by Rainbow School
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人類支配の構造と、支配からの脱却

地球の未来は、今ある人々の意識の転換に掛かっています。今ある人々が、次代の社会基盤と環境を創り上げるのであり、次世代の人々の価値観や行動パターンをも左右してゆくのです。今ある我々も、前の世代が創り上げたそれらの影響を多分に受けて今あるのです。けれども、人々は、目の前の瑣末な変化のことに忙しく、かつ自分のことだけで精一杯なために、こうした長期的な視野にはなかなか立てません。

 

ところが、超長期的な視野に立って、人類の行く末を考え、実現に向けて代々行動し続けて来た少数の人たちがいるのです。それが「闇の支配者」です。「えっ、闇の支配者? 何それ?」と、初めて聞く人は、きっと思われるでしょう。ジョージ・アダムスキーは、彼らをシャドウ・グループと呼んでいました。皮肉なことに、人類の未来を真剣に考えて来た人たちは、地上においては、支配者が優勢だったのです。

 

このブログでは、しばしば洗脳とか、奴隷というちょっと過激な言葉を使っています。違和感を持たれる方もいらっしゃるでしょうし、冗談のように受け取っておられる方もいらっしゃるかも知れません。けれども、洗脳状態にある時には、人はそれが洗脳だとは気づかないものです。また、現代の奴隷制度は、かつてのような分かり易さを見せません。民主主義の名のもとに構築され、人々が、自ら進んで奴隷になるように仕立てられているのです。

 

支配の構造が見えにくいのは、一つにはそれが多段階になっていて、自分の所属領域以外の上下のことが分かりにくいということがあります。これに加え、この多段階構造が、社会システムとして是認されている。人々から当然視されていて、もはや誰も疑問に思わない、という面があるのです。つまり、社会システム自体が、巨大な「洗脳」システムを構成しているのです。

 

政府は国民を統率して当然。中央銀行は金融を操作して当然。経団連は経済界を仕切って当然。資本家は企業を売買して当然。メディアはニュースを流して当然。学校は生徒を教育して当然。医者が薬を出すのは当然。貧乏よりはお金持ちの方がよいのは当然。人間に優劣があるのは当然。と、みな思い込んでいる。思い込まされているとはよもや気がつきません。

 

そして宗教までもが、教祖、教主を頂点にピラミッド構造を作り、信者を支配しているのです。スピリチュアル業界だって、資格制度や家元制度を作り、高額の受講料の見返りにありがたい何かをお授けするといったことをやっている。これらの一体どこに、「魂」の平等があると言うのでしょうか? 神の下での、普遍的「自由」があると言うのでしょうか?

 

みんな、自ら進んで、束縛され、池に飛び込むように、支配される構造に飛び込んで行っている。そして、そのことに全く気がついていない。これが、実に、地球人が背負っている不幸の、大本なのです。自分で自分を、また自分たちで自分たちを、不幸に追い込んでいるということにちっとも気づかない。そこで、何度も何度も、同じカルマをグルグルと廻り続けているわけです。

 

だから、言うのです。地球の未来は、今ある人々の、意識の転換に掛かっていると。目覚めるのか、目覚めないのか。さあ、どっちに行くのだ。地球人は、もう一度、水没することを選ぶのか。

 

支配の構造が見えにくいのには、もう一つ理由があります。表の世界が多段階構造になっているだけではなく、その裏に隠れた世界もまた、多段階になっているのです。あなたがもし、マスコミのニュースを全面的に信じているとしたら、この構造は絶対に見えません。日本人の8割は未だマスコミを信じていますが、マスコが流すニュースなど、支配層による集団催眠ツールに過ぎません。

 

では、マスコミの中にいる人たちはそのことを解っているのでしょうか。中には解っている人もいるでしょうが、大多数の人たちは、全体構造を知らずに、それが自分の役割だと信じてやっているのです。自分の所属領域以外の構造は知らないのです。同様に、銀行に務める人も、病院に務める人も、学校に務める人も、自分がやっていることが正しいことだと思ってみなやっているのです。

 

けれども、マスコミが流しているニュースの裏には、大多数の人が知らない、隠れた世界というものがあるのです。しかもこの裏は、一段階では終わりません。裏の裏に影があり、影の奥に闇がある。そして闇のさらに奥には、魔があるのです。つまり、表←裏←影←闇←魔、という多段階の支配構造になっていて、最後は霊界にまで繋がっているのです。

 

スピリチュアルなことに関心のある方なら、ハイアラーキという言葉をお聞きになったことがあるでしょう。これは霊的な高所のことを指しています。このハイアラーキとヒエラルキー(ヒエラルヒー)とは同じ意味なのです。前者が英語、後者がドイツ語です。ヒエラルキー(ピラミッド構造)というのは、結局、霊界の階層構造を(宗教が先ず真似をして)地上にも当て嵌め、広がっていった構造なのです。

 

そしてこれも、表の世界と同様、表しか知らない人、裏も知っている人、影まで知っている人、闇まで知っている人、と段々少なくなっていき、魔まで知っている人となると、もう殆どいない。皆無に近い。すると、どういうことが起こるでしょうか。表しか知らない人にとっては、影の話は眉唾ものに見え、闇の話はトンデモ話に聞こえ、魔の話をしたら狂人扱いされてしまうことでしょう。

 

今、地球の転換期に際して、宇宙から強い光が当たるようになって来たことによって、今まで隠されていた影や闇が、表にどんどん炙り出されて来ています。そのため、これを語る人が多くなって来ています。しかし、それを語る人も、各階層の領域内で知っているものを語っているので、聞かされる方としては、多層階の断片的な情報をパッチワークしているような混乱した状態にあります。

 

こうした、今まで知らなかった支配の構造について知識を得ることは、強力な洗脳下にある現在の支配状況から脱出する糸口にはなります。このような情報は、今後もますます増え続けるでしょう。けれども、みなさんにお願いしたいのは、そこにあまり夢中にならないで頂きたいということです。

 

重要なのは、そこを暴くことではありません。ましてや影や闇の勢力に対して、報復をすることでもありません。一体どうして、人類がごく少数の者に支配されてしまうのか、という点です。そこに気づきがなければ、地球人としての進歩はありませんし、この構造はこれからも変わらずにずっと続くことになります。

 

大多数のみなさんは、「波動」というものを知覚できません。「波動」が何かということをきちんと説明しようとすると長くなってしまうので、ここではひとまず「思念」のエネルギーだと捉えてください。思いというものは、目には見えませんが塊りを創るのです。この思念エネルギーは、人からも、言葉からも、書かれたものからも、作られた物からも出ています。

 

敏感な人は、それをキャッチすることが出来ます。これは、生来、敏感な人もおられますが、訓練によって高めることが可能です。その時に、いわゆる「低い波動」というものは、ある種の気持ち悪さや、吐き気や、居たたまれなさ、肌を突き刺すような感じ、痛みなどとして知覚されます。ですから、波動が分かる人の前で「嘘」をつくことは出来ません。全部、見抜かれてしまいます。

 

*そのことを知らずに、人間恐怖症に陥った、自分は病気だ、社会不適合者、劣等者、無能者だと思い込んで(また周囲からもそういうレッテルを貼られて)悩んでいる魂がたくさんいます。かつての私がそうでした。人間社会は粗雑な波動で満ち溢れているので、それらをやり過ごす術を身につけるまでは、なかなか大変です。困っている方は相談してください。

 

さて、そうした時に、闇の支配者の存在を暴こうとして頑張っている人たちの多くからは、残念なことに、非常に「低い波動」が出ているのです。その理由は、この方たちが激しい「闘争心」を燃やしていることにあります。実に、ここが大切な点です。恨みや闘争心は、最も低い波動を出します。ですから、「闇」に対抗しようとして「正義」の戦いを主張していることが、逆に「魔」の格好の餌食になってしまっているということなのです。

 

霊能を自称する人たちの中には、アシュタール・コマンドとか、銀河連邦の名を持ち出して、白対黒、善が悪を叩くという図式を強調する人たちがおられます。ですが、高次元の存在たちが、地上の人間に対して、このような闘争を持ちかけて来ることは絶対にありません。なぜなら、その元は、一者ですから。一者であるということをよ〜く知っていますから。すべては一つなのです。

 

なにゆえ、自分で自分に脅威を煽る必要があるでしょう? なにゆえ、自分で自分を引っ叩かせる必要があるでしょう? このような馬鹿げた話を持ち出すのは、低次元の「魔」の存在の仕業だということに気づいてください。そのようなものに引っ掛からないように。光あるところ影あり、影あるところ必ず光あり。両者はつねにセットなのです。互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。

 

ここで、北風と太陽の寓話を思い出してください。「闇」に、「闘争心」という「闇」をぶつければ、「闇」を太らせるだけなのです。「闇」を溶かすことが出来るのは、「光」しかありません。「光」を当てれば「闇」は消えるのです。この理屈を解ってください。人類が、これから乗り越えなければならない進化は、その点です。闘争で、闘争に終止符を打つことは出来ません。終わらせられるのは「愛」だけなのです。

 

実にここが、(簡単なことではあるのですが)人類にとっては大いなる飛躍です。今まで、何万年かかっても、どうしても成し得なかったのですからね。支配の階層構造という面だけではなく、人間は、もっと心理面のメカニズムに眼を向けるべきです。むしろ、こらに注目した方が、大ジャンプが果たせます。いくら階層構造に踏み込んで行っても、ラビリンスに迷い込んでしまいかねませんから。

 

なぜ、支配者が存在するのか? それは、彼らなりの One World への希求なのです。One World ですから、驚くなかれ Oneness への帰還という「魂」の基本欲求に沿っているのです。ところが、その為の方策が真反対を行こうとしているところが違う。多様性の認め合いによる Oneness ではなく、一部選民がゴイム(被支配者)を平定する Oneness を思い描き、愛による統合ではなく、支配による統合を目指す。

 

それは、その奥を覗けば、実に単純な話なのですが、「魂」の個別化、つまり一者から「分離」したことを、「愛」の学習のため(再統合)と捉えるのか、それとも、我ら選民による「支配」をすべき(分離意識の自己満足を追求する)と捉えるかの違いなのです。ですから、この支配構造というものが、表、裏、影、闇、魔と、霊界にまで一直線でつながっているというわけなのです。

 

さてここで、「支配者」のつもりになってみてください。あなたに操られる人たちが、もしも一人も居なかったとしたら、つまり全員がそっぽを向いてしまったとしたら、あなたはどんな気がするでしょうか? 幼稚園で、あなたは他の子たち全員を従えたい。でも誰も見向きもしてくれないとなったら、きっと、寂しい思いをするのではないでしょうか?

 

つまり、支配者だって、自分という存在に対するよき理解者を求めているのです。その理解者とは誰なのか。自分に操られてくれる人です。ですから、「支配」という構造を、心理面から逆に見ますと、「操られる心」「操られたい心」が、「支配」を創り出しているのだということが判るのです。この点で、支配者と被支配者は、持ちつ持たれつの関係を演じているのです。

 

人類が、今、気がつかなければならない点はそこです。先の大戦でも、戦後になってから、国に騙されたと言う人は多かったのです。けれども、操られる心理が多段階に構成されることによって、全体の「支配」構造が成り立っていたという点に注目してください。操られる者を操っている者も、その上から操られているのです。そしてその者も、また上から操られている。

 

こうした結果、悲劇が、いつもそのヒエラルキーの下部にいる者たちに集中するのです。ヒエラルキーの最頂部付近にいる人たちは、自ら戦場に行ったりはしません。自分で銃を持って戦ったりもしません。人々を操っているだけです。この多段階構造は、責任の所在を曖昧にする効果をも持ち、それゆえ最頂部にいる人たちは、形勢が悪くなると、最後は責任のなすり合いとなり、仲間割れを起こしてしまいます。

 

先の大戦後も、上層部で生き残った人たちの中には、米国の工作員にあっさり転向して、何食わぬ顔で政治経済の重鎮に収まった人が何人もいます。彼らは、脅威を煽り、防衛を訴え、盛んに「国家主義」を主張しますが、それらはみな人を操るための方便に過ぎません。そこに騙されてはいけません。本質は、どこまでもエゴにありますから、国民のことなど少しも考えてはいないのです。

 

ここで、繰り返しになりますが、だからと言って、そういう人たちに反撃を喰らわそうとしてはなりません。彼らもまた操られているのです。でも、あまりにもエゴが強過ぎて、そのことに気づく機会すら持てないのです。十字架に架けられたイエスが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でもわからないのです。」と語った真意というのは、そこにあります。

 

それに、「闘争心」を燃やすことは、その人にとってもよくありません。顔つきが悪くなりますし、何よりその人の身体細胞を傷つけます。「あいつをやっつけろ!」という旗を立てて振り回せば、同じ思いの人々が惹かれて集まって来ます。すると、共鳴現象が生じて、その場の「闘争心」を高め合い、波動的には低め合い、身体細胞をますます傷つけて行くことになってしまうのです。

 

それよりも、なぜ、そのような人物を見抜けないのか。後になってから、騙されていたと言うのか。エゴの塊のような人物たちに、歴史上、大衆が何度も何度も操られ続けてしまうのか。という根本に眼を向けなければ、悲劇はこの先も無くなりませんし、人類の進歩もありません。

 

私たち一人ひとりの心の中には、誰にでも、「分離」意識と、「合一」意識が同居しています。ただ、その割合が違うというだけです。今ここで、「分離」意識を黒で、「合一」意識を白で表しましょう。支配欲に取り憑かれた人というのは、黒色が心の大部分を占めるに至っているのです。でも、真っ黒けということはありません。たとえ僅かでも、白部分は必ず残っています。

 

この限りなく真っ黒けに近い人物が、脅威や、国家主義や、防衛や、監視の必要性を訴えかけます。すると、同じように黒の割合の多い人たちが「そうだ、そうだ」と共鳴して、波動の法則によって惹き付けられるのです。このようにして「思念」の塊りが出来ると、白黒半々くらいの人たちの黒部分も刺激され、それを膨らませて行く人たちが出てきます。こうして、操られる方向性が決まるのです。

 

次の段階に入りますと、勢いを得た黒グループは、法律や社会システムを変えて、大衆操作へと突き進みます。すると、白の割合が多い人たちにまで効力が及ぶようになり、力づくでの支配体制がここに完成するのです。なぜ無意味な戦争が繰り返されるのか、なぜ無辜(むこ)の人を殺戮する悲劇が終わらないのか、といった根本問題は、複雑なように見えて、すべてはここに原因があるのです。

 

つまり、人々が、自分の中に潜在する「分離」意識を、誤用してしまった結果です。なぜ誤用してしまうのでしょうか? 無智だからです。宇宙の法則(真理)を知らないからです。愛に対する確信、平和というものへの確信がないからです。攻撃される恐怖が捨てられないからです。友愛、尊重、平等よりも、支配、差別、優越意識の方が気持ちがいい、と感じる人たちが地球にはまだまだ多いからです。

 

ですから、この心理操作に気づく人が増えて、容易には操られない人が多数を占めれば、支配の多重構造であるところの、裏、影、闇、魔と言うものの存在をたとえ知らなくても、人類は、永く続いた支配から脱却できるのです。そこで、あなたにはその先鞭となっていただきたいのです。こうして出会ったのも縁。あなたには、光への道を進む勇気を持って欲しい。

 

この道は楽ではありません。揶揄、嘲笑、蔑み、場合によっては、投獄や処刑までも覚悟しなければなりません。自分の中に未だ眠る、闘争意識も、被害者意識も、優越意識も、全部捨ててしまわなければ、光の道には入れない。「狭き門より入れ」とはこれです。しかしあなたは、ご自分の役割を誓って、この世に誕生して来られた筈です。今、それを思い出して欲しいのです。

 

あなたが、ご自分を高めて、光のバイブレーションを出せば、周囲はその影響を受けます。そのようにして影響を受けた人が、また自分の周囲を明るく変えます。そうやって、人類全体が変わる。支配の構造が終わる。その一人に、あなたにもなって欲しい。愛の宣士レインボーマンになっていただきたいのです。

生命の成り立ちへの誤解とは?

8月13日に掲載の『個人のカルマと人類のカルマ』に関して、次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.これまで人類が積み重ねてきたカルマには大きく三つがあり、一つは「富への執着」、二つめは「他者支配への欲望」、そして三つめが「生命の成り立ちへの誤解」という記述がありましたが、三番めの意味するところについて、もう少し詳しく教えてください。

 

A.ここで挙げた三つは、強いて分ければということであって、元をたどればみんな同じであり、全てが人間のエゴに起因しています。しかしそのエゴも、なぜそれが生じているかと言えば、人類の創生に関係した根源的な問題にまで辿り着くのです。それは、一人ひとりがみな独立した「魂」であるということ。そして、そこから発した「分離」と言う意識の、行使の方向性の誤りにあるのです。

 

一人ひとりの「魂」は、みな一者から生じました。この一者を、人類は「創造主」とか「神」と呼び習わしました。ですから、これを突き詰めれば、自然と、私の中には「神」が宿っているということになるのです。そして、すべての人にもそれが言えるわけですから、人類はみな兄弟ということも解ります。このようにして、「分離」を起点として、再び一者に還って行くことが、地球における「愛」の学習となっているのです。

 

つまり、一者から「分かれた」ということは、人間に、「自己とそれ以外」というものの、両方の『認識』を育むに至ったのです。バラバラに「分かれた」からこそ、存在の多様性というものを知ることができ、存在の多様性があるからこそ、「愛」の学習ができ、そして、これらの仕組みを創った宇宙の創造主についての思索も同時に可能となったのです。

 

しかし、この肝心な点を、永らく人類は理解して来ませんでした。いま言ったような説明の仕方を受けたことが、これまで殆どないのです。宗教ですら、間違ったことを伝え続けて来ました。その結果、「分離」意識を、優劣、支配、排斥、闘争という、「愛」とは真逆のベクトル方向で発達させ、ひたすら行使し続けて来たのです。しかもこの逆ベクトルが、未だに人間社会では賞賛されているという状態です。

 

さて、ご質問の「生命の成り立ちへの誤解」という点ですが、確かに、三つの中ではこの点はあまり語られて来ませんでした。しかし逆に言えば、この点に関しては、それくらい逆ベクトルを向いていることへの認識が薄いということでもあります。「富への執着」や「他者支配への欲望」が、なんとなく「いけないことだなぁ」というのは解る。でも「生命の成り立ちへの誤解」とはどういうことなのか?

 

これは、このブログ上で繰り返し語って来た「生命」というものと、今の人類全般が考えている「生命」というもののギャップを考えていただければ、自ずと解ることですが、ひとことで言えば、今の地球人類が考える「生命」の認識は、非常に狭い概念に留まっているということです。それは、適用範囲ということにおいても、また時間概念においてもです。

 

今まで繰り返し語って来たのは、「生命」とは「宇宙」の代名詞であるということ。「宇宙」の代名詞には他にもたくさんあります。宇宙とは「愛」である。宇宙とは「エネルギー」である。宇宙とは「ヴァイブレーション」である。宇宙とは「智慧」である。宇宙とは「無常」である。宇宙とは「永遠」である。これらはいずれも正しく、一つのものを、それぞれ別の機能面から見た認識なのです。

 

その中に、「生命」というものもあるのです。「生命」とは何か? 「宇宙」そのものが「生命」なのだということ。これが解れば、「生命」の永遠も、循環も、みな支え合っていることも、進化ということも、なぜ愛なのかということも解る。ところが、この根本を、地球人類はまるで解っていないのです。「生命」を持つ存在は限られており、誕生と死があると思っているのです。

 

しかし、そうではありません。鉱物にだって、水にだって、空気にだって、「生命」はある。みなさんがそう認識していないだけであって、全てに「生命」があるのです。私が、地上で言うところの死を迎えたとしましょう。地面に放ったらかしにしておけば、肉の大半は獣や鳥に喰われ、残ったものも土に返って、それを栄養分としてそのうちそこに草が生えるでしょう。そのようにして「生命」は繋がれ、廻っているのです。

 

意識も、肉体と一緒に脱ぎ捨てる部分もありますが、死によって全部が消滅するわけじゃない。感情面や体験によって認識したことはカルマとなり、霊界に戻ってもそれを所持し続けます。そして、そのカルマを刈り取るために、また地上に生まれ変わるのです。このようにして「魂」の旅は続くのです。物質的にも、また意識という点においても、失われるものは何もないのです。「生命」は永遠なのです。

 

ところが、みなさんにはそれが解らない。いいえ、深いところでは解っているし、7歳位まではみな記憶していたのですが、大人になってしまうと、もう容易には思い出せない。そして、それと入れ替わりに、地上の論理を信じるようになって行くのです。死後の世界などない。死んだら無だ。生きているうちが花なのさ。だから、他人のことなど知ったこっちゃ無い。己の欲望を第一に生きるんだ。

 

*周囲に小ちゃな子がいたら「あなたはどうして生まれて来たの?」と訊いてみてください。ちゃんと説明しくれる子がいますよ。

 

この、「生きているうちが花」という捉え方、心臓が動いて息をしている間だけを「生命」と捉える考え方が、近年になって急速に拡大しました。昭和30年頃までは、亡くなる人の8割は自宅で息を引き取り、病院で死ぬ人は僅かでした。しかし今は、逆に8割の人が病院で亡くなります。そこでは、1分1秒でも長く生存していることをよしとする価値観が、暗黙の了解として、医師、患者、家族の間に出来上がっているのです。

 

これを読んでくださっているみなさんに言っておきますが、人間は、死のプロセスに入りますと、それ相応の準備を始めます。それは、苦痛を無くして、順調に霊界に帰還して行けるようにと、予め人間にプログラムされた道程なのです。ところが、1分1秒でも長く生存していることをよしとする現代の医療体制が、このプログラムの自然な進行を妨害し、却って死に逝く人に苦痛を与えているのです。

 

そして、死のプロセスや、死後世界のことを何も知らない無智な人々が、この、まさに道程にある「死に逝く人」の言動を見て、それを理解できずに、譫妄(せんもう)などという言葉を与えては精神障害扱いしている有様なのです。そして、いよいよ息が途切れると、待ってましたとばかりに葬式ビジネスが動き始め、型通りに葬儀が行われ、型通りに僧侶がお経を唱え、型通りに参列者がお悔やみを述べご焼香して終わりとなるのです。

 

これのどこに、生命の尊厳があるでしょうか? 誰もが、死を出来るだけ遠ざけようとする。誰もが、出来るだけ死に向き合わないでおこうとする。そして死を、専門家と称するビジネスにアウトソーシングして、総てお任せしてしまう。己の命を‥‥。いいですか。死に向き合わないということは、生にも真剣に向き合わないということなんですよ。せっかくの機会を、人間はいったい何をやっているのか。

 

わずか半世紀前には、殆どの人が持っていた「寿命が尽きるまでは、精一杯生きさせていただこう」といった慎ましやかさはとうに失われ、今や1分1秒でも長生きすることに、誰もが血眼になっています。そして、「生命」の本当の意味というものを知らないから、傲慢な人間たちの中には、自分たちが「生命」をコントロールすることが出来ると思い始め、これを実行に移す人が出て来ました。

 

臓器移植、遺伝子操作、クローン技術、万能細胞といった先端技術が注目を浴び、夢の医療の実現といった言い方もされています。これらにスポットライトが当たるのは、そこにビジネスが絡んでいるからなのですが、このようにして、知らず知らずのうちに、人間の価値観がさらに塗り替えられて行こうとしているのです。今のこの進展状況は、アトランティス末期に起きたこととそっくりです。

 

アトランティス文明は、紀元前20万年前くらいから2万年前くらいまで続きました。最初は、Oneness を体現した生命体が住んでいたのですが(それゆえ、永く続いたのですが)、B.C.5万年ほどからアトランティス人たちにエゴが芽生え、次第に堕落し始め、科学秘術の誤用によって大地震と津波を引き起こし、遂には大陸もろとも水没してしまったのです。その元あった海域に「Atlantic Ocean(大西洋)」の名が付けられています。

 

今、世界はそれとそっくりの状況を辿りつつあります。これは、1910年頃からアメリカ合衆国を中心にしてアトランティス人の生まれ変わりが多くなり、これらの「魂」をもつ人々によって、アトランティス人のカルマの清算であるところの辿り直しが、現在進行中であるためです。それゆえ、核爆弾も、武力による世界支配も、個人主義も、グリード(強欲)も、退廃も、みなアメリカ発によって世界に広がっているのです。

 

*世界各地で大規模な水害が多発しているのは、つまるところ、このアトランティスの辿り直しが、末期の段階に入り、カルマの清算が現れ出ているということです。結局、水というのは、浄化作用ですから。

 

日本人には、古来より、循環的な生命論や、自然との調和的生き方が、代々備わっていたのですが、アメリカによる戦後70年間に及ぶ植民地支配によって、このような思想は駆逐され、世代も交代し、すっかりアメリカナイズされた価値観に置き換わってしまいました。それは、アメリカ発のアトランティスのカルマが、東へ東へと廻って、東の端の日本で最終局面を迎えるに至ったということです。

 

地球人類の「生命の成り立ちへの誤解」という面に関しては、もう一つ大きな要因があります。それは、『創世記』の第1章26節、27節にある次の文言を、西洋人が誤って解釈したことによります。西洋文明の根源にあるものは、つまるところ、旧約、新約の『聖書』なのです。

 

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

『聖書』に記述されたこの文言から、二つの重大な誤解が生じました。一つは、人間は神に似せて創られたのだから、神の姿は人間に似ているはずだと、逆に捉えたのです。つまり、「神」を自分の外側に置いて、人格神のように考えたのです。西洋の物語に登場する「神」が、しばしば白い顎鬚を生やし、杖をついたお爺さんに描かれているのはその為です。

 

しかし、真実はそうではありません。ヘルメスが「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるものの如し」と言ったように、マクロコスモス(大宇宙=神)とミクロコスモス(小宇宙=人間)とは、同じホロニック構造にあるということが、その意味なのです。解りやすく言えば、共に、物質界と霊界とをブリッジする多次元的存在だということです。(う〜ん、あんまり解りやすくなかったかな)

 

もう一つの誤解は、神が、人間に「地球上の他の生命存在の支配権を与えた」という部分です。これに加えて、人間は神の似姿に創られた特別な存在なのだから、自然の王、生命の王として振舞ってもよいのだと解釈したのです。これによって、西洋人の中には、自然は人間の為に供せられるべきものだ、人間は自然に対し何をしてもよいのだ、という傲慢が生じたのです。

 

しかしこれも、マクロコスモスとミクロコスモスのホロニック構造を考えれば、それが誤解であることはすぐに解るはずです。マクロコスモスであるところの「神」は、確かに全宇宙を支配しています。しかしその「神」が、我欲のために、宇宙の生命を好き勝手にいじるでしょうか? いったい何のために? 自分が創造主なのにね。結局、西洋人たちは「支配」というものを誤って捉えているのです。

 

人間にとって、地球とは、生存を保障してくれる環境です。地球は、人間にとって、いわば揺り籠なのです。その揺り籠をメチャクチャにしてしまう赤ちゃんがどこの世界にいますか? それなのに人間は、温暖化で北極の氷が溶けたと聞けば、これで北極海の油田開発が容易になるぞ、シベリア開発も出来るぞと、さらなる生存環境破壊を考え出すのですから、もうどうしようもありません。まさに点ける薬がない。人類のカルマです。

 

結局、人類は、「生命」とは何かを知らない。そこに、富と支配への欲望がひっついて、いつまで経っても懲りない、水没まで進むカルマの連鎖を、何度も繰り返しているのです。

そこで、あなたにお願いしたいのは、あなたが先ず、この「生命」の成り立ちというものへの誤解を解いて欲しいということです。

 

「生命」とは、宇宙の全てを言うのです。全てが「生命」なのであり、それが組成を変え、バトンリレーして行くことによって、全体の永遠が成り立っているのです。あなたの「生命」を支えてくれているのは、他の「生命」です。ですから、そのことに思いを馳せ、感謝して、いつも周囲のものを、慈しんで見てください。その視線が、つまるところ「愛」なのですから。

 

「生命」と「愛」とは、同義語なのです。

根本にある不安感から解放されるには?

今回お話することは、以前に、パニック障害や鬱病を患った人間が書いているということを先ず頭の隅に入れてください。ですから、その苦しさや辛さが痛いほど分かります。私がそうした状態から、本当の意味で解放されるまでには十数年間を要しました。その間に、段階的に少しづつ良くなって行ったのです。ですから、いまお苦しみになっている方も希望を捨てないでください。

 

先日、月末に開催しているサロンに、16年間向精神薬を飲み続けていたという男性が来られました。その方は、「16年間飲み続けていてダメなら、17年目もダメだろう」と思ってクスリを止めた、と話されていました。この『気づきの掲示板』は、いわゆる「心の病」を患っている方をサポートする目的で書いているわけではないのですが、きっとどこかに琴線に触れる部分があるのでしょう。

 

ただ、明確に意識しているのは、純粋であるがゆえに、傷つき、疲れてしまっている友人たちに「大丈夫だよ」と言ってあげたいということです。この世が、あまりにも粗雑で、汚れていて、悪意に満ちているために、純粋であり続けようとすることは、大変な生きにくさをもたらします。でもそれを決して曲げないでいただきたいのです。それは宇宙的に見て大きな価値であり、あなたに今の時期、大切な役割があるということを示しているのです。

 

つい一週間ほど前ですが、「自分を実験に使ったんだよ」という声が入って来ました。「ああ、なるほど‥‥」と納得が行きました。生まれてこのかたの苦しい経験、お恥ずかしい体験の数々は、すべて自分を使った人体実験だったと言うのです。その時にはもちろん分らなかったのですが、おかげで、それがいま役に立っている。成功物語を語ることは出来ませんが、どぶ板人生の方はこうして共感を持って語れる。結局それが、自分の役割だったということです。

 

さて、表題のテーマは、ある方からそのような質問を受けたからなのですが、その感じというのはよ〜く解るのです。私が、パニック障害と鬱から完全に抜けられたなと思えるようになったのは、ついこの間のことです。5年前には、まだパニックを起こしていました。

 

鬱症状はかなり改善していたのですが、それでも、質問者と同じように根本にある不安感というものがどうしても拭えないのですね。それが、何かのきっかけで調子を落とした時に、マグマのように下から沸き上がって来るわけです。すると、「いけない、またパニックを起こすんじゃないか」という気に襲われるのです。この辺りのことは、経験者なら多分みな首肯されることでしょう。

 

その状態から脱した今、言えるのは、先ず、「根本にある不安から解放されるにはどうしたらよいか?」という課題の設定、そのものをやめなければいけないということです。パニックや鬱になる人というのは、どちらかというと真面目な性格で、物事をとことん追求しようとする意識が強いのです。それ自体は悪いことではないのですが、ネガティブ方向にその性質が向けられると、思わぬ落とし穴に嵌ってしまいかねません。

 

別の方でしたが、以前に「アトピーを『完治』したが、どうすればいいでしょう?」という質問を受けたことがあったのですが、そのお気持ちもよ〜く解るのです。私にもそういう時期がありましたから。でも、このように「完全」を目標にするという設定は、物事を真面目に捉える傾向の人にとっては、自分を必要以上に追い詰めてしまうという結果になりやすいのです。

 

なぜならば、自分が想い描く「完全」と、それに比してあまりにも不完全な現状とのギャップが目について気になり、真面目な人は、「自分の努力が足りない、もっともっと努力しなければダメ」だと思ってしまうのです。ところが、そうやって、いろいろ手を尽くしても、思ったような成果が見られない。そこでさらに自分を追い込んで行き、ついには精神バランスを破壊してしまうのです。

 

これは男発想が陥りやすい罠で、男は、何をするにも「目標設定と努力が不可欠」とずっとそのように教育されて育ち、それがもう体に染み付いてしまっているのです。そうではなくて、もっと女発想を見習ってください。今ここを生きるということです。レース編みをひと針ひと針、根気よくやり、今日は少し進む。明日もまた少し進む。そうやって、半年後には大きなテーブルセンターが出来ているというように。

 

「根本にある不安から解放されるには?」といった大目標は捨てて、毎日を楽しく生きる工夫をなさってみてください。そうして、1年経ち、2年経ち、3年経ちしてふと思い出し、「そう言えば、最近は不安を気にかけなくなっていたな」と気づくというのが本当のあり方です。

 

これは何度も言っていることですが、「悩みが消えない」とか「不安が消えない」というのは、意識がそこに集中しっぱなしになっているからです。《ネガティブ+否定語》という語法もダメだと、これも何度も言って来ました。例えば、「病気を治す」「戦争に反対する」といった言い方です。「不安を解消する」も同じですし、「悩みが消えない」というのは、そもそもこの語法の罠に捕まっています。

 

この語法を、自分の中で繰り返し呪文のように唱えていると、絶えずそのネガティブが潜在意識に刻み込まれることになり、ついにはその潜在意識に支配されるようになるのです。その結果、ますます悩みが深まる、ますます不安が高まる、という神経症的な段階にまで至ってしまいます。真面目で完璧を求める人は、ここでさらに自分を追い込んでしまい、鬱の深みへと陥ってしまうわけです。

 

しかし、これを何度説明しても、そのループに嵌った人というのは、それがもう習い性(クセ)になってしまい、暫くするとまた「悩みが消えない」「不安が消えない」と同じことを言って来られるのです。そこで私としても、何度でも同じことをお話しするしかありません。そこで言います。神経症的な段階にある方は、完治とか完全解消といったことを求めずに、先ずは通常の不安、通常の悩みに戻すことを目標としてください。そのような、不完全な自分を許すのです。

 

根本的不安から解放された、という人は、おそらく1パーセントもいないのではないでしょうか。殆どの人が、ちょっぴりの不安を抱えながら、日常を遣り繰りして生きているのです。これは健康問題と同じことで、今日は肩がちょっと痛いとか腰が痛いとか、お腹の調子が悪いとか言いながら、みんなウェルネス(Wellness:Health と Sick の間)を生きているのです。

 

このことを、先ず認めることが大切です。要は程度問題であり、その中で、心の爽やかさ、楽しさ、喜びを増やしていく、身体の好調を増やしていく、それがよりよく生きるということです。

ではそのためには、何を心がければ良いのでしょうか?

 

数ヶ月前ですが、サロンに来られた方が、私に向かって「自分は、これまでずっとメンター(Mentor:指導者)を探し求めていました」と仰られたのです。その時に、思わず私の口から出た言葉は、「あなたの課題は、自分にはメンターなど必要なかったんだと知ることです」でした。言った後で、(ああ、自分はなんて冷たい人間なんだろう)とも思ったのですが、幸いにその方は、その意味を直ちに理解されたのです。

 

「虹の学校」の門を叩く方は、私が手取り足取りといったことは何もしないし、縛ることもしないし、その人に代わっての判断はしてあげないし、サイキックな能力はないし、ご託宣を授けたりもしないし、何よりも権威がない(*´-`)ので、みんな呆れて早々に去って行かれます。ですが、師というものは、崇拝の対象にしてはならないのです。師は、踏み台にして、蹴飛ばして、乗り越えていくものです。

 

そうでなければ進歩というものがありません。また、そうでなければ、本物の師は喜ばれないでしょう。自分をずっと崇拝の対象に置き続けておくような師、そんな人間は師とは呼べません。宗教のダメなところはそこで、信仰の名のもとに、人間の本来の自由を奪い、教義に縛りつけ、自分で考え判断することをさせなくしてしまうのです。そして、師を乗り越えることは決して許さない。宗教の怖さはそこです。

 

「杖を持てば、もっと楽に生きられるよ」と言う。そんなものかな?と思って持ってみると、なるほど何か楽に歩ける(ような気がする)。でも暫くすると、もっといい杖があるんじゃないかなと思い始めて、杖を取っ替え引っ替えしてみる。すると、あるとき出合った人が、「そんなやり方ダメよ、浮気しちゃダメ。一つの杖をもっとギュッと強く握るのがコツよ」と教えてくれる。

 

これも、そうかなと思って一つを選んで歩き続けていると、あまりにも強く握り過ぎて、今度はポッキリ折れたらどうしようとか、失くしてしまったらどうしようという不安に駆られるようになる。そこで先の先輩に相談すると「それはあなたが、まだまだ中途半端だからよ。心がフラフラしているからそんな迷いが起こるの。もっと杖を信頼して、全体重をここに掛けるの!」と言われてしまう。

 

あな恐ろしや。そして10年もすると、当たり前のことを、この人はすっかり忘れてしまうのです。

人間は、杖なしでも歩けるということを。

杖なしで、親の支えも振り切って、自分の足でしっかと歩き始めた日の瞬間が、この私にもあったということを。

 

あなたは叫ぶ。「杖、杖、杖をちょうだい」「私にもっとよい杖をちょうだい」「人間には杖が必要なのよ」。そして、杖なしで歩いている人を見かけると驚いて、「どうしてそんな無茶なことが出来るのよ。あなた、怖くないの? 杖を持てば一切の不安から解放されるのよ。この杖の良さがあなたには解らないの? あなたも絶対に持つべきよ!」と言う。

 

実に、これが「根本的な不安」というものの正体です。

 

頼るものを外側に求め続けているから、根本的な不安から逃れられないのです。そもそも、「頼りたい」気持ちが「不安」の裏返しです。ですが、何かに「頼りたい」人にとっては、それを失うことはもの凄い恐怖ですし、捨てることは大変な勇気を必要とします。でも、あなたは忘れてしまったでしょうが、ある日ハイハイからむっくりと立ち上がって、自分の足で歩いたのは、一体どうしてだったのでしょうか?

 

理由などありません。ただそうしたいから、そうしただけです。

その瞬間のあなたは。

ただ「魂」の命じるままに。

 

自然の中の動物たち、植物たちを見てください。杖を求めて生きているのでしょうか? 杖が無いと不安なのでしょうか? 自分が生きたいように生きているだけです。今ここ、この瞬間を、生きたいように生きているだけです。あなたが二足歩行を始めたあの日の感覚、その時の喜びを、ずっと継続して生きている。それなのに、人間だけが、それではいけないと思い始めるのです。

 

そんなことはない。断じてない。「今ここ」を生きた、その軌跡が人生になるのです。だから、喜びの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は喜びの人生になり、悲嘆と悩みの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は悲嘆と悩みの人生になるのです。さて、どちらをご希望でしょうか?

 

理想を追い求めることはよいことです。でもその理想と、今の自分とを比較して、ギャップに落胆してはなりません。理想は理想として置き、そこへ向けて走る「今」にフォーカスするのです。人間は、つねに「成ろう」としている存在です。つまり Being であることが当たり前なのです。だとしたら、これをもっと積極的にハンドリングして行った方が、よりよく生きられるということです。

 

理想の地に向かって、あなたは自転車に乗って走り出します。その時に、ペダルを漕ぎ続けるのを決して止めないこと。ペダルを漕ぐのをやめれば、自転車はフラつきますし、もし停止してしまったら、足を着かない限りパタンと倒れてしまいます。ですから、ペダルだけは漕ぎ続けること。言い知れぬ不安が沸き上がって来ている瞬間というのは、ペダルを漕ぐのを忘れてしまった時なのです。

 

ペダルを漕ぎ続けていれば、不安など忍び寄って来る隙がありません。毎日が忙しくて、不安になどなりようがありませんから。そのための一番よい方法は、「奉仕の人生をひたすら生きよう」と決めることです。一旦そう決めれば、周囲の評価など気にせず、誰に何と言われようと、己の喜びにのみ邁進できるのです。これが、持ち替えるということ。持ち替えれば、自動的に、前のものを手離しているのです。

 

そして、これが習い性になって数年した時、あなたは、ふと気づくはずです。「そう言えば、不安が消えている。いったいあれは何だったんだろう」って。

生まれ変わりとカルマの法則を知れば、人を倫理・道徳で縛る必要はなくなる

NHK放送文化研究所が参加している国際調査機関、International Social Survey Programme(45カ国が加盟)が、2008年に「宗教意識(10年毎に行っており、2008年は3回目)」に関する調査を行いました。この中で「生まれ変わりはあると思うか?」という問いに対して、日本人は42%が「ある」と回答しています。「ない」と答えた人は33%、残り25%は「わからない」です。

 

ちなみに、アメリカでは31%が「ある」と回答。教義上は否定しているキリスト教圏の国でも「生まれ変わり」を認める人が増えているのです。ただしこの内実は、日米でかなり違うと思います。日本人がそう思うのは、長年培われて来た自然観から。アメリカ人が認め出したのは、ニューエイジ思想などの広がりによって、キリスト教教義の不自然さを自覚する人が多くなっているのだと思います。

 

「生まれ変わりはあるか・ないか」という問いは、「死後世界はあるか・ないか」に次いでポピュラーな問いでしょう。死後世界の存在を認めない人が、生まれ変わりを認めるわけがありませんから。でも、死後世界の存在は認めても、生まれ変わりは認めないという人はいます。三つの一神教はいずれもそうであり、仏教でも「釈迦は生まれ変わりを説かなかった」と、それを強調して言う人もいます。

 

この問い掛けを巡っては、過去半世紀くらいの間に、急激に(それはメディアの発達のおかげが大きい)、多くの情報が蓄積されて来ました。70年代までは、まだ霊媒がもたらした心霊主義的な情報が大部分だったのですが、イアン・スティーヴンソンが1987年に『前世を記憶する子供たち』を出版すると、こうした学術的、実証的なアプローチ方法が採られるようになりました。

 

その後、「臨死体験」をした人たちの証言が集められるようになり(それまでは、体験をしても口をつぐんでいる人が多かった)、臨死体験者がほぼ共通した体験を語ることがしだいに明らかにされて行きました。また同時期に、「退行催眠」という手法を用いて、被験者から、中間世にいた時の「あの世」の状況や、前世の記憶を聴きだすという調査も数多く行われるようになりました。

 

*しかしいずれの方法にも一短があります。前世を記憶する子どもたちの例は、前世で突然死を遂げた特殊例が多く、そのために次の生まれ変わりまでに要する期間が極端に短い。また7歳を過ぎると記憶が消えてしまうという問題点があります。「臨死体験」は死に切れずに戻って来た人の体験談であり、死んでしまった後のことが分からない。「退行催眠」は本人の想像が混じることを避けられません。

 

このようなことが総合されて、「生まれ変わり」に関しての考え方、捉え方は、以前とは大きな様変わりを見せています。しかし、そのような状況になっても、一般の人々の間に届いている情報は、いずれも断片的なものに過ぎず、総合的な知識を持たないというのが実情です。これは宗教者でも同様であり、それだからこそ、宗教者が語る古臭いドグマが、真実味を持たなくなって来ているように感じます。

 

「虹の学校」としては、「生まれ変わり」の証拠を探し求めることにはもはや関心がなく、あまり意味がないと考えています。「認めない」という人は、どんな証拠(に見えるもの)を提示したとこで、認めませんからね。先ず「否定」ありきから論理を構築していきますから。

 

それに、いくら探査したところで、客観性と観察を重んじる今の「科学」的常識においては、所詮は不確かな証拠しか得られません。たった一例を探査するにしても、ある一つの「魂」の、前世から中間世を経て今世に至るまでの経緯を、他の観察者が横にいて観察・記録し続けてみなければ、本当の意味での証拠とは認められないでしょうから。ですが、そんなことは不可能です。

 

それよりも「生まれ変わり」を認めた上で、そのようなメカニズムがなぜ存在するのかという理由や、またメカニズムが働く原因とプロセスを知ること、つまり「因の科学」にダイレクトに迫った方がずっと意義があります。なぜなら、「生まれ変わり」を前提とした上で、人生をどう生きるかを考えた際には、生き方がまるで違って来ますから。

 

それは信じるとか、信じないというレベルの問題では、もはやないのです。新しい神学や、因の科学(現象から法則性を導く今の科学ではなく、もっと裏にある真の原因を探る科学)の領域に、足を踏み入れるかどうかという、人類にとっての転換点の問題なのです。そしてこれは、実は新しくも何ともない。古代から変わらぬ「真理」の叡智を、ようやく出せる環境と時期が整ったから出すというだけの話です。

 

それに否定派も、どうせご自分が死ぬ時には、死んでも死なないということを知るのですから。その日のために、今から言っておきます。死んだ後は、自分が思っていた世界に行き着くということ。それは、そういう世界が在るというのではなく、自分が創造に加担するということです。ですから、死後は「無」だと思っていた人は、ご希望通りに「無」の世界に入って生き続けるのですぞ。

 

想像できますか? 真っ暗闇の「無」の世界で、なんの手応えもなく、永遠に生き続けることになる自分を。

 

さて、「生まれ変わり」というのは、一面から見れば、大層しんどいシステムのように思えます。ですが、冷静になって考えて見れば、また霊性になって見れば、「魂」の救済システムであることが容易に解ると思います。何しろ、やり直しが効くわけですから。人生を振り返って、「ああ、あれとこれはどうも間違えちゃったかな」というところを、再び、時には逆の立場を通じて再挑戦できるのですから。

 

この時に「カルマの法則」というものが働く。それは、前世で未消化に終わってしまったものを、つまりは落第・留年になってしまった課題を、もう一度学び直せるというチャンスの再提供であり、自分が自分に贈ったギフトなのです。ところが、そうやって「生まれ変わり」を果たしても、7歳を過ぎると、人はそんな決意を忘れてしまい、またもやエゴをむき出しにした人生を送るようになってしまうのです。

 

このようにして、大半の人が、一つの人生をあまり進化することなく終えてしまう。そして、また同じところをグルグル回る輪廻転生を繰り返しているわけです。それもこれも、「生まれ変わり」と「カルマの法則」について、人々が無智だからです。ただ無智なだけではありません。間違った知識を、宗教者やオカルト信者や哲学者や科学者からてんでバラバラに吹き込まれているからです。

 

しかし、「生まれ変わり」と「カルマの法則」のことを、みなが当たり前のように知るようになれば、そしてそれが体に染み通れば、世界は一変します。いま生きていることの意義や、生き方が全く変わってしまいますから。

 

先ず人生の目標が、様々な体験を通じて、普遍的な「愛」を身に付けることだと知ります。そうすれば、人生上で起こる様々な困難も、自分への何らかの「気づき」がそこには隠されているのだということが解り、不平・不満がなくなります。また「カルマの法則」が念頭にあれば、エゴを剥き出しにしたり、陰で悪事を働くといったこともなくなるでしょう。そうして、一生涯が学習なんだということも解る。

 

そうすれば、職業やお金や地位なんてものは、単なる舞台装置や道具に過ぎないということも解り、いま置かれた状況の中で、無条件の愛の人になることを目指し、今この瞬間を、クリエイティブに、楽しく生きれば、それでよいということも解るでしょう。このようにして、あなたの「魂」が、明るく艶やかなものに磨かれていくこと。それが、霊的進化なのです。

 

人生の目的はこれしかありません。こうして、一段進化した「魂」が、肉体の死後も生き続け、あの世へ行って癒された後、次の学年へ進級するのです。このようなメカニズムを理解した上で、一生涯学習を続けようと決意した「魂」は、自己制御のもとにそれを行うようになります。ですから、「倫理・道徳」によって、外側から考え方や行動を縛る必要など、一切無くなってしまうのです。

 

逆に言えば、「倫理・道徳」教育の必要性が叫ばれるのは、外側から行動を抑えつけなければ人間は正常にコントロールできない、放っておいたら人は何を仕出かすか分からない、と思っている人がいるからであり、また、無智であるがために自己制御が出来ない段階に、未だ人類があるということを指し示しています。

 

けれども、以前にも言いましたが、「倫理・道徳」や「正義」は、結局は為政者の支配の道具としていいように使われてしまうのです。しかし世の人々は「倫理・道徳」も「正義」も、ともにアプリオリに良い事と信じて疑いません。実際には、「倫理・道徳」を語る者ほど裏では倫理・道徳観に乏しく、「正義」を語る者ほど悪を為している例が多いのですが。

 

ともあれ、そのようなことで、「生まれ変わり」と「カルマの法則」を、みなが当たり前のように知れば、地球は一変してしまうのです。そして、それこそが、求められる「地球のアセンション」に他ならないのです。

 

果たして、その日が、いつになることか。

個人のカルマと人類のカルマ

カルマというのは、宇宙を支配する法であり、最も基本的な法則の一つです。法則ですから、宇宙のすべてのものがこの法の支配下にあり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。では「カルマの法則」とは何か? 一言で言えば、それは「自分が為したことは自分に返る」ということです。よく言われるところの、善行善果、悪行悪果です。

 

善い行いをすれば善い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返って来るということ。けれども、今ここに書いた「善・悪」という言葉には注意が必要です。地上で「善・悪」と言っているものと、宇宙でのそれとでは、重なっている部分もあるけれども、実はかなり違うということです。

 

地上では、対立する二つの概念があるとき、片方が「善」を主張すれば、もう片方は自動的に「悪」ということにされてしまいます。実際、そのような「決め付け」がまかり通っているのが地上世界です。ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い出してみてください。でもこの「善・悪」の決め付けは、反対側の立場に立つ者にも同様に言えてしまいます。

 

ですから、地上では、「善・悪」をめぐって、国家間の対立や、宗教間の争いが絶えないのです。そして互いに「正義」を主張しては、殺し合いをしているというのが戦争です。テレビも映画も、「正義」を掲げる〈人殺し〉をヒーローにしている作品のいかに多いことか。皮肉なことに、我は「善」なりと主張する者ほど、「悪」を為すというのが、地上での論理になってしまっています。

 

しかし、宇宙で「善・悪」と言った場合には、このような相対的なものではなく、そこにはたった一つの基準しかありません。それは、友愛、許容、統合、という oneness の方向へ向かっているか、支配、排斥、分離、という anti-oneness に向かっているか、だけです。本当は、「善・悪」という言葉すら無く、進化しているかどうかだけなのですが、便宜上そう言っているまでです。

 

*「進化しているかどうか」という基準が民衆には解りにくいために、便宜上、宗教が「善・悪」という地上の言葉を使って語って来たことが、逆に人間に大きな混乱をもたらしました。

 

いま言ったことは非常に重要で、人間が今後、正しい神学に脱皮できるかどうかの一つの試金石となっています。善行善果、悪行悪果、という法則については間違いはありません。けれども宗教は、このうちの「善・悪」概念を、自分たち教団に都合のよい論理にすり替えて、戒律にしては信者に従わせて来ました。ですが、宇宙基準からすれば、「正義の戦争」などあり得ないことが容易に解るのではないでしょうか。

 

さて、カルマというものが、どのようなメカニズムで生じ、地上にある人間にとって、それがどのような意味を持っているかについては、これまでにも何度かお話しして来ました。が、ここで別の視点も加えて、おさらいをしておきましょう。

 

宇宙の本質というのは、物質世界を超えた、目に見えない世界(霊界)にあります。そこは振動する微細なエネルギー体によって形成された世界で、いわゆる「波動の法則」というものが厳然と作用しています。このことから、振動数の違いによって、霊界には階層が生じています(同レベルの振動が引き合うため)。一方、振動数の高低というのは、霊性の高低を表しており、「魂」がこの階層を上に登って行くことを、霊性の進化・向上と言っているのです。

 

階層の上下を決めているのは、先に書いた、統合と分離という、相反する意識の割合によります。あなたという存在は、まず「個別化した霊(Spirit)」から生じました。臼の中にある大きなお餅から、お団子を一つひねり出すようにして生じたのです。この時点ではまだ振動数は高いままですが、その後振動数を下げて行き、より個性化を強めた「魂(Soul)」となって行ったのです。

 

そして「魂」が、さらに低い波動を出し、その波動を鋳型として、一つの受精卵(その精子と卵子の組み合わせも自分で選び)から作り上げて行ったものが、今あなたが纏っている「肉体(Body)」なのです。このようにして、あなたという存在は、大きく霊・魂・体の三重構造を持ったうえで、いま地上にあるのです。これが、人間が「多次元的存在」だと言われるゆえんです。

 

あなたの「心」、その本体は「魂」です。「脳」は単なるハードウェア(肉体の機能的一部)に過ぎません。「魂」がソフトウェアであり、「脳」という機能を使って「心」というアウトプットを生じさせているのです。しかし、地上の科学は頑としてこれを認めません。そのため、いくら心理学や大脳生理学や精神医学を駆使しても、「心」をつかめず、よって「心の病」も治せないのです。

 

さて、霊・魂・体の三重構造となって地上に降り立った人間は、それぞれ、そこで個別の体験をします。体験とは、視点を変えれば、その人の「行為」です。この「行為」には、必ず思考と感情が付随します。行ったことそのものの記憶は、その人の死後は地上に留め置かれてしまうのですが、体験を通じて獲得した思考パターンや感情のクセは、死後も「魂」と共に運ばれることになるのです。

 

これが、その人固有のカルマを形成する元になるのです。そして、分離から合一へという霊的進化を、その「魂」がちゃんと果たしていけるように、言い換えれば、無条件の愛の人にいつかはなれるように、前世で体験した行為の内容が点検され、間違ったところは修正を促され、もう一度学び直せるよう次の人生をマスターらと相談して基本設計し、その上でまた地上に降り立つのです。

 

一方、地上に残された記憶は、同種のものが集合すれば、それなりの力を有するようになります。これが、土地のカルマ、家系のカルマ、民族のカルマ、そしてもっと大きく地球のカルマ、人類のカルマまでをも形成して行くのです。すると人は、個人的なカルマの他にも、外的なカルマを何重にも背追い込んでいるということになります。

 

その際に、重大なことは、より広範囲のカルマの方が優先されるということです。例えば、私はいま日本という国に所属して、日本列島に住んでいるわけですが、それは日本国および日本列島が有するカルマの上に乗っかっているということであり、ここから逃れる術はないということです。同様に、人類全体が創って来たカルマ、地球のカルマからも逃れる術はないということを意味します。

 

そして今、地球および人類は、これまでに積み重ねたカルマの一大清算の時期に突入しています。これは皆さんも、日ごろ重々お感じになっておられることでしょう。そのために、異常気象は苛烈さを極め、強欲が際限なく拡大し、暴力が世界中に蔓延し、政治は信じがたいほどの幼稚さを露呈し、個々人の健康や幸せが脅かされるという、ますます醜い世の中へとどんどん向かっています。

 

いま「醜い」と書いたのですが、人類全体としてそちらへ向かっているということは、この現状を「醜い」とは思わない人たちが多いということです。そしてまさに、それがカルマの発現です。為したことは返ってくる、いま返って来ているということです。しかしこれは、何度も言いましたが、強い光が当たっているからこそ、隠れていたものが炙り出されて来ているということです。

 

よく言われることですが、これは産みの前の苦しみ。地球は、来るべき世界の、陣痛の時代に入っているのです。ここをしっかり抑えることが大切です。そのことをよく理解した上で、現在の世の中の動き、世界の動きを俯瞰的に見てください。

 

さて個人は、自分を包む、より広範囲なもののカルマからは逃れる術はないと書きました。だとしたら、個人のカルマに向き合い、これを乗り越えるという努力、霊性向上への取り組みは、やってもムダなことになってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。全体は全体、個人は個人です。それに、今あなたが現に地上にあるということは、個人的なカルマ清算の機会を与えられているという何よりの証拠です。

 

ただ、一昔前とは、その意義が違って来ているということです。より、重要度を増して来ている。人類全体のカルマ清算の機会が増大したことによって、あなた個人のカルマ清算というテーマが、もはや単独の、全体とは無関係のものとしてはあり得ず、リンクの重要度をいや増ししているということです。そして、ここからが重要なところであり、あなたに是非ともお願いしたいことなのです。

 

今まで、人類が積み重ねて来た負のカルマには、環境破壊や、戦争や、奴隷制度を初めとして様々なものがありますが、その出発点にあるものを問えば、結局のところ次の三つに集約されます。一つは富への執着、二つめは他者支配への欲望、そして三つめが生命の成り立ちへの誤解です。この三つが組み合わさって、様々な現象面での問題を引き起こして来ました。

 

言い換えれば、人類がそれらのカルマを背負っているということは、いま挙げた三つのことへの気づきが、何千年何万年の時を経ても、人間たちにちっともないということなのです。進化していないということなのです。だからこそ、あなた個人のカルマ清算というテーマが大きな意義を持ってくるのです。

 

つまり、あなたが先ずこれらの清算を果たせば、他の人々のお手本になれるということです。そんなことに、一体どれほどのパワーがあるのかと思われるかも知れません。個人に比して、人類全体というのはあまりにも巨大に思えますから。けれども、見えないエネルギー世界では、「波動の法則」というものが厳然たるセオリーとして働いているのです。

 

あなた方の中には、「正義の殺人者」を賞賛する文化があるのと同様に、武力が平和を実現すると硬く信じている人たちが、未だに大勢います。核兵器禁止条約に賛成することは、核なき世界につながらないとまで主張する人がいる。けれども、未だかって、武力を以って恒久平和が実現されたためしなど一度もありません。それは、カルマの法則のことを考えればお解りでしょう。

 

一見、夢物語のようで、悠長な道に見えることが、結局はいちばんの早道なのです。健全で、素直で、明るくて、愛に満ち溢れた波動をあなたが出せるようになれば、周囲の人々はその影響を受けます。そして、そういう人たちがあちこちに増えれば、百匹目の猿現象で、ある時期からは雪崩を打ったように、人類全体が変わって行くことになるのです。その灯台に、あなたになっていただきたい。

 

よいですか、これは予め設定された宇宙の計画なのですよ。だから友よ。あなたにも是非ともその一員になって欲しいのです。先ずあなたが、無条件の愛の人にお成りなさい。完全なる奉仕の人と成りなさい。そして周囲の人々に、その愛を分けてあげるのです。さあ、歩め。友よ。栄光の道に向かって。

健康談議

先日、東京某所の集まりにいらっしゃったあるお婆ちゃんがこう言うのです。「私、生まれて初めて人間ドックというものを受診しました。そしたらね、○○の値が高いって言われて、すぐに専門の先生のところに行きなさいって言われました」。それを聞きながら、私は「ああ、またか」と思いました。最近の「健康談議」というものは、どうしてこんな話ばかりなんでしょうねぇ。

 

これじゃ「不健康談議」でしょう。検査、数値、通院、クスリの話ばっかし。ちょっと顔を合わせれば、みんなで不健康自慢大会。それがどんなにおかしなことか、誰も気づいていないのです。

 

このお婆ちゃんは以前も、「検査をしたら血圧が高いって言われて、いま降圧剤を飲んでいるんですけどね、それ以来、頭がフラフラするんですよ」と仰るので、「それは降圧剤を飲んでいるからですよ」と言ってあげたのですが、解ったのか解らないのか「あ、そう。いいことお聞きしました」と帰って行かれ、翌月お会いした時には、今度はこう言うのです。

 

「あれからね、しばらく薬をやめたんですけど、娘にそれを話したら『お母さん、そんな、やめちゃダメだよ』と言うもんですしね、お医者さんに言ったら「勝手にやめないでください」と言われてしまいまして、元に戻しました」ですと。そりゃ、そうだよ(>_<)。医者に話したら「勝手にやめるな」って言うさ。だから、こっそりやめるか、医者に掛かることそのものをやめなくちゃ。

 

毎年、春に市役所から送られて来る「定期健康診断のご案内」。私は、封も切らずそのまんまゴミ箱に放り込んでます。もう「その手にゃ乗らんぞ!」って感じです。免疫系が弱くてアトピーとリウマチの持病があるんですけど、日課の体操と呼吸法でやりくりしていますし、このまま小康状態で死ぬまで行ければ、もうそれでOK。それに何より「日々、自分は健康になっている!」と信じている。

 

東京と長野の山奥との往復生活を続けているのですが、お年寄りの生き方がまるで違う感じがします。山奥のお年寄りは暗い顔なんかしていないし、杖を頼りにヨタヨタ歩いている人もいない。70、80になっても、腰が曲がってもみんな農作業をやっている。この違いは何なのでしょうねぇ? 結局、都会のお年寄りはヒマなのだと思う。そこで、不健康談議と、身内のことと、ペットのことしか話題がないのだと思う。

 

ところが、こんな山奥にまで、魔の手が忍び寄って来たんです。健康の為の食事指導があるというので、わたしゃ言われた通り、指定日時に部落の公民館に出向きました。その前年には、太鼓を叩いてグーチョキパー体操をやらされたんですけどネ。どうも、こういうのはかなわんよねぇ。でもお付き合いだから仕方がないの。俺はヤダ!なんて言えん。64歳で年寄りのフリも、つらいもんだよォ。

 

さてしばらくすると、日本財団の顔マークの付いた車がやって来て、30代と思しき女性が降り立ちました。席に着くと、その指導員女性は開口一番、「定期健康診断の結果はお持ちですか」と言うのですね。もちろん自分は持っていないわけですが、他の人たちは全員それを広げるのです。すると、○○の値はこの範囲内に収まっていなくてはいけない、とかのお決まりの話がそこで始まるのです。

 

ああ、こうやってみんなを洗脳していくのか‥‥と、内心、それを聞きながら私は思いました。

 

食事指導の話に移ると、手のひらの部位に合わせて各食材の一日の必要量を測れと言われ、牛乳を飲めだの、肉を喰えだの、それまで山暮らしの人間がして来た生活習慣を変えさせようとする。そして「なぜ、肉を食べる必要があると思いますかぁ?」と言った指導員の、次の言葉を聞いた瞬間、私は椅子から転げ落ちそうになりました(畳部屋だったけど)(慣用句として)。彼女、なんて言ったと思います? 「人間は、動物だからで〜す」ですって。

 

おいおい、ちょっと待ってよ。じゃあ牛くんはどうなのよ? 草しか食べてないよ。草しか食べてないのに全身たんぱく質の塊だよ。パンダは竹ばっかりだし、コアラなんてユーカリばっかりの超偏食じゃないか。と、ツッコミを入れたかったのですが、その場では自分はよそ者ですし、せっかくの会合をぶち壊してはいけないと、つい忖度してしまい、黙っておりました。

 

でも、そもそもこの会合は根本的に間違っていると思いました。長野県の平均寿命は、直近データ(平成27年度)で、女性が87.67歳で全国1位、男性は81.75歳で2位なのです。そこに集まった人たちは70代、80代で元気に農作業をしている人たちです。その先輩方々に、「長生きの秘訣を訊く」というのなら分かるけど、30代の小娘が、逆にどうして健康指導、食事指導なんて出来るんでしょうか?

 

いやはや、狂っているなと、改めて思いました。もっともその女性も、マニュアル通りにただ話しているだけで、誰かがそういうことを考えてやらせているんでしょうけど。

 

昔、自分が習った「歯磨き指導」なんて、コロコロ変わって行った。最初は、横磨きはいけない、縦にブラッシングしろと盛んに言っていた。それが今は、ブラシを歯ぐきの境目につけて横に動かせと言っている。ブラシの形状も、最初は先端を折り曲げたものが隅々まで磨けると言い、次に湾曲をつけたブラシが登場してこれなら裏側まで磨けると言い、結局ストレートハンドルがいちばんだとなって元に戻った。

 

歯磨きペーストは、フッ素が歯を強くすると言って盛んにフッ素入りを勧められ、フッ素混入の水道水も現れ、そのあとでフッ素には毒性があるということになった。もう次から次へと「指導」なるものが変わって行ったのですが、それまでの指導は間違っておりました、と謝罪したドクターは一人もいない。私が知る限り「日本中の人を騙していました」と正直に告白したのは、ケーシー高峰さんだけだ。(ニセ医者だけど)

 

というわけで、健康と医療に関する洗脳は、今や日本国中、津々浦々まで広く覆い尽くしている。ですから、今ここで私が何か言ったところで、無力なのは承知しています。でも私には、医者に掛かってアトピーを決定的に悪化させてしまった経験もあるし、カミさんを集団検診から僅か10カ月で死なせてしまったという苦い経験もある。それもこれも、自分が無智だったから。私自身が、当時はまだ洗脳が解けなかったからなんです。

 

身体に顕れた病気は、身体に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は心にあるのです。同様に心に顕れた病気は、心に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は魂にあるのです。あなたの「魂」の今のあり方が、今のあなたの「心」を創り、今のあなたの「心」が、あなたの身体を創っている。原因は、すべて一段階前にあるのです。

 

このことが解らないと、健康も、病気も、治病ということも、いっさい何も解らない。そして残念ながら、現代ではほぼ100パーセントの人が、何も解らない状態に置かれてしまいました。

 

以前は、そうでもなかったのですが、この50年間で決定的に変わりました。そこには、「そうしたい」という闇の支配者側の戦略があったのですが、半世紀をかけてジワジワと、身体の病気の原因は身体にあり、心の病気の原因は心にあるんだと、何の抵抗もなく、万人が思い込まされるようになったのです。まさしく「洗脳」です。

 

そのエビデンス(証拠)として使われているのが検査データです。現代の医者は、患者の顔色など見ません。表情から、心の状態を読むと言ったことにも全く注意を払いません。ただ、検査データが表示されたモニターだけを見ています。そして、機械的人間論に従って、動きの悪いところには油を刺せばいい(薬)、壊れたところは交換すればいい(手術)とやって、これが医療だとしている。

 

患者の側は、お医者さんというのは病気を治す人だと思っていますが、現代の医者は病気を治す人ではありません。現代の医者は、検査データを基にして「病名」を付ける人です。つまり「病名」の名付け親です。医者が「病名」を付けた瞬間から、その病気を抱えて生きる人生が、その人の上に始まるのです。言い換えれば、現代の医者とは、「病気」を創造している人です。

 

どんな場合であっても、病気を治すのは、その人自身です。そして、その人自身が治すことを、上手に誘導してあげたり、手助けしてあげられる人が、よい療法家なのです。よい療法家は、決して「自分が治してやる」などとは言わないでしょう。そんなことは出来ないということを知っているからです。「自分はただ神の手足となって、パイプ役を全うするだけです」と、言うことでしょう。

 

しかし、どれほど優れた療法家との縁が生じたとしても、病気を治すのはあくまでその人自身なのですから、本人がそのことに気づかない限りは、病気は治りません。いったん治ったかに見えても、また再発したり、別のところに病気が顕れたりします。この「気づき」とは、身体の病気の場合には「心」の不調和が原因だと気づくことですし、心の病気の場合には「魂」のあり方に原因があると気づくことなのです。これは、じっくり内観してみれば分かります。

 

そもそも「病気」とは、その原因となっている何らかの行為の誤り、自分の心得違い、創り出している不調和、清算すべきカルマ、等に気づかせるためのギフトです。ですから、「ああ、これはギフトなんだ」と理解して、そのことに感謝して、因を修正していけば病気は治ります。よほど深いカルマが原因でない限りは治る。病気を克服したという人をよく観察すれば、以前とは心が変わっていることに気づくはずです。

 

私の場合はアトピーとリウマチという持病があるのですが、これは体質であって、体質というものは治りにくいです。生まれ変わりの際に、そのようなDNAの組み合わせを受精時に選択したわけです。ですから、自分がそのような初期設定を与えて、その後の身体を創造した。そこにも意味があるのであり、身体をちゃんとケアしなさいということを、私は教えられました。

 

さて、現代人の不幸は、いま言ったような視点には、もはやなかなか立てないということです。機械的人間論があまりも深く広く浸透していて、医者も患者も、今ではみんなそれを当たり前のように思っています。あなたの健康度を計るのは、電気やガスや水道メーターの定期検診と同じで、あなた自身がどう感じているかなどはお構いなし。

 

「病いは気から」という言葉は完全に無視され、日々、「健康のために」と称して、脅して不安にさせるような情報ばかりが吹き込まれる。そして、医療機械の高度化、分析技術の発達、AIの導入などによって、この傾向がますます加速しています。患者はその進歩に抗うことなどとても出来ずに、用意されたベルトコンベアの上に、ただちょこんと乗るだけになっています。

 

結局、「健康のために」と言いながら、みんなどれほどの回り道をしていることでしょう。本当に「健康」でありたいのなら、ただ一直線の近道を行けばいいのに‥‥。

 

それは、自分を信じるということ。

 

思いが、明日のあなたを創るんだよ。「自分は病気だ」と思えば病気になるし、「健康だ」と思えば健康になる。簡単なことさ。毎朝、起きがけに言ってごらん。「さあ、今日も元気いっぱい。今日一日を楽しむぞ!」って。床に着いたら言ってごらんよ。「今日も一日ありがとう。明日もどうぞよろしく寝」。それを習い性にしてごらんなさい。もうそれだけで、健康一直線なんだよ。

思考が現実化するということ

思い(想い)は現実化する。スピリチュアルなことに関心の強い方なら、多分どこかで、このことをお聞きになったことがあるでしょう。それって本当なのなの? いや、そんなこと信じられない。自分など、しょっちゅうある事を想い続けているけど、ちっとも実現しやしないよ。それとも、隠されたもっと深い意味でもあるのだろうか? 反応は、きっと様々でしょう。

 

想いが現実化する。これは、一面において確かです。けれども、この言葉を正しく理解するためには、いくつかの関門を通らなければなりません。普通に考えていたのでは、これをちゃんと理解することは出来ません。ところが、前回のブログでも述べたように、不思議現象としてこれを捉え、そこに付加価値を与えては人々を誘い込み、金銭を巻き上げようとする業界人?が後を絶ちません。

 

これは人の弱み(この場合は、誰しもがエゴを持っていること)につけこんだ商法です。エゴの誘いにエゴが反応してしまうのですね。そういう意味では、ここでも「想いは現実化する」という法則が、皮肉なことに立派に?生きているわけです。そうやって、手痛い失敗を何度か経験すれば、そのうちに次の気づきへと進めることになるでしょう。ま、懲りない人というのもたまにおられますがね。

 

先ず、「現実化」ということを考えなくてはなりません。「現実化」というのは、いったい何を指して言っていることなのか? これは重要なポイントで、この前提条件が違えば、「想いは現実化する」という言葉が持つ意味そのものが違ってきてしまいますから。しかしそこに踏み込むのは後回しにして、ひとまずは、これを普通に「目の前に展開される物質的世界」のことだとしておきましょう。

 

その上で、「想いは現実化する」というメカニズムを考えてみましょう。想えば、何でも現実化するのか? しません。えっ、さっき言ったことと違うじゃないか、ですって? 想っただけでは現実化しないことは明らかです。いまメロンを無性に食べたいと強く思う。そうすれば、目の前にメロンがパッと現れるのか? 現れません。少なくとも、買いに行かなければメロンは食せない。

 

けれども、こういうことは言えます。行動を起こすには、「想い」が先ず必要だということです。あいにくメロンを売っているお店が、歩いて15分のところにしかない。しかも外はカンカン照りだ。さて、どうしよう? ここで「想い」の強さというものが影響して来ます。メロンを食べた〜いという「想い」が、障碍を上回るほど強ければ、食卓の上にメロンが現れる可能性が高くなります。

 

ですから、第一の関門は、

・想っただけでは実現しない。

・想うと同時に、行動が伴わなければ、実現はしない。

・さらに、降り掛かる困難も、何するものぞとの強い想いを抱き、行動し続けていれば、実現する可能性が高くなる。

と言えます。

 

しかしこれでは、「なぁんだ、そんなことか」と思われるでしょう。これじゃあ、よくある自己実現方法のレクチャーとほとんど変わりがない。それを信じて必死に努力を重ねても、夢を叶えることが出来ないから、多くの人が落胆し、挫折感を味わったりしているわけですよね。かく言う私もそうでした。もうその連続でした。これはどうしてなのでしょう?

 

そこに、第二の関門として、人知を超えたセオリーが存在するのです。それは次のようなものです。人は、中間世にある時に、次の人生における課題と、誕生する場を決めてから転生します。すると、いくら自由意志を保証されていると言っても、初期設定の環境要因は、誕生後にはもう変えられませんし、課題から大きく外れるということもないのです。(課題に気づかないということはあります)

 

*中間世(生);前世と今世との中間にある、霊界に戻って生きているいる期間

 

そこから、宿命論、運命論といったものが巷間言われたりするわけですが、宿命論や運命論が間違っているのは、「人生は変えられないもの」とする捉え方です。いま言ったように、確かに初期設定の環境要因を変えることは出来ませんし、課題から外れることもありません。しかしその中で、課題を達成し、幸福に生きることは誰もが出来るのです。そして、まさにそれこそが魂の “課題” なのです。

 

さて、そうしますと、いくら強い願望と意志を持っていたとしても、また必死に努力を重ねたとしても、その課題から大きく逸脱するようなことは決して実現しない、ということになるのです。これが、実に盲点なのです。

 

今、私はこんなことをしておりますが、これは自分が願ったことではなく、思ってもみないことでした。複数のチャンネルを通じて、将来の役割というものを言われてはおりましたが、全く信じていませんでした。しかし、子ども時代から幾度となく続いた、不運、失敗、挫折、屈辱、病気と、他方、首の皮一枚で拾い上げられた経験が、全部、今やっていることに結果的に役立っているのです。

 

「なるほど、こういうことだったのか」「このためだったのか」と、つくづく思わずにはいられません。全てが完璧。それは本当のことでした。そして最近になって、やっと自分の課題と役割が見えて来ました。さて、「盲点」というのはここです。若い時には気づかないし、気づけないのですね。自分が実現したいと想う外面的な願望でいっぱいで。

 

ですから、それに挫折すると当然ながらガックリ来ますし、そういうことが何度も何度も続けば、もういい加減、腐ってしまうわけですね。それで破れかぶれになったり、クスリやアルコールに溺れたり、自己否定に向かうということになってしまう。ところが、もっと長い目で人生を見ると、それらは全部、天がくれたギフトになっていて、自分が設定して来た課題からは少しも逸れていないということが解るのです。

 

問題は、「いつ気づくか」ということです。気づくのが先か、腐るのが先なのか。あなたを応援する天の存在たちは、同じ過ちを何度冒したとしても、実に辛抱強く、またあなたに気づきと修正を促して来ます。その転換、つまり、自己実現とは、職業や外面や形にあるのではなく、自己の意識の変化、もっと言えば「魂」の成長にあるのだと悟ったその瞬間、その人にパッと光が射すのです。

 

若い時には、外面的、物質的に何かを獲得することが自己実現だとみな考えています。しかし、願望も含めて、そうしたものは全部、その人を「課題」に向き合わせるための材料に過ぎないのです。ですから、初期設定という縦糸と、誕生後に自由意志で選んだ横糸を組み合わせて、その人が、自分独自の「課題」に向き合う人生を、周囲の協力のもとに編み上げて行くのです。

 

現実は、不公平に見えます。大金持ちもいれば、着の身着のままの貧乏に泣く人もいます。名家に生まれる人がいれば、ひどい親の下に生まれる子もいます。名声を獲得する人もいれば、一生うだつが上がらず底辺で暮らす人もいます。この差に、目をくらまされてはなりません。それらはみんな、今度の人生における、単なるキャスティングに過ぎないのです。

 

そう、それはまさに配役によるお芝居であって、お芝居のテーマは、あなたという主人公に、自分自身の今世の「課題」に気づかせ、それを達成するよう促すことです。名家の出や、イケメンや美女だけが主人公なのではありません。全員が自分の人生ドラマの主人公であり、同時に全員が他の人の脇役をこなし、複雑なタペストリーをこの世で織り上げているのです。

 

今度の配役は、今世がそうであるということだけであって、何十回、何百回と繰り返す輪廻転生のドラマにあっては、王子になったり乞食になったり、男になったり女になったり、実に様々な境遇を、「魂」の霊的完成に至るまで経験していくのです。ですから、ご自分の出自や、境遇や、容姿や、病気や、傷害を呪ってはいけません。呪ったところで何にもなりません。かえって自分を辛くさせるだけです。

 

いま言ったことが解れば、幸福とはどういうことなのか? 幸福を実現するにはどうすればいいのか、も同時に解るはずです。全てはあなたの「思い」しだい。あなたが今この瞬間を幸福だと思えば、幸福なのです。なぜなら、幸福とは条件ではなく、自分の感じ方なのですから。一杯のお茶、一皿のカレーライス、窓に広がる景色、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり、全てが幸福のハーモニーを奏でてくれるのです。

 

さてそこで、第三の関門に近づきました。冒頭に語った「現実化」とは何かということです。最初の仮定では「目の前に展開される物質的世界」を、一応「現実」だとみなしました。これは多くの人が考えている一般的な解釈です。しかし論を進める中で、重要なのは、自分の感じ方や思いなのだということになって来ました。

 

知らない土地を、旅人のあなたが歩いていると、だんだん腹が空いて来た。すると疲れた顔の旅人を見て、ある家のご主人が、休んで飯でも食べていきなさいと声を掛けてくれた。いや、ありがたい。ところが、出された食事は薄いスープ一椀と硬いパンが一切れだった。ここであなたは、「なんだ、こんなもの!」と思うことも出来るし、「いやいや、本当に助かりました」と思うことも出来る。

 

結局、「現実」というものは、また自分が「現実」だと思っているものは、あなたの「認識」でしかないということです。そこでこのブログでは、これを「リアリティ」と言って、区別して来ました。いわゆる「現実」というものは、多分あるのでしょう。けれども、これが「現実」だと言える確かなものは、実際にはどこにもないのです。あるのは、各人それぞれの「リアリティ」だけなのです。

 

これは奇妙な話に聞こえるかも知れませんが、量子力学においては常識です。あなたが夜空を見上げて、いま出ている月を見ない限りは、つまり見ていない間は、月が実際にそこにあるかどうかは判らないのです。見て初めて、「あ、今夜は月が出ているな」と判る。しかしそれも、突き詰めれば、あなたの「認識」がそう認めたというだけに過ぎないのです。

 

そこで、よく言われる次の言葉が出てくるのです。この世は幻に過ぎない。これは真理です。ですが、多くの人は、そう聞いてもピンと来ないでしょう。なぜなら、この「現実」だと思っている世界に、肉体を持って現に存在し、五感を使って知覚しているものに、確かな手応えを感じているのですから。ですから、前回も言ったように、「霊主体従」の感覚に至らなければこの言葉は解りません。

 

「霊主体従」に生きて、それが身体の隅々にまで染み通って、この世とあの世が逆転した時に初めて、この世は幻に過ぎないと解るのです。さてそうなった時に、じゃあ生きる意味は何なのか、という疑問が当然わくでしょう。この世が幻と言うのであれば、その幻の世界を生きることに、一体どんな意味があると言うのか? あまりにも虚し過ぎる話ではないのか?

 

そう、実にそこなのです。ですから、みんなこの物質世界になんとか手応えを見出したくて、物資的価値、物質的満足を必死になって求めようとするのです。ところが、そこにどうしても超えられない壁が立ちはだかる。人はいずれ、みんな死んでしまうということです。死んだら一巻の終わり。だとしたら、人生の意味とは何なのだ。そこで、哲学というものをひねり出すのですが、いくら考えても答えが出ない‥‥。

 

やあ、なんだか振り出しに戻っちゃいましたねぇ。この世が幻だと言っても虚しいし、物質世界を追い求めてもやっぱり虚しい。そんな人生に、果たして意味はあるのか。

 

人生に、意味などない。でも目的はある。この世のすべてが幻であっても、あなたは死なない。あなたの本質である霊魂は、肉体の死後もずっと生き続ける。その時、あなたの「魂」が携えて行くのは、この世でした体験から得られた感情と解釈と技能というソフトウェアだけなのです。ハードウェアは一切持っていけない。このソフトウェアを、輪廻転生するたびに、何度も磨きながら、あなたという「魂」は霊的完成を目指すのです。それが人生の目的。

 

これで解ったでしょう。人生劇場というものの成り立ちが。

幻の世界を生きることは、決して虚しいことではありません。自己の本質と、裏側にある真実の世界をつねに意識しながら、なおかつ幻の世界を生きるのです。

 

あなたが「現実」だと思っているものは、あなたが認識する「リアリティ」に過ぎない。言い換えれば、あなたが創る「現実」です。あなたの人生は、初期設定による境遇や、いま置かれている環境や、周囲の人間関係によって、制約された世界の中にあります。けれども、その制約された世界の中で、あなたは、自由に「想う(思う)」ことは出来るのです。そこに一切の制約はありません。

 

実に素晴らしいことだとは思いませんか? だから、善なる「リアリティ」をお創りなさい。木々の緑の中に、生命の輝きを見なさい。青空の中に、精霊たちが飛び交うのを見つめなさい。鳥のさえずり、虫たちの声に、命への讃歌を聴きなさい。水面の輝きに、永遠の光を見出しなさい。そして、出会う人々の心に、等しく神性が宿っていることを発見しなさい。

 

あなたが想えば、それは現実化するのです。想像は創造。さあ、お行きなさい。あなた自身の道を。

迷った時こそ、直観に従って生きる

何か迷いが生じた時に、人はその判断を自分以外の誰かにして貰いたくなります。ことに日本人は、その傾向が強いように思います。自分の考えを持たない、はっきり主張をしないということが半ば習慣づけられていて、自立性が薄いというか幼い。教育のせいなのでしょうが、人の顔色をみる、忖度する、空気を読む、出る杭は打たれるといった思想が、なにか体に染み付いてしまっていますよねぇ。

 

「和」の精神そのものは良いのですが、運用を間違えると困ったことになりかねません。声の大きい人や他者を操る力に長けた人の後を、訳も分からず一斉にドドドーッと付いて行き、押し合いへし合いで崖から転落という事態になりやすい。そうではなくて、それぞれの考えや主張をしっかりと持ちながらも、互いに学び、フレンドリーに付き合うことは可能ですし、それが本当の「和」です。

 

しかし、日本人がそうなるにはまだまだ時間が掛かりそうです。私はカウンセリングというものをしていないのですが、時に個人的な相談を持ちかけられることがあります。しかしその場合でもジャッジは決してしません。それで、相談者からはガッカリされるのですが、その人にとっていま何がいちばん大切かを考えたら、とてもじゃないけれどそんなことは出来ない。

 

目の前に相対した人の心の状態は直ぐに判ります。書かれた文章からも判る。けれども、知ったことを何でも言ってしまえばいいというわけではありません。ですから、カウンセリングというのはさじ加減が非常に難しい。自分で考えない、内観してみる習慣を持たないことに慣れた人というのは、権威筋の言ったことを丸ごと信じてしまう傾向がありますから。しかもそのことに自覚がない。でもそれを繰り返していては、「魂」の成長はありません。

 

みなさんの中には、世界の動向や、自分に関する運命というものが予め決まっているのではないかと思っておられる方がたくさんいらしゃいます。そこで、占いや予言やスピリチュアル・カウンセリングといったものが流行るわけです。確かに、今世はこういう課題を持って誕生しようと、自分で計画して来たものが各人にはあります。しかしどう生きるかは全くの自由意志によるのです。

 

何度も言って来たように、あなたの人生はあなたが「創造」しているのです。日々の思考、言葉、行動によって。予め決まっている運命を、ただなぞって生きているわけではありません。あなたという存在は、いわばあなたの彫刻作品なのです。ですから、そのことをよく自覚して、権威筋のご託宣に振り回されることなく、材料としてそれを彫刻に取り入れるかどうかを、ご自分で判断しなければなりません。

 

また、世界の運命ということについても、それらは人々の集合意識によってどうにでもなるのであって、予め決まったものではありません。今も「恐怖の予言」というものをされる霊能者がおられるのですが、その人は霊界の真実を知らないと言わざるを得ません。宇宙の総体は一つです。その一つを「神」と呼ぶならば、恐怖の予言に慄(おのの)くのも「神」ならば、実現させるのも「神」ということになってしまいます。そんなバカな話はありません。

 

高次元の霊的存在が、「恐怖の予言」を誰かに下ろすことなど、絶対にありません。あり得ません。ただし、人類の間違った行動を是正するよう警告することはあります。

 

「恐怖の予言」をすれば、それを信じた人は怯えます。すると、その人は「当たって欲しくないな」と思いながらも、そこに意識を向けてしまいます。このような、不安に駆られた意識がたくさん集まれば、さてどうなるでしょう? その集合意識が、現実というものを望み通りに「創造」する方向へと動かします。その結果、予言が的中ということになるか、ならないにしても社会に混乱が生じることになります。

 

さて、そうなって、ほくそ笑むのはいったい誰でしょうか? よくよく考えてみてください。「神」の名を語って予言する、低次元の存在だということが判りませんか? このことを、もういい加減みなさんは学習すべきです。何度も何度も同じ過ちを繰り返してはなりません。世界の動向は、全て人類の意識の動向に掛かっているのです。あなた方の意識のあり方しだいなのですよ、友よ。解りますか?

 

そこで、外からしのび寄って来る、真実ではない情報に振り回されないためにはどうしたらよいかということです。本物は、いったいどこにあるのだろう‥‥?

 

真実は我が内にあり、これです。発想の逆転。真実はあなた方の内にある。そのように、あなた方は最初から造られているのです。これぞ、まさしく神秘。神秘とは、不思議現象のことではありません。逆転こそが真実だということ。この世にあくまでこだわっているから、霊界から漏れ出て来ることが不思議に見える。でもそうじゃない。逆なんですよ。不思議など、どこにもないのです。

 

図を見てください。瞑想をしていると、時に、自分が宇宙にぽっかりと浮かんだような感覚になる場合があります。

 

これは、いつもはフル稼働させていた顕在意識が、瞑想によってグーッと縮小していき、その分だけ、普段は蓋をしていた超意識(宇宙意識)が浮かび上がって、知覚能力を回復するようになるためです。いわゆる第六感のチャンネルが開くのです。

 

さて、あなたは宇宙の中に浮かんでいます。しかしこの時、宇宙は決してあなたの外側にある別のものではなく、あなたも宇宙の一員であることが容易に自覚されるでしょう。全宇宙を構成している「霊(Spirit)」は、あなたの中にも満遍なく浸透しているということです。この宇宙という言葉を、「神」に置き換えてみてください。するとどうなるでしょうか?

 

私は神の内にいる。神は、私の内をも貫いている。この私も、神の一部なのだ。そう、私と神とは一体なのだ。この感覚に満たされます。

そして、私以外の宇宙には他者も自然も含まれるのですから、こうなります。

私と他者とは一体である。私と自然とは一体である。

ゆえに、自分が為したことは、自分に返る。

 

このような「霊(Spirit)」の広い世界の中に、振動の低い、限定された領域の物質世界(地球での生活)が存在しているのです。いま我々はそこに住んでいます。けれども、実体は多次元的存在なのであり、本当は自分が霊主体従であることを悟る、真実は霊的世界にあって、こちら側は映し絵であることに気づく、というのが「目覚め」なのです。そして、この逆転こそが「神秘」の本当の意味なのです。

 

*ここで言う「次元」は、数学的次元を指すのではなく、振動数の違いによって段階的に7つに分けた「霊性密度」のことを略して「次元」と言っています。

 

三次元世界(第三霊性密度)にあくまで留まったまま、不思議現象を追い求めることが「神秘」ではないのです。不思議体験をすることが「神秘体験」ではないのです。逆転の世界に身を置けば、不思議などどこにもないということが解る。真実は逆さまだったということに気づく。しかし、99.99パーセントの人はそんなことは思いもよらないので、これが「神秘」となっているのです。

 

しかも宗教は、意図的にこれを捻じ曲げて来ました。宗教もまた、三次元世界に留まったまま、不思議現象を追い求め、これを「神秘」と位置づけたのです。なぜなら、不思議などどこにもない、人はすべて等しく神の一員なのであり、すべての人の内に神がいると語ってしまったら、宗教が不要になってしまうからです。そのため、真実を語る者はつねに異端扱いされ、正統派の宗教から弾圧の憂き目にあって来ました。

 

いま図とともに示したことは、比喩ではありません。瞑想をすれば、それが実感され易いということを示しただけであり、普通に生活している時にも、変わらず人はみな多次元的存在なのであり、霊主体従を意識した生活を送ることが望ましいのです。しかしながら、多くの人は、あまりにも物質的な生活に埋没しており、またこのような知識も今までもたらされなかったので、なかなか目覚めることが出来ないのです。

 

ここで冒頭の話に戻りましょう。迷いが生じた時にはどうすればいいのか? 直観に従えばよいということです。直観はあなたを裏切りません。あなたの内にはつねに神がおられるし、あなた専属の高次元の存在も、いつもあなたを正しい方向へ導こうと応援してくれています。そして素晴らしいことには、各人それぞれがバラバラに直観に従っても、必ず同じ一つのものに行き着くということ。

 

これが、宇宙の法、『The Law Of One』です。

 

バラバラに「神」に触れようとしても、それは到底叶わないと考え、またそう思い込ませて、人々をある特定の教義に従うようにさせる。すると、たくさんの教義同士がぶつかって、世界はバラバラになってしまう。逆に、各人がバラバラに内なる「神」に従えば、誰かに「支配」されることなく、世界は一つのものになるのです。これも、まさに「神秘」です。

 

直観は英語で「intuition」。この語源はラテン語で、「in」は内側、「tuition」は後見人、守護者、指導といった意味(ちなみに指導教官のことを「tutor」と言います)ですから、英語の直観は、まさに「内なる守護者による指導」という意味を持っています。この指導は、高次元の私、つまりハイヤーセルフからやって来ます。

 

似たものに「inspiration」があります。これもラテン語が語源で、「in」は中へ、「spiration」の動詞である「spire」は息を吹き込むという意味です。息を吹き込むというのはどういう意味かと言いますと、土で造った人形の中に、神が息を吹き込んだことで人間が誕生した。つまり、この「息」とは生命の根源的エネルギーを指しています。そこで、息を吐くという意味の「spirit」という単語が、「精霊」の意味になったのです。

 

ですから「spi-」で始まる言葉は、みな息に関することであり、引いては霊的なことを意味するようになりました。息とソウルが同じ言葉であるというのは、ほぼ世界共通で、ヘブライ語では「ルーアハ」、アラビア語では「エル・ルーフ」、ギリシャ語では「プネウマ」、そしてラテン語では「スピリトゥス」と言います。

 

日本でも、「息」は「生き」です。いわゆる死を迎えることを「息を引き取る」と言いますが、神がいったんその人に吹き込んだ息を、今世を終え、元の状態に引き取るからそう言うのです。人を殺すことを「息の根を止める」(根っこがどこに繋がっているかを考えて)、一度死んだように見えた人間が蘇生することを「息返る」、そしてそのまま生き続けることを「息永らえる」と言いますね。

 

また粋(すい:pure)を究めんとする生き方を「イキ」、相手の強いスピリット・エネルギーを感じることを「意気に感じる」と言い、みんな息に関係しています。

 

ということで、「in-spiration」は、神がしたように、人間の中に息を(=霊的な智慧を)吹き込むという意味です。フッと息が入って来る。これは、直観とは違って、自分以外の高次元の存在、大師や天使や守護霊などがあなたに囁きかけて来たものです。そして、いま言ったことは、感度の違いはあるにせよ、全員にもたらされていることなのです。

 

ですから、これを読んでくださっているみなさんは、直感やインスピレーションの大切さをよく認識して、そのアドバイスに従って生きるようにしてください。直感やインスピレーションは、没頭して何かの作業をしている時にスッとやって来ます。「我を忘れて」と言いますが、我を忘れている時に、つまり顕在意識を絞っている時に、直感やインスピレーションのチャンネルが繋がり易くなるのです。

 

この瞬間をおろそかにしないように、その場で必ずメモを取ってください。顕在化された意識ではありませんので、放っておくと、すぐに飛んでいってしまいます。多くの人は、気のせいで片づけたり、無視したりするので、せっかくの直感やインスピレーションを活かせないのです。メモを取っておけば、その後すぐに忘れても、メモを見ればその時の感覚が再び甦ります。

 

ただし、いま言ったことを、自分を利するために活用しようとはなさらないでください。それでは三次元世界に身を置いたまま不思議現象を求めることと、何ら変わりがありません。そうではなくて、身に起こる、良いことも悪いことも、みんな良いことと思えるかどうかが鍵です。そうなってこそ本物。そうなってこそ、直感やインスピレーションに従って生きる価値があるのです。

 

それには、少々の勇気が必要かも知れません。世俗から離れて、なおかつ世俗の中で生きる覚悟が求められます。世俗心は真実を隠蔽してしまう力があります。現代人の不幸は、世俗のものが、まるで津波のようにして次から次へと押し寄せて来ることです。ことに、須磨穂教が世界中であっと言う間に信者を増やしてからは、その傾向が一段と激しくなりました。

 

しかし、気をつけてください。須磨穂の国は、あなたを麻薬のように虜にします。自分で考える力を奪い、低次元のバイブレーションにあなたを誘って、機械の奴隷にしてしまいます。須磨穂の国の熱烈な信者となって、自分を奴隷にしてしまってはなりません。

 

あなたはあなた。そのことをもう一度考え直してみてください。一日の中に、静かに内観する時間を割いて、自分は誰なのか、自分がどう生きたいかを見つめてください。静寂の中に身をおけば、直感やインスピレーションがやって来て、あなたを手助けしてくれます。そのメッセージの方が、うたかたのように流れ行く情報よりも、あなたにとってどれほど大切なことなのか。

 

あなたをいつも見守り、お応援してくれている存在の期待に、今こそあなたが応える番です。

人はいつでも変われるが、変わる意志を持たなければ変われない

「人の性格は変わらんよ」と言う人と、「いや、人間はいつでも変われるんだ」と言う人がいます。私はもちろん後者です。人は、いつでも変われます。たとえ、死ぬ1秒前であっても。「性格は変えられない」というのは、長年、自分の周囲を観察して来た結果、その人が悟った嘆き節と言えるでしょう。確かに、そう思わせる面が人間にはあります。でも、それで一括りには出来ないのです。

 

世の中には、自分を「変えたい」と強く思っている人と、「変わりたくない」と思っている人、その両方が共存している人、そして、そもそもそんなことは考えたことがないという人がいます。このブログを読んでくださっているみなさんは、少なくとも「変えたい」「変わりたい」思っている人たちだと私は信じます。そうでなければ、ここへは足を向けてくださらなかったでしょうから。

 

なぜ、自分を「変えたい」と思うのか。それは、ひとことで言えば向上心があるからです。今の自分に満足していない。もっと違う世界や、体験や、到達できる心境があるのではないかという好奇心が、その人たちの内部では優っているのです。でもこの向上心は、世間で言うところの向上心とはちょっと違う。それをあなたも分かっていらっしゃいますよね。

 

多くの人は、なりたい自分というものを、自分の外側のもので規定します。スタイルや、外見や、服装や、宝飾品や、家や、一緒に腕を組んで歩く人や、クルマや、財産や、肩書きや、名声です。でも次のシーンを想像してみてください。今あなたは死の床にあります。そして、これまでの人生を静かに振り返っています。さて、今度の人生で、どういう自分にあなたは「成った」のでしょうか?

 

あなたを規定してくれていた外側のものは全て、すでに効力を失っています。では、死の床にいるあなたはいったい誰なのか? もう内なる自分しかないではありませんか。その内なる自分、本当の自分、真の自分は、今度の人生を通じてどこまで「成った」のか? それが今世における成果です。そして、あなたは息が絶えても死なない。その内なる成果だけが、次の人生へと受け継がれるのです。

 

そのことを、あなたの「魂」は直感で知っています。あなたは、ご自分の「魂」の声に素直な人です。ですから、あなたは自分を「変えたい」と思うのです。私も、若いころから、自分を「変えたい」とずっと思い続けて来ました。今でもそれは変わりません。欠点だらけの自分、心をコントロールできない自分、他者とうまく付き合えない自分、引っ込み思案の自分、etc.。

 

若い時には、みんながよくやるように、自分の欠点と克服すべき課題をノートに書き出して、いつもそれをチェックしては戒めにしていました。いま振り返ると、自分を見つめるということではそれらは意味があったのですが、「欠点」克服というアプローチ方法は誉められたものではありませんでした。それで、ずいぶん回り道をしてしまったし、いささか神経症的にもなりました。

 

でも、そうじゃなかったんです。「欠点」を克服しようとするのではなくて、自分が思い描く「理想」に近づくことを目指していれば、もっと早道だったんです。しかも楽しんでね。「理想」に近づいて行けば、その分だけ「欠点」は自動的に減って行ったわけです。当時はそこに気づかなかった。そのため、「こうすべき」や「ねばならない」を連発する習慣に陥り、それで神経症になってしまいました。

 

結局、何がいけないかと言うと、そういう戒めは、いちばん大切な「自由」というものを、自分自身で拘束してしまうのです。それで、本来「自由」でありたい「魂」と、頭で考えた「意識」とが葛藤を起こして、それで苦しくなってしまうのです。ところが、そういうメカニズムを知らないものですから、まだまだ戒めが足りないと思い込み、ますます強化しては苦しみに拍車をかけてしまっていたのです。

 

ですから、なりたい「理想」を鮮やかに想い描くということが、とても大切です。「理想」なしに「欠点」ばかりを克服しても、じゃあいったいどこへ向かうのか、ということになってしまいますからね。「こういう人に私はなりた〜い」「こういう人に、まさに自分はなっている」という理想像を、ありありと想い描くというところから、自分を変える生き方が始まるのです。

 

さてそこで、「理想」の描き方ということが問題になって来ます。先にも書いたように、「理想」を外側のあり方ばかりに求めていたら、それは「魂」の成長というものに繋がって行きません。若い時には、変なものに憧れて随分とヤンチャをしたりしても、齢を経るに従って、普通は、しだいに内側の成長に目を向けるようになって行くものです。またそれが、よき人生のあり方というものです。

 

ところが、そういう外側から内側への意識変化というものに、ほとんど興味のない人たちが大勢いるのです。幸福とは、自分の外にあるなにがしかを手に入れることだと固く信じて生きて、ついにそれを手にする。例えば、財産や、地位や、名声や、愛人です。すると、今度はそれを失うことが怖くなっていきます。その結果、現状維持に血眼となり、いくら齢を重ねても、自分を「変えたい」などとは少しも思わなくなってしまうのです。

 

なんと憐れな人生でしょう。えっ、お前に言われたくないよ、ですって。まあ、そうでしょうねぇ。その人からすれば、自分がなぜ変わらなくちゃいけないのか、自分のいったい何を変えろと言うのか、そもそも「人が変わる」ということにどんな意味があるのか、と思うでしょうからね。でもね、だから憐れだって言うんですよ。今世のせっかくの機会を、なぜ活かさないのかなって思ってね。

 

自分を「変える」ということは、本当の自分、真の自分に近づいて行くということです。この地上に生を受けた目的は、それしかありません。地上で出遭う様々な体験は、すべてその「気づき」のために用意された道具に過ぎないのです。ですから、先ずは「気づき」というものに気づく必要があるのです。「気づき」にすら気づけないようでは、霊性向上の出発点にも立てません。ですから、そういう人たちが憐れなのです。

 

みなさんの中には、逆だと思っていた方もきっとおられるでしょう。やりたい放題、我が物顔でノッシノッシと歩き、ちっとも反省のない人たちを見て、怒りとともにこの世の不条理を嘆く人たちもさぞかし多いことでしょう。「それに比べて自分は‥‥」と、惨めさを呪う人もおられるでしょう。誰あろう、かつての私がそうでした。でも、そう考えてはなりません。あなたに訪れる苦難は、全てあなたという種子をはぐくみ育てる手段なのです。

 

元プロ野球選手だったKさんは、覚醒剤使用で逮捕され44日間を獄で過ごしました。人気者であっただけに、その反動は数十倍にもなって彼の心を深く抉ったことでしょう。表面的に見れば、彼にとって、それは人生最悪の災厄だったと言えるかも知れません。でもそうなったことで、彼は自分を「変える」機会を与えられたのです。これは天の配慮です。後は、Kさんがそれをしっかりとものにするかどうかです。

 

一方、最高権力者であるAさんは、嘘に嘘を重ね、破綻をきたしてもなお居直り、我欲のために、省庁も、日銀も、警察も、検察も、裁判所も、マスコミすらも抱き込んで、独裁体制をひた走っています。もはや民主主義もなく、三権分立もないので、たとえ違法行為をしたとしても、自分やお仲間たちが逮捕されるということはありません。これはAさんたちにとって、果たしてよいことなのでしょうか?

 

これも、表面的に見ればよいことのように思えます。実際、Aさんやお仲間たちもそう思っているからこそ、国民に嘘をつき続けることを止めないのでしょう。けれども、そうすることで、この人たちは自分を「変える」せっかくの機会を失っているのです。獄に繋がれたKさんと、逃げおおせるAさんたちと、どちらが不幸なのでしょう? 一体どちらが憐れなのでしょう?

 

罪や罰というのは、すべてこの世の論理です。何度も言って来たように、真理の世界には罪も罰もありません。自分が為したことは、自分に返るという鉄壁の法則があるだけです。ですから、他者を騙すことは自分を騙すことであり、他者に嘘をつくことは、自分に嘘をつくことになるのです。その真意を知らないものだから、自分を「変える」機会を、先延ばし先延ばしして行ってしまうのです。

 

ああ、憐れなり。でも、人はいつだって自分を変えられるのです。その気になりさえすれば、死ぬ間際だって人は変われる。それが聖なる救い。でも、その人が「変わろう」と言う意志を持たない限り、人は変われないのです。ですから今、あなたが、自分を「変えたい」「変わりたい」と心底願っていることは良いことです。それでこそ「魂」の成長があるのですからね。

 

でも、今の自分を抹殺してはいけないよ。反省はいいが完全否定してしまってはダメだ。己の中に巣食う利己心をジャンピング・ボードにし、未熟さを教師にするのだよ。それらは、あなたに何かを気づかせようと与えられたものだから。だから感謝しなさい。自分の未熟さ、至らなさに。そして、力強く飛躍するんだ。サナギから蝶へと。

 

ご自分の意志の力を信じなさい。あなたを規定するのは、あなたの外側にあるものではなく、あなたの意志が、明日のあなたという人間を創り育てるのです。善なる意志は健康をもたらし心を平安に導きます。不善なる意志は細胞を傷つけ心を荒げます。だから善なる理想をお持ちなさい。あなたは変われる。変われます。サナギから、この上なく美しい蝶へと。

「完全なる奉仕の人となる」とは?

7月2日掲載の『パワースポット』の内容に関連して、次のようなご質問を頂きました。

 

Q.前回のメッセージ中に、〈完全なる奉仕の人となるように〉という言葉がありましたが、「完全なる奉仕の人となる」とは、一体どのような状態を指しているのでしょうか? また、どのように行動すれば、完全なる奉仕の人に近づけるのでしょうか? 私の考えでは、どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやるという習慣を身につければよいのかな、と思っているのですが、それでよいでしょうか。

 

A.先ずあなたが、その言葉に眼をお留めになり、ご自分も「完全なる奉仕の人」を目指そうとなされていることをとても嬉しく思います。その勇気、寛大さ、誠実さは、何ものにも代え難いものです。すべての人が、もしもあなたのようであったなら、地球は変わるでしょう。そして、人類は救われるでしょう。

 

さて、「完全なる奉仕の人」とあるということは、それがあなたの心に引っ掛かったように、そして既にお気づきのように、「不完全な奉仕」という段階もあるということを示唆しています。なぜ、わざわざ「完全なる」という形容動詞が付けられているのでしょうか? なぜ、そのように強調されているのでしょうか? それは、いわゆる「奉仕」とは違うものなのでしょうか?

 

「奉仕」とは、普通、他者のために出来るなにがしかを自分がする、という行為を指しています。それはそれで、立派な心掛けです。あなたが仰る「どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやる」ということも、「奉仕」の素晴らしい行動原理です。では、それを徹底して行っていけば、「完全なる奉仕の人」に近づけるのでしょうか?

 

近づけるかも知れません。でもそのアプローチは、どこか無理をしていないでしょうか? 「エイッ!」と気合いを入れないと、継続はなかなか難しいのではないでしょうか? そして、そのように無理し続けていたら、きっと疲れてしまうと思うのです。すると、その「疲れた」心の状態、義務感のようにしてやっている心の状態が、相手に伝わります。

 

形の上では「奉仕」をしていても、自分が喜んで行っていない行為というものは、本当の「奉仕」にはならないのです。いわゆる「支援」と称する活動の多くが、息苦しさを感じるのはそれが理由です。

 

実に、ポイントはそこです。「行動」のあり方や、あり様ではないのです。それを為す人の、「心」のあり方、あり様が肝心なのです。「心」のあり方、あり様が、つねに愛に溢れ、喜びに満たされていれば、その人が為すことは、すべて自動的に「奉仕」となるのです。これが、「完全なる奉仕の人」になる、ということです。

 

しかしこれだけでは、何を言っているのか、たぶんお解りにならないでしょう。以前に、善と偽善のことをお話ししましたね。これと同様のことが、「愛」の学習についても、また「奉仕」についても言えるのです。人は、誰しもが、中途半端な「善」、中途半端な「愛」、中途半端な「奉仕」という段階を経て、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に至るのです。

 

未だ「善」を知らない → 「善」に気づく → 完全なる「善」の人になる

未だ「愛」を知らない → 「愛」に気づく → 完全なる「愛」の人になる

未だ「奉仕」を知らない → 「奉仕」に気づく → 完全なる「奉仕」の人になる

 

大きく言って三段階。この中間段階にある時(大多数の人がそうですが)に、人は心が定まらずに悩みを抱えるのです。しかしそれは「学習途上」ということであって、心の葛藤や悩みは、その人に贈られたテストとなっているわけです。そして少数の、未だ「善」を知らない者が悪を為し、未だ「愛」を知らない者が他者を支配しようとし、未だ「奉仕」を知らない者が私利私欲に走るのです。

 

これは「魂」の成長のプロセスであって、完全でない人間がダメだと言っているわけではありません。誰もがこうした道を通って、いつかは完全に至るのです。そう思って見れば、悪を為す人の心理も解るでしょうし、その人を許すことも可能でしょう。そして、完全なる「善」の人となった暁には、その人は、同時に完全なる「愛」の人にもなっており、完全なる「奉仕」の人にもなっているのです。

 

以前、『高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?』という、長〜いタイトルのメッセージを掲載したことがあります。自然とともに生き、自然を敬い、欲得を忘れ、毎日を穏やかに過ごす人は、自ずと、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に近づいて行くわけですね。

 

では、そのような人は、何が違うのでしょうか。想像してみてください。「よしッ!これからは善を為すぞ」と誓ったり、「愛に生きるぞ!」と決意したり、「人々に奉仕しよう」と努力したのでしょうか? もしそうであれば、まだまだ本物ではありません。誓いや、決意や、努力なしに、自然にそれらが出来ている人こそが本物の聖者です。いったい、どこがどう違うのでしょうか?

 

「喜び」の質が違うのです。先ほど言った三段階。これを喜びの質から見ると、肉の喜び、心(魂)の喜び、魂の奥(霊)の喜びへと、進化して行っているのです。ですから、内なる「霊」の喜びに生きる人は、まったく自然に、「善」「愛」「奉仕」に生きることが出来るのです。そして、この心境に至った暁には、その人は「全ては我がためにあり」との感慨を得るのです。

 

これを聞いて「えっ!」と思われた方も多分お在りでしょう。一見すると、これは驚くべき結論であるかも知れません。また、大いなる誤解をもたらすかもしれません。なにしろ、「他者のため」ではなくて、「全ては我がためにあり」と思えるようになることが、「完全なる奉仕の人」「完全なる愛の人」「完全なる善の人」になることだと言うのですから。

 

それは、エゴの最たるものではないのか? 違うのです。「全ては我がためにある」のですから、どんな災難も苦悩も「我がためにある」と受け入れるということですし、何を為しても見返りを求めるということがありません。また、自分にとって都合の悪い出来事を、他人のせいにするということもないのです。

 

ちなみに、釈迦の誕生時の言葉として知られる「天上天下唯我独尊」は、これと同じ境地を語ったものです。

 

「奉仕」活動を、「誰かのために」と思ってしている間はまだまだ浅く、「すべては自分のために」と思えた時に、それは本物になるのです。だからこそ、その人は、毎日を、この瞬間々々を、喜びの中に生きることが出来るのです。

 

その人にとっては、「奉仕」する対象がもはや違うのですね。「他者」にではなくて、「神」に奉仕する人間になっている。エゴを完全に滅して、自分を「神」の通り道にしてしまったのです。自分は単なるパイプ役に過ぎない。そうやって全部を「神」に委ねてしまう。そうなると、その人がする行動はどんなものであっても、全部が自動的に「完全なる奉仕」になってしまうのです。解りますか?

 

「神」とは何でしょうか? 「全宇宙」の別名です。ですから、「神」に奉仕するということは、取りも直さず、全ての人々、全ての自然、全ての生き物に奉仕することと同義なのです。そして、そのように生きることが、「光への道」の歩みなのです。

 

しかし、この道は決して平坦ではありません。批判や、誹謗中傷、時には攻撃も覚悟しなくてはなりません。なぜかと言えば、普通の人々には、その心境や感覚が理解できないからです。大多数の人は、未だ中途半端な「奉仕」の中に生きています。そこではスケール(物差し)が当てられ、量の多寡で「奉仕」が測られます(たとえば、寄進額や貢ぎ物で)。ですから、それを超越した「神」への奉仕は、その人たちからすれば、単なる独善にしか見えないのです。

 

ですから、マザー・テレサも独善的だと批判されましたし、『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師などは、自分が設立したホスピスのコミュニティを、二度にまで渡って焼き討ちにされてしまいました(一度建てて焼かれ、再建してまた焼かれた)。このように、「光への道」を生きることは、人々の無理解を覚悟しなければならないのです。

 

しかし、でも歩まねばなりません。いいえ、こんな時代だからこそ、一人でも多くの人に歩んでいただきたいのです。権力者の不正や嘘が大っぴらにまかり通り、それを咎め立てする機関もなければ、内部告発する者もいない。みんなが、低我の満足のために、自己の「魂」の、真我の声を裏切って行動し、仲間以外の人たちを奴隷のように扱って支配しようとする。未だ善、愛、奉仕を知らない憐れな権力者たち。無明の中に生きる人たち。

 

これらの「魂」たちに、内なる気づきを与えてあげてください。それには、みなさんが「光」を発することです。「光」の輝きで、硬く凝り固まった「魂」の扉を溶かしてあげることです。だから、友よ。完全なる奉仕の人を目指せ。そして、わが使徒となりなさい。わたしとあなたはつねに共にある。