by Rainbow School
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お金はすべて Flow 所得

「富の格差」の問題は、しばしば印象的な次の数字をもって語られます。世界の富の82%がわずか1%の富裕層に集中。貧困層37億人が有する富は全体の1%にも満たない。世界で最も裕福な8人が、貧困層36億人に匹敵する資産を所有。調べてみますと、この数字の出所は、すべて国際NGO「Oxfam」が出した2018年版報告書『Reward Work, Not Wealth』に基づいていました。

 

これが、子引き、孫引きされて各所で使われているのですね。オックスファムが出した数値は、金融大手クレディ・スイスが毎年出している世界の家計所得分配を分析したレポート『Global Wealth Databook』を基に、各所得階層別にオックスファムが再集計したものとのことです。データ元が富裕層側の銀行ですし、2000年からの時系列データを分析しているということですので、一応、信頼はおけそうです。

 

このような印象的な数字は、確かに、「富の極端な偏在」という今の地球上で起きている問題を解りやすく示してくれています。しかし他方で、「豊かさ」や「幸福」の概念を、「お金」という物差しで計測するという、別の〈解りやすさ〉をも与えていることに注意しなければなりません。なぜかと言えば、このような「尺度」そのものが、一つの固定観念をもたらしているからです。

 

「お金」に関しては、私も人並みに非常に苦労しました。「お金」に翻弄されてしまったという時期もあります。パニックになったり、鬱になったりしたのも、元をただせば「お金」が原因でした。なぜそんな状態に陥ったのかと、今になって振り返ってみますと、結局は「お金」というものの仕組みに無知だったことが最大の理由です。「お金」というものが作り上げている「土俵」に、何の疑問も持たずに、完全に信じた上で生活していたのです。

 

おそらく、世の99.99パーセントの人は、今でも、かつての私と同じような理解状況にあるんだろうなと思います。そして、この「無知」ということが、人類を「お金」の奴隷にさせ続けていることの元凶を形づくっているのです。早い話が、強烈な「洗脳」です。「お金」が無ければ生きられない。「お金」を稼がなければいけない。とみんなが思っているし、思わされているのです。

 

そこに気づいてから、この牢獄をなんとか脱したいと思うようになりました。「お金」のシステムから完全に逃れるというのは、無人島にでも行かない限りは難しいことでしょう。ですが、「お金」には出来るだけ関わらないようにしてみようと決心しました。そこで、荒療治でしたが、第一番めに「お金」を稼ぐというワークをやめたのです。この呪縛を捨てたら、いったいどうなるのだろうかを実験してみようと思いました。それが、10年前の54歳の時です。

 

当初は貯金を取り崩して生活費に充てていましたが、当然のことながら、その貯金も底を尽き、ど貧乏となりました。でも段々とその感覚にも慣れ、今では自分が貧乏だとも思わなくなりました。まったく平気です。欲しいものは何もありませんし、今あるもので充分です。何かに追われるようなストレスを抱えることもないですし、一日の大半を瞑想的に過ごしていられるので、いつも幸福感で満たされています。

 

「同じことを、あなたもやってみて」とはもちろん言えないのですが、しかし少なくとも、「働く」ということと「稼ぐ」ということは、切り離して考えた方がハッピーに生きられるよ、ということは自分の経験からしても言えそうです。でもここを、みんなゴッチャにして考えているんですね。「就活」というものが産業化してから、この同一視傾向が著しくなったと思うのですが、詰まるところ、これがあなたに、奴隷化への道を開くのです。

 

「働く」ということと「稼ぐ」ということは別です。「働く」というのは、あなたという個の自己表現であり、社会における自分の役割です。ですから、この「働き」の連鎖的つながりによって、社会全体の活動が維持され、働く人も、その働きの恩恵を受ける人も、共に喜び、感謝し、幸せを分かち合うシステムが形成できるのです。ですから、賃金の報酬とは関係なしに働き(例えば毎朝、家の前の道路を掃く)、それを喜びとすることも可能なのです。

 

30年前までは、日本社会にもこのような考え方がまだ普通に残っていたのですが、グローバル経済の導入と入れ替わりにすっかりアメリカナイズされ、今ではほぼ消滅してしまいました。私が20代だった頃は、「給料要りませんから、是非ここで働かせてください。あなたの弟子にしてください」という若者がけっこういたんですよ。私もその一人でした。「お金」は二の次、三の次だったのです。ところが今は、先ず「お金」です。

 

決して「お金」が悪いと言っているわけではないのです。「お金」に〈隷属した状態〉の自分に気づいてみては?、と言っているのです。今まで、ずっと低賃金の派遣労働に甘んじて来た。なんとかして、正社員で給料40万円の職に就きたい。その気持ちはよ〜く解りますよ。でもそのような発想をしていては、自分をますます苦しめてしまうことになるのではないでしょうか。

 

大切なのはそこじゃない。自分をどういう「行為」者、別の言葉を使えば「表現」者として、この世に存在させるかということなのです。あなたの満足は、究極的にはそこにしかありません。「正社員で、給料40万貰える人間になりたい」という願望は、あなたの「表現」なのでしょうか? 違うでしょう。別にあなたじゃなくてもいい、それは単なる「ポジション」に過ぎない。そこを錯覚してはダメです。

 

そもそも、なぜ「お金」を稼がなくてはいけないのでしょうか? 「お金」がないと、暮らしに困るからですよね。具体的には、生活に必要な物資やサービスが自由に買えないからです。そういうシステムの中で、現代人が生活しているからです。でも仮に、もしもそうしたものが、全部タダで手に入れられるとしたらどうでしょう? 「お金」は不要ということにはなりませんか。

 

生きるために必要なものは、あくまで物資やサービスであって、「お金」というものは、その仲立ちをしている道具に過ぎないのです。その証拠に、災害が起きたときには、必要な物資がタダで届けられるではありませんか。それに対して、誰も「金を払え」とは言わないでしょう。むしろ「どうぞ使ってください」と言うでしょう。ですから、この理念を災害時だけではなく、平時にも押し広げればよいのです。

 

それは、決して不可能ではありませんし、荒唐無稽な話でもありません。世界中の人々が、そうした理念に合意すれば可能なのです。でも、現実はそうなってはいませんよね。それは、別の理念(「お金」が地球を支配する世界)に、人類の大多数が「これでいいのだ」と賛同しているからです。これが、冒頭に語った「土俵」です。皮肉な話ですが、貧困層の36億人が、8人のスーパーリッチの成立に貢献しているというのが、この「お金」のシステムなのです。

 

もしも全員に、平等に富が分け与えられていれば、もちろんこんなことは起きません。富を平等に分けることをせずに、他人の分を掠め取って集める人がいるから、このような極端な偏在が起こるのです。そして人類は、人類の総和として、そうすることを、古代バビロニア時代から認め続けて来たということなのです。これは実に巧妙で、よく出来た、壮大なるフィクションです。

 

ほとんど誰もが、「お金」の存在というものに、微塵も疑問を持っていないのです。世の中に「お金」というものがあって当然だと思っている。ではその「お金」がどこから生まれるかと言えば、借金から生み出されるということも殆どの人が知らないのです。

 

銀行は、本当は持っていない「お金」を貸し出す権利というものが法律によって認められています。そうすると、その時点ではまだ数字に過ぎない金額を、どこかに貸し出すと、その時点からそれが「お金」に化けるのです。まさしくマジックであり、空中から「お金」がパッと捻り出されるのです。この「無」から生じた「お金」を、借りた側は、利息をつけて返すことになるのです。なんとも奇妙な仕組みです。

 

日本政府が累積している膨大な額の借金。これも、一民間銀行であるところの日銀から借りている「お金」です。この借金に、日本政府は利子を付けて返済しなくてはならないのです。その返済金はどこから調達するのか。国営企業のない日本政府としては、税金しかありません。このようにして、国民は働かされ、稼いだ「お金」を搾り取られているのです。

 

けれども、このフィクションの実体は、国民には何も知らされていないのです。空中から「お金」を生み出せる銀行。その元締めであり、通貨発行権を持つ日本銀行の株主が、いったい誰であるかは明かされていません。

 

ですが、ここで原点から考えていただきたいのです。地球資源は誰のものでしょうか。土地は誰のものでしょうか。海は誰のものでしょうか。空気は誰のものでしょうか。太陽は誰のものでしょうか。月は誰のものでしょうか。そもそも、宇宙は誰のものでしょうか。誰のものでもありません。それは我々への恵みです。その恵みを、なぜ平等に分けようとはしないのでしょうか。

 

なぜ、平等な分配を主張するものはみな叩かれ、排斥され、逆に富の極端な偏在を志向する者が世界を牛耳り、また政治・経済に幅を効かせているのでしょうか。それは、決して一握りの人間のせいではありません。多くの人が、リッチになることの幻想を手放せていないからです。これは、宝くじの理屈と全く同じ。1等の賞金を得る人は、大勢の幻想を掻き集めることによって成り立っているわけですね。

 

違いは、宝くじの場合には、誰が1等になるのかは分かっていないのですが、金融の世界は、闇の支配者によって、最初から意図的に富の偏在が計画されていることです。このカラクリに、今後どのくらいの人々が気づくことになっていけるのか。更に進んで、「宇宙は誰のものでもない」という原点に、どれだけの人が立ち帰ることが出来るのか。それが、人類の未来を決定づけます。

 

「お金」は経済の血液だと言われます。「お金」は、そもそもは経済を円滑に回すための道具に過ぎなかったのです。ところが、その道具を使って博打場を開いたり、「お金」が「お金」を生み出す仕組みを人間が拵えてしまった。そして公的に、また国際的に、この詐欺システムを堂々と運営し、欲に駆られた人々を大量に市場に惹き付けているのです。

 

なんと愚かな人間たちでしょうか。一体どの世界に、自分の血流を好んで悪くしたり、静脈瘤や動脈瘤を作ったり、それを破裂させたり、脳溢血になったりして喜ぶ人間がいますか?

 

でも人間たちは、それを喜んで、自分で自分の苦しみを創り出しているのです。ああ、なんたる無智。この無智から、一体いつになったら解放される日が訪れるのでしょうか。「お金」はすべて Flow 所得だと思いなさい。それはあなたを支えてくれる血液の流れなのです。流れるままにして、執着を無くせば、それに思い煩わされることもなく、健康に生きて天寿を全う出来るのです。

 

「お金」は、結局ところ、今の人類にとっての、最大級の罠なのです。「お金」を操る者に、人類全体が操られている。そして、地上での暮らしの大部分を、この「お金」の奴隷となって生きることで、一生の殆どを使い果たしているのです。まあ、なんとムダな労力を使っていることでしょうか。地球人が、何度生まれ変わっても、大した成長がない理由は、大部分この「お金」が原因なのです。

 

さて、今世もまた「お金」で苦労しますかな?

それとも「お金」への執着は、終わりにしますかな?

「支配」という手段による One World の実現は不可能

「強さ」とは、腕力があることでも、権力を所持していることでもありません。本当の強さとは、一切の「怖れ」がないことです。ですから、女性であっても、老人であっても、か細い体型であっても、貧乏人であっても、一人ぼっちであっても、病人であっても、死が真近な人であっても、「強い人」であることは可能です。それは、その人の「心のあり様」の問題なのですから。

 

ところが、現代人はそれとは真反対に、生活のあらゆる場面で、心の中に「不安」や「恐怖心」を掻き立てられるような瞬間がとても多くなっています。それは、俄かには信じられないでしょうが、意図的に計画された大衆操作なのです。この操作が、 不安の雲で厚く覆われた現代社会を作り、 恐怖と怯えに付け入ることによって、一元的に管理できるロボット人間(奴隷)を大量に生み出す基礎となっているのです。

 

「そんな馬鹿な!」と思われるでしょう。それがもし本当だとしたら、あまりにも巧妙だから。でも何度も言いますが、埋没している時には、人は自分がそこに嵌められているとは気がつかないものです。しかし、直感的に「これは変だ」と感じている人も中にはいるのです。けれども、そのシステムから脱出しようとする者には、逆に「お前の方が変なのだ」と言い、「心の病気」や「発達障害」というレッテルを貼っては牢獄に閉じ込めてしまうのです。

 

実に頭のいい恐ろしい手法です。なぜなら、それが最も安上がりで、かつ効果的な「大衆支配」の手段だから。「暴力」を使った支配は、手段としては低級であり、もはや時代遅れなのです。暴力を使えば意図がすぐにバレてしまいますし、民衆の反発を招いてやり返されるおそれもあります。でも「恐怖心」を抱かせる方法は違う。情報をちょこっと操作するだけでよいのです。

 

それだけで、大衆はすぐに反応し、頭の中の構造そのものを勝手に書き換えてくれるのです。「流れに従わなければ大変だ」「流れから落ちこぼれたら大変なことになるぞ」と思い込んで。そして、反抗しそうな分子に対しては、「心の病気」のレッテルを貼ってしまえば、見えない牢獄にぶち込めますし、その費用も「薬」の購入という形によって、本人が自己負担してくれるのです。大衆に貢がせながら支配する。なんと素晴らしいシステムでしょうか。

 

これが、「大衆洗脳(Pubric brainwashing)」という方法による、人類の今の「支配」のあり方なのです。無駄のない完璧なシステムです。暴力的な強制が一切必要なく、従ってそのための費用が要らず、大衆は、自分を奴隷化していく費用を自ら拠出するのです。時には借金までして。このようにして、ロボット人間が次世代のロボット人間を再生産するという「Automata」の仕組みが、遂に完成の域に達しました。

 

富める者はますます富み、大衆は自ら進んで、嬉々として、この仕組みに飛び込み、貧しい奴隷になって行くのです。須磨穂にすっかり汚染された人々の姿をご覧なさい。目を皿のようにして、画面の向こう側にある世界に釘付けになっています。みんなが夢中です。本人は、自分が自分のための情報を仕入れていると思っていますが、反対にコントロールされているということが解らないのです。まさに、埋没している時にはそれとは気づかないという典型です。

 

*でも須磨穂は、最終的なコントロール兵器というわけではありません。次があります。人体に直接チップを埋め込むことが既に開始されていますし、その次には機械とのハイブリッド人間が生産されます。そして最終的には「人間は不要」という結論に至ることでしょう。

 

そのような社会にしたい人間たち(闇の支配者)がいて、それに喜んで従う大衆がいる以上、この変化の流れはもう止まりません。しかしそこで諦めてはいけません。私たちは、そのシステムの土台の上に転がされて生活しているので、そこから逃れることは不可能のように思えるかも知れません。しかし「意識」はいつでも自由になれるのです。そこに希望を見出してください。

 

それは、決して「ほのかな希望」といったものではなく、それこそがことの本質なのです。あなた方には今なお信じがたいことでしょうが、あなた方が「現実」と称しているものは、所詮はみんなで創り上げている演劇なのです。ですから、演劇の世界の中に居て、自分の配役を自分がどう演じ、それをどのように認識するかが、あなたという個人にとっての「在り方」のすべてなのです。

 

このことに気づけば、「現実」だと思い込んでいるところの、実は「幻の世界」を相対化でき、その世界の中に居てちゃんと生活しながらも、決して埋没することはなく、同時に「真実の世界」を生き抜くことが可能なのです。ですから、この巧妙な「大衆洗脳」の手段をしっかりと見抜いて、あなたがそれに従わなければよいのです。そして、従わない人間が増えてクリティカルマス(臨界量)を超えれば、世の中は変わります。

 

では「大衆洗脳」は、具体的にはどのような手段を講じて行われているのでしょう。「大衆洗脳」の最大の道具として機能しているのは、言わずと知れたマスメディアです。今日、マスメディアに真実報道は殆どありません。すべてが嘘であり、大衆操作のために使われていると言っても過言ではありません。それは、マスメディアの所有者のほぼすべてが、闇の支配者の実権の中に握られているからです。

 

しかし大衆の多くは、今なおマスメディアの報道を真実だと信じており、その情報に日常的に接するのが習慣となっています。それはまるで餌づけされた犬のようです。ニュースの後に朝ドラ、モーニングコーヒーを飲みながら新聞、を生活パターン化している人も多いのではないでしょうか。そして、それを補完しているのが学校教育、およびメディアに登場する有識者と称する人々です。さらに周辺を、様々な社会的機関や制度や大衆商品が取り囲んでいます。

 

支配者は、先ず義務教育を通して、子どもと親に、ものの「考え方」の基準(優劣や、従属することや、報償と懲罰、といった基本概念)を刷り込んで行きます。この刷り込みに従わない子どもには「発達障害」のレッテルを貼って、劣等のランクに位置づけるのです。要するに、ロボット教師が「扱いにくい(マニュアルからハミ出すので)」子どもたちというだけなのですが、そういう「社会的認知」を作って、恐怖支配に再利用しているのです。

 

そして、この刷り込みを完了した人間を社会に放ち、社会の奴隷化システムの中で、さらに完成品に仕上げて行く訓練をするのです。このようにして、すっかり洗脳体質が身についた人間に、マスメディアを通じて(意図的に改竄した)世の中の動向を伝えるのです。ここに、有識者のお墨付きを加えればもう完璧です。誰も疑う者のいない「大衆洗脳」システムの完成です。

 

でも、「ヘンだな?」と思ったことがありませんか? パンデミック(伝染病)にしろ原発事故にしろ、最初は不安を煽るだけ煽っておいて、どうして情報はいつも尻切れトンボで終わるのでしょう。芸能人逮捕のネタは定期的にメディアに登場するのに(しかも人々の生活にはなんの関係もない!)、どうして政治家およびその周辺の犯罪(人々の生活に大いに関係がある!)はいつもウヤムヤにされたままで終わるのでしょう。

 

どうして、アメリカの仮想敵、ロシアやシリアやイランや北朝鮮(かつてはリビア、イラク)は、悪辣な独裁者に支配された国であると、同じように日本のメディアも断じた上で報道をしているのでしょう。私から見れば、アメリカおよび日本の指導者の方がずっと悪人面をしているように見えるのですが。街には活気はないし、周囲はみんな生活が苦しいと言っているのに、どうして「いざなぎ超え」の好景気なんでしょう。

 

最近になって、統計の不正が明るみに出たりして、政府のあまりのデタラメぶりに、さすがに「これはおかしい」と気づく人が少しずつ多くなっては来ています。でもそれが、「大衆洗脳」システムの基盤の上に載っかったものだとまで気づいている人は、いまだ極々少数です。でも、そこを隠し続けることはもはや出来ません。弥縫(びほう)を繕えば繕うほど、逆に裂け目は大きくなって行くのです。

 

これは何度も言って来たように、暗闇を照らす光が強まっているためです。この光は眼には見えませんが、闇を好む人々にとっては心地よいものではありません。そこで、さらに蓋を被せようと焦るのですが、その蓋には以前のような遮蔽効果はもうないのです。ですから、今まで通りを望む人たちはホトホト困っています。ゴリ押しがいよいよ効かないとなれば、次には弾圧という手段に打って出ることでしょう。

 

ですがみなさん。ここで、権力者や支配者をやっつけようなどと思ってはなりません。インターネットを見ますと、いろんなセクトに属する人たちの非難の応酬の言葉で、あっちもこっちも溢れかえっていますよね。目には目を、歯には歯を。「こいつの正体を暴いてやるぞ」といった。でもこれは、「魂」的に見れば、冒頭で語った「暴力」による支配と同じくらい、低いレベルの動物的反応なのですよ。

 

あなたが「このヤロー」とか「コンチクショー」とか「やっつけてやる!」と思えば、あなたは、あなたの内側に、そのような意識的な存在(エネルギー)を創り出します。その人は気がついてはいませんが、怒りや、ムシャクシャした気持ちは、自分の「心グセ」が創造したものなのです。その証拠に、たとえ同じものを見ても、反応というものは人それぞれなのです。怒る人もいれば、怒らない人もいるのです。

 

自分では、それが特定の相手に向けた(あるいは相手側からもたらされた結果の)感情であると思っています。ですが、そうではありません。自分が創造した感情によって、自分に苦しみを与えているのです。これが、そのようにして〈課題に向き合わされることになる〉という「カルマ」の働きなのです。そしてこの感情は、あなたの体細胞を確実に傷つけます。しかし人はそれを知らずに、「正義」などという勝手な理屈を持ち出しては自己を正当化してしまうのです。

 

いったいなぜ、今のこの時代があるとお思いですか? 先ほど、この世で展開されていることは、すべて「演劇」なのだと言ったでしょう。あなた方には、今のこの「演劇」を通じて、過去に人類が達成できなかった、次の次の次元に、今度こそジャンプして欲しいのです。地球のジャンプは、既に決められていることです。あとは、人間がそれに合わせてジャンプ出来るかどうかです。

 

今、長年(数百年、数千年、数万年)に渡って隠されて来た「闇」が、もの凄いスピードで一気に暴かれていくという事態が生じています。この現象も、人類の総体として見れば、人類の「支配構造への気づき」を与えてくれている役割を果たしているのです。それは何かと言えば、「支配」対「被支配」という構図ではなく、一人の中に両方が存在しているということなのです。ここに気づくかどうかです。

 

程度問題はあれ、誰もが支配者になり、また被支配者にもなっているのです。ご自分の家庭内を見てください。社会の最小単位の家庭にすらそれが認められるでしょう。ですから、特定の支配者をやり玉に挙げて拳を振り上げることは、自分の中にもある「支配」的な想いを、相手に投影していることでしかないのです。この応酬を、みんながインターネットを通じて、いま盛んにやっているのです。

 

人は、自分が見たいものを相手に見るのです。撲滅すべきは、特定の支配者ではなくて、自分の中に巣喰う支配的な想い、支配的な言動、またそうしたものへの同調、そして被虐的な鬱屈、その鬱屈を他の誰かにぶつけたいという闘争的な感情です。これらが残っている限り、その人の、今回のアセンションはない! 実に、ここが重要なポイントです。

 

いま言ったものを、あなた方が一斉に手離せば、「支配」の構造自体が自動消滅してしまうのです。ですから、闘う必要はありません。「闘え!」と叫ぶ声に同調する必要もありません。それをしたら元の木阿弥。人類はまたもや進歩の機会を失います。あえて言えば、闘いとは、自分の中にある「怒り」や「エゴ」や「執着」をどうやって撲滅するかという闘いなのです。

 

あなた方が「支配の構図」に目覚めて、その策略の中に落ちなければ、支配者は支配したくとも存在できないのです。すべては同じ構図です。政治も、経済も、宗教も、家元制度も。お神輿を担ぐ人がいなくなれば、お神輿の座に納まる人も出て来れなくなるのです。担ぐ人がいるから権力者が誕生するのです。この単純にして奥深い真理に、今後どれだけの人が気づけるかが、人類の分岐点です。

 

誰かが、他の誰かの自由を奪う「支配」という構図によって、「One World」を実現することは、宇宙的に言って不可能です。あり得ません。なぜなら「支配」は、〈わたしとあなたとは違う〉という「分離」を出発点としているからです。エリートたちは結託して、一時期は「支配」を実現させるでしょう。しかし「分離」を基盤とする彼らは、最後には必然的に仲間割れを起こしてしまいます。歴史を見てください。全部がそうなっていることが解るでしょう。

 

やはり、単純なようですが、すべての「分離」意識を超越した「愛」以外には、「One World」の実現は不可能だということです。キリスト愛というのは、そのことを言っています。古代から同じことがずっと言われ続けて来たのですが、ついぞ人類はそこに気づけませんでした。そして今回がラストチャンス。いま進行している現象についての、あなたの「ものの見方」が問われているのです。

 

長年にわたって隠されて来た「闇の世界」を暴露することは、それはそれで必然であるし、結構なことです。しかし、そのような世界を創って来たのは、人類全体の連帯責任であるというところに、目を留めなければ、人類としての飛躍はありません。貧富の格差にせよ、環境汚染にせよ、戦争やテロにせよ、あらゆる差別にせよ、人類みんなが〈力を合わせて〉その「演劇」を創作して来たのです。

 

そこを理解する人が、今後どれだけ増えて行くことになるのか。いま語ったことは、世の中に流布されている一般的な考え方とは、あまりも掛け離れた視点であるために、人類全体が背負っているこの課題に気づく人は、最初はほんの僅かに過ぎないでしょう。でも、あなたには、そのほんの僅かの連帯の輪の中に加わって欲しいのです。そして周囲に、真実の「愛」を届けて欲しい。本当の「光」を発して欲しい。

 

まだるっこしいようですが、それしかありません。

ご覧なさい。すでに最高のお手本があるじゃありませんか。

 

あなたを創ったのは何ものですか?

宇宙を創ったのは何ものでしょうか?

生命を与えたのは何ものなのでしょうか?

その奥にある全き「愛」を感じ取りなさい。

 

あなたと “それ” とは、イコールなのですよ。

男の課題、女の課題(2)「枠組み発想」社会からの脱出

地上に男女の別があるのは、「物質界においては、あらゆる存在(表現物)が、必ず陰陽の極性を宿している」という、宇宙の根本原理に基づいた一つの在り方なのです。これまでにも何回か紹介した「陰陽太極図」は、万物が、この両極の渦(回転)によって成り立っているということを象徴的に表現しています。図中の二つの形は魚に見えなくもないので、「陰陽太極魚図」とも呼ばれています。

 

*西洋でも、これと同じく二匹の魚が向かい合う双魚宮の印があります。

 

さて、この両極の中に、反対色で目玉が描かれていることにお気づきでしょう。これはそれぞれ、陰中陽、陽中陰と言って、それぞれの極性の中にも、反対の極性の目(芽)が含まれているということを表しているのです。

 

ですから、これを性別に当てはめますと、女性の中にも男性的要素はあるのであり、男性の中にも女性的要素があるということを示してくれているのです。ということで、この点に注目すれば、男女が互いを理解し合う(それは「愛」の一つのあり方)ということの意味、そして、「魂」の完成形は中性になることという意味も、自ずと解って来るのです。

 

ところが地上では、男は男らしく、女は女らしく、といったことが必要以上に強調される傾向にあります。そして、これを実現すべく、互いの性を意識させるファッションやグッズや化粧品が大量に作られているのです。これらは人間の恋愛感情に作用し、ひいては子孫を残すことにも繋がってはいるのですが、反面、肉体美や行動様式にも特定の価値観が当てはめられるという傾向を強めて来たのです。

 

その結果、その価値観の枠組みから逸脱する者には「アブノーマル」のレッテルが貼られるようになりました。ですが、よくよく考えてみれば、自分は「マジョリティ」だと思い込んでいる人たちの方が、より縛りがキツいということでもあるのです。なぜなら、「ノーマル」という檻の中に入れられ、それが当然だと思い込んでいるわけですから。その洗脳状態に、まだ気がついていないということなのです。

 

男たるものこうあるべき、女たるものこうあるべき、と主張する。それは、自分が率先して、自分自身を縛り付けている縄(=ワナ)なのです。しかしこれは、宇宙における「魂」の進化という点から見ますと、そのような執着にいつまでも捉われている段階にあるということです。これが、地球人の次の霊的進化へのステップを、大きく阻害しています。

 

LGBTがいま社会問題として扱われるようになったのには、それへの「気づき」を促す意味があります。LGBTをきっかけとして、男性性、女性性に関するそれぞれの課題を、今一度考えてみなさいということなのです。単に生殖や子孫存続ということではなく、また男らしさや女らしさということでもなく、もっとその先をです。

 

総じて、男性はいま危機にあります。これは染色体レベル(Y染色体)で見ても崩壊が進んでいるのですが、今世、男性であるところの「魂」が、社会が提示し続ける男性的枠組みに、もはや耐え切れなくなって来ているのです。どういうことかと言いますと、時代環境変化と、人間の内面的変化との間に、著しい乖離と軋轢が生じて来ているのです。それが、現象面で見るところの、いわゆる「草食系男子」の増加に表れています。

 

「草食系男子」が増えるということは、「魂」の中性化ということで言えば、「退化」ではなくて「進化」なのですが、しかしそう捉える人は殆どいないのです。大多数の人が、これまでの延長上で「子孫の存続」を考えていますし、政治家は「population」の観点から「少子化対策」などということを言い出すものですから(実効はまったく上がっていませんが)、男性の「草食化」はむしろ由々しき問題のように捉えられています。

 

しかしここには、無理(宇宙の理に適っていない)があるのです。「草食系男子」の内面は、(宇宙的な)時代変化の兆候を、直感としてちゃんと捉えているのです。人類が、中性的に進化して行く段階に来ているということを。けれども、「それではマズい」「そんな傾向は承認できない」と考える人たちがいて、これまでの延長を、あの手この手を使って強いるのです。この同調圧力の強さに、「植草食系男子」たちはもはや耐えられないのです。

 

しかもそれは、マッチョイズムに冒された人たちから見ると「弱さ」に見えるのです。確かに、「草食系男子」には、ある種の「弱さ」が見られます。

 

でも、ここで考えてみてください。「強さ」とはいったい何でしょうか? 「強さ」とは、腕力のことでも、闘いに勝つことでもありません。究極の「強さ」とは、「怖れ」が一切ないことです。言い換えれば、自分を完全に解放し切っていること。いついかなる時にも Open Heart であり続けている人ほど、強い存在はないのです。闘争や防衛意識を駆り立てるものの正体は、逆に「怖れ」であり「弱さ」なのです。

 

もう時代はとっくに変化しているのに、その直感が働かずに、古色蒼然の価値観で、なおもあなたを縛り付けようと、たくさんのものがあなたに襲い掛かって来ます。「さあ、何してるんだ。お前もリングに上がれ」と。「そして闘え!」と。でも、そんな罠に引き摺り込まれる必要はありません。「いや、結構です」「興味がありません」と言えばいいのです。そして、自分に強く言い聞かせるのです。わたしはわたしだ、と。

 

しかしそのためには、先ずもって、世の男性たちは男性特有の「枠組み発想」という思考グセを打ち捨てなくてはなりません。男性というものは、自分のアイデンティティを、ある「特定の枠組み」への帰属意識の中に見出そうとする傾向があるのです。何かに所属している自分が自分だ、という考え方です。それは、男性性に元来そのような性質があったところに、しつけや教育がそれを強化する刷り込みを与え続けて来た結果です。

 

ですから、一般的に言って男性は、ひとたび「枠組み」に入れば馬車馬のように働く一方で、そこから外れると、たちまち元気を失くして鬱になってしまったりするのです。とりわけ、万事が「右にならえ」でやって来て、マイオピニオンを持つ訓練を積極的にして来なかった日本人男性は、この傾向が非常に強い。すると、「枠組み」から出されたり、そこに入れないことは、大変な恐怖となるのです。

 

この心理構造が、現在働き盛りの年代にある男性たちに、過重なストレスを与える大きな要因になっています。なぜなら、自分が受けて来たしつけや教育が、「特定の枠組み」へ帰属することを前提として目標が組み立てられていたのに、いざ就職の年齢に達した時には、求人がない、よい就職先がない、正社員になれない、賃金も安い、一度やめたら再就職が難しい、など前提そのものが崩壊していたからです。

 

いわゆる就職氷河期世代の人の中には、大学卒業時に就職できなくて、モラトリアム(猶予期間)のつもりで大学院に進んだけれども、大学院を卒業したら年齢のために更に就職が難しくなってしまった、以来、派遣労働者として働きながら正社員への道を探っているというような方がおられます。その境遇を見ると可哀想ではあるのですが、なぜそこまでして「就社」にこだわり続けるのか、という面も原点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

「就職」が即「就社」を意味するようになってから久しいですが、本来はそうではなかったはずです。「就職」というのは、文字通り「職」に「就く」ということであって、自分がどのような「職」を仕事として選び、身につけるかということを意味しています。それは、あくまで自分で自分をプロデュースするということであり、会社に選んで貰うということではなかったはずなのです。ここに、「就活」がシステム化したことによる壮大な錯覚があります。

 

けれども、女性たち一般には、男性のような「枠組み発想」は殆どありません。ですから、女性たちからすれば、男性のこの「枠組み発想」というものは理解不能の世界であって、実に下らないものに映るのです。そこで夫婦間では、このスレ違いを巡って、しばしば衝突が起きるのです。前近代には、男はそれを避けるために「男の仕事に女は口を出すな」と言っては防波堤にしていたものです。

 

*女性の男性化の悪い面として、「枠組み発想」に突き進む女性もいることはいます。

 

しかし、これからの男性たちは、それが本当に下らないことだと「気づく」必要があるのです。もはや時代にそぐわない上に、地球の進化としても、その段階に至ったということです。なぜかと言うと、権力者はこの男性の「枠組み発想」を利用して、男たちを上手にコントロールし、働き蜂や兵隊になるように仕向け、何世紀にも渡ってコキ使って来た歴史があるからです。それは、地球に残る集団のカルマであり、超えなければならないハードルなのです。

 

権力者たちは、今もなおもその仕組みを維持しようと躍起になっていますが、肝心の男たちの方は疲れ切って、もう着いていけなくなっている。ということで、今や男性陣は行き倒れになり掛かっているのです。そこで、男性のこれからの課題としては、女性たちに見習ってもっと自分を女性化して行く。そのことを肯定して、より中性に近づいて行くということが求められているのです。

 

それだけを聞くと、従来の思考でがんじがらめになっている人には、唐突に、また違和感をもって感じられるかも知れません。が、まさにそこ、その違和感。それこそがブレークスルー・ポイントなのです。

 

男の「枠組み発想」は、元々はメス獲得の願望から生じたものです。動物的な本能であるこのメス獲得の願望を達成するためには、ある時代から「枠組み」に入ることが有利に作用したのです。それは、原始的な果たし合いを男が止めてからです。でも、メスを獲得したい男は、本能として、自分以外の男性をたえず値踏みし、相手の力量を計るというクセが抜けません。無意識的に、他の男に勝ちたいという衝動を抑えられないのです。

 

そこで、腕力の代わりに、権力で相手をギャフンと言わせたいという思考に変わって行ったのです。これが、男性が、所属や地位や肩書きに強いこだわりを持つ理由です。しかしこのことは、一方で過適応を生み、自分を規定する「枠組み」こそが自分だとの錯覚を創り出しました。その結果、先ほども述べたように、「枠組み」に入ることが目標、入れれば安心、そこから外れることは恐怖、という感情を抱くに至ったのです。

 

この「思い込み」が、どれほど、現代に生きる男性の解放を妨げていることでしょうか。これまでにも何度も言ってきた通り、それは、単なる「思い込み」に過ぎないのです。そういう「枠組み」を提示して「リングに上がれ」と言う方も、そして「枠組み」に嵌められて「そうしなくちゃな」と思う方も、ともに協力しあって、そのような錯覚の世界を創り上げているのです。

 

女性の一部は、それが男性特有の錯覚の世界であることに既に気づいています。しかし、男性はほとんど気づいていません。それは、男性というものが、どうしようもなく「枠組み発想」であり、幼少時からそれを徹底的に叩き込まれて来たからです。ですから男性は、知り合いが一人もいないような集会場所に、たった一人で出かけて行くということが出来ません。自分が値踏みされてしまうことが怖いのです。

 

男性たち、特に草食系と言われる人たちには、ここを乗り越えて行って欲しいのです。メスの獲得を巡って、もうカンガルーのボクシングのような殴り合いはしなくなった。その代わりに「権威」で横っ面を引っ叩くようになりました。これからは、それさえも乗り超えて行くべき時代が来たということです。大切なのは融和であり、そのためには自己の解放(Open Heart)が何より前提になるのです。

 

だから、

 

ありのままでいいのです。ありのままであれば、他者から値踏みされる恐怖も生じませんし、他者を値踏みする眼を持つ必要もありません。

自分をさらけ出す勇気を持ちなさい。そうすれば、肩の荷が下りて、楽になるから。なぁんだ、こんな簡単なことでよかったのかと、気づくから。

 

婚活産業は、年収がどうだとか、身長がどうだとか、容姿がどうだとかと言います。でもそんなことを条件に挙げる女性は、最初から相手にしないことです。だっておかしいでしょう? そういう女性は、いったい何と結婚したがっているのか、よ〜く考えてみてください。本質と付属物とが逆転していますよ。こんな罠に巻き込まれてしまったら大変、破綻は目に見えていますよ。

 

現代という時代は、婚姻関係が「生活を共にするベースキャンプ」という発想が強過ぎるのです。誰も彼もが損得を第一に考え、「ベースキャンプ」を得する場にしたい、またしようとする。でも、結婚で大事なのはそこではありません。婚姻生活という場で為す仕事を通じて、お互いが人間的、また霊的な成長を果たすということです。あなたが選ぶパートナーは、その覚悟に同意してくれる人であるべきです。

 

それに世の男性たちは、どうすれば女性にモテるかということについて大きな誤解をしています。婚活産業が、モテる基準というものを提示するものですから、それらをすっかり信じてしまい、自分が基準を達成できていないことに妙に萎縮してしまったり、逆に自分は基準を達成しているんだぞと見栄を張ったり。涙ぐましい努力をしている人たちを見かけます。

 

そういう人たちに言ってあげたい。あなたは、いったい何人の女性と結婚するつもりなのかと。底引き網に引っ掛かって来た中から、ベストの一人を選びたいのでしょうかしらねぇ。でもね。喩えは悪いですが、のんびり釣り糸を垂れている時に喰いついて来た魚も、一匹は一匹なんですよ。そして、次が肝心。どのような方策を取ったとしても、「縁」ある「魂」は最初から設定されているということです。出逢うものは出逢うのです。

 

あとは、「波動の法則」が「縁」を選ぶ。だからこそ、「Open Heart」が大事なのですよ。「Open Heart」に勝るものはない。あなたが、いつも「Open Heart」でいれば、同じように「Open Heart」である人が、その波動に惹かれてやって来ます。女性を敬い、出しゃばらずに、偉そうにせずに、周囲の人たちにただただ誠を尽くしなさい。それが、いちばんのモテるコツです。

 

さて、一方の女性たちの課題です。総じて、女性たちはこの半世紀で大きな進歩を遂げました。それは、もともと持っていた良好な性質に加えて、様々な社会的タブーが過去半世紀に一気に取り払われ、そこに聡明さがプラスされたからです。もともと持っていた性質というのは、身の廻りの細かな仕事に、倦まず弛まず取り組める粘り強さを持っているということです。

 

これは素晴らしい特質で、「倦まず弛まず」ということが、いちばんの霊的進化を約束してくれるのです。一方、男性はこれが苦手で、「大志」というロマンに惹かれ、日々の細々としたことには眼が向かないだけではなく、そんなものには価値がないとすら思っているのです。結局これが、男性が「枠組み発想」に流れやすいということに繋がり、逆に女性は「枠組み発想」に陥りにくい元になっているのです。

 

こうした結果、霊的進化という点においては、今や男性は、女性との間に大きく水を開けられてしまっているのです。その表れは、この「虹の学校」でも顕著に見られ、接触して来られる人の95パーセントが女性という、極端な女高男低が見られるのです。しかし、政治・経済の社会は、ふた回りも遅れていますから、未だに錯覚が解けない男性たちがウヨウヨいて、延命策を続けているのが実情です。

 

ところで、いま女高男低と書きましたが、あなたの現在の性に照らし合わせることは、ほどほどにしておいてください。何度も言うように、「魂」は輪廻転生するのです。今世、男性であった「魂」が次は女性に、女性であった「魂」が次は男性にということは、充分にあり得ます。両方を味わい尽くすのが輪廻転生の目的なのですから。ですから、女高男低という現象は、両者で考えなくてはならない課題なのです。

 

その上で、今後は、先行した女性が、男性を引っ張るという形になって行きます。しかしそれには、男性が、これまでの誤りを認め、反省し、素直になって、ハートを開くということが前提条件です。けれども、面子にこだわる男性には、なかなかそれが出来ません。しばらくは辛抱が必要です。焦ることなく、あなたが「Open Heart」になることで、周囲の男性たちを「Open Heart」に導いて上げてください。

 

さて、いま挙げたのは、霊的に先行している女性たちですが、もちろん女性全員がそうというわけではありません。女性の特質として、もう一方に、感情に流れやすいという点と、物欲に染まりやすいという面があります。今の社会は、これらをさらに刺激する方向へ動いていますので、その罠に簡単に嵌ってしまう人も、一方ではたくさん出現するということになります。

 

こうして今後は、霊的により進化する人たちと、低い波動に堕ちる人たちとが、極端に分かれて行きます。そのことによって、人間社会はますます混乱の様相を呈するようになりますが、そこを長い目で見て通過することが大切です。どのような段階にある「魂」であっても、その時に選んでいることは、その「魂」に取っての真実なのです。そこを汲み取ってあげてください。

 

すべては、たった一つの到達点へと続く旅です。どんな「魂」も、必ず、最後はそこへと行き着くのです。そこに希望を見出してください。そして、先ずあなたが「Open Heart」の心で、日々を生き抜いてください。それが、周囲の人々を明るく変え、ひいては地球全体を救うことに繋がります。あなたが明るくなることと、周囲が明るくなることはイコールなのです。

 

なぜなら、もともと一つだったのですから。

男の課題、女の課題(1)LGBTの解放運動が示唆しているもの

なぜ、この世に男女の性別というものがあるのでしょうか。このことについて、これまでに深く考えてみたことがありますか? 最近になって、LGBTの問題が俄かにクロースアップされるようになり、当事者や関係者の方ならば、もしかしたらそのような問い掛けを自分自身になさった経験がお有りかも知れません。私たちは、この問いについて、もっと根源的な理由を知るべき段階に来たと思います。

 

男女の別があるのは、生殖をして子孫を残すためだと考える人たちがいます。確かに、それも答えの一つです。自然界を見れば、雌雄別の生命体のすべてが、基本的にはそのような在り方をしていますから。しかしこの考え方は、現象の表層しか見ていません。なぜならば、他の動物と違って、人間は輪廻転生を繰り返す生命体だからです。個々の魂は、その連続においては、男にも女にも生まれ変わるのです。

 

男女別があることを「子孫を残す」という視点でしか考えていない政治家がいて、時々、不穏当な発言をしてしまう様子を見かけます。抗議にあってから、慌てて釈明したりしているのですが、日ごろ考えていた本心がついポロッと出たということに過ぎません。彼らにとっては、人間というものは、単に人口(population)であって、個々の人間(human)存在ではないのです。彼らの意識の中に、ヒューマンへの共感はありません。

 

人が、この物質世界に生まれて来た理由には、それぞれ個別の課題があります。今世、男に生まれた、女に生まれたというのも、その課題の一側面であり、中間生(転生と転生の間)に滞在していた時に、自分でプランニングしてきたものなのです。「子孫を残す」という視点だけでは表層しか見ていないというのは、自分が今世、なぜ男に(あるいは女に)生まれて来たのかという、そもそも論が欠落しているからです。

 

個々の「魂」は、物質世界に何度も何度も転生しながら、少しずつ霊性を向上させていく旅を続けます。その際に、過去世で積んで来たカルマの解消と、真実の愛というものについての学習を、我が身に降りかかる経験(多くは辛く困難な体験)を通じて行なっていくのです。地球というのは、いわばそのための林間学校なのです。

 

「魂」のホームベースはあくまで霊界であり、自己の霊性の向上のために、意を決して出掛けて行く修行道場、それが地球です。それは、物質世界でしか味わえないハードなトレーニングをするためであり、自分で、筋トレならぬ「霊トレ」に「よし行って来るぞ!」と決めて、人は地球に誕生するのです。けれども、ちょっと油断をしていると、カルマを雪だるま式に増やすことにも成りかねないという、ここは案外厳しい学校なのです。

 

さて、そのようにして霊性が向上して行った暁には、個々の「魂」の性別は、どのようになって行くと思われますか? そう、性別が無くなります。中性になってしまうのです。あるいは、男性でもあるし、女性でもあるという言い方も出来ます。つまり両性を持っているということですす。神が、あるいは宇宙が、しばしば父性と母性の両方で語られるのは、それを示しています。

 

*キリスト教は、神を「父」に限定してしまいましたが‥‥。そこで、それを補完するために、聖母マリアをもう一つの信仰対象としてバランスを図りました。

 

仏像の弥勒菩薩や観音菩薩が中性的に描かれているのは、霊性が高いことを表しています。人間でも同じで、「魂」が完成に近づき、霊性が高くなった人物は、例外なく中性的な魅力を持っています。また、一人の人間の一生を見た場合でも、経験を積んで、それを消化して来た「魂」は、晩年になると、お爺さんなのか、お婆さんなのかが分からなくなってしまいます。

 

このように、輪廻転生の旅を「性別」という観点から眺めますと、それは「中性に限りなく近づいていく旅」だとも言えるのです。中庸の一つの表れです。しかしこのことを、大多数の人は知りません。そこで、世の中には、今もって男性性や女性性を強調するもので溢れ返っているのです。しかしそれは、金銭欲や物欲と同じことで、肉欲への執着を手離そうとしないということなのです。今のこの身体が、自分のアイデンティティだと思い込んでいるわけです。

 

しかし、そう「思い込む」のも無理ありません。幼い頃からそう躾けられますし、思春期になればなったで、鏡に映った自分の姿を見て、他者と比較することを覚えて行くでしょう。でも、冷静なって考えてみれば、鏡を見ていない時の自分は、この「身体」なのではなくて、今の「意識」なのだと気づくはずです。あなたは、あなたの身体の全体像を、自分の眼で直接見て、外側から把握するということは絶対に出来ないのです。

 

つまり、それは「思い込み」にしかない。何かを通して(例えば写真に映った)自分と思われるものを見ることは出来ます。友人に「ここに映っている人はあなただよ」と言われれば、そうかなと思う。しかしそれは、あくまで「映ったもの」であって、あなたの身体ではありません。あなたは、自分の身体を、「着ている」という感覚でしか捉えられないのです。むしろ、それこそが真実なのです。

 

あなたの身体は、今世における、ドレスでしかありません。

ですから、「なぜこのドレスなのか?」を考えることは、あなたの今世における旅の、大きな手助けになります。

 

さて、霊性が高まれば中性的になって行くということを、別の角度から見てみましょう。前回のブログで、「魂」の輪廻転生の旅を、大海と一滴の雫に喩えてお話しました。大海から昇った蒸気が凝固し、一滴が生じて、雨となって地上に落ち、しだいに同類を集めながら元の海へ還るというお話です。では、この大海の性別は何でしょうか? そうです、中性です。では、最初に生じたという一滴は?

 

この一滴のことを、精神世界用語でエンティティ(entity)と言います。エンティティはIT用語にもなってしまったので、解りづらいかとも思いますが、最初の実体、やがて自我を持った「魂」に成長する霊的な種子のようなものだと思ってください。このエンティティには、もちろん性別は無いのです。大海の一滴ですから、まだ大海の性質を所持しているわけですね。

 

しかし、このエンティティが地上に落ちた時から、性別が始まるのです。なぜならば、物質界をあまねく貫く論理は、陰陽二極性にあるからです。これは、元をただすと電磁気的な性質で、プラスとマイナス、S極とN極に代表されます。およそ物質界では、あらゆるものが、この両極性の間に、物質化という現象を通して出現しているのです。そこで、人間も例外ではなく、オスとメスとに分かれるのです。

 

なぜ二極性があるかと言えば、二極の間にこそ、次の新しいものが生み出されて行くからです。これを、逆三角形(▽)を書いて『三角形の法則』と呼びます。上の両端が二極性で、間に新しいものが生み落とされるのです。この二極性は、通常、ポジティブとネガティブとか、プラスとマイナスのように言われることが多いのですが、そこに優劣というものはありません。それは単に反対の性質であって、両方ともが必要だということです。

 

*時に、私も「ネガティブ」という語を否定的な意味で使ったりすることがあるのですが、それは言葉の綾で、その時そう表現したと理解してください。

 

ですから、人間の男女ということを考えた時にも、そこに優劣があるのではなく、両方が必要であり、互いに補完し合っているということです。さらに言えば、霊魂の本体(=創造主)から、エンティティが出現した際には、これが地上へと降りる前に、バランスを取るために二つの極性に割れるのです。そして、各々が別々の「魂」として、成長の旅を開始して行くのです。これが、いわゆる「ツイン・ソウル」の関係です。

 

英語の「man」は、もともとは「人間」という意味でした。つまり、両性具有(androgynos)だったのです。しかし、そこから一つの極性が新たに生み出されました。神話で語るところのアダムの肋骨を1本取ったのです。それで、「man」から別の「man」を生み出す、生〜むman →「woman」が創られました。この分割によって、元の「man」の極性に偏りが生じ、「man」が「男性」の意味を持つようになったのです。

 

肉体を持って地上に降りるということは、言い換えれば、天国世界からの堕落を意味します。これは、イエスであろうとブッダであろうと同じことです。波動を下げなければ物質化することは出来ません。ですから、地上に生まれたということは、元のエンティティが、敢えてそうすることを選んだということなのです。なぜ? 好奇心によって。好奇心への誘惑に乗って。これが、聖書に書かれた、アダムとエヴァの失楽園の物語です。

 

こうして、好奇心から一度は物質界に堕ちた「魂」ですが、その後は、男女の極性を持つことでしか出来ない体験を重ねることによって、再び、霊性の向上を目指すようになって行ったのです。しかしそれを聞いて、「なぜ天国に居続けなかったのか?」「なぜ、そんな七面倒くさいムダな旅に出たのか」と、疑問を持たれた方もおられるでしょう? では、あなたは旅には出ませんか?

 

このようして、様々な困難に遭遇しながら、喜怒哀楽を味わい尽くし、少しずつ真実に目覚めて行く過程に、「愛のレッスン」があるのです。そして、霊性がいよいよ高まった「魂」は、遂に輪廻転生を止めます。地球学校を卒業して、もといた天国の存在となるのです。それは、「性別」の観点からみれば、中性となったがゆえに、男女いずれかにならなければいけない地上には、もう出て来れなくなった、という意味でもあるのです。

 

さて、いま説明したことを踏まえた上で、改めてLGBTの問題を考えてみましょう。一つの「魂」は、連続している輪廻転生の体験の中で、性差の両方を味わうために、男にも女にも転生します。その時に、ここしばらくは過去世でずっと男、男が続いていたのに、今世になって急に女のドレス(肉体)を纏ったことで大いに戸惑うということが、しばしば起こり得るのです。(もちろん逆パターンもありますし、個別の因果はもっと多種多様です)

 

これは、今回はそうすることが適切と判断して、自分で決めて誕生して来たことではあるのですが、いざ生まれてしまうと、前世までの肉体上の未練がまた復活して来てしまうのです。このメカニズムは、「性別」に限って見ているために、極めて特殊であるかのように思えますが、決して特殊なことではありません。今まであまり(全く?)触れられて来なかったというだけの話です。

 

次の転生で、自分をどのような境遇に置くか、また身体をどのように創造するかは、その「魂」の、それまでのカルマを元にして設計されます。「性別」は、そうしたカルマ上の、たくさんある選択因子の一つなのです。この設計は、地上での体験をし尽くすために、通常はバランスを取るように配慮されます。贅沢に溺れた者は次には最貧者に、他者を虐げた者は次には虐げられる側に、といったようにです。

 

ところが、そうして自ら設計したカルマ解消の機会を、有効に使っている「魂」というのは、それほど多くはないのです。その理由は、無智と、地上世界ならではの我欲に、大多数が捕まってしまうからです。この無智の中には、宗教的ドグマも含まれます。その結果、同じカルマをグルグルと辿り直す「魂」が、大勢出て来てしまうのです。それほど、カルマの解消というものは難しい。放っておけば、大多数の人が、自分のカルマに負けてしまうのです。

 

LGBTの問題に関しては、今は「人権」ということが盛んに言われています。これは、現状では致しかたない面もありますが、そこに留まるのではなく、出来ればその先を行って頂きたいと思います。差別と人権無視ということは、LGBTに限らず、あらゆる分野で起きていることです。人種や、民族や、出自や、貧富や、学歴や、背の高さや、体形や、果ては頭が禿げているか否かといったことまで。

 

LGBTと禿げとを一緒にするなと怒られるかも知れませんが、本人がそこに強い差別感を感じているのであれば、その人にとっての深刻さは同じなのです。問題は、LGBTだからということではなくて、人間というものは、そもそもが、ある決まりごと、定見や価値基準から外れる者を、差別し排斥しようとする性質を、大概の人が持っているということです。本質はそこです。そこにメスを入れなければ、根本は解決しません。

 

なぜ、人が差別意識を持つのか? 一つの答えを言えば、地上の人間たちは、他者を「魂」で見ようとしていないからです。そういう習慣や、そのための訓練が出来ていないのです。およそみんなが、身体に(つまりドレスに)貼りついた属性をもって他者を値踏みする。そこで、美人とかブスとか、デブとか、チビとか、禿げとか、ゲイだとか、いろんなことを言い出すわけです。

 

さて、このような「視点」に対抗する手段は、「人権」しかないのでしょうか? 出発点としては、確かにそれも一つです。しかし「人権」アプローチは、メガネ自体は変わっていないのに、そのメガネで見えたことを言うのはタブーだよ、という社会認識を創造しているに過ぎません。その結果、自由な表現活動にも支障を欠くような、非常に息苦しい状況が生まれています。

 

真の問題は「人権」にあるのではなく、人々がいま掛けているメガネこそが問題なのです。その人が、身体レベルの意識をもって他者を見れば、その人には相手の身体が発する情報しか見えません。でも、心のレベルの意識をもって他者を見れば、その人には、相手の心が見えるのです。さらに一歩進んで、「魂」レベルの意識をもって他者を見るようにすれば、相手の「魂」までが見えるのです。

 

人類は、もうその段階に進むべき時が来ているのに、由々しきことに、心の眼で見ることすらも止めてしまいました。

 

「○○マイノリティ」という言葉を聞いたときに、私がいつも違和感を持つのは、自分たちで「マイノリティ」と言っておきながら、同時に「自分たちを差別しないで欲しい」と主張することの矛盾です。「差別するな」と言うのであれば、「マイノリティ」という言葉は撤廃しなくてはなりません。そもそも、カテゴリー分けというものは(つまり名称を持つものは)、すべてが「区別」の上にあるのです。

 

その「区別」に、優劣のスケールを当てると、それが「差別」になる。この関係を認識することが大切です。言葉は、そもそもが、何かと何かの「区別」したものの組み合わせなのです。犬と猫は違うというように。ですから、「区別」がなければ、会話も文章も成り立ちません。それを知った上で、言葉の上には、容易に「差別」意識が乗っかる危険性が常にあるということを、注意して欲しいのです。ですから、単純な言葉狩りに意味はありません。

 

そうではなくて、あらゆるものの本質は「個性」だということなのです。「区別」を「差別」にするのではなく、「区別」の前には「個性」があるということです。その「個性」が集まって、平均的な妥協点にカテゴリーが出来ている。その意味では、LGBTというカテゴリーも、またそれを細分化したLとGとBとTというカテゴリーも、ただの便宜上のレッテルに過ぎない。

 

重要なのは、Aさん、Bさん、Cさんが、それぞれ、みんな「個性」を持っているということです。そして、この「個性」を尊重する、また敬愛するということが、これからの社会においては非常に大切になっていくし、今後、人類が乗り越えなくてはならない、一つの大きなハードルであるとも言えるのです。

 

人は、例えば「性同一性障害」といったレッテルを、自分にも、そして他者にも貼りたがります。でもそのレッテル貼りに何の意味があるでしょうか? レッテルがあなたなのでしょうか? 宇宙からみれば、「障害」などというものは、何一つだってないのです。すべてが「個性」です。「個性」の集合体が宇宙なのですから。この本質が解ったとき、あなたは真の「愛」に目覚めます。ですから、あなたには、どこまでも「個性」の表現の中に生きて欲しいのです。

 

「人権」などというものは、別のレッテル貼りに過ぎません。そんなもので、またもや自分の身体をグルグル巻きにしますか? よーく考えてみてください。「魂」の世界から見れば、LGBTであるということは、その課題を通して、より中性に近づくチャンスを与えられているということなのですよ。ですから、喜ぶべきことなのです。プラトンだってそれを言っています。

 

どの世界にも無理解はあります。罵倒する人もいます。そんなものは放っておきなさい。無理解な人々は、今その段階を学習中ということなのです。説得しようとしても無駄なエネルギーを使うだけで、本人の気づきを待つしかないのです。それよりも、あなたは、あなたの個性を堂々と表現して生きるのです。そのようにして、自分を解放しなさい。

 

自由に、もっと自由に。もっともっと自由に。

 

(次回につづく)