なぜこのような目に遭うのだろう。どうして思うようにいかないのだろう。
深い苦悩に、今まさに落ち込んでいる人たちに、言ってあげたいです。
自分と「闘う」のを止めれば、楽になるよと。
えっ、闘う? 自分と?
そう言われても、何のことやら解らないでしょう。
そう、まさにその解らなさ、見えなさこそが、苦悩の正体なのです。
苦悩の種は尽きません。子どものこと、親のこと、夫婦のこと。職場における人間関係。愛する人への思い。学業成績。仕事の進み具合とその評価。お金の無いこと、借金があること。容姿や体型コンプレックス。体調不良に病気。将来不安や鬱、独りぼっち感。突如身に降り掛かった事故や災難。生きるということは、まこと、苦悩の種と同居し続けているようなものです。
でもそれは、「種」なのですよ。全部が「苦悩」に育つわけじゃない。水を与えなければ、「種」は育たない。同じ「種」に遭遇したとしても、立派に「苦悩」に育て上げる人もいれば、ほったらかしにして枯らしてしまう人もいるのです。よく、「次から次へと苦悩が自分を襲う」と仰る方がおられるのですが、その人は、ほったらかしになど出来ない性分なのですね。
生きるということは、日々体験をするということです。ですから、体験を怖がっていては「よく生きる」ことは出来ません。そして体験をする以上、予期せぬ事件、事故、災難が起きるということは、もう当たり前なのです。問題は、あなた方人間が、体験の内容を「善いこと、悪いこと」に線引きし、区別してしまうこと。この善悪の区別が、あなた方に偏った視点を与えてしまうのです。
例えば、赤ちゃんが生まれれば、人は「おめでとう」と言い、誰かが亡くなれば、みんなが「ご愁傷さま」と言いますね。それがもう当たり前になっている。でもこの区別は、あなた方に極端に偏った視点を与えています。スパゲティ状態になろうが何であろうが、延命させることが善いことで、死んだら人間はもう終わりなんだと。それが「生命」とは何かを、却って解らなくしています。
こうした視点は、現代人に共通の認識を育て上げ、「死」はただ忌むべきものであり、できるだけ遠ざけるものであり、なるたけ直視しないようにする、と多くの人が思うようになっています。ですから、親族の誰かが大病を患って入院をすると、多くの人が躊躇なくこう言っています。「先生に、全部お任せします!」 それは、いったい何をお任せするというのでしょうか?
一方、こういうこともあります。この例は前にも挙げましたが、朝起きて窓を開けたら雨降りだったと。それまでは晴天が続いていたのに、今日の遠足を心待ちにしていた人にとっては、それはひどくガッカリする出来事です。でも、ずっと雨が降らずに困っていた農家にとっては、それはまさに恵みの雨です。つまり同じ出来事でも、「視点」が変われば、「認識」も変わってしまうということです。
さて、いま挙げた二つの例にはどういう違いがあるのでしょう? それは、善悪に対する固着化の度合いが、だいぶ違うということです。生を尊び死を忌み嫌う。この固着化は、かなり強く今の人類に共通して起きています(古代はそうでもなかったのですが)。しかし晴れが善くて雨振りが悪い、という固着化の程度は、それよりもずっとゆるいです。このことから、何かが見えて来ませんか?
一つは、この前でも述べたように、「認識」は「視点」の持ち方によって変わるのであり、それは変えられるということです。生死の概念も、人類に普遍的なことのように思われるかもしれませんが、あの世を知っている者からすれば、実は真逆です。この世で言う死は「お帰りなさい。お疲れさまぁ」という祝福ですし、誕生は「ご愁傷さま」とまでは言わないにしても、「自分で決めたことなんだから、しっかり頑張ってね。では、行ってらっしゃい」という感じです。
二つめに、善悪に関する固着化した概念を、より多く持てば持つほど、また強く持てば持つほど、それは、その人の自由度を失わせ、苦しくさせるということです。ところが人間社会では、この「宇宙の常識」が通じないどころか、善悪概念の固着化を推奨し、あまつさえ賞賛する風潮すらあるのです。それが、信念であり、正義であり、倫理であり、道徳であり、法律です。
そして、それらから逸脱することは、誤りであり、罪であり、責められるべきものであり、罰せられるべきものであるという、これまた固着化した概念を、ほぼ共通のものとして創り上げているのです。これが、あなた方の中に「苦悩」というものを育てる、肥料たっぷりの土壌となっているのです。ですから、賢人たちは、古代よりみな共通のことを語って来たのです。それら一切を手放しなさいと。
これが人間には解らない。手放すということが、一体どういうことなのかが解らない。もし手放してしまったら、糸の切れた風船のようになるのではないかという恐怖心が顔をもたげる。その結果、ますます信念を強く抱きしめようとして、多くの人が、再び自分と「闘う」道に帰って行く‥‥。ああ、もったいない。せっかくのチャンスだったのに。
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よいかな、あなたが闘っている相手は自分自身なのだよ。そんなものは、本来、全く不必要なものなのだよ。
生きている以上、あなたは、様々な事件や事故や災難に直面する。その中には、「まさか!」と目を疑うようなものもあれば、あなたにとってネガティブな要素が多々含まれていることもよく解っている。そして時々「神も仏もあるもんか!」と悪態をついていることも知っている。それらが起きた瞬間、あなたは動揺し、何らかの感情を抱く。衝撃、落胆、悲嘆、憤怒、苛立ち、etc.。
これらは、起きた出来事の反作用で、感情の自然の発露だから、抑えようとしてはいけない。むしろ、存分に味わうのだよ。でもその感情も、早くて3時間、遅くとも3日のうちには減衰して行く。問題はその後だ。あなたは、たった今、自分の感情を大きく揺さぶった出来事に対して「解釈」を開始する。この時、スイッチが切り替わるのだよ。
自分が「解釈」を開始したことはすぐに判る。「感情」が「言葉」に置き換わるから。今のこの出来事は何を示しているのだろう? 警告なのか、それとも何かの学びなのか? この後、どっちへ進めばいいのだろうか? あの人は、どんな真意でそれを言ったのか? 相手は私をどう思っただろう? 私は誰かを傷つけなかっただろうか? 等々、人は次々に「言葉」を紡ぎ出して行く。
よいかな、そうして紡ぎ出した「言葉」は、全部あなたの「思い」なのだよ。それはもう、最初の事件とは関係がない。あなたが、新たに創出したエネルギーパターンなのだよ。最初の事件は、そのエネルギーパターンを生み出すための、ただの触媒として機能しただけ。あなたがする「体験」の、きっかけを与えたトリガー(引き金)に過ぎないのだよ。
解ったかな? これが「感情の二次災害」と呼んでいるもので、その災害は、あなたが創り出したものなのだよ。そして創り上げた瞬間から、あなたの内部でこれとの闘いが始まる。だから、そんなものは不必要だと言っているわけさ。ところが、この切り替えが起きたことが判らずに、自分が創造した「思い」を、いつまでも事件と関連づけて記憶してしまうものだから、ずっと苦しみがとれないのだよ。
ここで、もっと衝撃的な話をしてあげよう。その事件そのものも、実はあなたが創造したものなのだよ。あなたの「アジェンダ(課題)」に従って。と聞いても、おそらく納得がいかないだろう。そんな馬鹿なことがあるかと、中には怒りを覚える人もいるだろう。今は解らなくてもいい。だが、それが宇宙の常識なのだよ。
さて、「事件」が起こり、あなたは先ず「感情」を動かし、次いで「解釈」を始める。この一連の流れが、実はこれまで「体験」と呼んで来たものなのだ。最初の「感情」は、「事件」に対する純粋な反応。でも次の「解釈」に移った時、あなたは、自分というものの生き方を、新たに創造し始める。そしてこれが、中間世(あの世)に居た時に、自ら設定し、誕生して来た「アジェンダ(課題)」なのだよ。
どうかね、凄いだろう。一連の流れには全く無駄がなく、だからよく、総てが「完璧」と言われるのだよ。あなたは、自分の身の上に起こる総てのことを、実は自分で創造しているのさ。その創造の方向性については、完全な自由裁量権が与えられている。あなたが自分で意図せずに起こることは、実は何もないのだよ。よって、自分が創り出した状態の「犠牲者」になることなど、あり得ない!
これが解れば、出来事に対する身の処し方がみんな変わって来るだろうね。あなたは、身の上に起きた出来事に、先ず感情を揺さぶられる。それを充分に味わい尽くした後に、事件のありのままを静かに受け止める。そして、これを忘れる。これがコツだ。ネガティブな「解釈」などには決して進まない。そんなことをしても全く益がないと知りなさい。自分と「闘う」ことになるだけだから。
繰り返し言うよ。あなたの「視点」が、あなたの「認識(解釈)」を生み、あなたの「認識」があなたの「行動」生み、あなたの「行動」があなたの「体験」となり、「体験」の軌跡が「人生」となり、それがあなたのアイデンティティを決めるのだよ。いま書いたことを、何度も辿ってみなさい。このメカニズムに納得がいったかな? だとすれば、
どうかな? いつも朗らかで、穏やかで、オープンハートでいる人になりたくはないかな?
だったら、もう自分との闘いは止めるんだね。いつも言っているように、朗らかで、素直で、誠実に、今この瞬間を、ただ熱く生きれば、それだけで、あなたの理想が実現されるのだよ。なぜって、あなたの「思い」が、日々のあなたを創るのだから。
最後に、ここで一つ注意をしておこう。真面目な人は、自分を追い込む癖がどうしても抜けないようだね。わたしが言った言葉を、朗らかでなければいけない、素直でなければいけない、正直でなければいけない、誠実でなければいけない、親切でなければいけない、と「解釈」してしまう人がいる。でもそれをやったら、新たな倫理規程を自分の中に入れてしまうことになるよ。
もっと力を抜こうよ。社会で起きる不正や理不尽なことに、真面目なあなたは憤り、こうすべき、こうであるべきだ、と思うかも知れない。「もっとよい社会を創りたいんだ!」その「思い」はステキだよ。でも闘争にしてしまっては、結局、自分と「闘う」ことになってしまうし、自分では気づかずに、周囲にもその低いバイブレーションを撒き散らすことになってしまうのだよ。
闘争とは、自分の「思い」を〈通そう〉とする歪みなんだよ。
「ねばならない」は禁句だよ。NEVER ねばならない! ◯◯を脱する、◯◯を正す、◯◯を治す、といった<ネガティブ+否定語>の思考も止めることだね。それは◯◯部分を認めることになってしまうから。自分を責めたり、罪の意識を持ったりすることもよくない。要は、なんでもありだから、気楽に行こうぜ、ということ。
何かと「闘う」必要など、何もないのだよ。自分が楽しいと思うこと、楽しいと思って出来ること。それを、意欲を持って行えば、それでいいのさ。意欲さえあれば、他の人が「とても真似できない」ということですら、結果的には達成できるのだよ。それも楽しみながらね。そして、これこそが、次の社会革命につながることになるのだよ。