by Rainbow School
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無智ということ

物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。

 

でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。

 

さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。

 

ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?

 

このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。

 

*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。

 

知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。

 

「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。

 

その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。

 

そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。

 

話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。

 

なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。

 

そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。

 

知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。

 

「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー

 

問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。

 

あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。

 

ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。

 

現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。

 

それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。

 

世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。

 

今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。

舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。

今の経済システムからの解放こそが、経済再生への道

又吉直樹さんがレギュラーを務めているEテレの番組に『オイコノミア』というのがあるのをご存知でしょうか? この奇妙なタイトルは、古代ギリシャ語の「οικονομία」から来ていて、これが後に英語の「Economy」になったということなんですね。というわけで、『オイコノミア』は、又吉さんがガイドする経済教養番組という内容になっています。

 

「οικος 」は家を意味し「νομία 」は規則・管理を意味することから、元来は「家政術(management of a house government)」の意味だったようです。英語で言う「Economy」は、これを集団的社会のマネジメントに拡大解釈して行ったんですね。ですが今、元々の意味を改めて知ることはとても重要だと思います。なぜなら、「経済」というものは、本来は家庭の幸福を願ってあったと考えられるからです。

 

日本語の「経済」という言葉も、明治期に「Economy」の訳語として使われるようになり、これが定着したということなのですが、この語は、中国由来の「經世濟民(けいせいさいみん)」<世を經(おさ)め、民を濟(すく)う>から造られたもので、「オイコノミア」と同じように、やはり「人々の幸福を追求する」という、下からの積み上げの意味合いが多分にあったと思うのです。

 

ところがどうでしょう。今はまったく違います。庶民の側には、まだ「経済」という言葉に「自分たちの暮らし向き」を仮託する意識が残っていますが、実際に動いている今の「経済」活動は、庶民を無視するどころの話ではなく、庶民の血を絞り上げる「強欲」を基本に置いて営まれています。大企業が儲かれば、その雫が中小零細企業にも滴り落ち、個人にも回るんだという理屈なのです。

 

2014年11月の衆議院選挙では、自民党が「アベノミクス解散」と言い、公明党が「デフレ脱却推進解散」と言って、与党はどちらも『経済再生』を強調して大勝しました。それを信じて投票した方もきっと多かったのではないでしょうか。でもその後、3本の矢、新3本の矢、合計6本の矢がどうなったのか、2パーセントのインフレ目標がどうなったのか、日銀の3倍ものマネーサプライがどこに消えたのか、誰も何も言わなくなったじゃありませんか。

 

有権者は、この当時のことをちゃんと思い出してみるべきです。公約を信用して投票し、公約が実現できなかったら、今度は別の人に投票する。有権者の投票行動というのは、それしか出来ないのですから。

 

国内での困った問題を、外敵を強調することで眼を逸らさせ、みんなチャラにしてしまう。これは権力者が使う常套手段です。何度も同じ手に引っ掛かってはなりません。『経済再生』のスローガンで当選し政権を担ったのであれば、有権者はその成果をちゃんと問うべきです。

 

91年にバブルが崩壊してから、すでに25年が経過しています。その間、日本経済はどんどん落ち込み、日本は借金のみを膨大な額に膨らませて来ました(これがみな、後の世代への負のプレゼントになるのです)。政府は嘘ばかりついていて、都合の悪い数字は出しませんが、日本の相対貧困率は、対米追随の成果により見事にアメリカに次ぐ第2位にまで躍進(?)しました。80年代には、「Japan as Number One」とまで言われた国がです。

 

でもこの貧困は、「見えない貧困」と言われています。なぜ見えないのでしょうか? それは「貧困」の実態が、昔と今とでは大きく異なっているからです。一昔前の「貧困」イメージはと言えば、飢餓と病気でした。ところが今はそうではありません。飢餓はむしろ肥満に変わり、病気は薬漬けに変わっている。これで解るように、現代の「貧困」とは「不足」なのではありません。良質な暮らしが営めないことなのです。

 

良質な暮らしが営めない原因は複合的です。雇用が不安定。賃金が安い。家を持たない人は家賃に多くの生活費を取られる。ダブルワークや長時間労働をしなければ生活費が稼げない。働く時間以外の時間を確保することが難しく、質の良い食事や睡眠を取ることが出来ない。コミュニティが崩壊し孤立している。伝承文化や知恵に無知。以上から、精神的な安定を維持し続けることが難しい。

 

憲法第二十五条(生存権)には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われています。けれども、「文化的な最低限度の生活」というものがどういうものかは示されていませんし、憲法が制定されてからもう70年も経っているわけですから、「文化的生活」の意味を、もう一度考え直さなければならない時期にあると思います。

 

今はこれが、生活保障費というもっぱら「お金」に換算されて考えられているのですが、重要なのはそこではありません。その証拠に、災害復興で仮設住宅を作り生活費を支給しても、自殺されたりする人がいるのです。重要なのは「お金」ではありません。何らかのコミュニティに所属し、働くことを通じて、自分が役立っているという「実感」が持てることにあるのです。

 

これが、現代の「文化的な最低限度の生活」というものです。その基盤の上に立って、自分の身体をいたわり、心を平静にし、汚染されていない食料を手に入れ、手の籠った質の高い食事を作って摂り、清浄な空気を吸い、身体を動かし、自然や芸術にいそしみ、周囲の人々と和し、正直に、そして朗らかに生きることが、「良質な暮らし」を営むということです。

 

ところが、いま言った「良質な暮らし」はおろか、その前提となる基盤すらもが脅かされているのが現状の社会です。バブル崩壊から四半世紀。もういい加減、「経済成長が、人々の幸福をもたらす」という幻想を、人間は捨てるべきではないでしょうか? 今日にあっては、「経済成長」とは、一部の富者をますます金持ちにし、庶民を奴隷化することであると、気づくべきではないでしょうか?

 

そもそも、農産品にしろ工業製品にしろ、生産性は年々飛躍的に向上しているというのに、長時間労働がどうしてなくならないのでしょうか? 世の中に、物はたっぷりあるというのに、どうして貧困が拡大しているのでしょうか? おかしいとは思いませんか? 何かが決定的に間違っているとは思いませんか?

 

その直接的な理由は、労働者の賃金が(世界的規模で)抑制されているからです。生産性の向上分を、企業や投資家がみんな取っていってしまうのです。そのため、生活がギリギリ、カツカツという人がどんどん増えている。生産物は非常な勢いで増加していても、それを買える人というのは増えないのです。

 

するとどうなるでしょう。物は売れずに、常時、物余りになります。物価は下がり、限られた市場を巡って企業同士が争うものですから、力のない中小零細企業は戦いに敗れ、寡占化、独占化が進行して行きます。こうして寡占化、独占化を成し遂げた企業は、市場の支配権を握ってしまうので、賃金についても自社基準を業界スタンダードにしてしまえるのです。

 

これが、みなさんがいま見ている世界経済の動向です。そして競争が、国を超えて、全世界を同時に市場とみなす時代になりました。ファストフードにせよ、小売店チェーンにせよ、ファッションブランドにせよ、ネット通販にせよ、コンピュータにせよ、医薬品にせよ、日用雑貨品にせよ、およそありとあらゆる分野で、世界標準が生まれ、多国籍企業による寡占化、独占化が進行しています。

 

このような中で、労働者は絶望的に無力です。生産性が上がり、物は溢れかえっているというのに、貧困者が増え続けているという理由が、これなのです。つまり、今のこのシステムの基で「経済成長」を言うことは、富者をますます富ませることを意味するだけだということ。そして、全体を俯瞰してみれば、これが、人類の奴隷化、家畜化に他ならないということがお解りでしょう。

 

誰も彼もが疲れています。心を病んでいる人もいる。そうでない一部の人は憑かれている、今のこのシステムに。見えない貧困というのは、何も物理的次元だけのことではないのです。今の経済システムの裏側に存在する「強欲」の波動が、人々の精神を無意識のうちに疲れさせているのです。これこそ、もっと深刻な「見えない貧困」を社会にもたらしています。

 

この世界を支配しようと企図したグループは、人類の奴隷化と家畜化のために、「エリート」という概念を創り出しました。自分たちは表に出ずに、代わりにエリートに社会を治めさせたのです。エリートにはそれなりの報酬を与えて、かつ気分的満足を味わせる代わりに、大衆のコントロールをさせたのです。

 

そして一般人に対しては、「エリートは尊敬されるべき対象」であるという思い込みを植えつけました。これが下支えのために、教育分野にまで下され、子どもの時から優劣を競うことが奨励されていきました。間違った平等(個性を無視する)を説く一方で、自分たちの基準による優劣の判定を下したのです。そしてこの計画はまんまと成功しました。

 

今やあらゆる業界に「エリート」が存在し、一般の人々は、エリートを見ればちょっと身が竦むし、肩書きというものを非常に重んじるようになったのです。でも闇の支配者から見れば、このエリートたちも、失敗したら取り替えのきく単なる駒に過ぎないのです。当のエリートたちは、そのことを、そうなってみるまでは気づきません。

 

今までのシステムに基づく世界経済は、もう限界に近づいています。いつかは花火のように弾け飛ぶでことしょう。理由は簡単です。今のあり方が、自然の摂理、宇宙の法則に反しているからです。多様なものが互いに支え合っているのが、自然の姿です。ごく少数の者が、富の半分を独占するといういびつな姿が、そのままであり続けるわけがありません。

 

人間社会は、これまでの概念とは違う、まったく新しい「経済」の考え方に、今後早急に改めて行かなくてはなりません。それは、「強欲」から「仲良く」への転換です。もう一度、「オイコノミア」の出発点、「經世濟民」の出発点に戻るのです。「経済」は、いったい何のためにあるのか? 人類みなが幸福になるためではないのか。

 

物やサービスを買ってくれる人をとことん追い詰めてしまったら、物やサービスを売るところは無くなってしまいます。どうして人間は、いつも、ゆるやかに進む自殺の道ばかりを選択するのでしょうか。その不毛のシステムから、もう解放されるべきです。買って下さって、喜んでくれる人がいるからこそ、自分も喜べるのです。他者に為したことは自分に為したことと同じ。このシンプルな法則に気がつきましょう。

 

今までの人類を支配してきた「貪欲の法則」を、「平等の法則」に置き換えるのです。全部を平等にシェアするという考え方に、人類全体が今日から改めれば、一人一日4時間、週4日も働けば、全員が充分な生活費が得られて、かつ充分な物も得ることが出来ます。そうして残った時間を、自分の霊性の向上への学習と、楽しみに使うことができます。なぜそっちの道を選ばないのですか?

 

それだけの生産力はすでにあります。そもそも、宇宙に不足はありません。今の世の中の問題は不足ではなく、偏在にあるのです。しかも今後、AIの導入があらゆる分野で急速に進展することになります。そうなった時、問題になるのは、人間の働く場所がもうあまり残っていないということです。「働かざる者食うべからず」といった考え方は、根本から改めなくてはならなくなるでしょう。

 

これまでとは、分配の仕方を変えなくてなりません。でもその前に、人間の心が変わらなくてはどうにもなりません。お前とオレとは違うんだ。自分はエリート。皆を従える権力者である。オレの財産はオレが守らなければ。他人に奪われてなるものか。このような「分離」の概念が、極端な偏在と闘争を生み出しています。宇宙の法則は「偏在」を許しません。そうではなく、神はいつも「遍在」にあるのです。

 

どの「魂」も、根本でそのことを知っています。いま互いに殺し合うために使われている巨額のお金が、仲良くシェアすることに使われたならば、直ちに平和が実現するだけでなく、地上に天国が出現することでしょう。ですから、強欲に「心」に突き動かされるのではなく、ご自分の「魂」の声に耳を澄ましてください。そうすれば聞こえるはずです。

 

「みんな一つなんだよ」

「わたしはあなたで、あなたはわたしなんだよ」と。

選択の時 ― 選挙を前にして ―

「近ごろの世の中と来たら、物騒でイヤなニュースばかりだねぇ」こんな嘆き節が、茶飲み話で囁かれるようになったのは、20年ほど前からだったでしょうか。その当時、多くの人が「なんだかおかしい」という時代変化の雰囲気を感じ取っていたと思います。それがちょっとずつ加速されて行き、今では異常気象が当たり前になったのと同様、物騒でイヤなことだらけが当たり前の社会になってしまいました。

 

経済が停滞期に入っていたということもありますが、1997年には神戸連続児童殺傷事件、2001年6月には附属池田小事件といった世間を震撼させる猟奇的殺人事件が相次いで起こり、心に巣食う闇というものに世間の注目が集まりました。同じ年の9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2011年には東日本大震災が起きました。そして今や、毎日、全世界でテロや暴力や猟奇的犯罪が荒れ狂っているのを我々は見ています。

 

ここで留意しなければならないのは、今の35歳以下、場合によっては40歳以下くらいの人たちは、ずーっと経済不況下の時代に生きて来たのであって、物心つく頃から、物騒でイヤな世の中しか見て来なかったということです。そして今、政府も、政治家も、投資家も、企業も、金融も、マスコミも、医者も、教育者も、宗教も、何もかもが信用できない、ということをこれら若い世代は学習しつつあります。これは表面に現れない、地底のマグマのような隠れた大変化です。

 

こうした状況下にあって、個々人の「心」は、いったいどこに落ち着き先を見つけるのでしょうか? ある人は、こんな世の中には背を向けて、自分の趣味世界に耽溺する道を選ぼうとするでしょう。安全と保証を求める人は、すでに壊れ掛けている世界で、なおエリートの道を目指そうとするかも知れません。一方で、競争に馴染めない人は、厭世的気分に深く沈み込んでしまうかも知れません。

 

そして、今の時代に見られる極めて顕著な「心」の表出として、条件反射的な他者攻撃があります。誰も彼もが、一拍置くということをせずに、ちょっとでも気にくわない奴をみつけると、すぐさま罵詈雑言を浴びせ掛けています。一国の最高指導者にしてそうなのですから、あとは右に倣えです。そうやって、自分以外の他者を貶めることによって、自分の存在意義を保とうとしているのです。

 

この意識を、拡大して「国家」概念にあてはめたものがナショナリズムです。ですから、他者攻撃の願望を心の奥に持っている人は、国家主義や愛国主義思想に簡単になびいてしまいます。けれども、今の日本で「国家主義」を標榜している人たちの大部分が、実は「国家主義」とは真逆の、そして「愛国」とは真逆の、「対米追随主義」でしかないことを彼らは知りません。

 

そして宗主国であるそのアメリカとは、民主主義の名のもとに、今なお世界を蹂躙し続け、世界中の人々を貧困と恐怖と混乱に陥れている元凶なのです。そんなアメリカに追随して来たからこそ、見習って来たからこそ、日本の相対貧困率は、遂にアメリカに次いで第2位になったのです。つまり、いま叫ばれている「愛国」とは、アメリカとの心中へのゆるやかな道です。

 

でもそんなディテイルは、彼らにとってはどうでもよいのです。自分の攻撃的感情を載せられる受け皿があればそれでいい。ですから、そもそも「国家」など一つの行政単位に過ぎない、ということを考えてみようとする余裕がありません。歴史地図帳を開けば、日本においてすら国境というものが変わって来たことは明白です。戦国時代をご覧なさい。列島内にたくさんの国があったじゃありませんか。

 

もし「愛国」を言うのなら、どうして全世界の国々を愛する「愛世界国」と言わないのでしょうか? 日本だけを愛して、隣国、周辺国には敵意を剥き出しにする。これは、我が家の家族だけを愛し、隣家や町内会には敵意を抱くということと何ら変わりがありません。自分の仲間たちだけを寵愛し、それ以外は「こんな人たち」と蔑むことと全く変わりがありません。

 

日本人が「愛国」を言うのであれば、他国にだって「愛国」があることを認めるべきだし、それを尊重すべきです。そこに至って、自分を愛するということは、他者が同様に自分を愛することを認めることであり、反対に他者を愛するということは、他者も他者を愛することが可能ということを認めることになります。そしてこれこそが、「Universal Love」であり、世界平和への唯一の道なのです。

 

「必要なのは対話ではない。圧力です!」

全世界を前にして、まったく何という愚かで恥ずかしい発言なのでしょう。

敵意を剥き出しにして来る訪問者に、あなたは玄関の扉を開けますか? 大人は、お金や肩書きや信念で目が曇っているので見抜けませんが、子どもは即座に見抜きますよ。この人、いい人か、悪い人か。地球人の気づきは、まだまだ遠い。

 

これから書くことに、お気を留める方は極く少数でしょう。きっと嘲笑される方もおられるでしょう。でも大事な大事な選択のステップです。あなた方は今後数十年のうちに、二段階のステップを踏んで気づいていかなくてはなりません。第一段階は「人類支配の構造」に関して、そして第二段階は、その奥にある「因の世界」の法則についてです。人類の覚醒は一挙には進みません。この二段階のステップとなります。

 

今の人類が経験している苦しみの大部分の要素は、太古の時代から繰り返し続いて来たもので、その主因は、ほんの一握りの支配者が、残りの大多数の人間を騙して、奴隷化、家畜化し、その上に君臨していることから生じています。ところがこの支配構造は非常に巧妙で、かつ支配者が表に顔を出さないために、長年に渡って「まさか、そんなことが‥‥」という事態が続いて来たのです。

 

簡単に言えば、壮大なるフィクションを人類全体が演じさせられているということです。しかし、みんな自分が演じさせられているとは、よもや気づかない。なぜなら、上から下までが完全な洗脳状態にあるからです。これがあまりにも強力なために、二段階めの気づきが起こるための、最大のネックとなっているのです。しかし一段階めの気づきが起これば、二段階めに気づくのは早い。

 

選挙で、たとえ誰を選ぼうとも、この構造は直ちには変わりません。アメリカ人は、ここ何度かの大統領選で、また議員の選挙で、このことを随分学習しました。政府や政治家やマスコミは信用できないという人が、かなりの規模に達しています。でも日本人は、まだそこまでは行っていません。何度騙されても、懲りずに今なお、政治家や国に「期待する」という感覚の人が多いのです。

 

今日、政治の行方を決めているのは、政治家や役人ではありません。政治家や役人をコントロールしている企業(なかでも多国籍企業)です。その企業をコントロールしているのは、所有者つまり株主や投資家たちです。この投資家たちをコントロールしているのが金融です。そして金融をコントロールしているのが、世にいう「闇の支配者」です。

 

このような構造の中で、配下にいる政治家たちは、自分たちや企業に都合のよいような法律を制定し、この法律を基に国家運営の基本的なシステムを構築しています。このシステムは、金融制度、軍隊、エネルギー、司法、警察、医療、教育、マスコミ等々、全産業に渡っていますから、結果として、あらゆるものを「闇の支配者」がコントロールできる仕組みになっているのです。

 

選挙制度は全くの茶番で、「民主主義」というものをさも実現しているかのようなポーズのためにあるだけで、いま言ったように、実際には「民主主義」とはほど遠いコントロールが水面下で行われているのです。選挙に「お金」が掛かるのは、「お金」の手当てが可能な人しか出馬できないようにするためであり、政治家は、結局は「お金」をくれる者の言いなりになる構造になっているのです。

 

そして、人類を支配するために考案された最大級の発明品が、この「お金」および利息なのです。「お金」が無いと生きていけないとみんなが思い込み、「お金」の魅力によって操られ、「お金」を得るためにあくせくと働き、住まいを得るためには借金をし、利息を取られ、いよいよお金が無くなれば路上生活を強いられるという風で、大多数の人間が、一生を「お金」の奴隷となって過ごすのです。

 

さて「お金」とは何でしょうか? 人類を、この発明品の奴隷にし、富を偏在化させるための仕組みです。あなたが働くと、その労働は賃金に換算されます。しかしその賃金は直ちには払われないし、雇い主に上前を撥ねられます。こうして、労働を賃金に置き換えることで、富の一部を奪い、それを集め、この「お金」を運用することで、富者がますます太る仕組みが確保されます。

 

そしてこの仕組みを維持するために、「お金」の魅力を方々で力説してシステムに誘い込み、富を巻き上げ、次にその富を使って、大衆をコントロールするのです。と聞いても、「なるほどそうか!」と思う人は少ないでしょう。ピンと来ないか、何か私が大袈裟なフィクションを語っていると思うでしょう。それほど、洗脳が隅々にまで行き渡っている。だから大変なのです。

 

でも考えてみてください。自然界に「お金」があるでしょうか? 「お金」の仕組みが存在するでしょうか? 「お金」がないのに、自然界は、互いのエネルギー交換だけで、ちゃんと全体が調和するシステムを実現し、維持しています。これが自然界の摂理です。それぞれが、自分のあるがままに自由に生きて、それでなおかつ調和が成り立っているのです。そして自然とは、神の表現物であったことに注目してください。

 

今までの「お金」のあり方に疑問を持ち、金融支配の構造の裏を知った人たちの中から、「お金」に関して新たな模索をする動きが出始めています。ドルに代わる基軸通貨とか、「お金」の価値を何をもって担保するかとか、ビットコインだとか。でも、ポイントはそこではありません。「お金」のチェンジではないのです。人類の支配者にとって、「お金」はいわば血流ですから、何があってもこの仕組みを手離そうとはしないでしょう。

 

重要な点は、その構造を支えている人類の「意識」なのです。「お金」の裏側には、人類に共通した「エゴ」というものがあって、これが今の「お金」の仕組みを根底で支えているのです。そこに気づかない限り、根本は変わらない。地球の人間たちは、「お金」が支配する「現実」という海を、自分たちは泳いでいるのだと思っています。しかしこれは、物質世界に創られた、全人類合意のもとに演じられている壮大なフィクションに過ぎないのです。

 

あなた方の本質は「肉体」にあるのではなく「魂」にあるのだと繰り返し語って来ました。あなた方が泳いでいる本当の場所は、実は目に見えない場所、霊性(つまり「宇宙の法則」)が支配している海なのです。みなさんの「魂」は、根本のところでこれに気づいています。ですから、何でも「お金」が支配する、今のような世の中との間で、始終摩擦を起こし、苦しまされているのです。    

 

なぜこんな不毛なことが繰り返されているのでしょうか? それは、人々を支配しようとしている者たちもまた支配されているからです。これが「洗脳」というものの実に奥深いところで、支配者層は、「お金」を持つことが自分の「幸福」を実現することだと信じて疑わないのです。ですが、そんなことはありません。肉体の死を迎えた後も運ばれるのは「お金」ではなくて、霊性の海に生きた体験だけなのです。これが、あなたというアイデンティティの唯一の保障です。

 

そして「宇宙の法則」は、いつも次のことを示しています。自分が為したことは自分に返って来る。自分の「エゴ」によって、多くの人々を苦しめた人には、次にその苦しみを自分が体験するチャンスが与えられます。でもこれは「罰」ではありません。チャンスです。宇宙に「罰」はありません。あるのは法則のみ。そのような山登りのルートを選んだ人には、望み通りのチャンスが与えられるというだけのことです。

 

自然界は、理想社会のあり方をいつも示してくれています。多種多様なものが存在し、それぞれがあるがままに自由に生きることで調和が取れている世界。人間はこれを見習って、もっと謙虚になって、親和と愛に生きることを目指さなくてなりません。一握りの権力者が、他の多くの人々を支配することなどあってはならないし、それは「宇宙の法則」に反していますから、必ず破綻します。

 

小さきもの、多種多様なもの、それらの集合体が「生命」なのです。宇宙も、自然界も、そしてあなたの身体も、すべてそのように出来ています。この事実に気づきなさい。小さきもの、多種多様なもの、自分とは違う個性に敬意を払いなさい。あなたを生かしてくれているものはそれらです。ご自分の身体の細胞を慈しみなさい。そして、細胞を慈しむように、隣人を、自然を、世界の人々を愛するのです。世界は一つ、宇宙は一つです。

大きな安心の上に立って、小さな心配の日々を生きる

人間、死ぬ気になれば何でもできる。これは本当です。この言葉は、何か大きなことにチャレンジをする際の常套句となっていますが、人間にとって、覚悟の最たるものとは「死ぬ気」であるということを端的に表しています。

 

誰もが日常的に抱くちょっとした不安や心配事。失うこと、傷つくこと、病気になること、奪われること、犯されること、不当に扱われること、間違うこと、罰せられること、etc.。これらのちょっとした不安が、どうして生じているかを「なぜ、なぜ?」と追求していくと、最後は必ず「もしかしたら、死ぬかもしれない」というところに落ち着きます。

 

嘘だと思ったら、試してみてください。あなたがいま不安に思っていること、その原因は何かと自分に問うて、考えた答えを紙に書きます。そうしたら、いま紙に書いた事柄は、どのような原因から生じてるのかを、また自分に問いかけてみてください。こうして、この作業を、梯子を掛けるように下へ下へと掘り下げていきます。

 

今のプロジェクトは、うまくいかないかも知れない。

    ↓

もし失敗したら、激しく叱責されるだろう。

    ↓

出世の道が閉ざされるだろうし、居場所もなくなるかも知れない。

    ↓

クビになったら、生活に困る。

    ↓

自分の年齢では再就職も難しい。

    ↓

家族の生活が維持できなくなる。

    ↓

ひょっとしてホームレスになってしまうかも。

    ↓

もう生きていけない。

    ↓

自分は、死んでしまうかも。

 

すると、およそどんなことでも、最後の最後は「自分が死ぬかもしれない」というところに辿り着くはずです。この作業を通じて解ることは、人間が抱く恐怖というものは、結局、みな「死」から出発しているということです。

 

では、なぜ「死」が恐怖の大元なのでしょうか? それは、「死」のさらに先にあると思われる原因が、「死」という言葉の裏側を支配しているからです。それが何か、分かりますか? 「消滅」です。何もかもが「消滅」して無に帰してしまうのではないか。これが、人間を支配している「恐怖」というものの根本です。そして、これは全くの幻想なのです。

 

人間は、「この世」に誕生した瞬間から、「この世」で言うところの「死」に向かって、直ちに走り始めます。ところが、人間はその事実を直視しようとはしません。赤ちゃんが生まれると、みんなが「おめでとう」と言って祝福する一方、死期が真近に迫り、いよいよとなって臨終を迎える時には、沈痛な表情で「ご愁傷様です」と言うのです。

 

誕生→成長→成熟→死というサイクルを、まるで植物の一生と同じように捉えていて、だからこそ、血縁の(自分の想いを託したDNAを持つ)子孫(次の種)を残すことに非常にこだわるのです。そして、成長することについては大いに喜び、死を迎えることについてはこれを忌み嫌い、出来るだけ触れないようにして生活しているのです。

 

だからこそ、「生きる意味が解らない」などと言う言葉が出るのです。直視しようとせずに逃げてばかりいるのですから、解るはずがないではありませんか? そして、矛盾に満ち満ちた行動を取っています。

 

人は、急激にもたらされる「死」はひどく怖れる一方、ゆっくりと進む「自殺」は自ら好んで選択しています。過食、喫煙、過労、過度の飲酒、薬物の摂取、夜ふかし、体を動かさない、等々。肉体は借り物という意識がないので、労わらないし、きちんとメンテナンスをしようという気もあまりありません。

 

これらはみな、「生命」というものを、ただ表面的にしか捉えていないために起きていることです。たとえ、地上で「死」と言われる現象が、いま直ちにあなたに起きようとも、宇宙から、あなたが「消滅」することは絶対にありません。それは、「生命」というものを、じっくり観察していれば自ずと解ることです。

 

春先に、一粒の種から芽が顔を出し、夏に大きく成長し、そして秋に豊かな実をつける。やがて冬枯れし、跡形も無くなったようになってしまう。でも、その植物は「消滅」したのではありません。その植物を構成していた元素は、一部は気体となり、一部は土に帰ります。そしてまた、他の植物や動物のために供されるのです。あなたの肉体を構成していた元素も、これとまったく一緒です。

 

「誕生」や「死」は、そうした変化のサイクルの、ある局面に、そうした名前を付けただけのものであって、自然界を冷静に観察すれば、トータルで失われるものは何もないのです。ただ「変化」のみがあるのです。これこそが「生命」の実相であり、「生命」とは「宇宙の変化」と同義語なのです。ですから、あなたの「生命」も、失われることは絶対にありません。

 

しかし、そう言ったとしても、あなたの中には釈然としないものが残るでしょう。図らずも、それは、「あなたという存在は何か?」という命題につながっています。あなたという存在は何か? あなたをあなた足らしめているものは「意識」です。“ Cogito, ergo sum ” 我思う、ゆえに我あり。あなたは、あなたという「意識」を持つ存在です。

 

さて、この「意識」が、どこから生じているかが問題です。現代科学の常識では、「脳」が「意識」を生じさせていると説明します。しかしこれは、これまでも繰り返し言ってきたように、完全な誤りです。もしそうだとして、ではその「脳」を動かしているものは何なのでしょうか? 「脳」が自発的に動いて、その人の「意識」を創り出すとでも言うのでしょうか?

 

そうだとすれば、その人の「脳」とは何なのでしょうか? 「意識」のあたかも支配者として振る舞う「脳」は、いったい何ものであって、何のためにそのようなことをするのでしょうか? まったく馬鹿げた仮説です。このような矛盾だらけの仮説を「科学」だと言って信じ込み、反対に真実である「魂」の実在を否定して、右往左往しているのが今の文明社会なのです。

 

あなたの「意識」は、物質世界という一つの次元(霊性密度)にだけ存在しているのではありません。あなたの「意識」は、階層化した多次元にまたがって、今のこの瞬間も、同時に存在しているのです。ところが、肉体を纏っている時には、五感というセンサーの刺激に強く引っ張られているために、他の次元で働いている「意識」があまり意識化されていないのです。

 

でも、皆無ではありません。パッとあかりが灯るようにやってくる、直感やインスピレーション。なんだか知らないけれども沸き上がるイヤーな気分。以前にも出会ったことがあるような懐かしい気持ち。「そっちじゃないよ」と危険を知らせる空耳。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに胸に沸き上がる感動。これらはみな、あなたの別の次元にある「意識」です。

 

あなたが、地上で言うところの「死」を迎えると、肉体を構成していた元素はバラバラになり、それまで物質世界を捉えるためにあった五感というセンサーがなくなります。そうなって初めて、あなたは、ご自分が本来の多次元的存在であることにハッキリと気がつくのです。この存在が、いわゆる「魂」です。つまり「本当のあなた」です。

 

肉体というのは、ある一つの時代の「生」を生き抜くドレスに過ぎず、次に生まれ変わる時には、また素材を集めて染色し(DNA)、糸を織り上げて(細胞分裂)、新しいドレスに着替えるのです。この間、母親は、自分の胎内に生じるものをコントロールすることは出来ません。それでも、赤ちゃんが創造され、誕生するのです。その「魂」自身の意思によって。

 

いま言ったこと(魂の永遠)を、私はここで証明しようとは思いません。前世の記憶を持つ人や、臨死体験の事例をいくら述べたところで、「そんなもの信じない」という人はどうしようもありません。そもそも、限定された世界から、多次元的世界の全容を知ることは不可能です。ですから、いつも通りこう申し上げるしかありません。解る人には解ると。解る人というのは、「信じている」のではないのです。知っているのです。

 

さて、このように、あなたの肉体を構成していた元素が、宇宙から「消滅」することはあり得ず、また、あなたという「意識的存在」が「消滅」することも、絶対にありません。それは、論理的に考えても解るはずです。

 

全智、全能、全存在は、宇宙(=神)というものを、それぞれ別の視点から眺めたものです。これらは一つのもので、それゆえ三位一体と呼ばれます。全智とはすべての知恵や知識。全能とはすべてのエネルギーであり力(Force)。全存在とは、文字通りあらゆるものです。この三位一体は、増えることも減ることもないし、ただ変化だけがあるのです。

 

なぜ変化し続けるのか? それ自身が、体験して成長するためです。そして、あなた方はそのための学徒として宇宙に放たれました。あなた方は、全員が、宇宙を構成する一員なのです。あなたの意識は「全智」の一部であり、あなたの活動エネルギーは「全能」の一部であり、あなたの身体は「全存在」の一部なのです。それがどういうことか、お解りですか?

 

宇宙には始まりも終わりもなく、ただ変化があるのみ(=無常)です。一見、誕生や死として見える局面も、この変化のサイクルの中の一つの場面に過ぎず、あなたが「消滅」することは、絶対にないのです。あり得ません。この大いなる安心の上に立ちなさい。いや、すでに立っていることに気づきなさい。「最初から救われている」という意味は、実にこれなのです。

 

何を不安に駆られているのですか?

何を怖れているのですか?

世間が繰り出す脅しに、何をそんなにビクビクしているのですか?

 

たとえ世界が破滅しようとも、あなたが消滅することはありません。あなたは、わたしの一部なのですよ。そのわたしが、どうして、あなたに恐怖を与えますか? 何のためにそんなことをしますか? 右手で左手を叩くとでも言うのですか? よく考えてみてください。

 

今の人間たちを見ていると、わたしですらも悲しくなってしまいます。なんのために地上に生を受けたのですか? あなたの役目を果たしなさい。宇宙の法則に則った生き方をしなさい。自分を愛し、そしてすべての人々を愛しなさい。もうグズグズしている暇はありません。あなたが世界を変えるのです。

 

いつまでもフォロワーであり続けていてはいけません。

誰かに期待したら、その誰かに裏切られます。

あなたはあなた。

わたしがそのように創ったのです。そのことを忘れたのですか?

 

繰り返し言います。

あなたの役目を果たしなさい。

そして今の混乱した世界を、愛の世界に変えなさい。

あなたをいつも見守り、応援していますから。