「人生にとって重要なことほど緊急性が低い」。これは友人から教えられて、「なるほどなぁ」と思わされた言葉です。以前にも紹介したことがあります。
自分は何者なのか? なぜ生まれて来たのか? どこから来てどこへ行くのか? 生きるということはどういうことなのか? 人生に意味はあるのか? どうして人は病気になるのか? 死んだらどうなるのか‥‥?
いま上げた問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?
幸福な人生とはどういうものなのか? 善く生きるとはどういうことなのか? 家族とは何なのか? どうしてこの家族のもとに生まれて来たのか? 自分は結婚をすべきかどうか? 家族を持つことにはどういう意味があるのか?
このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?
社会生活というのは何のためにあるのか? どいう社会が理想社会なのか? その中で自分が生きる意味とは何のか? 仕事は何のためにあるのか? 働くというのはどういうことなのか? 豊かさとは何か? お金は何のためにあるのか?
このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?
どうしたら健康体でいられるのか? どうしたら人間関係を円滑にしていくことができるのか? どうしたら沸き上がる悪感情を滅し、心の中に平安を見出すことができるのか?
このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?
わずか30年前には、このようなことを知りたくて、その糸口を掴みたくて、人々は本を読んでいました。本を読み思索する一週間や、一カ月間や、時には数年間の中に、このような問いを位置づけていました。電車に乗ると、当時は本を読んでいる人の姿をたくさん見かけたものです。
でも、いま首都圏の電車の中で本を読んでいる人は皆無です。9割がたの人は、席に座るなりスマホを取り出しては、モニターに目を釘付けにしています。人生にとって重要なことを考える余暇時間が、たった数分間、数秒間という単位の、こま切れの情報を見ることにすっかり駆逐されてしまったのです。
そのように、一日中忙しくしていて、いったい何を得ているのでしょうか? ほっと息をつく時間を、どうして静かに過ごそうとはしないのでしょうか? 仕事で疲れ、休憩時間でまた疲れることをしている。そして「心を病んでいる」と言う。それでは、「心」が疲れるのは当たり前だとは思いませんか?
一日経ったらみんな忘れてしまうようなガラクタの情報に夢中になって、自分の身をそこに捧げている人々の気持ちというものが、私には解りません。スマホは、きっと現代の宗教なんでしょうねぇ。ものすごい信者数を誇る、巣魔捕教。一度捕まえたら、脱退は決して許さないぞ!
ガラクタであろうが何であろうが、外から来る情報を信じ込んで、内なる思索には全く価値を見出さない。それって、「私は空っぽです」「自分の価値を認めません」と宣言しているということなんですよ。
「空っぽ」のまま一生を生きて、死ぬまで、遂に人生の重要な問いには何一つ答えを見出さない。そんな人が、大量に出現しているんだろうなぁ? ああ、もったいない。