by Rainbow School
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熟れすぎた果実

熟れすぎた果実は、いつかは地に落ちる。

溜め込んだ甘い汁が、すえた臭いに変貌して。

幼少時に受けたトラウマは、「愛を乞う人」から「愛を撒く人」に自分がなることでのみ解消できる

幼い子どもにとって、周囲の大人たちは絶対的な存在に映ります。小さくて力がない上に、自分一人では生きていけないことを、子どもは本能的に知っているからです。そのため、誰かに依存して生きなければならないのですが、結果として、その〈誰か〉が有する思想や、生活信条や、生活スタイルに多大な影響を受けることになるのです。

 

ところが、逆の立場にある大人たちは、その影響力の強さについてはあまりにも無頓着です。子どものナイーブさというものをまったく考慮しておらず、自分の考えや行動原理を、さも当然といった感じで、子どもの前で披露する人が殆どです。中には、「愛情」とか「教育」とか「しつけ」という言葉で自分の行動を正当化している人も大勢いるのです。

 

今、子どもの頃を思い起こしてみると、子ども同士の情報交換のなかには、周囲の大人たちに対しての寸評が多く含まれていたことを思い出します。「ねえ、あの人、善い人、悪い人?」「優しい、それとも恐い?」というのが、子どもたちにとっての二大評価軸でした。ですからドラマを観ている子どもは、みんな開始早々に訊くじゃありませんか。「ね、この人、善い人、悪い人?」って。

 

この子どもと大人の間の著しいギャップ。子どもたちを前にして、何にも増して先ず優しい人、善い人であろう、ありたいと常に意識している大人たちが、一体どれほどいるでしょうか。こんな訳ですから、大人は、知らず知らずのうちに、子どもの心をナイフで抉るように深く傷つけてしまっているということになかなか気づきません。

 

子どもにとっては、家族は単に家族ではありません。最初に腕に抱かれる両親そして家族が、自分が初めて接する「社会」なのです。次いで地域の人々や、保育園、小学校などに自分が接触する「社会」が徐々に広がって行きます。しかし、大人たちが漠然と考えている「社会」と、子どもたちが目にする「社会」とは、全然別物だということに大人はもっと注意を払わなくてはいけません。

 

幼少時の子どもにとっては、自分が接触できる範囲、それが「社会」の総てなのです。子どもたちは、容易にそこを脱け出すことは出来ません。その環境の中で、好むと好まざるとに関わらず、「社会適応化」されて行きます。もしそこに、優しい人や善い大人が、一人もいなかったとしたらどうでしょう? その子にとっては、「社会」は牢獄にも等しい場所になってしまいます。

 

この苦しみは喩えようもないほど大きいものです。その牢獄からはなんとか脱け出したい。でも行き場もないし、脱出方法も分からない。自分が今いる「社会」に、自分という存在を、「生きていていいんだよ」「あなたはあなたのままでいいんだよ」と認めてくれる人間が、だれ一人いないように思えるのですから‥‥。

 

人が自殺をすると(特に子どもの場合などは)、みんな〈どんな原因が、その人を死に至らしめたのか〉という特定の犯人探しにばかり注目します。つまり原因と結果の一対一の関係を探ろうとするのですが、解ってないなと思います。なるほどきっかけはあったでしょう。でも、どんな場合であっても、自殺というのは、牢獄のようにしか思えないこの「社会」(=この世)からのエスケイプなのです。

 

生まれて初めて知った、逃れようのない「社会」が、暴力や、ネグレクトや、育児放棄であったとしたらどうでしょう? その子には、深い傷が刻まれます。そして、エネルギーを内に向ける子は自傷行為におよび、エネルギーを外に向ける子は破壊衝動に向かう。それは、その子の「魂」の叫びなのです。「ねえ、無視しないでよ! ここにわたしがちゃんと居るんだよ!」という。

 

幼い子の成長時には、信頼できる大人の(多くの場合、両親ですが)たっぷりとした「愛情」が絶対に必要です。それは、具体的には、外敵から自分を守ってくれることと、温かいご飯を食べさせてくれることと、オシッコやウンチの始末をしてくれること、この3つです。それによって、自分の「存在」というものが肯定され、祝福されているという原体験をその子が持つのです。

 

こうした原体験を持つ子は、その後の人生で、たとえ大変な困難にあったとしても、大崩れするということはありません。自分は〈愛されて育った〉というこの原体験が、必ず湧き起こり、ギリギリのところでその人を支えてくれるからです。けれども、それが無い人は、帰る場所(ホーム)がないのです。幼少時に受けたトラウマの、厄介なところはそこです。

 

帰りたいホームには、「苦痛」の記憶しかないのです。そこで、これを忘れようとします。蓋をして触れないようにしようとする。でもそれは、トラウマを心底から解消できたわけではありません。よく言うじゃありませんか、嫌いは好きの反対だって。これは、好きも嫌いもどちらも、その対象に対しては大いに興味があるということです。つまり、「避けたい」という思いは、強い関心の裏返なのしです。

 

トラウマから遁走して生活することは可能です。しかしそれは、傷口を取り敢えず塞いだカサブタのようなもの。何かの拍子にポロッと剥がれると、その下の傷口がまたズキズキと疼き出すのです。これは、トラウマを抱えた者にしか解らない痛みです。そして、自分では忘れていると思っていても、その影響が、日常生活にずっと影を落とし続けるのです。

 

幼少時に自分を傷つけた大人たちは、大抵はひと世代かふた世代前の人たちです。ですから、自分がもの言える大人になった頃には、その人たちはかなりの高齢か他界していたりする。すると、自分が長年抱え込んで来た怨みや復讐心をぶつける相手が、もうこの世に居なかったり、イメージがすっかり変貌していたりするのですね。その結果、自分のこの「思い」だけが宙ぶらりんになってしまうのです。

 

つまり、もはや解消の仕様がない!

幼少時に受けたトラウマに限らず、このような「思い」に囚われ続けている人は大勢います。口に出すのを避けているだけで、掘り下げれば、大抵は何か出て来るものです。さてそこで、

 

エスケイプするのではなく、トラウマにちゃんと向き合って、考えていただきたいのです。自分に、なぜあのような境遇や、事件や、事故が生じたのか。「そんなことは、言われなくたって考え続けて来たよ」と仰る方もきっとおられるでしょうね。まさに、それがトラウマなのですから。消そうと思っても消せない囚われなのですから。

 

でもその方は、それを、自分と相手の問題として考え続けて来たのではないでしょうか。「そりゃそうだろう、自分と相手の間に起こった問題だもの」と、あなたは仰るかも知れません。でも、もっと大きな視点で捉えてみて欲しいのです。「それは‥‥例えば『人として』ということかい?」。いえいえ、もっともっと大きな視点。宇宙的視点です。

 

「えっ、こりゃまた、えらく大きく出たもんだね」

 

宇宙的視点から見て、自分が、なぜそのような境遇や、事件や、事故に遭わねばならなかったのか、ということです。

 

宇宙に偶然はありません。(と言っても理解できないでしょうが‥‥)あなたに、それが起きたことは、みな必然だったということです。そう聞いて、腹立たしく思われるかも知れませんが、しかし総てが必然なのです。

 

そこで、〈必然だとしたならば〉そのような境遇や、事件や、事故になぜ自分が遭わねばならなかったのか、と改めて考えていただきたいのです。そこにはカルマの働きがあったかも知れません。しかし、それがカルマの働きであったかどうかに限らず、それによって、あなたは、あなたの人生上に多大な影響を受け、そのことについて、深く考えざるを得なくなったのではありませんか?

 

そこにこそ注目して欲しいのです。マイナス面だけではなく、トラウマのプラス面を見て欲しいのです。もし、トラウマになるような境遇や事件や事故が、あの時、我が身に起こらなかったとしたら、あなたは、その課題について傷つき、悩み、考えることも無かったはずです。そこに、宇宙的な視野があるのです。宇宙を司るものの視点があるのです。それを考えなさい。

 

いつも言っているように、物質世界は、所詮は無常なるもの(絶えず変化してゆく幻)です。宇宙に在って継続するのは、あなたの思い(思念)だけなのです。だとしたら、もう巻き戻すことの出来ない過去の出来事のトラウマに、いつまでも拘泥し続けることは、まったく理に合わない、馬鹿げたことだとはお思いになりませんか?

 

それよりも、今日この一日を、この瞬間を、楽しく、朗らかに生きた方がずっとステキだとは思いませんか?

ここに、宇宙からあなたへの、大いなるギフトがあるのです。

これを気づきとして、大ジャンプを成し遂げなさい、という。

もの凄く大きな、「愛」のメッセージが。

 

多くの人は、自分の一生を、「一回限りの人生だもの」と思って、「魂」の声に耳を傾けることをせずに、欲得の感情のままに生きて、一つの人生を終えます。この結果、せっかく地上に誕生して来て、様々な体験をしたとしても、霊性の向上はほんの僅かしか進まずに、転生を繰り返しては、また同じようなカルマに翻弄された人生を送ってしまいます。

 

でも、トラウマを抱えた人は違う。

誰よりも傷ついて来た人は、誰よりも霊的に飛躍できる可能性があるのです。

だから、あなたに言う。

試練を、ジャンプ台にせよ。

 

幼少時に不幸にして愛情不足で育ったあなた。それが原因で、あなたは今も「愛を乞う人」になっていないでしょうか。「愛を乞う人」を続ける限り、あなたのトラウマは解消されません。幼少時には親の「愛情」がたっぷり必要です。でも、「愛情」は「愛」の学習の第一歩だとしても、「愛」の到達点ではありません。それはあくまでも通過点なのです。

 

「愛」に「情」が絡んだ「愛情」は、真の「愛」ではなく、欲得の一種なのです。多くの人は、「愛」と「愛情」の違いが判らずに、「愛情」(というエゴ)を「愛」と錯覚して生きています。ですから、離婚騒動、浮気騒動、親子の確執が絶えないのです。もし、真実の「愛」に生きていたとしたら、ラブラブの結婚をした半年後に早くも離婚、なんてことが起きるわけがないじゃありませんか。

 

「試練を、ジャンプ台にせよ」とは、この段階を超えなさいということです。もう「愛情」レベルは卒業しなさい、ということです。いつまでも「愛(情)を乞う人」であってはなりません。ここから一気に飛躍して、「(本当の)愛を撒く人」へと大変身するのですよ。それを今日、この瞬間から誓うのです。

 

そして、日々、そのように行動することによってのみ、あなたはトラウマを解消できる。貰うことばかり考え続けて来た人生をやめて、与えるのです。先ずあなたが与えるのです。最も傷ついたあなただからこそ、周囲に与えるのです。「愛情」ではなく、本当の「愛」を。見返りをいっさい求めない本当の「愛」を。無償の「愛」を。

 

そのことを喜びとしなさい。今すぐには分からなくても、そうしたいとひたすら願い、続けているうちに、やがてそれがあなたの内に入って来る。その時こそ、自分が生きている真の理由が解る。なぜ自分が、あれほどの苦しみに遭わねばならなかったのか。そしてあなたは、その手配に、感謝の念すら抱くようになることでしょう。

 

友よ。諦めるな。真の「愛」に生きるんだ。

いいかい。あなたが率先して、次代の「愛を撒く人」になるんだよ。