by Rainbow School
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LGBTとレインボーフラッグ

LGBTというのは、Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとった用語です。10年ほど前からこの言葉が徐々に浸透し始め、今日では、性的マイノリティの代名詞のようにして使われるようになりました。でも私は、このマイノリティという考え方は好きではありません。マイノリティなど、この世にはいないと思っています。あるのは個性だけだと思っておりますから。


さて、このLGBTのシンボルがレインボーカラーなのをご存知ですか? アピール行進の時には、たくさんの人が虹色のフラッグを掲げたり、虹色のTシャツを着ているのを見ます。なぜレインボーフラッグがLGBTのシンボルになっているかと言いますと「いろんな色があるよ」ということで、個性というものを強調しているのです。そしてこれは、「虹の学校」の理念と全く一緒なのですね。

 

ご存知のように、虹色は、白色光がプリズム効果によって波長の長短別に色分解された際に得られます。雨後の空に虹の架け橋が見られるのは、空気中の水滴内に光が入り、その反射光が波長の屈折率の違いによって虹色に姿を表すのです。「虹の学校」という名は、分解されたこの様々な色が集まることによって、元の白色光に還る、という意味合いを持っています。その「光への道」を歩む学習を、互いの個性を補い合いながら、共にここでして行こうというわけです。

 

LGBTの方たちは、これまで、何かと肩身の狭い思いを経験されて来たことと思います。けれども、「虹の学校」はみなさんを歓迎します。それは、理念が同じということもありますが、それだけではありません。今日は、「愛」のかたちの多様性ということに関して、一般にはあまり言われていない、霊的世界からの話、「魂」の世界からの話をすることにいたしましょう。

 

先ず最初に申し上げたいのは、相手を傷つけたりすることでない限り、どんな性的な愛し方も、あり方も自由だということです。あなたには、恋愛に関して、宇宙から自由意志が与えられています。ところが、この点をめぐって、最も強いタブー的視線を投げ掛けるのが、他ならぬ「神」を扱っている筈の宗教なのです。しかしそれらは、歪んだ宗教的なドグマに過ぎません。この一点を見ただけでも、宗教というものが、いかに人間を抑圧して来たかが分かります。

 

また、LGBTに関連づけて、男女が結婚しないと子どもが生まれないとか、このまま少子化が続けば国力が衰退するといったことを言う人もいるのですが、人間は、子ども製造マシンではありません。また、労働ロボットでもありません。しかもこれらの発言は、その立場にいる人たちによるご都合主義なのです。子どもが生まれないのは、希望のない社会だからですし、地球環境と、人類にとっての大問題の一つは、以前から言われて来たように人口爆発です。

 

いま上げた二つの問題視視点は、どちらもLGBTというものを表面的にしか捉えていません。しかし、奥にはもっと普遍的な課題があるのです。その課題が解れば、LGBTというものが、単に個性に過ぎないということが解ります。そして、もっと奥には、すべての人間に共通した「愛」の学習という大テーマがあるということも解って行くでしょう。

 

次に言うことは、LGBTを嫌悪する人たちにとっては、トンデモ話に聞こえるかも知れません。しかし、これが人間の本質なのです。人間とは、輪廻転生するものなのです。その人の本体は、あくまで「霊魂」にあり、肉体は、転生のたびに着替えるドレスのようなものです。このドレスは、次にどの両親を選ぶか、どういう境涯を選ぶかを含めて、中間生(霊界)にある間に、前世のカルマを考慮した上で、指導霊と相談しながら、自分で決めて誕生して来るのです。

 

ですから、その中にはジェンダー(性別)の選択も含まれています。霊的な完成とは、男性性も女性性も充分に体験し尽くした先にあるのです。そうすることによって、両方の性が解り、一つの「霊魂」のバランス、中庸が図られて行くのです。ですから、過去世の体験から、どんな男性にも女性っぽい面はありますし、どんな女性にも男性っぽい面があります。そして、今世で選んだ性別については、普通は、しぶしぶであっても受け入れて行くのです。

 

ところが、こういう場合はどうでしょう。ずーっと男、男、男で生きて来て、今度こそは女性も経験しなくちゃなと、一大決心して生まれて来たものの、いざ生まれてみると、どうもドレス(身体)の感じがしっくり来ない。あるいは、その逆パターン。こんな場合には、その人は自分のジェンダーに強い違和感を持つかも知れません。また、前世でもレズビアンやゲイだった人の中には、今世でもそれを継続したいと思う人がいるかも知れません。

 

いずれにしても、そこには過去世から引き継いだ原因があるのであり、LGBTの方たちは、そこを掘り下げて考えてみることが大切です。必ず、今世での大切な学びがあるはずです。ただしその時、今のご自分を否定なさらないでください。いろんな道があるのです。最後の最後は、どんな「霊魂」も中庸に行き着くのです。だとすれば、最初から真ん中付近を行く道があってもよいわけですね。

 

LGBTの方たちの中には、芸術面や美的センスにおいて、特異な才能を発揮される方が多くいらっしゃいます。これはなぜかと言いますと、普通の人よりも、それだけ宇宙的感覚が解るということなのです。地上的な男女別を超えているので、宇宙感覚(全部は一つ)により近いのです。だから、芸術的センスがあるのです。もしかしたら、それを伝えるのが、その人の使命なのかも知れません。

 

さて次に、人間としての普遍的な課題です。ノン気(ストレート)の人たちは、LGBTの人たちを見る際には、どうしても性愛の面ばかりに注目してしまいがちです。そして、違和感を持たれるでしょう。しかし、ノーマルと言われている人も、身体的な愛情表現のみを「愛」と言っているわけではないことに気づいていただきたいのです。つまり、その先にあるものは、LGBTの人たちもそうでない人たちも、何ら変わりがないのです。

 

「愛」にも、大きく三段階があるのです。性愛、情愛、そして真の愛です。これは、人間というものが、霊・魂・体の三層で成り立っている多次元的な存在であることから、それぞれに対応した「愛」のかたちというものがあるのです。

 

図を見てください。肉体的な愛が「性愛」、魂的な愛が「情愛」、そして霊的な愛が「(真の)愛」です。以前にも書きましたが、古代ギリシャではこれを明確に区別していて、それぞれエロス、フィリア、アガペーと名づけていました。

 

(図の補足説明:地上世界(3次元)では、人間は霊・魂・体を同時に有する多次元的存在として生きている。しかし、霊・魂を意識していない人は、体を持つ自分のみが自分だと思い込んでしまっている。けれども、魂の意識や、霊性が向上していけば、地上にあっても、その人は、霊・魂・体それぞれに応じた「愛」の認識に至れるのである。)

 

若い男女が出会って結婚したとしましょう。最初は「性愛」に大いに興味があって、この経験を重ねて行くでしょう。そのうちに子どもが生まれて家族が出来ると、今度は「情愛」がしだいに深まって行くでしょう。そしてもっと歳を取って、子どもが独立してしまうと、しだいに博愛的なものが芽生えて来て、遂には自然の何にでも愛おしさを感じるという「真の愛」の心境にまで達するでしょう。

 

もちろん、そうならない人もいます。というか、残念なことに、そうならないで一生を終わる人の方が圧倒的に多いです。だからこそ、そこに「愛」の学習が隠されているのですね。最初は、「性愛」の関係だけだったかも知れないけれども、しだいに「情愛」が芽生え、遂にはそこから「情」が取れて「愛」だけになる。「真愛」という言い方はあまりしませんが、これがさらに進むと、「真愛」が「神愛」と合体してしまうのです。これが「愛」の最終ゴールです。

 

ということで、フィリアからアガペー段階への「愛」の学習については、ストレートの人も、LGBTの人たちも、何ら変わりがないわけです。ただちょっと違うのは、最初のエロス段階だけ。霊的世界から見れば、地上でしか経験できないエロス体験も十分にした上で、さらにフィリア、アガペーへと昇華して行くことが最も重要なことなのです。何度も言うように、あの世に持って行くのは、また持って行かされるのは、その人がした経験に伴う心情と理解だけなのですから。

 

みなさん方は、学校で、アリストテレスやプラトンやピュタゴラスらの古代ギリシャの賢人たちを「哲学者」と習われたと思います。ですが、これは誤りです。彼ら賢人たちは哲学者ではなく、あの時代の「メッセンジャー」でした。賢人たちは、秘教学校を作って、「宇宙の真理」を弟子たちに教えていたのです。けれども、後の時代になって、その奥義を理解できない人たちが、「ギリシャ哲学」の名称で括ってしまったのです。

 

ですから、そこで説かれていたことは、現代に合わない、古臭い、カビの生えた理論なのではなく、時を超えた、宇宙の普遍的真理であることを知っていただきたいと思います。「性愛」を伴わない精神的な恋愛を「プラトニック・ラブ」と言っていますが、これも誤解です。「Platonic love」とは、「プラトン的愛」という意味。つまりは、エロス(体)、フィリア(魂)、アガペー(霊)へと昇華して行く「愛」のことです。これを、プラトンが正しく説いたのです。

 

さて、これまで言ったことが解れば、LGBTの方たちを指して、宗教的倫理に照らしてどうとか、人口減少がどうとかといった問題視発言を行うことが、まったくうわべしか見ていないということが解ったでしょう。誰かが誰かを裁く、などということがあってはなりません。神は誰も裁きません。全員に、等しく、自由意志が与えられているのです。その自由意志を、どう使うかはあなたしだい。

 

多様な「愛」のかたちがあることを先ず認めて、そして、ご自分の「愛」の機会を通じて、各人が各様のエロス、フィリア、アガペーを経験、学習して行けば良いのです。その先に、虹色の個性が集まって、白色光となって輝く、全き「愛」の理想世界があることを信じ、思い描いて、どの人も、今日一日を元気よく生きていただけたらなと願っています。

神は一神であって二格

このところ、ずっと一神教と二元性のことについて話をして来ました。神は一つである。これは間違いのないことです。論理的に考えても、またそうでなくても。論理的に考えれば、神は一者という帰結が矛盾のないただ一つの結論ですし、論理によらないものとしては、いついかなる時代のメッセンジャーも、「oneness」を秘教として伝え続けて来たというのがその何よりの証拠です。

 

しかし、この超シンプルな真理が、ついぞメジャーになることはありませんでした。古代の人々はこれを知っていたのですが、人間が物質主義に傾き、堕落するに連れて、この真理が忘れ去られて行きました。そして宗教までもが、権威主義、拝金主義、独善主義、排他主義の基盤に立った「我が神」の教義を振り撒くようになったのです。

 

二元性(duality)というものは、いったん理解してしまえば、「なんだそういうことだったのか」という程度のものなのですが、それを本当に、身体の細胞の隅々にまで納得させるのはかなり難しい。なぜかと言いますと、何世代にも渡る人類史の中で、誤った認識の二元論がすでに細胞の奥深くにまで浸透し、刻み込まれているからです。

 

あなたはきっと、一度ならずこう思ったことがお有りでしょう。どうして、この世に善と悪が存在しているのか? もし神がいるとしたら、この世が善だけでないのはどうしてなのか? そこに、一つの考えが忍び寄ります。神は善なのだが、悪を為そうとする別の親玉がいるのだ。それがサタンやルシファーであり、善なる神は、奴らとの戦いに勝利することをお望みだ。

 

これが一神教の二神論へのすり替えです。善と悪の戦いという図式にしたところで、その両者を統御しているものはいったい何者なのか、という疑問には答えていないのですが、その発想は人々の心情にフィットしたのです。なぜなら、社会の矛盾や人間関係を見れば、なるほど日常が戦いだし、自分自身の内部においても、善と悪との戦いが昼夜繰り広げられているからです。

 

左の図を見てください。三角形の頂点に位置するのが、宇宙の創造者です。創造神といっていいでしょう。この創造者は、万物を創造する際に、先ず二つの極性を設けたのです。これが陽と陰です。二つの極性を設ければ、その間に、配合の違いによって様々なものが生み出されることになります。さらにそれら同士の組み合わせで、もっと多様なものが生み出されて行きます。こうして万物が創造されたのです。

 

これを「三角形の法則」と言います。三角形の頂点から、陽極と陰極に別れて、末広がりに万物が創られて行きました。そこで、「ハ(末広がりに)」に「刀」で切ると、「分ける」という字になるのです。また、創造神から万物へは、バイブレーションの違いによって七段階に階層化されました。そこで「七」に「刀」が「切る」という字になっているのです。

 

二極性に分かれた原初の痕跡は、あらゆるものに見出され、二極性を持たないものはおよそ宇宙に存在しません。何しろ素粒子の世界が、プラスとマイナス、左スピンと右スピンといった具合に、全てが対で出来ているのですから。みなさんの身近においても、光と影、昼と夜、南と北、右と左、表と裏、押すと引く、男と女、等々いろいろなところで二極性を確認できるでしょう。

 

このように、万物が二元を基本にしているということは間違いありません。しかしそれは、前にも言いましたように、対立構造ではなく、補完機能なのです。つまり、互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。これは非常に重要な点です。なぜ一者であったものが、自己の内に二極性を創造したのか? それは一者のままでは、自分を自分と認識できないからです。そこで二元が生じました。

 

図で、頂点が一神教。その最初の分岐が二元論。それよりさらに下ると、神々という多神教。底辺になると、自然のすべてに神が宿るという自然崇拝、そして全部をひっくるめて三角形を見ると、汎神論となるのです。つまり、「神」とは何かについてのこれらの違いは、一つのものの、視点の置き場所の違いに過ぎないのです。そして結論は一つです。全部が一つ、一つが全部です。

 

いま見て来たように、二元性というものは、今の宇宙が宇宙であるための、最もシンプルな初期条件だったのですが、これに人間は余計なものを付け加えました。善と悪、優と劣、強と弱、積極と消極といったように、尺度を設けて一方が一方を裁くような価値観を醸成したのです。これは、支配と被支配の構造を創りたい者にとっては、非常に好都合なツールとなりました。

 

ここで、勘のいい方はすぐにお気づきのように、支配と被支配という考え方自体が、一方が他方を裁く尺度になっています。そこで、ここから類似の尺度が次々と生じたのです。その根本原因は、これまで何度も言って来たように、根源(=神)から別れて、個我となった「魂」の中に、自由の一面である「分離」意識を発達させて、自分がよい思いをするためには他者を支配するしかない、と思い至った「魂」が出現したことによるのです。

 

こうした支配的な行動原理を持つ「魂」は、割合としてはそれほど多くはありません。けれども、狡猾で知力に長けているために、上記のような尺度に基く価値観を、子どもの時分から大衆に吹き込んで、広く信じ込ませることによって、自分たちの立場を盤石なものにしたのです。

 

しかし、上記で示したような価値観は、本来は、善悪→宇宙の法に則っているか反しているか、優劣→才能と表現の多様性、強弱→強靭と柔軟、積極と消極→活動と休息のように見るべきだったのです。

 

このように、二極性には本来、優劣というものはないのですが、腕力の強さ弱さという視点から、性別にもこの尺度を当てはめようとする考えが生じました。いわゆる男尊女卑です。これは社会的、政治的に是認されて来ただけではなく、一部の宗教では、女性に対して虐待的な倫理規範を設けたり、女性の聖職者は認めないなどとして来たのです。しかしこれらは全て、支配のための屁理屈です。

 

モーガン・フリーマンさんという俳優さんをご存知でしょうか。この方が以前、笑いながら、こんな話をしていました。「自分が、絶対やりたくないと思っていた役が一つあるんだ。そしたら、先日、そのオファーがついに来ちゃったんだよ。それは“神様”なんだ」と。

 

「神様」は、どういうわけか白い顎髭を生やしたお爺さんで表わされることが多いですよね。もちろん「神」が、このような人間の姿をしているわけはないのですが、そこに人格的なものを見出したいたいという願望が、長老のイメージを与えるんですね。キリスト教でも、「父なる神」という言い方をして、「神」に男性格を付与しています。しかしこれは間違いなのです。間違いどころか、多大な悪影響を与えて来ました。

 

「神」は男性格ではありません。これまでの話からお判りのように、宇宙の創生において、創造主は原初に二極性を持ちました。しかしそれ以前の、創造主そのものには、まだ極性がないのです。ですから、これに人格を見出した場合には、当然、極性登場後の人格を見ることになります。そして、これもまた当然ながら、男性と女性という二極性があるのです。これは他の二極性と同じく補完機能であって、そこには優劣はありません。

 

ですから、「父なる神」は間違いであり、「父でもあり、母でもある神」が正しいのです。時に父性を大いに見せ、時に母性を見せる両極性の存在が、真実の「神」です。この「気づきの啓示板」ブログでも、突如、口調が変わることがありますが、男性口調であったり、女性口調であったと変化します。以前は気になって、後で修正していたのですが、最近はそのままにしています。

 

では、男性格と女性格とではどのような違いがあり、宇宙において、どのような補完機能を構成しているのでしょうか。解りやすいのは、やはり女性格です。それは出産というものがあるからです。このことから、女性格は、新しいものを生み出す母体、大地、海、物質、そして命を育む優しさ、温かさ、愛、感情、直感、などの性質を持っています。

 

これに対して男性格は、意志、方向づけ、論理、包容、陰で全体を支える、などの性質を持っています。この男性格と女性格のバランスが上手に取られることによって、次の生命が誕生し、引き継がれていき、なおかつ、それぞれの「魂」の霊的成長というものが図られるのです。しかし、性質を誤用してしまうと、女性は感情や物質に流されやすい面が出て、男性は闘争や暴力に傾きやすくなるのです。

 

俯瞰して言うと、男性格はこうしようという聖なる「意志」、女性格は全体を連ねる「愛」を表現していると言えましょう。創世記では、エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっています。これは、心臓のある位置、つまりハートのチャクラを抜き出して女性が創られたということなのです。また、人間は神に似せて創られたとあるように、神に男性格と女性格があるので、地上にも男性と女性がいるのです。

 

ところで、いま言ったことを、男性とはこうあるべき、女性とはこうあるべき、とは捉えないでください。あくまで二つの極性の意味を言っただけで、陽中陰、陰中陽と言って、男性の中にも女性的部分がありますし、女性の中にも男性的な部分があります。というよりも、そうやって、一人の人間の中に、二極性のバランスが取れて行くことが、人間完成に至る道なのです。

 

さて、この二極性のバランスということが、宇宙的にはあらゆる面で大切なことなのですが、今までの地球社会は、男性性というものが前面に出過ぎていたのです。それも悪い面の男性性です。しかし深いところでは、そのピークは過ぎて、すでに衰退に向かっています。けれども、社会というのは巨大なシステムですから、巨大タンカーと同じで急には方向が変わりません。そのため、今は惰性で進み続けているのです。

 

今の、悪い男性性を有した支配層も、その変化を内心で感じており、自分たちの危機意識から、これまでの体制を何とか維持しようとして、無理に無理を重ねているので、あちこちに綻びや矛盾が噴出しているのです。強権的な発言や、マスコミの言論統制や、個人の自由や権利を奪う法改正は、みな、実は危機意識から発しているのです。強さに見える、裏の弱さです。

 

あくまで一般論ですが、男性というのは、どうしても「枠組み」発想から逃れられません。自分では気づいていないのですが、無意識に「枠組み」発想をしてしまうのです。男性は、先ず、自分の所属や立ち位置を決めてからでないと、意見を述べるということが出来ません。一般に、女性は短慮で、男性は思慮深いと言われていますが、男性は「枠組み」を考えているので、そのように見えるのです。

 

自分の立場でこれを言ってもよいだろうか? 言ったことで影響はどうなるのだろう? あの人を敵に回してしまわないだろうか? 自分のポジションがこれで危うくならないだろうか? 等々、いろんなことを考える。それが「思慮深い」ように見えるのです。男性が、名刺の肩書に拘るのも同じ理由。権力者は、そういう男性の操り方を知っていて、地位や名誉をチラつかせては、自分の陣営に引き込むのです。

 

しかし、いったん「枠組み」を得て、そのポジションに満足しますと、今度はそれを失うのが恐怖に思えてきます。自分のアイデンティティを「枠組み」に代表させてしまうので、それが無くなることは、自己の存在理由の崩壊にまで繋がってしまうのです。その行き着いた先が自殺。そこで、そうならないように、保身のためには嘘だって何だって、平気でやってしまうのです。

 

これを聞いても、女性の大半は、おそらくピンと来ないでしょう。そういう感覚が、ワケが解らないことでしょう。バッカじゃなかろうか、と思うかも知れません。そうなのです。実際、こんなバカみたいな発想で、男性社会が動いている、いや動いていたのです。男尊女卑という「枠組み」を作ったのも、男性が、このバカみたいな幼児性を糊塗するためであったに違いありません。

 

さてそこで、これからの、女性格が持つ役割です。これまでの、男性格による政治、男性格による経済、男性格による外交、男性格による報道、男性格による教育、男性格による雇用、男性格による医療、こういったシステムが、すべて限界にぶち当たっていて、最早うまく機能していません。今は惰性で動いているので、継続しているように見えますが、実際には崩壊に向かっています。

 

*女性格:女性格の性質という意味で、「女性が」という意味ではありません。

 

それは、少数者による人類支配というカルマが、溜まりに溜まって、いよいよ清算の時を迎えているのです。支配層は、支配の継続と完遂を狙っていますから、これから、大衆の家畜化、奴隷化の勢いをさらに強めて行こうとしています。しかし、この試みは成功しません。なぜかと言えば、宇宙の法則に反しているからです。たとえ一時的に成功したかに見えても、人類全体で作ったカルマは、いずれ必ず刈り取りの時を迎えます。

 

そこでみなさんにお願いしたいのは、先ず、今の社会の動きを見るときに、(悪い面の)男性格が衰退して行っている状況を、きちんと見抜いて欲しいのです。うわべの瑣末な動きには惑わされないようにしましょう。そうすれば、今の社会の変化というものが、とてもよく解ります。

 

ここで気をつけなければならないのは、駄々っ子の利かん坊が、自棄のやんぱちを起さないようにすることです。追い詰めてはいけません。彼らの霊性はまだ幼稚園児なのです。幼児性に付き合って、暴発させてしまってはダメです。では、どうすればいいのか。それこそ、女性格の「愛」で包み込み、溶かしてしまうのです。

 

これまでの人類社会は、「愛」が足りなさ過ぎました。男性格の悪い面ばかりが突出し、女性格を抑え付けて、表に出ないようにさせて来ました。このような歴史は、もう終わらせましょう。

 

『虹の学校』に縁が生じる方の95パーセントは女性です。これは「直感」が働くからで、女性は、今の時代の風を、追い風としてキャッチしているのです。しかし、男性は逆です。多くの男性が、可哀想にも、奴隷化、家畜化のシステムに組み込まれ、でもそのことに気づかずに、ますます酷くなる仕事環境、生活状況に疲弊し、本来の機能(聖なる「意志」)を発揮できなくなっています。

 

この状況を改め、バランス化して行くには、女性格の「愛」を前面に押し出して行くしかありません。女性の社会進出と言っても、男性に伍して闘っていてはダメです。それでは今までと変わりがありません。

 

そうではなくて、女性格による政治、女性格による経済、女性格による外交、女性格による報道、女性格による教育、女性格による雇用、女性格による医療に、社会システムそのものを変えて行かなければ、地球人類の次の進歩はありません。

 

みなさんは、全員が、父なる神、母なる神の、共通の子なのです。そこに例外はありません。みなさん一人ひとりが、みな違う個性を持っているのは、そこから互いに学び合うためです。違っているからこそ、「愛」の学習になるのです。でも、全員が、兄弟、姉妹であることは、忘れないでください。宇宙はワンワールドです。限りない多様性を許容し、包含するワンワールドなのです。

 

ですから地球も、「支配」によるワンワールドではなく、「愛」によるワンワールドを目指してください。それを実現させて行くことが、人類に課せられた次の課題です。今は過渡期にありますので、もうしばらくは混乱が続くでしょうが、どんな状況になっても、希望を持って、「愛」によるワンワールドの実現に貢献して行って欲しいと思います。

 

それが、これを読んでくださっている、あなたに与えられた課題でもありますから。

「光」と「闇」の関係

日本では、小嘘つきであれば、国会議員や省庁の役人が務まります。その人に、もし大嘘つきの資質があれば、大臣や役所のトップにまで出世できる。でも総理大臣となると、これではまだ足りない。総理になるためには、“異次元” の嘘つきでなければなりません。小学生でも判るような嘘を「一点の曇りもない」と、なおも言い切るド根性と才能は大したもの。誠に余人をもって替えがたし。

 

本年度(平成30年4月)から、小学校で「特別の教科 道徳」というものがスタートしたそうです。その小学校で先ず教えるのは、公正、公平、社会正義だと言うのですから、いやはや。自分が教師だったとしたら、子どもたちにどう話せばいいのかな? 公正、公平、社会正義なんてぇものは絵に描いた餅なんだよと言えばいいのか、裏をかいた方が(徳じゃなくて)得だよと言えばいいのか?

 

「道」も「徳」も、共に人間完成を目指すうえでは大切なことです。でもそれは教えられない。本人が、自分の内に見出すしかないのです。我々に出来ることは、そのきっかけを与えてあげることだけ。もし「教え」ようとしたら、(誰かが発案した)特定の価値観を押し付けることになってしまいます。そんなものは不要、どころか有害ですらある。今の政治に、全く道徳心がないのを見れば、それは明らかではありませんか。

 

道徳教育の必要性を叫ぶ、この上なく不道徳な人たち。愛国心の必要性を叫び、隣人愛は持たない人たち。彼らにとっては、それが公正であり、公平であり、社会正義なのです。人は、その時、自分が理解できる以上のものを受け取ったり、また表出したりすることは出来ません。ですから(「正しい」という仮面をつけた)倫理、道徳、正義の押し付けは、極めて危険なのです。

 

すべては「道」です。終点に至るまでの途中なのです。人と接する時には(それが幼い子であっても)、常に、自分は未だ「道」半ばとの自覚を持って接しなければなりません。誰かが誰かに教えたり、誰かが誰かから教わったりという一方通行はないのです。必ず、互いに学びがある。そして、学ぶのはあなた自身。そこに積極的な価値を見出して、自分を統御していくことが大切です。

 

不正は、当然ながら褒められたものではありません。しかし、今のようにあからさまに出てきていることには、やはり意味があります。よく、政治家の「劣化」とか、官僚の「劣化」ということが言われているのですが、それは「昔はよかった」というノスタルジー的願望から出て来ているもので、昔も今も大して変わりがありません。韓国宮廷ドラマを観れば、よく解るのじゃありませんか?

 

それは「劣化」ではなく、今までなら隠されて来たことに光が当たって、よく見えるようになったというだけのことです。そのことで、みなさんは学習の機会を与えられているのです。「権力者というのは、なんだ、こういう人たちだったのか」に始まり、「権力構造というものは、なんと歪(いびつ)なんだろう」、そして「社会にとって、どういう統治機構が理想なのだろうか」まで。

 

そこまで、一気に来ているのです。選挙制度がどうとか、最高権力者の首をすげ替えたらどうとか、そんなことは今までの延長上の話です。確かに、当面はそういうことでしか進まないのかも知れません。しかし大河の流れは、奥底でもっと大きな変化を示しているのです。そこに気づくというか、そのことを感じながら、今の世の中の動きを見て、自分の中に受け止めていくことが大切です。

 

ニュースは日々、あれがこうなった、今度はこうなりそうだと語ります。でも、大河に浮かぶ木の葉が、右に振れた左に触れた、いや今度はひっくり返ったと言っても、要するに、最後はみんな大河に押し流されていってしまうのです。ですから、長い長い目で見てください。視点を離して、宇宙にまで上げて、大局的に地上を見てください。人々が、一喜一憂しながら蠢く様を見てください。

 

権力者が、なにゆえに必要以上の金を欲するのか。権力者が、なにゆえに「敵」と見なした者を憎むのか。権力者が、なにゆえに一般の民衆を蔑むのか。権力者が、なにゆえに保身のために嘘をつくのか。権力者が、なにゆえに暴力装置のナタを振り回すのか。それは、彼らがいま信じている「正義」の表現なのです。そして、その信念のスケールの最右端に彼らが位置しているからなのです。

 

*信念のスケール:人間はみなバラバラで、そこには優劣があるという「分離」の意識

 

このことを、みなさんは他山の石としてください。それらの「魂」は、未だ身体に埋没したままで、肉の欲望、肉の論理を一生懸命に経験・学習している段階なのです。この世は、そして今の地球は、未だ肉の欲望と論理が支配する世界です。そうした世界にあっては、彼らは優秀者でありエリートなのです。しかし残念ながら、まだ初歩の気づきにも至らない。そして勿論、「カルマの法則」も知りません。

 

みなさんから見れば、私利私慾に狂った、なんという浅ましい人間たちかと思うでしょう? でもその裏側は、不安でいっぱいなのですよ。自分の内に「信=真=神」がないのです。ですから、際限なくお金に頼り、特定の「信念」に盲従し、他者を蔑んだり攻撃したりすることによって、辛うじて自分のアイデンティティを確保しようとするのです。「分離」意識から来る表現の最たるものは、蔑み、憎しみ、そして暴力。霊的にみれば、彼らはまだまだ幼稚園児なのです。

 

しかしそんな彼らとて、いったん目覚めが始まれば、自らの不徳を恥じ、弱き者への憐憫と、悪は許さないぞ、不正は許さないぞ、との気持ちが自然と沸き起こって来るのです。さて、そこでです。大河の流れは、もうその段階にはないのです。実にここが肝心なところですぞ、みなさん。なぜ今、長きに渡ってこれまで隠されて来た悪事が、世界中で、表に曝け出されるようになって来ているのか?

 

それは、隠れていた悪を叩け、やっつけろ、ということではないのです。そう主張している人たちもいますが、それをやったら元の木阿弥。今までと少しも変わらない。そうじゃないのです。これは人類に突きつけられたチャンスなのですぞ。彼らのことは放っておきなさい。あなた方が従わなければそれでいいこと。見抜く眼を養えばそれでいいこと。彼らにはちゃんと「カルマの法則」が適用されます。

 

第三次世界大戦の勃発を心配している方がおられますが、どんなに法律を変えようが、道徳教科書で愛国思想を植え付けようが、軍備を増強しようが、マスコミを使って危機を煽ろうが、従わなければいいだけのこと。無視すればいいだけのこと。いま言ったことを、しっかりと心に刻み込んで、民衆の意識がジャンプしてしまえば、もう戦前のような逆戻りは不可能なのです。よって大惨事(洒落だがね)はない!

 

権力者の手口は、もう充分に学んだのではないかな? そう同じ手に何度も引っ掛かっていては、学習効果というものが見られないねぇ。よいかね、敵なんてものはいないんだよ。恐怖なんてものはないんだよ。そんなものは全部、権力者が、他の人々を支配したい者が、未だ「分離」意識の虜になっている未熟な段階の「魂」が、考え出したことなんだよ。それは、壮大なる人類の洗脳システムなのだよ。

 

どうして、すべてを創造した「神」が、自分の内側に敵と味方を創る必要があるのかい? どうして、すべてを見通している「神」が、自分の中に恐怖を創って自分に味わわせる必要があるのかい? 自分で落とし穴を作って、自分で落ちて「あ、びっくり!」とでも言うのかい? そんなことは、少し考えれば解りそうなものじゃないかね。だから、目覚めるのだよ。彼らが存在するわけを、彼らから学ぶべきことは何かを、知りなさい。

 

いいかい、なぜ「闇」があると思う? 「闇」があるから「光」が「光」だと分かるのだよ。朝まだき、まだ暗い東の山の稜線がうっすらとオレンジ色に染まり、やがてそこから強い「光」を放つ太陽が昇って行く。「光」は「闇」から出るのだよ。「光」があるから「影」があり、「影」あるところ必ず「光」がある。両者は、敵対関係ではなく、補完関係にあるのだよ。

 

ここを間違ってはいけない。「悪」を叩いても「闇」は消えない。「悪」を叩くことは「善」ではなく、「悪」の上塗り、「悪」の応酬でしかない。ここを、人類は、今まで間違って来たのだよ。特に、一神教の名を借りた、善悪二元論に立つ宗教が、その強固な信念を、人々に植え付けて来てしまったのだよ。さあ、でももう目覚める時だ。大河は、もうそっちへ動いているよ。

 

悪事を働く者はいます。不正を働く者はいます。「闇」を正義だと誤解している者もいます。しかし、それらはすべて「神」の手の内にあるのです。悪事を働く者は、創造のふりをして破壊を行なっています。けれども、霊的世界はもっと深甚で、破壊をすることで実は創造を行なっているのです。インドでは、この役割をする神をシヴァ神と名づけました。

 

新しい家を建てるには、古い家を壊さなければなりません。破壊と創造はOneセットなのです。「闇」と「光」は、いつでもOneセットなのです。大切なのはこのバランス。そこで釈迦は、中庸、中道を説きました。中庸、中道と言うと、どっちつかずの妥協点のように思われるかも知れませんが、そうではありません。要は、陰陽のバランスをいいように取りなさいということです。

 

今はまだ、無明の(つまり未だ「光」を知らない)段階にある「魂」たちが、悪事を通じて破壊活動を行っています。けれども、人類がもっと進歩すれば、悪事を行うことなく、この破壊と創造のバランスを上手にコントロールしていけるようになるのです。誰もが中庸、中道を生きるようになるのです。いま悪事が噴出しているように見えるのは、この変化の大潮流が、すでに地球上で起こっていることを示しています。

 

そこで、あなた方にお願いしたいのは、悪事の裏側にあるこの本質に、今こそ気づいていただきたいということです。このチャンスに、一気にジャンプして欲しいのです。アセンションして欲しいのです。悪を叩いても、悪は決して無くなりません。悪を退治する唯一の方法は、そこに「光」を当てること。その貢献によって、長きに渡った人類のカルマを、今度こそ断ち切って欲しいのです。

 

これは、あなたの中に巣食う悪についても言えること。自分の中に「光」を当てて追い出すのです。

 

静寂の中に身を置き、全身が「光」に包まれる様子をイメージしてください。細胞の一つひとつにまで、じんわりと染み入るように。そして、大河の流れに逆らわぬよう、この流れに乗りなさい。流れを味方に付けなさい。乗って、あなたの白光を強めなさい。あなたがする心遣いや親切は、どんなものでもこの流れに貢献することになります。

 

なぜ「闇」があるのか。「闇」があるからこそ「光」が「光」だと分かるのです。今、みなさんが「闇」から学ぶべきことは、それです。ああ、「光」があることの有難さ、「光」のこの上ない暖かさ、そして「光」の全き愛。あなたも、全身「光」の人になってください。そして、この転換期にある地球を、あなたの「光」で照らしてください。それでバランスが実現され、人類が乗り切れるのですから。

一神教は何を誤って教えて来たのか

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、中東を同じ起源とする一神教です。これに仏教を加えて、世界四大宗教と言われたりすることがありますが、仏教だけは、「神」を〈理解の範疇を超えたもの〉として、あえて定義づけを行っていません。三つの一神教の中では、ユダヤ教徒は僅か0.2パーセントに過ぎないのですが、金融を中心に、政治や医療や放送事業等で全世界に隠然たる勢力を持ち、存在感を示しています。

 

*ヒンドゥー教は信者数は多いのですが、地域が限定されているということから、世界宗教にはふつう分類されていません。

 

一神教は、日本人には馴染みがないだけではなく、考え方や感覚そのものがよく解りません。一神教の世界観と、日本人が持つ宗教観の間には大きな隔りがあって、ここに橋を架けるのはかなり難しそうです。ところが、世界情勢というものは、大部分が一神教世界を中心に動いているのです。ですから、世界情勢を読み解く時には、日本人はこのギャップと、背景にある宗教観、自然観の違いをよく知った上でニュース等を見る必要があります。

 

宇宙をつかさどるものは一つである。このことを、これまで何度も語って来ました。このブログの目的も、究極的にはこの一言を伝えたいだけだと言ってもいいのです。宇宙がどうして出来たのか? ビッグバン説が唱えるように、ある日突然、無から宇宙が生じたというのだろうか? しかし、時間も空間も無い「無」状態から、ある日(=時間)、宇宙が生じた(=空間)というのは、定義自体が矛盾です。「無」は無なのですから、何ものも生み出す元もないはずです。

 

私たちの生活を見回しますと、インフラや、家や、生活道具の中には、それらが作られる前に、「こうしよう」という意思なしに作られたものは一つもありません。でもよく見ると、そうじゃないものがありますよね。そうです、ただ、自然、生命、宇宙を除いては。そこで、類推してこう考えるのです。そこにも、きっと「何もの」かの意思があったのであろう、そして今もきっとあるはずだと。

 

その証拠に、自然、生命、宇宙には、この上なく秩序だった法則性が見られるのです。これは驚異です。私たちが見ている、経験している、自然、生命、宇宙が、ある「法則」によって成り立っているらしいことは疑いようがありません。そこで、その法則性を、ある者は「言葉」として、ある者は「数学」として、ある者は「音楽」として紡ぎ出すことが出来るのです。

 

*らしい:法則性に疑いがあるという意味ではなく、法則の肝心な点をまだ人間は殆ど知らない

 

そこで、こういう結論が導き出されます。自然、生命、宇宙(以下、総じて「宇宙」と言う)は、たぶん「何もの」かの意思によって創られたのであろう。では「何もの」とは何なのか? 「それ」が何かは分からないが、「宇宙」と同一、もしくは殆ど同じものであるはずだ。なぜなら、創造主と被創造物が別ものだとしたら、創造主を創ったのものは何かというパラドックスが生じるから。

 

*殆ど同じ:創造する意思と、創造されたものとは、厳密には同じではないという考えもある

 

結局、創造主は自らを創ったのであり、その起源については不明である。よって、始まりもなく終わりもなく、永遠なのだろう。これが、推論の結果、導き出される「宇宙」に対する見解です。この見解に、異論があったり、違和感を持たれる方も当然おられるでしょう。しかしこの先は、議論をしても始まりません。この結論を受け入れるか、受け入れないかというだけです。(仏教は、それゆえ、そこに手をつけなかったのです。)

 

さてこのようにして、「宇宙」を支配しているものは一つである、という考えに帰結します。しかしこの結論は、今、推論によって導き出されたというだけではなく、実は太古の時代から、メッセンジャーたちによって変わらずに伝えられて来たことなのです。ところが、スピリチュアリズムの中ではついぞ主流にはなりませんでした。いつの時代でも、ごく少数の人しか、これを保持しませんでした。しかも弾圧さえ受けて来たのです。なぜでしょうか? 

 

宇宙は一つ。全部が一つであり、一つが全部である。この考え方を、一言で「ワンネス(oneness)」と言います。そして、そこから立ち顕れる法則を「The law of one(一者の法)」と言っています。このブログで、「真理」とか「宇宙の法則」と呼んでいるものは、同じことを差しています。しかし「一者」と言うと、擬人化して捉えられてしまうので、なるべく使わないようにしています。

 

英語の「one」には、一つという意味の他に、「これ」とか「それ」という意味もあります。こちらの方がよくニュアンスを表していると思うのですが、もっと端的に、「それ」を「神」と名づけるとすると、「神」は一つということになり、ここに一神教の基盤が整います。ですから、そのような意味においては、一神教は決して間違いではないのです。

 

それなのに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の別がある。「一者」を奉じているのに一つにはならない。そして互いに非難し合っている。これはとてもおかしなことです。実際、驚くなかれ、3つの宗教が奉じている「神」は、名前は違いますが同じものなのです。では何が違うのかと言いますと、天国の概念や、救済に対する概念、何が罪であり、守るべきものは何か、といったものが違うのです。つまりは運用法です。

 

「oneness」に付随した解釈やルールが大いに異なり、こちらを守ることの方が「oneness」よりも、ずっと大きくなってしまったのです。それどころか、一神教とは言っておりますが、実際には「oneness」を殆ど考慮していないと言ってもよいでしょう。「oneness」の真髄は「愛」です。ところが、「神は一つ」という意味が、「神」の独占に転化され、自分たち以外は邪宗・邪教という意味に使われているのです。

 

なぜ、このようになってしまったかを考えますと、やはり組織宗教の問題点に突き当たらざるを得ません。組織を立てるには独自性が必要となり、そこで独自の解釈やルールが生まれる。次にはこれを維持し発展させるために、階層や儀式や戒律の徹底が図られる。そして、巨大化した組織同士が隣接するようになると、自分たち以外を非難することによって求心性を強め、かつ価値を誇る。

 

このプロセスが、宗教組織を運営する側にとっても、信者にとっても、共に都合よく機能してしまうのです。それが何かと言いますと、無智にしてしまうということです。ですが、信者はそうは思っていません。教義を学ぶことで、自分は賢くなっていると思っているのです。ところが、実態には教義を鵜呑みにしているだけであり、「自分で考える」力を放擲してしまっているのです。

 

一神教を誤って伝えた場合の恐ろしいところはそこです。ですから、聖戦だって、爆弾テロだって、人殺しだって、何だって出来る。一神教は偶像崇拝を認めません。それで「像」に彫った美術品を躊躇なく破壊してしまうのですが、彼らだってシンボルは使うのです。彫刻もシンボルの一つだということに思い至る考えもなく、ただ偶像崇拝ということで破壊してしまうのです。

 

今ある一神教は、「一神」と名乗ってはいますが、実質はみんな「二元教」です。善と悪、罪と罰、天使と悪魔の二元対立を教義に立てて、互いに、自分たちは善の側だと主張するのです。ですから、悪を叩くことは善であり、神の祝福が得られることだと思い込み、喜んで「神」の名の下に戦争を繰り広げていく。こうした考えに取り憑かれた狂信者たちが、今もって世界中に充満しているのです。

 

*悪を叩くことは善:911直後のジョージ・ブッシュの演説を思い出してください

 

そして、もう一つの大きな誤り、というかスリ替えは、「神」を人間の外側に置いてしまったことです。これによって、「神」は崇拝の対象となり、それを納める神殿が作られ、救済や契約(信仰しますので、見返りに救ってください)の概念が生まれました。しかし「oneness」からすれば、それはとてもとてもおかしなことです。自分も宇宙の一員なのですから、当然、私は「神」の一部なのです。「神」と私とは一つなのです。別ではありません。

 

この真実が、一神教では伝えられませんでした。キリスト教ではイエスのみが神の子であるとしました。しかし全員が神の子なのです。「神」は、最初からあなたの中にいると言ってもいいし、あなたが「神」だと言ってもよいのです。ですから、「救い」は必要なく、最初から全員が救われているのです。しかし、これを言ってしまったら、組織宗教にはなりません。そこで、今日あるような教義が考え出されました。

 

「救済」概念を信じ込ませるために「輪廻転生」は否定されました。生まれ変わりを認めたのでは、「救済」の意義が無くなってしまいますから。また人間はみな不安と恐れを抱えているので、「最初から救われているんだよ」と言ったところで、大抵の人にとっては意味が解りません。それよりは、「神」を外側に置いておき「悪いのは悪魔のせいだよ」「熱心に信仰すれば救われるよ」「信仰しない者は地獄行きだよ」という方が、人々の心情にフィットしたのです。

 

この刷り込みが、何世代にも渡って続けれられ、また「輪廻転生」の度に同じ一神教に縁を得たりして、今に至る強固な基盤を構築したのです。よしんば、それが正しい教義だったとして、見よ! この謀略と、破壊と、殺戮に明け暮れた今日の世界を。家も家族も財産も失い、貧困と苦悩に喘ぐ人々の姿を。それらの大部分は、一神教がもたらしたものではないのか。

 

また彼らの中には、多神教や自然崇拝を、未開で劣ったものとして小馬鹿にする傾向があります。そりゃそうでしょう。荘厳な礼拝堂を持ち、豪華絢爛な衣装で身を包んだ聖職者を前に、祈りや歌を捧げて来た者たちからすれば、山を拝んだり、立木に縄を張ったり、神様があっちこっちにいっぱいいるなんて思い込んでいる人たちは、まだ目覚めない未開人のように映るでしょう。

 

実際それで、世界中にいた素朴な人たちが、一神教の布教過程によって、もの凄い人数が虐殺されて来ました。「oneness」の真の信奉者が隠れざるを得なかったのも、そのような理由があるためです。一神教の組織宗教からすれば、「oneness」を説く者は、全くの異端であり、危険人物でした。なぜなら、組織宗教は必要ないということが、そこで明らかにされてしまうからです。

 

しかし、世界情勢が今のようになって、ニュースなどでは宗教対立を煽り立てるようなものばかりが目立ちますが、実際には、今までの「一神教」のあり方に疑問を呈する人々が増えているのです。そこで、日本人の役割です。多神教や自然崇拝を「oneness」の観点から語って頂きたいのです。それらが、まさに「oneness」の考えから滲み出ていることを、堂々と説明して欲しいのです。

 

△形を思い描いてください。底辺が今のこの全世界、全宇宙。そして頂点が「創造神」です。八百萬(やおよろず)に「神々」が宿ると言うことは、また自然そのものが「神」であると敬うことは、これぞ真の「一神教」なのですぞ。両者は、視点の位置が違うだけなのです。そこには、善も悪も、罪も罰もなく、全部が一つということしかない。だから、我々は自然を敬うんだ、自然と共に生きるんだと、堂々と宣言してください。

 

西洋には、自然は征服して当然という考えがあります。「humanism(人間主義)」は、一見すばらしいことのように思えますが、無条件の人間讃歌の裏には、人間は自分たちのために自然を利用し尽くしてもいいんだという考えが含まれているのです。しかし、冷静に考えれば、環境というのは自分たちを生かしてくれている場です。それを破壊してしまったら、人間は生きていけません。

 

日本は、明治維新以降、欧米列強に追い着け追い越せとばかりに、西洋的価値観をまるで憧れるようにして取り入れて来ました。そして第二次世界大戦後は、アメリカと同盟関係を結んで、西側の資本主義陣営の考え方や行動原理に無条件に歩調を合わせて来ました。しかしそれももう限界です。これまでと同じ感覚でいたのでは、大きく変化する世界情勢に着いて行くことは出来ません。

 

すでに、経済的にも文化的にも世界から取り残されて来ましたし、尊敬も失っています。ここで、経済協力がどうとか、軍事的にどうとかという問題ももちろんあるでしょうが、それらの底辺には、日本人がほとんど意識していない宗教の問題があることに気づいていただきたいのです。世界情勢の裏側には、今なお一神教同士の対立の問題があるのです。

 

一神教というのは、国家や民族を超えた、それよりも優先する概念なのです。ですから、一神教の信者は、移民してもその宗教を携えて移民し、これを手放すことはありません。ところが日本人は違うのです。日系移民は現地の宗教にあっさり宗旨変えしてしまいます。あるいは、外観は日本建築で中はキリスト教神殿といった折衷教会を作って取り込んでしまうのです。これは日本人の良さですが、世界常識はそうではないということです。

 

宗教と宗教が和を結んで一つになることは、不可能ではないでしょうが困難です。なぜかと言いますと、それは教義を変えるということになり、その宗教の存在理由が根底から崩れてしまうからです。「東方の星教団」を率いたクリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895 - 1986)は、組織の不必要に気づいてから、自分の教団を解散してしまったのですが、そのような勇気を持った人がどれだけいるでしょうか。

 

そのようなわけで、命令一下、組織を変えることは難しく、一人ひとりの意識の転換が図られていく以外には道はなさそうです。その時に、自然と共に生きて来た、また生きようとする(かつての)日本人の姿が、これからの人類の生き方として、欧米人にもアジアの人々にも説得力を持つと思うのです。そして、それこそが、世界中から尊敬を集める道となって行くことでしょう。

 

そのために、気づいた人から、自然と共に生きる素朴な生き方を、できるだけ実践していただければなと思います。