by Rainbow School
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劣等意識と才能

アンデルセンの童話に、よく知られた『みにくいアヒルの子』という物語があります。自分と他のヒナたちとは姿形がどうも違う。他の子たちと較べて自分はみにくい。その劣等意識にさいなまれていた一羽が、ある日、湖面に映った成鳥した自分の姿を見て、実は自分が白鳥だったと気づくという物語です。みなさんも、きっと子どもの頃に聞かされたことがあるでしょう。

 

けれども、この教訓話は、私にはどうしても好きになれないのです。物語の核心は、自分を醜いと思い込んでいた子が、実はそうではなかったことに気づくというものです。しかしその結末は、自分が、アヒルよりももっと美しい白鳥だったというところに救いを見出している。これでは、最初の差別意識の逆転ということでしかありません。この子が、本当にアヒルの子で、アヒルのままだったとしたら、一体どこに救いがあるのでしょうか?

 

「実は、美しい白鳥だった」という結論は、あまり美しいとは言えないと思うのです。結局は、外見の Beauty というところに価値観を置いていますし、たとえ、これが内面を表した寓話だったとしても、ある日、降って湧いたように、自分の内面に「美しさ」を見出すということが、果たして人間に出来るのかどうか。アンデルセンのこの物語には、イジメられ、蔑まれて来たことへの、見返しの気持ちしか見出せないのです。

 

私は、まどみちおさんの『ぞうさん』という歌が好きです。子象は、周囲から自分の鼻が長いということをからかわれ、「みにくいアヒルの子」と同じように気に病んでいました。それに対する救いは「そうよ、母さんも長いのよ」です。子象は、決してライオンになったりはしません。あなたは象なのよ。象だから鼻が長いの。母さんも象だし、象であることを生きているのよ。そのままのあなたを私は愛しているし、それで充分じゃない。と、この歌は語っています。

 

自然界には、同じ形態のものはただの一つもありません。アサリの殻の模様だって、よく注意して見れば、一個一個がぜんぶ違います。実に驚くべき多様性であり、多様性は無限なのです。ここに、宇宙の神秘の構造が示されている。すなわち、全体は一つ、生命は一つであるのだけれども、生命の「表現」は無限の多様性を持つということです。このように、超シンプルと超複雑が同居する。それが宇宙というものなのです。

 

この多様性のことを「個性」と呼ぶのです。そこに優劣はありません。宇宙には無限の「個性」があるのみです。そして、全部の「個性」が、宇宙では必要だから、そこに存在するのであり、他の「個性」に役立つことで、全体の生命が維持されているのです。ですから、役立たない存在など、宇宙には一つもありません。人間だって同じです。一人ひとり全員が「個性」を持ち、役立つために存在しているのです。

 

ところが、当の人間はそのようには考えません。宇宙の真理、本当の生命の仕組みというものを知らないためです。人間は、何事も、自分たちにとって、あるいは自分個人にとって、有用かどうかという視点でしかものを考えません。あらゆるものを「有用」というふるいに掛けて選別し、レッテル貼りしてしまいます。

 

宇宙というものが、生命というものが、巨大な系(System)で構成されているという点を無視し、そうやって、部分を都合よくイジろうとするから、却って自然界のバランスを破壊してしまうのです。そして、その本当の怖さというものも、現代人は解っていません。自然界というものは、人間自身を育む揺りかごであり、生かしていく土壌であるのに。

 

自家焙煎をしているコーヒー店へ行くと、豆をていねいに選別しています。その作業は、美味しいコーヒーを飲むためには、そうすることが有用だからです。では、撥ねられた豆は全くの無用なのかと言えば、土に返せばまた他の作物を育てる栄養になりますし、基準に合わない種は、次の環境変化を生き残るための新種になる可能性だってあるのです。

 

このように、視点をちょっと変えれば、宇宙には無駄になるものは何もないということが解るでしょう。人間の身体も、90種類以上の元素から出来上がっているということが、今日の科学によって確かめられています。この点で、土をこねて造った人形に、魂を吹き込んだものが人間だ、という認識は間違っていません。宇宙という土壌から生まれたもの、それがまさしく人間なのです。

 

さて問題は、人間が、この「◯◯にとって有用であるかどうか」という視点を、あらゆるものに適用し、あまつさえ、人間自身にも当てはめてしまったことです。これによって、人間が、人間を選別するということを許してしまったのです。この人間は、職場にとって有用かどうか、会社にとって有用かどうか、産業にとって有用かどうか、社会にとって有用かどうか、etc.。

 

この考えを推し進めて行くと、ついには優生学による劣等種の切り捨てというところにまで行ってしまいます。そして過去に、実際にこれが行われました。

 

今日では、この考えは「当たり前」になってしまい、誰も疑問を抱く人がいません。みんな、唯々諾々(いいじゃくじゃく)としてその評価システムを受け入れています。それは、早くも幼児教育から始まって、一生をついて回る。そして、次の世代に丸ごと伝承される。ですから、もう誰も疑問を抱かない。しかしこれが、現代人に特有の苦悩の、元凶となっているのです。

 

あなた方は、あらゆるものにスケールを押し当てます。そして、これを3つに分ける。標準と、それよりも優秀、そして標準以下の劣等とにです。優秀者を賞賛するのはいいのです。しかし、スケールの右側に優秀者を置いたとすると、あなた方は必ずと言っていいほど、左側に劣等者を見出そうとします。見出さずにはおられないとでも言いましょうか。

 

これが、実は、大衆支配の構図を決定しているのです。大衆とは、スケールの標準内に収まっている大多数の人たちです。優秀者の中で、支配的な野望を抱くエリート層は、その地位を継続的に維持するために、大衆に対して、「私のようにすればあなたも上に上がれるかもよ」という憧れの餌を撒く一方で、「標準からもしもこぼれ落ちたら大変なことになるよ」という恐怖を同時に与えます。

 

これがモチベーションとなって、大衆支配が維持され続けているのです。自分たちに憧れを抱かせるということは、そのスケールを認めさせるということですし、こぼれ落ちる恐怖を与えることは、そのシステムにしがみ付かせることによって永続性を保証します。それだけではなく、恐怖は大衆のガス抜きにも使えるのです。努力しても上に行けない不満を、自分よりもさらに下を蔑むことに転化させることができるからです。

 

このようにして、あなた方の世界では、表向きは「差別はいけない」と言いながら、堂々と差別が是認されているのです。政治家の発言を、注意してごらんなさい。つねに、差別すべき敵(Enemy)を探していることが判るでしょう。自分たちに反対する勢力、特定の団体、イデオロギー、宗教、民族、果ては人種や国家にまでその対象が及ぶ。そうやって、大衆の不満を「敵」に横滑りさせては、内側の結束を強めようとするのです。

 

しかし、この「敵」を設定するというトリックを、エリートたちは、大衆支配の道具として解ってやっているわけではないのです。本気で「敵をやっつけなければ」と思っている。つまり、そのスケールに最も強く洗脳されているのは、他ならぬエリートたちだということ。ですから、彼らを目覚めさせるのは非常に難しく、大衆がこの構造に、もういいかげんに気づいて、巻き込まれないようにする、同調しないようにするということが大切になってきます。

 

ここで、みなさんに、これまで説かれたことがなかった、ある知識をお伝えしましょう。これまでにも、このブログでは「障害」というものはないのだと何度も語って来ました。あるのは「個性」だけなのだと。しかし世の中では、「障害」というものを何とかほじくり出しては細分し、そこに様々な名前を付けてレッテル貼りをすることが、まるで流行のようにさえなっています。しかも「支援(Support)」と称して。いったい、それで誰が得をしているのでしょうか?

 

自分がどういう人間であるかを知りたい。そういう思いに駆られる時は誰しもあります。特に病気になったり、弱気になったりした時には。しかし、そこにレッテルを貼られると、一時は「そういうワケだったのか」とそれでホッとするのですが、やがてその人は、そのレッテルを貼られたアイデンティティを無条件に生きるようになり、遂には脱け出すのが困難になってしまうのです。

 

あるのは「個性」だけです。自分のトータルを受け入れて、それを「個性」と思えば、その人は「個性」を生きることになります。ところが、「障害」というレッテルを貼り付ければ、まったく同じ自分を、今度は「障害者」として生きることになるのです。いったいどっちがいいでしょうか?

 

今の社会は、「個性」であることを認めようとはせずに、逆に「障害」の名は、社会的に認知されるのです。あまつさえ、そこに等級まで与えています。でも、よ〜く考えてみてください。それは、「健常」というスケールを、より強調する手段になっていることを。このように、一見、良いことをしているフリをして、差別と恐怖による支配が堂々と行われているのです。

 

さてここからが、これまで説かれていない知識です。標準から、自分がこぼれ落ちるのではないかという恐怖心や、標準外、規格外というレッテル貼りは、その人を深く傷つけます。時には、二度と立ち直れないほどに。それは、人間の身体というものが、その時の心のあり様によって常に再創造されているからです。しかしそのレッテル貼りは、いま言ったように、スケール維持のために創作されているのです。

 

ですから、くれぐれも、そのシステムの犠牲になどならないようにしてください。人間の本質は、身体にあるのでも、心にあるのでもなく、「魂」にあります。「魂」は、深いところではつねに宇宙と繋がっていて、真理を知っています。ですから、自分の「魂」の声に耳を傾けて、「魂」が命じるままに生きていれば、決して犠牲になることはないのです。

 

わたくしの真実の喜びは何か?

そう、自分に尋ねてみてください。そこから返って来るものが答えです。

 

人間が、五感を持ち、感情を抱き、心を動かし、思考をするのは、この物質世界を知覚し、そこでの出来事を体験するためです。それは、この世に誕生した目的、物質的世界でしか味わえない体験をするために、あなたが自ら望んでしたことです。しかし、あなたの本質はあくまで「魂」ですから、依然として、「魂」が知覚する世界のことを、超意識の分野では知っているのです。

 

ただ、脳が発達して成長するに連れて、五感刺激の罠につかまり、五感優位の世界に生きる(つまりは心を中心に生きる)ようになって行くために、本来持っていた六感以上の能力を次第に失って行き、やがては「魂」の世界のことはすっかり忘れてしまうのです。つまり、あの世を知覚する能力と、この世を知覚する能力は、通常はトレードオフ(入れ替わり)の関係になっているのです。

 

ですから、脳の発達がまだ未熟な7歳くらいまでの幼児は、霊界のことをとてもよく覚えていますし、ゴッコ遊び(見えない世界に浸りきる)ということが、実に楽しそうに生き生きと出来るのです。また、死期が近くなった人も、脳の活動が弱まって来ると、入れ替わりに「魂」の感覚を取り戻し、「魂」の世界を生きるようになって行きます。そこで「お迎え」などを見るようになるのです。

 

ところが、人間の知識はこのようなことを知りません。また、ほとんどの人が、物質主義を基盤に置いた唯脳論に染まっているために、脳の発達が不充分であったり、機能が低下したり、失われたりした人に対しては、「病気」とか「障害」とレッテル貼りをして、それでみんな納得しているのです。これは、五感による知覚と脳機能に、ここまでは「標準」というスケールを当てて、そこからこぼれ落ちる状態を、「病気」や「障害」と見なしているのです。

 

しかしそれは、全くの一方的な見方です。脳機能が相対的に弱まった時には、トレードオフ関係によって、「魂」は、逆に第六感以上の知覚を大いに働かせていきます。「アール・ブリュット(生の芸術)」というジャンルがありますが、一般に障害者と言われている人たちが、驚異的なセンスのアートを表現するのは、そのためです。彼らには、実際に、自分が表現している世界が鮮やかに知覚できているのです。

 

反対に、健常者と言われている人の大多数は、五感が知覚する世界のみに落ち込んでいて、またそれを「正常」だと思い込んでいるために、第六感以上の世界を知覚することがなかなかできません。そこで、テクニックとして、通常の脳機能を人為的に低下させることによって、第六感以上の世界を知覚するしかないのです。この人為的なテクニックが、いわゆる「瞑想」なのです。

 

認知症とか、自閉症とか、サヴァン症候群と言われる人たちも同じです。この人たちは、通常の人よりも、脳機能が低下した分だけ「魂」の世界にずっと近づいた「生」を生きているのです。それまで「普通」に生活できていたのに、アクシデントによって五感機能や知覚に異常が生じた際には、さすがに本人も周囲の人もショックを受けることでしょう。それは、スケールの標準からこぼれ落ちた、正常では無くなったのではないか、と考えるためです。

 

しかし人間というものを、もっとトータルな存在として見た場合には、「魂」が主体の生き方への転換、次のステージへのジャンプという意味があるのです。そして、そうなったのには、ちゃんと理由があります。その新しく生じた才能を使って、「魂」の世界のことを、また宇宙の真理というものを、人々に伝えるメッセンジャーとしての役割が、その人に新たに与えられたのです。

 

一般の人は、「スピリチュアル」というと、どうしても超常現象や不思議現象や予言などに興味を抱きがちなのですが、そんなものは出会い頭の交通事故に遭った程度のこと。本当の「スピリチュアル」は、むしろ、数学、科学、芸術分野の中に表現されているのです。なぜなら、真の「スピリチュアル」とは、あの世とこの世の中間領域のことではなく、あの世とこの世を全部包含するものだから。

 

だから、「魂」の世界により近づいた「生」を生きるようになった人たちが、数学、科学、芸術の分野で、驚異的なパフォーマンスを見せるのです。それは真実の宇宙の表現。数学者のジョン・ナッシュさんや、アーティストの草間彌生さんもそうした典型的な一人です。そうやって、みなメッセンジャーとしての仕事を遂行しているのです。人々に、宇宙を、真理を、愛を、気づかせるために。

 

えっ、数学、科学、芸術、どれも苦手だってぇ? あ、そう。

じゃあ、もっと言おうか。この3つは、どれも自然の中に完璧に表現されているのだよ。

 

そこで、みなさんにお願いしたいのは、先ずは、劣等意識の罠にハマらないで欲しいということ。自分を犠牲者にしてはいけないよ。劣等意識の罠は、必ず、憧れと脅しの両端のスケールを携えてやって来るから。その時には、「お、来たな」と思って、引っ掛からないようにするんだよ。あなたは、あなたでいるだけで、すでに素晴らしい人間なんだよ。なぜって、そのように作られのだから。ぞうさんが、ぞうさんであるように。

 

何事も全てパーフェクトにこなせる人間なんて、この世に一人も居ないんだよ。誰にも、得意なことと不得意なことがある。それが「個性」であり、同時に「才能」というものなんだよ。身の周りを見渡してごらん。あなたが、いかに他者の助けを借りて生きているか。まさしく、これが自然界の姿を映したものじゃないか。多様な才能によって、生命の輪廻が営まれているという証拠じゃないか。

 

だから、あなたも、自分の個性を光り輝かせて生きるのだよ。その生き方は、さっき言ったように、自分の「魂」に訊いてみればいい。いいかい、他の人の良いところを賞賛するクセをつけなさい。そして同様に、自分の良いところを誉めてあげるクセを付けなさい。この二つは同じことだから。そうすれば、あなたは、もっともっと喜びの中に生きられるようになるから。

トンネルを脱け出す時

鬱の長い長いトンネルに迷い込んでいた頃のことです。出口を求めて必死になって読んでいた本の中に「いつか必ず、天から一本のロープが下りてくる」という一文を見つけました。そこに私は傍線を引き、何度も読み返しては、心に言い聞かせました。ロープ、ロープ、ロープをちょうだい。お願い、ロープを下ろして、今すぐに。もうそれしか、すがるものがないんだよ。ねえ、助けて!

 

鬱の期間は、結局、5年くらい続きました。もともと痩せた体型なのに体重がさらに5キロも減り、食べ物の味が全くしなくなったのにはびっくりしました。食欲はないし、当然性欲もない。とにかく意欲がない。朝、部屋が明るくなって目覚めると、「ああ、今日もまた生きなくちゃならないのか‥‥」と思い、ガッカリしました。そして夕方、暗くなって来るともうたまらず、お酒を呑んでは早く酩酊したく毎日でした。

 

さて、期待のロープは下りて来たのでしょうか? いいえ、下りて来ませんでした。求めても求めても、下りて来ませんでした。やがて、そんな一文などとうに忘れてしまった頃になって、私は徐々に、鬱々とした気分から解放されている自分を発見しました。そして、今頃になってやっと気づくのです。あの一文との出合いこそが、まさに天からのロープだったのだと。

 

天の計らいはまことに奥深く、通常の人智を超えたものです。ですから、それが示された時には、人は気づかないし、気づけない。でも、一年経ち、二年経ち、五年経ち、十年経ち‥‥した時に、「そうか、あの時のあれは、こういう意味だったのか」と、パッと気づく瞬間が訪れます。そうなった時に、あなたは、ご自分の成長というものを、深く実感できることでしょう。

 

そして、さらに言えば、その全てが、天(神)のご計画のうちにあるのです。そこで、しばしば、「全ては完璧」と言われているのです。

 

と聞いても、おそらくはチンプンカンプンでしょう。何か騙されたような気がするでしょう。私が、ロープが欲しくて欲しくて、悶え苦しんでいた時には、ロープはやって来なかった。けれども、忘れてしまった頃になって、実はそこにロープがあったのだと気づいた。ここに、その魔法の、答えがあります。

 

救いを求めていた時の自分は、「悶え苦しんでいる自分」というアイデンティティに、しっかりと抱きついていて離れなかったのです。自分では、必死になって救いを求めているつもりでした。でもその両手は、自分を抱きしめるためにふさがっていたのです。ですから、ロープなんて掴めなかった。いいえ、そこにロープがあったのに、眼に入らなかったのです。

 

ですから、苦しい自分を抱き続けることを止めた時に、一切を諦めた時に、もうどうでもよいと思った時に、自分と闘うのを止めた時に、全てはなすがまま、あるがままだと思った時に、両手が空いて、まるで電車の吊り革を掴むように、無意識のうちに、その手にロープを持たされていたのです。これが、何度も言ってきた「持ち替える」ということの意味です。

 

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バンジージャンプに挑戦するときのように、全てをお任せする気分で、空中に飛び出してご覧なさい。あなたは落ちない。決して落ちない。それどころか、自由に、イキイキと、あなたは飛行する。全てが、「神のご計画」というセーフティネットの上に載っかっているから。そこから落ちることは絶対にない。あり得ない。もし落ちることがあるとすれば、別の宇宙があるという矛盾だから。

 

他人に話せない「悩み」というものを、あなたは持っていますか? いくつですか? 一つ、二つ、三つ? いや、もっとかな? 鍵のついた箱の中に大事にしまっているのかな? それを解いて、その「悩み」とやらを、思い切って誰かに打ち明けてご覧なさい。他人に言えないようなことが言えるようになった時、それはもう解けているということだから。「持ち替えた」ということだから。

 

何もかも、大したことではない。あの時こうであればという思いも、死ぬほど恥ずかしい体験も、屈辱にじっと耐え忍んだ日々も、冒したことの罪の意識も、全ては Passing。Bashing されたことも Passing。重要なのは、今のあなたの思いだけ。それらの体験は、あなたの「思い」が、どのように変化し、成長していくかを計るための、テーマパークとしてあるだけのことだから。

 

そう聞いても、納得がいかないでしょう。中には怒りだす人もいるかも知れないね。それは、あなたの今の「思い」だから、それでもいい。

 

でも大事なことを言っておくよ。よく「この罪を、一生背負っていく」という人がいるのだけれど、そんな必要はないのだよ。冒したことは冒したこと。それによって、誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりすることがあったとしても、その体験から学び得たものを、次には愛のエネルギーに変えて、周囲に与え歩く自分に変身すればいいのだよ。アングリマーラのように。

 

そんな馬鹿な。それじゃあ、どんな極悪人でも、罪を許されると言うのか。私利私欲のために、市民から富を奪い、傷つけ、嘘をつき、それでもなおのさばっている権力者も、罪を問われないでいいと言うのか。たとえ人を殺しても、罪の意識を持つ必要などなく、平気な顔をして世間を歩いていりゃいいと言うのか。それじゃあ、殺された者の遺族の気持ちはどうなるんだ!

 

「平気な顔をして歩いてりゃいい」とは言っていないよ。「愛の人に変わればいいのだ」と言っているのだよ。そして、それこそが、生きている目的なのだよ。

 

でも、あなた方の社会ではそうしない。罪を冒した者は、罰を受けるべきだと言う。しかし、長年そうやって来て、うまく行ったのかな? 殺人者に死刑を執行することは、罪には当たらないのかな? 市中で人を殺したら殺人鬼で、戦争で人を殺したらヒーローになれるというのは、一体どういう理屈なのかな? 戦争を早く終結させるために、原爆を使用したという理屈は、ありなのかな?

 

あなた方の「罪」と「罰」の考え方は、ご都合主義でしかない。いいかい、宇宙には「罪」も「罰」も無いのだよ。よく考えてごらん。あなた方を創ったのは神なのだよ。あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。そのわたしが、片方で「罪」を冒し、もう片方でそれを「罰」するなんてことがあるだろうか? もしあるとしたら、何のためにそんなことをするんだい?

 

馬鹿げているよ。「罪」と「罰」の考え方は、あなた方が、「感情」というものの落としどころを考えた際の、発明品だよ。あんまりいい発明じゃないがね。それは、神の発想ではなく、人間の発想さ。そしてあなた方は、その発明品を、神が考えたものとして、文字通り、神に「罪」をなすりつけたのだよ。「原罪」という名でね。しかし、そんなものは無い。あるはずがない。

 

いいかい、何度でも言うよ。あなたも、あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。みな愛しいわが子なのだよ。いつも全部を見ているのだよ。愛さない者は、この宇宙に一人もいないのだよ。だから、その根源に気づきなさいと言っているのさ。愛の人に変わりなさい、と言っているのだよ。それが、本来のあなたなのだから。

 

この者(私)も、鬱でどん底にある時に、追い打ちをかけるようにして妻が死に、妻を死なせてしまったのは、自分のせいではないかと、しばらくは「罪」の意識にとらわれていたのだよ。だから、わたしが喝を入れて、怒鳴りつけてやったのさ。「何をグズグズしている!」って。そうやって、ビンタで叩き起こして目覚めさせたんだよ。そうでなければ、わたしの手足として用いることが出来なかったからね。

 

その時は、彼もショックの様子だったがね。でもわたしは、耐えられない試練は与えないのだよ。どんな人にも、決して。彼が耐えられると知っていたから、そうしたのだよ。どうしてかって? そうすることを、あらかじめ決めて来たのは、彼自身だからさ。それでも彼は信じなかった。なかなか自分を信じようとはしなかったよ。つまりそれは、わたしを信じなかったということに他ならない。

 

だから、ここに至るまでに、何年も何年も掛かってしまったよ。何度もメッセージを送っていたのにね。でも最近になって、ようやくちょっとは分かって来たようだがね。わたしが、常に傍にいたということと、自分の役割というものを。あの辛い体験、屈辱に耐えた日々、それらが全部、自分自身による計画だったことが。つまりは、神の計画だったことが。

 

贖罪の気持ちを持ち続けることは、一見、貴いことのように思えて、でもそれは、ある種のエゴなんだよ。なぜかというと、自分が引き受けなくてもよいものを、自分が「引き受けねばならない」と思う独善に陥っているから。いいかい、誰もが、等しく、わが愛する子たちなんだよ。その一人ひとりが、自分の生き方を、自分で選んでいるのだよ。あなたも、あのあなたも、そのあなたも。

 

そこでは、どのように死ぬかということも、その人の生き方なんだよ。あなた方の世界では、死んだら終わりという思想が深く染み付いているので、それが、Re-born だということが理解できない。でも、Re-born しない人は、一人もいないのだよ。誰もが、死ぬことを〈自分で〉選択して、生き直すことを選んでいるのだよ。だから、そこに介入する必要はないし、そもそも介入することなど不可能だ。

 

けれども、人間の世界では、「感情」が支配的だから、そのような無意味なことに、意味を見出そうとして、自分が創造した「思い」をいつまでも抱き続けているのだよ。でもね、その人の死は、その人のものなんだよ。あなたのものじゃない。その人が、Re-born することを選ぶことによって、完結したんだよ。だから、親しい人の死に接した時、あなたがするべきことは別にある。

 

それは、その体験から学んで、新しいあなたを生きることだ。生きながらにして Re-born することなんだよ。全き愛の人に生まれ変わることなんだよ。

 

そして、それは、あなたなら出来る。

 

信じられないって? 信じなくていい。でもね、こうして、あなたは今このメッセージを読んでくれているね。他のコメントにも、熱心に眼を向けてくれていたことを知っているよ。わたしのメッセージに出合い、かつ受け留めてくれる人は極めて少ないのだよ。その少ない出合いが、どうして起きたんだろうね。全ては、計画通りに進んでいるということさ。

 

言葉は、与えられ時には、その意味が解らないものなんだよ。あんまりいい喩えじゃないが、オレオレ詐欺だって、後から、その言葉の真の意味が判るわけだろう? だから、今はメッセージの意味が解らなくても、また暗いトンネルの中にいたとしても、決して希望を失っちゃいけないよ。あなたの努力は、絶対に徒労には終わらないから。

 

天の計画は、あまりに精緻で深遠で、求めていた答えは、あなたが思いもよらない方法でやって来るから。そして、気がついた時には、いつの間にかトンネルを脱け出ていた自分を発見する。そういうものなんだよ。その時になって、あなたはハタと膝を打つ。

 

そうか、あの時の言葉の意味はこれだったのか、と。

世界から戦争が無くならない10の理由

私の母は、生前「あー、恐ろしい、恐ろしい。戦争はもうコリゴリ。戦争だけは絶対にしちゃいけないよ」とよく言っていました。一方の父は、応召されて青春期から壮年期にかけてを軍隊で過ごし、自分の人生というものを戦争によってメチャクチャにされたはずなのに、それでも「国家」というものを信じ続け、復員後は自民党政治を熱心に応援し、反政府的な思想は徹底して毛嫌いしていました。

 

学生運動が頂点に達していた1970年前後、茶の間でテレビを観ていた父が突然「お前もあんなことしているのか?」と私に向かって言い、「もし、学生運動なんかしていたら、俺は、お前と刺し違えて死ぬ!」と身体を震わせながら言ったのです。その眼は本気でした。父が、戦争体験で、また軍隊経験で、刷り込まれたものとはいったい何だったのだろうと思います。

 

私は16歳で家を出てしまったので、その後は父と話す機会もほとんどなく、家とは疎遠でした。父はその後、63歳になって再生不良性貧血という血液の難病に罹り、入院生活を送るようになりました。60歳で年金が貰えたものを、支給開始を65歳にすれば金額が増えるということで、入院中もカツカツの貧乏生活を送っていたのですが、65歳の誕生日を迎えた、ちょうどその日に息を引き取りました。で結局、年金はもらわず仕舞い。ああ、可哀想なオヤジ。

 

どこの国の人であれ、普通の庶民は、ほとんどの人が「平和がいちばん、戦争はイヤだ」と思っているし、口に出しても語ります。そして旅人がぶらりとやって来たら、あたたかくもてなし、具合の悪い人は手当てし、食事を振る舞い、互いの文化を語り合って、和やかに交流するという度量をみな持っています。それなのに、世界から戦争が無くなることはありません。いったい、これはどうしてなのでしょうか。

 

そこに、前回書いた、男性性と女性性の問題があるのです。国家指導者がする発言が、庶民感覚とは真反対で、いつも敵意むき出しであることに着目してください。世の中が、もしも女性性をベースにして動いていれば、戦争は決して起きません。戦争はイヤだ。それでもうおしまいなのです。ところが、男性性は、こうした単純さを素直に認めません。単純であることは、バカだと思っているのです。女子供は黙っていろ!といった感じです。

 

会津家訓十五箇条』の中に、こんな一節があります。

一、婦人女子の言、一切聞くべからず。

 

と、まあこんな調子。そこで男性性は、物事をいつも複雑化し、様々な人が、様々な屁理屈を拵えては、そのセルクルの中に納まって、他のセルクルの中にいる人たちを、バカだのチョンだのと言ってはやっつけようとするのです。いったいどちらが「愚か」なのでしょうか? 「宇宙の真理」は、シンプルそのものです。全部が一つ、一つが全部。ただ、これだけ。男性性は、それを知りません。

 

米国の大統領が、新たな核戦術および核兵器の近代化プランを発表すると、日本の外相は、直ちにこれを「高く評価する」と発言しました。Hiroshima、Nagasaki の地名は、今や世界中の人々が知っています。核の脅威というものが、過去に、その地で具体的に示されたから。それなのに、世界122の国と地域が参加した「核兵器禁止条約」の採択に、日本は加わっていません。唯一の被爆国である日本が、今や「核平気」に賛成の立場です。

 

その理由は、屁理屈があるからです。〈あんな悲惨な出来事は、人類のうえにあっちゃならない。もう二度とゴメンだ。世界から全部「核」を無くそうよ!〉という訳にはいかない。国際政治はそんな単純なものではないと、男性性は言う。そこで、核の傘とか、核による戦争抑止力とか、集団的自衛権とか、専守防衛とか、防衛のための先制攻撃とか、いろんな屁理屈を考え出す。

 

この屁理屈が、インナーサークル(セルクルの内側にいる人たち)の政治家や、政治評論家によって繰り返し語られ、メディアがそればっかりを流すものだから、世間の人々は、いつの間にか「偉い人が言っていることだしなぁ、そんなものかなぁ」と思わされてしまう。そして、「人類、みなアミーゴだぜ」という、本来、人間だれしもが持っていたシンプルな庶民感覚を忘れてしまうのです。

 

この取り違えが、人類全体を今や厚い雲のように覆い尽くしている。しかし、屁理屈に屁理屈を重ねてみても、所詮それは屁理屈でしかないのです。北朝鮮が核兵器開発をやめないのはけしからんと言う。じゃあ現核保有国はどうなんだと。あなた方は「けしからん」くはないのかと。イスラエルだって秘密裏に核保有したじゃないか。北朝鮮が核兵器開発をやめない現実こそ、あなた方が言う「核による戦争抑止」という「幻想」が機能していない、正に証拠ではないのか。

 

結局、「幻想」をいかに信じ込ませるかということが、今の世界を、そして今までの世界を、統治する仕組みになっているのです。その「幻想」が今、崩れつつあります。逆に言えば、永きにわたる「幻想」から、人類がやっと目覚めつつある。今こそチャンスです! でもこの「幻想」は、まるでお風呂場の目地に巣食うカビのように、深く、多段階に根を生やしていて、ちょっと擦った程度では取れないのです。

 

なぜ、世界から戦争が無くならないのか? 一般庶民は、みんな「戦争なんてイヤだ。人類はみんなアミーゴだ」ということを知っています。多くの歴史書やドキュメンタリー映画が、また語り部たちが、戦争の悲惨さと、なぜ戦争が起きたのかという理由を伝えています。また多くの作家や歌手や芸術家が、戦争がもたらす悲劇と、それとは対極にある生命への讃歌をうたい続けて来ました。

 

それでも戦争は無くならない。無くならなかった。それは、部分部分の活動では、「幻想」を生み出している、この多段階の「構造」にまでは切り込めなかったから。そう、これは正に「構造」的な問題なのです。「構造」が隠れ蓑となって、個別に起きる悲劇を、みんなその「構造」の間に溶かし込んでしまう。だから人類は、何度悲劇を体験しようとも、何度反省しようとも、同じことを繰り返すのです。

 

そこで、人類が目覚めるためには、この「幻想」の「構造」を大多数が認識するか、あるいは、シンプルに女性性に帰るかしかないのです。

次に示した構造に、太平洋戦争でも、ヴェトナム戦争でも、テロとの戦いでも、何でも当て嵌めてみてください。これは全てに共通して言えることです。

 

◉世界から戦争が無くならない10の構造的理由

  1. 世界を、融和ではなく、支配によって統一すべきと考え、実際に世界をコントロールしている、隠れた存在がいること
  2. 表には出ないその存在の、代理人となって君臨する、各支配分野における世界の覇者がいること
  3. 各覇者の庇護の下で、分離主義の価値観によって教育された、エリート集団がいること
  4. エリート集団によって担ぎ挙げられ、実は操られているとも知らずに、その気になっている政治指導者がいること
  5. その政治にすり寄って、自分もおこぼれに預かりたいという、私利私欲が第一という人間がいること
  6. 2〜5が創り出している価値観を、当然のように考えて宣伝し、大衆を洗脳していくマスコミがあること
  7. 2〜6までを当然のこととして、また処世術として、小さい頃から教え込んでいく教育があること
  8. 2〜7が創り出す構造によって、分離主義に心強く惹かれ、これを積極的に発信する、一部の声の大きい人がいること
  9. その声に「NO!」と言えずに、組織の論理に埋没し、背景をよく理解しないまま、巻き込まれていく大衆がいること
  10. その結果、苦しみ、悲惨な目に遭っている人々がいても、我よしで片づけ素通りしてしまうこと

 

この10項目が、ピラミッドのような構造をガッチリと保っているために、いくら芸術や、ジャーナリズムや、ドキュメンタリー映画などで個別の階層を突いてみても、一向に世界から戦争が無くならないのです。壁にヒビを入れるくらいは出来たとしても、ピラミッド構造はビクともしないし、壁もすぐに元どおりに修復されてしまうのです。

 

人が一度戦争を経験すると、9.10.の階層の中では反省が起こり、改心する人々も出て来ます。しかし1〜8.までの階層の人々は、ほぼ全員が、自己正当化を行って、うまく責任逃れをしてしまいます。その一方で、9.10.の階層の一部にはトラウマを抱える人々が出てきて、これと、決して反省しない1〜8.までの階層の人々の意識が集まって、また次の戦争を引き起こしていくのです。

 

さらに言えば、これは「戦争」だけではなく、「金融」についても、「資源」についても、また「宗教」についても言える。つまり、全部が同じ構造を持っていて、要するに元は一緒だということです。このようにして、大衆洗脳が深く出来上がっているのです。ところが、各階層にいる人々は、その階層内に埋没しているために、全体構造を全くと言っていいほど知りません。こうして書いても、多くの人はたぶんピンと来ないことでしょう。

 

さてこの10項目の、最初と最後に注目してください。1番めと10番めです。この2つは、何か毛色が違っていることにお気づきでしょう。これは互いに出発点と終点になっていて、1番めはこのピラミッドの構造的要因の出発点となっていて、10番めは心理的要因の出発点になっているのです。そして2〜8.は、この二つの間でグラデーションのように変化して行きます。

 

このことからお気づきでしょう。この壮大なシステムは、あまりにも巨大すぎて、一見、崩すのが不可能のようにも思えます。ですが、1番めが変われば全部が玉突き的に変わりますし、逆に10番めが変わっても、全部がほどなく変わることになるのです。そして1番めも10番めも、実は同じ根っこにあるものを、片方は構造的に、もう片方は心理的に見ただけのことなのです。

 

それは、何度も言って来たように、みなさんが存在したことの根源的理由、すなわち「分離」と「合一」という二律背反から生じているのです。

 

みなさんの「魂」は、全体であったものから、本人の希望によって「分離」し、個別化するという形態を採りました。それは、全体の中にずっといたのでは、全体を知ることが出来ないためです。そこで、敢えて全体から別れ、個別化した「魂」となりました。そうすることによって、「合一」を再び経験し、全体の意味を知る(つまり、私は誰で、どこから来たのかを知る)道を選んだのです。この道が、道教でいうところの「道(タオ)」です。

 

その結果、みなさんの心情の中には、全体から離れたことによる「自由」と「不安」とが同居するようになったのです。一人になって「よーし、いろんなことを経験してやるぞォ」という気持ちと、「ひとりぼっちじゃ寂しいなぁ、理解者が欲しいなぁ、誰かと一緒になりたいなぁ、故郷に帰りたいなぁ」という気持ちが、信号機のように明滅し、両者の間で揺れ動くようになったのです。

 

1番めに書いた存在は、今日、「闇の勢力」とか「Silent Group」とかと呼ばれていますが、彼らも、やはり One World の「合一」を目指しているという点では、他の「魂」と違いがないのです。ただその目指し方が、ちょっと歪んでしまったのですね。強烈な「分離」意識の下敷きのもとに、他の人々を「支配」するという形で One World を目指したのです。

 

一方、10番めにある、虐げられている人々に対する「同情心」といったものを、もしも地球人類の全てが持てば、戦争が無くなるどころか、地上の天国が直ちに出現します。誰も、他者をやっつけようとは、もはや思わないからです。他者から傷つけられた時の、その悲しみ、苦しさ、惨めさ。切なさが、本当に自分のこととして解るので、もうそんなことは出来なくなってしまうのです。

 

ここに至って、他者を愛することは自分を愛することと同じ、自分を愛することは他者を愛することと同じだということに気づけるのです。そして他者を許し、自分も許すということの本当の意味が、その真髄が、自分の身体の中に入って来る。その時、あなたは愛の人になる。そして、愛の人が、一人、二人、十二人、百四十四人となり、千四百四十人になっていけば、世界は一変します。

 

先に、人類が目覚めるためには、二つのアプローチがあり、「幻想」の「構造」を知るか、「女性性に帰る」かどちらかだと書いたのは、以上の意味です。「幻想」の「構造」を知るとは、1番めからのアプローチであり、「女性性に帰る」とは、10番めからのアプローチなのです。そして、どちらのアプローチをとっても、「分離」はまやかしであるということに、人類が気づいて行くことになるのです。

 

さて、この『気づきの啓示板』を熱心に読んで下さっている方に、さらにその先をお伝えしましょう。賢明なあなたなら、きっと解ってくれる筈です。確かに、今の世界はひどい。メチャクチャです。でもそれは、2〜9までの階層に、人々が巻き込まれて埋没しているためです。自分が、まさか操られ、眠りの世界に生きているとは気づかない。気づけない。だから釈迦は、「無智が何より最悪なことなんだよ」と言ったのです。

 

ですから、そのような状態にある人々に、どうか敵意を向けないでください。

あなたという「魂」のためにも。

 

1〜5.の階層にいる人々は、今世で、多少の優越感やお金を手にすることが出来るでしょう。でも、本当のハッピーを知るすべを知らないんですよ。宇宙を、生命を、愛の真髄を、なにも知らないまま、「分離」意識の洗脳の殻の中に閉じこもって、ただ夢遊病者のように歩いている「魂」なのです。彼らの「言葉」に耳を傾けるのではなく、態度をボーっと観察してみてください。低い波動に取り憑かれていることが分かりますから。

 

階段を上るのはシンドイです。でも降りる方は楽です。それと同じで、微妙で繊細な高い波動をキャッチできる人は少ないです。でも低い波動に合わせて行くことは簡単です。自分の中に眠る「分離」意識に火を点ければいいだけのことですから。そのようにして、彼らは自分に注目を集め、その刺激に集まる人々の、落差から生じるエネルギーを食べているのです。果たして、このような飢餓状態にある「魂」に安らぎがあると思いますか?

 

ですから、憐れみをもって、その人の奥にある「魂」を見てください。彼らは、そういう役割を演じることで、他の人々に、本当のハッピーとは何かを気づかせようとしてくれています。そこを汲み取りましょう。

 

先ずあなたが、「そうか、本当のハッピーは、今ここにある自分で充分だったんだ」と気がついて、そのことを噛み締めてください。そして、未だ気づかずに、低い波動に埋没している「魂」に対しては、愛の波動を送ってあげてください。これは、あなたのためでもあるし、またその人のためでもあります。もう気がついたでしょう? あなたはわたしで、その人もわたしなのですよ。

 

さあ、一緒に行動しましょう。あなたが、愛の波動を送り出せば、世界は、愛の世界に変わるのです。

 

*1440人:12×12×10のこの数字は象徴的な意味合いであり、実際には、総人口の4〜7%が目覚めれば、人類は一気に変わります。ちなみに12は総量を示す神秘数で(1年の構成月や、時計の文字盤、1オクターブの鍵盤等に見られる)、10はべき乗(累乗)を意味しています。12人の覚者が、12人の弟子を目覚めさせる。そうしたことが、10倍、100倍、1000倍と拡大すれば、一気に変わるという意味です。また、このべき乗(累乗)というのは、宇宙が、極大にも極小にも広がっていることを数学的に表しているもので、まさしく、ヘルメスが語ったところの真理なのです。

男性性と女性性 ―― 内なる女性性が未来を開く

原始、女性は太陽であった。明治44年9月に創刊された雑誌『青鞜』の発刊の辞の冒頭で、平塚らいてうはそう記しました。これは、〈本来そうであった筈なのに、今は日影の身に置かれている〉ということを嘆いたもので、このあと文章は「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」と続きます。

 

陰陽二元を考えた場合には、一般的に男性が陽極、女性が陰極側に置かれるのですが、男性性と女性性というものを比較してみると、らいてうの言う通り、確かに女性の方が「太陽」のような感じがします。それは産む、生み出すというところから来ているようで、海や大地も、女性性で喩えられることが多い。何か温かな、ふんわりと包みこむような要素を、女性性というものが持っているからでしょう。ちなみに「子産む生む」が「commune」の原点だという説もある。

 

これからの社会変革は間違いなく、この女性性が鍵を握っています。それは、らいてうが生きた時代のような、女性解放運動的な意味合いではなくて、もっと根元的な、人間本来の生き方に還るという意味において重要になって来ます。さらに言えば、これまでの社会にあった男性性の悪い面は、これからどんどん捨てて行く。そのような変革無くして、人類の明るい未来はないでしょう。

 

男性性が支配する社会、それは虚飾であり、遊戯(ゲーム)であり、勝ち負けにこだわる社会でした。こんなものは本来不必要でした。それなのに、そこにずっとしがみ付いて来たことが、人類を永らく不幸のどん底に落とし込んで来た元凶でもあるのです。ですから、先ずはその構造に気づくということが、いま崖っぷちにある地球人類全体を救うことにつながって行くのです。

 

ここで、男性性と女性性が、男性と女性を指しているわけではないことを強調しておきます。男性にも女性性はあるし、女性にも男性性はあります。中には、性同一性障害と呼ばれている人たちだっている。しかし、声を大にして言いますが、それは障害ではありません。「魂」は輪廻転生していますから、今のドレスに違和感を持つ人が出ることは当然です。それは、障害ではなく、個性であり、表現であり、才能であり、恵みです。

 

女性政治家というと、今までは男性に伍してというか、自分の中の男性性を発揮することで、政界への進出を果たして来ました。逆に言えば、男性性を発揮できる人のみが政界に入れたのです。演説の口調、態度、全部が男性のモノマネです。弱みを見せてはいけない、勝たなければいけない、敵をやっつけなければいけないと思い込んでいる。でもそんな時代は、決定的に古いということです。もう終わりです。

 

これからは、女性性を持つ女性政治家、女性性を持つ男性政治家が多く登場することになるでしょう。そうであってこそ、人類に明るい未来が開けて行くのです。女性の社会進出ということも、既存の男性社会のルールの中に、女性がビシッとスーツを着て出て行くというのではなくて、社会全体に、インクが滲むようにして「女性性」が浸透して行く、という意味に変わって行くことでしょう。

 

男性性と女性性との決定的な違いは、ものの見方、つまり視点です。これまで、視点がその人の認識を創り、認識が行動を生み、行動が体験になると繰り返し言って来ました。そのことを思い起こしていただければ、この「視点の違い」というものが、その後の行動までを全部支配していることが解って頂けると思います。いわゆる男女間のスレ違いは、その殆どが、ここに理由があるのです。

 

女性というのは、すぐ目の前にあるものを見ようとします。そして、目の前の対象物の中の、自分が共感できる部分にパッとアクセスして行くのです。ですから、初対面の人とでもすぐに打ち解けられるし、仲よくできるのです。(バーゲン品にスッと目が行くというのもその顕れの一つ)女性のコミュニケーションというのは、まるでレース編みを広げて行くように、糸で繋がりながら周囲に拡大して行くのです。

 

これは優れた特質ですが、目の前ばかりに集中し過ぎて、周囲が見えないという面もあります。スーパーに行くと、少しでも良い品を探そうと、取っ替え引っ替え、下から野菜をひっくり返し、売り場をメチャクチャにして去って行く人をよく見かけます。また、共感でつながるのはよいのですが、そこにちょっとでもズレを感じるようになると、仲間うちの噂話で、特定の人を口撃しようとしたがります。

 

一方、男性の視点には、目の前のものの細部がよく見えていません。男性の場合、そこに関心はないのです。男性は細部よりも、鳥の視点で、先ず全体を俯瞰して眺めようとします。そうやって安全性を確かめた上でないと、自分の降りる場所を決められないのです。用心深いというか臆病というか。そのため、初対面の人とすぐに打ち解けるということは苦手です。打ち解けるまでには何度も会って、相手の「力量を量る」ということをするのです。

 

けれども、この「力量を量る」というプロセスを、一瞬にして省いてしまう便利な仕組みが、男性社会にはあるのです。それが「肩書き」です。男性同士の出会いでは、とにもかくにも名刺交換が先。男性にとっては、自分がどういうところの所属で、どんなポジションであるかが、その人のアイデンティティを決めるのです。ですから、定年でリタイアした後も、何らかの肩書きがついた名刺を欲しがる人が大勢います。

 

男性のコミュニケーションというのは、まるでドーナツ生地を、セルクル(仏:お菓子作りで使う輪っか、英語のサークル)で型抜きして行くようなものです。円形にも大小があり、その他にも星型やハート型や六角形や動植物をかたどったものまである。男性は、自分がこの中のどのサークルに属するかということが大問題で、サークルの中では生き生きとしているものの、その外に対してはあまり心を開こうとはしません。

 

男性性優位の社会とは、このような感覚や態度が、当たり前となり定着した社会なのです。さて、どうでしょう? 現代の女性から見たら、実にアホらしい仕組みだとは思いませんか? 結局、男性性優位の社会というのは、種つけと、重い物を持ったり兵隊員になったりする以外には、あまり使い道のない男性が、それを悟られないようにと編み出した、虚飾の仕組みだと言えなくもありません。

 

さて問題は、この虚飾の化けの皮が、剥がれ始めて来ていることです。いや、もう既に随分と剥がれ落ちている。けれども、それを認めたくない、これまでと同じでありたいと願う人たちが、必死に延命策を弄しているというのが、今という時代状況なのではないでしょうか。そして、その過中で起きている混乱を、みなさんがただ今目撃しているのです。

 

そうでなければ、まるで幼稚園児かと思うような国会での稚拙なやり取りや、バレバレの嘘を平気でつき続けたり、税金泥棒を政府の要職に付けたり、盗んだ大金をお友達に融通したり、犯罪を犯しても友達なら逮捕せず邪魔者を長期間拘留したり、国民の多くが貧困に陥っていても「いざなぎ景気を超える」と言い張ったりなど、とても出来る訳がありません。

 

もう、何もかもがタガが外れていて、呆れるしかないのに、マスコミはそのことをちっとも報道しようとしません。マスコミもまた、崩壊が差し迫った利権構造の延命に、必死になって食らいついているといった状況なのでしょう。しかし、いくらそのような延命策を試みたとしても、最後の最後は、花火のように弾け飛びます。宇宙の摂理から言って必ずそうなります。

 

考えてみれば、男性性とは哀れなものです。現実を〈生き抜く〉という力が乏しいのです。目の前が見えませんから、今ここ(be here now)、この瞬間を生きるという力がそもそも弱い。そこで、入れ替わりに、大志とか、野望とか、ロマンといった非現実的なことを言い出してはこれに執着するのです。坂本龍馬や三国志にワクワクするのも男性。ゲームや博打に夢中になったり、コレクターになるのは、殆どが男性です。

 

女性から見れば「えっ、何でそんなことに?」と、きっと不思議に思うでしょうねぇ。

 

また、男性には「かしずく美学」というものがあって、サークルの内側では、その主君のために馬車馬のように働くのです。そうすることで、上の人たちから、頭を「いい子、いい子」して貰いたいという欲求があるのです。これが度を超して、忠誠を尽くすまで行ってしまう。そうなると、サークルの外側がどうなろうが、人としてそれはどうか、などはもうどうでもよくなってしまうのです。

 

実に、これが恐ろしいのです。小はちょっとした出来心による汚職に始まり、大は世界大戦や、ホロコースト(大虐殺)を引き起こすところまで、男性性というものはエスカレートしてしまう。ところが、サークルの内側にいる人たちにとっては、そうすることに対して、その瞬間においては少しも疑問はないのです。むしろ、信念に支えられて、嬉々としてそれをこなして行く。

 

アイヒマン裁判というのがあって、第二次世界大戦後の1961年、アウシュヴィッツ最後の収容所所長だったアドルフ・オットー・アイヒマンが、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを、イスラエルの諜報機関に捕まり、イスラエルで裁判にかけられた。これをドイツ出身で、当時アメリカに亡命していたユダヤ人の思想家、ハンナ・アーレントが傍聴して『The New Yorker』誌に記事を書いたのです。

 

しかしこの傍聴記は、轟々たる非難を巻き起こしました。ハンナ・アーレントが、アイヒマンを擁護したというのです。しかしアーレントは、分かり易い「憎しみの構図」を超えて、「一体なぜこんなことが起きたのか?」を追究しようとしました。その結果、アイヒマンは、ただの凡庸な役人に過ぎず、職務に忠実に従っただけだったと書いたのです。これは結果的にアイヒマンが主張するものと同じでした。

 

アーレントは、ホロコーストを引き起こしたものの原因には、自己の本質(人間としてのあり方)を忘れてしまった「忠誠心」がある(つまり誰にでも、それは起こりうること)と見抜いたのですが、世間はそれでは納得しませんでした。「目には目を」という分かり易さを求めて、アイヒマンは絞首刑にされました。日本では、インパール作戦を率いた牟田口廉也中将が、戦後にやはり、同様の自己弁護を行っています。

 

男性性というものは、先ずは「枠組み」ありきです。この「枠組み」発想というものから、男性はどうしても逃れられません。それは一見、大局的に物事を見ているようでいて、「枠組み」の中にいちどハマってしまうと、周囲が全く見えなくなってしまうのです。そしてこの周囲の見えなさは、「人として」という最低限の垣根さえも、容易に破壊してしまうほどの恐ろしさを秘めているのです。

 

ですから男性は、環境変化というものに非常に弱い。周囲の環境に慣れるのにも女性よりはずっと時間が掛かるのですが、いったん慣れると、今度は過適応を起こして、そこからハミ出すのを怖がるようになるのです。(男性が、「行きつけの呑み屋」が好きなのはそのため。)そういう弱さを内心よく解っているので、頭のいい人ほど、それを悟られまいとして威張り散らし、真っ先に保身に走ろうとするのです。

 

これに対して、女性性というものは、目の前にあるものにすぐに適応してしまいます。そして、まるでレース編みのようにしてコミュニケーションを広げて行く。それは、いわゆる地図が読めないということ、空間把握する力という点では男性よりも弱いかもしれませんが、現実を確かに〈生き抜く〉という、男性性にはない力強さを持っているのです。

 

そしてこの〈生き抜く〉力に、人間としての理想、子育てに対する理想、食に関しての理想、自然環境に対する理想、働き方に関しての理想等々が加われば、これまでの、虚飾に満ち満ちた、男性性優位の社会を変えられると思うのです。「枠組み」発想にいつまでも縛られた、今の男性性優位の社会に、もう従う必要などはないのではないでしょうか。それでは人類の幸福はない、という結論はもう出ていると思うのですが。

 

原始、女性は太陽であった。まさにその言葉のように、ご自分の中の輝きを、周囲にこれから注いで行って欲しいのです。そうすれば、社会は変わります。男性性に敵対するのではなく、その中に埋没している人を哀れんで、太陽の輝きによって、重い(思い)コートを脱がしてあげてください。今世、女性であった人も、来世には男性に生まれるかも知れませんよ。その時には、今よりも、もっと進歩している男性であるように。

 

いつまでも同じことを繰り返している歴史(he-story)は、ここらで終わりにしましょう。女性も、男性も、これからは内なる女性性を意識して、それを大いに誉めてあげて、行動して行きましょう。枠組みや常識などにとらわれず、あなたの理想に向かって突き進んでください。そして、今ここ(be here now)、この瞬間を、元気よく生きてください。

 

そんなあなたを、わたしはいつも見守っています。