瞑想をしている時、何かに集中したい時、精神統一したい時、どうしても「雑念」が湧いて来る。それで「どうしたらいいでしょうか?」という質問をよく受けます。これも、日本式仏教の坐禅というものがもたらした弊害の一つだと私は思います。「雑念」を消し去ることが、高みに上るための必須条件だと、みなすっかり思い込まされているのです。
「心を『無』にするなんてことは出来ない」の稿でも書いたように、「心」というものは絶えず動いていて、そうなることが当たり前なのです。なぜなら、「心」の本体は「魂」にあって「魂」は宇宙と繋がっているわけですから。そしてその宇宙というものは、始まりも終わりもなく永遠に変化し続けている。リンク元が常に活動しているのですから、リンク先であるあなたの「心」が動くのは当たり前です。
問題は動き方なのです。自転車に初めて乗った時のことを覚えていますか? ハンドルがフラフラしてスムーズには走れません。でもこのフラつきが起きないようにと、ハンドルを固定してしまったとしたら、走り出してもすぐに倒れてしまうでしょう。つまり理屈は逆で、スムーズに走れるようになった時には、いつの間にかハンドルのフラつきはなくなっているものなのです。
瞑想時に湧く「雑念」を、私はいつもスープを取る時のアクにたとえてお話ししています。肉でも魚でも、スープを取る際には、二度アクを取ります。最初はグラグラと煮る。するとアクが上に集まって来ますからそれを掬い取る。これは肉や魚の表面についた汚れです。この後、弱火にする。そのままグラグラ煮続けてしまいますとスープが濁ってしまいます。
そうやって弱火でフツフツと煮ていますと、今度は肉や魚の内側からアクが出てきますから、次にこれをこまめに掬うのです。このように、二段階でアクを取る。瞑想もこれと同じで、最初はワーッと「雑念」が出ます。でも出るに任せて放っておけば、そのうち出切って澄んできます。後は、弱火にして、時々掬えばいいのです。
およそ「葛藤」というものは、本来不必要な自己抑制から起きているのです。このチョットした盲点に気づくだけで、あなたは「自由」というものの本質にグッと近づくことが出来ます。
人間は、社会から、学校から、職場から、親から、宗教から、常識から、その他ありとあらゆるところから、「こうしなければならない」という刷り込みを受けています。これらはみな、あなたを縛る拘束帯となって、あなたを何重にも取り囲んでいるのですが、そこに完全に埋没しているために、それらが正しいと信じ込んでいる状態です。
あなたの「魂」は、もちろん「自由」の本質というものを知っているのですが、いま言ったような「理性」で縛られた「心」は、その「自由」を、「そんなことはあり得ないよ、許されないよ」と否定します。そこに、いつも「葛藤」が起こるのです。
これまでも、そして今後も、何度も何度も「直感に生きよ」と申し上げて来ましたが、「直感に生きる」とは、「魂」の自由に従うということであり、それがあなたを「解放」するただ唯一の道なのです。ところが口を酸っぱくしてそれを勧めても、大多数の人間はそうはしません。すぐにそれを否定する拘束帯をどこからか見つけ出し、自分を縛ることの方を選ぶのです。
「葛藤」とか「迷い」というのは、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる状態です。どちらも自分が起こしている。「直感」が「こうしたらどう?」と勧めてくれているのに、「いいや、リスクを考えろ」と「理性」がブレーキを掛けてしまう。逆の場合もあります。「直感」が「体を休めたら?」と勧めてくれているのに、「いいや、もっと頑張れ」と「理性」がアクセルを掛ける。
このように、今の地球人類を縛っている拘束帯というものは強烈なもので、そもそも社会の指導者層がいちばんそれらに洗脳された人々ですから、そこから脱するのは容易なことではありません。今日これをお読み下さった人であっても、おそらく99パーセントは、また自分を縛る生き方を選びます。
そして極々少数の、冒険心に溢れた人が、「じゃあ試してみようか」と「直感」に生きる道を選択するのです。そして、その人たちだけが「なぁんだ、こんなに簡単なことだったのか!」と理解する。「〈あるがまま〉ってこういうことだったのか!」と理解するのです。