by Rainbow School
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4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。

友人を自分のゴミ箱に使わないように

あら、この人ったらまた同じ話をしているわ。友人たちとの会話の中で、そう気づいて、辟易したという経験はありませんか。よっぽど親しい間柄でもない限り「それ、前にも聞いたわ」なんて不粋なことは言いにくいので、多くの場合、周囲の人たちはみな初めて聞くフリをして聞き流しているのではないでしょうか。もしかしたら、その辟易させている側の人間というのが、あなただったりしてネ。

 

人が、何度も同じ話を語るのは、その人の、そのことについての強い「執着」を証明しています。この場合、聞いて貰いたいわけではないのです。とにかく話したい。ですから、その場に居合わせた人は、交通事故に遭ったようなものです。夢や理想や、今しているチャレンジについて語るのならまだしも、友人たちを前にすると、つい人間関係の問題を夢中になって語り始める人がいるというのは困ったものです。

 

いま自分が抱えている悩みや、葛藤状態にあるエネルギーを放出することで、楽になりたいという気持ちは解ります。また、有効なアドバイスを求めたいという考えも理解できます。しかしそれが許されるのは、一度きりです。何度も何度も同じ話をするのは、周囲のアドバイスには決して耳を傾けるつもりはない、ということを同時に証明しているのです。

 

このような、人間関係にともなう「執着」には、大きく二つのタイプがあります。一つは、特定の人物に向けられているケースです。このタイプは、親兄弟や配偶者、恋人などの身近な人物のことをのべつ幕なしに語りたがります。それは殆どが「こんなことがあって困った」という内容なのですが、そんなにしょっちゅう困るのなら、さっさと絶縁してしまえばよさそうなものなのに、決してそうはしません。

 

理由は簡単で、口では「困った」とは言っていますが、相手の人間が「好き」だからです。別の言い方をすると、その「関係」に依存しているからです。「嫌い」は「好き」の反対ではありません。それはカードの裏表に過ぎず、どちらも相手に関心があるということでは同じなのです。「好き」とか「嫌い」の本当の反対は、無関心です。つまり、無関心では到底いられない状態にある、その腐れ縁を続けているというのがこのタイプです。

 

もう一つのタイプは、相手はいろいろと変わるのですが、いつも特定の性向やリアクションを示した話を語るタイプです。例えば、人間関係を闘争的にしか見られない人は、自分がいつも誰かから攻撃されており、このように反撃したといった話を繰り返し語ります。また被害者意識の強い人は、自分がいかに周囲から痛めつけられ、不運で幸の薄い人生を歩んでいるか、といった話を語りたがります。

 

しかし、この両者ともが、自分にそのような傾向があるということにはよもや気がつかないでしょう。こうして、このブログを読んだ後でも、それが自分のことだと気がつく人は、極めて稀なことでしょう。人は、その渦中にある間は、自分がその中にいるとは気がつかないものです。そこから出て初めて、「ああ、自分はあの時、あんな場所にいたんだな」と気づくのです。

 

そこで、「よき友人」というものが重要になってきます。よく、「他人は自分の鏡」だと言われますが、これは真実です。自分の内奥を見つめるためには、一人で心を静かにして、瞑想をするということが欠かせません。一方、言動というものは、自分の内奥の外部への表出ですから、自分の言葉や行動を知れば、内奥とのブリッジ関係に気づけるのです。それを映してくれるのが、他者のリアクションです。

 

ですから、「よき友人」というのは、そこをちゃんと指摘してくれる人のことを言います。おべっかを使ったり、お世辞を言ったり、ナアナアの関係にある人というのは、一見あなたをソフトに扱ってくれて、いい気持ちにさせるかも知れませんが、本当の意味で「よき友人」とは呼べません。なぜなら、あなたの成長を考えていないわけですから。ともに成長して行こうという意志もないわけですから。

 

人間を観察していて、時々「ああ、可哀想になぁ」と思う人に出会います。「この人は、今まできっと、誰からも叱られたことが無かったんだろうな」と。叱られるということは、関心を持たれているということです。誰からも叱られたことが無い、それはネグレクト(無視)されて来たということを意味します。でもそうなった裏には、聞く耳を持たない性向がどこかに隠れていたはずです。

 

だから、自分を真剣に叱ってくれる人こそを大切にしなさい。

そして何よりも、素直であることと、いつでも変われる勇気を持つことを、心がけなさい。

 

それと、あなた方が、まだよく解っていないことがあります。解っている人は解っています。でもそれは、ごく少数の人たちだけです。それは、前にも書いた「波動の法則」のことです。ある人が、自分の苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、夢中になって周囲に話している時、その人は、四次元世界(第四霊性密度、心霊界、魔界)に雇われたテロリストになっているのですよ。

 

敏感な人にはその波動が解りますから、気分が悪くなってきて、その場に居続けるということが出来ません。そこでスーッと離れて行くことになります。

 

よく、職場の休憩所や食堂などで、不在の人の悪口や噂話を夢中になって交わしているグループを見かけますが、それはお互いに波動を低め合っているのです。その人たちにとっては、そうすることが逆に心地よいのです。それが性に合っている人たちだからこそ、そういうグループを形成できるのです。意識をボーッとさせて眺めてみれば、その一角には、不穏な波動がドーム状に形成されているのがあなたにも分かるはずです。

 

しかし、一人の人間を考えた場合に、全くの善人という人もいなければ、全くの悪人という人もいないのです。みな両方の性質を併せ持っているのです。ですから、四次元世界からのテロリストがやって来た場合には、その策略に引っ掛からないようにすることが大切です。自分の中にもあるネガティブなエネルギーを、パッと簡単に同調させないように注意しなければなりません。

 

テロリストとなっている人は、まさか自分がテロリストになっているとは、露ほども思っていません。ただ衝動が沸き起こって来て、そのような苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、辺り構わずに語り出すのです。自分の思考や感情をコントロールしているもう一つの意識が、その瞬間、どこかへ吹っ飛んでしまっているのです。これは、その人のカルマがなせる業なのです。

 

ですから、その場に居る人たちは、その話に相槌をうったり、同情を示したり、同じような自分の体験を語り出したりしないように注意しましょう。その途端、場の雰囲気はサッと変わってしまいます。すぐに話題を変えてしまうか、あまりしつこいようであればピシャリと言って封じ込めてください。そうすることが、その場の全員を救うことになりますし、その人に気づきを与えることにも繋がります。

 

傷つけたり、傷ついたりを怖れて、その場の空気に流されてしまっては、傷つくよりも、もっと悪い結果に堕ちてしまいます。いわゆる「忖度(そんたく)」というものは、こうしたネガティブなエネルギーの伝播なのです。ですから、「忖度」ばかりしている人というのは、その内奥が表に出て、顔つきがどんどん悪くなって行くのです。

 

他方、あなたが、周囲の人たちに自分の人間関係の体験を語る際には、決してテロリストにはならないように、よくよく注意してください。〈話したい!〉という衝動が沸いたら、ひとまず(待てよ)と、心の中で呟いて、この濁流の流れをストップさせてください。そして、一呼吸おいてから考えてみるのです。その体験は、はて、自分にどんな課題を与えていたのかと。

 

『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師は、最晩年、脳溢血の後遺症で全身が麻痺し、ベッドに寝たきりとなりました。彼女は、エイズ患者のためのホスピスを建設したものの、周辺住民の理解が得られず、二度も焼き討ちに遭って全部を失いました。その彼女が、最期を覚悟して書いた著作の中でこう語っています。「自分がこうなったことの意味はすぐに解った。それは、患者の立場を味わうことだった」と。

 

自分の身の上に起こるどんなことにも、必ず、その人のための課題が隠されています。人間関係で生じる苦悩や葛藤を語る際にも、そこに注目することが大切なのです。多くの人は、相手のことを一方的に語ったり、「関係」の今の状態を語ることに夢中で、自分のことはすっかり忘れています。しかし相手の存在だけでは「関係」は築けないのです。「関係」には、あなたも関与しているということを忘れてはなりません。

 

ある日、ある女性から、夫が浮気をしているという話を聞かされました。夫の携帯電話を盗み見したところ、愛人へ宛てたメッセージが見つかったのだそうです。そこには、自分をボロクソにけなし、君だけを愛していると語る言葉があったと。その女性は「わが夫は、なんて卑劣で幼稚な人間なのか」と言います。でも、厳しい言い方ですが、ご主人だけを責めるわけにはいきません。その理由は、もうお解りでしょう。

 

人間関係を語る時に、人はみな、自分のことを棚に上げて、相手を一方的に非難したり、「関係」の今の問題点を並べ立てます。しかしそれでは、自分の成長の機会に、ちゃんと向き合わないことになってしまいます。ですから、冒頭に書いたように、このような傾向に陥った人は、またその習性にすっかり慣れてしまった人は、いっつも同じ話を周囲に語りゲンナリさせてしまうという、テロリストとなってしまうのです。

 

大切な友人たちを、あなたのゴミ箱にしてはなりません。他の人と交わる時には、意識して、つねに建設的な話をするようにしてください。失敗や、辛い体験や、葛藤を語るな、と言っているのではありません。語ってもいいのです。ですが、語る時には、起きた出来事そのものではなく、その出来事を通じて自分がどんな気づきを得たのかを語って欲しいのです。そこにフォーカスを当てて欲しい。

 

それでこそ、体験を語る意義がある。あなたが得た気づきが、他の人の気づきを誘発するかも知れません。それによって、人間関係における新たな理解が進み、愛の人へと近づく一歩を手助けすることになるかも知れません。

 

要は、ハサミの使いようさ。

 

辛い出来事、苦しい体験、それらはすべて過ぎ去ってしまったもの。驚くなかれ、今まさに体験していること(-ing)さえもだ。1秒後にはそれは過ぎている。だから、自分が「辛い」とか、「苦しい」と思っている体験は、今は過ぎ去ってしまって、もうどこにもない体験に対して、そういう「意味」を、自分が与え続けているに過ぎないのだよ。解るかな? 

 

いつも言っているように、体験自体が良いとか悪いとかではなく、その時の判断、意味づけが、あなたというパーソナリティを日々創造しているのだよ。不謹慎だと思うかもしれないが、あなたが大切に思っていた人の死すらも、笑い飛ばすことだって出来るんだよ。それが解ったなら、いつまでも魔羅(マーラ)の手先のテロリストとなっているよりも、その体験を使って天使のメッセンジャーとなってみてはどうかな?

 

最後に、あなたに大切なことを言おうね。これは究極の一本だ。

 

すべてを楽しみなさい。

苦しい体験、辛い体験さえも。

 

あなたが笑って話せるようになった時、ジョークにして話せるようになった時、あなたはその「執着」をすでに手離している。

 

*魔羅(mara):修行の邪魔をする悪魔

須磨穂を捨てよ、町を出よう

本日のタイトルは、寺山修司(1935 - 1983)さんの『書を捨てよ、町へ出よう』をもじったものです。このアジテーションの言葉は、寺山修司さんの言わば代名詞のようなもので、1967年に出版された評論集のタイトルとして使われたのが最初の登場でした。そして同年、寺山修司さんは演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げし、いわゆるアングラ演劇ブームの火付け役ともなったのです。

 

その後、映画も作るようになり、当時のヒッピー文化の盛り上がりと轍を一つにして、独特の寺山ワールドといったものを構築して行きました。それは、当時の若者にとっては文字通りの「劇薬」として作用し、極端な話、ゲバ棒を取るのか(政治的闘争へ)、それともアングラ演劇を観に行くのか(内なる闘争へ)、といった当時のムーブメントに強い影響を与えたのです。

 

『書を捨てよ、町へ出よう』は、それを焚きつける一種のスローガンのような位置づけとなり、評論集だけに留まらず、演劇にも映画にも同名のタイトルが使われ、若者たちをアジテーションし続けたのです。私も映画を観たのですが、始まってすぐに、東北訛りで話す主人公が「映画館の暗闇の中で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」と話し出すのには度肝を抜かれました。

 

それがあったからというわけではないのですが、当時の雰囲気として、田舎でごにょごにょやっている自分というものがどうしても我慢ができなくて、それで私は20歳の時に東京へ(つまり町へ)と出て行ったのです。それから半世紀が過ぎ、私は今の若者たちにこう言いたいです。『須磨穂を捨てよ、町を出よう』と。50年で世の中はすっかり変わりました。今こそ、ベクトルを真逆に戻すべき時が来たのではないでしょうか?

 

もちろん、高価な須磨穂を本当にゴミ箱に放り込め、と焚きつけているわけではありません。私だって、今のガラケーがいよいよ壊れたら、仕方なしにスマホを買うことになるかも知れません。老眼で画面が見えないけど(´_`; )。だから、大きなお世話を承知で「須磨穂中毒から脱した方がいいんじゃありません?」と言っているだけの話です。寺山修司さんとは違い、影響力は皆無でしょうけれど‥‥。

 

中毒というのは、自分では気がつかないのですよ。でも側から見ているとよく分かる。その目も心も、小さな画面の奥にある(バーチャルな)「須磨穂の国」に釘づけになっているから。ファミコンが登場した時代、その強い麻薬性に慄(おのの)いた親たちが、「一日に2時間だけ」といった規制を子どもたちに課しました。ところが今や、大人たちが24時間、須磨穂の虜というありさまです。

 

いや、ファミコンで育った子どもたちが、順当に(?)大人世代になったのだから、これは自然な流れかも知れません。

 

先日、TSUTAYAで『ラブレス』というロシア映画を借り、観ようとしたのですが、20分ほど経過したところでどうにも気持ちが悪くなって耐えられず、その先を観るのを止めました。10歳くらいの男の子がいる夫婦が離婚しようとしています。夫婦はすでに別居していて、互いに浮気相手がいるのですが、男の子と一緒に住んでいる母親が、わが子を邪魔くさい存在であるかのようにして疎んじているのです。

 

この男の子は、当然ながら寂しい。誰からも愛されることがない孤独な状態にあります。でも母親は、そんなわが子の気持ちを少しも察することなく、男の子に、今の自分の身勝手な思いを話しかけるのです。片時も離さずに持った、須磨穂の画面を見ながら! ああ、まさしく全世界須磨穂教のもの凄い影響力。「ちゃんと子どもの顔を見て話しろよ!」と、画面に向かって怒鳴りたくなりました。

 

スマホは単なる道具です。ですが、今や道具を超えてしまっている。キリスト教、イスラム教よりも浸透力は強い。それはインターネット時代のご本尊。いつでもどこでも自分を導いてくれる、ありがた〜い伝道師であり守護霊。全世界須磨穂教のスマートなお札(ふだ)「須磨穂」大明神様です。困った時に、ちょっと手を(画面に)合わせて拝めば、たちどころにその人を「須磨穂の国」へと導いてくれる。今や、その魅力に誰も抗えない。

 

単なる道具に過ぎないスマホが、なぜそれほどに魅力的な「須磨穂」大明神に化けるのか? その秘密は、画面の小ささと、あの素早いページめくりにあります。それはあたかも、長い通路に掛かる幾重にもなった御簾(みす)を、ご神体に向かって次々とめくって行くようなもので、めくる度に、めくるめく世界に引き込まれて行ってしまう中毒性をそのアクション自体が有しているのです。

 

まったく凄い発明品だなと思います。宗教が何千年かかっても出来なかったこと(全世界布教)を、テクノロジーがわずか10年で成し遂げてしまったのですから。電車に乗ると、ほぼ9割の人が、すぐにその世界に没入しているのを見ます。まさに入我我入の状態。この時に合わさったエネルギーは凄まじいもので、車両全体が何かに取り憑かれてしまったかのようなバイブレーションを発しています。

 

夢中になって画面を見ている人には、勿論そんなことは分からないわけですが(分からないからこそ出来ることですが)、このエネルギーは、そこに居合わせた人たちの心身に、耐え難いほどのダメージを与えているんですよ。こんなバイブレーションに毎日接していたら、みんな心が殺伐として来て、頭がおかしくなってしまいますよ。映画『ラブレス』の登場人物たちのようにね。

 

波動の法則というのは、現象面で表れる結果に関しては至極シンプルなもので、同じ性質の波動は引き合うというただそれだけの話です。あなた方が、慈愛に溢れた心を持って集まり、一緒に瞑想をしたり祈りを捧げたりすれば、お互いの波動をさらに高め合うことが出来ます。

 

しかし反対に、低い、荒れた波動を出し合えば、互いに足の引っ張りっこをして、その場のバイブレーションはドーンと落ちるのです。つまり、そこにネガティブ・パワースポットが出来るのです。

 

これは検証できないことなので、信じなくても結構ですが、須磨穂教の虜になることが、心を荒れさせるということは確実に言えます。なぜなら、その分だけ、自分を内観する機会というものを、須磨穂が奪ってしまうから。

 

人が内観する機会を失えば、「自分は誰か」という基本的な問いに、きちんと向き合うことが出来ません。そこで糸の切れた凧のようになって、その不安を穴埋めするために、またしょっちゅう須磨穂を見続ける、という悪循環に陥ってしまうのです。須磨穂は一見、身近なセラピストのように思えますが、実態は、その人の心の隙間に入り込み、エネルギーを喰い尽くしてゆく怪物です。

 

あっちからもこっちからも風が吹き寄せて、常にザワザワとさざ波が立っている湖面には、自分の姿は映りません。明鏡止水。なにより、静謐で心安らかになっている時にだけ、湖面は凛として澄み、水の向こう側にあなたの真の姿を映し出すのです。この貴重さを、現代人は何も解っていません。情報に接していないときの時間は、すべて無駄だとさえ思っているのです。

 

そうやって、自分が発したものではない、外からやって来た、どうでもよいガラクタ情報で頭の中をいっぱいにして、その重みに押し潰されそうになっている。映画『ラブレス』で描かれた両親を見よ! 自業自得とは言え、現代人とはなんと憐れなものなのでしょう。

 

今から3日後に、自分は死ぬと仮定してください。

その日までの時を、あなたはどうやって過ごしますか?

それでも須磨穂を見続けますか?

 

人生は「今」の連続の軌跡なんですよ。

いいですか。「今」のあなたの思い、言葉、行動が、「あなた」を創造するんですよ。

創造してるんですよ! たった今も。

 

あなたとは何者か?

そのように思い、そのように語り、そのように行動する人間を、人は、「そのような」人間、と見るのです。

それが、あなただ!

 

私は、最近反省しているんです。自分の言い方が悪かったのかなと。この世の価値観に合わせる必要などない、と確かに言いましたよ。引きこもる時も、人には必要なんだと、それを推奨しましたよ。空海だって引きこもったんだぞ、と言いましたよ。でもそれを、「行動しない」ことのエクスキューズに使ってしまう人たちがいるらしい、ということに最近になって気がついた。

 

空海は、ある時期、確かに引きこもりましたよ。でもそれは、行動できないことの言い訳にそうしたわけじゃない。行として、そうすることを積極的に選んだんです、彼は。内観を徹底するために、世俗を離れて、敢えて洞窟に入った。つまり、引きこもるという「行動」を、自分の積極的な意思で選択したのです。その時それが必要だと思ったから。そうして、クンダリニーの覚醒(空海の表現で言えば、明星が口に入る)という体験を得た。

 

そこを考えて欲しいのです。動けないとか、外に出られないとか、電車に乗れないとかと言ったって、トイレには行ってるわけでしょう。ご飯だって食べているわけでしょう。風呂にだって入るわけでしょう。頸椎を損傷して、首から下がまったく動かないという人だっているんですよ。その人が、もしも自分の手で箸を掴んでご飯を食べたり、歩いてトイレに行ったり出来るようになったとしたら、きっと随喜の涙を流すことでしょうね。

 

早い話が、いま生かされていることへの感謝が足りない。五体が動いて、こんなにも恵まれていて、何を贅沢なことを言っているのだろうかと思う。トイレまで行ける足があるんだったら、あと数十歩たして、玄関から外へ出ればいいじゃないか。外へ出ることが出来たら、あと数百歩たして、公園まで行ってみればいいじゃないか。公園まで行けたら、今度は駅まで行ってみればいいじゃないか。死にものぐるいでやってみろ!

 

それを、私が「動け!」と言うと、「ネットで平和を訴えて行こうかなとは思ってるんですが」とかって言う。ああ、またネットか。結局は須磨穂の国に逆戻りか。そんなんじゃないんですよ! あなたが今、まっ先になすべきことは、「動く」ということの意味は。生活の「リアルな実体験」を積み上げて行くということなんだよ。あなたにいちばん欠けているのはそこ。つまり、「生活技術」を一から学習し直して行けってことなんだよ!

 

洗濯は出来るのかい? 自分のメシは作れるのかい? お茶碗は洗えるのかい? 部屋を片づけられるのかい? 箒や雑巾は使えるのかい? トイレ掃除や風呂掃除は出来るのかい? 決まった日のゴミ出しが出来るのかい? 庭の草取りが出来るのかい? 買い物には行けるのかい? ほうれん草が一把いくら位か見当はつくのかい? どういう魚が、鮮度がいいか見分けられるのかい? 

 

どうかな? いま上げたものに、今まで、何の関心も持っていなかっただろう。ただの面倒臭いもののようにしか、あなたには思えていなかっただろう。だがね、その面倒臭いものに向き合い、体験し、工夫し、味わうことが「生きる」ってことなんだよ。だから、それを全部他人まかせにして生きている人は、「自分を生きていない」ことになる。ああ、なんてもったいないことをしているんだ。実に、それが「生きる不安」をつくる元凶だと知れ!

 

いいかね。「生活力」というのは、どれくらいお金を稼げるか、ということじゃないんだよ。生活技術力を、その人がどれだけ持っているかということなんだ。金なんて、いざとなったら何の役にも立たない。札束を赤ちゃんのオシメにするわけにはいかないんだよ。だから先ずは生活技術。生活技術さえしっかりあれば生きられるし、生きるのが楽しくなる。きみが平和の貴さを訴えるのは、それが出来てからだ。

 

現代に生きる人間が可哀想だなと思うのは、「生活技術」を学習するより前に、先にコンビニと須磨穂の使い方を覚えてしまうということ。コンビニには取り敢えずのものは何でも揃っているし、須磨穂は別に図書館に行かなくたってあらゆる情報が取れるし買い物だって出来る。バーチャルな出会いも出来るし、お婆ちゃんの知恵(のようなもの)だって授けてくれる。すると、この二つさえ覚えれば「生きられる」と錯覚してしまう。

 

しかしそのことは、裏を返せば、コンビニと須磨穂がなければ生きられない、という状態に、いつの間にかさせられてしまっているということを意味しているのだ。

 

いま、10代と20代合わせて年間3万人超の若者が行方不明になっているそうです。ある日突然、家からいなくなってしまう。家出の準備をした形跡もない。この、ある日突然の失踪を可能にさせているインフラが、まさしくコンビニと須磨穂。少女が、SNSで「今晩泊めて?」と発信すれば、ものの1分もしないうちに、見ず知らずの男たちからたちまち十数件の申し出が集まるのだと言う。

 

いつの時代にも家出する若者はいるわけで、ある意味、勇気ある行動だとも言えるわけですが、今の時代の「お手軽さ」には、以前とはまったく違った様相を感じます。大志もなければ、逆に反抗も反逆もない。何となくフラッと家出するといった感じです。恐さを知らないと言いますか、すべてが希薄です。親が、学校がという時代じゃない。社会病理がもう何重にも重なっていて、このような社会現象を止める手立ては、もはやないのかも知れません。

 

別に家出が悪いと言っているわけではありません。また、社会からドロップアウトしてしまうことの危惧を述べようとしているのでもありません。みんな好きにしたらいいです、基本的には。でもね、自分という存在を見つめて、自分のコントロール意識を働かせて、自分をクリエイトできる体験が、それで出来るのかなと思うのです。結局は、自分も周囲も、傷つけるだけに終わってしまうのではないでしょうか?(ま、それも体験ですけれど‥‥)

 

今の時代は、お手軽なクリエイトが多過ぎるんです。レストランに行けば、食べる前にいきなりパシャパシャやる。動画を投稿して美味いとか不味いとか言う。旅に出れば、観光名所をバックに自撮りする。他の人が書いたブログには直ぐにケチをつける。動画の上に意味不明の自分の叫び声を書き込む。でも、そのどれもが、所詮は、他人のふんどしを借りた表現に過ぎない。

 

そうすることによって、あなたの中にある表現願望や、参加意識や、「私ってこういう人なのよ!」という自己実現願望(のようなもの)は、多少は満足するかも知れない。でもそんなものは、結局はニセモノなのだよ。借りものの、ニセモノの表現行為を続ければ続けるほど、あなたの本物は、外に出て行くチャンスを失ってしまう。

 

解らないかな? あなたたちはそれらを「自己表現」だと思っているが、その表現方法を保証する仕組みに、一元的に取り込まれてしまっているのだよ。早い話が、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)その他のIT企業の戦略に落とし込まれているわけだ。ゲージの中で、バタバタしている家畜の鶏のようなものなんだよ。

 

だからもう、他人のふんどしを借りることは止めたまえ。稚拙でもいい、あなたの表現をするんだ。あなた独自の、あなたにしか出来ない表現をするのだよ。価値はそこにあるのだ。いや逆に言おう。価値はそこにしかないのだよ。結果は問題じゃない。「いいね」の数が問題なのではない。そのクリエイティブな体験を通じて、あなたが何を味わったか、それだけなのだよ。

 

須磨穂を捨てよ、町を出よう。町を出て、もと来た森の中に帰るのだ。今の社会システムそのものを疑え。この世のすべては、しょせん幻に過ぎないが、人工物を通じた体験はバーチャルな幻しかあなたに見せない。一方、鬱蒼とした森の中に帰ることは、あなたに一時的な不安を与えるだろう。でも、自然が与える幻は、その先に神の姿を見せてくれるのだよ。

 

さあ、勇気を出せ。覚悟を決めよ。立ち上がって歩け。森の中に踏み込め。そして、それを楽しむんだ。そうすれば解るから。

戦争屋と権力者

1961年1月17日、アメリカ合衆国第34代大統領であったアイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890 - 1969)が、テレビカメラを前に歴史に残る退任演説を行いました。アイゼンハワーは陸軍出身の政治家で、第二次世界大戦では連合国遠征軍最高司令官を務め、あのノルマンディー上陸作戦を指揮しました。また軍歴では最高位である元帥にまで登りつめました。

 

アイゼンハワー本人は、当初は政治家になる気などまったく無かったということなのですが、人望が厚く、周囲に乞われるようにして選挙戦に担ぎ出され、あれよあれよと言う間に大統領に就任したのです。ダグラス・マッカーサーが、大統領の座を切望していたのになれなかったのとは、ちょうど対照的です。アイゼンハワーは、フィリピンではマッカーサーの副官を務めていたのです。

 

さて、この時の演説がなぜ歴史に残るエポックだったかと言いますと、この退任演説の中で、アイゼンハワーが史上初めて「軍産複合体(Military-industrial complex)」という言葉を用いて、その存在と、高まる影響力についての懸念を表明したのです。退任が決まっていたとは言え、こうした発言を行うことは非常に勇気のいることです。アイゼンハワーは、遠回しに、そして遠慮気味に語っていますが、今ここで言っておかねば、という決意のほどが言葉の端々に感じられます。

 

この一部始終は、インターネットで観ることが出来ます。

翻訳:https://esotericsociology.blogspot.com/2018/01/d.html

動画:https://www.youtube.com/watch?v=1UAiqAZoMgQ

*動画はすぐに削除されてしまうかも知れませんので、もし消えていたら探してみてください

 

「軍産複合体(MIC)」というのは、軍事組織と兵器産業によって構成された複合体という意味です。しかし、兵器を開発するためには研究機関が必要であり、研究機関には科学者や技術者が必要です。また、政府からそのための予算をぶんどるには政界工作が必要となります。さらに、政界工作のためには、危機を煽るプロパガンダが必要であり、ここに外交専門家と、マスコミまでもがぶら下がった巨大機構を構成するようになったのです。

 

しかし「軍産複合体」はこれだけに留まるものではありません。そうした機構が身体だとすれば、それを動かす頭脳に当たるものもな必要です。この頭脳に当たる組織が、米国のCIA、英国のMI6、イスラエルのモサドといった諜報機関で、これが諜報ネットワークを作り全世界で軍産のための工作を行っているのです。この機関は、各国政府や財界にも深く喰い込んでいて、いわゆる西側は、全てその傘下に取り込まれている状態なのです。

 

日本も例外ではなく、戦後から今日に至る政財界のボスたちは、親米であればその存続を長く許され、少しでも反米の態度を取れば、スキャンダルをでっち上げられて業界を追われる身となるか、殺されるかして来たのです。しかし、日本社会のバックにそういう闇があるということを、今もって殆どの日本人は知りません。そうした真実は、長年に渡って秘匿され続けて来たのです。

 

最近になって、このタブーにも少しずつ風穴が開けられるようになって来ましたが、それを知る人はまだほんの僅かです。これは日本が島国であって、かつ国民の大多数が英語を解しないために、世界情勢に関してあまりにも疎いということと、その代わりとして、日本のマスコミが流している情報を、無条件に信じている人が未だに大勢いるためです。

 

マスコミを一切見なくなって十数年が経ちますが、日本のマスコミ報道の8割はどうでもよい話題、1割が日本政府のコントロール情報、1割が西側(軍産)が意図的に流しているフェイクニュースだと、私には感じられます。独断をお許し願えれば、それらを見て有益なものは何一つありません。むしろ有害ですらあります。視聴者の思考力、判断力を奪っておいて、偽情報で染め上げるのですから。

 

そのようなわけで、「愛国」を叫んでいる者が、実はいちばんの売国奴であるということが、国民には見抜けないのです。防衛意識を煽り立てている者が、実は戦争屋代理人であるということに気がつかないのです。彼らの本当の姿は、「愛国」どころか、売国民、売市民、売人間なのです。そして逆に、人類の融和や平和共存を語る人たちを「平和ボケ」と言っては小馬鹿にし糾弾するのです。それもこれも、みんな戦争屋のために。

 

*この言葉は本当は使いたくはないのですが‥‥。「国家」というのは単なる行政単位に過ぎないと思っておりますので、そこに思い入れはありません。「愛国」は「愛」の文字こそ使っていますが、結局は我々と他者を分ける分断思想であり、「愛地球」「愛人類」「愛宇宙」にはなりえないのです。

 

戦争屋(軍産複合体)が、なぜそれほど「戦争」をしたがるかと言いますと、一つには「戦争」というのは、軍産複合体にとっては、在庫一掃処分市、かつ新製品お買い上げキャンペーンに当たるからです。軍産は、現在では社会構造の基盤を構成するまでに成長しています。しかも、各国の政府予算から毎年巨額な金額を捻り出すのです。その構造を継続的に維持するためには、10年に一度は、大規模な戦争が必要になって来るのです。

 

このため、戦争屋とその傀儡である各国の政府機関内エージェントは、つねに隣国との緊張状態を演出する必要に迫られ、故意に危機を煽っては、国民から掠め取った税金で兵器を購入しているのです。そして購入するだけではなく、時々は在庫一掃処分を敢行しなければなりません。そのようにして引き起こされているのが「戦争」なのです。

 

もう一つには、西側の諜報機関が、共にユダヤ教、キリスト教という一神教を背景にした文化圏に属していることも、「戦争」の創造に大きな影響を与えています。これらのバックには狂信的なグループがいて、聖書の予言に基づいた形での「戦争」を熱望しているのです。CIA他の諜報機関ネットワークは、こうしたことのために謀略を計画して動き、そうして作った偽ニュースを、西側の報道機関が世界に一斉配信しているのです。

 

ある方がカウントしたのですが、シリアのアサド大統領が自国民に化学兵器を用いたというニュースは、今までに少なくとも18回は流されているということです。しかしそのニュースのどれもが尻つぼまりで証拠もないのです。最近、トランプ大統領が、ダーイッシュ(IS)の掃討作戦が完了したので米軍を撤退させると言いましたが、これは名誉ある撤退を演出したものであって、実際はISを作ったのはアメリカですし、駆逐したのはロシアなのです。

 

こんなことは、欧米人の半数はもう知っていることではないでしょうか。しかし日本人の大多数は未だに知りません。ですが、対岸の火事ではもう済まされない。シリア、リビア、イラク、そしてウクライナの街や家々を破壊し、一般市民を路頭に迷わせてグチャグチャにしてしまった西側の片棒を、日本人も担いでいるのです。私もあなたも、日本国に税金を払うということによって、この軍産複合体の謀略に間接的に加担しているのです。

 

この壮大な謀略によって、シリアでは1000万人もの人々が難民となり、地中海で溺れ死んでしまった人もたくさんいるのです。こんな非道が許されていいのでしょうか。中東から遠く離れた島国で、我関せずで、コタツでぬくぬくし続けていていいのでしょうか。少なくとも、今まで政府に騙され続けて来たことに、そして自分もこの戦争に加担して来たことに、日本人は気づかなければならないのではないでしょうか。

 

戦争が起こるたびに、その悲惨さを体験した人たちは、「もう二度とこんな戦争は起こしてはならない」と叫んで来ました。各国の名だたる芸術家が、平和の尊さを訴えかける多くの作品を創って来ました。ところが、二世代も経過してしまうと、またぞろ戦争屋の代理人を務める政治家が登場して、防衛意識と危機感を煽っては、人々をまた戦争へと駆り立てて行くのです。なんと「南無妙法蓮華経を唱えながら戦場へ行け」と主張する政治家だっているのです!

 

全く人間というものは、どこまでも愚かであって、学習効果というものがなかなか表れませんね。何度も何度も同じカルマを繰り返していて、ちっとも懲りない。いったいこれはなぜなのでしょうねぇ? あなたはどう思いますか? 一つは、いま言った「軍産複合体」による世界支配の構造というものを、人々が知らないためです。報道機関そのものが軍産側のプロパガンダ機関ですし、学校教育も然りですから、一般市民は全くの無知に留め置かれているのです。

 

でも、仮にその構造を多くの人が知ったとして、それで地上から戦争が消えるでしょうか? この世から戦争がなくならない本質的な理由は、実はもっと別のところにあります。それは、人々の「心」の問題なのです。たとえ一握りの戦争屋が、次の戦争を計画したとしても、それに乗る人々が一人もいなかったとしたら、戦争にはなりません。第三次世界大戦は防げるのです。

 

ところが、国家指導者が「戦争しかない!」と言うと、「いいね!」ボタンを押す人がたくさん出て来てしまうのです。911後のジョージ・ブッシュの演説を受けて、アメリカ人の多くが、テロとの戦いに「いいね!」ボタンを押したのをあなたも目撃したでしょう。人間には、そういう面があるのです。

 

現実というものは、つまるところ、その時々の人間心理の反映なのです。一人の周囲に起きている現実は、その人の心理がそれを創造しているのであり、同じように集団の集合意識が、世界の現実を想像しているのです。この関係は、全くの相似形です。一人の人間の中に眠っている闘争意識と、世界大戦における闘争とは、実は同じ理由に起因しているのです。小さいか、大きいか、一人のものか、集合意識か、の違いだけです。

 

ですから、戦争屋やその代理人が発する「防衛意識」や「愛国意識」の言葉に、自分の中にもある闘争意識、防衛意識、分離意識を刺激されて「そうだ!」と同調した人たちは、簡単にそこに乗っかってしまう。しかもこのギスギスした世の中で、ゾンビをぶち殺すことに快感を覚えるように飼育された子どもたちが大量に生産されているのです。こうした個々の闘争意識が集合して臨界点を超えれば、人々の望み通りに現実は「戦争」を創ります。

 

実に、ここに気づかない限り、地球から戦争は無くなりません。戦争屋と、その代理人である権力者は、人々をつねに戦争へと駆り立てます。権力者がそうするのは、危機や、防衛意識、愛国意識を煽ることが政権への求心力になるからです。それによって政権基盤が維持されますし、軍産からは裏金の報酬が得られるのです。戦争屋代理人は、口では「愛国」を唱えますが、国民を奴隷や家畜としてしか見ていないのです。

 

ペンタゴン・ペーパーズ』(原題:The Post)という映画はご覧になられましたか? アメリカがベトナム戦争の泥沼に入り込んでいた1960年代。国防長官だったロバート・マクナマラが、軍の形勢が悪いのを知りながら、これを隠して国民に嘘の戦況報告をしていた。映画はその機密文書の暴露を巡る攻防を描いたものです。

 

この中で、マクナマラがなぜ国民に嘘をついていたのか、ということが問われるのですが、その答えは、なんと「グレート・アメリカが負けるわけにいかない」という、ただのメンツだったのです。まるで、太平洋戦争中の大本営のようですが、この映画が訴えかけているのは、「そんなメンツのために、多くの若者を戦場に送って死なせたのか」という理不尽さに対する怒りです。

 

そして、このような戦争屋の基本体質は、今もってまったく変わってはいないのです。しかしアメリカには、「腐っても鯛」でまだ報道の自由というものがある。でも今の日本には、報道の自由はおろか、司法の公正さも、役人の遵法意識も何もありません。すべてが闇の支配者の言いなりという、まさに暗黒の政治状況が展開されているのです。

 

こうしたちょっとした角度変更が積み重なると、気がついた時には、もう元に戻せないほどのターンが行われているのです。ここで、日本人特有の性質が一役買うことになります。それは「空気」を読むということ。これは、権力者にとっては大変便利な仕組みで、集団をある方向にドドドーッと向かわせやすい一方で、いざコトが失敗した場合には、「あの時の空気には逆らえなかった」と、全部を「空気」の責任にしてしまえるのです。

 

事実そうやって、太平洋戦争時の戦争指導者たちの多くは、戦後になると言い逃れをして保身を図りました。極東国際軍事裁判で処刑された者や自決した者を除いて、生き残った指導者たちは、その後国内法で裁かれることもなしに、中にはCIAのエージェントとなることで政財界や学界に返り咲いた人物もいたのです。

 

その人物たちは、戦後の日本をアメリカの植民地奴隷国家にする密約をアメリカと結んで、その取り引きを条件に、その後の地盤を固めて行ったのです。こうしたことも、日本人の大多数は何も知りません。権力を志向する者というのは、自分よりも強い者にはおもねり、弱い者に対しては強圧的に振る舞うというメンタリティーを本質的に有しているのです。なぜなら、それが彼らのアイデンティティを支えるスケール(物差し)になっているからです。

 

さて、そこでです。なぜ地上から戦争が無くならないのか、ということの理由はいま言った通りなのですが、今日はみなさんに、もう一歩先の意味を考えていただきたいのです。そこで、あなたに質問をいたしましょう。一人の戦争指導者がいて、その人物の命令の結果、数百万人の命が失われたとします。では、その人物であった「魂」は、その後にどのよう運命をたどるとお思いですか? どのようなことを経験していくことになるとお思いでしょうか?

 

それほど大量の人命を奪うようなことをしたのだから、きっと、さぞかし大きな罰を受けることになるだろう。そう、あなたは思いますか? ところが、そうではないのです。この戦争指導者は、作戦司令室で、葉巻をくゆらせながら、さながらチェス・ゲームのようなものをやっていただけなのです。前線での殺し合いには参加していません。実際に前線に出て、殺し合いをしているのは、その命令で動いていた若者たちなのです。

 

つまり、自分を信じずに、誰かの命令に従って行動してしまう人間、言い換えれば自分をロボットにしてしまえる人間が、実際の殺し合いをしているのです。そして、死んだり傷ついたり、のちにPTSDになったりしている。ここに注目してください。あなたがもし神だったとするならば、ただチェスに興じていた者と、血みどろの殺し合いをしていた者とを、どのように見て、その「魂」をどのように指導してあげるでしょうか?

 

‥‥‥‥

 

「そんな馬鹿な! そんな理不尽なことがあるかい」と思うでしょう。

到底、納得がいかないでしょう。

でも、前に言ったことを思い出しみてください。

宇宙には、罪も罰もないのですよ。

ただ、カルマの法則だけがある。

自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない、という。

 

ですから、命令に従っただけとはいえ、人殺しをした人は、いずれは、やはりそのカルマを清算しなければなりません。けれども、頂点にいたところの戦争指導者が影響力を行使していたのは、自分の周囲にいた側近たちだけなのです。ですから、この戦争指導者は、周囲の者たちを操ったというカルマを、いずれは清算しなければならなくなるでしょう。

 

しかし、戦争全体がどうして起きたかと言えば、そこに参加した者たちの、各人の行動の集合が、そのようなものを創り上げたということなのです。

参考:人類支配の構造と、支配からの脱却

 

*お時間のある方は、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』をぜひご覧になってください。戦争が持つこの構造が、とてもよく解ることと思います。

 

これが、「戦争」というものの、真に恐ろしい側面なのです。ヒトラーのようなある一人の極悪非道の戦争指導者がいて、その人間が、これから世界大戦の災いと、人類滅亡の危機をもたらすかも知れない、とあなた方は思っておられるかも知れません。結果としてそのように見えたとしても、決して、そうではないということなのです。一人では、絶対に戦争は起こせないのです。みんなの協力があって、初めて「戦争」という現実が、この世界に創造できるのです。

 

この点を、はたして人類が理解できるかどうかが、第三次世界大戦を回避できるかどうかのキモです。一人ひとりが、自分の中に眠る闘争意識を、ただ無分別に暴れさせるのではなく、「人間にとっての幸福とは何か」と、改めて思いを馳せてみればいいのです。その人の思いが、現実を創造する。これは真実です。あなたが心配をすれば心配が創造され、友愛や平和や幸福な世界を想像すれば、それらが創造されるのです。

 

戦争屋や権力者の文言に引っ掛かってはなりません。引っ掛かってバカを見るのは、結局あなた方なのです。彼らは、気まぐれなチェスをしているだけです。駒がどうなろうと大して気にはしません。霊的に言えば、まだその段階にある「魂」なのだということです。あなた方が、人類はみな兄弟、自分と他者は同じもの、ということを学習するために、もう一度「世界大戦」の悲惨さを味わう必要は、いささか足りともないのです。

 

もっと成長しなさい。もう戦争は充分したではありませんか。原爆だって、原発事故だって経験したではありませんか。それらが、あなたたちに幸福をもたらしましたか? 語らずとも解り切ったことです。この愚かさの輪廻をもう止めるのです。人類のカルマから脱出するのです。今がチャンスです。それには、あなたが先ず、率先して行動すること。周囲に愛を与えなさい。そして異質なものからは学びなさい。

 

そうすれば、あなたの周囲には、愛と平和の世界が創造されるのです。

 

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●アイゼンハワーの退任演説からの抜粋

 

*「軍産複合体」に対する警告を語った後に、アイゼンハワーは次のような対抗案を語っています。残念ながら、ここで語られた理想社会というものはその後実現されず、ますます軍産の思惑通りに世界が動き、人類はいよいよ破局へと向かっていることがお解りいただけるでしょう。

 

これからも続くであろう長きにわたる歴史の中で、アメリカは、わたしたちのこの世界がますます小さくなっていきながら、とてつもない恐怖と憎悪に満ちたコミュニティとなることを避けねばなりません。そうではなく、相互に信頼と尊厳をもつことができる誇りある連合体にしなければいけません。そのような連合体では、人々はみな平等であるに違いありません。(中略)

 

世界中のすべての人々へ、わたしはもう一度、アメリカの祈りと切なる願いを申し上げます。わたしたちは祈ります。あらゆる信仰、あらゆる人種、あらゆる国家の人々が、満たされんことを。今は苦難にさらされている人々が、歓喜に満たされんことを。自由を渇望している全ての人々に、祝福があらんことを。

 

自由を得た人は、同時にそれを引き受けるという重大な責務を理解するでしょう。困難に陥った人々がいることに鈍感な人はみな、慈善活動を通じて理解するでしょう。貧困や病気、無知などの徴候は地球上から消え失せるでしょう。そうなった時には、尊敬と愛との固い絆によって保障された平和のもとに、すべての人々が一緒に暮らせるようになるでしょう。

良い人になることで乗り越えようとしても上手くはいかない

冬場は雪が深いので山を降りて東京で生活をしています。東京に戻り、散歩をしていてうんざりするのは、道端に投げ捨てられたゴミの多さです。特にコンビニ周辺がひどい。コンビニは買う便利さと捨てる安易さを教えましたね。時々、ゴミ袋を手にしては拾って歩くのですが、後から後から捨てる人が出てくるので、いつまで経っても気持ちのよい散歩というものが出来ません。

 

ある日、公園の茂みに、「鬼ころし」という日本酒の紙パックがストローが差し込まれた状態で捨てられているのを見つけ、それを拾いました。ところが、翌日もまた同じところに同じものが捨てられているのです。このイタチごっこがしばらく続いたある日、「鬼ころし」がついに捨てられなくなっているのに気がつきました。「ヤッター、オレの勝利だ! あいつも遂に根負けか」と、そう思いました。

 

数日後、その公園から5分ほど離れた空き地の隅っこに、懐かしい「鬼ころし」のパッケージが山になっているのを見つけました。あちゃー、その人は、捨てる場所を変えただけだったのですね。勤め帰りに、道端の自動販売機でそれを買い、自宅までの道すがらストローでチュウチュウやるのが、その人の何よりの楽しみだったのでしょう。居酒屋に立ち寄る心理的経済的余裕もないのかも知れません。

 

自分を取り巻く環境は、その人の心の現れです。その人の心の有り様が、それに応じた環境を、自分の周囲に出現させるのです。ですから、自分の不遇を環境のせいにすることは出来ません。その環境はその人が創っているのです。散歩道は、ゴミなど落ちていない清々しい雰囲気の方がいいと思う人もいれば、ゴミを撒き散らして汚しておいた方が、今の自分の心情にピッタリという人だっているのです。

 

東京の私の家は、永らくゴミ屋敷でした。物で溢れかえり足の踏み場もないという状態。台所には真っ黒な油汚れがベットリと付き、どこもかしこも埃が高く積み重なっていました。それは、当時の私と、私の家族の心の有り様をまさに表現していました。けれどもある日を境に、片づけに着手しました。突如としてそういう気になったのです。そうして、3年ほど掛かけてどうにか見られる状態にまでなりました。

 

自分でも驚くのは、その後です。その日から現在に至るまで、クリーンな状態をキープし続けることが出来ているのです。それは、自分の「心」が一変したことを意味していました。私は変わったのです。そして「心」の変化は、その他にも、様々な外面的変化、環境的変化を私の周囲に《具体的に》出現させて行きました。

 

住む場所も変わりましたし、家族もいなくなりました(一人、息子がおりましたが、彼は家を出て行きました)。仕事はやめましたし、ド貧乏になりました。世間的な動向や流行には何の関心もなくなり、オシャレをする気もなくなりました。友人関係も、全く一変してしまいました。ですから、「その人の意識が、その人の人生を創る」ということが、今の私にはよ〜く解るのです。

 

人間の「気づき」には、大きく2つの段階があります。先ず最初の気づきは、自分の至らなさ(未熟さ)に気づくという段階です。しかしそれとて、気づかない人は多い。あるいは、たとえ至らなさに気づいたとしても、認めようとしない人が多い。ここで、第一の関門をくぐる人と、くぐれないで門から追い返されてしまう人とが出て来るのです。

 

第一の関門をくぐれなかった人は、一見すると幸福な人です。なぜなら、その後に続いて起こる「葛藤に苛まれる」という苦しい状態が、取り敢えずは回避されているのですから。代わりに、その段階に留まった人は、「葛藤」に向き合うことなく「エゴ」を大いに謳歌する生活を送るのです。この時期は、その人に幸福と楽しさをもたらします。

 

しかしそれは、以前にも言ったように、まやかしのものに過ぎません。「エゴ」が与える幸福は決して長続きしませんし、カルマの法則によって、誰もが、いつかはその誤りに気づかされる時が来るのです。ですから、第一の関門を永遠にくぐらないということはあり得ないのであり、くぐろうとしない「魂」は、それだけ目覚めが遅れるということになってしまうのです。

 

*まや:摩耶(maya)とは、サンスクリット語で幻想のこと。摩耶化す→まやかし

 

一方、最初の気づきを得て、第一の関門をくぐった人には、それから長い試練の時期が訪れます。自分の未熟さ、至らなさを自覚し、それを何とか克服したいと願って、あの手この手の解決策を模索し始めるからです。仏教では、この段階で生じる出来事を、四つの苦と、さらに四つの苦の合計八苦に分類しました。これが「葛藤」状態をいう際の「四苦八苦する」の語源となりました。

 

さてここでも、人の対処法は大きく二手に分かれます。大多数は、葛藤を抱えながらも、また大いに悩みながらも、その時々をなんとか通過してやがて死に至るという道を歩んで行きます。もう一方は、その葛藤状態をあえて意識化し、乗り越える方策を積極的に模索しようと図る道を選びます。この後者の人たちが、宗教や哲学や精神世界へと歩みを進めてゆくのです。

 

前者の道を行く人は、自分のエゴや心グセにきちんと向き合おうとしないまま一生を終えてしまうので、一つの人生での霊的進化は、ほんの僅かしか進みません。そこで、せっかくの輪廻転生の機会を得ても、一つのカルマを一つの人生で充分に解消することが出来ずに、何度も何度も同じような人生パターンを繰り返すのです。しかしそれでも、最後の最後には、全ての「魂」がエッセンスへの帰還を果たします。

 

*エッセンス:精髄と訳されたりしている。神、あるいは光と同義。

 

では後者を選んだ場合はどうでしょうか? 驚いたことに、後者の道を選んだからといって、必ずしも霊的な進化が早く達成されるとは限らないのです。むしろ宗教や哲学や精神世界が提示するドグマ(独善的教義)に捕まって、歪んだ観念を構築してしまい、却って歩みを遅くする可能性も高いのです。これが、高僧よりも、田舎の普通に暮らしているお婆さんの方が霊的に進んだ人のように見える理由です。

 

それは、見えるだけではなくて、実際にそうなのです。よく「見た目だけでは人は判断できない」などと言いますが逆です。見た目にすべてが表れます。それは、身なりや服装ということではなくて、その人が発しているオーラ、そこに全部出ている。オーラは嘘をつけません。澄んだ目の色や、微笑みや、言葉づかいや、立ち居振る舞いに、その人の「霊性」がすべて表れているのです。

 

*オーラ(aura):その人が発している霊的バイブレーション。エーテル体、アストラル体、コーザル体の各振動が合わさって、その人固有のバイブレーションを発している。

 

ということで、第一の関門を通過した後に訪れる「葛藤」の時期を、一体どう過ごせばいいのかということが、次の第二の「気づき」を迎えられるかどうかに大きく関わって来るのです。ここで、第二の「気づき」とは何かを言いましょう。それは、それまで信じていた世界が、実は表裏が真逆だったと気づくことです。霊主体従が本当だったんだと、(頭だけではなく)全身全霊で感じるようになることが二番めの「気づき」です。

 

この「気づき」を得て、初めてその人は、第二の関門であるところの「光への道」へと入って行くのです。しかしそのためには、「葛藤」の時期を、少なくとも9割がたは終えていなくてはなりません。「葛藤」を抱えたままで「光への道」へと進むことは出来ないのです。なぜなら、「光への道」へ入るということは、「葛藤」を捨てるということでもあるのですから。両者は、卵と鶏の関係なのです。

 

さてそこで、どのようにして「葛藤」を捨てればよいかということになります。あなたは、第一の「気づき」を得て、ご自分のイヤな面や、エゴや、ネガティブな心グセに気がつきます。そして、「魂」の声が聞けるあなたは、それをなんとか克服したいと考えます。そこで、きっといろいろな取り組みに着手されることでしょう。

 

克服したい点のキーワードを大書して壁にペタペタ貼ったり、ノートに箇条書きにして朝夕に呪文のように唱えたり、指導者を求めて歩きまわったり、自分に戒律を課したり、柱におでこをガンガンぶつけたり、お百度を踏んだり、水垢離をしたり、ひたすらマントラを唱えたり、海に向かって「バカヤロー」と叫んでみたり、etc.。私もさんざんやりましたよ。およそ50年間も。

 

その期間は、私にとっては無駄ではなかったのですが(なぜなら、踏み石役として、その経験を話せるので)、これから後に続く人たちは、もう同じような轍を踏む必要はありません。50年間もウロウロしなくていい。「光への道」へ入るのに、近道はありませんが、あなたは速道を行けばいいのです。プロセスを省くことは出来ないけれども、プロセスをスムースに通過する方法があるということです。

 

先人たちが示してくれたものの殆どは、結局のところ、修善奉行・諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう・しょあくまくさ:善い行いをしなさい、悪いことをしちゃダメよ)に尽きるのですね。私もそれで、良い人になりたい、良い人になろう、良い人にならなければ、とずっと長いことそう思っていました。ところが、これが上手くいかないのです。どうにもスッキリしない。50年間ずっと取り組んで来ても。

 

それで、そのような努力をすることを一切やめたのです。やめてから、やっと解りました。良い人になろうとすることで「葛藤」を乗り越えようとしても上手くはいかない。なぜかと言うと、それは、自分の「ありのままを是認する」というプロセスを省いてしまうからです。自分にはこういう欠点がある。だからそれを出さないように、いつも良い人であろう。それは、どこかで自分を誤魔化しているのであり、無理があるのですね。

 

でもなぜ、修善奉行・諸悪莫作が長年に渡って言われ続けて来たのでしょうか。結局のところ、それが大衆には理解しやすかったからです。具体的な行動指針に思えたわけですね。真理よりも権威、宇宙の法則よりもスーパースターの奇跡の方に心を動かされてしまう大衆にとっては、そうした「決め事」がフィットしたのです。しかし同時にそれは弊害も生みました。地球人類が、いつまで経っても目覚めないということです。

 

けれども、裏の世界ではちゃんと説かれていたんです。「こうするといいよ」という別の方法が。でも表の世界があまりにも強大だから、そして大衆はそれを信じ切っているから、マスターが示してくれていた方法は隅っこに隠れてしまい、大衆には発見できないようになっていたんですね。

 

しかしそんな時代ももうオシマイ。これからのみなさんは、そこで足踏みする必要はありません。急行列車でスッと行けばいいのです。

 

あなた方の「悩み」や「葛藤」が、全て、エゴ(我欲)に起因していることは確かです。しかし、「欲」を完全に無くすということが、人間に果たして出来るのかどうか。

 

偉いお坊さん方は、「無欲」だとか「無我の境地」だとか、自分でも達成出来ていない目標を平気で口にします。これが日本仏教のいけないところで、大衆からすると「う〜ん、凄い!」と思う反面、「自分には到底無理だ」という敗北感しか抱けない。つまり、言う方も聞かされる方も、虚飾に遊んでいるだけになっているのです。

 

でも考えてみてください。もし食欲が無かったら、あなたは餓死してしまうでしょうし、もし性欲が無かったら、子孫は生まれないでしょう。動物や植物を見ても同じで、自然界にあるものは、決して「無欲」なわけではないことが解ります。確かに、様々な「欲」が、その人に苦悩と葛藤を生じさせています。しかし、だからと言って「欲を無くせ」と言うことには、飛躍があり過ぎますし、そこには無理があるのです。

 

ではマスターは何と言っているのでしょうか? 「執着を捨てなさい」と言っているのです。「欲を無くせ」とは言っていません。「欲」と「執着」とを分けているのです。「欲」は持っても「執着」は持つなということです。

 

目の前に、一杯の美味しそうなラーメンがあって、湯気を立てているとしましょう。お腹が空いていたあなたは、それをむさぼるようにして口に運び、胃に入れます。食べ終わって「あー、美味しかったな」と。「これで、また半日生かせて貰えたな」と。それで終わりなら、よし。

 

でも、二日くらい経ったら、またあそこのラーメンが無性に食べたくなったと。あの店は、ダシにあれとこれを使っていて、中太の縮れ麺で、チャーシューは5枚載っかっていると。それを思い出すと、もう夜も眠れないんだと。腹が空いてしょうがないと。「あー、どうしてもあのラーメンが食べたい」と。もうこうなったら、「欲」が「執着」にまで化けている。

 

このことは、すべてについて言えるのです。親子関係、夫婦関係、その他の人間関係、お金、財産、仕事、身の回りの道具、コレクション、ペットetc.。そこで、想像してみてください。今あなたが所有している(と思っている)それらのものが、10分後に、もしも跡形もなく消え失せてしまったとしたら、あなたは果たして耐えられるでしょうか? 例えば、あなたの子ども、あなたのパートナー、あなたの家。

 

一つでも、耐えられないと思うものがあるうちは、あなたは、それについての「執着」を手離せていません。しかし、中にはこう言う方もおられることでしょう。いや、自分は「執着」を手離したくなんかないんだと。なぜなら、私のそれは「愛」なんだからと。家族や、恋人や、ペットや、コレクションに対峙している時の私の「心」は、「愛」の表現なんだと。

 

そう思っているあなたは、まだ「愛」の本質を理解していません。それは、所有欲、支配欲、相互依存を、「愛」という言葉に置き換えただけのもの。本当の「愛」とは、所有でも、支配でも、取引でもなく、無償のものだからです。無償の「愛」に至った者が、それを失うことを怖れたり、悲しんだりするはずがないではありませんか。無償なんですから。

 

では、この「愛」を、どこまでも拡大して行ってみてください。

どこまでも、どこまでも。

そう、それが神の「愛」なのですよ。

 

どの道、あなたは気づきます。「執着」し続けることの無意味さに。えっ、分からないかな? この世で、「死」と呼ぶプロセスを、あなたが迎える時にですよ。あなたは先ず、身体を手離し、その後に、心を手離します。そして物質界から離れる。であるならば、その日が来るずっと前に、苦しみの元である「執着」を手離してしまえばよいではありませんか。

 

実にこれが、「今を生きる(Be here now)」ということであり、アセンションへの扉を開くということなのです。

「今を生きる」ことに徹すれば、過去も未来もどうでもよく、よって何かを悔やんだり、逆に期待することもなく、自分の今を、自由に燃焼させて、ハッピーに生きられるのです。解りましたか?

 

そこで最後に、「欲」は持っても「執着」を持たないようにしていく訓練法をお教えしましょう。これは「止まる瞑想」とか「歩く瞑想」と呼ばれているテクニックです。先ず「止まる瞑想」では、あなたが何かをしている時に、その行動を一時停止させ、いま自分は何をしていたかなと観察するのです。これによって、その行動に埋没していた自分を、その次元から引き剥がすのです。

 

もう一つの「歩く瞑想」は、動作を止めずに、もう一人の自分がいて、その動きを観察するようにします。いま左足を上げた。あ、地面にかかとをつけたぞ。重心移動をして、足を蹴ると同時に右足を上げたな。といった具合です。これを、生活の様々な分野で行うのです。料理をしている時にも、掃除をしている時にも。いま包丁を手に持った、自分の手が野菜を切っているぞ、という具合に。

 

このエクササイズを繰り返し行なってください。これによって、身体が自分なのではないという感覚がしだいに身について行きます。そうすれば、自分の「欲」を認めつつ、上手にコントロールできる自分になって行きます。自分のネガティブな部分を否定しようとしてはなりません。否定することは自分に嘘を課すことですし、その葛藤にかえって苦しみます。また、良い人であろうとすることも、所詮は仮面なのです。

 

そうではなく、ここでも重要なことは、やはり素直さです。自分の「心」の動きに逆らわず、先ず出してしまって、それを肯定も否定もせずに観察するのです。あ、いま自分は腹を立てているなとか、あの人に嫉妬心を燃やしているな、といった具合にです。これを繰り返し行なっていれば、数年のうちに、自分の暴れる感情や、思考パターンや、本能をコントロールできるようになっているはずです。

 

そして、あなたは気づきます。いつの間にか、自分の「欲」そのものも変化していることに。あれほど好きだった特定のものに、もはや前ほどには興味が持てなくなっていることに。流行を追いかけることがバカバカしいと感じ出していることに。テレビのニュースになんの関心も無くなっていることに。友人関係が激変していることに。食べ物への関心が以前とは様変わりしていることに。etc.。

 

代わりに、今までは全く無価値だと思っていた、ただウザいだけだと思っていた、何気ない、このド日常の中に、掛け替えのない喜びを発見するようになります。それは、太陽の暖かさであり、木々の緑の鮮やかさであり、吹く風の爽やかさであり、揺れる水面のきらめきであり、一杯のスープであり、自分を支えてくれる人たちの思いやりであり‥‥

 

そして、あなたの耳に届く、この地球の生命の讃歌。

 

やがて、あなたは知る。

もう、これで充分なのだということを。

すべてが最初から満たされていたんだということを。

Jump --- 次元を超えた飛躍めざして

このブログを訪れてくれる人はみんな、自己の霊的向上を目指そうと、日々努力されている方たちだと信じています。それは、「魂」に誕生前からインプットされていた行動原理ですので、心を落ち着かせて、素直になって、自分の内面を静かに見つめれば、誰もが、自然にそうした欲求を抱くようになっているのです。ですが、残念なことに、「光への道」を極めんとする人は、いつの時代でも極く極く少数でしかありません。

 

どうしてそうなってしまうかと言いますと、人間は、エゴをなかなか手離せないからです。大我に至らんと欲すれば、小我は捨てなくてはなりません。両者はトレードオフの関係なのです。ところが、人間は生まれた直後から、エゴへの道をひた走り始めます。そのように、社会が出来上がっていますし、あらゆる場でそれが推奨されていますし、親や教師もその道を行くことを強く願うからです。

 

*大我:=大霊=神。大我に至るとは、その意識と自己とが一体となること。

*小我;=自我=エゴ

*トレードオフ;片方が増えれば、もう片方が減るような関係。

 

その結果、エゴを前提に生きることが半ば常識化、習慣化してしまい、もはや誰も、それを「捨てる生活」というものがイメージできません。宗教界や精神世界ですら、エゴをくすぐること(幸運が訪れる人生や、この道だけが唯一最高の道)をエサにして、信者獲得を図っている始末です。

 

そのような状況ですので、エゴをなんとか手離そうと、地道な努力を続けている者は、周囲からは奇異な目で見られ、きっと肩身の狭い思いをしておられることでしょう。あるいは、そんな段階はとうに卒業して、我関せずとばかりに、大らかに、自分の道を歩んでいる方も、中にはおられるかも知れませんね。

 

そこで、友よ。あなたは決して一人ではないということに確信を持っていただきたいのです。同じ道を極めんとする真の友は必ずいます。すぐそばにはいなくても、このメッセージを通じて繋がっている友はいるのですよ。ですから、忍耐、忍耐。今は、中世の時代のように、異端のレッテルを貼られて処刑されるようなことはありません。目立たぬように、ひっそりと、己が道を歩きなさい。

 

エゴは、あなたに幸福感と満足感を与えます。ですから、その誘惑を、みな直ぐに信じてしまいます。まるで、巧妙な詐欺にあうようなものです。しかし、この幸福感と満足感は一時的なものであって、決して長続きはしません。一時的な幸福感が過ぎ去ってしまうと、それを再び味わいたくなって、あるいはもっと強く味わいたくなって、自分のエゴをさらに強化していく道へと人は進むのです。その一方で、一度得たものを失いたくないという恐怖心が首をもたげて来る。

 

人間の「悩み」の大半は、結局、これが原因なのです。自分の欲で、自分を苦しめている。それが、お金であっても、財産であっても、地位や名声であっても、名誉や栄誉であっても、恋人であっても、パートナーであっても、自分の子どもであっても、みんな出所は同じ。欲しいという気持ちと、得たものを失いたくないという両方の気持ち。これがある限り、生涯「悩み」は消えない。

 

誰かに自分の「悩み」を打ち明ける。カウンセラーや精神科医に自分の「悩み」について相談する。そうすることで、一時は気持ちが楽になったり、悩みが解消されたように感じることもあるかも知れません。しかしそれも、幸福感や満足感と同じで、やがては過ぎ去ってしまいます。そしてほとぼりが冷めると、その人はまた、自分のエゴをベースに、「悩み」を創造(クリエイト)することになるのです。人の一生は、その繰り返し。

 

ですから、その繰り返し状態から完全脱出するためには、自己の底辺に流れている、このエゴという川から外に出なければならないのです。エゴの川にどっぷり浸かっている限りは、そこでどんなにもがいたとしても、その流れの強さにたちまちにして押し流されてしまう。そこで、川から出て、陸に上がるということが必要になって来るわけです。それが「捨てる」ということ。川を離れるということです。

 

でも、エゴという川を捨てて陸に上がるためには、その前に、自分はいまエゴの川の中に浸かっている状態にあるんだ、ということに気がつかなければなりません。先ずそこに気づかなければ、出ようがない。結局、これがみな分からないのですね。川の中にいる人にとっては、そこがむしろ陸地に見え、陸の方が、落ちたら死ぬかもしれない危険な川に見えるのです。そこで、あっち側に一歩を踏み出すことをみな躊躇する。

 

ですから、ハイ・ジャンプが必要なのです。思い切って、ポーンと踏み出す勇気。とにかく先ず陸に上がってみる。しのごの言わず、先ず上がる。上がった直後は、服もまだビショビショに濡れていて、しっくり来ないかも知れません。でも自分の姿をじっくり観察してみれば、服の袖や裾から、エゴの滴がポタポタと落ちて行くのをあなたは目撃するはずです。そうして、服があらかた乾くようになるまでには、数年を要することでしょう。いやもっと、数十年かかるかも。

 

でもね、ここが肝心。最初の一歩がなければ、その後だってないのですよ。とにかく、第一歩。Jump、Jump、Jump! だから、思考をやめるのです。判断をやめるのです。他者にお墨付きを求めようとするのをやめるのです。損得勘定をやめるのです。アクセルとブレーキを一緒に踏むクセをやめるのです。過去を振り返ったり、将来を考えることをやめるのです。

 

今ここ。今ここのあなたがすべて。

そしてこの瞬間が、あなたを変えるパワーポイント。

 

「私は自由だ!」と叫びなさい。そしてジャンプするんです。

そこから、あなたの見る世界が変わる。

やがて何もかもがひっくり返る。まるでメビウスの輪のように。

表が裏に、裏が表に。

 

いつまでも川の中にいて叫んでいるようじゃあ、真理には到達できない。「光への道」へは進めない。なぜなら、川の流れ、つまりこの世で定めたスケールの中でしか、その人は動けないのだから。

そんなものじゃないのですよ。そこでは、次元を超えた飛躍が待ち受けているんです。常識人には、その飛躍の意味が解らない。

 

この『気づきの啓示板』では、信仰や戒律を否定しています。倫理、道徳も、そんなものは不要だと言っています。なんでもありだ、自由なんだと言っています。信仰の貴さを説いたり、倫理、道徳の必要性を説くのは、まだ川の中に浸かっている者たちの論理。その段階も経なければ、人類は気づけないのかも知れません。けれど、「光への道」は、その次元を、超越したところにあるのです。

 

本当にジャンプしてしまえば、真理をつかんでしまえば、そんなものは一切不要だということが解ります。なぜなら、大我=神我というものは、そもそもそうなのだから。あれこれ屁理屈も不要。しかし、屁理屈が不要ということを知るためには、先ず屁理屈をこね尽くさなければならない。次々と湧き上がる問いに答えを見い出さなければならない。それはちょうど、自分探しの旅は本当は必要なかったんだということを知るために、わざわざ長い旅に出ることと同じです。

 

次元を超えてジャンプした者の行動は、完全に道徳的なものになるし、その人の在り方は、宗教信仰者よりも信仰篤い人のように映ることになる。また、内なる声に従うことを徹底して生きる寡黙な人は、誰よりも強い信念を有する人に見えることでしょう。でもそれは、その人が、倫理的、道徳的であろうと努力しているわけではないし、特定の信仰心や信念を持って生きているわけでもないのです。

 

すべては自由。ただ、ありのまま。

 

同じように、利他だ、支援だと言っているうちはまだまだで、すべては自分のためにやっている、誰のためでもなく天に奉仕している、と極めて利己的に語る人の方が、真の奉仕とは何かということをずっとよく解っているのです。けれども、人々には、それが理解できない。エゴの川に浸かり続けている人には、そのスケールでしかものを見れない人には、ただの奇人変人にしか見えない。だから、そういう人には異端者の烙印を貼って、投獄するか処刑して来たのです。

 

ところがそれも、一度権威づけが為されれば、まるで手の平を返したように態度が変わる。その者は、神の代弁者だから絶対だとか、言行録に書かれてあることは全て正しい、などと言い出す。そして、今度はそれを疑う者たちを許さない。結局、大衆が求めているのは、いつの時代でも「権威」なのであって「真理」ではない。そのエゴの心理につけこんで支配を目論む者たちがいることに、人々はまったく気づかないのです。

 

だからね、「言葉」じゃないんですよ。言葉に惑わされる人が時々いますが、そうじゃないんです。「信仰」が大切なのか、不要なのか。「信念」を持つということが貴いものなのか、忌むべきものなのか。そんな議論など、どうだっていいんです。言葉は、単なるレッテルに過ぎない。問題は、その中身です。ホンモノには次元を超えた飛躍があるのですよ。

 

自分を縛り付ける、あらゆるものは不要なんです。ただただ素直で自由であればいい。それだけのこと。でも人間たちは、それでは決して満足しない。ありとあらゆる機会を通じて、自らを縛る方策を考え出す。そして、他者を縛り、自分も縛って、それによって互いに苦しみ、憎しみ合う。ああ、なんてお馬鹿さんたちなのでしょう。「今ここ」でジャンプして、宇宙に、このわたしに身を預げればいいだけなのに‥‥。

 

「気づき」の体験は、あなた固有のもの。他の誰にも、そこには介入できないし、まとめ上げて組織化することも出来ません。ですから、「この道しかないぞ、こっちへ来い」と主張する者はすべてニセモノです。どんな道だってあるんです。だから、もう、誰かに判断を仰ごうとすることはおやめなさい。あなたは、あなたの道を行きなさい。自分を信じて、自分の声に耳を傾けて、堂々と、力強く歩きなさい。

 

頂きは一つ。どんなルートを通っても、最後には到達するのです。

最初の一歩を、あなたが踏み出しさえすれば。

脱出したいのなら、なぜ自分を救ってあげようとはしないの?

このブログに掲載しているメッセージは、何よりも先ず、人間が霊的存在であるということを自覚し、「今生で、もっともっと霊的な進化を遂げたい」と心底から希求する人たちに、少しでもお役に立てれば、というささやかな思いから発信しています。

 

しかし、ここでしていることは、古代からずっと変わらず言われ続けて来たことを、現代のツールを使って、現代の日本語で、現代人のハートにも届くようにしているだけのことで、内容的に新しいことは何一つありません。でもその試みを通じて、不変的、かつ普遍的で不偏的な真理が、宇宙には確かに存在するのだということに気づいてくれる人が増えれば、望外の喜びなのです。

 

そのために、みなさんが、これを踏み石にしてくださればそれでよいのです。いやむしろ、次世代を担う方には、これを踏み石にして、強く、大きく、ジャンプしていただきたい。そして、ご自分が出来ることを通じて、世の中に貢献し、明るいバイブレーションを周囲に広げてもらいたいのです。

 

この『気づきの啓示板』が創られた目的の一つは、日本全国に散らばっているユニバーサル・メンバーたちのエンジンを始動し、各人に、今生での役割を思い出してもらうよう奮起を促すことです。その目的は、最初から明確だったわけではないのですが、やって行くうちに、だんだんと私の中にそのような自覚が芽生えて来たのです。自分の役割は、そのための踏み石になるのだと。

 

そして、それを実行する過程で、自分がいかに愚劣で情けない、取るに足らない人間であるかということを曝け出して来ました。また、なかなか心を治められずに、心理的、精神的な葛藤にさいなまれ、パニックや鬱になったり、神経症になったりした体験も語って来ました。これは、ユニバーサル・メンバーの人たちが陥り易い傾向に関して、(先輩の?)私が「大丈夫だよ」と言ってあげたかったからです。

 

しかしそのことで、パニックや、鬱や、神経症を患っている人たちの中に、救いを求めてこのブログを訪れてくださっている方がいらっしゃるようです。そのお気持ちはよ〜く解ります。私にもそういう時期がありましたから。でも、その方たちに言ってあげたいんです。いつまでも救いを求め続けていてはダメですよと。なぜ、自分で自分を救ってあげようとはしないのですかと。

 

大海原で溺れかけている人がいます。その人は、「助けて〜、助けて〜」と、残った気力で必死に叫んでいます。そこへ、運よく救命ボートに乗った救助隊員が駆けつけて手を差し出す。「さあ、この手に捕まれ!」。でも、その溺れている本人に、ボートに這い上がる意思がなければ、いかに優秀な救助隊員だったとしても、その人は救えないのですよ。自分を救うのは、最後の最後は、自分の「這い上がろう」とする意思なのです。

 

自分が鬱だったころ、救いを求めて、ある自助グループの会合に参加したことがあります。参加してみて驚きました。交わされる会話の内容が、各種の薬剤の名前と、いま何mg飲んでいるかという話に終始していたのです。薬を飲んでいなかった私にはまるでチンプンカンプン。その雰囲気に、「ヤバい、こんなところに居たら、鬱病になっちまうぞ!」と直感が教え、それからもう二度と行くことはありませんでした。

 

そもそも、「自助」という言葉と、「グループ」という言葉が繋がるのは矛盾です。「グループ」を組んだら「自助」にはなりません。それは、ただの助かりたい人たちの慰め合いの場になってしまいます。そのうちに、そこに参加する人たちの間に、ある共通意識が芽生えて来る。「私を理解してくれる人は、この人たちしかいないんだ」。そうやって、しまいにはグループから脱けられなくなる。

 

こうなったら、いったい何のためのグループであったのか、解らなくなってしまいます。その状態から卒業することが、脱出することが、そもそもの目的ではなかったのでしょうか?

 

ですから、この『気づきの啓示板』も、いっときは慰めになったとしても、そこから出来る限り早く卒業することを考えて、今ここで、(自分が出来る)アクションを起こさなければ、結局は自助グループと同じような位置づけに終わってしまいますよ。2年も、3年も、4年も、慰めを求め続けていては、この先もラチが開かないのは明白ではありませんか?

 

『気づきの啓示板』は、慰めの目的に用意されているのではありません。あなたは蝶なのです。いつまでもサナギのままでいようとすることは、あなたにとって不自然極まりない。これまでのメッセージを振り返ってみれば、高次の存在からは、終始あなたをサナギから蝶へと羽化させるためのヒントが語られて来たということが、あなたにもお判りでしょう。

 

苦悩の状態から、いかに脱出すればいいかは、すでに語り尽くされているのです。あなたを縛っているのは、あなた自身の頑固な思い込みです。ですから、せっかく「自分が楽しいと思えば、楽しいんですよ」「自分が幸福だと思えば、幸福なんですよ」と言ってあげたとしても、自分を解放する意思のない人は、「そんなこと、とても思えない」「不可能だ、出来ない」とすぐに言う。

 

一度も、やってみようともしないで。

 

そういう人に掛ける言葉は、もうありません。溺れかかっている海から自力で這い上がろうとする意思のない人を、いかに神といえども、救ってあげることは出来ないのです。その海の、混沌の中に居続けることが心地よい人を(本人は、口では「苦しい」と言いますが)、無理やり引き上げることは出来ないのです。なぜなら、その決断は、その人の自由意志の範疇にあるのですから。

 

あなた方の大多数は、ご自分が、何者かに絶えずコントロールされているという事実に、全くと言っていいほど、気がついていません。あなたは、その者に完全に支配されているのです。その、いつも自分をコントロールしている者とは、いったい誰だと思いますか? あなたですよ。あなたのコントロール意識が、あなたの意識の大部分をつねに支配しているのです。

 

ところが、自分のコントロール意識と、それ以外の意識との区別がついていません。別の言い方をすれば、コントロール意識の中に、その他の意識がすっかり埋没してしまっている。まさにコントロール意識の海の中に、自分が溺れた状態です。すると、野放し状態のコントロール意識は、必然的に、その人特有の心グセを優先的に行使するようになるのです。

 

本能タイプの人は本能的に行動し、感情タイプの人は感情的に行動し、思考タイプの人は思考的に行動するのです。しかし、自分がそのような心グセのパターン、ひいては行動パターンを持っていて、始終これを繰り返しているということに、大多数の人は気がついていません。その状態に埋没しているからです。実は、これこそが、その人特有のカルマを表わしているのです。

 

同じような体験をしても、怒る人、悲しむ人、恨む人、理屈を述べる人、やり過ごせる人、と様々なのはそのためです。たとえ同じインプット情報に接しても、その人のカルマが、特有の思考と行動のパターンをアウトプットするのです。ですから、そこに気づくということが、カルマ脱出の糸口となるのです。

 

一方、その人の周囲には、その人の意識に影響を与えている様々な環境要因が存在します。自分が育ってきた環境、現在の家族、家、学校、職場、そこで出会う人々、メディアから流れるニュース、社会通念、SNSでやり取りする情報等々。今後は、これにAIとロボットが大きな影響力を持って加わります。その時、自分のコントロール意識を意識していない人は、外部環境の情報にいとも簡単に影響を受けてしまうのです。

 

これが、要するに「洗脳」です。「洗脳」と言いますと、普通は○○という団体に洗脳されているとか、ある人物に洗脳されたとか、特定思想に染まっているとかと言うのですが、厳密にはそうではなく、それらに染まった自分のコントロール意識によって、自分を支配するようになったということなのです。ですから、この部分での気づきがない限りは、いくら説得を試みても「洗脳」は解けません。

 

図を見てください。

あなたの意識は、一様なものではなく、多層構造から成り立っています。

 

普段、あなたが動かしている意識は、主に脳が情報を処理することによって形成したものです。しかし、あなたの意識全体を支えている本体(コア)は、実は「魂」にあるのです。なぜなら、脳というのは単なるハードウェア、演算処理装置に過ぎないからです。

 

ですが、多くの人はこのことを知識として知りませんし、「魂」レベルの意識を意識したこともあまりありません。でも、あなた方は、しょっちゅう意識的混乱(confuse)に陥っている自分というものを経験しているでしょう。これは、脳が創り出している意識と「魂」の意識とがぶつかって、綱引きをするためなのです。

 

「魂」の意識は、宇宙意識と常時つながっていて、その最奥では、実は誰もが「宇宙の真理」を既に知っているのです。ところが、この物質世界を生きるために用意された五感センサーが、あなたに物質世界で起こることの様々な幻想を見せます。すると、コントロール意識が影響を受けて、なにがしかの「観念(信念)」を創造し、意識全体をその支配下に置いてしまうのです。簡単にいえば、自分に特定のカラーの色メガネを掛けてしまうのです。

 

あなた方の多くは、身体を持つ自分こそが「私」であると固く信じ込んでいますので、こうして創造された「観念(信念)」で、自己の「魂」の意識にもフタをしてしまいます。霊界なんてものはないんだとか、たまに触れても、錯覚だとか妄想だとかと言って、切り捨ててしまいます。この結果、宇宙意識とのつながりが断たれ、幻想世界での右往左往を繰り返すという状態になってしまうのです。

 

また、それだけではなく、この特定の強い「観念」つまり囚われが、「魂」にその印を刻み込み、これがチャクラに堆積してカルマとなり、その「魂」特有の霊性や人格を作り上げるのです。しかし、いま言ったメカニズムを理解している人は殆どいませんので、カルマ解消のために、せっかくこの世という物質界に輪廻転生して来ても、またしても自分のカルマに縛られて、何度も何度も同じ過ちを繰り返してしまうのです。

 

けれども、コントロール意識が、自分の外側ではなく、ベクトルを反転させて内側に向かうと、つまり内観するようになると、コントロール意識は、この「魂」の意識をキャッチするようになります。すると、宇宙意識がしだいに目覚め、その人は、自然と霊主体從の思考と行動様式を取るようになっていくのです。そうなるための最高のツールが「瞑想」なのです。

 

*なお、この際には、先ずコントロール意識を、「観察者の意識」に変えるということがポイントです。それによって、本能や感情や思考に埋没している自分の意識を外側から眺め直し、ありのままを観察するのです。その後、意識を内側に向けます。しかしこれらのテクニックは、みな修養の途中段階のもので、最後は芯と表をひっくり返して、「魂」の最奥レベルの意識で、全体を一つに統一してしまうことになります。

 

このメカニズムを知れば、現代人が、今どれほどの脅威に晒されているかということが解るのではないでしょうか? 須磨穂教の熱心な信者となって、一日中画面を見続けているような人に、内観する時間は全く訪れません。そこにさらに、ロボットとAIが、これから無制限に加わって行くのです。これからの人間は、文字通りの「魂」の脱け殻、ただの奴隷ロボットと化して行くことでしょう。

 

ですから、あなたが、今後も「魂」を有した人間として、この惑星に生き続けたければ、まるで大津波のように押し寄せてくる、この時代の同調圧力に抗って、自分のコントロール意識というものを、今以上に意識し、それを点検し、そして内観し、内なる声に静かに耳を傾けて、本当の自分、真実の自分を思い出して行くしかないのです。すべては、そこに掛かっているのです。

 

もう、いつまでも同じ場に留まって、逡巡している場合ではありません。あなたは蝶なのです。サナギであり続けることを止めなければ、そして羽化しなければ、自分がどんな羽を持った蝶であるかは判らないのですよ。先ず、脱皮しなさい。あなたはあなたです。いったい何を怖れるのですか? 朝顔の種は朝顔を咲かせ、胡瓜の種は胡瓜を実らせる。そこに迷いがあるでしょうか?

 

自分が幸福だと思えば、その人は幸福。自分がいま楽しいと思えば、その人は楽しい。実に簡単なことです。これ以外の何の秘密があるというのでしょう? 幸福への秘訣は、全部ここに集約されているのです。それを、「そんなことは思えない」「不可能だ、絶対に出来ない」という人の頑固さを、さらに解かしてあげられる言葉を、わたしは持ちません。

 

それほどまでに救われたいのなら、どうして、自分で自分を救おうとはしないのでしょうか? ただ、ありのままの自分に還ればいいだけなのに。鎧や仮面を全部脱いでしまえばいいだけなのに。自分の中にある、素直さと、正直さと、普遍的な愛を、ただオープンにしてしまえばいいだけなのに‥‥。

 

何も持たなかったら、失うものだってないじゃないか

君は透明人間みたいなものなんだよ、だから隠す秘密も何もない

    ボブ・ディラン(Like a Rolling Stone)

 

いったい何に、いつまでもこだわっているの?

 

言ったでしょう。この世は劇場で、あなたのドラマは、つねにあなたが主役。それをどう演じるかは、あなた以外には決められないのですよ。待っていても、誰かが何とかしてくれることはないのですよ。本当に救われたいと思うのなら、ご自分を動かしなさい。自分で自分を救いなさい。

 

悩める人よ。

脱出(Exodus)したければ、

これ以上、しのごの言わず、とにかく先ず動け!

Move, Move, Move.

 

「信」が持つ力を、利用して生きる

前回のメッセージを読んで、こう思われた方はいないでしょうか?

じゃあ、「素直で、正直に生きよう」という「信念」を持って生きている人は、どうなるわけ? それだって一つの「信念」だよね。その人も、必ず「嘘」をつくということになるわけ? でもそれって、矛盾してやしませんか?

 

そう思った人は鋭い! えっ、そんなこと全然考えもしなかったって? う〜ん、その人はあんまり鋭くないですねぇ。いつも言っているじゃありませんか。このブログに書かれてあることを含めて、外から来る情報は一切「信じ」てはダメだって。鵜呑みにしてはダメなんだって。疑って、疑って、自分の「直観」の中に答えを見出すんです。それだけが、あなたが信じていい唯一のこと。

 

もしもその人が、「素直で、正直に生きる」という「信念」を固く胸に抱きつつ生きていたとしたら、その人は、やっぱり苦しむでしょうね。「信念」というのは、結局のところ、自分を縛る鎧ですから。つまりそれはぜーんぜん「素直」じゃない。素直なフリをしようとしているだけ。そう演じることで、本当の自分に、真実の自分に、やっぱり「嘘」をついているんですね。

 

例えば、これを正直に言ったら、明らかに相手を傷つけてしまうと分かっていることがあるとしましょう。あなたはそれを、ただ「正直であるべきだ」と金科玉条的に考えて、その通り告げることを選びますか? ルールを決めれば、確かにそれは楽かも知れません。でも、人間関係の学びにはならない。告げた方がいい場合もあれば、告げない方がいい場合もある。だからこそ、学習機会になるのです。

 

「素直さ」というのは、特定のどんな信念も保持し続けないということです。たとえ直前まで何かの信念を持っていたとしても、「気づき」が起きた瞬間に、それをパッと捨てられるということ。改められるということ。いつでも自分を変えられるということ。自分が間違っていたということに気づいたら、すぐに謝れるということ。それが「素直さ」というものです。

 

「素直で、正直に生きよう」と心掛けることと、それを特別意識しないでも実現できていることとは、次元が違うのです。「意識」の置き場所がちょっと違うんですね。「素直で正直」というのは、いったい誰に対してのことだと思いますか? 自分ですよ。己れに「素直で正直」である人は、結果的に、他者に対しても「素直で正直」になれるし、周囲にもそのように映るんです。ただ、それだけのこと。

 

でも、言うは易し行うは難しで、素直で正直に生きることを、意識しなくても実現できているようになるまでには、何年も掛かる。いつも言っているように、「解る」には三段階がある。先ずは全然解らないし気づかない。次に、あることにパッと気づく。そしてストンと腑(体の内)に落ちる。その後に、自分の中の細胞が少しずつ変わり始め、何年かすると、遂には新しく芽生えた意識と自分とが一体化してしまう。これが、本当に「解った」ということ。

 

ですから、何にも増して、その人に「気づき」の瞬間が訪れなければ、その先の三段階めはないのですよ。そしてその瞬間は、その人が、それを受け取る準備が出来た時にだけ、グッドタイミングでもたらされるのです。だからなおのこと、「素直で正直」であることが重要だというわけ。「信念」という盾で凝り固まった人たちは、自分に贈られたせっかくのメッセージを、みんな撥ね退けてしまいますからね。

 

さあ、解ったかな? あなたが、ただ「素直で正直」でありさえすれば、メッセージはどんどんもたらされるのだよ。真理の知恵は、いわば大海のようなもので、それはいつもあなたの周囲に流れているのです。それを、気づかずに素通りして生きるのか、欠けた小さな盃に受けるのか、大きな鉢でたっぷり受け取るのか、穴の空いたザルで汲みに来るのか、その違いだけなのです。

 

あなたの上にこぼれ落ちたしずくが、たとえ一滴だったとしても、それを見逃さずに、心底ありがたいと思って飲み干せば、あなたの器はどんどん大きくなるのだよ。それは、幾何級数的な発達をもってね。その発達段階を、上手に乗り切る方法を、今日のこのタイミングで特別にあなたにお教えしよう。それは、「信」が持つ力をうまく利用するとよいのだよ。

 

先ほども言ったように、たとえ瞬間的に何かの「気づき」を得たとしても、その先に進んで、本当に「解る」という段階に至るまでには何年も掛かる。焦る必要は全くないのですが(というのは、宇宙は永遠の無時間だから)、多くの人はせっかくの「気づき」を得ても、直ぐに、これまで吹き込まれて来た価値観で、まるで黒板消しを走らせるようにサッとそれを打ち消してしまう。

 

これが、地球人の覚醒がなかなか進まぬ大きな原因なのですね。ですから、一つの「気づき」を得たら、次にはそれを意識に上げて、留め置くことが大切です。このようにして、自分の意識を意識することによって、顕在意識の奥にある超意識の扉が少しずつ開かれて行くのです。そして、これを習い(習慣)にすれば、あなたの霊性は、やがて幾何級数的な発達を見せるようになるのです。

 

その際に、途中段階にある間は、また葛藤で苦悩する間は、「信」が持つ力を利用すればよいのです。「信」は、自分を変身させる強力なツール。「信」が、あなたという人間を育て、あなたの個性を形づくっていると言っても過言ではありません。試しに、私が「あなたは誰ですか?」と訊いたとしましょう。あなたは、あれこれと説明をします。それは、あなたが自分に対して持っている「信」に他ならないのです。

 

けれど、普通の人は、そんなことを考えたこともありません。自分の意識を意識することもなく、まるで夢遊病者のように暮らしているのです。ですから、古来より「目覚めよ」とか「眠りから目を覚ませ」と言い続けられているのです。多くの人は、自分がちゃんと目を覚まして活動していると思っています。でも実際には、集団催眠術に掛かっていることを知らないのです。

 

ここで「思念」というものが、あなたが形づくる世界に、どう働いているかを改めて考えて見ましょう。この例は前にも書きましたが、あなたが今晩の夕食を作って食べたとしましょう。それは、あなたが献立のプランを描き、実際に材料を買い求め、それを手順を考えて調理し、皿に盛ってテーブルの上に並べたから、それが夕食として現実化したのです。

 

このように、現実化しているものの前には、それに先立つ「思念」が必ず作動しているのです。あなた方は物質界に生きているので、物質界で起きていることのみを「現実」と捉えていますが、そうではなくて、数ある思念のうちの、特定の物質化された世界を、選択的に生きて、それを確かな「現実」だと思い込んでいるだけなのです。

 

でも、このことを、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでは、先ほども言ったように至難の業で、取り敢えずは「そんなものなのかなぁ」という程度のものを、頭の片隅に意識して置いておくしかありません。がしかし、思ったものが(少なくとも思ったものの一部が)現実化している、という法則がそこに働いているということには注目して欲しいのです。

 

*至難の業:それを獲得するのが難しいのではなく、それまでを捨てることが難しい。一種のパラドックスです。

 

さてそこで、この世界には今、あまりにも多くのネガティブな「思念」が飛び交い、これらで全世界が溢れ返っています。日増しに空気がトゲトゲしくなっている。でも、「波動」というものを峻別することが出来ない大多数の人たちには、勿論そんなことは分かりません。でもこれが、人々に影響を与えないわけがないのです。それぞれの人の深部では深刻な影響を与えているのです。

 

敏感で内向的な人たちは、今の荒れた「波動」が渦巻く社会に息苦しさを覚え、自然と他人との接触を避けるようになっています。さらに、それが昂じると「精神疾患」のレッテルまで貼られ、二重に苦しんでいるのです。一方の鈍感で外交的な人たちは、無意識的に、粗い「波動」に同調することによって生き残りを図ろうとし、ますます威圧的に、差別的に、暴力的に振る舞う傾向を強めているのです。

 

はっきり言って、社会全体が病んでいます。しかしその病んだ社会に、なおも同調するように仕向けられているのが、現代というものが持つ社会病理なのです。こうして、病んだ人たちが多数生み出され、その人たちがまたさらに病んだ社会を創り、その社会がさらに病んだ人を生み出す、という悪循環がエスカレートしているのです。これが、地球人類全体が催眠術に掛かり、まるで夢遊病者のように暮らしていると言うゆえんです。

 

どうして、この悪循環をストップできないのでしょうか? それは、地球人類が未だに無智なためです。この宇宙の成り立ちを知らない。この世を動かしている本当の道理を知らない。ただ宇宙の真理について無智なだけではなく、外から来る情報には直ぐに心を動かされ、夢中になり、これを「信じ」てしまう。ですから、この世を操ろうとする者たちの術中に、簡単に落ちてしまうのです。

 

ですがここで、「思念」が現実を創造するという法則を思い出してください。あなたが、歳をとってから生活に困るぞ、とまるで呪文のように思い続けていたとしたら、実際に困るようになりますし、健康診断を受けなければ病気なるぞ、と思っていれば病気になります。少なくともその可能性が高くなる。そういう「思念」が現実を創造するからです。

 

同じように、第三次世界大戦が起こる思っていれば、世界大戦になりますし、大地震が来るぞと思っていれば、大地震が来ます。そう思う人々の意識が集まって、臨界量を越えれば、それが現実化します。そう思って、今の世の中を改めて見てください。いかに人々の不安を掻き立て、心を粗げさせ、欲望を刺激するものばかりで溢れ返っているか。政治も、経済も、ニュースも、広告も、それらで埋め尽くされていることが分かるでしょう。

 

でもここで考えてみてください。そのようにメディアを通じて発信されている社会通念と、あなたの人生とに、いったい何の関係があるというのでしょうか。そんなつまらない、くだらない、意図的に操作された、どうでもいい情報を仕入れなくても、あなたは生きられる。いや、むしろ、その方が生き生きとあなた自身を生きられる。これが、再三言っている「あなたはあなた」ということなのです。

 

あなたは、あなたの人生を生きれば、それでよいということ。何も、病んだ社会に適合する必要も無ければ、自分からわざわざ巻き込まれに行くこともないのです。しかし周囲は、また洗脳された人々は、それでもなお、腐った社会に同調するように、プレッシャーを与えて来るでしょう。でもそんなものは、勇気を持って撥ね退けなさい。街角で差し出されたティッシュペーパーを「結構です」と断るように。

 

代わりに、「信」が持つこの力を逆利用するのです。ネガティブな「信念」が、いかにその人に悪影響を与えているかということが解ったなら、その力を活用してポジティブな「信」に変えてしまうのです。私はすこぶる健康だと思えば、その人は健康ですし、いつも元気だと思えば元気いっぱいです。やることなすことみんな楽しいと思えば、毎日が楽しく送れるのです。これが、いつも言っている「持ち替える」ということ。

 

ゴールまでの道程は遠いかも知れません。でも、その遠さに圧倒されて、今日の一歩を踏み出さなければ、あなたの進歩は永遠にないのです。どんなに遠い道であっても、今日一日という時間を、明るく、楽しく、元気よく歩けば、そう思い込めば、道々で出会うものの意味が違って来るのです。そのために、「信」の力をポジティブに活用しなさい。

 

この世は、所詮は幻なのですよ。幻だと知った上で、取り敢えずのポジティブな「信」を生きるのです。木々の緑の中に、生命の輝きを見ようとしてご覧なさい。湖上の水のきらめきに、妖精が踊っているのを見ようとしてご覧なさい。憎い相手の心の奥にも守護霊の愛があることを見ようとしてご覧なさい。それを習慣づければ、少しずつ少しずつ、あなたは真実の自分に近づく。

 

そして、やがて気づく。もはや「信」など必要ないことを。

ただ、ありのままの自分で、よかったのだということを。

信念を持った人は、必ず嘘をつく

キリスト教系(聖書系と言った方がいいのでしょうか?)の某教団の人たちが、また山奥の家まで勧誘にやって来ました。これで都合3回目です。しかし今回は、家の修繕作業の真っ最中だったので、手が離せないと言ってお引き取りを願いました。ですがその時に、余りにもしつこいので、ちょっと余計なことを言ってしまいました。

 

「あなたたちは、どうしていつも二人で来るんですか? 一人で来ればいいじゃないですか」と。

すると、相手のうちの一人がこう答えました。

「物騒ですからねぇ」

それを聞いて、なんてぇ真実味のない答えなんだ、と私は思いました。

それが嘘だということはすぐに判りました。顔が「嘘だよン」と言っていましたから。

 

もし「物騒だから」と言うのが理由なら、こっちは一人ですよ。そこへ、二人組でズカズカと敷地内へ入って来るんですからねぇ。一体どっちが物騒かということになるじゃありませんか。

その時、思わず口から、続けて次の言葉が出てしまったのです。

「そうじゃないでしょ。お互いに監視し合ってるんでしょ」

 

言った後で、しまったぁ、と思いました。私のイジワルな部分がポロっと出ました。それは、彼女たちが考えてみもしなかったことらしく、表情がサッと険しくなりました。(なんてこと言いやがるんだ、このおっさん)という怖い眼つきでした。どうやら、グサリ!とやってしまったようです。ま、これで、もう来てくれなくなればいいんですけどネ。

 

宗教の勧誘では、いやーな思い出があります。あれは確か18歳頃だったと思います。当時、私が通っていた学校は一クラス45人くらいだったのですが、毎年10人くらいが留年したり退学したりしていくのです。そうやって退学した一人に、K君がおりました。K君とは特別親しかった訳では無かったのですが、彼が退学してから一年ほど経ったある日、そのK君から電話が掛かって来ました。

 

「君にどうしても相談したいことがある」と言うのです。「何、相談って?」と訊くと「電話では話せないんだ」と。「直接会って相談したい」と言うのです。聞けば、「今は東京の原宿に居る。どうか来てくれないか」と、切羽詰まった様子で話すので、力になれるものならなってあげたい、という私の中の余計な親切心が動き出しました。

 

今と違って、新潟県の田舎から東京へ出掛けるのは大変です。まさに一大イベントという感じです。もちろん学生でしたから電車賃もありません。それをなんとか工面して、ようやく指定された日時に、彼のアパートまでたどり着きました。すると彼がこう言ったのです。「ここじゃ話せないから、別の場所へ行こう」と。そうか、喫茶店にでも行くのかなと思って、彼の後をくっついて行った先で、私は「あっ」という事態に遭遇するのです。

 

そこは広さ10畳ほどの和室の集会所で、私が入ると、後ろでバタンと扉が閉じられました。見ると、目の前には10人ほどの男女が円陣を作っていました。そして、その輪の中に入るようにと背中を押されました。(いったいこりゃなんだ?)と、目を白黒させる事態となったのですが、少しして、いくらおバカさんの私にも、それが何であるかがようやく呑み込めて来ました。

 

気が動転していたので、その時どんな会話があったのかはもう覚えていないのですが、冷や汗タラタラで、約2時間ほどをそこで過ごしたと思います。その間、教団のパンフレットやら、書籍やら、その教団の広告塔であった歌手のビデオやらを見せられ、こっちの方が「困っちゃうな」「どうしよう」「胸がドキドキしちゃう」という状態で、ただただ時の過ぎるのをじっと待ったのです。

 

ようやく解放された時、K君を含めたその場に居た人たちは、みんな一様に沈んだ表情をしていました。それは、「東京までわざわざ足を運ばせてしまって申し訳なかったね」というものでは、勿論ありません。「あーあ、落とせなかったナ」という顔です。でも今にして思えば、その不愉快な経験も、私には必然だったのでしょう。40人近くいた元同級生の中で、私をなぜ標的に選んだのかということですから。

 

それが、宗教であれ、倫理道徳であれ、政治であれ、国家意識であれ、防衛意識であれ、金儲けであれ、出世であれ、美意識であれ、科学信仰であれ、発展という考えであれ、人間関係のあり方であれ、何であれ、「信念」を持った人というのは、必ず他人にも自分にも嘘をつきます。なぜかと言えば、その「信念」を基軸に生きることが、絶えず優先されるからです。それは、自分が「素直で正直」であるということを、いとも簡単に凌駕してしまうのです。

 

素直で正直であるということは、結果的に、瞬間瞬間で絶えず自分を変えていくということを意味します。変わること、変えることを少しも厭わないということです。でも、考えてみてください。自分が変わることを厭わないからこそ、その人間の進歩というものがあるわけですね。そしてこれは、宇宙の諸行無常、生々流転の真理に、まさに合致した生き方でもあるのです。

 

ところが、この世の価値観は真逆です。朝令暮改を非難し、「ブレる」を悪いことの代名詞のように語り、強い「信念」を持つ人間が、各界で先生と呼ばれて崇め奉られ、持てはやされるのです。そして、人々は、自分もそうでなければいけない、と思い込む。それは、諸行無常の真理を解ろうとはせずに、「手離す」ということがなかなか出来ない人間が背負った、浅はかな業です。

 

でも、感情や思考の、さらに奥にあるものを見つめて、捉えて、それに従えば、人は、本来の「素直で正直」な自分に帰れるのです。

 

松田優作さんと桃井かおりさんが出演したテレビドラマに『春が来た』(向田邦子原作、1982年)という作品があります。お二人は、意外にも共に文学座出身で(文学座カラーをまるで感じさせません)、話が通じ合うかなりの仲良しだったそうです。このドラマは、松田優作さんにとっては、それまでのアクションスターからの脱皮を促すことになる、重要な節目の作品でした。

 

ところが、収録現場に入っても、優作さんがちっともやる気を見せず、その態度を見た桃井かおりさんが、優作さんに「なめてんのか」と怒ったというのです。さてそれからです。その日の夜すぐに、かおりさんのところに、優作さんから電話が掛かって来たそうです。そして「家に帰って、脚本をじっくり読み直して見たら、もっと深い部分があることが解った」と優作さんが語ったというのです。

 

この時に、桃井かおりさんはえらく感動したそうです。松田優作さんという人間のその「素直さ」に。優作さんのイメージは、どちらかと言えば、ちょっと粗暴で、わがままっぽい感じがします。でも実際には、どこまでも素直な人だったんですね。素直だからこそ、貪欲に、演技の質の向上を求め、今日の自分を変えることを模索し続けたのです。

 

もう一つエピソードを紹介しましょう。私の好きな映画に『無法松の一生』があります。九州小倉生まれの荒くれ男の人力車夫、富島松五郎(通称無法松)の生き様を描いたドラマです。この映画は何度もリメイクされ、三船敏郎さん主演の1958年(昭和33年)版は、第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。この1958年版の中に、こんなシーンがあるのです。

 

乱暴者として世間から一目置かれていた松五郎が、いつものように芝居小屋へ行くと、その日に限って、木戸銭を払わなければ入場させないと言われてしまいます。いつも顔パスで入場していた松五郎としてはこの扱いが腑に落ちません。腹を立てた松五郎は、仕返しに一計を案じます。芝居小屋の升席を買って、その中に七輪と鍋を持ち込み、そこでモツ鍋をこさえるのです。

 

さあ大変。芝居小屋の中はモツ鍋の臭いが充満して、もう芝居を観るどころの騒ぎじゃない。当然、松五郎は咎められるのですが、「俺の金で升席を買ったんだから、その中で何をしようが俺の勝手じゃないか」と言い放って、もう場内はてんやわんやの騒ぎに。その時に事を収めるのが、街の顔役の重蔵親分(笠智衆)です。(この頃は、任侠道やヤクザがまだ尊敬されていた)

 

重蔵親分は、「顔パスを急に断られて、腹を立てた松五郎の気持ちも解る。しかし、だからと言って、なんの関係もない他の観客の迷惑になることをしていいのか。その人たちへの責任をどう取るつもりだ」と松五郎を叱責します。さて、その後で松五郎が何と言ったか。「あー、わしゃ、そこに気がつかんかった」と。自分の怒りに任せて、そこまで配慮することを忘れていたと、素直に謝ったのです。

 

この素直さこそが、「無法」とまで呼ばれた松五郎という人物の、魅力の根源になっているんですね。順法者よりも、無法者の松五郎の方が、むしろ素直で正直に生きている。まさに、先ほど言った、この世界での価値観の逆転現象がそこに示されています。素直で正直であるからこそ、松五郎は自分の非にパッと気がついて、たちまち自分を改めることが出来たのです。松五郎という人間の、成長の瞬間です。

 

逆に言えば、いかに素直でない人の方が、また素直になれない人の方が、この世界では圧倒的に多いかということです。素直で正直であること、たったこれだけのことすら、今の人間には難しい。みんな、何らかの「信念」の虜になって生きている。そして、素直さや、正直さが馬鹿を見て、嘘つきや、ゴリ押しや、居直りが、ますます得をする時代になって来ています。

 

さてあなたは、この先、どっちの道を行きますか? 行きたいですか? どっちの道を歩んでも、別に咎め立てはしません。でもあなたに、訊いておきたいことがある。あなたは、ご自分を成長させたいですか? 進化させたいですか? そうだとしたら、その成長や進化は、何を意味していますか? どこへあなたは行こうとしているのですか? そして、そもそも、あなたとは何者ですか?

 

自分に嘘をつくのは、結局は恐れからです。ありのままの自分を曝け出すということが出来ないのです。自分を規定した(と思い込んでいる)枠組みから外れてしまうのが怖い。それが壊れてしまうのが怖い。それで「信念」の塔を立てて、その中に逃げ込むことで、これを逆に正当化するのです。ですから、「信念」を強調する者は、みな目がつり上がり、拳に力が入ってしまう。

 

ああ、憐れな人たちよ。自分の周囲に、自分で檻を拵えて、自分の自由を奪って、さらに仮面まで被って、自分がもう誰だか分からなくなってしまって、それで自己矛盾に苦しんでいる。ただ、素直で正直でありさえすれば、それがいちばん楽なのに。枠組みなど何も必要ないのに。ありのままのあなたでいいのに。つまらぬ「信念」など、一切捨ててしまえばいいのに。

 

そして何よりも、とても熱心に学んでおられるみなさんだからこそ、また理解力のあるみなさんだからこそ、ここで強調しておきたいのは、素直で正直でない限り、光の道へ入ることは決して敵わないということです。なぜなら、曇った眼鏡を掛けていたのでは、道を照らす、その光が見えないから。

 

素直さと正直さは、あなたに贈られた宝石です。この石を、懐から取り出しなさい。そして、慈しんで、それを磨きなさい。人間は誤りを犯すものですし、すべての人間が発展途上にあり、日々進化しているのです。ですから朝令暮改でいいのです。自分を変えることを怖がるのではなく、喜びとするように。

 

失敗を怖がらずにチャレンジしなさい。問題は結果ではないのです。あなたという「魂」の進化なのです。ですから、ご自分の「魂」に、進化のチャンスを与えてあげなさい。今日の喜び、次の今日の喜び、次の次の今日の喜びを紡ぎなさい。優作さんのように、そして無法松のように。素直さという宝物を胸に、毎日を力強く生きるのです。

ロボット人間 vs 人間ロボット

豊洲市場が開業して、はや一月半。利権がらみで、不透明で、安全性も定かではないままの強行突破です。原発と同じ、辺野古基地移転と同じ。権力者がやることはいつも一緒。2年前の東京都知事選挙、ありゃあ一体なんだったのだろうと思います。豊洲市場移転の見直し、オリンピック利権の見直しを掲げて当選した筈なのに、当選した途端にジャガーチェンジ(豹変ね)する。

 

10月の初旬、築地に残って営業を続ける人やその支援者の前に、東京都の職員がやって来て、彼らを排除しようとしている映像をインターネットで見ました。支援者たちの中に法律に精通している人がいて、都の職員にその法的根拠を説明するよう求めるのですが、その職員は、一切の問いかけにも耳を貸そうとはせずに、ただ同じ言葉を繰り返すだけです。

 

私には不思議でなりません。どうすれば、そのようになれるのかと。そこに居るのは、もはや人間ではありません。ロボットと化してしまった人間、つまり「ロボット人間」です。このような光景を見る時、私は、いつも胸が苦しくなってしまいます。人間は、どのような理由で、どのような瞬間に、自分をロボットにすることを決めるのでしょうか?

 

私はニュースを見ませんし、国会中継なども出来るだけ見ないようにしているのですが、たまにチラと見かける映像は、さながら「ロボット人間」シアターの演目のよう。官僚も政治家も、登場する人たちの大半は「ロボット人間」ばかり。このお芝居が面白いかと言えば、実につまらない。こんな出来レースに、多大な労力を注ぎ込んでいる人たちがいるということも不思議でなりません。

 

どうして、自由に生きようとしないのでしょうか? どうして、ロボットの鎧を自分に被せて生きようとするのでしょうか? どうして、自分のコントローラーを他の誰かに預けるのでしょうか? どうして、そうすることを「自分の意思で」選ぶのでしょうか? それが、楽しいのでしょうか? 無上の喜びなのでしょうか? そうしたくてしたくて、堪らないのでしょうか?

 

私が、もしもその東京都の職員だったら、その場に居る人の意見に耳を傾けます。そして、自分の考えを述べます。理想的なあり方を模索して、協力しようとします。もしそれが、都の上司の考えと違っていたら、上司と話し合います。ラチが開かなければ、もっと上に直訴します。それが嫌われてクビになったら、それを受け入れます。ずっとそのようにして生きてきました。

 

でも、そんなことをしたら立場が悪くなるだろう、ですって? その通り。立場が悪くなります。居場所すら無くなる。そんなことをしたら、生活に困らないか、ですって? その通り。大いに困ります。どビンボライフが待ち受けている。だから、もうどうにもならないと思って、自殺を考えたことも何度もある。でもいつも、「魂の衝動」に従うことを、自分は選んで来たのです。

 

その時には、無智だったので、それが「魂の衝動」だという認識はまだありませんでした。ですが、「俺は、ロボットになんか絶対にならないぞ!」という、破れかぶれの衝動があったのです。26歳の時には、実際に、職場での不正を告発してクビになりました。途方にくれ、東京を引き上げ、田舎に帰って、カミさんが旅館の仲居、自分はカラオケスナックのボーイをやって喰いつなぎました。

 

その時は苦しかった。ヒロシさんのネタにある「視力がいいのに、未来が見えんとです」状態。でも、今にして思えば、体験こそが人生だったんですね。自分というただの丸太に、どのようにノミを振るうかで、そこに、その人の彫刻作品が作られてゆくのです。円空仏のように、激しくノミを振るって刻んでいくのか、それとも、削るのを躊躇して丸太のままで終わるのか。

 

なぜ、こうも多くの人がロボットであることを選ぶのでしょう? 選ぼうとするのでしょう? それが、エリートと呼ばれる人ほどそうなのは、なぜでしょう? だとすれば、エリートになるということは、またエリート教育とは、「ロボット人間」製造システムに乗っかることだとは言えないでしょうか? 自分の自由意志というものを、「ロボット脳」に切り替えることだとは言えないでしょうか?

 

その人は、いったい何を恐れ、何を守ろうとしているのでしょうか? 自分をロボットに仕立てることで、何を守りたいのでしょうか? 組織、地位、名声、財産、安泰、信念? 自分をロボットにしてまで守らなければならないことなど、この宇宙に、果たしてあるのでしょうか? 諸行無常、生々流転が、宇宙の掟なのに。守り続けられるものなど、所詮は無いのに。

 

よいですか。皮肉なことに、その人は、自分を守ろうとして、自分を捨てているのですよ。本当の自分、真実の自分というものを。

その人が、いちばん恐れているものとは、真実の自分に向き合うこと。本当の自分を発見すること。

 

ああ、なんてことなの? なんたる無智。

それが、人生というものの究極の目的なのに‥‥。

なんと憐れな人間たちでしょう。

 

あなた方は、まだAI(人工知能)の本当の脅威というものに、気がついていません。あなた方の中で、それを進化させよう、発展させようと目論む人たちがいて、その分野での覇権争いが繰り広げられる以上、この流れは止まりません。そして急速に進みます。一方で、AI時代に適応できるよう(この適応とは、人間をAIの奴隷にすること)、人間自体を改造してしまおうという、まるで仮面ライダーのような計画も着々と進められているのです。

 

何も、ドンパチやることだけが戦争ではないのですよ。人類の最終戦争はもう始まっているのです。人々を操り、互いに殺し合いをさせるのが戦争なのですからね。わたしは何も、みなさんを脅かそうと思って、こんなことを言っているのじゃないのです。人類社会を覆い尽くすこの不毛な構造と、その原因に、今度こそ気づいて貰いたいのです。

 

「その原因とやらを教えろ」ですって? いいでしょう。地球人は、幻想の世界の生き方をいまだ知らないということです。幻想の生き方が、ど下手だということです。幻想の生き方については、小学校入学レベルにも達していないということです。

 

運転手の要らない自動車が、街を走り始めました。日本郵政はドローンによる配達を始めました。シリアへの空爆はカルフォルニアの米軍基地にいるオペレーターがビデオ画面を見ながら行っています。ロシアはロボット戦車を完成させました。ドバイでは警官ロボットが正式採用されました。カルフォルニアにはホームレスの人を追い出す警備員ロボットが登場。中国では、流暢な英語を話すニュースキャスターロボットが誕生しています。韓国では、なんと政治家ロボットの試作までもが行われました。人間は汚職ばかりするからですって。

 

つまり、あなた方が「ロボット人間」であり続けようとする意味など、もう無くなって来ているということです。「ロボット人間」など、もはや不要。そのニーズは、「人間ロボット」に取って代わられてしまう。「ロボット人間」よりも「人間ロボット」の方が、より正確で、無駄がなく、信頼が置ける、というふうに社会が認識し始めているのです。遠からず、医師ロボット、教師ロボット、弁護士ロボット、裁判官ロボットまでもが登場するようになるでしょう。

 

現代の医者は、検査データを見て、病気の診断名を下すだけになっています。だとすれば、AIの方が、多くの事例を一瞬のうちに参照し、よりスピーディに診断を下せるでしょう。同様に、教師も、弁護士も、裁判官も、もちろん官僚も、政治家も、企業経営者も、ロボットの方がより優秀ということになって行くことでしょう。そして、人間はついに不要となる。人間が、自分たちが創ったロボットに滅ぼされるのです。

 

*そればかりか、医者が診断名を下した瞬間に、この世に、一つの「病気」が創造されるのです。それは、銀行が貸し付けの書類を作った途端に、無いところから「お金」が創造されるのとそっくりです。

 

そういう社会の実現を、あなた方の大多数は喜んで推進し、その火の粉の中に、自ら飛び込んで行くことでしょう。まさしく、飛蛾の火に入るが如し。

今の世の中をよく見てください。その最終戦争が既に始まっているのが分かりませんか?

 

あなたは、何のために生まれたのですか? あなたは、どうしてこの世に生きているのですか? 自分をロボットにするためですか? それとも、ロボットに自分を滅ぼさせるためですか? 違うでしょう。人間であることの意味を、いま一度、自分に問いかけなさい。地球に誕生したことの幸福を、しみじみと味わいなさい。そして、真の自分とは何者かを、自分の中に見出しなさい。

 

あなたの喜びはそこにしかない。

 

なぜなら、それが、あなたという「魂」の衝動なのだから。