by Rainbow School
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Q.「無償の愛」の人になるには?

Q.私には「無償の愛」の人になるためにはどうすればよいのか、どこまでがそれなのかよく理解できません。子どもや家族への愛、職場の部下との関わり方など、見返りを求めないことは、すべて面倒を見てやるということなのでしょうか。どのように考えれば「無償の愛」の人になれるのでしょうか。

 

A.これはもう核心を突く質問で、これが解れば、人類はもうちょっとマシな道を歩んで来ただろうと思います。過去2600年くらいは宗教の時代でしたが、宗教ですらこれを間違って捉えて来ました。いや、故意に歪めて大衆に伝えて来たのです。

 

この問いに対する答えの大部分は、すでに過去の記事の中で書いています。けれどもバラバラに散ってしまっているので、全体像が見えにくいことは否めません。そこで改めて、この問いに答えてみたいと思います。

 

先ず「愛」ということなのですが、この「愛」にもいくつかの段階があります。人間がふだん「愛」と言う場合には、それは「情愛(愛情)」を指している場合が多いのです。そして「愛情」が深いことは、人間社会では、通常よいこととされています。

 

動物はみな、習わなくても生殖をし、自然と子育てをします。それは本能に基づくからなのですが、人間だけは「感情」をつねに働かせて生きていますので、ここに「感情」を絡めます。その結果、本能を超えた「愛情」という意識が生まれてゆくのです。これには功罪があります。

 

「感情」は人間を成長させるための一つのツールですから、人間に「愛情」があること自体は、「愛」の学習にとっては必要な段階なのだと言えます。しかし「情愛」深きことは、しばしばネガティブに作用してしまう場合もあるのです。本人がその感情を「愛情」だと思っていても、実は「支配」の変形であることに気づかないケースが多いのです。

 

多くの動物では、子育て期を終えると、子は後腐れなく巣立って行ってしまいます。しかし人間の親子関係は、その後も長く続きます。また子育て期に、「あなたの為を思って」と言って、子どもをコントロールしようとする親も多いです。恋人関係や夫婦関係においても、見返りを要求する「愛情」行為が頻繁に見られます。

 

このように、人間が普通「愛」という場合には、殆どが「情愛」絡みの感情を「愛」と捉えているのです。そこで組織宗教は、これを神との関係にも当てはめ、神の「愛」を語ったのです。しかしここでハッキリ言っておきますが、神の「愛」は、通常の人間の「愛(情愛)」とはレベルの違うものです。

 

そこに行き着く段階の中に「無償の愛」がある。しかし本来ならば、この言い方はおかしいわけですね。なぜなら「愛」は「愛」だからです。それをわざわざ「無償の愛」と言っているのは、人間が語る「愛」が、あまりにも「有償」だらけ、バーター取引のようになっているために、それに先ず気づいていただく必要があり、「無償」を強調しているのです。

 

さて、「愛」の段階とは何か? これには大きく言って三段階があります。「情愛」→「博愛」→「神の愛」です。他にもいろんな言い方がありますが、意味しているところは、みなこの三段階です。古代ギリシャでは、これを、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)と言って、区別していました。

 

ご質問の「無償の愛」の人になるとは、先ず「博愛」の人を目指すということになります。もちろん「神の愛」も「無償の愛」なのですが、先ほども書きましたように、そのレベルに至れば、わざわざ「無償の愛」と断ることもない。「愛」は「愛」で、Universal Love(宇宙愛)に行き着いているわけです。

 

ではどうしたら「無償の愛」の人になれるのか、「博愛」の人になれるのか、という問いかけです。ここでじっくり考えてみてください。なぜ、多くの人間が「情愛」レベルに留まっているのでしょうか? そこには、先ほど書いたように「支配」の錯覚もあるのですが、根本的な問題は「情」が捨てられない、また捨てようとしないからです。

 

わが子が可愛い。これは親としては当たり前です。しかし「情」が強く入りますと、わが子以外はそれほど可愛くない、となってしまいます。しかし、もし「情」を捨てれば、子どもはみな可愛いとなり、その人は「博愛」の人に近づくのです。この理屈が分かりますか?

 

「情愛」から「情」を取れば、文字通り「愛」だけになるのですよ。

言われてみれば簡単なこと。

でも人間には、これがなかなか出来ないんですねぇ。

 

どうしてでしょうか? 人間社会では、「愛情」深きことが、よいこととして推奨されているからです。ですから、「博愛」の人は、しばしば激しい非難の的となります。一般の人には、「博愛」が理解できないのです。「博愛」の人は「情」のない人、「薄情」の人に見える。一般の人というのは、エゴの裏返しで「私だけを愛して欲しい」のです。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、こうした非難覚悟で「薄情」の人とならなければならない。「博愛」と「薄情」とは、ちょうどトレードオフの関係になっているんですね。でも、それでもなお、あなたは「博愛」の人を目指すべきだ。それが道なのだから。

 

「博愛」は、何も困難ばかりではありません。「博愛」の人には「博愛」の人にしか解らない幸福感がある。これこそ光。至福への道。

 

「無償の愛」という言葉から、「見返りを求めない」という部分に、どうしてもひっかかりが出てくることは否めません。私も誤解を与えたかも知れません。しかし今ご説明したように、そこがポイントなのではないのです。「情」を捨てれば、自動的に「見返り」などは求めなくなっている。だからこそ「博愛」の人なのです。

 

しかしこれも、「愛情」を信じている人からは、誤解や反発を生むかも知れませんね。「情」を捨てるというよりも、「情」を超えると言った方がいいでしょうか?

 

ですから、「すべて面倒を見てやる」ことが、「博愛」ではないということは明白です。もし逆の立場だったら、あなたはひとから「すべて面倒を見て貰いたい」でしょうか? それが、あなたという個性を活かす道へと通じることなのでしょうか?

 

あなたがもし誰かを援助したいと思ったら、相手の状態をよく見極めて、適切に判断することが必要です。心に深い傷を負った人には、先ず寄り添って癒してあげることが必要でしょう。けれども、自分の足で歩み始めた人にまで過干渉してしまったら、自立の道を絶ってしまいかねません。

 

どうしたらいいかに迷った時には、お手本を見習えばよいのです。これ以上ない、最高のお手本‥‥。それは「神の愛」です。

 

「神」は、手取り足取り何かしてくれたでしょうか? 「神」は、ああしろこうしろと、あなたに迫ったでしょうか? 「神」は、これが出来ないとお前を罰するぞ、と脅したでしょうか? 「神」は、私がこうしてやるからその分お前はこう返せ、と迫ったでしょうか?

 

何も言わない。ただ、あなたに限りない自由を与えて、静かに自立を見守っているだけだ。それは、この上なく「薄情」だとは言えないでしょうか? でも全部を掌握している。なぜなら、「神」は創造された全部であり、かつ創造者自身でもあるからです。この「愛」。「愛」しかない「愛」。これが「神の愛」。

 

困っている人を前にして、あなたが全部を見てあげようと思い詰めなくても、あなたに専任の守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのと同じように、相手にも守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのです。すべては一つ。その人には、その人の学びがあり、その人は、その学びの瞬間を、いま生きているのです。

 

ですから、大いなる安心の上に立って、相手の状態をよく見極めて、あなたがいま出来ることを、した方がよいと思われることを、相手が喜び、そしてあなたも喜びながら行えば、それで充分なのです。そして、その一歩々々が、「博愛」への道へと通じているのです。

 

●参考

Universal Love

エロスの愛について

仏教が「愛」を説かない理由

「我」という意識の進化

生涯二度目のレッカー車移動

このわずか半年間で、車両故障のために二度もレッカー車のお世話になりました。今度のは重症で、高速道路上でボンネットから白煙が上がったために、路肩に寄せて停止しました。水温計がレッドゾーンを示しています。高速に上がる前、エアコンがちっとも効かないので「おかしいな?」と思っていたのですが‥‥。

 

2日前です。山奥にある、私の家の前はゆるいカーブになっています。土日は峠のワインディングロードを楽しもうと、大型バイクがひっきりなしに通るのですが、いつものように室内の修繕作業をしていると、一台のバイクが滑って転倒する音が聞こえました。窓の外にバイクのカウルのようなものがちょこっと見えます。

 

ところが、1分経っても2分経っても、バイクを起こして走り去る音が聞こえないのです。「まさか、大事故かな?」と思った私は、家を飛び出して現場に駆けつけました。見ると、1メートル下の田んぼに車体が横倒しになっていて、そばに男性がうずくまっていました。ヘルメットを脱いでいて、意識はちゃんとしていましたが、動けない様子でした。

 

日曜だったので、近所の人たちを呼んで、男性4人でバイクを道路の上にあげました。「救急車を呼ぼうか?」と言ってみたのですが、男性は、ホンダの契約でレッカー車のサービスがあるので、そちらに相談してから決めると言い、結局救急車は呼ばずにレッカー車に来て貰って、一緒に修理工場まで送って貰う手はずとなりました。

 

ど田舎ゆえ、レッカー車の到着までには2時間も掛かり、その間うちで休んで貰いました。気温は10度くらいしかなくて、外はかなり寒いのです。お茶を出したり、その日、近所の人から頂いたニジマスを焼いて一緒に食べたりしながら、そうやってしばらく話をしました。

 

これから東京に帰るところだったと青年が言うので、「実は僕も東京なんだよ」と言うと、「どちらですか?」と訊かれました。「多摩市の和田というところ」と答えると、なんとその青年が「あ、私、和田と言います」と言うではありませんか。何か急に親しみを覚え、その後は、IT業界に勤めているという彼の仕事場の現状などをお聞きしました。

 

別れ際、強く打ち身した部分が腫れてきたと言って、彼は右足を引きずりながらやっとのことでレッカー車に乗り込みました。積み込みにも30分以上の時間が掛かり、彼らが立ち去った時には、あたりはすっかり暗くなっていました。私は、青年の早期の回復を祈りました。

 

その二日後に、今度は私がレッカー車です。三角板を置き、高速道路のガードレールの外で待機していると、ハイウェイ・パトロールがやって来て、アルミ蒸着の保温シートと、虫除けリングというものをくれました。効果のほどは定かではありませんが、その時はじめて、世の中に虫除けリングなるものがあることを知りました。

 

それからしばらくして、レッカー車が到着しました。保険では全部が賄い切れないのですが、保険屋さんと相談して、東京まで200キロメートルを運んで貰うことにしました。レッカー車の助手席に乗り込むと、ドライバーの方が私に挨拶をされました。「あ、私、和田と言います」

 

ええっ! なんですって? こういう確率って、一体どれくらいのものなんでしょう。東京まで、ずっと助手席に乗せて貰っていただけなのに、なぜか到着した後はもの凄く疲労感を覚え、そして翌日、打ち身をしたわけでもないのに、右足が打撲傷で痛くなったのでした。

 

今回のシンクロニシティ。この意味は何だったのだろうか、と考えているのですが、今のところはまだ分かりません。半年後、1年後に、「そういう意味だったのか」と、もしかしたら気づくかも知れませんが‥‥。今はただ、レッカー車と修理工場からの請求書が来るのがコワいです。

霊性向上を図ることと、理想社会の実現との関係

今の社会は、本当にヒドいです。グローバル企業が世界を呑み込み、地域の特色ある経済と固有の文化を根こそぎ破壊する。雇用は不安定化し、街に失業者が溢れ、富める者と貧しき者との格差は著しく広がる。富める者は、金融を操作して人々からさらに富を奪い、それを租税回避地を使って巧妙に隠す。

 

政治家は汚職まみれで、自分の利益のことしか考えず、嘘をついては自国民を戦争に駆り立ててゆく。マスコミと御用学者は、自主独立性を放棄し、右ならえで嘘で塗り固めた情報を垂れ流す。そしてみな恥じ入ることがない。警察、検察、裁判所も、国家犯罪、巨大企業犯罪、政治家の犯罪は暴かないし裁かない。

 

30年前、40年前のまだ若かりしころ、社会に対する違和感と、生きにくさに窒息しそうな気分になって、死にたいとばかり考えていた私も、いま振り返ってみれば、当時はまだ現在よりも、ずっとよい時代だったと思えます。それを考えれば、今の若者たちの苦境は、自分が味わった数十倍にも達するのではないでしょうか。

 

なぜ、こんなにもヒドい社会が作られるのでしょうか? それをわけを知りたくて、独学で、経済や産業や金融の仕組みや科学を探究しました。その延長で、人類史、脳科学、心理、そして「宇宙の真理」の分野にまで足を踏み入れるようになったのです。

 

けれども、「宇宙の真理」と、「現実社会」との関係や接点というものが、長いこと解りませんでした。「宇宙の真理」が、たとえどんなに素晴らしいもののように思えても、それと「現実社会」を生きることに大きなギャップを感じて、「真理」を探究すればするほど、それは逃避でないのかと、自問する日々が続きました。

 

数日前に、ある若い方からメールをいただき、同じような葛藤が述べられているのを目にして、「ああ、全く一緒だ」と、私も当時を思い出しました。そこで、今日はこの問いに答えたいと思います。

 

私は、今のこのヒドい社会を、愛と思いやりに溢れた社会に変えてゆくには、人々の霊性の向上と、社会システムの変革の、両方が必要だと考えています。私たちは、集団としては、社会システムの上に乗って生きざるを得ません。ですから、人類にとって、また地球にとって、生命にとって「よい」社会システムを構築することが、「人類全体が創る現実」にとっては不可欠です。

 

しかし何をもって「よい」とするかについては、議論が生じるところであり、私は「宇宙の真理」「宇宙の法則」に合致していることが「よいこと」と考えているわけです。そのためには、先ず人類の霊性が向上しなければなりません。霊性の向上があってこそ、「宇宙の真理」に目覚め、「宇宙の法則」に則って生きる智恵が、人類の中に生まれるのです。

 

現行の社会システムを変える手段は、結局、複合的なものになると思います。今の社会システムの詐欺的側面を暴くことも必要でしょうし、政治統治の仕組みを変えたり、選挙制度を変えたり、金融システムを変えたり、安全保障政策を変えたり、国連改革も必要になって来るでしょう。正にそれらは、革命的になされることになるでしょう。

 

これらを推進する人は、それぞれが得意な人たちが中心となって進めればよいことです。しかしその背景には、人類の霊性の向上が伴っていなければ、「よい」社会システムの実現は不可能です。そのため、人類の霊性の向上をリードする人もまた必要なのです。ですから、自己の霊性の向上を図ることは、社会から遊離していわけではなく、社会変革とダイレクトにつながっているのです。

 

これが先ず一点。もう一つは、あなたが、ご自分の霊性の向上を図れば、「波動の法則」によって、それが見えないところで社会に影響を与えるということです。これは、最初の答えとは違って、一般の人にはなかなか理解し難いとは思いますが、解る人には解ることです。

 

宇宙というのは、すべてがバイブレーションであり、あなたの思念は、その思念に応じた揺らぎを、絶えず周囲に与えています。あなたが愛に溢れた感情を持てば愛の波動が周囲に流れ、憎しみの感情を持てば憎しみの波動が周囲に流れます。これらは伝播し、同調するものを集めて、巨大なエネルギーを形成します。そして現実を創るのです。

 

ですから、巨大地震に怯える人が多数集まれば(望み通りに)それが実現し、第三次世界大戦を心配する人が多数集まれば(望み通りに)それが実現します。残念ながら、一般の人は、そういう法則を知らないし、恐ろしい予言をする霊能者だってそれを知りません。なぜかと言えば、霊能があっても霊性は高くないからです。結局、それに尽きるのです。

 

ということで、何が最も大切かと言えば、いつも言っている通り、安心して、自分を信頼して、自分の能力を活かして、自分を光輝かせ、周囲の人々を明るく照らし、助け、自分が楽しくわくわくすることを、瞬間々々で生きればよいのです。それは、エゴではありません。あなた一人だけの、小さなことではないのです。

 

そのあなたのバイブレーションが、隣りに伝わり、12人に伝わり、144人に伝わったとしたら‥‥と想像してみてください。そして、1億4400万人の人が、いま言った生き方をし始めたら人類はどうなるのでしょうか? 地球はどうなるのでしょうか? それを想像してみてください。「魂」の自由を謳歌する、素晴らしい世界が実現しているとは思いませんか? これこそ地上の楽園。

 

あなたが「真理」に生きようとすることは、社会とは無縁の、逃避的な、ちっぽけな出来事ではないのですよ。千里の道も一歩から。あなたが出す波動は、確実に、周囲に影響を与えています。だから、あなたも輝いて!

「自分を信じる」ための具体的方法

あなたは、瞬間々々を選んで生きています。その中には、無自覚の選択もあれば、直感による選択もあれば、何かの言いつけに従った選択もあれば、よくよく考えた上での選択もある。すべてはあなたの選択であって、その結果の連続があなたの人生の軌跡となるのです。つまりあなたは、ご自分の「現実」を日々創造しているのです。

 

ところが人間というものは、この基本的な事実をしばしば忘れてしまいます。自分が、自分の人生を選択している。自分が、自分の現実を創造している。このような単純な理屈を知らないし、教わったこともないし、意識したこともないのです。そこで、絶えず外から押し寄せて来る情報で夢中になり、自分というものの本質を忘れてしまうのです。

 

《選び・選ばれる》、というのは一つの「関係」ですが、これは相互に言えることなのです。たとえばあなたが、結婚相手を「選んだ」とする。では相手は「選ばれた」ただけなのか? そうではないのです。その時、相手もあなたを「選んだ」のです。お店でステキなワンピースを見つけて買った。その時、同じようにワンピースもあなたを選んだのです。解りますか?

 

あなたが、山林の投資話を信じてそれに乗り、騙されて、全財産を失ったとしましょう。詐欺師は、あなたをターゲットとして選んだ。一方あなたは、多くの選択の中からその投資話に乗ることを選んだのです。後から「騙された!」と言ったところで、それを「選んだ」のはあなただ。つまり現実というものは、つねに双方の「関係」があって、あなたの認識の中に創造されます。

 

さてそこで、この「関係」の「創造」というものを、〈いつも自分が選択している〉という自覚を持つことが、「自分を信じる」上での、第一番めの条件なのです。しかし、冒頭にも書いたように、人間はそれをしばしば忘れてしまいます。ですから、詐欺の被害に遭えば詐欺師を非難し、人間関係においてトラブルが生じれば、相手を一方的に非難する。

 

でもそうじゃない。現実の「すべては、あなたが選んでいる」のです。

 

《選び・選ばれる》は、相互関係であり、どちら側にとっても言えることなのに、自分を信じて生きることができない。崇拝する誰かや、本に書かれてあることや、常識や社会通念に従って生きようとしてしまう。よくよく考えてみれば、その「すべては、あなたが選んでいる」にも関わらず、その自覚がないのです。なぜか? 自分を信じていないから。

 

あなたが就職試験を受けて受かった。自分は「選ばれた」と思う。でもそれだけじゃない。あなたも同時に「選んだ」ということです。尊敬できそうな師や、本の中にピタッと来る一行を見つけた。それは、あなたが「選んだ」。その瞬間、あなたが自分の今を「創造」したのです。この自覚を持つだけで、隷属して生きることが、主体的に生きることに180度変わってしまうのです。

 

今ここで、凄く重要なことを言っているんですよ。それは、瞬間々々の選び方のパターンを変えれば、あなたの人生が、別のものに創造されるということです。この意味で、いつも言っている通り、あなたの本質は全く「自由」なのです。誰からも、何からも、一切束縛を受けない。あなたは、「ステキだ!」と思ったワンピースを買うことも出来るし、買わない選択もできるのです。

 

問題は、この「選択」を、どのようにして決するか、ということです。あなたには意志がある。その意志は、「心」の働きの結果として形づくられます。この「心」は、思考、感情、感覚の三つから構成され、相互間で活発に情報がやり取りがされます。この時、どの要素を強く働かせるかによって、冒頭に上げた選択行動の違いというものが生じて来るのです。

 

これまで私は、「脳」は単なるハードウェア、「魂」こそがソフトウェア、そしてそのアウトプットが「心」だということを再三申し上げて来ました。「自分を信じる」とは、この「魂」を信じ、「魂」が喜ぶ生き方に従うということなのです。そのようにしていれば、全く間違いはない。なぜなら、「魂」は「宇宙の真理」を知っているし、自分の生きる目的も知っているからです。

 

ところが人間は、「脳」を重視するようになってしまいました。この「脳」には、現世で刷り込まれた「観念」が大量にしまい込まれ、選択が必要な場面になると、引き出しの中に蓄えたこれらの各種データを参照しようとします。それによって、本来の「魂」の自由な生き方が、大きく歪められてしまうのです。しかも最悪なことに、現代社会はそうすることを推奨している始末なのです。

 

「感情」は嘘をつきません。「感情」自体は「魂」のアウトプットの一つの形態で、正直者です。ですから、「感情」は大いに働かせるべきです。けれども、「感情」をそのまま意志決定に持ち込むことは、普通はしません。「感情」というものは津波のようなもので、長く保持し続けることは出来ないのです。そのため、次のプロセスに移行する。

 

この時に、現代人は「観念」に牛耳られた「思考」を、あまりにも働かせ過ぎるのです。情報肥大は、その引き出しの中から、リスク要因を直ちに探し出します。そのため、行動しない、行動することが怖いという態度や、逆に刷り込まれた「観念」に盲目的に従うという行動を生み出すのです。このような意識で、現代人はがんじがらめになっているのです。

 

現代人が感じる「生きづらさ」とは、要するに「魂」が自由に生きられない辛さなのです。ですから「魂」本来の、自由の喜びを取り戻すためには、先ずガラクタの情報を遮断して、これまでの「観念」の枠組みから外に出なければなりません。その上で、つねに「自分が現実を創造している」ということをつねに意識しながら、「魂」の喜びに従った選択をして行くということが大切なのです。

 

そのために備わったツールが「感覚」です。現代人は「感覚」を疎かにし過ぎています。直感やインスピレーションや、わくわくする気持ち、パーッと晴れやかになる感じ、なぜかしら泣けてくる感じ、等々を大切にしてください。あなたにも第六感はある! それは「魂」の感覚器であり、「脳」を経由せずに、「魂」と直接つながった回路なのです。

 

あなたが「ふと」とか「なんとなく」と思う。その「ふと」や「なんとなく」が、すでにテレパシーなのですよ。いいですか? だからあなたも、その能力を大いに駆使して、自分を信じて、日々楽しく生きるんですよ。

 

●関連

「自分を信じる」ということを、信じるということ

社会システムという奴隷制度

社会システムという奴隷制度

自分を信じずに、社会システムの方を強く信じて生きていたら、一体どういうことになるでしょうか? 社会システムというものは、つねに、正常/異常、正当/不当、正義/不義、大小、高低、優劣、合否、段階、スピード、許容範囲といったスケール(尺度)を用意します。すると、そのスケールの中で競い、合致することを、知らず知らずのうちに強いられた生き方になってしまうのです。

 

現代人は、およそありとあらゆる方向を社会システムによって取り囲まれています。オギャーと生まれた瞬間から、出生届を出すことに始まって、すぐに社会システムに組み込まれて行く。それがもう当たり前ですから、もはや誰も疑問に思わない。そういう中で、社会システムが用意したスケールによって、たえず自分が評価されるという「牢獄」生活が始まるのです。

 

するとどうなるでしょう? スケールに合致したり上位に位置した者は喜びを手にしますが、そうでない者はランク外、つまり「落ちこぼれ」の烙印を押されることになってしまいます。そして、人間の優劣評価に異常な執念を燃やす人たちは、ついに障害とか要介護といったことにも認定基準や等級を設ける始末なのです。いったい全体、そんなことを、誰が何の権利によって決められるというのでしょうか?

 

たとえば「介護認定制度」というものが始まる前までは、誰もそんなスケールなど、自分の内に持ってはいなかったのです。ところが一度そういう基準が社会システムとして作られると、それが瞬く間に浸透し、人々はそれを当たり前として考えるようになる。日常会話で「うちのおじいちゃんは◯級だ」といったことが、何の疑問もなく語られるようになって行くのです。

 

これは恐ろしいことです。あっと言う間に価値観が塗り替えられ、新しい基準が刷り込まれ、人間は本来「自由」、人には優劣などなくあるのは「個性」だけ、という「宇宙の真理」が葬り去られてしまうのですから。それに代えて、人々は、他人が下した評価が「自分のアイデンティティ」であるかのように錯覚して行く。要介護2級の人は、要介護2級という「わたし」を生きるようになるのです。

 

いったいなぜ、こんな馬鹿げた仕組みに、人間は自らを追い込んで行くのでしょうか? それは、そういうスケールを設けることによって、得をする人たちがいるからなのです。スケールの上層部にいたり、スケールを統括するシステムを運営する一部の人々です。この人たちは、それがあることによって、社会的なエスタブリッシュメント(特権階級)の位置を占めることが出来るのです。

 

さらには、憧れや崇拝の感情を植え付けることによって、このヒエラルキー(ピラッミッド構造)を盤石なものに仕立て上げる。容姿端麗、頭脳優秀、語学堪能、スポーツ万能、有名大学出身、お金持ち、大豪邸、高級車、モテモテ、お肌スベスベ、etc. こういう憧れ基準を示すことで大衆を惹き付ける一方、同時にそうなれない(と思い込まされる)人々を大量に生み出しているのです。

 

これがエリートの戦略なのです。なぜ働いても働いても豊かになれないのか? なぜ貧富の差が拡大するのか? その背景には、人々を集団催眠に掛けている社会システムというものがある。しかし、ここまで深く洗脳された人類が、真に解放されるためには、社会システムの詐欺を暴くだけでは不充分で、直接、霊性に帰る、霊性を取り戻すしかありません。

 

断っておきますが、私は詐欺を為している人を糾弾したいわけではありません。これまでにも何度も言っている通り、詐欺に合う人(それを信じる人)がいなければ、詐欺師というものは成り立たないのです。両者は協力し合って、共にそれを創り上げている。このことに気づかなければ、相対性の世界から人類がジャンプすることは出来ません。

 

そのためにも、先ずあなたが「自分を信じる」というところに帰って欲しい。あなたの本質は「魂」で、「魂」は自分の生き方を知っていますから。何が幸福かを知っていますから。

 

明日は、どうすれば「自分を信じる」ことが出来るようになるかについて、続きを書きます。

 

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「自分を信じる」ということを、信じるということ

「自分を信じる」ための具体的方法

「自分を信じる」ということを、信じるということ

あなたはご自分を信じていますか? 今の人類の最大の問題点は、自分よりも社会システムの方を信じていることです。この誤謬は何重にもなっていて、生活全般が社会システムに組み込まれているために、自分がそれを信じ切っていることにすら気づけない有り様です。

 

生活インフラ、エネルギー、政府、金融、産業、労働、資本主義、教育、医療、マスコミ、福祉、運輸交通、食料、食事、通信機器、インターネット、パソコン、娯楽、スポーツ、宗教、etc. 逆に言えば、これらを信じることに翻弄されていて、「自分を信じる」ヒマが全然ない!

 

古代人というか、もっと遡って原始人を思い浮かべてみてください。これらの一切がなかったのですよ。その環境では、きっと「自分を信じる」しかなかった筈です。ということは、人類の歴史は、社会システムの構築とトレードオフするかたちで、自分を信じなくなって行った歴史だとも言えるわけですね。

 

ですから、そういう現代人に対して「自分を信じるんだよ」と言ったところで、まるでピンと来ない。自分を信じなければいけない機会に、遭遇した体験が殆どないから。それどころか、今やいつでもどこでも持ち運べるコンピュータがあらゆることをナビゲートしてくれるし、クルマだってもうすぐ自動運転になっちゃう。

 

あなたはあなたのものであるのに、自分の行動原理を、自分に任せることができない。そいういう世の中に、急速に進んでいるんです。そしてそれを、人類は「進歩」と呼んでいる。本当は「退歩」なのに‥‥。もう、アトランティスが滅んだ原因の、それと同じ状況が、どんどん人間の手によって創られて行っているんです。

 

「人類のカルマ」と言ってしまえばそれまでですが、「また同じことを繰り返すのかい?」と言いたい。「もういい加減によしましょうよ、本質に気づきましょうよ」と言いたいです。

 

あなたが、全く無自覚なままに、一つの社会システムに身を任せてしまうということは、そのシステムの奴隷になるということなんですよ。教育システムに身を任せれば教育の奴隷になり、医療システムに身を任せれば医療の奴隷になり、福祉システムに身を任せれば福祉の奴隷になり、マスコミ情報に身を任せればマスコミの奴隷になるんです。

 

もうよりどりみどり。ドレイにしようかな、ってなもんです。現代の奴隷は、足かせで拘束させる必要もなければ、船で運ぶ必要もない。ただ信じ込ませるだけで出来上がっちゃう。みんな喜んで、自ら進んで奴隷になって行く。いったいそれで、誰が得をしているのかを考えみてください。この巧妙な社会システムを操っている一握りの集団がいるんですよ。

 

あなたは、あなたそれ自体が素晴らしい「魂」なんです。

あなたという「魂」は、全体から別れたものだから、全体を知っている。

だから、「魂」に聞け!

自分を信じるんだよ。

 

えっ? 「自分を信じろ」と言っているのはあなただから、それを信じる訳にはいかないって? そりゃごもっとも。「外から来る一切を信じるな」と、いつも言っているしね。

だったらどうする? ‥‥やっぱり「自分を信じる」しかないじゃないか。

 

●関連

社会システムという奴隷制度

「自分を信じる」ための具体的方法

痛みと苦しみ

痛みと苦しみは違います。この二つを混同しないように。痛みというのは客観的事実で、苦しみとは主観的な想念です。病気や怪我で痛みを覚える、暴力を振るわれて痛みを覚える、誰かにひどいことを言われて痛みを覚える、手ひどい失敗をして痛みを覚える、自分という存在を無視されて痛みを覚える、自分が加害者となり痛みを覚える。

 

そういうことは、生きている以上はしょっちゅう起こること。それを引きずって、苦しみに変えてしまうのは、その人の主観的な想念、その人自身だということです。その苦しみは、最初の痛みという「因」から生じた「果」であることは間違いありません。でも「縁」を変えれば、「果」も違って来るのです。

 

喜劇役者の小松政夫さん。私はこの方のシュールさと真面目さが大好きなのですが、以前に『わたしが子どもだったころ』という小松政夫さんの自伝のドキュメンタリーを見ていて、凄いなぁと思わされたことがあります。

 

小学生だった小松(当時は松崎)少年が、学校で先生に叩かれるかなにかした。(この経緯は、よく覚えていません。もしかしたら違っているかも)そのとき彼は、とっさに机の上に上がって「イテーな、イテーな、イテーなぁー」と身振りを交えてやって、クラス中の笑いを取ったというのです。きっと当時から、笑いの才能の片鱗があったということなんでしょう。

 

*「イテーな、イテーな、イテーなぁー」は、リンクしたビデオの中でもやっていますよ。

 

私が凄いと思ったのは、「痛み」を「笑い」に変えたということです。ですから、小松政夫さんは普通の人とは「縁」が違っていたんですね。「縁」というのは、この場合、心グセです。「笑い」が好き、どうにかして「笑い」を生み出したい。そういう心グセが、「痛み」のインプットを、瞬時に「笑い」というアウトプットに変えてしまったのです。

 

このことから解るのは、多くの人が、「痛み」を「苦しみ」に変えてしまうのは、そういう心グセ(縁)を持っているということです。「自分を被害者にしてしまう」という心グセです。自分を被害者にしてしまいたがるのは、対抗するもの(Something)を自分が持っていない場合に、自己をアピールする一つの方法なんですね。子どもが泣いて訴えるのと同じです。

 

でも、いつまでもそれをやっていたら、成長はありません。小松少年は「笑い」という Something を持っていました。だから、「痛み」を自分の得意分野にチェンジ出来たんです。あなたには、あなた独自の才能がある。痛みは痛みとして受け止めて、味わって、味わったら今度は手放して、自分の得意分野にプラスになるようにチェンジするといいです。小松少年のようにね。

求人のレッテル貼り

ある方からこういう話を聞きました。その人は、今は別の仕事についているのですが、保育の仕事がしたくて何年も掛かって保育士の資格を取得しました。手始めに出来ることを探していたところ、市の保健センターが赤ちゃんを預かるボランティアを募集していたので、そこに連絡をしてみた。その時、応対した人から、いの一番にこう聞かれたというのです。

 

「お子さんはいらっしゃいますか?」

「いません」

「結婚はされていますか?」

「していません」

 

「あぁ、そうですか」と、担当者はガッカリした様子だったというのですが、彼女が「保育士の資格を持っています」と言った途端、相手の態度が豹変したというのです。

 

人は、レッテルでしか相手を見ない。その典型です。子どもがいると言ったって、始終当たり散らしている親もいるわけだし、ほったらかしや、虐待までしている親だっている。結婚していたって、みんなが円満な家庭を築いているとは限らない。何しろ3分の1が離婚しているんですから。憎悪の炎を燃やしている夫婦関係などいくらでもある。

 

私がその担当者なら第一番にこう聞きます。

「赤ちゃんは好きですか?」

「ウンチやオシッコの手当ては、喜んでしてあげられますか?」

「いま泣いているという赤ちゃんがいたら、あなたならどうしますか?」

 

これだけで充分だ。そう思いませんか? なによりも、それをすることが「好き」。これに勝るものはありません。いくら結婚していたって、子どもがいたって、「好き」でない者がその仕事に就いたら、雇う方、雇われる方、そして赤ちゃんの三方が全部、思わしくない結果に晒されてしまうことになる。

 

求職で、「経験者」という制限を設けるのも私は嫌いです。何だったかはもう忘れましたが、若い頃に「経験者求ム」の求人に対して、未経験で応募したことがあります。結果は不採用だったのですが、私は担当者にこう言って喰い下がりました。

 

「そうやってみんなが『経験者求ム』と言い続けていたら、新人には全く門戸が開かれないことになってしまうじゃありませんか!」

 

この思いは、今も変わりがありません。

どうして、人をレッテルでしか見ようとしないのか? どうして、その人の可能性を見てあげないのか? レッテルを重視する人は、自分には「人を見る眼がありません」ということを、自ら証明しているんだね。

理性は、時に自分を支配する道具になってしまう

NHKの『100分 de 名著』で、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』を取り上げていた回がありました。『エミール』のことはひとまず置くとして、ルソーのことを書いておきますと、ルソーはまぎれもなくメッセンジャーの一人でした。ルソーの言動の不可解さは、そのことを前提に置いて考えればすんなり理解することができるのですが、普通の人はそれを知りません。

 

さて、この回の中でこんなことがありました。司会の伊集院光さんが、解説をしていた哲学研究者の方に、こう訊ねるのです。

「先生、この中に書かれてある “光” って何ですか?」

するとその哲学の先生が、すかさずこう答えました。

「あ、それは “理性” のことです」

 

「違う!」私は思わず、テレビの前で叫んでいました。どうして「光」を「理性」と読み解いてしまうのか? これがやはり「哲学」というものの限界なのでしょう。「理性」を突き詰めていけば、「人間なぜ生きるか」が解ると考えている。しかし実際には解らない。もし「哲学」でそれが解ったとしたら、悩める人などとっくにこの世から消えていた筈です。

 

ルソーが、もし「理性」を意味する言葉を書きたかったのであれば、ちゃんと「理性」と書いた筈です。わざわざ「光」などという譬喩の言葉を当てるわけがありません。それでは譬喩を使って、かえって話を解りにくくしていることになってしまう。そうじゃないんです。ルソーが「光」と書いたのは、まさにそれが「光」のことだったからです。

 

万物の元であるところの「光」、全知全能の始原であるところの「光」。「光」は「光」としか言いようがない。ですからルソーは「光」と書いた。そこにウソーはない。「光」は、「理性」など遥かに超えたものなのです。

「光」については、こちら▶︎に書きましたので、どうぞ参考になさってください。

 

「理性」をトコトン突き詰めることによって、人間が抱くあらゆる諸問題に対処していく。それが正しいあり方だとする考え方が、一部の知識人層には根強くあります。でもそれは本当に可能で、しかもよいことなのでしょうか?

 

「理性」はよく「感情」と対比されます。「感情」あるいは「情動」を制御することはなかなか難しいけれども、それを「理性」によって統御し、「感情」の暴走を抑える。こういうことが、一般には推奨されています。私なども、一時期はずいぶんこれを意識して過ごした経験があります。「感情」を見せることは恥ずかしいことだという観念があって、努めて冷静であろうとしたのです。

 

確かにそれを意識することで、ある種の気づきは得られます。しかし今度は、「感情を抑え込む」ことで沸き上がる、別の「感情」が出て来てしまう。たとえば怒りを押さえ込むと、今度は押さえ込んだことによる鬱積の感情に、長いこと支配されてしまうのです。結局このやり方じゃあダメだ、と気づくまでに何十年も掛かってしまいました。

 

「理性」というのは、ものの道理を知り、道理に従って行動しようという能力です。ところが人間が考えた「道理」には、宇宙の理法からすれば間違った点も非常に多い。どうりでおかしいと思った、な〜んてことも多々ある。所詮それは、人間の作り出した浅知恵なんです。

 

さてそうすると、理性的に生きようとすることは、人間に間違った規範や行動原理をおっかぶせてしまう危険性が出て来てしまいます。つまり「理性」というものは、時に自分を支配する道具になってしまいかねない。そしてそれを押し進めると、今度は「倫理」に突き進んで行ってしまうのです。教育者の中で「倫理」の必要性を訴える方は多いです。

 

でも人間の「心」というものは、思考だけではなくて、感情と感覚が揃ってワンセットです。確かに感情は暴走する時があるし、感覚は他人には伝えることが難しいものですから、それほど重要視されていません。だからと言って、思考の面ばかりにフォーカスを当てることは、この本来のバランスを崩すことになってしまいます。

 

人間というものは、思考と感情と感覚のバランスが取れているということが非常に大事なのです。それが「心」の豊かさというものです。この三つのうちのどれか一つを肥大させたり、逆に抑え込もうとしたりすると、たちまちバランスが崩れて「心」は貧しくなって行ってしまう。でも、この三つの「バランスが大切」だという人は、あんまりいないんですね。

 

故意に理性的であろうとする必要はありません。思考も感情も感覚も大いに使って、「心」そのものを豊かにして行く。その先に見えて来るものが「光」なんです。諸問題を「理性」の働きだけで乗り越えようとしないでください。「心」全体を豊かにすることで乗り越えて行ってください。それが「光」へと通ずる道なのです。

他者が自分を嫌うのは、嫌う人の問題

自分を嫌う人が居るというのは仕方のないことです。みなそれぞれが個性を持っていて、顔つきも体つきも違えば、境遇も思想信条も、考え方も感受性も違う。「魂」の出どころは一つだということをしっかり理解していれば、人類みな兄弟であることが解り、融和が生まれるのですが、残念ながら人間は、外面的なものに囚われていて、「違い」の方ばかりを強調してしまうのですね。

 

私も年に数回、ひとから激しい罵声を浴びせられることがあります。理由は様々でしょうが、インターネットを見ていれば、そんなものばかりで、しかも「炎上」と称する事態も起きるのですから、今の世の中は、他者を誹謗、中傷、罵倒したいというエネルギーで溢れかえっているということなのでしょう。ではもし自分が、ひとから嫌われた時には、一体どう対処したらよいでしょうか?

 

先ず大事なことは、あなたが落ち込む必要は全くないということです。2・3日は気持ちも動揺して不安定になるでしょうが、これから言うことをしっかり頭の中に入れていれば、回復も早くに元の元気さを取り戻せます。

 

他者から自分が嫌われる。そういう事態になると、嫌われた人は大抵、自分の中に嫌われた理由を探そうとします。そして自尊心が傷つけられたと思った場合には反撃に出たり、自信を失った時には落ち込んだりします。しかしよ〜く考えてみてください。そうやって嫌っている「心」は、相手側の持ち物なのです。相手側の「心」が「嫌い」という感情を持ったのです。これに、あなたがお付き合いをする必要はないのです。

 

「嫌い」という感情を出現させた相手は、それで楽しくなったか、嬉しくなったのと言いますと、実は逆で,その時「不快」を抱えているのです。ではなぜ「不快」を、わざわざ自分の中に持とうとするのでしょうか? それは、そうせざるを得ない衝動が働くからです。その人の「魂」はまだまだ未熟で、自分の中の処理しきれない感情のエネルギーを、そうやって他者にぶつけることで放出しようとするのです。

 

このような段階にある人は、「不快」の根本原因が、実は自分にあるということに気づくまでは、何度でも同じ行為を繰り返します。自尊心があるので、自分の過ちを認めたくないのです。それで、代わりとなる「原因」を探し出し、ターゲットを見つけては、その人に憎悪の感情を向けたり、悪罵を投げつけたりするのです。こうしたエネルギーが集中すると、いわゆる「炎上」が起こるのです。

 

このことですでにお解りのように、誰かを「嫌い」だという感情は、その人の「心」の状態を映したものです。しかし覚えておいて欲しいのは、宇宙の法則は、それ以上のことを冷徹に示すということです。それは、自分が為したことは、自分に返って来るということです。法則としては単純です。これを、いわゆる「カルマの法則」というのです。

 

ですから、他者に投げつけた誹謗、中傷、罵倒のエネルギーは、宇宙を巡り巡って、必ずその人の元へ返って来ます。そうすると、当然、自分が攻撃されたような気分になって反撃したくなる。そこでまたターゲットを見つけて、誹謗、中傷、罵倒の声を浴びせ、これがグルグルと自分の中で続くのです。こういう人は、どん底の気分にまで落ちるか、病気にならない限りは、なかなか気づきません。

 

そのようなわけですから、そういう人にお付き合いをして、一緒になって自分の波動まで下げる必要は全くないということです。いちばん良いのは無視することです。友人のRさんが言うのを聞いて「なるほどな」と思ったのは、街角で配っているティッシュと同じだと思えばいいんだと。「はいどうぞ」と差し出されても「いいえ、結構です」と、受け取らなければいいんだと。

 

あなたを攻撃して来る相手は、受け取ってくれることを想定しているわけですから、受け取らなければ、そのエネルギーは通過して行って、すぐにその差出人に返ります。それで、その人は苦しみます。別に苦しませることが目的ではありませんが、あなたは自己防衛でそうすればいいのです。相手が苦しむのは、自分が為したことは自分に返って来るという法則を学習するために与えられたものです。

 

今これを相手の立場で言いましたが、あなたについても同じことです。あなたが、誰かの「嫌い」という感情を受け取れば、あなたの「心」は、その感情に同調して波動が下がります。また反撃に転じれば、闘うということは土俵を同じにするということですから、これも同じく波動を下げます。しかも今度は、自分の「私だって嫌いよ」という「不快」な感情を宇宙に向かって放ち、それが返って来るのを受け止めることになるのです。

 

お解りですか? ですから先ずは無視。受け取らないこと。そして、そのような苦しみの段階にある相手には、温かなエネルギーを送ってあげましょう。相手が微笑んでいる顔を、脳裏に強くイメージすればよいのです。そうすれば、今度は、その温かなエネルギーが、自分のもとへ返って来ることになります。ね、簡単でしょう?