by Rainbow School
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近親者の「自殺」ということについて

これからお話することは、ある人にとっては、感情を逆撫でするような腹立たしさを誘発してしまうことになるかも知れません。しかしある人にとっては、大いに慰めとなり、生命(いのち)というものについての理解がいっそう進むものになるかも知れません。私としては、できれば後者であって欲しいと願って、今日このテーマを書くことにします。

 

実は先日、同様の件である方から相談を受け、お話をする機会がありました。その時には、その方のご事情に添った回答をして差し上げたのですが、後で同じように悩まれている方も多くいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、普遍的な観点から、「魂」および「宇宙の法則」に照らして「自殺」というものをどう考えていったらよいかをお話することにしました。

 

統計によると、平成10年から14年連続して3万人を超えていた年間自殺者数も、ここ3年は減少に転じ、平成26年は2万5千人ほどであったそうです。しかしこの数字は、警察庁の基準に照らして「自殺」と断定されたもののみの人数です。そのため、実際にはもっと多いのではないかという声もあります。私の親戚にも自殺者がおりますし、友人の中で親兄弟が自殺したという人も何人かおられます。

 

さて、最初にみなさんに考えていただきたいことは、病死、老衰死、事故死といった死亡原因と、「自殺」とでは何がどう違うのかということです。さらに言えば、殺人、孤独死といったものと「自殺」とでは、何がどう違うというのでしょうか? 何か「自殺」だけを、特別視しなければいけない理由というものがあるのでしょうか?

 

「自殺」を特別視してしまう理由は解ります。自殺者がそれを決意し実行するに至った心境をおもんぱかって、自分の心がザワザワと騒ぐからです。さぞかし無念であったろう。どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。もっと自分が思いやりを示していれば、なんとかしてあげることも出来たのではないだろうか。あの一瞬、あの時のひとことが悔やまれる‥‥。etc.

 

しかしそうやっていくら考えても、死んだ者は戻っては来ません。そこに、処理しきれない感情がいつまでも残ってしまうのですね。でもね、そのことは、病死であっても、老衰死であっても、事故死であっても、殺人であっても、孤独死であっても、みな同じことなのではないでしょうか? 要は、遺された者が、その「死」に対してどのような意味をそこに見出すかということです。

 

釈迦は、説法に歩いた旅先で供養に出された食事(一説によると毒キノコだったと言われている)に当たって亡くなりました。この時の弟子たち、さらにはさまざまな生き物たちがこぞって嘆き悲しむ姿を描いた絵が『釈迦涅槃図』です。この時、釈迦は自分の死に際して、「死は珍しいものではない。だから弟子たちよ、みな力強く生きよ。」と語ったと伝えられています。

 

そうなんです。「死」は珍しいものではありません。どの「死」も「死」です。「死」に特別な意味を見出している、あるいは付与しているのは、遺された者たちの方なのです。それは、残された者の心の中に創り出された「観念」であるということ。そしてこの「観念」をどう創り出すか、身近な者の「死」に対してどんな「意味」を付け加えるかは、自由意思に任されているということです。

 

さらに言えば、これまで何度も申し上げてきたように、この世で言うところの「死」は消滅ではありません。「魂」は永遠であって、肉体の死後も生き続けますし、肉体を構成していた原子も決して消滅することはなく、組成を変えて他の生命を育む素になって行くのです。つまり、この世で「死」と呼ばれている現象は、「魂」の永遠性の中の一つの変化に過ぎないのです。

 

一般的に言って、人は「死」という現象を重々しく捉え過ぎています。このことは、とりもなおさず「生」に対しても重々しく考え過ぎているということを意味しています。「生きること」を重々しく考え過ぎているから、反対の「死」も重々しいものになってしまうのです。そこでは、「生きていること」のみに価値があり「死んだら何もかも終わり」という概念がまかり通っているのです。

 

結局のところ、「生命(いのち)」というものの実相について何も理解しないまま、多くの人はただ「死」を忌み嫌い、その延長で、「自殺」することや「自殺」の話題に触れることをタブー視しているのです。

 

いいですか。人生は「たった一度きり」なのではありません。

 

霊性の向上を目指し、物質界でしか味わえない体験をするために、「魂」は何度も何度も生まれ変わります。この時、個々の「魂」は、みな次の「生」での課題を自ら設定し、この世に誕生を果たしているのです。その意味でも、自分の「生」に関して、全面的に責任を有しているのは、その人自身なのだということです。このことは肝に命じてください。

 

私たちは一生のうちに、実にたくさんの人と出会います。そして相互に影響を与えあっています。中でも近親者は、過去世においても縁の深かった「魂」である場合が多く、輪廻転生する過程で、役どころを変えて再び縁を結びます。なぜそうなるかと言えば、前世までに積んだカルマを解消するチャンスとして、そのようなチャンスが設けられているのです。

 

さて、人間関係というものは常に相互的なものであって、一方通行ということは絶対にありません。たとえそれが支配と被支配の関係だったとしても、その関係を成立させているのは、お互いの意思による相互作用の結果なのです。そのことから、次のように言うことができます。あなたは、他の「魂」のこの世における生死について、責任を負うことは出来ない。

 

これは多分に誤解や反発を与えてしまう言葉かも知れません。この世の常識とはまるで違うからです。たとえば、飛行機を操縦するパイロットは乗客の命に対して責任はないのか、人の命を奪った殺人者に罪はないというのか、といったことです。しかしここでは敢えて、霊的世界における真実を述べておきます。そもそも宇宙には罪も罰もないのです。それを設定したのは、人間社会なのです。

 

この件については、いつかまた詳しく取り上げるかも知れませんが、今ここで強調しておきたいことは、近親者の「死」に関して、あなたが過度の責任観念を持つ必要は一切ないということです。一時は、激しいショックに襲われるかも知れません。また、喪失の悲しみに打ちひしがれるかも知れません。しかし、それをいつまでも引きずってしまってはなりません。

 

そう言うと、薄情な気がして納得がいかないかも知れませんが、では逆を考えてみてください。あなたが自殺をしたとして、今は「魂」のみとなったあなたは、遺された近親者に対して、いつまでも自責の念に駆られていて欲しいと望むでしょうか? たぶん逆でしょう。元気に、明るく暮らして欲しいと願うのではないでしょうか。なぜなら、そのように「生きる」ことは、〈彼ら自身の責任〉だからです。

 

こうして人は、それぞれが自分の「生」に対してのみ責任を持っているのです。それは、転生時に設定して来た課題の現実化にちゃんと向き合い、その体験から意味を引き出し、そして乗り越えるという人生行路です。人間関係というものは、そのために設定されたドラマの配役なのです。そこでは、誰もが主役であり、そして同時に他者の脇役としても存在しているのです。

 

と、ここまで語っても、「いや、自殺は特別だ」となお納得できない方もきっとおられることでしょう。それは、自殺者の「魂」の行方について、誤った知識が世間に流布されているからです。いわく、「自殺者の森に閉じ込められる」「無間地獄に堕ちてさまよう」「永遠に成仏できず、懲罰的苦しみを得る」等々。ここでハッキリ言っておきますが、そのようなことは絶対にありません。

 

中間生に帰ってから、今世での課題にちゃんと取り組まなかったことに気づいて恥ずかしい思いをすることはあったとしても、「自殺」もやはり一つの「転化」のバリエーションに過ぎないのです。しばらくすれば、「今度こそ」と、再び課題に取り組むチャンスが与えられます。

 

また、思いを残して逝った、混乱のまま亡くなったという「魂」に対しては、落ち着くまでの癒しの場が、ガイドたちによって提供されますのでどうぞ安心してください。

 

まれにですが、現世の物質的世界に非常に執着の強かった「魂」の中には、自分が死んだことに気づかないで、生前に縁のあった場所に留まる場合があります。しかしそうした場合であっても、成長スピードは遅いかも知れませんが、いつかは必ず元へ帰って行くことになります。

 

重要なことは、そうした「魂」の存在を怖れないことです。怖れなければ実害はありません。考えてみてください。実害ということで言えば、生き霊(つまり生きている人間)の方がはるかに怖いじゃありませんか。なにしろ、生き霊が繰り出したパンチは、あなたの顔面を確実にヒットすることになるんですからね。

 

ということで、「いま地獄をさまよっている」などと言う怪しげな霊能者の口車には乗らないようにしてください。そういう脅しや、不安を掻き立てる者の言うことに耳を傾けたら、その術中にハマってしまいますよ。いいですか? あなたのリアリティというものは、常にあなたの想像が創造しているんですよ。

 

不安を煽るようなことを言う者はみな無智なのです。宇宙の全てを創造した創造主が、なにゆえ自身の子であるところの「魂」に、恐怖や不安や罰を与えると言うのでしょうか? 宇宙の法則から言って、そんなことは絶対にありません。なぜなら、宇宙の全創造物、それは創造主ご自身でもあるからです。

 

ですから、何も心配することなく、明るく、元気に、楽しく生きることです。それが、あなたの今度の「生」に対する責任を全うするということであり、同時に来世にもつながるポジティブなカルマを演出する元にもなって行くのですから。

真の “貧困” 問題とは

・「経済成長、経済成長!」と言い続けながら、なぜ日本経済は25年も停滞し続けているのでしょうか?

・グローバル化が更なる富をもたらすと言っていたのに、なぜ先進国の多くが財政危機を迎えるようになったのでしょうか?

・生産力が飛躍的に高まり、物が溢れかえっているというのに、世界にはなぜそれらを手にできない人がいるのでしょうか?

・IT化やロボット化の進展で、人力に頼る労働は激減しているはずなのに、なぜ今なお、人は長時間労働を強いられているのでしょうか?

 

答えはシンプルです。今の社会の根本に「分かち合う」という考えがないからです。競争に勝った者のみが成功と富を手にできる。この間違った思想に、骨の髄まで染まった人が、政治、経済、教育分野の指導者として社会に君臨し、社会全体をこの思想で覆い尽くし、結果として、このカラクリに気づかされぬまま、一般の民衆がその犠牲となっているのです。

 

その行いが「宇宙の法則」に適っているかどうかは、自然に照らしてみれば判る。

 

自然界には食物連鎖というものがあります。これは一見、ただの弱肉強食のように見えますが、見方を変えれば、命を引き継ぐ法則です。食物連鎖の上位に位置する種も、下位を構成するシステムがあるからこそ生きていけるのです。そのことを彼らは知っています。もしこのバランスが崩れてしまったら、上位に位置する種も絶滅してしまう可能性があるのです。

 

ところが人間だけはそう考えない。個人でも、会社でも、国でも、みんな競争にただ勝つことしか考えておらず、勝者の陰には、たくさんの敗者がいることなど微塵も考えない。その人たちが、回り回ってお客さんとして、自分を養ってくれているのかも知れないのに、そういう想像力が働かない。そして富を貪り尽くそうとする。

 

最近、二つのテレビ番組を観ました。一つは「NHKスペシャル」の『見えない “貧困”  〜未来を奪われる子どもたち〜』、もう一つは『ゴミ処分場のオーケストラ』というドキュメンタリーです。どちらも “貧困” 問題を扱っているのですが、二つを観比べて、「貧困」に対するアプローチがこうまで違うのかと、大いに考えさせられました。

 

日本では今、6人に1人の子どもが、相対的貧困率でいうところの “貧困” に陥っていると言われています。Nスペの『見えない “貧困”  〜未来を奪われる子どもたち〜』は、そういう現状を踏まえて、では具体的に、どんなところにその「貧困」の実態が見られるのかに迫った番組です。

 

相対的貧困率の指標では、夫婦と子ども二人の標準世帯で年収244万円以下、一人世帯では122万円以下が「貧困」家庭ということに分類されます。私の年収は一時期は30万円くらいでしたが、国民年金が頂けるようになってから飛躍的に増え、昨年は110万円くらいになりました。でもこの指標に照らせば、今なお、私も立派な「貧困」。

 

今や列記とした、押しも押されもせぬ、誰がなんと言おうと、世界に冠たる、他の追従を許さぬ、まごうことなき「貧困」です! って、ちと強調し過ぎかな?

 

この番組を観て違和感を覚えたのは、「見えない “貧困”」の可視化(見えるようにすること)の試みとして、「剥奪指標」なるものが設定され、全国で大規模調査が行われているというのです。えっ、「剥奪指標」?、どなたが思いついたのか知りませんが、全くもっていやなネーミングだなぁ。(どうも社会学用語の「deprivation」の訳語のようですね)

 

この「剥奪指標」なるものは、普通の家庭だったら当たり前のように子どもが享受できている事柄が、どれだけ〈奪われているか〉を見るもので、「新しい服や靴が買えない」「病院に行かせることができない」「本を買ってあげることができない」「塾に行くことができない」「家族旅行に行けない」等々の項目が並んでいます。

 

これらが満たされていない場合、それは「剥奪」されたものとしてカウントされ、そして、例えば3つ以上ある家庭には「支援」が必要だ、という議論になっているのです。

 

驚いたのはそればかりではありません。番組では何人かの子どもたちを取材していたのですが、少しでも家計を助けようとアルバイトをしたり、服はお古で我慢したり、母親に代わって家事をしたり、弟や妹の世話をしたりと、みんな粘り強く賢い子たちなのです。それなのに、大人たちは「早く大人にさせてしまって申し訳ない」などと口々に言うのです。

 

自慢じゃないですが、私の子ども時代は、先の「剥奪指標」は全部当てはまります。満点のキンコンカンだ。上が姉二人だったので、お下りのセーターが臙脂色だったのを学校でからかわれたことがある。いったい誰が、男は青系、女は赤系と、色を差別することを決めたのだ。どんな色だって平等な筈じゃないかと、その時は反発しました。

 

中学校の学生服も、全校でただ一人オフクロの手作り。生地がギャバジンだったので、集合写真を撮ると、自分だけがつや消しのブラックで目立つこと。オフクロが時たま送って来る手紙の封筒は、晩年になっても広告チラシの裏を使って糊付けした手作りでした。我が家はそんな風だったので、3人姉弟の誰も大学には行けなかった。

 

オヤジが死ぬ間際になって、虫の息で何を言うのかと思ったら、「あんまり貧乏で、イヤか?」とポツリ。思わず「そんなことはないよ」と返したのですが、その気持ちは本当でした。貧乏で辛いと思ったことなどありません。それがフツーでしたから。ただ、(親父はそんなことを気にしていたんだなぁ)と分かったのが、ちと悲しかった。

 

私の子ども自分には、その程度の貧乏は当たり前だったのです。家電製品などラジオしかない時代。そして世界には、今も同様の子どもたちがいっぱいいる。それなのに、何が「剥奪指標」でしょうか? 「早く大人にさせて申し訳ない」でしょうか? 子ども時代に背伸びをして、大人の真似をしたことが一度も無かったのでしょうか?

 

家が貧しかったことをバネにして、立志伝中の人物となった偉人は大勢います。番組に出ていた子どもたちも、みなそれぞれが自分で考え、工夫して生きている素晴らしい子たちです。

 

貧しき者は幸いである。

 

なぜ貧しき者は幸いなのでしょう? それは、貧しさゆえに、満たされた者では到底気づかないような「気づき」に出会えるチャンスがあるからです。そのチャンスを、「支援」の名の下に奪っていいのでしょうか? これこそが「剥奪」です。

 

その行いが理に適っているかどうかは自然を見ればいい。

 

あなたが困った時、自然は「支援」というおせっかいをして来るのでしょうか? 自然はいつもあるがままです。Silent(沈黙)です。でも、いつでもあなたをしっかりとホールドし、生かしてくれているのです。そこに気づきなさい。

 

現代に暮らす日本人の不幸は、真の問題に眼を向けずに、なんでも「支援」で片づけようとするところにあります。そもそも「貧困」世帯がこれほど増えてしまった原因はどこにあるのでしょうか? そのように、政治が舵取りをして来たからです。そこを変えずして、「支援」でなんとかしようとしても、根本の問題は解決しません。

 

今の日本社会は、雇用にせよ、年金にせよ、医療にせよ、教育にせよ、およそありとあらゆる分野で「政治」が問題を作り出しておきながら、それをまた「支援」で解決しようとするやり方が蔓延しているのです。これを称して「マッチポンプ(自分で火をつけ、自分で消火活動をするの意)」と言います。

 

それが、真の問題から眼を逸らさせるとともに、裏で巨大な利権構造を生んでいることに、いい加減に気づきましょうよ。私はこのブログで、何度も大衆洗脳について書いてきました。それを読んで、「このオッサン何を言うてんねん」と思っておられる方も多いとは思いますが、「洗脳」というものは、正にこのように進展していくのです。

 

*真の問題:これには結局二つある。社会システムと、個人の心のあり方と。

 

「剥奪指標」というものを考案した人も、調査を行った人も、またそれを報じたNHKも、そこで話すアナウンサーも、スタジオで「子どもなのに大人にさせて申し訳ない」と語るゲストも、これから「支援」をしていかなければならないと考えている人も、みんな「善意」でそれをしていると思っているのです。でも、真の問題には、決して迫ろうとはしません。

 

これが「洗脳」の実に恐ろしいところで、「剥奪指標」なるものが今後一般化し、それが「相対的貧困率」と結びつけて語られるようになると、〈みんなが持っているものを持たない人間はおかしいんだ〉〈その原因は「お金」がないことにあるんだ〉〈「お金」がない者は「支援」を受けない限り、ずっと不幸のままなんだ〉という考えを植え付けてしまいます。

 

事実、「介護保険」なるものを考え出したために、〈齢をとったらみんな介護の世話になってしまうんだ〉〈だから、そうなった時のために「お金」をたっぷり蓄えておかなければならないんだ〉〈老後でものを言うのは、結局「お金」だ〉という考え方がすっかり浸透してしまいました。ですから、子どもの「貧困」問題もいずれ必ずそうなる。

 

今の社会では、すべての問題が「お金」に還元されるように仕向けられ、これがあらゆる分野で「マッチポンプ」の手段によって操作されているのです。こうして人類は、すっかり「お金」の奴隷にされてしまいました。これは、そうすることで人類を「支配」しようというグループが、闇の奥深くにいるからなのです。

 

「お金」というものは、そもそもは、価値の仲立ちをする単なる便利ツールに過ぎません。山の人が山の幸を、海の人が海の幸を互いに物々交換する。けれども「えっ、ジャガイモ? ジャガイモは間に合っているよ」ということだってある。毎回それじゃあ不便なので、「これを出せばいつでも交換できることにしようよ」と、仲立ちをするものを作ったのです。それが「お金」。

 

ところが、ずる賢い人がいて、この「お金」を他人に貸し、「利子」を付けて返して貰うことにした。この「利子」とは、いったい何なのか? 無から生み出された「お金」です。すると返済する側は、新たに創造された「お金」に相当する「価値」をどこかで工面して返さなければならなくなる。ジャガイモをいつもより1個多くとかネ。

 

これが、人類がいつまでも奴隷労働から解放されない根本原因なのです。今の「お金」は、今の人類全体が合意して創り上げた、実は壮大なフィクションなのです。そのフィクションに、人間は奴隷にされているのです。

 

さて、一方の『ゴミ処分場のオーケストラ』というドキュメンタリー。これは「貧困」問題に対して、今まで語ってきたアプローチとは全く異なるアプローチを示していて、私はとても感銘を受けました。なぜかといえば、この映画に登場した人たちが人間の本質というものをよく解っておられるからです。

 

パラグアイの首都アスンシオンの郊外に位置するカテウラは、パラグアイ最大のゴミ埋立地です。ここはパラグアイ川の流域にあり、洪水の危険があるので居住には適さない土地でしたが、ゴミの中からリサイクルできる物を拾って売り、それで生計を立てるガンチェロと呼ばれる人たちが2500世帯も暮らしています。もちろん彼らは貧しく、衛生状態も、環境汚染もひどい。

 

この劣悪な生活状態を改善しようと、ゴミ処分場に関わるシステムを再構築すべく、一人の環境技術の技師(Favio Chávezさん)がこの地に着任してきます。ところが、問題の根が深くてなかなか歯が立たない。一度挫折感を味わったファビオさんは、アプローチを変えて、ここで暮らす子どもたちを先ず元気にしようと思い立つのです。

 

そこで、Luis Szaránさんが始めた「大地の音プロジェクト」を真似、ゴミの中から空き缶などを拾っては楽器を自作。無料の音楽教室を開いて子どもたちに音楽を手ほどきして行きました。それが、演奏活動を続けるうちにメキメキと腕を上げ、ついにこの楽団「リサイクル・オーケストラ・オブ・カテウラ」は世界中から招待されるまでになったのです。

 

何よりも私が素晴らしいと思ったのは、指導するファビオさんも、楽器を作ってくれるニコラおじさんも、子どもたちも、みんな眼が明るく輝いていること。「剥奪指標」というものを創作し、「困った、困った」と顔をしかめている日本の大人たちとは、何という違いでしょうか。これこそが「貧困」問題の最初の解決策だと、どうして気づかないのでしょうか?

 

いつも言っているように、人は「表現」せずにはいられないのです。「表現」の面白さと喜びを知れば、人は自らその能力を使って、困難を克服して行きます。その能力を「支援」というおせっかいによって、奪ってはならないのです。このことを、日本でずっと以前に、正に実践したのが、ねむの木学園の宮城まり子さんでした。

 

「支援」という言葉を使いたいのであれば、「不足を補う」という発想は一切捨てるべきです。そして「創造活動」を行う「環境づくり」を手助けすることを「支援」と言うべきなのです。自然が、正にそうであるように。行動は、あくまで本人の自主性に任せなければなりません。これは、一般家庭での子育てにも言える鉄則です。子どもの意思決定に、大人が介入してはならないのです。

 

なぜ人は、「表現」せずにはいられないのでしょうか? それは、あなたの本質である「魂」が〈存在すること〉をやめられないからです。あなたという「魂」は、永遠の存在です。その永遠を、「魂」は「表現」し続けることの変化によって継続させて行くのです。

 

だから、自分に相応しい「表現」ができた時、あなたには喜びが満ち溢れ、その活動を制限された時、あなたは憂鬱に沈むことになるのです。私は、大人たちに言いたい。物事を複雑にしてはならない、と。どこにでも「問題」を探し出し、額に皺をよせては「支援」や「対策」や「治療」を考え出すクセを、止めなければなりません。あなたを輝かせる道は別のところにある。

 

世の常識や決まりごとを、まだそれほど信じていない分、子どもたちは素直で敏感です。驚くほど正確に大人たちを見ているんですよ。このお兄さんお姉さんは優しくて親切か、このオジさんオバさんは正直か嘘つきか、このおジイさんおバアさんは甘えても許されるか。キッチリ見抜かれているのは大人たちの方なのです。

 

もっとシンプルでいいのです。あなたが楽しい時はどんな時ですか? あなたが笑顔を浮かべる瞬間はどんな瞬間ですか? それを思い浮かべ、いつも周囲の子どもたちに振り撒きなさい。なにより、あなた自身が子どもになりなさい。そうすれば、ハッピーとは、こんなに簡単なことなんだと解りますから。

 

何が正しいか、判断に迷った時には自然を見ればいい

多くの人は、自分を信頼することができなくて、フォロワーの道を選んでしまいます。この人間心理を巧みに利用して他者を従えさせることの出来る人が、この世では「ヒーロー」と呼ばれているのです。自分一人では「ヒーロー」には決して成れません。自分を崇めたてまつる仕組みを下部構造に持ってこそ、それが成り立つのです。

 

普段、私たちは、そのことをあまり意識していません。けれども、組織や、広告や、マスコミや、選挙や、金融や、スマホや、「いいね!」ボタンや、複製ビジネスや、宗教や、教育や、権威や、ブランドや、家元制度などの、自分を取り巻くありとあらゆるものによって、そういう構造の中に、あたかもそれが当然の如く思わされ、放り込まれているのです。

 

なぜかと言えば、その仕組み自体が巨大な「集金」マシーンになっていて、構造の上部に居る人たちには大きなお金が転がり込むからです。では、上位に居る人たちが、その構造を本当に解ってやっているのかと言えば、解らないでやっているのです。彼らも大衆同様に、いや大衆以上に「洗脳」された人々であるのです。このようにして、人間は共同して、今日ある社会を造り上げたのです。

 

この「洗脳」状態があまりにも強固なものですから、「人類はみな兄弟」「分かち合えばいいのに」「そんなに働かなくてもいいんだよ」「平和がいちばんだ」「自然を愛せよ」「人生を楽しめ」と、いくら言ったところで、言うそばから否定され、ノーテンキだの、平和ボケだの、今ある脅威を解っていないだのと、ありとあらゆる悪罵を投げつけられるようになっています。

 

代わって、「人間同士はそもそも解り合えないんだ」「ウカウカしてたら、誰かに先を越されるぞ」「だから乗り遅れるな、競争に勝て」「そのためには必死に学んで、働かなくちゃダメだ」「敵は大きくなる前にやっつけろ」「土地や資源やパテントは早い者勝ちで奪い取れ」「そうすればヒーローになれるぞ!」と説く者が、有識者や指導者として時代の寵児となり、尊敬を集めるのです。

 

でもね、それこそが、現代人特有の「苦悩」の正体なんですよ。現代の民衆支配は、ステルス(stealth:隠密)になっているんです。もう以前のような、暴力弾圧や、植民地化や、奴隷化や、特定のものへの崇拝の強制や、言論統制のような、分かりやすい形は決して取らない。とても巧妙なんです。支配者も、学習して、進歩してるんですよ。

 

そして、暴力の代わりに「教育(という名の洗脳)」、植民地化の代わりに「貿易自由化」、奴隷化の代わりに「雇用の自由化(非正規社員化)」、特定のものへの崇拝の代わりに「オタク化(蛸壺化させてカウンターパートを作らせない)」、言論統制の代わりに「マスコミ活用」という構造を作り、民衆が、自ら進んで、喜んでそこに参加するようにしているんです。自分の首を括る縄を、自分で用意させるようにしているんです。ああ、憐れ人間たちよ。

 

あなた方は、もっとあなた自身を信頼すべきだ。自分の直感や身体が発する声に耳を傾けるべきだ。そうすれば、間違えることはない。絶対にない! どうして他人の後を着いていくのだろう? どうして他者が語った言葉を鵜呑みにしてしまうのだろう? どうして主人に忠誠を誓うのだろう? どうして聖書・聖典・仏典に書かれてあることを信じようとするのだろう?

 

「どうして、自分で考えて、自分で判断しようとしないんですか?」

ある時、そう尋ねたら、「自分が判断したら、間違えるかも知れないし‥‥」という答えが、その人から返って来ました。

 

「間違える」とは何でしょうか? 何を「間違える」のでしょうか? 「事の善悪」を間違えるということでしょうか? 「生き方」を間違えるということでしょうか? 「チャンス」を掴み損ねるということでしょうか? では、あなたに代わってその判断をしてくれる他者は、絶対に「間違えない」存在なのでしょうか? 同じ人間なのに、どうしてそうだ言い切れるのでしょう。

 

「生きる」ということは、「選択」の連続です。その「選択」権は、いつでもあなたにある。ゆえに、あなたの人生は、あなたがクリエイトするしかない。それなのに、「選択」権を誰かに預けて放棄してしまって、一体どうするのでしょうか? それは、ご自分の人生を放擲したに等しい。自分に対して全くの無責任です。それでは、今世に与えられた機会を何も学ばないことになってしまいます。

 

人間ですから、判断に迷う時はありますよ。でもその時こそが、自分を見つめる、自分の生き方を問う、そして明日の自分をクリエイトするチャンスなんじゃありませんか。迷った時は「困った時」じゃないんですよ。迷った時こそ「チャンス」なんです。あなたが、ご自身の「魂」を成長させるためのね。それは宇宙からのギフトなんです。

 

成功するか、失敗するかなんて、どうでもいいこと。成功・失敗は、その時の人間の価値基準に過ぎません。人間万事塞翁が馬で、大切なのは、その経験を通じて「魂」が成長するかどうかという、ただそれだけなんです。裕福な家庭に生まれたがゆえに、人生を狂わせてしまったという人はたくさんいる。成功で有頂天になった後に、転落してしまったという人だって大勢いる。もちろん逆パターンもある。要は、ギフトの機会に何を学ぶかということなんですね。

 

どう転んだところで、宇宙の理法には逆らえません。なぜなら、あなたは紛れもない宇宙の一員なのですから。逆に言えば、宇宙の理法(つまり真理)によって、常にしっかりと守られているということでもある。それはどんな「魂」も決して逃さない、万人に公平なセーフティーネットなんです。天網恢々疎にして漏らさず。だから安心して、ギフトの機会に臨めばよいのです。

 

あなたが「真理」に寄り添った生き方をすれば、あなたは喜びと幸福感に満たされるし、「真理」に逆らった生き方をすれば、何らかの出来事の発生によって、それを修正するように促されます。つまり、どっちの道を行ったところで、(早い遅いの違いはあるでしょうが)最終的には同じ「真理」の道へと辿り着くのです。

 

これで、自分で考え判断し、行動するということが、いかに重要であるかがお解りいただけるのではないでしょうか。あなたが下した判断が、たとえ「真理」に適っていなかったとしても、ご自分で考えていれば、後にあなたはどこがいけなかったかを振り返ることが出来ます。でも、その判断を誰かに預けてしまったら、あなたは自分の反省せずに、その人を恨むことになってしまうでしょう。

 

何が「真理」に適っていることなのか? これを判断するのは、実はとても簡単なこと。自然を見ればいいのです。自然に教えて貰えば、それこそ自然と解ります。

 

中国の都市部は今、急激な経済成長のツケとして、深刻な大気汚染に覆われています。先日、ドキュメンタリーを見ていましたら、こんなことを言う人がいました。「部屋の片付けと、飯を喰うのと、どっちを優先する? 誰もが飯だろう」と。これは本当でしょうか? 日本でも、「電力需要に応えるためには、原発は不可欠」と未だに主張する人がいます。これは「真理」に適っているのでしょうか?

 

自然界を見てください。呼吸困難になっても、まだ繁栄を目指すことを優先する動物はいますか? 生存のための環境が、もはや取り返しのつかないほどに汚染されても、なお生存のためにはそれが必要なんだと言い張る植物はいますか? 実に簡単なことです。ところが、この簡単なことすら、今の人間たちには解らない。それほど無智蒙昧になってしまったということです。

 

なぜ、「自然」に習えばよいのでしょう?

 

「自然」とはなんでしょうか? 「宇宙」とはなんでしょうか?

それは、この世に現れたもの。つまり、その奥にある「因」の世界の、物質界における「表現」なのです。何事も、先ずアイデア(idea)があって、物が創られる。「宇宙」という壮大な物を創るのにも、最初にアイデアがあった。それが「因」の世界です。

 

ですから、「因」の世界のことを、もし「創造主」と呼ぶとすれば、「宇宙」は、そして「自然」は、まごうことなき「創造主」の表現物なのです。あなたが見る自然、夜空、生命、それら一切が「創造主」の今その瞬間の言葉なのだということ。ですから、そこに全く嘘はない。すべてが「真理」を映したものになっているのです。

 

私たちはそこに、「結果」の世界としての「法則」を見ます。それは、「創造主」から私たちに宛てたメッセージだということ。ああ、幸せかな人間たちよ。

 

「宇宙」は、あなたに、これ以上ない判断基準を示してくれているのです。そしてあなたも、「宇宙」の一員である以上、まごうことなき「創造主」の表現物なのです。ですから、ご自分を信頼して、自分の中の「自然」に静かに耳を傾ければ、それはいつでも「真理」を反映したものになっているのです。

 

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*天網恢々疎にして漏らさず

辞典のほとんどは、これを「天はどんな小さな悪事も見逃さずに、自ら天罰を下す」と説明しているのですが、これは半分間違いです。天がどんなことも見逃さないのは確かですが、それを人間の善悪概念や天罰の便法に置き換えて解釈しようとするから「老子」が理解できないのです。「老子」が語っていることはもっと深く、間違いなく宇宙の真理を語っています。

 

 

細胞の記憶と輪廻転生

あなたに終わりはありません。この世で「死」と呼んでいるものでさえも、ただ「変化」というもののドラスティックな一局面に過ぎないのです。春に蒔いた種モミから芽が顔を出し、青々とした葉が繁る。夏の強い陽射しを受けた茎はグングン成長し、やがて実をつけ黄金色に染まる。熟した実は刈り取られて、そして精米され胃袋に収まる。さてその時、そこで稲は死んだのでしょうか?

 

宇宙で、ただ一つの変わらないもの。それは「変わり続ける」ということだけです。始まりもなく、終わりもなく、ただ「変化」し続けている。それが、宇宙というものの真実の姿です。あなたも、間違いなく宇宙の一員なのですから、同じく「変化」し続けるだけなのです。病気で死のうが、誰かに殺されようが、自殺しようが、あなたに終わりはありません。

 

「輪廻転生」と言うとき、そこには二つの側面があります。あなたの本質は、あくまで「魂」にあり、今世で得た肉体は、いわば乗り物です。たくさんある乗り物の中から、事情があって、とにかく今のものを選んだのです。その乗り物のパイロットはあなたです。ですから、あなたはご自分の乗り物をいたわり、メンテナンスを心掛け、上手にコントロールしていく義務を負っています。

 

「魂」は、地上でしか出来ない学習をするために、地球に人間として誕生します。そして成長し、様々な体験をし、齢を重ね、やがてまた元のところへと帰って行くのです。でも残念ながら、今の地球人はそれほど賢くはないので、学習は遅々として進まず、何度も何度も留年を重ね、また地上に戻って来るのです。これが一つめの「輪廻転生」です。

 

では、乗り物であったかつての肉体はどうなったのでしょう? それは死んだのでしょうか? この世で「死」と呼ばれている「変化」を迎えると、その肉体は、大抵は焼かれるか土中に埋められます。骨は比較的長く形態を持ち続けますが、その他の部分は一年もしないうちに腐ってバクテリアに分解されてしまいます。いずれにせよ、最後はみんな「土」になってしまいます。

 

「土に還る」とか、人が「土から生まれた」というのは本当のことで、象徴的意味合いで言われているのではありません。人体の70パーセントは水分です。あとは炭素やカルシウムや他の微量元素で、言ってみれば、泥だんごから肉体が造られているのです。今では90種類くらいの元素が人体から見つかっています。それはとりもなおさず、人体が「神に似せて創られた」、つまり大宇宙を模した小宇宙(microcosmos)に他ならないということを証明しています。

 

さて、土に還った肉体は、その後どうなるのでしょうか? その土は、また何かの植物を育てるための養分となります。そしてその植物を、昆虫や小動物が食べ、さらにそれを大型の動物が食べ、回り回ってまた人間の肉体を維持するための栄養素として取り込まれて行くのです。これがもう一つの「輪廻転生」であり、実は「生命(いのち)」というものの本質なのです。

 

「生命」とは何か? それは、宇宙エネルギーの永遠のバトンリレーと言えるのです。

さて今、「輪廻転生」という言葉が持つ、二つの側面を挙げました。「魂」の輪廻と「物質」の輪廻です。でもこの両者は、究極的に見れば、同じことなのです。それをもう少し説明しましょう。


「魂」とは何か? これは「宇宙意識」という芯(core)の周りを、「想念エネルギー」が包みこんだ塊と思ってもらえばよく、それ自体が、目に見えない一つのエネルギー体です。そうですねぇ、梅干しオニギリを思い浮かべてみると解りやすいでしょうか? (*「宇宙」の総体をもし「神」と呼ぶとすれば、「神に通じる意識」と言ってもいい)

 

みなさんは、誰もが、宇宙の本体そして総体であるところの「宇宙意識」から放たれた一つのピース(かけら)なんです。ですから、芯の部分には、ちゃんと「宇宙意識」との繋がりを宿しているのです。でもそれが、地上で様々な体験を重ねるうちに、たくさんの「想念」を持つようになり、それが芯の周りにペタペタくっついて、そこに「魂」の個性というものが生じて来るのです。

 

この個性は、想念の違い、また想念の深さによって多種多様なヴァリエーションを生み出し、一つとして同じものはありません。実に73億人全員が異なるのです。でもコアは一つに繋がっている。ところが、「想念」が「観念」を生み、「観念」が「信念」を育てるように教育されてしまうと、いつしか、自分の主体が「宇宙意識」に在ったことを忘れてしまい、「信念」の亡者になってしまうのです。

 

恐ろしいことに、地上では「信念」を持つことが逆に「良いこと」とされています。強い「信念」でリーダーシップを取る人に、多くの民衆がフォロワーとなって付いていってしまうのです。誰かが「正義のための戦争だ!」と言うと、何度悲惨な戦争体験を重ねようが、「そうだ、敵をやっつけろ!」と賛同する人が必ず出てくる。これが、地球人がちっとも進歩しない最大の理由なのです。

 

「信念」と言うと、みんな良いことのように思っていますが、別の言葉で言えば「偏狭なこだわり」です。これを人間は、まるで雪だるまを作るように芯の周りに積み重ね、真ん中にある「宇宙意識」を覆い尽くして行く。最近では「こだわりのラーメン屋」などど言って、「こだわり」という言葉すら「良いこと」を意味するようになってしまったのですから、もうどうしようもありません。

 

「こだわり」の漢字「拘り」は、「拘束」の「拘」の字なんですけどねぇ。人間はみんなそうやって、自ら好んで縛られる道を選択する。そうして「苦しい、苦しい」と言っている。金品・財産を持っては自分を縛り、地位・名声を誇っては自分を縛り、資格・肩書きを得ては自分を縛り、先生をあがめ立てては隷属して自分を縛る。この「拘り」を、ヨーガでは「カルマ」と呼んだんですね。

 

そして、「そんなものは無意味である」「真の自由とは何か」を心底から実感するまで、何度でも転生して来るというわけです。ああ、まったく気の長い話です。そして、転生する際には、今世の課題であるところの「カルマ」の解消を果たすために、いちばん相応しい肉体と環境とを選ぶのです。さらに、選ぶだけではありません。選んだ肉体を、次には自分の自由意思をもって、育てて行くのです。

 

船を操るのも、修繕するのも、磨き上げるのも自分です。あなたの自由意志です。手荒に扱うのも、いたわりながら扱うのもあなた次第。つまり、あなたの今の意思が、次のあなたの「肉体」を創り出すのです。でもたぶん、今のあなたはそれを信じないでしょう。かつての私もそうでした。前後不覚になるまで大酒を飲むこともしょっちゅう(渋谷駅の階段から転げ落ちた)。自分で自分の心を不安定にさせては、調子が悪いとこぼしていました。

 

俳優の渡辺謙さんが二度の白血病の発症を克服され、国際的に大活躍されていることはご存知でしょう。私は「この人には、何かがある」とずっと思っていました。すると、あるインタビュー番組で、<白血病の細胞をプチプチと潰していく瞑想を行っていた>と語っておられるのを聞いて、「やっぱりね」と、大いに納得したものです。セオリーをご存知であったかは分かりませんが、それは全く理に適ったことです。

 

これは医学界では証明されていませんが、全身の細胞にも「意識」があり、「記憶」というものを持っているのです。たとえば皮膚細胞は、神秘数の7の4倍の28日周期で新陳代謝していますが、新しい細胞とどんどん入れ替わっているというのに、なぜ古傷やホクロが消えないのでしょうか? これは細胞が持っている記憶が、新しい細胞にも伝達されていくためです。

 

この細胞の「脳」に相当する箇所が「核」です。ですから「核」は宇宙意識とつながっていて、一つひとつの細胞はみな知性を持っています。だからこそ、肉体細胞は血液を通じて独自に栄養を取り入れ、老廃物を排出できるのです。またシャーレの中での培養も可能なのです。この細胞群の知性と、あなたの意識のネットワークが、円滑に、かつ健全に保たれていれば、あなたは健康体をずっと維持できます。

 

しかし、自然の理に背くようなことをしたり、心に過度のストレスを溜めたりすれば、ネットワークに齟齬を来し、やがて細胞は悲鳴を上げます。そして不協和音が混入したコピーを創り出します。これが癌です。また癌にまで至らなくても、様々な不調を、体を通じて訴えかけて来ます。それは、あなたの生き方が「正しくない方向に向かっているよ」という警告なのです。

 

蟻が大挙して一つの目的に向かって動く。モズの大群が衝突することなくサッと方向を変え乱舞する。大魚に狙われたイワシの大群が、まるで一匹の魚のように集まって渦を作り出す。コンダクターもいないのに、一体どうしてこんな芸当が出来るのでしょうか? 曲技飛行もマーチングバンドも、人間は相当な練習を積まなければ、同じことはできません。

 

これは、一匹の個体が、人間で言えばちょうど一つの細胞のように機能し、全体として大きな意識を共有しているからなのです。人間は、意識の主体が脳に傾きすぎていて、それと肉体全体の細胞とのネットワークを形成するようになっています。でも、蟻やモズやイワシは、一つの個体が一つの細胞のように機能し、同時に全体が一つの脳でもあるのです。ですから、衝突することなく、瞬時に方向を変えられるのです。

 

彼らは、このネットワークを「feel」という感覚でつないでいるのです。(ブルース・リーが語ったあの「feel」です)自然界の動植物は、すべてその感覚を有しています。ところが人間だけは、「feel」を忘れて(それは、あまりにも脳に傾き過ぎたということ)、退化させてしまったために、自然と会話することや、生命を感じることや、テレパシーでやり取りすることも、殆ど出来なくなってしまったのです。

 

さて、細胞の記憶は、細胞が腐って分解された後にはどうなるでしょうか? 一つの細胞は、何十種類かの元素によって構成され、それは分解された後には別のものに変化します。しかし、元素の総量自体は変わりません。別のものに変化するだけです。その中には、何百万年も地中に留まり、鉱物になるものだってあることでしょう。これらの中にも、ちょっとずつ記憶は宿るのです。

 

自称霊能者の中には「自分は◯◯の生まれ変わりだ」と公言する人がおられます。その◯◯は、大抵は歴史上の有名人。「自分は親鸞だった」と主張する人は10人を下らない。驚くなかれ、前世が「釈迦だった」という人まで居るのにはもうびっくり! 生まれ変わりを終えた存在がブッダなのに‥‥。(´ー`;)ゞ

 

そうかと思えば、時に前世が亀だったとか、ワシだったとか、大木だったとか、レタスだったとか言ったりする人もいます。釈迦だって、人間になる前にいろんな動物の生まれ変わりを経験してきたということになっています。果たしてこれは、本当でしょうか?

 

想念エネルギーの塊である「魂」は、人間にしか転生しません。人間にペットとして飼われていた犬が、人間に昇格したという報告を一回聞いたことがありますが、神秘学では人間以外のものへの転生はないというのが大方の結論です。でもいま言った、細胞の記憶、原子の記憶、もっと小さい単位では素粒子の記憶、(もっと小さくすると「Spirit(霊)」の記憶)ということにまで遡れは、それが全く無いとは言えないのです。

 

私たちは、生きるために、他の生命を取り込みます。ですからレタスを食べたら、レタスの記憶が体に入る。そのレタスを育てた土や水には、大勢の人や動物の記憶が含まれていたかも知れません。ですから、好意的に見れば、同じ時期に「私は親鸞の生まれ変わり」と自称する人が10人居たとしても、「そんなの嘘だろう?」とは言えないのです。

 

このように、「記憶」というものは、結果的に全部につながっているのです。そこで、「宇宙」はこれまでの記憶を全部持っているということになり、自分が本体である「宇宙意識」に帰って、「宇宙」と一体となれば、そこから、あらゆる情報を引き出すことも、理論上は可能ということになるのです。これが、いわゆる「アカシック・レコード」というものの意味です。

 

この「宇宙」を形づくっているものは、究極的には一つです。それは振動するエネルギー体であるということは、これまでにも何度もお話して来ましたね。そしてこの振動するエネルギー体は、その働きから、大きく三つに分けられます。知性(意識)と、物質を作り出す元になるSpirit(霊)と、生命を維持するためのエネルギーとにです。これは働きが違うというだけで、元々は一つです。

 

さてこの時、知性(宇宙意識)は、分かれて「魂」を創り出します。また「Spirit(霊)」は、物質を創り出し、これに生命エネルギーが加わることによって、生物が創られて行くのです。実を言うと、鉱物もただ振動数が低い(ということは変化のスピードが遅い)というだけであって、生きているのです。その証拠に、かつての海底であったところが、高い山に隆起している例はたくさん見られます。

 

冒頭では、「魂」の輪廻転生ということと、「自然界」の輪廻転生という二つの側面を別々に見て来たわけですが、このように、結局は同じことであると言えるのです。