by Rainbow School
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“絶対的” なものなど、どこにもない

自分で自分を客観視することは、完全にはできません。自分の行動や思考プロセスを、時に内省することは出来ますし、それは自己の成長にとって必要かつ大切なことですが、それでも「内省している今の私」というものから逃れることはできません。そこで、人はしばしば、客観的に見ようとしている自分と、見られている自分がゴッチャになり訳が分からなくなってしまう時があります。

 

えっ、しょっちゅうそうだって? それはいけませんなぁ。そんな時には、誰か権威ある人にジャッジして貰いたくなったり、倫理道徳の規定や、聖なる書物の一節に従いたくなったり、霊能者のご託宣を仰ぎたくなったりするものです。私にもそういう時があります。でもその時に大切なことは、外から来る情報に対しては、いつも、「私にとっての真実」をそこに見つける、という姿勢で臨むことです。

 

これまで「外から来るものは信じないように」「つねに自分自身に頼りなさい」と、何度も語って来ました。しかしそれは、外から来るものを完全にシャットアウトしなさいということではないのです。そもそも、それは不可能ですし、それを目指したら、地上で生活する意味がなくなってしまいます。そうではなくて、外から来るものを「自分で選んだ」という意識を、つねに持って接することが大切なのです。そして、実際にそうなのです。

 

たとえばこの『気づきの啓示板』にしても、自分の中にパッと明かりが灯ったように感じるセンテンスが時にあろうことかと思います。それはその瞬間に、あなたという個が、自分の中に元々あった、封印された小箱の蓋を開けたのです。それで、光がサッと射し込む。ですからそのとき眼にした言葉、それは単に鍵の役割を果たしたに過ぎないのです。

 

このようにして、あなたは、「真の自分」を、その段階に応じて徐々に思い出して行っているのです。外から来る情報は、一見偶然のように見えて、実は天によって周到に手配されたものです。しかし「気づき」となる情報は、その準備が出来た者にしかもたらされません。同じ情報を見ても、準備が出来ていない人には、自分にとっての価値が見出せず、それは素通りして行ってしまうのです。

 

ですから、「これは私に向けて書かれた言葉だ!」と読むことが大切なのです。これは文章だけに限ったことではありません。友人が発した言葉、街を歩いていてふと耳にした会話、人々の仕草や行動、足を止めて眺めた絵やオブジェ、音楽、景色、すべてがそうです。自分の周囲に展開されるすべてを師として眺め、そして自分の発見とする。これが、自分でハンドリングするということであり、「自分に頼む」ということなのです。

 

冒頭に書いたように、外に頼みたくなる気持ちも解ります。でもそれを、自分自身の選択に変えていかないと、人は外部にあるものの奴隷として生きることになってしまいます。「魂」が本来有している「自由」の放棄です。

 

人はよく「聖書には、真実がすべて書かれてある」とか、「誰々という過去の偉人はまるで神のような人だ」とか、「わが師である◯◯先生は、この世で最高の人物だ」などと言います。そして、「神」の言葉が記された書物なのだから、この聖書・聖典は「絶対」なのだ、あの先生の仰ることは「絶対」なのだというロジックを使いたがります。

 

けれども、その聖書・聖典を記して編纂したのは、紛れもなく人間です。その「先生」と言われる人物も、人間なのです。最高のチャネラーといえども、同じ不完全な人間なのです。「神」は自らペンを取りません。誰かを通して語らせる。その誰かとは人間です。そこをよく考えなくてはいけません。

 

さらに、言葉そのものが不完全なものです。だからこそ、同じ聖書・聖典類を奉じていながら、言葉の解釈をめぐって異論が百出するのです。そして、たくさんの宗派に分かれ、どっちが本物かと言って不毛な争いをしている。それがどれほど馬鹿げたことであるか、なぜ気がつかないのか。一体なんのための、スピリチュアルな世界への参入なのでしょうか?

 

何事にも「絶対」などはありません。もし「絶対」なるものがあったとしたら、活動がそこで停止するということです。いま有る「絶対」が、少しでも動いたら、それはたちまちにして「絶対」でなくなるからです。宇宙は、決して活動を停止しません。あえて言えば、「絶対」でないことののみが「絶対」である、と言えるでしょうか。すべては、至高を目指して「今、成ろうとしている」存在なのです。

 

それは「神」ですらも。

ですから、神に似せて造られた人間、不完全な我々がいるのです。

 

何かを “絶対的” と認めた瞬間から、それを基に自分の行動を規定してしまうという(つまり自分には「自由」はないと信じる)逆転が始まります。あの先生が言ったことだから、それに従順に従う。聖書・聖典にこう書かれているから、それを信じる。戒律でこう言われているから、それを固く守る。本人は、そうすることが “絶対的” に正しいことだと信じている。

 

そして、その状態に埋没して生きることが、「聖」なる領域に生きることだと信じ込んでいる。でもこれが、「奴隷」でなくしてなんだと言うのでしょうか? この宇宙に、あなたという「個」が生み出されたのは一体なぜなのでしょうか? 自分というものを失くして、奴隷的人生に身を捧げるために、わざわざこの世に誕生してきたとでも言うのでしょうか?

 

ご覧なさい。今の世の中を、そして世界を。宗教でも、お金でも、政治でも、科学でも、“絶対的” と信じる「何ものか」に、自分を売り渡してしまったロボット人間たちが、世界を大混乱へと、生命を大破壊へと導いているこの現実を。なぜ誰かの後を付いて行こうとするのでしょうか? なぜ、自分で自分を縛る道の方を選ぶのでしょうか? なぜ、「自由」であろうとはしないのでしょうか?

 

あなた方の最高の権威は自分自身なのですよ。そのことに自信を持ちなさい。あなたの代替は、他にいないのですよ。あなたという「魂」は、一兵卒でも、駒でも、歯車でも、部品でもありません。この広い宇宙の中に、たった一つの、個性を持った独立した存在です。コントロールされる自分ではなく、自分をコントロールできる自分を見出しなさい。

 

「魂」は生きないではいられません。「魂」には、この世でいう死はないのです。ですから、人間にとっては、生き残ることが問題なのではなく、どう生きるかが問題なのです。この意味をよく考えなさい。あなたはどう生きたいですか? 生き残りのために、自分の「自由」を押し殺して生きる人生と、「自由」を謳歌して、生き残りなど考えずに瞬間瞬間を燃焼させる人生と。

 

いいですか。幸福とは、その時々の「気持ち」なのですよ。

自己を解き放つとき

「自由」。この言葉を、おそらくこのブログの中で、これまでいちばん多く使って来たのではないでしょうか。それは、今の人間たちの苦しみや、不幸の原因、そのすべての根っ子が、同じ「不自由さ」に起因しているからです。しかもそのことに、人間は全くと言っていいほど気づいていません。あなたが日々感じている諸問題は、すべてあなたが「自由」でないところから生じているのです。

 

でも、ここで言っている「自由」は、一般的に考えられているものとはちょっと意味合いが異なります。宇宙では「自由」は「愛」と同義語なのです。この意味が解りますか? つまり、完全に「自由」であることは、イコール自分が、完全な「愛」の人になるということなのです。これが解れば、あなたは大きく飛躍します。今世生まれてきた目的を存分に果たし、そして帰ることが出来るでしょう。

 

人間たちは、「不自由さ」というものを、外から押し付けられる拘束だと考えています。そして「自由」を、自分の意のままに振る舞えることだと捉えています。ですから、人は「自由」になりたいと願う。ところが、人間を「自由」にしたら、社会秩序が破壊されてしまうと考える人たちがいて、これに「制限」を加えようとします。そこでいつも、「自由」と「制限」を巡って、綱引きが繰り返されるのです。

 

これは、本当の「自由」とは何かを知らないため、逆に言えば、「不自由さ」というものの根本原因を知らないためです。人間社会で言われている「制限」も、そして「自由」すらも、宇宙から見れば、実は、同じ「不自由さ」に他ならないのです。要は、両者が載っかっている基盤そのものが、「不自由」な領域にあるのです。ではいったい何が、また何から「不自由」だと言うのでしょうか?

 

それは、自分です。本当の自己です。真我です。

 

真の我(われ)は、つまり「魂」は、本当の「自由」というものを、生まれながらにしてちゃんと知っているのです。ところが、成長して知恵を持つようになると、その活動に意識的に「制限」を設けたり、〈欲望〉という名の偽物の「自由」によって、それを覆い隠してしまうのです。これが、その人に、根本的な「不自由さ」をもたらす原因となっているのです。

 

そこから、受肉すること(「魂」が肉体に入る=Reincarnation=転生)が、しばしば牢獄に入ることに例えられているのです。

 

我欲のままに生きることが「自由」なのではありません。むしろそれは真逆。自分を最も強く拘束させてしまうことに他ならないのですよ。あなた方も、それを半分は解っているはずです。だから、みんなよく言っているじゃありませんか。欲望に突き動かされて、何かに夢中になってしまうことを「ハマった」と。

 

肉体というのは、まことに不自由なもので、時空間の箱に閉じ込められ、移動が制限され、他人とコミュニケーションするのもやっかいだし、肉体を維持するためには、常に食事をしたり運動したりしなければなりません。霊界にいたときの、それまでの自由さがまったく失われてしまうのです。

 

その代わりに、肉体を持つことによって、「魂」はこの物質世界を知覚し、生きていくためのセンサーであるところの、いわゆる「五感」を獲得しました。けれども、幼少期はまだ「五感」の発達が未熟です。幼児は周囲にあるもの何に対しても興味を示し、見たり、聞いたり、触ったり、口に入れたりすることで、しだいに自分の外側にある世界を認識していきます。

 

この時期の「魂」は、本当の「自由」というものをまだ覚えているのですが、「五感」の発達とともに、外の世界に順応し、入れ替わりに、本当の「自由」を徐々に忘れていくのです。そして、家庭矯育、学校脅育、社会狂育によって、「魂」の真の「自由」は見事に歪められ、「幻の世界」を、しだいに真実だと思い込むように育てられていくのです。

 

でも、ここで想像してみてください。生まれたての無垢の赤ん坊は、そんな社会システムとはまだ無縁であったということに。

 

この、外に広がる世界観は、マス(mass)で構成されていて、多重構造である上に、かつ非常に強固なものですから、個人が異論を差し挟む余地がほとんどありません。自己の「魂」に素直な人は、なんとなく違和感を感じてはいるのですが、それを言ってもどうにもなりませんし、そういう人は、逆に「落ちこぼれ」と見なされ社会から排斥されてしまうのです。

 

一例を挙げましょう。今の世界においては「経済」というものが、政治上の一大問題となっています。不況の常態化、雇用問題、貧富の格差、貧困、飢餓、母子家庭問題、熾烈な競争、学歴差別、不正と汚職の蔓延、そして環境破壊まで。ほとんどのことが、「経済」が上手く回っていないことが原因で発生しています。しかしこれらの問題を、一挙に解決する道があるのです。

 

それは、「分かち合う」という考え方の導入です。「経済」活動の根底に、「分かち合う」という基本理念があるだけで、すべてが変わります。「分かち合う」という考え方があれば、富の偏在も、物の偏在もありませんし、ムダな競争をする必要もなく、それぞれに適切な雇用が見出され、貧困も飢餓もなく、学歴差別も必要なく、不正も汚職もなく、戦争のない世界が創られます。

 

これを、みなさんは夢物語だと思われるでしょうか? いいえ、そうではありません。成長した「魂」が創る世界は、いずれ必ずそのようになります。それが進化の法則だからです。ではなぜ、今はそれが実現できていないのでしょうか? その答えは簡単です。社会の基本に、出発点に「オレは、分かち合わない是」という思想が、当然のこととして横たわっているからです。

 

「分かち合わない」ことが「是」だという考え方が、「経済」活動の基盤を構成している。そのために、「経済」は富の奪い合いとなり、激しい競争が生じ、マスコミがこれを煽って人々に刷り込み、格差が生じ、この思想教育を学校で教え、学歴社会が生まれ、差別が生まれ、労働者は奴隷にさせられ、不正と汚職が蔓延し、環境破壊が止まらず、あまつさえ戦争まで起こしているのです。

 

複雑怪奇に見える世界も、元はたったこれだけなのです。人類が「分かち合う」という考え方を選ぶか、「分かち合わない」という考え方を選ぶか、そのどちらかなのです。今、人々の多くは、社会が上手く機能していないのは、現行のシステムがおかしいのではないかと思い始めています。そこで、あれを変えたら、これを変えたらと議論しています。

 

でも、根本はそこにあるのではありません。システムを構成している、元にある考え方こそを問うべきなのです。システムなど、元にある考え方がひっくり返れば、それに合わせて早晩変わっていくものです。こと経済に限らず、金融も、教育も、医療も、福祉も、環境問題も、全部があれよあれよという間に変わっていくことでしょう。重要なことは、どういう考え方の下に、システムを再構築するかなのです。

 

あらゆる面で破壊が進む地球。今のこの地球の混乱を治め、平和な世界を実現し、自然環境を元のように回復させ、人類という種が存続し、そして進化していくためには、根本にある考え方がどのように変わらなければいけないのか? その答えは、すべて共通しています。人類みんなが気づかなければならない、たった一つのこと。宇宙をつかさどる究極の答え。根本法則。

 

それは、「全部が一つ」ということ。あなた方に伝えたいことは、いつも繰り返し言っている言葉、ただこれだけ。あなたはわたしであり、わたしはあなた。ゆえに、あなたが為したことは、あなたに返る。他者を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは他者を愛すること。そこに分離はない。このことを根本に据えて、すべてを考え直しなさい。それが、今後のあなたの出発点になる。

 

その時に、忘れてならないのは、あなたも、現行の社会システムの成立に加担して来たという事実です。過去、何度も言って来たように、一部の富者が成立しているのは、それを支えている多くの貧者がいるからです。加害者がいて被害者がいるのではありません。みんなが合わさって、そういう社会を合意の下に創り上げて来たのです。ここに気づかないといけない。

 

いいですか、「」に目覚めるのです。

まさに気づき。気づきのジャンプです。

 

あなたの現実は、あなたが創っている。そう、これまでにも何度か言って来ましたね。これは、あなたが「現実」だと思って来たものは、あなたの「認識」に過ぎないからです。これが「現実」という、確固たる存在はどこにもない。あなたの「認識」の中にしかないものだからです。ですから、あなたの「想い」が、あなた固有の「認識」を創り上げ、あなたが思っている「現実」を、あなたに見せるのです。

 

そこで、こう言えます。

他者が選んだものに、自分が加担することをもうこれ以上やめるとき、それがその人の解放のときとなる。

そして、その人は、入れ替わりに本当の「自由」を思い出す。

 

友よ。そのようにして「自由」を思い出して欲しい。自分はそのように創られたということを思い出して欲しい。そうして、無限の「自由」を再び得て、無条件の「愛」の人になりなさい。その「愛」を周囲の人々に振りまきなさい。残された時間はもうあまりありません。あなたが目覚めて、周囲の人々に影響を与えれば、人類は変わります。地球も変わります。わたしがついています。だから勇気をもって、己の道を進みなさい。

神は「居る」のではなく、「在る」のだ

ピンポン🎶〜とチャイムが鳴り、玄関に出て見ると、外に見知らぬ女性が二人佇んでいました。二人が醸し出すその雰囲気から、私は直ぐに察知して「宗教ですか?」とこちらから先に尋ねました。相手は頷くと、よくその名を聞く某渡来系の教団の名を名乗りました。(へー、こんな過疎の山奥にまでやって来るのか)と、私は驚き、その行動力に感心しました。私が住む部落には4軒しか人が住んでいないのです。

 

彼女たちに、私はのっけから「宗教の時代はもう終わりです」と、いつも話していることを伝えました。それは挑戦的態度を示そうとしたわけではなく、その場を早く打ち切りにしたかったからなのですが、でもそんなことであっさり引き下がる人たちではありません。彼女たちも「使命」を感じてやっておられることです。結局それから30分も話をすることになりました。

 

「今の世界の混乱の、大部分は宗教が原因になっているのじゃありませんか?」と言うと、彼女たちもそれを認めるのですが、「それは神様の本当の意向を知らないからです」と言い、でも「自分たちは違う」と言うのです。そして、「神様は、そうしたことも全部見ているんですよ」と言って、自分たちが信奉する「神」の名を挙げるのでした。

 

「神の本当の意向を知らない」というのは仰る通りだと思いますし、「全部見ている」というのもその通りです。強いて言えば、「見ている(watch)」というよりは、「知っている(know)」と言った方が適切な感じがします。がしかしそんなことよりも、私が不思議に思うのは、2000年前に勃興して、その後、人の手によって成立した宗教および聖典の解釈を巡って、未だに正統派争いを繰り広げてるというその時代錯誤の感覚です。

 

超ミクロ世界に迫る量子力学が誕生して90年、宇宙の膨張が発見されてから同じく90年、DNAが発見されてから60年、惑星探査機ボイジャーが太陽圏外に向けて出発して40年、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられて27年。それなのに、どうして宗教だけは、2000年も前に創られた「神話」の解釈論に、今もって終始しているのでしょうか?

 

おかしいとは思いませんか? あれだけ熱心に「神」を説きながら、現代に「神」は存在しないとでも言うのでしょうか? もし現代に「神」が存在しないのなら、過去の「神」を語っても無駄ですし、現代に「神」が存在するのなら、「神」はいつでもその時代に合った言葉と方法で語りかけて来ているはずです。それでこそ、永遠かつ普遍的存在と言えるのではないでしょうか?

 

なぜ、2000年も前の「神話」を、未だにどの宗教も有り難がるのだと思いますか? それは、まさに「神話」だからです。今進行しつつある現実ではないからです。「神話」だから、骨董的価値があると思われ、数々の奇跡もスンナリ認められる。「神話」だから、言葉を巡って、それぞれの宗派が、都合のよい勝手な解釈が出来るのです。

 

宗教者は、我々が住む「宇宙」というものを、果たして真剣に真正面から考えたことがあるのでしょうか? 彼らは「神様」は語ります。自分たちが承認する「神様」については語ります。しかし「宇宙」のことは語りません。けれども、「神」と「宇宙」と「生命」は、すべて同義です。同じことの言い換えなんですよ。なぜなら、「神」とは、「全て」だからです。

 

「神様」は正しく見て下さっていると、彼らは言います。自分たちが信奉する道のみが正しくて、それ以外は邪道であり邪教だと言います。そちらの道を行く人たちは、みなサタンに支配されているのだと言います。こんな馬鹿げた世界論、宇宙論が、果たしてあるでしょうか?

 

囲碁を思い浮かべてください。自分たちは本当の「神様」を奉じる白い碁石のグループ。でもその横には、サタンの支配下にある黒い碁石のグループも勢力を延ばしている。これが今の世界だと言う。では、その世界を支えているものは何でしょうか? 碁盤ですよ。白い碁石も、黒い碁石も、全部碁盤の上に載っかっている。だとすれば、その碁盤全体が「宇宙」なのだし、それが「神」だ。

 

「神」は、白い碁石じゃない。「全て」だ。この当たり前のことに気がつくことが、21世紀に相応しい、新しい「神学」の出発点になる。

All is in all.(全ては全ての中にある)

だから、当然のことながら、あなたも「神」の一員なのですよ。

 

「神」とは、全智であり、全能であり、全存在であり、宇宙であり、生命であり、完全なる愛であり、法則であり、その全てだ。あなた方は、その「神」の、Sum of God(神の総和)を形成している。

 

神は「居る」のではなく、「在る」のだ。

 

どうでしょう、ここで提案なのですが、「神」に「様」を付けるのを、思い切って止めてみては? 止めたところで、「神」は別に怒りはしない。今までだって、人間たちは「神」をさんざんに言ってきたのだから。「神様、神様」と崇め奉るから、擬人化した感情的なものを、自分の外側に求めてしまうのだ。「神様」は「居る」と信じ、「神様依存症」で生きるしかなくなってしまうのだよ。

 

「神は、未だかつて、自分の名を名乗ったことは一度もありません。なぜなら、宇宙それ自身であるものに名前は必要ないからです」と私は言い、空中を指差して「神はここにも在るし、あなたの中にも在る。そして私の中にも」と言ったのですが、彼女たちには通じませんでした。きょとんとした顔をして「あ、もうお昼だから」と言って帰って行きました。

 

「洗脳」というものは、実に不自由なものだなと思いました。でも彼女たちは、自分が「洗脳」されているとは夢にも思っていません。「信仰」していると思っているのです。正しいことをしていると思っている。この教団のホームページを見ると、「教えの型に固く従うように努力する」とある。もう全然ダメです。「教えの型」も、「固く従う」ことも、「努力する」ことも。

 

宗教の恐ろしいところは、実にそこです。自動車を暴走させて通行人の列に突っ込んだり、山に火を点けて家ごと家族を焼き殺したり、集会所に行って銃を乱射したり。人間が、同じ人間に対して、どうしてこんな酷いことが出来るとお思いですか? 固い「信念」が在るからなのですよ。固い「信念」が、個人の内なる常識をぴょんと超えさせてしまうのです。「信念」が、人を殺人者にしてしまうのですよ。

 

内なる自分にちょっと聞いてみれば、「相手も同じ人間なんだよ。同じ生命(いのち)なんだよ。宇宙の一員なんだよ」という声が直ぐに返って来るはずです。でも「信念」は、その声をあっさり素通りさせてしまう。そして、現代においては、固い「信念」は何も宗教だけに限ったことではありません。政治的「信念」、金銭的「信念」、教育的「信念」、医療的「信念」、etc.。

 

こうしなきゃダメだ、ああしなきゃダメだ。現代人は、押し寄せて来るあらゆる「信念」の洪水の中で、もう息も絶えだえになっている。それが、今という時代の「生きにくさ」の原因です。その鎖から、解き放たれる手助けをしてあげることが猛烈に求められているのに、宗教までもが、自分たちがこしらえた古臭い「信念」を振りかざし、人々をなおも従わせようと躍起になっている。

 

「教えの型」を学ぶ必要はないし、「固く従う」ことなどむしろ避けるべきだし、「努力する」必要も全くない。あなたは、ただ「ありのままでいい」ということに気づくだけでいいのだ。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。」

 

まことにその言葉の通りです。しかし、細い道、狭い門とは、特定の宗教・宗派のことを指しているのではありません。そうではなくて、外から来る何かを「信じる」という大通りから、逸れることが人間には難しいのです。みんながゾロゾロ着いていく道から外れて、自分の好きな小道に一人で分け入っていくということがなかなか出来ない。それには、ちょっとした勇気を必要とするから。

 

重要なのは自分自身なのです。外から来るものを「信じる」ことではない。あなたの現実は、あなたが創っているのですよ。自分が、自分の周囲に起きるありとあらゆる出来事について、何をどう解釈し、どんな意味を与えるか、それだけなのです。だから、ありのままに、自分が導く道を行けばよい。なぜって、これが生命の全ての目的なのだから。

 

「信じない」イコール「疑う」ということではありません。自分の内なる「それ」を信じていれば、外から来るものは、「疑う」ことも「信じる」ことも必要がなくなるのです。いつでもオープンハートでもって接することが出来るのです。そしてその状態にあることを、「魂」の自由、「宇宙」との一体と呼ぶのです。これぞ完全なる独立、かつ宇宙との融合です。

 

だから、内なる声に耳を傾けなさい。自分を信じなさい。内なる細い道を目指すのです。そこは元々、あなたが通って来た道なのですよ。そこを帰るだけです。あなたはひとりぼっちじゃない。いついかなる時でも、わたしと共にある。わたしは「全て」なのだから。わたしが在るように、あなたも在る。ですから、安心して己の道を選ぶのだよ。そして、自身の内に湧く歓喜のロードを進みなさい。

 

 

想いは実現するということと、人生苦との狭間

想いは実現する。この言葉を、スピリチュアルなことに関心のあるあなたなら、きっとどこかで目にしたことがお有りでしょう。ところが言葉とは裏腹に、人生というのはままならないし、ちっとも思い通りにはいきません。いったいこれはどういうことなのでしょう? 若いころの私も、思い通りにならない現実に随分と苦しみました。苦しんで、苦しんで、とうとう還暦を過ぎちゃいましたよ〜。(・ω・`;)ノ

 

仏教学の権威である故中村元さんは、サンスクリット語の「苦(dukkha)」を、〈思い通りにならない現実〉と訳されました。これは名訳とされているのですが、仏教では、そもそもの出発点に「一切皆苦(いっさいかいく)」という捉え方を置いています。それからすると、〈人生ってのはねぇ、ぜーんぶが思い通りにならないんだよォ〉ということになってしまいます。う〜ん、暗い。

 

ま、そりゃそうなんですが、還暦を過ぎた今は、「これはちと言い過ぎだよな」と思うようになりました。確かに、人生は思い通りにならないことだらけです。でも最初から「一切皆苦」という認識を自分の中に置いてしまうと、常時「一切皆苦」という人生を自分の中に創り出してしまうことになってしまいます。皮肉なことに、まさにその意味で、思考は現実化してしまうのです。

 

仏教の限界はそこにある、と今の私は思っています。「苦」を努力してなんとか乗り越えるという発想。それで随分回り道をしましたね。その過程が無駄だったとは思っていませんが、これからの人たちが同じことをする必要はもうないと思います。生老病死が本当に深刻な苦しみであった時代には、その思想は慰めになったことでしょう。でもこれからは、本当の科学(因の科学)を知る時代です。

 

50代の半ばを過ぎた時に、私はそれまでの一切合切を捨てて、「これからは、普通のことが普通に出来る人を目指そう」と決めました。「普通のことが普通に出来る」とは、ご飯を作ったり、お茶碗を洗ったり、洗濯をしたり、買い物に行ったり、掃除をしたり、ゴミを出したり、草取りをしたり、花を育てたり、クルマを運転したりといったことです。これらが、当時の自分には出来ませんでした。

 

なぜ出来なかったかと言いますと、それらに「苦」を感じていたからです。どれも、やればやれないことではなかったけれど、半分「嫌だなぁ」と思いながらやっていた。ですから、それらを難なく普通にこなしている人を見ると、「凄いなぁ」といつも尊敬の眼差しで見ていました。その姿は、私にとっては大きな憧れであり、次の人生の大目標だったのです。

 

台所に、山のように洗い物が溜まっている。「これを洗わなくちゃいけないのか、嫌だなぁ」と思う。そう思うこと無しにスッと出来るようになりたい。そして遂には、喜んで出来るまでになりたい、とそう思ったのです。これはあくまで一般論ですが、そういう意味では、世の女性たちは、男性よりも遥かに進んでいると思います。「虹の学校」の門を叩くのも9割が女性ですし。

 

山奥で暮らして5年になりますが、家の近くに産土神を祀った小さなお宮があるのです。最初に来た時には、過疎地でもう誰も手入れをする人がなく、お宮全体に腰高までの草が生い茂っていました。「よ〜し、これを一つ、自分の『普通の人』になるプロジェクトの実験にしてみよう」と決めた私は、その年から、少しずつ手入れを始めました。

 

最初は、鎌で草を刈っていました。ひとりですので、一日では全部刈れません。しかも、刈っても刈っても、また草が生えてくる。春から夏に掛けては大量の花が地面に落ち、秋になると落ち葉でたちまちいっぱいになってしまいます。それでも続けていたら、2年目から草の背丈が低くなり、地面が見えて来ました。そして3年目になると、草の代わりにうっすらと苔が生えて来たのです。

 

4年目になると、これが逆転し、苔の間に生えた雑草をピンセットで引く抜くスタイルへと変わり、今ではあたり一面に苔が生え、すっかり苔神社に生まれ変わってしまいました。そして、何かしっとりした、凛とした空気があたりに満ちて来るまでになったのです。そうなってみて「ああ、これか!」と、私はやっと気がつきました。「想いは実現する」ということの意味がです。

 

苔を生やしたのは私ではありません。自然にそうなったのです。「自然て、なんて凄い庭師なんだろう」と思いました。苔神社にしようというプランが私にあったわけではありません。今できることをコツコツやっていたら、だんだんと姿形が変わっていった。そして驚くことに、いつの間にか自分も、普通に草取りや掃除ができる、掃除喜爺さんに変身していたのです。

 

ああ、想いは実現する。

 

でも想っただけでは、もちろん実現はしなかったでしょう。行動したからこそ、そうなった。しかしそれは、こうも言えます。先ず「想わ」ないことには、次のステップである「行動」は生じない。そこで、〈人生思い通りにならない〉ことの原因の一段階目は、「想っても行動しない」か、「想いそのものを抱かない」か、そのどちらかだということです。耳が痛い人、おられるのではありませんか?

 

いや、俺は強烈に想っていたし、それなりに行動もした。それでも実現しなかった。そう仰る方もおられるでしょう。かく言う私もその一人でした。20歳の時に映画監督になる夢を抱き、東京に出てきてそのための努力を必死にした。でもいつも、あと一歩というところでなぜか道が閉ざされてしまうのです。

 

泣きたい気持ちに押し潰されそうになる中で、私は自分の運命を呪いました。その不運の才(?)が、その後もずっと自分にまとわりついて離れませんでした。

 

さてそこで、〈人生思い通りにならない〉原因の二段階目です。今になって思うのですが、そのように図られたということです。誰に? 天によって。いや、もっと正確に言えば、自分の「魂」が、そのような軌道修正を選んだと言うことです。あの時もし、自分の「心」が望んだようにスンナリ映画監督になっていたら、今このようなことはしていなかったでしょう。また出来なかったでしょう。

 

そう考えると、不運の日々、屈辱の日々、貧乏に喘いでいた日々、悲しみに打ちひしがれた日々、この世の不条理に憤っていた日々、うつ病で死ぬことしか考えなかった日々、そしてカミさんの病死、それらがみんな今の自分の役に立っているのです。

 

また、もし自分に、生まれつきの霊能でもあったなら、きっと錯覚して、道を誤っていたことでしょう。無能だからよかった。無智だからよかった。だから選ぶことが出来た。お宮さんの掃除を始めた時と同様、ゆくゆくはメッセンジャーになろうなどとは露ほども考えたことはなかった。でもコツコツやっていたら、いつの間にかそうさせられていたのです。天の手足となったのです。

 

あなた方はみな、この世に転生して来る際に、一人ひとりが、自分の今世における「課題」を設定して誕生しています。この「課題」は、自分という「魂」の霊的成長を図るためのもので、前世までのカルマの刈り取りが半分と、今世で新たに味わいたい領域の体験が半分含まれています。そしてそれが体験できる国や環境や両親や自分の肉体を選んで、この世に誕生して来るのです。

 

「魂」は、そのことをもちろん覚えているのですが、成長してこの世を体験し、五感に操られる「心」の方がしだいに優勢になるに従って、大多数の人は、自分が設定して来た転生の目的を忘れてしまいます。このブログで、しばしば「思い出すだけ」と言っているのは、そのためです。何かを掴まなければと思う必要は何もないのです。思い出せば「魂」に帰れるのであり、それが「真我」の発見、つまり自分探しということなのです。

 

ということで、あなたの「想い」が、この「魂」が設定してきた目的に合致し、かつ「宇宙の法則」に則っていることであれば、それは自ずと実現することになります。と、今書きましたが、正確には、あなたの「魂」の初期設定に合致するだけでよいのです。なぜなら、転生時における各「魂」の課題設定そのものが、「宇宙の法則」に則った上で創られているからです。

 

ですから、自分の今の境遇や運命を呪ってはなりません。全部、自分が計画したことです。よくよく見つめてみれば、そこには必ず何らかの学びが含まれていることが解るはずです。それを素直に受け取りなさい。そして感謝しなさい。間違っていたならば修正しなさい。それでこそ、あなたの「魂」が成長できる。カルマも試練も、あなたがご自分に贈ったギフトなのです。だから、自分を愛しなさい。

 

想いは実現する。この言葉を、世に言う「成功者」の方々が発しているのを時々見かけます。また、この手のハウツー本やスピリチュアル系の教材も山のようにあります。それらと、いま言った意味とを、混同しないようにしてください。「成功者」などという概念は、「不成功者」の上に立ってこそあるものだということに気づいてください。そんなものが「宇宙の法則」だと、あなたは本気で思うのですか? わたしが、わたしの子らの差別を望むとでも言うのですか?

 

あなたの本質は「魂」です。「魂」は不死不滅であり、今世で行き着いた霊性のレベルと、この世で体験したことに付随した思いと、身につけた技能と、積んだカルマだけが、次の転生にも運ばれます。境遇や、体験や、物資的なものは、全部、それらのプレイの「道具」に過ぎないのです。このことが解れば、人生にとって、いったい何が重要なことなのかが解ることでしょう。

 

なぜちょっと前のブログで、今度の選挙のことを書いたのか。人は、そしてメディアは、受かったとか落ちたとか、大勝したとか惨敗したとか、そんなことばかりに注目します。でも、それらの何一つ、あの世へも、そして来世へも運べないのですよ。議員の椅子もバッチも、私利私欲で得た財産も名声も、何一つ運べないのですよ。運ばれるのは、その「行動」に至った「想い」だけなのです。

 

そして、自分が蒔いた種は自分で刈り取るという法則があるだけ。だから反省が大事なのです。「因の世界」にまで遡った反省が必要なのです。自分が犯した間違いに直ぐに気がついた者は、その場で直ぐに刈り取れます。でも、間違いに、更に間違いを重ねて生きる者は、雪だるまのようにそれを膨らまし、来世にまで持ち越して、大きく実ったカルマを刈り取らなければなりません。

 

賢明なあなたなら解るでしょう。それは「罰」ではないということが。ただ、自分が為したことは自分に返るという「宇宙の法則」を学ぶチャンスに過ぎないということが。そしてそれは、自分で自分に贈ったギフトなのです。このことが心底解った時、あなたの「魂」は大きく成長する。

 

だから、自分の今の境遇を、嘆かず、朗らかに、精一杯生きなさい。瞬間瞬間の思いを大切にしなさい。そして、何気ない「今この瞬間」に喜びを見出した時、あなたは宇宙の奥義を理解することでしょう。

 

これこそが「神の恩寵」であったということが。

“God bless you” だったのだということが。

 

残念ながら、多くの人が、成功や、物質的な充足を、この世での「想い(願望)」にしているために、それが実現しないと言っては嘆いています。かつての私のように。でもそうではないのです。あなたの真の「想い」は、ソウルの「想い」にこそある。そこに気づけば、そして自分自身を発見できれば、あなたの「想いは実現する」のです。宇宙とは、最初からそのように創られています。

 

だから、友よ。あなたもそのように生きるのだ。