物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。
でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。
さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。
ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?
このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。
*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。
知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。
「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。
その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。
そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。
話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。
なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。
そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。
知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。
「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」
「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー
問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。
あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。
ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。
現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。
それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。
世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。
今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。