by Rainbow School
<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
智慧の泉 / あなたの我が家

智慧の泉

 

大いなる真理をつかもうと、

智慧の泉へやって来て、

水の中にどれほど手を突っ込んだところで、

手にした器がみなザルではどうにもならない。

あの時、確かに掴んだと思った真理も、

家に帰るころには、もう何も残ってはいない。

ザルを水で満たし続けるには、

ザルごと泉に沈めるしかないのだよ。

 

 

あなたの我が家

 

我が家には智慧の泉がない。

だから、時々は汲みに行かなくっちゃ。

と、そうあなたは考えているね?

でも、心の我が家は、場所を選ばないんだよ。

だから、智慧の泉の真ん中に、

我が家を建てたっていいわけさ。

実際、そこが、あなたの帰る場所なんだからね。

「時間」の罠

「スライス・オブ・ライフ」という言葉をお聞きになったことはありますか? これはその名の通り、人生のある断面、何気ない日常の一コマを強調する時によく使われています。この “slice of life” という言葉が意味しているものは、「その時々を大切にしなさい」ということ。逆に言うと、多くの人が「よき人生を送りたい」と願っていながらも、“slice of life” を殆ど意識せずに生活をしているということを示しています。

 

長〜い食パンをイメージしてください。この片方からもう片方までが人生だとします。あなたの「今」は、これのどこかの断面にあるのです。この視座は、「幸福」との関連で何度か語って来ましたが、覚えておられますか? 「幸福」というものは、将来にあるのではなく、「今」を「幸福」だと思えば「幸福」なのだということ。そして、その「今」を継続すれば、「幸福」な一生が送れるということでしたね。

 

でも、そうはなかなか思えないですよね。

それは、「今」の自分には、何か〈足りないものがある〉と考えているからです。

それは、家や、恋人や、家族や、理解者や、金品や、能力や、適職や、地位や、賞賛だったり‥‥と。

 

そのため、将来の充足や、将来の獲得にばかり意識が向かって、“slice of life” を大切に生きるということをついつい疎かにしてしまうのです。しかしこれは無理もありません。そのように教育されて来ましたし、社会が発するメッセージはすべてこのような観点から紡ぎ出されているからです。曰く、有名大学を出ないとよい就職口はないぞ、よい相手に巡り会わないと幸せな家庭は築けないぞ、会社に逆らったりしたら出世は見込めないぞ、2000万円貯金しておかないと老後は悲惨だぞ、etc.。

 

しかしこれも以前に言いましたが、人間以外の生きものたちは、そんなことを考えているのでしょうか? たとえば、犬は犬生設計をした上で生きているのでしょうか? 猫は猫生設計をした上で生きているのでしょうか? 鳥は鳥生設計をした上で生きているのでしょうか? そんなふうには、とても思えません。みんな、ただ “slice of life” を生きているだけなのではないでしょうか?

 

でも人間だけが、「人生」という言葉に惑わされて、「時間軸」の上に自分が考える〈幸福イメージ〉を描こうとするのです。しかしこれは、危険な罠です。なぜなら、将来の「幸福」のために「今」を努力しようとすれば、「今」はまだ「幸福」ではないということになりますし、イメージした将来に、望んだ〈幸福イメージ〉がもしも獲得できなかった場合には、これまた「幸福」ではないという敗北感がその人を襲います。

 

つまり、自分は「幸福」ではない、という “slice of life” を連続的に生きる人生となってしまうのです!

 

あなた方が、みなこうした罠に陥ってしまう大きな原因は、この世には「時間」というものが存在するという根本的な錯覚があるためです。この信念は非常に強固なもので、宇宙の真理は、これまで繰り返し、「時間」というものはまやかしに過ぎない、宇宙には永遠の今しかない、と説いて来たのですが、その実感がつかめないために、みなこの根本命題をスルーして、「時間」に縛られて生きているのです。

 

これと対をなして、あなた方の世界を支配している根本的な錯覚がもう一つあります。それは、「自分は何者か」という問いに関するものです。みんな、鏡に映した時に見える、身体を持った自分が自分だと思っていて、そのことにいささかも疑念を抱いていません。そんなことは議論なしの当然だと考えているのです。つまり、それほど、この錯覚も強固なものだということです。

 

整理しますと、

 

1.この世には時間が存在する。

2.この肉体の私が、私である。

 

という二つの根本的な錯覚が、地球という惑星の霊性密度(次元)を、支配する根本原理になっているのです。そして、すべての問題(のように感じるもの)、すべての苦悩(のように感じるもの)は、全部、この錯覚を前提として、その上に生じているのです。試しに、あなたがいま問題だと思っていること、苦しいと感じていることがあったら、この二つのフィルターの中を通してみてください。必ず、引っ掛かるはずです。

 

あなた方を支配する「洗脳」は、三重構造になっていて、先ずベースにこの二つの錯覚があり、ベースの上に、さらに様々な社会システムが乗っかり、その上に個々人の信念があるのです。

 

昨今、このうちの社会システムの「洗脳」実態が、次々と明るみに出される事態が起きています。これは人類史から見れば驚くべき大変革です。数千年も前から変わることなく続いて来た、人類の支配と隷属という構造、そして支配の道具としての「お金」の実体が、根本から問い直される機会が巡って来たのですから‥‥。あなた方はその転換期にすでに突入しています。

 

また、この変化のせいで、上に乗った個人の信念もグラつき始めています。しかしこのことを不安に思わないようにしてください。転換期には、変わることを不安に思う人と、変えることを楽しみに思う人とが混在します。不安感を払拭する唯一の方法は、変革の阻止や現状の死守ではありません。あなたが理想とする社会をリビルドするイメージを強く抱いて、実際に行動を開始することです。変革を、不安ではなく楽しみに変えるのです!

 

さてこの中には、どちらかと言えば壊す方に比重を置いた「解体屋」と、新しい社会システムを創造することに、より比重を置いた「建設屋」が登場します。「解体屋」は、既存システムをぶっ壊せばいいだけですので、誰の目にも分かりやすいのですが、「建設屋」はどういうものをどういう手順で造るのかということを、多くの人にプレゼンテーションし、納得してもらわなければならないので、非常に手間も掛かるし大変です。

 

ここで、次を担う世代の方々に知っておいて欲しいことは、ただ社会システムをいじっただけでは、地球人類に真の幸福は訪れないということです。社会システムという、外に現れた表現物は、すべて人間の内面の反映なのです。分かりやすく言えば、今の人間の「心」の投影です。ですから、その時々の人類の「心」のありようが、その時々の社会システムを構築している。

 

ということは、人間にとって、あらゆる生物にとって、また宇宙にとって、「幸福」とは何か、という根本が問い直されなければならない時期が来たということです。ことここに至って、先に挙げた二つの根本命題に、いよいよ地球人類も踏み込む段階が来ました。

 

つまり、

_罅垢考えているような「時間」というものは実は存在しない、

∋笋遼楴舛脇体にあるのではない、

ということに万人が気づくことです。

 

そして、

 ̄宙には永遠の今しかないのだということと、∋笋遼楴舛録世任△と、実感を持って深く認識することが、眠りからの目覚め、すなわち「覚醒」の根本なのです。

これこそが、地球人類に与えらえた最終テーマ、アセンションです。

 

親ガメの上に子ガメを乗せて、子ガメの上に孫ガメ乗せて。親ガメ転けたらみな転ける。もしも地球人類の大多数が、いま言った根本命題に一斉に目覚めたとしたら、それはもうちゃぶ台返しのようなもので、上に乗っかっているものも全部がひっくり返る。価値観が一変し、地上には一切の悩みが無くなる。しかし、いつも言っているように「解る」には三段階があって、今日の明日というわけには行かないのです。

 

実は、いま新しい時代の構築に向けて、奮闘努力しておられる方々の中には、ご自身では明確に意識していないまでも、ベースの変革を(つまり地球人類のアセンションを)直感的に解っておられる方がいるのです。みなさんには、二段目の社会システムだけを変えようとしている人と、ベースから丸ごとひっくり返そうとしている人との違いは分からないかも知れません。しかし、分かる人には直ちに分かる。あなただって、直感を働かせればきっと分かるはずです。

 

ということで、今日はそのうちの「時間」についてお話をしましょう。私たちは、ほぼ例外なく、「時間」とは何かについて、深く考えたこともなしに「時間」のことを日常的に話題にしています。今日の待ち合わせは駅で11時30分にとか、一周を3分20秒で走り抜けたとか、お湯を注いで3分間待てとか‥‥。日常行動の基盤を完全に「時間」に頼っていて、しかもUTC(協定世界時)が定める標準時間に厳格に管理された中で生活しています。

 

ですから、「時間」があるということになんら疑問を抱かないのは、当然過ぎるほど当然です。けれども、神秘学では古来より一貫して「時間」は幻想だということを語って来ました。ただ、この両者の言葉には隔たりがあり過ぎて、かつ実感を伴わないために、「時間」は無いという主張は、常に嘲笑され無視され続けて来たのです。しかし、ここで逆に、「時間」が在るということの証明をしてくれますか、とあなたにお頼みしたら、あなたはどうされるでしょうか?

 

ある人は、自分の子ども時代の写真を見せて、これがその証拠だと仰るかも知れません。またある人は、過去のドキュメンタリーの映像を見せて、これが証拠だと仰るかも知れません。またある人は、マラソン中継を見せながらトップは2時間8分でゴールしたぞと仰るかも知れません。でも、私が証明して欲しいのは、時と時の間(あいだ)、「時間」が在るということなのです。写真もドキュメンタリーも、その記録を見ているのは「今」ですし、マラソン中継も「今」の連続を見ているだけです。

 

実は誰も、時と時の間(あいだ)を取り出して、「ほら、ここに時間が在るよ」と証明できているわけではありません。でも、私たちは「時間」が在ると思っているのです。これはなぜでしょうか? それは、自分の周囲で時々刻々展開してゆく「変化」というものを、五感が知覚するからです。そしてその変化の知覚を、「時間」が経過しているのだと「解釈」しているのです。つまり、外部に見られる変化と、内的な認識とが合わさって、「時間」が存在するという幻想を創り上げているのです。

 

あなたに、こんな経験はないでしょうか? 何かに夢中になっていて、ハッと時計を見たら、予想の倍もの時間が経過していた。あるいは、深い夢の世界に落ちて、夢の中で様々な体験をしたのに、気がついたらほんの数分しか立っていなかった。これらはいずれも、自分の認識と時計の針の進み具合とが一致しない時があるということを示しています。それより何より、眠っている時には「時間」が停止しているように感じていませんか?

 

先ずここで考えていただきたいのは、「時間」経過というものに関する「認識」は、一人ひとりで異なっており、決して一様ではないということです。にも関わらず、同じ「時間」を過ごしていると思っているのは、時計によって示されている標準時間というものに、みな暗黙の信頼を置いているからです。ですから、先に挙げたような経験をしたとしても、自分の「認識」の方が間違っていたと思うように教育されているのです。

 

でも、もしもあなたが、時計も窓もない部屋に何日も何日もずっと押し込められていたとしたら、あなたは「時間」というものを、どのように「認識」するでしょうか? 最初は腹時計や、眠くなったりすることで今何時かを類推するでしょうが、それがずっと続けば、終いにはもうなんだか分からなくなってしまうのではないでしょうか。ここで気に留めておいて欲しいことは、一つには、「時間」は「認識」の問題であるということです。

 

次に、なぜ自分の外部に見える世界が、時々刻々と変化するのかを考えて見ましょう。いわゆる「諸行無常」「生々流転」という法則が展開されている理由です。これは、今の私たちが、「物質」が存在する空間であるところの第3霊性密度(三次元)の世界に生きているからです。

 

*霊性密度については何度もお話しして来ましたが、宇宙というものは、高い振動数(密度)を持った非物質的な世界から、低い振動数(密度)によって形成された物質世界までがグラデーション状に展開されており、これをその性質の差から、大きく7つに分類しています。第3霊性密度というのは、この分類の下から3番めの領域を言い、5番め以上が非物質的世界、つまり霊的世界に当たります。そして中間の4番めが、半霊半物質世界を構成するという構造になっています。

 

地球で暮らす人間は、この物質世界が、そのまま宇宙の実相だと思っていますがそうではありません。宇宙を構成する素の素はたった一種類の振動するエネルギー体で、それが振動数を下げて行くことによって素粒子化し、さらに下がって様々な物質を形成しているのです。ですから、素粒子化以前の非物質的世界(それは、現在あるどんな機器を使っても観測できない世界ですが)までを含むものが、本当の全宇宙なのです。そして、その中では、物質世界の全エネルギー量などは微々たるものに過ぎないのです。

 

いま言った部分は、因の科学に属することですので、物質科学の世界ではまだ証明がなされていません。しかし物質科学の世界でも、あなた方の常識を覆す一つの結論がすでに出ているのです。その結論とは、時間と空間とは不可分であって、互いに連続しているというもの。そこでこれを「時空間連続体」と呼びます。私たちはこの「時空間連続体」の中に生きているのです。が、この中では、なんと「時間」の経過は一定のものではないのです。

 

*因の科学:現在、地上で「科学」と称しているものは、みな物質世界に顕れた「現象」の中に法則性を見出そうとするものであり、結果から結果を法則化しているに過ぎないのです。例えば、宇宙は今から138億年前にビッグバンによって誕生したと言い、今ではみんなそれを信じていますが、では生じる前の「無」とは何なのか、どうして「無」から突如「有」が生じたのか、何がそれを生じせしめたのか、生じせしめた理由は何か、といった「原因」に関する疑問には、全くの頰かむりなのです。この「原因」にまで踏み込む科学が「因の科学」です。

 

図を見てください。これは「時空間連続体」の概念を平面上に表したものです。横に時間軸、縦に空間軸を取っています。この平面の、A地点に今あなたがいるとしましょう。あなたはそこにいて、動かずにじっとしています。そのあなたに対して、時間軸が右から左にまるでベルトコンベアーのようにして流れて来るのです。実際にはあなたは静止しているのですが、時間軸の方が絶えず流れて来るので、あなたは逆方向へA’地点まで進みます。この移動を、あたかも「時間」が経過したかのように感じるのです。

 

さてここで、A’へと向かう途中のB地点で、静止をやめC地点にまで空間を移動したとします。あなたはA’までにかかる時間と、同じ時間をかけて今度はCへと移動します。すると、A-A’へ進むのも、A-B-Cへ進むのも、両者が持っている時計の針は同じだけ進んでいます。ところが、A’地点側から見た場合のA-B-Cの時間経過は、A-A’よりも縮んでしまうのです。つまり、あなたが空間を移動をしている時には、静止している状態よりも、なんと時間の進みが遅くなってしまうのです。

 

ということは?

しょっちゅう移動をしている人は、それだけ他の人よりも老け込むのが遅くなる!

 

とまあ理論上はそうなのですが、新幹線に乗っても飛行機に乗っても、光速に較べればそのスピードはあまりにも微々たるものなので、ほとんど影響がないのです。残念! しかしここで、まずもって理解していただきたいのは、「標準時」なるものは絶対的な基準ではないということです。地球上で体験される経験則を、「標準時」として制定したものに過ぎないのだということ。ですから、「時計」をもってして「時間」が在るということの証明にはならないのです。

 

その上で、次に、なぜ時間軸のベルトコンベアーが流れ続けているのかを考えて見ましょう。これは、実のところ、現代物理学でも未だに解明されていない謎です。いわゆる「時間の矢」の問題(どうして時間は後戻りできないのか? 時間には矢印がついているのか?)です。なぜ解明されないのでしょう? それは、宇宙の創生の問題と同じく、因の科学の領域にまで踏み込まない限り、この問題には答えが見つからないからです。

 

しかし、今の地球で「科学」と称しているものは、すべてが物質世界を基盤に置いた考え方を前提としていて、それを逸脱するものは「科学」とは決して認めません(これこそが非科学的なのですが‥‥)。ということで、因の科学の領域に少しでも踏み込んだものは、みな似非(えせ)科学のレッテルを貼られてしまうのです。当然、このブログも。残念ですが、現状では仕方がありません。しかしそれも、いつかは是正される時が来るでしょう。

 

話を戻して、今ここに書いた「時間軸のベルトコンベアー」という比喩も、数分前にインスピレーションを頂いたばかりのものであることを断っておきます。さて改めて、あなたに問いかけます。「空間」とは何でしょうか? 宇宙に出ると、真空の「空間」が広がっていると言いますが、「真空が在る」というのはどういうことなのでしょうか? 何も無いけれども「空間」だけは在る。その「在る」とは、いったい何が在るのでしょうか? 何も無いのに、なぜ「空間」は潰れてしまわないのでしょうか? まったく謎だらけです。

 

では、因の科学の世界に入りましょう。

 

先ず、「無」と「空」とは違うということです。「無」とは文字通り何も無い。ですから、「無」の存在を証明することは出来ません。「無」の存在が証明できたら、それは「有」ということですので自己矛盾です。従って「無」は無(だろう)としか言いようがありません。しかし、括弧して(だろう)としたのは、こちらの宇宙には無くても、こちらからはアクセス不可能な別の宇宙に「在る」可能性があります。その場合、その別の宇宙から見れば、やはり「無」というものは無いのです。<(_ _)> ややこしくてどうも済みません。

 

*宇宙は Uni-verse ではなく、Multi-verse になっている。

 

これに対して、「空」というのは、物質化したものは無いけれども、非物質的エネルギーがそこには満ちているのです。これが「空間」であり、このエネルギーを、古くからエーテル(Ether:英語の発音ではイーサー)と呼んで来たのです。それを何と呼ぶかは別として、「空間」には何も無いのではなくて、そこには宇宙の基本要素であるところの振動するエネルギー体が、まるで海のように充満しているのです。(その比喩的な映像に取り組んだ映画が『惑星ソラリス』)

 

*中世時代に盛んに言われていたエーテル論は、その後、原子の発見や真空の観測によって「そんなものは無い」と完全否定されてしまいましたが、現代物理学では、逆にこれを認めるようになって来ています。

 

さて、初めの方で、この振動するエネルギー体は、振動数に応じた階層構造を形成していると述べました。そして、振動数が低下して行くと、素粒子を形づくり、それが集まって物質化して行くと説明しました。この変化は、階段状ではなく、グラデーション状に変化して行きますので、素粒子になるかならないかの領域では、物質と波との中間的な性質を帯びるのです。すると、振動するエネルギー体は、喩えて言えば、お湯に葛粉を溶いたような状態になるのです。

 

物質化した宇宙は渦の回転をしておりますので、粘りをもったエネルギー体は、これに引っ張られて同様に回転をします。逆に、葛粉を溶いてかき回しているうちに、中に物質化する部分が出来ると言った方が適切かも知れません。いずれにしても、粘りを持った振動するエネルギー体が一定方向に回転する。これが、時間軸のベルトコンベアーとなるのです。ですから、「時間」は一方向にしか進まず、後戻りができないのです。

 

しかしこれは、あくまで、物資世界の領域(第3霊性密度)で起こる話。私たちはその世界に住んでいますので、そこを中心としてしかものを考えられなくなっていますが、物資世界というものは、宇宙全体からみれば非常に限定された狭い領域に過ぎないのです。むしろ、非物資的世界の方が圧倒的に大きい。では、どのくらい大きのかと言いますと、広大無辺。つまり限りがないほど大きい。

 

なぜ限りがないのでしょうか? それは「時空間連続体」という限定された場が、もはやそこには存在しないからなのです。ですから、正確に言えば、大きいとか小さいとかという基準そのものがない。極大が即極小であり、極小が同時に極大でもあるという無限の世界がそこに広がる。これが宇宙全体の本質であり、あなた方が考えている宇宙は、物資化された領域だけを見て「これが宇宙だ」と言っているに過ぎないのです。

 

物質世界の領域から脱し、高い霊性密度の領域に上がれば上がるほど、「時空間連続体」からは離れて行きます。第3霊性密度から、第4を越え、第5霊性密度に入った辺りから「時空間連続体」の影響はどんどん少なくなって行く。そしてついには、時間も空間も無い無限の世界に突入してしまうのです。果たして、それはいったいどんな世界なのでしょうか?

 

知りたいですか?

‥‥‥

本当に?

‥‥‥

心底から?

‥‥‥

今すぐにでも?

‥‥‥

 

まあ、そう焦りなさんなって。

いずれは知ることになるのですから。

その日が来るまで、楽しみにとっておきなさい。

あなたには、この世で、まだまだやるべきことがある!

 

本当の「知る」は、あちら側へ行かなければ解らないのですが、こちら側にいても、その一端に触れることは出来ます。現にあなたも常に触れているのであって、ただそれを意識できないでいるだけです。その接触(contact)を、意識的に行う手段が、他ならぬ「瞑想」です。そこで、虹の学校では、日常生活に「瞑想」習慣を持つことを強くお勧めしているのです。「瞑想」は、本当の宇宙、本当の自分、本当の愛、そして生命の神秘、を理解するための真実の扉を開けてくれるのです。

 

このように、あなた方が感じている「時間」というものは、絶対的な尺度ではなく、物質世界だけに出現する見かけ上の体感に過ぎないのです。それは、身体の自分が自分だと思っているために、その体感を信じるのであり、「時間」があると思い込むのです。その結果、身体に縛られ、さらに時間に縛られ、地上での活動のすべてを、この二つの幻をベースとして考えるようになり、それによって自ら問題を創り出し、悩み、苦しみ、自分は不幸だと思う人生を送っているのです。

 

でも、あなた方は意識していないだけであって、宇宙の本質とは日常的に接触しているのですよ。それどころか、今までに一度だって切れたことがない。ただの一度だって! なるほど、あなた方は生まれ、成長し、やがて衰え、死ぬという一生を送る。でもそれは、諸行無常、生々流転という地上の法則を体験するためのプロセスに過ぎないのです。体験を咀嚼して、何かを掴もうとしている本当のあなたが、それとは別にある! 真実のあなた、そのままのあなたが。

 

それは、身体ではない。あなたの「意識(mind)」だ。

 

つまり、今世の身体、およびそれに付随して動く環境は、すべて、あなたの「意識」を進化させるために用意された、単なる道具であり、スクリーンなのです。

 

あなたの本質は、あくまで「意識」なのです。そして「意識」だけが、あなた方が「死」と呼ぶ時を迎えた後も、連続して運ばれる。しかも、あなた方の「意識」は一重ではありません。ここが肝心なところ。これも多層を成していて、その最深部は、誰もが高い霊性密度とつながっているのです。でもそのことを実感できないのは、あなたが、身体と時間が示す罠に捕まっているためなのです。

 

そこで、この罠から脱し、本当の自分を見つけ出すためのテクニックをお伝えしましょう。何かの作業を終えた時、また作業を始める前、あるいは作業中に迷いが生じた時、感情をひどく動かしてしまってブレた時などに、ひとり目を閉じて、静かにして、自分の「意識」を観察してください。批評を加えずに、「意識」のありのままを見つめるのです。すると、あなたの「意識」は「時空間連続体」を脱け出して、永遠の「今」の世界に入ります。

 

その時、あなたは気づくことになる。自分の本質は、身体ではなく、連続した「意識」にこそある。が、その「意識」もまた、「今ここ」にあるのだということに。つまりあなたは、“slice of life” ではなく、“slice of mind” を生きているのだということに。あなたの「意識」に、「時間」というものは存在しないのです。Aという人物だった時の過去世、Bだった時の過去世‥‥、そしてXという人物であるところの未来世、これらは全部、同時に、それぞれの人生の “slice of mind” を生きているのです!

 

なんと壮大なドラマでしょう。なんとよく出来た計画でしょう。すべての人生における体験が、全部あなたの体験学習のためにあるのですから.。

このプレゼントに感謝しなさい。自分の身の上に起こる、良いことも悪いことも、実はぜーんぶ良いことだった、という実感に早く到達しなさい。

あなたの魂は、いつだって見守られているのですよ。いい加減に目覚めて、早く自分の手足となって働いてくれないかなぁと、上の存在は乞い願っているのですからね。

 

あなたは、自分が救われることばかりを考えてはいませんか? 逆なのですよ。あなたが、上の存在を救うのです! なぜって、地上で手足となって働いてくれる人がいなければ、いかに高次元の存在といえども、手の出しようがないのですからね。ですから、自分が手足となって働くことを、ここで宣言しなさい。何も難しいことを考えたり、したりする必要はありません。素直に、純粋に、誠実で、明るく、熱心に、思いやりを持って、いま出来ることを行いなさい。

 

スピリチュアルおたくになっていてはダメですぞ! 霊的世界は、駆け込み寺ではありません! ましてや魔法を授ける教習所でもありません、なんのための人生ですか? なんのための地上体験ですか? 思いつくことをどんどん行動に移して、人生を謳歌しなさい。すべてはスクリーンなのですから、怖くはないでしょう。自分は、自分のドラマの主役なのだということを強く意識して、渾身の力でこれを演じ切りなさい。あなたの、“slice of mind” を光り輝かせて。