あなたは何者ですか? そう問われたとき、あなたならどう答えますか? 先ずは名前を言う。次いで年齢を言う。居住地を言う。既婚か独身かの別を言う。家族構成を言う。出自(家系)を言う。人によっては、出身大学や海外留学経験を言う人もいるかも知れません。でも大抵の場合、決定打は、今どんな「仕事」をしているかであり、それにプラス「肩書き」というものが加わる。それが、半ば常識になっていますよね。
そのことに、今ではほとんど誰も疑いを持ちません。典型的なのはビジネスの場での初対面。いきなり「肩書き」の入った名刺を交換し、互いの素性というものを判った気になる。という儀式が、今日もどこかでおごそかに行われています。でもそれって、その人を表しているのでしょうか? 名前は単にラベルだから別として、仕事や、肩書きや、年齢や、家族構成なんてものが、本当に「その人」が何者かをを表しているのでしょうか?
これが常識化している社会では、困った問題が生じます。何も職についていない人は肩身の狭い思いをしますし、周囲も、「いつまでも働きもせずにブラブラしている奴」という、まるで社会の落伍者であるかのようなレッテルを貼って見るからです。「引きこもり」という言葉もそれで、こうした社会的圧力が非常に強い時代となっています。「あのなぁ、室戸岬の洞窟に引きこもらなかったら、空海は誕生していないんだぞ」と、私は言っているのですがね。
書類の職業欄というのが困る。選択式になっている時には、「ほんとは違うんだけどなぁ」と思いながらも、仕方なく「無職」欄をチェックするのですが、フリースペースがある時には「隠居」と記入しています。すると、それを見た相手は、大抵びっくりした表情をしますね。何か変でしょうか? 職業、隠居。字の通りなんですけどねぇ。
半世紀前には、テレビの視聴者参加番組で、司会者から「お仕事は?」と聞かれて、「主婦です」と答える人がたくさんいました。若い女性は、大多数が「カジテツダイ」と答えていました。私は小学生だったものですから、その意味が解らずに、てっきり「火事手伝い」だと思い込み、世の中にはこんなにも火事が多くて、手伝いをする人もいっぱいいるんだなぁと思っていました。でもなぜかお姉ちゃんばかり。おい、火事場に飛び込む勇気ある男はいないのか!
な〜んて冗談を言える状況ではとうに無くなっていますよね。総務省の直近データを見ると、非正規労働者の割合は38.2パーセント。10人のうち4人に迫ろうとしています。25年前の1990年と比べると、その割合は2倍だそうです。裏にあるのは、言わずもがなの「派遣労働者」制度の解禁。お若い方には分からないと思いますが、これは25年前に、政府と産業界がそういう戦略に意図的に転換した結果なんですよ。
一世代分が経過して、当時のことを知らない若者が、理不尽なことにいま苦しめられているわけです。当時も、もちろん反対はありましたよ。でも政府は、どんなに反対があっても、ジャパン・ハンドラーズ(日本操縦者)のご意向だけは、しっかりと実現して行く。そうしないと、自分がクビになってしまいますし、甘い汁も吸えなくなってしまいますから。クビになるのがいいのか、甘い汁がいいのか、となったらみんな甘い汁の方を飲んじゃう。
急所となるのはいつも法律の改正。でも、一般国民は法律のことなんて解らないし、政府お抱えの有識者が必ず登場して、適当な理屈を並べ立てては世論の動きを誘導して行ってしまう。こうして法律が改正される。でも変化は徐々に進むので、それがどんなに重大なことかは、その時点では分からない。一世代経過した頃になってようやく気づいた時には、もう「手遅れ」となるのです。
こうして、悪辣な大人たちが結託し、次世代の若者(+最近は老人)を泥沼に突き落として行く。その中から這い上がった一部のエリートたちが、また悪辣な大人へと成長し、次世代の若者をさらなる泥沼へと突き落として行く‥‥。この連鎖が止みませんね。いったい何をどうしたらいいと、あなたは思いますか? それとも、そのような実情に、何も痛みを感じないでしょうか?
私は5カ月間、パチンコ屋の深夜清掃の職についた時に、使い捨て労働力にしか従事できない人たちを見て、共に働いて、ちょっとだけ悲惨さを体験しました。ましてや、寮のタコ部屋に住み込んで、賃金の中から家賃、光熱費、保険料を差っ引かれ、手取り僅かで貯金も出来ず、急な雇い止めにあって寮を追い出され、住所定まらず、そのせいで面接にも行けず、路頭に迷う人々の悲惨さは、どれほどのものかと思います。
私も、28歳までプータローでしたので、働いても働いても未来が見えない、当時の不安や焦りは、思い出すとゾッとするものがあるのです。しかし当時と今とでは、状況が全く違いますね。当時は、選ばなければ職はありました。もちろん正規雇用の。日本企業の中に、「人材は宝である」「次代の弊社を担う大切な財産」という考えが当たり前のようにあったのです。
それが1990年代に入って一掃された。終身雇用制など、もう時代遅れだ。それではグローバル競争の時代に生き残っていけない。先ずは、企業が収益を上げることが最優先だ。それがあってこそ、雇用もあるのだから。というもっともらしい理屈で、雇用の自由化(自由と聞くと、なんとなくいい感じがしますが、実質は使い捨て、不安定化)が推進されたのです。
その結果が今ですよ。それで、グローバル競争とやらに勝ったんですか? 政治も、経済も、科学技術も、教育も、何もかもが日本は三流国に転落しちゃいました。それだけじゃないです。正直で勤勉というかつての日本人イメージが薄らぎ、今や世界の嫌われ者になりつつある。日本のお粗末な政界スキャンダルは、海外にだって知らされているんですよ。日本国首相が国連で演説台に立っても、席はいつもガラガラ。まともに聞く人など誰〜れもいない。
今日、政府の発表やマスコミ記事は、基本的に全部ウソだと思っていた方がいいです。ウソをつくことが、彼らの日常業務になってしまっている。これ以上、そこにムダなお付き合いをし続ける必要はない!
でも、政治には無関心でいい、と言っているわけではありませんよ。政治は大事です。政治が、人々の生活のあり方を大部分左右してしまいますからね。政治は大事ですが、既存の枠組みの中で発想することの限界が、あちこちで露呈していることに、もういい加減に気づくべきだと言いたいのです。議院内閣制、政党、選挙、三権分立、法律、そういったものが、人々の幸福とは何の関係もないところで動いているということに。
それともう一つ。国際政治の裏舞台は、いま激しく揺れ動いているということ。私がテレビ、新聞、雑誌のニュースを見なくなってから、もう10年以上が経ちました。けれども、マスコミに一切触れなくなってから、国際政治のツボというものが却ってよく解るようになりました。ですから、マスコミが流すニュースがウソだらけということが非常によく分かるのです。その裏で(国民には知らされないところで)、日本は、国際的に孤立化を深めています。
このようなウソ報道、操作報道に、丸ごと身を預けている時代はもう終わったということです。今は、インターネットというものがあるのですから、自分で信頼できると思われるソースに当たって、自分の見解や考えをまとめ、かつ発信する時代になったということ。これからは。劇団ひとりならぬ「報道ひとり」です。それが、今日の、政治への新しい関わり方です。
さて、「働き方」ということについても、これまで同様、政府が言うことはウソだらけであり、これを既存の政治の枠内であれこれ行っても、もうどうしようもないところまで来ています。たとえ議論というものが行われたにせよ、政府がやることは皆、「そういうことを一応やりましたよ」というアリバイ作りのための茶番劇に過ぎません。辺野古基地移設問題を見れば、よく解るじゃありませんか。
労働者の奴隷化は、計画から25年で成就しました。次に政府が狙っているのは、国民の家畜化です。「何とまあ大袈裟な」と思われるかも知れません。でもね、これは、あらかじめ決められたシナリオなのですよ。今までだって、「そんなバカな」と思うことが、着々と、少しずつ実現されて来たのですから。茹でガエル状態で、ちょっとずつそうされて来たのですから。
年金制度などは明らかな詐欺です。政府が年金詐欺をやっている。支給開始年齢を一年ずつ繰り延べすると決定した時点で、もう詐欺開始。お得意の茹でガエル作戦による詐欺。そして今度は70歳にするのだと言う。その言い分が凄い! 「70歳まで働ける世の中にします」って。おいおい。その次は間違いなく80、次は90、その次は100歳になる。その裏で、集めたお金は博打に注ぎ込んでいるのですからねぇ。いやはや。
ですから、いつまでも政府の考えに身を任せていたら、本当に、やがては家畜にされてしまいますよ。すでにそういうしわ寄せが、力を持たない若者や、老人や、母子家庭に襲いかかっている。もちろん、こうした事態は、現行の制度が創り出した影の部分です。それらは、そうしたい人たちによって、意図的に創り出されたもの。ですから、その制度が変わらなければ、この状況は好転して行きません。
でもね。そこで本日のテーマとなるのです。そこに、発想の転換が望まれるのです。大胆な発想の転換が。
それは、「仕事とは何か?」を、もう一度問い直してみるということ。今がそのチャンスです。なぜなら、この先、雇用は今以上にどんどん無くなって行くことが予想されるからです。
現代人は、仕事=雇用という考えに、あまりにも深く染まっています。でもそうなったのは、つい最近になってからのことなんですよ。半世紀前には、「家事手伝い」が、「仕事」として堂々と言えたし、社会的に認知されていたのです。それで、誰にも恥じることはありませんでした。でも今、同じことが言えるでしょうか? 現在では、「仕事」と言えば即、大多数の人が「働き口」を考えるようになっています。
そうなると、「働き口がない」ことは、「仕事がない」と同義になってしまうのです。実際、その意味で、「仕事がない」という言葉をみんなが使うようになっています。また、それを当たり前だと思い込んだうえで、労働問題を議論したりしています。でも、果たしてそうなのでしょうか? これは、サラリーマン社会、ドレイ労働社会の洗脳が、極限にまで浸透した何よりの証拠だとは言えないでしょうか?
例えば、あなたの家が農家だったとしましょう。朝、市場に出荷するきゅうりを畑に取りに行くこと。それは「仕事」ではないのでしょうか? では、自家用のサラダにして食べるきゅうりを取りに行った場合はどうでしょう? また、それをサラダに仕立てて食卓に出す行為は、「仕事」ではないのでしょうか? 食事の後の皿洗いや布巾の洗濯は、「仕事」とは呼べないのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。全部が「仕事」です。ですから、「仕事がない」なんてことは決してあり得ないのです。私は、毎週20時間前後を費やして、この『気づきの啓示板』ブログを書いています。それは、今の私の「仕事」なのです。誰かに言われてやっているわけではありません。私が、それを「仕事」だと考えたから、それが自分の「仕事」になったのです。
ここで、原始人を想像してみてください。彼の、彼女の「仕事」とはいったい何でしょうか? 「雇用」など、まだどこにも無いのですよ。おそらく「仕事」という概念すらも無かったでしょう。言い換えれば、現代人が、いかに「仕事」というものを狭い範囲でしか捉えていないか、捉えなくなったか、またその概念に洗脳されているか、が解ろうというものです。どうしてそうなったと思いますか? いったい何がその原因なのでしょう?
そう、その通り。「お金」です。この半世紀で、「仕事」とは「お金」を得るためのものであり、人は「お金」が無ければ生きられない、という信念を、あらゆる場面を通じて、現代人は吹き込まれて行ったのです。よって、仕事がない → お金が得られない → 生きられない → 絶望しかない、という苦悩が生み出され、その苦悩から逃れるために、ドレイ労働であっても、自分から進んで従事する状況が創られたのです。
『ハローワーク』という制度すら、その信念の強化に寄与しています。私が、「○○支援」とか「○○サポート」という言葉に諸手を挙げて賛同しないのはそこです。ひとたび「支援」を制度化しますと、それがいつの間にかスタンダードとなり、概念がすっかり入れ変わってしまうのです。すると人々は、もう「支援」なしではいられなくなる。そこに、その市場を狙った利権が必ず発生して行くのです。
「お金」とは、単なるツールです。そのツールに、現代人はとことん汚染され、操られ、苦悩させられ、でもそのカラクリを知らず、今や家畜にまで落とされそうになっているのです。
ホームレスになって、都会で狩猟採集生活をしている人をみると、気の毒に思う半面、同じ狩猟採集生活を、どうして山に来て行わないのかな、と思います。発想を変えればいいのに‥‥。住居がない → 面接が受けれらない → 仕事に就けない → お金がない → 部屋を借りられない、というループから、山に来れば、直ぐにも抜け出せるのに‥‥。
今はどこの山村も過疎化しているから、家もたくさん余っているしね。自治体の中には、仕事を見つけてくれるところだってある。自然の中に身を置けば、自分がいかに、仕事=雇用=お金という概念に縛られていたかが分かると思うのです。そして本来、自分は「自由」なのだということも。何なら、落ち着くまで、私の家に来て貰ってもいい。ボロ屋だけど、まあ何とかなるさ。
宇宙的に言えば、あなたの「仕事」は、極めて明白なんですよ。誰にとっても同じ。原始人と同じ。犬猫とも同じ。ただ一つしかない。それは「生きる」こと。えっ、生きること? そう、生きること。生き延びること。それがあなたの「仕事」。それ以上でも、以下でもない。問題は、どうそれを「生きる」かということなのです。いわゆる「職」は、その「生き方」を構成する多くのファクターの、一つの要素に過ぎない。
みなさんは、社会の刷り込みもあって、「雇用」とか「適職」とか「自己実現」とか「社会的成功」とかに、あまりにも意識が傾き過ぎているのです。その歪(いびつ)さに気がついていないのです。気がつかぬまま巻き込まれている。そこにこだわり続けるものだから、それが実現できていない今の状況が、不満足だし、不安だし、卑小に思える。自分の存在価値がないように感じるのです。要は、自分で自分を苦しめているのです。
そこに気づきなさい。そんなつまらぬこだわりなど、さっさと捨てなさい。あなたの「仕事」は生きることだ。そして課題は、どう生きるかということ。あなたは、どう生きたいのですか? よく、自分の「適職」とか「使命」だとかを霊能者に尋ねる方がおられるのですが、そんなものは、自分が決めることなんですよ。あなたが、どういう意志を持つかということなのです。
そして、さらに宇宙的に言えば、その理想は、「愛」に生きるということ。全き愛の人になるということ。完全なる奉仕を己の「仕事」にするということ。それは、あなたの意識のあり方の問題、意識のあり方の転換、意識のあり方の成長を問うている。このことが、この先、嫌でもはっきりと自覚されるようになります。なぜなら、「職」が無くなるから。「雇用」がますます狭き門になるから。
その時、あなた方は、今までの考え方と、社会システムを根本から変更せざるを得なくなります。資本家と労働者、雇用者と被雇用者、富者と貧者、命令する者と命令に従う者、このアンバランスがもう機能できなくなる。そして、分かち合う経済システム、支え合う社会システムにドラスティックに転換してゆくことになる。その萌芽がもう現れているのですよ。
現行システムに君臨する者は、今までのシステムを何が何でも死守しようとします。その焦りと綻びが、あちこちに顔を出しています。ですから、これまでには信じられなかったようなことが、(例えば、ウソをつき続けて平気な政治家、民を苦しめても恥じない官僚、不正を黙認する警察・検察・裁判所、デタラメばかりを流しているマスコミなどの形に表れて)噴出しているのです。
あなた方は、その右往左往には巻き込まれないようにして、これから全体を、俯瞰して、穏やかに見て行くのですよ。創造の前には破壊が必要だということ。その役割を演じてくれている者もいるのだということ。光あるところには影があり、影あるところに光あり、ですぞ。そして、あなた方は、混乱の時期を超えて、光の創造の道へと進むのです。
いいですか。もう一度、言いますよ。あなたの仕事は「生きる」こと。そして、今世のあなたの課題は、どういう「生き方」を選択するかということ。別の言い方をすれば、あなたという個別化した「魂」の、今世における「表現のあり方」だ。それが、いま問われている。そしてそれは、あなたの自由意志に、すべて任されているのです。