by Rainbow School
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カルマから自由になる(2)

昨日は、本当は「カルマ思想にそれほど捉われる必要はない」という話をしようと思っていたのですが、いつの間にか「カルマ」の説明になってしまい、そこで力尽きてしまいました。今日はおの続きです。いま私は「カルマ思想」と書きましたが、「カルマの法則」と「カルマ思想」とを区別したいんですね。

 

「カルマの法則」それ自体は絶対的なものですが、そこから規律や規範を引き出して、「だからこうあるべき、こうであらねばならない」とやってしまうと、そこから「カルマ《思想》」になってしまうと思うのです。そうすると、「カルマ思想」にハマることが、また新たな「捉われ」を生んでしまうという気がするのです。

 

私は仏教から入りましたので、仏教特有の「苦」という発想にすぐにハマりました。生きていることは、とにかく「苦」であると。当時の自分には、その説明がピッタリ来たんですね。なぜ「苦」かと言えば、「苦」が生じる原因を自分が作って来たからだと。これを「因縁」(カルマの別名)と言い、「因縁切り」を目標にして、毎日、行に勤しんでいたわけです。

 

しかし、今振り返ってみますと、「随分回り道をしちゃったなぁ」と思うのです。「因縁」を「切る」という考え方が、そもそもダメです。これはいつも言っているように「ネガティブ+否定」のワードになっている。ですから、そのことを日夜考えていますと、逆に「因縁」への捉われが強化されて行ってしまうのです。

 

解りやすい例で言えば、「戦争反対」ではなくて、「平和推進」と言わなければいけないのです。「ポジティブ+肯定」のワードを持つべきだったのです。ということで、「因縁切り」の13年間は、さしたる成果も得られず、混迷を深めただけで終わりました。

 

文豪ゲーテは(確実にメッセンジャーだった人ですが)、「生きるということは、とにかくいいことだ」と言いました。これは、生きることは「苦」であると考える仏教思想とは、まるで真逆の考えのように思えます。では、どちらかが間違っているのでしょうか? いいえ、どちらも正しいのです。それは、表裏であり、視点の置き方が違っているだけなのです。

 

ここに、人生に絶望した人がいるとします。明日への光など全く見えません。この人に「生きるということは、とにかくいいことだよ」と言ったところで、通じるものではありません。やはり「今まで、苦しかっただろうね。よく頑張って来たね」と「苦」を認めて、同情を示してあげることが先ずは必要なのです。釈迦の生きた時代、釈迦の周囲には、そのような境遇の人たちが大勢いたのです。

 

しかし、現代のような時代に、「苦」を強調し過ぎることは、得策とは思えません。なぜかと言いますと、昔とは「苦」の性質が様変わりしてしまったからです。昔の「苦」は、病気や貧困や天災や飢饉や戦争から生じていて、物理的なものを最初の原因としていました。ところが現代人の「苦」は、精神そのものから発しているのです。孤独感や不安感や絶望感が「苦」なのです。

 

ここに「カルマ思想」を当てはめたらどうなるでしょうか? その「苦」を作り出している原因が自分自身にあると知って、己のいったいどこがいけないのかと、自分を責めるようになってしまうでしょう。あるいは、過去世の自分の行いに因果関係を見出して、いまさら変えられない過去を悔やみ続けるかも知れません。

 

自己の行いを振り返ってみることはよいことです。しかし反省のし過ぎ、反省しっぱなしはよくありません。それでは、生き抜くバイタリティを阻害してしまいます。「あ、これはよくなかったな」と思ったら、直ちに謝罪するなり、気持ちを切り替えて、改善の方向に踏み出す方がずっとよいのです。そうすることで、失敗体験も活きることになるのです。

 

このようなことが解ってから、私自身も「カルマ思想」に捉われていたなと、自分を反省しました。このブログでも、少し言い過ぎて来たかもしれません。

 

「カルマからの脱出」ということを考えますと、先ほども書いたように、「ネガティブ+否定」になってしまいますので、どうしてもそこに捉われが生じてしまいます。そうではなくて、一度カルマを認識したら(つまり因果関係を理解したら)、それをポジティブな考えと行動に置き換えて行けばよいのです。つまり「カルマ」そのものから自由になればいいのです。

 

そうすれば、ゲーテが言ったように「生きるということは、とにかくいいことだ」ということが、実感として解って行くようになります。それに「カルマ」というと、ネガティブなことばかりだと思っていませんか? そうじゃないんですよ。あなたが磨いた能力や、聡明さや、心の温かさや、親切心や、朗らかさや、ジョークのセンスまで、来世に運ばれるのです。「カルマの法則」によって。

 

ですから、「カルマ」ということも、あまり重々しく考える必要はないんです。「軽魔」くらいに思っていてちょうどいいのです。これは軽い魔が差したんだと思って、改めればよいのです。それよりも、自分を信じて、元気に、楽しく過ごすことが大切です。しかめっ面をして生きるのも、笑いながら生きるのも、同じ時間を過ごすことなんですから。

 

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明日より、土日祝祭日は、投稿をお休みさせていただきます。ご了承ください。

カルマから自由になる(1)

先日、ある方と話をしていて、話の流れで「それではまたカルマを作ってしまうことにはなりませんか?」という質問をされ、「そう言えば‥‥ 」と気づかされる事態となりました。最近の自分の意識の中からは、「カルマ」の言葉がすっかり消えてしまっていたのです。

 

「カルマ(Karman)」というのはサンスクリット語で、もともとは「行為」を意味する言葉でした。けれども「行為」には必ず「結果」が伴います。そしてこの「結果」が、また次の「行為」を生む原因を作ります。ということで、因果関係全体の法則性を後に「カルマ」と呼ぶようになったのです。仏教ではこれを「業」と言い、一般には「因果応報」とか「自業自得」という言葉で知られています。

 

さてこの「カルマの法則」ですが、一般には「善行善果、悪行悪果」(善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が報いとして現れる)として教えられています。これは多分に道徳的なものを含んだ教えになっていますが、今日これが、どこまで人々の心に響くかは疑問です。しかし、「カルマ」が持つ法則性が示しているものは、決してそこに留まりません。

 

「善行善果、悪行悪果」がかつて強調されたのは、そういう道徳教育が、何より必要な時代だったからだと思うのです。しかし人間には「偽善」というものがあります。石油王ジョン・ロックフェラーは、出会った人にコインを渡すのを習慣としていました。施しは「善」的行為に見えますが、そのお金を一体どうやって得ていたのかを考えたら、果たしてその行為は「善」と言えるのかどうか?

 

「善」と「悪」ということについては、他のところにも書きましたが、何が「善」で何を「悪」と考えるかは、時代によっても、社会体制によっても、個人によっても違っていて、一概にこういう行為が「善」で、こういう行為が「悪」だとは決めつけられないのです。

 

しかし、「カルマの法則」自体は絶対的なものです。この法則性がどのようなメカニズムによって生じるかについては別の機会に譲りますが、なぜ絶対的だと言えるかと言いますと、「カルマ」の本質は、「行為(為したこと)」にあるのではなくて、実は「思念」にあるからなのです。

 

何かを為す際には、その為すことのプランを考えます。つまり行動には、その人の「考え(思念、思考、感情等)」が、必ず伴っています。人間社会は物理的領域で動いていますので、人はその領域に影響を与える「行為」を、いちばん重要視しています。ところが霊的に考えた場合には、「行為」自体はあまり問題ではないのです。

 

なぜならば、物理的領域に在るものは、つまり物質は、例外なく「変化」してしまうものだからです。どんなに偉大な業績であろうとも、風化していってしまう。消滅するのではありませんよ。別のものに役立てられるように「変化」してしまうのです。

 

ところが、この「行為」に掛けた「思い」というものは、「思念エネルギー」ですから風化しません。いつまでも残る。ちっとも「死ねん」というわけです。けれども一般の人は逆に考えているんですねぇ。物は残るが、考えは残らないと。そうじゃないんです。事実は全く逆なのです。そしてこの「思念エネルギー」こそが、「カルマ」を拵える素になるのです。

 

「魂」というものが「思念エネルギー」の塊であることは、これまでにも何度か述べてきました。この「魂」が、物質界に輪廻転生して、また新たな一生を過ごし、様々な体験をする。その時に、「行為」と、それに伴う「思念」とを新たに創造します。この「思念」が、まるで粘土細工のように「魂」にくっ付いて行くのです。なぜなら、両者は共に同じ「思念エネルギー」だからです。

 

これが「カルマ」というものの正体です。ですから「カルマ」は来世にも運ばれ、その「思念エネルギー」の状態に応じた、心と肉体と環境を持った人物を、候補者の中から選んで創り出し、この世に送り出すのです。その目的はハッキリしています。その「魂」が、前世までに積んだ「カルマ」と同じような出来事に再び遭遇し、それを体験して、味わって、解消するためです。

 

あなたの「魂」は、粘土細工のようなものですから、いろんなものをペタペタとくっ付けていきます。「ああ、これを捨てるのはもったいない」「これを手離すのは惜しい」と思っていると、せっかくの機会を失い、下手をするとさらに「カルマ」を増やして、来世に持ち越すことになるのです。人間の多くは、そのせいで何度も何度も輪廻転生を繰り返すのです。(つづく)

内なる導きと、自分の考えを区別するようになるには

あたなたの「魂」は、自分が生きる目的を知っているのですから、その声に素直に従えば、あなたは本来の生き方ができます。これを見つけていく作業が、いわゆる「自分探し」です。「自分探し」について、脳科学者は、現代社会がそういうことをさせてしまっているといった説明をするのですが、彼らは「魂」のことを知らないで語っているのです。

 

脳という器官が何のためにあって、何を担っているかというと、(現代科学ではそうは言いませんが)「魂」と、物質的世界の認識との仲立ちをする器官(いわば翻訳機)としてあります。「魂」が持つメッセージを、脳が、現世で生きる自己に伝える一方、五感を通じて得た現世の情報を、脳で解釈して「魂」にフィードバックします。

 

脳は、このように両者の中間地点にあって、両方からの入りと出の情報を一括管理しているわけですが、今でいうハイブリッドカーのようなもので、今現在の思考や感情や感覚が、いったいどちら側からの情報なのか、区別がつきにくいのです。(ハイブリッドカーにはモニター表示がありますが)

 

すると、両者の流れが混じり合ってしまい、まるで鳴門の渦潮のように、脳の中で渦を描くのです。ですから、「自分探し」においては、今の自分の思考や感情や感覚が、果たして内なる導きから生じているものなのか、それとも自分が脳の中で考えた勝手な思いつきなのかを、区別していくということが課題となって行きます。

 

この点で、現代人の能力は非常に退化し、ますます追い詰められて来ている状況にあります。その大きな原因は、モバイルコンピュータとSNSの登場によって、自己を内観するという機会を、現代人が殆ど失ってしまったからです。自分の生き方を左右するのは、外から来る情報だと思い込み(思い込まされ)、みなそれに夢中になって精神が疲れ切っているのです。

 

ところが「内観」と言っても解らない。何をどうすればいいかも解らないし、現代社会は即効性を重視しますから、自分を静かに見つめるということを、一年、三年、十年と続けることができない。それどころか、わずか10分間、心静かに瞑想するといったことすらできない。そこに、価値や意義を見出せないのです。

 

日々、これでもかと情報を送り出す側も、それを血眼になって追いかける側も、いわば集団催眠に掛かっていて、そうすることが「よいこと」だと信じ込んでいるのです。それで、心を病んでいる人が増えているなどと言っているのですから、そうなるのは当たり前じゃありませんか。自分を見つめる機会を拒絶しているのですから、訳が分からなくなるのは当然です。

 

いいですか。ちっとも内観をせずに、始終、外から来る情報に振り回されているというのは、「自分を信じていない」ということなんですよ。「自分を信じていない」者に、「自分探し」など出来るわけがない。「自分探し」に着手しない者に、心の平安が訪れるわけがない。なぜなら、自己の「魂」の純な願望に逆らって生きているわけですから。

 

外から来る情報など、所詮ガラクタ。じゃあ、本を読んじゃいけないのか? そうじゃない。本を読んで、「これだ!」と思ったところに傍線を引く。それは、あなたの「気づき」が起きたところ。それはあなたが元々持っていたもので、今まで閉じていた蓋が開いて「気づき」が起こる。ですから「内観」とつながったということなんです。

 

ということで、我々が肉体を持って、この物質世界に生きているということは、物質世界でしか味わえない感覚、感情、思考を体験するためなのですが、たとえば一輪の花を見ても、美術館で絵を見ても、そこに何かの「気づき」を見る人がいれば、それをガラクタにしてしまう人もいるのです。あなたがガラクタを好めば、あなたはガラクタの収集家になるのです。

 

さて、今日のテーマに戻りましょう。内なる導きと、自分が考えた勝手な思いつきを区別するにはどうしたらいいか、ということです。先ず、不安や恐怖は、100パーセントNOです。ハイアーセルフや高次元の存在は、不安や恐怖を決して伝えません。なぜなら、元々それらのものはないからです。ですから、不安や恐怖はあなたが集めたガラクタです。

 

内なる導きは、あなたの脳を翻訳機として使い、感覚、感情、直感、インスピレーションといった表現方法を取って、あなたにメッセージを伝達します。これらのちょっとした「心」の動きに注目してください。普段とは違った、感覚や感情が湧き起こったり、直感やインスピレーションが湧いたときは、それが内なる導きである可能性が高いです。

 

その時に、ワクワクするような衝動や、楽しさや嬉しさが湧き上がって来るかどうか? もしそうであれば、それは内なる導きでしょう。でも思いついてみたものの、どこかしっくり来ない、視覚化(イメージ)できない、といった場合には、それはたぶん内なる導きではないでしょう。この時に、倫理や世間的な常識を判断に組み込まないようにしてください。

 

あなたが、思考を開始すると、それらのリンクは切れてしまいます。真っ白いキャンバスには、どこにも自由にどんな色でも形でも落とすことが出来ます。でもあなたが、そのキャンバスを、自己の観念や世間的常識や倫理観で埋め尽くしていたら、絵の具を落とす場所がありません。ですから大前提として、あなたはご自分を常にピュアにしておく必要があるのです。

 

さてその上で、内なる導きに従うことを、この世的な「良い・悪い」で、単純に判断しないでください。その人にとって、何がよい人生であるかは、すぐには判らないのです。この世的な成功や名声が、必ずしもよいこととは限りません。でもみな、この世的な成功ありきで、内なる導きを利用しようとするので、おかしなことになってしまうのです。

 

考えてみてください。それが自分をピュアにしておくことでしょうか? 精神世界でも、「成功」を餌にこのような誘惑をする人たちがたくさんいるので、気をつけてくださいね。

 

「成功」という言葉の定義にもよりますが、本来の自分を「活かす」ということを「成功」と定義するならば、人はみな「成功」を目指して行動するべきです。しかしそれは、いわゆる社会的な「成功」とは懸け離れた人生であるかも知れません。

 

大事なことは、心を穏やかにして、自分が出来ることによって、社会の役に立ち、かつ自分も楽しく生き、瞬間々々を喜ぶことなのです。努力研鑽さんは必要ですが、苦行をする必要はありません。この道に一歩踏み出せば、あなたはどんどんピュアになり、それに応じて、導きのメッセージもますます解るようになります。

 

それを目指して、今ここ、この時の、ご自分の「心」に向き合って、元気よく生きて行ってください。大丈夫、あなたにはいつも守護霊が付いていますよ。

「信仰」は「魂」の成長を足踏みさせる

私と縁のある方たちの中には、過去世で、熱心なキリスト教信者だったという人が実に多いです。そういう人はすぐに判り、修道院で暮らしていたという人もたくさんおられます。このような人は、宗教や信仰を否定している私のような者と出会い、反発心を抱かれる人も多いです。それでもなぜ、縁が生じるのか? そこが実に興味深いところです。

 

こういう方たちと出会うと、「キリスト教ってものは、まったく何てことをしてくれたんだ」と、つくづく思わされます。この人たちの不安や苦悩の原因の根本は、信仰心にあるのに、その信仰心というものを捨てられない。どう話をしようが、難攻不落で、こちらもホトホト手を焼いてしまうのです。(別に、落城させようと思っているわけではありませんが‥‥)

 

ではどうして縁が生じるかと言うと、私に接触して来る人は、すでにキリスト教は捨てているんですね。かつてはキリスト教を熱心に信仰していたけれども、今は止めてしまったという人がほとんどです。ですから「キリスト教では、どうもダメみたいだ」とは気づいているんです。ところが、過去の何回もの転生で、体に染み込ませてきた信仰心までは捨てられない。

 

今世日本に生まれて、この方たちは、キリスト教に代わる別の確たる「信仰」対象が欲しいんですね。それが自分に「安心」をもたらしてくれる筈だ、という期待感がある。でも私は、「それこそが《不安》の元凶であるし、何も信じるな」と言うわけですから、「いったい、この人は何を言っているのだろう?」と、反発心や怒りが沸いて来るのです。

 

別に、私は「神」を否定しているわけではないんです。ただ「あなたが思うような形では『神』はいないよ」と言っているだけなんです。「あなたの内側にいつもいるし、あなたはその一部でもあるんだよ」と言っているだけです。ところが、これが猛反発される。今までの「教え」の常識をひっくり返してしまうから。

 

「信仰」では、なぜ「不安」が消えないかと言うと、「信仰」というのは天上に掛けたいわば梯子段で、この梯子段を昇っていけば天上界に行けると信じているわけですが、同時にそれは、「万が一、梯子段がストンと倒れたらどうしよう」という「不安」を、奥底に内包してしまうことになるのですね。

 

その証拠に、信仰対象が人物であった場合(たとえば傑出した霊能者など)、その人物が死ぬと、信者はたちまち途方に暮れてしまいます。その結果として、次の信仰対象を求めて、血筋(世襲)を重視する派閥と、教義を重視する派閥とに分裂するというのがお決まりのパターンです。

 

このようなわけですから、一度「信仰」の道に嵌ると、しっかり握って離さないようになる。すると反作用から、「不安」もますます大きくなってしまうのです。実際、宗教界では、この心理を脅しによく使います。「いい? 離れたら、どうなっても知らないからね」と言って。ですから、いったん「信仰」に嵌った人が、それを手放すのには大変な勇気を必要とします。

 

私の家系は、300年続く修験道(山伏)の祈祷寺院で、祖父は超能力者であり大僧正でした。そこで私も、若い頃は仏教を学び、一時は「信仰」もしたのですが、最終的には捨てました。その時には、やはり勇気を必要としました。ですから、その当時の自分が、今の自分に出会っていたとしたら、やはり反発を覚えたと思います。

 

でも、何かを「信じる」ということは、そこで自分を、思考停止にしてしまうということなんですね。その先を考えなくていいので、楽かも知れませんが、でもそれは、「信じる対象」の奴隷になることを選ぶということなんですよね。それが果たして、「魂」が喜ぶことなのかどうか。そこをよく考えていただきたいと思うのです。

 

「魂」が、この世に肉体を持って転生して来る意味は、この世でしか出来ないことを体験し、それを通じて「魂」本来のあり方に、再び気づくことです。「魂」は元々あの世から来たものですから、「魂」自身は、外側の何かを「信じる」必要がないことも、自分が「神」の一部であることも、実はみんな知っているんです。

 

だから、ただそこに「気づく」だけなんですね。それがクォンタム・ジャンプ。「魂」の成長なんです。

自由とルール

この『気づきの啓示板』では、人は「自由」であるということを繰り返し述べています。どう生きようと「自由」だし、それは選択の「自由」、考え方の「自由」ということを意味しているし、生きて在ることそのものが「自由」ということです。一つの考え方として、自己の「自由」に気づくことが、「解脱」や「覚醒」である、という言い方も出来ます。

 

私自身、人は「自由」なんだ、と気づくまでには本当に時間が掛かりました。世の中を見たら、不自由だらけじゃないか。生きるためにお金を稼がなくちゃならないし、その為にはイヤな仕事だってしなくちゃならない。イヤな人間とも付き合わなくちゃならない。家庭や社会からは様々なことを強制される。そもそも肉体を持っていることが不自由だ。

 

確かに、そう思えばそう見える。でも、世の中は「不自由」だらけだと思っている、そのように制限を掛けているのは、自分の「意識」なんですね。世の中は、ただ在るだけで、自分が自分の「自由」というものを認めていないから「不自由」に思う。つまり、自分を「不自由」にしているのは、自分だったんです。それが解るまでに時間が掛かった。

 

ということは、あなたは、ご自分の「自由」を確信する(=思い出す)ことだけで、「自由」になれるということなんです。試しに今、眼を閉じて、静かに深呼吸をして、ご自分の心に言ってみてください。

「そうなんだ、私は自由なんだ!」

心に届きましたか? 確信できましたか?

 

さて今日のもう一つの話は「ルール」です。あなたの周囲には、様々なルールがあります。あなたがご自分で作ったというルールというものも、多分あることでしょう。この「ルール」と「自由」との関係は、どうなっているのでしょうか? 「ルール」は「自由」を束縛するものなのでしょうか?

 

社会は、大勢の人たちで構成されています。この人たちが、それぞれ「自由だ、自由だ」と言って、銘々が勝手な動きをしたら、社会はたちまち混乱してしまいます。ですから、全体の調和や秩序を保つためには、みんなで決めた「ルール」が必要になって来ます。

 

クルマが往来する交差点を思い浮かべてください。もし、信号機もなく、交通ルールも無かったとしたら、交差点はどうなるでしょうか? おそらく大混乱に陥って、交通がマヒ状態になってしまうでしょう。つまり「自由」な往来が妨げられてしまいます。むしろ「ルール」を定めた方が、「自由」な交通が実現されるのです。

 

「自由」というのは、結局のところ、その人の「意識」です。「ルール」を認めて、それがあることによって交通の「自由」が担保されることを理解するなら、その人の移動は「自由」の「意識」のもとに図られるのです。「ルール」というものは、すべてそのように考えることが出来ます。

 

問題は、その件に関する当事者が、話し合って、合意のもとに「ルール」を決めたかどうかです。そのようにすれば、問題は起きません。ところが、例えば「校則」というものを、当事者である生徒の話し合いで決めるのではなく、学校運営側が定めて一方的に「生徒に守れ」と言ったりしたら、その「校則」は「拘束」になってしまいます。

 

これが、あらゆる「ルール」というものの背後にある本質です。どんな「ルール」も、当事者(あるいは当事者の代表)がよく話し合って決めなければならないのです。そうでなければ、「ルール」は「支配」の道具として使われてしまいます。この違いをよく見極めなくてはなりません。「支配」に甘んじてしまっては、それこそ「自由」が奪われてしまいます。

 

その「ルール」は、当事者の「自由」を円滑にするための「ルール」なのか。それとも一部の人たちが、自分たちの利益のために、他者の「自由」を奪い、「支配」することを目的として設けた「ルール」なのか?

 

政治というのは、本来、前者を目的とした筈なのに、現実的には、後者を目的として「ルール」づくりが為されることが、今は圧倒的に多いです。それは、政治家が「ルール」づくりの本来の目的を忘れてしまったからです。

 

みなさんは、人は本来的に「自由」なんだという根本を知った上で、「ルール」にも誤魔化しがあるということをしっかりと見抜き、対処していって欲しいと思います。

不快な気分が生じた時の消し方

人と接していて、何かの文言を見て、あるいは何かの事件に遭遇して、急に不快な気分が湧き起こった。そんな経験はありませんか? これは、その時にもたらされた外部刺激と、自分のバイブレーションとのギャップが大きい時に現れる症状なのです。いわゆる「波長が合わない」ということです。

 

人はみな、その人の現在の霊性の高さに応じたバイブレーションを周囲に発しています。宇宙のあらゆるものはバイブレーションですから、そこで互いの振動数が干渉し合うのです。音楽を考えてみればお解りだと思いますが、これには三種類があります。同調(共鳴)と、ハーモニーと、不協和です。物質では、これが結晶化、化合、分離として現れます。

 

この不協和が起きた時、その人には「不快」として認識されるのです。不協和がどうして起こるかと言うと、これには二種類があります。相手のバイブレーションが自分よりも低過ぎて不協和が起きる場合と、反対に相手のバイブレーションが自分よりも高過ぎて不協和が起きる場合とです。どちらも、「不快」であるために、同じ場に長く居続けることはできません。

 

人間社会ではいろんな人が一緒くたになって生活していますが、その人の本質はあくまで「魂」であって、人はみな生霊のわけですから、そういうことが起きるのです。霊界というのは、霊性の高さに応じた完全な階層構造になっているので、生霊としての人間もまた、あまりにもバイブレーションが違う人とは一緒になれないのです。

 

テレビの討論番組などで、よく喧々諤々の議論をしているのを見るでしょう。一見、意見が真っ二つに分かれて闘っているように見えますが、実は両者のバイブレーションは同じ程度なのです。だから同じ土俵に立てるのです。もし、あまりにもかけ離れていたら、その場に居続けることは出来ません。高過ぎる人も低過ぎる人も離れてしまい、同程度の人たちだけがその場に集まって来るのです。

 

私のこのブログに惹かれて来る人は、ほんの僅かです。ここにも同じ理由があります。自分とは「波長が合わない」と思った人は、訪れても、自然と離れて行きます。

 

さてここで、次のような疑問が湧きませんか? だとすれば、自分の霊性を高めようと思っても、高いバイブレーションとは縁が生じないわけだから、結局、無理ということではないのか? ここでハーモニーという手段が出てくるのです。完全同調できなくても先ずハーモニーを目指せば、やがては引き上げられて行くことになります。

 

ハーモニーを目指すためには、自分を解放することです。先ず開放弦にしておくのです。心を開いていれば、協和するバイブレーションが自然と見つけられて行きます。でも、自分をこうだと決めつけたり、主義主張にこだわっていると、その振動数にガッチリ固定されてしまいますから、結局、ハーモニーが起こらないのです。

 

さて、冒頭の話に戻りましょう。「不快」な気分がどうして生じているかという、深〜い話がお解りいただけましたね。こういう気分が生じた時、そのままにして放置していますと、その「不快」な気分にやがて支配されてしまいます。そしてこれが何日も続く。下手をすると、そこから自分の余計な「観念」を作り出しかねません。これは誉められたことではありません。

 

ではどうしたらいいのでしょう? 「不快」は感情面の反応ですが、これを感情のままにせずに、その裏に隠れた自分へのメッセージを探るとよいのです。あらゆる「不快」な出来事には、あなたへの特別なメッセージが隠されています。あなたのハイアーセルフは、「不快」な思いをさせることで、あなたの生き方に軌道修正を迫っているのです。

 

これを、読み解いてください。心を静かにして、この「不快」な感情が、どういう理由で湧き起こったのかを見つけてください。この隠されたメッセージを理解した時、あなたの「不快」は消えます。あなたはもう、その感情に束縛される状態から脱し、自分を成長させる鍵を掴むことになるのです。このようにして、人は「不快」な出来事を、人生のプラスに転じることが出来るのです。

体罰の是非(3)

「体罰」を容認してしまうことによって起きるもう一つの問題点は、「体罰」を与えることを面白がるという人が居て、そういう人に、歪んだ自己表現の場を与えてしまうことです。

 

桑田真澄さんがプロ野球関係者に行ったアンケートでは、83パーセントが「体罰」を容認するという結果が出ました。これには、自分自身の体験から、それによって成長したという思いが反映しているのでしょう。あるいは、言葉で言って分からない者には体で覚えさせるしかない、という考えもあるかも知れません。

 

しかし、「気づき」を促す手段は他にもあるし、何より本人が「自分で考える」ようにならなければいけない。そのためには「体罰」は不適当である、という私の考えを昨日述べました。また、「体罰」の容認の前には「罰」の容認があり、これがそもそもおかしいのだ、という持論も述べました。

 

もし「罰」というものを認めてしまいますと、それが合意のもとにルール化されたものでない限りは、「罰」を行使する側にその場の絶対的な支配権を与えてしまいます。ところが、その支配する側の心理や考えというものは、外側からは容易に窺い知ることはできません。それなのに、〈これは「罰」なんだからね〉というお墨付きを与えることになってしまいます。

 

中学校に入学して、私は剣道部に入部しました。へなちょこコンプレックスをなんとか払拭したかったのです。最初の1カ月が過ぎ、防具を着けて練習をする頃になると、連日面を叩かれて頭頂部が腫れ上がり、夜は湿布をしないと眠れなくなりました。でもこれにはまだ耐えられたのです。

 

ところが2カ月が過ぎた頃、上級生に言われて、一年生全員が蓋のない下水溝の上に正座をさせられました。太腿とふくらはぎの間に竹刀を挟み込んで、下水溝の両端に、膝とくるぶしを載せて正座するのです。そうやった上で、上級生が代わる代わる、竹刀の両端を思いっきり踏んづけて回るのです。

 

どうやらそれは「伝統行事」らしく、二年生の顔には、やられる側からやる側にやっと回れたという喜びが溢れていました。これには猛烈に腹が立ち、私はその後すぐにクラブをやめました。足の痛さよりも、「こんなバカな連中と付き合えるか」と思ったのです。

 

そういう不条理な場に、自分を同化させて行くというのが、反吐が出そうなほど嫌でした。しかし一方で、上級生たちはみんなその洗礼をくぐり脱けて来たわけで、「俺は脱落した」という、へなちょこコンプレックスがさらに強化されて、その後もずっと心の底に住み着くことになったのです。

 

小学生のころ、友達と川で立ちションをしていた時の話です。この一件は前にも書きましたが、突然一人が、私のおチンチンにヒョイとカブト虫を乗っけたのです。もうビックリです。カブト虫の足の爪がおチンチンに食い込んだ時の感触を今も思い出します。

 

私はズボンをビショビショにして、泣きながら家に帰ったのですが、理解できませんでした。「いったい何が面白くてそんなことをするんだろう?」と。でも、他人を弄んで、傷つけて、それを喜ぶ、それが楽しいと思う人間がいることは、もう仕方がないんですよね。

 

戦争中の日本陸軍などは、その連鎖的構造によって組織が維持されていたということが、『真空地帯』や『陸軍残虐物語』『兵隊やくざ』といった映画を観るとよく解る。ですから、他人を傷つけて喜ぶという心理が、集団になった時には、いとも簡単に自分の矩(のり)を超えて暴走してしまうんですね。

 

そこに、「罰」のお墨付きを与えたら一体どうなるでしょうか? 行き着く先は、集団リンチです。これは、連合赤軍事件をはじめ、数々の事例が示しています。これが人間というものの弱さ。

ですから、「体罰」など、決して認めてはならないのです。(了)

体罰の是非(2)

「体罰」という言葉に、(それは暴力ではないかという意味で)みな惑わされてしまうのですが、昨日も書いたように「体罰」がいけないのではないのです。「罰」という考えがそもそもおかしいのです。「罰」を与えると称する側は、その瞬間、絶対的な支配者になっている。これこそが暴力というもの。手を出す・出さないは、関係ないのです。

 

ボクシングの殴り合いは暴力なのでしょうか? 柔道の投げ合いは暴力なのでしょうか? 西部劇では、反目する二人が殴り合いをしてから仲よくなるというシーンがよくあります。これは暴力でしょうか? これらは、肉体を通じたコミュニケーションです。Sex だってそう。ところが、合意がない時には、同じ行為が暴力になるのです。

 

野球で、ピッチャーの投げた球が、指にうまく掛からずに打者に当たってしまった。これはルール上のデッドボールです。でもピッチャーによっては、最初から当てようと狙って投げる場合がある。これは合意を逸脱した行為ですから、もはや暴力です。ところが、その線引きは微妙で難しい。ですから、肉体を通じたコミュニケーションには、手加減や思いやりというものが必要になって来るのです。

 

「体罰」の是非ということを問題にする際には、いま書いたことをみんなゴッチャにしてしまって、手を出す・出さない、という点にフォーカスを当てて議論をしています。しかし、そうではないということです。

 

ですから、スポーツ選手の中には「あの時の体罰が、自分を成長させた」と、「体罰」を是認する人が出て来るのです。それは、その行為によって、自分に「気づき」が起きたということを評価しているからです。しかしそれは、「体《罰》」だったのでしょうか? 合意の上に成立していた、肉体を通じたコミュニケーションだったのではないでしょうか?

 

先ほども書いたように、両者の線引きは難しい。ボクシングをはじめスポーツにはみな「ルール」という合意事項がありますから、それを逸脱したか・しないかで判定ができます。ところが、コーチングにはルールというものがありません。そこで、そこは慣習とか、あうんの呼吸というものになっているのです。スポーツでの練習、学校での授業、職場の先輩後輩、家庭でのしつけ、みんな「あうんの呼吸」です。

 

その曖昧さが、時に問題を起こします。相撲部屋で、入門者を殺した事件がありましたね。殺された側は「体罰」が辛い。ところが、やっている親方や兄弟子たちは「これくらい、いいだろう」と思ってやっているわけです。手加減や思いやりというものがないので、肉体を通じたコミュニケーションから遥かに逸脱していても気づかないのです。コーチ失格です。

 

さて、肉体上の痛みを味わったことによって、始めて何らかの「気づき」を得た、という証言がたくさんあることは確かです。それが「体罰」容認論の支持につながっています。しかしその「気づき」は、本当に「体罰」を与えられなければ、気づけなかったものなのでしょうか? ここで、コーチングというものに対する考え方の差が出て来ます。

 

桑田真澄さんや落合博満さんは、指導者というのは環境を用意してあげるだけ、という考え方です。気づくか、気づかないかというのは本人の問題であると。どんなに環境を用意してあげても、気づけない人は成績が出ませんし、向上もして行きません。プロ野球ですから、そこはシビアな世界で、そういう人は脱落してしまいます。そこで痛みを味わうのは誰なのでしょうか? 本人です。

 

これ以上の「痛み」が、果たしてあるでしょうか? 「痛み」というのは、知覚ですから、本人にしか分りません。本人が自覚するものなのです。ですから、わざわざ与えてやる必要などない。下手に「体罰」などしたら、怪我を負わせてしまうかもしれませんし、練習メニューもガタガタになってしまいます。それは、指導者がやるべきこと(育つ環境の整備)に反する行為です。

 

それよりも、愛情を持って接し、見守ることに徹した方が、本人の「気づき」につながるという考え方を、桑田真澄さんや落合博満さんは採っているのです。

 

「罰」という考え方が最もいけない点は、それが本人の「考える力」を奪ってしまうことです。「罰」が怖いからこれをする、「罰」を受けたくないないから言いつけに従う、という条件反射になってしまって、自分がやっていることの意味を考えなくなる。外面的には、それで上手く回っているように見えても、「考える力」がなければ、イレギュラーの問題には対処できません。

 

ですからそういうチームは、結局、勝てない。試合はイレギュラーの連続ですし、グラウンドで野球をやっているのは、監督ではなくて選手ですから。職場でも、家庭でも、それは同じこと。条件反射で得られた「気づき」は、それ以上に発展することはありません。考えることをしないからです。ですから、自分もまた「体罰」を是認し、同じように「体罰」で「気づき」を与えようとして行く。

 

私たちの大半は、もちろんプロスポーツ選手ではありません。でも、誰でも人生のプロには成れるし、また成っていかなければいけないと思うのです。だから「体罰」などは不用。自分で「気づく」ことができるし、自分で「考える」ことができるし、「自立して」歩むことができるのです。さあ、あなたも、自分の人生のプロを目指して歩むのだ!

体罰の是非(1)

巨人軍のエースとして一時代を築き、大活躍された元プロ野球選手の桑田真澄さん。この方は、生まれながらにして高い徳を持った人だと、私は確信します。

 

合理性を重んじる独自の野球理論もさることながら、何より野球を愛し、野球を単なるスポーツを超えた人間形成の場として捉えているところが素晴らしい。指導者として、一段も二段も高いところに居て、野球界全体の向上と、野球に携わる人すべての幸福を考えている。いずれは、野球界でそれなりの役職を要請されることになるでしょう。

 

その桑田真澄さんが「体罰」について語っています。しかし大多数の人は、彼の深い考えを理解できないことでしょう。桑田さんの考えでは、もちろん「体罰」は100パーセントNOです。それは、コーチング技術の合理性から言っても意味がないというだけではなく、たぶん、もっと根源的な問題を彼は問うていると私は思います。

 

桑田さんは、この問題に関する論文を書くために、プロ野球選手300人に独自のアンケートをしました。すると、なんと83パーセントの人が「体罰」を容認するという結果が出たのです。指導のためには、時には「体罰」も許されるし有効だという考えが、プロ野球界に広く浸透しているのです。

 

これは野球に限らず、あらゆるスポーツがそのようです。現指導者のほとんどは、選手時代に「体罰」を受けた経験があり、「自分はそれを乗り越えて来て今があるわけで、「体罰」も時に有効である」と考えているようです。その結果、次の世代に、また「体罰」をともなった指導法が引き継がれて行っているのです。

 

さて、次の行為は「体罰」に当たるでしょうか? あなたはどう考えますか?

・集合時間に遅れたので、罰としてグランド3周を命じた。

・やる気のない態度に、言葉で、徹底的に人格をなじった。

・不甲斐ない成績に、愛情のこもったビンタをくらわせた。

 

おそらく、「体罰」の「体」という文字の意味する範囲について、悩まれることでしょう。桑田さんは、これらは全部「体罰」だと言います。私もまったく同感です。同感ですが、理由は、もしかしたら違っているかも知れません(たぶん同じだと思う)。私の考えでは、そもそも「罰」という考え自体が NG です。

 

なぜ世間では、「体罰」の是非が、しばしば問題になるのでしょうか? そこには「罰」は容認するけれども、「体罰」は容認できるのか、という線引きが、暗黙のうちに敷かれているように思えます。ですから、わざわざ「体」の字をくっつけて「体罰」と呼んでいるのです。

 

人間社会では、「罪」を犯せば「罰」を受ける、という考え方が当たり前になっています。法治国家はそれが前提となっていて、それゆえ人々は、「罰」を与えるという考えに抵抗がありません。しかし、そもそも「罰」とは何でしょうか? 立場の強い者が、立場の弱い者を、自分の価値観に強制的に従わせる行為です。「罪」を犯したからと言うが、「罪」の定義は多分に恣意的なものです。

 

強者は、自分が正しいと思い込んでいるので、その行為自体にはなんら疑問を持ちません。私は、幼少期に両親から「体罰」を受けました。そのときの両親は、そうすることが正しいことだと信じていたわけです。立場の弱い者が、その時にどんな気持ちになるかなんてことは考えていない。後々、それがどんな傷になるかなんて考えていない。

 

それどころか、世間では、それが教育である、しつけである、愛情である、と豪語する人もたくさんいるのです。

 

ここで、宇宙の法則から言及してみましょう。宇宙の法則では、「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」です。なぜなら、全てが一つだからです。ということは、他者に「罰」を与えることは、自分に「罰」を与えることと同じということです。なぜそんなことをする必要があるのでしょうか? なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?

 

結局、自分を敬っていないのです。人間を敬っていないのです。愛の鞭などと言いながら、本当の愛を知らない。実体は、愛の無智なのです。

 

神は「罰」を与えません。「罪」と「罰」という概念を作ったのは人間です。神とは宇宙の全て。もし、神が「罰」を与えるのだとしたら、自分で自分に「罰」を与えるということになってしまいます。「罪」を犯したのも自分なら、「罰」を与えるのも自分。そんな馬鹿な話はありません。

 

立場の弱い者からすれば、また子どもたちからすれば、真実の愛を注いで欲しいのではないでしょうか? だったらなんで「罰」など与えるのでしょうか? 「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」なんですよ。どうして無条件の愛を注いでやろうとはしないのでしょうか。無条件の愛を注げば、無条件の愛が返って来るというのに‥‥。

 

おそらく桑田真澄さんも、同じように考えておられると思います。

本物とニセモノ

昨日書いた伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』には、実は真贋論争があるのです。この絵の題材と同じ物が2幅あると書きましたが、ある美術史家がプライス・コレクションの方に「これは若冲の作ではない」とケチをつけた。それでプライスさんが怒って、この美術史家が企画する展覧会には自分のコレクションを出さないということにまでなったようです。

 

本物とニセモノ。

本物とは何で、ニセモノとは何か? 私もよく「この人は本物だ」と言ったりしています。その時に、自分はどういう意味で言っているのか?

 

世間で言う「本物」とは、たとえば伊藤若冲作と思われる絵があった時に、それが本当に若冲が描いたものなのか、それとも他の人が描いた「似せもの」なのかを問うていると思います。なぜそれを問題にするかというと、伊藤若冲というブランドがすでに権威になっていて、その権威に対して巨額の値が付くからです。

 

「似せもの」が跋扈することは、この権威の希少性というものを犯すことになり、コレクター市場を掻き乱すことになりかねません。そこで真贋が厳しく問われるわけです。これは人間社会においては、ある意味仕方のないことで、そのため真贋を鑑定するいわゆる目利きという人も存在するのです。そういう人にとっては、真贋の鑑定というのは仕事です。

 

でも私にとっては、そんなことはどうでもよい。と、そう思っています。物事を見る時に、いったい何を見るのか、見ているのかということです。骨董屋でふと見つけた絵が素晴らしいと思い、大枚をはたいてそれを購入した。署名を見るとどうも有名な作者のものらしい。そこで『なんでも鑑定団』に出した。そうしたら「似せもの」と鑑定されちゃった。あちゃー。

 

その瞬間、自分が「素晴らしい」と思った絵は、突如ガラクタに変わってしまうというのでしょうか? おそらく大多数の人はそうなのでしょう。『なんでも鑑定団』で見せる反応を見るとそうですから。でもだとしたら、その人は、何を見ていたのか、ということです。絵を見ていたのでしょうか、それとも権威を見ていたのでしょうか?

 

目の前に飾られている絵という「物」自体には、作者に関する真贋もあるし、権威がたっぷり上乗せされているというものだって確かにあります。けれども、それを見るあなたの見方、感じ方は自由だということ。どのように見ても、感じてもいい。それはあなたのもので、その時点で、絵という「物」からは離れた、あなたの固有の思念なのです。

 

私が「この人は本物だ」と言ったりするのは、相手の真贋を言っているわけではありません。その人の言動や存在感から感じる、自分の思念が「本物」だと思うから「本物」と言っているわけで、相手の権威や肩書きなど、関係ないのです。そんなものはどうだっていい。

 

相手が大会社の社長や有名人だったら媚びへつらうようにし、相手が市井の無名の人であったら尊大な態度を取るのか? (そういう人は多いですけれども)そういう人は、結局、自分がニセモノだということです。自分がニセモノだから、ニセモノしか発見できない。それで、相手の真贋、つまり肩書きや権威の方をつねに気にするのです。

 

よく、アートを見て「さっぱり意味が解らない」という人がおられるのですが(それも反応の一つではありますが)、解るとか解らないというのは本来どうでもよいことで、〈自分が〉何を感じたか、思ったかが、すべてなのです。要は鑑賞者の問題。アートはクイズじゃない。作者の意図を知ることが目的なら、わざわざアートにする必要などないわけですからね。

 

自然を見る。その時と一緒です。自然のどこをどう見て、何を感じるかは、あなたの自由。同じ旅をしても、たっぷり感じる人と、何も感じない人がいる。後者の人は、景色を見ているんだけれども、実は何も見ていないのです。

 

見るということは、結局、自分を見ることなんですね。だから、自分をたっぷり見られる人は、豊かな人です。でもそのためには、人は何よりも自由でなければならないのです。