by Rainbow School
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自分の声を聴くということ

ひとの声に従って生きるのは楽です。なぜなら、「迷い」に直面して自分で「悩む」という機会がそれだけ減るから。そこで多くの人は、自分の意思決定の様々な機会を、他の誰かに肩代わりして貰う道を選びます。家庭では親に、職場では上司に、学校では教師に、クラブではコーチに、病院では医師に。その他、多くの問題は、その道のカウンセラーやヘルパーと称する人に。

 

霊的分野も例外ではなく、宗教では教祖や先達に、スピリチュアル系では霊能者のご託宣や、カバラや、占いに頼ろうとします。要は、自分をロボットにして生きることを、現代人は暗黙のうちに選択しているのです。それどころか、自ら進んでロボットになる道を選ぶのです。でも考えてみてください。自分の行動を自分で決められない動物など、他にいるでしょうか?

 

近代というのは、工業生産と都市化が著しく発達した時代(大衆消費社会)で、そういう社会を造るためには、同じような思考と行動様式をとる、多数の「ロボット人間」が必要でした。教育の義務化。みなさんが信じている学校矯育は、そのために編み出されたものなのです。そこでは、先輩ロボット教師が、次世代のロボット人材をまた育て上げるという、まさしくオートマタの増幅システムが構築されたのです。

 

*オートマタ(Automata、複数形)、オートマトン(Automaton、単数形):自動機械人形のこと。自分と同じようなオートマトンを作るようにプログラミングされたオートマトンが、オートマタをどんどん増やして行く。

 

それは、新たな宗教と言ってもよく、そのシステム自体を否定したり、そこからドロップアウトする者は異端審問に掛けられ、みな落伍者(落ちこぼれ)のレッテルを貼られたのです。とりわけ日本は、周囲への同調圧力が強く、個人のオピニオンを尊重するという風土がまるでありません。「あら、いい和ね」「私もそうする和」といった感じで、万事を「空気」が決めて行く。それをまた、みなが良しとしているのです。

 

しかし、近代というものが明らかな曲がり角に来たなかで(それは、大衆消費、大量廃棄、奴隷労働、環境破壊、激甚災害、食品汚染、薬物汚染等々の現象に端的に見られる)、近代の、このロボット化矯育システムや、強欲資本主義をまだ続けたいと願う権力者と、そこにぶら下がる者たちがいて、時代の変化(それを創っているのは、人々の意識の集合体)との間に、いまや大きな裂け目が生じているのです。

 

恐らくあなたも、その裂け目から発せられるギシギシという軋みの音を、日々感じ取っておられることでしょう。

さて、それで、あなたはどうするのか? どうしたいのか?

この先、どう生きるのか? それがいま、問われている。

そこで、

 

「自分の内なる声を聴きなさい」ということになるのです。

 

とは言っても‥‥。自分のどんな声を聴けばよいのか、迷うところでしょう。あなたには同時にたくさんの声が聴こえるはずです。「やっちまえ!」「いやダメだ」「冷静になれよ」「許すんだ」「そっと見守ろう」「愛せよ」。あるいは、「自分を信じろ」と言っても、自分の何を信じればいいのか、たくさん聴こえて来る声のどれを信じればよいのか、判らないことでしょう。

 

しかしそれでも、あなたは自分を信じなければならないのです。多くの人は、その覚悟がないために、権威あるものにすがろうとします。親であったり、先生であったり、師と仰ぐ人であったり、組織の幹部であったり、有名人であったり、霊言を下す人であったり、またその言葉であったり、伝統的なしきたりであったり、聖書・聖典の中の言葉であったり、と。

 

その刹那から、その人の「ロボット人生」が始まるのです。そして、最も大切な「自由」を忘れて、自分以外の他者に操られる自分になる。しかも、自ら喜んで。ここには大抵、スケールの罠が仕掛けられています。入門者、弟子、師範といった、階段を駆け上がって行く仕組みが。そのスケールの罠に、みんな嵌められてしまうのです。でも誰も、それが罠であるとは気づきません。それが、この世の中の常識だから。

 

入門を果たせたら嬉しい。弟子と認められたらさらに嬉しい。師範になれたら、さらにさらに嬉しい。自分はもう特別なんだ。よーし、この流儀・流派を、自分はしっかりと守って行くぞ。これを次の世代にも広げるぞ!

しかし、この罠は、いつかは罠であることが明らかになります。みんなが信じている間は、それが罠であるとは気づかない。でも信じることを止めた時には、ピラミッドは一挙に瓦解する。

 

それが幻想に過ぎないと解ってしまう。だから、そこに自己のアイデンティティを完全に預けてしまっているような人は、それが幻想だと気づいた時には、アイデンティティ・クライシスを起こしてしまうのです。頭のいいエリートたちには、それが薄々分かっているから、危機が迫った時には、その恐怖に耐え切れずに、みな保身に走ろうとするのです。「魂」の成長にとって、最も大切な、素直で正直で誠実であろうとすることを一切止めて。

 

他者の声に従って生きるのは、一見楽なようですが、地上に生まれたというせっかくの学習機会を、まるで活かしていないということになるのです。幻想を幻想だと認めずに、いくら踏ん張り通したところで、あなたはどの道ドンデン返しを迎えます。人が「死」と呼ぶ瞬間を迎えた時に。だとすれば、もっと早くに気づいて、「魂」の自由を追求した方が、ずっと有意義だとは思いませんか?

 

ですから、賢明なあなたには、あなた自身の内なる声に静かに耳を傾ける姿勢と習慣を身につけて欲しいのです。それを貫いて欲しいのです。さて、元に戻って、たくさん聴こえてくる声の、一体どれを信じたらよいのかという問題です。ここで重要なのは、「どれを信じればよいのか」という、正に「良いのか?」という部分です。多くの選択肢の中で、あなたは「良い」選択をしようとします。この「良い」とは、何を意味しているのでしょうか?

 

あなたが、もしもエゴ的な尺度を当てていたとしたら、そこでの「良い」とは、自分のエゴを満足させることになります。でも、「魂」的な尺度を当てていたとしたら、「魂」の成長を図ることが「良い」と思うのです。さらに進んで「霊」的な完成を目指していたとすれば、あなたは霊的な尺度を当てて、どうすることが「良い」かという声を聴くことになるのです。

 

つまり、あなたは、あなたの「今の成長段階に応じた自分の声」を聴くことになるのです。逆に言えば、現在の成長段階に応じた声しか、あなたには聴くことが出来ません。これが、よく言われる「すべては完璧」の意味なのです。あなたは、ご自分の選択行動を「良いか、悪いか」で考えようとする。それが心グセになっています。しかしそれは、あなたという「魂」の成長から見た場合には、すべてがドンピシャなのだということ。

 

この意味が解りますか? ですから、霊的世界には、「良い」以外にはあり得ないのです。

 

あなたは、大海から生じた一滴の雫です。この雫は、誕生すると雨つぶとなって地上に落ち、同類の仲間を集めながら、次第にチョロチョロ流れる小川となり、最後は大河に合流します。この大河は、途中どんなことがあったとしても、最後の最後は、元の大海へと還るのです。この大河の流れに身を任せれば、すんなり帰還することが出来、途中で岩にしがみついたり、窪地に落ちたり、逆行しようとすれば、抵抗に苛まれるのです。ただ、それだけのこと。

 

ですから、あなたが、この真理を認めて、流れに身を任せるような生き方をして行けば、(つまり、ありのままに物事を見て、素直に正直に誠実に生きて、純粋さを尊び、直観を大切にすれば)、万事がよいように進展するのです。ただし、繰り返しになりますが、この「よい」は、エゴ的に「良い」ことではありませんからね。

 

波動の法則によって、通常状態にある時には、あなたは、今のあなたの振動数に近い領域の波動しか知覚することが出来ません。このことは、〈同じ本であっても、どの箇所にアンダーラインを引くかは、それぞれの人によって違う〉という喩えを使って何度か語って来ました。Amazon でも、同じ本の評価に☆5つを付ける人もあれば、1つという人もありますよね。それ以前に、そもそも、その本に巡り合わない人の方が圧倒的多数です。

 

ですから、あなたが、もしも「霊性の向上を目指して生きる」と決めた人であったなら、今よりも高みを目指すということを常に意識しつつ、毎日のこの瞬間瞬間を送ることが大切です。階段は一歩一歩、着実に登って行くしかないのです。でも降りる(堕ちる)のは簡単です。手摺りにチョコッとお尻を乗っければ、一気にスーッと降りられる。これが、パックリ口を開け、あなたを待ち受けている罠です。

 

でも、光への道に、近道はないが早道はある。なぜ、何種類もの声が、次々とあなたに聴こえるのでしょうか? それは、取りも直さず、あなたが多次元的存在であるということを示しています。一次元、二次元、三次元、四次元、五次元、時には六次元からの声も聴こえることがある。しかし、高次元からの声は、自分をよほどピュアな状態に保っていない限り、低い波動によってすぐに掻き消されてしまいます。

 

あなたの意識は決して一つではありません。各次元に対応した、たくさんの意識チャンネルを同時に持っているのです。でもテレビの第1チャンネルを視聴している時には、第4チャンネルは映りませんよね。それと同じで、今どのチャンネルにチューナーの針を合わせているかによって、受信できる声が違うのです。ですから、高い次元(ハイヤーセルフ)の声を聴くためには、低い次元のチャンネルは閉じなければならないのです。

 

私がしばしば、スマホの害を指摘するのは、そのことが理由です。須磨穂の国からは、絶えずあなたを罠に落とし込もうとする低い波動がやって来ます。これに一度嵌ってしまったら、手摺りをピューッと滑り堕ちる快感から、もう逃れられません。そうなったら、高次元の声はもちろんのこと、通常の意識状態の声すらも聴こえなくなってしまいます。そうやって、気づかぬうちに、既にみんなソンビにされてしまっているのですぞ!

 

では、この『気づきの啓示板』はどうなのか? 「このブログだけは違う」なんてことは言わない。やはり虜になったらゾンビになる。あなたをゾンビにさせる要素は、ここにもある。だから、気をつけたまえ!

 

信じてはダメだ。信奉したらなお悪い。納得いかない言葉も鵜呑みにして、従おうとしてはいけないよ。すべては、あなたの道の、両側に広がる風景に過ぎない。このブログに書かれてあることは、あなたが歩く道端に落ちている、ただの石ころや棒切れだ。あなたは、その中から「おっ」と目に留めたものを拾い上げる。それは、ただ今このタイミングで、あなたが、〈自分の意思〉で開かせた、自分のチャンネルなのだよ。その〈主体性〉を、強く意識して毎日を生きなさい。

 

だから、高いチャンネルを開くためには、それなりの訓練と準備をしなければなりません。その手段が、他ならぬ「瞑想」です。止まる瞑想、歩く瞑想、坐る瞑想。この3つを日常生活に積極的に組み込むことによって、あなたは「瞑想的」日常生活を送るようになります。そうすれば、五次元の扉が開いて、遂にはそこからの声が主体の人生となる。こうして、その人は、三次元の物質世界にいながらにして、同時に五次元世界にも生きる存在となり得るのです。

 

この時、その人からは「悩み」が消える。なぜなら、真の自分(真我)に従って生きる自分になるのですから。わたしはわたし。もう迷いはない。そしてそれは、その先に、神我と一体となる我(大海の一滴)を見出すのです。ですから、先ずは真我の発見を目指しなさい。そのために、瞑想を、日常的手段として用いなさい。そうすれば道は早い。

 

自分を信じて、自分の声を聴くのです。

戦争への構図

戦争は一人では出来ません。集団同士が争うことによって、戦争が「創られる」のです。それは、悲惨で大規模な破壊をもたらしますが、地球という惑星に降りた魂たちの、〈現段階における〉創造的行為の、一つのバリエーションとなっているのです。

 

人間、一人になった時には、誰もが友愛と平和と笑顔であることを望んでいるのです。でも集団になると、時に、この思いがあっさりと破られ戦争へと突き進む。そうやって、平和と戦争、言い換えれば、友愛と他者蔑視との間を行き来し、愛の学習とカルマの清算とを繰り返しているのです。それは、健康な時には健康のありがたみがちっとも分からず、大病をしてからやっと分かるのに似ています。

 

メディアの発達は、過去の戦争がもたらした被害や、民衆の生活への影響、戦争体験で生じたトラウマ、また戦争へと突き進んでいった時代の背景や要因について、様々な角度から分析的な映像を見せてくれるようになりました。しかし同時に、戦争の立役者を歴史的偉人として描いたり、殺戮者をヒーローとして賞賛するドラマやゲームなども、数多く産み出されています。

 

それは正に、地球人というものが、未だにその間を行ったり来たりしている学習段階にあるということを、如実に示しています。芸術家の一部は、小説や絵画や映画やドキュメンタリー作品などを通じて、「なぜ人間はこんなにも悲惨で、不条理なことを繰り返すのか?」と、ずっと訴え続けて来たし、今も訴えているのですが、その効果がまだ目に見える形としては現れていません。

 

私たちは、その背景にはどんな構図があるのか、という点について、もう一歩進んだ理解をして行く必要がありそうです。また、そのような段階に至ったと思います。そして、ここを超えられるか、超えられないかが、第三次世界大戦の勃発を未然に防止できるかどうかの鍵になると思います。

 

戦争は一人では出来ません。集団が戦争を起こすのです。ですから、そこには、集団を動かすある「力学」が作用していることは間違いありません。そしてこの点をつぶさに観察してみると、どんな戦争にも次の3つの要素が必ず存在して、この三つのエネルギーが回転し、増幅し合うことによって、戦争へと突き進んで行っているのです。

 

その3つの要素とは、

 

1.権力者とその統治システム

2.大衆の熱狂(闘争意識の鼓舞)

3.裏づけとしての(宗教的)正義

 

です。

 

この三つが、まるで巴紋のように影響を与えあって、グルグルと回転することにより、戦争へのエネルギーが増幅されて行くのです。

 

1番目の「権力者とその統治システム」ですが、戦争遂行を決定するのは、その集団を掌握している権力者です。ですから先ず、権力者に「戦争をしたい、しよう」という欲望があって戦争が起こる。しかしその欲望を実現化するためには、統治システムが、それが可能なように備わっていなくてはなりません。例えば軍隊や、武器や、諜報機関や、徴兵制や、法律や、指揮命令系統です。

 

また同時に、権力者への信頼というものを大衆の中に醸成しておかなくてはなりません。なぜなら、大衆が具体的な戦争の駒(使い捨ての)となるからです。そこで権力者は、これを悟られないように糊塗し、自分を地位や、扮装や、勲章などで偉大な存在に見せる一方で、メディアや教育機関を使って都合のよい思想を大衆に吹き込み、戦争が可能なように法律を変えて行きます。

 

ここで気をつけておかなくてはならないのは、一つには、こうした権力者に都合のよい改変というものは、徐々に成されるということです。そのため、大衆は改変の影響度といったことには気づきませんし、関心もほとんどないのです。そしてもっと注目されるべきは、権力者というものは、一人の人間として誰もが持つ友愛と平和への念というものを、最初から喪失している「魂」だということです。

 

ですから、「魂」の成長(=愛の完成、oneness)という点から見た場合には、このような学習段階にある「魂」がリーダーであるというのは、本来はおかしいわけです。ところが人間社会というのは、「分離」と「競争」が価値観の根本を成していて、このスケールを社会全体に当て嵌めていますから、一般大衆を蔑む権力者が、人々を騙して権力の座に座れるし、その御輿を担ぐ者もいるのです。

 

しかし、権力者がいかに「戦争だ!」と叫んでも、それに従う者がいなければ戦争は起きません。法律や恐怖政治を用いていくら縛ったとしても、従わない者が多数いれば、権力者の更迭や、クーデターや、内戦が起こる場合もあります。ですから、2番目として、権力者の「戦争だ!」という声に賛同する大衆の熱狂を、どうしても作り出さなくてはなりません。この役割を担っているのがメディアや教育機関です。

 

ヒトラーはその重要性を非常によく解っていて、レニ・リーフェンシュタールにオリンピックを撮らせたり、選挙活動では飛行機を使って遊説したり、自分の演説時のポーズを研究したり、また人々の意識を集めるためのシンボリックなデザインのフラッグを多数用いました。ドイツ軍の軍服が実用を超えたかっこよさを放つのも、ヒューゴ・ボス(後のメンズブランドのBoss)にデザインさせたからです。

 

さて、大衆がどうして権力者の呼びかけに熱狂してしまうのかということですが、これは誰の心にもある生活上の不満やイライラ感を、権力者は闘争心へと転化させてしまう術を持っているのです。

 

大抵の人は、自分の恵まれなさや辛い体験を、自分以外の、他の何ものかのせいにしたがります。身近な配偶者や家族や、上司や勤め先や、それらが無かった場合には社会や時代のせいにする。この、誰かのせいにしたいという欲求を利用して、ここにシンボリックな「敵」を提示するのです。「あなたが恵まれないのは、ぜーんぶあいつのせいだよ」というわけです。そうすれば、大衆の熱狂に火が着くし、そのエネルギーが一本に纏る。

 

ナチスは、ご承知のように「ユダヤ人」をこれに当てました。第二次世界大戦中の日本軍は「鬼畜米英」と言っていました。ジョージ・ブッシュは「悪の枢軸国」と言い、テロとの戦いを宣言しました。権力者のこの常套手段は、今もまったく変わっていません。大衆は、一人の時には友愛と平和がいちばんと思っているのですが、心の奥に眠る闘争心に火が着けられると、パッと燃え上がって、友愛や平和はたちまちにして溶かされてしまうのです。

 

しかし、これだけでは戦争には突き進めないし、開戦したとしても継続することが出来ません。なぜかと言うと、戦争が残虐な殺戮を伴うものだということは、みなうすうす解っているからです。そのため、その「イヤだな」という気持ちを乗り超える何かがなくてはならないのです。これが「戦争の大義」というもので、多くは、(宗教的)正義がここに当て嵌められるのです。

 

そもそも戦争に「大義」などあるわけはないのですが、「大義」を設定しようとするのは、心の後ろめたさを和らげるためです。(宗教的)と括弧して書いたのは、別に宗教でなくても、共産主義でも、民族主義でも、愛国主義でも何でも構わないのですが、しかしそこに問答無用の宗教的信念が備わっていないと、力が弱い。そこでみな「正義」を強調するのです。あとは、その正義に反する奴らはみんな「敵」だということになる。

 

そして、いま挙げた3つが揃うと、権力者としては、戦争をしたいバックボーンがきれいに整って、さらに発言がし易くなるのです。こうして、(戦争屋にとっての)好循環がグルグル生まれて、エネルギーが増幅され、戦争へと突き進むことが可能となるのです。この「戦争への構図」は、どんな戦争であっても、また地域紛争であっても、内戦であっても、まったく変わりがありません。全部が、この構図によって生じているのです。

 

ですから、もしあなたが戦争を回避したいと思うのであれば、この構図が悪回転しないような楔をどこかで打ち込むことが大切です。回る扇風機の羽に、棒を突っ込むようにして。そうすれば、この回転は止まります。

 

権力者の発言や、メディアの報道が「敵」を強調し出したら要注意。そんな時には「ああ、またやってるな」と思えばいいし、次の選挙ではその人間に投票をしなければいい。自分の中で「くっそー、あいつらぁ」という気持ちが沸いて来たら、「でも待てよ」と気持ちをなだめて、「彼らにも同じように愛する家族がいるんだよな」と想像してみればいい。もし「正義だ!」と叫ぶ声が聞こえて来たら、あのブッシュの顔を思い出してみればいい。

 

そして、すべてを冷静に、なるべく客観的に見て、人間というものの、懲りない愚かさに気づいて欲しいのです。その視点だけが、全体のこの構図からの飛躍を実現させてくれます。

 

愚かな宰相がいるのは、あなたが見る景色の中で、愚かな宰相という役割を演じてくれているのです。さて、じゃあどうするか? それを今、あなたが問われているのです。「隣国の連中はひどい奴らだ」と、メディアが思わせようとしているのは、それによって、あなたの「愛の成長度」を試してくれているのです。「こうすることが正義だ!」と言うのは、「信用できる正義など、実は何もない」ということを教えてくれているのです。

 

何度も、何度も、同じ手口に引っ掛かるようでは、輪廻転生の学習効果というものがなさ過ぎます。一度、ぜーんぶの物理的形は無いものと想像してみてください。意識の世界だけしかないと想像してみるのです。そうすれば、よく解ります。

 

愚かな宰相の演じ手も、大衆を操っているつもりが、実は奥の院の存在に操られているのです。その奥の院の存在も、もっと奥にある闇に操られている。そしてさらにその奥にも‥‥。意識の世界から見れば、ただそれだけの話。大衆が熱狂するのは、自分の中にあるネガティブ意識が、共鳴して揺さぶられるためです。この時、サッと魔が刺す。普段は、友愛と平和と笑いを愛する一人の人間であるのに、ちょっとした拍子に「魔」が刺してしまう。

 

そして、今まで育って来るなかで教えられたことや、吹き込まれた信念、さらには今日も育ててつつある信念によって、あなたは自分の中に入って来た「魔」を育て上げる。そして、この「魔」を、自分に完全に憑依させる。このようにして、ゾンビとなった人たちが大結集し、互いに殴り合い、殺し合うという一大スペクタクルを演じる集団的「創造行為」、それが地球劇場で繰り返される世界大戦です。

 

そして、僅かな人たちだけが生き残り、ゾンビから人間に戻って、

我に返って言うのです。

「いっけねぇ、またやっちまったみたいだぜ」。

今度こそ、それはやめにしませんか?

 

あなたが、自分の中のネガティブに火を点けるのをやめて、友愛に生きようとすれば、世の中にある信念は変わります。ネガティブな信念が効力を持たなくなるからです。

 

そうすれば、愛と平和を求めるエネルギーが生まれて、そのような考えを代表するリーダーが誕生します。そしてリーダーたちは、人々が暮らしやすいような、分かち合うことを基盤とした新たな社会システムを創りあげて行くことでしょう。

 

そうなれば、人々は、その社会システムによって、争うことなく、みな平和で楽しく暮らせるようになります。奴隷的労働は一切なくなり、誰もが、各個性を認めて、自己を表現しつつ、なおかつ他者にも役立つような仕事をするようになります。まるで夢のような話に聞こえるかも知れませんが、話は簡単です。最初のボタンの掛け違えを正せばいい。そうすれば悪循環が善循環に変わるのです。

 

あの人も、この人も、私と同じ人間なんだと思うだけで。

みな等しく、ともに宇宙に生かされている存在なのだ、と思うだけで。

組織宗教の賞味期限

戦後の日本を代表してきた教団がいくつか、ここに来て大きく揺れています。信者数随一を誇るある教団は、1964年、政治的野心を持って政界に進出し、数を背景に大成功を収めました。しかし、与党となっていざ権力を手にすると、宗教教義にも結党精神(中道主義、平和主義、原発ゼロ等)にも反する行動を露骨に取るようになって行きました。その結果、母体であった信者と政党、また信者と教団執行部との間で、内部紛争が沸き起こっています。

 

この教団は、もともとは日蓮宗系の一つの信徒団体だったのです。ところが、1991年に宗門から破門され、お坊さんを持たない教団として独立したという経緯を持つのです。それはいいとして、この時に、宗門から渡されていたご本尊(と言っても紙切れ)が入手出来なくなった。それで自分たちでこれをコピー印刷し、会員に配布するようになったのです。この事件が、さらに宗門の逆鱗に触れ、以来、宗門との間で激しい非難の応酬が続いているのです。

 

ということで、今の教団運営に疑問を持った信者さんの中には、元の宗門に還るという人も多く出ているようです。この、通称「本尊模刻事件」というのは、非常に象徴的で「宗教」というものが持つ性格をよく表しています。信徒団体は、破門された時点で「そんなものは不要!」と言えばよかったのですが、コピーして会員に渡してしまった。すると、宗門側からすれば、当然「それは偽物だ!」ということになるでしょう。

 

側から見ていると、「目くそ鼻くそを嗤う」といったレベルの争いにしか見えないのですが、当事者はそうではありません。これが大問題なのです。ここで判る通り、どちらも「ただの紙切れ」に過ぎないものに(と言うと、宗門は怒るでしょうが)、特別の価値を見出しているという点では変わらないのです。見出しているからこそ、信徒団体は、“似せもの”を刷ったのです。

 

それに対して宗門は「そんなの偽物だ」と言う。だから邪教だと言う。でも、本物のそれだって、同じように宗門側が刷った紙切れに過ぎないのではありませんか? じゃあ一体どこが違うのか? お寺でも神社でも、よく「御霊(みたま)を入れてある」とかと言うんですけど、御霊が入った紙切れと入っていない紙切れはどう違うのか? 御霊が入った紙切れを「信仰」の対象にして拝むのと、入っていない紙切れを拝むのとどういう違いがあるのでしょう?

 

そうかと思えば、一時は1000万人を超える会員がいると豪語していた某教団。そこの教祖の息子が教団を脱会し、ユーチューバーとして教団の内部事情を暴露するという事態が起きています。この教団も政治的な野心を燃やし、2009年の衆議院議員選挙には337人もの候補者を擁立しましたが、結果は全員が落選。これ以降、会員数1000万人超は本当なのか?、と疑念を持たれていたのです。

 

それが、教祖の長男が脱会し内部事情を暴露する事態となり、これも泥沼の争いの様相を呈しているのです。この教団にとっては、2012年の教祖夫婦の離婚騒動に続く大スキャンダルです。この他にも、跡継ぎ問題を巡ってやはり内紛が起きている真言密教系の教団があったり、血縁の教主を理事会が追放してしまったという教団も現れています。2017年には、相続を巡って、神道の宮司が別の宮司を日本刀で斬り殺すという事件まで起こりました。いやはや。

 

いったい、こんなものが「宗教」なのでしょうか、「宗教」だったのでしょうか? 私自身は、こうした争い事には関心がなく(と言いながら書いていますがけど)、今では「宗教」自体にも関心が無くなったので、さもありなんとしか思いません。しかし今進行している事態は、「組織宗教」そのものの〈賞味期限が、すでに来ている〉ことの顕れではないかと感じています。それも、日本だけの現象ではなくて、全世界的に見て。

 

跡目争いは、「組織宗教」のいわば宿命のようなもので、昔からあったものです。イスラム教のスンニとシーアの争いもそうですし、キリスト教のカトリックとプロテスタントもそうです。ローマ・カトリックとギリシャ正教は、互いに互いを破門しました。浄土真宗も、大きくは本願寺派と大谷派に分かれ、分派を数えれば30くらいもあります。岡田光玉が興した真光系は、光玉の死後に9つに分派しています。

 

跡目争いが起きる理由は、教祖あるいは先代が亡くなった際に、次に誰がいちばん「教祖(または先代)」に近いか、あるいは「教え」を体現している人か、という点が問われるようになるからです。それなしでは、教団の永続性が保証されないためです。そこで第一には、血脈(DNA)に受け継がれるはずだと考える。まるで競走馬のサラブレッドのようなものですが、神秘性を見出したい者にとっては魅力的な考え方です。

 

ところが、この考え方は一方でリスクも高いのです。先代とはモロに比較されますし、子息がボンクラであった場合には、幼少時からの側近が傀儡に利用し、裏で権力を握る可能性もある。そこで、高弟に受け継がれるべきだと考える一派とに分かれるのです。しかし、どうにも決着がつかない場合、そんな「誰が」ということが重要ではなくて、守るべきは聖書・聖典に記された「教義」であり、そこに還るべきだと主張する一派が出現するのです。

 

これに、人望や、統率力や、説法の上手さや、ルックスまでもが含まれて、跡目が選ばれる。そうした秀でたものが無い人は、金や政治力を使うということになります。問題は、そこで、なぜ「争い」が生じるのかという点です。組織宗教の場合は、その「組織」がそっくり財産の役割を果たしている。そこで、いちばんの目的(宗教的なものの伝承)以上に、財産を誰がどうやって引き継ぐかという点が、当事者には大きな問題となって来るわけです。

 

こうした争いは、外から見れば、みな「目くそ鼻くそを嗤う」がごときものに過ぎないのですが、内部にいる者はそうではありません。支柱が倒れて、ぽっかり空いた心の穴を、次に誰が埋めてくれるのかというのは、信者からしてみれば大問題です。そこで、跡を継ぐ者は自分の正当性をしっかりと見せなくてはなりません。例えば、血統の証明によって、霊能力によって、儀式によって、冠や指輪や豪華な衣装によって。

 

しかし、このような(伝統的?)跡目争いも、私には、もうそれ自体が古臭いものに感じられて仕方がありません。宗教の時代は、少なくとも組織宗教の時代は、もう終わったのではないでしょうか。戦後に隆盛を誇った教団も、今では二世・三世信者が「生まれた時から、うちではそれが当たり前だったから」というだけの理由で、惰性で信仰している人も多いと聞きます。ですから「教義を信じて」という人は、少なくなっているのではないでしょうか。

 

それ以上に、現在では、新たに「教義に惹かれて」飛び込んで来る人というのは、大幅に減っているのではないでしょうか。なぜなら、あらゆる情報が溢れ返ったこのインターネット時代に、一つの教義だけに、人を盲目的に縛り付けておくことは、もはや不可能だからです。インターネットが登場したことで、テレビはオワコン(終わったコンテンツ)になりましたが、宗教もオワシュウの時代に入ったように思います。

 

いつでもどこでもサッと取り出して拝めるモバイル神殿、世界須磨穂教に取って代わられて。その過程で、若い人たちは、組織宗教の胡散臭さをたくさん見て、ウラを知っていくことでしょう。一方で、根無し草のまま漂うことになった「魂」の大半は、時代に翻弄されて流され、一部のある者は非常に攻撃的になり、またある者は殻に閉じこもり、そしてごく少数の者だけが、真実を探し求めて、行動するようになって行くことでしょう。

 

先日、『エル(ELLE)』というフランス映画をDVDを借りて観ました。その中にこんなシーンがあるのです。主人公の女性が自宅でパーティを開き、知人を招待します。そこで手作りのご馳走を振る舞い、さあ食べようかとなった時に、お向かいの若夫婦が「ちょっと待って」と言って、二人で食前のお祈りを始めるのです。その途端、そこにいた全員がドッチラケーといった表情を浮かべて、二人の祈りの間、祈るフリのお付き合いをするのです。

 

この若夫婦は熱心なクリスチャンという設定なのですが、それを見て、「ああ、フランスでも宗教事情はこんなものなのか」と思いました。欧米文化がキリスト教の長い伝統を背景に成り立って来たことは確かです。ですが、こと「信仰」ということになると、以前とはだいぶ様変わりして、欧米でもかなり形骸化して来ているのかも知れません。

 

組織宗教がもはや時代遅れだと思うのは、まさにそれが「組織」であるという点です。「組織」は、指導者と指導される者、管理者と管理される者、先輩と後輩、優秀者と凡人、段位合格者と不合格者等のヒエラルキーを必然的に生み出します。すると、△形の上位に位置する者には優越意識が生じる一方で、底辺に位置する者たちには、「頑張って上に上がるぞ」というモチベーションが働くのです。

 

基本的に、「組織」というものは何であれ、この内部力学を利用して維持拡大するように図られています。組織宗教はこのスタイルを応用したのです。さて今「ヒエラルキー(ハイアラーキ)」と言ったのですが、これは元々霊的な階層(つまりバイブレーションの段階的違い)を説明した言葉だったものが、地上にある宗教組織にも転用されるようになったのです。しかし両者には、似ているようでいて決定的な違いがありました。

 

それは、霊的階層においては、高次元の存在(高級霊)が、下位のもの(魂)を、管理したり、思い通りに動かそうとしたり、恐怖を与えて脅したり、貢物を迫ったり、収奪したりすることは絶対にないということです。なぜないかと言えば、それらはみなエゴから生じる行為ですから、そもそも高次元の存在にはあり得ないことですし、エゴを抱えていたのでは高次元の存在にもなり得ないのです。この単純な理屈をみな知らないのです。

 

一神教の宗教は、ここに「契約」の概念を持ち込んで、「ちゃんと信仰していれば恩寵を与えるぞ」「天国にも行けるぞ」「でも教えに叛き、罪を犯したら神は罰を与えるぞ」「地獄行きだぞ」という教義を編み出して、これを浸透させて行ったのです。しかし、繰り返し言いますが、宇宙(神)があなた方の一挙手一投足すべてを見ていることは確かであっても、宇宙(神)には罪も罰もありません。罪と罰は人間の創造物なのです。

 

組織宗教というのは、ですから、一般社会で見かけられる上下のスケール(物差し)の概念を、そのまま宗教にも当てはめて、ありがたがったり、良いとか悪いとかと言っているのです。実にこれが、人間が長年かけても超えられなかった盲点なのです。神の下僕として生きるのではなく、己のエゴのために神を利用しようとしているのが、大方の組織宗教なのです。

 

あなた方は幸福を求めます。そして、霊験あらたかと言われる紙切れを貰ったり、ご祈念メダルを購入したり、秘密のマントラを授けて貰ったり、霊能者にどうしたら良いかという判断を求めます。

 

幸福を求めることが悪いとは言いません。それは、地上に生きる者の当然の希求です。しかし問題は、何が良いあり方で、何を悪いと考えているか、ということなのです。例えば、入学試験を受けた。合格が良くて、不合格は悪いと考える。普通はみんなそうです。でも真理の世界はそうではありません。良いことも悪いことも、みんな良いことなのです。あなたの身の上に起こることは、すべてが良いことなのです。

 

なぜなら、そこに、「真のあなた」という存在に向けられた、学習機会、成長機会のギフトが用意されているのですから。しかし、そう聞いても、とうてい納得がいかないでしょう。仮に、頭で分かったとしても、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでには、何年も何年もの歳月が掛かる。だから、人々は「真理」には見向きもしない。そして、ニセモノの「教え」の方を信じるのです。

 

組織宗教は、一般社会のエゴのスケールをそのまま組織に持ち込んで、そこにオカルティックな味付けを施した特製ふりかけをパラパラっと掛けて、あなた方に幸福の幻想を提示します。当面の結果が自分の思い通りになれば、「さすがだ、ありがたい神様だ」となり、思い通りにならなければ、「信仰心が足りない、まだお布施が足りない」となるのです。

 

しかし、このような詐欺的テクニックが、いつまでも通用するはずはありません。冒頭に書いたような一連の出来事は、時代変化の大きな流れの中で起きています。これは何度も言って来たように、社会のあらゆる分野において、隠れていた闇に強い光が当たり、白日の下に晒されるようになって来たことから起きている現象なのです。

 

そしてそうなれば、後は、自分が為した行為は自分に還って来るという「カルマの法則」が適用されるだけなのです。そのようにして一連の出来事が起きている。しかし、内部にいる当事者たちにはそのことが解りません。「カルマの法則」のことも、たぶん知っているはずなのに‥‥。人は、洗脳から脱して、外に出て初めて、自分が洗脳されていたと気づけるのです。

 

跡目争いや、教団の分裂騒ぎや、邪宗・邪教といった罵り合いは、冷静になって眺めてみれば、実に下らない、宗教の本質からズレた話だということがすぐに分かるはずです。ところが、わが身大事、わが派大事、わが宗大事にハマってしまっていますから、それが見えません。こんなものが、神に仕える宗教なのか、真実を追求しようとする宗教なのか、と嘆かずにはいられません。

 

個人である時には、人はみな同じように平和を願う一人の人間なのです。ところが、集団となった時の人間のどうしようもない愚かさ。エゴを集めた際の人間の狂気。そうした中では、平和のための戦争、防衛のための先制攻撃、豊かさのための自然破壊、神に捧げるための人殺しまでもが、堂々と正当化して許されるのです。まったくもって、なんという愚かさでしょう。

 

けれども、嘆いてばかりもいられません。今のこの〈闇が暴かれて行く〉機会を上手に利用して、これを追い風にして、ジャンプを図るべき時が、人類に訪れました。なんと言っても、世界人口の85パーセントは何らかの宗教を持ち、一神教のキリスト教とイスラム教だけで、人類の過半数を占めているのです。もしもこの両者が争って、全面戦争にでもなったら、人類は間違いなく破滅です。

 

そうならないようにするには、伝統的な系譜を超えた先にある、真の「自由」に、各宗教および各教団が気づくよう進歩して行かねばなりません。系譜は系譜です。どんな人にも好き嫌いはありますし、背負って来た文化的背景も違います。でも、それぞれの人が、真の「自由」を求めようとすれば、たとえどんなルートを辿ろうとも、ゴールは必ず一つに行き着くのです。そこに、フォーカスを当てるべきではありませんか?

 

我が宗の跡目争い? 小ちぇ〜。教団の分裂騒動? 小ちぇ〜。我が宗のみが正宗? 小ちぇ〜。他はみな邪宗・邪教? あ〜、小ちぇ、小ちぇ。そんなものは、コーヒー豆の選別をしているようなものなんだよ。なぜ、豆は豆はだという視点に立てないんだ。なぜ、色んな豆があるかを考えないんだ。いいかい、「自由」は、いのちあるものに、平等に贈られたギフトなんだよ!

 

あなた方は、真の「自由」というものを知りません。代わりに、幾世代にも渡って、ニセモノの「自由」ばかりを追いかけて来ました。その不毛に疲れ果てて、何かが根本的に間違っていたんじゃないかとやっと気づき始めているのに、社会の支配層は修正を図ろうとはしていません。

 

宗教は、本来は、こうした社会的構造の矛盾に喘ぐ人たちを救い上げるための機能として存在していました。ところが、宗教も、脱宗教であった筈のスピリチュアル世界も、やっていることは、結局は一般社会の構造と同じか、それをさらに激しくしたものになっています。欲望の奴隷状態にあり続けることを承認し(あるいは推奨し)、見せかけの幸福をチラつかせているのです。

 

こんなものが、欲望のヒエラルキー(その結果が格差社会)に疲れ果てて、根無し草となってしまった現代人の心を、救えるはずがないではありませんか。それ自体が、同じヒエラルキー構造で迫って来るのですから。

 

真の「自由」とは何か? それは、束縛が何もない状態。言い換えれば、すべての執着を捨てた状態です。すべての執着を捨てた時、その魂は、完全な「自由」となれるのです。しかしそのためには、欲望の「自由」を滅しなければなりません。欲望の「自由」と、魂の「自由」とは、真逆にある「自由」なのです。だから古来より、「あるがままに生きよ」と、繰り返し説かれて来たのです。

 

自然界を見てご覧なさい。生きものたちはみな、ただあるがままに生きているのが解るでしょう。ところが、人間だけが、そうしようとはしないのです。ヒエラルキーのスケールを作っては、競い合い、そのことで、自分たち自身が苦しんでいる。そればかりでなく、他のいのちにもこの思想をもって介入し、蹂躙し、ついには自分たちの棲家である生態系を壊し、自滅しようとしているのです。それを、人間社会では「進歩」と呼ぶ。

 

もはや、矮小なセクト主義をどうこう言っている場合ではありません。

愛国? 領土問題?

あ〜、小ちぇ、小ちぇ。超小ちぇ。臍が茶を沸かすほど小ちぇ。

なぜ、愛世界、愛人類、愛地球、愛生命、愛宇宙になれないのか?

神は、そのような存在に、あなたを造ったというのに。

4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。