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近未来の働き方 ---- AIインパクト後の世界

今から書くことは予測であって予言ではありません。私には予言する力はありませんし、決していたしません。今後数十年で、おそらく人類の「働き方」は激変することでしょう。それ以前に、「働く」ということの意味が一変してしまうかも知れません。また「働く」ことの意味が、良い方向へと変わらない限り、人類はこの変化を上手に乗り越えられないだろうと思います。

 

いま人類は、新たな革新的テクノロジーの導入によって、「仕事」環境を一変させようとしています。そのテクノロジーというのは、AIや、IoTや、Brockchainと呼ばれるもので、これらが雪崩を打つようにして「仕事」の現場に一気に入ることにより、人間の「働き方」そのものが、必然的に変わらざるを得なくなっていきます。ここでは、総じてこれを「AIインパクト」と呼ぶことにします。

 

AI(Artificial Intelligence:人工知能)

IoT(Internet of Things:モノのインターネット)

Brockchain(分散型ネットワーク)

 

例として、今よく挙げられるのが、「タクシー運転手の仕事が無くなる」というものです。これは、クルマの自動運転や、GPSと連動した効率的な配車システムといったものが、既に実用化の段階に入っているためです。けれども、それは単に解りやすい例というだけであって、タクシーで可能なら、長距離トラックでも可能だろう、電車でも飛行機でも可能だろう、ということにすぐにでもなっていくことは疑いようがありません。

 

そればかりではありません。介護も、働き手がいないというのならロボットにしてもらった方がいいんじゃないか。会社の受付も、カフェのウェイターもロボットでいいよね。学校の先生なんてAIの方がずっとマシだよ。病名診断はAIですればいいんだから、医者は要らないよね。ということに必ずなります。ロボット警官やロボット兵士がすでに造られ始めていますし、韓国では、人間は汚職ばかりするからという理由で、政治家ロボットまでが試作されています。

 

このテクノロジー革命は、結局は「人間は不必要」という極端化の方向に限りなく突っ走っていきます。これは、テクノロジーの革新というものが、つねに全体の理想像を思い描くことなしに、部分が先行して進展していくからです。なぜかと言うと、技術革新は新しい産業を生み出します。新産業の勃興は、投資家および企業にとっては莫大な富を生み出す種ですから、「これは行けそうだ」となると、投資が一気に集中し、激しい競争と切磋琢磨が短期間に行われるのです。

 

この、新しい富を生み出すのではないかという期待と、科学者・技術者の熱心さとが結びついた際のモチベーションというものはどうにも抗し難いもので、人間は、制御不能なモンスターを拵えてしまっては、後になって「はて、どうしよう」と、やっと対策を考え始めるという過ちをつねに繰り返しているのです。核にしろ、原発にしろ、化学兵器にしろ、金融商品にしろ、みんな同じです。

 

アインシュタインは、第二次世界大戦末期に、時のルーズベルト大統領に原爆開発を進言したのですが、後に後悔してこう語っています。

「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。人間を機械の奴隷にしたのです。あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」

 

そして、まさに今、テクノロジーの進化はその最終局面へと向かおうとしています。「仕事」の場に、人間はもう不要だということ。SFで散々描かれて来た人間と機械との闘争。そして最終的には、人間が完全に機械の奴隷にされてしまう。そういう時代が、いよいよ到来したということです。

 

AIインパクト後の世界を、科学者や科学ジャーナリストはまるでバラ色のように語ります。ですが、そんな単純な話ではありません。人間がする「仕事」が無くなる。それは、人間とは何か、生きるとはどういうことか、その意味が新しく問い直されるということです。

 

「仕事」が無くなるというのは、なるほど差し迫った脅威には違いありません。ですが、本当の脅威はもっと深いところにあります。それは、AIインパクトによって、人間がますます身体感覚を喪失してしまうということ。言い換えれば、人間が、遂に人間ではなくなるということです。

 

人間が五感を有するのは、この物質世界というものを把握、認識するためです。それは必要があってそうなっているのであり、五感は物質世界を生きるために、天から与えられたツールなのです。ところが、AIインパクトは、人間からこの機能を大幅に代替してしまいます。それを人間は、便利とか、進歩とかと言っているのですが、裏からみれば、機械依存にますます陥っていくということです。

 

今ですら、現代人は、自分の周囲の環境を知覚する能力を大幅に低下させています。あなたはいま食べているものの食材が、どこでどのように作られどうしてテーブルまでやって来たのかを知っていますか? あなたは自分のウンチがどこへ行ってその後どうなるかを知っていますか? あなたはどれが鮮度のいい魚か見分けられますか? あなたは食べていいものといけないものを臭いで嗅ぎ分けられますか? 半世紀前なら誰もが知っていたことを、現代人は知りません。

 

現代のお医者さんは患者の顔色を見ません。舌の状態を見ません。まぶたの裏を見ません。検査機関から挙がって来たデータを見て、それで「診断」を下しています。巷の人々は、わずか10年で、あっと言う間に「世界須磨穂教」の信者になり、そこから得られる「情報」の虜にされるようになりました。今や、自分が認識する「世界(World)」とは、機械の向こう側に広がる世界なのです。それが、あなたのリアリティになっている。

 

しかし、このような環境に常時置かれていたのでは、早晩、人間は心を狂わせてしまいます。自分が「生きている(Live)」という実感が、五感の鈍化によって失われる一方で、「生存(Survive)」するためには、周囲の機械が不可欠となっていきます。そしてこれが、「生きることの不安」をさらに増幅させ、その不安から逃れるために、ますます機械にハマるという悪循環構造を作り出すのです。現に、今そうなっている。

 

人は、「自分が、誰かに、何かに役立っている」という手応えがなければ、決して満足することはありません。それは心を超えた魂レベルの問題であり、根元的な願望なのです。「全部が一つ」ということを、「仕事」を通じて思い出していこうとするのです。けれども、人々の一部は、特にエリート層の人たちは、そこを全く理解していません。「仕事」というものを、生産性とか、対価の問題としてしか、考えていないのです。

 

するとどうなるでしょうか? 資本家や経営者は、コストは出来るだけ下げて、生産性を出来る限り高めたいと思うでしょう。その手っ取り早い手段が、賃金の抑制です。資本家や経営者は、「会社が儲からなければ給料は払えないんだから」と説明しますが、失われた20年で判ったことは、たとえ大会社が儲かっても、全体の平均賃金はますます低下し、貧富の格差が拡大する一方だったということです。

 

投資家にとっては、会社の従業員は人間ではありません。会社に付随した生産機械の部品でしかないのです。投資家というのは、投資対象は何でもいいのであり、土地、不動産、株、債権、先物、絵画、宝石、なんでもござれで、儲かりそうなところを次々にサーフィンしていく。ですから、企業もその一つに過ぎず、売ったり買ったりできる商品だとしか、投資家は見ていません。

 

グローバル経済の浸透後は、このような投資家(8割は外国人)に日本の企業が商品として売買されることが当たり前となり、その度に、その会社で働く従業員たちが振り回されるという事態に追い込まれてしまったのです。こうした投資家が、日本企業を支配し、その企業がさらに政府を操って、法律を自分たちに優位になるように変えて行った結果、今のような絶望的な貧富の格差が生じる事態となったのです。

 

さて、いま進展しつつあるAIインパクトを、投資家や資本家の視点に立って考えてみてください。彼らは何のために導入を急ぐのでしょうか? 言わずもがなの、究極の賃金コスト抑制策になる得るからです。何しろ、人間を雇わなければ、給料を支払う義務が無くなります。この技術革新による低コスト競争に、いち早く勝たなければ、この先は生き残れないかも知れません。それで我も我もと急ぐ。

 

今までの考え方の延長線であったとしたら、当然そうなります。しかしその試みは、失敗に終わるでしょう。短期的には成功を収めたとしても、その状態を続けることは出来ないと思います。なぜなら、労働者というのは、同時に消費者でもあるからです。労働者がいなくなったら、消費する者もいなくなってしまいます。ですから、商品やサービスの売り先がなくなってしまいます。

 

その表れは、すでに今の経済状況の中に見ることが出来ます。日銀は、安倍政権になって通貨の供給量を3倍に増やしました。それなのに、目標としていた2%のインフレ率が達成できずに、6回もの達成目標の延期を行っています。通貨をいくらじゃぶじゃぶにしても、賃金抑制によってそのお金が庶民には届きません。全部、株価操作に使われてしまう。これでは、庶民はより安いものしか買えなくなるのは当然です。

 

ですから、AIインパクトによって、真っ当な賃金を貰える人の数がさらに激減したら、今の経済システムそのものが崩壊してしまいます。今の強欲な資本主義は、どのみち崩壊しますが(延命策によって、今はかろうじて回っているように見せているだけ)、庶民にとっては、「働く場が無くなる」という衝撃は、身近に迫った重大な危機であることは間違いありません。

 

そこで、「働く」という意味そのものを、根本から変える時期が来ているのです。

 

あなたは、「働かざる者、喰うべからず」と思っていますか? 思っているとしたら、どうしてでしょうか? 私は54歳の時に引退を宣言し、世間で言ういわゆる「仕事」はやめてしまいました。それまでいた業界で、自分が通用しなくなったためです。その後、パチンコ店の深夜清掃のアルバイトを5カ月、次にラブホテルの受付のアルバイトを3カ月やりました。でも、どちらも体調を崩してやめました。

 

その後で、『お風呂の王様』の面接に行ったのですが、採用されませんでした。その時に悟りました。「そうか、自分は労働力としては、もはや見なされないんだ」と。何といっても向こうは王様、こっちは単なる一般ピープルですから逆らえません。それでガックリ来て、それ以上、仕事を探すのを諦めたのです。仕事をしないとどうなるのかな?という興味もありました。

 

今は年金で暮らしているのですが、働いていないのかと言えば、働いています。このブログを書くのに丸々2日を費やし、疲れ果てて1日休むので合計3日は最低掛かる。その他に、家事をこなし、月に1回のセミナーの準備をしたり、ホームページを作ったり、草取りをしたり、家の修復をしたりと、結構忙しい。ただ稼ぎがないというだけであって、働くことは働いている。

 

つまり、「働く」という意味が、以前とはもう全く違うんですね。「働く」=「自己表現」になったのです。私にとっては、掃除も洗濯も料理も、みんな自己表現です。自己表現であることをつねに意識して、体を動かしています。もはや、「収入」と「働く(自己表現)」ということが、リンクしていないのです。そして、この意味の転換は、やがては人類に共通のものとなります。

 

「働く」ことの意味が一変する。そうでなければ、人類の解放はありません。

 

「労働」は、これまで、主として対価を得ることに力点が置かれていました。そこから「働かざる者、喰うべからず」という言葉も生まれたのです。しかし、そう思い込ませたことは、資本家や投資家の地位保全に大いに寄与しました。富者は自分では働きません。他のものに働かせるのです。土地、不動産、株、債権、会社、使用人、そしてお金そのものなどに。

 

矛盾した話ですが、一部のスター以外、自分で働く人は決して大金持ちにはなれません。自分以外のものを働かせる人だけが大金持ちになれるのです。「働かざる者、喰うべからず」という洗脳は、こうした「自分では働かない人たち」を支える構造に使われているのであり、多くの人々は、失業=無収入=飢死、の恐怖に怯えながら、しぶしぶ奴隷的労働に従事させられて来たのです。

 

これが、長い人類史だとも言えるのですが、このカラクリに未だに人々は気づいていません。しかしここで、よく考えていただきたいのです。人類には、なにゆえに貧富の格差があるのでしょう。なにゆえに貧富の格差が次の世代にも引き継がれてしまうのでしょう。なにゆえに支配する者と支配されるものがいるのでしょう。なにゆえに富をめぐって武力衝突が起こるのでしょう。

 

その答えは簡単です。分け与えようとしないからです。人間が、互いに奪い取ることばかりを考えて、それをひたすら実践しているからです。ですから、このカルマが何百年、何千年経とうが止まない。でも、分け与えることを第一に考え、人類がこれを実践していったとしたらどうなるでしょう。たちまちにして世界は変わります。餓死の不安は消えて、戦争も無くなって、全世界の人々が、仲良く平和に暮らせる社会が出現します。

 

世界の人口を養えるだけのものは充分にあります。不足も必要もありません。偏りがあるから、不足や必要があるように見えるだけです。世界の富の半分を、わずか1パーセントが所有している。この極端なまでの偏り。その反対側の、今日の食事さえままならない7億人の人々。もしも、使い道なく秘匿されているこれらの富が出回ったら、貧困などはあっという間に無くなることでしょう。

 

いま、世界中で「ベーシック・インカム(Basic Income)」の導入が検討されています。すでに実施している自治体もいくつか出始めています。これは、今までのような社会保障制度のあり方、〈生活困窮者に限って給付金を手渡す〉といった考えを止めてしまって、すべての人々に最初から一律に生活費を支給してしまおうという考え方から成り立っています。

 

これまでの常識であった「労働と賃金」(賃金は労働の対価)という考え方を根底からひっくり返すものであることから、初めて聞く人は、きっと戸惑うことだろうと思います。ですが、この制度のメリットは計り知れません。先ず、生活保護費の給付金対象者を「判定する」といった事務やコストが一切必要なくなります。それに全員に一律ですから、生活保護を受けるという後ろめたさもなくなります。

 

さらに、毎月の生活費がきちんと届くので、将来の生活不安というものがなくなり、貯蓄をする必要もありません。その結果、お金が市中に出回るようになるので、市場経済が活性化します。またすべての職業人が、基本として、生活のためにお金を稼ぐ必要がなくなるので、失業や追い詰めるような成果のプレッシャーからは解放されます。教育費もタダ、医療費もタダが実現できるでしょう。

 

まるで夢のような話に思えるでしょうが、AIインパクトを乗り切るには、この方向しかありません。人間の「仕事」がなくなる時代を、今までのような労使概念(資本家と労働者)の延長で捉えていたのでは、貧富格差のさらなる拡大を飛び越し社会そのものが崩壊してしまいます。しかし「ベーシック・インカム」が実現できれば、AIインパクトを、人類の解放に利用することもできるのです。どっちに行くかで180度違う。人類にとって、これはまさに運命の分かれ道です。

 

富裕層、既存支配層は、当然あれこれと理由をつけては、この一大転換を阻止しようとしてくるでしょう。「ベーシック・インカム」の発想は、〈みんなでシェアする〉という考え方を基点にしています。これは、富裕層がこれまで築き上げて来たスケールを根底から破壊するものになるからです。ところが面白いことに、シリコンバレーの若いIT起業家たちの多くは、この「ベーシック・インカム」に賛成の意向を示しているのです。

 

しかし、ここで再び考えていただきたいのです。空は誰のものでしょうか? 空気は誰のものでしょうか? 水は誰のものでしょうか? 土は誰のものでしょうか? 土地は誰のものでしょうか? 鉱物は誰のものでしょうか? 海は誰のものでしょうか? 海にいる魚たちは誰のものでしょうか? 夜空の星々は誰のものでしょうか? その光は誰のものでしょうか? 宇宙は誰のものでしょうか?

 

誰のものでもありません。みんなに等しく与えられたものです。それなのに、一部の人間たちが、「これは俺のものだ」と勝手に線引きをして、それを認めさせる制度を作り、他者には「分け与えない」ことを正当化、常識化してしまいました。その結果、支配者と被支配者が生まれ、奪い合いと闘争が生じ、貧富格差が拡大し、奴隷的労働が公認され、多くの人々が生活苦にさいなまれるようになったのです。

 

AIインパクトは、人類にとって諸刃の剣です。しかしこの進展をストップさせることは、もはや出来ません。テクノロジーの革新は、今後急速に進みます。ですから、これを、人類の目覚めの千載一隅のチャンスとして用いることが大切になって来ます。

 

人間が不要になるということは、「生産」に関わる人間の数が、今よりもずっと少なくて済むということです。視点を変えれば、今よりもるかに少ない労働コスト、エネルギーコストで、地球人全員に、生活に必要な物資が供給できるようになるのです。さてそこで、「仕事」に対する考え方の大転換が必要になって来ます。遊んで暮らす人を認める、生産しない人を認めるということが。

 

ここに至って、「働く」ことの意味、「仕事」の意味が根本的に変わります。「働く」ことと「稼ぐ」ことがもはやリンクしない。「働く」ことは、自己表現に全面的に変わるということです。今の世間常識からすると奇異な感じに映るかも知れませんが、このブログでは繰り返し言って来たことです。人間は自己表現せずにはいられません。それをすることがその人の「仕事」なのであり、自分を生き生きとした喜びで満たすものであり、生まれて来た目的なのです。

 

ですから、この「働く」ことの意味の転換は、人間の本来のあり方に収まるということになります。どうか今日から、「働く」ことを自己表現の視点で捉え直してみてください。そしてその中で、五感をフルに使うのです。どんな仕事も、クリエイティブでない仕事はありません。料理をする時でも、洗い物をする時でも、掃除をする時でも、人は常にクリエイティブであり続けられます。そして、そう行動できる人が、ハッピーでいられる人なのです。

 

これまで、芸術に生きようとする人は、大多数が苦難を強いられて来ました。生活苦があるので、パトロンに魂を売り渡したり、「先生」に奉りあげられることをよしとする人もいました。それは、非生産的なことは仕事に非ずと見なされて来たからです。ゴッホなどは生前一枚しか絵が売れず、ノイローゼになって耳を切りました。しかし「ベーシック・インカム」が実現されれば、生活苦もなく、将来不安もなく、全員が自分のやりたいことに打ち込めるようになります。

 

芝居をやりたい人は、アルバイトをせずに芝居ができます。音楽を聴かせたい人は、望まれるところどこへでも行って自由に演奏ができます。無農薬野菜を作りたい人は、遊休地を借りて気兼ねなくできます。コスト割れだった林業も復活させられます。サーフィンをし続けたい人は、海辺に引っ越して好きなだけやれます。そうやって、全員が思い切り自己表現をすればよいのです。

 

それで丸く収まるように、宇宙というものは出来ているのです。信じられないでしょう? 信じられないという人は、自然を見てください。自然の中の循環サイクルに眼を凝らしてください。放っておいたら大変なことになる。無秩序で大混乱になる。そう思って、この循環サイクルをいじくりまわし、却ってアンバランスを作り、そのしっぺ返しに遭っているのが今の人間たちなのですよ。

 

いいですか。この大宇宙にムダなものはなに一つないんですよ。あなたという個性は、あなたという個性を役立てるために生まれたのです。梅は桜になろうとはしない。ただ梅を生きるだけ。この言葉を今いちど思い出してください。そして、自分の個性を最大限生かしなさい。誰かのためにとか、役に立とうとか、小賢しいことは考えるな。自分がやりたいことをやれば、それでいいのだよ。

 

だから、己の「魂」の声を聞け。心ではない、そのもっと奥にある「魂」だ。そこにインプットされている。あなたが自分で刻印して来たメッセージが。

 

あなたが、このあなたが、あのあなたが、やりたいことをやれば、それで全部が丸く収まる。そのように宇宙は出来ている。それは同時に、自動的に、宇宙全体に役立つことになっているのだよ。

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Q.「ちゃぶ台返し」をしてしまったことの課題とは?

前回のブログで「ちゃぶ台返し」の話題を書いたところ、ある方から、次のようなご質問をいただきました。

 

Q.最近、職場内であまりにも理不尽なことがあって、「ちゃぶ台返し」をしてしまいました。後でこれは自分への課題であったのでは思いました。そう考えたら受け入れるべきであったのか、「ちゃぶ台返し」がよかったのか分からなくなりました。課題であると気づかなかったときは、自分は正しいという思いが強かったのですが、今はモヤモヤ感が強くなっています。この感覚そのものが自分へのギフトなのでしょうか。答えは無くてもよいのでしょうか。

 

A.いつもメッセージを読んでくださり、また励ましの言葉をかけていただき、ありがとうございます。さて、ご質問ですが、「ちゃぶ台返し」をしたと書かれてあるところを見ますと、あなたが、瞬間的に感情を爆発させるような反応をしてしまったものと理解してよろしいでしょうか? そうであるとすると、ここには3つの問いが合わさって投げかけられていると思います。

 

ー分が理不尽だと思った要求を、受容すべきだったのかどうか?

⊆分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?

この事件から学ぶべき「課題」とは何か?

 

通常、人が「どうしていいか分からなくなる」という時には、そこには複数の、次元の異なる問題が同時に含まれているものです。人間というのは多次元的存在ですから、どうしてもそういうことが起きてしまうのです。上記で、,詫性的な判断を要する問題、△牢蕎霤な問題、は「魂」の世界の問題です。

 

この中で最も重要なのは、の「魂」の世界の問題です。しかしこれは、世間からすればちょっと非常識な捉え方であり、世間で問題にするのは、常に,鉢△任后このブログの熱心な読者であるあなたは、にこそ「生きる」うえでの根本的な課題があると気づいておられるのですが、そのアプローチは世間常識とはあまりにも違うために確信が持てず、,鉢△留洞舛鮗けて心が揺らいでしまっているのです。

 

アジアの都市を見ますと、交差点は大渋滞というところが多いですよね。人も、クルマも、バイクも、荷車もみんな我先にと急ぐ。人が「わけが分からなくなる」時というのは、大体こんな状態です。混乱した交差点の状況を改善しようと思ったら、どうするでしょうか? 先ず、車道と歩道と自転車道を分けて、次に信号機を設置して通過する順番をコントロールしようとするでしょう。これと同じです。

 

こんがらがった、次元の異なる複数の問題を、先ずはノートに箇条書きして整理をし、上から眺めて見ることをお勧めします。これで、混乱していた頭が、随分スッキリすると思います。さてその上で、順番に検討していきましょう。

 

先ず、,痢崋容すべきだったのかどうか?」ということですが、私の口からは「こうすべきだった」ということは申し上げられません。ただ、そのような発想はしない方がいいとは申し上げたいと思います。その時点での判断はすでに下されたのです。ですから、遡ってそれを思い悩むのではなく、今のこととして、もし訂正した方がよいと思ったら、直ちに行動を起こしてください。

 

朝令暮改が大切です。必要だと思った時には、どうか勇気を持って朝令暮改をしてください。世間では、どうも朝令暮改を「ブレた」と言っては非難し、頑固一徹や信念を重んじる傾向がありますが、「魂」の世界から見たら、それは誉められたものではありません。今の政府を見てください。一度ウソをついたら、次から次へとウソをつき続け、もうどうにならないところまで突き進んでいるでしょう。

 

頑固さゆえに、朝令暮改のタイミングを失してしまったのですね。「朝令暮改はダメ」じゃないんです。問題は、朝令暮改の方向です。それが、良い方向であるならば、人は朝令暮改を喜んで受容します。逆に悪い方向であれば、その改は責められるかも知れません。あなたは、「自分は正しいという思いが強かった」と書かれていますが、今もそうであるなら、もちろん改める必要はありません。

 

さてここで、「正しい」とは何か、という問題です。宇宙から見た場合、「正しい」とは、たった一つのことでしかありません。それは、宇宙の「理」に適っているかどうか、これだけです。ところが、人間の世界は違うのです。大多数の人間は「宇宙の真理」というものを知りません。そのため、、人間の世界では「正しい」ということに、「正義」や「倫理・道徳」を当てはめがちなのです。

 

しかし、「正義」や「倫理・道徳」の観念は、その時の社会体制によって、容易に変化するものです。その端的な例は、戦後すぐに実施された墨塗り教科書の指導です。ということは、「正義」や「倫理・道徳」といったものは、その時の為政者にいいように利用されてしまう危険性をつねに孕んでいるということです。なぜ戦争というものが起こるのかと言えば、それは大部分「正義」が原因です。

 

では、宇宙から見て「正しい」とはどういうことでしょうか? 何度も言うように、「宇宙の真理」は、「全部が一つ、一つが全部」たったこれだけです。ここからすべてが派生しています。ですから、大本にある「真理」をじっと見つめて考えれば、あらゆることのセオリーが、自ずと導き出されていきます。ちなみに、もし何かに迷った時には、この原点からじっくりと考えていけば、すべてに答えが見出せます。

 

やってみましょう。「全部が一つ」なのですから、自分と他者は一つです。自分と神も一つです。自分が神なら、あの人も、この人もみな神です。「全部が一つ」なのですから、自分が為したことは、宇宙に為したことになり、あの人に為したことは自分に為したことと同じなのです。するとどうなるでしょうか? 誰かを傷つけることは、自分を傷つけることと同じなのです。 

 

このようにして、自分が為したことは自分に還ります。これが、いわゆる「カルマの法則」です。自分が蒔いた種は、いつか必ず自分が刈り取ることになるのです。これに例外はありません。結果がすぐには表れないために、このことに、きっと疑問を持たれるとは思いますが、長い目でみれば、必ず帳尻が合うようになっています。

 

ですから、愛を与えれば愛が還り、憎悪を与えれば憎悪が還り、他人から何かを奪えば、次には自分が奪われるのです。人類全体でも同じことです。地球を痛めつければ、次には地球から痛めつけられるのです。でもこれを「罰」とは捉えないでください。天に「罰」はありません。「罪」もありません。あるのは冷徹な法則だけです。自分が為したことは自分に還る。ただそれだけです。

 

ですから、天から見て「正しい」こととは何かと言うと、この「全部が一つ」というセオリーをちゃんと理解して行動をしているのか、ということに尽きるのです。理解しているのであれば、自ずと行動は、利他、奉仕、無条件の愛へと向かっていきます。ですから、相談者の方も、この点から、自分が下した判断、とった行動が「理」に適っていたかを見てください。

 

そして、「理」に適っていたのであれば、たとえそれを主張することで、自分の立場が悪くなったりしたとしても、それを貫き通してください。理由は、前に書いた通りです。

 

次に、△痢崋分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?」という点です。「怒り」は自分を傷つけます。それは心理的な面だけではなく、身体の細胞にもダメージを与えます。ですから怒らないに越したことはありません。しかし、だからといって、「怒り」を抑えつけようとはなさらないでください。これは「怒り」を出すことより、さらに悪いダメージを与えます。

 

前段に書いた「全部が一つ」という感覚が、身体に沁み通ってくれば、次第に「怒り」という感情そのものが無くなっていきます。ですからそれまでは、上手な「怒り」の表出の仕方を学んでください。「ちゃぶ台返し」も、コミュニケーションの表現の一つです。それによって、周囲の人に新たな気づきを与えられるかも知れません。

 

感情のコントロールで大事なことは、これまでにも何度も書いて来ましたが、二次災害に発展させないということです。パッと感情を出して、それで終わりにしてすぐに忘れる。これがコツです。ちょっとやり過ぎたなと思ったら、すぐに謝るなどして終わりにしてしまう。自分の感情の動きと、そうさせた原因というものを一緒くたにせずに、区別して考えるクセをつけてください。

 

さて、最後の「この事件から学ぶべき『課題』とは何か?」という点です。冒頭にも書いたように、実はこれがいちばん重要なことです。もし失礼があればお許しいただきたいのですが、相談者の方は、もしかすると「課題」というものを誤解されているのではないでしょうか? 「ちゃぶ台返し」をしなければいけないような事件があった。その事件を「課題」と捉えてはいないでしょうか?

 

そうではないのです。「魂」の世界から見た場合の「課題」とは、「事件」にあるのではありません。人は、いつも「事件」を問題にします。「事件」の中身について、あれこれと憶測したり、解釈しようとしたりして時間を浪費しています。しかし、極端な話「事件」などはどうでもよいのです。怒られることを承知でいえば、どんな大事件であろうと、全部が大したことではないのです。

 

なぜそんなことが言えるのかと言いますと、答えは簡単です。「事件」はあの世へは持っていけないからです。あの世へ持って行ける(行かされる)のは、あなたがした、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解、これらだけなのです。すべての「事件」は、これらを味わうための、いわばきっかけに過ぎないのです。

 

その証拠をお示ししましょう。あなたは、ご自分が過去世で体験した「事件」を覚えているでしょうか? えっ、過去世そのものを覚えてないですって? いやいや、そうじゃないんですよ。あなたの性格、あなたの心グセ、あなたのこだわり、あなたの容貌、あなたの体躯、あなたの境遇、これらは全部、あなたが過去世で体験して覚えて来たものの結果なんですよ。だから、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、全員の個性が違うのです。

 

いいですか、もう一度言いますよ。あなたは「事件」をきっかけとして、そこから、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解等を徐々に深め、今世で掴みきれなかったものを来世への課題(カルマ)として残すのです。そして、その課題克服のために、「事件」のシナリオを設定して、また物質世界に誕生して来る。

 

このようにして、「事件」のきっかけを通じて、その時々の体験を存分に味わい、自分のものとして行く。これが、霊的成長を図るということなのです。そしてこれこそが、あなたが、この世に誕生して来た目的なのです。ですから、「課題」とはそこです。「事件」ではありません。「事件」に接した際の、自分のリアクションの中に「課題」が隠れているのです。

 

ですから、そこにこそ着目してください。「事件」はすべて、天から贈られたギフトです。自分が自分に贈ったといってもいいです。なぜなら、もしそれが贈られなければ、霊性向上のチャンスには出会えないからです。さてその時に、自分が同じパターンのリアクションを繰り返していないかを見てください。感情の動かし方、口の利き方、態度、処理方法等です。そこにあなたのカルマが現れています。これは、そのことに本人が気づくまで、何度も贈られます。

 

これまでを、じっくり振り返って見てください。お中元お歳暮の恒例ギフトにしてはいなかったでしょうか。もうそろそろ、受け取り拒否にしてはいかがでしょうか。これを読んでくださっているみなさんは、今日、たぶん多くの謎が解けたと思います。そのきっかけを与えてくださったのは、この質問者の方です。そのギフトに感謝して、自分の生をしっかりと全うしていきましょう。

誠実さを、どこまでも

還暦をとうに過ぎ、今までの人生を振り返ってみると、なんとまぁ自分は「ちゃぶ台返し」ばかり繰り返して来たんだと、半ば呆れます。カッとなると制止が効かず、一瞬にして、それまで築いたものを何もかもぶち壊して来ました。やけのやんぱちです。おかげで「成功」といったこととは無縁で、そのつど立場を悪くしては孤立し、地を這うような生活を送って来ました。

 

はて、どんなことが原因で、そんな「ちゃぶ台返し」ばかりして来たのかと改めて振り返ってみると、そこに共通項があったことに気がつきました。誠意でやったことを仇で返された時、理不尽さを強いられた時に、やけのやんぱちが爆発していました。自分にはそれらが耐えられませんでした。立場が悪くなるということは解っていても、「もう嫌だぁ!」と思う衝動がそれを上回ったのです。

 

そこで、ついクイっと「ちゃぶ台返し」をやってしまう。でも「ちゃぶ台返し」をやったら、その人は間違いなく今の立場を失いますね。ですから、人が保身に走るという心境はよ〜く解る。けれども「保身」には「おしん」が必要で、自分には、その手の「おしん(辛抱)」は出来ませんでした。誠実でありたい、正直でありたい、純粋でありたいは、子どもの頃からの、自分の理想だったのです。

 

しかしそれは、世の中的には殆ど通用しない。通用しないどころか、誠実さを仇で返される、正直さを誤解される、純粋さを罵倒されることもしばしばです。でも、それは仕方のないこと。世の中の中心が、エゴを主体に動いていますから。エゴの眼鏡を掛け慣れた人には、誠実さ、正直さ、純粋さというものは見えません。きっと裏に何かがあると、勝手に想像(創造)して、自分のエゴと同質のものを相手に見出してしまうのです。

 

最もひどいのが政界。誠実さ、正直さ、純粋さとはおよそ無縁。そして、政界に負けず劣らずひどいのがスピリチュアル業界(?)。エゴまみれの魑魅魍魎が跋扈し、人々を騙し、欺き、奪い、金と権力の亡者となり、派閥を作っては闘争を繰り広げ、誠実、正直、純粋であろうとする者たちをみな木っ端微塵に打ち砕いてしまう。それを「聖なる」という枕詞のもとに行うのですから、一般社会よりもずっとタチが悪いですね。

 

私も、あること無いこと陰口をきかれ、どれほど罵倒されて来たことか。こんな世の中なら、「いっそもう死んでやれ!」と何度思ったことか。(その時分には、まだ「死んでも、死なない」ということを知らなかったんですけどネ。)自分には、「罵倒観音(馬頭観音をシャレたつもりなんですけどネ)」が憑いているのかと思ったくらいですよ。昨年は、幸い罵倒されることなく過ぎましたが、でも二度ほどチト悲しい思いはしました。

 

しかし、随分後になって、自分のこの不運は、不運だと思う気持ちは、自分の「純粋さ」がまだまだ足りないせいだと考えるようになりました。昔から、物欲、金銭欲、名誉欲といったものにはほとんど関心がありませんでした。ですから、そういうものがあるということがとても不思議に思えます。でも、自分を「認めてもらいたい」という気持ち(認知欲求)は、強くありました。

 

ところが、どこへ行っても認められません。自分を理解してくれる人がいない。この事実は、私をひどく落胆させました。やがて生活の困窮もあって、自分の中に、成功者や能力の高い人を妬む心が生じていきました。その後、いろんなエゴを徐々に手離していく中で、嫉妬心だけは最後まで消えませんでした。それがとても恥ずかしく、自分にとってその克服は最後の難関となりました。

 

けれども、自分の不運は、自分の「純粋さ」が足りないせいだったと気づいた時、これまでの不運は、あらかじめ自分がぜんぶ設計して来たものであり、そして自分が望む通りに「ちゃぶ台返し」を繰り返していたのだと理解しました。なぜならば、もし自分が、何かのチャンスで「成功者」にでもなっていたとしたら、こんなことは今、絶対にしていないだろうと言えるからです。

 

私は「成功者」のお手本にはなれません。でも「落伍者」のお手本にはなれる。それが、いま自分がかろうじて出来ることであり、自分の役割なのだと、己に言い聞かせています。これまで繰り返してきた数々の失敗、恥ずかしいこと、幼少時の体験や、家族とのことや、鬱になったりパニックになったり、罵倒されたりして来たことが、そのために今ぜんぶ役に立っている。

 

それは、自分で自分に贈った得難いギフトです。

 

私は、「こうすれば成功者になれるよ」ということは言えません。でも、私と同じように、「自分は社会の落伍者ではないか」「取るに足らない人間ではないか」「生きるに値しない存在ではないか」と思い込んで来た人に対しては、確信をもって言える。「そんなことはないんだよ」と。力強く言える。「あなたは、そこにいるだけで、素晴らしい存在なんだよ」と。心を込めて言える。

 

「ちゃぶ台返し」は、私に不運の連続をもたらしましたが、でも私は、誠実でありたい、正直でありたい、純粋でありたいという理想を、ついに一度も曲げることは無かった。いつもカッとなったりして、やり方は上手くなかったかも知れませんが、私は、私が自分に課したテストを、そうやって潜り抜けて来ることが出来たのです。そして、今がある。

 

ですから、同じように、純粋さを希求する人たちに言ってあげたい。その道のりはたいそう辛いだろう、困難なことだろう。時には、誠実さを仇で返されたり、正直さを誤解されたり、純粋さを罵倒されたりすることもあるだろう。でも、くじけちゃいけないよ。そんな時には、誠実さを今の二倍にしなさい。正直さを五倍にしなさい。純粋さを十倍にしなさい。

 

理解されない時こそ、もっともっと励みなさい。そのようなあなたを受け止めてくれる人は、必ずいる。ほら、ここにだって。友よ、あなたに言おう。それが光の道なのだよ。それこそが真髄なのだよ。あなたは、どんどん近づいているよ。もう、他人の目を気にしたり、他人の言動に惑わされるのはやめなさい。あなたは、あなたなのだから。

 

先ずはオープンハートであること。そして、素直で、正直で、誠実で、純粋である自分を強くイメージしていつも生きなさい。そのことに揺るぎない確信を持ちなさい。そうすれば、あなたは、やがて無条件の愛の人に変わるから。

劣等意識と才能

アンデルセンの童話に、よく知られた『みにくいアヒルの子』という物語があります。自分と他のヒナたちとは姿形がどうも違う。他の子たちと較べて自分はみにくい。その劣等意識にさいなまれていた一羽が、ある日、湖面に映った成鳥した自分の姿を見て、実は自分が白鳥だったと気づくという物語です。みなさんも、きっと子どもの頃に聞かされたことがあるでしょう。

 

けれども、この教訓話は、私にはどうしても好きになれないのです。物語の核心は、自分を醜いと思い込んでいた子が、実はそうではなかったことに気づくというものです。しかしその結末は、自分が、アヒルよりももっと美しい白鳥だったというところに救いを見出している。これでは、最初の差別意識の逆転ということでしかありません。この子が、本当にアヒルの子で、アヒルのままだったとしたら、一体どこに救いがあるのでしょうか?

 

「実は、美しい白鳥だった」という結論は、あまり美しいとは言えないと思うのです。結局は、外見の Beauty というところに価値観を置いていますし、たとえ、これが内面を表した寓話だったとしても、ある日、降って湧いたように、自分の内面に「美しさ」を見出すということが、果たして人間に出来るのかどうか。アンデルセンのこの物語には、イジメられ、蔑まれて来たことへの、見返しの気持ちしか見出せないのです。

 

私は、まどみちおさんの『ぞうさん』という歌が好きです。子象は、周囲から自分の鼻が長いということをからかわれ、「みにくいアヒルの子」と同じように気に病んでいました。それに対する救いは「そうよ、母さんも長いのよ」です。子象は、決してライオンになったりはしません。あなたは象なのよ。象だから鼻が長いの。母さんも象だし、象であることを生きているのよ。そのままのあなたを私は愛しているし、それで充分じゃない。と、この歌は語っています。

 

自然界には、同じ形態のものはただの一つもありません。アサリの殻の模様だって、よく注意して見れば、一個一個がぜんぶ違います。実に驚くべき多様性であり、多様性は無限なのです。ここに、宇宙の神秘の構造が示されている。すなわち、全体は一つ、生命は一つであるのだけれども、生命の「表現」は無限の多様性を持つということです。このように、超シンプルと超複雑が同居する。それが宇宙というものなのです。

 

この多様性のことを「個性」と呼ぶのです。そこに優劣はありません。宇宙には無限の「個性」があるのみです。そして、全部の「個性」が、宇宙では必要だから、そこに存在するのであり、他の「個性」に役立つことで、全体の生命が維持されているのです。ですから、役立たない存在など、宇宙には一つもありません。人間だって同じです。一人ひとり全員が「個性」を持ち、役立つために存在しているのです。

 

ところが、当の人間はそのようには考えません。宇宙の真理、本当の生命の仕組みというものを知らないためです。人間は、何事も、自分たちにとって、あるいは自分個人にとって、有用かどうかという視点でしかものを考えません。あらゆるものを「有用」というふるいに掛けて選別し、レッテル貼りしてしまいます。

 

宇宙というものが、生命というものが、巨大な系(System)で構成されているという点を無視し、そうやって、部分を都合よくイジろうとするから、却って自然界のバランスを破壊してしまうのです。そして、その本当の怖さというものも、現代人は解っていません。自然界というものは、人間自身を育む揺りかごであり、生かしていく土壌であるのに。

 

自家焙煎をしているコーヒー店へ行くと、豆をていねいに選別しています。その作業は、美味しいコーヒーを飲むためには、そうすることが有用だからです。では、撥ねられた豆は全くの無用なのかと言えば、土に返せばまた他の作物を育てる栄養になりますし、基準に合わない種は、次の環境変化を生き残るための新種になる可能性だってあるのです。

 

このように、視点をちょっと変えれば、宇宙には無駄になるものは何もないということが解るでしょう。人間の身体も、90種類以上の元素から出来上がっているということが、今日の科学によって確かめられています。この点で、土をこねて造った人形に、魂を吹き込んだものが人間だ、という認識は間違っていません。宇宙という土壌から生まれたもの、それがまさしく人間なのです。

 

さて問題は、人間が、この「◯◯にとって有用であるかどうか」という視点を、あらゆるものに適用し、あまつさえ、人間自身にも当てはめてしまったことです。これによって、人間が、人間を選別するということを許してしまったのです。この人間は、職場にとって有用かどうか、会社にとって有用かどうか、産業にとって有用かどうか、社会にとって有用かどうか、etc.。

 

この考えを推し進めて行くと、ついには優生学による劣等種の切り捨てというところにまで行ってしまいます。そして過去に、実際にこれが行われました。

 

今日では、この考えは「当たり前」になってしまい、誰も疑問を抱く人がいません。みんな、唯々諾々(いいじゃくじゃく)としてその評価システムを受け入れています。それは、早くも幼児教育から始まって、一生をついて回る。そして、次の世代に丸ごと伝承される。ですから、もう誰も疑問を抱かない。しかしこれが、現代人に特有の苦悩の、元凶となっているのです。

 

あなた方は、あらゆるものにスケールを押し当てます。そして、これを3つに分ける。標準と、それよりも優秀、そして標準以下の劣等とにです。優秀者を賞賛するのはいいのです。しかし、スケールの右側に優秀者を置いたとすると、あなた方は必ずと言っていいほど、左側に劣等者を見出そうとします。見出さずにはおられないとでも言いましょうか。

 

これが、実は、大衆支配の構図を決定しているのです。大衆とは、スケールの標準内に収まっている大多数の人たちです。優秀者の中で、支配的な野望を抱くエリート層は、その地位を継続的に維持するために、大衆に対して、「私のようにすればあなたも上に上がれるかもよ」という憧れの餌を撒く一方で、「標準からもしもこぼれ落ちたら大変なことになるよ」という恐怖を同時に与えます。

 

これがモチベーションとなって、大衆支配が維持され続けているのです。自分たちに憧れを抱かせるということは、そのスケールを認めさせるということですし、こぼれ落ちる恐怖を与えることは、そのシステムにしがみ付かせることによって永続性を保証します。それだけではなく、恐怖は大衆のガス抜きにも使えるのです。努力しても上に行けない不満を、自分よりもさらに下を蔑むことに転化させることができるからです。

 

このようにして、あなた方の世界では、表向きは「差別はいけない」と言いながら、堂々と差別が是認されているのです。政治家の発言を、注意してごらんなさい。つねに、差別すべき敵(Enemy)を探していることが判るでしょう。自分たちに反対する勢力、特定の団体、イデオロギー、宗教、民族、果ては人種や国家にまでその対象が及ぶ。そうやって、大衆の不満を「敵」に横滑りさせては、内側の結束を強めようとするのです。

 

しかし、この「敵」を設定するというトリックを、エリートたちは、大衆支配の道具として解ってやっているわけではないのです。本気で「敵をやっつけなければ」と思っている。つまり、そのスケールに最も強く洗脳されているのは、他ならぬエリートたちだということ。ですから、彼らを目覚めさせるのは非常に難しく、大衆がこの構造に、もういいかげんに気づいて、巻き込まれないようにする、同調しないようにするということが大切になってきます。

 

ここで、みなさんに、これまで説かれたことがなかった、ある知識をお伝えしましょう。これまでにも、このブログでは「障害」というものはないのだと何度も語って来ました。あるのは「個性」だけなのだと。しかし世の中では、「障害」というものを何とかほじくり出しては細分し、そこに様々な名前を付けてレッテル貼りをすることが、まるで流行のようにさえなっています。しかも「支援(Support)」と称して。いったい、それで誰が得をしているのでしょうか?

 

自分がどういう人間であるかを知りたい。そういう思いに駆られる時は誰しもあります。特に病気になったり、弱気になったりした時には。しかし、そこにレッテルを貼られると、一時は「そういうワケだったのか」とそれでホッとするのですが、やがてその人は、そのレッテルを貼られたアイデンティティを無条件に生きるようになり、遂には脱け出すのが困難になってしまうのです。

 

あるのは「個性」だけです。自分のトータルを受け入れて、それを「個性」と思えば、その人は「個性」を生きることになります。ところが、「障害」というレッテルを貼り付ければ、まったく同じ自分を、今度は「障害者」として生きることになるのです。いったいどっちがいいでしょうか?

 

今の社会は、「個性」であることを認めようとはせずに、逆に「障害」の名は、社会的に認知されるのです。あまつさえ、そこに等級まで与えています。でも、よ〜く考えてみてください。それは、「健常」というスケールを、より強調する手段になっていることを。このように、一見、良いことをしているフリをして、差別と恐怖による支配が堂々と行われているのです。

 

さてここからが、これまで説かれていない知識です。標準から、自分がこぼれ落ちるのではないかという恐怖心や、標準外、規格外というレッテル貼りは、その人を深く傷つけます。時には、二度と立ち直れないほどに。それは、人間の身体というものが、その時の心のあり様によって常に再創造されているからです。しかしそのレッテル貼りは、いま言ったように、スケール維持のために創作されているのです。

 

ですから、くれぐれも、そのシステムの犠牲になどならないようにしてください。人間の本質は、身体にあるのでも、心にあるのでもなく、「魂」にあります。「魂」は、深いところではつねに宇宙と繋がっていて、真理を知っています。ですから、自分の「魂」の声に耳を傾けて、「魂」が命じるままに生きていれば、決して犠牲になることはないのです。

 

わたくしの真実の喜びは何か?

そう、自分に尋ねてみてください。そこから返って来るものが答えです。

 

人間が、五感を持ち、感情を抱き、心を動かし、思考をするのは、この物質世界を知覚し、そこでの出来事を体験するためです。それは、この世に誕生した目的、物質的世界でしか味わえない体験をするために、あなたが自ら望んでしたことです。しかし、あなたの本質はあくまで「魂」ですから、依然として、「魂」が知覚する世界のことを、超意識の分野では知っているのです。

 

ただ、脳が発達して成長するに連れて、五感刺激の罠につかまり、五感優位の世界に生きる(つまりは心を中心に生きる)ようになって行くために、本来持っていた六感以上の能力を次第に失って行き、やがては「魂」の世界のことはすっかり忘れてしまうのです。つまり、あの世を知覚する能力と、この世を知覚する能力は、通常はトレードオフ(入れ替わり)の関係になっているのです。

 

ですから、脳の発達がまだ未熟な7歳くらいまでの幼児は、霊界のことをとてもよく覚えていますし、ゴッコ遊び(見えない世界に浸りきる)ということが、実に楽しそうに生き生きと出来るのです。また、死期が近くなった人も、脳の活動が弱まって来ると、入れ替わりに「魂」の感覚を取り戻し、「魂」の世界を生きるようになって行きます。そこで「お迎え」などを見るようになるのです。

 

ところが、人間の知識はこのようなことを知りません。また、ほとんどの人が、物質主義を基盤に置いた唯脳論に染まっているために、脳の発達が不充分であったり、機能が低下したり、失われたりした人に対しては、「病気」とか「障害」とレッテル貼りをして、それでみんな納得しているのです。これは、五感による知覚と脳機能に、ここまでは「標準」というスケールを当てて、そこからこぼれ落ちる状態を、「病気」や「障害」と見なしているのです。

 

しかしそれは、全くの一方的な見方です。脳機能が相対的に弱まった時には、トレードオフ関係によって、「魂」は、逆に第六感以上の知覚を大いに働かせていきます。「アール・ブリュット(生の芸術)」というジャンルがありますが、一般に障害者と言われている人たちが、驚異的なセンスのアートを表現するのは、そのためです。彼らには、実際に、自分が表現している世界が鮮やかに知覚できているのです。

 

反対に、健常者と言われている人の大多数は、五感が知覚する世界のみに落ち込んでいて、またそれを「正常」だと思い込んでいるために、第六感以上の世界を知覚することがなかなかできません。そこで、テクニックとして、通常の脳機能を人為的に低下させることによって、第六感以上の世界を知覚するしかないのです。この人為的なテクニックが、いわゆる「瞑想」なのです。

 

認知症とか、自閉症とか、サヴァン症候群と言われる人たちも同じです。この人たちは、通常の人よりも、脳機能が低下した分だけ「魂」の世界にずっと近づいた「生」を生きているのです。それまで「普通」に生活できていたのに、アクシデントによって五感機能や知覚に異常が生じた際には、さすがに本人も周囲の人もショックを受けることでしょう。それは、スケールの標準からこぼれ落ちた、正常では無くなったのではないか、と考えるためです。

 

しかし人間というものを、もっとトータルな存在として見た場合には、「魂」が主体の生き方への転換、次のステージへのジャンプという意味があるのです。そして、そうなったのには、ちゃんと理由があります。その新しく生じた才能を使って、「魂」の世界のことを、また宇宙の真理というものを、人々に伝えるメッセンジャーとしての役割が、その人に新たに与えられたのです。

 

一般の人は、「スピリチュアル」というと、どうしても超常現象や不思議現象や予言などに興味を抱きがちなのですが、そんなものは出会い頭の交通事故に遭った程度のこと。本当の「スピリチュアル」は、むしろ、数学、科学、芸術分野の中に表現されているのです。なぜなら、真の「スピリチュアル」とは、あの世とこの世の中間領域のことではなく、あの世とこの世を全部包含するものだから。

 

だから、「魂」の世界により近づいた「生」を生きるようになった人たちが、数学、科学、芸術の分野で、驚異的なパフォーマンスを見せるのです。それは真実の宇宙の表現。数学者のジョン・ナッシュさんや、アーティストの草間彌生さんもそうした典型的な一人です。そうやって、みなメッセンジャーとしての仕事を遂行しているのです。人々に、宇宙を、真理を、愛を、気づかせるために。

 

えっ、数学、科学、芸術、どれも苦手だってぇ? あ、そう。

じゃあ、もっと言おうか。この3つは、どれも自然の中に完璧に表現されているのだよ。

 

そこで、みなさんにお願いしたいのは、先ずは、劣等意識の罠にハマらないで欲しいということ。自分を犠牲者にしてはいけないよ。劣等意識の罠は、必ず、憧れと脅しの両端のスケールを携えてやって来るから。その時には、「お、来たな」と思って、引っ掛からないようにするんだよ。あなたは、あなたでいるだけで、すでに素晴らしい人間なんだよ。なぜって、そのように作られのだから。ぞうさんが、ぞうさんであるように。

 

何事も全てパーフェクトにこなせる人間なんて、この世に一人も居ないんだよ。誰にも、得意なことと不得意なことがある。それが「個性」であり、同時に「才能」というものなんだよ。身の周りを見渡してごらん。あなたが、いかに他者の助けを借りて生きているか。まさしく、これが自然界の姿を映したものじゃないか。多様な才能によって、生命の輪廻が営まれているという証拠じゃないか。

 

だから、あなたも、自分の個性を光り輝かせて生きるのだよ。その生き方は、さっき言ったように、自分の「魂」に訊いてみればいい。いいかい、他の人の良いところを賞賛するクセをつけなさい。そして同様に、自分の良いところを誉めてあげるクセを付けなさい。この二つは同じことだから。そうすれば、あなたは、もっともっと喜びの中に生きられるようになるから。

トンネルを脱け出す時

鬱の長い長いトンネルに迷い込んでいた頃のことです。出口を求めて必死になって読んでいた本の中に「いつか必ず、天から一本のロープが下りてくる」という一文を見つけました。そこに私は傍線を引き、何度も読み返しては、心に言い聞かせました。ロープ、ロープ、ロープをちょうだい。お願い、ロープを下ろして、今すぐに。もうそれしか、すがるものがないんだよ。ねえ、助けて!

 

鬱の期間は、結局、5年くらい続きました。もともと痩せた体型なのに体重がさらに5キロも減り、食べ物の味が全くしなくなったのにはびっくりしました。食欲はないし、当然性欲もない。とにかく意欲がない。朝、部屋が明るくなって目覚めると、「ああ、今日もまた生きなくちゃならないのか‥‥」と思い、ガッカリしました。そして夕方、暗くなって来るともうたまらず、お酒を呑んでは早く酩酊したく毎日でした。

 

さて、期待のロープは下りて来たのでしょうか? いいえ、下りて来ませんでした。求めても求めても、下りて来ませんでした。やがて、そんな一文などとうに忘れてしまった頃になって、私は徐々に、鬱々とした気分から解放されている自分を発見しました。そして、今頃になってやっと気づくのです。あの一文との出合いこそが、まさに天からのロープだったのだと。

 

天の計らいはまことに奥深く、通常の人智を超えたものです。ですから、それが示された時には、人は気づかないし、気づけない。でも、一年経ち、二年経ち、五年経ち、十年経ち‥‥した時に、「そうか、あの時のあれは、こういう意味だったのか」と、パッと気づく瞬間が訪れます。そうなった時に、あなたは、ご自分の成長というものを、深く実感できることでしょう。

 

そして、さらに言えば、その全てが、天(神)のご計画のうちにあるのです。そこで、しばしば、「全ては完璧」と言われているのです。

 

と聞いても、おそらくはチンプンカンプンでしょう。何か騙されたような気がするでしょう。私が、ロープが欲しくて欲しくて、悶え苦しんでいた時には、ロープはやって来なかった。けれども、忘れてしまった頃になって、実はそこにロープがあったのだと気づいた。ここに、その魔法の、答えがあります。

 

救いを求めていた時の自分は、「悶え苦しんでいる自分」というアイデンティティに、しっかりと抱きついていて離れなかったのです。自分では、必死になって救いを求めているつもりでした。でもその両手は、自分を抱きしめるためにふさがっていたのです。ですから、ロープなんて掴めなかった。いいえ、そこにロープがあったのに、眼に入らなかったのです。

 

ですから、苦しい自分を抱き続けることを止めた時に、一切を諦めた時に、もうどうでもよいと思った時に、自分と闘うのを止めた時に、全てはなすがまま、あるがままだと思った時に、両手が空いて、まるで電車の吊り革を掴むように、無意識のうちに、その手にロープを持たされていたのです。これが、何度も言ってきた「持ち替える」ということの意味です。

 

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バンジージャンプに挑戦するときのように、全てをお任せする気分で、空中に飛び出してご覧なさい。あなたは落ちない。決して落ちない。それどころか、自由に、イキイキと、あなたは飛行する。全てが、「神のご計画」というセーフティネットの上に載っかっているから。そこから落ちることは絶対にない。あり得ない。もし落ちることがあるとすれば、別の宇宙があるという矛盾だから。

 

他人に話せない「悩み」というものを、あなたは持っていますか? いくつですか? 一つ、二つ、三つ? いや、もっとかな? 鍵のついた箱の中に大事にしまっているのかな? それを解いて、その「悩み」とやらを、思い切って誰かに打ち明けてご覧なさい。他人に言えないようなことが言えるようになった時、それはもう解けているということだから。「持ち替えた」ということだから。

 

何もかも、大したことではない。あの時こうであればという思いも、死ぬほど恥ずかしい体験も、屈辱にじっと耐え忍んだ日々も、冒したことの罪の意識も、全ては Passing。Bashing されたことも Passing。重要なのは、今のあなたの思いだけ。それらの体験は、あなたの「思い」が、どのように変化し、成長していくかを計るための、テーマパークとしてあるだけのことだから。

 

そう聞いても、納得がいかないでしょう。中には怒りだす人もいるかも知れないね。それは、あなたの今の「思い」だから、それでもいい。

 

でも大事なことを言っておくよ。よく「この罪を、一生背負っていく」という人がいるのだけれど、そんな必要はないのだよ。冒したことは冒したこと。それによって、誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりすることがあったとしても、その体験から学び得たものを、次には愛のエネルギーに変えて、周囲に与え歩く自分に変身すればいいのだよ。アングリマーラのように。

 

そんな馬鹿な。それじゃあ、どんな極悪人でも、罪を許されると言うのか。私利私欲のために、市民から富を奪い、傷つけ、嘘をつき、それでもなおのさばっている権力者も、罪を問われないでいいと言うのか。たとえ人を殺しても、罪の意識を持つ必要などなく、平気な顔をして世間を歩いていりゃいいと言うのか。それじゃあ、殺された者の遺族の気持ちはどうなるんだ!

 

「平気な顔をして歩いてりゃいい」とは言っていないよ。「愛の人に変わればいいのだ」と言っているのだよ。そして、それこそが、生きている目的なのだよ。

 

でも、あなた方の社会ではそうしない。罪を冒した者は、罰を受けるべきだと言う。しかし、長年そうやって来て、うまく行ったのかな? 殺人者に死刑を執行することは、罪には当たらないのかな? 市中で人を殺したら殺人鬼で、戦争で人を殺したらヒーローになれるというのは、一体どういう理屈なのかな? 戦争を早く終結させるために、原爆を使用したという理屈は、ありなのかな?

 

あなた方の「罪」と「罰」の考え方は、ご都合主義でしかない。いいかい、宇宙には「罪」も「罰」も無いのだよ。よく考えてごらん。あなた方を創ったのは神なのだよ。あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。そのわたしが、片方で「罪」を冒し、もう片方でそれを「罰」するなんてことがあるだろうか? もしあるとしたら、何のためにそんなことをするんだい?

 

馬鹿げているよ。「罪」と「罰」の考え方は、あなた方が、「感情」というものの落としどころを考えた際の、発明品だよ。あんまりいい発明じゃないがね。それは、神の発想ではなく、人間の発想さ。そしてあなた方は、その発明品を、神が考えたものとして、文字通り、神に「罪」をなすりつけたのだよ。「原罪」という名でね。しかし、そんなものは無い。あるはずがない。

 

いいかい、何度でも言うよ。あなたも、あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。みな愛しいわが子なのだよ。いつも全部を見ているのだよ。愛さない者は、この宇宙に一人もいないのだよ。だから、その根源に気づきなさいと言っているのさ。愛の人に変わりなさい、と言っているのだよ。それが、本来のあなたなのだから。

 

この者(私)も、鬱でどん底にある時に、追い打ちをかけるようにして妻が死に、妻を死なせてしまったのは、自分のせいではないかと、しばらくは「罪」の意識にとらわれていたのだよ。だから、わたしが喝を入れて、怒鳴りつけてやったのさ。「何をグズグズしている!」って。そうやって、ビンタで叩き起こして目覚めさせたんだよ。そうでなければ、わたしの手足として用いることが出来なかったからね。

 

その時は、彼もショックの様子だったがね。でもわたしは、耐えられない試練は与えないのだよ。どんな人にも、決して。彼が耐えられると知っていたから、そうしたのだよ。どうしてかって? そうすることを、あらかじめ決めて来たのは、彼自身だからさ。それでも彼は信じなかった。なかなか自分を信じようとはしなかったよ。つまりそれは、わたしを信じなかったということに他ならない。

 

だから、ここに至るまでに、何年も何年も掛かってしまったよ。何度もメッセージを送っていたのにね。でも最近になって、ようやくちょっとは分かって来たようだがね。わたしが、常に傍にいたということと、自分の役割というものを。あの辛い体験、屈辱に耐えた日々、それらが全部、自分自身による計画だったことが。つまりは、神の計画だったことが。

 

贖罪の気持ちを持ち続けることは、一見、貴いことのように思えて、でもそれは、ある種のエゴなんだよ。なぜかというと、自分が引き受けなくてもよいものを、自分が「引き受けねばならない」と思う独善に陥っているから。いいかい、誰もが、等しく、わが愛する子たちなんだよ。その一人ひとりが、自分の生き方を、自分で選んでいるのだよ。あなたも、あのあなたも、そのあなたも。

 

そこでは、どのように死ぬかということも、その人の生き方なんだよ。あなた方の世界では、死んだら終わりという思想が深く染み付いているので、それが、Re-born だということが理解できない。でも、Re-born しない人は、一人もいないのだよ。誰もが、死ぬことを〈自分で〉選択して、生き直すことを選んでいるのだよ。だから、そこに介入する必要はないし、そもそも介入することなど不可能だ。

 

けれども、人間の世界では、「感情」が支配的だから、そのような無意味なことに、意味を見出そうとして、自分が創造した「思い」をいつまでも抱き続けているのだよ。でもね、その人の死は、その人のものなんだよ。あなたのものじゃない。その人が、Re-born することを選ぶことによって、完結したんだよ。だから、親しい人の死に接した時、あなたがするべきことは別にある。

 

それは、その体験から学んで、新しいあなたを生きることだ。生きながらにして Re-born することなんだよ。全き愛の人に生まれ変わることなんだよ。

 

そして、それは、あなたなら出来る。

 

信じられないって? 信じなくていい。でもね、こうして、あなたは今このメッセージを読んでくれているね。他のコメントにも、熱心に眼を向けてくれていたことを知っているよ。わたしのメッセージに出合い、かつ受け留めてくれる人は極めて少ないのだよ。その少ない出合いが、どうして起きたんだろうね。全ては、計画通りに進んでいるということさ。

 

言葉は、与えられ時には、その意味が解らないものなんだよ。あんまりいい喩えじゃないが、オレオレ詐欺だって、後から、その言葉の真の意味が判るわけだろう? だから、今はメッセージの意味が解らなくても、また暗いトンネルの中にいたとしても、決して希望を失っちゃいけないよ。あなたの努力は、絶対に徒労には終わらないから。

 

天の計画は、あまりに精緻で深遠で、求めていた答えは、あなたが思いもよらない方法でやって来るから。そして、気がついた時には、いつの間にかトンネルを脱け出ていた自分を発見する。そういうものなんだよ。その時になって、あなたはハタと膝を打つ。

 

そうか、あの時の言葉の意味はこれだったのか、と。

世界から戦争が無くならない10の理由

私の母は、生前「あー、恐ろしい、恐ろしい。戦争はもうコリゴリ。戦争だけは絶対にしちゃいけないよ」とよく言っていました。一方の父は、応召されて青春期から壮年期にかけてを軍隊で過ごし、自分の人生というものを戦争によってメチャクチャにされたはずなのに、それでも「国家」というものを信じ続け、復員後は自民党政治を熱心に応援し、反政府的な思想は徹底して毛嫌いしていました。

 

学生運動が頂点に達していた1970年前後、茶の間でテレビを観ていた父が突然「お前もあんなことしているのか?」と私に向かって言い、「もし、学生運動なんかしていたら、俺は、お前と刺し違えて死ぬ!」と身体を震わせながら言ったのです。その眼は本気でした。父が、戦争体験で、また軍隊経験で、刷り込まれたものとはいったい何だったのだろうと思います。

 

私は16歳で家を出てしまったので、その後は父と話す機会もほとんどなく、家とは疎遠でした。父はその後、63歳になって再生不良性貧血という血液の難病に罹り、入院生活を送るようになりました。60歳で年金が貰えたものを、支給開始を65歳にすれば金額が増えるということで、入院中もカツカツの貧乏生活を送っていたのですが、65歳の誕生日を迎えた、ちょうどその日に息を引き取りました。で結局、年金はもらわず仕舞い。ああ、可哀想なオヤジ。

 

どこの国の人であれ、普通の庶民は、ほとんどの人が「平和がいちばん、戦争はイヤだ」と思っているし、口に出しても語ります。そして旅人がぶらりとやって来たら、あたたかくもてなし、具合の悪い人は手当てし、食事を振る舞い、互いの文化を語り合って、和やかに交流するという度量をみな持っています。それなのに、世界から戦争が無くなることはありません。いったい、これはどうしてなのでしょうか。

 

そこに、前回書いた、男性性と女性性の問題があるのです。国家指導者がする発言が、庶民感覚とは真反対で、いつも敵意むき出しであることに着目してください。世の中が、もしも女性性をベースにして動いていれば、戦争は決して起きません。戦争はイヤだ。それでもうおしまいなのです。ところが、男性性は、こうした単純さを素直に認めません。単純であることは、バカだと思っているのです。女子供は黙っていろ!といった感じです。

 

会津家訓十五箇条』の中に、こんな一節があります。

一、婦人女子の言、一切聞くべからず。

 

と、まあこんな調子。そこで男性性は、物事をいつも複雑化し、様々な人が、様々な屁理屈を拵えては、そのセルクルの中に納まって、他のセルクルの中にいる人たちを、バカだのチョンだのと言ってはやっつけようとするのです。いったいどちらが「愚か」なのでしょうか? 「宇宙の真理」は、シンプルそのものです。全部が一つ、一つが全部。ただ、これだけ。男性性は、それを知りません。

 

米国の大統領が、新たな核戦術および核兵器の近代化プランを発表すると、日本の外相は、直ちにこれを「高く評価する」と発言しました。Hiroshima、Nagasaki の地名は、今や世界中の人々が知っています。核の脅威というものが、過去に、その地で具体的に示されたから。それなのに、世界122の国と地域が参加した「核兵器禁止条約」の採択に、日本は加わっていません。唯一の被爆国である日本が、今や「核平気」に賛成の立場です。

 

その理由は、屁理屈があるからです。〈あんな悲惨な出来事は、人類のうえにあっちゃならない。もう二度とゴメンだ。世界から全部「核」を無くそうよ!〉という訳にはいかない。国際政治はそんな単純なものではないと、男性性は言う。そこで、核の傘とか、核による戦争抑止力とか、集団的自衛権とか、専守防衛とか、防衛のための先制攻撃とか、いろんな屁理屈を考え出す。

 

この屁理屈が、インナーサークル(セルクルの内側にいる人たち)の政治家や、政治評論家によって繰り返し語られ、メディアがそればっかりを流すものだから、世間の人々は、いつの間にか「偉い人が言っていることだしなぁ、そんなものかなぁ」と思わされてしまう。そして、「人類、みなアミーゴだぜ」という、本来、人間だれしもが持っていたシンプルな庶民感覚を忘れてしまうのです。

 

この取り違えが、人類全体を今や厚い雲のように覆い尽くしている。しかし、屁理屈に屁理屈を重ねてみても、所詮それは屁理屈でしかないのです。北朝鮮が核兵器開発をやめないのはけしからんと言う。じゃあ現核保有国はどうなんだと。あなた方は「けしからん」くはないのかと。イスラエルだって秘密裏に核保有したじゃないか。北朝鮮が核兵器開発をやめない現実こそ、あなた方が言う「核による戦争抑止」という「幻想」が機能していない、正に証拠ではないのか。

 

結局、「幻想」をいかに信じ込ませるかということが、今の世界を、そして今までの世界を、統治する仕組みになっているのです。その「幻想」が今、崩れつつあります。逆に言えば、永きにわたる「幻想」から、人類がやっと目覚めつつある。今こそチャンスです! でもこの「幻想」は、まるでお風呂場の目地に巣食うカビのように、深く、多段階に根を生やしていて、ちょっと擦った程度では取れないのです。

 

なぜ、世界から戦争が無くならないのか? 一般庶民は、みんな「戦争なんてイヤだ。人類はみんなアミーゴだ」ということを知っています。多くの歴史書やドキュメンタリー映画が、また語り部たちが、戦争の悲惨さと、なぜ戦争が起きたのかという理由を伝えています。また多くの作家や歌手や芸術家が、戦争がもたらす悲劇と、それとは対極にある生命への讃歌をうたい続けて来ました。

 

それでも戦争は無くならない。無くならなかった。それは、部分部分の活動では、「幻想」を生み出している、この多段階の「構造」にまでは切り込めなかったから。そう、これは正に「構造」的な問題なのです。「構造」が隠れ蓑となって、個別に起きる悲劇を、みんなその「構造」の間に溶かし込んでしまう。だから人類は、何度悲劇を体験しようとも、何度反省しようとも、同じことを繰り返すのです。

 

そこで、人類が目覚めるためには、この「幻想」の「構造」を大多数が認識するか、あるいは、シンプルに女性性に帰るかしかないのです。

次に示した構造に、太平洋戦争でも、ヴェトナム戦争でも、テロとの戦いでも、何でも当て嵌めてみてください。これは全てに共通して言えることです。

 

◉世界から戦争が無くならない10の構造的理由

  1. 世界を、融和ではなく、支配によって統一すべきと考え、実際に世界をコントロールしている、隠れた存在がいること
  2. 表には出ないその存在の、代理人となって君臨する、各支配分野における世界の覇者がいること
  3. 各覇者の庇護の下で、分離主義の価値観によって教育された、エリート集団がいること
  4. エリート集団によって担ぎ挙げられ、実は操られているとも知らずに、その気になっている政治指導者がいること
  5. その政治にすり寄って、自分もおこぼれに預かりたいという、私利私欲が第一という人間がいること
  6. 2〜5が創り出している価値観を、当然のように考えて宣伝し、大衆を洗脳していくマスコミがあること
  7. 2〜6までを当然のこととして、また処世術として、小さい頃から教え込んでいく教育があること
  8. 2〜7が創り出す構造によって、分離主義に心強く惹かれ、これを積極的に発信する、一部の声の大きい人がいること
  9. その声に「NO!」と言えずに、組織の論理に埋没し、背景をよく理解しないまま、巻き込まれていく大衆がいること
  10. その結果、苦しみ、悲惨な目に遭っている人々がいても、我よしで片づけ素通りしてしまうこと

 

この10項目が、ピラミッドのような構造をガッチリと保っているために、いくら芸術や、ジャーナリズムや、ドキュメンタリー映画などで個別の階層を突いてみても、一向に世界から戦争が無くならないのです。壁にヒビを入れるくらいは出来たとしても、ピラミッド構造はビクともしないし、壁もすぐに元どおりに修復されてしまうのです。

 

人が一度戦争を経験すると、9.10.の階層の中では反省が起こり、改心する人々も出て来ます。しかし1〜8.までの階層の人々は、ほぼ全員が、自己正当化を行って、うまく責任逃れをしてしまいます。その一方で、9.10.の階層の一部にはトラウマを抱える人々が出てきて、これと、決して反省しない1〜8.までの階層の人々の意識が集まって、また次の戦争を引き起こしていくのです。

 

さらに言えば、これは「戦争」だけではなく、「金融」についても、「資源」についても、また「宗教」についても言える。つまり、全部が同じ構造を持っていて、要するに元は一緒だということです。このようにして、大衆洗脳が深く出来上がっているのです。ところが、各階層にいる人々は、その階層内に埋没しているために、全体構造を全くと言っていいほど知りません。こうして書いても、多くの人はたぶんピンと来ないことでしょう。

 

さてこの10項目の、最初と最後に注目してください。1番めと10番めです。この2つは、何か毛色が違っていることにお気づきでしょう。これは互いに出発点と終点になっていて、1番めはこのピラミッドの構造的要因の出発点となっていて、10番めは心理的要因の出発点になっているのです。そして2〜8.は、この二つの間でグラデーションのように変化して行きます。

 

このことからお気づきでしょう。この壮大なシステムは、あまりにも巨大すぎて、一見、崩すのが不可能のようにも思えます。ですが、1番めが変われば全部が玉突き的に変わりますし、逆に10番めが変わっても、全部がほどなく変わることになるのです。そして1番めも10番めも、実は同じ根っこにあるものを、片方は構造的に、もう片方は心理的に見ただけのことなのです。

 

それは、何度も言って来たように、みなさんが存在したことの根源的理由、すなわち「分離」と「合一」という二律背反から生じているのです。

 

みなさんの「魂」は、全体であったものから、本人の希望によって「分離」し、個別化するという形態を採りました。それは、全体の中にずっといたのでは、全体を知ることが出来ないためです。そこで、敢えて全体から別れ、個別化した「魂」となりました。そうすることによって、「合一」を再び経験し、全体の意味を知る(つまり、私は誰で、どこから来たのかを知る)道を選んだのです。この道が、道教でいうところの「道(タオ)」です。

 

その結果、みなさんの心情の中には、全体から離れたことによる「自由」と「不安」とが同居するようになったのです。一人になって「よーし、いろんなことを経験してやるぞォ」という気持ちと、「ひとりぼっちじゃ寂しいなぁ、理解者が欲しいなぁ、誰かと一緒になりたいなぁ、故郷に帰りたいなぁ」という気持ちが、信号機のように明滅し、両者の間で揺れ動くようになったのです。

 

1番めに書いた存在は、今日、「闇の勢力」とか「Silent Group」とかと呼ばれていますが、彼らも、やはり One World の「合一」を目指しているという点では、他の「魂」と違いがないのです。ただその目指し方が、ちょっと歪んでしまったのですね。強烈な「分離」意識の下敷きのもとに、他の人々を「支配」するという形で One World を目指したのです。

 

一方、10番めにある、虐げられている人々に対する「同情心」といったものを、もしも地球人類の全てが持てば、戦争が無くなるどころか、地上の天国が直ちに出現します。誰も、他者をやっつけようとは、もはや思わないからです。他者から傷つけられた時の、その悲しみ、苦しさ、惨めさ。切なさが、本当に自分のこととして解るので、もうそんなことは出来なくなってしまうのです。

 

ここに至って、他者を愛することは自分を愛することと同じ、自分を愛することは他者を愛することと同じだということに気づけるのです。そして他者を許し、自分も許すということの本当の意味が、その真髄が、自分の身体の中に入って来る。その時、あなたは愛の人になる。そして、愛の人が、一人、二人、十二人、百四十四人となり、千四百四十人になっていけば、世界は一変します。

 

先に、人類が目覚めるためには、二つのアプローチがあり、「幻想」の「構造」を知るか、「女性性に帰る」かどちらかだと書いたのは、以上の意味です。「幻想」の「構造」を知るとは、1番めからのアプローチであり、「女性性に帰る」とは、10番めからのアプローチなのです。そして、どちらのアプローチをとっても、「分離」はまやかしであるということに、人類が気づいて行くことになるのです。

 

さて、この『気づきの啓示板』を熱心に読んで下さっている方に、さらにその先をお伝えしましょう。賢明なあなたなら、きっと解ってくれる筈です。確かに、今の世界はひどい。メチャクチャです。でもそれは、2〜9までの階層に、人々が巻き込まれて埋没しているためです。自分が、まさか操られ、眠りの世界に生きているとは気づかない。気づけない。だから釈迦は、「無智が何より最悪なことなんだよ」と言ったのです。

 

ですから、そのような状態にある人々に、どうか敵意を向けないでください。

あなたという「魂」のためにも。

 

1〜5.の階層にいる人々は、今世で、多少の優越感やお金を手にすることが出来るでしょう。でも、本当のハッピーを知るすべを知らないんですよ。宇宙を、生命を、愛の真髄を、なにも知らないまま、「分離」意識の洗脳の殻の中に閉じこもって、ただ夢遊病者のように歩いている「魂」なのです。彼らの「言葉」に耳を傾けるのではなく、態度をボーっと観察してみてください。低い波動に取り憑かれていることが分かりますから。

 

階段を上るのはシンドイです。でも降りる方は楽です。それと同じで、微妙で繊細な高い波動をキャッチできる人は少ないです。でも低い波動に合わせて行くことは簡単です。自分の中に眠る「分離」意識に火を点ければいいだけのことですから。そのようにして、彼らは自分に注目を集め、その刺激に集まる人々の、落差から生じるエネルギーを食べているのです。果たして、このような飢餓状態にある「魂」に安らぎがあると思いますか?

 

ですから、憐れみをもって、その人の奥にある「魂」を見てください。彼らは、そういう役割を演じることで、他の人々に、本当のハッピーとは何かを気づかせようとしてくれています。そこを汲み取りましょう。

 

先ずあなたが、「そうか、本当のハッピーは、今ここにある自分で充分だったんだ」と気がついて、そのことを噛み締めてください。そして、未だ気づかずに、低い波動に埋没している「魂」に対しては、愛の波動を送ってあげてください。これは、あなたのためでもあるし、またその人のためでもあります。もう気がついたでしょう? あなたはわたしで、その人もわたしなのですよ。

 

さあ、一緒に行動しましょう。あなたが、愛の波動を送り出せば、世界は、愛の世界に変わるのです。

 

*1440人:12×12×10のこの数字は象徴的な意味合いであり、実際には、総人口の4〜7%が目覚めれば、人類は一気に変わります。ちなみに12は総量を示す神秘数で(1年の構成月や、時計の文字盤、1オクターブの鍵盤等に見られる)、10はべき乗(累乗)を意味しています。12人の覚者が、12人の弟子を目覚めさせる。そうしたことが、10倍、100倍、1000倍と拡大すれば、一気に変わるという意味です。また、このべき乗(累乗)というのは、宇宙が、極大にも極小にも広がっていることを数学的に表しているもので、まさしく、ヘルメスが語ったところの真理なのです。

男性性と女性性 ―― 内なる女性性が未来を開く

原始、女性は太陽であった。明治44年9月に創刊された雑誌『青鞜』の発刊の辞の冒頭で、平塚らいてうはそう記しました。これは、〈本来そうであった筈なのに、今は日影の身に置かれている〉ということを嘆いたもので、このあと文章は「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」と続きます。

 

陰陽二元を考えた場合には、一般的に男性が陽極、女性が陰極側に置かれるのですが、男性性と女性性というものを比較してみると、らいてうの言う通り、確かに女性の方が「太陽」のような感じがします。それは産む、生み出すというところから来ているようで、海や大地も、女性性で喩えられることが多い。何か温かな、ふんわりと包みこむような要素を、女性性というものが持っているからでしょう。ちなみに「子産む生む」が「commune」の原点だという説もある。

 

これからの社会変革は間違いなく、この女性性が鍵を握っています。それは、らいてうが生きた時代のような、女性解放運動的な意味合いではなくて、もっと根元的な、人間本来の生き方に還るという意味において重要になって来ます。さらに言えば、これまでの社会にあった男性性の悪い面は、これからどんどん捨てて行く。そのような変革無くして、人類の明るい未来はないでしょう。

 

男性性が支配する社会、それは虚飾であり、遊戯(ゲーム)であり、勝ち負けにこだわる社会でした。こんなものは本来不必要でした。それなのに、そこにずっとしがみ付いて来たことが、人類を永らく不幸のどん底に落とし込んで来た元凶でもあるのです。ですから、先ずはその構造に気づくということが、いま崖っぷちにある地球人類全体を救うことにつながって行くのです。

 

ここで、男性性と女性性が、男性と女性を指しているわけではないことを強調しておきます。男性にも女性性はあるし、女性にも男性性はあります。中には、性同一性障害と呼ばれている人たちだっている。しかし、声を大にして言いますが、それは障害ではありません。「魂」は輪廻転生していますから、今のドレスに違和感を持つ人が出ることは当然です。それは、障害ではなく、個性であり、表現であり、才能であり、恵みです。

 

女性政治家というと、今までは男性に伍してというか、自分の中の男性性を発揮することで、政界への進出を果たして来ました。逆に言えば、男性性を発揮できる人のみが政界に入れたのです。演説の口調、態度、全部が男性のモノマネです。弱みを見せてはいけない、勝たなければいけない、敵をやっつけなければいけないと思い込んでいる。でもそんな時代は、決定的に古いということです。もう終わりです。

 

これからは、女性性を持つ女性政治家、女性性を持つ男性政治家が多く登場することになるでしょう。そうであってこそ、人類に明るい未来が開けて行くのです。女性の社会進出ということも、既存の男性社会のルールの中に、女性がビシッとスーツを着て出て行くというのではなくて、社会全体に、インクが滲むようにして「女性性」が浸透して行く、という意味に変わって行くことでしょう。

 

男性性と女性性との決定的な違いは、ものの見方、つまり視点です。これまで、視点がその人の認識を創り、認識が行動を生み、行動が体験になると繰り返し言って来ました。そのことを思い起こしていただければ、この「視点の違い」というものが、その後の行動までを全部支配していることが解って頂けると思います。いわゆる男女間のスレ違いは、その殆どが、ここに理由があるのです。

 

女性というのは、すぐ目の前にあるものを見ようとします。そして、目の前の対象物の中の、自分が共感できる部分にパッとアクセスして行くのです。ですから、初対面の人とでもすぐに打ち解けられるし、仲よくできるのです。(バーゲン品にスッと目が行くというのもその顕れの一つ)女性のコミュニケーションというのは、まるでレース編みを広げて行くように、糸で繋がりながら周囲に拡大して行くのです。

 

これは優れた特質ですが、目の前ばかりに集中し過ぎて、周囲が見えないという面もあります。スーパーに行くと、少しでも良い品を探そうと、取っ替え引っ替え、下から野菜をひっくり返し、売り場をメチャクチャにして去って行く人をよく見かけます。また、共感でつながるのはよいのですが、そこにちょっとでもズレを感じるようになると、仲間うちの噂話で、特定の人を口撃しようとしたがります。

 

一方、男性の視点には、目の前のものの細部がよく見えていません。男性の場合、そこに関心はないのです。男性は細部よりも、鳥の視点で、先ず全体を俯瞰して眺めようとします。そうやって安全性を確かめた上でないと、自分の降りる場所を決められないのです。用心深いというか臆病というか。そのため、初対面の人とすぐに打ち解けるということは苦手です。打ち解けるまでには何度も会って、相手の「力量を量る」ということをするのです。

 

けれども、この「力量を量る」というプロセスを、一瞬にして省いてしまう便利な仕組みが、男性社会にはあるのです。それが「肩書き」です。男性同士の出会いでは、とにもかくにも名刺交換が先。男性にとっては、自分がどういうところの所属で、どんなポジションであるかが、その人のアイデンティティを決めるのです。ですから、定年でリタイアした後も、何らかの肩書きがついた名刺を欲しがる人が大勢います。

 

男性のコミュニケーションというのは、まるでドーナツ生地を、セルクル(仏:お菓子作りで使う輪っか、英語のサークル)で型抜きして行くようなものです。円形にも大小があり、その他にも星型やハート型や六角形や動植物をかたどったものまである。男性は、自分がこの中のどのサークルに属するかということが大問題で、サークルの中では生き生きとしているものの、その外に対してはあまり心を開こうとはしません。

 

男性性優位の社会とは、このような感覚や態度が、当たり前となり定着した社会なのです。さて、どうでしょう? 現代の女性から見たら、実にアホらしい仕組みだとは思いませんか? 結局、男性性優位の社会というのは、種つけと、重い物を持ったり兵隊員になったりする以外には、あまり使い道のない男性が、それを悟られないようにと編み出した、虚飾の仕組みだと言えなくもありません。

 

さて問題は、この虚飾の化けの皮が、剥がれ始めて来ていることです。いや、もう既に随分と剥がれ落ちている。けれども、それを認めたくない、これまでと同じでありたいと願う人たちが、必死に延命策を弄しているというのが、今という時代状況なのではないでしょうか。そして、その過中で起きている混乱を、みなさんがただ今目撃しているのです。

 

そうでなければ、まるで幼稚園児かと思うような国会での稚拙なやり取りや、バレバレの嘘を平気でつき続けたり、税金泥棒を政府の要職に付けたり、盗んだ大金をお友達に融通したり、犯罪を犯しても友達なら逮捕せず邪魔者を長期間拘留したり、国民の多くが貧困に陥っていても「いざなぎ景気を超える」と言い張ったりなど、とても出来る訳がありません。

 

もう、何もかもがタガが外れていて、呆れるしかないのに、マスコミはそのことをちっとも報道しようとしません。マスコミもまた、崩壊が差し迫った利権構造の延命に、必死になって食らいついているといった状況なのでしょう。しかし、いくらそのような延命策を試みたとしても、最後の最後は、花火のように弾け飛びます。宇宙の摂理から言って必ずそうなります。

 

考えてみれば、男性性とは哀れなものです。現実を〈生き抜く〉という力が乏しいのです。目の前が見えませんから、今ここ(be here now)、この瞬間を生きるという力がそもそも弱い。そこで、入れ替わりに、大志とか、野望とか、ロマンといった非現実的なことを言い出してはこれに執着するのです。坂本龍馬や三国志にワクワクするのも男性。ゲームや博打に夢中になったり、コレクターになるのは、殆どが男性です。

 

女性から見れば「えっ、何でそんなことに?」と、きっと不思議に思うでしょうねぇ。

 

また、男性には「かしずく美学」というものがあって、サークルの内側では、その主君のために馬車馬のように働くのです。そうすることで、上の人たちから、頭を「いい子、いい子」して貰いたいという欲求があるのです。これが度を超して、忠誠を尽くすまで行ってしまう。そうなると、サークルの外側がどうなろうが、人としてそれはどうか、などはもうどうでもよくなってしまうのです。

 

実に、これが恐ろしいのです。小はちょっとした出来心による汚職に始まり、大は世界大戦や、ホロコースト(大虐殺)を引き起こすところまで、男性性というものはエスカレートしてしまう。ところが、サークルの内側にいる人たちにとっては、そうすることに対して、その瞬間においては少しも疑問はないのです。むしろ、信念に支えられて、嬉々としてそれをこなして行く。

 

アイヒマン裁判というのがあって、第二次世界大戦後の1961年、アウシュヴィッツ最後の収容所所長だったアドルフ・オットー・アイヒマンが、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを、イスラエルの諜報機関に捕まり、イスラエルで裁判にかけられた。これをドイツ出身で、当時アメリカに亡命していたユダヤ人の思想家、ハンナ・アーレントが傍聴して『The New Yorker』誌に記事を書いたのです。

 

しかしこの傍聴記は、轟々たる非難を巻き起こしました。ハンナ・アーレントが、アイヒマンを擁護したというのです。しかしアーレントは、分かり易い「憎しみの構図」を超えて、「一体なぜこんなことが起きたのか?」を追究しようとしました。その結果、アイヒマンは、ただの凡庸な役人に過ぎず、職務に忠実に従っただけだったと書いたのです。これは結果的にアイヒマンが主張するものと同じでした。

 

アーレントは、ホロコーストを引き起こしたものの原因には、自己の本質(人間としてのあり方)を忘れてしまった「忠誠心」がある(つまり誰にでも、それは起こりうること)と見抜いたのですが、世間はそれでは納得しませんでした。「目には目を」という分かり易さを求めて、アイヒマンは絞首刑にされました。日本では、インパール作戦を率いた牟田口廉也中将が、戦後にやはり、同様の自己弁護を行っています。

 

男性性というものは、先ずは「枠組み」ありきです。この「枠組み」発想というものから、男性はどうしても逃れられません。それは一見、大局的に物事を見ているようでいて、「枠組み」の中にいちどハマってしまうと、周囲が全く見えなくなってしまうのです。そしてこの周囲の見えなさは、「人として」という最低限の垣根さえも、容易に破壊してしまうほどの恐ろしさを秘めているのです。

 

ですから男性は、環境変化というものに非常に弱い。周囲の環境に慣れるのにも女性よりはずっと時間が掛かるのですが、いったん慣れると、今度は過適応を起こして、そこからハミ出すのを怖がるようになるのです。(男性が、「行きつけの呑み屋」が好きなのはそのため。)そういう弱さを内心よく解っているので、頭のいい人ほど、それを悟られまいとして威張り散らし、真っ先に保身に走ろうとするのです。

 

これに対して、女性性というものは、目の前にあるものにすぐに適応してしまいます。そして、まるでレース編みのようにしてコミュニケーションを広げて行く。それは、いわゆる地図が読めないということ、空間把握する力という点では男性よりも弱いかもしれませんが、現実を確かに〈生き抜く〉という、男性性にはない力強さを持っているのです。

 

そしてこの〈生き抜く〉力に、人間としての理想、子育てに対する理想、食に関しての理想、自然環境に対する理想、働き方に関しての理想等々が加われば、これまでの、虚飾に満ち満ちた、男性性優位の社会を変えられると思うのです。「枠組み」発想にいつまでも縛られた、今の男性性優位の社会に、もう従う必要などはないのではないでしょうか。それでは人類の幸福はない、という結論はもう出ていると思うのですが。

 

原始、女性は太陽であった。まさにその言葉のように、ご自分の中の輝きを、周囲にこれから注いで行って欲しいのです。そうすれば、社会は変わります。男性性に敵対するのではなく、その中に埋没している人を哀れんで、太陽の輝きによって、重い(思い)コートを脱がしてあげてください。今世、女性であった人も、来世には男性に生まれるかも知れませんよ。その時には、今よりも、もっと進歩している男性であるように。

 

いつまでも同じことを繰り返している歴史(he-story)は、ここらで終わりにしましょう。女性も、男性も、これからは内なる女性性を意識して、それを大いに誉めてあげて、行動して行きましょう。枠組みや常識などにとらわれず、あなたの理想に向かって突き進んでください。そして、今ここ(be here now)、この瞬間を、元気よく生きてください。

 

そんなあなたを、わたしはいつも見守っています。

自分と「闘う」のを止めれば楽になる

なぜこのような目に遭うのだろう。どうして思うようにいかないのだろう。

深い苦悩に、今まさに落ち込んでいる人たちに、言ってあげたいです。

自分と「闘う」のを止めれば、楽になるよと。

えっ、闘う? 自分と?

そう言われても、何のことやら解らないでしょう。

そう、まさにその解らなさ、見えなさこそが、苦悩の正体なのです。

 

苦悩の種は尽きません。子どものこと、親のこと、夫婦のこと。職場における人間関係。愛する人への思い。学業成績。仕事の進み具合とその評価。お金の無いこと、借金があること。容姿や体型コンプレックス。体調不良に病気。将来不安や鬱、独りぼっち感。突如身に降り掛かった事故や災難。生きるということは、まこと、苦悩の種と同居し続けているようなものです。

 

でもそれは、「種」なのですよ。全部が「苦悩」に育つわけじゃない。水を与えなければ、「種」は育たない。同じ「種」に遭遇したとしても、立派に「苦悩」に育て上げる人もいれば、ほったらかしにして枯らしてしまう人もいるのです。よく、「次から次へと苦悩が自分を襲う」と仰る方がおられるのですが、その人は、ほったらかしになど出来ない性分なのですね。

 

生きるということは、日々体験をするということです。ですから、体験を怖がっていては「よく生きる」ことは出来ません。そして体験をする以上、予期せぬ事件、事故、災難が起きるということは、もう当たり前なのです。問題は、あなた方人間が、体験の内容を「善いこと、悪いこと」に線引きし、区別してしまうこと。この善悪の区別が、あなた方に偏った視点を与えてしまうのです。

 

例えば、赤ちゃんが生まれれば、人は「おめでとう」と言い、誰かが亡くなれば、みんなが「ご愁傷さま」と言いますね。それがもう当たり前になっている。でもこの区別は、あなた方に極端に偏った視点を与えています。スパゲティ状態になろうが何であろうが、延命させることが善いことで、死んだら人間はもう終わりなんだと。それが「生命」とは何かを、却って解らなくしています。

 

こうした視点は、現代人に共通の認識を育て上げ、「死」はただ忌むべきものであり、できるだけ遠ざけるものであり、なるたけ直視しないようにする、と多くの人が思うようになっています。ですから、親族の誰かが大病を患って入院をすると、多くの人が躊躇なくこう言っています。「先生に、全部お任せします!」 それは、いったい何をお任せするというのでしょうか?

 

一方、こういうこともあります。この例は前にも挙げましたが、朝起きて窓を開けたら雨降りだったと。それまでは晴天が続いていたのに、今日の遠足を心待ちにしていた人にとっては、それはひどくガッカリする出来事です。でも、ずっと雨が降らずに困っていた農家にとっては、それはまさに恵みの雨です。つまり同じ出来事でも、「視点」が変われば、「認識」も変わってしまうということです。

 

さて、いま挙げた二つの例にはどういう違いがあるのでしょう? それは、善悪に対する固着化の度合いが、だいぶ違うということです。生を尊び死を忌み嫌う。この固着化は、かなり強く今の人類に共通して起きています(古代はそうでもなかったのですが)。しかし晴れが善くて雨振りが悪い、という固着化の程度は、それよりもずっとゆるいです。このことから、何かが見えて来ませんか?

 

一つは、この前でも述べたように、「認識」は「視点」の持ち方によって変わるのであり、それは変えられるということです。生死の概念も、人類に普遍的なことのように思われるかもしれませんが、あの世を知っている者からすれば、実は真逆です。この世で言う死は「お帰りなさい。お疲れさまぁ」という祝福ですし、誕生は「ご愁傷さま」とまでは言わないにしても、「自分で決めたことなんだから、しっかり頑張ってね。では、行ってらっしゃい」という感じです。

 

二つめに、善悪に関する固着化した概念を、より多く持てば持つほど、また強く持てば持つほど、それは、その人の自由度を失わせ、苦しくさせるということです。ところが人間社会では、この「宇宙の常識」が通じないどころか、善悪概念の固着化を推奨し、あまつさえ賞賛する風潮すらあるのです。それが、信念であり、正義であり、倫理であり、道徳であり、法律です。

 

そして、それらから逸脱することは、誤りであり、罪であり、責められるべきものであり、罰せられるべきものであるという、これまた固着化した概念を、ほぼ共通のものとして創り上げているのです。これが、あなた方の中に「苦悩」というものを育てる、肥料たっぷりの土壌となっているのです。ですから、賢人たちは、古代よりみな共通のことを語って来たのです。それら一切を手放しなさいと。

 

これが人間には解らない。手放すということが、一体どういうことなのかが解らない。もし手放してしまったら、糸の切れた風船のようになるのではないかという恐怖心が顔をもたげる。その結果、ますます信念を強く抱きしめようとして、多くの人が、再び自分と「闘う」道に帰って行く‥‥。ああ、もったいない。せっかくのチャンスだったのに。

 

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よいかな、あなたが闘っている相手は自分自身なのだよ。そんなものは、本来、全く不必要なものなのだよ。

 

生きている以上、あなたは、様々な事件や事故や災難に直面する。その中には、「まさか!」と目を疑うようなものもあれば、あなたにとってネガティブな要素が多々含まれていることもよく解っている。そして時々「神も仏もあるもんか!」と悪態をついていることも知っている。それらが起きた瞬間、あなたは動揺し、何らかの感情を抱く。衝撃、落胆、悲嘆、憤怒、苛立ち、etc.。

 

これらは、起きた出来事の反作用で、感情の自然の発露だから、抑えようとしてはいけない。むしろ、存分に味わうのだよ。でもその感情も、早くて3時間、遅くとも3日のうちには減衰して行く。問題はその後だ。あなたは、たった今、自分の感情を大きく揺さぶった出来事に対して「解釈」を開始する。この時、スイッチが切り替わるのだよ。

 

自分が「解釈」を開始したことはすぐに判る。「感情」が「言葉」に置き換わるから。今のこの出来事は何を示しているのだろう? 警告なのか、それとも何かの学びなのか? この後、どっちへ進めばいいのだろうか? あの人は、どんな真意でそれを言ったのか? 相手は私をどう思っただろう? 私は誰かを傷つけなかっただろうか? 等々、人は次々に「言葉」を紡ぎ出して行く。

 

よいかな、そうして紡ぎ出した「言葉」は、全部あなたの「思い」なのだよ。それはもう、最初の事件とは関係がない。あなたが、新たに創出したエネルギーパターンなのだよ。最初の事件は、そのエネルギーパターンを生み出すための、ただの触媒として機能しただけ。あなたがする「体験」の、きっかけを与えたトリガー(引き金)に過ぎないのだよ。

 

解ったかな? これが「感情の二次災害」と呼んでいるもので、その災害は、あなたが創り出したものなのだよ。そして創り上げた瞬間から、あなたの内部でこれとの闘いが始まる。だから、そんなものは不必要だと言っているわけさ。ところが、この切り替えが起きたことが判らずに、自分が創造した「思い」を、いつまでも事件と関連づけて記憶してしまうものだから、ずっと苦しみがとれないのだよ。

 

ここで、もっと衝撃的な話をしてあげよう。その事件そのものも、実はあなたが創造したものなのだよ。あなたの「アジェンダ(課題)」に従って。と聞いても、おそらく納得がいかないだろう。そんな馬鹿なことがあるかと、中には怒りを覚える人もいるだろう。今は解らなくてもいい。だが、それが宇宙の常識なのだよ。

 

さて、「事件」が起こり、あなたは先ず「感情」を動かし、次いで「解釈」を始める。この一連の流れが、実はこれまで「体験」と呼んで来たものなのだ。最初の「感情」は、「事件」に対する純粋な反応。でも次の「解釈」に移った時、あなたは、自分というものの生き方を、新たに創造し始める。そしてこれが、中間世(あの世)に居た時に、自ら設定し、誕生して来た「アジェンダ(課題)」なのだよ。

 

どうかね、凄いだろう。一連の流れには全く無駄がなく、だからよく、総てが「完璧」と言われるのだよ。あなたは、自分の身の上に起こる総てのことを、実は自分で創造しているのさ。その創造の方向性については、完全な自由裁量権が与えられている。あなたが自分で意図せずに起こることは、実は何もないのだよ。よって、自分が創り出した状態の「犠牲者」になることなど、あり得ない!

 

これが解れば、出来事に対する身の処し方がみんな変わって来るだろうね。あなたは、身の上に起きた出来事に、先ず感情を揺さぶられる。それを充分に味わい尽くした後に、事件のありのままを静かに受け止める。そして、これを忘れる。これがコツだ。ネガティブな「解釈」などには決して進まない。そんなことをしても全く益がないと知りなさい。自分と「闘う」ことになるだけだから。

 

繰り返し言うよ。あなたの「視点」が、あなたの「認識(解釈)」を生み、あなたの「認識」があなたの「行動」生み、あなたの「行動」があなたの「体験」となり、「体験」の軌跡が「人生」となり、それがあなたのアイデンティティを決めるのだよ。いま書いたことを、何度も辿ってみなさい。このメカニズムに納得がいったかな? だとすれば、

 

どうかな? いつも朗らかで、穏やかで、オープンハートでいる人になりたくはないかな?

 

だったら、もう自分との闘いは止めるんだね。いつも言っているように、朗らかで、素直で、誠実に、今この瞬間を、ただ熱く生きれば、それだけで、あなたの理想が実現されるのだよ。なぜって、あなたの「思い」が、日々のあなたを創るのだから。

 

最後に、ここで一つ注意をしておこう。真面目な人は、自分を追い込む癖がどうしても抜けないようだね。わたしが言った言葉を、朗らかでなければいけない、素直でなければいけない、正直でなければいけない、誠実でなければいけない、親切でなければいけない、と「解釈」してしまう人がいる。でもそれをやったら、新たな倫理規程を自分の中に入れてしまうことになるよ。

 

もっと力を抜こうよ。社会で起きる不正や理不尽なことに、真面目なあなたは憤り、こうすべき、こうであるべきだ、と思うかも知れない。「もっとよい社会を創りたいんだ!」その「思い」はステキだよ。でも闘争にしてしまっては、結局、自分と「闘う」ことになってしまうし、自分では気づかずに、周囲にもその低いバイブレーションを撒き散らすことになってしまうのだよ。

 

闘争とは、自分の「思い」を〈通そう〉とする歪みなんだよ。

 

「ねばならない」は禁句だよ。NEVER ねばならない! ◯◯を脱する、◯◯を正す、◯◯を治す、といった<ネガティブ+否定語>の思考も止めることだね。それは◯◯部分を認めることになってしまうから。自分を責めたり、罪の意識を持ったりすることもよくない。要は、なんでもありだから、気楽に行こうぜ、ということ。

 

何かと「闘う」必要など、何もないのだよ。自分が楽しいと思うこと、楽しいと思って出来ること。それを、意欲を持って行えば、それでいいのさ。意欲さえあれば、他の人が「とても真似できない」ということですら、結果的には達成できるのだよ。それも楽しみながらね。そして、これこそが、次の社会革命につながることになるのだよ。

Q.人は「普通」じゃなければいけないの?

Q.職場で、上司から「あなたは、普通じゃない」と言われて、叱責されました。普通? 確かに、自分にはひとと変わった面があると思います。しかしそれは「個性」なのではないですか? 職場でそれを出すのは、いけないことなのでしょうか? そもそも「普通」とはどういうことなのでしょう? 人は「普通」でなければいけないのでしょうか?

 

A.その時の状況がどうで、どういう言われ方をしたのかが把握できませんので、あくまで一般論でしか語れません。しかし逆に、一般論で考えた方が、この問題の本質により迫れると思い、お返事を差し上げます。

 

「普通」という言葉は、普通(←ホラこんな風に)、曖昧に使っていますし、私もよく使います。大方の意味は、大多数の人々が合意している意識や行動のことを差しています。ご相談内容には、この「普通」概念の曖昧さと、そのような「普通」に対して、自分を合わせるべきか否かという課題の、両方が含まれています。

 

混乱が生じるのは、前者の曖昧さと、後者の課題とがゴッチャになってしまっているためです。早い話が、後者の課題に、前者の定義の曖昧さが被ってしまうのですね。ですから、先ずこれは分けて考えることが必要です。

 

私の近年の目標は、「普通のことが普通に出来るようになる」だったのですが、その意味は、毎日の掃除や洗濯をしたり、家の前の道を掃いたり、食事後にお茶碗を洗ったり、散歩時にゴミ拾いをしたり、高速道路を運転したりすることでした。自分には、そういう普通のことが(つまり何でもないことが)、普通に(この場合は、イヤだなぁと思わずに)することが、出来なかったのです。

 

この課題に意識して取り組むようになって、お陰さまで、だいぶ自分を変えることが出来ました。ひとによっては、「還暦過ぎて、馬鹿げた目標だなぁ」と思われるかも知れませんが、自分にとっては、それが「今を生きる」上での大きな課題でした。

 

結局、「行動」というものは、その人の今の「意識」の表現活動ですから、「行動」が目に見えて変わったということは、その人の「意識」が変わったというバロメータになっているわけです。我が家がゴミ屋敷だった頃は、私の心も、アラヤ識ならぬゴミヤ識でした。

 

さて、いま上げた「普通」は、私が勝手に「普通」だと思っている事柄に過ぎません。これに一般的とか、めずらしくない、といった定義を被せたとしたら、果たして「普通」であるかどうか? 掃除洗濯や食後の後片づけなどは、多くの人が苦もなく出来るでしょうが、まったく出来ないというかやらない人もいます。中には、「そんなものは女の仕事だ」と思っている男性だっている。

 

家の前の道を掃くというのは、京都では今も当たり前の習慣のようですが、東京ではもう見かけませんね。道路はゴミだらけです。散歩をするときには、出来るだけゴミを拾いながら歩いているのですが、拾っても拾っても、同じところにまたゴミが捨てられています。おそらく同じ人が捨てているのでしょう。その人にとっては、そうすることが「普通」なのですね。

 

このように「普通」の定義は、元来が、極めて曖昧模糊としたものです。けれども、月木は生ゴミを出す日だとか、赤信号になったら停止線でストップするといった、ほとんど総意とも言える「普通」も中にはある。これは、みんながそれを守った方が、社会生活が円滑に機能するということを、大多数の人が経験的に知っていて合意が形成されているからです。

 

では、次のようなケースはどうでしょうか? 義務教育を受けるために、小中学校へ通うことは「普通」だ。確かに、殆どの子どもたちが学校に行っていますし、大多数ということを基準に考えたら、それが「普通」ということになります。でもそうすると、行きたくない、行かない、という子どもは「普通」じゃないということにされてしまいます。それでよいのでしょうか?

 

事実、不登校の子どもを抱え、悩んでいる親御さんがたくさんいらっしゃいます。でも、「ロクでもない教師ばかりの、ロクでもない学校になど、行きたくない」と思っている子どもだっているのです。その子にとっては、世間的には「不登校」のレッテルが貼られていたとしても、実は「不登校」ではなく、「非登校」の意志を示した行動なのかも知れませんよ。

 

つまり「普通」など、定義が曖昧であるばかりでなく、見る立場によっても違って来るのです。このことは、相談者の事例のような職場でも言えることです。ある職場では、その仕事が、合理的また円滑に、かつ気持ちよく進められるよう手順やルールが設定されます。その中には、「月木は生ゴミの日」のようなものもあれば、そうでないグレーゾーンのものも含まれている可能性があります。

 

一時期、私はパチンコ店の清掃のアルバイトをしました。閉店後の11時から入って深夜に黙々と作業をします。5カ月ほど経った頃、私はウェスの手を滑らせて、陶製の灰皿を床に落とし割ってしまいました。ちょうど同時期にトイレの洗剤入れの破損(これは別の人のミス)などが重なったこともあって、数日後、清掃を請け負っている会社から役員がやって来ました。そして終礼の際に、「たかが灰皿だと思うなよ!」と言ったのです。

 

この価値観や「普通」概念は、私には合いませんでした。たかが灰皿です。アホくさ〜と思いました。それで、その後すぐにそこを辞めました。その会社の人々にとっては、アルバイトの怪我を心配するよりも、灰皿の破損の方が重大な問題なのです。その信念のためには、アルバイトのオッサンひとりを怒鳴りつけても一向に構わない。これが、彼らの「普通」です。

 

こういう「普通」に合わせる必要があるのでしょうか? ブラック企業、ブラック組織が掲げる「普通」に、「こうじゃなきゃいけないんだ」といちいち適応していたら、気がつかないうちに奴隷にさせられてしまうし、自分もブラックに染まってしまいます。ですから、会社や上司が言う「普通」に対しては、常に疑ってみる姿勢が大事です。

 

さてここからが、本質に迫る問い掛けです。「あなたは、普通じゃない」と言われた際に、そこにあなたの人格を否定するような、また侮蔑するようなニュアンスが含まれていたかどうかです。おそらく含まれていたのでしょう。ですから、あなたも反発心を持ったのでしょう。しかしうまく言い返せなかった。そこで、冒頭のような相談になったのでしょう。

 

あなたの中には、「普通じゃなくて、一体どこが悪い?」という思いがある反面、「普通」というスケールをほっぺたにギュッと押し当てられて、「あんたはね、規格外なんだよ」という評価を下されたことで、「えっ、そうなの?」という揺らぎもあるのです。その意味では、あなたは、相手が提示した土俵(スケール)の上に乗っかってしまったわけですね。そんなものは、無視してしまえばよかったのに‥‥。

 

あなたの本質が、個別化した「魂」であるということは、何度も語って来ましたね。そして、なぜ個別化したのかという理由も、最近のメッセージで示しました。そうです、個別の体験をするためです。いいですか、もう一度よく考えてみてください。「魂」が個別化した以上、「個性」が生じるのは当然なのですよ。このことは、誰も否定できません。

 

ところがこの時、みんなそれぞれに「個性」があることを、素晴らしいと思う人と、苦々しく思う人とがいるのです。通常はこの両方の意識を、ほとんどの人が同時に持っていて、中間を揺れ動いています。その典型例は、子を持つ親で、我が子の個性の芽生えを嬉しく思う反面、親の言うことをちっとも聞かないと言っては、始終グチをこぼしているではありませんか。

 

なぜ「個性」を苦々しく思うかと言えば、自分の思い通りにすることが難しいからです。周囲の人々を思い通りに動かしたい、自分の支配下に置きたい、コントロールしたい、と強く願う人にとっては、「個性」など、人間の目障りな資質です。これは、歪んだ「oneness」の願望とも言えるでしょう。結局この二律背反も、「融合 / 分離」という「魂」の根源的存在理由より発しているのです。

 

ところで、この相談者は、自分が「普通じゃない」と言われたことに傷ついているわけですが、実は逆の人の方がずっと多いんですよ。それは、「自分が特別ではない」という思いです。自分には特別な才能など何もない。周囲を唸らせるような光る個性がない。平凡だし、優れた点もないし、何をしていいかも分からない。そう悩んでいる人の方が、圧倒的に多いのです。

 

でもここで、この両極端で、ともに悩んでいる人たちに、ハッキリ宣言しておきます。「特別」でない人など、この世に誰ひとりいません。全員が Special なのですよ。あなたも、そしてあなたも。だからこそ、あなたという個別化した「魂」が、この宇宙に存在しているのです。そのように創られたのですよ、あなたは。先ずそのことに、全幅の信頼を置いてください。しかしここで、同時に、錯覚しないようにしなければいけません。

 

全員が「特別」な存在である。だが、そのことは少しも特別ではない

 

解りますか? 全員が「特別」な存在であるということが、宇宙では「普通」のことなのですよ。それは、自然を見ればすぐに解るはずです。山茶花は寒椿に勝ろうとしているのでしょうか? 寒椿は、山茶花よりも、俺の方がチト偉いんだぜと主張しているのでしょうか? どちらも、あらかじめその種子の中に織り込まれていた「自分」を、この物理世界でただ表現しているだけです。

 

そして、同じ寒椿どうしでも、また山茶花どうしでも、枝ぶりや花の付き方は1本1本ぜんぶ違う。いいですか、優があって、劣があるのじゃないのですよ。全員が Special な存在なのですよ。その Special の現れ方が、ちょっとずつ全員違うというだけです。

 

優劣のスケールなど、他者を支配したい人たちが持ち込んだ一つのツールに過ぎません。優劣を認めたら、たちまちにしてその奴隷にされてしまいます。このツールを、満遍なく信じ込まされたために、人類は、本来しなくてもいい苦労を、今なお際限なく続けているのです。でも、もうそろそろ目覚める時です。

 

全員が Special な存在としてある。ああ、それは、なんという圧倒的な愛なのでしょうか。このことを、今ここで、胸に深く刻み込んでください。その限りない愛を受け取ってください。いったい何者が、あなたという存在を創ったのでしょうか? あなたと、このあなたと、あのあなた。そこに差別や優劣があろうはずはありません。

 

全員が「特別」な存在である。しかしそのことは、何も特別ではない。これが、あなたの胸にしっかりと刻まれた時、人間関係に対するあなたの見方は、きっと一変するでしょう。これまでの悩みがまるで嘘のように氷解し、あなた自身が、全き愛の人に生まれ変わっているに違いありません。

 

友よ、そこにこそ、真実のあなたがいるのですよ。