by Rainbow School
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高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?

多くの人は便利さを求めるので、人口が必然的に都市部に集中し、今や日本人の大半は、「生きる」ということを都市生活を前提として考えています。田舎と言っても今はクルマ社会ですから、30分も走ればショッピングセンターがあって、感覚的には都市部とそれほど違いがありません。そのような中で、取り残されたように、ますます過疎化している農村が点在しているのです。

 

そんなわけで、農村に暮らす人との接触も今は殆どないとは思うのですが、たまに旅に出た時、あるいはテレビ番組などで、毎日々々、黙々と畑仕事や手仕事をしているお婆さんの姿を見て、「この人は凄い!」と思わされたことはないでしょうか? 確か、司馬遼太郎さんも、「高僧よりも、農村で暮らす人間の方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜだろう」と仰っていたと記憶しています。

 

私も、以前NHKで放送された『秩父山中 花のあとさき ムツばあさんの秋』を観た時には、大変な感動を覚えました。「ああ、自分もこうなりたいなぁ」と思ったのです。少しでも、その心境に近づきたいと思いました。50代の半ばから、段々とそういう気持ちが膨らんでいったのですが、それで自分も、戸数6戸という今の限界集落に移り住むことを決心したのです。

 

巷で言われているような、いわゆる「老後」などは全く考えませんでした。

人生設計はもうしない。今を生きる。ただそれだけです。

そこにどれだけ集中できるか、命を燃やせるか、瞬間々々を喜びに感じられるか、それが自分のテーマです。

 

老後破産が心配だ、病気になった時を思うと不安で仕方がない、一人暮らしじゃいかにも寂しい、と多くの人は言う。そんなものがなんだというのだ。瞬間々々を、心配と不安と寂しさで満たしてしまって、一体どうしようというのか? あなたの「今の気持ち」の連続が、あなたの人生だというのに。あなたの行動の軌跡が、あなたが何者かを決めるというのに。

 

農村で暮らすお婆さんは、身をもって教えてくれているよ。そんな心配は無用だって。土と水とお天道様があれば、それで充分だって。

 

高僧よりも、農村で暮らすお婆さんの方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのは当然なんです。なぜって、実際にそうだから。人間性というのは、霊性の、この世における顕現です。つまりは、世間で高僧と言われる人たちよりも、農村の名もなき(名前はあるんですが、高名ではない)お婆さんの方が、霊的には遥か先を行っているということです。

 

なぜだか解りますか? より多くのものを捨てているからです。この世で生活しながら、この世の梯子段をもうほとんど降りている。そして自然を感じながら、自然と一体となって毎日を過ごしている。そのお婆さんにとっては、それが当たり前で、特別意識していることではないでしょうが、これこそが、宇宙に生きる、神とともに生きるということです。

 

でも高僧と言われている人から、その拠って立つ基盤(組織や神殿や財力や衣装)と、階位を取ってしまったらどうなるのでしょう? 全部はぎ取って素っ裸にしてしまっても、なおその人は高僧でいられるのでしょうか?

 

そう考えると、高僧といわれる人は(必ずしも全部が全部とは言いませんけれども)、世間と同じ梯子段を、宗教界に移築した上に乗っかっているだけなのではありませんか? なぜお付きの者をズラズラと従えるんですか? なぜ儀式の動員数を誇るのですか? なぜ信者数を誇るのですか? 多い方が他宗よりも上だとでも言うのですか? それは世俗の価値観そのものではありませんか?

 

つまり高僧とは、高層マンションのペントハウスに住んでいる人です。だからこそ、尊敬が集められる。同じ価値観の、遥か上にいる存在のように思えるから。けれども、その豪華絢爛たる神殿は、その人のものではありませんよ。よく言えば信者の寄進、悪く言えば信者からの搾取によって建てたものではありませんか。

 

果たしてそんなものが必要でしょうか? 霊性向上にとって、それが無くてはならないものなのでしょうか?

 

どうして気づかない? あなたの目の前に、自然という神殿があるではありませんか。宇宙という神殿があるではありませんか。これ以上のものが他にあるでしょうか?

 

いいですか、宇宙は、そして自然は、神の顕現なのですよ。神の想いが、物理的な結果として顕れた世界です。あなたは、すでにその神殿の中に暮らしているんです。最初から暮らしていたんです。この幸福、この有り難さ。それをじっくりと噛み締めてごらんなさい。そしてその感謝の目で、周囲を見てごらんなさい。

 

輝きが見えませんか? あなたを見守り、いつも応援してくれているのを感じませんか?

 

それ以上、いったい何が必要だというのでしょうか? 土と水とお天道様があれば、それで充分だとは思いませんか?

あなたは今、この瞬間を、確かに生きているのですよ。

『虹の学校』のこれから

ホームページをリニューアルしました。春までには改変したいと思っていたのですが、他の作業もあって延び延びになってしまいました。『虹の学校』を開いたのは2012年の4月2日。以来5年経過したのですが、3年めくらいから自分自身のホームページに違和感を持つようになりました。早く改変したくて堪らなかったのですが、進むべき方向が定まらずに逡巡していました。

 

今回、作業をする中で改めて接してみて、5年前の自分が凄く恥ずかしかったです。うちの田舎の言葉で言うと、しょうしい(笑止)です。肩に力が入っているというか、当時はまだ、あんまり解っていなかった。見切り発車でした。それに、自分を「理解して欲しい」「認めて欲しい」というエゴや、怒りや嫉妬心や憂鬱がだいぶ残っていました。そこが特に恥ずかしいです。

 

自分の「根が恥部」のところがたっぷり出ている。あー恥ずかしい。穴があったら入りたい。入って生き埋めになりたい。生き埋めになってもう死んでしまいたい! ほらまた出た、「根が恥部」が。これを、もっともっと「保持智部」に置き替えていかないとね。あと数年したら、また今回のリニューアルが恥ずかしくなるかも知れません。

 

ついでに言っておくと、自分の「根が恥部」を解消するポイントは、それを笑いに変えて周囲に語ることです。そうすれば、自分は開放されるし、周囲の人たちを和ませることができる。まさに一石二鳥。周りの人たちが笑うのを見て、「ああ、自分の思い込みに過ぎなかったんだ」と気づかされることでしょう。逆に言うと、笑って話せない間は、まだまだだってことですねぇ。

 

それが、この『気づきの啓示板』の作業を通じて、徐々に鍛えられ変わっていきました。『気づきの啓示板』というタイトルも、スタート時はダジャレのつもりで付けたのですが、今にしてみれば、これ自体が啓示だったのかなぁ、と感慨深いです。初期のものはホームページ同様、恥ずかしい部分が多々あるのですが、合作部分もありますし、成長過程をさらけ出す意味で、これは削除せずに残しておきます。

 

今度のリニューアルで、間口がいっそう狭まったと思います。自分が成長するに連れて、セミナーに来てくださる方もどんどん減り、今は5・6人。今後はもっと減るでしょう。もちろん狭めることが目的ではなく、より多くの人が「宇宙の真理」について目を見開いてくれれば、平和でハッピーな社会が実現するとは思っているのですが‥‥。

 

この数年で、自分の役割は Re-creation ではない、と意識するようになりました。破壊と創造は、いっぺんには出来ないのです。先ず破壊した後に再創造が始まる。私の役割の一つは、たぶん「破壊」です。既存の秩序、既成のものの考え方、そしてスピリチュアリティに関する今までの刷り込みまでをも破壊する。

 

ですから私はハカイダー。「正義も悪もいらないぜ!オレの名はハカイダー」。まさにこのキャッチコピーの通りです。このコピーを考えた人は凄い、本質を突いている! 今は人知れず、日陰でひっそりしているからいいのですが、これがもし目に付く存在にでもなったら、共謀罪でしょっぴかれるかも知れませんねぇ。

 

それだけじゃない。こいつのインチキを暴いてやろう(どうぞどうぞ)。トンデモ性も暴いてやろう(だから最初から解る人にしか解らないって言ってるってば)。隠し財産を暴いてやろう(そんなのないって)。不倫を暴いてやろう(残念でした、カミさん死んじゃって独身なんですぅ)。という情熱に命を燃やす人が出てくるかも知れない。そこまで行けば本物だ!

 

とまあこれは冗談ですが、ある人から見れば、危険思想であることは間違いありません。過去世でも同じことをしていて、異端として宗教界から追い落としに遭ったり、古代ローマ時代には処刑されたこともあります。そういうことも、この5年でずいぶん思い出しました。そして「宇宙の真理」についても、かなりのことを思い出しました。

 

私の役割の二つめは、それを現代の言葉で、現在の科学で、そして今どきの感覚でひも解いてお伝えすることです。私がお伝えすることに、新しいことは何ひとつありません。全部、古代から言われて来たことの焼き直しです。どの時代にもメッセンジャーがいて、みなその時々の言葉で語って来ました。私はそれを、インターネットという現代のツールを使ってお伝えするだけです。

 

たとえば、「この世は幻である」。これは古代より言われて来た真理です。あなたも、これまでに、たぶんその言葉を耳にしたことがお有りでしょう。でもそれをただ言っただけでは、現代でもなお遠すぎるのです。この世の常識とは、余りにもかけ離れているから。きっと理解の糸口さえ掴めないことでしょう。私の役割は、そこに橋渡しをすることです。虹の架け橋となって。

 

英語の Education の意味は、その人が持っているものを「引き出す」ということで、私にはそれしか出来ません。というよりも、それ以上はやってはいけないのです。日本語の「教育」という言葉は最悪で、それが正しいと信じている人は、一生懸命「教え育てよう」とする。けれども、「魂」の世界ではそんなことは必要ないことですし、やってはいけないことなのです。

 

小学校に入学してまもなく、「ここは牢獄だ」と思いました。家が「地獄」だったので、「地獄」と「牢獄」の間を行ったり来たり。いつも怯えていて、それで中三まで夜尿症が治らなかった。ここから、私の「根が恥部」が始まったのです。ですから、義務教育や学歴といったものには、反発心しか持ちませんでした。予習や復習をしたことなど一回もなく、復讐心だけをたぎらせていました。

 

教師たちはみんな、「この答えが解る人は手を挙げて」とやっていました。ですが、これは最悪のやり方です。第一に、「答えは自分が持っているぞ」と、子どもたちに押し付けている。第二に、「ジャッジするのは私だからね」と言っている。第三に、「私の答えに近づけた人は、他の人より優秀なのよ」と思わせている。これぞ、ロボット化教育の最たるもの。Education とは真逆です。

 

見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。ロボット化教育のこれぞ成果ではありませんか。

 

ということで、教育一つ取ってみても、「宇宙の真理」から語ることは、この世の常識とはまるでかけ離れているので、常識人にはトンデモ話にしか映らない。これが、歴代のメッセンジャーたちが打ち壊せなかった人間世界の厚い壁なのです。私も同じことになってしまうかも知れませんが、しかし役割は役割。自分はハカイダーとしてこの先も生きます。

 

「宇宙の真理」を掴むことは、実は非常に簡単なことなのです。(これも、きっと遠くに聞こえるでしょうが)あなたは、最初から知っているのです。だから、それを思い出すだけでいい。『虹の学校』は、それをエデュケートする(引き出す)手助けをするだけです。ただし、そうするためには、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めなくてはならないのです。

 

「なんだ、そんなこと?」と思えるでしょうが、これが今の地球人には難しいのです。誰かがした観察結果を教えられて、それを信じ、誰かの考えに賛同し(いいね)、誰かの言いつけによって行動することが、身体の隅々にまで染み付いているからです。あまりにも深く染み付いているので、自分がロボットになっていることにすら気がつかないくらいです。

 

前にも書きましたが、みんなスマホやコンビニを使っていると思っているのでしょうが、それらに使われていることに気づいていない。自分の思考回路が、すでにそのシステムに組み込まれているんですよ。ですから、新しいツール(道具)は、よほど用心しないといけない。これからAI(人工知能)がさらに進化し、ロボットが生活の隅々にまで進出して行くでしょうが、その暁には、地球人類は存在意義を失ってしまうことでしょう。

 

あなた方は、みんな梯子段の上に乗せられているのです。人によって、今いるところの段数は違うのですが、「もっと上を目指すんだよ」「上に昇ると、きっといいことがあるよ」と言われて、既にそこまで昇って来ているのです。上の方にいる人たちの中には、下から上がって来る人たちを「もう来るな!」と言って蹴っ飛ばす人もいるのです。

 

しかしどうでしょう。人間、昇ることは比較的容易なのですが、降りる方が難しいのです。子どもの頃、木の上に昇ったはいいけれど、降りられなくなったという経験はありませんか? 一度昇ると、降りるのが怖い。高ければ高いほど怖い。ですから、しがみつくのです。見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。「地位に恋々として」いる人たちを。

 

「宇宙の真理」は、実に簡単で、たった一つのことから始まり、あなたが、ご自分で、そのたった一つのことを類推していけば、全部の答えが出てしまうのです。グル(導師)もいらなければ、信仰もいらなければ(むしろ邪魔)、聖典も教典もいらない。もちろん、このサイトだって、『虹の学校』だっていらない。秘儀も秘教もない。あなたの中に、最初から答えが全部ある!

 

えっ、「そのたった一つのこととは何か」ですって? いま言ったじゃないですか。気がつきませんでしたか? たった一つのことですよ。

そう、それです。

 

ところが、いま昇っている梯子段から降りるのが難しい。第一に怖い。第二に、果たして降りて行っていいものかどうか確証が持てない。そこで多くの人は、その梯子に乗ったまま、空中に手を伸ばして何かを掴もうとする。ですが、そんなところに「真理」はない。先にも言ったように、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めない限り、「真理」には出会えないのです。

 

あなた方は、親からの刷り込み、学校からの刷り込み、会社からの刷り込み、世間からの刷り込み、マスコミからの刷り込み等々で、がんじがらめの中に暮らしていて、「この社会はちょっとおかしい?」という直感は抱きながらも、思い切って梯子段を降り始めるということが出来ない。自分を信じ切ることが出来ないし、落ちてもセーフティネットがあることを信じられない。

 

でも、その中でも、ごく少数の人たちが勇気を出して梯子段を降り始め、少しずつ少しずつ降りて、数年かかってついに地上に降り立つ。これがホップ。次いで、自分の直感に従って、自分の好きな方向にステップを踏む。すると、そこに扉が開いている。そこをくぐると、あなたは自動的に光に導かれてジャンプする。なんの努力もいらない。そこで、「そうか、実に簡単なことだったんだ」と、やっと解る。

 

その少数の勇気ある人を探して、休止していたセミナーを再開することにしました。「アセンション・クラス」という年間講座です。9月から1年間、毎月最終土曜日の10時から16時半です。私はここで、自分が60年かかったことを1年間でお伝えしたいと思っています。そしてこの人たちが、将来の Re-creation の担い手になってくださることを願っています。これが私の三つめの役割。

 

ごくごく小さな集まりですが、ピン!と来る方は、必ずいらっしゃると信じています。

 

もし私が、由緒正しい家系の出で、有名大学を卒業して、成功者で、資産家で、大規模な組織の長で、著作が何点もあったら、人々の見る目は違うでしょう。また、霊視をウリにして、高い料金設定のセミナーをすれば、「ひょっとして何かあるかも」と思うでしょう。が、そのいずれも私にはありません。

 

もし私が、自分を「先生」と呼ばせて、これこれの講座の修了者には、しかじかのお免状を与えるし、マントラもお授けするし、チャクラも開いて上げると言えば、がぜん学習意欲が沸いて、元を取らなきゃと思うでしょう。「そうか、この人は先生か」と近寄り難く思うでしょう。が、そのいずれにも私は興味がありません。

 

実にそこが問題なのです。私ではなく、あなた方がです。私は馬の骨です。しかし私がこう言ったら、あなた方はどうするでしょうか? ここに、シャネルと、アルマーニと、ドルチェ&ガッバーナと、ZARAと、ユニクロと、GUと、しまむらの服を並べて、「どれでも好きなものを一つあげるよ。タダだよ」と言ったら。ただし、ネームタグは全部切ってあります。

 

誤解しないでくださいよ。しまむらよりシャネルの方が上だって言ってるんじゃないですよ。アルマーニを選んだあなたには審美眼があると言いたいんじゃないんですよ。(他と比べて)『虹の学校』を選べと言っているんじゃないんです。何を選んだっていい。どのみち自分の段階に応じたものしか選ばないし、選べない。

 

そうではなく、タダのものこそ、タダになった時こそ、自分にとっての本当の価値の意味が炙り出されると言いたいのです。

 

世間が決めた価値指標から離れたあなたは、きっとご自分の好みや直感を駆使して選ぶことになるでしょう。そうなってこそ、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動した一歩となったのです。それが、一つ自由になるということです。一段、梯子段を降りるということです。そして、梯子段をぜーんぶ降りた時、あなたは完全な自由を知る。そしてジャンプの準備が整う。

 

解りましたか? えっ、解らない? 困ったなぁ。でも、共感して下さる方が必ずいらっしゃると思っていますし、上の存在からは、「縁ある人は私がアレンジする」と明言をいただいています。ですから「この機会を待ってました!」という人は必ずいる。案内をお読みになって、「これだ!」という方は、どうそお問い合わせください。特に今回は、地方在住の方に来ていただきたいです。

 

それと、東京の自宅を開放して、ささやかな集会所を作りました。6人も入ればいっぱいになってしまうようなところですが、ここから温かな波動を日本全国に拡げたいと思っています。心の底からリラックスして、思い切り自由を感じられるような場にしたいと思っています。前に縁があったけど、その後、遠ざかってしまったという方も、よければ気楽にお越しいただければと思います。

権力者の末路

今の人間社会では、少数の権力者に統治を委ねるという形の政治機構が主流となっています。私たちはその前提のもとに暮らしているので、この政治機構自体について疑問を持ったりすることは殆どありません。けれども、これは人類の進化の過程で、少しずつ変化しながらそうなって行ったものであって、現在の形が最良だというわけではありません。

 

絶対君主制が主流だった中世の時代を経て、今は殆どの国が議会制民主主義を採用するようになりました。これは人類にとっては一つの大きな進歩です。主権は一部の特権階級にあるのではなく、民衆のもとにある(民主主義)ということを明確にしたわけですから。人間に優劣というものは無くみな平等だということに、それだけ接近したわけです。

 

ところが、その民主主義を実現させるための手段として採用した「選挙制度」なるものが、果たして理想的に機能しているかと言えば、とてもじゃないが合格点とは言えない。明らかに欠陥があります。選挙制度は、考え方としては悪くはなかったのですが、代表者を決めるのは、結局「得票数」ただ一本です。多数が勝るという考え方のみで、その内訳については問われないのです。

 

すると、「得票数」というものがいろんな面から操作できてしまうということと、選ばれた人の人間性は全く問われない、という大きな問題が生じてしまいます。現在の選挙制度は、正にそれが最大限悪用されています。そもそも選挙は、理想主義を母体として初めてうまく機能できるものですが、それに参加する人間の人間性(霊性)が、その理想主義にまるで追いついていないのです。

 

「信なくば立たず。国民の信頼の上に政治活動があり、政策実行も国民の信頼が基礎だ。そのためにも、国会議員、政治家は、しっかりと自らの行動を律する必要がある」これは、2016年2月10日の衆議院予算委員会で、答弁に立った安倍首相が述べた言葉です。私もその通りだと思います。安倍首相は『論語』のこの言葉がお好きなようで、今年7月19日の緊急記者会見でも「信なくば立たず」と言っています。

 

しかし、安倍さんのこれまでの言行を見てきてお分かりのように、この言葉は、この方の身体の中に全然浸透していません。「本当にその通りだ」という体験や感慨がない。英単語の暗記と同じような、単なるフレーズでしかないのです。『論語』の言葉は、理想主義に基づいていますが、「選挙」で選ばれて国会議員となり、そして最高権力者となった安倍さんには、理想主義の基盤はゼロです。

 

ですから平気で嘘をつける。有権者を愚弄できる。おそらく、安倍さんには自分が「嘘をついている」という感覚はないでしょう。自分は、自分の信念にしたがってやっている。祖父が成し遂げなかったことを自分が絶対にやって見せる。そのためには、人脈も、金も、接待も、裏社会も、法律も、警察も、国会も、内閣府も、メディアも、こんな人たちも、論語も、嘘をつくことも、みんな手段としか考えていないのです。

 

24日の衆議院閉会中審査でも、安倍さんは、前言とは矛盾のある嘘をつきシラを切り通すという道を選択しました。「この人の信念は凄い!」と、私は感心しました。「カルマの法則」を、たぶん安倍さんはご存知ないとは思いますが(知っていたら、とてもこんなことは出来ない)、自分で蒔いた種は自分で刈り取ることになるという重みを背負ってなお、嘘を貫き通すことなど、常人に真似の出来るものではありません。

 

「中途半端がいけなかった」という反省に基づいて、そのような道を選ばれたのでしょうが、安倍さんの「魂」は、時代の要請に答える役割を、正に身を挺して演じてくれていると思います。壁に空いた穴を補修しようとして土を塗る。でも塗り方を失敗してまた塗る。このようにして嘘の上塗りを続けていけば、厚塗りになったところがいつかは自重に堪え兼ね、ポロッと剥がれ落ちてしまいます。

 

何度も言って来ましたが、今の地球は、宇宙からの強い光が当たっている大きなサイクルに突入しています。この光に闇が照らされ、今まで隠されていたいろんなことが明るみに出ているのです。闇に暮らし、闇の世界を今まで謳歌してきた人たちは、この変化に戸惑っているのですが、急な明るさは眩しいので、今までの闇の暮らしをなんとか続けようとします。

 

しかしこのような試みは、まるで大河の流れに逆らうようなもので、どうやっても所詮は無駄なことです。ところが、闇の世界にいる人たちは今の宇宙サイクルを知らないので、河に突っ支い棒を立てて、なんとか今まで通りを維持しようとします。でも水の抵抗は増々大きくなって来るので、突っ支い棒を2本、3本と立て増しして急増の掘っ建て小屋を作ろうと焦る。

 

でも、河の流れ自体が止まるわけではないので、突っ支い棒は1本抜け、2本抜けして、結局、最後は時代変化の流れに全部流されてしまうことになるのです。ここで、「彼らにも、いつか天罰が下る」というようなことを言おうとしているわけではありません。宇宙には「天罰」などありません。それは人間が考え出したこと。宇宙にはただクールな法則があるだけです。

 

安倍さんを含めた内閣の人や、今度の事件の関係者の人々が、それぞれどうなるかは分かりません。人間社会から見れば、まんまと逃げおおせる人も、中にはいるかも知れません。けれども「宇宙の法則」から逃れることは、いかなる「魂」にも絶対に出来ません。自分が撒いた種は自分が刈り取る。これが冷徹な「カルマの法則」であり、自由と責任ということの意味なのです。

 

みなさんは今、安倍さんというキャラクターの登場を通して、人間社会が次に進歩していくべきプロセスを学習しています。一連の事件、そしてそれが明るみに出て来ている今の過程を、そのように見ていただきたいのです。安倍さんの踏ん張りは、今度のチェンジは上辺だけでは済まさないぞ、腐敗した権力構造の奥の奥まで見せてやるぞ、という時代の要請に応えてくれているのです。

 

すでに、日本国民はかなりのことを学習しました。メディアは内閣支持率のことばかり言っていますが、数字に表れないところで、人々の意識転換がかなり進んだのです。先ずはメディア・リテラシー(情報を見抜き、使いこなす技術)が上がりました。これには、政府御用メディアの頑張りも効いています。読売新聞も全社一丸となって、体質をさらけ出して貢献しました。

 

そして、人々の人間を見る目も上がったと思います。どの人が正直者で、どの人が嘘をついているかを、言葉ではなく、表情や態度や雰囲気で読めるようになりました。失言を見逃さず、その発言の裏にどんな人間性が隠れているかまで見抜くようになりました。

 

国会議員や地方議員の方々、メディア関係者の方々は、こうした人々の内面の変化、認識の変化に、気づいておられるでしょうか? これからは、そうしたリテラシーが前提となるのですよ。

 

私はマスコミは一切見ないのですが、インターネットを見ていますと、安倍政権をちょっとでも批判した人物に対しては、すぐにその人物の人格攻撃をする動画が作られています。一説によると、内閣によってそういうサイバー部隊が組織されているということなのですが、目的がそもそも歪んでいるために、その歪みが全部、言霊(ことだま)となって表れています。

 

「フルボッコ」とか「完全論破」とか「こいつの本性を暴いたぞ」とか、いかにも知性のない言葉を並べ立て、アクセス数の表示までも2万、5万と操作し、あたかもケタ違いの賛同者がいるように見せかける。その数が、ついには10万、50万とエスカレートしているアホらしさ。彼らも仕事なんでしょうが、そうやってやればやるほど、自分の本性が伝わるということを解っているのかな? 小賢しさに生きていては、本当の賢さに目覚めることは叶いません。

 

そんなわけで、インターネット・リテラシーもずいぶんと上がってきていると思います。これらはみな必然で、時代の要請に応じて、それぞれの役割をそれぞれが演じてくれているのです。すべてがドンピシャで、計画通りに進んでいます。でも、選挙という仕組み、統治というあり方にまで目覚めるのには、まだまだ時間が必要でしょう。

 

一連の流れを通じて、みなさんによくよく知っていただきたいのは、「波動は正直」ということです。「波動は嘘をつけない」ということです。政治家がどんな言葉を発しても、どんなに取り繕っても、もうあなたはそれを見抜く。あなたには「波動」を見抜く力が備わっているということです。

真理の世界は彼岸ではない

宇宙の真理は一つです。真理というのは、何かを成り立たせている根源的な理法(Fundamental  Theory)のことを言います。何かを成り立たせている背景には、必ず成り立たせている理由と法則があるのです。秋に庭に埋めておいた球根から、春先になって芽が出て花が咲く。このような現象一つとっても、そうなる理由と法則があってそうなっているのです。

 

では宇宙全体を考えたらどうなるでしょう。宇宙が成り立っているということは、そこにも成り立たせている理由と法則があるということです。そして宇宙は一つなのですから、当然、真理は一つということになります。理論物理学ではマルチ・ユニバース(複数の宇宙)という考え方も提唱されていますが、Multi-universe を包む全体を考えれば、やはり一つです。

 

仮に真理が二つあったとしましょう。AとBです。Aは我こそが真理だと主張する。BはBで、我こそが真理だと主張する。そうすると、AからすればBは真理ではないということになり、BからすればAは真理ではないということになって、矛盾が生じます。結局、AもBも包含するCを立てなければいけなくなり、結論は、やはり「真理は一つ」というところに帰着するのです。

 

既成宗教が犯してきた間違いは、そのほとんどが「我こそが真の道」と言って憚らないことです。そして我以外は邪宗、邪教だと言って攻撃してきました。これがどんなに欺瞞的な言葉であるかは、いま言ったことを考えていただければ容易にお解りでしょう。どんな道を通ってもよいのです。どんなルートを通っても、頂(いただき)は常に一つです。

 

あなたが富士登山をするとしましょう。先人たちが作った歩きやすいルートが、吉田ルート、須走ルート、御殿場ルート、富士宮ルートと4つある。あなたはこの中のどの道を選んでもいいし、あえて選ばなくてもいいのです。選ばずに、人跡未踏の道を、自分で開拓して行っても構わない。でも変わらないものがある。それは頂上は一つということです。

 

頂上は、どんな人にも頂上であり、そこに今あり、燦然と輝いている。これは素晴らしいことだとは思いませんか? どんな人も差別したりしていないんですよ。お前は来るなとは決して言わない。いつでもそこにあるんですよ。「さあ、どうぞ、いらっしゃい」と。

 

ただ「ある」ということを、意識して生活するかどうか、山登りをしてみようという気になるかどうか、そして実際に登り始めるかどうかで、歩みに差が出てきます。山登りにまったく興味がない人にとっては、目の前に後光が射す山が聳えていても、その人の目にはそれがありがたいものだとは、ちっとも映らないのです。でもその人だって、いつかは山登りを始めるのです。

 

私たちは宇宙の一員です。ということは、最初から真理の中にいたのです。以前にザルの例えを書きましたね。ザルで水を掬いに来ても、みんなジャージャーとこぼれてしまうんだと。ではザルを水で満たすにはどうしたらいいのか。それはザルごと水に沈めることだ、と書きました。実はこの話には、まだ続きがあったのです。

 

ザルは、最初から水の中に沈んでいるんです。ですから、自分の身を水の中に沈めるというのは、そんな断崖絶壁から湖に飛び込むというような、格別の勇気を必要とするものでもない。ただ、そこに気づくだけでよかったのです。

 

山は、いつでも目の前にあるんだと。自分は、その頂上に至る地平に、今まさに立っているんだと。

 

真理の世界というのは、彼岸(向こう岸)にあるのではありません。この世があって、あちら側にあの世があるのではないのです。あの世の中にこの世が最初から含まれている。この世というのは、物質的世界から霊的世界までを含む、すべての宇宙の、ごくごく限定された世界に過ぎないのです。私たちは最初から、真理の海の中に生かされているのです。

 

それなのに、どうしてこの世は、こんなにも混乱しているのでしょうか? それはこの構造に気づく人があまりにも少ないからです。みなさんから見れば、霊的世界というのは、とても不思議なものに思えるでしょう。でも多次元的世界にいる者たちからすれば、人間たちの方が不思議です。

 

人間たちは、どうして争いごとを止めないのでしょう。争いごとが決して幸福をもたらさないということはみんな分かっているはずなのに、せっせとそっちへ向かおうとする。あまつさえ、そういう人を賞賛する文化まである。平和を希求する人を「平和ボケ」と言って揶揄する人すらいますが、全世界の人が「平和ボケ」になったら、どんなに素晴らしい地球になるでしょうか。

 

全世界の富の半分を、わずか62人の大富豪が握っています。その一方で、貧困に喘ぐ人々の数は減るどころか、むしろ拡大しているという矛盾。一生かかっても使い切れないほどのお金を、大富豪たちが貯めこむ理由は、一体どこにあるのでしょうか? お金というのは、経済循環のための単なる道具です。動かないお金を分け与えて動くようにしたら、人々にどんなに笑顔が戻るでしょうか。

 

宇宙から見れば、人間たちの行動はとても不思議です。どうしてこんな簡単なことすら解らないんだろうか、と思うのです。競争をして、奪い合って、勝ち負けを作って、それで勝ちほこる人と負けて悲嘆にくれる人を分けて、みんな心をズタズタにして、それでも奴隷のようになって働いて、そして人生が解らない、生きる意味が見つからないと言っている。

 

宗教家ですら、この世における「成功」という幻想をエサに、霊的世界のドレッシングをかけて、「さあ、お食べ」「うちしか、こんなにおいしいものはないからね」と言っている。まったく不思議です。

その何が面白いのか、楽しのか、ハッピーなのか。

 

あなたの視点を、ずっとずっと上に上げて行って、宇宙にまで引っ張り上げて、地球に暮らす人間たちの姿を見てご覧なさい。今日もドタバタと、どうでもいいことに血眼になって騒いでいる人たちの姿が見えませんか? 内閣改造?あなたに何か関係がありますか? 松井一代さん?あなたに何か関係がありますか? 謙さんの不倫?あなたに何か関係がありますか? 

 

自分には何の関係もない、どうでもいい話にばかり振り回されて、しょっちゅう目をキョロキョロさせていたら、目の前にある山になど、気づくはずがないではありませんか。本物と偽物を見分ける目が、育つ筈がないではありませんか。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか、解るはずがないではありませんか。

 

人間たちよ、目を覚ますのです。この集団催眠状態から抜け出すのです。気づいた人たちから、先ず歩み始めなさい。山はいつでも、変わらずにある。あなたのすぐ横にある。あなたが気がつき、登り始めるのをいつでも待っている。

権力者の姿

権力者には、権力者の地位に着くことが目的の権力者と、人々の住みやすい暮らしと幸福実現の理想を持って、そのために権力構造を活用しようとする権力者がいます。ところが今の人間社会においては、後者は圧倒的に少ないのです。殆どいないと言ってもいい。これは今の人間社会が、基本的に欲得を基盤として動いているためです。

 

イ・ビョンフン監督の韓国宮廷ドラマでは、王様は常に民の幸福を考え行動しようとしているのに対し、高級官僚である両班(ヤンバン)の中に派閥があって、王様をお助けしようとする一派と、権力を利用して私腹を肥やそうとする一派が暗闘を繰り広げるというのが、いつもの筋書きとなっています。

 

これは王様に、そういう理想像を仮託して描いているわけで「現実にはそんな宰相なんていないよね」「いたらいいけどね」というのは、韓国人ならずともみんな分かっていることです。とにかく、政治家の汚職、腐敗、堕落というのは世界中の国々で見られ、日本も最低レベルにあります。

 

2016年7月10日の参議院選挙では、自民党が大勝したわけですが、「ああ、これでまた自分の首括りロープを、多くの人が用意したんだなぁ」と、この時は本当にガックリ来ました。小泉政権誕生(2001年)の時には、恥ずかしながら私もまだ見抜けなくて、自分の首括りロープをせっせと用意した口です。でも一度騙されれば、もう充分。

 

2016年の参議院選挙では、若者の多くが自民党に投票したという分析がなされています。どこにも拠り所となるものが見られない、この不安な時代に、外敵を想定して強い国家主義を掲げることは、確かに分かりやすいフラッグ(旗)ではあります。

 

でも、国家主義を掲げる人たちというのは実は対米追従でしかなく、本音では国民のことなど何も考えておらず、国を憂える人たちの方が逆に「反日」と言われているネジレ現象までは、さすがに若い人たちにはまだ見抜けなかったのでしょう。ちなみに私は、愛国でも反日でもなく、国家は、地球上の地域行政単位に過ぎないと思っています。

 

もう、国がどうのこうのと言っている時代じゃありません。そんな考えは狭いし古い。同じ情報が一瞬にして世界を駆け巡る時代に生きているんですよ。もっと地球的、いや宇宙的に思考する必要がある。私たちは、みんな同じだということを知る段階に来ています。そうでなければ、人類の進歩はありません。

 

2016年選挙にはガッカリした私ですが、今は考えが変わりました。今の安倍首相と内閣は、私たちに「権力者の姿とはこういうものだ」ということを、身を挺して示してくれていると思っています。なにもかもが必然です。私たちは、単に「安倍やめろ」ではなく、ここから「権力者」というのはどういうものかを学ぶチャンスを与えられています。

 

「嘘つきは政治家の始まり」と、前に私は書いたのですが、日本国の総理大臣になるためには、この資質だけではどうやら不充分なようです。これにさらに「恥知らず」「強弁」「すぐにカッとなる性格」「知性がない」「ルビ付きの原稿なしでは語れない」「外交センスがない」ことも、重要な資質のようです。とまあ、皮肉のひとつも言いたくなりますよねぇ。

 

どうもゴメンナサイ。安倍さんと私は同い年だから、これくらい許してね。

 

国家主義を標榜する人たち、愛国を謳い、日の丸を掲げ、現政権に何が何でも味方するぞという人たちに言いたいです。上の資質プラス、内閣がみな税金泥棒、かつ秘密警察まで組織して法を無視する国家が、あなた方が志向する理想国家なのかと。この状態をもし憂えるのであれば、あなたはたちまち「反日」側に立つことになるんですよ、と。

 

森友・加計学園問題での安倍総理の言動を見ていて、私は最初、不思議に思いました。「もし関与があったら議員も辞める」と自分で言っておきながら、その後、関与の証拠がたくさん出て来て、バーベキューの写真やら、昭恵夫人が「男たちの悪巧み」と題してSNSに投稿した写真まで出る始末で、どこからどう見ても真っ黒なのに、シラを切り通すというこの感覚です。

 

以前なら一大疑獄事件になったはずなのに、また以前の政権ならちょっとしたスキャンダルでも内閣が吹っ飛んだはずなのに、もの凄い幼稚さを発揮することで逆に踏ん張っている。そりゃあ、マスコミを手なずけている、警察・検察を押さえている、官僚人事は全部握っているという、権力をほしいままにしているということは解りますよ。

 

私が解らないのは、「人間として」という感覚です。少しは胸が痛まないのだろうか? この強弁はいったいどこから来るのだろうか? 安倍さんは自分の人生で何が楽しいのかなぁ? 昭恵夫人という人の感覚もよく解らない。関係者が祝杯を挙げている写真を Twitter に投稿して、しかも「男たちの悪巧み」というタイトルを付けるセンス。う〜ん。

 

そしたら、「この事件の最初に、すべてが示されているよ」というメッセージがやって来ました。「え、どういうこと?」と聞き返しましたが、答えはありません。しかし数秒して、「なるほど!」と膝を叩きました。事件は、幼稚園で始まり、小学校を開設しようとして頓挫した。この経過が明るみに出たのです。

 

「あなたたちは、小学校はまだ無理ネ」という明確なメッセージです。この事件に関連した、一連の内閣側の言動を見ていると、これを大人たちがやっていることだと思うから不思議に感じるのであって、幼稚園で繰り広げられていることだと見れば、すべてに納得がいきます。ここで幼稚園、小学校というのは「霊性」の成長段階のことです。

 

「人間性」というのは、「霊性」を下敷きにして、(身体を持つ物質的次元に)表出されているものの一部で、「人間性」が優れている人、徳の高い人というのは、それ以前に「霊性」が高いのです。逆に言えば、「霊性」が低い人は、どこをどう取り繕ったところで、高い「人間性」を示すことはできません。必ずボロが出る。

 

ここにA少年とB少年がいるとしましょう。どちらも、幼稚園で他の子たちに意地悪をしたり、他の子の持ち物を横取りしたりしています。ある時、そのことがバレてしまった。保母さんたちの追及に、A少年は「ごめんなさい。意地悪して僕が悪かったです」と言ったのですが、B少年はそうしませんでした。

 

「僕が悪いんじゃない。Cが僕をいじめるから、僕は反撃しただけなんだ。悪いのはあいつなんだ」そう言って、いつも徒党を組んでいるE少年を呼びつけて「いいかい、あのことは黙っているんだぞ。聞かれても『知らない』って言うんだ。そうしたら君にいいものをあげるからね。ついでに、分からないように、Cの奴をとっちめちゃってくれよ」

 

7月1日の秋葉原での、安倍さんの「こんな人たち」発言は、確かにマズかった。代議員というものが、有権者の代表としてあることや、民主主義(主権は民衆にある)という立て前を、完全に無視する発言を、国の長たる内閣総理大臣がしたわけですから。けれどもそれ以前に、安倍さんの「人間性」がそこに如実に表れている。

 

「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と、殆ど反射的に安倍さんは言いました。ここに、つね日ごろから思っていることが、全部出ているのです。「こんな人たち」と「私たち」を分けて考える。しかも「私たち」の方が上だという意識。そして、「こんな人たち」に「勝つ」ことが至上命題だと、彼は思っているのです、本気で。

 

それがいったいどこから来たのか? 私には、幼い安倍少年が、母親の愛を得ようとして、気に入られようとして、必死に奮闘している姿が見えます。安倍少年は、「あなたも、お爺さまのような総理大臣になるんですよ。お父さまは道半ばで叶わなかったけれど、あなたがその敵(かたき)を取るんですよ」と言われて育ったのです。

 

安倍さんには結局これしかありません。タカ派的な発言をしていますが、この人に国家観や理想といったものは無く、「敵に勝って、お爺さまの悲願を自分が成し遂げる」しかないのです。タカ派的な言動は、祖父や母親との関係で培われてきた自分の想いを、国家対国家という図式に、単に投影しただけです。「私たち」を脅かす「こんな国」に負けるわけにはいかない!

 

すべてを貫いているのは、母親によって、また名門という家系によって刷り込まれた「信念」です。麻生副総理も、家系によって刷り込まれた「信念」で動いている。早い話が、庶民というのは下等な連中くらいにしか思っていません。目的が全然違うのです。欲しいのは権力であって、人民への奉仕などは露ほども思っていません。

 

ですから、目的である権力を失ったら、アイデンティティ・クライシスが起きてしまう。自分は何者なのかという、それを保証していた肩書きが無くなってしまう。肩書きがなくなったら、空っぽ(お金はたっぷりありますが)になってしまう。そのことは自分がいちばんよく知っているので、必死になってしがみついているのです。

 

菅官房長官が「地位に恋々として」と言っていましたが、これは自分のことを言っているのです。ネットでも新聞でもテレビでも、相手を陥れようとして、時々酷いことを言う人がおりますが、同じものを見ても、人は自分のメガネの性能以上のものは見られないのです。自分の色メガネに照らして周囲を見てしまうということです。

 

ですから、誰かを陥れようとして発する誹謗中傷の汚い言葉というのは、全部自分のレベルをさらけ出しています。ターゲットにした相手を、そのように見たいということです。それは、自分の想いの投射、自分の「人間性」の投射なのです。今の政権を批判した人物は、ネットですぐにバッシングされていますが、意図とは逆の効果しか生んでいません。読売新聞も自分をさらけ出しました。

 

「僕は何も悪いことしているわけじゃないんだけど、僕を貶めようとして印象操作をする人がいるから、つい強い口調で反論してしまうんだ。だからそこは反省しなくちゃと思ってます」と、側近の作文による、奇妙な反省の弁を述べた舌の根も乾かないうちに、秋葉原で印象操作?をする人に、つい強い口調で「こんな人たちに、負けるわけにはいかない」と言ってしまう幼稚さ。

 

国民の多くは、誰が嘘を言い、誰が真実を述べ、どの人の「人間性」が高くて、どの人が幼稚園レベルかということは、みんな分かっています。「人間性」の低い人たちだけが、自分のことが分からないのです。「こんな人たち」と「私たち」は、別人種なんだと思っているから。

 

アベ友というのは言い得て妙で、何度も言ってきたように、同じ波長の者たちは引き合います。ですから、アベ友の人たちというのは、同じレベルの波長を持つ人たちが集まっているということです。盛り友と家系ファーストで生きている。この、霊性が幼稚園レベルの人たちに国が動かされているので、信じられないような光景を私たちが目にしているというわけです。

 

前川さんも仰っていましたが、私は、7月5日付で国税庁長官になった佐川さんを気の毒に思います。佐川さんはこの人事を受けるべきではありませんでした。栄転とか論功とかと言われていますが、そうではありません。これは口封じです。口封じの方法には二つあって、抹殺するか、側近にするかです。金王朝を見れば解るでしょう?

 

佐川さんには何度もチャンスがあった。「NO!」と言うチャンスです。この人には、自分が大蔵省に初登庁した時のフレッシュな意気込みを思い出して欲しかったです。それが、自分の意志に反して巻き込まれて、そのままズルズルと行ってしまった。佐川さんはそんなに無恥で強い人ではありません。表情にすでに怯えが見られます。

 

これから彼は、針の筵でしょう。なにしろ税金泥棒が国税庁の長官になったのですから、示しがつきません。みんな税金を払うのが馬鹿らしくなってしまうでしょう。払った税金は、アベ友に渡ちゃうんですからね。もし査察に入られても、「関係する書類は全て廃棄しました」「担当者は目下、病気療養中」「うちのシステムは即座にデータが抹消される仕様になっております」と言えばいい、というお手本まで示したわけですから。

 

国民の怒りを集めただけでなく、同時に、税務に関わる職員全員の信頼を、地の底に落としたのですから、大変な禍根を残しました。一度失われた信頼を取り戻すのは容易ではありません。もしあなたが職員だったとして、こんなトップが栄転で来たらどうしますか? その人物を尊敬できますか? 「よく頑張ったね、守り通したね、あなたこそ役人の鏡です」って言いますか?

 

佐川さんは、国民の怒りと、職員の冷ややかな眼の、両方の巨大なネガティブ・エネルギーを、これからずーっと全身に受けなくてはならなくなったのです。果たしてそれに耐えられるかどうか。私なら3日で胃に穴があく。家族も、その低いエネルギーに合わせなければいけなくなったわけで、耐えきれなければ、家族間に亀裂が生じるかも知れません。

 

国税庁長官の地位が、果たしてそれと引き換えにするほどのものであったのか。魔が射すというのは、本当に恐ろしいものだと思います。佐川さんには「いつでもやり直せるからね」と言ってあげたいです。もちろんこれは霊的な意味においてですけれども。安倍さんにも菅官房長官にも、その他の閣僚にも、同じ言葉を言ってあげたいです。いつでもやり直せるからね。

 

ただしそのやり直しをするためには、地位、名誉、名声、金、敵味方、に関する今までの「信念」をスッパリ捨てなければなりません。実にここがポイントです。ある人にとっては別に何でもないようなことが、ある人にとってはもの凄く難しい。それだけ強い「信念」に洗脳されているためです。でも本人は、自分が洗脳されているとはちっとも思っていないのです。

 

「自由」というものの裏側には、「捨てる」ということがあるのです。一つ捨てれば、一つ自由になる。そしてぜーんぶ捨てれば、人は完全な自由になるのです。でも全部捨てたら空っぽになると信じ込んでいる人は、怖くてとてもそんなことは出来ない。自分の本質が何かということを、考えたこともないし、全く知らないのです。どうせ最後は、誰でも全部捨てることになるのに‥‥。

 

今度の事件は、枝葉末節を取ってしまえば(もちろん、枝葉末節を明らかにすることは必要で、そこから転換が始まるのですが)、根っこにあるものは幼稚園レベルの話でしかありません。安倍さんは、そのことを、身を挺して、頑張って、国民に知らしめました。そういう役割をこなしました。これを無駄にしてはなりません。

 

私たちは、権力者から、実に様々な刷り込みを受けていますが、そういう権力者たちそのものが、非常に低レベルの刷り込みを受けて育った人間たちであるということを、この機会に、みなさんがしっかりと学習して欲しいのです。同じことを何度も繰り返すのは、もう止めにしましょう。ここを超えなければ、人間の進歩はありません。

 

都議選では「都民ファースト」が圧勝したわけですが、既成政党の凋落と新興勢力の大躍進という、いま世界中で起きているムーブメントと同様のことが首都東京でも起こったにせよ、それがいま言った構造からのジャンプを示しているのかと言えば、決してそうとは言えないでしょう。やはり、振り子を逆振りしただけなのではないでしょうか。

 

政治家は「政策」ということを言いますが、短期間の選挙で、「政策」を見て判断するなどということは、どだい無理です。しかも、今やマニフェストなど、当選後は平気で破るというのが当たり前になってしまいました。かといって、怒りやムードで代議員を選んでしまったら、また裏切られるということになってしまいます。

 

いちばん確実なのは、「人間性」を見ることです。その人の思考も言葉も行動も、すべては「人間性」から発せられます。ですから、よい「人間性」を持った人は、必ずよい政治をしようとします。そういう人を見出して、政治の世界に送り込むのです。ただしそうなるためには、有権者自身が先ず変わらなくてはなりません。

 

冒頭で〈今の人間社会が、基本的に欲得を基盤として動いているため〉と書いたのはそこです。出身校や家系や肩書きなどに惑わされることはもう止めにしなくてはなりません。今度の事件は、素晴らしい人物もいることを、対照的に、見事に炙り出してくれましたね。これもご計画であり、必然なんですよ。

 

腐った政治家の二世、三世、四世は、もう要らないのです。腐った家系の、腐った薫陶を受けて育った坊ちゃんお嬢ちゃんたちに、よき政治を期待してもどだい無理です。政治は期待するものではなく、監視するものです。森友・加計疑獄事件は、そのメッセージをハッキリと訴えかけています。今度の事件を通して、幻想の世界から目覚めて、真理の世界をしっかりと見ていただきたく思います。

私の役割?

週1回のペースで投稿をするようになって9ヵ月余りが過ぎました。今は月曜日に投稿する原稿を、その前に2日間かけて書いています。全文を先ず1日でザーッと書き、2日目に文章を手直ししています。このペースにも馴れ、エネルギーの使い方がうまくなったせいか、以前のような疲労困憊という感じはなくなりました。毎回が冷や汗ものながら、今のところまだ続けられています。

 

原稿を書く前には、いつも「どうぞ、人々に有益となるメッセージをお授けください」とお祈りしてから始めています。ですが、書き出すまでの苦しさは、以前とあまり変わりません。いつも、ある畏れを感じながら事に当たっています。チャンネルがうまく開かれないんじゃないか、ちゃんと伝えられないんじゃないか、誤りを犯してしまうんじゃないか、という緊張感が拭いきれません。

 

3rd ステージに入って大きく変わった点は、ご覧いただいている通り、文章量の長さです。自分でもびっくりです。長文が好まれないというのはよく解っているのですが、情報ソースとしては「しっかり伝えたい」という想いがあるようです。この、文章が長い、くどい、同じことの繰り返しが多いというのは、高次元の存在から来るメッセージに見られる、共通した特徴なのです。

 

よく、「あんな長い文章を書いて疲れないの?」と言われるのですが、文章量の長さは別に苦ではありません。次々に入って来ますから。それよりも、チャンネルを開いて、トランス状態を維持し続けるというのが難しくとても苦しい。一人になってグーッと集中しなければいけませんし、その時の自分の心の状態や健康状態にも影響されるので、瞑想をして、事前に調整することが必要です。

 

また、満腹状態ではまったくダメですし、逆にお腹が空き過ぎてもうまく入ることができません。近くに人がいると、その念が入って来るのでこれもダメです。ザワザワした場所では吐き気がしてきますし、テレビが点いていたりすることは、もちろん論外です。そうすると、必然的に、世間とは離れて孤独の中に身を置かなくてはならなくなります。

 

私はこれを、「自分の役割」だと勝手に想って、自分を鼓舞して、やっとの思いで切り抜けているのですが、ふとした時に魔が射して、「自分は何をやっているんだろうか?」という思いに囚われ、沈むこともしばしばです。自分を理解して貰いたいとは思いませんが、「自分の役割」という想いは、実は「錯覚ではないか」という畏れが、今もって完全には消えないのです。

 

私はテレパシー能力は高くはありません。オーラは見えませんし、声も時々しか聞こえません。スプーンだって曲げられません。でもインスピレーションは入って来ます。波動についてもかなり敏感な方だと思います。今までに3人の方にリーディングをしましたが、その3件はいずれもお酒を飲んでいた時で、問わず語りで自然と出て来たものです。ですから、頼まれたからと言って出来ません。

 

この『気づきの啓示板』は、インスピレーションが来た時にメモを取っておき(すぐに忘れてしまうので)、後でそのメモを頼りに、その時の感覚に再びアクセスして、背後の概念を拾いそれを言語化するというプロセスを踏んでいます。ということで、インスピレーションを、自分が持っている知識と、論理展開と、時々やって来るジョークの神様のヘルプで補っているのです。

 

このやり方が、結局、自分の自信のなさ、畏れというものに繫がっています。チャネリングのスタイルにはいろいろとあるようなので、自分のやり方にも、もっと自信を持っていのかも知れませんが、『セス』や『神との対話』シリーズや『アセンション〜宇宙からのメッセージ』などを読むと、そのテレパシー能力の高さや、内容の素晴らしさには圧倒されてしまいます。

 

以前よりは多少よくなりましたが、自信の “信度” はいまだ4弱くらいです。この『気づきの啓示板』では、しばしば「自分を信じろ」ということが言われているのですが、自分を信じ切るというのは、本当に難しいものだと思います。もしかしたら、「自分を信じろ」というメッセージは、他ならぬ、自分に対していちばんに向けられた言葉なのかも知れません。

 

今、図らずも書いたように、このブログで語られている内容と、私個人という人間は別ものです。私は至って下世話、かつ未熟な人間です。ブログでは、一人称に「私」を用いているのですが、この「私」は、自分でもあるし情報ソースでもあるし、その境い目は、遠近両用眼鏡の「バリラックス」のようなもので(たとえが古過ぎ?)、自分でもよく分かりません。

 

今まで、ソースが自らを名乗ったことは一度もありません。私は、たぶん「あれ」だと思っているのですが、「あれ」が途中で入れ替わりに入って来ます。その瞬間の感覚は解ります。左前頭葉に繫がった感覚があるし、身体が熱くなる。そして何より、嬉しくも悲しくもないのに涙が溢れて来る。これが高次元の存在と接触した時の特徴なのです。

 

このことに関連して、最近、私は次のメッセージを貰いました。

「感動は、感情の延長上にあるのではない」

なるほど、と思いました。

このことについては、また別の機会に解説するつもりです。

 

3rd ステージに入ってから、ハッキリ解ったことがあります。これはみなさんにも、様々なメッセージに接した時、その情報が高次元からのものか、低次元からのものかを見抜く際の参考にしていただきたいのですが、チャネラーが高次元の存在と繫がるためには、先ず何より、その人が次のようでなければなりません。

 

・恐怖の予言には目をくれないこと

・オカルティックな方向に走らないこと

・自分のエゴを徹底して滅すること

・大仰なことを言わないこと

・無条件の愛の人になること

 

これらをなぜ破ってはいけないのかは、すべて「波動の法則」によって説明がつきます。「波動の法則」の一つに、同じレベルの波動は引きつけ合うというものがあります。「あの人とは波長が合わない」という言い方がありますが、これは正に「波動の法則」を映していて、波長が合うもの同士(それは人間だけに限らず、物や情報を含みます)が引きつけ合うのです。

 

そうすしますと、いま挙げた五条件に、もしも反することをしたとしたら、どうなるでしょうか。そのチャネラーは、恐怖を集め、オカルトを集め、エゴを集め、嘘つきを集め、愛なき人間たちを集め、それらの念を、自分の所に引きつけることになってしまいます。

 

人間社会というのは、欲得が支配する世界ですので、そこを刺激すれば(たとえば「引き寄せの法則」をエゴの道具に使う)多くの人々の注目を集めることが出来ます。しかしそんなことをすれば、誰にとっても不幸しかもたらしません。エゴの増幅が始まってしまうのです。そのチャネラーも、きっと顔つきが悪くなり、肌は黒ずむか青白くなって精気を失い、しまいには病気になってしまうことでしょう。

 

以前、シンクロニシティの話をしようとして、自分の身に起きた現象を例として挙げたことがあります。数日して、お会いしたある方から、その事例が「面白い」と言われて、私は「しまった!」と思いました。私としては、その裏にある「真理の法則」を読み取って欲しかったのですが、その方には、不思議現象に対する興味しかもたらさなかったのです。

 

もっともっと用心しなければと反省しました。自分をどこまでも Pure にしていく必要があるのです。これを疎かにしてしまったら、高次元の存在とは繋がれないし、情報も入って来ません。その理由は、もうお解りでしょう。これも「波動の法則」の支配を受けるからです。けれども、この Pure ということと、次に述べることを取り違えてはなりません。

 

「美し過ぎる世界」には要注意です。実は、私がいちばん吐き気を催すのは、スピリチュアルな世界、とりわけ「美し過ぎる世界」なのです。スピリチュアルなことに興味をもたれる方の多くが、誤解をしています。「美しい世界」が神の世界なのではありません。「ありのままの世界」が神の世界なのです。それは、自然を見れば一目瞭然ではありませんか?

 

美しい景色だけが自然ではありません。大災害をもたらす脅威も自然の一面なのです。光当たるところ、必ず影あり。それが自然というものであり、宇宙の真の姿です。聖地、聖所、聖なる言葉、聖書、聖人、賛美歌、等々。あまりにも「美し過ぎる」演出をされたものは、すべて人間が拵えた歪みです。自然を映してはいません。それは「美し過ぎる」という、実は汚れなのです。

 

「美し過ぎる」ものが、なぜいけないのか、解りますか? 「美しさ」を、真、善と規定する者は、反対側に「醜さ」を規定します。「美しさ」というのは相対尺度ですから、反対のものがなければ際立ちません。そうすると、自分たちが信じるものは美しいが、それ以外のものは醜いという発想に、だんだんとなっていくのです。美と醜、善と悪というものを分けてしまうのです。

 

組織宗教は、正にそれを利用しました。人間、誰の心の内にも、善悪や美醜の両面が存在します。しかし、自分の中の悪や醜い面は誰しも見たくない。なぜなら「神とは絶対的に美しいもの」だから。そうなった時、悪や醜い面を、自分たち以外の人間にすべて押っ被せてしまえば、自分たちは「美しい」側の存在として、神の寵愛を受けられる、としてしまったのです。

 

そうではありません。すべて「ありのままの世界」が神の世界なのです。ですから、あなたが「ありのままの自分」を発見できた時、妙な頑張りなどはしなくてもよいのだと気づいた時、自分を認め相手も認めた時、あなたは神の世界に入ります。そして、そのすべてをもって「美しい」と言う時には、ファウストが言ったように「この世は美しい!」と言えるのです。

 

神の世界は、遥か遠くにあるのではありません。ましてや祭壇上やシンボルの上にあるのではない。あなたのすぐ横にあるのです。あなたが今、目にし、聞き、触れるところのすべてが、すでに神の世界なのです。そしてあなたも、神の世界の重要な一部だということ。それを、美しいと感じられるかどうかは、結局、あなた次第なのです。

 

ですから、ご自分を、美しいものにしなさい。ありのままを認め、正直に、素直に、朗らかに、周囲の人々に誠を尽くして生きなさい。どこまでも Pure でありなさい。そうすれば、周囲にあふれるものすべてが、美しく輝いているのを見ることになりますから。

アール・ブリュットは、人が「自由」であることの意味を教えてくれる

アール・ブリュット(art brut)」とは、フランス語で「生の芸術」の意味。正規の美術教育を受けていない人たちが創り出す、自発的で、ありのままの表現活動を総称してそう呼ばれています。これを英語に訳した言葉が「アウトサイダー・アート(outsider art)」です。「アール・ブリュット」というと、障害者が創る芸術のように思われていますが、元来はもっと幅広い意味のようです。

 

日本では、戦中・戦後にかけて、裸の大将こと山下清さんが注目されましたが、今日のような開かれた状況を創った嚆矢は、なんといっても「ねむの木学園」の宮城まり子さんであったと思います。今では、同様の取り組みをしている施設が全国にいくつかありますが、宮城まり子さんが始められたころは、本当に異端の取り組みという感じでした。

 

先日、草間彌生さんの『わが永遠の魂』展を観に行って来たのですが、宮城まり子さんも草間彌生さんも、昔はもの凄く叩かれたんですよ。他人と違ったことをする人、しかも今までになかったことをする人(特に女性)は、日本では必ず叩かれるんです。「和」や「空気」を乱すものは決して許さないぞ!というのが日本の風土。そこで、「忖度」という制度?が自然と誕生しちゃう。

 

でも少しずつですが、変わって来ているのはいいことです。ただ草間彌生展が大盛況だったのも、結局は有名人になったからというのがあるのかなぁ? 展覧会場で、あっちでもこっちでも、草間彌生作品をバックに、スマホでパシャパシャ自撮りする人が居るのには、全く閉口しました。うるさくって鑑賞どころじゃない。みんな、いったい何しに来てるのかな?

 

私は「障害者」という言葉が嫌いです。「支援」という言葉も嫌いです。ですから、〈世の中には「障害者」という人がいて、そういう人は「支援」してあげなければいけない〉という、今の社会の風潮や常識にはウンザリするし、クソくらえと思っています。「良いことの押し付け」が、人間を不自由にさせ、幸福を奪っているということに、人はなぜ気づかないのだろうと思います。

 

私は、「障害者」など、どこにもいないと思っています。あるのは「個性」だけです。もし、どうしても「障害者」という言葉を使いたいのであれば、人間は全員が「障害者」だと思います。

 

私だって、目がよく見えない。一日中、激しい耳鳴りがしている。アレルギー体質で、花粉症とアトピー性皮膚炎とリウマチがある。右肩が痛くて腕が背中に回らない。人混みにいると吐き気がする。友だちがいない。パーティーでは隅っこでお地蔵さん状態。市役所の申請書がうまく書けない。高い所が怖い。スピードが怖い。そして何より変な人! 宇宙人。

 

でも、これって「障害」なんでしょうかねぇ? 怒りんぼだったし、ひとりぼっちだし、パニック症候群にもなったし、鬱病にもなったし、金欠病にもなった。あ、金欠病は今もだ。これって「障害」なんでしょうか? 

 

もし「障害」というものがあるのだとすれば、その基準を定めなくてはならなくなります。腕が背中に回らない。それのどこまでが「正常」で、どこからが「障害」になるのでしょうか? 背中の中段くらいまで上がればいいのでしょうか? それとも背中で反対の手の指先と触れなければ「正常」とは言えないのでしょうか? いったいその基準は、誰がどうやって決めるのでしょうか?

 

エベレストは富士山よりも高いから、それだけ優秀なのでしょうか? 全国にある、通称「◯◯富士」は、富士山のまがいものだから、それは「障害者」なのでしょうか? 四つ葉のクローバーは三つ葉じゃないから、「支援」すべき「障害者」なのでしょうか? そんな区別は、みんな人間がしていることであって、それぞれは、ただ自分を生きているだけです。

 

宇宙には、「障害」など何ひとつありません。みんな、ただあるようにしてある。金星や火星は樹木一つないからといって、ではそれは(地球と比べて)「障害者」惑星なのでしょうか? そんなバカな話はありません。ものに基準を設け、物差しを作り、判定し、優劣をつけ、優が劣を支配して当然、などと考えているのは、宇宙の中で人間だけです。

 

「アール・ブリュット」は素晴らしい。胸を打つ感動があります。でもその素晴らしさを、「障害者なのに、あれほどの作品を生み出せる」と、みんな捉えてはいないでしょうか? この前半部分は要らないのですよ。ただ「素晴らしい作品だ」だけでいいんですよ。「感動した」「凄い!」だけでいいんですよ。それがアートというものだから。

 

前半部分をどうしてもくっつけたい人というのは、結局、ピカソだ、ゴッホだ、マティスだ、草間彌生だと、ブランド名をくっつけてからアートを観たい人と同じなんですよね。自分の中に湧き上がる感動を味わいたいんじゃない。有名なものに触れて、ただパシャパシャやりたいだけなんだよね。つまり、自分というものを信じていないんだ。

 

アートとは何か? それは「宇宙の真理」の表現。そこに「宇宙の真理」を表したものです。ですから、「宇宙の真理」を、言葉や、音楽や、色や、形や、身体を使って表現しようとする人、表現したいという欲求を持つ人は、みんなアーティストです。年齢も性別も、ましてや知能など、なんの関係もない。ただ個性があり、そして個性的表現があるだけ。

 

その最高の個性的表現が、皆さんが見ている宇宙であり、自然であり、生命なんです。宇宙も自然も生命も、「そうしたい」という何ものかの「意識」が創ったものです。あなたがそこに、もし「美」を見出すとすれば、あなたは忘れていないということ。自分も、それを創った一員であることを覚えているということ。だから、あなたはアーティストにもなれるし、アートに感動もするのです。

 

「アール・ブリュット」のアーティストたちは、作品を通じて、ふだん私たちが忘れている素晴らしいメッセージを、私たちに伝えてくれているんですよ。それは、「自由」とは何かということ。「自由に生きる」とは、どういうことなのかということ。そして「自由に生きる」と、どんなに素晴らしい世界が現れるかということを。

 

私が生きてきた半世紀。振り返ると、子ども時代には、いま障害者とか自閉症と言われている人たちは、社会からは隔離されていました。その後、社会に順応させよう、社会的基準の人間に少しでも近づけようという動きが起こりました。そして今、反省に立ち、彼らの「自由」にしてあげようという発想がようやく定着しつつあります。でもまだ、全部じゃない。

 

総体では、やはり、何にでもレッテル貼りをした上で、「支援」が必要という発想が、ますます酷くなっています。それを「良いこと」だ「正義」だと考える人たちがいて、社会のスタンダードに押し上げているからです。しかも、そこに商売と利権が絡む。ですから、この人たちは、よもや自分たちが、人間を檻に閉じ込めているとは思っていません。

 

「アール・ブリュット」は、その発想に見事に風穴を空けている、と私は思います。それまでの「こうしなさい」を止めて、「自由に表現していいよ」と言ってから、「アール・ブリュット」は一気に開花した。特徴的な繰り返しパターンや、いつ終わるかと思うほどの延々と続く緻密な作り込みも、ただ楽しい瞬間を、連続させているからこそ出来ることです。

 

これぞ、まさに “ Be Here Now(今ここ)” ではありませんか? 誰にもコントロールされず、自分のインスピレーションのおもむくままに、無計画に、ただ瞬間々々を、夢中になって楽しんで、表現に打ち込んでいると、いつの間にか、もの凄い、壮大な「表現物」が出来上がっているのです。そのあり方は、何かとそっくりだとは思いませんか? そう、自然であり、宇宙であり、生命です。

 

私たちの多くは、なんと自然に逆らった生き方をしているのでしょうか? 誰かの命令に従い、目標を与えられて、計画的に、手順を踏んで、ミスのないように、確実に仕上げることが「よいこと」とされている。そして、神経をすり減らし、自分の楽しみや、家族との交流を減らしてまでも、競争をし、ライバルに勝つのが、デキる人間の生き方だと思い込まされている。

 

それで得をしているのは、いったい誰なんでしょうねぇ?

 

それでも、このように言う人がいるかも知れません。アートなんて、役に立たないじゃないか。彼らだって「支援」を受けているからこそ、そんな生き方が出来るんじゃないか。俺は、働かなきゃ喰えん、と。だとしたら、そんな価値観は古過ぎるし、洗脳がまだ解けていない。私は、アートのない世界なんて想像できないし、アートから日々、生きることの喜びを教えてもらっているよ。

 

それに、「支援」を受けていると言うけど、なんでも自分で出来る人なんて、この世にいないんですよ。あなたは、自分の食べ物を全部自分で作っていますか? 水を汲みに行っていますか? 糞尿を自分で始末していますか? 電気を起こしていますか? 布を織っていますか? 糸を紡いでいますか? 生活に必要な道具は、全部自分で作っていますか?

 

誰もが、常に誰かのお世話になって生きているんです。ことさら「支援」などと言わなくても、困っている人がいるなら助けてあげるのは当たり前です。私は茄子を作れないけど、スーパーが私を助けてくれます。そうやって、助けたり、助けられたりしながら、社会が成り立っている。それは、大自然の営みというものを見れば、明らかなこと。

 

誰にも役割があり、素晴らしい能力があるのです。その能力を、思いのままに、自由に、素直に活かせば、あなたは喜びの中に生きられるし、周囲の人々を喜ばせることも出来るのです。気負って、誰かのために何かをしよう、と考えなくてもいいのです。すべて自分のためにやっていれば、自動的に、それが周囲の人々のためにもなるのです。自然を見なさい。神はそのように宇宙を創った。

 

そうじゃないと思う人。人には優劣があり、優が劣を支配してもよいのであり、劣は矯正されるべきものであり、競争に勝たなければ優のポジションにはつけないのであり、そのためには努力が必要であり、他者を蹴落とす必要があり、嘘をついてでも、歯向かう者を謀略に嵌める必要があり、そうやって勝ってこそ、幸福になれる。

 

こう、強く信じる人によって、今の社会が作られ、その思想を吹き込まれ、運営され、自由を奪われ、奴隷にされてコキ使われ、歪められ、著しい不平等、不公平、富の偏在が起こされている。そんなふうに、神は宇宙を創らなかった。それは、自然を見れば明らかです。足りないものなど実は何もない。すべての人に分け与えられるだけのものはあるのです。

 

だから、競争などする必要もない。自分の「魂」が喜ぶことだけを、“ Be Here Now ” でやっていれば、すべての人がハッピーでいられるのです。

「アール・ブリュット」のアーティストたちは、その真理を、先取りして、現代の人々に示してくれているのです。

人は、本来的に「自由」なんだと。あなたも、私たちに続きなさいと。

不正直であり続けることは、自分の身体を傷つける

正直に生きる。人間にとって、それは最も大切なことです。

 

でもここで言っている「正直」は、世間で言われているところの「正直」とは、ちょっと意味が違います。「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが大切だと言うと、これを杓子定規に捉えて、たとえば他者に対して、自分が思っていること感じていることを何でもかんでもぶつけるのがいいのかという方もいらっしゃるのですが、そうではありません。

 

世間で言う「正直」「嘘をつかない」は、他者に対する態度として言っていることですが、ここで言う「正直」「嘘をつかない」は、自分に対して言っていることなのです。つまり、自分の「魂」に対して、「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが、何よりも大切だと繰り返し言ってきたのです。そして、これを言い換えると、「自由」に生きるということになるのです。

 

自分の「魂」に「正直に生きる」とは、どういうことを言うのでしょうか? また、なぜそれが最も大切なのでしょうか?

 

あなたの本質は「魂」にあります。そして、そのコアを形成する部分は、宇宙意識から「自由」を求めて別れたものであり、別れた状態にあっても、なおテレパシーによって常に繋がっています。このことから、あなたが、自己の「魂」の純粋な部分にアクセスすれば、それは自動的に宇宙意識とのチャンネルを開くことになるのです。

 

このようにして繋がった宇宙意識は、「宇宙の真理」そのものなのですから、それと繋がっている自己の「魂」に「正直に生きる」ということは、「宇宙の真理」のまさに体現となるわけですね。ですから、自分の「魂」に嘘をつかず、日々を正直に生きれば、不安もなく、間違いもなく、「自由」そのものを生きられるということになるのです。

 

他者に対して「嘘をつく」ということと、自分に対して「嘘をつく」ということは、重なっている部分も多くあるのですが、意味合いは大いに違います。他者に対して「嘘をつく」ことは、道義的な責任を問われることがある一方で、バレなければ御の字だという発想も生んでいます。ところが自分に対して「嘘をつく」ことは、その責任と結果から誰も逃れようがないのです。

 

このことを、人間は解っていません。他人に対してついた「嘘」は、隠し通せることもあると、図々しい人たちは思っています。その時、自分に対しても「嘘」をついていることは、完全に忘れているのです。自分に対して「嘘」をついているという感覚が、そもそもないのです。自分という存在は、この肉体を持ち、思考している存在だと考えているからです。

 

そうではありません。何度も言うように、あなたの本質は「魂」にあるのです。では、「魂」に「正直に生きる」とは、どういう状態を言うのでしょうか? あなたが、充分にリラックスしていて、ホンワカとした温かな気持ちにある時、あなたは「正直」に生きています。逆に、緊張して、ギスギス、ザワザワしている時には、「正直」に生きてはいません。

 

さらに言うと、嬉しくも悲しくもないのに、つまり感情は動いていないのに、ただ涙が溢れてくる。このような感動が内部から押し寄せてきた時というのは、あなたの「魂」が、宇宙の真理を掴んだ時です。言い換えると、自分が、何者であったかを思い出した瞬間なのです。それは、五感で感じる感動とは、全く異質のものです。これは、「正直」に生きているがこその感動なのです。

 

さてそう考えると、日常生活の中で、緊張を強いられたり、気持ちがギスギスしたり、ザワザワしたりすることの、なんと多い社会に、現代人は暮らしていることでしょうか? これらはみな、「魂」に「正直」に生きていないということを、正直に物語っています。

 

その原因は、一体どこにあるのでしょう? 結局それは「〜ねばならない」という数多くの「信念」を、子どもの時からイヤというほど刷り込まれ、そのまま大人になり、今度は自分が言う番になって、また多くの人々をその「信念」に従わせるということが、何万年にも渡って続いてきたからです。そして恐ろしいことには、こうした歪んだ「信念」を、強固に持つ人ほど人間社会では高い地位につけるのです。

 

倫理、道徳、正義、善、富、これらを人間社会では尊びます。悪い社会というのは、これらが失われた社会だと、多くの人が考えています。でも、世の中をよく観察してみてください。そこには、異なる倫理、異なる道徳、異なる正義、異なる善、異なる富の基準があって、互いに非難の応酬をし合っているのが現実だということを。

 

Aさんは、倫理、道徳、正義、善、富に関する自分の「信念」を持っている。今の世の中は、それらのものが失われていてけしからんと思っている。でもそれは、一人の人間の思い込みに過ぎなくて、Bさん、Cさんは、全く別の倫理、道徳、正義感というものを持っているかもしれない。「信念」を持つ人たちからは、そうした発想が抜け落ちているのです。

 

政府やメディアが断定するテロリストだって、彼らの「正義」によって行動しているんですよ。仮に、私があなたに自爆テロを命じたとしましょう。当然、誰もそんな馬鹿なことはしないでしょう。でも「正義」のためならば、人殺しだって、自分の命を捨てることだって、人は厭わないのです。

 

そんなものが、本当に宇宙の理法だとお思いでしょうか? 神のご命令だと、あなたはお思いでしょうか? ところが、宗教的信念は、その矩(のり)を、簡単に乗り越えてしまうのです。世界は一握りの狂人によって操られている。このもの凄い歪みが、ただ「信念」だけによって、今の人間社会では簡単に起きてしまうのです。

 

人間はまだ、倫理、道徳、正義や、善や富に関する価値基準そのものが不要なんだということまでは気づいていません。実にこれこそが、人間がいつまでも覚醒できない理由なのです。しかし、そうした「信念」を、綺麗サッパリ捨て去ることが、真の「自由」というものへの目覚めであり、「幸福」への扉なのです。つまり、人間社会でふつう言われていることとは、真逆だということです。

 

そして「正直に生きる」ことには、あなた方が知らない、もう一つの重要な意味合いがあります。それは、健康の基本だということ。生命を繋ぐ基本だということ。逆に言えば、「不正直」に生きることは、自分の身体を傷つけることになるということ。深刻な病気になる可能性が高いということです。

 

これは因果応報ということで言っているのではありません。宇宙の理法からして、そうなる可能性が高いということなのです。

今日は、このメカニズムについてお話ししましょう。

 

あなた方の意識が、底の部分では宇宙意識と常に繋がっているということは、いま説明しました。人間以外の動植物は、この繋がっている「feel」という感覚を自然に持っているのですが、人間だけは著しく退化してしまったのです。それは、いわゆる五感と知能との連携プレーの部分のみを発達させ過ぎたために、「feel」に蓋をしてしまったからです。

 

一方、脳がつかさどる意識とは別に、身体上の細胞にもそれぞれの意識が存在します。このことは、現代科学ではまだ認めていませんが、子供時代の古傷が同じ箇所にずっとあるというのは、細胞が記憶を持つということの何よりの証拠ですし、過去世との絡みで、過去世に拷問を受けたとか、槍が突き刺さったなどの部位に斑紋があったり、痛みを覚えたりするという人もたくさんおられます。

 

さて、そうした身体上の各細胞は、宇宙の真理に沿った生き方を、自動的に選ぼうとします。なぜならば、それが、自分が(つまり個々の細胞が)生きたい道だからです。それが理に適っていると、細胞は知っているからです。ところが、そこに、「脳が創る意識」が介入してくるのです。

 

自分の「意識」が現実を創るということは、これまでにも何度かお伝えしました。覚えておられるでしょうか? これは、何も周辺の環境のことだけを言っているのではないのです。あなたの身体も、あなたの「意識」が創り出します。あなたが「もっと食べたい、もっと食べたい」と意識し、そのように行動していれば、それに応じた身体が創り出されます。

 

その意味で、私がいま非常に懸念していることは、現代人が健康についての「脅し」を掛けられ過ぎているということです。やれ、◯◯障害じゃないか、精神疾患じゃないか、定期検診を受けないと癌で命を落とすぞ、新しいウィルスが蔓延してるぞ、というような不必要な情報で雁字搦めにされている。

 

しかも、「健康情報」と言って、新しい言葉がどんどん作られ、「最新の研究から、◯◯が発達障害の原因であることが分かりました」とか「癌の原因になることが分かりました」などという、更ななる「脅し」が、メディアを通じてバラまかれています。これらは、ある意図があって、故意に行われていると思いますが、人間の身体にとってはマイナスの作用しか及ぼしません。

 

話を戻します。身体の各細胞は、本来の状態で生きたいと思っているのですが、そこに「脳が創る意識」が介入してきます。その「意識」が、「魂」に「嘘をつく」生き方をしていますと、「正直」に生きたい身体の細胞と、脳が命じてくる「嘘をつく」生き方との間に、乖離が生じるのです。意識間の矛盾と葛藤です。これがよく言われる「ストレス」というものの正体なのです。

 

医者は、単に「ストレス」としか言いませんが(それは今のようなメカニズムを知らないために、その言葉で逃げているだけですが)、細胞レベルでは、今後の生き方に関して、激しい葛藤が続いているのです。特に「嘘をつく」ということは、奥深いところでの自己否定ですから、それが身体の細胞に伝われば、細胞の生き方否定にまで繋がってしまうのです。

 

ですから、一時的に葛藤が生じたとしても、早めに反省して修正し、充分リラックスして身体細胞をいたわってあげれば、元の元気を回復します。ところが、「嘘」をつき続けておりますと、こうした修復の時間がないばかりではなく、細胞否定をし続けることになってしまい、ついにはバランスの限界を超えて、重大な病気が発生します。

 

この、病気の発生箇所は、脊髄に沿ってある7箇所のエネルギーセンター(通称チャクラと呼ばれ、肉体上ではなく、アストラル体上にある)と、これにつながる経絡、および神経がおよぶ範囲の臓器や骨格、筋肉等に出現します。

 

各エネルギーセンターには、霊性上における課題がそれぞれ振り分けられているのですが、その課題に関して問題のある箇所に、病変が出現するのです。たとえば、常にカッカしているような人は、感情をつかさどるマニピューラチャクラに対応した部位である、胃腸に病変が出現します。逆に言えば、病気の箇所が分かれば、その人の霊性上の課題が分かります。

 

ということで、「正直に生きる」ということが、健康をつかさどる意味においても、いかに大切であるかがお解りでしょう。あなたの身体は、借り物です。借り物である身体を、自分のエゴによって傷つけないように、いつも大切に思って充分にケアしてあげることが必要です。食事、運動はもちろんですが、正直に、朗らかに、愛を持って、楽しく生きることが、健康のためにはいちばんなのです。

他者を攻撃する人の意識の奥にあるもの

5月28日、米インディアナポリスで行われた世界3大自動車レースの1つ、通称「インディ500」で、日本人の佐藤琢磨選手が優勝を果たしました。日本では「インディ500」と言っても、あまり知られていませんが、これってもの凄い快挙なんですよ。何しろ今年で101回目を数えるアメリカ伝統の耐久レース(800kmを時速350キロで3時間走る)。当日の観客数は35万人。日本人の優勝はもちろん初めてです。

 

かつて、F1に夢中になった者としては、佐藤琢磨選手のひたむきさ、誠実さ、朗らかさ、忍耐と努力の結晶がやっと実を結んだことを嬉しく思います。今は、スポーツ全般にまったく興味がなくなってしまい、(最後に見たオリンピックが、なにしろQちゃんのシドニーマラソン優勝ですから)佐藤琢磨選手の優勝にも血は騒がないのですが、生き方は大いに讃えたいのです。

 

さて、そんな晴れやかなシーンに関連して、一つの騒動が持ち上がりました。コロラド州デンバーの日刊紙『Denver Post』のあるベテラン記者が、自身のTwittter上で、佐藤琢磨選手の優勝に対して、次のようにコメントしてしまったのです。

 

“ Nothing specifically personal, but I am very uncomfortable with a Japanese driver winning the Indianapolis 500 during Memorial Day weekend. ”

「個人的に特に恨みがあるというわけじゃないが、メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の週末に、日本人ドライバーがインディ500で勝利したのは、実に不愉快だ。」

 

これが人種差別的発言だとして波紋を呼び、しばらくして、この記者は「佐藤琢磨選手に謝罪します。メモリアルデーの週末ということで感情的になってしまい、第二次世界大戦の相手国の一つへの愚かな発言をしてしまいました。」と謝罪文を出したのですが、反応した『Denver Post』が、直ちにこの記者を解雇し、それで一件落着としてしまったのです。

 

この事件を知ったとき、私は、何もかもが極めて今日的だと感じました。先ず発端が Twitter だったことです。そして内容がヘイト発言だったことです。次に、このヘイト発言が過剰な反応を引き起こし、まるで制裁を課すようにして、この人物が解雇されてしまったことです。謝罪文を出したにもかかわらずです。当の佐藤琢磨選手が「意に介していない」と言っているにもかかわらずです。

 

何か「不寛容の精神」といった、今の時代の雰囲気がモロに出ているのを見るようで、胸が痛くなりました。人間というのは、過ちを犯します。でも、それを反省するところに成長があるわけです。当の本人とは何の関係もない人々が、一つの「ネタ」をもとに、非難の応酬をして傷つけ合うということが、今やネット社会では当たり前のように行われています。が、これはその典型例です。

 

その事の収め方が、「解雇」という、「問題記者は解雇しましたから、もう当社とは何の関係もありません」で果たしてよいのだろうか、ということです。確かに、これで「炎上」という事態は収まるでしょう。その意味では賢いやり方かも知れません。けれども、「不用意にせよ、人種差別的発言をした者には厳罰を与える」では、事の裏にある本質にまったく迫れないのではないでしょうか?

 

人種差別発言はいけない。確かにいけないのですが、「おい、それは人種差別だぞ!」と、怒りの矛を向けるのも、また一つのレッテル貼りになってはいないでしょうか? 真の問題は、ポリティカル・コレクトネス(その発言が適切かどうかという、一種の言葉狩り)にあるのではありません。どうして人種差別はいけないのか、それなのにどうして人は差別をしてしまうのか、をもっと深く見つめることです。

 

それでこそ、事件が活きるというものです。反省の機会を、みなが持てるということです。本質に気づけるということです。マイナスをプラスに変えられるということです。すでに反省の弁を述べている記者一人を解雇して、「自業自得だ」と更に追い詰めても、集まったネガティブなエネルギーが行き場を失い、そのまま浮遊するだけで、誰にも、得るものは殆どありません。

 

この事件の本質はこうです。この記者は、なぜ不用意な差別的発言をしたのでしょうか? 重要なポイントは、記者と佐藤琢磨選手とは、何の関係もないということです。そればかりではありません。第二次世界大戦と佐藤琢磨選手も関係がありませんし、「インディ500」とメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)も関係がない。ただ同じ週だというだけ。要は、関係ないことばかりの組み合わせで出来上がっているということです。

 

この、互いに関係のないピースの接着剤となったのは、たまたま佐藤琢磨選手が日本人だったということ、ただそれだけ。その日本人が、これぞアメリカとも言うべき、伝統の「インディ500」レースに、なんと勝ちやがった。メモリアルデーの週末だというのに、敵国だった、しかも敗戦国の日本人にやられちまった。あー、胸くそ悪い。

 

と、これは、全部が、この記者の、実は「観念(信念)」が創り上げた、勝手な「想い」であったということです。この点に、すべての人が気づかなければいけません。それを、やれ「人種差別的発言だ」「新聞記者が人種差別なんてもってのほかだ」「絶対に許せない!」「クビ? ザマーみろだ」などとやっていたのでは、何の進歩もありません。

 

日本は島国であったために、たまたま、世界の中では、非常に特殊な、(ほぼ)単一の民族性というものを有しています。この特殊性というものを考慮せずに、最近、単純な国家主義を打ち出して、周辺国を小バカにする、貶める、脅威を強調するという態度が、とても目立つようになってきています。

 

特に日本は、多民族・多人種社会の経験がないために、差別的発言に関しては規制が非常に緩く、野放し状態になっています(決して規制すべきと、言っているわけではありませんので、誤解なきよう)。それらの奥にあるものも、結局は同じだということ。自分の「信念」が創り上げた、自分の「想い」に過ぎないということに気づいていただきたいのです。

 

それは、「信念」と、そこから生じた「想い」に過ぎないのですから、「信念」を変えれば、「想い」などいくらでも変わってしまうのです。人間はみな同じで、どの人も貴く、生きる価値があり、能力があり、愛があり、解り合えるという「信念」を持っていれば、全く別の「想い」と行動原理が生じて来るのです。そのようなものだということです。

 

そこで、いいですか、どんな戦争も「防衛」が口実になって行われているということに注意を向けてください。なんと「防衛」の為の「先制攻撃」というロジックまでもが大真面目に存在し、実際にそれが遂行されているのです。こんな奇妙な話があるでしょうか? 先制攻撃された側の一般市民は、その時、それをどう思うでしょうか?

 

戦争はいけない、でも防衛は必要だと、みんなそう思っています。けれども、「防衛」という意識そのものが、他国や他陣営との分離、差別意識が下敷きとなって生じている、ということまでは、さすがに誰も考えない。それが当たり前だと思っているから。(でも世界には、軍隊を持たない国だってあるんですよ)

 

このことは、個人に還元して考えてみればよく解るでしょう。あなたは、個人と個人の関係においても、根底に「防衛」意識を持つべきだと考えている人でしょうか? それとも、人類みなアミーゴだと考える人でしょうか?

 

実にこれこそが、人類が進歩できない、そして同じ過ちを何度でも繰り返す根本原因なのです。人間、みんな同じだということが解っていない。深いところで解っていない。人間は別々だと思う。優劣があると思う。宗教ですら、上下を作り、優劣を説き、誰かを崇め奉る一方で、分離意識をけしかけている。ご覧なさい。今日の戦争の大部分は、宗教が説く「信念」がもとになっています。

 

民衆レベルでは、「どの国の、どの民族の人も、同じなんだよね」「みんな、平和でハッピーに暮らしたいだけなんだよね」ということは、感覚的にけっこう解っています。『世界ふれあい街歩き』や『関口知宏の◯◯鉄道の旅』や『コウケンテツの世界幸せゴハン紀行』や『世界入りにくい居酒屋』を観れば、実にそれがよく解る。

 

ところが、政治指導者がそうではないのです。政治指導者が、故意に、周辺国の脅威を煽り、「防衛」を声高に主張し、メディアがそれを流し、民衆がそこに巻き込まれ、犠牲となって行くのです。それが戦争の歴史です。要は、政治指導者こそが、最も差別意識の高い「信念」に凝り固まっていて、そこから生じる「想い」を、自己の行動原理にしているということなのです。

 

彼らが、なぜ差別意識の権化になっているかと言えば、その思想を絶えず民衆に植え付けることによって、自分たちがその上に君臨するためなのです。ここに気づかなければ、民衆が、使い捨ての駒にされてきた長年の悲劇から抜け出すことは、永遠に出来ません。時代は今、そこに差し掛かっています。すべての嘘、すべてのカラクリ、そしてその根本原因を見抜くのです。

 

誰かが誰かを攻撃する。こういう場面を目撃した際、よく観察してみれば、そこには、表面上の問題の奥に隠れて、必ず二つの原因があることが見えるはずです。一つは、攻撃する側の人間の「心の投射」です。自分の中の、不安、不満、絶望感、やり切れなさ、怒りなどを他の人間に投射している。それが、結果として、表面的には他者攻撃に映るのです。

 

もう一つは、いま述べてきた「信念」です。自分の「信念」にそぐわない者は、自分の「信念」を犯す可能性があるので排除しようとする。それは「信念」ですから、その人は、自分が正しいことをしていると思っているのですが、根底には、他者との分離意識や優越感というものが色濃く横たわっているのです。

 

どのような他者攻撃も、基本的に、この「信念」と、自分の「心の投射」との組み合わせによって成り立っています。強固な「信念」を持つ人は、いつもそのフィルターを通して世の中を見ています。そのため、フィルターにちょっとでも引っ掛かるものがあるとすぐにイラッと来て、自分の感情の「想い」を、簡単に対象に「投射」してしまうのです。

 

その人は、相手がすべて悪いのだと思っています。そう信じ込んでいます。でも、そのようなフィルターを掛けて相手を見ているのは自分なのですし、そこで抱いた感情も、たくさんある選択肢の中から自分が選んだ感情です。要は、すべて自分が起こしている。しかしそのことに気づかないまま、適当な相手を探しては、それをぶつけているだけなのです。

 

このようなわけですから、その人が持っている「信念」が強ければ強いほど、攻撃的な性格を帯びることになります。それが宗教戦争であり、テロリズムであり、権力者による弾圧です。

 

アメリカはどうして戦争ばかりしているのか。それは、「自分たちは常に世界一でなければならない」「世界中に民主主義(という名の、実は属国化支配)を根付かせなければならない」「我こそが正義であり、悪は殲滅されねばならない」「行動に際しては、弱腰であってはならない」という、権力者によって刷り込まれた強固な「信念」を、アメリカ国民の大半が共有しているからなのです。

 

結局のところ、小学生が教室でやるイジメも、教育者が子どもに対してするイジメも、大人が職場でやるイジメも、権力者がメディアを使ってやるイジメも、国家が他国に対して行うイジメも、原因はみんな同じです。歪んだ「信念」と、その人の「心の投射」の組み合わせから成っている。

 

ですから、みなさんにお願いしたいのは、ここをよく観察して見抜いていただきたいということです。あ、今の発言は「心の投射」が30%で「信念」が70%だなとか、今度の行動は「心の投射」が90%は出ているな、という具合にです。攻撃的な人を、じっくり観察するのです。

 

相手が繰り出して来る「心の投射」に、こちらも「心」で反応してしまってはいけません。投げられたボールは受け取らないことです。もしキャッチボールなどしてしまったら、相手が作る土俵に入れられてしまいます。相手は、その返って来るボールをエネルギーとしているのですから。

 

そうではなくて、「心の投射」の原因となっている苦しい「想い」を見抜いて、憐れんであげてください。彼らにも、育って来た中で身につけてしまった原因があるのです。そして「信念」に関しては、その「信念」でガチガチになっている不自由さ、自分で自分を牢獄に閉じ込めている不毛状態から、早く脱することが出来るように、愛の波動を送ってあげてください。

 

心優しいあなたなら出来るはずです。先ずあなたから、この世界のひどい混乱状況を、ここで打ち切るのです。憎しみの連鎖、傷つけ合いの連鎖に終止符を打つのです。そうすれば、やがてあなたに感化される人も出て来ます。世界を覆い尽くす分離意識に、今こそストップをかけるのです。そして、さらにその先を行くのです。

 

すべての現実は、意識の具体化であるというセオリーを思い出してください。世界の現実は、人類全体の意識の具体化なのですよ。ですから、あなたが必要なのです。あなたの愛と能力が必要なのです。ともに頑張りましょう。そして、みながハッピーに暮らせる社会を創りましょう。

正直者は馬鹿を見ない

恐怖政治がまかり通る社会が、着々と進展しています。しかしそういう体制をむしろ好み、賛同している人も多くいるのですから、もうどうにもなりません。人類というものは、結局、賢くなれないのかなぁと考えてしまいます。過去に、何度も何度も同じ悲惨さを経験して来ているというのに、また同じ方向に進んで行くのですから‥‥。

 

そうさせているのは、つまるところ、人間が持つ「欲」です。株価のアップダウンを見れば一目瞭然。バブルが弾け、「◯◯ショック」というものが起きて、みんな「困った、困った」という事態になっても、「こういうシステムが、そもそもおかしいんじゃないか?」「もうやめようよ」という人はいない。事態が沈静化すると、またぞろバブルを期待する方向へとシフトして行く。

 

戦争だって、原発だって、みんな同じです。「もう二度とゴメンだ」「こんな危ないものはコリゴリだ」と一度は口にしても、しばらくすると、またそっちへ声高に誘導する人が現れて、いつの間にか多くの人が後をゾロゾロと着いて行く。反省とか、学習経験というものが、残念ながら人類には殆ど見られないのです。

 

どうしてこんな、不毛が繰り返されるのでしょう?

 

それは、誘導する人と、後を着いて行く人の、心の奥底に眠る「欲」が一致するからです。ただ、一致するといっても質が少し違う。扇動する人は、「欲」を、「これは大衆を誘導するための、いちばん有効なツール」と意識した上で使っています。でも大衆の側は、その意図を知らないで、ただ乗っかって行く。乗せられて行く。

 

結局は、「欲」というものが、人類にとっての猛毒なのですが、あまりにもシンプルな結論ですし、「欲」を否定してしまったら、今の経済活動が全部成り立たなくなってしまうわけですから、その奥の部分には触れないで、もっぱら上っ面の現象面についてだけ、あーでもない、こーでもないと議論をしているのです。

 

想像してみてください。もしも、経済学者や政治家が、「今の貧富の格差の原因は、一体どこにあるとお考えですか?」と問われて、「それは、人間の欲にあります」と答えたとしたら。たぶん、「こいつはアホか」と思われてしまうでしょう。そこは、宗教家が語る領域ということになっていて、でも宗教家が語ったとしても、実社会に反映されることは決してないのです。

 

つまり、今の人間社会では、真実というものが牢屋に入れられ、隔離されてしまっているのです。

 

一人ひとりの心の中に、みな「欲」が眠っていること、それ自体は責められません。しかし問題は、そこに気づけるかどうかということです。今の社会システムの中では、その「欲」が、人類の悲劇の根本原因だと気づくまでには、三重もの扉をくぐり抜けなくてならないのです。

 

第一の扉は、自分たちが、社会が提示する「欲望のシステム」に操られていたと気づくことです。

第二の扉は、「欲」こそが、人間の幸福を遠ざけているものの正体だと気づくことです。

そして第三の扉が、自分の中に眠る「欲」を冷静に見つめ、これをほじくり出し、認め、滅する方向へと梶を切ることです。

 

このように、三段階を経る必要がある。

ところが、今の日本人は、第一の扉さえ開けるまでには至っていません。

 

狭い部屋で、大勢が集まって、扇動者が開いた講演会にみな聞き入っている。空気が、もうすっかり淀んでいるのに誰も気づかない。そのうち一人が「ねぇ、息苦しくない?」と言い出す。そこで扉を開ける。その瞬間、フレッシュ・エアーがサーッと入り込んで、「そうか、俺たちはこんな淀んだ空気の中にいたのか」と、みんなやっと気づく。

 

結局、中にいる間というものは、分からないのです。自分たちが、その「空気」に、すっかり汚染されていたということに。でも、一度扉が開いた後は速い。今の政治指導者、経済指導者、宗教指導者、有識者という人たちが、いかに幼稚な霊性しか持たずに、また持たないがゆえに、社会に君臨して来たかということが、誰の目にもハッキリと分かるようになります。

 

まさに、ジョン・レノンが言った「世界は、狂人たちに操られている」ということが、白日のもとに晒されるようになる。でもそのためには、地球全体を覆い尽くした、第一の扉が、先ず開かれる必要があるのです。そして、それが出来た時、はじめて宇宙から地球に、フレッシュ・エアーがサーッと入って来る。その日のために、我々は辛抱強く努力しなくてはなりません。

 

現実というものは、人間の意識が創り出しています。このことはもう何度も言って来ました。あなたの現実は、あなたの意識が、そして人類全体の現実は、人類の総意が創っている。

そういう中で、人類に覆い被さった第一の扉がなかなか開かない。

 

でも考えてみてください。恐怖政治が台頭して来たということは、恐怖政治をもってしなければ、第一の扉を守り続けることが、もはや難しくなって来たということを意味しているんですよ。

そこで、あなたの、今後の生き方が問われるのです。

 

「正直者は馬鹿を見る、という世の中であってはいけない」などと、よく言われます。そう言われるのは、「馬鹿を見る」ことがあまりにも多い現実があるからです。人間が「嘘つき」になってしまう理由は、我が身かわいさのいわゆる「保身」と、この「正直者は馬鹿を見る」が、セットになって心に刷り込まれているからです。

 

でもそれは本当なのでしょうか? 本当に「正直者は馬鹿を見る」のでしょうか? この『気づきの啓示板』では、「素直」で「正直」であることがなによりも大切だと、何度も強調されています。もし本当に、「正直者は馬鹿を見る」のであれば、「素直」で「正直」であり続けようとすることは、「馬鹿を見」続けることになってしまいます。が、果たしてそうなのでしょうか?

 

あれは26歳の時だったと思います。当時、私は東京の場末にある某映画館勤務の職に就いていました。支配人の下に私と50代の男性社員が一人、映写技師さんが一人、その他に売店を任されたアルバイトのおばちゃん二人という体制でした。今のようなシネコンの前の時代で、映画は完全な斜陽、経費を削減するために、私は映写技師の仕事も兼務していました。

 

ある時、映写技師の仕事をしていて、リール交換が終わった後で休憩に下へ降りて行くと、50代の男性社員が、チケットを発券せずに、割引値段にして客からお金を貰い、客をそのまま館内に入れているのを目撃しました。「あらあら」と私は思ったのですが、この人は、私がその職に就く前にも、同じことをして注意処分を受けていたとのことでした。

 

でも私は、それを支配人に言わないでいたのです。なぜかと言うと、前の時に、支配人の温情によって、その件が不問にされたという事情を知っていたからでした。ところがしばらくして、売店のおばちゃん二人が、やはり同じような現場を目撃したらしく、その件を本社に通報してしまったのです。ということで、えらい騒ぎになりました。

 

数日して、調査のために本社から役員がやって来て、私も聞き取り調査をされました。そこで私は「自分も、同じことを目撃したことがある」と正直に答えたのです。それから一週間ほどして、その件に関する裁定が下りました。どうなったと思います? なんとそのおばちゃん二人はクビ。私は辞職勧告を言い渡されたのです(クビには出来ないので)。もう最低の裁定ですよ。

 

唖然としましたが、それが組織というものなんでしょう。支配人にとっては、自分の面子を潰されたということが、相当のおかんむりだったようです。私はその職を失い、いろいろ考えた末に、東京での夢を諦め、田舎に帰ってカラオケスナックのボーイとなり、カミさんは旅館の仲居として働いて、まさに『昭和枯れすすき』を地でいくような生活をしばらく続けました。

 

その時は、「正直者は馬鹿を見る」とはこのことかと、失意のどん底にあったのです。その後も、誠実に生きようとはして来ましたが、繰り返し繰り返し「正直者は馬鹿を見る」を体験しました。極めつけは、最後の砦と思って足を踏み入れた精神世界です。しかしここも、一般社会と何ら変わりのない「欲」が渦巻く世界で、自分はそこでも正直さを誤解され、排撃されました。

 

ハッキリ言って、組織では「正直」であることは、通用しません。組織というものは、元々はある目的のために作られるのですが、いったん組織が出来上がると、いつの間にか目的が「組織の維持」にすり替わってしまい、その為なら「不正直」であることもいとわないようになるのです。必ずそうなる。なぜかというと、組織のヒエラルキーの中に「ポジション」という価値が出くるからです。

 

ですから、組織の中で「正直」であろうとすることは茨の道です。出世などは端から無理。サラリーは上がりません。ちょっと逆らえば左遷。悪くすれば濡れ衣を着せられ、逮捕・投獄されたり、場合によっては闇に葬られるということもあり得ます。でも、たとえそうだとしても、いや、だからこそ勇気を持たなくてはなりません。それが、これからの人類に示された課題です。

 

茨の道? そんなものが何だと言うのでしょうか?

あなたの本質は「魂」にある。このことを、忘れたのですか?

「魂」は永遠の存在で、カルマを背負って輪廻転生する。

このことを、忘れたのですか?

 

あなたの本質は「魂」なのですから、人生の岐路に面した時には、迷わず「魂」が成長する道を選ぶのは、当然ではありませんか。人類というのは、今までそれが出来なかったのです。目には目を、歯には歯をで、しょっちゅう報復を繰り返し、常に「魂」が喜ぶ道とは逆を選んで来たのです。もう、そのようなカルマの連鎖にストップする時がやって来ました。

 

恐怖政治を敷く者も、実は自分がいちばんの「恐怖」の塊だからなんですよ。自分の側近たちを常に疑い、歯向かう者は容赦なく片づける。そういう人物に、なおも近づいて来る者というのは、その権力が魅力なのであって、人物が魅力なんじゃない。だから、ひとたび形勢が悪いとなれば、さっさと船を降りて、一目散に逃げて行く。

 

一見、この世の春を謳歌しているように見えても、自分と同じ悪徳の波動を出す者を側近に集め、さらには多くの人の恨みを掻き集めているのですから、「魂」としてはたまったものではありません。事が大きくならないうちに、「正直」に帰っていればいいものを、嘘に嘘を重ねて生き、多くの人を陥れるカルマを作って、一体どうするのでしょう? 無智とは、本当に恐ろしいものです。

 

『虹の学校』を始めた当初、自分はまだ失意の中にありました。傷がまったく癒されていなかった。でも、こうなったら我が道を行くしかないと思ったのです。そして2年、3年が過ぎてからやっと気づいた。要は、自分の純粋さが足りなかったのです。中途半端だった。もっともっと、遥かにもっと純粋であらねばいけなかったのです。

 

「馬鹿を見る」という想いが生じたのは、まだ世間の物指しに当てて自分を見ていたということです。だから、「馬鹿を見た」という、嘆きや、怒りの想いが自分の中に沸いてきていた。物指しそのものを捨てるということが、出来ていなかった。要は、世間と同じ「欲」の物指しの中に、自分もいたということ。そこにやっと気づいた。

 

そこに気づいてから、パーッと霧が晴れて、入れ替わりに「宇宙の真理」がどんどん入って来るようになった。正確に言えば、メッセンジャーとして用いられるようになったのです。そうなって初めて、今までのことは、本当に恩寵だったんだなと、つくづく思いました。そのように、すべてが最初から計画されていたんだなと思いました。

 

「馬鹿を見る」ような思いをたくさんして来たからこそ、今そのような状態にある人にも「そうじゃないんだよ」と言ってあげられます。だとすれば、これは素晴らしい役割です。役に立つ仕事です。自分を活かせます。そして、みなさんに、「真の幸福とは何か」について気づいてもらえます。

 

私は60年掛かりました。でも今は時代が違う。みなさんが全身全霊で打ち込めば、4・5年で真理に出会えます。私が保証する。

 

世の中は、一見、ひどい混乱状態にあるように見えますが、これは何度も言っているように、人類のカルマが一斉に噴出しているからで、冷静に、そして客観的に受け止める必要があります。

 

みなさんは今、そこで、重要な選択をする岐路に立たされているのです。このまま世の中の物指しに翻弄され続けるか、それともそれを捨て、自分の道を「正直に」歩むかどうかです。そしてあなたが、後者を選んで捨てた時、あなたは、故郷であるこの地球を厚く覆ったベールを一枚剥がし、第一の扉が開くことに貢献することになるのです。

 

だから今、私は、自信を持ってあなたに言います。

正直者は決して馬鹿を見ない。

代わりに、正直者は、自分の内に神を見る、と。