by Rainbow School
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自分と「闘う」のを止めれば楽になる

なぜこのような目に遭うのだろう。どうして思うようにいかないのだろう。

深い苦悩に、今まさに落ち込んでいる人たちに、言ってあげたいです。

自分と「闘う」のを止めれば、楽になるよと。

えっ、闘う? 自分と?

そう言われても、何のことやら解らないでしょう。

そう、まさにその解らなさ、見えなさこそが、苦悩の正体なのです。

 

苦悩の種は尽きません。子どものこと、親のこと、夫婦のこと。職場における人間関係。愛する人への思い。学業成績。仕事の進み具合とその評価。お金の無いこと、借金があること。容姿や体型コンプレックス。体調不良に病気。将来不安や鬱、独りぼっち感。突如身に降り掛かった事故や災難。生きるということは、まこと、苦悩の種と同居し続けているようなものです。

 

でもそれは、「種」なのですよ。全部が「苦悩」に育つわけじゃない。水を与えなければ、「種」は育たない。同じ「種」に遭遇したとしても、立派に「苦悩」に育て上げる人もいれば、ほったらかしにして枯らしてしまう人もいるのです。よく、「次から次へと苦悩が自分を襲う」と仰る方がおられるのですが、その人は、ほったらかしになど出来ない性分なのですね。

 

生きるということは、日々体験をするということです。ですから、体験を怖がっていては「よく生きる」ことは出来ません。そして体験をする以上、予期せぬ事件、事故、災難が起きるということは、もう当たり前なのです。問題は、あなた方人間が、体験の内容を「善いこと、悪いこと」に線引きし、区別してしまうこと。この善悪の区別が、あなた方に偏った視点を与えてしまうのです。

 

例えば、赤ちゃんが生まれれば、人は「おめでとう」と言い、誰かが亡くなれば、みんなが「ご愁傷さま」と言いますね。それがもう当たり前になっている。でもこの区別は、あなた方に極端に偏った視点を与えています。スパゲティ状態になろうが何であろうが、延命させることが善いことで、死んだら人間はもう終わりなんだと。それが「生命」とは何かを、却って解らなくしています。

 

こうした視点は、現代人に共通の認識を育て上げ、「死」はただ忌むべきものであり、できるだけ遠ざけるものであり、なるたけ直視しないようにする、と多くの人が思うようになっています。ですから、親族の誰かが大病を患って入院をすると、多くの人が躊躇なくこう言っています。「先生に、全部お任せします!」 それは、いったい何をお任せするというのでしょうか?

 

一方、こういうこともあります。この例は前にも挙げましたが、朝起きて窓を開けたら雨降りだったと。それまでは晴天が続いていたのに、今日の遠足を心待ちにしていた人にとっては、それはひどくガッカリする出来事です。でも、ずっと雨が降らずに困っていた農家にとっては、それはまさに恵みの雨です。つまり同じ出来事でも、「視点」が変われば、「認識」も変わってしまうということです。

 

さて、いま挙げた二つの例にはどういう違いがあるのでしょう? それは、善悪に対する固着化の度合いが、だいぶ違うということです。生を尊び死を忌み嫌う。この固着化は、かなり強く今の人類に共通して起きています(古代はそうでもなかったのですが)。しかし晴れが善くて雨振りが悪い、という固着化の程度は、それよりもずっとゆるいです。このことから、何かが見えて来ませんか?

 

一つは、この前でも述べたように、「認識」は「視点」の持ち方によって変わるのであり、それは変えられるということです。生死の概念も、人類に普遍的なことのように思われるかもしれませんが、あの世を知っている者からすれば、実は真逆です。この世で言う死は「お帰りなさい。お疲れさまぁ」という祝福ですし、誕生は「ご愁傷さま」とまでは言わないにしても、「自分で決めたことなんだから、しっかり頑張ってね。では、行ってらっしゃい」という感じです。

 

二つめに、善悪に関する固着化した概念を、より多く持てば持つほど、また強く持てば持つほど、それは、その人の自由度を失わせ、苦しくさせるということです。ところが人間社会では、この「宇宙の常識」が通じないどころか、善悪概念の固着化を推奨し、あまつさえ賞賛する風潮すらあるのです。それが、信念であり、正義であり、倫理であり、道徳であり、法律です。

 

そして、それらから逸脱することは、誤りであり、罪であり、責められるべきものであり、罰せられるべきものであるという、これまた固着化した概念を、ほぼ共通のものとして創り上げているのです。これが、あなた方の中に「苦悩」というものを育てる、肥料たっぷりの土壌となっているのです。ですから、賢人たちは、古代よりみな共通のことを語って来たのです。それら一切を手放しなさいと。

 

これが人間には解らない。手放すということが、一体どういうことなのかが解らない。もし手放してしまったら、糸の切れた風船のようになるのではないかという恐怖心が顔をもたげる。その結果、ますます信念を強く抱きしめようとして、多くの人が、再び自分と「闘う」道に帰って行く‥‥。ああ、もったいない。せっかくのチャンスだったのに。

 

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よいかな、あなたが闘っている相手は自分自身なのだよ。そんなものは、本来、全く不必要なものなのだよ。

 

生きている以上、あなたは、様々な事件や事故や災難に直面する。その中には、「まさか!」と目を疑うようなものもあれば、あなたにとってネガティブな要素が多々含まれていることもよく解っている。そして時々「神も仏もあるもんか!」と悪態をついていることも知っている。それらが起きた瞬間、あなたは動揺し、何らかの感情を抱く。衝撃、落胆、悲嘆、憤怒、苛立ち、etc.。

 

これらは、起きた出来事の反作用で、感情の自然の発露だから、抑えようとしてはいけない。むしろ、存分に味わうのだよ。でもその感情も、早くて3時間、遅くとも3日のうちには減衰して行く。問題はその後だ。あなたは、たった今、自分の感情を大きく揺さぶった出来事に対して「解釈」を開始する。この時、スイッチが切り替わるのだよ。

 

自分が「解釈」を開始したことはすぐに判る。「感情」が「言葉」に置き換わるから。今のこの出来事は何を示しているのだろう? 警告なのか、それとも何かの学びなのか? この後、どっちへ進めばいいのだろうか? あの人は、どんな真意でそれを言ったのか? 相手は私をどう思っただろう? 私は誰かを傷つけなかっただろうか? 等々、人は次々に「言葉」を紡ぎ出して行く。

 

よいかな、そうして紡ぎ出した「言葉」は、全部あなたの「思い」なのだよ。それはもう、最初の事件とは関係がない。あなたが、新たに創出したエネルギーパターンなのだよ。最初の事件は、そのエネルギーパターンを生み出すための、ただの触媒として機能しただけ。あなたがする「体験」の、きっかけを与えたトリガー(引き金)に過ぎないのだよ。

 

解ったかな? これが「感情の二次災害」と呼んでいるもので、その災害は、あなたが創り出したものなのだよ。そして創り上げた瞬間から、あなたの内部でこれとの闘いが始まる。だから、そんなものは不必要だと言っているわけさ。ところが、この切り替えが起きたことが判らずに、自分が創造した「思い」を、いつまでも事件と関連づけて記憶してしまうものだから、ずっと苦しみがとれないのだよ。

 

ここで、もっと衝撃的な話をしてあげよう。その事件そのものも、実はあなたが創造したものなのだよ。あなたの「アジェンダ(課題)」に従って。と聞いても、おそらく納得がいかないだろう。そんな馬鹿なことがあるかと、中には怒りを覚える人もいるだろう。今は解らなくてもいい。だが、それが宇宙の常識なのだよ。

 

さて、「事件」が起こり、あなたは先ず「感情」を動かし、次いで「解釈」を始める。この一連の流れが、実はこれまで「体験」と呼んで来たものなのだ。最初の「感情」は、「事件」に対する純粋な反応。でも次の「解釈」に移った時、あなたは、自分というものの生き方を、新たに創造し始める。そしてこれが、中間世(あの世)に居た時に、自ら設定し、誕生して来た「アジェンダ(課題)」なのだよ。

 

どうかね、凄いだろう。一連の流れには全く無駄がなく、だからよく、総てが「完璧」と言われるのだよ。あなたは、自分の身の上に起こる総てのことを、実は自分で創造しているのさ。その創造の方向性については、完全な自由裁量権が与えられている。あなたが自分で意図せずに起こることは、実は何もないのだよ。よって、自分が創り出した状態の「犠牲者」になることなど、あり得ない!

 

これが解れば、出来事に対する身の処し方がみんな変わって来るだろうね。あなたは、身の上に起きた出来事に、先ず感情を揺さぶられる。それを充分に味わい尽くした後に、事件のありのままを静かに受け止める。そして、これを忘れる。これがコツだ。ネガティブな「解釈」などには決して進まない。そんなことをしても全く益がないと知りなさい。自分と「闘う」ことになるだけだから。

 

繰り返し言うよ。あなたの「視点」が、あなたの「認識(解釈)」を生み、あなたの「認識」があなたの「行動」生み、あなたの「行動」があなたの「体験」となり、「体験」の軌跡が「人生」となり、それがあなたのアイデンティティを決めるのだよ。いま書いたことを、何度も辿ってみなさい。このメカニズムに納得がいったかな? だとすれば、

 

どうかな? いつも朗らかで、穏やかで、オープンハートでいる人になりたくはないかな?

 

だったら、もう自分との闘いは止めるんだね。いつも言っているように、朗らかで、素直で、誠実に、今この瞬間を、ただ熱く生きれば、それだけで、あなたの理想が実現されるのだよ。なぜって、あなたの「思い」が、日々のあなたを創るのだから。

 

最後に、ここで一つ注意をしておこう。真面目な人は、自分を追い込む癖がどうしても抜けないようだね。わたしが言った言葉を、朗らかでなければいけない、素直でなければいけない、正直でなければいけない、誠実でなければいけない、親切でなければいけない、と「解釈」してしまう人がいる。でもそれをやったら、新たな倫理規程を自分の中に入れてしまうことになるよ。

 

もっと力を抜こうよ。社会で起きる不正や理不尽なことに、真面目なあなたは憤り、こうすべき、こうであるべきだ、と思うかも知れない。「もっとよい社会を創りたいんだ!」その「思い」はステキだよ。でも闘争にしてしまっては、結局、自分と「闘う」ことになってしまうし、自分では気づかずに、周囲にもその低いバイブレーションを撒き散らすことになってしまうのだよ。

 

闘争とは、自分の「思い」を〈通そう〉とする歪みなんだよ。

 

「ねばならない」は禁句だよ。NEVER ねばならない! ◯◯を脱する、◯◯を正す、◯◯を治す、といった<ネガティブ+否定語>の思考も止めることだね。それは◯◯部分を認めることになってしまうから。自分を責めたり、罪の意識を持ったりすることもよくない。要は、なんでもありだから、気楽に行こうぜ、ということ。

 

何かと「闘う」必要など、何もないのだよ。自分が楽しいと思うこと、楽しいと思って出来ること。それを、意欲を持って行えば、それでいいのさ。意欲さえあれば、他の人が「とても真似できない」ということですら、結果的には達成できるのだよ。それも楽しみながらね。そして、これこそが、次の社会革命につながることになるのだよ。

Q.人は「普通」じゃなければいけないの?

Q.職場で、上司から「あなたは、普通じゃない」と言われて、叱責されました。普通? 確かに、自分にはひとと変わった面があると思います。しかしそれは「個性」なのではないですか? 職場でそれを出すのは、いけないことなのでしょうか? そもそも「普通」とはどういうことなのでしょう? 人は「普通」でなければいけないのでしょうか?

 

A.その時の状況がどうで、どういう言われ方をしたのかが把握できませんので、あくまで一般論でしか語れません。しかし逆に、一般論で考えた方が、この問題の本質により迫れると思い、お返事を差し上げます。

 

「普通」という言葉は、普通(←ホラこんな風に)、曖昧に使っていますし、私もよく使います。大方の意味は、大多数の人々が合意している意識や行動のことを差しています。ご相談内容には、この「普通」概念の曖昧さと、そのような「普通」に対して、自分を合わせるべきか否かという課題の、両方が含まれています。

 

混乱が生じるのは、前者の曖昧さと、後者の課題とがゴッチャになってしまっているためです。早い話が、後者の課題に、前者の定義の曖昧さが被ってしまうのですね。ですから、先ずこれは分けて考えることが必要です。

 

私の近年の目標は、「普通のことが普通に出来るようになる」だったのですが、その意味は、毎日の掃除や洗濯をしたり、家の前の道を掃いたり、食事後にお茶碗を洗ったり、散歩時にゴミ拾いをしたり、高速道路を運転したりすることでした。自分には、そういう普通のことが(つまり何でもないことが)、普通に(この場合は、イヤだなぁと思わずに)することが、出来なかったのです。

 

この課題に意識して取り組むようになって、お陰さまで、だいぶ自分を変えることが出来ました。ひとによっては、「還暦過ぎて、馬鹿げた目標だなぁ」と思われるかも知れませんが、自分にとっては、それが「今を生きる」上での大きな課題でした。

 

結局、「行動」というものは、その人の今の「意識」の表現活動ですから、「行動」が目に見えて変わったということは、その人の「意識」が変わったというバロメータになっているわけです。我が家がゴミ屋敷だった頃は、私の心も、アラヤ識ならぬゴミヤ識でした。

 

さて、いま上げた「普通」は、私が勝手に「普通」だと思っている事柄に過ぎません。これに一般的とか、めずらしくない、といった定義を被せたとしたら、果たして「普通」であるかどうか? 掃除洗濯や食後の後片づけなどは、多くの人が苦もなく出来るでしょうが、まったく出来ないというかやらない人もいます。中には、「そんなものは女の仕事だ」と思っている男性だっている。

 

家の前の道を掃くというのは、京都では今も当たり前の習慣のようですが、東京ではもう見かけませんね。道路はゴミだらけです。散歩をするときには、出来るだけゴミを拾いながら歩いているのですが、拾っても拾っても、同じところにまたゴミが捨てられています。おそらく同じ人が捨てているのでしょう。その人にとっては、そうすることが「普通」なのですね。

 

このように「普通」の定義は、元来が、極めて曖昧模糊としたものです。けれども、月木は生ゴミを出す日だとか、赤信号になったら停止線でストップするといった、ほとんど総意とも言える「普通」も中にはある。これは、みんながそれを守った方が、社会生活が円滑に機能するということを、大多数の人が経験的に知っていて合意が形成されているからです。

 

では、次のようなケースはどうでしょうか? 義務教育を受けるために、小中学校へ通うことは「普通」だ。確かに、殆どの子どもたちが学校に行っていますし、大多数ということを基準に考えたら、それが「普通」ということになります。でもそうすると、行きたくない、行かない、という子どもは「普通」じゃないということにされてしまいます。それでよいのでしょうか?

 

事実、不登校の子どもを抱え、悩んでいる親御さんがたくさんいらっしゃいます。でも、「ロクでもない教師ばかりの、ロクでもない学校になど、行きたくない」と思っている子どもだっているのです。その子にとっては、世間的には「不登校」のレッテルが貼られていたとしても、実は「不登校」ではなく、「非登校」の意志を示した行動なのかも知れませんよ。

 

つまり「普通」など、定義が曖昧であるばかりでなく、見る立場によっても違って来るのです。このことは、相談者の事例のような職場でも言えることです。ある職場では、その仕事が、合理的また円滑に、かつ気持ちよく進められるよう手順やルールが設定されます。その中には、「月木は生ゴミの日」のようなものもあれば、そうでないグレーゾーンのものも含まれている可能性があります。

 

一時期、私はパチンコ店の清掃のアルバイトをしました。閉店後の11時から入って深夜に黙々と作業をします。5カ月ほど経った頃、私はウェスの手を滑らせて、陶製の灰皿を床に落とし割ってしまいました。ちょうど同時期にトイレの洗剤入れの破損(これは別の人のミス)などが重なったこともあって、数日後、清掃を請け負っている会社から役員がやって来ました。そして終礼の際に、「たかが灰皿だと思うなよ!」と言ったのです。

 

この価値観や「普通」概念は、私には合いませんでした。たかが灰皿です。アホくさ〜と思いました。それで、その後すぐにそこを辞めました。その会社の人々にとっては、アルバイトの怪我を心配するよりも、灰皿の破損の方が重大な問題なのです。その信念のためには、アルバイトのオッサンひとりを怒鳴りつけても一向に構わない。これが、彼らの「普通」です。

 

こういう「普通」に合わせる必要があるのでしょうか? ブラック企業、ブラック組織が掲げる「普通」に、「こうじゃなきゃいけないんだ」といちいち適応していたら、気がつかないうちに奴隷にさせられてしまうし、自分もブラックに染まってしまいます。ですから、会社や上司が言う「普通」に対しては、常に疑ってみる姿勢が大事です。

 

さてここからが、本質に迫る問い掛けです。「あなたは、普通じゃない」と言われた際に、そこにあなたの人格を否定するような、また侮蔑するようなニュアンスが含まれていたかどうかです。おそらく含まれていたのでしょう。ですから、あなたも反発心を持ったのでしょう。しかしうまく言い返せなかった。そこで、冒頭のような相談になったのでしょう。

 

あなたの中には、「普通じゃなくて、一体どこが悪い?」という思いがある反面、「普通」というスケールをほっぺたにギュッと押し当てられて、「あんたはね、規格外なんだよ」という評価を下されたことで、「えっ、そうなの?」という揺らぎもあるのです。その意味では、あなたは、相手が提示した土俵(スケール)の上に乗っかってしまったわけですね。そんなものは、無視してしまえばよかったのに‥‥。

 

あなたの本質が、個別化した「魂」であるということは、何度も語って来ましたね。そして、なぜ個別化したのかという理由も、最近のメッセージで示しました。そうです、個別の体験をするためです。いいですか、もう一度よく考えてみてください。「魂」が個別化した以上、「個性」が生じるのは当然なのですよ。このことは、誰も否定できません。

 

ところがこの時、みんなそれぞれに「個性」があることを、素晴らしいと思う人と、苦々しく思う人とがいるのです。通常はこの両方の意識を、ほとんどの人が同時に持っていて、中間を揺れ動いています。その典型例は、子を持つ親で、我が子の個性の芽生えを嬉しく思う反面、親の言うことをちっとも聞かないと言っては、始終グチをこぼしているではありませんか。

 

なぜ「個性」を苦々しく思うかと言えば、自分の思い通りにすることが難しいからです。周囲の人々を思い通りに動かしたい、自分の支配下に置きたい、コントロールしたい、と強く願う人にとっては、「個性」など、人間の目障りな資質です。これは、歪んだ「oneness」の願望とも言えるでしょう。結局この二律背反も、「融合 / 分離」という「魂」の根源的存在理由より発しているのです。

 

ところで、この相談者は、自分が「普通じゃない」と言われたことに傷ついているわけですが、実は逆の人の方がずっと多いんですよ。それは、「自分が特別ではない」という思いです。自分には特別な才能など何もない。周囲を唸らせるような光る個性がない。平凡だし、優れた点もないし、何をしていいかも分からない。そう悩んでいる人の方が、圧倒的に多いのです。

 

でもここで、この両極端で、ともに悩んでいる人たちに、ハッキリ宣言しておきます。「特別」でない人など、この世に誰ひとりいません。全員が Special なのですよ。あなたも、そしてあなたも。だからこそ、あなたという個別化した「魂」が、この宇宙に存在しているのです。そのように創られたのですよ、あなたは。先ずそのことに、全幅の信頼を置いてください。しかしここで、同時に、錯覚しないようにしなければいけません。

 

全員が「特別」な存在である。だが、そのことは少しも特別ではない

 

解りますか? 全員が「特別」な存在であるということが、宇宙では「普通」のことなのですよ。それは、自然を見ればすぐに解るはずです。山茶花は寒椿に勝ろうとしているのでしょうか? 寒椿は、山茶花よりも、俺の方がチト偉いんだぜと主張しているのでしょうか? どちらも、あらかじめその種子の中に織り込まれていた「自分」を、この物理世界でただ表現しているだけです。

 

そして、同じ寒椿どうしでも、また山茶花どうしでも、枝ぶりや花の付き方は1本1本ぜんぶ違う。いいですか、優があって、劣があるのじゃないのですよ。全員が Special な存在なのですよ。その Special の現れ方が、ちょっとずつ全員違うというだけです。

 

優劣のスケールなど、他者を支配したい人たちが持ち込んだ一つのツールに過ぎません。優劣を認めたら、たちまちにしてその奴隷にされてしまいます。このツールを、満遍なく信じ込まされたために、人類は、本来しなくてもいい苦労を、今なお際限なく続けているのです。でも、もうそろそろ目覚める時です。

 

全員が Special な存在としてある。ああ、それは、なんという圧倒的な愛なのでしょうか。このことを、今ここで、胸に深く刻み込んでください。その限りない愛を受け取ってください。いったい何者が、あなたという存在を創ったのでしょうか? あなたと、このあなたと、あのあなた。そこに差別や優劣があろうはずはありません。

 

全員が「特別」な存在である。しかしそのことは、何も特別ではない。これが、あなたの胸にしっかりと刻まれた時、人間関係に対するあなたの見方は、きっと一変するでしょう。これまでの悩みがまるで嘘のように氷解し、あなた自身が、全き愛の人に生まれ変わっているに違いありません。

 

友よ、そこにこそ、真実のあなたがいるのですよ。

高い波動に生きる

インターネット社会になって変わったなぁと思うのは、他者を誹謗中傷するハードルが著しく下がったこと。いつでもどこでも、スマホを使って、誰もが手軽に、無料で、見知らぬ人を、匿名で罵ることが可能という、実に便利な世の中になりました。こうしたツールを待ち望んでいた人々にとっては、まさに願ったり叶ったり。我が世の春の到来でしょう。

 

私がヤング(死語?)の頃は、新聞にも雑誌にも、一応「読者投稿欄」なるものがあったのですが、そこで採用されるのは物凄い難関でした。編集部の人が、何百、何千と来る投書の中から一つ二つを選ぶわけですから、当然ながら、的外れなものや、お粗末なもの、余りにもお下劣なものは、初期段階でオミットされていたわけです。

 

投稿する側も、切手代と手間がもったいないから、そんな箸にも棒にもかからないような投稿は、そもそもしませんでした。採用されるための知恵を絞って、技を磨くというか、互いに切磋琢磨するような雰囲気がありましたね。それがインターネット時代になって、一挙に、検閲なしの民主化が(別の言葉で、野放し状態とも言いますがね)達成されたのであります。やったぁ、バンザーイ!

 

と冗談はこれくらいにして、今の世の中が醸し出している、こうしたギスギスした雰囲気にウンザリしておられる方もきっと多いことでしょう。本当に疲れる社会ですよねぇ。これじゃあ、気が変にならない方が変です。

 

モラルハザード、倫理・道徳の欠如を指摘され、嘆く方もおられます。現象面だけを見れば、確かにそうなんでしょうけれども、倫理・道徳のタガを、また以前のように嵌めて何とかしようと思っても、今さらどうにもなりません。世の中の仕組みそのものが大きく変わってしまったんですから。それに、倫理・道徳などそもそも必要ないもの。本質はそこじゃないのです。

 

仕組みの変化の中で、今まで自己抑制できていたものが、大っぴらに外に飛び出した。まるでオモチャ箱をひっくり返したみたいに。そこに一切のタブーが無くなった。それは、倫理・道徳のタガを嵌めなければコントロールできないような性質を、人間がそもそも持っているということ。そして、技術がいくら進歩しようとも、その部分に関しての進歩はあまりないということを示しています。

 

気に食わない奴はやっつけたい。癪に障る奴にはひとこと言ってやりたい。という思いは、誰しもが持っているものです。しかしそれを持っていても、またそういう思いを抱いたとしても、今まではそれを表現する方法が無かった。せいぜい夕陽に向かって「バカヤロー!」と叫ぶくらいが関の山だった。それがテクノロジーの進歩で、思ったら即、ワン、ツーでパッと反応して、誰も憚らなくなったということです。Like、Dislike ボタンなどその最たるもの。

 

ひと呼吸置くということがない。ある意味、感情の動きに忠実。でもそれは、モラルの欠如なのではなくて、「想像力」の欠如から来ているのです。こんなことを言ったら相手がどう思うだろうかとか、この言葉を使ったら相手の心を傷つけてしまうのではないかとか、今これを言ったら社会的にネガティブな影響を与えてしまうのではないか、といった「想像力」が、現代人には殆どない。

 

殆どないまま、大統領から、首相から、市長から、庶民まで、みんなワン、ツーパンチを反射的に繰り出している。そして貰った方も、すかさずワン、ツーパンチで応酬する。さらには、双方に味方して応援団旗を振る人間までもが加わり、場外乱闘戦が展開される。これが、今の社会をもの凄く不安定にさせ、ギスギスした雰囲気で空を覆いつくし、人々の心を蝕む原因になっているのです。

 

そのことに、人々は殆ど気づいていません。気づいていないからこそ、そんなことが平気で出来るのだとも言える。しかしその隠れた影響は、みなさんが考える以上に、みなさんの心身の奥深くにまで及んでいるのですよ。なぜなら、「思い」とは振動するエネルギー体であり、それ自体が Force(力)を有するものだからです。振動するエネルギーは、その「波」としての性質を、周辺のものにあまねく及ぼしているのです。

 

物理的世界に作用を及ぼせる力は、物理的な力ものだけだと思っているでしょう。でもそれは違う。行動の前には、それに先行して、必ず「こうしよう」という「思い」があります。類は友を呼ぶで、似通った「思い」が一箇所に集まった際には、そこに非常に大きなエネルギーが生じるのです。よく言う「革命のエネルギー」とはそれです。カール・ユングは、その見えない力を「集合的無意識」と呼びました。

 

宇宙のすべては、つまるところ、振動するエネルギーです。この振動するエネルギー(略して「波動」)は、超微細な波長を持つものから、超巨大な波長を持つものまでが、連続的な変化をしながら、この大宇宙が構成されているのです。地上に暮らす私たち人間が、五感によって知覚できるのは、そのうちの極く極く狭い帯域に過ぎません。

 

*振動するエネルギー:現代物理学では、それを「振動するひも(Super Strings)」と仮説・定義づけています。

 

例えば、あなたが使っているスマホ。こんな箱でどうして動画を見たりすることが出来るのかと言えば、眼に見えない電波が空中を飛び交い、それをスマホが受信しているからです。この電波は、五感では知覚できません。一方、紫外線は同じく眼で見ることは出来ませんが、日焼け現象によって皮膚は知覚していますし、赤外線も熱として知覚できる。放射能(線)も眼には見えませんが、細胞を破壊します。

 

このように、五感で知覚できるかできないかという境目にある波動もある。人間の「思い」というものも、実はこの境目に存在しています。五感では知覚できなくても、第六感で知覚できるし、みなさんも通常それを行っているのです。ただ、それについてのセオリーを習ったことがありませんし、第六感を強化する訓練もしていませんし、普段意識することなく生活しているのです。

 

*注:同じ帯域という意味ではなく、象徴的に「境目」にあるという意味。

 

しかしみなさんは、普段から、確実にそれを知覚しています。その証拠となる言葉が「なんとなく」です。「なんとなく」“何か”を感じた瞬間、あなたは、眼に見えない「想念」を知覚しています。知人の「想念」がテレパシーとして入って来たという経験をお持ちの方も、たくさんおられるでしょう。入って来た瞬間、「あら、そうねン」と分かる。なーんちゃって。

 

とにかく分かる。えっ、「私は分からない」ですって? それは、チャンネルを開いていないから。チューニングをそこにフォーカスしていないから。何かに集中している時には、周囲の物音が全く聞こえなくなっているでしょう? また、雑踏の中で、はぐれた家族を見つけようとした時には、あなたは聞き慣れた家族の声に一生懸命に耳を澄まそうとするでしょう? それと同じこと。

 

このようにして、あなたは、周囲に溢れる多様な「想念」というものを、特別意識することなく、常時受け取っているのです。さてその際に気をつけることは、精細ないわゆる高い波動を受け取った時には、心は晴れやかで、穏やかで、明るいものとなり、逆に粗野で低い波動を受け取った時には、心はザワザワとして落ち着かず、不安や怒りが胸の内に沸き起こって来るということです。

 

この違いは、実験してみればすぐに解ります。敏感な人は、すでにその違いに、体験的に気がついているはずです。

では何が、波動の「高い / 低い」を決めているのでしょうか?

それは、「融合」と「分離」という、背反した意識の程度差によるのです。

 

この「融合 / 分離」意識は、あなたという「魂」の成立に起因しています。あなたという「魂」は、宇宙の法則を経験するために、全体から別れて、個別化しました。これが前回書いた「孤独」の意味です。なぜそんなことをするかと言えば、全体の中に留まっている限りは「全体(=融合)」しか知覚できないからです。そのために、あえて個別化して、自分だけの体験をすることを望んだのです。

 

思春期を迎えて、どうしても家を出たくなったハイティーンに例えれば解りやすいでしょうか。こうして、あなたは自由を獲得します。この自由は、責任と同義語で、地上世界であなたがする経験は、確実にあなたに新しい意識の拡張をもたらします。この時、拡張の方向性には、大きく言って二方向があるのです。それが、「融合 / 分離」という二律背反です。

 

この二つの背反する意識は、もともと一つだった宇宙意識から、あなたという「魂」が個別化したことによって生じました。思春期を迎えて、あなたは家を出たい。自分なりの経験をしたい。でも経験すればするほど、我が家の有り難み、あのとき親から言われた一言の意味が身に沁みるというわけです。

 

ですから、この二つは互いに不可欠なものです。「融合」の世界だけでは、「融合」の有り難みが解らない。「分離」があるからこそ、「融合」の大切さが身に沁みて解るのです。

 

この二極化は、宇宙成立のまさに根本で、「陽 / 陰」として示されたり、「他者愛 / 自己愛」の区別として語られたり、一部の宗教においては「天使 / 悪魔」の対立、戦争として語られたりして来ました。しかしこれを、対立と捉えてはなりません。ましてや戦争の正当化に使うなどもっての外です。どちらもが有って、宇宙が成り立っているのです。宇宙を見れば自明のように、最終的には融和です。

 

さてこのようにして、地上にある全ての「魂」は、「融合」と「分離」という背反する意識の間をあっちにこっちにと揺れ動きながら、体験学習を進めて行きます。この時、「融合」を説くものは、あなたに高い波動を与えますが、逆に「分離」を説くものは、あなたに低い波動をもたらすのです。これによって、あなたの心はザラつき、不安になったり、怒りを抱いたり、攻撃的になったりします。

 

今の世界は、その「思い」が、際限なく膨らみ、四方八方に飛び交っている状態です。でもそれは、ハッピーなことでしょうか? あなたの本質が望んでいることでしょうか? 今これを読んで下さっている方は、「違う!」と力強く言ってくれることを確信しています。でも残念ながら、世の中の趨勢は、そうではありませんね。

 

国家の最高権力者は「対話より圧力」を説き「武器」をチラつかせて脅し、グローバル企業は自分たちだけの「利潤」を追求し、金融に携わる人は「投資とリターン」で煽り、官僚は「自己保身と出世」のために本分を忘れ、教育者は「優劣」を推奨し、マスコミは「虚偽報道と弱い者イジメ」を平気でする。これらは全部、「分離」意識を基にし、かつこれを賞賛するものです。

 

なぜ、「分離」意識を賞賛するのでしょうか?

 

第一には、それが正しいと信じているからです。彼らの固い「信念」です。第二には、その方が世間の耳目をより集めるからです。融和と安心を説いても、世間からは見向きもされません。闘争と不安の喚起が常に人々の注目を集めるのです。第三には、それらによって、自分自身が、「分離」意識の構造の上位に立てるからです。それは、正しいと信じる、自分の「信念」の実現に他なりません。

 

時間があれば、政治家や、政治評論家や、有識者と言われる人たちの言動を観察してみてください。多くの人が、自分の立ち位置(信念と派閥)を先ず決めた上で、それと対立する考えを持つ人やグループを、バカだチョンだと言ってこき下ろしています。そして、自分こそ、自分たちこそいちばん頭がいいのだと主張して憚らない。この行動原理は、宗教派閥とそっくり同じです。

 

そこには、社会や人々を「分離」意識の視点で眺めて、自分が上に立ちたいという、潜在意識の奥深くに刷り込まれた、強烈なエゴがあるのです。しかしハッキリ言っておきます。そのようにして頂点に立ったとしても、その「思い」は、必ずや自分自身を傷つけます。自分が蒔いた種は自分で刈る。それが「宇宙の法則」というものだから。その「思い」の、最大級の〈信者〉は自分自身だから。

 

それでもそうしたければ、続けるがよい。

 

悪代官がいなければ、時代劇も成り立たない。

 

結局のところ、彼らは命を張って、そういう役割を演じてくれているのです。その奉仕を無駄にしないようにしなければいけませんね。いま言った、彼らの言動の背後にあるものを見抜くのです。そして、安易に同調しないようにして、自分にとっての幸福は何か、また人類にとっての幸福は何か、地球にとっての幸福は何かを、自分自身に問い質すきっかけとしてください。

 

あなたの周囲は、低い波動を発するもので溢れ返っています。人間はもちろんのこと、人々が発する言葉や、表情、その映像、文章、メール、広告、エリア、スポット、物なども、みんな固有の波動を出しています。そこに興味を持って、スッと引き寄せられ、一瞬、我を忘れた時、あなたの波動は、そこで発しているものと瞬時に同調しています。

 

その時、それが低いものであった場合には、あなたの波動も一気に下がります。一度下げてしまった波動を再び高めるのは、下げる時よりもずっとずっと難しい。低い波動に同調するのは、自分の波動をただ下げるだけでいいのですが、高い波動に合わせるためには、自分の意識を、よりピュアで澄んだ状態に引き上げなくてはならないためです。

 

なぜならば、高い波動というものは、精緻で、精妙であるために、通常の意識状態ではなかなか知覚しにくいのです。ですから、いま説明したこの原理をよく理解して、日常生活での適応を心がけてください。よくよく考えれば、世の中に溢れ返った情報は、所詮どうでもいいことばかりだと気づくことでしょう。

 

いちばんいいのは、あなた自身が、いつも高い波動を出すことを心がけることです。心の中に微笑みを絶やさず、正直に、親切に、誠実に生きなさい。自分と他者を比べず、他者に為したことは自分に為したことと同じである、という「宇宙の法則」をつねに頭の隅に置いて人と接しなさい。そして、楽しく、前向きに、喜びを持ってできる表現活動に邁進しなさい。あなたは、できる!

 

そうすれば、低い波動は、近寄って来れなくなります。あなたが高い波動を出していれば、あなたの周囲には、自然と、同じような高い波動を持つ人たちが集まってきます。家族や職場などの固定した関係でも、だんだんと仲がほぐれていきます。そうすれば、周囲のみんなが、正直で、誠実で、親切な人たちばかりですから、あなたの毎日から、辛さがどんどん遠ざかっていきます。

 

よいですか? 先ず、あなたが変わるのですよ。不幸というのは、周囲の環境のせいなのではありません。あなたがそういうものを引き寄せているのです。それが解れば、幸福への第一歩が、今日から直ちに始まります。だから、心の中で、こう唱えてみてください。「ああ、自分は幸せだ。なんて幸せなんだろう」ほら、もう第一歩が始まったよ。

孤独を楽しむ

「孤独」と「独りぼっち」は違います。この二つを混同しないようにしましょう。辞書で「孤独」を引くと、〈独りぼっちでさびしいさま〉と出ていたりして、世間一般でも同じように捉えられていますが、この二つは、次元を異にするものです。この違いを、しっかり認識することが大切です。

 

「孤独」というのは、「孤として独立した存在」という意味であり、人間存在論の、根元的あり方を示したものです。それは単に「状態」を示した言葉であって「孤独」それ自体は善でも悪でもありません。また、根源的あり方ですから、誰もこれは否定できません。否定しようとしても無意味ですし、不可能です。よって、「孤独」から逃れるということは、人間には出来ません。

 

けれども、よ〜く考えてみてください。「孤独」であるからこそ、人間には「個性」というものが生じているのです。「孤として独立した存在」でなければ、「個性」は生じません。つまり「孤独」とは、「個性」を保証する条件なのです。なんて素晴らしいギフトだとは思いませんか。「孤独」な存在だからこそ、あなたは、「自分」という認識に立てるのですよ。

 

でもこれに「感」を付けて、「孤独感」ということになると意味は違ってくる。「孤独」は存在論ですが、「孤独感」は感情を示した言葉です。そこで、「独りぼっち」にちょっと近くなる。それでも両者は同じではありません。「孤独感」というのは、あくまで「孤独」な存在ということへの「感じ方」。その中には、「独りぼっち」という感情もあるかも知れませんが、それが決して全てではありません。

 

さて、「孤独感」と言ったときに、あなたはどのような情景を思い浮かべるでしょうか? 頭を垂れ、沈痛な表情で膝を抱えてうずくまっている人でしょうか? あるいは、気にかけてくれる人が誰もおらず、閉め切った部屋に一人さびしく暮らしている人でしょうか? 確かに、それらも「孤独感」の一断面です。そして、そのまま息を引き取ってしまうことを、世間では「孤独死」と呼ぶ!

 

でも、ちょっと待っていただきたい。このネーミングはすご〜〜〜く変です。「孤独」というのは、人間存在論における根元的あり方ですから、死ぬときは、全員が最期は「孤独死」です。たとえ心中したとしても、相手の死を、自分が死ぬことは出来ません。自分の死は、自分しか味わうことは出来ないのです。ですから、全員が「孤独死」します。これは疑いようのないセオリーです。

 

世間が「孤独死」という言葉に込めたものを、もしも、より適切に言うとしたら、それは「独りぼっち死」です。「孤独死」と「独りぼっち死」とはまるで違う。この区別はとても重要です。別に言葉遊びをしているわけではありません。「孤独」と「独りぼっち」とは全然違うもの、次元を異にするものなのです。

 

山の頂きに登って、雲間からパーッと朝日が昇る瞬間を見る。あるいは、夕凪の向こうに赤々と染まった夕陽がゆっくりと落ちるの見る。それらを前にじっと佇むシーンを想像してみてください。それを、たった一人で眺める時と、恋人と肩を並べて二人で眺める時と、気の合う仲間と大勢で眺める時とでは、そこで感じ取るものがみな違って来るのではありませんか?

 

心が迷いに迷った時、「ひとり旅」に出掛けるという人は多いです。でもなぜ「ひとり旅」なのでしょう? それは「孤独」と向き合いたいからです。「孤独」になりたくて人はそうする。あえて「孤独」になることを通じて、また「未知」のものに触れることを通じて、己の生き方を見つめ直したい。だから、人は節目節目で「ひとり旅」に出る。いや、人生そのものが、ずっと「ひとり旅」なのだ。

 

ムシャクシャした気分の時に、思わずこう言いたくはなりませんか? 「私のことは、ほっといてちょうだい!」。また、手のつけられないほど荒れた状態の人に対しては、みんなこう言うでしょう。「しばらく、そっとしておきましょうよ」。どちらも、「孤独」が、最高の「癒し」になることを知っているのです。

 

他の人の人生を、自分が代わって生きることは出来ないのです。このことが解れば、「孤独」に対する見方もきっと変わって来るはずです。じっくりと本を読む時、何かの思索に耽る時、好きな音楽を心の底から楽しむ時、絵を描いたり物を作ったり創作活動に打ち込む時、目標を設定してひたすら練習に励む時、人はみな「孤独」です。「孤独」としっかり向き合っている。

 

お解りですか? 「孤独」こそが、その人を、成長させるための入り口なのですよ。人は、「孤独」を通じて、その先にある、「実は孤独というものはない世界」を見るのです。ですから、孤独な画家、孤独な作家、孤独な音楽家、孤独なアスリート、孤独な科学者、孤独な経営者、孤独な冒険者は、みな壮大な「孤独というものはない世界」を表現して来たのです。

 

「孤独」とは、人間存在の根元的あり方です。ではなぜ人は「孤独」となったのでしょうか? それは「普遍的な生命(大霊)」を知るため。「普遍的な生命」を知るために、あえて「魂」は個別化した。これが、Singular Outflow of Universal Life、つまり「SOUL」です。あなたという「魂」は、あなたという「孤独」を通して、「全体」を経験する。その行動の軌跡が人生であり、誕生から人が死と呼ぶ瞬間までのたゆまぬ変化なのです。

 

もちろん「魂」に死はありません。「魂」に死があるということは、「普遍的な生命」に死があるということになってしまいますから。「死」という言葉こそ「死語」にしなければならない。ですから、旅はその後も続きます。あなたは、この世でいう誕生と死を通じて、行ったり来たりを続けながら、「全体」を知るための「ひとり旅」を永遠に続けていくのです。

 

「孤独」を怖れてはなりません。「孤独」を敵に回すのではなく味方につけるのです。「孤独」を避ける旅は、実りなき旅です。ご自分の「孤独」にしっかりと向き合い、「孤独感」をこの上なく楽しいものに変えなさい。幼い頃、自然とやっていた「一人遊び」の感覚を、再び思い出すのです。それが、今世での、あなたの飛躍的な成長を保証します。

 

「独りぼっち」というのは、群れていなければさびしいと思う感情です。そのような思いになることも、時にはあるでしょう。でも、いつもいつも「群れていなければさびしい」と思い、そのように行動していたとしたら、あなたは自分を見失い、ますます「独りぼっち」感を強めていくことになるでしょう。なぜなら、あなたが「何者」であるかは、あなたの行動が規定することだからです。

 

現代という社会は、「孤独」に向き合うことをなかなか許してくれません。それどころか、「孤独」であることをまるで「悪」であるかのように決めつけます。いつも誰かと繋がり、群れている状態が推奨され、「支援」と称して、これをサポートするツールやプログラムやアプリやロボットが山ほど登場しています。これらに頼り切りになることによって、逆に、現代人はアイデンティティ・クライシスに陥っている。

 

体験とは何でしょうか? 自己の行動に対する反作用です。解りやすく言えば、行動=体験です。その行動が、いつもいつも何かのサポートを通じてしか得られないとなれば、そこで得る体験は次第に画一化してい ってしまいます。それでは、せっかく「孤独」に生まれた甲斐がありません。巨大システムに呑み込まれて、洗脳されて、奴隷にされて、ロボットになるだけです。

 

だから、現代人よ。もっと「孤独」になりなさい。「孤独」を見つめなさい。自分の「孤独」を誇りなさい。そして「孤独」を楽しみなさい。「孤独」を楽しめる人は、他者との出会いや、仲間といられる瞬間に、ますます大きな喜びや感謝が持てるようになるでしょう。なぜなら、その奥に、「実は孤独というものはない世界」を見出すから。あなたもそれを目指して、今日一日を、元気で、楽しく過ごしてください。

 

いつも、あなたとともに、わたしはある。

1月1日のミステイクについて

この原稿は、4月8日に書いております。

本年1月1日のブログ更新をミステイクしました。前日の12月31日に原稿を作っていたのですが、「もう辞めたい」という思いが強く沸き出し、混乱した意識状態のままに原稿をアップしてしまいました。数日してから削除したのですが、その混乱の理由が後になって解りました。

 

12月31日の正に丁度その日に、ある方が、私に向けて「辞めよう、辞めよう」という強い念を終日送っていたのです。なぜそれが分かったかと言いますと、その方から、1月1日にその主旨のメールを直接頂いたからです。それがあったことで、この方の「辞めよ」の念を拾ってしまい、混乱を来したことが解りました。

 

アクセスはミスしてしまいましたが、この経験は、私にとって逆に自信を深めることになりました。なぜかと言いますと、霊界通信が確実に行われているという確証を抱くことが出来ただけではなく、波動の高低の違いによる影響というものも感覚的に掴む経験が出来たからです。また、「ただただ奉仕に生きよう」という自分の決意がいっそう固まりました。

 

ということで、「一見悪いように見えることもよいこと」「全てはタイミングであり、ご計画のうちにある」を、またしても身を以て体験する結果となりました。この経験をもとに、これからも精進して行きたいと思います。どうぞ、よろしくお付き合いのほど、お願いいたします。