by Rainbow School
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お願い

ブログに書かれているメッセージの発信主体と、私(このBlogの管理人)とを同一視しないでください。私は単にパイプ役を果たそうとしているだけであり、ごく普通の人間です。それもどちらかと言えばヘナチョコの。私に興味をお持ちになっても、裏切られた思いになるだけです。

 

それよりも、メッセージ内容そのものに関心をお持ちになってください。メッセージが繰り返し語って来たのは、自分の内に光を見い出しなさいということと、自分の意志で行動しなさいということです。あなたに響く言葉が、もしもメッセージの中にあったなら、それは、今このタイミングに、ドンピシャリで天が直接あなたに送ったものと解釈してください。

人間関係において、自分の相手役をしてくれている「魂」が、そのせいでカルマを積み増ししてしまうという可能性はないのか?

次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.(頼まれてやっている)カルマの人間関係と、カルマの上積みについての質問です。地球に生まれてくる段階で、事前に自分で決めていた課題があるかと思います。過去生で、なんらかの理由によりその課題をクリアできなかった場合に、同じような課題を再度設定して生まれてくることがあるかと思います。

 

その課題のために、交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。困った人の役を引き受けてやっているとはいえ、それに伴う地上での立ち振る舞いでカルマを上乗せしてしまうことはないのだろうか・・?という疑問です。

 

頼まれてやっているとしても、波動の法則が存在する以上、自分が出した波動は自分で受けることになります。また、転生前に交流があったということは、霊界は純然たる階層社会なので、あまりに自分と波動が違う相手と交流することはないはずです。

 

そういう存在が困った役を引き受けることによって、結果、図らずともカルマを上乗せしてしまった的なことにならないのかな、とその点でもやもやしています。ご回答よろしくお願いします。

 

A.先ず、「カルマ」ということの意味なのですが、これはもともとサンスクリット語で「行為」を表す言葉であり、「行為」のプロセスと、その結果を同時に包含した概念を意味しています。ですから、人間は生きている以上、なんらかの「行為」を必ず為すのであり、その意味では、人生行動そのものが「カルマ」だとも言えるのです。

 

「カルマ」と言いますと、一般的には「宿命的な災い」のようにばかり捉えられがちですが、必ずしもそうではなくて、悪いことだけではなく、善いことにもみな「カルマの法則」が働いているのです。さて今、「悪いこと/善いこと」と書いたのですが、この「善悪」概念も、あくまで主観的なものに過ぎず、厳密に言えば、宇宙に「善悪」というものはないのです。

 

「善悪」概念が主観的なものに過ぎないということは、例えば、ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い起こしてみれば、直ぐに解ることでしょう。あの時ブッシュは、イラン、イラク、北朝鮮を「悪」の国家と断じる一方で、自国アメリカを「善」の国と位置づけて、諸国に「さあ、どっち側につくんだ」と迫ったのです。そして、日本もその「善」の側に加担しました。

 

その結果がどうなったのか、またそこに至るまでの裏側には何があったのか。これはもうみなさんが知る通りです。けれども、このような例を挙げても、「いいやそんなことはない。誰もが認める悪はある。たとえば殺人だ」と仰る向きもたぶんおられることでしょう。でも果たしてそうでしょうか? 人間は、戦争で人殺しをすることは、国際法で認めているではありませんか。

 

このように、「善悪」概念など、所詮は主観的なものに過ぎないのです。ただし、宇宙的にみて敢えて言えば、こういうことは言えます。〈分離〉意識に向かう行為は「悪」的であり、〈合一〉意識に向かう行為は「善」的である、と。しかしこれも、あくまで「的、ぽい」ということであって、「絶対」ではないのです。宇宙に「絶対善」や「絶対悪」はありません。

 

そもそも、個々の「魂」がなぜ一者(神)から分かれて生じたのかと考えますと、〈分離〉を、即「悪」だと決めつけることは出来ません。これを「悪」だと決めつけたものが、いわゆる「原罪論」です。しかし「原罪論」には矛盾があります。宇宙の一切合切を仕切るものを「神」だとすれば、個々の「魂」を〈分離〉させた存ものは「神」です。

 

すると、その行為を「罪」だとすると、「罪」を犯したものは「神」ということになり、そう断じるものは(原罪を有した)「人間」であるという逆転のパラドックスが生じてしまいます。さらに、「原罪」を持つ「人間」に「罰」を与えるとなると、「罪」を創ったのも、「罰」を与えるのも同じ「神」ということになり、非常におかしなことになってしまいます。

 

では、なにゆえに、個々の「魂」が一者のもとから〈分離〉したのでしょうか? あるいはさせられたのでしょうか? それは、〈合一〉を体験するためなのです。〈合一〉したままでは〈合一〉は体験できません。〈分離〉することによって初めて、〈合一〉に向かう「行為」というものが体験できるのです。実に、「カルマ」の意味はそこにあるのです。

 

ですから、「カルマの法則」というものが、決して「罪」や「罰」に起因した法則ではなく、それ自体が「神のギフト」であるということが、これでお解りになるでしょう。したがって、「カルマの法則」を恐れる必要はいささかもありません。「カルマ」というのは、あなた方の、瞬間々々での「生き方の選択」なのです。〈分離〉意識をより強めた体験をそこで選ぶのか、〈合一〉意識をそこに見い出すのか、という。

 

そのことを踏まえた上で、ご質問にお答えします。さて、質問者は、「交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。」という仮定から、質問に至る論を展開されておられます。ですが、そのようなことはそもそもありません。ですから、ありえない仮定のもとに、疑問を投げかけておられるのです。

 

ではなぜ、質問者にそうした仮定が生じたのかと推理しますと、人間関係におけるこの世的な貸し借りを、「魂」の世界や輪廻転生の仕組みに、そのまま当てはめて見ている節があります。ですが、これは誤りです。霊的世界に貸し借りはありません。自分の本心を押し殺して、他者のために◯◯役を「演じる」というようなことは出来ないのです。何もかもがお見通しの世界なのです。

 

その「魂」の、素っ裸の霊性度合いに応じて、万事よろしく設計されて、次の転生計画が決められているのです。その際に、個々の「魂」は、全員が、自分の人生の主役なのです。その主役の周囲に、縁の濃い「魂」たちによって脇役が設定されます。主役から見れば、周囲の人たちは、あたかも自分の課題を助ける役を演じてくれているように見えるかも知れません。その見方はある意味で正しいのですが、それは、同時に相手側の人にも言えることなのです。

 

Aさん、Bさんという縁のある「魂」がいたとしましょう。Aさんにとって、Bさんは自分に何らかの気づきを与えてくれる存在です。しかし、人間関係というものは、つねに「間(あいだ)」に生じるものであり、そこで生じている「関係」に対しては、その関係者はすべてイーブンの影響を受けているのです。ですから、両方が互いに主役なのです。

 

こんな例を考えてみましょう。Aさんは寝たきりで、自分一人では身の回りのことが何ひとつ出来ません。Bさんは、このAさんに付きっ切りでずっと看護をしています。果たして、Aさんは貰うばっかり、Bさんは与えるばっかりなのでしょうか? この世的に見れば、そう見えるかも知れません。けれども、霊的に見れば、そのような一方的なことはまったくないのです。

 

このAさんとBさんとの「間」に、看護という「行為(=カルマ)」が行われた時、両者はそれぞれの視点で、この体験を分け合っているのです。ここには貸し借りはありません。それは両者にとって、互いに自分のカルマを解消するための絶好のチャンスとしておとずれた体験なのであり、その出逢いは完璧に設計されています。ですから、質問者のような心配は、する必要がないのです。

 

AさんとBさんとの「間」に生じた出来事は、AさんはAさんの視点で自分の学習課題として捉えるのであり、BさんはBさんの視点で自分の学習課題として捉えるのです。この時、両者で協力して為した体験を、〈分離〉意識的に捉えるか、はたまた〈合一〉意識的に捉えるかは、それぞれの人の自由意志によるのです。

 

Aさんは〈合一〉意識的に捉えたのに、Bさんは〈分離〉意識的に捉えたとしましょう。Aさんは、その体験を通じてちょこっとだけ霊性の向上を図ることができました。でもBさんは、体験を通じても気づきがなく、ネガティブな「カルマ」をかえって強化してしまいました。このBさんの「カルマ(行為)」に対して、Aさんには何の責任もありません。そもそも責任の取りようがありません。

 

これは、Bさん自身の体験学習であって、そこにはなんぴとも介入することは出来ないのです。人間の思考からすれば、これはクール過ぎて、いささか冷たい感じがするかも知れませんが、法則とは元来がそのようなものです。でも、もっと大きな視点で見て欲しいのです。個々の「魂」は、どれほどすったもんだがあったとしても、全部がいつかは一者のもとに還るのです。

 

何度も何度も輪廻転生を重ねる中での、たった一つの人生の、さらに瞬間の出来事に対して、責任論で思い悩む必要などありません。「カルマの法則」全体がギフトなのであり、それぞれの場面での選択は、その「魂」が、その成長段階において、その時に正しいと思って下した選択です。その結果が、この世的に見て、善い悪いの差があったとしても、常にそれは、その「魂」にとって、「神のギフト」であり続けるのです。

 

最後に「カルマの積み増し」ということについて述べておきましょう。どういう時に、カルマ(ここでは負のカルマ)の積み増しになるのかということです。これも極めてシンプルなことで、〈合一〉に向かう「行為」が為されればそのカルマが消え、〈分離〉に向かう「行為」が為されればカルマが積み増しされるということです。

 

トラックの荷台を思い浮かべてください。そこには、今世で荷下ろししなければならないあなたへの課題が積まれています。あなたが苦しみに遭遇する時、その根本原因に気づいて、エゴを反省し、〈合一〉への気づきを得れば、その荷を下ろすことが出来ます。でも、過去世でしたことと同じような衝動で、今世また行動してしまえば、荷は雪だるまのように膨らんでしまうわけです。

 

また仮に、〈合一〉への気づきをなんとか得たとしても、その過程で為した「行為」に、別の〈分離〉意識行動が含まれていれば、今度はまた違う荷を荷台に引き入れるのです。こうして、載せたり下ろしたりを繰り返しながら、最終的にはすっかりネガティブな荷を下ろし終わり、そこで輪廻転生が止むのです。

 

ということで、あなたもそこを目指して、瞬間々々を、どうか伸び伸びと生きていってください。

 

参考:善、偽善、罪悪感、悪