来ることがあります。最初は「うわっ」と思ったけれど、だんだんと慣れていきました。

そんなことが続いてしばらくしたとき、いつものように草を抜いていたら、「うぎゃー」という赤ん坊の泣き声のような声を聞いてびっくり! 見ると、4センチくらいのカエルが苔の下から飛び出して、腹を上にしてひっくり返っているのです。どうやら、冬眠していた寝床を、私が勢いよく持ち上げてしまったようです。

ところが、このカエル、腹を上にしたままグーグー眠りこけていてピクリとも動かない。気温は6℃。まだ活動できないのかも知れませんが、だったらあの「うぎゃー」の一声はなんだったの? 春眠暁を覚えずと言うけれど、よっぽど眠かったんだね。ゴメンゴメン。

上下を返して、苔の中に戻してやりました。これで無事、彼も寝床にカエル。
めでたし、めでたし。
天災を心配したところでキリがない
天災も人災も、起きる時には起きます。人類の歴史をたどってみれば、それは明白です。起きない方がむしろおかしい。なぜなら、すべては変化しているから。地震だって、火山の噴火だって、台風だって、地球が生きていて活動しているのですから、その表現としてそれは起きます。起きたことの中で、自分たちにとって都合が悪いことを、人間が「天災だ」と言っているだけです。

世界各地で地震が頻発していることから、明日は我が身かと、心配されている方もおられるでしょう。中には、心霊的な予知に関心を集中させている方もおられるかも知れません。しかし、以前にも書きましたが、高い霊性を持った「魂」は、そのような予言を決して行いません。なぜなら、人々の不安をそこに集合させることになり、それが本当に実現してしまうからです。

想念というものはエネルギーです。このエネルギーが一つのイメージに集中すると、それは巨きなパワーを持って、この世を、現実化の方向へと動かします。地球でいま起きている現実は、地球という生命体と、人間の想念の集合および活動が、共同して創り上げている結果なのです。

「やっつけてやろう」と思う人が多くなれば戦争が起き、「奪い取ってやろう」と思う人が多くなれば環境は破壊され、「心配でしょうがない」と思う人が多くなれば、天変地異、事件事故、病気が頻発します。反対に、「みんな仲よく、分かち合って、平和に暮らそう」と思えば、そういう社会が実現します。地球人類は未だヨチヨチ歩きであり、今は、そのせめぎ合いの状態にあります。

なぜ天災を心配するのでしょうか? ここに、サバイバル(Survival)ということに関して、重大な誤解があるのです。人間がこの世に誕生した目的の一つは、「生き残り」にあります。しかしその「生き残り」は、生き残るプロセスを通じて、どのように生きるかを体験することにあるのです。つまり「生き方」の選択です。ただ生き残るのではなく、どう生きるかが課題なのです。

生死のことを言えば、「魂」に死はないと何度も言っているように、一つの人生は、輪廻転生の中で繰り広げられる壮大なドラマの中の、一バージョンに過ぎません。その中には、戦争で殺されたり、癌で死んだり、天災で生き埋めになったりすることもあります。その時に、その瞬間を「どう生きるか」が、あなたという「魂」の今度の体験なのです。

天災を心配して、「何がなんでも生き残ってやる」「他人を押しのけても、自分だけは生き残ってやる」そう考えるのも一つの生き方です。もしもの時があったら「何よりも、子どもを助けよう」そう思うのも一つの生き方です。船やホテルが被災した時に「自分のことなどどうでもいい。先ずはお客さまの安全誘導だ」と考えるのも一つの生き方です。何を選ぶかは、あなたの自由。

瞬間々々をどう生きるかということが、真の「生き残り」の意味であり、その選択が、明日のあなた、未来のあなたを創るのです。そこに「愛」の学習があるのです。

お解りでしょうか?
「天災」というものは起きます。むしろ起きなければおかしい。いつ訪れるか分らないその日をめぐって、心配するのも、楽観するのも、あなたの自由です。

さて心配して生きますか? それとも楽観して生きますか? あなたはそのどちらでも自由に選ぶことができます。
そしてその選択に応じた結果を、願望通り、あなたは手にすることになるのです。
コンピュータがフリーズ(凍結)!
私は、iMacというコンピュータを使っているのですが、これが頻繁にフリーズしてしまうのですね。フリーズというと、コンピュータの世界では固まって動かないことをそう呼ぶわけですが、私の場合はそうじゃないんです。文字通りFreeze! 凍結してしまって立ち上がらないのです。

最初にこの症状が出た時には焦りました。何しろ、このブログを書くことが日課になっているので、休むわけにはいかない。でも、コンピュータは立ち上がらない。マニュアルに書かれている裏技などを試してようやく回復させたのですが、ちょっと油断するとまた同じ症状が起きる。

何度か学習を積み重ねた結果、室温が3℃を下回ると凍るということが分った。たぶん、ハードディスクのオイルか何かが凝結してしまうのじゃないのかな? それとも、私が買ったパソコンがハズレだったのか。それで、究極の裏技を遂に編み出しました。パソコンをコタツの中に入れて暖める。これで立ち上がりました。

一昨日からの雪で、外は銀世界。この雪がイヤでイヤで東京に行って生活するようになったのに、今は、生まれ故郷よりもさらに雪深い奥地に来てしまいました。これも、追体験せよということなのかな?

自分が子どもの頃は、温暖化もまだ顕著ではなくて、雪がたくさん降りました。暖房は火鉢に練炭ゴタツのみ。とにかく寒かった。自分は冷え性だったので、夜は眠れませんでした。

冬景色を見ると、なぜか死んだ親父のことを思い出します。親父はもっと雪深い山村出身だったので、冬の過ごし方のノウハウを持っていました。親父というのは、家族の中ではバカにされる存在だと思うのですが、冬になると親父の足の親指がキュッと縮こまり、ベタ足をなるべく床に着けないようにして歩いていて、それをからかわれていました。

雪深い山村で少年時代を過ごした親父。昔の人は凄い根性をしていたな、と思います。東京オリンピックが開かれた1964年以降は、急に物質的に豊かになって、今の自分も、電気ゴタツはあるし、ハロゲンヒーターが一台ある。移動用に軽自動車もある。(全部中古品)

できるだけ「根性」を叩き直したいけれど、へなちょこ故、もう少ししたら山を降りるつもりです。
時には、大自然に帰ってリセットしよう
心の悩みを抱えて、どうにもならなくなった人が、よく山や海へと足を向けることがありますよね。中には、そこで死んでしまおうと考えている人もいる。でもたいていは、みんなこんなことを呟く。

「大自然の景色を眺めていたら、クヨクヨ悩んでいた自分が、いかにちっぽけな存在で、なんでこんなことに悩んでいたんだと急にバカらしくなって来て、気持ちがスッキリした。」

これは不思議でも何でもないことで、山で暮らすようになってから、私にはなぜそういう心境になるのかということがよく解るのです。

これは、自分が自然の一部なのだということに気づいたんですね。雄大な景色を眺めている時には、一種の瞑想状態、祈りと言ってもいいと思いますが、宇宙と一体化していくトランス状態に、人は自然となっていくんです。それは「魂」本来の姿が動くからなんです。

そうなった時に、都会で生活していて、日常あれこれと考えていることが、実はマヤ(幻影)に過ぎなかったんだと気づくのです。そのマヤに、いつの間にか取り込まれてしまい、本来の自分を見失っていたと。

何も持たなくていい、そのままでいい、生きているだけでいい。大自然の景色はそれを教えてくれる。

しかしその一瞬の忘我を離れて、都会に戻れば、また以前のマヤの世界で生活しなければなりません。でもそこで、今度はこう考えることができます。マヤの世界は自分への課題としてあるんだと。

そこには、あなたが今世乗り越えなければならない課題が、一つまた一つと示されていきます。ですから、このマヤに埋没するのではなく、それを客観視して取り組み、乗り越えて行く。そこに意義があるということが解るはずです。

ですから、どうにも気持ちがスッキリしないという時には、自然の景色を見に行くといい。大自然の中に立ってリセットすれば、また勇気が沸いて来ますから。
可哀想なテディ・ベア
私の住む山の家の周りには、どうもいろんな動物が出没しているらしい。「らしい」というのは、自分が直接目撃したことがあまりないから。でも朝起きてみると、残飯を埋めた穴をほじくり返した跡があったりして、何者かが来ていることは間違いない。それにしても、その嗅覚の鋭さには驚かされます。

その犯人はいったい何だったのか? 今までにイタチと鹿と猿は見ましたが、イノシシやタヌキやクマにはまだ出会っていません。同じ集落の人に聞いたのですが、最近その人の家の庭にクマの足跡があったそうです。山が荒れて食べ物が少なくなったので、民家の庭先までやって来ているのですね。

人間はそれらの動物を一括して「害獣」と呼び、「害獣駆除」などと言っているのですが、彼らにしてみたら、きっと人間こそが「害獣」に違いありません。なにしろ、自然環境破壊の親玉が人間なのですから。

ところで、ずっと都会で生活していた自分にとっては、どの動物も珍獣に思えるのですが、その中でもとびきりの珍獣が地元の人たち数名によって目撃され、話題になりました。

その動物は大型で、体調は2メートルくらいあり、ずんぐりして真っ黒い毛に覆われていたそうです。ところが頭部だけが鮮やかな緑色をしており、耳や目がないというのです。

この珍獣があちこちに出没し目撃されたのですが、まもなくしてそれが何であるかが判った。ある方の庭先に置いてあったコンポストが無くなっていたというのです。どうやらその珍獣は、エサを求めてコンポストに首を突っ込んだクマさんだったようです。コンポストがガッチリ首にはまり込んで、抜けなくなっちゃったんですね。

その姿を想像したら、滑稽だけれども、哀れというか、可哀想というか。緑色のコンポストをエリマキにしたテディ・ベア。エリマキトカゲならぬ、エリマキクマさんです。

これじゃあ、視野が狭くて不自由だろうなぁ。まるでブリンカー(遮眼帯)を付けられた競走馬のようだなぁ。だいいちその格好で、捕食ができるのかどうか。獲物を見つけたと思って仕留めても、コンポストの枠に引っかかって口まで運べないんじゃないだろうか。と、色んな心配をしちゃいました。

南洋のペンギンや海鳥たちの中には、海を漂流するプラスチックゴミを、エサと間違えて飲み込み、死んでしまう個体も多くいるそうです。コンポストグマの出現は、その陸上版なのかな? 今の社会の縮図だな。
ああ、おまぬけシリーズ
外に出ようと思って玄関に行ったら、長靴が見当たりません。「ハテ、どこに置いたかな?」と考えて、ハタと気がついた。昨日、床を貼る工事をした時に、縁の下に置きっぱなしにしちゃったんだ。あーあ。何年後か何十年後に、床をめくることになった人が、クスッと笑って「バカだね」って言うんだろうな。

インターネットで注文したガラスが届きました。注文の度に送料が掛かってしまうので、この際、破れている窓ガラス全部を入れ替えようと、慎重に寸法を測って一挙に注文しました。荷をほどいて、さて一枚目を入れようとしたらまるで入らない。厚みが全然違うの。ガラスの厚みは4ミリが標準と思い込んでいて、まったく計算に入れていなかった。注文した全部がパー。

トイレと洗面所の排水用の穴は、壁から何ミリと決まっている。と、大工さんが教えてくれた。それを計算して穴を開け床を貼った筈なのに、設備屋さんが来て「寸法が足りないよ」と言う。ええっ? 途中で大工さんが交代したのですが、後に来た人が壁を想定以上に厚く作ってしまったのです。もうどうしようもないから、せっかく貼った床を切って管を移動するハメに。あちゃー。

こんなことの連続でメゲる、メゲる。
知り合いに「今は山奥の過疎の村で暮らしている」と言うと、大抵は「あらステキねぇ」という言葉が返って来て、大自然に囲まれた、快適で楽しいリゾートライフのようなものをイメージされちゃうんですが、そんなんじゃないんだってば。

水をどうするか、食料をどうするか、ウンチをどうするか、雨漏りやすきま風をどうするか、抜けた床をどうするか、土壁の落ちたところをどうするか、水道の凍結をどうするかという、毎日が闘いなんだってば。確かに星空は素晴らしいよ。でも、猪、キツネ、イタチ、タヌキ、ハクビシン、ネズミ、蛇、猿、鹿、熊との闘いなんだってばさ。

蝶やトンボやてんとう虫ばっかりじゃないんだよ。巨大な蛾、毛虫、カメムシ、カエル、ミミズ、便所コオロギ、バッタ、蜘蛛、熊ん蜂、アブだらけなんだよ。

でもそれが、山奥で生活するってことなんだよね。一泊二日の温泉旅行に来ているわけじゃないんだから。今はまだメゲる日もあるけれど、ちょっとずつでも前に進んでいるって信じたい。そして全部を楽しめるようにしたいな。でもまだ最大の難関が残っているぞ。零下15度、2メートルの雪に囲まれた冬の暮らしが、未体験ゾーン。
太陽のありがたさ
紅葉の季節となり、朝晩がかなり冷え込んで来ました。春と秋とを比べると、何か同じようなイメージがありますが、実際の気温は秋の方がずっと暖かいんですよね。でも秋は冬に向けて下っていくイメージがあるし、春は夏に向けて昇り調子のイメージがあるので、同じように感じてしまうのでしょうね。

運動会の日は晴れだったのですが、太陽が雲の陰に入った途端に肌寒く感じ、再び顔を出すと周囲がパーッと明るくなって暖かい。その差が歴然としていることに気がついて、太陽って凄いなぁ、ありがたいなぁ、としみじみ思いました。

今は、晴れの日の朝には、自分が「球天法」と名づけた呼吸法を、戸外で日の光を浴びながらやっています。ところがその私も、10年前には、太陽をできるだけ避けた生活をしていたのです。持病のアトピーのこともあったし、紫外線の害ということが当時あちこちで言われ、それをすっかり信じ込んで神経質になってしまったのです。

外出する時には、まさに「日影の道」ばかりを選んで歩いていました。これが、神経症と鬱に拍車をかけた。ますます紫外線を気にするようになり、日の光を浴びることをすっかり忘れてしまって、鬱がどんどん悪化しました。神経症がひどい時には、ふとんの中にある自分の手の位置が気になって眠れなかった。

今も外出する時には帽子を被っていますが、以前のように太陽を悪者扱いすることはもうなくなりました。それは知識として、太陽が放射するエネルギーの重要性を知ったからです。

人間を生きながらえさせてくれる根本は、結局のところ太陽エネルギーです。太陽がなければ寒くて人は生きて行けないし、周囲にあるものだって見えません。食物だって、太陽エネルギーを固定したものですから、食べるということで間接的に太陽エネルギーを貰っているわけですね。

自分がしてきた間違いを思い起こすと、世の中に溢れている情報は、紫外線の害を強調し過ぎだと思います。それは美容関連グッズを売るための戦術なのでしょうが、そのために、太陽のありがたさを忘れるようであっては、本末転倒だということですね。

朝昼夕に、太陽と会話する時間を持つといい。左手の手のひらを頭上に掲げて三回深呼吸する。その際、息を吸うのに合わせてつま先立つようにします。手のひらに、スーッと涼しいエネルギーが流れ込んで来るのが分るはずです。
『Powers of Ten』の着想 ---- イームズ夫妻と大橋正雄さん
インテリアに関心のある方なら、イームズ夫妻という名を聞いて、「イームズチェア」を真っ先に思い浮かべられることと思います。これは1950年に、プラスティック素材を用いた世界最初の大量生産品として作られた、簡易な椅子です。シンプルで飽きのこないデザインであることから、現在も非常に人気があります。

大量生産というと、粗悪品を思い浮かべられるかも知れませんが、この時代は工業化に大きな夢があった時代で、イームズ夫妻はマスプロダクションのシステムと、生活を革新させる優れたデザインのコラボレーションというものを着想したわけです。日本でも同様の試みをした優れたデザイナーとして故柳宗理さんがいます。

このイームズ夫妻はフィルム・メイカーとしても知られ、これも優れた着想によって、革新的かつ実験的な映像作品を数多く残しています。その代表作として知られているのが『Powers of Ten』です。この作品についてはとりわけ執着があったと見えて、最初のパイロット版から、モノクロ版、カラー版と、全く同じコンセプトでブラッシュアップを図っています。

私は、このモノクロバージョンを今から50年近く前に見て、度肝を抜かれた記憶があります。コンピュータ・グラフィックスなどなかった時代に、光学的処理だけでこれを創ったのですから、もの凄い執念だと言えます。

さてこの『Powers of Ten』の「Ten」とは、「10」のべき乗(累乗)のことを意味しています。10×10が2乗、10×10×10が3乗です。10×1/10はマイナス1乗となります。これは、非常に広大な距離を表したり、逆に極微の距離を表したりするのに便利で、「0」をいっぱい書かなくても済むんですね。ま、とにかく、映像を観ていただければ意味が解ります。


最近になって、私はこの映像が、ヘルメス文書の「下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し」を、まさに映像化したものであるということに気づきました。この言葉は、宇宙というものが、極大から極小まで相似形で出来ていることを語っています。別の言葉で言えば、ホロニック構造です。

以前に、人体はマイクロコスモス(小宇宙)であるということを書きましたが、それも同じ意味です。『Powers of Ten』では、公園で寝ころがる男性を出発点に、先ず10倍、また10倍と拡大して行き、いったん戻ったあとに今度は10分の1、10分の1と縮小して、原子レベルまで迫っていきます。(この作品が発表された当時は、クォークの発見がまだなかった)

そしてこれも驚くべきことに、同時代に、同じ着想を持っていた日本人がいたのです。それが故大橋正雄さんです。大橋正雄さんは電電公社に勤めていたサラリーマンで、民間の一研究者でしたが、物の大きさと振動数との関係をべき乗のグラフに乗せて、イームズ夫妻と同じく、極大から極小までプロットし、それらが一直線に並ぶことを発見しました。

今は完全に忘れ去られた存在となっていますが、この着眼は、もっと評価されてしかるべきものだと私は思います。とにかく、このようにして日米のユニークな着眼点を持った人が、共にヘルメス文書に書かれてある言葉を別の形で表現しようとした。これは偶然ではなく、二人とも、同じインスピレーションを受け取ったのだと私は思います。
過疎の村の運動会
何十年かぶりに運動会というものに参加してきました。赤く色づいた木々の先には、深い緑に縁どられた山の稜線が見え、真っ青な空が広がっています。まさに秋晴れとはこのことか、と思わされる清々しさです。ときおり赤とんぼが、スーッと近寄って来て羽を休めます。

「市民運動会」という名称になっているのですが、小学校、中学校との合同運動会です。中学生は今や27名、小学生は30名しかいない。生徒数が少な過ぎて、どちらも単独では運動会を開けないのです。そこで大人も子どもも一緒の運動会です。参加してみて、まあ却ってこういうのもいいかな、と思いました。

私はジャンケンリレーと玉入れと綱引きに出て、ジャンケンリレーでは相手を9回阻止し、特別賞を貰いました。商品はペットボトルのお茶でした。綱引きは四チーム中の最下位で、総合得点でもビリッケツでした。他に応援の旗振り役と、号令役を一回頼まれ、それなりにこなしました。

ウルトラクイズというのがあって、第一問目「この地区の総戸数は700戸以上である。○か×か」に私は○と答え、一問目であっさり敗退。総戸数は699戸だというのです。私はまだ住民票を移していなかったので、私が移せば700戸になったのか、と考えました。冒頭、会長さんの挨拶があったのですが,10年前と比べて人口も800人くらい減ったそうです。

過疎の最大の原因は、働く場所がないということでしょう。自然環境のことを考えたら、こういうところに住みたいという人は、それなりに居ると思うのです。でも、結婚して家族を持って生活するとなると、子育て期間中の人は、どうしたって安定収入というものが重要な要素になってくる。だから、若い世代がどんどん流出してしまう一方で、流入して来る人は、私のような物好きしかいない。

ではなんで昔の方が人口が多かったかと言えば、別にこの地に大きな産業があったというわけじゃない。一つには、生活に今ほど「金(カネ)」が必要な時代ではなかったということがあると思う。生活の基盤は衣食住ですが、自給自足がベースだったので、カネをそれほど必要としなかったのです。

ところが今は、先ずカネです。カネ、カネ、カネ。とにかくカネが無くては生活できない、という世の中をつくってしまったし、人々はそう思わされている。私は5年ほど前にこれに疑問を持ち、カネのことを考えないようにしたら一体どうなるのだろうと実験を開始しました。でも今もって生きているし、確かに貧乏人ではあるけれど、別段ミジメという感覚は全くありません。

もう一つは、山を上手に利用する生活をしていたから、山の生活が成り立ったということです。考えてみれば当たり前のことです。植林し、木を育て、それを製材加工する。あるいは炭を作る。その結果、山もきちんと手入れされるので、春には山菜、秋にはキノコがどっさり採れる。それらの各々に、やるべき仕事があったということです。

ところが、今はこれらのサイクルが根こそぎ破壊されてしまって、全体が成り立たない。山は豊かさを失くし、獣が里に下りて畑を荒らす。山林の所有者は、林業収入が得られなくなったので、山を林野庁に返す。その林野庁は、税金で山の管理をしなければならないわけですが、これが行き届かない。長野県では、委託した民間業者が100億以上のカネをネコババして大問題となっている。

といった具合で、すべてが悪循環のサイクルに落ちている。国は内閣府に少子化対策担当特命大臣というのを置いているわけですが、少子化の部分にだけスポットを当ててもどうにもならない。問題は、循環型の生活スタイルを捨てさせ、カネが全てを支配する社会にしてしまったことにあると思う。これが、生きにくさを生み、未婚者を増やし、出生数を減少させていることの根本です。

「風が吹けば桶屋が儲かる」式になってしまいますが、林業を再生すれば子どもが増える、と私は直感します。運動会の子どもたちを見ながら、そんなことを思いました。
経済成長と環境破壊
ローマ教皇フランチェスコ一世が国連総会の場で演説し、環境問題と戦争の終結に向けて国際社会が力を合わせるように要請しました。国連総会の演説ではロシアのプーチン大統領に並ぶ人気だったようです。キリスト教にもいろいろと問題はありますが、何といっても世界の3分の1がキリスト教徒なのですから、その事実を否定出来ませんし、これがよい方向へ寄与することを願って止みません。

環境問題について、教皇は本質的なことを言われました。人間も環境の一部だということと、人間を含めた生物は相互依存によって成り立っていて、この関係を破壊してしまえば、人間も生きられないのだということです。ところが現実は、その本質を無視して、環境資源の乱獲と破壊とがとめどなく続いています。戦争もその破壊行為の大きな一つです。

その根本原因を、教皇は、人間が持つ利己的性質、物質的豊かさへの欲望、権力を持つことへの執着にあるとしました。私もその通りだと思いますが、重要なポイントは、権力者というものはその権力基盤を整えるために、大衆を扇動して、自分たちが君臨しやすいような価値観に大衆を洗脳してしまうということです。

その時のテクニックが、まさに利己的性質と物質的豊かさへの欲望に訴えるという手段を取るのです。お金や物をたくさん持っている人間が豊かだ。エリートとして人の上に立つ人間の方がエラい。競争に勝利し敵を粉砕すれば平和と幸福が訪れる。これらは全て、真の「幸福」実現とは真逆なのですが、大衆をそのような価値観で染め上げて行くのです。

それは、彼らが無智のために、真の「幸福」とは何かを知らないだけでなく、そうすることによって、自分たちが頂点に君臨する基盤が整えられるからなのです。つまり、そうした価値観に、もっとも洗脳されているのは、他ならぬ彼ら自身だということです。

さてそこで、お気づきいただきたいのは、今の社会を牛耳るこうした価値観では、たくさんの敗者、敵、貧困者、精神的弱者が、必然的に生み出されてしまうということです。彼らは「全員が豊かさを目指せ」と扇動するのですが、そんなことは不可能です。たくさんの貧困者がいるからこそ、一握りの大富豪が成り立つのです。このカラクリに気づいて欲しい。

「株をやって儲けよう」と言う。でも誰かが儲けた裏側には、同等の損を被った人間が必要なのと一緒です。「年末ジャンボ宝くじを買って○億円!」というのも、そういう数名のラッキーな人を生み出すためには、大勢の、小遣い銭のボッタクリに合う人が必要なのと一緒です。

政治的指導者、経済的指導者で「経済成長」を言わない人が果たしているでしょうか? もの凄い人口を抱える中国、インドが「経済成長」したおかげで、環境破壊が加速度的に進行しています。北極、南極、氷河の氷が急速に溶け出している。それでもまだ彼らは、馬鹿の一つ覚えのように「経済成長」を言い、株価に一喜一憂している。

ジョン・レノンがかつて言ったように、まさに「世界は狂人によって操られている」としか言いようがありません。人類がこれから必要としている指導者は、「経済成長を目指さない」「縮小均衡を目指す」「循環型の社会構造を創る」と、ハッキリ言う人間です。そういう人間が指導者にならなければ、今の人類と地球は救えない。

私たちが「成長」と呼んでいるものは、実は輪廻の構造の中の、一局面を捉えただけのことなのです。宇宙の総量は不変であり、変化だけがあるのです。この「真理」をよく思い起こして瞑想していただきたい。私たちは生きるために自然界から食物を得ます。それを食べてしまったら、その食物は無くなったのか。そうではありません。私たちを生かすエネルギーに変化したのです。

このようにして、循環にあるものを総称して、「生命(いのち)」と呼んでいるわけです。「生命」の本質とは、あくまで変化であり輪廻なのです。それなのに、人間が過度な欲望によって、循環のバランスを壊してしまったら、どうなるかくらいはお解りでしょう。

自然は死んでしまうのか? 死にません。地球はなくなるのか? なくなりません。「生命」は永遠です。環境問題は地球の危機ではなく、人類の危機なのです。自然は、狂った循環のサイクルを調整するために自浄作用を働かせます。そうして、バランスを壊す元となった存在は、調整されることになるのです。それが宇宙の法則、掟です。