by Rainbow School
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二度目の生まれ変わりと、即身成仏

「よくよくあながたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(『ヨハネによる福音書』3:3

イエスは、ファリサイ派の教師であったニコデモに向かい、そう断言しました。お時間がある方は、先ずリンク先の該当文章を読んでみてください。

 

この文中にある「新しく生まれる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? どうして「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のでしょうか? この「新生」の意味は、「輪廻転生」を指しているのではなくて、実はこの身をもって二度目の生まれ変わりをするということ。すなわち、空海が言うところの「即身成仏」と全く同じことを言っているのです。

 

ところが、キリスト教も仏教も、この意味の深淵をはかりかねて、非常に歪んだ解釈をしたまま今日に至っています。いま深淵と書きましたが、この文が示している「意味」そのものは、それほど難しいものではありません。ですからイエスは、この後でニコデモに向かって、「イスラエルの教師でありながら、こんなことも知らないのか」と嘆いて言っているのです。

 

しかし、たとえ「意味」が解ったとしても、その「感覚」を掴むのは容易ではありません。いつも言っている通り、「解る」にも三段階があり、頭で解る → それが体に入って来る → そして一体となる、というところまで行かなければ、本当の意味で「解った」ことにはならないのです。イエスは「地上界の論理も理解できない者に、天のことを説いても解るはずがない」と、続けてニコデモに言うのでした。

 

だからというわけではないのですが、キリスト教では、この「新しく生まれる」ということの意味を、「水による洗礼」というイニシエーション(入門儀式)に置き換えてしまいました。これは、同じ『ヨハネによる福音書』第3章の中に、「誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と重ねて説かれているからです。この文言中の「水」を、キリスト教は文字通りの「Water」にしてしまったんですね。

 

このようにしたのも、おそらくは組織宗教を形成していくための意図的な改ざんだったのでしょう。もし本当のことを説いてしまったら、宗教がいらなくなってしまいますし、教会に人を集めることも出来なくなってしまうからです。そしてキリスト教では、ただバプテスマ(洗礼)を受けただけでは不充分で、その後もクリスチャンとして歩み続けなければ「神の国」に入ることは出来ないと説いているのです。

 

ではこの「水」とは何なのでしょうか? 「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」とイエスが語っていることの真意は、先ずここで、「水と霊」の二つが揃っていなければダメなんだよと言っているのです。そして、よく見てください。「水」が「霊」に対比する形で述べられています。ですから、これが単に「Water」を意味しているのではないことは明らかです。

 

さて、この5節の次の文に「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」とあります。これは人間の本当の姿、「霊主体従」の二重性を語っています。そして、「肉(物質的な体)」しか見ない視点も、「霊」しか見ない視点も、共に誤りなんだよと言っているのです。両方揃っているのが人間なんだよ、ということです。

 

ではなぜイエスは、「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と断言したのでしょうか? 今を生きる私たちは、誰でもが「肉と霊」から生まれた存在です。これが、地上世界への最初の誕生です。でも「神の国」に入るためには、これを「肉と霊」から「水と霊」に置き換えなければならないとイエスは言っているのです。これが二度目の生まれ変わりということです。

 

「肉」のままではダメで、「肉」を「水」に変える必要があるというわけですね。さて改めて、「水」とは何でしょうか? 地球のことを「水の惑星」と言います。宇宙から見ると、地球は青く見える。これは地球の大部分が海表面に覆われていて、それが光を青色に反射しているからです。それほど、この地上世界には「水」が豊富にあるということです。

 

また、私たちの肉体の70パーセントは「水」です。ですから肉体というものは、一見しっかりした固体のように見えて、実は「水」の中に他の分子がプカプカと泳いでいるようなものなのです。大根だって、キュウリだって、トマトだって9割以上が「水」。私たちは「水」があるからこそ生きていられるのです。そのようなことから、「水」というのは先ず「生命」を育むものとしての意味があります。

 

もう一つ重要なのは、「水」は万能の溶剤で、ほとんどのものをその中に溶かすのです。現に海水中には、地球上に存在するほとんど全ての元素が溶けています。「水」はこれらの元素を溶かすことによって、その元素を「運ぶ」役割を担っているのです。言い換えれば、「生命」を運ぶ通路であり、「生命」のコミュニケーションを仲立ちする媒体だと言えるのです。

 

何かが運ばれるためには、その担い手となる「媒体」が必要です。霊的世界のエネルギーやテレパシーを運ぶ「媒体」が、よく言われるところの「エーテル」であり、物質世界でこれと同等の役割を果たしているものが、実は「水」なのです。整理しますと、霊的世界における万能媒体が「エーテル」、物質世界における万能媒体が「水」というわけです。

 

そして「水」は、いわゆる宇宙の「波動」を非常によく通し、かつ保持する性質を持っています。このことから、高い波動を注入した「波動水」というものも存在するわけなのです。このように、「水」は「物質界」における「生命」というものの成り立ちを根本で支え、決定づけるとともに、この「真理(法則)」を象徴する意味合いも持っているのです。

 

つまり、イエスが「水と霊とから生まれなければ」と語った意味は、今までの「肉」の論理(物質そのもの)ではなくて、「水」の論理(すなわち物質界における「生命」に関する「真理」)を理解することがなければ、決して次へは進めないんだよ、と語っているのです。ですからイエスは、「地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」と言って、嘆いたのです。

 

「水と霊とから生まれる」とは、〈物質界における「生命」の意味・仕組みというものを理解した上で、改めて、霊的存在であるところの本来の自分に立ち返りなさい。そうして、宇宙人として宇宙に再び生まれ変わりなさい。〉という意味なのです。それなくしては、「神の国(宇宙の本当の姿)」を見ることは出来ない、とイエスは断言しているのです。

 

次のことは以前にも書きましたが、霊的世界こそが「眞(まこと、魔)」の世界(“因”の世界)で、古来よりこれを「火」で象徴しています。「火」は「日」に通じ、「日」は「陽」であり、すなわち「光」のことです。また陰陽の「陽」でもあります。この、鏡の向こう側にこそあらゆるものの真の原因があるということを、図では下側を向いた「▽」で表し、「下」つまりそれを「火(カ)」と言ったわけです。

 

この「“因”の世界」から、物質界が、つまりは「結果の世界(現象界)」が生まれて、どんどん広がって人間の目に見える世界ができる。これを、今度は上側を向いた「△」図(頂点の一点から陰陽の末広がりになる)で表し、いま述べた「水(ミ)」をもって象徴しているのです。上側を見るとは「御(ミ)」であり、「上」は「カミ」です。また物質界は、陽である「“因”の世界」に対しては「陰」の世界となります。

 

この、「▽」と「△」が合わさると、皆さんがよくご存知の「🔯六芒星」、いわゆる「ダビデの星」、日本で言うところの「籠目紋(かごめもん)」となるのです。これは陰陽二つの世界の統合、つまり真実の宇宙の姿を表しています。そのため、小宇宙である人間もまた、同じ二重性を有しているのです。

 

こうして、「▽(カ)」と「△(ミ)」が合わさって、「カミ」となるのです。このようにして、宇宙全体の構造を理解し「“因”の世界」へ帰るということが、イエスの説いた「生まれ変わり」だったのです。

 

そしてこれは、空海も「即身成仏」と言って、全く同じことを説いているのです。「即身成仏」とは何でしょうか? この身を持って(持ったまま)仏になるということです。これは一般には、「肉体の死を迎えることなく仏(つまりブッダ=覚者)となること」と解釈され、これが極論を生んで、生きたまま土中で行をし続け、その果てに入滅すること、のようにされてしまいました。

 

しかしこれは全く違うのです。このような曲解が生じた原因には、「仏(ほとけ)」というものに対する誤った解釈が流布してしまったことがあります。「仏陀(Buddha)」というのは「目覚めた人」の意味で、個人名ではなくて、釈迦がそのような意識状態に至ったので「仏陀」と言ったわけですね。そしてご承知のように、釈迦は、生きたままそのような意識にまで到達しました。

 

つまり「仏陀」というのは、もともとが「即身成仏」を言っていたのです。ところが、漢訳経典を日本語読みして行く過程で、「仏陀」は「仏」と略され、それが「仏(ほとけ)」と訓読みされて、いつしか死者のことを表すようになってしまったのです。ここには、死んだら地上の一切の苦しみから解放され天国へ行けるという庶民の願望と、宗教的な方便の応答がありそうなってしまったのでしょう。

 

イエスの言う「生まれ変わり」も、「Reborn」であって「Reincarnation」ではないことに注意してください。「re」は再びということ。「born」は生まれるですが、「in-carnation」は肉に入るという意味、すなわち「受肉」です。ですから「Reincarnation」は「輪廻転生」のことですが、「Reborn」は、「即身成仏」のことを語っているのです。

 

しかし、残念ながら、ただ肉を滅しただけでは、天国(神の国)へは行くことは出来ません。もともと「死」というものは宇宙にはありませんし、「神の国」へ行けないからこそ、人は何度も何度も地上世界に「輪廻転生」して来ているわけです。このことをよくよく考えれば、「魂」が「輪廻転生」を繰り返すことの意味はもう明らかです。

 

あなたは、「輪廻転生」を、カルマの働きによる「罰」のようにだけ考えてはいないでしょうか? 確かに、メカニズムとしてはそういう力学が働いています。しかし同時に、もっと重要なことがあるのです。それは、地上世界でなければ「仏陀に成る(=成仏)」ことは出来ないということです。つまり「輪廻転生」は、「即身成仏」へのいわばチャンスとして与えられているのです。

 

ですからイエスは、この同じ章の13節で「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はない。 」と語っているのです。この言葉には三つの意味があります。一つは、いま言ったように、天から下った(輪廻転生して来た)者でなければ、天に上れないということです。つまり、それはチャンスなのだということ。

 

二つめは、「その者」は、もともと天に居たものが、下ってきた「魂」なのだということです。どうして下って来たのか? それは自ら希望してである。何のために? 地上世界での出来事を体験するために。ずっと天に居ればよいものを、わざわざ記憶を無くしてまで地上に生まれ、そこで様々な体験を重ねる。そういう道を、あなたという「魂」も選んだのです。いったいどうしてそんなしちめんどくさいことをするのか?

 

それが永遠の進化だからです。生命の実相だからです。その果てしない活動が、宇宙の息(Breath=生き)であり、「神」というものだからです。ですから、「神」のかけらである一人ひとりは、みな「神」より出発し、そうやって新たな体験を積み重ねて、ちょとずつ霊性を高めながら、やがて「神」の本体に帰って行くのですね。そのようにして、総体であるところの「神」自身が果てしなく成長している。

 

この意味において、個々の「魂」に一切の差別はありません。誰もが等しく愛されている。その永遠の旅の、地上における終止符が「即身成仏」であり、イエスが語った「生まれ変わり」ということなのです。

自由と神との関係

自由とは、何事も自分の意志によって選ぶことが出来るということです。要するに選択することの自由です。人間はこの自由を、本来的に与えられています。この中には、行動、思考、そして感情の選び方までもが含まれます。それら一切合切を、人は自由に選ぶことが出来るのです。

 

そう言うと、「自分には自由がない」と仰る方が、きっとおられるでしょう。この世は何もかも制約だらけだ。自由な行動などちっとも出来やしない。たとえば会社だ。どんなに眠くたって満員電車に揺られて通勤しなくちゃならない。会社に行けば行ったで上司の顔色うかがって奴隷のように働かされる。一体このどこに自由があるって言うんだ。

 

そうかも知れませんが、それらの全部を拒否することだって、あなたには出来るんですよ。今日は会社に行きたくないなと思ったら行かなくてもいいし、上司と考え方が違っていたら楯突いたっていいんです。もちろんそれ相応の結果が予想されますが、それが自由と責任というもので、それをどう使うかは、全部あなたに委ねられているのです。まさに自由なのです。

 

さてそうすると、このような疑問が沸かないでしょうか? 人は悪を為す自由もあるというのか? 神はそれを許すのか?

 

これは素朴でありながら核心を突いた問いで、エルサレムを起源とする三大一神教は「神がそんなことを許すはずがない」として、みな対立概念に打倒すべき「悪」を設定したのです。しかしこれは、よく考えてみれば、大いなる矛盾であることは明らかです。なぜなら、神に対抗軸があるということは、それすなわち「一神」ではないからです。この矛盾が、まさに今の世界に噴出しているのです。

 

さてそうすると、神は悪を許すということになるのでしょうか? 何が「善」で何が「悪」と思うかは、人によって、また状況によっても違ってきますが、ここではひとまず万人が「悪」と認めるであろう「殺人」をテーマに考えてみましょう。人が人の生命を奪う。こんなことが許されていい筈がない。もしそれを許してしまったら、世の中がメチャクチャになってしまうではないか。

 

その通りです。ですが、現に「殺人」の自由選択は行われています。ですから殺人事件があちこちで起きているのです。そればかりではありません。国家が推奨する合法的殺人、つまり「戦争」さえこの世にはあるじゃありませんか。そこで武勲を立てた人は、なんと英雄として誉め称えられる。死刑制度を容認する人だって、日本では8割に上っているんですよ。

 

つまり、すでに世の中はメチャクチャなんです。ちょっと前に、少年の小学生殺害事件などをきっかけにして「なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?」という問いが、物議をかもしたことがありましたね。その時、世の大人たちはその問いにちゃんと答えられなかったんです。問いを発した人に、「そんなことも分からないのか!」とは言えなかったんです。

 

なぜなら、自分にも分からない。この世では、殺人を犯した人の罪を、殺人をもって裁くというダブルスタンダードが堂々とまかり通っていて、そのことに根本的な疑問を投げかける人は極めて少ないのです。ですから、国家が推奨する殺人も、大多数が容認しているのです。

 

しかしここで「自由」ということに帰ると、徴兵制があっても忌避する自由はあるし、軍隊に入っても脱走する自由はあるし、戦闘場面に遭遇しても相手を殺さないという自由選択だってあるのです。もちろん、それ相応の結果が予想されます。しかしそれらを全部ひっくるめて、何をどう選択するかは、全くの自由なのです。それが「自由」というものの本質です。

 

ところが、普通の人はそうは考えないのです。「自由」は絶対的なものではなく、限定的なものだと考えている。ある部分に関しては自由は与えられているが、ある部分では制約を課すのが、この世の常識だと考えている。そこから、「倫理」とか「戒律」とか「罪と罰」という考えが生じて来るのです。それを課さなければ、この世の平和安穏は実現されないと信じているのです。

 

この世に「悪」は存在する。しかしその「悪」を「神」は許す筈がない。だから、「善」をもって「悪」を懲らしめるのだ。そうすれば「神」はそれをお喜びになる筈だ。我々に祝福を下さる筈だ。一神教は、そう結論づけました。そこで、「神」の対極に「悪魔(デビル)」を置いたのです。

 

その結果、どうなったでしょう? 冒頭に示した通り、善悪の基準など、極めて曖昧なものです。キリスト教国家であるアメリカ大統領選挙では、毎回、人工妊娠中絶をどう思うか、LGBT(性的マイノリティ)をどう思うか、銃の所持をどう思うかが争点になります。なぜ争点になるかというと、キリスト教の視点に照らして、それを「善」か「悪」かと判断する有権者が多いからです。

 

ご承知のように、イスラム教の社会では、女性の自由はかなり制限されています。これも、イスラム教が考える善悪の判断基準というものがベースにあって、女性はそれに従っているわけです。これらのことは非常に根の深い問題で、ユダヤ教も含め一神教のそれぞれが、みな各自で善悪の基準を設けているために、それが対立を生み、戦争を誘発しているのです。

 

これは、ちょっと考えてみれば、矛盾に満ち満ちた結果になっていることに気づかないのかと思うのですが、宗教という巨大な洗脳システムは、その矛盾を易々と超えてしまう力を持っているのです。

 

さて、これまで見てきた通り、人には悪を為す自由もあるということは明らかです。神がそれを許すのかと問えば、許しているからこそ現に存在しているわけです。これも明らかです。ですから、人間社会では大っぴらに「悪」がまかり通り、「悪」を懲らしめると言って「悪」の上塗りをする行為も絶えません。それらすべてを、神は許容しているのです。

 

いま述べたことは、熱心な信仰者の方が聞いたらたぶん卒倒してしまう、あるいは怒り狂うような結論かも知れません。でも真実はそうなんですから受け留めなくてはなりません。これは私が主張していることではないのです。世の中の「現象」というのは「結果」の世界ですから、その結果に既に全部顕れているということです。

 

でもこれは、決してニヒリズム(虚無主義)ではないのですよ。それどころか、まったく逆です。まったき愛の世界がそこに在る、ということにお気づきいただきたいのです。ちょっと考えてみてください。何もかも一切合切を許す。あなたのすべてを許している。罪も罰もない。これ以上の「愛」が、果たしてあるでしょうか? そこには「愛」しかないのです。これこそが「真の神」です。

 

その「真の神」に比べたら、「悪」と闘う「神」が、いかに低級なものであるか、人間が勝手に創り出した概念に過ぎないということがお解りでしょう。あなたは(つまり誰もが)、いま言った「真の神」の懐に、分け隔てなく抱かれているのです。Always, All times, All places. いつどこに居たって。その幸福に目覚めてください。すべての「自由」が許容されている、その「愛」の懐の深さに目覚めてください。

 

では「真の神」は、「悪」を為すことを推奨するのでしょうか? それはあなた自身がお考えください。すべては自由です。ただ、これまで何度も語ってきた法則をもう一度書いておきます。他人に為したことは自分に為したことと同じである。自分が為したことは、やがて宇宙を回って自分に返ってくる。そのようにして、人は「体験」から気づきを得て、「魂」の成長を図って行くのです。

“因”の世界を知る

物事の結果には、必ずそれを為さしめた原因というものがあります。これが「因果の法則」、よく言うところの「因果律」です。この世のあらゆる現象というものは、何かの結果として今そこにあるのですが、これが原因となって、また次の現象を生じさせているのです。

 

たとえば、空気中の水蒸気が凝結して雨が降る。この雨が低いところに集まって川になる。川はやがて海に注ぐ。海が温められて水蒸気が発生する。その水蒸気が雲を作り、これがまた雨を降らすといったように。このようにして、「因果の法則」は永遠にグルグルと回り続けるのです。そしてこれは、「生命」とは何かという答えを、同時に表しているのです。

 

ところで、科学には2種類があるということをご存知でしょうか? この世の現象(という結果)の真の原因を探ろうとする科学と、現象から現象を導く科学です。そして今のこの世で、「科学」と言った場合には、ほとんどが後者、つまり現象から現象を導く(結果から結果を導く)ものを「科学」と称しているのです。

 

たとえば、フレミングの左手の法則というものがあります。たぶん中学校で習ったでしょう。覚えておられますか? 〈磁場〉の中を〈電流〉が流れる際に、導体に〈力〉が発生するという現象と、その向きについての法則です。こういう現象があるから、それを応用した電動モーターが動いているんですよね。

 

とまあ、そういう法則が自然界で成り立っていると。そこまではいいです。でも、なぜそうなのか? どうして〈磁場〉と〈電流〉と〈力〉が、きれいに90度で交差するという現象が起きるのか? これは分からない。分かっているのは、そういう現象(結果)があるということだけです。そしてこういう法則(公理)を基に、次の法則を導き出しているのが、現代の「科学」と称する学問なのです。

 

つまり、いま主流の「科学」は、ちっとも真の原因を探ろうとはしていないのです。電荷にプラスとマイナスがある。じゃあどうしてプラスとマイナスがあるのだろうか? そこまで追究して知ろうとは、決してしない。プラスとマイナスがあると言っているだけです。そういうものは、問うのも愚かな「公理」ということになっています。

 

でも、こうした〈現象から現象を導き出す〉現代の「科学」は、必ず矛盾に突き当たってしまいます。

 

宇宙はビッグバンによって始まったと言う。じゃあ、その始まりの前は何だと。「無」だと。「無」から突如、宇宙が誕生したんだと言う。じゃあ「無」から「有」が生じたプロセスを説明してみてください、ある日突然と言うけれど、その「ある日突然」がどうして訪れたのかを説明してください、と言ってもできない。

 

心は、脳の部位が活動した結果、生じているんだと言う。だから心の変調は脳の機能障害なんだと言う。じゃあ、その脳を動かしているのはいったい誰なんだい? 脳が勝手に動くとでも言うのかい? ということは、自分の「意志」は、自分のものではないということ? 俺はいったい誰なんだ? Oh, No!

 

人間は死んだら「絶命」して「無」になるという。じゃあ逆に、「誕生」って何なの? 生殖行為が「無」から「生命」を創り出すとでも言うわけ? もしそれが本当だとしたら凄いことだよ。人間のビッグバンだ! でも待てよ、本当にそれが「無」から生じたって言えるのかな? そもそも、卵子と精子という〈生きた〉素材があったわけでしょう?

 

こういうシンプルな疑問に、現代の自称「科学」は何一つ答えられません。それは現代の「科学」が、依然として物質領域の世界にのみ留まっていて、現象から現象を導き出しているだけだからです。「その奥があるのでは?」とは言えないし、名のある科学者は決して言わない。それが建前になっている。そっちの領域にまで踏み込んだ科学者は、みなウソつき呼ばわりされてしまうからです。

 

この、さらに奥の原因を探ろうとする科学が、もう一つの科学、つまり神秘学なのです。そしてこれを「“因”の世界」と言うのです。この世だけを見ていますと、一見、現象が現象を次々と生み出しているように見える。でもその根源には、“因”の世界というものがあるのです。先ず“因”の世界での活動があって、その結果が、この世(物質世界)に、〈現象として〉立ち現れているのです。

 

ところが、以前にも真逆様(まっさかさま)の解説で述べたように、この世では価値観が逆転していますから、「真理」を知らない人たちは、“因”の世界を知ろうとする「真」の科学を、逆にエセ科学とかトンデモ説といって攻撃します。でも、どっちがエセ科学なのでしょうか? 現象から現象を導き出しているだけの、矛盾だらけの学問が、果たして「科学」と言えるのかどうかということです。

 

よく「見えない世界は信じない」と簡単に言う方がおられるのですが、その人に問いたいです。あなたに電気は見えるんですか? 電波は見えたんですか? 磁場は見たんですか? 放射線は見えますか? 意識は見えますか? 心は見えますか? 想念が見えますか? 生命が見えますか? どうです? 見えないものを、既にいっぱい信じちゃっているのではありませんか?

 

では、電気という見えないものをあなたが信じている理由はなんですか? そういうものがあると、どこかで習ったからでしょう? 放射性物質の近くに行くのは危険だと、あなたが信じる理由はなんですか? そう習ったからでしょう? あなた自身が確かめたわけじゃない。じゃあ、1000年前の人に、それを説いてみてくださいよ。あなたの言葉を信じる人がいると思いますか?

 

子どもの頃に、隊列を作って地面を忙しく動き回る蟻さんを、不思議な眼でじーっと見続けたことはなかったでしょうか? 星座盤を片手に夜空を見上げ、宇宙の果てはどうなっているのだろうと思いを馳せたことはなかったでしょうか? 結局それが、「真の科学(=神秘学)」というものの視点なのです。「不思議だなぁ?」「なぜだろう?」「どうしてかな?」と思うことが出発点。

 

ところが現代人は、そういう好奇心よりも、他人から聞いた「知識」を先に仕入れてしまう。しかも学校では、「知識」の有無を採点対象にしてしまうものだから、受け売りの「知識」をみんな無条件に信じるようになってしまったのです。そればかりか、知識量を誇る人たちは、子どもの視点をずっと持ち続ける「真の科学者(=神秘家)」を、キチガイ扱いして糾弾する始末なのです。

 

あと1000年、いや100年経ってご覧なさい。「“因”の世界」のことは、もう常識になっている筈です。私が話すことは、別に信じなくていいです。ただ生活の周りに、いつも子どもと同じ視線で、好奇心や疑問を持ち続けていて欲しい。「知識」を鵜呑みにしているだけでは成長はありません。疑問があるから気づきがあり、気づきがあるからこそ、成長があるわけですからね。

自分の思考パターンをチェックする

現実とリアリティとは違う。このことは、基本中の基本として、記憶しておいてください。私たちが何気なく「現実」と呼んでいるものは、「現実(実の現れ)」という名とは全く裏腹に、その存在を確認することが不可能なものなのです。そこで神秘学においては、昔から「この世は幻(まぼろし)」と言われているのです。

 

たとえば、どこかの都市でテロ事件が起きたというニュース映像を見ます。「ああ、そんな事件が起きたのか」と思う。けれども、あなたはその事件を本当に目撃しているわけではないのです。見ているのは、事件をある方向からカメラで切り取った映像です。もっと言うと、単にディスプレイ画面の光の明滅を知覚しているだけなのです。

 

その光の明滅と音に、意味を見出す(というよりも付与している)のは、あなたなのだということです。これが、あなたの「リアリティ」です。でも世間の常識として、本当はあなただけの「リアリティ」であるのに、それを「現実」だと思い込むように訓練されてしまっている。そこでこの世では、壮大な錯覚がまかり通っていて、誰もこれを気に掛けないのです。

 

ですから、かつてアポロ11号の月面着陸映像の中継を世界中の人々が信じるという、集団催眠事件が起こったのです。この事件は、『2001年宇宙の旅』の監督であるスタンリー・キューブリックが、スタジオで放送用のフェイク映像を撮影し、その依頼を若き日のドナルド・ラムズフェルドが行ったことが、本人たちの証言で明らかになっています。

 

では、今度は実際に目撃した、あるいは体験した、という場合を考えてみましょう。たった今グラグラっと来て「あ、地震だ!」とあなたが思ったとします。急いでテレビを点けると、震源地と各地の震度を表すテロップが流れています。そこであなたは「地震」という「現実」が起きたのだと思う。

 

ところが、その「地震」というものの総体を完全に把握できる人間など、実は一人もいないのです。うちでは棚の上の皿が落ちて来て割れたとか、うちは壁にヒビが入ったとか言う。それは、それぞれの「リアリティ」であって、同じものは一つもありません。でもみんなが口車を合わせることによって、そういう「現実」が起きたと、人間は「解釈」しているのです。

 

このように、あなたが「現実」だと思っている世界、自分とは別個に、確実に存在していると思っている世界は、実は不確かで、極めてあやふやなものです。その総体を把握することなどは不可能です。身の周りに起こる現象に意味を与えている、もっと言えば「リアリティ」を〈創造している〉のは、他ならぬあなただということです。

 

よく、理想と現実は違うとか、現実に押し潰されるとかと言いますが、これらの言葉は全く正しくありません。「現実」があなたを押し潰すのではなく、押し潰されるという「リアリティ」をあなたが〈創造〉した時、あなたは「押し潰された」と思うのです。つまりそれらは、すべてあなたの「想念」の働きによるものです。

 

いま言ったことはとても重要なことで、よく考えてみれば、なるほどそうだと解るはずです。それなのに、人間はこの単純な理屈に気づいておらず、人類全体が壮大なフィクションの世界に巻き込まれているのです。太古の時代から、少数の賢者が繰り返しこの真実を伝えてはいるのですが、人間はいっこうに耳を貸そうとはして来なかったのです。

 

けれども、賢明な読者はすでにお解りでしょう。自分の「リアリティ」は自分が創っている。それはいつも言っているように、あなたの自由な選択が創り出すのです。外部から来る刺激に対して、どのような感情を選ぶのか、どのような思考を展開するのか、どのような行動を取るのかは、全く自由だということです。

 

ところがその時に、各人特有の「選択のクセ」というものが表れて来るのです。将来に対して常に悲観的に考える人、変化に対していつも不安を感じる人、直感で何かを思いついても必ず打ち消しの言葉を探し出す人、目の前にチャンスが訪れてもすぐにリスクを考える人、etc. もちろん今あげた例とは正反対のクセの人もいます。

 

この「選択のクセ」を、別の言葉で「性格」と呼んでいるのです。よく「性格は変えられない」とか「変えられる」とかが議論になりますが、自分の「性格」を変える方法は、この自分特有の「選択のクセ」に気づいて、それを改められるかどうかに掛かっているのです。

 

理屈はそういうことなのですが、これが非常に難しい。先ず、自分の「性格」というものの正体が、実は「選択のクセ」にあるのだということに、みんな気づいていません。第二に、そのため、今まで自分が創り上げて来た想念(別の言葉では、観念、信念、思い込み、こだわり)の世界に完全に埋没していて、自分という者をなかなか客観視できないのです。

 

このため、同じ思考パターン、ひいては行動パターンを、グルグルグルグル回っている人というが大半なのです。こういう人には、もう何を言っても効きません。どんなアドバイスをしてあげても、結局は自分の慣れ親しんだ思考パターンに帰ってしまい、それを決して手放そうとはしません。これが「性格は変えられない」と言われるゆえんです。

 

もう本人が気づくのを待つしかない。でも、周囲の人たちはみな分かっているんですよ。内心「あの人は、こういうタイプ」と分析した上で接しているんです。ただ、面と向かって指摘したりしないだけです。本人だけが、自分の「性格」つまり「選択のクセ」を分かっていないんですね。

 

以前に、幸福になるには、「自分が幸福だ」と思うだけでいいと書きましたね。覚えておられますか? 晩ごはんのおかずがサバ缶しかなかったとしましょう。「ちぇ、サバ缶だけか」と思うことも出来るし、「わーい、サバ缶があるぞ」と思うことだって出来る。それは自由。

 

でも後者を選択するクセの人は、前者を選択するクセの人よりも、ずっとハッピーに生きられるし、生きているのです。解りますか? サバ缶を「お金」に替えて、同じことを考えてみてください。

 

周囲の現象に対するあなたの「選択のクセ」は、あなた特有の「想念」を内側に形づくります。これまで生きて来て、あなたは既にたくさんの「想念」を自分の中に抱え込んでいます。これが-ベースとなって、自分の「選択のクセ」をますます強化し、ついには、自分で創った「観念、信念、思い込み、こだわり」によって、自分自身を縛るようになるのです。

 

これが俗に言う、囚われ、執着、の状態です。自由意志の行使の仕方を、間違ってしまったんですね。ほんのちょっとしたことで、ハッピーになれたはずなのに。

 

ですから、ご自分の「思考パターン」というものに、先ずは気づくということがどれほど重要なことであるか。そこで、次の作業をお勧めします。夜、床につく前に、その日一日に起きた出来事、その時の感情の動き、自分の中に形成された想念を、良いことも悪いことも、全部ノートに書き出してみてください。

 

そしてそれが、その日のあなたの生活に、どんな影響を及ぼしたのかを調べてみてください。この作業を繰り返すことによって、ご自分の「選択のクセ」を、遠からず発見できることでしょう。そうすれば、自分のイヤな面を変えられます。

「気づきの啓示板」2nd stage 終了のお知らせ

これまで、4年10ヵ月に渡って掲載して参りました「気づきの啓示板」の 2nd stageを、本日をもってひとまず終了することに致しました。今年に入って感覚的な変化が2度あり、一時はハッキリとしたチャネリング感覚を持って書いていたのですが、夏以降はその感じが失なわれてしまいました。

 

*チャネリング感覚が出始めた以降が 2nd stage で、それ以前が 1st stage

 

エネルギーの使い方に馴れて来て、そういう引っ掛かるような感じが失くなったのか、それとも上からのメッセージが、もう下りて来なくなったのか? 両方なのでしょうが、おそらく後者の方が強いでしょう。私もすでに充分語ったという感じがして、この辺が潮時だと思いました。

 

身近なメンバーに相談したところ、「少しお休みを入れて、様子を見れば?」と言われ、10月からは土日祝祭日にお休みをいただいて、当面続けるということをやってみましたが、失われた感覚は戻らず、このまま今のスタイルで続けていても惰性でしかないように思えてきました。

 

この4年間は、別に意図したわけではないのですが、結果的にこのブログに全精力を傾けるようになってしまい、「虹の学校」としての他の展開がほとんど出来ませんでした。それはそれで、必要なプロセスであったわけで、私も大きく成長できたと感じているのですが、もう疲労困憊ですし、「次の段階が来たよ」という声も聞こえるのです。

 

1段目、2段目のロケットが燃え尽きて、3段目の人工衛星を軌道に乗せるためには、今のままではパワーが足りません。自分自身の stage をもう一段階上げる必要があると感じています。そのためにも、これからしばらくは、自分自身の「行」に専念したいと思います。

 

振り返れば、最初の読者は30人くらいでした。今はその20倍くらいにはなっているようです。日めくりカレンダー替わりに読んで下さっている方もおられて、その人たちの見えない応援に支えられて今日まで続けることが出来ました。駄文も多かったと思いますが、飽きずにお付き合い下さった方々、どうもありがとうございました。

 

皆さんは、共に成長をして来た、同士だと思っています。同士の皆さん、思索の時期は終わりました。もう充分です。すでに皆さんの中には、これまで説かれることのなかった「宇宙の法則」の神髄が入っています。今後は皆さんのフィールドで、実践的な活動にチャレンジして行っていただきたいと思います。

 

皆さんが、明るく、楽しく、元気よく生きれば、それだけで、自動的に周囲の人々まで、明るく、楽しく、元気よくしてあげることが出来るのです。それが「波動の法則」です。もう皆さん、よくお解りのことです。

 

知らない人が聞いたら「そんな馬鹿な?」と言うかも知れませんが、いくら制度をいじったところで、社会を変えることは出来ないのです。制度を作るのも人間なら、運用するのも人間であり、結局、人間の質が変わらない限り、必ず制度を悪用し、人々を苦しめる輩が登場するのです。

 

ですから、皆さんが、明るく、楽しく、元気よく生きれば、その純粋で高い波動が周囲を振るわせ、周囲の環境や人々を、高い波動で固定することに繫がるのです。これは確実ですし、あなたが思っている以上に凄いことなんですよ。

 

そんなもの信じられないという方は、逆を考えてみればいい。目を吊り上げた政治家、口から泡を飛ばす評論家、周囲を蔑んだ目で見る有識者、俺は大将だぞと威張る企業経営者、どよ〜んとして生気のない教育者。これらはみな、自分と同じ低い波動を集めることに一役買っているんですよ。

 

だから、あなたは、そんな罠には落ちないように。

 

もし何かのヒントが欲しくなった時には、このサイトの下段にあるキーワード検索に言葉を入れて調べてみてください。もしかしたら有益な情報が見つかるかも知れません。途中から「気づきの啓示板」を発見した方も、そのように活用していただければ幸いです。もし、どうしてもこれを訊きたいという質問がある方は、質問コーナーにお寄せください。

 

バックナンバーは、過去に書かれたものではありますが、それは過去の情報ではないんですよ。あなたが今読む時、それは、今その瞬間に、あなたの前に立ち顕れたということなんです。もっと言えば、あなたの「魂」が、今まさにその瞬間を、部品を集めて創ったのです。ドンピシャのタイミングで。このことが理解できれば、あなたの人生は何倍も豊かになります。

 

*これは、量子力学の初歩の初歩。

 

今後は、義務感に縛られず、インスピレーションがある時にだけ不定期で投稿することになります。がしかし、なるべく月曜日の定期掲載を心がけるようにいたします。今まで支えて下さって、どうもありがとうございました。

それでは、ごきげんよう。

God bless you.