by Rainbow School
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人類が、歴史から学ぶこと

記憶力が人一倍劣っている私にとって、小中学校時代の地理・歴史の授業は、苦痛、拷問以外の何物でもありませんでした。人の名前や年月日が覚えられないのです。カミさんの誕生日すら覚えられず、当てずっぽうで言ったところ違っていて、もの凄く怒られたことがあります。命日がいつだったかも、もう覚えていない。その理由が最近になってやっと分かりました。そういうものに関心がない!

 

歴史教育が大切だと言います。確かに、歴史から学ぶことには大いに意味があります。でも、世の識者が「歴史教育が大切だ」と言っていることについては、異議を唱えたいです。ロゴスとしての歴史(記述された歴史)に、所詮真実などありません。というよりも、そもそもこの世に真実などない。ですから、「歴史教育が大切だ」と言った場合、それらは例外なく、ある特定方向に思想を導きたいということを意味しています。

 

よいですか、大切なのは「教育」ではなく、自分が「学ぶ」ことなのですよ。これは全ての分野について言えます。「教育」と「学ぶ」とでは、180度も違う。「教育」とは人間をロボットにすることであり、「学ぶ」とはロボット状態から脱することです。ところが、「教育基本法」なるものが定められているのを見ても分かる通り、誰もが「教育」を無条件で是として考え、これをベースにどうあるべきかを語っているのです。

 

こうした思考法が、人類に、どれほどの歪みをもたらして来たことか。「教育」と言えば、即よいことと思ってしまう。これだけじゃありません。「倫理・道徳」と言えば、即よいこと。「経済発展」と言えば、即よいこと。「防衛」と言えば、即よいこと。「愛国」と言えば、即よいこと。「薬」と言えば、即よいこと。etc.。これらはみんな、そう思わせたいと願った支配者が作った、プラットフォームなのですよ。

 

歴史は大の苦手という私でしたが、NHKの大河ドラマや、戦国武将ものや、三国志といったものにも、全く興味が持てませんでした。一体どこが面白いのか、さっぱり解りませんでした。でもそれを口に出して言えない。多くの人が熱狂する中で、自分は歴史が苦手だし、教養はないし、ずっとコンプレックスになっていました。でもこれも、最近になって、やっとその理由が分かりました。

 

これから100年、200年経た時に、歴史の教科書に、今の政治を司っている宰相たちの名前は載るのだろうかと考えてみたのです。そして、その権力の攻防史を学習することに、果たしてどんな意味があるのかと考えてみました。結論はひとこと。バカバカしい。でも、そうならないとも限りませんよね。時が経つにつれて、寓話化され、銅像が建立され、遺品が博物館に納められ、記念小学校が造られ、郷土が誇る偉人に奉りあげられるかも知れません。

 

今やっている過去の歴史教育といったものも、これと大差がないのではないでしょうか。よく言われることですが、History というのは his story であると。つまりは男の物語、もっと言えば支配者、権力者の物語です。A国とB国が戦争をして、A国が勝ったとしましょう。すると、A国の視点から都合よく作られた「歴史」だけが残るのです。私たちは、こうした権力者の攻防史を、それが「歴史」だと言われて覚え込まされていくわけです。

 

大事な合戦で、いかなる策略を持って敵に勝利したか。どこで誰を味方につけ、誰が裏切ったのか。忠誠心の篤い優秀な家来がどれだけ適材適所されていたのか。それらを紐解くことが歴史研究ということになっています。でも、前線で槍を持って戦った足軽のC助はどうなったのでしょうか? 日報を点けていたけれど無かったことにされてしまったD作はどうなったのでしょうか?

 

歴史の藻屑と消えてしまって、語られることはありません。考えてみてください。これほど理不尽なことがあるでしょうか? 同じ人間なのに、同じ生命を宿しているのに、みんな同じ神の子なのに‥‥。戦争でどれだけ大勢の人が死のうとも、原発事故でどれだけの人が故郷を追われようとも、また生活苦でどれだけ自殺者が出ようとも、その人たちの名前が、歴史で語られることはありません。

 

いつの時代でも、歴史に名を残すのは、人々をまるで消耗品のように扱った、支配者であり、権力者であり、お金の亡者なのです。もっと言えば、非道の殺人者をヒーローとして教え込むことが「歴史教育」になってしまっている。こんな歴史など、別に、私は知りたいとは思いません。私は、今の権力者たちの顔を見るよりは、普通の人、名もなき(本当はあるんだけど)人、我が愛する友たちの方がずっと好きです。

 

歴史学習で大切なことは、そこに(自分が)何を見出すかなのです。言い換えれば、自分がその歴史に、どんな意味を与えるか、です。それが、歴史から「学ぶ」ということの意味です。これ以外に、歴史から「学ぶ」意義はありません。客観的事実などは幻想に過ぎません。「客観」も誰かの主観に過ぎませんから。ですから、誰かが意図的に与えた意味に習うのではなく、自分が意味を与えてこそ、初めて「学んだ」ということになるのです。

 

例を上げましょう。ご存知のように、日本は広島と長崎で、あの悲惨な原爆の被害を体験しました。ここで起こったことをよく知れば、またどういう経緯でそうなったのか、そして体験者がその後どうなったのかをよく知れば、同じことを、自分が再び体験して味わう必要はありません。「こんなことは、もう絶対に嫌だ」と思うだけでよいのです。そこに、歴史から「学ぶ」ことの意義がある。

 

ところが、そう思わない人もいるのです。戦争の抑止のためには「核」が必要だ。自分たちに敵対する国を時々「核」で脅してやることも必要だ。場合によっては、小型の「核」を使ってもいい。あるいは、史上最悪の原発事故を経験しても、日本には原発が必要だ、再稼働を急げ、と言う人もいる。こういう人は、いったい歴史の、どこに、何を学んでいるのでしょうか?

 

この数年で、歴史の裏側や、闇の勢力の存在について、多くの人が本当のことを知るようになりました。このブログを書き始めた当初は、私もかなりぼかした言い方をしていたのですが、もうそんな必要もないかも知れません。これは、既に何度か語って来たように、地球に対して、宇宙から今、アセンションの強い光が注がれているために、隠されていた闇がどんどん明るみに出ているのです。

 

そして、これも何度も書きましたが、ジョン・レノンが「世界は狂人によって操られている」と言いました。今の日米を見れば、「本当にそうだなぁ」と思うのではないでしょうか。世界史は謀略の歴史です。謀略に次ぐ謀略で、人々が表で信じ込まされて来たことと、裏側はまるで違うのです。日本でも、明治維新にまつわる闇や、日露戦争開戦の裏側などを知る人が随分と増えて来ましたね。

 

しかしこの謀略が、以前ほどは、すんなりとは通らなくなっているのです。「シリアが化学兵器を使用した」と言って、トランプ大統領は国連決議も経ずに、また米国議会の承認も得ずにシリアを爆撃しました。これに日本は、精査もせずに、直ちに支持を表明しました。しかし、この化学兵器使用の証拠とされる映像が、ヤラセの演出であったことがすぐにバレてしまいました。

 

謀略が拙速なのです。すぐにバレるような嘘をつかざるを得なくなっているのです。ケネディ暗殺の闇は50年間もちました。ベトナム戦争の闇は40年間もちました。でもイラク戦争の闇は10年間しかもたなかった。そして今は、一週間ももたない。だから、嘘に嘘を塗り重ねるしかなくなっている。それほど彼らは追い詰められているのです。強い光が、闇を照らし出すようになって。

 

いったい何の権利があって、デッチ上げを「正義」と偽り、他国に爆弾を落とせるのでしょうか? 人の命を、人々の生活を、何と思っているのでしょうか? 米英仏は、いったい何様のつもりなのでしょうか? そして日本は、国際的な信用をどこまで落とすつもりなのでしょうか? 歴史に決して学ぼうとしない者たちが、そろって歪んだ「歴史教育」を説くのです! ああ、この人類の終わりなき錯誤。カルマの連鎖。

 

今の世界がメチャクチャなのは、陣痛の時を見ているのです。それは、来るべき世界への産みの苦しみ。今までの秩序(のように見えていたもの)の大崩壊。世界史は謀略の歴史であり、それは闇の勢力が仕組んだものであり、時の権力者たちは、ただの操り人形。その操り人形に、さらに大衆が操られ、奴隷にされ、搾取され、戦争に駆り出され、ぼろ雑巾のように使い捨てにされてしまうことの悲劇。

 

この悲劇の原因は、一体どこにあるのかを、人類はよくよく見つめねばなりません。今の権力者たちを叩いたところで、どうにもなりません。政権が別のパーティーにスイッチしたところで、どうにもなりません。戦争を武力によって無くそうと思っても、どうにもなりません。紙幣が仮想通貨に替わっても、どうにもなりません。そういう「仕組み(System)」そのものに、欠陥があると気づかない限りは。

 

実に、ここが人類の分かれ道。何もかもが信じられない「Post-truth」の時代に、それでも「真理」を探し求める人たちに言おう。全ての因は洗脳にある。深い深い洗脳に。あまりにも深い洗脳に。

 

洗脳とは、洗脳されている間は、それが洗脳とは気づかないものだ。大衆を洗脳しているマスコミや教育が、すでに洗脳されている。そしてそれらをコントロールしている政府もまた洗脳されている。さらには、それらを陰で操っている闇の支配者たちも、実は洗脳されているのだよ。何によってか? 一なるものからの「分離」意識によって。人々はバラバラであり、人間には、優れた者とそうでない者とがいるという意識によって。

 

ゆえに、彼らは、大衆支配という道を選んだのだ。そうすることが当然だと考えたのだ。だから、平等に分配しない仕組みを創ったのだよ。そして、富者になるイメージをチラつかせて、欲望に火を点け、このシステムの俎上にあげて互いを競わせ、そのリングから落ちる恐怖を与えて自由を奪い、馬車馬のように働かせ、その後で富を奪い取る壮大な仕組みを構築したのだよ。

 

しかも始末の悪いことに、多くの宗教は、この「分離」意識の構造に、「善と悪の戦い」という図式を与えて、これを容認どころか、なお一層強化してしまったのだ。この世には善と悪があって、悪を叩くことが善を保証するのだと言って。寛容を教えるべきはずの宗教が、こぞって真反対のことを教えたのだよ。これが、今日、地球文明を破滅させかねないほどの火種となって燻っているのだ。なんと愚かな人々であろうか。

 

神の名を語って戦争をすることは、もういい加減にしてもらいたいものだ。本当に、神がそんなものを望んでいると思っているのかね。人々が流す血をわたしが見たいと、本気で思っているのかね。いいかい、善も悪もないのだよ。みんな我が子なのだよ。あるのは、「分離」という意識から、「合一」という意識に至る、意識の発達度合いの違い、つまりは霊性の向上度合いの違いだけなのだ。

 

そして、この学習の機会は、つまり霊性向上の機会は、全部の「魂」に等しく与えられているのだよ。そこに差別は一切ない! 以前に、保母さん保父さんの視点に立って世の人々を見て欲しいと言ったよね。実にいろんな人がいるんだよ。「分離」意識と、そこから派生する敵対意識、被害者意識でまだガチガチの人から、「合一」意識を体現するに至った人まで。

 

未だ幼稚園の年少レベルという甘えん坊しゃん。年中レベル、年長レベルにまでちょっとだけ進歩した人。そこを終えて小学生に上がった人。そしてごく稀に中学生レベルに達した人も。と、ここまでが地上の義務教育。これ以上は、肉体を持っている間は行けない。だが、ついでに言っておく。まだまだ道は続くんだよ。高校、大学、大学院とね。

 

幼稚園の年少組の霊性にある「魂」の横暴に、いつまでも引っ掻き回されたままでいて、どうするんだい? そして、それが許せないと言って、今度は年少組をやっつけるのかい? 違うだろう。あなたの課題は、自分がステップアップすることじゃないのかい? 自分がステップアップするとはどういうことなんだろうね。また言わせるのかい? 無条件の愛の人を目指すということなんだよ。

 

愛を与えれば、愛が返ってくる。疑いの目で見れば、疑いの目が返ってくる。敵視すれば、敵視が返ってくる。ヘイトスピーチをすればヘイトスピーチが返ってくる。異次元の圧力を加えれば、異次元の圧力が返ってくる。簡単なことだよ。みなさんが今、見ているままさ。なのに、なぜこんな簡単なことが解らないのかねぇ。いいかい、人を助けることで自分が助けられ、人を癒すことで自分が癒されるのだよ。

 

だから、わき目を振らず、ひたすらここを目指しなさい。無条件の愛に生きる人が、一人でも二人でも増えれば、洗脳に騙される人がそれだけいなくなる。何度も同じ過ちを繰り返していてはダメだ。歴史の裏、裏の裏、裏の奥、奥の奥を見るのだよ。光が射している今がチャンスだ。「魂」の世界からのみ歴史を見なさい。そして、歴史に学んで、自己の「魂」の糧としなさい。

 

あなたの健闘を祈る。

よくある質問

セミナーなどでよく訊かれる質問をまとめてみました。

 

Q.あなたは霊能者なのですか?

 

A.いいえ、霊能者ではありません。人間誰しもが持っているという意味においては、私にも少しは霊感があります。しかし、いわゆる「霊能者」と言われる人のような特別な能力は所持していません。アカシックも読めませんし、予言もできませんし、オーラも見えませんし、スプーンも曲げられません。どちらかと言えば、劣等意識の強い「0能者」で、へなちょこ人間です。

 

メッセージの語り手と、私とは全くの別人です。私も、日々、反省と忍耐と努力を重ねる、ただの一人の求道者に過ぎません。

 

Q.宇宙と繋がったメッセージを下ろしているとのことですが、なぜそんなことが出来るのですか?

 

A.最初から出来たわけではなく、徐々に鍛えられたのです。上からによって、用いられるように。この『気づきの啓示板』も、最初のころと今とでは、レベルやスタイルがまったく違って来ているのがお分かりいただけると思います。途中、一段また一段と、階段をジャンプするような感覚的な変化があり、その度に内容が変化していきました。

 

いちばん最初は、「神」という言葉を出すことにもかなりの抵抗感がありました。しかし今では平気です。初期のものは未熟で恥ずかしいのですが、変化の過程をありのままに見ていただいた方がよいと考えて、そのままにしてあります。誰もが同じことが可能だということを、敢えてみなさんにお伝えするためにも。

 

Q.具体的には、何と繋がっているのですか?

 

A.ソースが何であるか、またどの霊性密度にいる存在なのかも、今のところ、私には分かりません。これは私のテレパシー能力が低いせいでもありますが、ソースにとっては、名前を明かすことが別に本意ではない、という面もあると思います。どうも複数おられるようで、男口調になったり、女口調になったり、軽いノリでジョークを言ったりと、様々です。

 

Q.どのようにして、このメッセージを書いているのですか? これは自動書記のようなものですか?

 

A.いいえ、自動書記ではありません。私のコントロール意識は失われておらず、ボーッとした感じではありますがちゃんと起きております。そのため、タイピングしたメッセージ内容が、果たして自分の考えなのか、上からのものなのか、区別が判然としません。そのことに、これまでの間ずっと葛藤があり、コンプレックスも感じています。

 

自分の場合、声が聞こえるわけでも、文字が見えるわけでも、イメージが浮かぶわけでもありません。何かもやっとした概念があり、それを、自分の引き出しにある言葉から、適当なものを選び出しては、彫刻のように創り上げていくといった感じです。

 

この、言葉を選び出すという作業が非常に忍耐のいるもので、自分の未熟さ、無能ぶりがさらけ出されるのでとても恥ずかしいです。そのため、文字校正以外では、自分がタイピングしたものを読み直すことはありません。その場限りで、全部、忘れるようにしています。

 

構成のようなものは一切考えておらず、いきなり書き始めます。呼び水のために、自分のことや、身近な出来事や、社会現象を先ず取り上げることが多いです。とにかく、最初の1ブロックが書き上がると、後からは、次から次へと次のブロックの概念がやって来ます。

 

よく「長過ぎる」というお叱りを受けるのですが、長く書こうと思っているわけではありません。やはりシンドイですし、私も出来れば短い方がいいのですが、後から後からモヤモヤがやって来るのです。きっと、しっかり伝えたいという思いが、上の存在たちにはよほど強いのでしょう。

 

そうやって、連携パスのようにブロックを繋いでいくと、だんだんと自分の波動も上がって来て、ついには憑依したような言葉が出て来ます。この状態の時の一人称は「わたし」と書いており、前半の「私」とは区別しています。これはハッキリ分かれるというよりも、どちらが優勢にあるかという違いです。私には明確な区別がつきません。

 

ですから、ニールさんの『神との対話』シリーズを読んだ時には大変な衝撃で、その内容もさることながら、どうやって「自分」と「神」との言葉を分けて記述できたのかと、驚嘆しました。(一度だけ、同じような感覚になったことがあります。)

 

そのようなわけで、コンプレックスと恥ずかしさを抱えながら継続している作業なのですが、最近になってようやく観念したと言いますか、自分は自分、自分がやれるスタイルでやるしかない、これが自分の役割、と思うようになりました。

 

考えてみますと、自分にさしたる「霊能」が無かったことは、今世におけるギフトであったかも知れません。もし「霊能」があれば、「霊能」に溺れて錯覚し、「真理」探求の姿勢を持てなかった可能性が大です。そう考えると、私は、この私の今世の役割を、徹底していく他はなさそうです。

 

これからも、出来るだけ慎重であり続けます。どう受け止めるかはみなさん次第です。批判もどうぞなさってください。それは自由です。みなさんの今後の人生の気づきに、霊性の向上に、このブログのメッセージが少しでもお役に立てれば幸いです。

 

Q.なぜ、普通の人が知り得ないことを知っているのですか?(2018.8.12 追記)

 

A.私がお伝えしていることに、目新しい情報は殆どありません。古代より伝えられて来た普遍的真理を、現代の言葉で、現代のツールを使って、現代人のハートにも響くように、焼き直しして語っているだけのです。ですから、お伝えしている情報はみなどこかに原典があるのであり、皆さんが直接お知りになることも可能です。

 

宇宙には、あらゆる情報が詰まった書庫、通称「アカシック・レコード」があります。この書庫から自由に情報を取ったり、また高次元の存在が語り掛けて来る言葉を受信できるという能力を持った人が、いつの時代にも少数ながらおられます。そして、そのようなプロセスを経て地上に下された言葉が、すでにたくさん公開されているのです。

 

私自身にはそのようなテレパシー能力はないのですが、どこにどんな情報があるかということを(上から)タイミングよく知らされ、それによって知識を増やして来ました。また、私には本物とニセモノの違いが直感的に判ったほかに、異なった場所にあるAという情報とBという情報の関連性や構造的位置づけといったことが、パッと絵が浮かぶようにして分かったのです。

 

そのようなことで、だんだんと、普通の人の目にはなかなか触れない、隠れた、深部にある、本物の智恵が、自分に届けられるようになりました。しかしながら、残念ではありますが、世に溢れる、この分野の情報の99パーセントは、どうでもよいことか、ニセモノか、あなたを魔界に引きずり込もうと狙っている情報ばかりです。それは、人類の段階がまだそこに留まっているから。

 

智恵というものは、その人の成長度合いに応じて届けられるものです。小さな器にいくら水を注いでも、大半は零れてしまいますからね。ですから、今あなたが、このメッセージに目を留めて下さったというのは偶然ではありません。あなたの器の準備が整い、レベルが合って、そうしたタイミングが訪れたということを示しています。ですからどうぞ、ここを踏み台になさってください。

 

虹の学校は、あなたのような真の智恵を求めている方に、もう右往左往しなくても済むように、早道の場を提供してあげたい。そして、純粋であるがゆえに躓いてしまった人たちを、「大丈夫だよ」と励ましてあげたい。そのために、道しるべとなる言葉を、現代人のハートにも届くように語り直すことが、今世の自分の使命だと考えております。

 

Q.この『気づきの啓示板』ブログには、どうしてコメント欄がないのですか? またFacebookなどのSNSを利用されていないのはどうしてですか? 読者が少ないと書かれていますが、利用すれば、もっと多くの人に届けられると思うのですが。

 

A.そうすることの意義を感じていないからです。アクセス数を上げることには関心がありません。そんなことをしたところで、結局は、「波動の法則」によって、ある程度似通った波動の人のところにしかメッセージは届かないのです。また、もし自分が、名声や金銭などの誘惑に負けてしまったら、たちまちにして、上から見放されてしまうことでしょう。

 

それに、「気づき」は純粋に個人的な体験です。このブログに掲載しているメッセージは、共通した何かをお知らせしようというよりも、それぞれの方のドアノッカーの役割を果たしているに過ぎません。「気づき」というのは、あなたが、自分の中に元々あったものに気づくのです。またそれは、その人の霊性の発達段階に応じて顕れるものなのです。

 

コメント欄を活用したり、Facebookなどを用いれば、読者の方々が、自分の想いを言えることができ、それはそれで別の「気づき」にもなり、活性化することでしょう。しかし、今のインターネット状況では、デメリットの方が大きいと考えます。

 

多様な個人的な体験が行き交うことによって、そこに軋轢が生じることは、どうしても避けられないでしょう。それは、私が望むところではありません。また、私自身も、そうした軋轢の影響を受けてしまい、それ以降のメッセージの受信が困難になってしまうことでしょう。高次元の存在からのメッセージは、静寂の中にしか下りることがないのです。

 

ここで大切なことを申し上げます。現代人の不幸は、「情報」の虜にされてしまっていること。「情報」の虜になっている限り、霊性の向上は望めません。入り口にすら立てない。重要なのは「情報」ではなく「感覚(feel)」なのです。「智」は外にあるのではなく、あなたの中にすでに備わっています。その「智」の扉を開くためには、「情報」はむしろ遮断しなければならないのです。

 

古代人の霊性が高かったのはなぜでしょうか? 自分の「感覚(feel)」を大切にし、森や、海や、花や、水や、風と共に生き、それらと会話が出来たからです。現代人に欠けている勇気は、何よりも「情報」を捨てる勇気、そして「お金」を捨てる勇気、「孤独」になる勇気です。

 

Q.貧乏だということですが、セミナーなどの料金をもっと上げられてもいいのではないですか?

 

A.貧乏というのは相対的なもので、世間的に見れば確かに貧乏ですが、それを惨めには感じておりません。むしろ自由です。貧乏である原因は単純で、金銭が得られるような仕事を殆どしていないためです。それに割く時間があったら、『虹の学校』の活動に一身を捧げたいと、ある時期を境に決心しました。

 

また同時に、宇宙の仕事には付加価値を求めない、とも決めました。なんとなれば、「宇宙」は誰のものでもなく、「真理」はタダだからです。それと、私がすでに年金生活者であり、月に8万円弱をいただけているので、それで充分だということです。しかし、もし年金が破綻したりすれば、お恵みをいただかなくてはならなくなるかもしれません。

 

ということで、「清貧」を気取っているわけではありません。私は「清貧」思想は嫌いです。霊性の高さと、貧富とは、何の関係もないと思います。イエスが「貧しき者は幸いである」と言った意味は、貧しい人の方が困難に遭う機会が多い(つまり、それだけ「気づき」のチャンスが多い)という意味で言ったのです。貧しくても、「気づき」がなければ、どうしようもありません。

 

Q.生徒さんは、何人くらいおられるのですか?

 

A.生徒という人はおりません。「虹の学校」は先生も生徒もなく、みな等しく宇宙の子です。あなたを指導してくださるマスターは天上界にいて、その「聖徒」となるかどうかはあなた次第です。あなたが「聖徒」であり続ければ、マスターはいつでも援助の手を差し伸べてくださいます。しかし、少しでも道理に反するようなことがあれば、静かに去って行かれることでしょう。

 

Q.どうして駄洒落とかが多いのですか?

 

A.ジョークは神様の発明品、とだけ答えておきましょう。

「祈り」の真髄

神社仏閣に行くと、たくさんの祈願札を見かけます。お正月には恒例行事のようにして祈願祭が行われますし、人々が皆、お賽銭を投じては手を合わせて祈りを捧げています。受験シーズンにでもなれば、合格祈願でたいそう賑わいます。私もかつては、意味も解らずに、単に人真似でそのようなことをしていました。手を合わせた向こう側に、霊験あらたかな何者かがおわすと信じていたのです。

 

けれども、これらの願いの一切合切を聞いていたとしたら、神様というのは大変です。忙しいだけじゃなくて、おそらく世の中はメチャクチャになってしまうことでしょう。色んな人の欲望が、一斉に噴き出して。入学定員が100人のところに200人の応募があったとします。その200人全員が合格祈願を出したらどうなるんでしょう? やっぱり100人しか受かりませんよ。だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうねぇ。

 

ここで、何か変だな?と思わなくちゃいけませんよ。合格祈願ていどなら理不尽さをあまり感じないかも知れませんが、身内に生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいるといった場合や、大事故で生死が判らないという時に必死で無事を祈るといった場合であっても、これとまったく同じことが起こります。結局は、生きる人と死ぬ人に分かれるのです。

 

そして、願望通りの結果が得られなかった時には、「神も仏もあるものか!」と悪態をつきたくなるでしょうし、願望通りの結果となった時には、「ああ、祈りが通じたんだな」「私の祈りが聞き届けられたんだ」と思うのではないでしょうか? だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうか。顕れる結果には、「祈願」とは別の力学が働いていることに、お気づきにはなりませんか?

 

「祈願」という言葉には、「祈り」に「願い」がくっ付いています。そのため、多くの人は、「祈り」と言えば「願い事」をすることだと無条件に思い込んでいます。自分の「願い」をなんとか実現させたいと思う。そのために、神仏のお力をお借りする。いま「お借りする」といったのは、ソフィストケートした言い方であって、実体は、自分の願望のために神仏を使ってやろう、という算盤(そろばん)ずくです。

 

スピリチュアル業界(?)に首を突っ込んだ人の中に、よく「引き寄せの法則」というものに引き寄せられている人を見るのですが、こんなものに引っ掛かっていてはダメです。その人は、いったい何を引き寄せたいのかな? 同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。ですが、その「自分のために何かを引き寄せたい」という願望そのものが、エゴから発していることに気づきませんか?

 

ですから、私は常々こう言っているのです。「引き寄せの法則」を活用なさりたいならどうぞしなさい、と。でもおまけに漏れなくエゴもついてくるよ、と。

 

同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。互いに引き合うと言ってもいいです。引き寄せると言っても間違いではありません。それは厳然たる法則だから。でも、(振動数が)高い波長でなければ、高い波長を引き寄せることは出来ませんし、低い波長は、低い波長どうしで共鳴し合うのです。

 

ですから「引き寄せの法則」という言葉に引っ掛かっている時点で、その人はスピリチュアル業界のエゴの戦略(ひとつ、これで引っ掛けてやろうという低い波長)の中に落ちている。それは、あなたの中に眠るエゴの部分が刺激され、共鳴したからです。逆なんですよ。天使や大師たちは、いつも応援したい人を探しているのに、自分たちを引き寄せるだけの高い波長を持った人がなかなかいないことにお嘆きなのです。

 

宇宙というのは法則です。宇宙全体が法則なのですから、なんぴとたりとも、この法則の下から逃れることは出来ません。「祈願」とは関係なしに、試験に受かる人と受からない人が生じるのも、「祈願」とは関係なしに、生き残る人と死ぬ人が出てくるのも、その背後に、人々が知らない、冷徹な「宇宙の法則」、つまり「真理」が厳然と働いているからなのです。

 

あなた方は、もういい加減に、先に述べたような迷信から脱して、その奥にある「真理」に目覚めなければなりません。それに、容易には受け入れらないのを承知で敢えて言えば、霊的世界から見れば、この世での生死など別に大した問題ではないのです。なぜなら「魂」は不滅なのですから。「魂」こそがその人の本質であり、死後もずっと生き続けるのですから。この世でいう生死は、ドアを隔てた入退室に過ぎないのです。

 

さて、真の「祈り」とは何かです。それは「願い」などではありません。いくら願ったところで、「宇宙の法則」に合致しないことは、実現のしようがないのですから。「祈」という字は、「示」ヘンに「斤」が付いたもの。「示」は「神」で「斤」は「近づく」。つまり、神に近づく行為が「祈り」です。では、どのようにして近づくのでしょうか。自分の波長を高めることによってです。これ以外に近づく方法はありません。

 

ここで、ピン!と来た方がおられるでしょう。そうです、「瞑想」と同じです。振動数の低い、物質界にフォーカスしている意識を滅して行くと、入れ替わりに、高い振動数を持った「魂」の意識が浮かび上がって来ます。すると、その振動数に応じた霊界のチャンネルが開かれるのです。「瞑想」は、この状態で、どちらかと言えば「受信」、「祈り」は反対に「発信」に徹したものと言っていいでしょう。

 

しかし、明確な区別はありません。要は、「瞑想」を「祈り」とし、「祈り」を「瞑想」とする感覚が大切です。これによって、あなたの、内なる宮が開かれる。つまり、あなたの社(やしろ)である人社が神社となるのです。

 

さてそこで、何を「祈り」とするのか、です。これは、あなたが理想とする世界です。この理想とする世界が、「宇宙の法則」に反しないものであれば、神々の応援を得て「魂」の意識世界の中にそれが実現されるでしょう。しかしもし「宇宙の法則」に反していれば、それは斥けられるか、修正を迫られるでしょう。

 

この「理想」は、あなたの「願い」ではなく、元々、そこに在ったものなのです。この違いが解りますか? つまり、「神の理想」が、あなたの中に想い出された時に、両者がつながるのです。神と、あなたの「魂」の中に宿している神の分身とが、共鳴した瞬間に。これが、「祈り」の真髄です。

 

そうして、あなたは、神の使徒の一人となる。その理想を、地上で実現するための、奉仕者として生きることを「祈り」の中に誓う。なぜなら、地上世界での実現は、地上世界に生きる者にしか出来ないから。

 

「祈り」とは、これです。世に蔓延する「祈願」などとは、いかに懸け離れたものであるかが、これでお解りでしょう。ですから、「祈り」を為すには、自分をどこまでも純粋なものに律しなければならないのです。そうでなければ、自分の波長を高めることは出来ない。高められなければ、上には届かない。そこで、いつも言っていることが大切になります。素直に、正直に、誠実に、無条件の愛をもって生きること。

 

それなしに、スピリチュアリズムの扉は開かれない。絶対に、開かれることはない。

イエスとゴータマは、結局なにを説いたのか

ナザレのイエスと、釈迦族のゴータマ・シッダルタは、ともに歴史上の人物です。イエスは今から2000年ほど前に、ゴータマはそれより前の紀元前5世紀ころ世に出現して、それぞれの持ち味を活かした立場から、宇宙の真理を語りました。その活動の一端を、今日まで続くキリスト教、仏教として、いま我々は見ているのです。しかし、その伝えられ方は、相当に歪められたものとなっています。

 

*ナザレは地名、釈迦はシャキャという一族の名を漢字で音写したもの。

 

二人が霊的に傑出した人物であったことは疑いありません。しかし重要な点は、我々と同じく、二人が肉を持った人間だったということ。ところが、その事実が無視され、共に祭壇の奥に鎮座せられるべき、この上なく高貴な存在として位置づけられたのです。そのことで、イエスもゴータマも、神に代わる信仰の対象として、人々の外に置かれることになりました。

 

結果、祭壇を納める教会が必要となり、それを管理する教団が作られ、その価値を永続的に維持するために、組織が権威化していったのです。

 

これで、「救い」というものの本質が何であるのかが、皆んなわけが分からなくなってしまいました。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、といったものの中に「救い」に繋がる道があると、人々に錯覚させたのです。「信仰」という名の下に、それは教団への強い依存体質を人々に染み込ませることになり、教団運営にとってはまことに良かったのですが、入れ替わりに大きな問題を生み出しました。

 

権威や集金システムの「権利」を巡って分派が起こり、ともに相争うようになったのです。外の物に権威を求めれば、それらは当然起こり得ることです。結果として、複数の教会、複数の祭壇、複数の僧侶、複数の聖典、複数の教義、複数の儀式が乱立し、互いに我こそは正宗、他はみんな邪宗・邪教と罵り合って、果ては戦争まで繰り広げるようになっていったのです。

 

それが、果たしてイエスやゴータマが望んだことなのでしょうか。イエスやゴータマが本当に伝えたかったことだとでも言うのでしょうか。なにゆえに、神が、我が子同士を争わせますか。ちょっと考えてみれば分かりそうなものなのに、人間たちは、未だに同じことを繰り返しています。新しく勃興する宗教もみんな同じ。結局は、ピラミッド型組織を作って、人々に上を仰ぐことを強いているだけです。

 

「キリスト」というのはヘブライ語の「メシア」のギリシア語訳で、「救世主」という意味です。よく、クリスマスを「Xmas」と表記しているのを見かけると思いますが、これは Christ のギリシア語表記が Χριστοςと、X で始まっているためです。ですから、イエス・キリストというのは、結局、キリスト(救世主)であるところのイエスさんという意味になります。

 

一方「ブッダ」は、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味です。いったい何に目覚めたのか。「真理」にです。ですから、ゴータマ・ブッダは、真理に目覚めたゴータマさんという意味です。さて、ここで注目していただきたいのは、「キリスト」も「ブッダ」も、特定の個人を指した名称ではないということです。

 

ところが、多くの人は、「キリスト」と言えば無条件でイエスその人を指し、「ブッダ」と言えば、ゴータマその人を指すものと誤解しています。これが、二人を神格化の頂点に位置付けて来たことの何よりの証拠であり、同時に、今日まで続く長い権威主義と不毛の歴史を作り出す元凶として作用して来たのです。しかし、二人は紛れもない「人間」でした。あなた方と同じ「人間」だったのです。

 

これは、決して二人を貶めようとして言っているのではありません。逆です。二人は、誰もが「キリスト」になれるし、「ブッダ」になれるよということを示そうとしたのです。そのお手本を、ともに我が身をもって示しただけだったのです。さてそう聞いて、今まで、二人を神さまのように拝んでいた人たちはショックを受けるかも知れませんね。場合によっては怒り狂うかも知れません。

 

けれども二人は、この世に生きていた間、実にフレンドリーに周囲と接していたのです。神格化されることなど微塵も望んではいませんでした。考えてみてください。万人の平等を説く者が、また万人に救いをもたらす者が、なにゆえに自己の神格化を望むでしょうか? なにゆえに、お付きを引き連れて、神輿に担がれて、ぞろぞろと歩くでしょうか? 

 

そんな輩が「キリスト」であり「ブッダ」だとでも言うのでしょうか? それでは思想の矛盾です。そう思いませんか?

 

凡夫という言葉があります。大聖者、大覚者であるイエスやゴータマに比べれば、自分は何と未熟で、間違いだらけの、ちっぽけな、取るに足らない存在なのか。一生かかっても、自分はそんな境地には到達できない。ああ、自分はなんともなさけない凡夫である。

 

違う。

違う、違う、違う。あなたは凡夫ではない。

イエスやゴータマは、まさにその考えを打ち破ろうとしたのです。

誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

ほら、こんなふうに、と。

 

あなた方は、先ずこの凡夫思想を葬り去らねばなりません。

そして、21世紀にふさわしい、新しい神学に目を見開くべき時が来たのです。

 

一般にはあまり知られていませんが、神秘学では、「キリスト」というのは別名「キリスト意識」とも言い、ある一つの到達した意識状態を指した言葉です。その意味するところは、「全き愛」です。完全な愛にある意識状態を「キリスト」と言うのです。ナザレのイエスは、その「キリスト意識」を携えて、自身の30数回めの転生を成した「人間」だったのです。

 

そこには目的があったからなのですが、肉を持ったということにおいては、他の人間たちと何ら変わりがなかったのです。ただイエスは、自分を、「キリスト意識」の完全なる媒体としました。純粋なパイプ役となって、自分を神の通り道にしたのです。つまり神に使われる者です。結局、そこでイエスは何をしたのか? イエスが説いたことは一つ、「宇宙とは愛である」ということでした。それを、完全なる法則性の上に説いたのです。

 

では、ゴータマが説いたことは何か? 「宇宙とは法則である」ということです。それを、愛の下敷きの上に、どこまでも説いたのです。宇宙とは「理」なんだと、「Law」なんだと、徹底して語ったのです。突き詰めれば、二人はこれしか言っていません。奇跡話は、当時の人々が(残念ながら今もそうですが)、奇跡でも見せない限り、真実の言葉に耳を傾けようとしなかったから、やって見せたまでのことです。

 

二人が説いたことは、一見、まったく関連がないように思えます。ですが、これは「宇宙」というものの多面性を、各々別の視点から語ったものであって、元は同じ一つのことを違う側面から言っているのです。

 

宇宙とは法則である。

宇宙とは愛である。

 

これは、いずれもが正しく、ともに真理を示しています。しかし切り口はまだまだあるのです。

 

宇宙とは智性である。

宇宙とは生命である。

宇宙とは力である。

宇宙とは波動である。

宇宙とは変化である。

宇宙とは永遠である。

宇宙とはあらゆる存在である。

 

ここで言う「宇宙」は全てという意味です。ですから、これを「神」という言葉に置き換えると、こうも言えるのです。

 

神は法則である。

神は愛である。

神は智性である。

神は生命である。

神は力である。

神は波動である。

神は変化である。

神は永遠である。

神はあらゆる存在である。

 

この全てが正しく、そして、たった一つのことから発しているのです。

それは、

 

全部が一つ。一つが全部。(All is One. One is all.)

 

これしかありません。実にシンプル。それなのに、宗教は、これをこねくり回し、もっともらしい屁理屈を考え出しては小難しいものに変えて、あたかも人々が容易には到達できないものであるかのような印象操作を行って来ました。ああ、いかにそれが、人々の霊的成長を長年にわたって妨げて来たことか。キリスト教は人々に原罪意識を植え付け、仏教は凡夫意識を植え付けて来たのです。

 

今という時代が、乱雑さの極みに達していることは解ります。人間の心が、ほとんど壊れそうになっていることも知っています。しかしそれは、全て、人間が想い行動したことの結果です。この状況を何とかしたい、地球を救いたい、自身が変わりたい、と思っている方々にここで言ってあげたい。今さら、イエスやゴータマに戻る必要はないんだよ、と。

 

戻りたければ戻ってもいいが、判じ物のように書かれた書物の謎解きに挑戦したり、熱心にお経を唱えたり、どこかの偉い先生の教えをうかがいに行ったりすることは、ハッキリ言って時間の無駄だ。いいかい。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、そんなものには何の値打ちもないんだよ。そこに「信」を見出すことは、あなたの「真」の気づきを遠ざけ、遅らせるだけだ。

 

イエスもゴータマも、確かに傑出した人物ではありましたが、言ってみれば、神の声を伝えた、その時代のメッセンジャーの一人に過ぎない。あなた方の殆どはご存知ないでしょうが、どの時代にも、たくさんのメッセンジャーがいて活躍しているのですよ。それは言葉だけとは限らない。絵だったり、音楽だったり、映画だったり、園芸だったり、数学だったりと、凡そありとあらゆる分野でね。

 

それを、何を今さら、2000年以上も前の、その時代の状況下の影響を強く受けた、古代の外国語の、訳文の訳文の、難解な言い回しの、しかも教団によって意図的に歪められた教義を、有り難がって読む必要があるでしょうか? あなた方がそれらに目を向ける理由は一つ。古くて、たいそう権威があるからだ。そして、それしか知らないからだ。

 

でも、よく考えてごらん。神は存在である。神は永遠である。神は生命である。神は智性である。神は変化である。いいかい、神は、今この瞬間も、まさに存在し、変化しつつ、生きているのだよ。

 

イエスもゴータマも、今は大師として、天上の世界で生きているんだよ。生きて、みんなに声援を送っているんだよ。「我々の真実の声を聴け」とね。なぜ、ただ今、この瞬間の声を聴こうとしないんだい? なぜ、わざわざ2000年以上も前の不確実な書物に「信」を求めようとするんだい? Be here now ! と、何度も言って来たはずだがね。

 

えっ、聴けったって、どうすればいいか分からないだって? 困ったね。これも、何度も言って来たはずだがね。いいかい、神はあなたの内にあるんだよ。あなた自身が神なんだよ。だから、「魂」の奥にあるその声に耳を傾ければいいのさ。イエスもゴータマも、正にそれを示したんだ。そうすれば、誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

 

豪華な神殿など不必要かつ不用なのさ。なぜって、あなたの肉体がすでに神殿なのだから。神は、最高の宮の中に降りたんだよ。いつでもどこでも持っていける、今の言葉で言えばモバイル神殿、スマート本尊、それがあなたの肉体だよ。この素晴らしいギフトに感謝して、せいぜい労って磨き上げることだね。そうすれば、あなたに、天使も神々も降りるから。

正直に生きるということ

今の国会で行われていることを見ていると、つくづく、これが人間なんだなと思わされます。「地球人は、霊的レベルからみれば、未だ小学校入学の域にも達していない」。これは、霊界のマスターたちがしばしば漏らす嘆き節です。ですから、今の国会を、大人たちがやっていることではなくて、幼稚園内での出来事だと思えば、この尋常ではないドタバタ劇も理解ができます。

 

どの人が嘘をついているかなど、ピュアな視線で見れば、誰にでも直ぐに分かること。ところが、嘘が見逃されるどころか、嘘がバレているというのに、嘘に嘘を重ねることが是認されてしまうという異常さです。駄々っ子のグループにくっついていけば飴玉が貰え、逆らったらイジメられる。みなさんは、これを園児としてではなくて、保母さん保父さんの視点に立って見てくださいよ。

 

何度も言って来ましたが、騙す人と騙される人は、持ちつ持たれつの関係です。騙される人がもしも一人もいなければ、詐欺師という商売は成り立ちません。人が詐欺の被害に遭ってしまうのは、詐欺師が繰り出す甘言に、心惹かれる部分があるからです。つまりは、自分の中に眠るエゴが刺激され活性化されるからこそ、そこに同調というものが起こり、持ちつ持たれつの関係が成立するのです。

 

今の国会を見て驚くのは、嘘を是認してしまう人の、あまりの多さ。この人たちは「嘘をつく」ことの過ちよりも、もっと大切なものがあると考えているのです。「正直である」ということを、単に方便のようなものとしか捉えていません。「正直」は単なるポーズでしかありませんから、「真摯に受け止め」とか「丁寧に説明する」とかの紋切り型の「嘘」を、平気でまた言えるのですね。

 

あなた方の殆どは、「嘘をつく」ということを、もっぱら他者に対しての作為として捉えています。けれども、霊的世界から見た場合はそうではありません。霊的世界から見た場合、その人の生き方として最もしてはいけないことは、「自分に嘘をつく」ことなのです。何より、これが最悪。そして、その怖さというものを、殆どの人が知りません。ですから、嘘に嘘を重ねて、自分を裏切り続けても平気でいられるのです。

 

多くの場合、「自分に嘘をつく」ことは、「他者に嘘をつく」ことと同時に行われています。しかし、他者についた嘘の場合には、他者の誰かがその嘘を見抜いたり、無視したりすれば、嘘は暴かれてしまって成立しません。ところが、自分についた嘘はそういうわけにはいかない。この嘘を暴く方法は一つしかないのです。それは、自分自身で暴くこと。つまり懺悔することです。

 

これが、未だ幼稚園の域にいる人には出来ない。「嘘をつきました。ごめんなさい」この一言が言えない。こんな簡単なことが、今の霊的レベルの人間には難しいのです。一度ついた嘘がバレるのが(それこそ自殺することよりも)怖い。そこで、嘘に嘘を重ねて雪だるまのようにして自分を保護しようとする。でもそれは、自分を自分で縛り付ける手枷足枷になってしまっているということに、本人は全く気がついていないのです。

 

この人は嘘をついている。大抵の人なら誰でも判ります。ところが有識者の中にも国民の中にも、これを是認してしまう人たちが大勢います。なぜでしょう? この人たちもまた「嘘をつく」よりも大切なことがある、との信念を持っているのです。それは、今の内閣が打ち出している、特定の国や集団に対する敵視政策です。これが、同じように、誰かを敵視し、貶めたいと願っている人々の感情面に火を点けて、燃え上がらせているのです。

 

つまり、その部分で、波長がぴったりと合っている。ですが、霊的に見てこれほど低いレベルの生き方はありません。人が、この物質世界に生まれて来た目的は、「分離」を超えた「融合」を再体験するためである、と繰り返し語って来ました。けれども、そのスタートラインにすら着けない人たちがいるのです。分離、敵視、闘争という感覚から、いつまでも脱け出ることが出来ない。

 

そして、最も倫理道徳観の薄い者が道徳教育の必要性を叫び、私利私欲で国を私物化しようとしている者たちが愛国を叫んでいる。ここまで来ると、もうジョークとしか思えません。ですから、倫理道徳も、愛国も、正義も、無用だと何度も言ってきたのです。そんなものは、為政者の道具に都合よく使われてしまうだけ。問題は、霊性にあるのです。霊性が高くなれば、そのような縛りは自ずと不必要になるのです。

 

「お前らは敵だ、圧力を掛けるんだ」と隣国に言い続ける。ですが、考えてみてください。そこにも同じ人間が暮らしているんですよ。「敵だ」「圧力だ」とずっと言われ続けた側は、そう言われてどう思うでしょうか? 「このヤロー」と思うのではありませんか。そこに同じ人がいるという想像力もなければ、相手の心理も考えていない。カルマの法則も、生まれ変わりの法則も知らない。全くの無知蒙昧。まさにマスターが嘆く幼稚園レベルです。

 

宇宙の法則は、究極的には次の一言しかありません。「全部が一つ、一つが全部」。何かに迷ったら、いつでもこの原点に返りなさい。そこに答えがあります。全部が一つなのですから、誰かを傷つけることは、自分を傷つけることです。誰かを貶めることは、自分を貶めることです。誰かを敵視することは、自分を敵視することです。そんなことが、人間たちには、なせそれほどまでに楽しいのですか?

 

ここで、これを読んで下さっているみなさんには、やさしい保母さん保父さんの視点に立ってみて欲しいのです。攻撃的にふるまう人たちを、攻撃によってやっつけようとしてはなりません。攻撃を反撃によって制圧できると思っているのは、あなた方に根強く浸透した幻想です。それでは、あなたも同じ土俵の上に落ちることになってしまいます。そうして、またしてもカルマが巡るのです。

 

いつもいつも闘争に身を置いている人の「魂」は、何年経っても成長が見られません。特定のセクトに先ず身を置き、その立場からものを語るクセをお辞めなさい。それは、真のあなた自身を捨てること。自分で自分を騙し続けていくことです。土俵を上から眺めて、保母さん保父さんになりなさい。未だ気づけない、幼いAくん、Bくん、Cくんらに、あなたならどういう声をかけてあげますか? どんな愛を示してあげられますか?

 

あなた方の意識は、一つの層だけで成り立っているのではありません。「心」が創る意識の奥には、「魂」の意識があります。この「魂」の意識は、さらに奥の部分で大宇宙(つまり神)と繋がっているのです。よく「神はすべてお見通しだ」と言うでしょう。それは本当です。あなたの思考も行動も、全部神は知っている。なぜ、お見通しなのかが、解りますか? 他ならぬ、あなたが「神」だからなのですよ。

 

「神」が、あなたの中に鎮座しているから。だから、あなたがしたことは、自動的に、すべてお見通しとなるのです。ですから、なんぴとも「神」を騙すことは出来ません。不可能です。それなのに、愚かな人間は、本当の自分である「魂」の声を無視して、「心」が創るエゴによって、自分の「魂」を騙そうとします。騙すことが出来ていると思い込んでいます。そうやって、自分に「嘘」をつくのです。

 

でもこれが、どんな結果になるかを、その人は知りません。あなたの左足が左へ行きたいと思っているのに、右足が右へ行けばどうなりますか? 股が裂けてしまうでしょう。自分に「嘘」をつくということは、日々、自分に股裂きの刑を課していることと同じです。それを、身体が、脳が、細胞が、苦痛として感じないわけはありません。顔つきも、どんどん悪人顏になっていってしまいます。

 

反対に、「魂」の意識と、「心」の意識がピタッと揃った時にだけ、人はピュアになり、大霊が流れ込むので「幸福」をしみじみと実感できるのです。そうすれば、顔つきも自ずと穏やかなものになり、周囲に明るい雰囲気をもたらすようになります。それが、正直に生きるということの本当の意味であり、意義です。

 

宇宙に罰はありません。罰のように思えることも、みんな、あなたがあなたに課していることなのです。そのことを知りなさい。自分が蒔いた種は自分が刈る。これは、冷徹な法則です。例外はありません。だとすれば、よい種を蒔いてみてはどうでしょうか。よい種から、よい花を咲かせてみてはどうでしょうか。

 

このあなたも、あのあなたも、みなが、かけがえのない種を持っているのですよ。なぜって、そのように創られたのだから。その種を、陽の当たるところに置きなさい。なぜ、わざわざ、陽の当たらない影の世界に身を置こうとするのですか? まるで成長のない、エゴでまみれた世界に、なぜいつまでも夢中になるのですか?

 

今の世界を、反面教師にしなさい。ダークな世界が発する誘惑には決して屈しないように。ご自分を信じなさい。自己の「魂」の成長を目指しなさい。力強く、そして限りなく。

 

あなたは生きている。今この瞬間をまごうことなく生きている。わたしと共に。