by Rainbow School
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覚醒への試練

霊的成長という観点から眺めたとき、地球には三段階の人間が存在します。

 

先ず初めは、「人は身体だけの存在ではなく、同時に霊的な存在でもある」ということにまだ気づいていないか、もしくはそれを否定してしまっている人たち。いわゆる「無智」の段階にある人々です。二番めは、魂の存在、あるいは霊的世界の存在に多少なりとも気づきがあり、その本質に迫りたいと願うようになった人々です。そして三番めは、もはや宇宙の本質を我がものとし、霊的世界を下敷きに生きるようになった人間、いわゆる「覚醒」を成し遂げた人物です。

 

この三段階は、霊的成長の大まかな区分を示しているのですが、あるところで急に変わるというものではなく、徐々にグラデーション状に推移して行きます。この中で、「無智」の段階にある人というのは、たぶん3割ていどでしょう。ある調査によると、日本では「無宗教」だと答える人の割合が7割を占めるということですが、自然崇拝の文化的伝統があるので、「霊的世界というものは多分あるんだろうな」という感覚は、意外にも多数の人が持っているのです。

 

ところが、「霊的世界というものがあるんだろうな」と思ってはいても、それを突き詰めようとする人となると、数はグッと少なくなります。おそらく100人に1人程度でしょう。ですから99パーセントの人は、深く追求することなく、理解を曖昧にしたまま、なんとなく「霊的世界」を信じているといった状況です。しかし、その100人に1人の中でも、運よく覚醒(ascension)への最初の扉を開けることができ、その先を進もうと決意する人は、さらに1パーセントしかいないのです。

 

この「光への道」の最初の扉は、ある日、唐突にやって来ます。宇宙を支配している超越的存在があることに、突如、気がつくのです。それはむせるような歓喜とともにやって来て、理屈によるのでもなく、言葉でもなく、法や、愛や、生命の本質というものを、いきなりドカンと、丸ごとその人は受け取ることになるのです。これが、最初の目覚め(awakening)です。

 

しかしそれは、真の覚醒(ascension)ではありません。ここで夢々錯覚してはならないのです。それは、ただ最初のスタートを切ったというだけの話。最初の扉をこじ開けたというだけであって、ここからがいよいよ本番。真の覚醒に向けての、本格的な試練が始まるのです。それは、一体どんな試練なのか?

 

それを説明する前に、「アセンションする」ということを、人間の「意識」の観点から見てみることにしましょう。アセンションとは、その主体(意識的存在)が、第三霊性密度の領域から、第四を通過し、第五霊性密度の領域へとジャンプすることを言います。さて以前に、人間の意識は一重ではない、ということをお話ししたのを覚えておられるでしょうか? 潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四重になっているということを。

 

第三から第五へジャンプするというのは、「意識」で見た場合、「顕在意識」から「超意識」への飛躍を意味します。別の言葉で言うと、「自我」から「真我」へのジャンプです。「自我」というのは、「魂」が、この世に個別的肉体を持って誕生し物質世界を生きることになったため、それに適応するようにして形成されたところの「意識」です。一方の「真我」は、霊界にいた時から継続して所持している、本当のわたし、真のわたしの「意識」です。

 

この、本当のわたしの「意識」は、個別性はまだ有しているものの、カルマが解けて、極端な偏りや尖ったところが無くなった存在になっています。そしてさらに先に、「真我」が完全に「一なるもの」に融合した状態の「神我」(=超絶意識)があるのです。この最終領域への到達が、いわゆるニルヴァーナ(涅槃)です。さて、話をシンプルにするために、超絶意識や潜在意識のことには触れずに、「自我」から「真我」への上昇という点だけに話を絞って、論を進めて参りましょう。

 

この宇宙は、(こちら側から見て*1)何もない「無」の世界から先ず誕生しました。そして誕生するやいなや二極性を生じ、この二極性をフルに展開することによって、途方もない多様性を持った現在の宇宙が出来上がったのです。その名残りが、今もハッキリと刻印されています。あなたの周囲にあるものをよく観察してみてください。極小から極大のものまで、宇宙のあらゆるものは二極性を有しています。この二極性の間に新たな創造が生まれる、という法則性*2を、宇宙は持っているのです。

 

*1こちら側から見て:「無」の反対側に別の宇宙がある可能性があります。

*2法則性:これを「三角形の法則」と言います。二極性の間に新しいものが生まれることを▽(正反合)で示し、これが末広がりに拡大することを△で示しています。

 

ちなみに、宇宙の創世に関して、『新約聖書』には次のような記述があります。「初めに言葉があった。言葉が『光あれ』と命じ、次に光と闇ができた」。この「言葉」は、ギリシャ語では「ロゴス」となっており、最初に日本語訳をした人が、悩んだ挙句に「言葉」と訳し、これが定着してしまったのです。しかし「ロゴス」は、英語の「logic」の語源ですから、むしろ「法」と訳した方が適切です。つまり、宇宙の法が、先ず二極性を産んだということを物語っています。

 

 

図1を見てください。人間の「意識」は、「真我」に迫るほど、一なるものに近づくことになるので、二極性は中央に収斂されて行きます。つまり二極の「分離」状態から「合一」へと向かうのです。

 

一方、物質世界を生きている「自我」は、まさに二極性そのものの中にあります。この結果、「自我」は、陰陽二極性の間を、絶えず、まるで振り子のように激しく揺れ動いてしまうことになるのです。右か左か、賛成か反対か、行くべきか止めるべきか、etc.。これが「心」の迷いの、実は正体なのです。

 

でも、それでは人間は気持ちが悪いので、大抵の人が心の安心を得ようとして、先ず、自分の立ち位置を決めたがるのです。これが、所属や肩書きを切望する認知欲求です。自分に鎖をつけ、柱に縛りつけることで、荒波にも絶対に流されまいと図るわけです。

 

しかし、そのようなポジションを、おいそれとは見い出せない人は、主義主張(の固定概念)にそれを仮託しようとします。そして、主義主張をより鮮明化するために、仮想敵を作って、それを攻撃するという手段に出るのです。

 

これが、現代の、国家主義や、ヘイト意識や、ディする意識の異常なまでの広がりなのです。例えば、保守を自認する人は、自分の保守思想と合致しない人たちには、みんな「左翼」のレッテル貼りをして攻撃をします。そのことで、自分が右側のポジションだということを示そうとするのです。しかし、ここにはもっと深い、「魂」レベルでの欲求が隠れているのです。

 

前に、ヘイトしたがる人の心の構造について話をしました。AさんはBさんが嫌いで、Bさんを憎んでいるとします。しかしその「思い」というのは、Aさんのものなのです。ですからAさんは、アンチBというポジションに自分を設定することで、Bさんへの思いと、アンチBという思いを、自分の中に同時に出現させているのです。そうすることで、無意識に心のバランスを取っているわけです。もちろん、本人はそんなことには気づいていません。相手をヘイトすることで、自分の承認欲求が満足させられると思っているのです。

 

これは、由々しき問題です。それは「無智」(頭の良し悪しはまったく関係なく、霊的に「無智」ということ)なるが故の行動で、実態は、自分の心の中にしじゅう股裂き状態を創造しているわけです。これが、その人の精神性にダメージを与えないわけがありません。甚だしい場合には、身体細胞にもそのアンビバレンツが及びます。そうした状態が繰り返し続けば、いつかは「病気」という形をとって、修正するよう気づきが図られることになります。

 

そのようなわけで、「無智」の段階にある人は、二極性の間を一生迷い続けて、その生涯を終えます。ところが、そのような一生の中でも、どんな人にも「真我」に触れる瞬間というものが、何度かは必ず訪れるのです。それは守護霊たちの計らいによるものなのですが、直感や、ビジョンや、言葉や、出来事としてそれが示されます。「真我」に触れた瞬間には、パーッと心が晴れたり、「感情」が動いているわけではないのに、ただただ涙が溢れ出て来たりします。

 

注意していれば、それは「思考」や「本能」や「感情」を超えた、別の「意識」であることに気づくのですが、いま書いているような知識は殆ど誰も持っていませんので、99パーセントの人が注目することなく、これをやり過ごしてしまうのです。またそれだけではなく、この世は「自我」というものを肯定する世界ですので、それを超えた「意識」については、幻覚とか錯覚とか幻聴といったレッテルを貼って、排除までしている始末なのです。

 

しかし、このような見なし方は正しくありません。それは、幼い子どもや、臨死にある人たちを観察していれば、自ずと解ることです。

 

幼い子どもの場合は、脳が未発達なために、まだ「自我」が充分に育っておらず、したがって「真我」が優位に立った状態で生きています。子どもの一人遊びは、大人から見れば「空想」の世界で遊んでいるように見えますが、子どもたちからすれば、大人の世界こそが「空想」で、自分が遊んでいる世界の方が本物なのです。7歳くらいまでの子に、「どうして我が家に生まれて来たの?」と聞けば、ちゃんと答えてくれます。

 

一方、事故などにあって臨死状態にある人が、意識不明だと聞くと、関係者は例外なく心配し、早く意識を回復して欲しいと願います。そして意識が戻ると「あぁ、よかった」と言って安心するのです。しかし、この「意識が戻る」というのは、「自我」意識のことであり、昏睡状態にある際には、幼児とは逆プロセスで、その人は「真我」を取り戻す準備に入っているのです。この時に、「魂」はいわゆる臨死体験というものをしているのです。ですから、何の心配も要りません。

 

このように、「真我」は、そもそもその人に備わっているものです。ところが、「自我」が育つ過程で、入れ替わりに忘れ去られてしまうのです。そして遂には、これがまったく顧みられなくなり、存在自体を自分で否定してしまうのです。その結果、多くの人が「無智」に陥って、代わりに嘘の情報で頭をパンパンに膨らませ、二極性の間をフラフラしたり、意識構造の中を堂々巡りしたりして、(図2)悩み続けるのです。

 

この世は、霊的世界とは価値観がひっくり返った世界です。試しに、図1の三角形をひっくり返してみましょう(図3)。ここでは「自我」が前面に出ていて、「真我」は底深くに沈んでいます。

 

あなた方の世界では、「自我」を誇示することが礼賛され、それを人生の目標とし、またそうすることが当然だと思うように教育されます。社会全体がそうですので、誰もその価値観を疑わないし、「真我」を見い出そうとする人は、全くと言っていいほどいません。

 

けれども、「真我」は失われてしまったわけではありません。「真我」はいつも、その人と共にあるのです。ただ、衣装ケースの奥深くしまい込んで、忘れてしまったというだけです。なぜ忘れてしまったのか? 「自我」が芽生えると子ども心を失くし、大人になるに従って、流行ファッションばかりを追い求めるようになったからです。自分の外にある様々な刺激的な話題が気になり、衣装ケースの表面だけを取っ替え引っ替えするので忙しい。子ども時代の一人遊びは、もう出来なくなったのです。

 

でも、この表面をすっかり取っ払ってしまったら、忘れていた「真我」は必ず現れ、その中にストンと落ちることになるのです(図3)。これが、真理の世界で、「努力は要らない」「そのままでいい」「最初から救われている」と、繰り返し説かれて来たことの理由なのです。その言葉だけを聞いたら、まるで意味が解らない。でも、とうとうこれで解ったでしょう? 「真我」は、到達すべき目標などではなく、あなたの内に最初からあるのです。今この瞬間もね。

 

Be Here Now !

努力は要らない。

そのままでいい。

 

実にシンプルです。あまりにもシンプル過ぎて、きっと拍子抜けしてしまったことでしょう。ところが、これが超難関なんですね。何がそんなに難しいかというと、「自我」を捨て切ることが、みんな出来ないのです。アセンションの難しさというのは、到達することの難しさではなく、捨て去ることの難しさなのです。でも、この逆転現象を誰も知らない。知らないまま、みんな到達に向けて必死に努力しようとしている。だから、成就できない。

 

今まで、いろんな喩えを使って、このことを表現して来ました。梯子をすべて降り切れば自動的に引っ張り上げられるとか、思い切ってバンジージャンプをすればいいとか、砂袋を捨てれば気球は自然に浮かぶとか。それらは全部、同じことを語って来たのです。逆三角形で示した図の「自我」部分をぜんぶ取っ払ってしまえば、その人は、難なく「真我」に転げ落ちる。だから努力は必要ない。しかし、「自我」にしがみついている間は、底に転げ落ちることは大変な「恐怖」に映るわけです。

 

最初の目覚めを経験したとしても、「自我」を捨てる道に進む決意をする人は、100人に1人しかいません。残りの99人は、「自我」にホームポジションを置いたまま、「スピリチュアル」という言葉に惹かれ、泉に水を汲みにやって来る。ザルで水を汲みに来ても持って帰ることは出来ないんだよ。水で満たすためには、ザルごと沈めるしかないんだよ、と言っても、「ザルごと水に沈めるんですよね」とただおうむ返しに言うだけであって、本当にそれを実行しようとする人は、まずいない。

 

そんなわけで、あなた方の大半は、「真理」の世界に触れてみたいと願いながらも、「なにがなんでも」といった強い情熱がないために、毎日その試みに失敗しているのです。受け取る器がザルだから。そして、100分の1のそのまた100分の1の、1万人に1人くらいが、ようやく「光への道」へと進んで行く。でも、その人たちの行く手に待ち受けるものは、避けて通ることの出来ない、またその段階に至った人にしか解らない、厳しい試練なのです。

 

その試練は大きく三つある。

 

第一の試練は、いわゆる「ヴァイブレーション(波動)」が知覚できるようになることです。これだけを聞くと、知らない人はよいことのように思えるかも知れません。しかし、この能力が開花すると、波動に敏感になる余り、粗雑な波動に接した際には、槍で突き刺されるような痛みや、めまいや、吐き気に悩まされることになるのです。人混みは耐え難く、買い物にもなかなか行けない。ニュースもドラマも見ることが出来ない。耳鳴りは凄まじく、自分の心臓の拍動すら知覚してしまう有り様。

 

いやはや、この世の波動の粗雑さといったら、まるでガード下で暮らしているような凄まじさです。生まれつき、こうした敏感な知覚能力を持っている人というのも、相当数いるのですが、周囲の人を見るとみんな平気な顔をしている。そこで、自分の頭がおかしいのでは?とみんな思うのです。そして精神科を受診すると、適当な病名を付けられてクスリを渡され、それを服用しているうちに、本格的な精神病に移行してしまうという人が、いーっぱいいる。まったく、何てことでしょうか。

 

第二の試練は、未だ捨てきれないエゴの残りカスが、後から後から湧いて来ることです。一つ克服できたかなと思うと、直ぐに次がやって来る。これは、外からの誘惑という形によってもたらされます。それはお試しで、そのことによって自分のエゴというものに気づかされるのですが、うっかり誘惑に乗ってしまったら、たちまちにして「自我」の世界に逆戻りです。一方、ここで適切な処理を誤れば、自分の未熟さや、不安定さや、卑小さに苛まれるということになってしまうのです。

 

そして第三の試練は、カルマの総ざらいをしなければならなくなるということです。カルマというのは、その人の前世で、うまく清算できていなかった「思い」です。この「思い」が残っているために、いま一度それと向き合い、きちんと清算するチャンスを欲して人は輪廻転生して来るのです。ですから、今世でアセンションを達成しようとした場合には、残っているカルマを総ざらいしなければならなくなってしまう。従って、その人の今世は、ずいぶんと辛いものになります。

 

別に脅しているわけではないのですが、以上の三つが避けては通れない試練で、これらは「Dark Night(暗夜)」とか「四次元(第四霊性密度)の河」などと呼ばれています。加えて、「四次元の河」を渡る途中で、河に落ち、溺れてしまうという場合もある。「信仰」や「オカルトへの興味」が誘う罠がそれです。宗教を入り口にして、「信仰」を経験した後に、これを捨てるという道はある。しかし、教義や戒律を「信じ」続けている限りアセンションは不可能です。なぜって、それを手離せてないのですから。

 

「オカルトへの興味」というのも、これは「四次元(第四霊性密度)」世界への執着そのものであり、これに強い興味を抱き続けることは、その人の意識を「四次元(第四霊性密度)」世界に固定してしまいます。すると、何度転生して来ても、またそこに惹かれて河に落ち、結果として輪廻転生の回数を倍化してしまうことになるのです。

 

不思議現象を不思議だと思っている間は、箸にも棒にもかからない。「不思議現象などどこにもない」と思えて、初めて「四次元の河」を渡り切れるのです。

 

このように、エゴ、宗教、オカルトの三つは、アセンションの三大タブーであり、この三つをすべて手離さない限り、「四次元の河」を渡り切ることは、絶対に出来ない。要は、これらの試練を乗り越えるだけの「自由への欲求(Disire to freedom:「自我」の拘束から完全に脱却する)」の炎を、それはそれは激しく燃やすことがない限り、乗り越えられるものではない、ということです。ですから、このブログでも「覚悟しなさい」ということを、繰り返し言って来たのです。

 

日本に生まれたみなさんは、とても恵まれているのですよ。貧しくても、今日のご飯に困るという人はいないでしょう。街も比較的きれいですし、街中でドンパチ騒ぎもありません。自然が豊かで、水は豊富にあります。お店にはたくさんの商品が並んでいます。医療保険制度だってある。何を発言しようと自由ですし、また発言のせいで逮捕されたり処刑されたりということもありません。信教の自由は保証されていますし、女性もスカーフを着用する義務はありません。

 

これらの恵みは、前世までに積んだ、あなたの「徳」の賜物です。人間として生まれることだって、実は大変なことなんですよ。地球にはいま77億人がいて、人口増加がまだ続いています。この人口爆発が、今なぜ起こっていると思いますか? 今度の「地球のアセンション」の機会に、自分もあやかりたい、経過を体験したい、という「魂」が、大挙して押し寄せているからなのですよ。ま、例によって、本人はすっかり忘れてしまったみたいですけれどね。

 

それなのに、これほど恵まれた環境にあるあなたが、「よし、なにがなんでもアセンションしてやるぞ!」と決意しないでどうするのですか? この次の「転生」があるという保証は、今のところ提示されていないんですよ。この先、地球がアセンションしてしまった暁には、修行中の「魂」が生まれ変われる惑星はもうないのです。その「魂」は、数千年、ひょっとしたら数万年も、第四霊性密度に留め置かれる可能性がある。人間に生まれるというのは、それほど大変なことなのですよ。

 

地球という惑星は、第三霊性密度下にある二極性を体験学習するために、宇宙に用意された特別な星です。この惑星上では、二極性の引っ張り合いに巻き込まれるために、人間は数多くの苦悩を体験します。それは、その成長段階にある「魂」のために用意されたもので、言うなれば「気づき」を得るための「愛の鞭」なのです。あるメッセンジャーは、地球を「流刑地」と呼び、あるメッセンジャーは地球を「監獄」に喩えました。

 

*コリーヌ・セロー監督の『美しき緑の星(La Belle verte)』というコメディ映画があります。この映画は、霊性の進んだ星に暮らす宇宙人たちが、他の惑星を表敬訪問する人を定期選抜するというシーンから始まります。司会役が候補地の名を順番に上げて行くと、希望者の手が次々と挙がります。ところが「地球!」と言ったとたん、みんなショボンと下を向いてしまい、手を挙げる人が誰〜れもいなくなってしまうのです。

 

地球は、「自我」によって「自由」を奪われた、正に「監獄」です。ここでは価値観が逆転していて、ずる賢い牢名主のような人間が、他の人々の「自我」を操ることで、社会を支配しているのです。人々は、働き蜂や兵隊蜂やパシリとして支配者にコキ使われているのですが、支配されているということに全く気づいていません。それどころか、自ら進んで、働き蜂や兵隊蜂やパシリになるのです。それは、人々の「自我」が、支配者が繰り出す引っ掛けに、簡単に同調してしまうためなのです。

 

しかしこれをもって、支配者だけを糾弾するわけには行きません。よく、儲け話に引っ掛かったという話を聞くでしょう。どうして儲け話に引っ掛かるのでしょう? それは、引っ掛かった人の「自我」にも、「儲けたい」というエゴがあったからです。そこで、類は友を呼ぶ「波動の法則」によって、〈儲け話に騙される〉という現実が、両者の一致協力のもとにそこに「創造」されたのです。もしもその人に、「儲けたい」というエゴが無かったとしたら、この現実は起きないのです。

 

このようにして、地球という惑星は、エゴの突っ張り合いが社会の根底を為してしまっているのです。他ならぬ「スピリチュアル」という業界にしろ、「宗教」にしろ、所詮はエゴの塊です。「自我」を捨てる気などさらさら無く、「自我」のエゴの上に、ありがたそうな「スピリチュアル」という付加価値をくっつけて、高く売りつけているだけです。しかしそれも、それをありがたがる人がいるからで、両者の波動が合うから成立しているのです。

 

ということで、このような環境にいる以上、いくら「努力は必要ない」と言っても、「自我」の誘惑を断ち切ることは非常に難しい。だから一気には切れない。少しずつ手離して行って、ほぼ抜けたかなという心境になるまで、最低でも4・5年は掛かる。そうやって、やっとのことでアセンションが達成される。しかし、ここまで到達するには、途中99人が脱落する。

 

結局、100分の1の100分の1のそのまた100分の1で、1000000万に1人という程度しかアセンションできないということになってしまう。‥‥今まではね。今、このような活動をしているわけは、隠されたダイヤモンドの原石を掘り起こし、これを磨く手助けをして「アセンション」する人間をもっと増やせ、という司令を受けたから。私に出来ることはそこまで。

 

でも、「光への道」は、これが最終というわけではありません。その先に、真の合一(神我、ニルヴァーナ)という段階がまだ控えているのです。しかし、地上に生きながらにして、この段階に至る「魂」は極めて稀だとされ、同時代に地球上に二人は存在しないと言われています。

 

元の三角形△の形に戻りましょう。(図1)「自我」は、第三霊性密度(物質界)に対応した「意識」で、三角形の底辺部にあります。しかし、普段は意識していなくても、「真我」の意識は同時につねにあるのです。静かな環境に身を置き、心を静かにしていると、この「真我」が、あなたにメッセージを送って来ることがあります。それは、本当のあなたからの、あなた自身へのメッセージなのです。そこには重要な示唆が含まれています。ですから、これを無視しないようにしてください。

 

ただし「重要な」というのは、あくまで「魂の成長にとって」という意味ですので、これを「損得」で捉えないでください。魂の成長のために「こっちの道を行け!」というアドバイスは、「自我」の尺度では「損」に見える場合が往々にしてあります。ここで、考えたり迷ったりしていてはダメなのです。多くの人が、考えた末に「自我」に負けてしまいます。しかし、行く時には行かねばなりません。Go Go! だから、バンジージャンプをせよ、としつこく言っているわけです。

 

このようにして、「自我」を少しずつ手離して行き、四次元の河もどうやらこうやら抜けて、「真我」をホームベースに置いて生きるようになると、かつてあれほど興奮や興味を覚えたことにも、ことごとく関心がなくなってしまいます。この世界が、所詮はうたかた、幻だということが、頭だけの理解ではなく、実感として、真実だと悟るようになるのです。

 

ことここに至ると、日常生活でたとえ今までと同じことをしていたとしても、あなたの生き方は、それまでとはまったく違ったものになってしまいます。(図4)意識が「真我」に上がると、二極性の幅がグッと狭まるので、心はあまり揺れなくなります。そして、万物が、この二極性の調和の下に創造されているということが、実感として解るようになります。

 

これがよく言うところの「中道」です。「中道」というのは、どちらか一方に偏らないという意味だけではなく、両極があって一つのバランスがあるということを示しています。それは、二元対立の学習が、その時点で止むということです。そして、かつて自分が通って来た道と同じ旅の途中を、「無智」であるがゆえに同じように苦しんでいる人たちを、手助けしないではいられなくなるのです。

 

このブログが、どれほどの役に立つかは判りませんが、私は私の使命を果たすだけです。「地球に行ってくれる人はいませんか?」と、かつて言われた時に、ついうっかり「ハーイ」と手を挙げてしまったものですから。

初めてのサットサン ―― Q&Aに寄せて

前回の記事中にあった宿題に、投稿をしてくださった方がおられました。許可をいただいた上で、以下にこれを掲載いたします。

 

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「霊的成長への希求」に関する宿題について投稿致します。瞑想をした訳でもありませんし、全くの的外れで回答にもなっていないかもしれませんが、私なりに感じたことがありました。結論から申し上げますと、宇宙や魂が何故霊的な成長を図るのを止めないのかというのは、ひょっとして、「遊び心」(のようなもの)を持った「好奇心」「向上心」「探究心」(のようなもの)があるからではないかと‥‥。「遊び心」と言っても、決してふざけたり不真面目なのではなく、大真面目にそして「ユーモア」を持ってということです。

 

「霊的成長への希求」と「時間の罠」については、私も日々気になっていたので、記事を読み直し、しばらく悶々と考えました。行き詰まったので一度考えるの止めたのですが、slice of life の事がもう一度頭に浮かんだ時、ふと思い出しました。当たり前の事ですが、私は既に幸せなのだと。裕福ではなくても必要な物はちゃんと持っているし、何より愛されていると。ここ数日、体調が悪く疲れて気分が悪かったのですが、「あ、そういえば私幸せなんだった」と思ったら楽しくて疲労感などどうでも良くなり、筋トレをしました(笑)。

 

そしてまた気づき、思い出しました。これも当たり前だとは思いますが、私は成長が楽しいのです。心身ともに幾度なく病みましたが、それも含めてです。なにぶん若輩者ですので未だ悲しみや怒りや不安を感じますが、歳を重ね気づきを得ていくのは楽しいです。ひょっとするとこの「楽しみ」も魂が成長を希求する理由の一つとは言えないでしょうか。私も宇宙の一部であるなら、こんな私の戯言も少しは意味があるのかもしれないと思いました。

 

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ご投稿、どうもありがとうございました。初めての「サットサン」が、意図せずに起きたことを嬉しく思います。『気づきの啓示板』では、コメントもトラックバックも受け付けてはいないのですが、この方は、わざわざ「問い合わせ欄」を使って、宿題に対するご自分の見解を送ってくださいました。

 

「サットサン(satsang)」というのは、「真理との交流」という意味です。『気づきの啓示板』を始めて、もうすぐ8年になるのですが、前回質問をお寄せくださった方と、それに対する私からの応答と、今回コメントをくださった方とのリレーで、初めての「サットサン」がここに成立したのです。実際に出会わなくて、互いに名前を名乗らなくても、「サットサン」の場が生まれたのです。

 

なんて素晴らしいことでしょう。8年めにして。

けれども、今回の「サットサン」には、もっと深い意義があります。

 

ある時、セミナーに参加された方から、「私は長い間メンター(mentor:指導者)を探し求めていましたが、今日やっと出会えました」と言われたことがあります。完全な誤解に、一瞬とまどいましたが、私がその時、即座に返した言葉は「あなたは、『自分にはメンターなど必要なかったのだ』ということを、これから学んで行かなければなりません」でした。

 

メンター、マスター、グル、師。なんと呼ぼうとよいのですが、あなたの外側に「サットサン」の対象を見つける必要はないのです。あなたが、心底からアセンションしたいと願うなら、また本当の自由にたどり着きたいと切望するなら、師を求めて、グルグル回る必要などまったくないのです。

 

セミナーに行く必要もなければ、瞑想をする必要もない。ヒマラヤに行く必要もなければ、ヨーガを極める必要もない。どこかの教団に所属する必要もなければ、信仰する必要もない。マントラを唱える必要もなければ、戒律を守る必要もない。説教を聞く必要もなければ、聖書・聖典を読む必要もない。

 

ない、ない、ない。なにからなにまで、必要ない! 聖書・聖典に耽溺することは、むしろ害毒ですらある。なぜなら、あなたを「聖なる(holy)」という幻想に引き摺り込み、そこに固く縛りつけてしまうから。この際だからついでに言いましょう。信仰者が、「解脱」を達成することは不可能なのです。熱き信仰。それは、「自由(Freedom)」への最大の障害となってしまうのです。

 

あなたの師は、あなたの内に在る。常にあなたと共に在る。あなたが、たとえどんな状況にあろうとも、あなたの師が、あなたを見捨てることは絶対にない。だから、内なる師と常時会話することを習慣づければよいのです。沈黙する師との沈黙の会話をネ。ひとたび内なる師と会話する習慣を身につければ、あなたは、どこにあっても師を見い出すようになる。なぜか。それは、あなたの内なる師の、その場への顕現を見るようになるから。

 

これが、真の「サットサン」。

このたび質問をくださった方も、コメントをお寄せくださった方も、真の「サットサン」に挑戦されたのです。ああ、なんて素晴らしいエポックだろう。

 

あなたも真の「サットサン」を始めなさい。

これ以上、外に求めようとはせずに、これからは自分自身に頼みなさい。

沈黙に身を置いて、沈黙の声に耳を傾けるのです。

そして、そこで得たものを、他の人々と分かち合いなさい。

Q . 一体「霊的成長」とはなんでしょうか?

次のようなご質問をいただきました。きっと同じ疑問を持たれている方も多くいらっしゃるのではないかと推察します。そこで、今回はこの疑問にお応えしたいと思います。

 

Q .生きているということ、生きて様々な体験をするということは、「自分は誰か」に対する答えを見つけるためのものという記事や、その他、最近の記事について、特に興味深く、何度も拝読しています。ですが、未だに肝心なところがわかりません。すべては魂の成長、霊的成長、気づきのために用意されたもの、という表現もあったかと思いますが、「何のために?」と思えて仕方ないのです。

 

私たちは「それ」、「それ」は私であり、あなたであり、あれやこれやすべて、ひとつ。なんのために成長するのか、何をもって成長というのか。もともと「それ」であり、今でも「それ」であるワタシが、見かけ上、いろいろな制限がある物質世界で「学ん」だり、自分は「それ」だと「気づいた」ところで、だからといって何になるのでしょうか?

 

きっと答えは「何にもならない」だとは思いますが、見習い神様が、自由に何でもできるのは、あまりにもつまらないから、神様学校をサボって、物質化、分化させた自分の部分(ニンゲン)が、いろいろな喜怒哀楽の体験をするのを手をたたいて面白がっている、そんな感じに思えるのです。 一体「霊的成長」とはなんなのでしょうか?

 

A . とてもよい質問であり、深いところを突いておられます。あなたが投げかけられた問いは、究極の問いの一つです。これは、「私は誰か」という問いと、ちょうど対をなしており、ですからそのことにインスパイアされて、深い疑問を抱かれたということも、当然過ぎるくらい当然なのです。

 

いったい何のために? という究極の疑問については、いくつかの見解があります。しかし今日は、それを紹介することはやめておこうと思います。書くと、それを信じる人が出て来る可能性があるからです。それよりも重要なのは、あなたがどう思われるかであり、質問の最後のところで、すでにあなたはご自身の(今の)見解をお書きになっています。確かにそれも一つの見解であり、どう思おうがあなたのまったくの自由なのです。

 

なぜ、こんなことを言うかといいますと、もっとも適切だと思われる回答は、「それは、分からない」と言うしかないからです。本当に、分からないのです。私だけではなく、今までにそれを分かった人は誰もいない。あなたご自身も、それを直感して「きっと答えは何にもならない、だとは思いますが、」とお書きになっているじゃありませんか。もし、あなたの方が、先にその答えを見つけたとしたら、ぜひとも教えて欲しいと心底から願っているくらいです。

 

宇宙が在る(とする)。すると、どうして在るのか、またはどうして出来たのか、という疑問が当然ながら湧きます。それは、ある日、勝手に出来たのだろうか? もし勝手に出来たとすると、どこから、どのような理由で、勝手に出来たのか? 「在る」の反対は「無い」だ。だから、宇宙が「出来た」のだとすると、その前は何もなかった、「無」だったということになる。じゃあ「無」とは何なのか? どうしたら「無」から「有」が生じるというのか?

 

そもそも、「どこから、どのような理由で」と考えた時点で、それはもう「勝手に」ということではなくなってしまうではないか? だとしたら、他の造作物と同じように、ある意図から、この宇宙、および全存在が造られたのではないのか? その意図もしくは意図を有する存在を、仮に「創造主」と呼ぶことにしよう。では、その「創造主」自体は、どこから、どのような理由で顕現したのだろうか?

 

「創造主」が顕現したことにも、きっと何らかの意図があったはずだ。だとすれば、「創造主」の創造者がいるということになる。じゃあ、その創造者は、どこから、どのような理由で顕現したのか? ‥‥というようなワケで、この推論にはキリがありません。そこで、「創造主」を創った存在は、「絶対者」なのだということにして、この推論を打ち止めにします。では「絶対者」とは何でしょう? 絶対であって永遠不変のものです。それは「無」以外にはありません。

 

だとすると、「創造主」を設定しようがしまいが、宇宙は「無」から生じたということになります。違いは、中間に、「創造主」という意識的存在を組み込んでいるかどうかだけです。万物は「無」から生じた、という考え方と、万物が出現する前に、先ず非物質である意識的存在が生まれ、それが万物をかたち創った、と考えるかどうかの違いです。

 

物質科学は、当然ながら、前者の立場をとっており、この論を教育やメディアを通じて繰り返し主張しています。ところが実際には、大半の人々は、その説明に満足してはいません。では、いま言った後者によりシンパシーを感じているのかと言えば、これも、そこまで思索している人はほとんどおりません。結局のところ、大多数の人々の結論はこれです。なんや、よう分からん! そして、私も、やはり分からないのです。

 

「無」の〈意図〉を、どうやれば説明できるでしょうか? 「無」なのに‥‥。あるいはその前段階の「空(意識が消滅した世界)」を、どのように説明できるというのでしょうか? 意識が消えた世界なのに‥‥ネ。

それに、いま重ねて来た論は、最初の「宇宙が在る(とする)」に始まって、全部が仮定の話でしかない。つまりは、単なる「概念」の言葉遊びに過ぎない。

 

ですから、釈迦も言ったのです。

「汝、ニルヴァーナを知りたくば、ニルヴァーナに至れ」と。

それは言葉でなんかとても説明できない世界なんだ。とにかく行くしかないんだよ、ということです。

 

ということで、肩透かしのようで申し訳ないのですが、

これだけは確実に言えます。

「気づいたところで、何にもならない」と思ったにせよ、〈「魂」は霊的成長を希求することを止めない〉ということ。現にあなたも、こうして質問を発することで、それを証明しています。

霊的成長を図ることを、「魂」が止めることは、決してないのです。

 

そこで、みなさんに宿題です。

どうして、「魂が、霊的成長を図ることを止めることはない」のでしょうか?

そう、言い切れるのでしょうか?

このテーマについて、お時間のある時に、瞑想を行ってみてください。今日取り上げたテーマについて、もしかしたら別の見解が見出されるかも知れません。

 

今のあなたの見解は、あくまで「今の」見解なのです。

そして、この見解は、どんどん変わって行きます。なぜだと思いますか?

それが、気づきによる「霊的成長」というものだからです。

あなたは誰あれ? ―― 自己承認欲求の本質

あなたは誰なのか。

 

これが、この世に生きるあなたへの究極的な問いかけです。

 

あなたがいま在るということ、

生きているということ、

生きて様々な体験をするということ、

体験を通じて喜怒哀楽を味わうということ、

他者と接して愛憎の渦を経験するということ、

そして生きる意味はどこにあるのかと問うこと。

 

これらすべては、ただただ、この問いに対する答えを見つけるためにあるのです。

 

あなたは誰か。

 

さて、あなたはどう答えるでしょうか?

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている、その私とはいったい誰なのか‥‥。

 

あなたは、自分の顔を、自分で直に見ることは出来ません。けれども、この事実はあまりにも日常的な体験となっているために、それが意識されることはほとんどありません。しかしこの事実は、「あなたは誰か」という根源的な問いかけに対する一つのメタファーを示しているのです。つまり、あなたは、自分の姿を見ることは出来ないけれども、自分が誰かと問うこともしないし、知らないということです。

 

でも、知らないまま、生きているのですよ! なんと。

それを許容しているのですよ! なんと。

疑問にも思わないのですよ! なんと、なんと。

これが、あなたの心から、不安や、劣等感や、嫉妬心が消えない根本原因だというのにねッ!

 

「自分が本当は誰か」を知らないあなたたちは、自分の存在意義というものを、ほとんど無意識のうちに外の世界に求めようとします。いわゆる「自己承認欲求」です。それはちょうど、鏡を見ることでしか自分の姿を把握することが出来ないのと同じように、自分の外側にあるものの評価によって、自分の「存在意義」を確認しようと、本能的に図るのです。

 

なぜなら、その欲求が満足させられなければ、たちまちにして不安や、劣等感や、嫉妬心が自分を襲い、甚だしい場合には、自分の生存の意義すらも見失ってしまうからです。そこで、外部に対して、絶えず「自己承認」を求めるという行動を人は無意識に取ろうとするのです。しかし、鏡に映った像が、実体ではなく虚像であるのと同じく、外側の評価もまた虚像であるということに、その本人は気づいていません。

 

「自己承認欲求」の出かたにはいくつかのパターンがあります。先ず第一には、自分を優秀者だと思いたいという欲求です。そのための罠は社会のいたる所に見られ、オギャーと生まれた瞬間から、人はこの優劣のスケールの中に叩き込まれるのです。赤ちゃんコンテストに始まり美人コンテスト、運動会の一等二等、書道コンクールの金銀銅、通知表に試験の点数、背が高いか低いか、金持ちか貧乏人か、有名大学出か三流大学出か、およそありとあらゆるところに優劣のスケールが存在する。

 

そして、親も学校も、「世の中には、優劣のスケールがあるんだよ」ということしか、究極的には子どもたちに教えていません。そして、「あなたは優秀者になるんだよ」「ガンバレ、ガンバレ」と吹き込みます。言い換えれば「劣等者になどなったら、大変な人生になるよ」というプレッシャーを与え続けるのです。そして、この競争に勝ち残った者たちだけが、地位、名誉、賞賛、財産を手にし、人々にそれを誇示するようになるのです。

 

しかし、この「自己承認」のパターンには大きな問題があります。どのスケールも、優秀者というのはほんの僅かな人間に過ぎず、大多数は劣等者の烙印を押されてしまうということ。これが広く社会通念になっているのですから抗いようがありません。結果、競争のプレッシャーに耐えかねて精神を病む人が激増しているのです。しかし精神を病む人というのは、実はまともな人間で、「もう、そんな時代じゃないよ」ということを、「魂」が察してSOSを発しているのです。

 

ここで私は、それぞれの能力の違いを認めたり、互いに切磋琢磨することまでも否定しようとしているわけではありません。自分の才能に気づき、それを伸ばすことは人生上の大きな喜びですし、互いに切磋琢磨することで「魂」をより向上させることが出来ます。しかしその才能の特質や能力の違いが、みな、他者の役に立つために備わっているのだ、という視点が決定的に欠けています。もしそれが理解されれば、素晴らしい社会が実現することは疑いなしです。

 

第二のパターンは、ある承認された集団に、自分が帰属するというものです。自分への直接的な承認というものがたとえ得られなくとも、ある集団に帰属することによって、自分が同じように承認されたと思い込めるわけです。これが、昔から、第一のパターンから落ちこぼれる人たちの受け皿として機能して来ました。宗教組織や、会社や、町内会や、趣味のサークルや、自助グループや、行きつけの飲み屋や、半グレ集団まで。

 

しかし、このパターンにも大きな問題があります。それは、その集団への依存傾向を強化し、そこから脱け出せなくなってしまう人を作るということです。もし脱け出したら、せっかく満たされた(と思っていた)「自己承認欲求」が、たちまちにして崩壊してしまうからです。これは、嵌まり込んだ者にとっては大変な恐怖です。そのため、この恐怖を利用して、人々をコントロールするということが、宗教を中心に広く行われて来ましたし、今でも行われています。

 

さて、この第二の「自己承認欲求」パターンですが、ネット社会が加速したことによって、近年、様相が大きく様変わりしてしまいました。日本が高度成長期をひた走っていた頃、日本社会にはまだ家族縁、地域縁、会社縁の三つのコミュニティがあって併存していました。ところが1990年代までに、先ず家族縁や地域縁が失われ、2000年代に入ると残る職場縁も崩壊してしまったのです。会社はもはや疑似家族集団ではなく、使い捨ての労働力が集まる場となったのです。

 

代わって趣味縁に支えられたグループが立ち上がるようになりました。いわゆるタコ壷文化やオタク文化の登場です。しかしその後、ネット社会に急速に移行したことによって、人と人とが直接触れ合う濃密なコミュニケーションの場というものは、どんどん失われて行きました。多くの人が、自分が傷つくことを怖れて、他者と接するのを嫌がるようになり、コミュニケーション能力のリテラシーも著しく低下しました。

 

結果として、どの共同体にも属さない「根無し草」として生きる人たちが、全世代的に爆発的に増加したのです。

 

こうした社会傾向の広がりは、反動として、一部で濃密なコミュニケーションを希求する動きも見せています。ですが、コミュニケーション経験の不足につけ込む詐欺師もやたらと跋扈するようになり、まったく心の安まる時がない、ただ騒々しい、ギスギス・トゲトゲした人間関係が拡大するに至ったのです。このような状況の中で、第一の「優秀者」にもなれず、第二の「コミュニティ」にも属せない人は、どうやって「自己承認欲求」を満足させればよいのでしょうか。

 

その顕われが、「ヘイト」や「ディスる」という行動に、人々を駆り立てています。面と向かって、自分が先頭を切って、論陣を張るまでの勇気はないが、誰かが何かを「ヘイト」したり、誰かが誰かを「ディスる」話題には瞬間的に反応し、自分も一言ツイートして、それで取り敢えずの「自己承認欲求」を満足させる。今や誰も彼もが、デモ隊の後方から石を投げる行為に夢中になっています。それは、「共同体」幻想の瞬間風速版なのです。

 

こんなことは、やめた方がいいです。それは所詮「幻想」ですし、瞬間風速的に過ぎ去ってしまうものです。その風が止めば、その人はまた次の暴風雨を見つけようとするでしょう。そんなことを続けていて何になりますか。己の「承認欲求」が満たされないのは一体どうしてなのか、という根本命題に向き合う機会を後回しにして、一時の気晴らしの為に、ただ時を浪費しているだけです。その間に、その人の心と体は、ズタズタ、ボロボロになって行っているとも知らずに。

 

いいですか。「ヘイト」や「ディスる」行為に血眼になっている人というのは、その思いを、自分が特定の相手にぶつけていると思っています。相手をやっつけていると思っています。でも、その「思い」というのは、〈その人の〉創造物なのですよ。荷物を送った相手が、その受け取りを拒否したらどうなりますか。荷物は送り主に返ります。デモ隊の後方で石を投げている人の石を、いちいち相手が受け取ると思いますか? 全部がその人のところに返っているのですよ。

 

すると、どうなると思います? 自分で自分に石を投げつけているのですから、体はボロボロ、心はズタズタになるのは当たり前でしょう。でもそうやって、自分で自分の心身を傷つけているものですから、ちっとも癒されることがありません。そこで、そのイライラをぶつける次の攻撃対象をまた見いだし、瞬間風速的な「自己承認欲求」を満たそうとして、「ヘイト」や「ディスる」行為を繰り返すのです。そしてまた心身が傷つき、次の攻撃対象を探し‥‥。

 

嘆かわしいことに、そのネガティブなエネルギーが、まるでオーストラリアの森林火災のように地球に広がっています。もしもあなたが、その石つぶての攻撃に遭ったら、最善の策は受け取らないことです。投げ返すことも、防御もしないこと。そうすれば、石は投げた人に返ります。でも、その、メカニズムを知ったからと言って、「へへ、いい気味だ」などと思ったりしたらNGですよ。理由は分かりますね。その「思い」は、あなたの創造物だからです。自分への「ザマ〜見ろ」だからです。

 

あなたが、どれほど誠実に、純粋に、真摯に、また親切に生きようとしたところで、万人から好かれることは出来ません。性質も、系統も、経験も、理解度も、信念も、生き方も、価値観も、全員が異なるのです。あなたを嫌い、逆恨みし、嘲笑し、侮蔑し、攻撃し、罵倒する人は必ず出現します。それは、その人の中に沸き立つ、劣等感や嫉妬など制御できない感情を、あなたという相手を見つけて、そこに投影しているのです。投影することによって「自己承認欲求」を一時的に満たそうとしているのです。

 

ですから、それを解ってあげた上で、無視してください。関わらないことが、その人に対するいちばんの親切です。なぜなら、いま言ったことを、その人が自分で理解するようになるまでは、つまりその人に「気づき」が訪れるまでは、そうした批評グセ、批判グセ、嘲笑グセ、攻撃グセが止むことはないのです。その「気づき」を早めてあげる最善の方法は、無視して、一切を取り合わないことです。決して同調しないことです。

 

さて、このような時代の中で、一番めのエリート意識でもなく、二番めの帰属意識にも頼らず、三番めの「ヘイト」や「ディスる」行為に走るでもなく、「自己承認欲求」が満たされるにはどうしたらよいのでしょうか。あなたが、自分の存在を認め、生きていてもいいんだ、この世には生きる喜びがあるんだ、と心底から思えるようになるためには、です。これは、今日の宿題にしておきましょう。

 

ヒントは、「あなたは誰か」ということです。

あなたの外見は、鏡に映さなければ、自分で見ることは出来ない。この事実は、自分は誰かということのメタファーになっていると言いましたね。

いま挙げた三つの「自己承認欲求」パターンは、いずれも、外の鏡に自分を映そうとしているということにお気づきではないでしょうか?

でも、逆の探索ルートもあるということです。それは、内側を見るのです。

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている私とは誰か。

 

もしもこれが解ったら、(頭ではなく)心底から解ってそれと一体化したら、あなたはもう、自分の外側に「自己承認欲求」を持つことはありません。なぜなら、「私は誰か」ということをすでに知っているからです。すでに知っているものを、どうしてなおも外側に答えを見つけたいと思うでしょうか。ですから、これが「自己承認欲求」に対する究極の答えなのです。「私は誰か」がもしも解れば、「自己承認欲求」などは、そもそも起こりようがないのです。

 

幼少時に、親からの愛情をたっぷり受けたという経験のなかった人たちは、概して、大人になってからも強い「自己承認欲求」を引きずりがちです。他方、よい家庭に育った人たちは気持ちが大らかで、そのような欲求を示すことはほとんどありません。それは、自分は「周囲からちゃんと承認されていた」という記憶を、意識の底に持っているからです。ですから、今をガツガツすることがないのです。

 

ここに注目してください。つまり、「自己承認欲求」の強さというのは、自分が創り出している「想念」に過ぎないのだということです。ですから、この「想念」を満足させようとして努力を重ねることは、葛藤の苦しみしかもたらしません。その努力の結果、運よく望む地位や賞賛を手にしたとしましょう。その時には苦しみが消える。でもそれは、望むものを手に入れたからではなく、苦しみの元であった「想念」が消えたからなのです。

 

だとすれば、最初からそんなものは持たなければよいのではありませんか?

 

そもそも、「自己承認」の欲求など、うたかた(泡沫)のものです。「ねぇ、私ってかわいい?」と恋人に訊く。「ああ、かわいいよ」という答えが返って来る。でも翌日になったら、その人はまた「ねぇ、私ってかわいい?」と同じことを訊くことでしょう。なんど承認したところで、その人が満足することはありません。なぜって、本人が絶対に認めないのですからね。認めることができない自分像にずっと拘り続けているのですからね。

 

「自己承認欲求」の拘りから自由になれないという人は、自分が「要求」ばかりしていたということに気づきませんか? 以前にも書きましたが、愛を乞う人ではなく、愛を与える人になって欲しいのです。みなさんは大きな勘違いをしておられます。自分が認められない、自分を認めて欲しいという「想念」ばかりが肥大して、与えることを忘れています。だから、自分が愛を与える人になれば、自動的に「承認」が得られるという、宇宙の真理に気づけないのです。

 

与えたら返ってくる。それは、ご祝儀の半返しのようなことではありません。宇宙の本質は意識だけの世界だということを思い出してください。あなたが与える。与えたいと思う、役立ちたいと思う。その思いは、誰のものでしょうか? あなたのものです。ですから、与えた瞬間に、その人は同時にそれを得ているのです。自分が送った自分の思いをね。先ずは、ここから始めてください。そうすれば、その果てに、あなたは究極の真理を理解することになるでしょう。

 

私は誰か? 私はわたしだ。

あの人は誰か? あの人もわたしだ。

私もあの人も、同じわたしだ。

だから、あの人にすることは、私にすることであり、

私にすることは、あの人にすることと同じなのだ。

そして、すべては、一つに溶け込む。

 

これ以上の、何を求めると言うのでしょうか?

すべての答えがここにあるではありませんか。

 

さて、あなたは誰あれ?