by Rainbow School
<< November 2016 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
「雑念」は出るに任せればいい

瞑想をしている時、何かに集中したい時、精神統一したい時、どうしても「雑念」が湧いて来る。それで「どうしたらいいでしょうか?」という質問をよく受けます。これも、日本式仏教の坐禅というものがもたらした弊害の一つだと私は思います。「雑念」を消し去ることが、高みに上るための必須条件だと、みなすっかり思い込まされているのです。

 

心を『無』にするなんてことは出来ない」の稿でも書いたように、「心」というものは絶えず動いていて、そうなることが当たり前なのです。なぜなら、「心」の本体は「魂」にあって「魂」は宇宙と繋がっているわけですから。そしてその宇宙というものは、始まりも終わりもなく永遠に変化し続けている。リンク元が常に活動しているのですから、リンク先であるあなたの「心」が動くのは当たり前です。

 

問題は動き方なのです。自転車に初めて乗った時のことを覚えていますか? ハンドルがフラフラしてスムーズには走れません。でもこのフラつきが起きないようにと、ハンドルを固定してしまったとしたら、走り出してもすぐに倒れてしまうでしょう。つまり理屈は逆で、スムーズに走れるようになった時には、いつの間にかハンドルのフラつきはなくなっているものなのです。

 

瞑想時に湧く「雑念」を、私はいつもスープを取る時のアクにたとえてお話ししています。肉でも魚でも、スープを取る際には、二度アクを取ります。最初はグラグラと煮る。するとアクが上に集まって来ますからそれを掬い取る。これは肉や魚の表面についた汚れです。この後、弱火にする。そのままグラグラ煮続けてしまいますとスープが濁ってしまいます。

 

そうやって弱火でフツフツと煮ていますと、今度は肉や魚の内側からアクが出てきますから、次にこれをこまめに掬うのです。このように、二段階でアクを取る。瞑想もこれと同じで、最初はワーッと「雑念」が出ます。でも出るに任せて放っておけば、そのうち出切って澄んできます。後は、弱火にして、時々掬えばいいのです。

 

およそ「葛藤」というものは、本来不必要な自己抑制から起きているのです。このチョットした盲点に気づくだけで、あなたは「自由」というものの本質にグッと近づくことが出来ます。

 

人間は、社会から、学校から、職場から、親から、宗教から、常識から、その他ありとあらゆるところから、「こうしなければならない」という刷り込みを受けています。これらはみな、あなたを縛る拘束帯となって、あなたを何重にも取り囲んでいるのですが、そこに完全に埋没しているために、それらが正しいと信じ込んでいる状態です。

 

あなたの「魂」は、もちろん「自由」の本質というものを知っているのですが、いま言ったような「理性」で縛られた「心」は、その「自由」を、「そんなことはあり得ないよ、許されないよ」と否定します。そこに、いつも「葛藤」が起こるのです。

 

これまでも、そして今後も、何度も何度も「直感に生きよ」と申し上げて来ましたが、「直感に生きる」とは、「魂」の自由に従うということであり、それがあなたを「解放」するただ唯一の道なのです。ところが口を酸っぱくしてそれを勧めても、大多数の人間はそうはしません。すぐにそれを否定する拘束帯をどこからか見つけ出し、自分を縛ることの方を選ぶのです。

 

「葛藤」とか「迷い」というのは、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる状態です。どちらも自分が起こしている。「直感」が「こうしたらどう?」と勧めてくれているのに、「いいや、リスクを考えろ」と「理性」がブレーキを掛けてしまう。逆の場合もあります。「直感」が「体を休めたら?」と勧めてくれているのに、「いいや、もっと頑張れ」と「理性」がアクセルを掛ける。

 

このように、今の地球人類を縛っている拘束帯というものは強烈なもので、そもそも社会の指導者層がいちばんそれらに洗脳された人々ですから、そこから脱するのは容易なことではありません。今日これをお読み下さった人であっても、おそらく99パーセントは、また自分を縛る生き方を選びます。

 

そして極々少数の、冒険心に溢れた人が、「じゃあ試してみようか」と「直感」に生きる道を選択するのです。そして、その人たちだけが「なぁんだ、こんなに簡単なことだったのか!」と理解する。「〈あるがまま〉ってこういうことだったのか!」と理解するのです。

我と吾

我と吾、どちらも自分自身を示す言葉で「われ」と読みます。でも吾の字は、今ではあまり使われなくなりましたね。明治38年に上梓された夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の「わが輩」は「吾」の字になっていますから、この頃にはまだ「吾」が主流だったのでしょうか? でも明治43年『尋常小学読本唱歌』に発表された唱歌「我は海の子」は「我」の字です。この辺りが境目なんでしょうかねぇ?

 

さて「我」と「吾」、いったいどう違うのか? この違いを知ると、とても興味深いです。「我」というのは象形文字で、左側がギザギザの歯がついたノコギリ状の武器、右側が剣に長い柄を取り付けた武器「戈(ほこ)」を表しています。ですから「我」という字には、武器が2つ入っているんですね。

 

どうして武器が2つ重なって、自分自身を表す言葉になっているのか? それを考えた時、左手にノコギリ、右側に戈を持って身構えている姿が浮かびませんか? ですからこの「我」は、外敵から身を守る自分、そのようにして外界と分断することによってある「自己」というものを強く感じさせます。これが、「自我」「我儘」「我を張る」といった言葉にも通じているのではないでしょうか?

 

これに対して「吾」は、上部が「五」、下部が「口」で構成されています。この「五」というのは、鼓状(⧖)に棒を組んだ形で、分かりやすく言えばコックリさんをする時に組む棒です。ですからこの象形には占断の意味があります。

 

この形に、九宮魔法陣の数字を当てると左図のようになります。

 

九宮魔法陣は、縦横斜め、どこを足しても合計が15になる配置の数列で、中心にある数字は「五」です。ですから「五」は万物の中心を表す数字となっています。万物の中心を表すシンボルには他にもいろいろありますが、最もよく知られた「+」は天地と左右に広がるすべてを表し、英語ではこれを ten(天)と言うわけです。さらにこの天と地に横棒を引いて、これを治める者の意味が「王」(OM/AUM)です。

 

「五」はこの「王」に縦棒の補助が1本付いたもので、「王」を占断によって補佐するの意味もあります。ですから「吾」という字は、そういう「五」の下の「口」から発せられた言葉(神のお告げ)が本当の「吾」である、という意味なんですね。つまり「吾」という自己観は、「我」とは違い、自分の内側から上がって来るもの、自分自身の中心にあるもの、そして宇宙に繋がっているという意識なんです。

 

そして、そういう「吾」というものの認識が「心」の中に広がって来る、充満して来る。本当の「吾」を知るということ。自分が何者かが解った状態。そういう状態が、「吾」に〈りっしんべん=心〉を付けた「悟り」という文字です。

 

そう見てみると、「我」と「吾」の違いは、非常に対照的です。そして、「吾」の字が今では殆ど使われなくなってしまい、「我」ばかりが使われるようになったというのも、なんだか近代社会というものを映しているように思います。

ヘイトとハグ ‐‐‐ どっちを選ぶ?

「フリーハグ」という言葉があることを、あるインターネットの動画を観ていて知りました。K国に対するヘイトデモが行われてる中で、K国のひとりの女性がそれを行っているのです。私もしょっちゅうハグをしています。日本人には全く馴染みのない習慣ですが、外国人がやっているのを見て「これはいいことだ」と思ってから、真似して積極的に行うようになったのです。

 

私はこういうシンプルさが好きです。ねぇハグしようよ。そんな簡単なアクションだけで、友愛のコミュニケーションが図られる。相手を値踏みしたり、疑心暗鬼でいては、ハグはとてもじゃないができないと思うんですよ。

 

それに比べて、「ヘイトデモ」とか「ヘイトスピーチ」とか、なんてイヤな言葉が流行っているのでしょうか。このような憎悪の表現行動が、今や世界中を席巻しています。

 

国家主義、民族主義、排他主義、人種差別、異教徒排斥の傾向が、世界各地で盛り上がっています。その根っこには、グローバル経済がもたらした歪みに対する人々の反動があると、私は分析します。地域固有の文化を破壊されることに対する潜在的な怖れが、背景にはある。そのことには同情します。でも、矛の向け先が間違っていると思うのです。

 

K国やC国をヘイト(hate:憎悪)するという時、それは何に対して言っているのでしょうか? その国の領土のことを言っているのでしょうか? それには領海も含むのでしょうか? そうではなくて政治体制のことを言っているのでしょうか? 特定の政治指導者のことを言っているのでしょうか? あるいは国歌や国旗のことを言っているのでしょうか?

 

それともその国の国籍を持つ人たち全員を言っているのでしょうか? その中には外国から帰化した人は含まれるのでしょうか? 反対にその国から日本に帰化した人は含まれるのでしょうか? その二世や三世はどうでしょうか? そうではなくて、風俗や習慣や文化のことを言っているのでしょうか? 言葉や食べ物や服装や、その国の輸出品のことを言っているのでしょうか?

 

いいや、そんなしちめんどくさいことはどうでもよく、ともかく、一切合切全部が嫌いだとでも言うのでしょうか?

 

結局、「自分が抱いているイメージ」が嫌いなのだということにはなりませんか? では、そのイメージを創ったのは誰でしょうか? その人です。ですから、憎悪を剥き出しにする人というのは、結局、自分が嫌いなんですね。自分の中に、どうしても許せない、イヤな部分がある。でもそれを、外側にある身近な対象者に転嫁してしまうのです。イジメの構造は、全部これです。

 

自分を信頼できない。自分を愛せない。自分を敬うことが出来ない。でもそれを素直に認めることが出来ないから、その憤りのエネルギーを、外側にある適当な対象者を見つけては、それに対してぶつけているのです。そこに、本人は全く気づいていない。

 

他者を見下すことで、自分が優位に立てる道理はありません。他者を憎悪することで、自分を愛することは出来ないのです。他者を憎悪する人は、自分を憎悪する人です。他者を愛することの出来る人だけが、自分を愛することが出来るのです。自分を愛することの出来る人だけが、他者を愛することが出来るのです。これが道理です。

 

憎悪の炎を燃やせば、結局、自分を傷つけます。ニュース報道などで、ヘイトの雄叫びを上げる人たちの顔をよく見てください。心の苦しさに耐えかねて激しく歪んでいるのが分かるはずです。自分の感情は、いつだって自由に選ぶことが出来るのに、なぜわざわざ「憎悪」の感情を選ぶのですか? それでハッピーになれるわけがないじゃありませんか? あまりにも愚かです。無智です。

 

ハグをしている瞬間の人たちの、顔をよく見てください。ハッピーが溢れているじゃありませんか。こんな簡単なことなのに‥‥。愛とは、こんなに簡単な理屈なのに。なぜ人間はいつまでも解ろうとはしないのでしょうか?

心を「無」にするなんてことは出来ない

瞑想をする際の達成すべき心境として、「心を無にせよ」とか、「無心の心境で」といったことが、日本の禅宗系の仏教では説かれています。加えて座禅は、足の組み方や姿勢の維持についても口やかましく、これらが逆に、一般の人々をどれだけ瞑想習慣から遠ざけてしまう結果になっているかと、私は残念でなりません。

 

瞑想は難しいものではありません。ましてや「心を無にする」ことでもありません。心を「無」にすることなど、そもそも不可能です。何度も言うようですが、「無」というものは、概念上の世界でしか有り得ない。その有り得ないものを求めて、「無心になれない」ことで悩んでいる人の、なんと多いことでしょうか。これはまったく無駄な努力というものです。

 

瞑想に限らず、日本仏教のいけないところはそこで、頭で屁理屈をこね回し、その屁理屈を高みに置いて、有り難がって権威づけしし、宗旨宗派を誇り、家元制度を作って収まっている。こうしたものは、元々インドの言葉だった仏典が中国に伝わって漢訳され、日本人はこの漢訳を日本語に読み下して解釈するという学習方法を取ったために出来上がった悪しき習慣です。

 

このような狭量な考え方にいつまでも固執しているために、今や日本仏教は世界の孤児になっていると思います。インドは英国領でしたから知識人は英語を話します。ダライ・ラマだって英語を話して世界を飛び回っている。このグローバル化した世界の中で、東洋思想を探求したい人たちは、もう直接インドやチベットに行っている。そういう変化を日本仏教の人たちは解っているのかな?と思います。

 

それに、「真理」は一つです。一つでないところに「真理」は有り得ない。もし一つでないとしたら、それは「真理」とは言えません。ですから、国籍や人種や言葉の違いを超えて、「道」を探求する者は、必ずや同じ結論に、そして同じ領域に到達します。それは、古代から連綿と続く智慧が、みな同じことを語っていることによって、既に証明されています。

 

「魂」の世界に、国籍や人種や言葉の違いなどは関係ないのです。そんなものは、数多くの輪廻転生の中で、あっちに生まれたりこっちに生まれたりを体験しているに過ぎない。郷土愛を持つことは別に悪いことではありませんが、いま言ったことを下敷きにした上での郷土愛であって欲しい。そうすれば、争い事などは起きないのです。

 

ではなぜ、国籍や人種や言葉の違いを超えて、みな同じ結論、同じ領域に到達できるのでしょうか? 結局それを可能にさせてくれる手段が、「瞑想」というものなのです。一言で、「瞑想」とは何か? それは、宇宙の英知と繋がるチャンネルを開くことです。これはそんなに難しいことじゃない。心を落ち着かせてリラックスしている時には、すでにその扉を開け始めているのです。

 

ですから誰にでも出来るし、既に多くの人が経験を持っています。音楽を聴いている時、お風呂に入ってゆったりしている時、夢中になって本を読んでいる時、楽器を奏でている時、手仕事に没頭している時、そして大自然を前に息をのむ時、それらはみんな「瞑想」なんです。あなたのチャンネルが開いている。

 

その感覚を、今日から意識して見つめればいい。自分を信じて、自分のその感覚を尊重すれば、宇宙の智慧が少しずつ入ってくる。そして、いつとは言えませんが、自分は本当に宇宙と一体なんだと思える瞬間が訪れる。一瞬でいい、一瞬でいいから、その感覚を思い出してもらいたい。そしてそれを尊重してもらいたいのです。

 

宇宙というのは、始まりも終わりもなく、永遠に活動する「振動するエネルギー」です。あなたの「心(mind)」は、常にそこと繋がっています。ですから、もし「心を無にする」ことが出来たとしたら、宇宙の活動が停止しているということになってしまいます。そんな馬鹿なことは有り得ません。なぜなら、あなたも宇宙の一部であり、それを認識しているあなたは、まさに活動状態にあるからです。

 

月に1度行っている『瞑想サロン』で、瞑想中ずっと「考え続けてもらう」という実験を行ってみました。そして、その時に浮かんだインスピレーションをメモしてくださいと指示をしたのですが、メモする方は一人もいませんでした。全員が没入してしまって体を動かすことが出来なかったのです。結局、普段やっている瞑想と何ら変わりがないということを確認しました。

 

ですから、もしあなたが、「心を無にすることが出来ない」と悩んでおられるのなら、再度そんな悩みなど不必要だと申し上げたいです。足を組む必要もないです。寝転んでいて結構です。とにかくリラックスできる状態にして、瞑想中もどんどん考えてみてください。頭の中でブツブツと呟いてみてください。それでいいのです。宇宙は常に活動しているのですから。

みなエゴのために霊的パワーを利用しようとしている

生まれつき霊感の強い人はおりますし、熱心に行に励んでいれば、この世で「超能力」と呼ばれている霊能もしだいに発現して来ることは確かです。しかしこれは、『オカルトへの興味を捨てる』の稿でも書いたように、オマケのようなもので、そこにだけ注目することによって、この地球に生まれたことの目的を錯覚し、本末転倒してはならないのです。

 

ところが一般の人は、この地上世界で五感を使って知覚している世界のみが常識的世界であって、その範疇を逸脱するものはすべて「超常現象」だと見なし、「超常」というラベルを貼ったボックスになんでもかんでも放り込んでしまうのです。どうしても、そういう見方から離れられない。NHK BSの『幻解!超常ファイル』などその最たるもので、内容もレベルも本当にヒドいです。

 

でも、そうではないということ。プラトンが言ったように、逆なんです。地球の地上世界の方が、限定された特殊領域なんです。ですから、みんなが「超常現象」と呼ぶものは、宇宙からみたら常識。その常識の、地球という限定領域における通過現象なんです。いわゆる「超能力」も、特殊能力でもなんでもない。それらは誰でもが持っているもので、ただそれに気づかないだけなのです。

 

ところが、そういう宇宙の基本構造をみな知らないし、いわゆる霊能が、どのようなメカニズムで成り立っているのかも知らない。自分には「霊能がある」と思っている人であっても、そういう基本を知らない。

 

そこで、これを「特殊能力」だと思い込んで、そこに付加価値をつけ、診断してやると言っては高い金を取ったり、予言と称して恐怖を与えたり、療法や健康法の家元制度を作ってこれをウリにしたりする人が後を絶たない。それが人類にとって、本当によいことなら、なぜ分け与えようとしないのでしょうか?

 

結局、霊的パワーというものを、みんなエゴのために利用しようとするのです。これはとても残念なことです。この世に生まれて、そこで様々な体験をする目的は、それらの体験を通じて自己の霊性を向上させる(別の言い方をすればエゴから脱却する)ためにあるのです。それなのに、霊的パワーを逆にエゴに利用しようとして、一体どうするんですか? これほどの本末転倒はありません。

 

よく言う「引き寄せの法則」。これは「波動の法則」の中のいいとこ取りで、まさしくエゴのために霊的パワーを利用しようとするものです。同じ波長どうしが引きつけ合う。そのこと自体は正しいし法則に合致しています。でもそれを、エゴに利用しようとすることは、エゴが持つ低い波動に同調するものを引きつけるということなんですよ! これがどういう意味を持つか、解りますか?

 

誰しもがちょっとはエゴを持っていますから、そのエゴの部分が「引き寄せの法則」に、まさに引き寄せられるわけです。このようにして、「引き寄せの法則」によって、今や巨大なエゴの塊が創られている。そしてその低い波動が生み出すパワーが、それぞれの人のエゴをますます強化していく。そこに、大勢の人が嵌っているわけです。これ以上の本末転倒があるでしょうか?

 

--------------------------------------------

 

そんなことで、いま崖っぷちにある人類を、地球を、救えると思っているのですか? 地球人よ、いい加減に眼を覚ませ! エゴを集めれば、そのエゴに苦しむことになるということが、これほどになってもまだ解らないのか! 今の地球の惨状を見れば、もう明らかではないか?

 

いいとこ取りをした結果、無視してしまった「波動の法則」の別の面を、改めて言ってあげよう。それは、自分が為したことは、自分に返って来る、ということだ。地球人よ、本物とニセモノを見抜くのだ。刺激的な言葉と映像を使ってあなたたちを誘い、低い波動に固定しようとしている策略が分からないか? 

 

わたしが、わたしの創った者たちに、なぜ焦りや恐怖や不安を与える必要がある? わたしが創った者たち、それもまたわたしなのだよ。わたしが左手で罪を為し、右手でそれを罰するとでも言うのか。それがどんなに馬鹿げた虚妄か、もう気づいてもいい頃だ。

 

あなたたちに与えた自由意志を、もっと有効に使いなさい。己が生まれた意味を、生命の意味を、よくよく考えて行動するのだよ。

幸福とは

幸福というものは、

どこかに宝石が落ちていないかと、探しまわるものじゃないんだよ。

道端で蹴つまずいてコンチクショーと思い、でも気になって拾った石ころ。

その、ただの石ころだと思っていたものが、

磨いているうちに、実は宝石だったんだと気づくことなのさ。

何かを「解る」にも三段階がある

「わかる」という漢字には、分かる、判る、解ると三つがあって、当ブログでは、これを出来るだけ使い分けるようにしています。先ず「分かる」は分別がつくこと。「分」は陰陽の八の字広がりを刀で切るの意味で、物事の違いが分かるということです。「判る」は半分に「刂(カタナ)」で切るということで、ジャッジするという意味。

 

これに対し「解る」は、「解ける」ということで、謎が明らかにされるという意味です。「解」の字は、牛を刀でバラバラにするという意味で、へんは牛の角。複雑なものをバラすんですね。ということで、出来るだけ使い分けようと意識してはいるのですが、時に自分でも迷ってワケが分からなくなる時があります。あれ? ワケが分からないには、どれを使えばいいんだろう、ってな具合です。

 

さてこの「解る」にも三段階があるんですね。先ず頭で解る。それが体に入って来る。そして最後は一体となる。何かを「解る」という時、この最後の一体感まで到達しないと、それは本当に「解った」ことにはならない。

 

どういうことでそれが確かめられるかというと、何かについて一体感となるまで「解った」人は、その分野に関するどんな質問にも答えることが出来ます(その中には、その件については自分は「知らない、分からない」と答えることも含みます)。その人自身が、その世界の表現物となってしまうからです。

 

ですから逆に言うと、質問を受けても答えられない、あんちょこを見ないと答えられないという段階にある時には、まだ本当には理解できていないということです。

 

この「解る」ということの三段階を、「苦」ということについて見てみましょう。生きることがとても苦しい。「苦」とはなんだと、どうして「苦」があるのかと。若い頃の私が正にそうだったのですが、お釈迦様はどう言っているのだろうかと調べてみると、「四苦八苦」ということを言っているということが分かる。

 

えーと、四苦は生・老・病・死で、うんなるほど。でも「生」が苦しみってどういう意味なんだ? 生きることがそもそも苦しみというのか、それとも生まれたことが苦しみだというのか? もし生きることが苦しみというのなら、以下の老・病・死はその中にすべて含まれてしまうから、そういう分類は変だよなぁ。ということは生まれた苦しみということか。だから反対の「死」があるわけか。

 

で、八苦。残りの四苦は、ちと難しいぞ。愛別離苦=愛する者と別れなければならないこと、うんなるほど。怨憎会苦=怨み憎んでいる者に会ってしまうこと、うんあるある。求不得苦=求める物が得られないこと、そうなんだよなぁ、そればっかりなんだよなぁ。で、五蘊盛苦=五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと、それも解るけど、なんで「盛る」ってなってるの? これってジョーク?

 

てな具合で、一生懸命「解ろう」として、これを暗記したりして、ちょっと賢くなった気分になっていました。で、肝心の「苦」は無くなったのか? ぜーんぜん。「四苦八苦」が解ったって、それは「四苦八苦」の分類の構造と意味が分かったというだけで、「苦」というものがどうして生じて、どうすればそこから脱却できるのかは皆目解りませんでした。

 

そこで四諦の法門(苦・集・滅・道)です。あのね、君が苦しいのはね、苦しみの因を集めているからなんだよ。だからそれを滅すればいいのさ。どう滅すればいいのかって? そう、それが道なんだよ。ということで、そこから仏道修行に入ったわけなんですが、結局この段階では、仏道マニュアルに沿ってただ闇雲に歩いているだけでした。つまり「頭で解った」だけだったんです。

 

仏道修行は足掛け20年くらいやりましたけど、限界を感じてそれを捨ててしまったんです。つまり、最初の答えが得られなかったのです。そして、捨ててから「苦しまなくてもいいんだ」ということを知ったのです。えーーーーーっ!そんなぁ。まさに目から鱗。逆転の発想というか。「四苦八苦」を学べば学ぶほど「苦」にのめり込んでしまうんだなと気がついた。この時に、体に入ったんです。

 

そうだったんだ! まるっきり逆だったんだ。ということに気がついて、体の中にポッと灯りが点った。ちなみに、釈迦を否定しているんじゃないんですよ。釈迦は好きです。でも日本仏教が、変に歪めてしまって、宗旨宗派仏教になってしまったんですね。すべては一つ。真理は一つ。宇宙は一つです。日本仏教は釈迦の教えじゃないんです。そのことにも気がつきました。

 

さてそれからです。「苦」を乗り越える、「苦行」をして煩悩を滅する、ということを習い性にして生きて来た自分を、「苦しまなくてもいいんだ」「楽しめばいいんだ」に変えて行くのにはかなり時間が掛かりました。これはもう、ちょっとずつ慣れて行くしかない。

 

あれこれやって4年半が過ぎた時、やっと「Be here now(今ここ)」の感覚が一体となって来たんです。そうしたら、目に映るものが違って見えて来た。生命がメッセージを発していることが解るようになったんです。ああ、ユーミンが言っていることはこれか、と思いました。そうやって、一体となった。

 

考えてみれば簡単なことだったんですよね。一瞬一瞬をすべて「楽しみ」に生きていれば、「苦しみ」が入り込む余地など無かったんです。ただそれだけ。それを、あーでもない、こーでもないとみんな難しくしちゃっている。でもそうじゃないってことです。真理というのは、いつもシンプルなものです。なぜって、一つなんですから。

インフレーション宇宙論と卵割

当ブログで「宇宙」と言うときには、特に断りがない限りは、物質的世界を遥かに超えた霊的な世界をも含む、多次元的世界全体のことを指して「宇宙(Cosmos)」と呼んでいます。それが「宇宙」というものなのだという真実をお伝えしたいがために、繰り返しそのことを語っているのですが、残念ながら今の地球人の一般的な理解は、まだそこまでには至っていません。

 

今日、これから語る宇宙は、今の地球人の常識、つまり物資的な世界に限定されたものであるということを、先ずお断りしておきます。さて、私たちの住む宇宙(Universe)はどうやって出来たのでしょうか? これについては、今日では「ビッグバン仮説」が半ば常識化しています。極めて小さなミクロの点から今の大宇宙が爆発的に生まれたとする仮説です。

 

 

これは当初、私たちが住む宇宙が膨張しているという観測結果が1920年代にもたらされたことに始まり、それを逆算することから考え出されました。ガモフらが提唱したこの仮説は、最初は冷笑されたようですが、その後、宇宙の観測技術が飛躍的に進歩し、数々の裏づけとともに、この仮説が今日では「標準理論」を構成するようになったのです。

 

そしてその始まりは、今から138億年前と計算されました。私たちが夜空を見る時、遠くの星から届く光を見ているわけですが、光にも進む早さがありますから、地球から遠くにある星ほど、その光は遅れて届きます。その距離を、光のスピードで表した単位が「光年」です。たとえば、ある星までの距離が10万光年と言ったとき、私たちが今見ている光は、その星の10万年前の光なのです。

 

このようにして、遠くの星の光を見れば、それは宇宙の過去を見ることになり、ハッブル宇宙望遠鏡の解像度も上がって、現在ではビッグバンの開始から38万年後までを、光の観測によって見ることが出来るのです。この最古の光の観測と、既に確立している物理法則を組み合わせると、始まりから10の34乗分の1秒後の世界まで辿ることができます。

 

ところが、それより前が分からない。開始点のゼロからたった10の34乗分の1秒後という超ミクロの時間経過で、宇宙が大膨張した。ではどうやってそれが可能となったのか? そこで提出されたのが「宇宙のインフレーション仮説」です。2倍、4倍、8倍、16倍、というように倍々ゲームで膨張すれば、そんな僅かな時間でも、超巨大な宇宙にまで膨張できるというわけです。

 

最近になって、重力波が観測されたことにより、この「宇宙のインフレーション仮説」にも裏づけが為されたのですが、私は別の視点から(たぶん突拍子もないと言われるでしょうが)この仮説は正しいと言うことが出来ます。

 

それは、受精卵の卵割が、やはり倍々ゲームで進むからです。受精卵の卵割の様子を記録した映像を見ますと、たった1個だった細胞が、カクンカクンと卵割し、2個、4個、8個、16個と倍々ゲームで増えて行き、あっという間にいっぱいになってしまいます。これは、大宇宙と人体とが、相似形を為しているという一つの表れです。ですから、人体のことを「小宇宙(Micro Cosmos)」と言うのです。

 

これまでにも何度か書いて来ましたが、極大のものから、極小のものまで、宇宙を構成するすべてのものは自己相似形(フラクタル構造)の要素を有しています。これを指して、ヘルメス・トリスメギストスが、「下なるものは上のもののごとく、上なるものは下のもののごとし」と、エメラルド・タブレットに刻んだのです。

 

このように、「インフレーション宇宙論」は正しいのですが、残念なのは、それが「無」から生じたと言っていることです。科学者がどうしてそういうことを言い出すのか、私としては信じられないのですが、前回も書いたように、「無」というのは概念の世界でしかあり得ないのです。「無」が在ると言った途端、それは「有」になってしまい、矛盾するからです。

 

物質科学を追い込んで行くと、最後は必ずこのような矛盾に突き当たります。「宇宙」は物質だけの世界ではないということをあっさり認めればよいのですが、物質のみの世界を探究することが科学だと固く信じている人たちは、最後になると行き詰まって、急に非科学的、非論理的、哲学的なことを言い出すのです。宇宙は、無から始まった。それはあり得ません。

 

そうではないのです。物質界の宇宙は、私たちが住む宇宙だけではないのです。「ビッグバン」は「無」から始まったのではありません。反対側の宇宙から漏れ出て始まったのです。そのトンネルが、ブラックホールです。ブラックホールは、あらゆるものを呑み込み、光までも逃さないのですが、その行き先はやはり「無」などではなく、これが反対側の宇宙に始まる「ビッグバン」なのです。

 

なぜ宇宙は、大きなものから小さなものまで、みんな渦になっているのでしょうか? お風呂掃除の時に栓を抜くと、渦が出来ますよね。これは水が排水溝の穴を通って出て行くから渦が生じるのです。このようにして、ブラックホールに吸い込まれる時に渦が生じます。そして、穴を通って、反対側の宇宙がビッグバンとなって始まる。

 

こちら側の宇宙を「陽」と考えれば、あちら側の宇宙は「陰」です。大宇宙もまた、陰陽二元の間を行ったり来たりしながら呼吸しているのです。そのようにして、宇宙には、始まりも終わりもなく、永遠に呼吸し続けているのです。そしてその上位に、それら全てを包含する霊的世界、多次元的世界があるのです。

この宇宙に「無」はない

人は死んだらどうなるのでしょうか?

「無」です。

 

唯物論を展開する知識人は、平気でそのようなことを言います。お坊さんでも、そんなことを言う人がいるというのは驚きです。でもこの答えは、不親切ですし極めて曖昧です。そもそも「無」とは何でしょうか? どこに在るのでしょうか? 「無」の存在を証明することは、果たして可能なのでしょうか?

 

出来ません。それは不可能です。

「無」とは何もないこと。何もないものの存在をもし証明できたとしたら、つまり「無」が有ったと言えたとしたら、それは「無」ではなくて「有」になってしまいます。ですから「無」というものは、概念の世界でしか成り立たないものなのです。

 

さてここで、ジレンマに陥ります。「有」というのは、「無」との対比において言えることです。北は、南があってこそ、こっちが北だと言えるわけですね。ところが、いま言ったように「無」が証明できないとなると、その対極である「有」は、本当に「有」と言えるのかという疑問が沸きます。「無」が幻に過ぎない以上、「有」もまた幻ではないのか?

 

ハタと困った。そこで、「有」ということもまた証明できないけれども、それを考えている自分の意識というものまでは否定できない。だから、周囲にあるものが本当に存在するかどうかということは言えないけれども、それを認識し、いま解釈している、自分の意識だけは「在る」と言っていいのではないのか?

 

それが、デカルトが到達した「我思う。故に我あり」“ Cogito, ergo sum ” の意味であり、心境なのです。

 

この時、次のことに気づきます。宇宙は陰陽二極の二元性によって創造されている。ところが、「有」と「無」という二元性を考えた場合には、このことについてだけは二元性というものが成り立たない。それは概念上の話でしかない。つまり、肝心要の「宇宙の存在」という根本についてだけは、二元性が消滅する。

 

あえて言えば、一元に回帰する。それは、「絶対的な何か」が「在る」ということを推論する以外に、もはやないのではないだろうか?

「有」というものが確実だということを証明することはできないけれども、背後には「絶対的な何か」が「在る」としか、もう考えようがない。この摩訶不思議。

 

宇宙にあるあらゆるものは、陰陽の二極性を示しているんです。プラスとマイナス、北と南、上と下、表と裏、正と負、オスとメス、凸と凹、etc. それなのに、その総合体である宇宙だけは、「一つ」であるがゆえに、その存在証明が出来ない! う〜ん、なんてことだ。

 

確実に言えそうなのは、自分の意識があるということだけ。その意識が認めるところによると、周囲にあるものは、なに一つ絶対的なものはなく、あるのは「変化」だけである。「変化」するということだけが、唯一の変化しないことである。

 

ゆえに、「絶対的な何か(それを人々は神と呼ぶ)」とは「変化」だけであり、その「変化」を認識している「我」もまた「絶対的な何か」の一部だと考えざるを得ないのです。

結婚とはチームワーク

未婚や独身の人が増えています。私の周囲にも大勢いるし、私も独身です。(ついでに言っておきますと、ただいま変人募集中。ただし当方、財産、収入ともに殆ど無しです。あ、間違えた。変人ではなくて恋人です。女性の、)

 

未婚や独身者が増えているというのも、地球に現れた「変化の一つ」で、それにはやはり理由があります。しかし私は、そういう「変化」を問題だとは思っていません。「変化」は必ず起きるものです。けれどもこれを問題視する人がいるんですねぇ。政府も「少子化対策」と言っていて、まったく実効が上がらないのに、そういう大臣ポストをずーっと設けています。

 

問題視するワケは、年金システムが成り立たなくなるとか、高齢者福祉のための財源確保ができないとか、経済が縮小するとか、過疎地が増えるとか、活力が失われるといったことで、その反対側であり続けることを、「よいこと」と考える人たちにとっては、それが即「問題」だということになってしまうわけですね。

 

でも、宇宙の悠久を考えれば、そんなものは一瞬の「変化」に過ぎません。人類の歴史を見たって、滅亡した都市や文明や島はたくさんあるでしょう。ですから「変化」に抵抗したってムダなんです。それよりも、理由を見なくちゃいけない。「変化」というものは、みんな何かの「理由」の結果なんです。ですから「理由」を変えれば、自ずと「変化」の方向も変わって行きます。

 

政府の「少子化対策」に実効性がないのは、この「理由」を、すべて物理的なものに還元してしまおうとするからです。確かに、収入の減少は「結婚できないこと」の大きな要因になっています。しかし、「結婚できないこと」と「結婚しないこと」は別です。「結婚しないこと」の理由は、多分に心理的なもので、政府はその領域までは入り込めない。そこを全く解っていないと思います。

 

結婚しないこと、また子どもを生まないこと(両者は一体ではありませんが)の理由は、それで果たして「幸福」になれるのかという疑問が、適齢期にある人に浸透しているためなのです。一昔前なら、「結婚は女の幸せ」とか「子宝に恵まれる」といった言葉が、なんの疑問もなく語られていました。でも今は、果たしてそうなの?という疑問を、多くの人が持つようになったのです。

 

もう無条件に、「結婚は女の幸せ」とか「子は宝」とは言えない。つまりそれは、条件付きになってしまったのです。「条件付き賛成派」が多くなってしまったのです。自分の親や、周囲の友だちや、自身が育って来た家族体験などを考えると、「幸福」とはとても思えないような人がいっぱいいる。だから、もはや結婚や家庭を築くことに対して、無条件での「幸福」イメージなどは持てないのです。

 

これは、何事をするにしても、バーター取引や、損得をいちばんに考えるという風潮が蔓延してしまったということが一つ。その一方で、結婚して幸せを手に入れたい、ずっと一緒に居たいと思えるような人と結婚したい、というバーチャルな願望だけが肥大してしまい、(結婚後の)生活のリアリティが描けない中で、願望と失望とのギャップが大きくなっているのです。

 

そこに、現代の「婚活産業」というものが成立する条件が生まれて来ます。今の「婚活産業」は、お互いの希望条件のマッチングというものをコンピュータを使って行います。つまり、相手の値踏みを、コンピュータの助けを借りてやるわけです。こんな風にして、結婚することで「幸福」を「手に入れる」という発想が非常に強くなって来ていると思います。

 

だから、結婚しない人が増えているのです。リスク要因を考え始めたら、必ず一つや二つは上がりますから。でも60年、70年前には、写真だけを見て結婚したという人も大勢いました。それでも仲のいい夫婦がいっぱい誕生した。今は、情報がはるかに豊富になって、審査も厳しくなっているのに、離婚率は3組に1組にまで上昇している。これは一体どういうことなのか?

 

昔とは何が違うのかと言いますと、昔の結婚は「共に協力して家庭を築く」ということが、暗黙のうちに、目的としてあったのです。つまり結婚は、チームを作ることだったのです。ですから、結婚式はオマケのようなものに過ぎず簡素なものでした。ところが今は、タレントと見紛うばかりのド派手な演出の式を挙げて、それで生活をし始めると「こんな筈じゃなかった」と言ってあっさり離婚してしまう。

 

何か勘違いしていませんか?と言ってあげたいです。結婚とはチームワークなんです。一緒に「生活」を創っていく行為なのです。ですから欧米では、一緒に「生活」していける相手かどうかを見極めるために、結婚前にいわばインターンシップ期間を前提としている国も多い。早い話が、同棲ですな。私は、これは非常に合理的な考えだと思います。

 

加えて、「魂」的に言えば、結婚生活というものは一つの学習機会なんです。家族や家庭もそうです。そういうクラスに入ることで、そこでしか体験できないこと(主として「愛」というもの)を学習する。ですから、そういう学習が今世において必要だと直感した人は、そこに飛び込まないと、その学習機会を失って、また来世に持ち越しとなってしまいます。

 

それは「生活」ですから、世間的に言う良いことも悪いことも起こります。様々な困難や軋轢にも遭遇します。でもそういうものを全部ひっくるめて「魂」の学習機会になっているのだということを、知っておいて欲しいのです。そうしたら、生活はかつかつで苦しいが、赤ん坊の寝顔に無上の喜びを感じた、などという至福体験を味わうことだってあるかも知れない。

 

結局、そういうものが「魂」の成長ということであって、これは、政府も婚活産業もハンドリング出来ないものなのです。ですから、ご自分の内なる声に従って、結婚したいと思う人はすればいいし、そう思わない人はしなくたっていい。要は、今世の自分の学習課題は何かを思い出せということです。そして思い出したら、つべこべ言わずに、それを存分に味わえということです。