by Rainbow School
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Jump --- 次元を超えた飛躍めざして

このブログを訪れてくれる人はみんな、自己の霊的向上を目指そうと、日々努力されている方たちだと信じています。それは、「魂」に誕生前からインプットされていた行動原理ですので、心を落ち着かせて、素直になって、自分の内面を静かに見つめれば、誰もが、自然にそうした欲求を抱くようになっているのです。ですが、残念なことに、「光への道」を極めんとする人は、いつの時代でも極く極く少数でしかありません。

 

どうしてそうなってしまうかと言いますと、人間は、エゴをなかなか手離せないからです。大我に至らんと欲すれば、小我は捨てなくてはなりません。両者はトレードオフの関係なのです。ところが、人間は生まれた直後から、エゴへの道をひた走り始めます。そのように、社会が出来上がっていますし、あらゆる場でそれが推奨されていますし、親や教師もその道を行くことを強く願うからです。

 

*大我:=大霊=神。大我に至るとは、その意識と自己とが一体となること。

*小我;=自我=エゴ

*トレードオフ;片方が増えれば、もう片方が減るような関係。

 

その結果、エゴを前提に生きることが半ば常識化、習慣化してしまい、もはや誰も、それを「捨てる生活」というものがイメージできません。宗教界や精神世界ですら、エゴをくすぐること(幸運が訪れる人生や、この道だけが唯一最高の道)をエサにして、信者獲得を図っている始末です。

 

そのような状況ですので、エゴをなんとか手離そうと、地道な努力を続けている者は、周囲からは奇異な目で見られ、きっと肩身の狭い思いをしておられることでしょう。あるいは、そんな段階はとうに卒業して、我関せずとばかりに、大らかに、自分の道を歩んでいる方も、中にはおられるかも知れませんね。

 

そこで、友よ。あなたは決して一人ではないということに確信を持っていただきたいのです。同じ道を極めんとする真の友は必ずいます。すぐそばにはいなくても、このメッセージを通じて繋がっている友はいるのですよ。ですから、忍耐、忍耐。今は、中世の時代のように、異端のレッテルを貼られて処刑されるようなことはありません。目立たぬように、ひっそりと、己が道を歩きなさい。

 

エゴは、あなたに幸福感と満足感を与えます。ですから、その誘惑を、みな直ぐに信じてしまいます。まるで、巧妙な詐欺にあうようなものです。しかし、この幸福感と満足感は一時的なものであって、決して長続きはしません。一時的な幸福感が過ぎ去ってしまうと、それを再び味わいたくなって、あるいはもっと強く味わいたくなって、自分のエゴをさらに強化していく道へと人は進むのです。その一方で、一度得たものを失いたくないという恐怖心が首をもたげて来る。

 

人間の「悩み」の大半は、結局、これが原因なのです。自分の欲で、自分を苦しめている。それが、お金であっても、財産であっても、地位や名声であっても、名誉や栄誉であっても、恋人であっても、パートナーであっても、自分の子どもであっても、みんな出所は同じ。欲しいという気持ちと、得たものを失いたくないという両方の気持ち。これがある限り、生涯「悩み」は消えない。

 

誰かに自分の「悩み」を打ち明ける。カウンセラーや精神科医に自分の「悩み」について相談する。そうすることで、一時は気持ちが楽になったり、悩みが解消されたように感じることもあるかも知れません。しかしそれも、幸福感や満足感と同じで、やがては過ぎ去ってしまいます。そしてほとぼりが冷めると、その人はまた、自分のエゴをベースに、「悩み」を創造(クリエイト)することになるのです。人の一生は、その繰り返し。

 

ですから、その繰り返し状態から完全脱出するためには、自己の底辺に流れている、このエゴという川から外に出なければならないのです。エゴの川にどっぷり浸かっている限りは、そこでどんなにもがいたとしても、その流れの強さにたちまちにして押し流されてしまう。そこで、川から出て、陸に上がるということが必要になって来るわけです。それが「捨てる」ということ。川を離れるということです。

 

でも、エゴという川を捨てて陸に上がるためには、その前に、自分はいまエゴの川の中に浸かっている状態にあるんだ、ということに気がつかなければなりません。先ずそこに気づかなければ、出ようがない。結局、これがみな分からないのですね。川の中にいる人にとっては、そこがむしろ陸地に見え、陸の方が、落ちたら死ぬかもしれない危険な川に見えるのです。そこで、あっち側に一歩を踏み出すことをみな躊躇する。

 

ですから、ハイ・ジャンプが必要なのです。思い切って、ポーンと踏み出す勇気。とにかく先ず陸に上がってみる。しのごの言わず、先ず上がる。上がった直後は、服もまだビショビショに濡れていて、しっくり来ないかも知れません。でも自分の姿をじっくり観察してみれば、服の袖や裾から、エゴの滴がポタポタと落ちて行くのをあなたは目撃するはずです。そうして、服があらかた乾くようになるまでには、数年を要することでしょう。いやもっと、数十年かかるかも。

 

でもね、ここが肝心。最初の一歩がなければ、その後だってないのですよ。とにかく、第一歩。Jump、Jump、Jump! だから、思考をやめるのです。判断をやめるのです。他者にお墨付きを求めようとするのをやめるのです。損得勘定をやめるのです。アクセルとブレーキを一緒に踏むクセをやめるのです。過去を振り返ったり、将来を考えることをやめるのです。

 

今ここ。今ここのあなたがすべて。

そしてこの瞬間が、あなたを変えるパワーポイント。

 

「私は自由だ!」と叫びなさい。そしてジャンプするんです。

そこから、あなたの見る世界が変わる。

やがて何もかもがひっくり返る。まるでメビウスの輪のように。

表が裏に、裏が表に。

 

いつまでも川の中にいて叫んでいるようじゃあ、真理には到達できない。「光への道」へは進めない。なぜなら、川の流れ、つまりこの世で定めたスケールの中でしか、その人は動けないのだから。

そんなものじゃないのですよ。そこでは、次元を超えた飛躍が待ち受けているんです。常識人には、その飛躍の意味が解らない。

 

この『気づきの啓示板』では、信仰や戒律を否定しています。倫理、道徳も、そんなものは不要だと言っています。なんでもありだ、自由なんだと言っています。信仰の貴さを説いたり、倫理、道徳の必要性を説くのは、まだ川の中に浸かっている者たちの論理。その段階も経なければ、人類は気づけないのかも知れません。けれど、「光への道」は、その次元を、超越したところにあるのです。

 

本当にジャンプしてしまえば、真理をつかんでしまえば、そんなものは一切不要だということが解ります。なぜなら、大我=神我というものは、そもそもそうなのだから。あれこれ屁理屈も不要。しかし、屁理屈が不要ということを知るためには、先ず屁理屈をこね尽くさなければならない。次々と湧き上がる問いに答えを見い出さなければならない。それはちょうど、自分探しの旅は本当は必要なかったんだということを知るために、わざわざ長い旅に出ることと同じです。

 

次元を超えてジャンプした者の行動は、完全に道徳的なものになるし、その人の在り方は、宗教信仰者よりも信仰篤い人のように映ることになる。また、内なる声に従うことを徹底して生きる寡黙な人は、誰よりも強い信念を有する人に見えることでしょう。でもそれは、その人が、倫理的、道徳的であろうと努力しているわけではないし、特定の信仰心や信念を持って生きているわけでもないのです。

 

すべては自由。ただ、ありのまま。

 

同じように、利他だ、支援だと言っているうちはまだまだで、すべては自分のためにやっている、誰のためでもなく天に奉仕している、と極めて利己的に語る人の方が、真の奉仕とは何かということをずっとよく解っているのです。けれども、人々には、それが理解できない。エゴの川に浸かり続けている人には、そのスケールでしかものを見れない人には、ただの奇人変人にしか見えない。だから、そういう人には異端者の烙印を貼って、投獄するか処刑して来たのです。

 

ところがそれも、一度権威づけが為されれば、まるで手の平を返したように態度が変わる。その者は、神の代弁者だから絶対だとか、言行録に書かれてあることは全て正しい、などと言い出す。そして、今度はそれを疑う者たちを許さない。結局、大衆が求めているのは、いつの時代でも「権威」なのであって「真理」ではない。そのエゴの心理につけこんで支配を目論む者たちがいることに、人々はまったく気づかないのです。

 

だからね、「言葉」じゃないんですよ。言葉に惑わされる人が時々いますが、そうじゃないんです。「信仰」が大切なのか、不要なのか。「信念」を持つということが貴いものなのか、忌むべきものなのか。そんな議論など、どうだっていいんです。言葉は、単なるレッテルに過ぎない。問題は、その中身です。ホンモノには次元を超えた飛躍があるのですよ。

 

自分を縛り付ける、あらゆるものは不要なんです。ただただ素直で自由であればいい。それだけのこと。でも人間たちは、それでは決して満足しない。ありとあらゆる機会を通じて、自らを縛る方策を考え出す。そして、他者を縛り、自分も縛って、それによって互いに苦しみ、憎しみ合う。ああ、なんてお馬鹿さんたちなのでしょう。「今ここ」でジャンプして、宇宙に、このわたしに身を預げればいいだけなのに‥‥。

 

「気づき」の体験は、あなた固有のもの。他の誰にも、そこには介入できないし、まとめ上げて組織化することも出来ません。ですから、「この道しかないぞ、こっちへ来い」と主張する者はすべてニセモノです。どんな道だってあるんです。だから、もう、誰かに判断を仰ごうとすることはおやめなさい。あなたは、あなたの道を行きなさい。自分を信じて、自分の声に耳を傾けて、堂々と、力強く歩きなさい。

 

頂きは一つ。どんなルートを通っても、最後には到達するのです。

最初の一歩を、あなたが踏み出しさえすれば。

脱出したいのなら、なぜ自分を救ってあげようとはしないの?

このブログに掲載しているメッセージは、何よりも先ず、人間が霊的存在であるということを自覚し、「今生で、もっともっと霊的な進化を遂げたい」と心底から希求する人たちに、少しでもお役に立てれば、というささやかな思いから発信しています。

 

しかし、ここでしていることは、古代からずっと変わらず言われ続けて来たことを、現代のツールを使って、現代の日本語で、現代人のハートにも届くようにしているだけのことで、内容的に新しいことは何一つありません。でもその試みを通じて、不変的、かつ普遍的で不偏的な真理が、宇宙には確かに存在するのだということに気づいてくれる人が増えれば、望外の喜びなのです。

 

そのために、みなさんが、これを踏み石にしてくださればそれでよいのです。いやむしろ、次世代を担う方には、これを踏み石にして、強く、大きく、ジャンプしていただきたい。そして、ご自分が出来ることを通じて、世の中に貢献し、明るいバイブレーションを周囲に広げてもらいたいのです。

 

この『気づきの啓示板』が創られた目的の一つは、日本全国に散らばっているユニバーサル・メンバーたちのエンジンを始動し、各人に、今生での役割を思い出してもらうよう奮起を促すことです。その目的は、最初から明確だったわけではないのですが、やって行くうちに、だんだんと私の中にそのような自覚が芽生えて来たのです。自分の役割は、そのための踏み石になるのだと。

 

そして、それを実行する過程で、自分がいかに愚劣で情けない、取るに足らない人間であるかということを曝け出して来ました。また、なかなか心を治められずに、心理的、精神的な葛藤にさいなまれ、パニックや鬱になったり、神経症になったりした体験も語って来ました。これは、ユニバーサル・メンバーの人たちが陥り易い傾向に関して、(先輩の?)私が「大丈夫だよ」と言ってあげたかったからです。

 

しかしそのことで、パニックや、鬱や、神経症を患っている人たちの中に、救いを求めてこのブログを訪れてくださっている方がいらっしゃるようです。そのお気持ちはよ〜く解ります。私にもそういう時期がありましたから。でも、その方たちに言ってあげたいんです。いつまでも救いを求め続けていてはダメですよと。なぜ、自分で自分を救ってあげようとはしないのですかと。

 

大海原で溺れかけている人がいます。その人は、「助けて〜、助けて〜」と、残った気力で必死に叫んでいます。そこへ、運よく救命ボートに乗った救助隊員が駆けつけて手を差し出す。「さあ、この手に捕まれ!」。でも、その溺れている本人に、ボートに這い上がる意思がなければ、いかに優秀な救助隊員だったとしても、その人は救えないのですよ。自分を救うのは、最後の最後は、自分の「這い上がろう」とする意思なのです。

 

自分が鬱だったころ、救いを求めて、ある自助グループの会合に参加したことがあります。参加してみて驚きました。交わされる会話の内容が、各種の薬剤の名前と、いま何mg飲んでいるかという話に終始していたのです。薬を飲んでいなかった私にはまるでチンプンカンプン。その雰囲気に、「ヤバい、こんなところに居たら、鬱病になっちまうぞ!」と直感が教え、それからもう二度と行くことはありませんでした。

 

そもそも、「自助」という言葉と、「グループ」という言葉が繋がるのは矛盾です。「グループ」を組んだら「自助」にはなりません。それは、ただの助かりたい人たちの慰め合いの場になってしまいます。そのうちに、そこに参加する人たちの間に、ある共通意識が芽生えて来る。「私を理解してくれる人は、この人たちしかいないんだ」。そうやって、しまいにはグループから脱けられなくなる。

 

こうなったら、いったい何のためのグループであったのか、解らなくなってしまいます。その状態から卒業することが、脱出することが、そもそもの目的ではなかったのでしょうか?

 

ですから、この『気づきの啓示板』も、いっときは慰めになったとしても、そこから出来る限り早く卒業することを考えて、今ここで、(自分が出来る)アクションを起こさなければ、結局は自助グループと同じような位置づけに終わってしまいますよ。2年も、3年も、4年も、慰めを求め続けていては、この先もラチが開かないのは明白ではありませんか?

 

『気づきの啓示板』は、慰めの目的に用意されているのではありません。あなたは蝶なのです。いつまでもサナギのままでいようとすることは、あなたにとって不自然極まりない。これまでのメッセージを振り返ってみれば、高次の存在からは、終始あなたをサナギから蝶へと羽化させるためのヒントが語られて来たということが、あなたにもお判りでしょう。

 

苦悩の状態から、いかに脱出すればいいかは、すでに語り尽くされているのです。あなたを縛っているのは、あなた自身の頑固な思い込みです。ですから、せっかく「自分が楽しいと思えば、楽しいんですよ」「自分が幸福だと思えば、幸福なんですよ」と言ってあげたとしても、自分を解放する意思のない人は、「そんなこと、とても思えない」「不可能だ、出来ない」とすぐに言う。

 

一度も、やってみようともしないで。

 

そういう人に掛ける言葉は、もうありません。溺れかかっている海から自力で這い上がろうとする意思のない人を、いかに神といえども、救ってあげることは出来ないのです。その海の、混沌の中に居続けることが心地よい人を(本人は、口では「苦しい」と言いますが)、無理やり引き上げることは出来ないのです。なぜなら、その決断は、その人の自由意志の範疇にあるのですから。

 

あなた方の大多数は、ご自分が、何者かに絶えずコントロールされているという事実に、全くと言っていいほど、気がついていません。あなたは、その者に完全に支配されているのです。その、いつも自分をコントロールしている者とは、いったい誰だと思いますか? あなたですよ。あなたのコントロール意識が、あなたの意識の大部分をつねに支配しているのです。

 

ところが、自分のコントロール意識と、それ以外の意識との区別がついていません。別の言い方をすれば、コントロール意識の中に、その他の意識がすっかり埋没してしまっている。まさにコントロール意識の海の中に、自分が溺れた状態です。すると、野放し状態のコントロール意識は、必然的に、その人特有の心グセを優先的に行使するようになるのです。

 

本能タイプの人は本能的に行動し、感情タイプの人は感情的に行動し、思考タイプの人は思考的に行動するのです。しかし、自分がそのような心グセのパターン、ひいては行動パターンを持っていて、始終これを繰り返しているということに、大多数の人は気がついていません。その状態に埋没しているからです。実は、これこそが、その人特有のカルマを表わしているのです。

 

同じような体験をしても、怒る人、悲しむ人、恨む人、理屈を述べる人、やり過ごせる人、と様々なのはそのためです。たとえ同じインプット情報に接しても、その人のカルマが、特有の思考と行動のパターンをアウトプットするのです。ですから、そこに気づくということが、カルマ脱出の糸口となるのです。

 

一方、その人の周囲には、その人の意識に影響を与えている様々な環境要因が存在します。自分が育ってきた環境、現在の家族、家、学校、職場、そこで出会う人々、メディアから流れるニュース、社会通念、SNSでやり取りする情報等々。今後は、これにAIとロボットが大きな影響力を持って加わります。その時、自分のコントロール意識を意識していない人は、外部環境の情報にいとも簡単に影響を受けてしまうのです。

 

これが、要するに「洗脳」です。「洗脳」と言いますと、普通は○○という団体に洗脳されているとか、ある人物に洗脳されたとか、特定思想に染まっているとかと言うのですが、厳密にはそうではなく、それらに染まった自分のコントロール意識によって、自分を支配するようになったということなのです。ですから、この部分での気づきがない限りは、いくら説得を試みても「洗脳」は解けません。

 

図を見てください。

あなたの意識は、一様なものではなく、多層構造から成り立っています。

 

普段、あなたが動かしている意識は、主に脳が情報を処理することによって形成したものです。しかし、あなたの意識全体を支えている本体(コア)は、実は「魂」にあるのです。なぜなら、脳というのは単なるハードウェア、演算処理装置に過ぎないからです。

 

ですが、多くの人はこのことを知識として知りませんし、「魂」レベルの意識を意識したこともあまりありません。でも、あなた方は、しょっちゅう意識的混乱(confuse)に陥っている自分というものを経験しているでしょう。これは、脳が創り出している意識と「魂」の意識とがぶつかって、綱引きをするためなのです。

 

「魂」の意識は、宇宙意識と常時つながっていて、その最奥では、実は誰もが「宇宙の真理」を既に知っているのです。ところが、この物質世界を生きるために用意された五感センサーが、あなたに物質世界で起こることの様々な幻想を見せます。すると、コントロール意識が影響を受けて、なにがしかの「観念(信念)」を創造し、意識全体をその支配下に置いてしまうのです。簡単にいえば、自分に特定のカラーの色メガネを掛けてしまうのです。

 

あなた方の多くは、身体を持つ自分こそが「私」であると固く信じ込んでいますので、こうして創造された「観念(信念)」で、自己の「魂」の意識にもフタをしてしまいます。霊界なんてものはないんだとか、たまに触れても、錯覚だとか妄想だとかと言って、切り捨ててしまいます。この結果、宇宙意識とのつながりが断たれ、幻想世界での右往左往を繰り返すという状態になってしまうのです。

 

また、それだけではなく、この特定の強い「観念」つまり囚われが、「魂」にその印を刻み込み、これがチャクラに堆積してカルマとなり、その「魂」特有の霊性や人格を作り上げるのです。しかし、いま言ったメカニズムを理解している人は殆どいませんので、カルマ解消のために、せっかくこの世という物質界に輪廻転生して来ても、またしても自分のカルマに縛られて、何度も何度も同じ過ちを繰り返してしまうのです。

 

けれども、コントロール意識が、自分の外側ではなく、ベクトルを反転させて内側に向かうと、つまり内観するようになると、コントロール意識は、この「魂」の意識をキャッチするようになります。すると、宇宙意識がしだいに目覚め、その人は、自然と霊主体從の思考と行動様式を取るようになっていくのです。そうなるための最高のツールが「瞑想」なのです。

 

*なお、この際には、先ずコントロール意識を、「観察者の意識」に変えるということがポイントです。それによって、本能や感情や思考に埋没している自分の意識を外側から眺め直し、ありのままを観察するのです。その後、意識を内側に向けます。しかしこれらのテクニックは、みな修養の途中段階のもので、最後は芯と表をひっくり返して、「魂」の最奥レベルの意識で、全体を一つに統一してしまうことになります。

 

このメカニズムを知れば、現代人が、今どれほどの脅威に晒されているかということが解るのではないでしょうか? 須磨穂教の熱心な信者となって、一日中画面を見続けているような人に、内観する時間は全く訪れません。そこにさらに、ロボットとAIが、これから無制限に加わって行くのです。これからの人間は、文字通りの「魂」の脱け殻、ただの奴隷ロボットと化して行くことでしょう。

 

ですから、あなたが、今後も「魂」を有した人間として、この惑星に生き続けたければ、まるで大津波のように押し寄せてくる、この時代の同調圧力に抗って、自分のコントロール意識というものを、今以上に意識し、それを点検し、そして内観し、内なる声に静かに耳を傾けて、本当の自分、真実の自分を思い出して行くしかないのです。すべては、そこに掛かっているのです。

 

もう、いつまでも同じ場に留まって、逡巡している場合ではありません。あなたは蝶なのです。サナギであり続けることを止めなければ、そして羽化しなければ、自分がどんな羽を持った蝶であるかは判らないのですよ。先ず、脱皮しなさい。あなたはあなたです。いったい何を怖れるのですか? 朝顔の種は朝顔を咲かせ、胡瓜の種は胡瓜を実らせる。そこに迷いがあるでしょうか?

 

自分が幸福だと思えば、その人は幸福。自分がいま楽しいと思えば、その人は楽しい。実に簡単なことです。これ以外の何の秘密があるというのでしょう? 幸福への秘訣は、全部ここに集約されているのです。それを、「そんなことは思えない」「不可能だ、絶対に出来ない」という人の頑固さを、さらに解かしてあげられる言葉を、わたしは持ちません。

 

それほどまでに救われたいのなら、どうして、自分で自分を救おうとはしないのでしょうか? ただ、ありのままの自分に還ればいいだけなのに。鎧や仮面を全部脱いでしまえばいいだけなのに。自分の中にある、素直さと、正直さと、普遍的な愛を、ただオープンにしてしまえばいいだけなのに‥‥。

 

何も持たなかったら、失うものだってないじゃないか

君は透明人間みたいなものなんだよ、だから隠す秘密も何もない

    ボブ・ディラン(Like a Rolling Stone)

 

いったい何に、いつまでもこだわっているの?

 

言ったでしょう。この世は劇場で、あなたのドラマは、つねにあなたが主役。それをどう演じるかは、あなた以外には決められないのですよ。待っていても、誰かが何とかしてくれることはないのですよ。本当に救われたいと思うのなら、ご自分を動かしなさい。自分で自分を救いなさい。

 

悩める人よ。

脱出(Exodus)したければ、

これ以上、しのごの言わず、とにかく先ず動け!

Move, Move, Move.

 

「信」が持つ力を、利用して生きる

前回のメッセージを読んで、こう思われた方はいないでしょうか?

じゃあ、「素直で、正直に生きよう」という「信念」を持って生きている人は、どうなるわけ? それだって一つの「信念」だよね。その人も、必ず「嘘」をつくということになるわけ? でもそれって、矛盾してやしませんか?

 

そう思った人は鋭い! えっ、そんなこと全然考えもしなかったって? う〜ん、その人はあんまり鋭くないですねぇ。いつも言っているじゃありませんか。このブログに書かれてあることを含めて、外から来る情報は一切「信じ」てはダメだって。鵜呑みにしてはダメなんだって。疑って、疑って、自分の「直観」の中に答えを見出すんです。それだけが、あなたが信じていい唯一のこと。

 

もしもその人が、「素直で、正直に生きる」という「信念」を固く胸に抱きつつ生きていたとしたら、その人は、やっぱり苦しむでしょうね。「信念」というのは、結局のところ、自分を縛る鎧ですから。つまりそれはぜーんぜん「素直」じゃない。素直なフリをしようとしているだけ。そう演じることで、本当の自分に、真実の自分に、やっぱり「嘘」をついているんですね。

 

例えば、これを正直に言ったら、明らかに相手を傷つけてしまうと分かっていることがあるとしましょう。あなたはそれを、ただ「正直であるべきだ」と金科玉条的に考えて、その通り告げることを選びますか? ルールを決めれば、確かにそれは楽かも知れません。でも、人間関係の学びにはならない。告げた方がいい場合もあれば、告げない方がいい場合もある。だからこそ、学習機会になるのです。

 

「素直さ」というのは、特定のどんな信念も保持し続けないということです。たとえ直前まで何かの信念を持っていたとしても、「気づき」が起きた瞬間に、それをパッと捨てられるということ。改められるということ。いつでも自分を変えられるということ。自分が間違っていたということに気づいたら、すぐに謝れるということ。それが「素直さ」というものです。

 

「素直で、正直に生きよう」と心掛けることと、それを特別意識しないでも実現できていることとは、次元が違うのです。「意識」の置き場所がちょっと違うんですね。「素直で正直」というのは、いったい誰に対してのことだと思いますか? 自分ですよ。己れに「素直で正直」である人は、結果的に、他者に対しても「素直で正直」になれるし、周囲にもそのように映るんです。ただ、それだけのこと。

 

でも、言うは易し行うは難しで、素直で正直に生きることを、意識しなくても実現できているようになるまでには、何年も掛かる。いつも言っているように、「解る」には三段階がある。先ずは全然解らないし気づかない。次に、あることにパッと気づく。そしてストンと腑(体の内)に落ちる。その後に、自分の中の細胞が少しずつ変わり始め、何年かすると、遂には新しく芽生えた意識と自分とが一体化してしまう。これが、本当に「解った」ということ。

 

ですから、何にも増して、その人に「気づき」の瞬間が訪れなければ、その先の三段階めはないのですよ。そしてその瞬間は、その人が、それを受け取る準備が出来た時にだけ、グッドタイミングでもたらされるのです。だからなおのこと、「素直で正直」であることが重要だというわけ。「信念」という盾で凝り固まった人たちは、自分に贈られたせっかくのメッセージを、みんな撥ね退けてしまいますからね。

 

さあ、解ったかな? あなたが、ただ「素直で正直」でありさえすれば、メッセージはどんどんもたらされるのだよ。真理の知恵は、いわば大海のようなもので、それはいつもあなたの周囲に流れているのです。それを、気づかずに素通りして生きるのか、欠けた小さな盃に受けるのか、大きな鉢でたっぷり受け取るのか、穴の空いたザルで汲みに来るのか、その違いだけなのです。

 

あなたの上にこぼれ落ちたしずくが、たとえ一滴だったとしても、それを見逃さずに、心底ありがたいと思って飲み干せば、あなたの器はどんどん大きくなるのだよ。それは、幾何級数的な発達をもってね。その発達段階を、上手に乗り切る方法を、今日のこのタイミングで特別にあなたにお教えしよう。それは、「信」が持つ力をうまく利用するとよいのだよ。

 

先ほども言ったように、たとえ瞬間的に何かの「気づき」を得たとしても、その先に進んで、本当に「解る」という段階に至るまでには何年も掛かる。焦る必要は全くないのですが(というのは、宇宙は永遠の無時間だから)、多くの人はせっかくの「気づき」を得ても、直ぐに、これまで吹き込まれて来た価値観で、まるで黒板消しを走らせるようにサッとそれを打ち消してしまう。

 

これが、地球人の覚醒がなかなか進まぬ大きな原因なのですね。ですから、一つの「気づき」を得たら、次にはそれを意識に上げて、留め置くことが大切です。このようにして、自分の意識を意識することによって、顕在意識の奥にある超意識の扉が少しずつ開かれて行くのです。そして、これを習い(習慣)にすれば、あなたの霊性は、やがて幾何級数的な発達を見せるようになるのです。

 

その際に、途中段階にある間は、また葛藤で苦悩する間は、「信」が持つ力を利用すればよいのです。「信」は、自分を変身させる強力なツール。「信」が、あなたという人間を育て、あなたの個性を形づくっていると言っても過言ではありません。試しに、私が「あなたは誰ですか?」と訊いたとしましょう。あなたは、あれこれと説明をします。それは、あなたが自分に対して持っている「信」に他ならないのです。

 

けれど、普通の人は、そんなことを考えたこともありません。自分の意識を意識することもなく、まるで夢遊病者のように暮らしているのです。ですから、古来より「目覚めよ」とか「眠りから目を覚ませ」と言い続けられているのです。多くの人は、自分がちゃんと目を覚まして活動していると思っています。でも実際には、集団催眠術に掛かっていることを知らないのです。

 

ここで「思念」というものが、あなたが形づくる世界に、どう働いているかを改めて考えて見ましょう。この例は前にも書きましたが、あなたが今晩の夕食を作って食べたとしましょう。それは、あなたが献立のプランを描き、実際に材料を買い求め、それを手順を考えて調理し、皿に盛ってテーブルの上に並べたから、それが夕食として現実化したのです。

 

このように、現実化しているものの前には、それに先立つ「思念」が必ず作動しているのです。あなた方は物質界に生きているので、物質界で起きていることのみを「現実」と捉えていますが、そうではなくて、数ある思念のうちの、特定の物質化された世界を、選択的に生きて、それを確かな「現実」だと思い込んでいるだけなのです。

 

でも、このことを、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでは、先ほども言ったように至難の業で、取り敢えずは「そんなものなのかなぁ」という程度のものを、頭の片隅に意識して置いておくしかありません。がしかし、思ったものが(少なくとも思ったものの一部が)現実化している、という法則がそこに働いているということには注目して欲しいのです。

 

*至難の業:それを獲得するのが難しいのではなく、それまでを捨てることが難しい。一種のパラドックスです。

 

さてそこで、この世界には今、あまりにも多くのネガティブな「思念」が飛び交い、これらで全世界が溢れ返っています。日増しに空気がトゲトゲしくなっている。でも、「波動」というものを峻別することが出来ない大多数の人たちには、勿論そんなことは分かりません。でもこれが、人々に影響を与えないわけがないのです。それぞれの人の深部では深刻な影響を与えているのです。

 

敏感で内向的な人たちは、今の荒れた「波動」が渦巻く社会に息苦しさを覚え、自然と他人との接触を避けるようになっています。さらに、それが昂じると「精神疾患」のレッテルまで貼られ、二重に苦しんでいるのです。一方の鈍感で外交的な人たちは、無意識的に、粗い「波動」に同調することによって生き残りを図ろうとし、ますます威圧的に、差別的に、暴力的に振る舞う傾向を強めているのです。

 

はっきり言って、社会全体が病んでいます。しかしその病んだ社会に、なおも同調するように仕向けられているのが、現代というものが持つ社会病理なのです。こうして、病んだ人たちが多数生み出され、その人たちがまたさらに病んだ社会を創り、その社会がさらに病んだ人を生み出す、という悪循環がエスカレートしているのです。これが、地球人類全体が催眠術に掛かり、まるで夢遊病者のように暮らしていると言うゆえんです。

 

どうして、この悪循環をストップできないのでしょうか? それは、地球人類が未だに無智なためです。この宇宙の成り立ちを知らない。この世を動かしている本当の道理を知らない。ただ宇宙の真理について無智なだけではなく、外から来る情報には直ぐに心を動かされ、夢中になり、これを「信じ」てしまう。ですから、この世を操ろうとする者たちの術中に、簡単に落ちてしまうのです。

 

ですがここで、「思念」が現実を創造するという法則を思い出してください。あなたが、歳をとってから生活に困るぞ、とまるで呪文のように思い続けていたとしたら、実際に困るようになりますし、健康診断を受けなければ病気なるぞ、と思っていれば病気になります。少なくともその可能性が高くなる。そういう「思念」が現実を創造するからです。

 

同じように、第三次世界大戦が起こる思っていれば、世界大戦になりますし、大地震が来るぞと思っていれば、大地震が来ます。そう思う人々の意識が集まって、臨界量を越えれば、それが現実化します。そう思って、今の世の中を改めて見てください。いかに人々の不安を掻き立て、心を粗げさせ、欲望を刺激するものばかりで溢れ返っているか。政治も、経済も、ニュースも、広告も、それらで埋め尽くされていることが分かるでしょう。

 

でもここで考えてみてください。そのようにメディアを通じて発信されている社会通念と、あなたの人生とに、いったい何の関係があるというのでしょうか。そんなつまらない、くだらない、意図的に操作された、どうでもいい情報を仕入れなくても、あなたは生きられる。いや、むしろ、その方が生き生きとあなた自身を生きられる。これが、再三言っている「あなたはあなた」ということなのです。

 

あなたは、あなたの人生を生きれば、それでよいということ。何も、病んだ社会に適合する必要も無ければ、自分からわざわざ巻き込まれに行くこともないのです。しかし周囲は、また洗脳された人々は、それでもなお、腐った社会に同調するように、プレッシャーを与えて来るでしょう。でもそんなものは、勇気を持って撥ね退けなさい。街角で差し出されたティッシュペーパーを「結構です」と断るように。

 

代わりに、「信」が持つこの力を逆利用するのです。ネガティブな「信念」が、いかにその人に悪影響を与えているかということが解ったなら、その力を活用してポジティブな「信」に変えてしまうのです。私はすこぶる健康だと思えば、その人は健康ですし、いつも元気だと思えば元気いっぱいです。やることなすことみんな楽しいと思えば、毎日が楽しく送れるのです。これが、いつも言っている「持ち替える」ということ。

 

ゴールまでの道程は遠いかも知れません。でも、その遠さに圧倒されて、今日の一歩を踏み出さなければ、あなたの進歩は永遠にないのです。どんなに遠い道であっても、今日一日という時間を、明るく、楽しく、元気よく歩けば、そう思い込めば、道々で出会うものの意味が違って来るのです。そのために、「信」の力をポジティブに活用しなさい。

 

この世は、所詮は幻なのですよ。幻だと知った上で、取り敢えずのポジティブな「信」を生きるのです。木々の緑の中に、生命の輝きを見ようとしてご覧なさい。湖上の水のきらめきに、妖精が踊っているのを見ようとしてご覧なさい。憎い相手の心の奥にも守護霊の愛があることを見ようとしてご覧なさい。それを習慣づければ、少しずつ少しずつ、あなたは真実の自分に近づく。

 

そして、やがて気づく。もはや「信」など必要ないことを。

ただ、ありのままの自分で、よかったのだということを。

信念を持った人は、必ず嘘をつく

キリスト教系(聖書系と言った方がいいのでしょうか?)の某教団の人たちが、また山奥の家まで勧誘にやって来ました。これで都合3回目です。しかし今回は、家の修繕作業の真っ最中だったので、手が離せないと言ってお引き取りを願いました。ですがその時に、余りにもしつこいので、ちょっと余計なことを言ってしまいました。

 

「あなたたちは、どうしていつも二人で来るんですか? 一人で来ればいいじゃないですか」と。

すると、相手のうちの一人がこう答えました。

「物騒ですからねぇ」

それを聞いて、なんてぇ真実味のない答えなんだ、と私は思いました。

それが嘘だということはすぐに判りました。顔が「嘘だよン」と言っていましたから。

 

もし「物騒だから」と言うのが理由なら、こっちは一人ですよ。そこへ、二人組でズカズカと敷地内へ入って来るんですからねぇ。一体どっちが物騒かということになるじゃありませんか。

その時、思わず口から、続けて次の言葉が出てしまったのです。

「そうじゃないでしょ。お互いに監視し合ってるんでしょ」

 

言った後で、しまったぁ、と思いました。私のイジワルな部分がポロっと出ました。それは、彼女たちが考えてみもしなかったことらしく、表情がサッと険しくなりました。(なんてこと言いやがるんだ、このおっさん)という怖い眼つきでした。どうやら、グサリ!とやってしまったようです。ま、これで、もう来てくれなくなればいいんですけどネ。

 

宗教の勧誘では、いやーな思い出があります。あれは確か18歳頃だったと思います。当時、私が通っていた学校は一クラス45人くらいだったのですが、毎年10人くらいが留年したり退学したりしていくのです。そうやって退学した一人に、K君がおりました。K君とは特別親しかった訳では無かったのですが、彼が退学してから一年ほど経ったある日、そのK君から電話が掛かって来ました。

 

「君にどうしても相談したいことがある」と言うのです。「何、相談って?」と訊くと「電話では話せないんだ」と。「直接会って相談したい」と言うのです。聞けば、「今は東京の原宿に居る。どうか来てくれないか」と、切羽詰まった様子で話すので、力になれるものならなってあげたい、という私の中の余計な親切心が動き出しました。

 

今と違って、新潟県の田舎から東京へ出掛けるのは大変です。まさに一大イベントという感じです。もちろん学生でしたから電車賃もありません。それをなんとか工面して、ようやく指定された日時に、彼のアパートまでたどり着きました。すると彼がこう言ったのです。「ここじゃ話せないから、別の場所へ行こう」と。そうか、喫茶店にでも行くのかなと思って、彼の後をくっついて行った先で、私は「あっ」という事態に遭遇するのです。

 

そこは広さ10畳ほどの和室の集会所で、私が入ると、後ろでバタンと扉が閉じられました。見ると、目の前には10人ほどの男女が円陣を作っていました。そして、その輪の中に入るようにと背中を押されました。(いったいこりゃなんだ?)と、目を白黒させる事態となったのですが、少しして、いくらおバカさんの私にも、それが何であるかがようやく呑み込めて来ました。

 

気が動転していたので、その時どんな会話があったのかはもう覚えていないのですが、冷や汗タラタラで、約2時間ほどをそこで過ごしたと思います。その間、教団のパンフレットやら、書籍やら、その教団の広告塔であった歌手のビデオやらを見せられ、こっちの方が「困っちゃうな」「どうしよう」「胸がドキドキしちゃう」という状態で、ただただ時の過ぎるのをじっと待ったのです。

 

ようやく解放された時、K君を含めたその場に居た人たちは、みんな一様に沈んだ表情をしていました。それは、「東京までわざわざ足を運ばせてしまって申し訳なかったね」というものでは、勿論ありません。「あーあ、落とせなかったナ」という顔です。でも今にして思えば、その不愉快な経験も、私には必然だったのでしょう。40人近くいた元同級生の中で、私をなぜ標的に選んだのかということですから。

 

それが、宗教であれ、倫理道徳であれ、政治であれ、国家意識であれ、防衛意識であれ、金儲けであれ、出世であれ、美意識であれ、科学信仰であれ、発展という考えであれ、人間関係のあり方であれ、何であれ、「信念」を持った人というのは、必ず他人にも自分にも嘘をつきます。なぜかと言えば、その「信念」を基軸に生きることが、絶えず優先されるからです。それは、自分が「素直で正直」であるということを、いとも簡単に凌駕してしまうのです。

 

素直で正直であるということは、結果的に、瞬間瞬間で絶えず自分を変えていくということを意味します。変わること、変えることを少しも厭わないということです。でも、考えてみてください。自分が変わることを厭わないからこそ、その人間の進歩というものがあるわけですね。そしてこれは、宇宙の諸行無常、生々流転の真理に、まさに合致した生き方でもあるのです。

 

ところが、この世の価値観は真逆です。朝令暮改を非難し、「ブレる」を悪いことの代名詞のように語り、強い「信念」を持つ人間が、各界で先生と呼ばれて崇め奉られ、持てはやされるのです。そして、人々は、自分もそうでなければいけない、と思い込む。それは、諸行無常の真理を解ろうとはせずに、「手離す」ということがなかなか出来ない人間が背負った、浅はかな業です。

 

でも、感情や思考の、さらに奥にあるものを見つめて、捉えて、それに従えば、人は、本来の「素直で正直」な自分に帰れるのです。

 

松田優作さんと桃井かおりさんが出演したテレビドラマに『春が来た』(向田邦子原作、1982年)という作品があります。お二人は、意外にも共に文学座出身で(文学座カラーをまるで感じさせません)、話が通じ合うかなりの仲良しだったそうです。このドラマは、松田優作さんにとっては、それまでのアクションスターからの脱皮を促すことになる、重要な節目の作品でした。

 

ところが、収録現場に入っても、優作さんがちっともやる気を見せず、その態度を見た桃井かおりさんが、優作さんに「なめてんのか」と怒ったというのです。さてそれからです。その日の夜すぐに、かおりさんのところに、優作さんから電話が掛かって来たそうです。そして「家に帰って、脚本をじっくり読み直して見たら、もっと深い部分があることが解った」と優作さんが語ったというのです。

 

この時に、桃井かおりさんはえらく感動したそうです。松田優作さんという人間のその「素直さ」に。優作さんのイメージは、どちらかと言えば、ちょっと粗暴で、わがままっぽい感じがします。でも実際には、どこまでも素直な人だったんですね。素直だからこそ、貪欲に、演技の質の向上を求め、今日の自分を変えることを模索し続けたのです。

 

もう一つエピソードを紹介しましょう。私の好きな映画に『無法松の一生』があります。九州小倉生まれの荒くれ男の人力車夫、富島松五郎(通称無法松)の生き様を描いたドラマです。この映画は何度もリメイクされ、三船敏郎さん主演の1958年(昭和33年)版は、第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。この1958年版の中に、こんなシーンがあるのです。

 

乱暴者として世間から一目置かれていた松五郎が、いつものように芝居小屋へ行くと、その日に限って、木戸銭を払わなければ入場させないと言われてしまいます。いつも顔パスで入場していた松五郎としてはこの扱いが腑に落ちません。腹を立てた松五郎は、仕返しに一計を案じます。芝居小屋の升席を買って、その中に七輪と鍋を持ち込み、そこでモツ鍋をこさえるのです。

 

さあ大変。芝居小屋の中はモツ鍋の臭いが充満して、もう芝居を観るどころの騒ぎじゃない。当然、松五郎は咎められるのですが、「俺の金で升席を買ったんだから、その中で何をしようが俺の勝手じゃないか」と言い放って、もう場内はてんやわんやの騒ぎに。その時に事を収めるのが、街の顔役の重蔵親分(笠智衆)です。(この頃は、任侠道やヤクザがまだ尊敬されていた)

 

重蔵親分は、「顔パスを急に断られて、腹を立てた松五郎の気持ちも解る。しかし、だからと言って、なんの関係もない他の観客の迷惑になることをしていいのか。その人たちへの責任をどう取るつもりだ」と松五郎を叱責します。さて、その後で松五郎が何と言ったか。「あー、わしゃ、そこに気がつかんかった」と。自分の怒りに任せて、そこまで配慮することを忘れていたと、素直に謝ったのです。

 

この素直さこそが、「無法」とまで呼ばれた松五郎という人物の、魅力の根源になっているんですね。順法者よりも、無法者の松五郎の方が、むしろ素直で正直に生きている。まさに、先ほど言った、この世界での価値観の逆転現象がそこに示されています。素直で正直であるからこそ、松五郎は自分の非にパッと気がついて、たちまち自分を改めることが出来たのです。松五郎という人間の、成長の瞬間です。

 

逆に言えば、いかに素直でない人の方が、また素直になれない人の方が、この世界では圧倒的に多いかということです。素直で正直であること、たったこれだけのことすら、今の人間には難しい。みんな、何らかの「信念」の虜になって生きている。そして、素直さや、正直さが馬鹿を見て、嘘つきや、ゴリ押しや、居直りが、ますます得をする時代になって来ています。

 

さてあなたは、この先、どっちの道を行きますか? 行きたいですか? どっちの道を歩んでも、別に咎め立てはしません。でもあなたに、訊いておきたいことがある。あなたは、ご自分を成長させたいですか? 進化させたいですか? そうだとしたら、その成長や進化は、何を意味していますか? どこへあなたは行こうとしているのですか? そして、そもそも、あなたとは何者ですか?

 

自分に嘘をつくのは、結局は恐れからです。ありのままの自分を曝け出すということが出来ないのです。自分を規定した(と思い込んでいる)枠組みから外れてしまうのが怖い。それが壊れてしまうのが怖い。それで「信念」の塔を立てて、その中に逃げ込むことで、これを逆に正当化するのです。ですから、「信念」を強調する者は、みな目がつり上がり、拳に力が入ってしまう。

 

ああ、憐れな人たちよ。自分の周囲に、自分で檻を拵えて、自分の自由を奪って、さらに仮面まで被って、自分がもう誰だか分からなくなってしまって、それで自己矛盾に苦しんでいる。ただ、素直で正直でありさえすれば、それがいちばん楽なのに。枠組みなど何も必要ないのに。ありのままのあなたでいいのに。つまらぬ「信念」など、一切捨ててしまえばいいのに。

 

そして何よりも、とても熱心に学んでおられるみなさんだからこそ、また理解力のあるみなさんだからこそ、ここで強調しておきたいのは、素直で正直でない限り、光の道へ入ることは決して敵わないということです。なぜなら、曇った眼鏡を掛けていたのでは、道を照らす、その光が見えないから。

 

素直さと正直さは、あなたに贈られた宝石です。この石を、懐から取り出しなさい。そして、慈しんで、それを磨きなさい。人間は誤りを犯すものですし、すべての人間が発展途上にあり、日々進化しているのです。ですから朝令暮改でいいのです。自分を変えることを怖がるのではなく、喜びとするように。

 

失敗を怖がらずにチャレンジしなさい。問題は結果ではないのです。あなたという「魂」の進化なのです。ですから、ご自分の「魂」に、進化のチャンスを与えてあげなさい。今日の喜び、次の今日の喜び、次の次の今日の喜びを紡ぎなさい。優作さんのように、そして無法松のように。素直さという宝物を胸に、毎日を力強く生きるのです。

ロボット人間 vs 人間ロボット

豊洲市場が開業して、はや一月半。利権がらみで、不透明で、安全性も定かではないままの強行突破です。原発と同じ、辺野古基地移転と同じ。権力者がやることはいつも一緒。2年前の東京都知事選挙、ありゃあ一体なんだったのだろうと思います。豊洲市場移転の見直し、オリンピック利権の見直しを掲げて当選した筈なのに、当選した途端にジャガーチェンジ(豹変ね)する。

 

10月の初旬、築地に残って営業を続ける人やその支援者の前に、東京都の職員がやって来て、彼らを排除しようとしている映像をインターネットで見ました。支援者たちの中に法律に精通している人がいて、都の職員にその法的根拠を説明するよう求めるのですが、その職員は、一切の問いかけにも耳を貸そうとはせずに、ただ同じ言葉を繰り返すだけです。

 

私には不思議でなりません。どうすれば、そのようになれるのかと。そこに居るのは、もはや人間ではありません。ロボットと化してしまった人間、つまり「ロボット人間」です。このような光景を見る時、私は、いつも胸が苦しくなってしまいます。人間は、どのような理由で、どのような瞬間に、自分をロボットにすることを決めるのでしょうか?

 

私はニュースを見ませんし、国会中継なども出来るだけ見ないようにしているのですが、たまにチラと見かける映像は、さながら「ロボット人間」シアターの演目のよう。官僚も政治家も、登場する人たちの大半は「ロボット人間」ばかり。このお芝居が面白いかと言えば、実につまらない。こんな出来レースに、多大な労力を注ぎ込んでいる人たちがいるということも不思議でなりません。

 

どうして、自由に生きようとしないのでしょうか? どうして、ロボットの鎧を自分に被せて生きようとするのでしょうか? どうして、自分のコントローラーを他の誰かに預けるのでしょうか? どうして、そうすることを「自分の意思で」選ぶのでしょうか? それが、楽しいのでしょうか? 無上の喜びなのでしょうか? そうしたくてしたくて、堪らないのでしょうか?

 

私が、もしもその東京都の職員だったら、その場に居る人の意見に耳を傾けます。そして、自分の考えを述べます。理想的なあり方を模索して、協力しようとします。もしそれが、都の上司の考えと違っていたら、上司と話し合います。ラチが開かなければ、もっと上に直訴します。それが嫌われてクビになったら、それを受け入れます。ずっとそのようにして生きてきました。

 

でも、そんなことをしたら立場が悪くなるだろう、ですって? その通り。立場が悪くなります。居場所すら無くなる。そんなことをしたら、生活に困らないか、ですって? その通り。大いに困ります。どビンボライフが待ち受けている。だから、もうどうにもならないと思って、自殺を考えたことも何度もある。でもいつも、「魂の衝動」に従うことを、自分は選んで来たのです。

 

その時には、無智だったので、それが「魂の衝動」だという認識はまだありませんでした。ですが、「俺は、ロボットになんか絶対にならないぞ!」という、破れかぶれの衝動があったのです。26歳の時には、実際に、職場での不正を告発してクビになりました。途方にくれ、東京を引き上げ、田舎に帰って、カミさんが旅館の仲居、自分はカラオケスナックのボーイをやって喰いつなぎました。

 

その時は苦しかった。ヒロシさんのネタにある「視力がいいのに、未来が見えんとです」状態。でも、今にして思えば、体験こそが人生だったんですね。自分というただの丸太に、どのようにノミを振るうかで、そこに、その人の彫刻作品が作られてゆくのです。円空仏のように、激しくノミを振るって刻んでいくのか、それとも、削るのを躊躇して丸太のままで終わるのか。

 

なぜ、こうも多くの人がロボットであることを選ぶのでしょう? 選ぼうとするのでしょう? それが、エリートと呼ばれる人ほどそうなのは、なぜでしょう? だとすれば、エリートになるということは、またエリート教育とは、「ロボット人間」製造システムに乗っかることだとは言えないでしょうか? 自分の自由意志というものを、「ロボット脳」に切り替えることだとは言えないでしょうか?

 

その人は、いったい何を恐れ、何を守ろうとしているのでしょうか? 自分をロボットに仕立てることで、何を守りたいのでしょうか? 組織、地位、名声、財産、安泰、信念? 自分をロボットにしてまで守らなければならないことなど、この宇宙に、果たしてあるのでしょうか? 諸行無常、生々流転が、宇宙の掟なのに。守り続けられるものなど、所詮は無いのに。

 

よいですか。皮肉なことに、その人は、自分を守ろうとして、自分を捨てているのですよ。本当の自分、真実の自分というものを。

その人が、いちばん恐れているものとは、真実の自分に向き合うこと。本当の自分を発見すること。

 

ああ、なんてことなの? なんたる無智。

それが、人生というものの究極の目的なのに‥‥。

なんと憐れな人間たちでしょう。

 

あなた方は、まだAI(人工知能)の本当の脅威というものに、気がついていません。あなた方の中で、それを進化させよう、発展させようと目論む人たちがいて、その分野での覇権争いが繰り広げられる以上、この流れは止まりません。そして急速に進みます。一方で、AI時代に適応できるよう(この適応とは、人間をAIの奴隷にすること)、人間自体を改造してしまおうという、まるで仮面ライダーのような計画も着々と進められているのです。

 

何も、ドンパチやることだけが戦争ではないのですよ。人類の最終戦争はもう始まっているのです。人々を操り、互いに殺し合いをさせるのが戦争なのですからね。わたしは何も、みなさんを脅かそうと思って、こんなことを言っているのじゃないのです。人類社会を覆い尽くすこの不毛な構造と、その原因に、今度こそ気づいて貰いたいのです。

 

「その原因とやらを教えろ」ですって? いいでしょう。地球人は、幻想の世界の生き方をいまだ知らないということです。幻想の生き方が、ど下手だということです。幻想の生き方については、小学校入学レベルにも達していないということです。

 

運転手の要らない自動車が、街を走り始めました。日本郵政はドローンによる配達を始めました。シリアへの空爆はカルフォルニアの米軍基地にいるオペレーターがビデオ画面を見ながら行っています。ロシアはロボット戦車を完成させました。ドバイでは警官ロボットが正式採用されました。カルフォルニアにはホームレスの人を追い出す警備員ロボットが登場。中国では、流暢な英語を話すニュースキャスターロボットが誕生しています。韓国では、なんと政治家ロボットの試作までもが行われました。人間は汚職ばかりするからですって。

 

つまり、あなた方が「ロボット人間」であり続けようとする意味など、もう無くなって来ているということです。「ロボット人間」など、もはや不要。そのニーズは、「人間ロボット」に取って代わられてしまう。「ロボット人間」よりも「人間ロボット」の方が、より正確で、無駄がなく、信頼が置ける、というふうに社会が認識し始めているのです。遠からず、医師ロボット、教師ロボット、弁護士ロボット、裁判官ロボットまでもが登場するようになるでしょう。

 

現代の医者は、検査データを見て、病気の診断名を下すだけになっています。だとすれば、AIの方が、多くの事例を一瞬のうちに参照し、よりスピーディに診断を下せるでしょう。同様に、教師も、弁護士も、裁判官も、もちろん官僚も、政治家も、企業経営者も、ロボットの方がより優秀ということになって行くことでしょう。そして、人間はついに不要となる。人間が、自分たちが創ったロボットに滅ぼされるのです。

 

*そればかりか、医者が診断名を下した瞬間に、この世に、一つの「病気」が創造されるのです。それは、銀行が貸し付けの書類を作った途端に、無いところから「お金」が創造されるのとそっくりです。

 

そういう社会の実現を、あなた方の大多数は喜んで推進し、その火の粉の中に、自ら飛び込んで行くことでしょう。まさしく、飛蛾の火に入るが如し。

今の世の中をよく見てください。その最終戦争が既に始まっているのが分かりませんか?

 

あなたは、何のために生まれたのですか? あなたは、どうしてこの世に生きているのですか? 自分をロボットにするためですか? それとも、ロボットに自分を滅ぼさせるためですか? 違うでしょう。人間であることの意味を、いま一度、自分に問いかけなさい。地球に誕生したことの幸福を、しみじみと味わいなさい。そして、真の自分とは何者かを、自分の中に見出しなさい。

 

あなたの喜びはそこにしかない。

 

なぜなら、それが、あなたという「魂」の衝動なのだから。