あら、この人ったらまた同じ話をしているわ。友人たちとの会話の中で、そう気づいて、辟易したという経験はありませんか。よっぽど親しい間柄でもない限り「それ、前にも聞いたわ」なんて不粋なことは言いにくいので、多くの場合、周囲の人たちはみな初めて聞くフリをして聞き流しているのではないでしょうか。もしかしたら、その辟易させている側の人間というのが、あなただったりしてネ。
人が、何度も同じ話を語るのは、その人の、そのことについての強い「執着」を証明しています。この場合、聞いて貰いたいわけではないのです。とにかく話したい。ですから、その場に居合わせた人は、交通事故に遭ったようなものです。夢や理想や、今しているチャレンジについて語るのならまだしも、友人たちを前にすると、つい人間関係の問題を夢中になって語り始める人がいるというのは困ったものです。
いま自分が抱えている悩みや、葛藤状態にあるエネルギーを放出することで、楽になりたいという気持ちは解ります。また、有効なアドバイスを求めたいという考えも理解できます。しかしそれが許されるのは、一度きりです。何度も何度も同じ話をするのは、周囲のアドバイスには決して耳を傾けるつもりはない、ということを同時に証明しているのです。
このような、人間関係にともなう「執着」には、大きく二つのタイプがあります。一つは、特定の人物に向けられているケースです。このタイプは、親兄弟や配偶者、恋人などの身近な人物のことをのべつ幕なしに語りたがります。それは殆どが「こんなことがあって困った」という内容なのですが、そんなにしょっちゅう困るのなら、さっさと絶縁してしまえばよさそうなものなのに、決してそうはしません。
理由は簡単で、口では「困った」とは言っていますが、相手の人間が「好き」だからです。別の言い方をすると、その「関係」に依存しているからです。「嫌い」は「好き」の反対ではありません。それはカードの裏表に過ぎず、どちらも相手に関心があるということでは同じなのです。「好き」とか「嫌い」の本当の反対は、無関心です。つまり、無関心では到底いられない状態にある、その腐れ縁を続けているというのがこのタイプです。
もう一つのタイプは、相手はいろいろと変わるのですが、いつも特定の性向やリアクションを示した話を語るタイプです。例えば、人間関係を闘争的にしか見られない人は、自分がいつも誰かから攻撃されており、このように反撃したといった話を繰り返し語ります。また被害者意識の強い人は、自分がいかに周囲から痛めつけられ、不運で幸の薄い人生を歩んでいるか、といった話を語りたがります。
しかし、この両者ともが、自分にそのような傾向があるということにはよもや気がつかないでしょう。こうして、このブログを読んだ後でも、それが自分のことだと気がつく人は、極めて稀なことでしょう。人は、その渦中にある間は、自分がその中にいるとは気がつかないものです。そこから出て初めて、「ああ、自分はあの時、あんな場所にいたんだな」と気づくのです。
そこで、「よき友人」というものが重要になってきます。よく、「他人は自分の鏡」だと言われますが、これは真実です。自分の内奥を見つめるためには、一人で心を静かにして、瞑想をするということが欠かせません。一方、言動というものは、自分の内奥の外部への表出ですから、自分の言葉や行動を知れば、内奥とのブリッジ関係に気づけるのです。それを映してくれるのが、他者のリアクションです。
ですから、「よき友人」というのは、そこをちゃんと指摘してくれる人のことを言います。おべっかを使ったり、お世辞を言ったり、ナアナアの関係にある人というのは、一見あなたをソフトに扱ってくれて、いい気持ちにさせるかも知れませんが、本当の意味で「よき友人」とは呼べません。なぜなら、あなたの成長を考えていないわけですから。ともに成長して行こうという意志もないわけですから。
人間を観察していて、時々「ああ、可哀想になぁ」と思う人に出会います。「この人は、今まできっと、誰からも叱られたことが無かったんだろうな」と。叱られるということは、関心を持たれているということです。誰からも叱られたことが無い、それはネグレクト(無視)されて来たということを意味します。でもそうなった裏には、聞く耳を持たない性向がどこかに隠れていたはずです。
だから、自分を真剣に叱ってくれる人こそを大切にしなさい。
そして何よりも、素直であることと、いつでも変われる勇気を持つことを、心がけなさい。
それと、あなた方が、まだよく解っていないことがあります。解っている人は解っています。でもそれは、ごく少数の人たちだけです。それは、前にも書いた「波動の法則」のことです。ある人が、自分の苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、夢中になって周囲に話している時、その人は、四次元世界(第四霊性密度、心霊界、魔界)に雇われたテロリストになっているのですよ。
敏感な人にはその波動が解りますから、気分が悪くなってきて、その場に居続けるということが出来ません。そこでスーッと離れて行くことになります。
よく、職場の休憩所や食堂などで、不在の人の悪口や噂話を夢中になって交わしているグループを見かけますが、それはお互いに波動を低め合っているのです。その人たちにとっては、そうすることが逆に心地よいのです。それが性に合っている人たちだからこそ、そういうグループを形成できるのです。意識をボーッとさせて眺めてみれば、その一角には、不穏な波動がドーム状に形成されているのがあなたにも分かるはずです。
しかし、一人の人間を考えた場合に、全くの善人という人もいなければ、全くの悪人という人もいないのです。みな両方の性質を併せ持っているのです。ですから、四次元世界からのテロリストがやって来た場合には、その策略に引っ掛からないようにすることが大切です。自分の中にもあるネガティブなエネルギーを、パッと簡単に同調させないように注意しなければなりません。
テロリストとなっている人は、まさか自分がテロリストになっているとは、露ほども思っていません。ただ衝動が沸き起こって来て、そのような苦悩や葛藤、闘争的な気分、被害者的な気分などの「執着」を、辺り構わずに語り出すのです。自分の思考や感情をコントロールしているもう一つの意識が、その瞬間、どこかへ吹っ飛んでしまっているのです。これは、その人のカルマがなせる業なのです。
ですから、その場に居る人たちは、その話に相槌をうったり、同情を示したり、同じような自分の体験を語り出したりしないように注意しましょう。その途端、場の雰囲気はサッと変わってしまいます。すぐに話題を変えてしまうか、あまりしつこいようであればピシャリと言って封じ込めてください。そうすることが、その場の全員を救うことになりますし、その人に気づきを与えることにも繋がります。
傷つけたり、傷ついたりを怖れて、その場の空気に流されてしまっては、傷つくよりも、もっと悪い結果に堕ちてしまいます。いわゆる「忖度(そんたく)」というものは、こうしたネガティブなエネルギーの伝播なのです。ですから、「忖度」ばかりしている人というのは、その内奥が表に出て、顔つきがどんどん悪くなって行くのです。
他方、あなたが、周囲の人たちに自分の人間関係の体験を語る際には、決してテロリストにはならないように、よくよく注意してください。〈話したい!〉という衝動が沸いたら、ひとまず(待てよ)と、心の中で呟いて、この濁流の流れをストップさせてください。そして、一呼吸おいてから考えてみるのです。その体験は、はて、自分にどんな課題を与えていたのかと。
『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師は、最晩年、脳溢血の後遺症で全身が麻痺し、ベッドに寝たきりとなりました。彼女は、エイズ患者のためのホスピスを建設したものの、周辺住民の理解が得られず、二度も焼き討ちに遭って全部を失いました。その彼女が、最期を覚悟して書いた著作の中でこう語っています。「自分がこうなったことの意味はすぐに解った。それは、患者の立場を味わうことだった」と。
自分の身の上に起こるどんなことにも、必ず、その人のための課題が隠されています。人間関係で生じる苦悩や葛藤を語る際にも、そこに注目することが大切なのです。多くの人は、相手のことを一方的に語ったり、「関係」の今の状態を語ることに夢中で、自分のことはすっかり忘れています。しかし相手の存在だけでは「関係」は築けないのです。「関係」には、あなたも関与しているということを忘れてはなりません。
ある日、ある女性から、夫が浮気をしているという話を聞かされました。夫の携帯電話を盗み見したところ、愛人へ宛てたメッセージが見つかったのだそうです。そこには、自分をボロクソにけなし、君だけを愛していると語る言葉があったと。その女性は「わが夫は、なんて卑劣で幼稚な人間なのか」と言います。でも、厳しい言い方ですが、ご主人だけを責めるわけにはいきません。その理由は、もうお解りでしょう。
人間関係を語る時に、人はみな、自分のことを棚に上げて、相手を一方的に非難したり、「関係」の今の問題点を並べ立てます。しかしそれでは、自分の成長の機会に、ちゃんと向き合わないことになってしまいます。ですから、冒頭に書いたように、このような傾向に陥った人は、またその習性にすっかり慣れてしまった人は、いっつも同じ話を周囲に語りゲンナリさせてしまうという、テロリストとなってしまうのです。
大切な友人たちを、あなたのゴミ箱にしてはなりません。他の人と交わる時には、意識して、つねに建設的な話をするようにしてください。失敗や、辛い体験や、葛藤を語るな、と言っているのではありません。語ってもいいのです。ですが、語る時には、起きた出来事そのものではなく、その出来事を通じて自分がどんな気づきを得たのかを語って欲しいのです。そこにフォーカスを当てて欲しい。
それでこそ、体験を語る意義がある。あなたが得た気づきが、他の人の気づきを誘発するかも知れません。それによって、人間関係における新たな理解が進み、愛の人へと近づく一歩を手助けすることになるかも知れません。
要は、ハサミの使いようさ。
辛い出来事、苦しい体験、それらはすべて過ぎ去ってしまったもの。驚くなかれ、今まさに体験していること(-ing)さえもだ。1秒後にはそれは過ぎている。だから、自分が「辛い」とか、「苦しい」と思っている体験は、今は過ぎ去ってしまって、もうどこにもない体験に対して、そういう「意味」を、自分が与え続けているに過ぎないのだよ。解るかな?
いつも言っているように、体験自体が良いとか悪いとかではなく、その時の判断、意味づけが、あなたというパーソナリティを日々創造しているのだよ。不謹慎だと思うかもしれないが、あなたが大切に思っていた人の死すらも、笑い飛ばすことだって出来るんだよ。それが解ったなら、いつまでも魔羅(マーラ)*の手先のテロリストとなっているよりも、その体験を使って天使のメッセンジャーとなってみてはどうかな?
最後に、あなたに大切なことを言おうね。これは究極の一本だ。
すべてを楽しみなさい。
苦しい体験、辛い体験さえも。
あなたが笑って話せるようになった時、ジョークにして話せるようになった時、あなたはその「執着」をすでに手離している。
*魔羅(mara):修行の邪魔をする悪魔