by Rainbow School
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本物に出逢う

私が生まれたのは昭和29年。家には、テレビも洗濯機も電気炊飯器も、まだ何にもない時代でした。電化製品としてあったのは、ラジオと、天井からぶら下がった裸電球だけ。うちは母親が洋裁店を細々とやっていたのですが、アイロンもホースが付いたガスアイロン。ボディ横の小窓にマッチを突っ込んで点火するのですが、ボッと着火する瞬間が恐かった。冬の暖房ときた日には、火鉢と練炭炬燵だけ。それはそれは寒かった。

 

まあ『三丁目の夕日』のような感じでしょうかねぇ。クルマはオート三輪が走り始めたばかりで、鉄道は蒸気機関車が全盛。スーパーはまだ登場していないし、もちろんコンビニなんてない。自動販売機もあるわけない。飲食店はほとんどが個人経営の家業(「暖簾分け」というのが少しあったけど、いわゆるチェーン店は一つもなし)。当然ながら、パソコンもないし、スマホもない。

 

とにかく、なーーーんにもない! でも「本物」があった。本物の素材、本物の技、本物の味、本物の職人、本物の人情、etc.。‥‥と書いてしまうと、「昔は良かったなぁ」という感傷のように聞こえるかも知れないけれど、自分にはそれはありません。やはり今の方が格段に過ごしやすくなっているし、パソコンとインターネットがあるおかげで、こんなことも出来ているし。

 

ただね、「おーい、本物はどこへ行っちまったんだよーォ」と、三丁目の夕日に向かって叫びたくなるんだよね。その最たるものが食べ物。今じゃ、外食というものを殆どしなくなりました。どこへ行ってもチェーン店ばかり。あー、つまらない。都心へちょいと出掛ける用事があって、目的地付近の飲食店をネット検索してみるのですが、上位に並ぶのはみーんなチェーン店。「これじゃ、検索の意味ねぇじゃん」と思ってガッカリ。

 

それで、自分で食事を作るのだけれど、スーパーにお頭つきの魚がもうない! あるのは、パックに入った切り身ばっかし。魚は頭が美味しいのにねぇ。ある日イカを探していたら、全部筒切りになって売っていたのにはびっくり。味噌だって醤油だって「だし」ってものが入っているし、その「だし」と称するものだって、正体が何かは不明。自分でとった「だし」は3日で腐るのに「だし」入り調味料がいつまでも腐らないのはどうしてなの?

 

ということで、自分で料理をすることも年々難しくなってきました。いったいこの先、何を食べればいいのでしょうねぇ? 私に餓死しろということか(とチト大袈裟)。自分の年代が、たぶん「本物」を知っているギリギリでしょう。だから、今の50代以下の大多数は「ニセモノ」しか知らない、「ニセモノ」をスタンダードだと思わされて、育ってきたのじゃないかな?

 

イボ胡瓜のとげとげの痛さと、付け根部分の苦味。いつまでも舌に残り続けるほうれん草のえぐ味。食べる者を拒絶するかのような人参の強烈な香り。煎茶の渋みに、焙じ茶の香ばしさ。顔をしかめるほどに酸っぱい夏みかん。魚肉ソーセージの中の白い脂肪の塊。羽釜のお焦げが発する食欲をそそる匂い。いったいどれほどの人が、それらを覚えているでしょう?

 

でも、そうしてしまったのは、みんなその前の世代の「思想」と「行動」が原因です。「本物」の素材よりは合成品や「◯◯風」、だしよりは化学調味料、職人よりはロボット、技よりはコンピュータプログラム、手間ヒマ掛けるよりは早く安く、人情よりはマニュアル接客の方がずっと効率的でいい、と考える大勢の大人たちが、今の「ニセモノ」氾濫の文化を創り上げちゃった。

 

でもそれで、いったい誰が得をしているのかな? 「本物」に触れた経験がないから、「本物」と「ニセモノ」の区別がつかない。そのために、「本物」だけが持つ表情や奥深い文化というものを理解できない。理解出来ないから「本物」を創れる人が育たない。「本物」を創れる仕事がないから、生活に充実感もない。育てる必要などないという考えだから、低廉で単純なマニュアル労働の奴隷としてみなコキ使われてしまう。

 

それで、いったい誰が得をしているのかな? 労働者は同時に消費者でもあるのに。これじゃ、消費が萎縮するのは当たり前だよ。デフレ脱却なんて、そもそも無理。だって、お財布に遣えるお金がないんだから。生きていくだけでギリギリという人が多いんだから。かくいう私も、年金とアルバイトで月収9万4千円。ま、新しい服などいらないし、今さらモテようとも思わないから、ビンボーであっても困窮はしていないけど。

 

今や、失われた20年が25年になり、30年に迫ろうとしている中で、その間に人々が学習したのは、「もう、高い物は買わなくていい」ということだと思う。我々の年代は、前の「好況」の時代を知っているけれど、40代以下は「不況」しか知らないんだよね。だからこの先、たとえ労働者賃金が上昇したとしても、バブル景気の頃のような消費形態にはもう戻らないと思う。あまりに長きに渡る「不況」を経験して、人々は、経済の裏を、すっかり学習したと思う。

 

高級ブランド品製造の舞台裏のことも。コモディティ(生活必需品)はここまで安く出来るんだということも。グローバリズムで全世界の消費が平準化してしまったことも。その裏には、奴隷にされている労働者がたくさんいるということも。その陰で、一部の投資家だけが莫大な富を手中にし、隠し財産を蓄えていることも。そしてそれらを、嘘つきの政治家や、政府や、銀行や、マスコミが結託して推し進めているということも。

 

もちろん、全員が「解った」というわけじゃない。今も変わらず、前の世代が作った物差しから、もしも外れてしまったら「自分はどうなっちゃうのだろう」と不安に思っている人は多い。それで、お隣の韓国のように、ごく少数の指定席を求めて必死になるという人もいるでしょう。でも大学を出たとしても、ロクな働き口がないということも、多くの若者は学習してしまいました。

 

そんな中で、最近、時代が変わりつつあるなと思うのは、30代、20代の若い人たちの中に、「本物」にスッと近づこうとする人たちが出て来ているということ。彼ら彼女らは、それまでの歴史的経緯をほとんど知らない。だからこそ、逆に、今の世に特別プロテスト(protest、反抗する)するという意識もなく、スッと「本物」に近寄れてしまうのかも知れないです。それはまるで、光を求めて吸い寄せられる虫たちのように。

 

だとすれば、それは凄いことだと思う。ゴチャゴチャ言わずに、「好きだからやる」「自分がやりたいことをやる」「世の中にいま必要とされていることに貢献していくんだ」と、感覚的にかつシンプルに想い、行動できる若者の登場は、世の中に、本当に革命をもたらすものになるかも知れない。若い頃の自分が、到底持ち得なかった勇気を、これらの人たちは既に持っているのだから。

 

今までなら、「そんなことを言っても現実は甘くはないよ」とか、「お金がなかったら生活できないのよ」とか、「いつまでもそんな夢みたいなことは通用しないよ」とかと言っては、前の世代は、いつも若者の夢を潰して来ました。そして、世間のレールに従わせようとして来ました。その際の常套句は、「あなたの将来を思って」だったけれど、それは、勇気を行使しなかった者の、勇気ある者への嫉妬だったのではなかろうか?

 

しかし現代の若者は、みな個室を持ち、有り余る物に囲まれて育ち、飢えることもなく、少子化によって家も余る時代に生きている。だから、そんな古典的脅しはもう通用しなくなっていると思う。(もちろん、それとは裏腹に貧困世帯が増加しているという現実もある。だからこそ、格差の問題は深刻ですが)しかも、そんな脅しに乗っても、ブラック企業のドレイになってしまうかも知れないということもバレている。

 

そういう中で、自分の直感に従って素直に行動する人たちが出現し始めているというのは、表に見えない部分での感覚的変化が、今まさに進行しつつあるのだと思う。権力のためなら、出世のためなら、お金のためなら、見え透いた嘘を平気でつき、それを恥だとも思わず、自分に反抗する者は計略によって陥れ、恐怖を煽っては人々を騙し、自分は接待ゴルフに興じる、醜い先人たちの姿にも大いに学習したことだと思う。

 

このような価値観を未だに抱いている大人たちは、醜いだけでなく古い。あまりにも古過ぎる。時代感覚が無さ過ぎだし、何より自分を変えようとする勇気がない。口では「圧力」とか「攻撃」とか威勢のいいことを言っていたとしても、内実はすこぶる付きの小心者だ。いや昇進者か。はたまた傷心者なのか。もし権力を失ったら、出世から取り残されたら、収入の道を奪われたら、自分はない。そう考える、あなたとは一体何者なのだ。

 

それらが全部なくなって、素っ裸になった時こそが、あなたではないのか? この世に誕生した時には、素っ裸だったではないか。素っ裸ではあったが、あなたはあなた以外ではあり得なかったではないか。その後あなたは成長した。肉体も、思考も、感情も、すべてが変化し続けて来た。それでもなお、あなたは、自分がまぎれもなく、継続し続けている、同一の個体であると考えているはずだ。

 

それはなぜだろうね。「あなた」を継続させているものは、はたして何か?

 

よ〜く考えてごらん。それが真のあなた、本物のあなたなのだよ。解るかい? そして、それは永遠の生命なのだよ。『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画を観るといい。アッシジのフランチェスコは、民衆の前で、豪華な刺繍のついたコートを脱ぎ、文字通り素っ裸になる。それは、誕生以来に身につけたもの全てが「幻想」だという強烈なメッセージなんだよ。そして、自分は、「本物」の自分を生きるという決意を、そのことで示したんだね。

 

だから、あなたにも、「本物」の自分を生きて欲しいのだよ。「本物」の自分を生きれば、世の中の「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになり、「本物」に近づきたいと思うようになる。そして「本物」に近づけば、「本物」だけが持つ素晴らしさに気づき、自分の喜びを発見できるようになるから。そのために、どうか勇気を持って、生きていって欲しい。

 

なあに、勇気と言ったって、それほど大したことじゃない。

自分の直感に、素直になるだけのことだから。

Q.摂食障害(過食嘔吐)との付き合い方について

Q.現在30歳。一人暮らしを始めた18歳の頃から、過食嘔吐を毎日繰り返すようになり、今に至るまで続いています。思えば、幼少時から小太りな体型をからかわれることが多く、自分の体型にコンプレックスを抱いていました。そのため、とにかく痩せたいとの思いが強く、小学生の頃にはすでにダイエットを色々と試していました。

 

そのような時に、『気づきの啓示板』のバックナンバーを読み、過食は心の問題、愛への渇望感が原因と指摘されていることを知りました。頷ける部分もあり、今は、自分なりに愛を乞う側から、愛を与える側になろうと意識転換を図っているところです。過食嘔吐に対するお考えや、この先の改善に向けた心の在り方など、ご教授頂ければ幸いです。

 

*質問者からは、もっと詳しい経緯等もお聞きしていますが、差し支えない範囲で、質問内容を整理させていただきました。今回のご相談は「摂食障害」に関するものでしたが、回答は「心」のトラブル全般について言えるものになっています。文中にもありますが、「摂食障害」というのは、「心」のトラブル全般の、顕れ方の一つなのです。ですから、別の顕れ方で悩まれている方も、そのように置き換えて読んでいただければ、きっと役立つヒントが得られると思います。

 

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A.先ず、あなたが、ご自分がいま置かれている状況の背後には、霊的な課題があると考えていらっしゃることに対して、敬意を払い、感謝申し上げます。そうでなければ、上記のテーマについて、わざわざこの『気づきの啓示板』に、質問をお寄せいただくことはなかったでしょうから。

 

霊的な課題。確かにその通りなのです。しかしそれは、過去世がどうとか、何かに取り憑かれているといったオカルティックな話ではありません。あなたとは何か、あなたが生きるとはどういうことか、といった本質的な問い掛けがそこに含まれているのです。あなたは、「摂食障害」という体験の機会を得たことによって、今、その扉を開けたのです。ですから、いつも言うように、そのギフトに感謝してください。私も、あなたが下さったギフトに感謝します。

 

「心」のトラブルの原因はその奥にある

あなた方、人間は、ご自分がどういう存在であるかということを、よく解っていません。たとえ専門家と称する人であっても(例えば、医者、心理学者、哲学者、宗教家、カウンセラー等)、非常に限定的なところでしか人間というものを捉えていないのです。人間は、多次元的存在であるということを、多くの人は知りません。中には気づいている人もいるのですが、大勢の声に掻き消されてしまっているというのが現状です。

 

多次元的存在とは、(解りやすい言い方と範囲で言えば)あなた方が「魂」と「心」と「身体」が合わさった存在だということです。この3つは(地上界においては)互いに密接に関連し合っているのですが、そのように捉えている人は、まず殆どおりません。現代の主流的な考えは、「脳」が「心」と「身体」を支配しているのであり、「魂」の存在などは認めない、という立場に立っています。

 

そのため、「心」のトラブルを、物質的器官である「脳」の機能障害と捉え、これを薬(という同じく物質)によって治療しようという試みがなされています。しかし、よく考えてみてください。「心」は物質でしょうか? 物質ではない「心」を、物質によって果たして治療できるものなのでしょうか? ここには、本末転倒があります。解決策としては、本質からあまりにも遠すぎます。

 

そうではなく、「心」のトラブルなのだから、「心」に直にアプローチしようという考えも当然ながらあります。カウンセリングや自助グループなどの試みです。薬物治療よりは、これで本丸にグッと近寄りました。しかしそれとても、効果が上がっているとはとても思えません。なぜなのでしょうか? この視点では、「心」のトラブルは「心」に問題があると捉えています。ですが、そうではないのです。

 

その奥に、もう一段階ある。いかにも問題を起こしているように見えている「心」は、実は「原因」ではなくて「結果」なのです。

どんな問題も、問題を起こしているその根本原因を突き止めて、これに向けて対処しなければ解決はしません。今回は、その視点を提供しています。

 

あなたが問題視しているものは、あなたの表現

「過食/嘔吐」を繰り返す型の摂食障害のメカニズムについては、たくさんの書物も出ておりますし、あなた自身も、既に分析されて解っていらっしゃると思います。簡単に言えば、心に満たされないものがあるので、その代替行為として、食べ物で満たそうとする衝動が生じるのです。しかし一方で、このまま「過食」を続けていては、健康に悪いとか、太って醜くなるという強迫観念もあり、そこで、食べた物を吐くということで、帳尻合わせをしようとしているのです。

 

ここで、先ず把握していただきたいのは、抑えきれない心の衝動というものが、あなたの奥底にある「今の満たされなさを、満たしたい」という叫びの、実は「代替行為」として生じているということです。解りやすく言えば、心がいつも空腹なので、とりあえずお腹をいっぱいにすることで、仮の満足を得ようとするのです。いわゆる中毒症(addiction)は、みなこうした手っ取り早い行為の中に生じています。

 

あなたの場合、それが「過食/嘔吐」という表現に出ているために、どうしてもそこに注目が行ってしまうとは思うのですが、真の問題はそこではないということです。それは、「表現行為」のバリエーションの一つであって、人によっては、〈買い物をし続ける〉とか、〈ビデオゲームにはまる〉とか、〈自分の身体を傷つける〉とか、〈刺激物や薬物の虜になる〉とか、色々な出方をして来るのです。

 

さて、それを聞いて、どう思われたでしょうか? 実にありふれたことだとは思いませんか? あなたは、今ご自分が「摂食障害」というところにフォーカスを絞っているために、そのことで頭の中がいっぱいになっていると思います。ですが、人間というものは、多かれ少なかれ、このような傾向をみな持っています。ただそれが、度を超して、普通の生活にすら支障が出て来たときに、世間では「◯◯障害」とか「◯◯病」といったレッテル貼りをしているのです。

 

ですから、そこで第一番めに気づいていただきたいことは、あなたが「◯◯障害」だと思っていることは、みな程度問題なのであって、あなたが「障害」のレッテルを貼らなければ、それは「障害」ではないということです。逆に言うと、あなたが「障害」にしてしまえば、何だって「障害」になり得る。例えば「猫舌障害」とか、「異性にモテない障害」とか、「前屈して手が床に届かない障害」とか。私などは、さしづめ「障害のデパート」でしょう。生涯が障害です。

 

現代人の不幸は、人間どうしの「ふれあい」がますます希薄になっていく一方で、膨大な「情報」だけが飛び交い、人々が、知らず知らずのうちに、これがスタンダードだという「情報」を「信じ込む」ようになってしまったことです。そこでは、人間には「◯◯障害」というものがあり、誰もがこれを発症している恐れがあり、それは治療すべきものであり、支援すべきものだ、という了解事項がすでに出来上がってしまいました。

 

しかし、それが何をもたらすかということを、この際に、よく考えていただきたいと思います。あなたが、「◯◯障害」についての知識を深めれば深めるほど、あなたの視点とレッテル貼りはますます強化されていきます。その陰で、そのトラブルを「市場化」したい人たち、「産業化」したい人たちにとっては、目論見通りの社会が実現していくのです。

 

百歩譲って、それが正しいことだとしましょう。ではなぜ、「◯◯障害」の人が減らないのでしょうか? なぜ、次から次へと、新しい「障害」が作り続けられているのでしょうか? 同様に、医療の高度化と言いながら、なぜ病気が減らないのでしょうか? なぜ、毎年々々、医療費が増え続けるのでしょうか?

 

話が横道に逸れたので戻します。第一の視点は、あなたが、ご自分を「障害」視しているからこそ、「障害」が発生しているということです。そしてこのことは、解決のための第一の視点であると同時に、実は究極的な回答をも示しているのです。ただ、そう言ってしまうと、現在、問題の渦中にある人にとっては空を突くような話なので、今は、ご自分の思い込みが、症状を悪化させてしまうことになる、ということを覚えてください。

 

しかしこの見解には、納得がいかない方もきっと大勢おられると思います。でも私も、パニック障害になりましたし、鬱病にもなりました。それは、確かに、具体的な不調が心身に現れていたのですが、いま考えると、やはり自分でそれを強化していたという点があったことは否めません。ですから、先ずはそこに気づくということが、こうした問題を手放すきっかけを与えてくれることになります。

 

意識化していない意識の働き

次に、いま起きている心身の実際の不調と、あなたが、自分ではあまり意識化していない意識、つまり潜在意識に畳み込まれた、心の飢え、渇きとの関係を見てみましょう。人間の身体というものは、非常に複雑な機構を持ったいわば化学工場であり、電子回路であり、動力機関でもあります。これらはすべて、特別に意識せずとも、普段は、潜在意識がその活動をコントロールしてくれています。

 

ところが、潜在意識には、顕在意識(自分が意識している意識)のもとでの経験も、蓄積されていくのです。その中に、強い不安や、怒りや、悲しみや、自己否定感などがあった場合には、潜在意識の自動コントロール機構(ホメオスタシス)がそれらのノイズによって狂わされてしまい、微少ホルモンの分泌や神経回路の正常な働きを阻害してしまうのです。

 

この結果、体調がなんとなくおかしいという感じになり、最初は「なにか変だな?」と思う程度だったものが、この情報が心にフィードバックされて、今度はしだいに心が塞ぐようになり、この塞いだ心がさらに体調を悪化させるということで、スパイラル状の下降が生じてしまうのです。ここでお気づきのように、「障害」という名の思い込みは、この下降局面にターボを掛けることになってしまいます。

 

では、どうしたらよいのでしょうか? これも、勘のいい方はすぐにお分りでしょう。そうです、ターボを逆向きに掛ければよいのです。自分はすこぶる健康だ。今日も清々しい。寝床があって、食べるものがあって、これ以上何が必要だろう。足りないものなんて何もない。私は私だし、宇宙は私という存在を認めている。だから私は生かされている。ああ、なんてハッピーなんだろう。

 

そう思い込めば、思い込めれば、心と身体とのフィードバックが、上昇方向に回転し始めることになります。つまり、スイッチを逆方向に入れ替えればよい。と、理屈は極めて簡単なことなのですが、ところがこれがなかなか出来ない。なぜ出来ないのか? それをトコトン突き詰めて考えてみれば、今の自分が、いかに幾重もの「とらわれ」に縛られているかに気づけるのではないでしょうか?

 

・元気ハツラツとしている自分の姿など、とても想像できない。

・自分の容姿や体型はお世辞にもいいとは言えないし、自分は劣っている。

・他の人と比べて、自分には特別な才能など何もない。

・自分には、経済力もなく、将来がまったく見えない。

・自分は、誰からも認められないし、誰からも愛された経験がない。

・生きている意味というものが、何も見出せない。

 

自己表現の転換をめざす

この不足感、未充足感、自己否定感の強い「とらわれ」が、すなわち、心の渇き、飢えなのですよ。解りますか? なぜなら、あなたの本質(魂)は、自分が「自由」であることを知っているから。「魂」は「私は自由だ!」って叫んでいるのに、それが檻の中に閉じ込められた状態にあるから。だから、あなたは叫ぶ。そして「私はこうよ!」と「表現」する。あまり誉められたものではない「表現」方法によって。

 

過食という行動に出たり、買い物をしまくったり、アルコールをガンガン飲んだり、パチンコにハマったりして。「ねえ、見て見て!」「ここに私がいるのよ!」って。「誰か、私を愛して」って。「こんな私を理解して」って。でもね、あなたを檻の中に閉じ込めているのは、いったい誰なんだってことに気がつかなくちゃいけないね。それは、あなた自身なんだよ。あなたが創った「とらわれ」なんだよ。

 

今まで、いろいろなことがあっただろう。辛い体験もしただろう。悔しい思いもしてきただろう。そのことはみんな知っているよ。理解者がいないって? 冗談じゃない。あなたは一人ぼっちじゃない。それどころか、一人ぼっちであったことなど、いまだかつて一度もない。そのことは、わたしがいちばんよく知っている。なぜなら、わたしがあなたを創ったのだから。

 

いいかい? 錯覚しちゃいけないよ。以前に、「人間とは、表現せずにはいられない存在だ」と書いたことがあるけれど、覚えている人はいるかな? 「表現」活動とは、地上で生きること、そのものなんだよ。花だって、虫だって、空だって「表現」しているじゃないか。つまり「表現」=あなたの「体験」だ。あなたは、どのみち「表現」せずにはいられない。だから、どんな「表現」をしているかが、あなたという存在を自己規定するのだよ。

 

それは、周囲が認めるとか認めないとかといったことじゃない。そんなものは関係ない。あなたが、今の自分を、どうしたいか、どうでありたいか、を決めるということなんだよ。だから、過食と嘔吐を繰り返す自分でありたいなら、それを続けたっていい。買い物をし続ける自分でありたいなら、そうしたっていい。アルコールや薬物に浸り切っている自分でありたいなら、それも止めはしない。

 

でも、もったいないとは思わないかい? どうせなら、他の「体験」、つまり「表現」をした方が、あなたの「魂」の成長につながるとは思わないかい? それに、わたしから見て不思議なのは、人間は、どうしてわざわざ自分を苦しめる体験をチョイスするのかということなんだ。人は、「魂」の世界を不思議だと言うけれど、人間の行動の方がよっぽどストレンジで不思議だよ。これこそ、宇宙で永遠に解けぬ謎! なんてね、冗談だよ。

 

さあ、もう解ったのではないかな? あなたは、自分で自分を拘束している「とらわれ」は何で、どこから生じているものなのかを、一度じっくりと内省して、炙り出してみるといい。繰り返しになるけれど、過食/嘔吐が「問題」なのではなく、それは「表現」なのだということ。そしてそれは、潜在意識の底にある「とらわれ」という真の問題の、リアクションだということ。

 

だから、この「とらわれ」を、ゆるし(ゆるすとは緩めるということ)、手放せばいいのだよ。あのとき誰かにああされた、こうされた。消えない傷、怒り、悲しみ、悔しさ。こうであらねばならない、こうあるべきという思い。不足感、未充足感、劣等感、自己卑下、自己否定。よくいうトラウマ。それらはみんな、あなたの「想い」でしかないのだよ。そして「想い」は、自由に選べるのだよ。

 

お勧めしたい具体的なアクション

ここで、あなたに、具体的なアクションをお勧めしよう。そう、まさにアクションであることがポイント。いつもいつもリアクションに終始していた、あなたの「表現」癖を、これからはアクションに変えるのだよ。あなたが、自分からアクションを仕掛けるんだ。これからは、自分の意思で、意識的に行動を選ぶ癖をつけなさい。それによって、今までの、まるで夢遊病者のような、潜在意識のリアクション癖に、ストップをかけるのだ。

 

同様に、ただ「手放せ」と言っても、今のあなたには難しいだろうね。だから、持つものを「持ち替える」ことを目指してごらん。うまく「持ち替え」られたら、前の「とらわれ」は、自動的に「手放して」いることになるから。そのために、自分がいつも「自由」であることを自覚し、これを表現しなさい。自分を解放し、「魂」の喜びの表現を見つけ出しなさい。誰にでも才能があります。そのように、あなたたちは創られたのだから。

 

ご自分をもっと信じなさい。喜びに生きなさい。朝、目覚めたら、太陽の光を浴びて深呼吸をしなさい。食事は、楽しく、美味しくいただきましょう。楽しくない食事は身になりません。そして自然の中を、身体が心地よい疲れに包まれるまでひたすら歩きなさい。「心」のトラブルを、「心」をいじってなんとかしようと思っても、その「心」自体がトラブルを起こしているのだから、うまくはいかないよ。

 

それよりも、「心」と「身体」がつねに情報をフィードバックしていることに着目しなさい。「心」はひとまず忘れて、忙しく「身体」を動かすことに活路を見出すんだ。そして、風呂掃除をする時でも、台所で洗い物をする時でも、また職場で仕事をする時でも、たとえどんな些細なことでも、自分がそれを「表現」として為し、心から楽しんでいることをイメージしていつも行動しなさい。

 

また、たとえどんな出来事に遭遇したとしても、心の中で「ハッピー、ハッピー」と唱えて、微笑んでそれを受け取りなさい。そして、それらのアクション癖がすっかり身についたら、その先に、こうご自分に問いかけてみてね。

「私は、誰なの?」

「私は、何をしたいの?」

 

それが見出せた時、あなたは、それまで、自分がとんでもない誤解をし続けてきたことに、きっと気づくでしょう。

満足は、与えられるものではなく、与えるものであるということに。

与えることで受け取ることができ、癒すことで癒されるのだから。

文明の終り

文明の終りが迫っています。これは予言ではありません。私には予言する能力はありませんし、予言はいたしません。今の地球人類の行動の観察結果から、そう予測しています。

 

人類はこれまでにも、何度も、自ら築いた文明を自己崩壊させて来ました。それと同じ状況、雰囲気が日々強まって来ています。人類は、今度もまた同じ轍を踏むのでしょうか? だとすれば、残念ながら、地球人類の学習能力は、非常に低いと言わざるを得ません。過去の経験から気づきを得ようとはしないし、内省というものがまったく足りません。

 

最初にみなさんに言っておきたいことは、たとえ世界が、今後どのようになったにせよ、あなたは生きるのを絶対に止めないということです。宇宙(=生命)に死はありません。人々がこの世で「死」と呼ぶものは、連続する生命の、変化の一局面に過ぎないのです。宇宙では、変化し続けることだけが、唯一、変化しないこと。絶対的存在(=停止)というものはないことだけが、絶対なのです。

 

あなたの「魂」は、どのみち永遠に生き続けるのですから、いわゆる「生きるか、死ぬか」ということよりも、今ある生を「どのように生きるか」が、常に問われているのです。瞬間々々で、あなたが何を知り(思い出し)、どう行動し(体験し)、自分が意味づけする(感じる)のか。その積み重ねによって、個々の「魂」の、今世における学習と、成長度合いが違って来るのです。

 

ですから、人類全体が置かれた状況を鑑みれば、あなたにとっては、いま進行しつつある「文明の終り」のプロセスを、自分が、視点をどこに置いて参加し、何を体験し、どう感じるかが課題となっていきます。もちろん、それはただの傍観者というわけではなく、あなたが、種としての人類の存続をこの先も望むのかどうか、それが人類全体の集合意識に大いに影響を与えます。

 

いま述べたことは、人々の一般的な認識としては、まだほとんど定着していません。それは、人間が、内省する機会をあまり持とうとしない上にプラスして、これまでさんざん間違った知識を吹き込まれて来たためです。特に、「生」と「死」という概念については、まったく誤解をしています。死を怖れなくなるのは、勇気の為せる技ではありません。「魂」は永遠ということを、思い出すがゆえなのです。

 

地球人類がまことに不思議なのは、自分の「死」を、それこそ死ぬほど怖れているというのに、他人を殺すことについてはあまり厭わない。マフィアだけではなく、時に政府が、国家が、殺人を推奨し、人々をこれに駆り立てるし、多くの宗教までもが異教徒を殺すことを正当化しています。さらには、映画やビデオゲームなどで、子どもたちに、早くから殺人の興奮と快感を教えています。

 

この世界の中に、埋没している人たちは、みんなそうすることが当たり前であるし、正しいことだと思っています。しかし、これらを宇宙的な視点から眺めると、地球人類というのは、どうやら集団自殺を望み、それに向かって着々と計画を実行しているとしか思えません。そうは思いませんか?

 

今、国際政治の舞台では、「善悪の逆転」という事態が起こっています。日本は今まで、米英独仏を中心とするいわゆる西側に所属していて、日本政府は西側の行動に追随し、国民の多くは西側が一方的に流す情報を信用して来ました。その陰で、西側が敵と見なす国家、ロシアや中国やイランなどは悪人国家だと決めつけ、これと対抗するような措置をしばしば採って来ました。

 

その一貫として、リビアのカダフィ、イラクのフセイン、シリアのアサド政権等を、あたかも自国民を痛めつけている悪の独裁者国家であるかのように宣伝し、そういう国家を民主的に解放するという「善」の御旗を立てて軍事介入するアメリカに、日本は同盟国として、その都度、追随して来ました。

 

カダフィとフセインは、西側の思惑通りに倒されてしまいましたが、しかしアサド政権は踏ん張って、ロシアの協力を得て、ついにはIS(ダーイッシュ)をほとんど解体させるところまで漕ぎ着けました。この予想外の展開の中で、ISが実はアメリカが作ったものであることが知れ渡り、過去の中東戦争や、アラブの春や、アフガン戦争が、全部アメリカが仕組んだ謀略であることがバレてしまいました。

 

さらには、クリミアの独立問題もロシアが悪者ということにされていますが、その前に起きたウクライナ政権のクーデターが、アメリカが画策したものであることが、証拠とともに明らかとなっています。このようなことで、国際社会においては、いま「善悪の逆転」現象が起きているのです。自分たちは「善」と言い続けて来たアメリカこそが、実は「悪」の帝国だったのだと。

 

ロシアへの経済制裁も、結局、困ったのは輸出を禁じられたヨーロッパの農民たちで、ロシアは国内生産を増やすことでこれを乗り切り、前よりもかえって豊かになりました。一般民衆の生活を見れば、今や露米の差は歴然です。世界がこぞってアメリカ離れに傾斜している中で、日本だけが今なお属国として忠誠を誓い、アメリカに次ぐ貧困大国への道をひた走っているのです。

 

ここで、本当はロシアの方が「善」だったのだと言いたいわけではありません。「善」とか「悪」とかというものは、所詮は人間が創った概念で、そんなものは、視点が変われば容易にスイッチしてしまうものだということ。むしろそれよりも、〈自分が為したことは、自分に還る〉という冷徹な「宇宙の法則」が、その背後に如実に顕れているという点を見ていただきたいのです。

 

重要なことは、外から来るものは「信じ」てはならないということです。世界は壮大なフィクションの上に構築されていて、しかもそれを意図的に操っている者がいます。ですから、何かを「信じる」ことは、そのコントロール下に入る、奴隷になるということを意味します。「信じる」のではなく、常にあなたの「直感」を大切にしてください。

 

自分の「直感」がイヤだなぁと思うことにはハッキリと「NO!」と言い、「直感」がいいなぁと思うことには喜んで賛同し行動してください。義務感や、正義感や、倫理観や、その場の空気などに流されないように。目を釣り上げ、拳を振り上げ、口から泡を飛ばして話す人には要注意です。語る内容が人を欺くためのものだから、そういう見ための演出で感情に訴えて誤魔化しているのです。

 

特に、身近で分かりやすい「敵」を設定し、その粉砕を声高に叫ぶような人の言葉を、簡単に信じて着いていかないように。未知の、新しいことの創造よりも、既知の「敵」の粉砕を叫んだ方が大衆には分かりやすく、同調させやすいのでそうしているのです。ヒトラー、ジョセフ・マッカーシーオーヴァル・フォーバス、ジョージ・ブッシュなどの演説映像があれば、よく見てください。みな同じ手法を駆使していることが解るでしょう。

 

このような人たちは、まだ「自分が何者か」が、思い出せていない人たちなのです。「自分が何者か」を思い出せていないから、自分と敵を分けて、相手の粉砕を叫ぶことができるのです。しかし、もし自分を思い出していれば、自分と他者は一つであるということが解り、よって他者に為したことは自分に還るということも解り、他者を愛することは自分を愛することだと解るはずですから。

 

「歴史に学べ」とは、常套句ですけれども、今度こそは正念場です。歴史から、いったい何を学べばいいのか? 大抵の人は、その歴史で起きたプロセスだと考えています。もちろんそれも重要です。ですが、それ以上に重要なことは、その時の人間の心理です。心の動きです。

 

戦争というのは、全部が、(いま所有している物の、またこれから所有しなければならないと考えている物の)「防衛」意識から始まり(ということは、「敵」が存在するという前提に立ち)、この正義のためならば、「敵」を殲滅して当然と考えることから起きています。このような信念に取り憑かれた人物がリーダーとなり、名誉や勲章と引き換えに、一般民衆の命をまるで将棋の駒のように使って捨てるのです。

 

一つの戦争が終わると、民衆は必ず「もうコリゴリだ」「国に騙された」と言うのですが、しばらくすると、またこの文脈に易々と乗っかってしまう。正義のためならば、国家のためならば、愛する家族のためならば、自分の命を喜んで捧げると誓う。そうやって、また、未熟な「魂」のリーダーの後を着いて行ってしまうのです。ですから、人類はいつまで経っても、肝心な点を歴史から学べないのです。

 

どうか、あなたの視点を、宇宙にまで引き上げて、世界の現状を見て欲しい。そうすれば、いま起きていることが、いかに馬鹿げた「心理ゲーム」に過ぎないかが解るはずです。

 

ジョン・レノンは「世界は、一握りの狂人に操られている」と言いました。まったくその通りです。狂人が、世界を引っ掻き回し、民衆を蟻地獄のような世界に引き摺り込んでいる。この全体の構造に、今度こそ気づくかどうかが、人類にとっての正念場です。今までの認識レベルでは、またアトランティスの二の舞いに終わってしまう。そうではなくて、構造(System)そのものからのジャンプが求められるのです。

 

とりわけ、いま「文明の終り」が迫っているわけは、テクノロジーの進歩が急激に進んでいるためです。狂人の政治指導者と、良心なき科学進歩の組み合わせは、非常に危い。アトランティスが消滅したのも、結局は、この組み合わせが原因です。

 

アインシュタインは、ルーズベルトに原爆の開発を進言しましたし、天才物理学者と言われたオッペンハイマーは原爆開発の父となりました。(*後にこの二人は、自分がした行動を大いに悔やむことになります)ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーは、第一次世界大戦で毒ガス兵器を開発し「化学兵器の父」となりました。有機化学者のルイス・フィーザーは、ナパーム弾を生み出しました。すべて、科学の誤用です。

 

良心なき科学は、魂の荒廃に過ぎない。

フランソワ・ラブレー(François Rabelais、 1483? - 1553)

 

急速に発達する、遺伝子研究、AI(人工知能)、脳のコントロール技術研究が、もしかしたら人類を滅ぼすことになるかもしれません。ことに、「産業」と結びついた場合は、これらは急速な進化を遂げます。競争と利益が、開発への強力なモチベーションになるからです。このモチベーションの前では、どんな警告も霞んでしまう。産業が政治を動かし、政治が人々を動かすからです。

 

先日、ニュースで、ある日本人のAI研究者がこう言っているのを耳にし、驚きを禁じえませんでした。「AIの研究は、生命の謎を解く鍵になるだろう」。その方は、きっと本気で、そう思われているのでしょう。でも、どうしたらそういう発想が出てくるのか、私には解りません。それよりも、庭の草木や昆虫たちをじっくりと観察した方が、生命とは何かがよほどよく解るのではないでしょうか?

 

本日ここに書いたことは、人類への警告に一部なっていますが、これを脅しとは捉えないでください。冒頭にも書いたように、宇宙/生命に死はなく、あなたが今後、何をどう体験するかだけの問題です。「死はない」ということを、今は頭でしか受け止められないかも知れませんが、いつかそれが腑に落ち、「なるほど、そうだなぁ」としみじみ感じる時が、必ずやって来ます。

 

ですから、これを読んで下さっている方は、いつも言っているように、瞬間々々を、自由に、創造的に、楽しく生きてください。「死」を怖れる人は、結局「生」も怖れる人になってしまいます。そうではなくて、この世でいう「死」は、いささかも怖れる必要はないのですから、そういう人にとっては「生」も怖れる必要がなくなるのです。

 

このことが、実感としてあなたに訪れる時、あなたは、今世の目的を、生きながらにして達成することになります。それでは、その日を目指して、どうぞ行ってらっしゃい。いつも応援していますから。

支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。