by Rainbow School
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終活? なんてイヤな響きなの?

知り合いの方から「あとはもう終活をするだけです」という一文が入ったメールをいただきました。終活。そういう言葉が、巷を賑わわせていることは知っています。でも、こういうダジャレは、私は嫌いです。冗談でそう書いたにせよ、イヤ〜な気分にさせられます。それは、死を感じさせるからではありません。死を誤解しているからです。その誤解を、さらに強化しているからです。

 

どうしてこんなくだらないダジャレに、多くの人たちが易々と乗っかってしまうのかな、と思います。私には理解できません。そうすることが、何か楽しいのでしょうか? ハッとするような気づきを、その人に与えてくれたのでしょうか? 終活、それは、人々の底に眠っている、潜在的な恐怖心の扉をノックし、そこに注意を向けさせることによって、産業化を狙っている人たちの策略です。

 

なぜ、それが判るのかって? 私自身が、かつては、そっち側にいた人間だからですよ。

 

みなさんに、ハッキリ言っておきます。「終活」などする必要はまったくないし、しようと思ってもいけない。なぜいけないのか? それが、「時間軸」で人生を考えるという発想の、最たるものだからです。

 

人生の終盤に差し掛かって、「自分の人生とは、何だったんだろう」という問いかけを、「終活」というものが、きっかけとして与えてくれる効果は、もしかしたらあるかも知れません。しかしそれでは、古来より延々と繰り返されて来た人生哲学の域を、一歩も出るものではありません。そんなことなら、なぜもっと若い時分から考えて来なかったのでしょうか?

 

・私は誰なのか?

・どこから来て、どこへ行くのか?

・なぜ私が存在するのか?

・なぜ生きねばならないのか?

・生きるとは? 死とは?

 

そしてこの問いかけに、すでに答えを見出していたならば、その人が「終活」などに取り組むわけがありません。

そのバカバカしさ、下らなさを、既にじゅうぶん認識していますから。

 

犬が、己れの人生(いや、犬だから犬生と言うべきかな?)の末期に「終活」を考えたりするのでしょうか? 猫生の最後になって、「終活」取り組んでいる猫を、あなたは見たことがありますか? そんなバカなことが “必要” だと思い込むのは、人間だけです。

 

「終活」なるものが解っていないと思うのは、自分の人生の意味を、まだ「何かを残す」ことによって示そうと考えていることです。それは、最後のあがきにも似て、見苦しい。私はそう思います。名前を残す。財産を残す。遺言を残す。成果を残す。この世に、自分が確かに生きたという証拠を残したうえで死にたい。でも、考えてみてください。1万年前に死んだ人の何かが、いま残っているでしょうか?

 

もしかしたら、骨が発掘されることがあるかも知れません。装身具が見つかるかも知れません。あるいは書簡が出てくるかも知れません。でもそれが、何だというのでしょうか? それが、その骨の主人、それを身につけていた人、それを書いた人を表しているのでしょうか? 想像することは出来ます。でもそれらは本人ではありません。単なるモノです。

 

このような、単なるモノや、自身の活動成果に、いつまでも執着していたのでは、この世に生を受けた意味や目的が、最後の最後になっても解りません。それは、前段に書いた、形而上学的問いかけには相変わらずきちんと向き合うことをせずに、今までしてきた、誤魔化しの生き方を、なおも延長しようとすることでしかありません。あなたの本質は、そんなところにはないのです。

 

あなたの本質は「魂」です。そして「魂」に死というものはなく、それは永遠に生き続けるのです。あなたが自分だと思っていた肉体は、単に、今世における借り物のドレスに過ぎません。この世で「死」と呼ぶ時期を迎えたときには、そのドレスを脱ぎ捨てて、本体の「魂」だけとなって、本当の我が家へと帰って行くのです。その引越し作業と、住所変更があるだけです。

 

さて、それが解った時に、今世、地上で生きたことの意味や目的は、一体どこにあったと言うのでしょうか? あなたが残した物や成果に、意味はないのです。他の誰かの役に立ったということはあるかも知れません。しかし、すべてはうたかた(泡沫)。あなたが為したことは、宇宙の永遠から見れば、瞬きするほどの間ですらないのです。

 

しかし、「魂」は違います。等しく、みな宇宙の子である「魂」は、母なる宇宙と同じく、また永遠なのです。永遠の無時間を生きているのです。あなたという「魂」は、地上でしか出来ない様々な体験を通して、自身の中に深く眠る「神性」を再発見し、それに触れ、少しずつ霊性を向上させて行く旅を続けます。そして、最終的に、「旅は必要なかったのだ」と知るのです。それが、この人生を生きる目的です。

 

さあ、解ったでしょうか? これを知っても、あなたはまだ「終活」なるものが必要だと考えますか? 大切なのは、いつでも「今」なのです。「今」のあなたの「あり方」なのです。ですから、「あり方」を変える決心をすれば、その瞬間から、あなたは変わる。人は、いつだって、自分を変えることが出来るのです。

 

人は老います。地上には時間があるからです。でも、あなたの本質部分は、無時間を生きているのです。このことを理解しましょう。理解して、地上の論理に、本質までもが巻き込まれないようにしてください。老いを、惨めなものや、心細いものと捉えないでください。老いの体験を、どのように楽しく、喜びに溢れたものにするか、それが「魂」にとっての課題です。

 

このことをしっかり認識して、どうぞ楽しい毎日を、そしてまた、他者を助ける中に喜びが見出せる人生を、最後まで全うしてください。

明るい老後破産、楽しい独居生活

クレジットカードの7月分の銀行引き落としが、残高不足のために落ちませんでした。通帳を見て一瞬ギョッとし、「あ、これがいま巷で話題の《老後破産》てやつかぁ」と思いました。ついには硬貨が入った貯金箱まで開ける始末。なんだか小学生に戻ったような気分でした。その後、追加入金して、ひとまずはしのげたんですけどね。

 

山奥で暮らしているために、周囲には全くお店がありません。それで、どうしても必要なものは、カードを使ってインターネットで購入するということになる。ですが、家計簿なんていちいち付けません。お金に関しては、高田純次さん見習って、テキトーで行くと決めてますから。でも6月は、部落恒例の草刈り行事のためにエンジン式草刈り機を購入したのが、ちとイタかったなぁ。それを忘れていた。

 

私、本当はあれ嫌いなんです。音はうるさいし、排気ガスは臭いし。危ないしね。それで、私だけ手動式の鎌(早い話が普通の草刈り鎌ね)を持って、みんなの後をウロチョロしていたんですけれど、5年も経って、さすがにこれ以上は水っ子(赤ちゃんのように手加減してもらうこと)を続けるわけにも行かなくなって来た。それで購入したという次第。年に一度の、その日のために。

 

2カ月に一度振り込まれる年金が、15万6千円。だから1カ月、7万8千円。これに臨時収入を合わせて平均10万円弱というのが私の今の生活費。ご覧の通り、これはいわゆる生活保護世帯よりも少ないです。ということで、お金の面だけを見れば、自分はれっきとしたビンボー人。ですが、気分まで貧乏人になったことはない。かつてはそういうこともあったが、今はない!

 

だから、時々、不思議に思うんですよ。よく、夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけないとか、退職後には少なくとも3000万は用意しておかなくちゃとか、そうじゃないと生きていけないとかと、言っている人のいることが。現に、ただ今この瞬間、生きて、暮らせているのに、「暮らせない」とか「生きられない」って、一体どういうことなの? 自分の何を見てるのかな?

 

54歳の時、生き馬の目を抜くその業界で、もう自分は通用しない、引き際だと悟り、その年の正月、それまでの取引関係先全部に「廃業宣言」のハガキを出しました。その後の展望が見えていたわけではありませんでしたが、とにかく「辞める(それまであった状態を破壊する)」ことを、優先したわけです。そういう自分の、内なる声に従った。

 

不安は大いにありました。私も人並みに、ソフトランディング(軟着陸)を考えていました。それで、飲食店商売をしようかと考えて実際に店を作ったりもしましたが、これは3カ月と持ちませんでした。投資した1000万円が泡と消えました。借金が2500万円くらい残り、先行き不安から鬱病になった時に、今度はカミさんに癌が見つかって、10カ月後に死んでしまいました。

 

しかし、この10カ月間の看護生活は、私に鬱病から立ち直るきっかけを与えてくれました。そこに一生懸命にならざるを得なかったことが、思わぬ効をもたらしたのです。しかし仕事の方は相変わらずで、ネット販売に手を出したり、出版を手がけてみたり、短編映画を創ってみたりと、スケベ根性がなかなか抜けませんでした。そして、そのことごとくが上手く行かなかった。全部、一生懸命やったんですけどねぇ。

 

もうダメかと思って行き詰まり、深夜の清掃のアルバイトをしたり、ラブホの受付のアルバイトをし、次に『お風呂の王様』の面接に行って、不採用になった時、もう働くのは止めようと決心しました。この直後、渋谷のユーロスペースのカフェが面接に来いと言って下さったのですが、「へえ、度量があるなぁ」と思いましたが、その時には「もう働かない」と決めた後でした。

 

*フランス映画を見ると、カフェのギャルソン(給仕)に年配者がたくさんいるでしょ。自分もウェイターの経験があるし、カッコいいギャルソンなれるかもネ、と思ったのでした。でもフランス語のギャルソンて、元々は「少年」という意味なんですってね。><

 

それからです。眼を閉じるたびに、田舎の田園風景が浮かび上がるのです。これがあまりにも頻繁に続くものですから、「これは、田舎へ行けってことなのかなぁ」と思って意を決し、インターネットで見つけた今のボロ屋を購入したのです。資金は生命保険を解約しました。ついでに、定期購読の雑誌やら何やら、削れるところは全部削って身軽になりました。出来る限りお金の掛からない生活の、準備をしたわけです。

 

さて、現地へ行って直ぐに、「これはひょっとして、とんでもない失敗をしたかも」と思いました。アクセスは不便極まりない。天井には穴が開き、土壁は何箇所も崩落し、床は腐っていてベコベコになっている。そして、家の中にコンセントすら無かったのです。テキトーが災いしました。長年空き家だったので、もちろん照明器具もありません。持って来た裸電球を1個つけて、その下でサバ缶を食べていたら、動悸がして体がガタガタと震えて来ました。

 

おっ、この感じは経験があるぞ。そう、10年以上も忘れていた、パニック発作の再発です。この時は、もの凄く苦しく、怖かった。でも、やっちまったものはもう仕方がない。パニックは東京に戻っても続きましたが、前に進むしかないとあきらめて、諸費用込み30万円ポッキリの中古の軽自動車を買いました。けれども、運転は得意じゃないし、それまで高速道路というものを運転したことがなく、これももの凄く怖かったです。

 

気持ちが安定して来たのは、業者さんに電気工事をして貰い、そのあと自分で土壁の修繕をし始め、しばらく経ってからです。修繕には、「臭い物に蓋」式の修繕と、土台から直す修繕があります。「臭い物に蓋」式は、前のものを壊さずに、そこに見てくれだけは新しいものをおっ被せてしまうやり方。でも、土台から直すには、前のものをいちど壊さなければならないのです。

 

私は、やるからには後者で行こうと決めて、土壁の上の古い漆喰を剥がすところから始めました。この、今あるものを壊すというのは、ちょっとした覚悟が必要になる。いったんは、前よりもひどい状態になるのですから。しかも、左官作業など、今まで一度もやった経験がありません。予想される作業量の膨大さ、大変さを考えると、どうしても足許が竦んでしまうのです。でもそこで、「エイ、ヤッ」と一歩踏み出さないことには何も始まらない。

 

これをちょっとずつ、5年間続けて来て、私は次のことを学習しました。

 

・前のものを壊さないことには、決して新世界は実現しないのだということ。

・壊す際にともなう恐怖を乗り越えるには、その後の、理想世界の強いイメージを内に持って臨むことが肝心であること。

・そして、持った後はそれを忘れて、目の前の今できる作業に没頭すること。

・そうすれば、いつかは、思いが、形になっている。

 

それが、宇宙の仕組みであることを、身を以て体験しました。そのことが解った時に、軟着陸を画策していた頃の自分が、やること為すこと、どうしてことごとく上手くいかなかったのか、その理由も解ったのです。

 

何もかもが、天の配慮でした。そして、未だ残っていたスケベ根性、卑しさ、浅ましさ、怒り、嫉妬を、一枚ずつ脱ぎ捨てて行った時に、入れ替わりに、上からのメッセージが届くようになったのです。

 

今は、今までの人生すべて感謝しています。映画監督になれなかったことも。お金で苦しんだことも。やること為すことうまく行かなかったことも。パニック障害や鬱病になったことも。人からさんざん非難や罵倒を受けて来たことも。『お風呂の王様』を面接で落ちたことも。カミさんが死んでしまったことも。

 

あ、誤解しないでくださいね。カミさんが死んでくれてよかったと言っているわけじゃありませんよ。愛する人を失い一人になった。そうなったことにも、今は感謝しているという意味ですから。

 

貯金はほぼ使い果たしました。でも食べ物に困ることはありません。豪華な食事は要らないし、外食もしません。果物はなかなか買えないけれど、粗食で結構。時々、食べ物を持って来てくださる人もいますしね。旅行には行けませんが、別に行かなくなっていいです。洋服、要りません。今さらモテようとは思いません。最新式の須磨穂、要りません。心を破壊してしまう世界須磨穂教の信者になろうとは思いません。

 

この「お金」というものへのアバウトさは、昔からそうだったわけではありません。多くの人と同じように、いやそれ以上に、自分は「お金」というものが生み出すトリックに強く引っ掛かっていたのです。今とは真逆だったと言ってもいいです。結局そのことが、私に、パニック障害やら鬱病をもたらしたのです。どういうことかと言いますと、その時分には、生きることを、私は「時間軸」で考えていたのです。つまり、「今」を生きてはいなかった。

 

その頃、私は、下北沢近くで小さな企画事務所をやっていました。そうしますと、アシスタントへの給与やら、家賃やら、事務所経費やらを考えると、毎月300万円以上の売上がないことには事務所が回らないのです。これが、いつも頭の中を支配していて取れない。すると、いつの間にか、発想が逆転して行ってしまうのですね。

 

300万の売上が必要 → 今月は達成できるだろううか? → 何としても仕事が欲しい → でも最近、ちょっと売り上げが落ちている → ああ、大口を切られてしまった → このままじゃやって行けない → 給料も支払えなくなる → そうなったら事務所は閉鎖だ → もう死ぬしかない、とまあ、ざっとこんな具合です。どうです、笑えるでしょう? でもその時には、その考えに取り憑かれているから、滑稽さが分からないのです。

 

エジソンは、「必要は発明の母」と言ったけれど、これじゃさしずめ、「必要はパニック障害の父」ですな。もう何のために身を摺り切らしてまで働いているのか分からない。ということで、「お金」のドレイはもう充分経験しましたから、これ以上は結構なのです。ただ、ちと困るのは、家の修繕のための材料費がなかなか捻出できないことくらい。でもそれだって、きっと何とかなる!

 

私には夢がある。今の隠遁ライフを送るようになってから、自分の「行」が飛躍的に進みました。やはり、古来から言われているように、都会から離れて、情報を遮断して、自然の静寂の中に身を置くことが、非常に有効であったのです。繰り返し瞼に浮かんだ映像は、それへの導きでした。だから、同じく光への道を求める人に、このささやかな場を提供して、共に励まし分かち合いたいのです。

 

その思いは、最初からあったわけではありません。でも、修繕作業が進んでいくに連れて、だんだんとそのような構想が膨らんで来ました。すると、今までの全てのことは、このためにあったと思えるのです。まさに完璧。今年は、4名の方とテスト合宿を行いました。ようやく雨露しのげるレベルになっただけで、まだまだ理想イメージにはほど遠いです。ですが、来年にはなんとか合宿を実現させたいと思っています。いざ、友よ。来れ!

 

この『気づきの啓示板』には、「幸福とは条件ではなく、そう思う気持ち」なのだという指摘が、何度か為されています。私もそれに習って、たとえドビンボ・ライフを送っていても、心はいつも晴ればれと、豊かでいたい。夫婦ふたりで月に23万円の年金だけじゃとても暮らしていけない、という人は、「暮らしていけない」という思いを、毎日創造しているのですぞ。

 

ああ、そのことになぜ気がつかないの? そういう人は、きっと収入が50万円になったとしても、今度は、50万円じゃとても生きていけないと言うことでしょうね。お解りですか? 自分を不幸にしているのは、自分の「不足」という想いなんですよ。今の自分は不幸である。今の自分には○○が足りない。という思い込みが、「老後破産」の恐怖というものを駆り立てているのです。

 

だから私は、この先、自分が手本になろうと思っているのです。明るい老後破産、楽しい独居生活の。それが、気持ち一つで充分に可能なのだということを見せつけて。

 

いつも言っている通り、あなたの意識の連続が、今世というドラマにおける、あなたの人生を、結果的に決めてしまうのですよ。足りない、足りないと一生言い続けて終えるのか。それとも、もう充分だ、ハッピーだと言って人生を終えるのか。それはあなた次第。

 

だったら、後者を選んだ方が、ステキだとは思いませんか?

あなたの「仕事」は?

あなたは何者ですか? そう問われたとき、あなたならどう答えますか? 先ずは名前を言う。次いで年齢を言う。居住地を言う。既婚か独身かの別を言う。家族構成を言う。出自(家系)を言う。人によっては、出身大学や海外留学経験を言う人もいるかも知れません。でも大抵の場合、決定打は、今どんな「仕事」をしているかであり、それにプラス「肩書き」というものが加わる。それが、半ば常識になっていますよね。

 

そのことに、今ではほとんど誰も疑いを持ちません。典型的なのはビジネスの場での初対面。いきなり「肩書き」の入った名刺を交換し、互いの素性というものを判った気になる。という儀式が、今日もどこかでおごそかに行われています。でもそれって、その人を表しているのでしょうか? 名前は単にラベルだから別として、仕事や、肩書きや、年齢や、家族構成なんてものが、本当に「その人」が何者かをを表しているのでしょうか?

 

これが常識化している社会では、困った問題が生じます。何も職についていない人は肩身の狭い思いをしますし、周囲も、「いつまでも働きもせずにブラブラしている奴」という、まるで社会の落伍者であるかのようなレッテルを貼って見るからです。「引きこもり」という言葉もそれで、こうした社会的圧力が非常に強い時代となっています。「あのなぁ、室戸岬の洞窟に引きこもらなかったら、空海は誕生していないんだぞ」と、私は言っているのですがね。

 

書類の職業欄というのが困る。選択式になっている時には、「ほんとは違うんだけどなぁ」と思いながらも、仕方なく「無職」欄をチェックするのですが、フリースペースがある時には「隠居」と記入しています。すると、それを見た相手は、大抵びっくりした表情をしますね。何か変でしょうか? 職業、隠居。字の通りなんですけどねぇ。

 

半世紀前には、テレビの視聴者参加番組で、司会者から「お仕事は?」と聞かれて、「主婦です」と答える人がたくさんいました。若い女性は、大多数が「カジテツダイ」と答えていました。私は小学生だったものですから、その意味が解らずに、てっきり「火事手伝い」だと思い込み、世の中にはこんなにも火事が多くて、手伝いをする人もいっぱいいるんだなぁと思っていました。でもなぜかお姉ちゃんばかり。おい、火事場に飛び込む勇気ある男はいないのか!

 

な〜んて冗談を言える状況ではとうに無くなっていますよね。総務省の直近データを見ると、非正規労働者の割合は38.2パーセント。10人のうち4人に迫ろうとしています。25年前の1990年と比べると、その割合は2倍だそうです。裏にあるのは、言わずもがなの「派遣労働者」制度の解禁。お若い方には分からないと思いますが、これは25年前に、政府と産業界がそういう戦略に意図的に転換した結果なんですよ。

 

一世代分が経過して、当時のことを知らない若者が、理不尽なことにいま苦しめられているわけです。当時も、もちろん反対はありましたよ。でも政府は、どんなに反対があっても、ジャパン・ハンドラーズ(日本操縦者)のご意向だけは、しっかりと実現して行く。そうしないと、自分がクビになってしまいますし、甘い汁も吸えなくなってしまいますから。クビになるのがいいのか、甘い汁がいいのか、となったらみんな甘い汁の方を飲んじゃう。

 

急所となるのはいつも法律の改正。でも、一般国民は法律のことなんて解らないし、政府お抱えの有識者が必ず登場して、適当な理屈を並べ立てては世論の動きを誘導して行ってしまう。こうして法律が改正される。でも変化は徐々に進むので、それがどんなに重大なことかは、その時点では分からない。一世代経過した頃になってようやく気づいた時には、もう「手遅れ」となるのです。

 

こうして、悪辣な大人たちが結託し、次世代の若者(+最近は老人)を泥沼に突き落として行く。その中から這い上がった一部のエリートたちが、また悪辣な大人へと成長し、次世代の若者をさらなる泥沼へと突き落として行く‥‥。この連鎖が止みませんね。いったい何をどうしたらいいと、あなたは思いますか? それとも、そのような実情に、何も痛みを感じないでしょうか?

 

私は5カ月間、パチンコ屋の深夜清掃の職についた時に、使い捨て労働力にしか従事できない人たちを見て、共に働いて、ちょっとだけ悲惨さを体験しました。ましてや、寮のタコ部屋に住み込んで、賃金の中から家賃、光熱費、保険料を差っ引かれ、手取り僅かで貯金も出来ず、急な雇い止めにあって寮を追い出され、住所定まらず、そのせいで面接にも行けず、路頭に迷う人々の悲惨さは、どれほどのものかと思います。

 

私も、28歳までプータローでしたので、働いても働いても未来が見えない、当時の不安や焦りは、思い出すとゾッとするものがあるのです。しかし当時と今とでは、状況が全く違いますね。当時は、選ばなければ職はありました。もちろん正規雇用の。日本企業の中に、「人材は宝である」「次代の弊社を担う大切な財産」という考えが当たり前のようにあったのです。

 

それが1990年代に入って一掃された。終身雇用制など、もう時代遅れだ。それではグローバル競争の時代に生き残っていけない。先ずは、企業が収益を上げることが最優先だ。それがあってこそ、雇用もあるのだから。というもっともらしい理屈で、雇用の自由化(自由と聞くと、なんとなくいい感じがしますが、実質は使い捨て、不安定化)が推進されたのです。

 

その結果が今ですよ。それで、グローバル競争とやらに勝ったんですか? 政治も、経済も、科学技術も、教育も、何もかもが日本は三流国に転落しちゃいました。それだけじゃないです。正直で勤勉というかつての日本人イメージが薄らぎ、今や世界の嫌われ者になりつつある。日本のお粗末な政界スキャンダルは、海外にだって知らされているんですよ。日本国首相が国連で演説台に立っても、席はいつもガラガラ。まともに聞く人など誰〜れもいない。

 

今日、政府の発表やマスコミ記事は、基本的に全部ウソだと思っていた方がいいです。ウソをつくことが、彼らの日常業務になってしまっている。これ以上、そこにムダなお付き合いをし続ける必要はない!

 

でも、政治には無関心でいい、と言っているわけではありませんよ。政治は大事です。政治が、人々の生活のあり方を大部分左右してしまいますからね。政治は大事ですが、既存の枠組みの中で発想することの限界が、あちこちで露呈していることに、もういい加減に気づくべきだと言いたいのです。議院内閣制、政党、選挙、三権分立、法律、そういったものが、人々の幸福とは何の関係もないところで動いているということに。

 

それともう一つ。国際政治の裏舞台は、いま激しく揺れ動いているということ。私がテレビ、新聞、雑誌のニュースを見なくなってから、もう10年以上が経ちました。けれども、マスコミに一切触れなくなってから、国際政治のツボというものが却ってよく解るようになりました。ですから、マスコミが流すニュースがウソだらけということが非常によく分かるのです。その裏で(国民には知らされないところで)、日本は、国際的に孤立化を深めています。

 

このようなウソ報道、操作報道に、丸ごと身を預けている時代はもう終わったということです。今は、インターネットというものがあるのですから、自分で信頼できると思われるソースに当たって、自分の見解や考えをまとめ、かつ発信する時代になったということ。これからは。劇団ひとりならぬ「報道ひとり」です。それが、今日の、政治への新しい関わり方です。

 

さて、「働き方」ということについても、これまで同様、政府が言うことはウソだらけであり、これを既存の政治の枠内であれこれ行っても、もうどうしようもないところまで来ています。たとえ議論というものが行われたにせよ、政府がやることは皆、「そういうことを一応やりましたよ」というアリバイ作りのための茶番劇に過ぎません。辺野古基地移設問題を見れば、よく解るじゃありませんか。

 

労働者の奴隷化は、計画から25年で成就しました。次に政府が狙っているのは、国民の家畜化です。「何とまあ大袈裟な」と思われるかも知れません。でもね、これは、あらかじめ決められたシナリオなのですよ。今までだって、「そんなバカな」と思うことが、着々と、少しずつ実現されて来たのですから。茹でガエル状態で、ちょっとずつそうされて来たのですから。

 

年金制度などは明らかな詐欺です。政府が年金詐欺をやっている。支給開始年齢を一年ずつ繰り延べすると決定した時点で、もう詐欺開始。お得意の茹でガエル作戦による詐欺。そして今度は70歳にするのだと言う。その言い分が凄い! 「70歳まで働ける世の中にします」って。おいおい。その次は間違いなく80、次は90、その次は100歳になる。その裏で、集めたお金は博打に注ぎ込んでいるのですからねぇ。いやはや。

 

ですから、いつまでも政府の考えに身を任せていたら、本当に、やがては家畜にされてしまいますよ。すでにそういうしわ寄せが、力を持たない若者や、老人や、母子家庭に襲いかかっている。もちろん、こうした事態は、現行の制度が創り出した影の部分です。それらは、そうしたい人たちによって、意図的に創り出されたもの。ですから、その制度が変わらなければ、この状況は好転して行きません。

 

でもね。そこで本日のテーマとなるのです。そこに、発想の転換が望まれるのです。大胆な発想の転換が。

それは、「仕事とは何か?」を、もう一度問い直してみるということ。今がそのチャンスです。なぜなら、この先、雇用は今以上にどんどん無くなって行くことが予想されるからです。

 

現代人は、仕事=雇用という考えに、あまりにも深く染まっています。でもそうなったのは、つい最近になってからのことなんですよ。半世紀前には、「家事手伝い」が、「仕事」として堂々と言えたし、社会的に認知されていたのです。それで、誰にも恥じることはありませんでした。でも今、同じことが言えるでしょうか? 現在では、「仕事」と言えば即、大多数の人が「働き口」を考えるようになっています。

 

そうなると、「働き口がない」ことは、「仕事がない」と同義になってしまうのです。実際、その意味で、「仕事がない」という言葉をみんなが使うようになっています。また、それを当たり前だと思い込んだうえで、労働問題を議論したりしています。でも、果たしてそうなのでしょうか? これは、サラリーマン社会、ドレイ労働社会の洗脳が、極限にまで浸透した何よりの証拠だとは言えないでしょうか?

 

例えば、あなたの家が農家だったとしましょう。朝、市場に出荷するきゅうりを畑に取りに行くこと。それは「仕事」ではないのでしょうか? では、自家用のサラダにして食べるきゅうりを取りに行った場合はどうでしょう? また、それをサラダに仕立てて食卓に出す行為は、「仕事」ではないのでしょうか? 食事の後の皿洗いや布巾の洗濯は、「仕事」とは呼べないのでしょうか?

 

いいえ、そんなことはありません。全部が「仕事」です。ですから、「仕事がない」なんてことは決してあり得ないのです。私は、毎週20時間前後を費やして、この『気づきの啓示板』ブログを書いています。それは、今の私の「仕事」なのです。誰かに言われてやっているわけではありません。私が、それを「仕事」だと考えたから、それが自分の「仕事」になったのです。

 

ここで、原始人を想像してみてください。彼の、彼女の「仕事」とはいったい何でしょうか? 「雇用」など、まだどこにも無いのですよ。おそらく「仕事」という概念すらも無かったでしょう。言い換えれば、現代人が、いかに「仕事」というものを狭い範囲でしか捉えていないか、捉えなくなったか、またその概念に洗脳されているか、が解ろうというものです。どうしてそうなったと思いますか? いったい何がその原因なのでしょう?

 

そう、その通り。「お金」です。この半世紀で、「仕事」とは「お金」を得るためのものであり、人は「お金」が無ければ生きられない、という信念を、あらゆる場面を通じて、現代人は吹き込まれて行ったのです。よって、仕事がない → お金が得られない → 生きられない → 絶望しかない、という苦悩が生み出され、その苦悩から逃れるために、ドレイ労働であっても、自分から進んで従事する状況が創られたのです。

 

『ハローワーク』という制度すら、その信念の強化に寄与しています。私が、「○○支援」とか「○○サポート」という言葉に諸手を挙げて賛同しないのはそこです。ひとたび「支援」を制度化しますと、それがいつの間にかスタンダードとなり、概念がすっかり入れ変わってしまうのです。すると人々は、もう「支援」なしではいられなくなる。そこに、その市場を狙った利権が必ず発生して行くのです。

 

「お金」とは、単なるツールです。そのツールに、現代人はとことん汚染され、操られ、苦悩させられ、でもそのカラクリを知らず、今や家畜にまで落とされそうになっているのです。

 

ホームレスになって、都会で狩猟採集生活をしている人をみると、気の毒に思う半面、同じ狩猟採集生活を、どうして山に来て行わないのかな、と思います。発想を変えればいいのに‥‥。住居がない → 面接が受けれらない → 仕事に就けない → お金がない → 部屋を借りられない、というループから、山に来れば、直ぐにも抜け出せるのに‥‥。

 

今はどこの山村も過疎化しているから、家もたくさん余っているしね。自治体の中には、仕事を見つけてくれるところだってある。自然の中に身を置けば、自分がいかに、仕事=雇用=お金という概念に縛られていたかが分かると思うのです。そして本来、自分は「自由」なのだということも。何なら、落ち着くまで、私の家に来て貰ってもいい。ボロ屋だけど、まあ何とかなるさ。

 

宇宙的に言えば、あなたの「仕事」は、極めて明白なんですよ。誰にとっても同じ。原始人と同じ。犬猫とも同じ。ただ一つしかない。それは「生きる」こと。えっ、生きること? そう、生きること。生き延びること。それがあなたの「仕事」。それ以上でも、以下でもない。問題は、どうそれを「生きる」かということなのです。いわゆる「職」は、その「生き方」を構成する多くのファクターの、一つの要素に過ぎない。

 

みなさんは、社会の刷り込みもあって、「雇用」とか「適職」とか「自己実現」とか「社会的成功」とかに、あまりにも意識が傾き過ぎているのです。その歪(いびつ)さに気がついていないのです。気がつかぬまま巻き込まれている。そこにこだわり続けるものだから、それが実現できていない今の状況が、不満足だし、不安だし、卑小に思える。自分の存在価値がないように感じるのです。要は、自分で自分を苦しめているのです。

 

そこに気づきなさい。そんなつまらぬこだわりなど、さっさと捨てなさい。あなたの「仕事」は生きることだ。そして課題は、どう生きるかということ。あなたは、どう生きたいのですか? よく、自分の「適職」とか「使命」だとかを霊能者に尋ねる方がおられるのですが、そんなものは、自分が決めることなんですよ。あなたが、どういう意志を持つかということなのです。

 

そして、さらに宇宙的に言えば、その理想は、「愛」に生きるということ。全き愛の人になるということ。完全なる奉仕を己の「仕事」にするということ。それは、あなたの意識のあり方の問題、意識のあり方の転換、意識のあり方の成長を問うている。このことが、この先、嫌でもはっきりと自覚されるようになります。なぜなら、「職」が無くなるから。「雇用」がますます狭き門になるから。

 

その時、あなた方は、今までの考え方と、社会システムを根本から変更せざるを得なくなります。資本家と労働者、雇用者と被雇用者、富者と貧者、命令する者と命令に従う者、このアンバランスがもう機能できなくなる。そして、分かち合う経済システム、支え合う社会システムにドラスティックに転換してゆくことになる。その萌芽がもう現れているのですよ。

 

現行システムに君臨する者は、今までのシステムを何が何でも死守しようとします。その焦りと綻びが、あちこちに顔を出しています。ですから、これまでには信じられなかったようなことが、(例えば、ウソをつき続けて平気な政治家、民を苦しめても恥じない官僚、不正を黙認する警察・検察・裁判所、デタラメばかりを流しているマスコミなどの形に表れて)噴出しているのです。

 

あなた方は、その右往左往には巻き込まれないようにして、これから全体を、俯瞰して、穏やかに見て行くのですよ。創造の前には破壊が必要だということ。その役割を演じてくれている者もいるのだということ。光あるところには影があり、影あるところに光あり、ですぞ。そして、あなた方は、混乱の時期を超えて、光の創造の道へと進むのです。

 

いいですか。もう一度、言いますよ。あなたの仕事は「生きる」こと。そして、今世のあなたの課題は、どういう「生き方」を選択するかということ。別の言い方をすれば、あなたという個別化した「魂」の、今世における「表現のあり方」だ。それが、いま問われている。そしてそれは、あなたの自由意志に、すべて任されているのです。

食の大切さ、その奥にある深い意味

スーパーに行くと、小アジを詰めたパックが、「唐揚げ用」という表示を付けて安く売られていました。私はドがつく貧乏人ですので、目ざとくそれを買ったのですが、買いながら(今時こんなものを買う人は、居ないだろうなぁ)と思いました。家庭に出刃包丁がないでしょうし、ぜいごの取り方も知らないでしょうし、揚げ物もしないでしょう。

 

もう「料理」以前の問題で、その前提が崩壊してしまっている。出刃包丁を持っていなくちゃ魚は下ろせないですが、出刃は鋼ですから、しょっちゅう研いで手入れをしていないと直ぐに錆びてしまいます。その砥石も、今の家庭には無いでしょうし、刃物の研ぎ方だって知らないでしょう。でもね、わずか50年前は、そうしたものが各家庭に当たり前にあったんですよ。

 

インターネットを見ると、たくさんの料理レシピが載っています。ですがどれも、基本を無視した「なんちゃって料理」ばかりで驚きます。(ああ、これが今の人の普通の感覚なんだろうなぁ)と嘆かわしくなるし、これでは現代人の「心の問題」など、永遠に解決しやしないだろうなとつくづく思います。う〜ん、こんなこと言ってる私の方が、時代遅れの浦島太郎なんでしょうかねぇ?

 

私は、マクドナルドのハンバーガーというものは、むか〜し1回食べたことがあるだけ。コンビニ弁当というのは2回くらいあるかな。それは何かの会合で、他の人が買って来たものを「要らない」とは言えなくて、仕方なく食べました。レトルトとか冷凍食品とか「なんとかの素」の類は一切使いません。毎食、ささやかなものですが、自分で作って食べています。

 

先日、あるお母さんから聞いたのですが、小学生の息子さんが野球部に入っていて、次期卒業生のお別れ会があったんだそうです。そこで、親御さんたちが集まって食事を何にしようかという話になり、コンビニ弁当という案と、カップラーメンという案が出て、さすがにカップラーメンはないだろうということで、コンビニ弁当に落ち着いたと言うのです。

 

いやはや、もう私の想像を超えておりますな。私の中では、エプロンをして、お母さんたちが一緒に楽しそうにカレーライスを作っている姿が浮かぶのですけれどねぇ。そうすれば、子どもたちも匂いに惹かれて集まって来て、楽しく食事が出来ると思うんですけれどねぇ。いったいどうして、こんなことになってしまったんでしょうねぇ?

 

たぶんそれは、そうするのが面倒くさいというよりも、自分の調理技術のなさを他の人に知られるのがイヤで、お互いに牽制し合った結果、落とし所をそこに求めたのでしょう。日本人が伝統的家庭料理を捨ててから、二代、ないし三代が既に経過しています。核家族化の影響もあり、家庭の味の伝承がとうについえてしまって、もう戻れるところがありません。

 

同じ豊かな食文化を持つイタリアが、ファストフードの入国を拒否して、マンマの味をまんま守ろうとしたのに比べて、日本人は、まあなんとあっさり自国の伝統文化を捨ててしまったのでしょうねぇ。アメリカ文化を有り難がって、アメリカ流のプアーな食を真似して、それがおしゃれだと勘違いして、子どもたちをその習慣にすっかり馴染ませてしまいました。

 

今や “家庭”料理は「外食」でしか味わえないという、笑えない冗談みたいな時代になっちゃった。

 

それでいったい、何を代わりに得たのでしょう? 食事を作らなくなって、自由に使える時間が増えましたか? FFやコンビニがあるので、お弁当や水筒を持たなくても済むようになりましたか? 家族団欒はチェーンの居酒屋や回転寿しで出来るし、後片付けもしなくていいし。便利な世の中になって、本当によかったですねぇ。で、あなたは何を得ましたか?

 

病院の関係者から、今の恐るべき実態をお聞きしました。入院患者の食事は、外部の納入業者が運び込んで、病院側はただそれを温めるだけなんだそうです。栄養士はいろいろ計算しているのでしょうけれど、食べずに残す人がいっぱいいる。そりゃそうです。私はまずあのプラスティクの器がダメ。見ただけでげんなり。職員は、医師も看護師も時間に追われて、コンビニ弁当やカップラーメンが当たり前なんだそうですよ。

 

毎日の、家庭の食事や、団欒の場が崩壊していても、そこに危機意識を持たない。それどころか、忙しさを言い訳にして、さらなる崩壊の道を突き進んで行く。そして、その穴を埋めるように、健康食品の情報だけはやたらと詳しくなって、あれがいいとか、これがいいとか、ダイエットだとかと言って騒いでいる。何かが、根本的に間違っているとは思いませんか?

 

自然界に暮らす鳥を見てください。親鳥が雛に餌を与えるのは当たり前です。人間は、それをより美味しく、楽しく、また食卓に集う人が分かち合って食べられるようにと工夫し、各地固有の文化にまで発展させて来ました。その食文化を、現代人は、作るのが面倒くさいと言ってあっさり捨てたのですからね。もはや「生きる」意欲を見失ったとしか思えません。

 

子どもの頃に、家庭の味をしっかり覚えた人は、大人になっても決して身を崩すということがありません。どんなに辛い目にあったとしても、ギリギリのところで踏ん張れるのです。それは「家庭の味」というものの記憶が、体に刷り込まれているから。手作りの、我が家の味こそが、その人にとって、親から確かに「愛されていた」という自信と証明になるのですから。

 

愛のこもった食事。それは、ただのエサとは違うのですよ。そう聞いても、信じられないでしょうね。食べ物は食べ物だ。手作りであろうが何であろうが違いやしない。重要なのは成分だ、栄養価だ。それが今の風潮であり、主流の考え方です。いや、それ以上に、空腹を満たせればそれでいい、と考えてる人だって大勢いる。

 

でも、大切な点は、そこじゃないのです。人間にとって、食は確かに大切です。でもそれは、みなさんが考えているように、物質的な側面だけからの話ではないのです。むしろ、物質的側面は、さほど重要ではないのです。と言ったら、驚かれるでしょうね。中には反発を覚える人もいるかも知れません。今の栄養学の常識とは掛け離れておりますから。

 

一日何品目食べろとか、手のひらに当てて量を計れとかの「栄養指導」なるものが盛んに行われていますが、そこに神経質になる必要はありません。身体というものは素晴らしい化学工場で、摂取した食べ物はみんな、分子、原子レベルにまで細かく分解し、自分の身体に必要な栄養素へと再構成してしまう能力を持っているのです。

 

ですから、動物は極端な偏食にも耐え得るし、だからこそ、人類も古代より生き延びて来られたのです。ご覧なさい。情報過多で、飽食の現代人の方が、よほど病気持ちが多いではありませんか。その病気を脅しにしてまた、あれを食べろ、これを飲めと、情報洗脳している輩がいることが判りませんか?

 

それよりも重要なのは、分子、原子の間にあるものです。分子、原子の間? そう、間。スキマです。あなた方は、物質が目に見えるものだから、いや物質しか見えないものだから、物質が確固たるもの、目の前の物質がすべてだと思い込んでいます。そしてそこから、あらゆる考えを構築しようとする。でも、その固い物質というものは、実はスキマだらけなんですよ。

 

水素原子を例にとると、中心にある原子核の大きさは、原子のおよそ10万分の1でしかありません。東京駅に直径1m大のボールを置き、これを原子核だと仮定すると、電子の軌道は、なんと100km先の銚子あたりということになるのです。つまりその間はスカスカ。ニュートリノの検出が困難なのはそのためです。ほとんどがその間を通り抜けて行ってしまうのです。

 

さらに言えば、(これは現代物理学ではまだ認めてはいませんが)物質というのは、空間の縄張り的主張なのです。宇宙のベースになっているものは、超ミクロの振動するエネルギーです。このエネルギーが、振動数を下げて行った時に物質化して素粒子となる。その素粒子がさらに集まって原子を作る。この時に、無時間・無空間の宇宙に「時空間」が主張(produce)されるのです。

 

ですから、喩えて言いますと、超ミクロの振動するエネルギーの海に、ダスト(埃)のような素粒子がプカプカ漂っているような状態です。海流に乗って流されて行く小さな木片思い浮かべてみてください。すると、このダストは、海の流れ、波の影響といったものを当然受けます。影響を受けるどころか、海流にほぼ支配されていると言ってもよいくらいです。さてここからです。

 

人間の想念というものは、非物質的なエネルギーです。ですから、この超ミクロの振動するエネルギーの海に、想念が溶け込むということになるのです。それらは同質のものですから。あなたの出す想念エネルギーが、あなたの周囲に、想念の海流を創るのです。ですから、食事を構成している原子のスキマにもそれが入る。食事の際に、人はそれらを一緒に頂くことになるのです。

 

さあ、そこで考えてみてください。栄養価はしっかり考えられているけれども、工場で大量生産された食事と、粗末だけれども、愛のこもった手作りの食事。そのどちらが、食べた人を癒し、喜ばせてあげられるのでしょう? 当然ながら後者です。何しろ、原子核の大きさよりも、スキマの方が遥かに広大なのですからね。

 

人は、どうしても物に惑わされてしまいがちです。ですが、目をつむって、物が一切無い世界に、いま自分は居ると想像してみてください。それが真実の世界なのですから。そうすれば、直ちに解ります。あなたが食べているものは何なのか? あなたが食べたいと欲しているものは何なのか? あなたを癒し、勇気づけ、健康で、朗らかな気持ちにしてくれるものは何なのか?

 

現代社会の破壊的構造は、こうした面がほとんど顧みられなくなっていることにあります。みんなが「家庭の味」を忘れ、エサを食べることをよしとし、エサを供給する産業が大手を奮い、その中に平気で身を任せている。それがどれほど、精神を荒廃させ、生きる本能すらも奪っていることか。見よ! プアーな食先進国アメリカの、人々の精神の荒廃ぶりを。そしてそれを後追いする日本を。

 

今や、心を病んだ教師たちが、次代の子どもたちを脅育し、矯育している。心を病んだ医師たちが、訪れる人を薬漬けにしている。そして、インターネット・ゲームという麻薬が、子どもたちを幼い時から重症の中毒者に仕立てあげる。その仕組みを作ったのは、それを「よし」とする前の世代の大人たち。そして、その大人たちを育てたのは、その前の前の世代の大人たち。その大人たちを育てたのは‥‥

 

地球人たちよ。いい加減に目覚めるのです。この壮大なカラクリに。カラクリを作り上げているものの根本的な理由(ワケ)に。

 

こんな状態で、傷ついた心が癒されるわけがないではありませんか。悩み、傷つき、病んだ人を救えるのは、テクニックなどではありません。ましてや薬などではない。一杯のスープ。温かな心のこもった食事です。そのベースがあってこそ、人は初めて、生きている実感、生きていることのありがたさ、他の人から支えられて自分もある、ということが解るのです。

 

社会の風潮に流されるままであってはいけません。便利を追求すれば、便利の奴隷に成り下がってしまいます。不便の中にこそ、工夫と楽しみがあることを知りなさい。大切なのは「意識」の自由なのです。人間は本来的にクリエイティブな存在です。表現せずにはいられない存在なのです。そこに、どうでもよいような便利の蓋を被せて、自分を檻に入れてしまわないようにしなさい。

 

あなたはあなたです。ご自分の才能をもっと活かしなさい。他者に認められようが認められなかろうが、あなた自身を生きなさい。それでこそ、生きている甲斐があるというものです。自由は、そのために与えられたのですから。