私が生まれたのは昭和29年。家には、テレビも洗濯機も電気炊飯器も、まだ何にもない時代でした。電化製品としてあったのは、ラジオと、天井からぶら下がった裸電球だけ。うちは母親が洋裁店を細々とやっていたのですが、アイロンもホースが付いたガスアイロン。ボディ横の小窓にマッチを突っ込んで点火するのですが、ボッと着火する瞬間が恐かった。冬の暖房ときた日には、火鉢と練炭炬燵だけ。それはそれは寒かった。
まあ『三丁目の夕日』のような感じでしょうかねぇ。クルマはオート三輪が走り始めたばかりで、鉄道は蒸気機関車が全盛。スーパーはまだ登場していないし、もちろんコンビニなんてない。自動販売機もあるわけない。飲食店はほとんどが個人経営の家業(「暖簾分け」というのが少しあったけど、いわゆるチェーン店は一つもなし)。当然ながら、パソコンもないし、スマホもない。
とにかく、なーーーんにもない! でも「本物」があった。本物の素材、本物の技、本物の味、本物の職人、本物の人情、etc.。‥‥と書いてしまうと、「昔は良かったなぁ」という感傷のように聞こえるかも知れないけれど、自分にはそれはありません。やはり今の方が格段に過ごしやすくなっているし、パソコンとインターネットがあるおかげで、こんなことも出来ているし。
ただね、「おーい、本物はどこへ行っちまったんだよーォ」と、三丁目の夕日に向かって叫びたくなるんだよね。その最たるものが食べ物。今じゃ、外食というものを殆どしなくなりました。どこへ行ってもチェーン店ばかり。あー、つまらない。都心へちょいと出掛ける用事があって、目的地付近の飲食店をネット検索してみるのですが、上位に並ぶのはみーんなチェーン店。「これじゃ、検索の意味ねぇじゃん」と思ってガッカリ。
それで、自分で食事を作るのだけれど、スーパーにお頭つきの魚がもうない! あるのは、パックに入った切り身ばっかし。魚は頭が美味しいのにねぇ。ある日イカを探していたら、全部筒切りになって売っていたのにはびっくり。味噌だって醤油だって「だし」ってものが入っているし、その「だし」と称するものだって、正体が何かは不明。自分でとった「だし」は3日で腐るのに「だし」入り調味料がいつまでも腐らないのはどうしてなの?
ということで、自分で料理をすることも年々難しくなってきました。いったいこの先、何を食べればいいのでしょうねぇ? 私に餓死しろということか(とチト大袈裟)。自分の年代が、たぶん「本物」を知っているギリギリでしょう。だから、今の50代以下の大多数は「ニセモノ」しか知らない、「ニセモノ」をスタンダードだと思わされて、育ってきたのじゃないかな?
イボ胡瓜のとげとげの痛さと、付け根部分の苦味。いつまでも舌に残り続けるほうれん草のえぐ味。食べる者を拒絶するかのような人参の強烈な香り。煎茶の渋みに、焙じ茶の香ばしさ。顔をしかめるほどに酸っぱい夏みかん。魚肉ソーセージの中の白い脂肪の塊。羽釜のお焦げが発する食欲をそそる匂い。いったいどれほどの人が、それらを覚えているでしょう?
でも、そうしてしまったのは、みんなその前の世代の「思想」と「行動」が原因です。「本物」の素材よりは合成品や「◯◯風」、だしよりは化学調味料、職人よりはロボット、技よりはコンピュータプログラム、手間ヒマ掛けるよりは早く安く、人情よりはマニュアル接客の方がずっと効率的でいい、と考える大勢の大人たちが、今の「ニセモノ」氾濫の文化を創り上げちゃった。
でもそれで、いったい誰が得をしているのかな? 「本物」に触れた経験がないから、「本物」と「ニセモノ」の区別がつかない。そのために、「本物」だけが持つ表情や奥深い文化というものを理解できない。理解出来ないから「本物」を創れる人が育たない。「本物」を創れる仕事がないから、生活に充実感もない。育てる必要などないという考えだから、低廉で単純なマニュアル労働の奴隷としてみなコキ使われてしまう。
それで、いったい誰が得をしているのかな? 労働者は同時に消費者でもあるのに。これじゃ、消費が萎縮するのは当たり前だよ。デフレ脱却なんて、そもそも無理。だって、お財布に遣えるお金がないんだから。生きていくだけでギリギリという人が多いんだから。かくいう私も、年金とアルバイトで月収9万4千円。ま、新しい服などいらないし、今さらモテようとも思わないから、ビンボーであっても困窮はしていないけど。
今や、失われた20年が25年になり、30年に迫ろうとしている中で、その間に人々が学習したのは、「もう、高い物は買わなくていい」ということだと思う。我々の年代は、前の「好況」の時代を知っているけれど、40代以下は「不況」しか知らないんだよね。だからこの先、たとえ労働者賃金が上昇したとしても、バブル景気の頃のような消費形態にはもう戻らないと思う。あまりに長きに渡る「不況」を経験して、人々は、経済の裏を、すっかり学習したと思う。
高級ブランド品製造の舞台裏のことも。コモディティ(生活必需品)はここまで安く出来るんだということも。グローバリズムで全世界の消費が平準化してしまったことも。その裏には、奴隷にされている労働者がたくさんいるということも。その陰で、一部の投資家だけが莫大な富を手中にし、隠し財産を蓄えていることも。そしてそれらを、嘘つきの政治家や、政府や、銀行や、マスコミが結託して推し進めているということも。
もちろん、全員が「解った」というわけじゃない。今も変わらず、前の世代が作った物差しから、もしも外れてしまったら「自分はどうなっちゃうのだろう」と不安に思っている人は多い。それで、お隣の韓国のように、ごく少数の指定席を求めて必死になるという人もいるでしょう。でも大学を出たとしても、ロクな働き口がないということも、多くの若者は学習してしまいました。
そんな中で、最近、時代が変わりつつあるなと思うのは、30代、20代の若い人たちの中に、「本物」にスッと近づこうとする人たちが出て来ているということ。彼ら彼女らは、それまでの歴史的経緯をほとんど知らない。だからこそ、逆に、今の世に特別プロテスト(protest、反抗する)するという意識もなく、スッと「本物」に近寄れてしまうのかも知れないです。それはまるで、光を求めて吸い寄せられる虫たちのように。
だとすれば、それは凄いことだと思う。ゴチャゴチャ言わずに、「好きだからやる」「自分がやりたいことをやる」「世の中にいま必要とされていることに貢献していくんだ」と、感覚的にかつシンプルに想い、行動できる若者の登場は、世の中に、本当に革命をもたらすものになるかも知れない。若い頃の自分が、到底持ち得なかった勇気を、これらの人たちは既に持っているのだから。
今までなら、「そんなことを言っても現実は甘くはないよ」とか、「お金がなかったら生活できないのよ」とか、「いつまでもそんな夢みたいなことは通用しないよ」とかと言っては、前の世代は、いつも若者の夢を潰して来ました。そして、世間のレールに従わせようとして来ました。その際の常套句は、「あなたの将来を思って」だったけれど、それは、勇気を行使しなかった者の、勇気ある者への嫉妬だったのではなかろうか?
しかし現代の若者は、みな個室を持ち、有り余る物に囲まれて育ち、飢えることもなく、少子化によって家も余る時代に生きている。だから、そんな古典的脅しはもう通用しなくなっていると思う。(もちろん、それとは裏腹に貧困世帯が増加しているという現実もある。だからこそ、格差の問題は深刻ですが)しかも、そんな脅しに乗っても、ブラック企業のドレイになってしまうかも知れないということもバレている。
そういう中で、自分の直感に従って素直に行動する人たちが出現し始めているというのは、表に見えない部分での感覚的変化が、今まさに進行しつつあるのだと思う。権力のためなら、出世のためなら、お金のためなら、見え透いた嘘を平気でつき、それを恥だとも思わず、自分に反抗する者は計略によって陥れ、恐怖を煽っては人々を騙し、自分は接待ゴルフに興じる、醜い先人たちの姿にも大いに学習したことだと思う。
このような価値観を未だに抱いている大人たちは、醜いだけでなく古い。あまりにも古過ぎる。時代感覚が無さ過ぎだし、何より自分を変えようとする勇気がない。口では「圧力」とか「攻撃」とか威勢のいいことを言っていたとしても、内実はすこぶる付きの小心者だ。いや昇進者か。はたまた傷心者なのか。もし権力を失ったら、出世から取り残されたら、収入の道を奪われたら、自分はない。そう考える、あなたとは一体何者なのだ。
それらが全部なくなって、素っ裸になった時こそが、あなたではないのか? この世に誕生した時には、素っ裸だったではないか。素っ裸ではあったが、あなたはあなた以外ではあり得なかったではないか。その後あなたは成長した。肉体も、思考も、感情も、すべてが変化し続けて来た。それでもなお、あなたは、自分がまぎれもなく、継続し続けている、同一の個体であると考えているはずだ。
それはなぜだろうね。「あなた」を継続させているものは、はたして何か?
よ〜く考えてごらん。それが真のあなた、本物のあなたなのだよ。解るかい? そして、それは永遠の生命なのだよ。『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画を観るといい。アッシジのフランチェスコは、民衆の前で、豪華な刺繍のついたコートを脱ぎ、文字通り素っ裸になる。それは、誕生以来に身につけたもの全てが「幻想」だという強烈なメッセージなんだよ。そして、自分は、「本物」の自分を生きるという決意を、そのことで示したんだね。
だから、あなたにも、「本物」の自分を生きて欲しいのだよ。「本物」の自分を生きれば、世の中の「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになり、「本物」に近づきたいと思うようになる。そして「本物」に近づけば、「本物」だけが持つ素晴らしさに気づき、自分の喜びを発見できるようになるから。そのために、どうか勇気を持って、生きていって欲しい。
なあに、勇気と言ったって、それほど大したことじゃない。
自分の直感に、素直になるだけのことだから。