by Rainbow School
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光への道に、早道はあっても近道はない

「光への道」とは、人が、霊的完成へと至る道のことです。霊的完成が解りにくければ、人間完成への道と言い換えてもよいでしょう。人間、誰もが霊的存在なのですから、結局は同じことです。人は、それを意識するしないに関わらず、すべての「魂」が「光への道」を歩んでいるのです。

 

「光」は、「魂」が目指す最終ゴール。人は、何度も輪廻転生を繰り返しては、ちょっとずつ成長し、そこを目指すのです。「解脱」とか「覚り」というのは、その過程で通過する一つの段階。ニルヴァーナ(涅槃)は、そこに至った際に味わう感覚世界です。そして、ここに至るプロセスを強調したものが、老子が説くところの「Tao(道)」です。

 

このように、宗教は、どれもが基本的には「光への道」を案内しようとするものだったのです。けれども、組織化する中で、しだいに人間のエゴが膨らみ、全体像を見失う中で一部分だけをとらえた教義に固執し、ついには我のみが正しいという、歪んだ主張を互いにするようになって行ったのです。

 

あなた方の社会は、古い寓話や古い教えを過大評価する傾向があります。これだけの長期間、言い伝えられて来たのだから、きっと意味があるのだろうと思うのです。しかし、古さと真理とはイコールではありません。霊的世界には時間がありません。無時間かつ永遠です。ですから、どの時代にあっても真理への扉は開かれています。そしてそれは、不変かつ不偏かつ普遍なのです。

 

考えてみてください。いついかなる時代にあっても、どんな肌の色であっても、どんな民族でも、どんな言語でも、またそれを信じようが信じまいが、変わらず通用する法則こそが、「真理」の筈ではありませんか? 我が教えだけが正しくて、他はみんな邪宗、邪教。我が教えを信じる者だけが救われて、不信心者はみな地獄行き。そんなものが「真理」である筈がないではありませんか。

 

なぜ「光」なのかと言いますと、目指す先にあるものを、「光」として知覚するからです。しかしこれは、眼で見る「光」とは違います。こういった経験がありませんか? 眼を閉じていたのに瞬間的に眩い「光」が見えた。眠っている時に夢で「光」を見た。これらはみな、眼球という感覚器を経ずに知覚した「光」です。このように、五感を超えた感覚器(第六感)が、“あるもの” を「光」として感じるのです。

 

この “あるもの” は、中心太陽とか、Essenceとか、根源などと呼ばれています。しかし、みなさんに馴染みの言葉を使えば、それは「神」です。「神」を光として感じるのです。個々の「魂」は、「神」から別れて、地上世界を含む様々な旅を経験し、最後の最後にはまた「神」の許へと帰ります。こうして「魂」は「光」と合体し、それ自身が「光」となるのです。

 

*アマテラス(天照大神)というのは、その意味

 

さて、この「光への道」が、人生の本質だと解る(それも頭で解るのはなく、心身の隅々まで浸透し、完全に一体となってしまう境地に至る)までにはたいへんな時間が掛かります。しかも、そこに至るまでには、二つの大きなハードルを乗り越えなくてはならないのです。最初のハードルが「低級我の放棄」、そして二つめのハードルが「カルマの受容」です。

 

「低級我」というのは、いわゆるエゴのことで、地位や名声や金品を欲する気持ち、また他者を支配したり傷つけたり馬鹿にしたりする気持ちを起こす我(われ)です。これは、根源から離れて、「魂」が個別化した際に獲得した、意思と行動の自由を、先ずそのように使い出したということであり、霊性の発達段階では未だ幼稚園児の段階にあります。

 

しかし、あなた方の社会は、このエゴをベースに動いており、ほとんどあらゆるシーンにおいて、エゴを刺激し、揺り動かし、これを集めることに、実に多くの人たちが心血を注いでいます。そして、政治の世界でも、経済の世界でも、より強いエゴを発揮する人が、各分野の頂点に立つような仕組みを創り出し、これを肯定して憚りません。

 

人間は、本来的に悪人というわけではなく、すべての「魂」の奥には、例外なく「根源」の意識を宿しています。けれども、一握りの極めて強いエゴを持つ人々が、政治、経済、金融、マスコミ、教育、医療などの各分野の頂点に君臨し、世の中を支配しているので、一般の人々はその価値観の中に否応なく巻き込まれて、自分を見失っているのです。

 

視点を宇宙に移して地球を眺めれば、それは、人類の奴隷化、家畜化への道に他ならないのですが、支配者の巧妙な策によって、その企みに気づくことなく、人々は自ら進んで奴隷化、家畜化への道を歩んでいるのです。そして、その状況にどうにも耐えられなくなった「魂」たちが、いわゆる心の病に罹ったり、自暴自棄になったり、自殺したりしているのです。

 

これは「地球のカルマ」と言ってよく、このために、あなた方地球人は、一面では進化しながらも、それを霊性の向上に振り向けることが出来ず、同じ過ちを何度も何度も繰り返しているのです。しかし、今度という今度こそは正念場です。今の世の中がメチャクチャに見えるのは、隠されていた闇、見過ごされて来た矛盾が光に照らされ、吹き出しているからに他なりません。

 

あなた方は、この全体の構造をしっかりと把握しなくてはいけません。どんなことにも原因があります。いま起きていることの、目の前の些事にばかり囚われてはなりません。そんなものは所詮うたかた。消えていく泡沫。それらは、支配者のめくらましです。視点を宇宙に置きなさい。宇宙から地球を眺めてみれば、事の裏の、裏の裏の、その奥の、そのまた奥の因が解るから。

 

何度も言ったでしょう。自ら進んで騙される人がいるから、騙す人が君臨できるのです。どうして、そんな人間を信奉するのでしょう? どうして、わざわざ低い霊性に近づき、自分の中に在る「根源」を欺くのでしょう? われわれには理解できません。なぜ、自分を信頼しないのですか? なぜ、自分の内なる「神」の声に耳を傾けようとはしないのですか?

 

「地球のカルマ」に振り回され続けるのは、もういいかげんに止める時です。そのためには、先ず気づいた人から、このレールを降りるのです。視点を宇宙に上げなさい。不安と混乱の中で、われを忘れて、ちょこまかと忙しく動き回っている人々の姿が見えませんか? 地球人というのは、なんと馬鹿げたシステムを創り出し、その中で右往左往していることでしょう?

 

この「地球のカルマ」というのは、個々人のカルマや、土地々々に染み付いたカルマの集合体なのです。ですから、レールから降りる人が増えれば(つまり、霊的次元にまで遡るこの因果の構造に気がつき、素朴な生き方に回帰する人が増えれば)、「地球のカルマ」も変わるのです。そこに希望を見出してください。

 

「カルマ」というものは、宇宙の法則ですから、誰もそれから逃れることは出来ません。しかし、恐れる必要はありません。自分が蒔いた種は自分が刈る。ただそれだけのことです。善い種を蒔けば、善い実りを得て、悪い種を蒔けば、それ相応の償いをすることになる。このことで、宇宙を支配している因果の法則が解り、霊的成長の機会となるのです。

 

みなさんが誤解している言葉に「浄化」というものがあります。「浄化」とは「カルマ」を受けることなのです。払うことではありません。受けることで「浄化」するのです。ですから、よくカルマを取ってあげるとか、払い清めてあげるとか、守護霊を授けてあげるとか、チャクラを開いてあげるといったことを言う人がいるのですが、そんな芸当は誰にも出来ません。

 

すべては、自分が体験することによってのみ、掴んでいくのです。だってそうでしょう。自分が体験しなければ、自分の学びにならないじゃないですか。けれども、多くの人がそれを避けようとする。悪事を働いても言い逃れをしたり、カルマを誰かに取って貰おうとしたり、ありがたい何かを授けて貰おうとしたり、いつも近道を行こうとする。

 

でもね、はっきり申し上げて、「光への道」に近道などありません。自分が蒔いた種は、自分が刈り取って進む以外にないのです。それが「神」の愛というものです。全き公平なる愛です。この意味が解りますか? 宇宙にえこひいきはないんですよ。授けて貰わなくたって、守護霊はちゃんと最初から全員についています。その守護霊さえも、えこひいきはしませんよ。なぜって、それが愛だから。

 

「光への道」に、近道はないのです。でも早道はある。早道とは何でしょうか? 「カルマ」を一つ一つきちんと受けていくことです。それが早道になる。だから、「カルマ」を受けることが「浄化」なんですよ。それなのに、「カルマ」を恐れたり、逃れようとしたり、無視したりして、自分が蒔いた種の意味に気づこうとしなかったら、どうなるでしょうか?

 

ゴールはますます遠くなります。近道を行こうとすればするほど、「カルマ」は積み増しされ、まるで雪だるまのように膨れ、その重さでヨッチラヨッチラ、近道どころか逆に遅道になってしまうのですよ。そしていつかは、その重い「カルマ」を一気に清算しなければならない時が来ます。

 

バブル崩壊とは何ですか? 欲得に駆られた人が、そのエゴを雪だるまのように膨らませてしまったから、いちどきに清算しなければならない瞬間が訪れるということでしょう? 毎日毎日、つましく少額を清算していれば、バブル崩壊などあり得ないわけです。

 

これと同じで、あなたが日々の生活を、自分のエゴに気づきながら、そのつど修正し、そして来た「カルマ」清算の機会はしっかりと受け止め、背後にある意味を考え納得し、それにめげることなく、素直に、正直に、朗らかに、親切に過ごしていけば、それがいちばんの早道なのです。「真の聖者は、素朴に生きる人の中にいる」と言われるゆえんです。

 

近道はみちくさの道。倦まず弛まずコツコツと行くのが、結局は早道なのです。

この世の生きにくさ -----「波動」敏感者の生きる道

私には、特別な霊能といったものは殆どありません。でも一つだけ、少々困ったちゃんの、特異な面があります。それは、いわゆる「波動」にとても敏感だということ。「波動(vibration)」が何かということについては、またいつか詳しくお話ししようと思っていますが、人、人の言動、表現物、場所、といったものが発する振動の状態が判るのです。

 

これは多かれ少なかれ、誰もが持っている知覚能力なのですが、普通、人はそれを意識せずに暮らしているために、大多数の人は「そんなものはない」と思い込んでいます。それはある意味、生きやすいいことではあります。なぜかと言いますと、「波動」に敏感であることは、日々、全身に鋭い矢先を受けながら、それでもなお耐えて生きるようなものだからです。

 

以前、アール・ブリュット(生の芸術)のドキュメンタリーを観ていた時に、一人の絵描きさんの、ある行動に目が止まりました。いつものように彼女が散歩を楽しんでいると、数十メートル先の神社から、急にドンドコドンドコと太鼓を叩く祭のお囃子の音が流れて来たのです。その途端、彼女はめまいを起こしてその場にうずくまりました。「あ、それ解る」と私は思いました。

 

ドキュメンタリーの監督が「大丈夫ですか?」と声を掛けました。彼はその時、彼女が抱える精神的障害の一端をそこに見たと思ったことでしょう。確かに、彼女は太鼓の音に反応して気持ちが悪くなった。しかし彼女が知覚したものは、太鼓の響きに載せて一緒にやって来る、その場に集まる人々の想念なのです。彼女は障害者とされていましたが、私には、絵で宇宙を表現するメッセンジャーであることがすぐに分かりました。

 

私も、子どもの頃から、あらゆる儀式的なことや、集団的行動が大の苦手でした。お祭りというのはその最たるものです。でも「お祭り」が嫌いとはとても言えません。みんなが楽しみにしているもの、というのが常識ですから。それを他人に言えば、偏屈、協調性のない奴、と言われてしまいます。事実、いろんな面でつんぼ桟敷に置かれ、すっかり孤独な少年となり、中学を卒業して家を出るまで夜尿症で苦しみました。

 

今では、なぜそうだったのかということを説明できますし、自分が儀式や集団的行動が嫌いな理由も分かったのですが、子ども時分にはもちろんそんなことは分かりません。私がこのブログを始めたのは、一つには、同じような悩みを抱えている人がいるのではないかと思ったからです。この絵描きさんにも言ってあげたかったです。あなたは障害者ではないんですよ。メッセンジャーなんですよと。

 

人の世は、乱暴で粗雑な「波動」で満ち溢れています。敏感な人には、これが非常に辛い。チクチクと体を突き刺し、ハートをキューッと締め付ける。そこで反射的に避けるということになるのですが、世間的には、この行動が、対人恐怖や、不登校、引きこもり、鬱、自信喪失、精神障害といったものとして映るのです。すると、周囲の人々や社会はどう対処して来るでしょうか?

 

例外なく、社会に押し戻そうとします。中にはそれを「支援」と称して。本人は、乱暴で粗雑な「波動」で溢れた世界がたまらなくイヤだから、それを避けているのに、そこに戻れと、それのみが正当な「社会復帰」であると、何の疑いもなく同調圧力を掛けて来るのです。しかし、こうは考えられませんか? 学校の方がおかしいんだと。会社の方がおかしいんだと。社会の方がおかしいんだと。

 

しかし、それが上手に言えなくて、どれだけの人が悩み、社会の底辺に沈み、活躍の機会を失っていることか。そこに、「波動」に敏感な人たちの孤独感があります。けれども、そういう人たちにも思い直して欲しいのです。あなたの役割がちゃんとあるということを。あなたが地上に生まれたのは、やはりこの世界で生きる目的や理由があるわけで、単に逃走や隠遁だけしていたのでは「魂」の成長がありません。

 

「波動」に敏感であることは苦しい。この世を生きにくい。でもその特質は、ある種の「目利き」だということです。それは、一流の料理人だけが持つ舌のような。ですから、その特質を善用なさい。これまでは、ただ生きにくさを感じていただけであったものから、今後は上手に遣り繰りしながら生きる術を身につけて欲しい。そして、「宇宙の法則」や「因の世界」や「波動の科学」のことをよく知って、あなたにも光の道を歩んでいただきたいのです。

 

そこで、そういうあなたに先ずお伝えしたいのは、社会が提示する価値観に自分を合わせる必要など微塵もないということです。あなたはあなただし、あなたのままでよいのです。何より、あなたは「自由」です。自分の身の周りに起きる事のすべての意思決定権はあなたが握っている。そこに誰も介入することは出来ません。たとえ誰かの強い影響下にあったとしても、それを受容することを決定するのは、結局はあなたですから。

 

いま言ったことを先ず理解してください。

そして、納得がいったあなたには、次の問いかけをしましょう。

人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

さて、あなたは、何と答えますか?

 

社会が提示する価値観に「自分を合わせない」といったん決めると、「自由」になれる一方で、今度は別の生きにくさが生じます。周囲との摩擦や軋轢です。しかし、ここで負けてしまってはダメです。

 

職場の昼休みに、一つのテーブルでお喋りに花が咲いている。そのうち、その場にいない誰かさんの悪口が出て、それで話題が一気に盛り上がる。あなたはそれを見て「イヤだなぁ」と思う。さてどうする? それをたしなめたり、その場を離れたりしたら、今度は自分が悪口のネタにされるかも知れない。しかし、だとしても、あなたの感覚が「イヤだなぁ」と思うのなら、あなたは何らかの拒絶の態度をそこで示すべきです。

 

それが、自分の「自由」を生きるということだから。

あなたが、あなたのままの生き方を創造するということだから。

だから、「自由」に生きるためには、少しばかりの勇気が必要になってくる。

それは、ほんのちょっとの勇気に過ぎないのだけれど、「宇宙の法則」を知らない者にとっては、とてつもない勇気に感じられるだろうね。

でも、いいかい。自分の生き方を決めるということは、宇宙に「あなたという存在を創る」ということと同義なんだよ。そこを、よく考えてごらん。

 

あなた方は、肉体を持ち、物質世界に暮らしているので、みな「物質世界の法則」の制約を受けます。しかしそれは、ごく狭い領域での出来事であって、背後にはもっともっと大きな世界が控えているのです。その大きな世界を支配する法則が「宇宙の法則」です。ですから、「物質世界の法則」など、「宇宙の法則」という大海から見れば、波間に浮かぶ小さな舟のようなもの。

 

ところが人間は、肉体の自分こそが自分であり、心臓が拍動している間が生きていることと信じる一方で、「宇宙の法則」については、ほとんど何も知りません。でもね、霊的世界から地上を見ると、あなた方の暮らしは、まさに生き霊が蠢く世界なのですよ。身体という衣をまとった生き霊が、地球の上を右往左往しているだけのこと。そこにも、しっかりと「宇宙の法則」が生きているのです。

 

そこで、似た者同士は引きつけ合うという「波動の法則」の一端が地上でも見られるのです。ただ、地上と霊界とで決定的に違うところは、地上においては、似ていない者同士にも出会いがあるということ。それが、仏教で言う「怨憎会苦」を引き起こすわけです。これに対して霊界は、純然たる階層世界ですから、「波動」の高さが違う「魂」は同じ階層の世界では出会えないのです。

 

*怨憎会苦:怨んだり憎んだりする人とも出会わなければならない苦しみ。

 

例を挙げましょう。地上では、詐欺師が善良な人から金品を巻きあげます。嘘つきの政治家が正直な国民を騙します。欲得に駆られた人が誠実な人を裏切ります。粗暴な人が穏やかな人を苦しめます。ところが、霊界ではそうはいきません。詐欺師は詐欺師同士が集まって一つの世界を作り、互いに騙しっこをし、嘘つきは嘘つき同士が集まって嘘をつき合い、共にそれを喜びとして生きているのです。

 

そして、「こんなことをしていても、なんだか空しいなぁ」と本人が悟るまで、それが地球時間で何百年も何千年も続くのです。何しろ想念だけの世界ですから、何かを奪ったつもりになっても、実体物がありません。誰かをやっつけたつもりになっても、相手はピンピンしていて死なないのです。そこで、奪いたい、騙したい、やっつけたいという気持ちだけが、延々と続くことになるのです。

 

ある人は、その世界を称して「地獄」と呼ぶわけですが、何度も言って来たように、宇宙には罪も罰もありません。それは、その人の「信念」が形づくる世界。同じ「信念」を持つ人たち同士が集まって、そういう世界を創り上げているのです。ですから、「地獄」と言っても、本人が好きで行ったのであって、その人たちにとってはまるで天国のようなものなのです。

 

その姿を、どうぞ想像して見てください。地上世界と、何ら変わりがないとは思いませんか。この世にも、嘘をついたり、騙したり、奪ったり、脅したり、偉そうにしたり、暴力を振るったり、ということが大好きな人がいっぱいいますね。そして、少しも反省がない。そういう「魂」は、地上での生を終えてあの世へ行っても、本人の望み通りにまたそれを続けるのです。あらステキ! なんてね。

 

「魂」にとって、地上生活がチャンスだと言うのは、地上では実体物や手応えがあるからです。すると、想念だけの世界とは違って「あ、悪いことしたな」「悲しい目に合わせちゃったな」ということに気づきやすいわけですね。そこで初めて、霊的な成長が起きる。ですから、地上生活で反省の起きない人というのは、あの世に行っても、改心するというのは望み薄です。

 

総じて言えば、地上においては、「波動」の低い「魂」の多くが、高い人からエネルギーを奪いとることによって生きているのです。ではどうして、地上には霊界と同じ境界がないのでしょうね? まさにそれが、「波動」が読めないということと関わりあってくるのです。解る人には解ります。けれども、解らないからこそ境界を超えた接触があり、それが霊的学習のチャンスにもなっているということです。

 

だからこそ、「魂」はわざわざ地上に生まれ出る。霊界にいたのでは決して経験できない、地上でしか味わえない体験をするために。人は何度も輪廻転生を繰り返すのです。「波動」に敏感な人は、このメカニズムをよく頭に入れてください。その上で、問いかけをもう一度思い出してみてください。人生は、果たして生きるにあたいするものなのか?

 

地上での一つの生を終えて、霊界にまで引き継いでいけるものは、あなたが為した体験と、それへの意味づけだけなんですよ。それなのに、どれほど多くの人が、奪い合う人生、騙し合う人生、攻撃し合う人生、馬鹿にし合う人生、自慢し合う人生を歩んでいることか。

 

その人たちは「波動」が読めません。読めないからこそ、そういったことが出来るのです。自分たちが、どれほど低い「波動」を出したり、受け取ったりしているかを知らないのです。お互いに低め合っている友なのです(本人たちはそう思っていませんが‥‥)。まさにそれは、地上に出現した「地獄」そのもの。

 

しかし、敏感なあなたは、そうした「波動」にイヤなものを感じます。「もう止してくれ」と思う、「ウンザリだ」とも思う。さてそこで、あなたはどうしたらいいのでしょうか?

 

第一には、巻き込まれないようにすることです。最初に言ったように「勇気」を持ってください。共感するにせよ、反撃するにせよ、低い「波動」を出すものにちょっとでも興味を抱いた途端、あなたの「波動」はそれと同調して一気に下がります。その落差分のエネルギーを「よし、いただきィ」と相手側が奪い取っていくのです。

 

とても腹立たしいことがあったとしましょう。しかし、同じ土俵に乗ってはいけません。賢いと言われている人たちが、メディアで互いに罵り合っているのを、あなたもよく目にするでしょう。罵り合いは、霊界における一つの境界内の出来事を、地上でも同じようにやっているだけなのです。真に賢い人は反論をしません(自論や真実を述べることはあっても)。エネルギーのムダ遣いだということを知っていますから。

 

最初からイヤだなと解っているものとは、出来るだけ接触しないことです。しかし、接触をどうしても避けられないという場合には、自分の中の「イヤだなぁ」という気持ちを出来るだけ縮小させて(他の楽しいと思える事柄に意識を移せばよい)、来たものは受け取らずに、自分を透明にして、風のように後ろに流してください。

 

さて、これまで言ったことは、聞きようによっては、事なかれ主義に聞こえるでしょう。しかし、そうではありません。ここからが、「波動」に敏感なあなたにお願いしたい、ちょっとした「勇気」に続く、第二の意識転換点です。人類は、今までずっとこれが出来なかったのですよ。こんな何でもないことがね。さあ、今がラストチャンス。

 

目には目を歯には歯を、とやっている限り、あなた方人類の霊性は向上しません。戦争を終結させるためには新たな戦争が必要である、と固く信じ込んでいるのがあなた方です。少なくとも、世界の指導者と言われる人たちの多くが、こぞってそう主張しています。そして、どんな攻撃も、防禦を口実にして行われているということに目を向けてください。そのうえで、あなた方に聞きたい。それで平和は実現されたのかと。

 

あなたが「波動」に敏感な体質に生まれついたのにはワケがあります。あなたにしか出来ないことをやるのです。世の中は、確かに、乱暴で粗雑な「波動」で溢れかえっています。でも、それらに打ちひしがれるために、あなたの敏感な能力があるのではありません。あなたは「波動」というものが解るのだから、暴力には優しさで、怒りには笑顔で、奪うには分け与えるで、悲惨さには慈愛で対抗して欲しいのです。

 

あなたなら出来る。いや、そういう生き方しか、もはやあなたには出来ない。あなたの敏感さを活かすには、これしかない。第二の視点は、完全なる愛の奉仕者となって生きることです。しかし、そうしたところで、人々からは理解されないでしょう。でも、それでもやるのです。どんなに馬鹿にされようが、傷つけられようが、完全なる奉仕者として生きるのです。そして、それが喜びと感じられた時、あなたは本物になる!

 

自分は何のために生まれて来たのか?

人生は、生きるにあたいするのか?

あの世に持っていけるものは(いや、持って生かされるものは)、自分が為した体験と、そこで得た解釈だけである。

よいかな。これですぞ。

だから、一日一日を、倦まず弛まず励むのだ。

「衝動」はあなたを裏切るが、「直感」はあなたを裏切らない

ある時、セミナーの席上で「直感と衝動との違いは何でしょうか?」という質問を受けました。それを聞いて「ああ、そうか」と思いました。問われるまで、その違いというものを考えてみたことがなかったのです。考えたことがなかったのは、「衝動」を突き動かすということが、ここ何年も自分の中で無くなっていたからです。しかし言われてみれば、確かに両者は紛らわしいかも知れませんね。

 

しかし私も、前は決してそうではありませんでした。どちらかと言えば喜怒哀楽が激しい方で、すぐにカッとなっては後先見ずにちゃぶ台返しをしてしまう、というのが自分の最大の欠点でした。でも、そういうことも随分と治って来ました。今では、感情を動かすということがあまり有りません。人里離れて一人ぽつんと暮らしているということもありますが、もはや「枯れてしまった」という説もある。

 

「衝動」というものが、感情の発露であることについては論を待たないことでしょう。やっかいなのは、この「衝動」に突き動かされて行動した場合、その結果があまりよいものをもたらさないということです。衝動買いとか、衝動喰いとか、口より先に手が出るとか、果ては万引きとか、クスリとか。やった後になって「ああ、やめときゃよかった」と思う。一体これはどうしてなのでしょうか?

 

人間の「感情」は、外部刺激に対する一つのリアクションとして、心の中に生じる動きです。それ自体は、この物質世界を生きる上での、一種の「才能」とも言えるものです。「感情」があるからこそ、人はこの物質世界を豊かに捉えることが出来るのです。ですから、「感情」それ自体を否定してはなりません。問題は、人間がこの「感情」のコントロールに未だ習熟していないという点です。

 

「感情」には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。しかしポジティブなものは、大抵〈そのまま楽しんで終わり〉となってしまうので、人が「感情」のコントロールについて考えるということが、通常の意識下では起きにくいのです。ところが、時にネガティブな「感情」も人には発生します。すると、普段コントロールなど考えたことがないので、途端にどうしていいか判らないという状態になってしまうのです。

 

ここで「感情」のコントロール法についてアドバイスをしますと、「出るままにして放って置け」ということです。それがポジティブなものであってもネガティブなものであっても、「感情」というものは、せいぜい一日、長くても三日しか持続しません。歓喜も、怒りも、悲しみも、それをずーっと抱き続けるということは不可能なのです。ですから、放っておけば消えて行ってしまいます。

 

ところが、しばしば、人はネガティブな「感情」がなかなか消えないと訴えます。しかしそれは、よく観察すると、最初の「感情」とは違うものなのです。「感情」は三日のうちに減衰して、すでに消滅してしまっているのですが、次に、その「感情」を引き起こした元の事件について、あれこれと解釈を考えるようになり、これがその人に「悩み」を起こさせるのです。

 

つまり、その人の心の内部では、初期の「感情」から、自己が生み出す「想念」へと既にステージが移行しているのです。しかし元の事件が一緒なものですから、その人は、それを拭い切れない「感情」の持続であり、「悩み」として捉えてしまうのです。これを私は、「感情の二次災害」と言っていますが、「二次災害」を創っているのは、元の事件ではなく、その人自身の「想念」なのだということです。これが、いわゆる「囚われ」ということなのです。

 

しかし、よく観察してみると、事に際して、その人はいつも同じ思考パターンを繰り返していることが分かるはずです。これが「心グセ」というものであり、大部分はその人のカルマに起因しています。ですから、ご自分の「心グセ」を把握することは、カルマ脱出への最初の糸口となります。しかし、これを野放しにしていたのでは、カルマ脱出は覚束ないということです。

 

さて、「衝動」なるものですが、初期の「感情」の動きの中でも、取り分け激しい反応が「衝動」です。外部からのインプット刺激よりも、自分のアウトプットのエネルギーが何倍も激しいという、感情の爆発的発露、それが「衝動」です。なぜこうしたことが起こるのかと言いますと、やはり、その人のカルマ(中でも非常に強い、深いカルマ)に関係しています。

 

過去世から持ち越している強いカルマ。これとよく似た状況の外部刺激が目の前に出現すると、ほんのちょっとのことでも、たちまちそれが思い出され「衝動」となってその人の心を動かすのです。これは、何もネガティブなことだけとは限りません。よく言う、運命の人との出会い、天職との出会い、場所との出会い、こうした際に起きる「衝動」も、過去世の縁が影響をしています。

 

ですから、「衝動」必ずしもいけないということではないのですが、ネガティブな「衝動」が起きた際には、やはり後で困る。そこで、どうすればいいのかと言いますと、これは前記の「感情」の対処法と基本的には同じになります。

●参考:イヤなことの忘れ方

 

しかし「衝動」は、通常の「感情」よりも数段強い心の動きですから、これを退治するのはかなり難しくなります。ですが、出方というものを見ればかえって解りやすい訳ですから、自分のカルマに気づきやすいとも言えます。要は、野放しにしないで、よく振り返るということです。

 

よく、「感情」に対しては「理性」ということが対比的に言われるのですが、「感情」を「理性」で抑えようとすることは、お勧めできません。なぜかと言いますと、「感情」も「理性」も、共にその人の「心」の動きだからです。つまり同じ土俵にある。ですから、自分の「感情」を自分の「理性」によって監視させようとすると、両者がケンカをして「心」が壊れてしまいかねません。

 

そもそも、これは無理なのです。「感情」と「理性」は、同時には働きません。「感情」が突出している時には「理性」は引っ込んでいますし、「理性」が前面に出ている時には「感情」は引っ込んでいるものです。ですから、一見、「理性」によって「感情」が抑えられているように見える時も、単に「理性」優位にあるというだけで、いったん「感情」に火が点けば、容易にそれが逆転してしまいます。

 

それが、人が「心」を治めることが難しい最大の理由なのです。これは盲点であり、みなさんは「理性」対「感情」というこれまでの不毛な枠組みを超えた、もっともっと大きな意識の構造に気がつく必要があるのです。人間の「意識」は、一つの領域で成り立っているのではありません。異なった意識レベルが、多層階を構成して成り立っています。

 

チャートを見てください。一人の人間の中に、潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の、次元を異にした四つの意識が重なるようにしてあるのです。前回のブログで、人間は「多次元的存在」だということを述べましたね。多次元的に存在するということは、とりもなおさず、各次元に対応した「意識」があるということです。しかしそのことを殆どの人は知りませんし、意識したこともありません。

 

 

通常、あなた方が知っていて、かつそれを意識しているのは、このうちの「顕在意識」だけです。意識が表に顕れているので「顕在意識」と言います。でもこれだけではありません。たぶん名前くらいは聞いたことがお有りだと思いますが、その奥には「潜在意識」がある。これは、地上世界で生きるためのベースとなっている意識で、本人が特別に意識せずとも自動的に働いてくれています。

 

例えば、心臓の拍動や、胃腸の消化作用、呼吸、発汗作用、新しい細胞を育成することなど、身体を維持するための基本機能を動かしています。一体これを動かしているのは誰か、ということを考えてみてください。そうすれば生命の秘密が解けます。しかしこの自動的な働きにも、「顕在意識」が一部影響を与えてしまうのです。そのため、「心」が動揺すると「身体」にも影響が顕れるのです。

 

普通、人が認めるのはせいぜいこの二つだけです。しかし人間には、この二つを超えた意識があるのです。それが「超意識」です。これは「魂」の意識であり、あなたの「心」の本体と言ってよいものです。「脳」が「心」を生み出すのではありません。「脳」というのは単なるハードウェアです。「魂」こそがソフトウェアで、「心」は地上世界向けに変換された、そのアウトプットなのです。

 

あなた方は、自分の「心」にしょっちゅう翻弄されていますが、それがどこからやって来ているのかを、まるで解っていません。「心」は、自分の「脳」が作っているのだと思っています。そこで、「理性」でなんとかならないだろうかと思ったり、それが無理なら「脳」を薬物によってコントロールしようとまでします。しかしハッキリ申し上げて、それらは無意味どころか危険ですらあります。

 

あなた方の「心」は「魂」の意識の所産なのです。「魂」は、カルマを携えて輪廻転生して行きますから、今のあなたの「心」のあり様は、あなたのカルマを反映しています。ですから、これをチャンスと捉えてください。「心」を野放しにしてしまっていてはダメです。良いところはますます伸ばし、悪いところはどこにその原因があるのか、ご自分のカルマに正しく向き合う姿勢を持つことです。

 

「衝動」は、このカルマより発しており、しかも分かり易いカタチを見せてくれているのですから、早くそこに気づき、その真の原因を探ることが大切です。今世および過去世でした何らかの体験の中に、宇宙の法則に逆らった、自分の解釈違い、心得違いが含まれています。今世で向き合わされる報いは、それに気づかせるためのギフトです。ですから、感謝して受け取ってください。

 

このようにして、カルマを一つ、また一つと解消して行くと、「魂」はしだいに浄化されていき、それに伴って「心」もだんだんと落ち着いて澄んでいきます。このようになると、もう「衝動」のような激しい感情の爆発は起こりません。しかし、そこへ至るのは一朝一夕というわけには参りません。自分が必ずそうなるということを信じて、倦まず弛まず一日一日を生きることが大切です。

 

次に、「直感」についてご説明しましょう。「直感」というのは、文字どおり、直(じか)に感じるです。何を、どう、直に感じるかと言いますと、自己の「魂」の意識に、高次元からのメッセージがダイレクトに届けられたのを感じる。その瞬間が「直感」です。したがって「衝動」との第一の大きな違いは、それが内発的なものではないということです。上から届いたメッセージなのです。

 

このメッセージがどういう瞬間に届くかと言いますと、「心」を滅していった時に入る。ですから、「感情」とか「衝動」を動かしている間は決して入らない。これが第二の大きな違いです。「心」を静かにしてリラックスしている時か、ルーティンの作業に没頭して「心」を忘れている時などにサッと入る。例えば、編み物をしたり、草取りをしたり、お茶碗を洗ったりしている時などに。

 

なぜ、そういうことが起きるかと言いますと、「魂」の意識(=超意識)は、その上位の「超絶意識」と、下位の「顕在意識」との仲立ちをする役割を担っています。しかし普段は、カルマを伴った「心」が、この領域で勢力的に活動をしているために、スペースが占領されてしまって、通路となる空きスペースがないのです。しかし「心」を滅すると、そこに空きが出来るので、スッと「直感」が入るのです。

 

ですから、「直感」が訪れた際には、すかさずメモを取ってください。これは夢と同様で、「心」の意識が立ち上った途端、それまでの意識状態が崩れ、ほんの数分で「直感」は消え去っていってしまいます。このため、「あれっ、気のせいか」などと思って、多くの人が、重要なメッセージを見過ごしたり、聞き逃したりしているのです。残念です。

 

この「直感」の送り手は、高次元の存在(高い霊性密度の領域にいる存在)で、あなたのガイド(守護霊や補助霊)や、マスター(大師がた)、スターピープルなどの他に、高次元のあなた自身(いわゆるハイヤーセルフ)もいるのです。「ハイヤーセルフ(Higher Self)」とは何かと言いますと、長い長い輪廻転生の旅を終えて、すでに卒業の域に達している、別のあなたの「魂」です。

 

そう聞いても、俄かには理解しがたいことでしょう。物質世界であるところの「時空間連続体」に住む人間からすれば、輪廻転生は、過去世から未来世への時間的連続としてしか捉えられないでしょうから。しかし霊的世界には時空間というものが存在しないのです。したがって、一つの「魂」の全部の輪廻転生が、すべて同時瞬間的に起きているのです。そして、それらは全部が一つに繋がっています。

 

どの人間にも、その霊的な背後には、今よりももっと未完成の「魂」もいれば、すでに卒業の域に達した「魂」がいて、全部が同時瞬間的に存在しているのです。ですから、この世の「優劣」などは全く意味がないよと、何度も申し上げて来たのです。このことを知れば、人間たちは、もう少し優しくなれるのではないでしょうか? 他者に対しても、自分に対しても。

 

「ハイヤーセルフ」から来る「直感」は、高次元のあなたが、今のあなたに送った援助の手なのです。さて、高次元の存在から届けられるメッセージを、ぜんぶ一括りにして「直感」と言って来たのですが、厳密にいえば、「直感」とは「ハイヤーセルフ」からのもののみを言い、それ以外は「インスピレーション」と言った方が適切でしょう。これは単に定義づけの問題ですが。

 

さて、ここで注意していただきたいのは、高次元の存在から届けられるメッセージと、アストラル界(心霊界、幽界、中有界とも言う)から来ているメッセージを混同しないように、ということです。あなた方は、どうしても未来予知とか、恐怖の予言とか、オカルティックなことばかりに眼を向けがちですが、高次元の存在がそのようなメッセージを下ろすことは、絶対にありません。

 

なぜならば、宇宙のすべては「波動」であり、すでに高い「波動」にある存在が、低い「波動」を発することなどあり得ないからです。よって、未来予知、恐怖の予言、オカルト等の情報は、すべてあなたを惑わそうとするニセモノです。これを判断基準としてください。高次元の存在から届けられるメッセージは、常に冷徹で、慈愛に満ち、偏りがなく、深い叡智を携えているものです。

 

それに、よくよく考えてみて欲しい。神は一者であると、あれほど言ったではありませんか。その神が、全智・全能・全存在である神が、なにゆえ自分自身に恐怖の予言をする必要があるでしょうか? また、高次元の存在たちが、そこに気づかないとでもお思いですか? バカバカしい限りです。こんな矛盾を、未だに大勢の人々が信じ、夢中になっているなんて。

 

それともう一つ。あなたは「直感」を大切にして毎日を生きるべきですが(何しろそれは、高次元のあなたが、自分自身を援助するために送ったものなのですから)、その示唆を、この世的な「よいこと」に繋がるものと捉えてはなりません。あなたにとって、真の「よいこと」とは、霊的成長あるのみなのです。そこには、試練も含まれるということを忘れないように。

 

ですから、たとえどんなことに出会っても、何事に接しても、つねに感謝の念を持って生きなさい。辛いことに遭えば遭うほど、悲しい想いや、悔しい想いをすればするほど。その機会が与えられたことに感謝しなさい。それが、今のあなたを助けるだけでなく、今この瞬間を、まさに同時に生きている、別のあなたをも助けることになるのですから。

善、偽善、罪悪感、悪

神の世界には、善も悪もありません。善も悪もないのですから、罪も罰もありません。善と悪。罪と罰。これらの概念は、みんな人間たちが考え出したことです。その証拠に、木々や草花、鳥や虫たち、魚や獣たちがどう生きているかを想像してみてください。彼らは、善と悪を想い、罪と罰を怖れて毎日を生きているのでしょうか? いいえ、ただ、その時を生きているだけです。

 

神の世界に、善も悪もないことは、論理的に考えてみてもすぐに解ることです。大宇宙の創造者、“それ” を、人は「神」と名づけました。“それ” が何であるかは、人知を超えたものですから判然とはしませんが、“それ” が一者であることだけは確かです。もし二者であったとすると、互いを創造したものは何者かという矛盾が生じてしまいます。結局、創造主は一者ということに落ち着かざるを得ません。

 

ならば、一者である「神」の中に、どうして善と悪が存在するでしょうか? 自己のこれが善、これが悪と、いったい誰が決めるのでしょうか? 一者であるはずの「神」を判定できる者は、他のどこにもおりません。よって、善も悪もありません。また、一者であるはずの「神」が、なにゆえ自己の内に罪と罰を創造するでしょうか? 悪さをした自分の左手を、右手で叩くとでも言うのでしょうか?

 

善と悪。罪と罰。これらは、これまでの人間たちが、ほぼ総意のもとに考え出した、壮大なるフィクションに過ぎないのです。ああ、それなのに‥‥。どれほど多くの人が、これまで、このドグマの牢獄の中で不自由な人生を送って来たことでしょう。あなた方は、もう真実の神学に目覚めなけばなりません。魚座の時代を超えて、水瓶座の時代に相応しい神学に。宇宙には善も悪もない。宇宙にあるのは、「分離」から「合一」に至るまでの、霊的進化の道だけなのです。

 

*魚座の時代は宗教の時代で、そのシンボル(双魚)が示していた通り、善悪二元の対立が表面化した。しかし、水瓶座の時代に移行したことで、星座図が示しているように(少年が水瓶に入っている水を地に注ぐ)地上に天からの真理が注がれる時代となった。

 

あなた方は全員、もともと一者だった霊的存在から、お餅をひねり出すようにして細かに分けられました。そして身体という物質的衣裳を纏うことによって、個別化した存在となり、地上に降り立ったのです。この個別化し、物質世界に適応した霊(Spirit)は、地上でそれぞれが独自の体験を重ねることにより、次第に個性が芽生えて行き、やがて自我を伴った「魂」へと成長したのです。

 

ですから、あなたの中には、一者と同じ霊的資質と、「魂」としての本来の自己と、身体的な自己の感覚とが、常に同居しているのです。「魂」は、一者と、身体的な自己との中間にあって、両者を仲立ちしています。そこで、そういうあなたを「多次元的存在」と言っています。あなたは、肉体だけの存在ではなく、多次元的に存在しており、常に多次元的な意識を有しているのです。

 

*この場合の多次元とは、数学的次元のことではなく、霊性密度のこと。別の言葉で言えば、複数の振動数の帯域を同時に持っているということ。

 

なぜ、このようなプロセスが生じたかと言いますと、「神」が、自分自身を把握し、自分自身を再創造するためです。「神」は一者です。そのままでは、自己を把握することが出来ません。白色だけの世界にいたのでは、白が白とは分からないのと同じです。黒があるからこそ白が分かるのです。そこで「神」は、自分自身を知るために、全智から、あえて霊(Spirit)を切り離し、自分に似せた存在を地上に創りました。それが人間です。

 

*姿かたちが似ているという意味ではなくて、存在構造の多次元性が似ているという意味。これが誤解され、「神」はしばしば、擬人化された白髭の老人として描かれるようになった。また人間は、全智から切り離された結果、「神」を〈想像〉することが可能となったが、代わりに(通常の意識下では)全智を失った。

 

あなた方は、身体的な「分離」という条件の下で、それぞれ個別の体験を積み重ねながら、自己の本質が実は「合一」の存在にあったのだと気づくまでの、長い長い旅を続けるのです。これが、いわゆる「自分探しの旅」です。その旅は、結局のところ、旅は必要なかったんだ、最初から自分の中に全てがあったんだと気づくまで、何度も輪廻転生の機会を与えられ続けられるのです。

 

ですから、霊的に見た場合、個々の「魂」の成長の差は、「分離」から「合一」への進化の程度ということでしかありません。それは進化の程度であって、優劣ということではないのです。どんな「魂」であっても、最後の最後は、例外なく「合一」を理解し、体現するところに至るのです。ところが、人間はこれを知らない上に、多次元的な意識を持った存在ですから、このことを、それぞれの意識段階で、異なった感覚として捉えてしまうのです。

 

チャートを見てください。宇宙には、「分離」から「合一」へと至る進化の道しかありません。

ところが、あなた方の「肉」の感じ方(つまり身体的、物質的感じ方)は、「分離」を「善」、「合一」を「悪」と感じてしまうのです。

 

これは、いちばん最初の、地上に降りて個別化した際の喜びが、その後もずっと継続していてそうさせるのであり、この結果、人間の大半は「分離」意識をくすぐるものには強く反応し、「合一」意識は無視するか、逆に排斥しようとまでするのです。

 

具体的には、優劣、競争、損得、貧富、美醜、差別、階級、闘争といったものを大半の人間が好み、社会のあらゆる場面でそれを推進する一方で、平和、融和、和合、平等、分配といった考え方は、これを嫌悪し、揶揄したり攻撃したりするのです。「平和ボケ」という用語があるのはその一つの表れです。アメリカでは、自己防衛のために銃を所持することは当然と考える人が多く、こういう人たちが政治的にも大きな力を持っています。

 

ですが、人間は多次元的な意識を持つ存在です。あなた方の本質はあくまで「魂」にあるのであって、「魂」は「合一」こそが「善」、「分離」意識は「未善(未だ善に至らない)」の段階なのだということを、ちゃんと知っているのです。なぜなら、「魂」は元々「合一」であったところの一者から分かれた存在だからです。しかしこれは、あくまで「感じ方」であり、冒頭に申し上げたように、宇宙には「善」も「悪」もありません。

 

このようにして、一人の人間の中に、「善」的なものに関する、相反する「感じ方」が同時に生じることになるのです。しかし、いま言った多次元的な意識構造を意識し、理解している人は、残念ながら極めて稀です。知識としてこれまでに教わったこともありませんし、内観することを習慣づけて生活している人(つまり日常的に「瞑想」を行なっている人)もほとんどいないためです。

 

その結果、大多数の人は、「肉」の感じ方(自我)と、「魂」の感じ方(真我)との間でいつも揺れ動き、葛藤を起こすことになるのです。これが、心がザワザワする際の、背景にある原因なのです。どっちが本当の自分の声なのかが判らない。「肉」の感じ方と、「魂」の感じ方との中間領域で、互いの意識が綱引きを行って、それがザワザワとした感覚をあなたの中に生じさせるのです。

 

さて、いつまでもザワザワした状態では気持ちが悪いですから、どこかで手打ちをしなければなりません。そこで、意識の根っ子では「分離」の方により気持ちが傾いているけれども、これを覆い隠して、「合一」的なことを言ったりやったりしてしまう。これが「偽善」的行動となるのです。反対に、言葉や行動では「分離」の考えに同調しながらも「なにか違うぞ」と思う。その時に、人は「罪悪感」を抱くのです。

 

「偽善」よりも「罪悪感」の方が、より本質に近づいて来てはいますが、どちらも、未だ葛藤状態の中にあることには変わりがありません。さてここで、人間社会の中に大きな問題が生じます。

 

肉欲が支配する物質世界と、霊的世界とでは価値観が逆転しているために、あなた方の世界では、「分離」を「善」だと主張する者がもてはやされ、崇拝され、ピラミッド構造の頂点に支配者として君臨することになります。すると、お金も産業もマスコミも教育も、全部がこれらの人たちの傘下に置かれますから、多くの人が「なにか違うぞ」と直感で思ってはいても、この構造の中に、仕方なしに巻き込まれて行ってしまうのです。

 

こうして繰り返される、最大の悲劇が「戦争」です。クリント・イーストウッド監督の作品に『アメリカン・スナイパー』という映画があるのですが、この作品は、一人の人間が(元々は普通の市民が)、いかにしてイラク戦争に巻き込まれて行ったのか、戦場に送られて大量殺人者となって行ったのかを、鮮明に描き出しています。

 

主人公の男性は、子どもの頃より、父親から徹底的にアメリカ式のマッチョイズムを叩き込まれます。これが染み付いた彼は、青年となってしばらくは荒馬を乗りこなすロデオに夢中になるのですが、アメリカ大使館爆破事件を契機に国家の役に立ちたいと考えるようになり、海軍に志願。そこで特殊部隊のシールズに配属され、優秀なスナイパー(狙撃手)となるのです。

 

イラクに派兵された彼は、都合4回、述べ1000日に及ぶ現地勤務の中で、160人もの “敵” を狙撃によって殺害し、軍隊内部で「レジェンド(伝説)」とまで呼ばれる存在になるのです。しかし、これがもし、アメリカ国内でアメリカ人に対して行われたことだとしたらどうなるのでしょう。5人殺せば殺人鬼、160人殺せばジェノサイド(大量殺戮)と言われるのではないでしょうか?

 

それが、同じことをイラク人に対して行ったら、ヒーローになってしまうのです。彼も、子どもを殺さざるを得ない時には、さすがに躊躇する。でも信念に従うことを優先します。その信念とは、父親から徹底して叩き込まれたマッチョイズムであり、アメリカ国家への忠誠心であり、自分が信ずる神(キリスト教)の庇護のもとにあるという三位一体の「正義」なのです。

 

この三位一体は恐ろしい。家庭教育、国家教育、宗教教育が一つのものとなった際には、160人もの人間を殺害する殺人鬼に、容易に人間はなれる。4回の派兵の間に、彼も結婚し、二人の子どもにも恵まれ、家庭ではよきパパとなっている。それなのに、自分が殺した160人にも、同じように愛する家族がいて、日々の営みがあったということまでは想像が及ばない。この、もの凄い「分離」意識、「分離」感覚。結局、彼は、次第に息苦しさを覚え始めるのですが‥‥。

 

しかしここで、そうなったことの背景にある、人類史にいつも共通したある枠組みに、地球人は気づかなければなりません。彼を、そのような「信念」で染め上げた者たちが背後に存在するということ。そしてこの人たちは、「分離」が「善」なのだと、本気で信じているのです。自分自身が先ず、心底からそのように洗脳されている。ですから、多くの人たちとは違い、その信念に揺るぎがないのです。平気で嘘をつけるし、そこに罪悪感も生じない。

 

「分離」を「善」と信じ切る者は、「合一」を理想とは考えません。むしろそれは、自分たちが信じる世界を破壊しかねない危険思想。「合一」「平等」などという発想は、彼らにとっては「敗北」以外のなにものでもないのです。こんな人たちに絶対に負けるわけにはいかない。ですから、共通利益がある間は「仲間」であっても、最後は、裏切り、仲間割れ、罪のなすり付け合いで終わる。宗教組織や家元制度にしょっちゅう分派が起こるのも、みなこれと同じ理由です。

 

霊的進化から見れば、最も遅れている「魂」が、この世のあらゆる支配権を握っている地球人類。そして、大多数の人たちの中に潜む優越感や、差別意識や、支配欲や、所有欲や、攻撃性などの「分離」意識を、あの手この手で刺激してはこれを表に出させ、自分たちの世界に引き摺り込む。しかし大衆は、そのようにして支配され、隷属させらているということに少しも気づいていない。むしろ喜んで、その誘惑に着いて行く。

 

何度同じ悲劇を経験しようが、何度転生をしようが、人類は未だにこの構造に気づかない。支配者にとって、現場で戦う者は、単なる使い捨ての駒。戦場でも会社でも同じ。死んだら勲章を与えて、また騙して、自分たちだけはのうのうと生きて行く。心など痛まない。まだその段階にすら達していない未熟な「魂」だから。彼らにも守護霊がいて、一生懸命気づかせようとはしているのだが、本人が気づかないことには‥‥どうしようもない。

 

よいかな、ここが肝心要。人類は、いま瀬戸際にあるのですぞ。だから、みなさんが、支配者たちに気づきを与えてやって欲しいのだ。繰り返し言って来たように、騙される人が誰もいなくなれば、騙す人は成り立たなくなるのだよ。そこで、先ずはあなたたちが、善悪というものの背景にあるこの構造に気がつくこと。あなたの本質は身体にあるのではなく、「魂」にあるのだということ。「肉」が感じる「善」と、「魂」が感じる「善」とは、逆になっているのだということ。

 

そこをしっかり学習して、世に満ち溢れる情報を、見極める眼を養って欲しい。本物とニセモノ、どうでもよいことと肝心なこと、真実であることとそうでないこと。そして、闇に誘う道と、光へ続く道。この取捨選択が、あなたという人間の今後の「生き方」を決めるのだよ。それは、決してあなた一人の問題ではない。その集合意識が、人類の行く末を決めることになるのだからね。

 

だから、そのようにして、先ずはあなたたちが目覚め、次いで彼らにも気づいてもらい、人類が永らく置かれて来た奴隷状況から、そっくりジャンプして欲しいのです。お願いしますよ。

 

可哀想に‥‥。「分離」意識に凝り固まった人たちは、未だ「魂」の喜びを知らないのです。「肉」の喜びの段階に、ずっと埋没したままなのです。権力者たちの顔をよく見てごらんよ。楽しそうに見えますか?

 

でも、これを読んで下さっているあなたにはお解りでしょう。「肉」の喜びと、「魂」の喜びとは、全く異質であるということが。きっとこんな経験が、あなたにもあることでしょう。解り合えた、誠意が通じた、真心を受け取った、そう感じた瞬間、わけもなく涙が溢れ出てきたという経験が。それは「魂」の喜び。あなたの本質が、深いところで知っていた「善」の扉が開いた瞬間なのですよ。

 

なにものにも代えがたいこの喜び。物質世界を超越した「魂」のふるえ。あなたのこれからを、この喜びで満たしなさい。この喜びの中に生きなさい。そして、周囲の者たちにもこの喜びを分け与えなさい。友よ、光の道を進め。無償の愛の道を一心不乱に生きるのだ。