これからお話することは、ある人にとっては、感情を逆撫でするような腹立たしさを誘発してしまうことになるかも知れません。しかしある人にとっては、大いに慰めとなり、生命(いのち)というものについての理解がいっそう進むものになるかも知れません。私としては、できれば後者であって欲しいと願って、今日このテーマを書くことにします。
実は先日、同様の件である方から相談を受け、お話をする機会がありました。その時には、その方のご事情に添った回答をして差し上げたのですが、後で同じように悩まれている方も多くいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、普遍的な観点から、「魂」および「宇宙の法則」に照らして「自殺」というものをどう考えていったらよいかをお話することにしました。
統計によると、平成10年から14年連続して3万人を超えていた年間自殺者数も、ここ3年は減少に転じ、平成26年は2万5千人ほどであったそうです。しかしこの数字は、警察庁の基準に照らして「自殺」と断定されたもののみの人数です。そのため、実際にはもっと多いのではないかという声もあります。私の親戚にも自殺者がおりますし、友人の中で親兄弟が自殺したという人も何人かおられます。
さて、最初にみなさんに考えていただきたいことは、病死、老衰死、事故死といった死亡原因と、「自殺」とでは何がどう違うのかということです。さらに言えば、殺人、孤独死といったものと「自殺」とでは、何がどう違うというのでしょうか? 何か「自殺」だけを、特別視しなければいけない理由というものがあるのでしょうか?
「自殺」を特別視してしまう理由は解ります。自殺者がそれを決意し実行するに至った心境をおもんぱかって、自分の心がザワザワと騒ぐからです。さぞかし無念であったろう。どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。もっと自分が思いやりを示していれば、なんとかしてあげることも出来たのではないだろうか。あの一瞬、あの時のひとことが悔やまれる‥‥。etc.
しかしそうやっていくら考えても、死んだ者は戻っては来ません。そこに、処理しきれない感情がいつまでも残ってしまうのですね。でもね、そのことは、病死であっても、老衰死であっても、事故死であっても、殺人であっても、孤独死であっても、みな同じことなのではないでしょうか? 要は、遺された者が、その「死」に対してどのような意味をそこに見出すかということです。
釈迦は、説法に歩いた旅先で供養に出された食事(一説によると毒キノコだったと言われている)に当たって亡くなりました。この時の弟子たち、さらにはさまざまな生き物たちがこぞって嘆き悲しむ姿を描いた絵が『釈迦涅槃図』です。この時、釈迦は自分の死に際して、「死は珍しいものではない。だから弟子たちよ、みな力強く生きよ。」と語ったと伝えられています。
そうなんです。「死」は珍しいものではありません。どの「死」も「死」です。「死」に特別な意味を見出している、あるいは付与しているのは、遺された者たちの方なのです。それは、残された者の心の中に創り出された「観念」であるということ。そしてこの「観念」をどう創り出すか、身近な者の「死」に対してどんな「意味」を付け加えるかは、自由意思に任されているということです。
さらに言えば、これまで何度も申し上げてきたように、この世で言うところの「死」は消滅ではありません。「魂」は永遠であって、肉体の死後も生き続けますし、肉体を構成していた原子も決して消滅することはなく、組成を変えて他の生命を育む素になって行くのです。つまり、この世で「死」と呼ばれている現象は、「魂」の永遠性の中の一つの変化に過ぎないのです。
一般的に言って、人は「死」という現象を重々しく捉え過ぎています。このことは、とりもなおさず「生」に対しても重々しく考え過ぎているということを意味しています。「生きること」を重々しく考え過ぎているから、反対の「死」も重々しいものになってしまうのです。そこでは、「生きていること」のみに価値があり「死んだら何もかも終わり」という概念がまかり通っているのです。
結局のところ、「生命(いのち)」というものの実相について何も理解しないまま、多くの人はただ「死」を忌み嫌い、その延長で、「自殺」することや「自殺」の話題に触れることをタブー視しているのです。
いいですか。人生は「たった一度きり」なのではありません。
霊性の向上を目指し、物質界でしか味わえない体験をするために、「魂」は何度も何度も生まれ変わります。この時、個々の「魂」は、みな次の「生」での課題を自ら設定し、この世に誕生を果たしているのです。その意味でも、自分の「生」に関して、全面的に責任を有しているのは、その人自身なのだということです。このことは肝に命じてください。
私たちは一生のうちに、実にたくさんの人と出会います。そして相互に影響を与えあっています。中でも近親者は、過去世においても縁の深かった「魂」である場合が多く、輪廻転生する過程で、役どころを変えて再び縁を結びます。なぜそうなるかと言えば、前世までに積んだカルマを解消するチャンスとして、そのようなチャンスが設けられているのです。
さて、人間関係というものは常に相互的なものであって、一方通行ということは絶対にありません。たとえそれが支配と被支配の関係だったとしても、その関係を成立させているのは、お互いの意思による相互作用の結果なのです。そのことから、次のように言うことができます。あなたは、他の「魂」のこの世における生死について、責任を負うことは出来ない。
これは多分に誤解や反発を与えてしまう言葉かも知れません。この世の常識とはまるで違うからです。たとえば、飛行機を操縦するパイロットは乗客の命に対して責任はないのか、人の命を奪った殺人者に罪はないというのか、といったことです。しかしここでは敢えて、霊的世界における真実を述べておきます。そもそも宇宙には罪も罰もないのです。それを設定したのは、人間社会なのです。
この件については、いつかまた詳しく取り上げるかも知れませんが、今ここで強調しておきたいことは、近親者の「死」に関して、あなたが過度の責任観念を持つ必要は一切ないということです。一時は、激しいショックに襲われるかも知れません。また、喪失の悲しみに打ちひしがれるかも知れません。しかし、それをいつまでも引きずってしまってはなりません。
そう言うと、薄情な気がして納得がいかないかも知れませんが、では逆を考えてみてください。あなたが自殺をしたとして、今は「魂」のみとなったあなたは、遺された近親者に対して、いつまでも自責の念に駆られていて欲しいと望むでしょうか? たぶん逆でしょう。元気に、明るく暮らして欲しいと願うのではないでしょうか。なぜなら、そのように「生きる」ことは、〈彼ら自身の責任〉だからです。
こうして人は、それぞれが自分の「生」に対してのみ責任を持っているのです。それは、転生時に設定して来た課題の現実化にちゃんと向き合い、その体験から意味を引き出し、そして乗り越えるという人生行路です。人間関係というものは、そのために設定されたドラマの配役なのです。そこでは、誰もが主役であり、そして同時に他者の脇役としても存在しているのです。
と、ここまで語っても、「いや、自殺は特別だ」となお納得できない方もきっとおられることでしょう。それは、自殺者の「魂」の行方について、誤った知識が世間に流布されているからです。いわく、「自殺者の森に閉じ込められる」「無間地獄に堕ちてさまよう」「永遠に成仏できず、懲罰的苦しみを得る」等々。ここでハッキリ言っておきますが、そのようなことは絶対にありません。
中間生に帰ってから、今世での課題にちゃんと取り組まなかったことに気づいて恥ずかしい思いをすることはあったとしても、「自殺」もやはり一つの「転化」のバリエーションに過ぎないのです。しばらくすれば、「今度こそ」と、再び課題に取り組むチャンスが与えられます。
また、思いを残して逝った、混乱のまま亡くなったという「魂」に対しては、落ち着くまでの癒しの場が、ガイドたちによって提供されますのでどうぞ安心してください。
まれにですが、現世の物質的世界に非常に執着の強かった「魂」の中には、自分が死んだことに気づかないで、生前に縁のあった場所に留まる場合があります。しかしそうした場合であっても、成長スピードは遅いかも知れませんが、いつかは必ず元へ帰って行くことになります。
重要なことは、そうした「魂」の存在を怖れないことです。怖れなければ実害はありません。考えてみてください。実害ということで言えば、生き霊(つまり生きている人間)の方がはるかに怖いじゃありませんか。なにしろ、生き霊が繰り出したパンチは、あなたの顔面を確実にヒットすることになるんですからね。
ということで、「いま地獄をさまよっている」などと言う怪しげな霊能者の口車には乗らないようにしてください。そういう脅しや、不安を掻き立てる者の言うことに耳を傾けたら、その術中にハマってしまいますよ。いいですか? あなたのリアリティというものは、常にあなたの想像が創造しているんですよ。
不安を煽るようなことを言う者はみな無智なのです。宇宙の全てを創造した創造主が、なにゆえ自身の子であるところの「魂」に、恐怖や不安や罰を与えると言うのでしょうか? 宇宙の法則から言って、そんなことは絶対にありません。なぜなら、宇宙の全創造物、それは創造主ご自身でもあるからです。
ですから、何も心配することなく、明るく、元気に、楽しく生きることです。それが、あなたの今度の「生」に対する責任を全うするということであり、同時に来世にもつながるポジティブなカルマを演出する元にもなって行くのですから。