「よくよくあながたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(『ヨハネによる福音書』3:3)
イエスは、ファリサイ派の教師であったニコデモに向かい、そう断言しました。お時間がある方は、先ずリンク先の該当文章を読んでみてください。
この文中にある「新しく生まれる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? どうして「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のでしょうか? この「新生」の意味は、「輪廻転生」を指しているのではなくて、実はこの身をもって二度目の生まれ変わりをするということ。すなわち、空海が言うところの「即身成仏」と全く同じことを言っているのです。
ところが、キリスト教も仏教も、この意味の深淵をはかりかねて、非常に歪んだ解釈をしたまま今日に至っています。いま深淵と書きましたが、この文が示している「意味」そのものは、それほど難しいものではありません。ですからイエスは、この後でニコデモに向かって、「イスラエルの教師でありながら、こんなことも知らないのか」と嘆いて言っているのです。
しかし、たとえ「意味」が解ったとしても、その「感覚」を掴むのは容易ではありません。いつも言っている通り、「解る」にも三段階があり、頭で解る → それが体に入って来る → そして一体となる、というところまで行かなければ、本当の意味で「解った」ことにはならないのです。イエスは「地上界の論理も理解できない者に、天のことを説いても解るはずがない」と、続けてニコデモに言うのでした。
だからというわけではないのですが、キリスト教では、この「新しく生まれる」ということの意味を、「水による洗礼」というイニシエーション(入門儀式)に置き換えてしまいました。これは、同じ『ヨハネによる福音書』第3章の中に、「誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と重ねて説かれているからです。この文言中の「水」を、キリスト教は文字通りの「Water」にしてしまったんですね。
このようにしたのも、おそらくは組織宗教を形成していくための意図的な改ざんだったのでしょう。もし本当のことを説いてしまったら、宗教がいらなくなってしまいますし、教会に人を集めることも出来なくなってしまうからです。そしてキリスト教では、ただバプテスマ(洗礼)を受けただけでは不充分で、その後もクリスチャンとして歩み続けなければ「神の国」に入ることは出来ないと説いているのです。
ではこの「水」とは何なのでしょうか? 「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」とイエスが語っていることの真意は、先ずここで、「水と霊」の二つが揃っていなければダメなんだよと言っているのです。そして、よく見てください。「水」が「霊」に対比する形で述べられています。ですから、これが単に「Water」を意味しているのではないことは明らかです。
さて、この5節の次の文に「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」とあります。これは人間の本当の姿、「霊主体従」の二重性を語っています。そして、「肉(物質的な体)」しか見ない視点も、「霊」しか見ない視点も、共に誤りなんだよと言っているのです。両方揃っているのが人間なんだよ、ということです。
ではなぜイエスは、「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と断言したのでしょうか? 今を生きる私たちは、誰でもが「肉と霊」から生まれた存在です。これが、地上世界への最初の誕生です。でも「神の国」に入るためには、これを「肉と霊」から「水と霊」に置き換えなければならないとイエスは言っているのです。これが二度目の生まれ変わりということです。
「肉」のままではダメで、「肉」を「水」に変える必要があるというわけですね。さて改めて、「水」とは何でしょうか? 地球のことを「水の惑星」と言います。宇宙から見ると、地球は青く見える。これは地球の大部分が海表面に覆われていて、それが光を青色に反射しているからです。それほど、この地上世界には「水」が豊富にあるということです。
また、私たちの肉体の70パーセントは「水」です。ですから肉体というものは、一見しっかりした固体のように見えて、実は「水」の中に他の分子がプカプカと泳いでいるようなものなのです。大根だって、キュウリだって、トマトだって9割以上が「水」。私たちは「水」があるからこそ生きていられるのです。そのようなことから、「水」というのは先ず「生命」を育むものとしての意味があります。
もう一つ重要なのは、「水」は万能の溶剤で、ほとんどのものをその中に溶かすのです。現に海水中には、地球上に存在するほとんど全ての元素が溶けています。「水」はこれらの元素を溶かすことによって、その元素を「運ぶ」役割を担っているのです。言い換えれば、「生命」を運ぶ通路であり、「生命」のコミュニケーションを仲立ちする媒体だと言えるのです。
何かが運ばれるためには、その担い手となる「媒体」が必要です。霊的世界のエネルギーやテレパシーを運ぶ「媒体」が、よく言われるところの「エーテル」であり、物質世界でこれと同等の役割を果たしているものが、実は「水」なのです。整理しますと、霊的世界における万能媒体が「エーテル」、物質世界における万能媒体が「水」というわけです。
そして「水」は、いわゆる宇宙の「波動」を非常によく通し、かつ保持する性質を持っています。このことから、高い波動を注入した「波動水」というものも存在するわけなのです。このように、「水」は「物質界」における「生命」というものの成り立ちを根本で支え、決定づけるとともに、この「真理(法則)」を象徴する意味合いも持っているのです。
つまり、イエスが「水と霊とから生まれなければ」と語った意味は、今までの「肉」の論理(物質そのもの)ではなくて、「水」の論理(すなわち物質界における「生命」に関する「真理」)を理解することがなければ、決して次へは進めないんだよ、と語っているのです。ですからイエスは、「地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」と言って、嘆いたのです。
「水と霊とから生まれる」とは、〈物質界における「生命」の意味・仕組みというものを理解した上で、改めて、霊的存在であるところの本来の自分に立ち返りなさい。そうして、宇宙人として宇宙に再び生まれ変わりなさい。〉という意味なのです。それなくしては、「神の国(宇宙の本当の姿)」を見ることは出来ない、とイエスは断言しているのです。
次のことは以前にも書きましたが、霊的世界こそが「眞(まこと、魔)」の世界(“因”の世界)で、古来よりこれを「火」で象徴しています。「火」は「日」に通じ、「日」は「陽」であり、すなわち「光」のことです。また陰陽の「陽」でもあります。この、鏡の向こう側にこそあらゆるものの真の原因があるということを、図では下側を向いた「▽」で表し、「下」つまりそれを「火(カ)」と言ったわけです。
この「“因”の世界」から、物質界が、つまりは「結果の世界(現象界)」が生まれて、どんどん広がって人間の目に見える世界ができる。これを、今度は上側を向いた「△」図(頂点の一点から陰陽の末広がりになる)で表し、いま述べた「水(ミ)」をもって象徴しているのです。上側を見るとは「御(ミ)」であり、「上」は「カミ」です。また物質界は、陽である「“因”の世界」に対しては「陰」の世界となります。
この、「▽」と「△」が合わさると、皆さんがよくご存知の「🔯六芒星」、いわゆる「ダビデの星」、日本で言うところの「籠目紋(かごめもん)」となるのです。これは陰陽二つの世界の統合、つまり真実の宇宙の姿を表しています。そのため、小宇宙である人間もまた、同じ二重性を有しているのです。
こうして、「▽(カ)」と「△(ミ)」が合わさって、「カミ」となるのです。このようにして、宇宙全体の構造を理解し「“因”の世界」へ帰るということが、イエスの説いた「生まれ変わり」だったのです。
そしてこれは、空海も「即身成仏」と言って、全く同じことを説いているのです。「即身成仏」とは何でしょうか? この身を持って(持ったまま)仏になるということです。これは一般には、「肉体の死を迎えることなく仏(つまりブッダ=覚者)となること」と解釈され、これが極論を生んで、生きたまま土中で行をし続け、その果てに入滅すること、のようにされてしまいました。
しかしこれは全く違うのです。このような曲解が生じた原因には、「仏(ほとけ)」というものに対する誤った解釈が流布してしまったことがあります。「仏陀(Buddha)」というのは「目覚めた人」の意味で、個人名ではなくて、釈迦がそのような意識状態に至ったので「仏陀」と言ったわけですね。そしてご承知のように、釈迦は、生きたままそのような意識にまで到達しました。
つまり「仏陀」というのは、もともとが「即身成仏」を言っていたのです。ところが、漢訳経典を日本語読みして行く過程で、「仏陀」は「仏」と略され、それが「仏(ほとけ)」と訓読みされて、いつしか死者のことを表すようになってしまったのです。ここには、死んだら地上の一切の苦しみから解放され天国へ行けるという庶民の願望と、宗教的な方便の応答がありそうなってしまったのでしょう。
イエスの言う「生まれ変わり」も、「Reborn」であって「Reincarnation」ではないことに注意してください。「re」は再びということ。「born」は生まれるですが、「in-carnation」は肉に入るという意味、すなわち「受肉」です。ですから「Reincarnation」は「輪廻転生」のことですが、「Reborn」は、「即身成仏」のことを語っているのです。
しかし、残念ながら、ただ肉を滅しただけでは、天国(神の国)へは行くことは出来ません。もともと「死」というものは宇宙にはありませんし、「神の国」へ行けないからこそ、人は何度も何度も地上世界に「輪廻転生」して来ているわけです。このことをよくよく考えれば、「魂」が「輪廻転生」を繰り返すことの意味はもう明らかです。
あなたは、「輪廻転生」を、カルマの働きによる「罰」のようにだけ考えてはいないでしょうか? 確かに、メカニズムとしてはそういう力学が働いています。しかし同時に、もっと重要なことがあるのです。それは、地上世界でなければ「仏陀に成る(=成仏)」ことは出来ないということです。つまり「輪廻転生」は、「即身成仏」へのいわばチャンスとして与えられているのです。
ですからイエスは、この同じ章の13節で「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はない。 」と語っているのです。この言葉には三つの意味があります。一つは、いま言ったように、天から下った(輪廻転生して来た)者でなければ、天に上れないということです。つまり、それはチャンスなのだということ。
二つめは、「その者」は、もともと天に居たものが、下ってきた「魂」なのだということです。どうして下って来たのか? それは自ら希望してである。何のために? 地上世界での出来事を体験するために。ずっと天に居ればよいものを、わざわざ記憶を無くしてまで地上に生まれ、そこで様々な体験を重ねる。そういう道を、あなたという「魂」も選んだのです。いったいどうしてそんなしちめんどくさいことをするのか?
それが永遠の進化だからです。生命の実相だからです。その果てしない活動が、宇宙の息(Breath=生き)であり、「神」というものだからです。ですから、「神」のかけらである一人ひとりは、みな「神」より出発し、そうやって新たな体験を積み重ねて、ちょとずつ霊性を高めながら、やがて「神」の本体に帰って行くのですね。そのようにして、総体であるところの「神」自身が果てしなく成長している。
この意味において、個々の「魂」に一切の差別はありません。誰もが等しく愛されている。その永遠の旅の、地上における終止符が「即身成仏」であり、イエスが語った「生まれ変わり」ということなのです。