by Rainbow School
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男の課題、女の課題(2)「枠組み発想」社会からの脱出

地上に男女の別があるのは、「物質界においては、あらゆる存在(表現物)が、必ず陰陽の極性を宿している」という、宇宙の根本原理に基づいた一つの在り方なのです。これまでにも何回か紹介した「陰陽太極図」は、万物が、この両極の渦(回転)によって成り立っているということを象徴的に表現しています。図中の二つの形は魚に見えなくもないので、「陰陽太極魚図」とも呼ばれています。

 

*西洋でも、これと同じく二匹の魚が向かい合う双魚宮の印があります。

 

さて、この両極の中に、反対色で目玉が描かれていることにお気づきでしょう。これはそれぞれ、陰中陽、陽中陰と言って、それぞれの極性の中にも、反対の極性の目(芽)が含まれているということを表しているのです。

 

ですから、これを性別に当てはめますと、女性の中にも男性的要素はあるのであり、男性の中にも女性的要素があるということを示してくれているのです。ということで、この点に注目すれば、男女が互いを理解し合う(それは「愛」の一つのあり方)ということの意味、そして、「魂」の完成形は中性になることという意味も、自ずと解って来るのです。

 

ところが地上では、男は男らしく、女は女らしく、といったことが必要以上に強調される傾向にあります。そして、これを実現すべく、互いの性を意識させるファッションやグッズや化粧品が大量に作られているのです。これらは人間の恋愛感情に作用し、ひいては子孫を残すことにも繋がってはいるのですが、反面、肉体美や行動様式にも特定の価値観が当てはめられるという傾向を強めて来たのです。

 

その結果、その価値観の枠組みから逸脱する者には「アブノーマル」のレッテルが貼られるようになりました。ですが、よくよく考えてみれば、自分は「マジョリティ」だと思い込んでいる人たちの方が、より縛りがキツいということでもあるのです。なぜなら、「ノーマル」という檻の中に入れられ、それが当然だと思い込んでいるわけですから。その洗脳状態に、まだ気がついていないということなのです。

 

男たるものこうあるべき、女たるものこうあるべき、と主張する。それは、自分が率先して、自分自身を縛り付けている縄(=ワナ)なのです。しかしこれは、宇宙における「魂」の進化という点から見ますと、そのような執着にいつまでも捉われている段階にあるということです。これが、地球人の次の霊的進化へのステップを、大きく阻害しています。

 

LGBTがいま社会問題として扱われるようになったのには、それへの「気づき」を促す意味があります。LGBTをきっかけとして、男性性、女性性に関するそれぞれの課題を、今一度考えてみなさいということなのです。単に生殖や子孫存続ということではなく、また男らしさや女らしさということでもなく、もっとその先をです。

 

総じて、男性はいま危機にあります。これは染色体レベル(Y染色体)で見ても崩壊が進んでいるのですが、今世、男性であるところの「魂」が、社会が提示し続ける男性的枠組みに、もはや耐え切れなくなって来ているのです。どういうことかと言いますと、時代環境変化と、人間の内面的変化との間に、著しい乖離と軋轢が生じて来ているのです。それが、現象面で見るところの、いわゆる「草食系男子」の増加に表れています。

 

「草食系男子」が増えるということは、「魂」の中性化ということで言えば、「退化」ではなくて「進化」なのですが、しかしそう捉える人は殆どいないのです。大多数の人が、これまでの延長上で「子孫の存続」を考えていますし、政治家は「population」の観点から「少子化対策」などということを言い出すものですから(実効はまったく上がっていませんが)、男性の「草食化」はむしろ由々しき問題のように捉えられています。

 

しかしここには、無理(宇宙の理に適っていない)があるのです。「草食系男子」の内面は、(宇宙的な)時代変化の兆候を、直感としてちゃんと捉えているのです。人類が、中性的に進化して行く段階に来ているということを。けれども、「それではマズい」「そんな傾向は承認できない」と考える人たちがいて、これまでの延長を、あの手この手を使って強いるのです。この同調圧力の強さに、「植草食系男子」たちはもはや耐えられないのです。

 

しかもそれは、マッチョイズムに冒された人たちから見ると「弱さ」に見えるのです。確かに、「草食系男子」には、ある種の「弱さ」が見られます。

 

でも、ここで考えてみてください。「強さ」とはいったい何でしょうか? 「強さ」とは、腕力のことでも、闘いに勝つことでもありません。究極の「強さ」とは、「怖れ」が一切ないことです。言い換えれば、自分を完全に解放し切っていること。いついかなる時にも Open Heart であり続けている人ほど、強い存在はないのです。闘争や防衛意識を駆り立てるものの正体は、逆に「怖れ」であり「弱さ」なのです。

 

もう時代はとっくに変化しているのに、その直感が働かずに、古色蒼然の価値観で、なおもあなたを縛り付けようと、たくさんのものがあなたに襲い掛かって来ます。「さあ、何してるんだ。お前もリングに上がれ」と。「そして闘え!」と。でも、そんな罠に引き摺り込まれる必要はありません。「いや、結構です」「興味がありません」と言えばいいのです。そして、自分に強く言い聞かせるのです。わたしはわたしだ、と。

 

しかしそのためには、先ずもって、世の男性たちは男性特有の「枠組み発想」という思考グセを打ち捨てなくてはなりません。男性というものは、自分のアイデンティティを、ある「特定の枠組み」への帰属意識の中に見出そうとする傾向があるのです。何かに所属している自分が自分だ、という考え方です。それは、男性性に元来そのような性質があったところに、しつけや教育がそれを強化する刷り込みを与え続けて来た結果です。

 

ですから、一般的に言って男性は、ひとたび「枠組み」に入れば馬車馬のように働く一方で、そこから外れると、たちまち元気を失くして鬱になってしまったりするのです。とりわけ、万事が「右にならえ」でやって来て、マイオピニオンを持つ訓練を積極的にして来なかった日本人男性は、この傾向が非常に強い。すると、「枠組み」から出されたり、そこに入れないことは、大変な恐怖となるのです。

 

この心理構造が、現在働き盛りの年代にある男性たちに、過重なストレスを与える大きな要因になっています。なぜなら、自分が受けて来たしつけや教育が、「特定の枠組み」へ帰属することを前提として目標が組み立てられていたのに、いざ就職の年齢に達した時には、求人がない、よい就職先がない、正社員になれない、賃金も安い、一度やめたら再就職が難しい、など前提そのものが崩壊していたからです。

 

いわゆる就職氷河期世代の人の中には、大学卒業時に就職できなくて、モラトリアム(猶予期間)のつもりで大学院に進んだけれども、大学院を卒業したら年齢のために更に就職が難しくなってしまった、以来、派遣労働者として働きながら正社員への道を探っているというような方がおられます。その境遇を見ると可哀想ではあるのですが、なぜそこまでして「就社」にこだわり続けるのか、という面も原点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

「就職」が即「就社」を意味するようになってから久しいですが、本来はそうではなかったはずです。「就職」というのは、文字通り「職」に「就く」ということであって、自分がどのような「職」を仕事として選び、身につけるかということを意味しています。それは、あくまで自分で自分をプロデュースするということであり、会社に選んで貰うということではなかったはずなのです。ここに、「就活」がシステム化したことによる壮大な錯覚があります。

 

けれども、女性たち一般には、男性のような「枠組み発想」は殆どありません。ですから、女性たちからすれば、男性のこの「枠組み発想」というものは理解不能の世界であって、実に下らないものに映るのです。そこで夫婦間では、このスレ違いを巡って、しばしば衝突が起きるのです。前近代には、男はそれを避けるために「男の仕事に女は口を出すな」と言っては防波堤にしていたものです。

 

*女性の男性化の悪い面として、「枠組み発想」に突き進む女性もいることはいます。

 

しかし、これからの男性たちは、それが本当に下らないことだと「気づく」必要があるのです。もはや時代にそぐわない上に、地球の進化としても、その段階に至ったということです。なぜかと言うと、権力者はこの男性の「枠組み発想」を利用して、男たちを上手にコントロールし、働き蜂や兵隊になるように仕向け、何世紀にも渡ってコキ使って来た歴史があるからです。それは、地球に残る集団のカルマであり、超えなければならないハードルなのです。

 

権力者たちは、今もなおもその仕組みを維持しようと躍起になっていますが、肝心の男たちの方は疲れ切って、もう着いていけなくなっている。ということで、今や男性陣は行き倒れになり掛かっているのです。そこで、男性のこれからの課題としては、女性たちに見習ってもっと自分を女性化して行く。そのことを肯定して、より中性に近づいて行くということが求められているのです。

 

それだけを聞くと、従来の思考でがんじがらめになっている人には、唐突に、また違和感をもって感じられるかも知れません。が、まさにそこ、その違和感。それこそがブレークスルー・ポイントなのです。

 

男の「枠組み発想」は、元々はメス獲得の願望から生じたものです。動物的な本能であるこのメス獲得の願望を達成するためには、ある時代から「枠組み」に入ることが有利に作用したのです。それは、原始的な果たし合いを男が止めてからです。でも、メスを獲得したい男は、本能として、自分以外の男性をたえず値踏みし、相手の力量を計るというクセが抜けません。無意識的に、他の男に勝ちたいという衝動を抑えられないのです。

 

そこで、腕力の代わりに、権力で相手をギャフンと言わせたいという思考に変わって行ったのです。これが、男性が、所属や地位や肩書きに強いこだわりを持つ理由です。しかしこのことは、一方で過適応を生み、自分を規定する「枠組み」こそが自分だとの錯覚を創り出しました。その結果、先ほども述べたように、「枠組み」に入ることが目標、入れれば安心、そこから外れることは恐怖、という感情を抱くに至ったのです。

 

この「思い込み」が、どれほど、現代に生きる男性の解放を妨げていることでしょうか。これまでにも何度も言ってきた通り、それは、単なる「思い込み」に過ぎないのです。そういう「枠組み」を提示して「リングに上がれ」と言う方も、そして「枠組み」に嵌められて「そうしなくちゃな」と思う方も、ともに協力しあって、そのような錯覚の世界を創り上げているのです。

 

女性の一部は、それが男性特有の錯覚の世界であることに既に気づいています。しかし、男性はほとんど気づいていません。それは、男性というものが、どうしようもなく「枠組み発想」であり、幼少時からそれを徹底的に叩き込まれて来たからです。ですから男性は、知り合いが一人もいないような集会場所に、たった一人で出かけて行くということが出来ません。自分が値踏みされてしまうことが怖いのです。

 

男性たち、特に草食系と言われる人たちには、ここを乗り越えて行って欲しいのです。メスの獲得を巡って、もうカンガルーのボクシングのような殴り合いはしなくなった。その代わりに「権威」で横っ面を引っ叩くようになりました。これからは、それさえも乗り超えて行くべき時代が来たということです。大切なのは融和であり、そのためには自己の解放(Open Heart)が何より前提になるのです。

 

だから、

 

ありのままでいいのです。ありのままであれば、他者から値踏みされる恐怖も生じませんし、他者を値踏みする眼を持つ必要もありません。

自分をさらけ出す勇気を持ちなさい。そうすれば、肩の荷が下りて、楽になるから。なぁんだ、こんな簡単なことでよかったのかと、気づくから。

 

婚活産業は、年収がどうだとか、身長がどうだとか、容姿がどうだとかと言います。でもそんなことを条件に挙げる女性は、最初から相手にしないことです。だっておかしいでしょう? そういう女性は、いったい何と結婚したがっているのか、よ〜く考えてみてください。本質と付属物とが逆転していますよ。こんな罠に巻き込まれてしまったら大変、破綻は目に見えていますよ。

 

現代という時代は、婚姻関係が「生活を共にするベースキャンプ」という発想が強過ぎるのです。誰も彼もが損得を第一に考え、「ベースキャンプ」を得する場にしたい、またしようとする。でも、結婚で大事なのはそこではありません。婚姻生活という場で為す仕事を通じて、お互いが人間的、また霊的な成長を果たすということです。あなたが選ぶパートナーは、その覚悟に同意してくれる人であるべきです。

 

それに世の男性たちは、どうすれば女性にモテるかということについて大きな誤解をしています。婚活産業が、モテる基準というものを提示するものですから、それらをすっかり信じてしまい、自分が基準を達成できていないことに妙に萎縮してしまったり、逆に自分は基準を達成しているんだぞと見栄を張ったり。涙ぐましい努力をしている人たちを見かけます。

 

そういう人たちに言ってあげたい。あなたは、いったい何人の女性と結婚するつもりなのかと。底引き網に引っ掛かって来た中から、ベストの一人を選びたいのでしょうかしらねぇ。でもね。喩えは悪いですが、のんびり釣り糸を垂れている時に喰いついて来た魚も、一匹は一匹なんですよ。そして、次が肝心。どのような方策を取ったとしても、「縁」ある「魂」は最初から設定されているということです。出逢うものは出逢うのです。

 

あとは、「波動の法則」が「縁」を選ぶ。だからこそ、「Open Heart」が大事なのですよ。「Open Heart」に勝るものはない。あなたが、いつも「Open Heart」でいれば、同じように「Open Heart」である人が、その波動に惹かれてやって来ます。女性を敬い、出しゃばらずに、偉そうにせずに、周囲の人たちにただただ誠を尽くしなさい。それが、いちばんのモテるコツです。

 

さて、一方の女性たちの課題です。総じて、女性たちはこの半世紀で大きな進歩を遂げました。それは、もともと持っていた良好な性質に加えて、様々な社会的タブーが過去半世紀に一気に取り払われ、そこに聡明さがプラスされたからです。もともと持っていた性質というのは、身の廻りの細かな仕事に、倦まず弛まず取り組める粘り強さを持っているということです。

 

これは素晴らしい特質で、「倦まず弛まず」ということが、いちばんの霊的進化を約束してくれるのです。一方、男性はこれが苦手で、「大志」というロマンに惹かれ、日々の細々としたことには眼が向かないだけではなく、そんなものには価値がないとすら思っているのです。結局これが、男性が「枠組み発想」に流れやすいということに繋がり、逆に女性は「枠組み発想」に陥りにくい元になっているのです。

 

こうした結果、霊的進化という点においては、今や男性は、女性との間に大きく水を開けられてしまっているのです。その表れは、この「虹の学校」でも顕著に見られ、接触して来られる人の95パーセントが女性という、極端な女高男低が見られるのです。しかし、政治・経済の社会は、ふた回りも遅れていますから、未だに錯覚が解けない男性たちがウヨウヨいて、延命策を続けているのが実情です。

 

ところで、いま女高男低と書きましたが、あなたの現在の性に照らし合わせることは、ほどほどにしておいてください。何度も言うように、「魂」は輪廻転生するのです。今世、男性であった「魂」が次は女性に、女性であった「魂」が次は男性にということは、充分にあり得ます。両方を味わい尽くすのが輪廻転生の目的なのですから。ですから、女高男低という現象は、両者で考えなくてはならない課題なのです。

 

その上で、今後は、先行した女性が、男性を引っ張るという形になって行きます。しかしそれには、男性が、これまでの誤りを認め、反省し、素直になって、ハートを開くということが前提条件です。けれども、面子にこだわる男性には、なかなかそれが出来ません。しばらくは辛抱が必要です。焦ることなく、あなたが「Open Heart」になることで、周囲の男性たちを「Open Heart」に導いて上げてください。

 

さて、いま挙げたのは、霊的に先行している女性たちですが、もちろん女性全員がそうというわけではありません。女性の特質として、もう一方に、感情に流れやすいという点と、物欲に染まりやすいという面があります。今の社会は、これらをさらに刺激する方向へ動いていますので、その罠に簡単に嵌ってしまう人も、一方ではたくさん出現するということになります。

 

こうして今後は、霊的により進化する人たちと、低い波動に堕ちる人たちとが、極端に分かれて行きます。そのことによって、人間社会はますます混乱の様相を呈するようになりますが、そこを長い目で見て通過することが大切です。どのような段階にある「魂」であっても、その時に選んでいることは、その「魂」に取っての真実なのです。そこを汲み取ってあげてください。

 

すべては、たった一つの到達点へと続く旅です。どんな「魂」も、必ず、最後はそこへと行き着くのです。そこに希望を見出してください。そして、先ずあなたが「Open Heart」の心で、日々を生き抜いてください。それが、周囲の人々を明るく変え、ひいては地球全体を救うことに繋がります。あなたが明るくなることと、周囲が明るくなることはイコールなのです。

 

なぜなら、もともと一つだったのですから。

男の課題、女の課題(1)LGBTの解放運動が示唆しているもの

なぜ、この世に男女の性別というものがあるのでしょうか。このことについて、これまでに深く考えてみたことがありますか? 最近になって、LGBTの問題が俄かにクロースアップされるようになり、当事者や関係者の方ならば、もしかしたらそのような問い掛けを自分自身になさった経験がお有りかも知れません。私たちは、この問いについて、もっと根源的な理由を知るべき段階に来たと思います。

 

男女の別があるのは、生殖をして子孫を残すためだと考える人たちがいます。確かに、それも答えの一つです。自然界を見れば、雌雄別の生命体のすべてが、基本的にはそのような在り方をしていますから。しかしこの考え方は、現象の表層しか見ていません。なぜならば、他の動物と違って、人間は輪廻転生を繰り返す生命体だからです。個々の魂は、その連続においては、男にも女にも生まれ変わるのです。

 

男女別があることを「子孫を残す」という視点でしか考えていない政治家がいて、時々、不穏当な発言をしてしまう様子を見かけます。抗議にあってから、慌てて釈明したりしているのですが、日ごろ考えていた本心がついポロッと出たということに過ぎません。彼らにとっては、人間というものは、単に人口(population)であって、個々の人間(human)存在ではないのです。彼らの意識の中に、ヒューマンへの共感はありません。

 

人が、この物質世界に生まれて来た理由には、それぞれ個別の課題があります。今世、男に生まれた、女に生まれたというのも、その課題の一側面であり、中間生(転生と転生の間)に滞在していた時に、自分でプランニングしてきたものなのです。「子孫を残す」という視点だけでは表層しか見ていないというのは、自分が今世、なぜ男に(あるいは女に)生まれて来たのかという、そもそも論が欠落しているからです。

 

個々の「魂」は、物質世界に何度も何度も転生しながら、少しずつ霊性を向上させていく旅を続けます。その際に、過去世で積んで来たカルマの解消と、真実の愛というものについての学習を、我が身に降りかかる経験(多くは辛く困難な体験)を通じて行なっていくのです。地球というのは、いわばそのための林間学校なのです。

 

「魂」のホームベースはあくまで霊界であり、自己の霊性の向上のために、意を決して出掛けて行く修行道場、それが地球です。それは、物質世界でしか味わえないハードなトレーニングをするためであり、自分で、筋トレならぬ「霊トレ」に「よし行って来るぞ!」と決めて、人は地球に誕生するのです。けれども、ちょっと油断をしていると、カルマを雪だるま式に増やすことにも成りかねないという、ここは案外厳しい学校なのです。

 

さて、そのようにして霊性が向上して行った暁には、個々の「魂」の性別は、どのようになって行くと思われますか? そう、性別が無くなります。中性になってしまうのです。あるいは、男性でもあるし、女性でもあるという言い方も出来ます。つまり両性を持っているということですす。神が、あるいは宇宙が、しばしば父性と母性の両方で語られるのは、それを示しています。

 

*キリスト教は、神を「父」に限定してしまいましたが‥‥。そこで、それを補完するために、聖母マリアをもう一つの信仰対象としてバランスを図りました。

 

仏像の弥勒菩薩や観音菩薩が中性的に描かれているのは、霊性が高いことを表しています。人間でも同じで、「魂」が完成に近づき、霊性が高くなった人物は、例外なく中性的な魅力を持っています。また、一人の人間の一生を見た場合でも、経験を積んで、それを消化して来た「魂」は、晩年になると、お爺さんなのか、お婆さんなのかが分からなくなってしまいます。

 

このように、輪廻転生の旅を「性別」という観点から眺めますと、それは「中性に限りなく近づいていく旅」だとも言えるのです。中庸の一つの表れです。しかしこのことを、大多数の人は知りません。そこで、世の中には、今もって男性性や女性性を強調するもので溢れ返っているのです。しかしそれは、金銭欲や物欲と同じことで、肉欲への執着を手離そうとしないということなのです。今のこの身体が、自分のアイデンティティだと思い込んでいるわけです。

 

しかし、そう「思い込む」のも無理ありません。幼い頃からそう躾けられますし、思春期になればなったで、鏡に映った自分の姿を見て、他者と比較することを覚えて行くでしょう。でも、冷静なって考えてみれば、鏡を見ていない時の自分は、この「身体」なのではなくて、今の「意識」なのだと気づくはずです。あなたは、あなたの身体の全体像を、自分の眼で直接見て、外側から把握するということは絶対に出来ないのです。

 

つまり、それは「思い込み」にしかない。何かを通して(例えば写真に映った)自分と思われるものを見ることは出来ます。友人に「ここに映っている人はあなただよ」と言われれば、そうかなと思う。しかしそれは、あくまで「映ったもの」であって、あなたの身体ではありません。あなたは、自分の身体を、「着ている」という感覚でしか捉えられないのです。むしろ、それこそが真実なのです。

 

あなたの身体は、今世における、ドレスでしかありません。

ですから、「なぜこのドレスなのか?」を考えることは、あなたの今世における旅の、大きな手助けになります。

 

さて、霊性が高まれば中性的になって行くということを、別の角度から見てみましょう。前回のブログで、「魂」の輪廻転生の旅を、大海と一滴の雫に喩えてお話しました。大海から昇った蒸気が凝固し、一滴が生じて、雨となって地上に落ち、しだいに同類を集めながら元の海へ還るというお話です。では、この大海の性別は何でしょうか? そうです、中性です。では、最初に生じたという一滴は?

 

この一滴のことを、精神世界用語でエンティティ(entity)と言います。エンティティはIT用語にもなってしまったので、解りづらいかとも思いますが、最初の実体、やがて自我を持った「魂」に成長する霊的な種子のようなものだと思ってください。このエンティティには、もちろん性別は無いのです。大海の一滴ですから、まだ大海の性質を所持しているわけですね。

 

しかし、このエンティティが地上に落ちた時から、性別が始まるのです。なぜならば、物質界をあまねく貫く論理は、陰陽二極性にあるからです。これは、元をただすと電磁気的な性質で、プラスとマイナス、S極とN極に代表されます。およそ物質界では、あらゆるものが、この両極性の間に、物質化という現象を通して出現しているのです。そこで、人間も例外ではなく、オスとメスとに分かれるのです。

 

なぜ二極性があるかと言えば、二極の間にこそ、次の新しいものが生み出されて行くからです。これを、逆三角形(▽)を書いて『三角形の法則』と呼びます。上の両端が二極性で、間に新しいものが生み落とされるのです。この二極性は、通常、ポジティブとネガティブとか、プラスとマイナスのように言われることが多いのですが、そこに優劣というものはありません。それは単に反対の性質であって、両方ともが必要だということです。

 

*時に、私も「ネガティブ」という語を否定的な意味で使ったりすることがあるのですが、それは言葉の綾で、その時そう表現したと理解してください。

 

ですから、人間の男女ということを考えた時にも、そこに優劣があるのではなく、両方が必要であり、互いに補完し合っているということです。さらに言えば、霊魂の本体(=創造主)から、エンティティが出現した際には、これが地上へと降りる前に、バランスを取るために二つの極性に割れるのです。そして、各々が別々の「魂」として、成長の旅を開始して行くのです。これが、いわゆる「ツイン・ソウル」の関係です。

 

英語の「man」は、もともとは「人間」という意味でした。つまり、両性具有(androgynos)だったのです。しかし、そこから一つの極性が新たに生み出されました。神話で語るところのアダムの肋骨を1本取ったのです。それで、「man」から別の「man」を生み出す、生〜むman →「woman」が創られました。この分割によって、元の「man」の極性に偏りが生じ、「man」が「男性」の意味を持つようになったのです。

 

肉体を持って地上に降りるということは、言い換えれば、天国世界からの堕落を意味します。これは、イエスであろうとブッダであろうと同じことです。波動を下げなければ物質化することは出来ません。ですから、地上に生まれたということは、元のエンティティが、敢えてそうすることを選んだということなのです。なぜ? 好奇心によって。好奇心への誘惑に乗って。これが、聖書に書かれた、アダムとエヴァの失楽園の物語です。

 

こうして、好奇心から一度は物質界に堕ちた「魂」ですが、その後は、男女の極性を持つことでしか出来ない体験を重ねることによって、再び、霊性の向上を目指すようになって行ったのです。しかしそれを聞いて、「なぜ天国に居続けなかったのか?」「なぜ、そんな七面倒くさいムダな旅に出たのか」と、疑問を持たれた方もおられるでしょう? では、あなたは旅には出ませんか?

 

このようして、様々な困難に遭遇しながら、喜怒哀楽を味わい尽くし、少しずつ真実に目覚めて行く過程に、「愛のレッスン」があるのです。そして、霊性がいよいよ高まった「魂」は、遂に輪廻転生を止めます。地球学校を卒業して、もといた天国の存在となるのです。それは、「性別」の観点からみれば、中性となったがゆえに、男女いずれかにならなければいけない地上には、もう出て来れなくなった、という意味でもあるのです。

 

さて、いま説明したことを踏まえた上で、改めてLGBTの問題を考えてみましょう。一つの「魂」は、連続している輪廻転生の体験の中で、性差の両方を味わうために、男にも女にも転生します。その時に、ここしばらくは過去世でずっと男、男が続いていたのに、今世になって急に女のドレス(肉体)を纏ったことで大いに戸惑うということが、しばしば起こり得るのです。(もちろん逆パターンもありますし、個別の因果はもっと多種多様です)

 

これは、今回はそうすることが適切と判断して、自分で決めて誕生して来たことではあるのですが、いざ生まれてしまうと、前世までの肉体上の未練がまた復活して来てしまうのです。このメカニズムは、「性別」に限って見ているために、極めて特殊であるかのように思えますが、決して特殊なことではありません。今まであまり(全く?)触れられて来なかったというだけの話です。

 

次の転生で、自分をどのような境遇に置くか、また身体をどのように創造するかは、その「魂」の、それまでのカルマを元にして設計されます。「性別」は、そうしたカルマ上の、たくさんある選択因子の一つなのです。この設計は、地上での体験をし尽くすために、通常はバランスを取るように配慮されます。贅沢に溺れた者は次には最貧者に、他者を虐げた者は次には虐げられる側に、といったようにです。

 

ところが、そうして自ら設計したカルマ解消の機会を、有効に使っている「魂」というのは、それほど多くはないのです。その理由は、無智と、地上世界ならではの我欲に、大多数が捕まってしまうからです。この無智の中には、宗教的ドグマも含まれます。その結果、同じカルマをグルグルと辿り直す「魂」が、大勢出て来てしまうのです。それほど、カルマの解消というものは難しい。放っておけば、大多数の人が、自分のカルマに負けてしまうのです。

 

LGBTの問題に関しては、今は「人権」ということが盛んに言われています。これは、現状では致しかたない面もありますが、そこに留まるのではなく、出来ればその先を行って頂きたいと思います。差別と人権無視ということは、LGBTに限らず、あらゆる分野で起きていることです。人種や、民族や、出自や、貧富や、学歴や、背の高さや、体形や、果ては頭が禿げているか否かといったことまで。

 

LGBTと禿げとを一緒にするなと怒られるかも知れませんが、本人がそこに強い差別感を感じているのであれば、その人にとっての深刻さは同じなのです。問題は、LGBTだからということではなくて、人間というものは、そもそもが、ある決まりごと、定見や価値基準から外れる者を、差別し排斥しようとする性質を、大概の人が持っているということです。本質はそこです。そこにメスを入れなければ、根本は解決しません。

 

なぜ、人が差別意識を持つのか? 一つの答えを言えば、地上の人間たちは、他者を「魂」で見ようとしていないからです。そういう習慣や、そのための訓練が出来ていないのです。およそみんなが、身体に(つまりドレスに)貼りついた属性をもって他者を値踏みする。そこで、美人とかブスとか、デブとか、チビとか、禿げとか、ゲイだとか、いろんなことを言い出すわけです。

 

さて、このような「視点」に対抗する手段は、「人権」しかないのでしょうか? 出発点としては、確かにそれも一つです。しかし「人権」アプローチは、メガネ自体は変わっていないのに、そのメガネで見えたことを言うのはタブーだよ、という社会認識を創造しているに過ぎません。その結果、自由な表現活動にも支障を欠くような、非常に息苦しい状況が生まれています。

 

真の問題は「人権」にあるのではなく、人々がいま掛けているメガネこそが問題なのです。その人が、身体レベルの意識をもって他者を見れば、その人には相手の身体が発する情報しか見えません。でも、心のレベルの意識をもって他者を見れば、その人には、相手の心が見えるのです。さらに一歩進んで、「魂」レベルの意識をもって他者を見るようにすれば、相手の「魂」までが見えるのです。

 

人類は、もうその段階に進むべき時が来ているのに、由々しきことに、心の眼で見ることすらも止めてしまいました。

 

「○○マイノリティ」という言葉を聞いたときに、私がいつも違和感を持つのは、自分たちで「マイノリティ」と言っておきながら、同時に「自分たちを差別しないで欲しい」と主張することの矛盾です。「差別するな」と言うのであれば、「マイノリティ」という言葉は撤廃しなくてはなりません。そもそも、カテゴリー分けというものは(つまり名称を持つものは)、すべてが「区別」の上にあるのです。

 

その「区別」に、優劣のスケールを当てると、それが「差別」になる。この関係を認識することが大切です。言葉は、そもそもが、何かと何かの「区別」したものの組み合わせなのです。犬と猫は違うというように。ですから、「区別」がなければ、会話も文章も成り立ちません。それを知った上で、言葉の上には、容易に「差別」意識が乗っかる危険性が常にあるということを、注意して欲しいのです。ですから、単純な言葉狩りに意味はありません。

 

そうではなくて、あらゆるものの本質は「個性」だということなのです。「区別」を「差別」にするのではなく、「区別」の前には「個性」があるということです。その「個性」が集まって、平均的な妥協点にカテゴリーが出来ている。その意味では、LGBTというカテゴリーも、またそれを細分化したLとGとBとTというカテゴリーも、ただの便宜上のレッテルに過ぎない。

 

重要なのは、Aさん、Bさん、Cさんが、それぞれ、みんな「個性」を持っているということです。そして、この「個性」を尊重する、また敬愛するということが、これからの社会においては非常に大切になっていくし、今後、人類が乗り越えなくてはならない、一つの大きなハードルであるとも言えるのです。

 

人は、例えば「性同一性障害」といったレッテルを、自分にも、そして他者にも貼りたがります。でもそのレッテル貼りに何の意味があるでしょうか? レッテルがあなたなのでしょうか? 宇宙からみれば、「障害」などというものは、何一つだってないのです。すべてが「個性」です。「個性」の集合体が宇宙なのですから。この本質が解ったとき、あなたは真の「愛」に目覚めます。ですから、あなたには、どこまでも「個性」の表現の中に生きて欲しいのです。

 

「人権」などというものは、別のレッテル貼りに過ぎません。そんなもので、またもや自分の身体をグルグル巻きにしますか? よーく考えてみてください。「魂」の世界から見れば、LGBTであるということは、その課題を通して、より中性に近づくチャンスを与えられているということなのですよ。ですから、喜ぶべきことなのです。プラトンだってそれを言っています。

 

どの世界にも無理解はあります。罵倒する人もいます。そんなものは放っておきなさい。無理解な人々は、今その段階を学習中ということなのです。説得しようとしても無駄なエネルギーを使うだけで、本人の気づきを待つしかないのです。それよりも、あなたは、あなたの個性を堂々と表現して生きるのです。そのようにして、自分を解放しなさい。

 

自由に、もっと自由に。もっともっと自由に。

 

(次回につづく)

自分の声を聴くということ

ひとの声に従って生きるのは楽です。なぜなら、「迷い」に直面して自分で「悩む」という機会がそれだけ減るから。そこで多くの人は、自分の意思決定の様々な機会を、他の誰かに肩代わりして貰う道を選びます。家庭では親に、職場では上司に、学校では教師に、クラブではコーチに、病院では医師に。その他、多くの問題は、その道のカウンセラーやヘルパーと称する人に。

 

霊的分野も例外ではなく、宗教では教祖や先達に、スピリチュアル系では霊能者のご託宣や、カバラや、占いに頼ろうとします。要は、自分をロボットにして生きることを、現代人は暗黙のうちに選択しているのです。それどころか、自ら進んでロボットになる道を選ぶのです。でも考えてみてください。自分の行動を自分で決められない動物など、他にいるでしょうか?

 

近代というのは、工業生産と都市化が著しく発達した時代(大衆消費社会)で、そういう社会を造るためには、同じような思考と行動様式をとる、多数の「ロボット人間」が必要でした。教育の義務化。みなさんが信じている学校矯育は、そのために編み出されたものなのです。そこでは、先輩ロボット教師が、次世代のロボット人材をまた育て上げるという、まさしくオートマタの増幅システムが構築されたのです。

 

*オートマタ(Automata、複数形)、オートマトン(Automaton、単数形):自動機械人形のこと。自分と同じようなオートマトンを作るようにプログラミングされたオートマトンが、オートマタをどんどん増やして行く。

 

それは、新たな宗教と言ってもよく、そのシステム自体を否定したり、そこからドロップアウトする者は異端審問に掛けられ、みな落伍者(落ちこぼれ)のレッテルを貼られたのです。とりわけ日本は、周囲への同調圧力が強く、個人のオピニオンを尊重するという風土がまるでありません。「あら、いい和ね」「私もそうする和」といった感じで、万事を「空気」が決めて行く。それをまた、みなが良しとしているのです。

 

しかし、近代というものが明らかな曲がり角に来たなかで(それは、大衆消費、大量廃棄、奴隷労働、環境破壊、激甚災害、食品汚染、薬物汚染等々の現象に端的に見られる)、近代の、このロボット化矯育システムや、強欲資本主義をまだ続けたいと願う権力者と、そこにぶら下がる者たちがいて、時代の変化(それを創っているのは、人々の意識の集合体)との間に、いまや大きな裂け目が生じているのです。

 

恐らくあなたも、その裂け目から発せられるギシギシという軋みの音を、日々感じ取っておられることでしょう。

さて、それで、あなたはどうするのか? どうしたいのか?

この先、どう生きるのか? それがいま、問われている。

そこで、

 

「自分の内なる声を聴きなさい」ということになるのです。

 

とは言っても‥‥。自分のどんな声を聴けばよいのか、迷うところでしょう。あなたには同時にたくさんの声が聴こえるはずです。「やっちまえ!」「いやダメだ」「冷静になれよ」「許すんだ」「そっと見守ろう」「愛せよ」。あるいは、「自分を信じろ」と言っても、自分の何を信じればいいのか、たくさん聴こえて来る声のどれを信じればよいのか、判らないことでしょう。

 

しかしそれでも、あなたは自分を信じなければならないのです。多くの人は、その覚悟がないために、権威あるものにすがろうとします。親であったり、先生であったり、師と仰ぐ人であったり、組織の幹部であったり、有名人であったり、霊言を下す人であったり、またその言葉であったり、伝統的なしきたりであったり、聖書・聖典の中の言葉であったり、と。

 

その刹那から、その人の「ロボット人生」が始まるのです。そして、最も大切な「自由」を忘れて、自分以外の他者に操られる自分になる。しかも、自ら喜んで。ここには大抵、スケールの罠が仕掛けられています。入門者、弟子、師範といった、階段を駆け上がって行く仕組みが。そのスケールの罠に、みんな嵌められてしまうのです。でも誰も、それが罠であるとは気づきません。それが、この世の中の常識だから。

 

入門を果たせたら嬉しい。弟子と認められたらさらに嬉しい。師範になれたら、さらにさらに嬉しい。自分はもう特別なんだ。よーし、この流儀・流派を、自分はしっかりと守って行くぞ。これを次の世代にも広げるぞ!

しかし、この罠は、いつかは罠であることが明らかになります。みんなが信じている間は、それが罠であるとは気づかない。でも信じることを止めた時には、ピラミッドは一挙に瓦解する。

 

それが幻想に過ぎないと解ってしまう。だから、そこに自己のアイデンティティを完全に預けてしまっているような人は、それが幻想だと気づいた時には、アイデンティティ・クライシスを起こしてしまうのです。頭のいいエリートたちには、それが薄々分かっているから、危機が迫った時には、その恐怖に耐え切れずに、みな保身に走ろうとするのです。「魂」の成長にとって、最も大切な、素直で正直で誠実であろうとすることを一切止めて。

 

他者の声に従って生きるのは、一見楽なようですが、地上に生まれたというせっかくの学習機会を、まるで活かしていないということになるのです。幻想を幻想だと認めずに、いくら踏ん張り通したところで、あなたはどの道ドンデン返しを迎えます。人が「死」と呼ぶ瞬間を迎えた時に。だとすれば、もっと早くに気づいて、「魂」の自由を追求した方が、ずっと有意義だとは思いませんか?

 

ですから、賢明なあなたには、あなた自身の内なる声に静かに耳を傾ける姿勢と習慣を身につけて欲しいのです。それを貫いて欲しいのです。さて、元に戻って、たくさん聴こえてくる声の、一体どれを信じたらよいのかという問題です。ここで重要なのは、「どれを信じればよいのか」という、正に「良いのか?」という部分です。多くの選択肢の中で、あなたは「良い」選択をしようとします。この「良い」とは、何を意味しているのでしょうか?

 

あなたが、もしもエゴ的な尺度を当てていたとしたら、そこでの「良い」とは、自分のエゴを満足させることになります。でも、「魂」的な尺度を当てていたとしたら、「魂」の成長を図ることが「良い」と思うのです。さらに進んで「霊」的な完成を目指していたとすれば、あなたは霊的な尺度を当てて、どうすることが「良い」かという声を聴くことになるのです。

 

つまり、あなたは、あなたの「今の成長段階に応じた自分の声」を聴くことになるのです。逆に言えば、現在の成長段階に応じた声しか、あなたには聴くことが出来ません。これが、よく言われる「すべては完璧」の意味なのです。あなたは、ご自分の選択行動を「良いか、悪いか」で考えようとする。それが心グセになっています。しかしそれは、あなたという「魂」の成長から見た場合には、すべてがドンピシャなのだということ。

 

この意味が解りますか? ですから、霊的世界には、「良い」以外にはあり得ないのです。

 

あなたは、大海から生じた一滴の雫です。この雫は、誕生すると雨つぶとなって地上に落ち、同類の仲間を集めながら、次第にチョロチョロ流れる小川となり、最後は大河に合流します。この大河は、途中どんなことがあったとしても、最後の最後は、元の大海へと還るのです。この大河の流れに身を任せれば、すんなり帰還することが出来、途中で岩にしがみついたり、窪地に落ちたり、逆行しようとすれば、抵抗に苛まれるのです。ただ、それだけのこと。

 

ですから、あなたが、この真理を認めて、流れに身を任せるような生き方をして行けば、(つまり、ありのままに物事を見て、素直に正直に誠実に生きて、純粋さを尊び、直観を大切にすれば)、万事がよいように進展するのです。ただし、繰り返しになりますが、この「よい」は、エゴ的に「良い」ことではありませんからね。

 

波動の法則によって、通常状態にある時には、あなたは、今のあなたの振動数に近い領域の波動しか知覚することが出来ません。このことは、〈同じ本であっても、どの箇所にアンダーラインを引くかは、それぞれの人によって違う〉という喩えを使って何度か語って来ました。Amazon でも、同じ本の評価に☆5つを付ける人もあれば、1つという人もありますよね。それ以前に、そもそも、その本に巡り合わない人の方が圧倒的多数です。

 

ですから、あなたが、もしも「霊性の向上を目指して生きる」と決めた人であったなら、今よりも高みを目指すということを常に意識しつつ、毎日のこの瞬間瞬間を送ることが大切です。階段は一歩一歩、着実に登って行くしかないのです。でも降りる(堕ちる)のは簡単です。手摺りにチョコッとお尻を乗っければ、一気にスーッと降りられる。これが、パックリ口を開け、あなたを待ち受けている罠です。

 

でも、光への道に、近道はないが早道はある。なぜ、何種類もの声が、次々とあなたに聴こえるのでしょうか? それは、取りも直さず、あなたが多次元的存在であるということを示しています。一次元、二次元、三次元、四次元、五次元、時には六次元からの声も聴こえることがある。しかし、高次元からの声は、自分をよほどピュアな状態に保っていない限り、低い波動によってすぐに掻き消されてしまいます。

 

あなたの意識は決して一つではありません。各次元に対応した、たくさんの意識チャンネルを同時に持っているのです。でもテレビの第1チャンネルを視聴している時には、第4チャンネルは映りませんよね。それと同じで、今どのチャンネルにチューナーの針を合わせているかによって、受信できる声が違うのです。ですから、高い次元(ハイヤーセルフ)の声を聴くためには、低い次元のチャンネルは閉じなければならないのです。

 

私がしばしば、スマホの害を指摘するのは、そのことが理由です。須磨穂の国からは、絶えずあなたを罠に落とし込もうとする低い波動がやって来ます。これに一度嵌ってしまったら、手摺りをピューッと滑り堕ちる快感から、もう逃れられません。そうなったら、高次元の声はもちろんのこと、通常の意識状態の声すらも聴こえなくなってしまいます。そうやって、気づかぬうちに、既にみんなソンビにされてしまっているのですぞ!

 

では、この『気づきの啓示板』はどうなのか? 「このブログだけは違う」なんてことは言わない。やはり虜になったらゾンビになる。あなたをゾンビにさせる要素は、ここにもある。だから、気をつけたまえ!

 

信じてはダメだ。信奉したらなお悪い。納得いかない言葉も鵜呑みにして、従おうとしてはいけないよ。すべては、あなたの道の、両側に広がる風景に過ぎない。このブログに書かれてあることは、あなたが歩く道端に落ちている、ただの石ころや棒切れだ。あなたは、その中から「おっ」と目に留めたものを拾い上げる。それは、ただ今このタイミングで、あなたが、〈自分の意思〉で開かせた、自分のチャンネルなのだよ。その〈主体性〉を、強く意識して毎日を生きなさい。

 

だから、高いチャンネルを開くためには、それなりの訓練と準備をしなければなりません。その手段が、他ならぬ「瞑想」です。止まる瞑想、歩く瞑想、坐る瞑想。この3つを日常生活に積極的に組み込むことによって、あなたは「瞑想的」日常生活を送るようになります。そうすれば、五次元の扉が開いて、遂にはそこからの声が主体の人生となる。こうして、その人は、三次元の物質世界にいながらにして、同時に五次元世界にも生きる存在となり得るのです。

 

この時、その人からは「悩み」が消える。なぜなら、真の自分(真我)に従って生きる自分になるのですから。わたしはわたし。もう迷いはない。そしてそれは、その先に、神我と一体となる我(大海の一滴)を見出すのです。ですから、先ずは真我の発見を目指しなさい。そのために、瞑想を、日常的手段として用いなさい。そうすれば道は早い。

 

自分を信じて、自分の声を聴くのです。

戦争への構図

戦争は一人では出来ません。集団同士が争うことによって、戦争が「創られる」のです。それは、悲惨で大規模な破壊をもたらしますが、地球という惑星に降りた魂たちの、〈現段階における〉創造的行為の、一つのバリエーションとなっているのです。

 

人間、一人になった時には、誰もが友愛と平和と笑顔であることを望んでいるのです。でも集団になると、時に、この思いがあっさりと破られ戦争へと突き進む。そうやって、平和と戦争、言い換えれば、友愛と他者蔑視との間を行き来し、愛の学習とカルマの清算とを繰り返しているのです。それは、健康な時には健康のありがたみがちっとも分からず、大病をしてからやっと分かるのに似ています。

 

メディアの発達は、過去の戦争がもたらした被害や、民衆の生活への影響、戦争体験で生じたトラウマ、また戦争へと突き進んでいった時代の背景や要因について、様々な角度から分析的な映像を見せてくれるようになりました。しかし同時に、戦争の立役者を歴史的偉人として描いたり、殺戮者をヒーローとして賞賛するドラマやゲームなども、数多く産み出されています。

 

それは正に、地球人というものが、未だにその間を行ったり来たりしている学習段階にあるということを、如実に示しています。芸術家の一部は、小説や絵画や映画やドキュメンタリー作品などを通じて、「なぜ人間はこんなにも悲惨で、不条理なことを繰り返すのか?」と、ずっと訴え続けて来たし、今も訴えているのですが、その効果がまだ目に見える形としては現れていません。

 

私たちは、その背景にはどんな構図があるのか、という点について、もう一歩進んだ理解をして行く必要がありそうです。また、そのような段階に至ったと思います。そして、ここを超えられるか、超えられないかが、第三次世界大戦の勃発を未然に防止できるかどうかの鍵になると思います。

 

戦争は一人では出来ません。集団が戦争を起こすのです。ですから、そこには、集団を動かすある「力学」が作用していることは間違いありません。そしてこの点をつぶさに観察してみると、どんな戦争にも次の3つの要素が必ず存在して、この三つのエネルギーが回転し、増幅し合うことによって、戦争へと突き進んで行っているのです。

 

その3つの要素とは、

 

1.権力者とその統治システム

2.大衆の熱狂(闘争意識の鼓舞)

3.裏づけとしての(宗教的)正義

 

です。

 

この三つが、まるで巴紋のように影響を与えあって、グルグルと回転することにより、戦争へのエネルギーが増幅されて行くのです。

 

1番目の「権力者とその統治システム」ですが、戦争遂行を決定するのは、その集団を掌握している権力者です。ですから先ず、権力者に「戦争をしたい、しよう」という欲望があって戦争が起こる。しかしその欲望を実現化するためには、統治システムが、それが可能なように備わっていなくてはなりません。例えば軍隊や、武器や、諜報機関や、徴兵制や、法律や、指揮命令系統です。

 

また同時に、権力者への信頼というものを大衆の中に醸成しておかなくてはなりません。なぜなら、大衆が具体的な戦争の駒(使い捨ての)となるからです。そこで権力者は、これを悟られないように糊塗し、自分を地位や、扮装や、勲章などで偉大な存在に見せる一方で、メディアや教育機関を使って都合のよい思想を大衆に吹き込み、戦争が可能なように法律を変えて行きます。

 

ここで気をつけておかなくてはならないのは、一つには、こうした権力者に都合のよい改変というものは、徐々に成されるということです。そのため、大衆は改変の影響度といったことには気づきませんし、関心もほとんどないのです。そしてもっと注目されるべきは、権力者というものは、一人の人間として誰もが持つ友愛と平和への念というものを、最初から喪失している「魂」だということです。

 

ですから、「魂」の成長(=愛の完成、oneness)という点から見た場合には、このような学習段階にある「魂」がリーダーであるというのは、本来はおかしいわけです。ところが人間社会というのは、「分離」と「競争」が価値観の根本を成していて、このスケールを社会全体に当て嵌めていますから、一般大衆を蔑む権力者が、人々を騙して権力の座に座れるし、その御輿を担ぐ者もいるのです。

 

しかし、権力者がいかに「戦争だ!」と叫んでも、それに従う者がいなければ戦争は起きません。法律や恐怖政治を用いていくら縛ったとしても、従わない者が多数いれば、権力者の更迭や、クーデターや、内戦が起こる場合もあります。ですから、2番目として、権力者の「戦争だ!」という声に賛同する大衆の熱狂を、どうしても作り出さなくてはなりません。この役割を担っているのがメディアや教育機関です。

 

ヒトラーはその重要性を非常によく解っていて、レニ・リーフェンシュタールにオリンピックを撮らせたり、選挙活動では飛行機を使って遊説したり、自分の演説時のポーズを研究したり、また人々の意識を集めるためのシンボリックなデザインのフラッグを多数用いました。ドイツ軍の軍服が実用を超えたかっこよさを放つのも、ヒューゴ・ボス(後のメンズブランドのBoss)にデザインさせたからです。

 

さて、大衆がどうして権力者の呼びかけに熱狂してしまうのかということですが、これは誰の心にもある生活上の不満やイライラ感を、権力者は闘争心へと転化させてしまう術を持っているのです。

 

大抵の人は、自分の恵まれなさや辛い体験を、自分以外の、他の何ものかのせいにしたがります。身近な配偶者や家族や、上司や勤め先や、それらが無かった場合には社会や時代のせいにする。この、誰かのせいにしたいという欲求を利用して、ここにシンボリックな「敵」を提示するのです。「あなたが恵まれないのは、ぜーんぶあいつのせいだよ」というわけです。そうすれば、大衆の熱狂に火が着くし、そのエネルギーが一本に纏る。

 

ナチスは、ご承知のように「ユダヤ人」をこれに当てました。第二次世界大戦中の日本軍は「鬼畜米英」と言っていました。ジョージ・ブッシュは「悪の枢軸国」と言い、テロとの戦いを宣言しました。権力者のこの常套手段は、今もまったく変わっていません。大衆は、一人の時には友愛と平和がいちばんと思っているのですが、心の奥に眠る闘争心に火が着けられると、パッと燃え上がって、友愛や平和はたちまちにして溶かされてしまうのです。

 

しかし、これだけでは戦争には突き進めないし、開戦したとしても継続することが出来ません。なぜかと言うと、戦争が残虐な殺戮を伴うものだということは、みなうすうす解っているからです。そのため、その「イヤだな」という気持ちを乗り超える何かがなくてはならないのです。これが「戦争の大義」というもので、多くは、(宗教的)正義がここに当て嵌められるのです。

 

そもそも戦争に「大義」などあるわけはないのですが、「大義」を設定しようとするのは、心の後ろめたさを和らげるためです。(宗教的)と括弧して書いたのは、別に宗教でなくても、共産主義でも、民族主義でも、愛国主義でも何でも構わないのですが、しかしそこに問答無用の宗教的信念が備わっていないと、力が弱い。そこでみな「正義」を強調するのです。あとは、その正義に反する奴らはみんな「敵」だということになる。

 

そして、いま挙げた3つが揃うと、権力者としては、戦争をしたいバックボーンがきれいに整って、さらに発言がし易くなるのです。こうして、(戦争屋にとっての)好循環がグルグル生まれて、エネルギーが増幅され、戦争へと突き進むことが可能となるのです。この「戦争への構図」は、どんな戦争であっても、また地域紛争であっても、内戦であっても、まったく変わりがありません。全部が、この構図によって生じているのです。

 

ですから、もしあなたが戦争を回避したいと思うのであれば、この構図が悪回転しないような楔をどこかで打ち込むことが大切です。回る扇風機の羽に、棒を突っ込むようにして。そうすれば、この回転は止まります。

 

権力者の発言や、メディアの報道が「敵」を強調し出したら要注意。そんな時には「ああ、またやってるな」と思えばいいし、次の選挙ではその人間に投票をしなければいい。自分の中で「くっそー、あいつらぁ」という気持ちが沸いて来たら、「でも待てよ」と気持ちをなだめて、「彼らにも同じように愛する家族がいるんだよな」と想像してみればいい。もし「正義だ!」と叫ぶ声が聞こえて来たら、あのブッシュの顔を思い出してみればいい。

 

そして、すべてを冷静に、なるべく客観的に見て、人間というものの、懲りない愚かさに気づいて欲しいのです。その視点だけが、全体のこの構図からの飛躍を実現させてくれます。

 

愚かな宰相がいるのは、あなたが見る景色の中で、愚かな宰相という役割を演じてくれているのです。さて、じゃあどうするか? それを今、あなたが問われているのです。「隣国の連中はひどい奴らだ」と、メディアが思わせようとしているのは、それによって、あなたの「愛の成長度」を試してくれているのです。「こうすることが正義だ!」と言うのは、「信用できる正義など、実は何もない」ということを教えてくれているのです。

 

何度も、何度も、同じ手口に引っ掛かるようでは、輪廻転生の学習効果というものがなさ過ぎます。一度、ぜーんぶの物理的形は無いものと想像してみてください。意識の世界だけしかないと想像してみるのです。そうすれば、よく解ります。

 

愚かな宰相の演じ手も、大衆を操っているつもりが、実は奥の院の存在に操られているのです。その奥の院の存在も、もっと奥にある闇に操られている。そしてさらにその奥にも‥‥。意識の世界から見れば、ただそれだけの話。大衆が熱狂するのは、自分の中にあるネガティブ意識が、共鳴して揺さぶられるためです。この時、サッと魔が刺す。普段は、友愛と平和と笑いを愛する一人の人間であるのに、ちょっとした拍子に「魔」が刺してしまう。

 

そして、今まで育って来るなかで教えられたことや、吹き込まれた信念、さらには今日も育ててつつある信念によって、あなたは自分の中に入って来た「魔」を育て上げる。そして、この「魔」を、自分に完全に憑依させる。このようにして、ゾンビとなった人たちが大結集し、互いに殴り合い、殺し合うという一大スペクタクルを演じる集団的「創造行為」、それが地球劇場で繰り返される世界大戦です。

 

そして、僅かな人たちだけが生き残り、ゾンビから人間に戻って、

我に返って言うのです。

「いっけねぇ、またやっちまったみたいだぜ」。

今度こそ、それはやめにしませんか?

 

あなたが、自分の中のネガティブに火を点けるのをやめて、友愛に生きようとすれば、世の中にある信念は変わります。ネガティブな信念が効力を持たなくなるからです。

 

そうすれば、愛と平和を求めるエネルギーが生まれて、そのような考えを代表するリーダーが誕生します。そしてリーダーたちは、人々が暮らしやすいような、分かち合うことを基盤とした新たな社会システムを創りあげて行くことでしょう。

 

そうなれば、人々は、その社会システムによって、争うことなく、みな平和で楽しく暮らせるようになります。奴隷的労働は一切なくなり、誰もが、各個性を認めて、自己を表現しつつ、なおかつ他者にも役立つような仕事をするようになります。まるで夢のような話に聞こえるかも知れませんが、話は簡単です。最初のボタンの掛け違えを正せばいい。そうすれば悪循環が善循環に変わるのです。

 

あの人も、この人も、私と同じ人間なんだと思うだけで。

みな等しく、ともに宇宙に生かされている存在なのだ、と思うだけで。

組織宗教の賞味期限

戦後の日本を代表してきた教団がいくつか、ここに来て大きく揺れています。信者数随一を誇るある教団は、1964年、政治的野心を持って政界に進出し、数を背景に大成功を収めました。しかし、与党となっていざ権力を手にすると、宗教教義にも結党精神(中道主義、平和主義、原発ゼロ等)にも反する行動を露骨に取るようになって行きました。その結果、母体であった信者と政党、また信者と教団執行部との間で、内部紛争が沸き起こっています。

 

この教団は、もともとは日蓮宗系の一つの信徒団体だったのです。ところが、1991年に宗門から破門され、お坊さんを持たない教団として独立したという経緯を持つのです。それはいいとして、この時に、宗門から渡されていたご本尊(と言っても紙切れ)が入手出来なくなった。それで自分たちでこれをコピー印刷し、会員に配布するようになったのです。この事件が、さらに宗門の逆鱗に触れ、以来、宗門との間で激しい非難の応酬が続いているのです。

 

ということで、今の教団運営に疑問を持った信者さんの中には、元の宗門に還るという人も多く出ているようです。この、通称「本尊模刻事件」というのは、非常に象徴的で「宗教」というものが持つ性格をよく表しています。信徒団体は、破門された時点で「そんなものは不要!」と言えばよかったのですが、コピーして会員に渡してしまった。すると、宗門側からすれば、当然「それは偽物だ!」ということになるでしょう。

 

側から見ていると、「目くそ鼻くそを嗤う」といったレベルの争いにしか見えないのですが、当事者はそうではありません。これが大問題なのです。ここで判る通り、どちらも「ただの紙切れ」に過ぎないものに(と言うと、宗門は怒るでしょうが)、特別の価値を見出しているという点では変わらないのです。見出しているからこそ、信徒団体は、“似せもの”を刷ったのです。

 

それに対して宗門は「そんなの偽物だ」と言う。だから邪教だと言う。でも、本物のそれだって、同じように宗門側が刷った紙切れに過ぎないのではありませんか? じゃあ一体どこが違うのか? お寺でも神社でも、よく「御霊(みたま)を入れてある」とかと言うんですけど、御霊が入った紙切れと入っていない紙切れはどう違うのか? 御霊が入った紙切れを「信仰」の対象にして拝むのと、入っていない紙切れを拝むのとどういう違いがあるのでしょう?

 

そうかと思えば、一時は1000万人を超える会員がいると豪語していた某教団。そこの教祖の息子が教団を脱会し、ユーチューバーとして教団の内部事情を暴露するという事態が起きています。この教団も政治的な野心を燃やし、2009年の衆議院議員選挙には337人もの候補者を擁立しましたが、結果は全員が落選。これ以降、会員数1000万人超は本当なのか?、と疑念を持たれていたのです。

 

それが、教祖の長男が脱会し内部事情を暴露する事態となり、これも泥沼の争いの様相を呈しているのです。この教団にとっては、2012年の教祖夫婦の離婚騒動に続く大スキャンダルです。この他にも、跡継ぎ問題を巡ってやはり内紛が起きている真言密教系の教団があったり、血縁の教主を理事会が追放してしまったという教団も現れています。2017年には、相続を巡って、神道の宮司が別の宮司を日本刀で斬り殺すという事件まで起こりました。いやはや。

 

いったい、こんなものが「宗教」なのでしょうか、「宗教」だったのでしょうか? 私自身は、こうした争い事には関心がなく(と言いながら書いていますがけど)、今では「宗教」自体にも関心が無くなったので、さもありなんとしか思いません。しかし今進行している事態は、「組織宗教」そのものの〈賞味期限が、すでに来ている〉ことの顕れではないかと感じています。それも、日本だけの現象ではなくて、全世界的に見て。

 

跡目争いは、「組織宗教」のいわば宿命のようなもので、昔からあったものです。イスラム教のスンニとシーアの争いもそうですし、キリスト教のカトリックとプロテスタントもそうです。ローマ・カトリックとギリシャ正教は、互いに互いを破門しました。浄土真宗も、大きくは本願寺派と大谷派に分かれ、分派を数えれば30くらいもあります。岡田光玉が興した真光系は、光玉の死後に9つに分派しています。

 

跡目争いが起きる理由は、教祖あるいは先代が亡くなった際に、次に誰がいちばん「教祖(または先代)」に近いか、あるいは「教え」を体現している人か、という点が問われるようになるからです。それなしでは、教団の永続性が保証されないためです。そこで第一には、血脈(DNA)に受け継がれるはずだと考える。まるで競走馬のサラブレッドのようなものですが、神秘性を見出したい者にとっては魅力的な考え方です。

 

ところが、この考え方は一方でリスクも高いのです。先代とはモロに比較されますし、子息がボンクラであった場合には、幼少時からの側近が傀儡に利用し、裏で権力を握る可能性もある。そこで、高弟に受け継がれるべきだと考える一派とに分かれるのです。しかし、どうにも決着がつかない場合、そんな「誰が」ということが重要ではなくて、守るべきは聖書・聖典に記された「教義」であり、そこに還るべきだと主張する一派が出現するのです。

 

これに、人望や、統率力や、説法の上手さや、ルックスまでもが含まれて、跡目が選ばれる。そうした秀でたものが無い人は、金や政治力を使うということになります。問題は、そこで、なぜ「争い」が生じるのかという点です。組織宗教の場合は、その「組織」がそっくり財産の役割を果たしている。そこで、いちばんの目的(宗教的なものの伝承)以上に、財産を誰がどうやって引き継ぐかという点が、当事者には大きな問題となって来るわけです。

 

こうした争いは、外から見れば、みな「目くそ鼻くそを嗤う」がごときものに過ぎないのですが、内部にいる者はそうではありません。支柱が倒れて、ぽっかり空いた心の穴を、次に誰が埋めてくれるのかというのは、信者からしてみれば大問題です。そこで、跡を継ぐ者は自分の正当性をしっかりと見せなくてはなりません。例えば、血統の証明によって、霊能力によって、儀式によって、冠や指輪や豪華な衣装によって。

 

しかし、このような(伝統的?)跡目争いも、私には、もうそれ自体が古臭いものに感じられて仕方がありません。宗教の時代は、少なくとも組織宗教の時代は、もう終わったのではないでしょうか。戦後に隆盛を誇った教団も、今では二世・三世信者が「生まれた時から、うちではそれが当たり前だったから」というだけの理由で、惰性で信仰している人も多いと聞きます。ですから「教義を信じて」という人は、少なくなっているのではないでしょうか。

 

それ以上に、現在では、新たに「教義に惹かれて」飛び込んで来る人というのは、大幅に減っているのではないでしょうか。なぜなら、あらゆる情報が溢れ返ったこのインターネット時代に、一つの教義だけに、人を盲目的に縛り付けておくことは、もはや不可能だからです。インターネットが登場したことで、テレビはオワコン(終わったコンテンツ)になりましたが、宗教もオワシュウの時代に入ったように思います。

 

いつでもどこでもサッと取り出して拝めるモバイル神殿、世界須磨穂教に取って代わられて。その過程で、若い人たちは、組織宗教の胡散臭さをたくさん見て、ウラを知っていくことでしょう。一方で、根無し草のまま漂うことになった「魂」の大半は、時代に翻弄されて流され、一部のある者は非常に攻撃的になり、またある者は殻に閉じこもり、そしてごく少数の者だけが、真実を探し求めて、行動するようになって行くことでしょう。

 

先日、『エル(ELLE)』というフランス映画をDVDを借りて観ました。その中にこんなシーンがあるのです。主人公の女性が自宅でパーティを開き、知人を招待します。そこで手作りのご馳走を振る舞い、さあ食べようかとなった時に、お向かいの若夫婦が「ちょっと待って」と言って、二人で食前のお祈りを始めるのです。その途端、そこにいた全員がドッチラケーといった表情を浮かべて、二人の祈りの間、祈るフリのお付き合いをするのです。

 

この若夫婦は熱心なクリスチャンという設定なのですが、それを見て、「ああ、フランスでも宗教事情はこんなものなのか」と思いました。欧米文化がキリスト教の長い伝統を背景に成り立って来たことは確かです。ですが、こと「信仰」ということになると、以前とはだいぶ様変わりして、欧米でもかなり形骸化して来ているのかも知れません。

 

組織宗教がもはや時代遅れだと思うのは、まさにそれが「組織」であるという点です。「組織」は、指導者と指導される者、管理者と管理される者、先輩と後輩、優秀者と凡人、段位合格者と不合格者等のヒエラルキーを必然的に生み出します。すると、△形の上位に位置する者には優越意識が生じる一方で、底辺に位置する者たちには、「頑張って上に上がるぞ」というモチベーションが働くのです。

 

基本的に、「組織」というものは何であれ、この内部力学を利用して維持拡大するように図られています。組織宗教はこのスタイルを応用したのです。さて今「ヒエラルキー(ハイアラーキ)」と言ったのですが、これは元々霊的な階層(つまりバイブレーションの段階的違い)を説明した言葉だったものが、地上にある宗教組織にも転用されるようになったのです。しかし両者には、似ているようでいて決定的な違いがありました。

 

それは、霊的階層においては、高次元の存在(高級霊)が、下位のもの(魂)を、管理したり、思い通りに動かそうとしたり、恐怖を与えて脅したり、貢物を迫ったり、収奪したりすることは絶対にないということです。なぜないかと言えば、それらはみなエゴから生じる行為ですから、そもそも高次元の存在にはあり得ないことですし、エゴを抱えていたのでは高次元の存在にもなり得ないのです。この単純な理屈をみな知らないのです。

 

一神教の宗教は、ここに「契約」の概念を持ち込んで、「ちゃんと信仰していれば恩寵を与えるぞ」「天国にも行けるぞ」「でも教えに叛き、罪を犯したら神は罰を与えるぞ」「地獄行きだぞ」という教義を編み出して、これを浸透させて行ったのです。しかし、繰り返し言いますが、宇宙(神)があなた方の一挙手一投足すべてを見ていることは確かであっても、宇宙(神)には罪も罰もありません。罪と罰は人間の創造物なのです。

 

組織宗教というのは、ですから、一般社会で見かけられる上下のスケール(物差し)の概念を、そのまま宗教にも当てはめて、ありがたがったり、良いとか悪いとかと言っているのです。実にこれが、人間が長年かけても超えられなかった盲点なのです。神の下僕として生きるのではなく、己のエゴのために神を利用しようとしているのが、大方の組織宗教なのです。

 

あなた方は幸福を求めます。そして、霊験あらたかと言われる紙切れを貰ったり、ご祈念メダルを購入したり、秘密のマントラを授けて貰ったり、霊能者にどうしたら良いかという判断を求めます。

 

幸福を求めることが悪いとは言いません。それは、地上に生きる者の当然の希求です。しかし問題は、何が良いあり方で、何を悪いと考えているか、ということなのです。例えば、入学試験を受けた。合格が良くて、不合格は悪いと考える。普通はみんなそうです。でも真理の世界はそうではありません。良いことも悪いことも、みんな良いことなのです。あなたの身の上に起こることは、すべてが良いことなのです。

 

なぜなら、そこに、「真のあなた」という存在に向けられた、学習機会、成長機会のギフトが用意されているのですから。しかし、そう聞いても、とうてい納得がいかないでしょう。仮に、頭で分かったとしても、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでには、何年も何年もの歳月が掛かる。だから、人々は「真理」には見向きもしない。そして、ニセモノの「教え」の方を信じるのです。

 

組織宗教は、一般社会のエゴのスケールをそのまま組織に持ち込んで、そこにオカルティックな味付けを施した特製ふりかけをパラパラっと掛けて、あなた方に幸福の幻想を提示します。当面の結果が自分の思い通りになれば、「さすがだ、ありがたい神様だ」となり、思い通りにならなければ、「信仰心が足りない、まだお布施が足りない」となるのです。

 

しかし、このような詐欺的テクニックが、いつまでも通用するはずはありません。冒頭に書いたような一連の出来事は、時代変化の大きな流れの中で起きています。これは何度も言って来たように、社会のあらゆる分野において、隠れていた闇に強い光が当たり、白日の下に晒されるようになって来たことから起きている現象なのです。

 

そしてそうなれば、後は、自分が為した行為は自分に還って来るという「カルマの法則」が適用されるだけなのです。そのようにして一連の出来事が起きている。しかし、内部にいる当事者たちにはそのことが解りません。「カルマの法則」のことも、たぶん知っているはずなのに‥‥。人は、洗脳から脱して、外に出て初めて、自分が洗脳されていたと気づけるのです。

 

跡目争いや、教団の分裂騒ぎや、邪宗・邪教といった罵り合いは、冷静になって眺めてみれば、実に下らない、宗教の本質からズレた話だということがすぐに分かるはずです。ところが、わが身大事、わが派大事、わが宗大事にハマってしまっていますから、それが見えません。こんなものが、神に仕える宗教なのか、真実を追求しようとする宗教なのか、と嘆かずにはいられません。

 

個人である時には、人はみな同じように平和を願う一人の人間なのです。ところが、集団となった時の人間のどうしようもない愚かさ。エゴを集めた際の人間の狂気。そうした中では、平和のための戦争、防衛のための先制攻撃、豊かさのための自然破壊、神に捧げるための人殺しまでもが、堂々と正当化して許されるのです。まったくもって、なんという愚かさでしょう。

 

けれども、嘆いてばかりもいられません。今のこの〈闇が暴かれて行く〉機会を上手に利用して、これを追い風にして、ジャンプを図るべき時が、人類に訪れました。なんと言っても、世界人口の85パーセントは何らかの宗教を持ち、一神教のキリスト教とイスラム教だけで、人類の過半数を占めているのです。もしもこの両者が争って、全面戦争にでもなったら、人類は間違いなく破滅です。

 

そうならないようにするには、伝統的な系譜を超えた先にある、真の「自由」に、各宗教および各教団が気づくよう進歩して行かねばなりません。系譜は系譜です。どんな人にも好き嫌いはありますし、背負って来た文化的背景も違います。でも、それぞれの人が、真の「自由」を求めようとすれば、たとえどんなルートを辿ろうとも、ゴールは必ず一つに行き着くのです。そこに、フォーカスを当てるべきではありませんか?

 

我が宗の跡目争い? 小ちぇ〜。教団の分裂騒動? 小ちぇ〜。我が宗のみが正宗? 小ちぇ〜。他はみな邪宗・邪教? あ〜、小ちぇ、小ちぇ。そんなものは、コーヒー豆の選別をしているようなものなんだよ。なぜ、豆は豆はだという視点に立てないんだ。なぜ、色んな豆があるかを考えないんだ。いいかい、「自由」は、いのちあるものに、平等に贈られたギフトなんだよ!

 

あなた方は、真の「自由」というものを知りません。代わりに、幾世代にも渡って、ニセモノの「自由」ばかりを追いかけて来ました。その不毛に疲れ果てて、何かが根本的に間違っていたんじゃないかとやっと気づき始めているのに、社会の支配層は修正を図ろうとはしていません。

 

宗教は、本来は、こうした社会的構造の矛盾に喘ぐ人たちを救い上げるための機能として存在していました。ところが、宗教も、脱宗教であった筈のスピリチュアル世界も、やっていることは、結局は一般社会の構造と同じか、それをさらに激しくしたものになっています。欲望の奴隷状態にあり続けることを承認し(あるいは推奨し)、見せかけの幸福をチラつかせているのです。

 

こんなものが、欲望のヒエラルキー(その結果が格差社会)に疲れ果てて、根無し草となってしまった現代人の心を、救えるはずがないではありませんか。それ自体が、同じヒエラルキー構造で迫って来るのですから。

 

真の「自由」とは何か? それは、束縛が何もない状態。言い換えれば、すべての執着を捨てた状態です。すべての執着を捨てた時、その魂は、完全な「自由」となれるのです。しかしそのためには、欲望の「自由」を滅しなければなりません。欲望の「自由」と、魂の「自由」とは、真逆にある「自由」なのです。だから古来より、「あるがままに生きよ」と、繰り返し説かれて来たのです。

 

自然界を見てご覧なさい。生きものたちはみな、ただあるがままに生きているのが解るでしょう。ところが、人間だけが、そうしようとはしないのです。ヒエラルキーのスケールを作っては、競い合い、そのことで、自分たち自身が苦しんでいる。そればかりでなく、他のいのちにもこの思想をもって介入し、蹂躙し、ついには自分たちの棲家である生態系を壊し、自滅しようとしているのです。それを、人間社会では「進歩」と呼ぶ。

 

もはや、矮小なセクト主義をどうこう言っている場合ではありません。

愛国? 領土問題?

あ〜、小ちぇ、小ちぇ。超小ちぇ。臍が茶を沸かすほど小ちぇ。

なぜ、愛世界、愛人類、愛地球、愛生命、愛宇宙になれないのか?

神は、そのような存在に、あなたを造ったというのに。

4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。

友人を自分のゴミ箱に使わないように

あら、この人ったらまた同じ話をしているわ。友人たちとの会話の中で、そう気づいて、辟易したという経験はありませんか。よっぽど親しい間柄でもない限り「それ、前にも聞いたわ」なんて不粋なことは言いにくいので、多くの場合、周囲の人たちはみな初めて聞くフリをして聞き流しているのではないでしょうか。もしかしたら、その辟易させている側の人間というのが、あなただったりしてネ。

 

人が、何度も同じ話を語るのは、その人の、そのことについての強い「執着」を証明しています。この場合、聞いて貰いたいわけではないのです。とにかく話したい。ですから、その場に居合わせた人は、交通事故に遭ったようなものです。夢や理想や、今しているチャレンジについて語るのならまだしも、友人たちを前にすると、つい人間関係の問題を夢中になって語り始める人がいるというのは困ったものです。

 

いま自分が抱えている悩みや、葛藤状態にあるエネルギーを放出することで、楽になりたいという気持ちは解ります。また、有効なアドバイスを求めたいという考えも理解できます。しかしそれが許されるのは、一度きりです。何度も何度も同じ話をするのは、周囲のアドバイスには決して耳を傾けるつもりはない、ということを同時に証明しているのです。

 

このような、人間関係にともなう「執着」には、大きく二つのタイプがあります。一つは、特定の人物に向けられているケースです。このタイプは、親兄弟や配偶者、恋人などの身近な人物のことをのべつ幕なしに語りたがります。それは殆どが「こんなことがあって困った」という内容なのですが、そんなにしょっちゅう困るのなら、さっさと絶縁してしまえばよさそうなものなのに、決してそうはしません。

 

理由は簡単で、口では「困った」とは言っていますが、相手の人間が「好き」だからです。別の言い方をすると、その「関係」に依存しているからです。「嫌い」は「好き」の反対ではありません。それはカードの裏表に過ぎず、どちらも相手に関心があるということでは同じなのです。「好き」とか「嫌い」の本当の反対は、無関心です。つまり、無関心では到底いられない状態にある、その腐れ縁を続けているというのがこのタイプです。

 

もう一つのタイプは、相手はいろいろと変わるのですが、いつも特定の性向やリアクションを示した話を語るタイプです。例えば、人間関係を闘争的にしか見られない人は、自分がいつも誰かから攻撃されており、このように反撃したといった話を繰り返し語ります。また被害者意識の強い人は、自分がいかに周囲から痛めつけられ、不運で幸の薄い人生を歩んでいるか、といった話を語りたがります。

 

しかし、この両者ともが、自分にそのような傾向があるということにはよもや気がつかないでしょう。こうして、このブログを読んだ後でも、それが自分のことだと気がつく人は、極めて稀なことでしょう。人は、その渦中にある間は、自分がその中にいるとは気がつかないものです。そこから出て初めて、「ああ、自分はあの時、あんな場所にいたんだな」と気づくのです。

 

そこで、「よき友人」というものが重要になってきます。よく、「他人は自分の鏡」だと言われますが、これは真実です。自分の内奥を見つめるためには、一人で心を静かにして、瞑想をするということが欠かせません。一方、言動というものは、自分の内奥の外部への表出ですから、自分の言葉や行動を知れば、内奥とのブリッジ関係に気づけるのです。それを映してくれるのが、他者のリアクションです。

 

ですから、「よき友人」というのは、そこをちゃんと指摘してくれる人のことを言います。おべっかを使ったり、お世辞を言ったり、ナアナアの関係にある人というのは、一見あなたをソフトに扱ってくれて、いい気持ちにさせるかも知れませんが、本当の意味で「よき友人」とは呼べません。なぜなら、あなたの成長を考えていないわけですから。ともに成長して行こうという意志もないわけですから。

 

人間を観察していて、時々「ああ、可哀想になぁ」と思う人に出会います。「この人は、今まできっと、誰からも叱られたことが無かったんだろうな」と。叱られるということは、関心を持たれているということです。誰からも叱られたことが無い、それはネグレクト(無視)されて来たということを意味します。でもそうなった裏には、聞く耳を持たない性向がどこかに隠れていたはずです。

 

だから、自分を真剣に叱ってくれる人こそを大切にしなさい。

そして何よりも、素直であることと、いつでも変われる勇気を持つことを、心がけなさい。

 

それと、あなた方が、まだよく解っていないことがあります。解っている人は解っています。でもそれは、ごく少数の人たちだけです。それは、前にも書いた「波動の法則」のことです。ある人が、自分の苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、夢中になって周囲に話している時、その人は、四次元世界(第四霊性密度、心霊界、魔界)に雇われたテロリストになっているのですよ。

 

敏感な人にはその波動が解りますから、気分が悪くなってきて、その場に居続けるということが出来ません。そこでスーッと離れて行くことになります。

 

よく、職場の休憩所や食堂などで、不在の人の悪口や噂話を夢中になって交わしているグループを見かけますが、それはお互いに波動を低め合っているのです。その人たちにとっては、そうすることが逆に心地よいのです。それが性に合っている人たちだからこそ、そういうグループを形成できるのです。意識をボーッとさせて眺めてみれば、その一角には、不穏な波動がドーム状に形成されているのがあなたにも分かるはずです。

 

しかし、一人の人間を考えた場合に、全くの善人という人もいなければ、全くの悪人という人もいないのです。みな両方の性質を併せ持っているのです。ですから、四次元世界からのテロリストがやって来た場合には、その策略に引っ掛からないようにすることが大切です。自分の中にもあるネガティブなエネルギーを、パッと簡単に同調させないように注意しなければなりません。

 

テロリストとなっている人は、まさか自分がテロリストになっているとは、露ほども思っていません。ただ衝動が沸き起こって来て、そのような苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、辺り構わずに語り出すのです。自分の思考や感情をコントロールしているもう一つの意識が、その瞬間、どこかへ吹っ飛んでしまっているのです。これは、その人のカルマがなせる業なのです。

 

ですから、その場に居る人たちは、その話に相槌をうったり、同情を示したり、同じような自分の体験を語り出したりしないように注意しましょう。その途端、場の雰囲気はサッと変わってしまいます。すぐに話題を変えてしまうか、あまりしつこいようであればピシャリと言って封じ込めてください。そうすることが、その場の全員を救うことになりますし、その人に気づきを与えることにも繋がります。

 

傷つけたり、傷ついたりを怖れて、その場の空気に流されてしまっては、傷つくよりも、もっと悪い結果に堕ちてしまいます。いわゆる「忖度(そんたく)」というものは、こうしたネガティブなエネルギーの伝播なのです。ですから、「忖度」ばかりしている人というのは、その内奥が表に出て、顔つきがどんどん悪くなって行くのです。

 

他方、あなたが、周囲の人たちに自分の人間関係の体験を語る際には、決してテロリストにはならないように、よくよく注意してください。〈話したい!〉という衝動が沸いたら、ひとまず(待てよ)と、心の中で呟いて、この濁流の流れをストップさせてください。そして、一呼吸おいてから考えてみるのです。その体験は、はて、自分にどんな課題を与えていたのかと。

 

『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師は、最晩年、脳溢血の後遺症で全身が麻痺し、ベッドに寝たきりとなりました。彼女は、エイズ患者のためのホスピスを建設したものの、周辺住民の理解が得られず、二度も焼き討ちに遭って全部を失いました。その彼女が、最期を覚悟して書いた著作の中でこう語っています。「自分がこうなったことの意味はすぐに解った。それは、患者の立場を味わうことだった」と。

 

自分の身の上に起こるどんなことにも、必ず、その人のための課題が隠されています。人間関係で生じる苦悩や葛藤を語る際にも、そこに注目することが大切なのです。多くの人は、相手のことを一方的に語ったり、「関係」の今の状態を語ることに夢中で、自分のことはすっかり忘れています。しかし相手の存在だけでは「関係」は築けないのです。「関係」には、あなたも関与しているということを忘れてはなりません。

 

ある日、ある女性から、夫が浮気をしているという話を聞かされました。夫の携帯電話を盗み見したところ、愛人へ宛てたメッセージが見つかったのだそうです。そこには、自分をボロクソにけなし、君だけを愛していると語る言葉があったと。その女性は「わが夫は、なんて卑劣で幼稚な人間なのか」と言います。でも、厳しい言い方ですが、ご主人だけを責めるわけにはいきません。その理由は、もうお解りでしょう。

 

人間関係を語る時に、人はみな、自分のことを棚に上げて、相手を一方的に非難したり、「関係」の今の問題点を並べ立てます。しかしそれでは、自分の成長の機会に、ちゃんと向き合わないことになってしまいます。ですから、冒頭に書いたように、このような傾向に陥った人は、またその習性にすっかり慣れてしまった人は、いっつも同じ話を周囲に語りゲンナリさせてしまうという、テロリストとなってしまうのです。

 

大切な友人たちを、あなたのゴミ箱にしてはなりません。他の人と交わる時には、意識して、つねに建設的な話をするようにしてください。失敗や、辛い体験や、葛藤を語るな、と言っているのではありません。語ってもいいのです。ですが、語る時には、起きた出来事そのものではなく、その出来事を通じて自分がどんな気づきを得たのかを語って欲しいのです。そこにフォーカスを当てて欲しい。

 

それでこそ、体験を語る意義がある。あなたが得た気づきが、他の人の気づきを誘発するかも知れません。それによって、人間関係における新たな理解が進み、愛の人へと近づく一歩を手助けすることになるかも知れません。

 

要は、ハサミの使いようさ。

 

辛い出来事、苦しい体験、それらはすべて過ぎ去ってしまったもの。驚くなかれ、今まさに体験していること(-ing)さえもだ。1秒後にはそれは過ぎている。だから、自分が「辛い」とか、「苦しい」と思っている体験は、今は過ぎ去ってしまって、もうどこにもない体験に対して、そういう「意味」を、自分が与え続けているに過ぎないのだよ。解るかな? 

 

いつも言っているように、体験自体が良いとか悪いとかではなく、その時の判断、意味づけが、あなたというパーソナリティを日々創造しているのだよ。不謹慎だと思うかもしれないが、あなたが大切に思っていた人の死すらも、笑い飛ばすことだって出来るんだよ。それが解ったなら、いつまでも魔羅(マーラ)の手先のテロリストとなっているよりも、その体験を使って天使のメッセンジャーとなってみてはどうかな?

 

最後に、あなたに大切なことを言おうね。これは究極の一本だ。

 

すべてを楽しみなさい。

苦しい体験、辛い体験さえも。

 

あなたが笑って話せるようになった時、ジョークにして話せるようになった時、あなたはその「執着」をすでに手離している。

 

*魔羅(mara):修行の邪魔をする悪魔

須磨穂を捨てよ、町を出よう

本日のタイトルは、寺山修司(1935 - 1983)さんの『書を捨てよ、町へ出よう』をもじったものです。このアジテーションの言葉は、寺山修司さんの言わば代名詞のようなもので、1967年に出版された評論集のタイトルとして使われたのが最初の登場でした。そして同年、寺山修司さんは演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げし、いわゆるアングラ演劇ブームの火付け役ともなったのです。

 

その後、映画も作るようになり、当時のヒッピー文化の盛り上がりと轍を一つにして、独特の寺山ワールドといったものを構築して行きました。それは、当時の若者にとっては文字通りの「劇薬」として作用し、極端な話、ゲバ棒を取るのか(政治的闘争へ)、それともアングラ演劇を観に行くのか(内なる闘争へ)、といった当時のムーブメントに強い影響を与えたのです。

 

『書を捨てよ、町へ出よう』は、それを焚きつける一種のスローガンのような位置づけとなり、評論集だけに留まらず、演劇にも映画にも同名のタイトルが使われ、若者たちをアジテーションし続けたのです。私も映画を観たのですが、始まってすぐに、東北訛りで話す主人公が「映画館の暗闇の中で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」と話し出すのには度肝を抜かれました。

 

それがあったからというわけではないのですが、当時の雰囲気として、田舎でごにょごにょやっている自分というものがどうしても我慢ができなくて、それで私は20歳の時に東京へ(つまり町へ)と出て行ったのです。それから半世紀が過ぎ、私は今の若者たちにこう言いたいです。『須磨穂を捨てよ、町を出よう』と。50年で世の中はすっかり変わりました。今こそ、ベクトルを真逆に戻すべき時が来たのではないでしょうか?

 

もちろん、高価な須磨穂を本当にゴミ箱に放り込め、と焚きつけているわけではありません。私だって、今のガラケーがいよいよ壊れたら、仕方なしにスマホを買うことになるかも知れません。老眼で画面が見えないけど(´_`; )。だから、大きなお世話を承知で「須磨穂中毒から脱した方がいいんじゃありません?」と言っているだけの話です。寺山修司さんとは違い、影響力は皆無でしょうけれど‥‥。

 

中毒というのは、自分では気がつかないのですよ。でも側から見ているとよく分かる。その目も心も、小さな画面の奥にある(バーチャルな)「須磨穂の国」に釘づけになっているから。ファミコンが登場した時代、その強い麻薬性に慄(おのの)いた親たちが、「一日に2時間だけ」といった規制を子どもたちに課しました。ところが今や、大人たちが24時間、須磨穂の虜というありさまです。

 

いや、ファミコンで育った子どもたちが、順当に(?)大人世代になったのだから、これは自然な流れかも知れません。

 

先日、TSUTAYAで『ラブレス』というロシア映画を借り、観ようとしたのですが、20分ほど経過したところでどうにも気持ちが悪くなって耐えられず、その先を観るのを止めました。10歳くらいの男の子がいる夫婦が離婚しようとしています。夫婦はすでに別居していて、互いに浮気相手がいるのですが、男の子と一緒に住んでいる母親が、わが子を邪魔くさい存在であるかのようにして疎んじているのです。

 

この男の子は、当然ながら寂しい。誰からも愛されることがない孤独な状態にあります。でも母親は、そんなわが子の気持ちを少しも察することなく、男の子に、今の自分の身勝手な思いを話しかけるのです。片時も離さずに持った、須磨穂の画面を見ながら! ああ、まさしく全世界須磨穂教のもの凄い影響力。「ちゃんと子どもの顔を見て話しろよ!」と、画面に向かって怒鳴りたくなりました。

 

スマホは単なる道具です。ですが、今や道具を超えてしまっている。キリスト教、イスラム教よりも浸透力は強い。それはインターネット時代のご本尊。いつでもどこでも自分を導いてくれる、ありがた〜い伝道師であり守護霊。全世界須磨穂教のスマートなお札(ふだ)「須磨穂」大明神様です。困った時に、ちょっと手を(画面に)合わせて拝めば、たちどころにその人を「須磨穂の国」へと導いてくれる。今や、その魅力に誰も抗えない。

 

単なる道具に過ぎないスマホが、なぜそれほどに魅力的な「須磨穂」大明神に化けるのか? その秘密は、画面の小ささと、あの素早いページめくりにあります。それはあたかも、長い通路に掛かる幾重にもなった御簾(みす)を、ご神体に向かって次々とめくって行くようなもので、めくる度に、めくるめく世界に引き込まれて行ってしまう中毒性をそのアクション自体が有しているのです。

 

まったく凄い発明品だなと思います。宗教が何千年かかっても出来なかったこと(全世界布教)を、テクノロジーがわずか10年で成し遂げてしまったのですから。電車に乗ると、ほぼ9割の人が、すぐにその世界に没入しているのを見ます。まさに入我我入の状態。この時に合わさったエネルギーは凄まじいもので、車両全体が何かに取り憑かれてしまったかのようなバイブレーションを発しています。

 

夢中になって画面を見ている人には、勿論そんなことは分からないわけですが(分からないからこそ出来ることですが)、このエネルギーは、そこに居合わせた人たちの心身に、耐え難いほどのダメージを与えているんですよ。こんなバイブレーションに毎日接していたら、みんな心が殺伐として来て、頭がおかしくなってしまいますよ。映画『ラブレス』の登場人物たちのようにね。

 

波動の法則というのは、現象面で表れる結果に関しては至極シンプルなもので、同じ性質の波動は引き合うというただそれだけの話です。あなた方が、慈愛に溢れた心を持って集まり、一緒に瞑想をしたり祈りを捧げたりすれば、お互いの波動をさらに高め合うことが出来ます。

 

しかし反対に、低い、荒れた波動を出し合えば、互いに足の引っ張りっこをして、その場のバイブレーションはドーンと落ちるのです。つまり、そこにネガティブ・パワースポットが出来るのです。

 

これは検証できないことなので、信じなくても結構ですが、須磨穂教の虜になることが、心を荒れさせるということは確実に言えます。なぜなら、その分だけ、自分を内観する機会というものを、須磨穂が奪ってしまうから。

 

人が内観する機会を失えば、「自分は誰か」という基本的な問いに、きちんと向き合うことが出来ません。そこで糸の切れた凧のようになって、その不安を穴埋めするために、またしょっちゅう須磨穂を見続ける、という悪循環に陥ってしまうのです。須磨穂は一見、身近なセラピストのように思えますが、実態は、その人の心の隙間に入り込み、エネルギーを喰い尽くしてゆく怪物です。

 

あっちからもこっちからも風が吹き寄せて、常にザワザワとさざ波が立っている湖面には、自分の姿は映りません。明鏡止水。なにより、静謐で心安らかになっている時にだけ、湖面は凛として澄み、水の向こう側にあなたの真の姿を映し出すのです。この貴重さを、現代人は何も解っていません。情報に接していないときの時間は、すべて無駄だとさえ思っているのです。

 

そうやって、自分が発したものではない、外からやって来た、どうでもよいガラクタ情報で頭の中をいっぱいにして、その重みに押し潰されそうになっている。映画『ラブレス』で描かれた両親を見よ! 自業自得とは言え、現代人とはなんと憐れなものなのでしょう。

 

今から3日後に、自分は死ぬと仮定してください。

その日までの時を、あなたはどうやって過ごしますか?

それでも須磨穂を見続けますか?

 

人生は「今」の連続の軌跡なんですよ。

いいですか。「今」のあなたの思い、言葉、行動が、「あなた」を創造するんですよ。

創造してるんですよ! たった今も。

 

あなたとは何者か?

そのように思い、そのように語り、そのように行動する人間を、人は、「そのような」人間、と見るのです。

それが、あなただ!

 

私は、最近反省しているんです。自分の言い方が悪かったのかなと。この世の価値観に合わせる必要などない、と確かに言いましたよ。引きこもる時も、人には必要なんだと、それを推奨しましたよ。空海だって引きこもったんだぞ、と言いましたよ。でもそれを、「行動しない」ことのエクスキューズに使ってしまう人たちがいるらしい、ということに最近になって気がついた。

 

空海は、ある時期、確かに引きこもりましたよ。でもそれは、行動できないことの言い訳にそうしたわけじゃない。行として、そうすることを積極的に選んだんです、彼は。内観を徹底するために、世俗を離れて、敢えて洞窟に入った。つまり、引きこもるという「行動」を、自分の積極的な意思で選択したのです。その時それが必要だと思ったから。そうして、クンダリニーの覚醒(空海の表現で言えば、明星が口に入る)という体験を得た。

 

そこを考えて欲しいのです。動けないとか、外に出られないとか、電車に乗れないとかと言ったって、トイレには行ってるわけでしょう。ご飯だって食べているわけでしょう。風呂にだって入るわけでしょう。頸椎を損傷して、首から下がまったく動かないという人だっているんですよ。その人が、もしも自分の手で箸を掴んでご飯を食べたり、歩いてトイレに行ったり出来るようになったとしたら、きっと随喜の涙を流すことでしょうね。

 

早い話が、いま生かされていることへの感謝が足りない。五体が動いて、こんなにも恵まれていて、何を贅沢なことを言っているのだろうかと思う。トイレまで行ける足があるんだったら、あと数十歩たして、玄関から外へ出ればいいじゃないか。外へ出ることが出来たら、あと数百歩たして、公園まで行ってみればいいじゃないか。公園まで行けたら、今度は駅まで行ってみればいいじゃないか。死にものぐるいでやってみろ!

 

それを、私が「動け!」と言うと、「ネットで平和を訴えて行こうかなとは思ってるんですが」とかって言う。ああ、またネットか。結局は須磨穂の国に逆戻りか。そんなんじゃないんですよ! あなたが今、まっ先になすべきことは、「動く」ということの意味は。生活の「リアルな実体験」を積み上げて行くということなんだよ。あなたにいちばん欠けているのはそこ。つまり、「生活技術」を一から学習し直して行けってことなんだよ!

 

洗濯は出来るのかい? 自分のメシは作れるのかい? お茶碗は洗えるのかい? 部屋を片づけられるのかい? 箒や雑巾は使えるのかい? トイレ掃除や風呂掃除は出来るのかい? 決まった日のゴミ出しが出来るのかい? 庭の草取りが出来るのかい? 買い物には行けるのかい? ほうれん草が一把いくら位か見当はつくのかい? どういう魚が、鮮度がいいか見分けられるのかい? 

 

どうかな? いま上げたものに、今まで、何の関心も持っていなかっただろう。ただの面倒臭いもののようにしか、あなたには思えていなかっただろう。だがね、その面倒臭いものに向き合い、体験し、工夫し、味わうことが「生きる」ってことなんだよ。だから、それを全部他人まかせにして生きている人は、「自分を生きていない」ことになる。ああ、なんてもったいないことをしているんだ。実に、それが「生きる不安」をつくる元凶だと知れ!

 

いいかね。「生活力」というのは、どれくらいお金を稼げるか、ということじゃないんだよ。生活技術力を、その人がどれだけ持っているかということなんだ。金なんて、いざとなったら何の役にも立たない。札束を赤ちゃんのオシメにするわけにはいかないんだよ。だから先ずは生活技術。生活技術さえしっかりあれば生きられるし、生きるのが楽しくなる。きみが平和の貴さを訴えるのは、それが出来てからだ。

 

現代に生きる人間が可哀想だなと思うのは、「生活技術」を学習するより前に、先にコンビニと須磨穂の使い方を覚えてしまうということ。コンビニには取り敢えずのものは何でも揃っているし、須磨穂は別に図書館に行かなくたってあらゆる情報が取れるし買い物だって出来る。バーチャルな出会いも出来るし、お婆ちゃんの知恵(のようなもの)だって授けてくれる。すると、この二つさえ覚えれば「生きられる」と錯覚してしまう。

 

しかしそのことは、裏を返せば、コンビニと須磨穂がなければ生きられない、という状態に、いつの間にかさせられてしまっているということを意味しているのだ。

 

いま、10代と20代合わせて年間3万人超の若者が行方不明になっているそうです。ある日突然、家からいなくなってしまう。家出の準備をした形跡もない。この、ある日突然の失踪を可能にさせているインフラが、まさしくコンビニと須磨穂。少女が、SNSで「今晩泊めて?」と発信すれば、ものの1分もしないうちに、見ず知らずの男たちからたちまち十数件の申し出が集まるのだと言う。

 

いつの時代にも家出する若者はいるわけで、ある意味、勇気ある行動だとも言えるわけですが、今の時代の「お手軽さ」には、以前とはまったく違った様相を感じます。大志もなければ、逆に反抗も反逆もない。何となくフラッと家出するといった感じです。恐さを知らないと言いますか、すべてが希薄です。親が、学校がという時代じゃない。社会病理がもう何重にも重なっていて、このような社会現象を止める手立ては、もはやないのかも知れません。

 

別に家出が悪いと言っているわけではありません。また、社会からドロップアウトしてしまうことの危惧を述べようとしているのでもありません。みんな好きにしたらいいです、基本的には。でもね、自分という存在を見つめて、自分のコントロール意識を働かせて、自分をクリエイトできる体験が、それで出来るのかなと思うのです。結局は、自分も周囲も、傷つけるだけに終わってしまうのではないでしょうか?(ま、それも体験ですけれど‥‥)

 

今の時代は、お手軽なクリエイトが多過ぎるんです。レストランに行けば、食べる前にいきなりパシャパシャやる。動画を投稿して美味いとか不味いとか言う。旅に出れば、観光名所をバックに自撮りする。他の人が書いたブログには直ぐにケチをつける。動画の上に意味不明の自分の叫び声を書き込む。でも、そのどれもが、所詮は、他人のふんどしを借りた表現に過ぎない。

 

そうすることによって、あなたの中にある表現願望や、参加意識や、「私ってこういう人なのよ!」という自己実現願望(のようなもの)は、多少は満足するかも知れない。でもそんなものは、結局はニセモノなのだよ。借りものの、ニセモノの表現行為を続ければ続けるほど、あなたの本物は、外に出て行くチャンスを失ってしまう。

 

解らないかな? あなたたちはそれらを「自己表現」だと思っているが、その表現方法を保証する仕組みに、一元的に取り込まれてしまっているのだよ。早い話が、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)その他のIT企業の戦略に落とし込まれているわけだ。ゲージの中で、バタバタしている家畜の鶏のようなものなんだよ。

 

だからもう、他人のふんどしを借りることは止めたまえ。稚拙でもいい、あなたの表現をするんだ。あなた独自の、あなたにしか出来ない表現をするのだよ。価値はそこにあるのだ。いや逆に言おう。価値はそこにしかないのだよ。結果は問題じゃない。「いいね」の数が問題なのではない。そのクリエイティブな体験を通じて、あなたが何を味わったか、それだけなのだよ。

 

須磨穂を捨てよ、町を出よう。町を出て、もと来た森の中に帰るのだ。今の社会システムそのものを疑え。この世のすべては、しょせん幻に過ぎないが、人工物を通じた体験はバーチャルな幻しかあなたに見せない。一方、鬱蒼とした森の中に帰ることは、あなたに一時的な不安を与えるだろう。でも、自然が与える幻は、その先に神の姿を見せてくれるのだよ。

 

さあ、勇気を出せ。覚悟を決めよ。立ち上がって歩け。森の中に踏み込め。そして、それを楽しむんだ。そうすれば解るから。

戦争屋と権力者

1961年1月17日、アメリカ合衆国第34代大統領であったアイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890 - 1969)が、テレビカメラを前に歴史に残る退任演説を行いました。アイゼンハワーは陸軍出身の政治家で、第二次世界大戦では連合国遠征軍最高司令官を務め、あのノルマンディー上陸作戦を指揮しました。また軍歴では最高位である元帥にまで登りつめました。

 

アイゼンハワー本人は、当初は政治家になる気などまったく無かったということなのですが、人望が厚く、周囲に乞われるようにして選挙戦に担ぎ出され、あれよあれよと言う間に大統領に就任したのです。ダグラス・マッカーサーが、大統領の座を切望していたのになれなかったのとは、ちょうど対照的です。アイゼンハワーは、フィリピンではマッカーサーの副官を務めていたのです。

 

さて、この時の演説がなぜ歴史に残るエポックだったかと言いますと、この退任演説の中で、アイゼンハワーが史上初めて「軍産複合体(Military-industrial complex)」という言葉を用いて、その存在と、高まる影響力についての懸念を表明したのです。退任が決まっていたとは言え、こうした発言を行うことは非常に勇気のいることです。アイゼンハワーは、遠回しに、そして遠慮気味に語っていますが、今ここで言っておかねば、という決意のほどが言葉の端々に感じられます。

 

この一部始終は、インターネットで観ることが出来ます。

翻訳:https://esotericsociology.blogspot.com/2018/01/d.html

動画:https://www.youtube.com/watch?v=1UAiqAZoMgQ

*動画はすぐに削除されてしまうかも知れませんので、もし消えていたら探してみてください

 

「軍産複合体(MIC)」というのは、軍事組織と兵器産業によって構成された複合体という意味です。しかし、兵器を開発するためには研究機関が必要であり、研究機関には科学者や技術者が必要です。また、政府からそのための予算をぶんどるには政界工作が必要となります。さらに、政界工作のためには、危機を煽るプロパガンダが必要であり、ここに外交専門家と、マスコミまでもがぶら下がった巨大機構を構成するようになったのです。

 

しかし「軍産複合体」はこれだけに留まるものではありません。そうした機構が身体だとすれば、それを動かす頭脳に当たるものもな必要です。この頭脳に当たる組織が、米国のCIA、英国のMI6、イスラエルのモサドといった諜報機関で、これが諜報ネットワークを作り全世界で軍産のための工作を行っているのです。この機関は、各国政府や財界にも深く喰い込んでいて、いわゆる西側は、全てその傘下に取り込まれている状態なのです。

 

日本も例外ではなく、戦後から今日に至る政財界のボスたちは、親米であればその存続を長く許され、少しでも反米の態度を取れば、スキャンダルをでっち上げられて業界を追われる身となるか、殺されるかして来たのです。しかし、日本社会のバックにそういう闇があるということを、今もって殆どの日本人は知りません。そうした真実は、長年に渡って秘匿され続けて来たのです。

 

最近になって、このタブーにも少しずつ風穴が開けられるようになって来ましたが、それを知る人はまだほんの僅かです。これは日本が島国であって、かつ国民の大多数が英語を解しないために、世界情勢に関してあまりにも疎いということと、その代わりとして、日本のマスコミが流している情報を、無条件に信じている人が未だに大勢いるためです。

 

マスコミを一切見なくなって十数年が経ちますが、日本のマスコミ報道の8割はどうでもよい話題、1割が日本政府のコントロール情報、1割が西側(軍産)が意図的に流しているフェイクニュースだと、私には感じられます。独断をお許し願えれば、それらを見て有益なものは何一つありません。むしろ有害ですらあります。視聴者の思考力、判断力を奪っておいて、偽情報で染め上げるのですから。

 

そのようなわけで、「愛国」を叫んでいる者が、実はいちばんの売国奴であるということが、国民には見抜けないのです。防衛意識を煽り立てている者が、実は戦争屋代理人であるということに気がつかないのです。彼らの本当の姿は、「愛国」どころか、売国民、売市民、売人間なのです。そして逆に、人類の融和や平和共存を語る人たちを「平和ボケ」と言っては小馬鹿にし糾弾するのです。それもこれも、みんな戦争屋のために。

 

*この言葉は本当は使いたくはないのですが‥‥。「国家」というのは単なる行政単位に過ぎないと思っておりますので、そこに思い入れはありません。「愛国」は「愛」の文字こそ使っていますが、結局は我々と他者を分ける分断思想であり、「愛地球」「愛人類」「愛宇宙」にはなりえないのです。

 

戦争屋(軍産複合体)が、なぜそれほど「戦争」をしたがるかと言いますと、一つには「戦争」というのは、軍産複合体にとっては、在庫一掃処分市、かつ新製品お買い上げキャンペーンに当たるからです。軍産は、現在では社会構造の基盤を構成するまでに成長しています。しかも、各国の政府予算から毎年巨額な金額を捻り出すのです。その構造を継続的に維持するためには、10年に一度は、大規模な戦争が必要になって来るのです。

 

このため、戦争屋とその傀儡である各国の政府機関内エージェントは、つねに隣国との緊張状態を演出する必要に迫られ、故意に危機を煽っては、国民から掠め取った税金で兵器を購入しているのです。そして購入するだけではなく、時々は在庫一掃処分を敢行しなければなりません。そのようにして引き起こされているのが「戦争」なのです。

 

もう一つには、西側の諜報機関が、共にユダヤ教、キリスト教という一神教を背景にした文化圏に属していることも、「戦争」の創造に大きな影響を与えています。これらのバックには狂信的なグループがいて、聖書の予言に基づいた形での「戦争」を熱望しているのです。CIA他の諜報機関ネットワークは、こうしたことのために謀略を計画して動き、そうして作った偽ニュースを、西側の報道機関が世界に一斉配信しているのです。

 

ある方がカウントしたのですが、シリアのアサド大統領が自国民に化学兵器を用いたというニュースは、今までに少なくとも18回は流されているということです。しかしそのニュースのどれもが尻つぼまりで証拠もないのです。最近、トランプ大統領が、ダーイッシュ(IS)の掃討作戦が完了したので米軍を撤退させると言いましたが、これは名誉ある撤退を演出したものであって、実際はISを作ったのはアメリカですし、駆逐したのはロシアなのです。

 

こんなことは、欧米人の半数はもう知っていることではないでしょうか。しかし日本人の大多数は未だに知りません。ですが、対岸の火事ではもう済まされない。シリア、リビア、イラク、そしてウクライナの街や家々を破壊し、一般市民を路頭に迷わせてグチャグチャにしてしまった西側の片棒を、日本人も担いでいるのです。私もあなたも、日本国に税金を払うということによって、この軍産複合体の謀略に間接的に加担しているのです。

 

この壮大な謀略によって、シリアでは1000万人もの人々が難民となり、地中海で溺れ死んでしまった人もたくさんいるのです。こんな非道が許されていいのでしょうか。中東から遠く離れた島国で、我関せずで、コタツでぬくぬくし続けていていいのでしょうか。少なくとも、今まで政府に騙され続けて来たことに、そして自分もこの戦争に加担して来たことに、日本人は気づかなければならないのではないでしょうか。

 

戦争が起こるたびに、その悲惨さを体験した人たちは、「もう二度とこんな戦争は起こしてはならない」と叫んで来ました。各国の名だたる芸術家が、平和の尊さを訴えかける多くの作品を創って来ました。ところが、二世代も経過してしまうと、またぞろ戦争屋の代理人を務める政治家が登場して、防衛意識と危機感を煽っては、人々をまた戦争へと駆り立てて行くのです。なんと「南無妙法蓮華経を唱えながら戦場へ行け」と主張する政治家だっているのです!

 

全く人間というものは、どこまでも愚かであって、学習効果というものがなかなか表れませんね。何度も何度も同じカルマを繰り返していて、ちっとも懲りない。いったいこれはなぜなのでしょうねぇ? あなたはどう思いますか? 一つは、いま言った「軍産複合体」による世界支配の構造というものを、人々が知らないためです。報道機関そのものが軍産側のプロパガンダ機関ですし、学校教育も然りですから、一般市民は全くの無知に留め置かれているのです。

 

でも、仮にその構造を多くの人が知ったとして、それで地上から戦争が消えるでしょうか? この世から戦争がなくならない本質的な理由は、実はもっと別のところにあります。それは、人々の「心」の問題なのです。たとえ一握りの戦争屋が、次の戦争を計画したとしても、それに乗る人々が一人もいなかったとしたら、戦争にはなりません。第三次世界大戦は防げるのです。

 

ところが、国家指導者が「戦争しかない!」と言うと、「いいね!」ボタンを押す人がたくさん出て来てしまうのです。911後のジョージ・ブッシュの演説を受けて、アメリカ人の多くが、テロとの戦いに「いいね!」ボタンを押したのをあなたも目撃したでしょう。人間には、そういう面があるのです。

 

現実というものは、つまるところ、その時々の人間心理の反映なのです。一人の周囲に起きている現実は、その人の心理がそれを創造しているのであり、同じように集団の集合意識が、世界の現実を想像しているのです。この関係は、全くの相似形です。一人の人間の中に眠っている闘争意識と、世界大戦における闘争とは、実は同じ理由に起因しているのです。小さいか、大きいか、一人のものか、集合意識か、の違いだけです。

 

ですから、戦争屋やその代理人が発する「防衛意識」や「愛国意識」の言葉に、自分の中にもある闘争意識、防衛意識、分離意識を刺激されて「そうだ!」と同調した人たちは、簡単にそこに乗っかってしまう。しかもこのギスギスした世の中で、ゾンビをぶち殺すことに快感を覚えるように飼育された子どもたちが大量に生産されているのです。こうした個々の闘争意識が集合して臨界点を超えれば、人々の望み通りに現実は「戦争」を創ります。

 

実に、ここに気づかない限り、地球から戦争は無くなりません。戦争屋と、その代理人である権力者は、人々をつねに戦争へと駆り立てます。権力者がそうするのは、危機や、防衛意識、愛国意識を煽ることが政権への求心力になるからです。それによって政権基盤が維持されますし、軍産からは裏金の報酬が得られるのです。戦争屋代理人は、口では「愛国」を唱えますが、国民を奴隷や家畜としてしか見ていないのです。

 

ペンタゴン・ペーパーズ』(原題:The Post)という映画はご覧になられましたか? アメリカがベトナム戦争の泥沼に入り込んでいた1960年代。国防長官だったロバート・マクナマラが、軍の形勢が悪いのを知りながら、これを隠して国民に嘘の戦況報告をしていた。映画はその機密文書の暴露を巡る攻防を描いたものです。

 

この中で、マクナマラがなぜ国民に嘘をついていたのか、ということが問われるのですが、その答えは、なんと「グレート・アメリカが負けるわけにいかない」という、ただのメンツだったのです。まるで、太平洋戦争中の大本営のようですが、この映画が訴えかけているのは、「そんなメンツのために、多くの若者を戦場に送って死なせたのか」という理不尽さに対する怒りです。

 

そして、このような戦争屋の基本体質は、今もってまったく変わってはいないのです。しかしアメリカには、「腐っても鯛」でまだ報道の自由というものがある。でも今の日本には、報道の自由はおろか、司法の公正さも、役人の遵法意識も何もありません。すべてが闇の支配者の言いなりという、まさに暗黒の政治状況が展開されているのです。

 

こうしたちょっとした角度変更が積み重なると、気がついた時には、もう元に戻せないほどのターンが行われているのです。ここで、日本人特有の性質が一役買うことになります。それは「空気」を読むということ。これは、権力者にとっては大変便利な仕組みで、集団をある方向にドドドーッと向かわせやすい一方で、いざコトが失敗した場合には、「あの時の空気には逆らえなかった」と、全部を「空気」の責任にしてしまえるのです。

 

事実そうやって、太平洋戦争時の戦争指導者たちの多くは、戦後になると言い逃れをして保身を図りました。極東国際軍事裁判で処刑された者や自決した者を除いて、生き残った指導者たちは、その後国内法で裁かれることもなしに、中にはCIAのエージェントとなることで政財界や学界に返り咲いた人物もいたのです。

 

その人物たちは、戦後の日本をアメリカの植民地奴隷国家にする密約をアメリカと結んで、その取り引きを条件に、その後の地盤を固めて行ったのです。こうしたことも、日本人の大多数は何も知りません。権力を志向する者というのは、自分よりも強い者にはおもねり、弱い者に対しては強圧的に振る舞うというメンタリティーを本質的に有しているのです。なぜなら、それが彼らのアイデンティティを支えるスケール(物差し)になっているからです。

 

さて、そこでです。なぜ地上から戦争が無くならないのか、ということの理由はいま言った通りなのですが、今日はみなさんに、もう一歩先の意味を考えていただきたいのです。そこで、あなたに質問をいたしましょう。一人の戦争指導者がいて、その人物の命令の結果、数百万人の命が失われたとします。では、その人物であった「魂」は、その後にどのよう運命をたどるとお思いですか? どのようなことを経験していくことになるとお思いでしょうか?

 

それほど大量の人命を奪うようなことをしたのだから、きっと、さぞかし大きな罰を受けることになるだろう。そう、あなたは思いますか? ところが、そうではないのです。この戦争指導者は、作戦司令室で、葉巻をくゆらせながら、さながらチェス・ゲームのようなものをやっていただけなのです。前線での殺し合いには参加していません。実際に前線に出て、殺し合いをしているのは、その命令で動いていた若者たちなのです。

 

つまり、自分を信じずに、誰かの命令に従って行動してしまう人間、言い換えれば自分をロボットにしてしまえる人間が、実際の殺し合いをしているのです。そして、死んだり傷ついたり、のちにPTSDになったりしている。ここに注目してください。あなたがもし神だったとするならば、ただチェスに興じていた者と、血みどろの殺し合いをしていた者とを、どのように見て、その「魂」をどのように指導してあげるでしょうか?

 

‥‥‥‥

 

「そんな馬鹿な! そんな理不尽なことがあるかい」と思うでしょう。

到底、納得がいかないでしょう。

でも、前に言ったことを思い出しみてください。

宇宙には、罪も罰もないのですよ。

ただ、カルマの法則だけがある。

自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない、という。

 

ですから、命令に従っただけとはいえ、人殺しをした人は、いずれは、やはりそのカルマを清算しなければなりません。けれども、頂点にいたところの戦争指導者が影響力を行使していたのは、自分の周囲にいた側近たちだけなのです。ですから、この戦争指導者は、周囲の者たちを操ったというカルマを、いずれは清算しなければならなくなるでしょう。

 

しかし、戦争全体がどうして起きたかと言えば、そこに参加した者たちの、各人の行動の集合が、そのようなものを創り上げたということなのです。

参考:人類支配の構造と、支配からの脱却

 

*お時間のある方は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』をぜひご覧になってください。戦争が持つこの構造が、とてもよく解ることと思います。

 

これが、「戦争」というものの、真に恐ろしい側面なのです。ヒトラーのようなある一人の極悪非道の戦争指導者がいて、その人間が、これから世界大戦の災いと、人類滅亡の危機をもたらすかも知れない、とあなた方は思っておられるかも知れません。結果としてそのように見えたとしても、決して、そうではないということなのです。一人では、絶対に戦争は起こせないのです。みんなの協力があって、初めて「戦争」という現実が、この世界に創造できるのです。

 

この点を、はたして人類が理解できるかどうかが、第三次世界大戦を回避できるかどうかのキモです。一人ひとりが、自分の中に眠る闘争意識を、ただ無分別に暴れさせるのではなく、「人間にとっての幸福とは何か」と、改めて思いを馳せてみればいいのです。その人の思いが、現実を創造する。これは真実です。あなたが心配をすれば心配が創造され、友愛や平和や幸福な世界を想像すれば、それらが創造されるのです。

 

戦争屋や権力者の文言に引っ掛かってはなりません。引っ掛かってバカを見るのは、結局あなた方なのです。彼らは、気まぐれなチェスをしているだけです。駒がどうなろうと大して気にはしません。霊的に言えば、まだその段階にある「魂」なのだということです。あなた方が、人類はみな兄弟、自分と他者は同じもの、ということを学習するために、もう一度「世界大戦」の悲惨さを味わう必要は、いささか足りともないのです。

 

もっと成長しなさい。もう戦争は充分したではありませんか。原爆だって、原発事故だって経験したではありませんか。それらが、あなたたちに幸福をもたらしましたか? 語らずとも解り切ったことです。この愚かさの輪廻をもう止めるのです。人類のカルマから脱出するのです。今がチャンスです。それには、あなたが先ず、率先して行動すること。周囲に愛を与えなさい。そして異質なものからは学びなさい。

 

そうすれば、あなたの周囲には、愛と平和の世界が創造されるのです。

 

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●アイゼンハワーの退任演説からの抜粋

 

*「軍産複合体」に対する警告を語った後に、アイゼンハワーは次のような対抗案を語っています。残念ながら、ここで語られた理想社会というものはその後実現されず、ますます軍産の思惑通りに世界が動き、人類はいよいよ破局へと向かっていることがお解りいただけるでしょう。

 

これからも続くであろう長きにわたる歴史の中で、アメリカは、わたしたちのこの世界がますます小さくなっていきながら、とてつもない恐怖と憎悪に満ちたコミュニティとなることを避けねばなりません。そうではなく、相互に信頼と尊厳をもつことができる誇りある連合体にしなければいけません。そのような連合体では、人々はみな平等であるに違いありません。(中略)

 

世界中のすべての人々へ、わたしはもう一度、アメリカの祈りと切なる願いを申し上げます。わたしたちは祈ります。あらゆる信仰、あらゆる人種、あらゆる国家の人々が、満たされんことを。今は苦難にさらされている人々が、歓喜に満たされんことを。自由を渇望している全ての人々に、祝福があらんことを。

 

自由を得た人は、同時にそれを引き受けるという重大な責務を理解するでしょう。困難に陥った人々がいることに鈍感な人はみな、慈善活動を通じて理解するでしょう。貧困や病気、無知などの徴候は地球上から消え失せるでしょう。そうなった時には、尊敬と愛との固い絆によって保障された平和のもとに、すべての人々が一緒に暮らせるようになるでしょう。

良い人になることで乗り越えようとしても上手くはいかない

冬場は雪が深いので山を降りて東京で生活をしています。東京に戻り、散歩をしていてうんざりするのは、道端に投げ捨てられたゴミの多さです。特にコンビニ周辺がひどい。コンビニは買う便利さと捨てる安易さを教えましたね。時々、ゴミ袋を手にしては拾って歩くのですが、後から後から捨てる人が出てくるので、いつまで経っても気持ちのよい散歩というものが出来ません。

 

ある日、公園の茂みに、「鬼ころし」という日本酒の紙パックがストローが差し込まれた状態で捨てられているのを見つけ、それを拾いました。ところが、翌日もまた同じところに同じものが捨てられているのです。このイタチごっこがしばらく続いたある日、「鬼ころし」がついに捨てられなくなっているのに気がつきました。「ヤッター、オレの勝利だ! あいつも遂に根負けか」と、そう思いました。

 

数日後、その公園から5分ほど離れた空き地の隅っこに、懐かしい「鬼ころし」のパッケージが山になっているのを見つけました。あちゃー、その人は、捨てる場所を変えただけだったのですね。勤め帰りに、道端の自動販売機でそれを買い、自宅までの道すがらストローでチュウチュウやるのが、その人の何よりの楽しみだったのでしょう。居酒屋に立ち寄る心理的経済的余裕もないのかも知れません。

 

自分を取り巻く環境は、その人の心の現れです。その人の心の有り様が、それに応じた環境を、自分の周囲に出現させるのです。ですから、自分の不遇を環境のせいにすることは出来ません。その環境はその人が創っているのです。散歩道は、ゴミなど落ちていない清々しい雰囲気の方がいいと思う人もいれば、ゴミを撒き散らして汚しておいた方が、今の自分の心情にピッタリという人だっているのです。

 

東京の私の家は、永らくゴミ屋敷でした。物で溢れかえり足の踏み場もないという状態。台所には真っ黒な油汚れがベットリと付き、どこもかしこも埃が高く積み重なっていました。それは、当時の私と、私の家族の心の有り様をまさに表現していました。けれどもある日を境に、片づけに着手しました。突如としてそういう気になったのです。そうして、3年ほど掛かけてどうにか見られる状態にまでなりました。

 

自分でも驚くのは、その後です。その日から現在に至るまで、クリーンな状態をキープし続けることが出来ているのです。それは、自分の「心」が一変したことを意味していました。私は変わったのです。そして「心」の変化は、その他にも、様々な外面的変化、環境的変化を私の周囲に《具体的に》出現させて行きました。

 

住む場所も変わりましたし、家族もいなくなりました(一人、息子がおりましたが、彼は家を出て行きました)。仕事はやめましたし、ド貧乏になりました。世間的な動向や流行には何の関心もなくなり、オシャレをする気もなくなりました。友人関係も、全く一変してしまいました。ですから、「その人の意識が、その人の人生を創る」ということが、今の私にはよ〜く解るのです。

 

人間の「気づき」には、大きく2つの段階があります。先ず最初の気づきは、自分の至らなさ(未熟さ)に気づくという段階です。しかしそれとて、気づかない人は多い。あるいは、たとえ至らなさに気づいたとしても、認めようとしない人が多い。ここで、第一の関門をくぐる人と、くぐれないで門から追い返されてしまう人とが出て来るのです。

 

第一の関門をくぐれなかった人は、一見すると幸福な人です。なぜなら、その後に続いて起こる「葛藤に苛まれる」という苦しい状態が、取り敢えずは回避されているのですから。代わりに、その段階に留まった人は、「葛藤」に向き合うことなく「エゴ」を大いに謳歌する生活を送るのです。この時期は、その人に幸福と楽しさをもたらします。

 

しかしそれは、以前にも言ったように、まやかしのものに過ぎません。「エゴ」が与える幸福は決して長続きしませんし、カルマの法則によって、誰もが、いつかはその誤りに気づかされる時が来るのです。ですから、第一の関門を永遠にくぐらないということはあり得ないのであり、くぐろうとしない「魂」は、それだけ目覚めが遅れるということになってしまうのです。

 

*まや:摩耶(maya)とは、サンスクリット語で幻想のこと。摩耶化す→まやかし

 

一方、最初の気づきを得て、第一の関門をくぐった人には、それから長い試練の時期が訪れます。自分の未熟さ、至らなさを自覚し、それを何とか克服したいと願って、あの手この手の解決策を模索し始めるからです。仏教では、この段階で生じる出来事を、四つの苦と、さらに四つの苦の合計八苦に分類しました。これが「葛藤」状態をいう際の「四苦八苦する」の語源となりました。

 

さてここでも、人の対処法は大きく二手に分かれます。大多数は、葛藤を抱えながらも、また大いに悩みながらも、その時々をなんとか通過してやがて死に至るという道を歩んで行きます。もう一方は、その葛藤状態をあえて意識化し、乗り越える方策を積極的に模索しようと図る道を選びます。この後者の人たちが、宗教や哲学や精神世界へと歩みを進めてゆくのです。

 

前者の道を行く人は、自分のエゴや心グセにきちんと向き合おうとしないまま一生を終えてしまうので、一つの人生での霊的進化は、ほんの僅かしか進みません。そこで、せっかくの輪廻転生の機会を得ても、一つのカルマを一つの人生で充分に解消することが出来ずに、何度も何度も同じような人生パターンを繰り返すのです。しかしそれでも、最後の最後には、全ての「魂」がエッセンスへの帰還を果たします。

 

*エッセンス:精髄と訳されたりしている。神、あるいは光と同義。

 

では後者を選んだ場合はどうでしょうか? 驚いたことに、後者の道を選んだからといって、必ずしも霊的な進化が早く達成されるとは限らないのです。むしろ宗教や哲学や精神世界が提示するドグマ(独善的教義)に捕まって、歪んだ観念を構築してしまい、却って歩みを遅くする可能性も高いのです。これが、高僧よりも、田舎の普通に暮らしているお婆さんの方が霊的に進んだ人のように見える理由です。

 

それは、見えるだけではなくて、実際にそうなのです。よく「見た目だけでは人は判断できない」などと言いますが逆です。見た目にすべてが表れます。それは、身なりや服装ということではなくて、その人が発しているオーラ、そこに全部出ている。オーラは嘘をつけません。澄んだ目の色や、微笑みや、言葉づかいや、立ち居振る舞いに、その人の「霊性」がすべて表れているのです。

 

*オーラ(aura):その人が発している霊的バイブレーション。エーテル体、アストラル体、コーザル体の各振動が合わさって、その人固有のバイブレーションを発している。

 

ということで、第一の関門を通過した後に訪れる「葛藤」の時期を、一体どう過ごせばいいのかということが、次の第二の「気づき」を迎えられるかどうかに大きく関わって来るのです。ここで、第二の「気づき」とは何かを言いましょう。それは、それまで信じていた世界が、実は表裏が真逆だったと気づくことです。霊主体従が本当だったんだと、(頭だけではなく)全身全霊で感じるようになることが二番めの「気づき」です。

 

この「気づき」を得て、初めてその人は、第二の関門であるところの「光への道」へと入って行くのです。しかしそのためには、「葛藤」の時期を、少なくとも9割がたは終えていなくてはなりません。「葛藤」を抱えたままで「光への道」へと進むことは出来ないのです。なぜなら、「光への道」へ入るということは、「葛藤」を捨てるということでもあるのですから。両者は、卵と鶏の関係なのです。

 

さてそこで、どのようにして「葛藤」を捨てればよいかということになります。あなたは、第一の「気づき」を得て、ご自分のイヤな面や、エゴや、ネガティブな心グセに気がつきます。そして、「魂」の声が聞けるあなたは、それをなんとか克服したいと考えます。そこで、きっといろいろな取り組みに着手されることでしょう。

 

克服したい点のキーワードを大書して壁にペタペタ貼ったり、ノートに箇条書きにして朝夕に呪文のように唱えたり、指導者を求めて歩きまわったり、自分に戒律を課したり、柱におでこをガンガンぶつけたり、お百度を踏んだり、水垢離をしたり、ひたすらマントラを唱えたり、海に向かって「バカヤロー」と叫んでみたり、etc.。私もさんざんやりましたよ。およそ50年間も。

 

その期間は、私にとっては無駄ではなかったのですが(なぜなら、踏み石役として、その経験を話せるので)、これから後に続く人たちは、もう同じような轍を踏む必要はありません。50年間もウロウロしなくていい。「光への道」へ入るのに、近道はありませんが、あなたは速道を行けばいいのです。プロセスを省くことは出来ないけれども、プロセスをスムースに通過する方法があるということです。

 

先人たちが示してくれたものの殆どは、結局のところ、修善奉行・諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう・しょあくまくさ:善い行いをしなさい、悪いことをしちゃダメよ)に尽きるのですね。私もそれで、良い人になりたい、良い人になろう、良い人にならなければ、とずっと長いことそう思っていました。ところが、これが上手くいかないのです。どうにもスッキリしない。50年間ずっと取り組んで来ても。

 

それで、そのような努力をすることを一切やめたのです。やめてから、やっと解りました。良い人になろうとすることで「葛藤」を乗り越えようとしても上手くはいかない。なぜかと言うと、それは、自分の「ありのままを是認する」というプロセスを省いてしまうからです。自分にはこういう欠点がある。だからそれを出さないように、いつも良い人であろう。それは、どこかで自分を誤魔化しているのであり、無理があるのですね。

 

でもなぜ、修善奉行・諸悪莫作が長年に渡って言われ続けて来たのでしょうか。結局のところ、それが大衆には理解しやすかったからです。具体的な行動指針に思えたわけですね。真理よりも権威、宇宙の法則よりもスーパースターの奇跡の方に心を動かされてしまう大衆にとっては、そうした「決め事」がフィットしたのです。しかし同時にそれは弊害も生みました。地球人類が、いつまで経っても目覚めないということです。

 

けれども、裏の世界ではちゃんと説かれていたんです。「こうするといいよ」という別の方法が。でも表の世界があまりにも強大だから、そして大衆はそれを信じ切っているから、マスターが示してくれていた方法は隅っこに隠れてしまい、大衆には発見できないようになっていたんですね。

 

しかしそんな時代ももうオシマイ。これからのみなさんは、そこで足踏みする必要はありません。急行列車でスッと行けばいいのです。

 

あなた方の「悩み」や「葛藤」が、全て、エゴ(我欲)に起因していることは確かです。しかし、「欲」を完全に無くすということが、人間に果たして出来るのかどうか。

 

偉いお坊さん方は、「無欲」だとか「無我の境地」だとか、自分でも達成出来ていない目標を平気で口にします。これが日本仏教のいけないところで、大衆からすると「う〜ん、凄い!」と思う反面、「自分には到底無理だ」という敗北感しか抱けない。つまり、言う方も聞かされる方も、虚飾に遊んでいるだけになっているのです。

 

でも考えてみてください。もし食欲が無かったら、あなたは餓死してしまうでしょうし、もし性欲が無かったら、子孫は生まれないでしょう。動物や植物を見ても同じで、自然界にあるものは、決して「無欲」なわけではないことが解ります。確かに、様々な「欲」が、その人に苦悩と葛藤を生じさせています。しかし、だからと言って「欲を無くせ」と言うことには、飛躍があり過ぎますし、そこには無理があるのです。

 

ではマスターは何と言っているのでしょうか? 「執着を捨てなさい」と言っているのです。「欲を無くせ」とは言っていません。「欲」と「執着」とを分けているのです。「欲」は持っても「執着」は持つなということです。

 

目の前に、一杯の美味しそうなラーメンがあって、湯気を立てているとしましょう。お腹が空いていたあなたは、それをむさぼるようにして口に運び、胃に入れます。食べ終わって「あー、美味しかったな」と。「これで、また半日生かせて貰えたな」と。それで終わりなら、よし。

 

でも、二日くらい経ったら、またあそこのラーメンが無性に食べたくなったと。あの店は、ダシにあれとこれを使っていて、中太の縮れ麺で、チャーシューは5枚載っかっていると。それを思い出すと、もう夜も眠れないんだと。腹が空いてしょうがないと。「あー、どうしてもあのラーメンが食べたい」と。もうこうなったら、「欲」が「執着」にまで化けている。

 

このことは、すべてについて言えるのです。親子関係、夫婦関係、その他の人間関係、お金、財産、仕事、身の回りの道具、コレクション、ペットetc.。そこで、想像してみてください。今あなたが所有している(と思っている)それらのものが、10分後に、もしも跡形もなく消え失せてしまったとしたら、あなたは果たして耐えられるでしょうか? 例えば、あなたの子ども、あなたのパートナー、あなたの家。

 

一つでも、耐えられないと思うものがあるうちは、あなたは、それについての「執着」を手離せていません。しかし、中にはこう言う方もおられることでしょう。いや、自分は「執着」を手離したくなんかないんだと。なぜなら、私のそれは「愛」なんだからと。家族や、恋人や、ペットや、コレクションに対峙している時の私の「心」は、「愛」の表現なんだと。

 

そう思っているあなたは、まだ「愛」の本質を理解していません。それは、所有欲、支配欲、相互依存を、「愛」という言葉に置き換えただけのもの。本当の「愛」とは、所有でも、支配でも、取引でもなく、無償のものだからです。無償の「愛」に至った者が、それを失うことを怖れたり、悲しんだりするはずがないではありませんか。無償なんですから。

 

では、この「愛」を、どこまでも拡大して行ってみてください。

どこまでも、どこまでも。

そう、それが神の「愛」なのですよ。

 

どの道、あなたは気づきます。「執着」し続けることの無意味さに。えっ、分からないかな? この世で、「死」と呼ぶプロセスを、あなたが迎える時にですよ。あなたは先ず、身体を手離し、その後に、心を手離します。そして物質界から離れる。であるならば、その日が来るずっと前に、苦しみの元である「執着」を手離してしまえばよいではありませんか。

 

実にこれが、「今を生きる(Be here now)」ということであり、アセンションへの扉を開くということなのです。

「今を生きる」ことに徹すれば、過去も未来もどうでもよく、よって何かを悔やんだり、逆に期待することもなく、自分の今を、自由に燃焼させて、ハッピーに生きられるのです。解りましたか?

 

そこで最後に、「欲」は持っても「執着」を持たないようにしていく訓練法をお教えしましょう。これは「止まる瞑想」とか「歩く瞑想」と呼ばれているテクニックです。先ず「止まる瞑想」では、あなたが何かをしている時に、その行動を一時停止させ、いま自分は何をしていたかなと観察するのです。これによって、その行動に埋没していた自分を、その次元から引き剥がすのです。

 

もう一つの「歩く瞑想」は、動作を止めずに、もう一人の自分がいて、その動きを観察するようにします。いま左足を上げた。あ、地面にかかとをつけたぞ。重心移動をして、足を蹴ると同時に右足を上げたな。といった具合です。これを、生活の様々な分野で行うのです。料理をしている時にも、掃除をしている時にも。いま包丁を手に持った、自分の手が野菜を切っているぞ、という具合に。

 

このエクササイズを繰り返し行なってください。これによって、身体が自分なのではないという感覚がしだいに身について行きます。そうすれば、自分の「欲」を認めつつ、上手にコントロールできる自分になって行きます。自分のネガティブな部分を否定しようとしてはなりません。否定することは自分に嘘を課すことですし、その葛藤にかえって苦しみます。また、良い人であろうとすることも、所詮は仮面なのです。

 

そうではなく、ここでも重要なことは、やはり素直さです。自分の「心」の動きに逆らわず、先ず出してしまって、それを肯定も否定もせずに観察するのです。あ、いま自分は腹を立てているなとか、あの人に嫉妬心を燃やしているな、といった具合にです。これを繰り返し行なっていれば、数年のうちに、自分の暴れる感情や、思考パターンや、本能をコントロールできるようになっているはずです。

 

そして、あなたは気づきます。いつの間にか、自分の「欲」そのものも変化していることに。あれほど好きだった特定のものに、もはや前ほどには興味が持てなくなっていることに。流行を追いかけることがバカバカしいと感じ出していることに。テレビのニュースになんの関心も無くなっていることに。友人関係が激変していることに。食べ物への関心が以前とは様変わりしていることに。etc.。

 

代わりに、今までは全く無価値だと思っていた、ただウザいだけだと思っていた、何気ない、このド日常の中に、掛け替えのない喜びを発見するようになります。それは、太陽の暖かさであり、木々の緑の鮮やかさであり、吹く風の爽やかさであり、揺れる水面のきらめきであり、一杯のスープであり、自分を支えてくれる人たちの思いやりであり‥‥

 

そして、あなたの耳に届く、この地球の生命の讃歌。

 

やがて、あなたは知る。

もう、これで充分なのだということを。

すべてが最初から満たされていたんだということを。