by Rainbow School
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「レッテル貼り」について

前回の14日の投稿で「レッテル貼り」について少し触れました。人間というものは、「レッテル貼り」が大好きです。なぜ好きかと言いますと、これも結局は、自分を知らないからなのです。自分は何者なのか、自分の本質は何なのか、どこから来て、どこへ行くのか、こういったことを知らないために、自分の外側に価値判断の基準を置こうとするのです。

 

もし、自分は何者であって、本質は何であって、どこから来て、どこへ行くのかが解っていたら、自分にレッテルを貼る必要などはありませんし、他者に対しても、レッテルを貼ることの無意味さが分っているので、そんな行為はしない筈です。毎日が、ただ自分の生きる目的を全うしようとするだけで精一杯ですから。

 

「レッテル貼り」というのは、何もネガティブな面だけではないのです。世間的に栄誉とされたり、崇拝されたり、憧れを持って見られたりすること、「名声」や「肩書き」や「ブランド」といったものも、同じく「レッテル貼り」なのです。つまり、「レッテル貼り」というものは、優劣という評価基準の、「優」側に対しても「劣」側に対しても共に行われる行為なんですね。

 

これが、人間が住む三次元世界(別名「相対的世界」)の、特徴なのです。ですから、他者をヨイショして持ち上げるような性癖が強い人は、反対側に、必ず他者を蔑視したり、差別したりする心を隠し持っています。両者は、一本の「物差し」の右と左なのです。ですから、あなたを変に持ち上げる人が現れた時には注意してください。ちょっとしたきっかけで、それが侮蔑に変わることがあります。

 

今の人類の大きな課題は、この「物差し」そのものを捨てることです。「物差し」を捨てたとき、真に人間が平等であって、生命はみな尊いということの本当の意味が解る。しかしこのままでは、その日は遠い。何よりマスメディアが、この「物差し」が大大大好きで、ヨイショとバッシングを繰り返している。こんなものを毎日見ていたら、あなたの心も、ズタズタになってしまいます。

 

先ずあなたから、自分をよく知って、「わたしはわたし」を生きることに徹して欲しい。世間で確立された「物差し」など、今日から全部ポイ捨てだ。そうすれば、他者のありのままが見えるようになるし、腹も立たないし、他者と慈しみを持って接することが出来るようになります。

 

他人を「物差し」で計り、「レッテル貼り」で貶めて、それであなたが相対的に浮上するなんてことは絶対にない。始終、他人を評価し貶めていたら、そのネガティブで低い波動に、自分をずっと付き合わせることになってしまうんだよ。そんなムダな時を過ごしたいかい? あなたには、好奇心と賞賛の二つの言葉さえあればいい。そうすれば、一日中、ハッピーでいられるじゃないか。

自分を信じれば、周囲の人の「ありのまま」が見えるようになる

ある方から、「あなたを100パーセント信用している訳ではない」というメールをいただき、少し悲しい気分になりました。自分が「信用されていない」からではありません。「話が通じていない」ということに対してです。セミナーを休止したのもそれが理由でした。これほど言葉を尽くしても、解って貰えないのかと、無力感を感じたのです。

 

私は今まで、「私を信じろ」などと言ったことは一度もありません。外から来る情報は何も信じるな、と繰り返し言って来ました。そこに例外はありません。ですから当然、私が言うことも、書いたことも、信じてはならないのです。

 

しかし頭のいい人は、こう考えるかも知れません。じゃあ「信じるな」という言葉はどうなんだと。これも「信じない」としたら、「信じるな」ということを「信じない」ということで、それは「信じる」ということになりはしないか? いや、そこまでは意図していません。とにかく、外から来る情報は、一切合切「信じるな」ということです。

 

「通じない」「理解されない」ということに対する悲しみは、こういう活動をやっている以上は仕方のないことです。以前はひどく落ち込むこともありましたが、最近は立ち直りが早くなったので、「ま、こんなもんよね」と水に流しています。休止してしまったセミナーも、自己反省を踏まえて、いずれ違った形で再開するつもりです。

 

人間関係は、100パーセントの信用がなければ、できないものなのでしょうか? 私は、他者を「信用できる・できない」という眼で見たことは一度もありません。そんな基準は無意味だからです。でも「正直か、嘘つきか」ということは見ます。というよりも、すぐに判ります。その人の今の「心」の状態は、会った瞬間に把握できます。

 

他者を「100パーセント信用する」とは、一体どういうことでしょうか? その他者の思想や言動に、「洗脳」されることだとは、お気づきになりませんか?  100パーセント信用している主体は自分だと思っているかも知れませんが、そうじゃありません。逆です。自分を失っているんです。「洗脳」されるから、「この人は100パーセント信用できる」と思い込んでしまうのです。

 

だから、その「洗脳」が解けた時に、裏切られたとか、騙されたとか、みんな言い出すのです。一体それは誰のせいなのでしょうか? 自分が「100パーセント信用した」からではありませんか? 他者が、あなたを騙したのではない。あなたが、あなたを騙したのです。そして「裏切られた、騙された」と言っているのです。

 

そもそも、他者を「信用できる・できない」で見ることが間違っているのです。どうして他者を信じようとするのでしょうか? それは、自分を信じていないからです。自分を信じていないから、代わりに、外側に「100パーセント信じられるもの」を見つけようとするんです。そして常に、他者に対して、疑いの眼を向け続ける。

 

これでどうして、安心が得られるでしょうか? そういう眼をした人間の姿を想像してみてください。そういう人と、あなたはお近づきになりたいですか? 「信用できるか、できないか」でいつも他者を見ている人は、その視線が、自分に反射して来ていることに気づいていないんですね。何よりも、自分がいちばん「信用できない」光線を発射しているんですよ。

 

こんなことを繰り返していては自立はありません。「信用」しては裏切られ、また「信用」しては裏切られる。それで、遂には「信用」することが怖くなって、人間不信に陥る。一体どこに問題があるのでしょうか? 「信用できる」ものを外側に追い求めるからだということに、いい加減気づいていただきたいのです。そしてその根本原因には、自分を信じていないという問題があるのです。

 

私は、他者を「信用できる・できない」という眼で見ることはありません。好奇心がありますし、自分が知らないことを教えて貰いたい、自分に出来ないことを助けて貰いたい、一緒に楽しい時間を過ごしたい、といつも思っているからです。Open your heart.  自分が「心」を開けば、「心を開け」光線が、反射して返って来るんです。

 

いつも他者を疑いの眼で見ている人は、いま言ったことが本当かどうか、実験してみるといいです。そうすれば解ります。人間関係というのは、本当にバイブレーションなんだということが、実感できます。

 

あなたがすべきことは、「100パーセント信じられるもの」を探し続けて歩き回ることではなく、最も身近な友である、ご自分を信頼することです。自分のこれまでの努力をねぎらい、してきた体験をすべて肯定し、自分を敬い、「わたしはわたし」でいいということを、信じることです。素直な自分に帰ることです。

 

あなたが自分を信じれば、周囲に疑いの眼を向けるようなことはもうなくなります。不必要だからです。そして、他者の「ありのまま」が見えて来るようになります。やがては、その「ありのまま」に、いとおしささえ感じるようになるでしょう。その時には、あなたもまた「ありのまま」の自分になっているのです。

相手から予想を裏切る反応が返って来たら

人間関係の中で、自分が発した言葉に対し、相手から予想だにしない反応が返って来た、という経験はありませんか? 私も、誠意が通じずに誤解されたり曲解されたりして、悲しい思いをすることが度々です。でもひとのことはあまり言えないかな。私だって、たぶんそういうことをしている筈。お世辞は決して言わないので、時に辛辣な物言いになり、悲しい思いにさせていると思います。

 

科学者は、先ず仮説を立ててから、それを実験や計算で確かめようとして行くわけですが、一つの理論を導き出すためには、膨大な量の実験や計算を延々と繰り返さなければなりません。予想通りになるよりも、そうならないことの方がずっと多いわけですね。ですから科学者というのは、よほど忍耐強くないと務まらないと思います。

 

では、予想を裏切る結果が出た時に、科学者は心理的にどう対処しているのか? この話を聞いた時、「うん、これは人間関係にも使えるぞ」と思いました。彼らはこう考えるというのです。「とりあえず、こっちの方向はない、ということがこれで証明された」と。だからいいんだと。多様な可能性の中の、あり得ない部分を一つ取り除けたので、ゴールに近づいたんだというわけですね。

 

ですから、人間関係においても、相手から予想を裏切る反応が返って来た時には、「あ、そうか、こっちの方向はないんだな」と。それが証明されたんだなと、思えばいい。そうすれば、ガッカリや、悲しい思いを引きずることなく、早めに気持ちを転換できます。

 

その気持ちをひきずったところで、相手の心を変えることはできないんですから。あの人はあの人、私は私。気持ちを切り替えて、元気よく参りましょう。

ポジティブな依存と、ネガティブな依存

「依存」というものが、すべて悪いわけではありません。そもそも人間は、というよりも生物は、何かに「依存」しなければ生きてはいけません。

 

このブログで書かれてあることを字義どおり受け取って、まるで「お札」のように目の前に貼ってしまわれる方が、時々いらっしゃいます。「依存」についても、そこからの脱却ということをこれまで何度も強調して来ましたので、中には「依存しちゃダメ!」と、ご自分に言い聞かせていらっしゃる方もおられるのではないかと、多少危惧しています。

 

改めて言っておきますが、このブログで書かれていることは、一切、何も信じないでください。むしろ徹底して疑ってください。それは、このブログの内容に限らず、外から来る情報すべてに対しての基本的な態度でなければいけません。

 

何かを「信じている」あいだは、あなたのものではないのです。あなたのものではないので、「信じる」ことで、疑いの心に蓋をしようとするのです。それは、今の自分を誤摩化すことですし、あなたの成長の機会を奪ってしまいます。これを強要したものが、いわゆる「信仰」です。世の中には「信仰」のためにムダな時を過ごしている人が、いかに多いことでしょうか。

 

何も「信じ」なくても、あなたの「魂」が同調し蓋が開かれ瞬間には、自然に「ああ、そうだったんだ」と思い出します。それは「教えられた」わけではなく、あなたの中に元々あったもの、知っていたことに「自分で気づいた」ということなのです。このブログを含めて、外の情報というものは、その扉を開けるノックに過ぎません。扉をあけるのは、いつでもあなた自身なのです。

 

さて「依存」ということですが、そもそも生物は、他の生命(いのち)を捕食しなければ、「生きている状態」を維持し続けることは出来ません。これは物質的組成を新陳代謝させるためと、活動エネルギーを得るために必要だからです。この全体のシステムが、「生命(いのち)」というものであって、そこには明らかに「依存」関係が認められます。

 

そこで、このように言うことが出来ます。「生命」とは「依存」関係のことである。ですからあなたが、もし「生命」の尊さというものに深く思いを馳せるのであれば、当然それは、「依存」関係のありがたさに深く感謝するということになるのです。これが、いわばポジティブな「依存」です。

 

あなたは、他の生命や、物や、環境や、人に「依存」して、生かして貰っています。しかし同時に、他の人の「依存」のために、あなたも役立っているのです。

 

このような関係の中で、自分の生が、また他者を生かすということに健全に使われた場合には、その「依存」は、信頼や、自己有用感や、喜びや、感謝を、その関係にもたらします。そして、日々のこの訓練が、やがて「無条件の愛」へと至る道に通じているのです。

 

けれども、「生命」がそもそも「相互依存」しているという「真理」を知らないでいると、自己の利益や損得勘定を真っ先に考えるということになって、健全な「依存」を逸脱した、いわばネガティブな「依存」が幅を利かすようになってしまいます。

 

このような状態での「依存」は、「支配」と同じことなのです。自分の役割をまだ知らない。ただ自分の思い通りに、周囲のものを動かしたいのです。この、不可能なことに、心をくだいて埋没してしまう‥‥。ですから、そのような「依存」関係には、信頼も、自己有用感も、喜びも、感謝も、生じません。ただ、苦しさと、空しさがあるのみなのです。

 

ということで、あなたには、毎日をぜひ、ポジティブな「依存」に生きていただきたいと思います。

ちなみに「信仰」は、ネガティブな「依存」の最たるものです。

内観する

利他と利己は同じことで、他者の中の「魂」を見るようにしなさい。そう昨日のブログで書きました。でもこれには順番があります。先ず、自分の中に「魂」を見ることが出来なければ、相手の中の「魂」を見ることは出来ません。なぜなら、利他と利己は同じことなのですから。

 

あなたは誰ですか? ご自分に問いかけてみてください。

Who am I ? 私は誰か? と。

あなたなら、どのように答えるでしょうか?

 

続けて質問です。

あなたは、どこから来ましたか?

さて、あなたは、どのように答えますか?

 

さらに質問です。

あなたは、どこへ行くのですか?

さて、どのように答えますか?

 

自分というものを、あなたは解っているでしょうか? 自分が解らない人に、他者を理解することは出来ません。多くの人は、この単純な理屈に眼をつむり、一緒に生活していく必要性から、周囲の人たちに「ああしろ、こうしろ」と要求を突きつけようとします。周囲が、自分の思い通りに動いてくれれば、平安が実現されると思っているのです。

 

でも勿論、そんな関係が上手くいく筈がありません。相手にも、自由意志があるわけですから、同じように「ああしろ、こうしろ」と要求を返して来ます。結局、この意地の突っ張り合いが、すべての「人間関係」における軋轢の原点なのです。自分を解っていないのに、その自分に、周囲の人たちを従わせようとしているのです。

 

これを拡大していけば、グループの衝突、人種の衝突、宗教の衝突、国家の衝突にまで発展して行ってしまいます。このことから解るのは、現在それらを率いているリーダーたちの大半が、いかに無智かということです。国家間の対立というと凄く大きなことのように思えるかも知れませんが、根っこにあるものは全て一緒です。自分を解っていないということから出発しています。

 

人間の眼は、外側を見るように取り付けられています。ですから、自分の眼で自分を見ることは出来ません。ここに錯覚が生じるのです。自分は自分なのだから、見なくても解っていると思ってしまう。けれども、冒頭に掲げたシンプルな質問にすら答えられません。つまり、何も解っていないのです。

 

自分を理解するためには、内側を見る眼、いわゆる「心眼」を働かせなければなりません。外側を見る眼を閉じて、心の眼の方を開くのです。この行為が「内観」です。自分の内側を見るということ。それによって、自分の「心」の動きを観察し、手当てしてあげることが出来るようになるのです。

 

内観のない状態の「心」は、手入れを怠った庭のようで、雑草は伸び放題。枯れてしまった木や、虫食い状態の葉っぱで、見るも無残な荒れ方です。「怒り」をどうやって鎮めるのか、「嫉妬」をどうやって追い出すのか、「憂鬱」からどうやって脱け出すのか、「悲しみ」をどうやって乗り越えるのか。そういう手入れをした経験がないのです。

 

いつもいつも、相手をなんとか遣り込めようとばかり考えていて、自分自身をコントロールしようと考えたことがない。このような人が、社会のリーダーになった時は悲劇です。でも人間社会では、他を従えて君臨する人をもてはやす傾向があるので、民衆は、自ら選んだリーダーに、搾取され、蹂躙され、隷属化させられるという悲劇を歴史的に繰り返しているのです。

 

それとは逆に、「内観」の成果が上がり、「心」をコントロール出来るようになった人は、相手の今の「心」の状態を冷静に見ることが出来るようになります。そして、自分の経験に照らしてアドバイスして上げることも出来るようになるのです。ここに初めて、「相互理解」というものの基盤が築かれ、円滑な人間関係が実現できるのです。

 

ですから、何においても、先ずは自分の本質が「魂」にあることを知ることです。テクニックだけで、円滑な人間関係を築くことは不可能です。そのようなものは上辺のものに過ぎず、深いコミュニケーションは出来ません。先ずは、あなたが自己の「魂」に気づくこと。そうすれば、周囲の人々の中にも「魂」を見ることが出来るようになるのです。

利他と利己は同じこと

利己心というのは、自分に利することを考える心です。一方、利他心というのは、他者を利する(つまり他者のためになる)ことを考える心です。さて、あなたは、どちらを優先して生きますか?


自分の利益だけしか考えないというのは、人間関係における学習の初歩の初歩であって、それを貫こうとしても、結局は行き詰まります。なぜなら、人間は関係性の中でしか生きられないからです。他者を利さない関係は継続していくことが難しく、いずれ壊れてしまいます。


ですから、利己的な人というのは、次から次へと関係を乗り換えて生きて行かなくてはなりません。これが、詐欺師的な人がたどる孤独な運命です。彼らは、その不毛にハッと気づく瞬間が来るまで、その行脚を止めません。ある意味それは、その段階にある人の「修行体験」なのです。


一方、利他を徹底するという生き方は難しいものです。先ず、自分の中での利己心との葛藤がある。それを超越して生きる人も稀にはいますが、そういう人は、心ない人の批判、非難を覚悟しなくてはなりません。


なぜかと言うと、葛藤段階にある人には、その純粋性がどうしても理解できないのです。自分の基準でしかものを見られないので、純粋に生きてる人を「おかしい?」と思ってしまうのです。「何か裏があるんじゃないか?」「きっと狡猾なことを考えているに違いない」と、自分に引き寄せて考えるのです。


そこで、大多数の人は、利己心と利他心のバランスの中に生きています。5:5とか、6:4とか、7:3という割合の中で。このバランスの中で、様々な出来事を体験して行くのが、「修行体験」の第二段階です。利他心に触れた際の喜びや、感謝の念を学ぶことで、自分もだんだんと利他に目覚めて行くのです。


では、「100パーセント、利他に生きられるのか?」を考えてみましょう。自己が他とは独立した存在である以上、利他10割というのは無理のように思えます。しかし、これを超越することは出来る。ジャンプすることは出来るのです。それが完成に至る道です。


自分を愛せない者は、他者を愛せない。自分を許せない者は、他者を許せない。この言葉を、これまで、たぶん聞かれたことがお有りでしょう。このブログでも、何度も語ってきています。これは、一体どういう意味なのでしょうか?


私たちの本質は「魂」です。そしてその「魂」は、一つの大きなものから分かれたものです。ですから、元々は一つですし、肉体感覚を離れれば、繋がっている感覚を取り戻すことも出来ます。このような感覚の中に生きることが、実は「修行体験」の第三段階であり、人間関係の学習における、完成に至る道なのです。


お解りでしょうか? 自己と他者を分けて考えている限りは、この世で、いくら利他心を増やす学習体験を続けていても、真の意味で完成には至れないのです。100パーセントの利他に生きる。これを、完全に我がものとするためには、自己と他者を分ける考え、そのものから脱しなければならないのです。


私たちの本質は「魂」であり、それは繋がっています。ですから、他者にしたことは、自分にしたことと同じであり、自分にしたことは、他者にしたことと同じなのです。利他と利己は、結局、同じなのです。他者を傷つければ自分も傷つき、自分を傷つければ、他者も傷つく。他者を愛せば、自分が愛され、自分を愛せば、他者も愛されるのです。


そこで、「自分を愛せない者は、他者を愛せない」「自分を許せない者は、他者を許せない」と言うのです。そしてそれを、真に理解するためにはジャンプが必要だということ。自己と他者を分けて考えている限りは、あなたは「まだまだ」だということです。


人間関係の中で、他者を見るときには、外見や行動や性格を見るのではなくて、相手の「魂」を見るように努力してください。いつも「魂」を見よう、見よう、と心がけていれば、やがて見えるようになります。

 

そうすれば、どんなことがあったとしても、相手をすんなり許せます。その時、あなたは自分も許しているのです。そして実感として解る筈です。ああ、ジャンプ出来たと。あなたも、早くそうなれ!

「依存」と「支配」は同じこと

最近は、ひきこもりになる人が増えたせいか、「依存」と「共依存」の関係について知る人がずいぶんと増えて来ました。


「共依存」というのは、自分を頼りにしてくる相手に対する援助行為がやめられない嗜癖状態(addiction)のことです。「依存者の影に共依存者あり」と言われるくらい、両者はセットになっているんですね。つまり、依存者が「依存」からなかなか抜け出せない背景には、「共依存」している者が近くにいるというわけです。


けれども、頼ったり頼られたりすることと、「依存」と「共依存」の関係(両者をひっくるめて「依存症(addiction)」と言うことにします)との間に、線引きをすることはとても難しいです。頼ったり頼られたりすることは、健全な人間関係を作る上で、むしろ必要なことです。そこで二の足を踏んではなりません。積極的でなければならないのです。


頼ったり頼られたりすることが「依存症」と異なる点は、それが一時的なものだということです。たとえば「重い荷物を運ぶの手伝ってぇ」と言うのは、それが終わってしまえば、その関係も終わる。そして、片方には感謝、もう片方には有用感(他者のために自分が役立つという気持ち)が生まれ、健全な社会生活が営まれるのです。


「買い物」というのは、普段あまり意識していませんが、軽度の「依存」なんですね。自分で調達できない物を、お店の人に代わりにやってもらっているわけだ。その時に、感謝のしるしとして対価を支払う。しかし、「買い物」行為そのものに嵌って、一時的に終わらせることができなくなると、健全さを失って「買い物依存症」という段階に進んでしまいます。


さて、「依存症」がどういう理由で起きているかというと、実は、これは形を変えた「支配」なんですね。自分の思い通りに周囲のものをコントロールしたい。それを、非暴力的手段に訴えたものが「依存」です。でもそれは、裏を返せば「支配」なんです。赤ちゃんは100パーセント母親に「依存」しなければ生きていけません。しかしそのようにして母親を「支配」しているわけです。


「あなたが居なければ、生きていけないの」と言って、自分の弱さを強調する(時に、女の武器と言われる涙を流したりもする)のは、自分でも気づかないうちに、相手を「支配」しようとしているのです。弱さへの同調圧力を掛けて、相手をこちら側に引き込み、縛り付けようとしているんですね。


暴力的な「支配」はすぐに判りますが、「依存」による「支配」には、ほとんどの人が誤摩化されてしまいます。そこでついつい手助けをして「共依存」に嵌り込む。もちろん、これは健全とは言えません。頼ったり頼られたりするライトな関係が築けないので、勢い、ヘビーな「依存」へと突っ走ってしまうのです。人間関係の訓練の未熟です。


「依存」のままではなぜいけないかと言うと、何かに「依存」している限り、「不安」からは逃れられないからです。「不安」だから「依存」してしまう。「依存」するから「不安」を手放せない。こういう状態がグルグルと回るのです。


川を渡ろうとしたが、目の前には吊り橋しかない。そこで、手摺りに必死にしがみつく。この時、手摺りに「依存」している心は、同時に同じ分量の「不安」を背後に持っているわけです。このことから、拭えぬ「不安」を解消するにはどうしたらいいかが解ります。口笛を吹いて、さっさと吊り橋を渡ればいいのです。


しがみつくから、しがみつく先をつねに求めているから、根っこにある「不安」が消えない。ですから、「不安」を解消しようとして、外側に頼るものを求め続けている限りは、根っこにある「不安」は絶対に消えません。そうではないのです。外に求めることを、やめなければいけないのです。ですから「自分に頼れ」と言うのです。


自分を頼みにしている人は、一時的に頼ったり頼られたりする関係になったとしても、すぐにパッと自分に戻れます。ですから、こういう人同士は安心して頼ったり頼られたりが出来るのです。これが健全な人間関係です。

人間関係で起きた「しこり」の取り方

「心」のしこりの大部分は、人間関係において発生します。残りは、事業や計画など、人生上における判断ミス(だと本人が思っていること)です。人間関係で起きたことを「しこり」にまで発展させてしまう理由は、とても簡単です。自分の非を素直に認めようとせず、起きたことに対してちゃんと向き合わないからです。大半の人は、向き合わないままやり過ごし、誤摩化そうとしてしまうのです。


向き合わない理由にはいろいろあるでしょうけれども、背景に、同じ心理状態に立ち返りたくない、思い出したくない、という気持ちが働くんですね。自分というものを、もしきちんと客観視できれば、自分のどういうところがいけなかったのかを分析して、反省し、次につなげることが出来ます。しかし、起きたマイナス点をチャンスと捉えて、プラスに変えようとする人は1割もいません。


無法松の一生』という映画の中にこんなシーンがあります。「無法」というあだ名が付くほど喧嘩っ早いが松五郎が、芝居小屋で、今までOKだった顔パスを急にしてくれなくなったことに腹を立てる。彼は一計を案じ、桟敷席を一枡買うと、そこに七輪を持ち込んで「もつ鍋」を煮始めるのですからさあ大変。劇場中が臭くなって、芝居どころの騒ぎではなくなってしまうのです。


これを排除しようとする興行主に対して、松五郎は「俺の金で買った枡を、どうしようと俺の勝手だ」と言い放ちます。この事件が土地の親分に知れ、呼び出された松五郎は、親分から「今まで許されていた慣習を、急に変えられて怒るお前の気持ちも解る。だが、芝居を楽しみしてきた大勢の観客の気持ちはどうなる!」と叱責され、そこでハッと気づくのです。


「そうかぁ、自分のことばっかり考えていて、わしはそこに気づかんじゃった」と松五郎は大いに反省し、その場であっさり詫びるのでした。きっぷのいいこの態度には、親分も感心し、以降、松五郎を目にかけるようになります。純粋ではあるけれども、無学でただの乱暴者であった松五郎が、思いやりの深い、愛の人に変わった瞬間です。


向き合わないということは、結局、「自分で自分を許せていない」ということなんですね。「魂」というものは、オートマティックに正常化を目指そうとしますから、ただ「魂」の声に従ってさえいれば、自分を素直に導くことができるんです。


でも人間はなかなかそうはしない。世間体やら、謝ったら沽券に関わるとか、ひとに弱みを見せたくないとか、たぶん相手は許してくれないだろうとか、いろんなことを想像して、素直になることを躊躇する。これが、自分の「心」に「しこり」を作るんです。でもそれは、自分が「そういう自分を、絶対に許してやるものか」というこだわりなんですね。


そのこだわりというものは、思念エネルギーですから、時空を超えて相手にも届きます。すると相手も、その「絶対に許せない」という気持ちを受け取ることになります。このようにして、一度「しこり」を作ってしまうと、両者の間でフィードバックが繰り返され、なかなか消えなくなってしまうのです。


それによって苦しむのは誰かといえば、当人です。「魂」が望む生き方と、自身の生き方が一致しないので苦しくなるのです。ですから、自分の本質は「魂」だということを改めてよく認識して、「魂」の声に素直に従うようにしてください。先ずあなたが、自分を許さない限りどうにもならないのですよ。何もしないで人間関係を改善することはできません。


あなたが、ご自分を許せば、すぐに「しこり」が解け、その波動が相手にも伝わり、人間関係は徐々に改善して行きます。胸襟を開いて素直な心で話し合えば、解決しないものなどないのです。なぜなら、相手の本質も、同じ「魂」なのですから。

介護問題を乗り越える(2)

介護を、明るく、楽しく、伸びやかに、爽やかに、こなせだってぇ? 勝手なことをほざくな。きっと、そう思われている方もいらっしゃることでしょう。けれども私は、実際にそうやって取り組んでいる人のほうが、「苦しい、辛い」と言っている人よりも、遥かに多いはずだと確信しています。


昨日取り上げたNHKの番組づくりもよくないのです。介護は、辛い、苦しい、生活の自由を奪う、家族関係を破壊してしまう、という負の部分にばかりスポットを当てて全体を構成しています。そのような一方的な見方だけをクロースアップしたら、視聴者の大半は「自分がもし介護をしなければならない状況になったら、さぞかし大変だ」と思うことでしょう。


マスメディアというのはここがダメなのです。そのようにすれば、感情を刺激して視聴率が稼げるということもあるでしょうが、もし「介護問題」を真剣に考えるのであれば、介護を実際に、明るく、楽しく、伸びやかに、爽やかに、こなしている人たちの工夫を紹介するほうが、遥かに有意義ではないでしょうか。


私も、カミさんが癌で死ぬまでの10カ月間を、介護をして過ごしました。初めての経験でとまどうことも多々ありましたが、しかし自分にとっては、濃密で有意義な時間だったと、今は感謝しているんです。それが、私に「献身」を学ばせましたし、最悪だった夫婦関係も最後には修復され、カミさんは感謝の言葉を述べてあの世へと帰りました。


「病気になることも、悪いことばかりじゃないよ」それが、カミさんの遺した言葉です。


コミュニケーションというものは、会話だけの問題ではないのです。「目は口ほどにものを言う」と言いますし、ボディタッチだって、笑顔だって、一つひとつの所作や態度だって、みんなコミュニケーションです。そして、一般には殆ど無視されていますが、人間はいわゆる「波動」によるコミュニケーションを濃密に行っているのです。


これは、理屈を知らないために確証を抱けないだけで、実際に大多数の人はそれを知覚しています。あの人とは「気が合う」「気が合わない」というのは、それを端的に表した言葉です。気というのはプラーナのこと。つまり体内を流れて体表から放出される宇宙エネルギーです。オーラと言ってもいい。この振動数が「合う・合わない」を、人は知覚しているのです。


このように、人間のコミュニケーションというのは「波動」が主であり、そこに言葉や、ボディタッチや、しぐさが補完的に載っかっているのです。「心」は通じる。これは紛れもない事実です。ところが、そこに注意を払わない人が多くて、言葉や態度や化粧や地位や宝石や金などに、ついつい惑わされてしまう。それでみんな、「騙した、騙された」としょっちゅう言うことになるのです。


「心」は通じる。これは何も「介護」だけに言えることではなくて、人間関係全般に言えることです。人間関係を良くしたいと思えば、先ずあなたが、温かな、愛に溢れた「波動」を出すように努めればよいのです。そうすれば、相手はその「波動」に引っ張られて、やがてピンポンゲームのように、温かな「波動」を返すようになって行きます。


もし、相手とのバイブレーション差が非常に大きい場合には、その相手は、二つの選択肢のどちらかを取らざるを得ないようになります。温かな「波動」を出すあなたが眩し過ぎて違和感を感じ、スーッと離れて行くか、それともジャンプして、人が変わったようになって、あなたの「波動」に同調して行くかどちらかです。


「介護」の場合、介護される側の人は、介護を拒絶することが難しい状態にあります。すると、介護される人は、介護者の「波動」に合わせるよりもう手がないのです。これが解れば、介護者がどのような心持ちで、被介護人と接すればよいのか、その重要性というものが理解できるでしょう。マザー・テレサはそれを徹底して行った人です。


ですから、もしあなたが「介護」をする局面になった時には、何よりもあなた自身が、明るく、楽しく、伸びやかに、爽やかに、温かな愛を持って接するようにすることが、非常に大切なのです。そうすれば、温かな「波動」がブーメランのように相手からも返って来て、あなたを包むことになります。


逆に、「介護」は面倒、辛い、苦しい、自由が奪われる、なんで私がこんな目に、と思って接していたら、相手からも同じ「波動」がブーメランのように返って来て、あなたが想像した通りに、あなたを辛く、苦しい状態に、ますます追い込んで行きます。つまり、あなたの「望み」を実現するのです。


どんな状況にあっても、物事には、一方的にマイナス面ばかりということはありません。起きた出来事、起こるであろう出来事に「意味」を与えるのは、全てあなたなのです。あなた次第で、あなたの今が、いかようにも変わるのです。

介護問題を乗り越える(1)

NHKスペシャルで、『私は家族を殺した “介護殺人” 当事者たちの告白』を観ました。介護苦の果てに、家族である被介護者を殺害してしまうという事件の背景を追った番組です。NHKの調べでは、過去6年間に138件の介護苦を原因とした殺人事件が起きているとのことです。このまま放置していれば、今後ますます同種の事件が増えることは確実です。


この事件が悲惨なのは、事件そのものというよりも、加害者や親族が味わうその後の精神的責め苦です。目の前の苦しみから逃れるために家族を殺してしまった。本来ならば、自分がいたわってあげるべきであったのに、それを放棄してしまった。自分に負けてしまった。なぜ、あの時、止められなかったのか。


こうした思いを、加害者はその後もずっと引き摺るだけではなく、遺された他の親族からの非難を一身に浴びて、深い孤独の中に入って行かざるをえないのです。


どうしてこのような事件が起きるのかという背景には、複合的な要因があります。高齢化が著しく進んでいるということ。核家族化によって家族の単位が小さくなり、いわゆる老々介護が広がっていること。介護者に介護の訓練経験がないこと。これに世帯収入の減少と、かつては支えとなり得たコミュニティの崩壊が輪をかけています。


これらは社会構造の変化に起因したものであって、根が深く、社会システムを今どうにかしようと思っても、一朝一夕には行きそうもありません。しかし考えていただきたいのは、そのような問題が深刻化しているのも、表側に、労働可能な人間はコキ使って、ただ経済成長を目指せばそれでいいんだ、という考えが厳然とあることです。


今の政治には、社会全体の理想を想い描く考えが全くありません。繁華街の繁栄ばかりを考えていて、裏路地や袋小路の吹き溜まりには目もくれない。そこに、ゴミが捨てられたり、酔いつぶれて寝ている老人がいても、目に入らないし気にもしない。「そこに行く人が、自分たちでなんとかすれば?」という考えなのです。


しかし、表があれば、必ず裏がある。裏を捨てたり、無視することはできないのです。日が当たれば、影ができる。陽と陰とはいつもワンセットで、お互いを支え合っているのです。交感神経と副交感神経が共にバランスをとっているように、どちらが善いとか悪いとかではなく、表も裏も、その機能が健全に働いていることが社会全体にとって重要なのです。


それを今の政治家は知りません。ですから、システムを変えようとしても難しく、先ず人間の考え方、つまり「心」を変える、本来に戻していくということが求められているのです。心が変われば考え方が変わり、考え方が変われば行動が変わり、行動が変われば社会も変わるのです。これが真の、草の根運動(Grassroots)です。


さて話を戻して、今後、介護を経験される人がますます増えることは確実です。その時に、「介護殺人」のような事件を起こさないためには、どうしたらよいのでしょうか?


この番組では明らかにされていなかったのですが、殺人事件を起こした加害者のおそらく殆どは男性でしょう。そこにヒントがあります。昔は大家族でしたから、男性はそういう役割を女性に押し付けていられました。しかし今はそんなことは出来ません。男性が、親や妻を介護するケースが今後どんどん増えていく。その時に、女性ならやり遂げられることが、男性にはなかなか難しい。


これはなぜなのでしょうか? その理由は、「社会」というものの捉え方が、男女で大いに異なるからです。男性は、先ほど言った「表側」の世界にのみ生きようとし、そこで自分のポジションを得ることを無上の喜びと考えます。それが「社会」の一員であるという自覚や誇りを、その人に与えてくれるのです。


ところが反面、「裏側」があることを知らないし、見ようともしていません。そこで、自分が信じる「表側」の世界に、知らず知らずのうちに過適応を起こしてしまうのです。すると、どうなるでしょうか? その関係が万一壊れた時には、精神的に大打撃を受けてしまうのです。役職から滑り落ちた、会社をクビになった、定年で退職した、等々。


これに「家族」状況の変化も加わる。「表側」の世界にしか関心がない人にとっては、「家族」はあって当たり前、妻は夫を支えて当たり前、子どもは順調に育って当たり前、父母や祖父母は元気で当たり前、という感覚ですから、これがちょっとでも狂うともう対処ができません。どうしていいか判らない。それほど、男性は環境変化に弱いのです。


そういう訓練を経て育っていないということも、これに輪をかける。現代人の多くは、大家族で暮らした経験がありませんので、様々な事件や場面に遭遇しこれを乗り越えて来たという体験が不足しています。ですから、生活上に大きな「変化」が去来すると、今まで信じていた世界から零れ落ちる、爪弾きにされる、自分はもう社会の一員ではない、という感覚に容易に襲われてしまうのです。


このような状況にある男性に、「意見」をすることは禁物です。男性は見栄っ張りですから、自分の弱いところを見せたくない、家族に上から目線でとやかく言われたくない、という気持ちが非常に強いのです。ですから、このような状態の人に「意見」をしても、却って反発を招き、自分の殻に閉じこもるようにさせてしまいかねません。


では女性は、どうして乗り越えられるのでしょうか? それは「社会」の捉え方が、男性とは根本的に異なるからです。女性の場合は、いま目の前で、自分の周辺に具体的に起きていることが、「社会」そのものなのです。つまり「今ここ」の感覚を、最初から持っている。


男性は、女性が持つこの感覚を「些細なこと」のように見て、小馬鹿にする傾向がありますが、実はそうではありません。「社会」に生きているのは女性です。男性というのは、「社会」に生きているのではなくて、「幻想」に生きているのです。

 

多くの男性は、そのことを理解していません。ですから、信じていた「幻想」にヒビが入ると、とたんにパニックに陥ってしまうのです。男性が、良く言えばナイーブでロマンチスト、悪く言えば子供っぽいといわれるゆえんです。

 

このブログを読んで下さっている方が、もし男性なら、つまらぬ意地や見栄などサッサと捨てておしまいなさいと提案したいです。その方がずっと楽に生きられる。

 

いいじゃないですか、弱さを見せたって。いいじゃないですか、ダメ男の部分を見せたって。あなたが「ありのまま」であれば、周囲に見える物も、みんな「ありのまま」に見えてきます。でも、ありうべき「幻想」にいつまでも執着していたら、目の前のものは全部、「未達」や「不足」や「障害」になってしまいます。

 

予期せぬ事態で、自分が介護人にならなければいけなくなった。それは、自分の自由や可能性を奪うだけの「障害」なのでしょうか? 自分の理想を、永遠の「未達」に変えてしまう絶望的状況なのでしょうか? そうではないはずです。目の前にあることを、先ず「ありのまま」に受け止めてください。困窮や絶望も、自分が創り出した「幻想」であることに、気づいていただきたいのです。


一見、困難に思えることにも、ちゃんと宇宙の計らいによる意味があるのです。ですからそれを、自己の人間性向上、霊性向上のチャンスと捉えて、明るく、楽しく、伸びやかに、爽やかにこなしていくにはどうしたらいいかを、日々工夫してください。この世に生きる意味は「体験」しかないのです。「体験」をどう生きるかが、あなたに問われている唯一のことなのです。

 

そして、それが上手に全う出来たとき、あなたは大きな満足とともに、いつの間にか自分が「愛の人」に変わっていることを知るでしょう。