by Rainbow School
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人生にとって重要なこと

「人生にとって重要なことほど緊急性が低い」。これは友人から教えられて、「なるほどなぁ」と思わされた言葉です。以前にも紹介したことがあります。

 

自分は何者なのか? なぜ生まれて来たのか? どこから来てどこへ行くのか? 生きるということはどういうことなのか? 人生に意味はあるのか? どうして人は病気になるのか? 死んだらどうなるのか‥‥?

いま上げた問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?

 

幸福な人生とはどういうものなのか? 善く生きるとはどういうことなのか? 家族とは何なのか? どうしてこの家族のもとに生まれて来たのか? 自分は結婚をすべきかどうか? 家族を持つことにはどういう意味があるのか?

このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?

 

社会生活というのは何のためにあるのか? どいう社会が理想社会なのか? その中で自分が生きる意味とは何のか? 仕事は何のためにあるのか? 働くというのはどういうことなのか? 豊かさとは何か? お金は何のためにあるのか?

このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?

 

どうしたら健康体でいられるのか? どうしたら人間関係を円滑にしていくことができるのか? どうしたら沸き上がる悪感情を滅し、心の中に平安を見出すことができるのか?

このような問いに、あなたは既に答えを見出しているでしょうか?

 

わずか30年前には、このようなことを知りたくて、その糸口を掴みたくて、人々は本を読んでいました。本を読み思索する一週間や、一カ月間や、時には数年間の中に、このような問いを位置づけていました。電車に乗ると、当時は本を読んでいる人の姿をたくさん見かけたものです。

 

でも、いま首都圏の電車の中で本を読んでいる人は皆無です。9割がたの人は、席に座るなりスマホを取り出しては、モニターに目を釘付けにしています。人生にとって重要なことを考える余暇時間が、たった数分間、数秒間という単位の、こま切れの情報を見ることにすっかり駆逐されてしまったのです。

 

そのように、一日中忙しくしていて、いったい何を得ているのでしょうか? ほっと息をつく時間を、どうして静かに過ごそうとはしないのでしょうか? 仕事で疲れ、休憩時間でまた疲れることをしている。そして「心を病んでいる」と言う。それでは、「心」が疲れるのは当たり前だとは思いませんか?

 

一日経ったらみんな忘れてしまうようなガラクタの情報に夢中になって、自分の身をそこに捧げている人々の気持ちというものが、私には解りません。スマホは、きっと現代の宗教なんでしょうねぇ。ものすごい信者数を誇る、巣魔捕教。一度捕まえたら、脱退は決して許さないぞ!

 

ガラクタであろうが何であろうが、外から来る情報を信じ込んで、内なる思索には全く価値を見出さない。それって、「私は空っぽです」「自分の価値を認めません」と宣言しているということなんですよ。

 

「空っぽ」のまま一生を生きて、死ぬまで、遂に人生の重要な問いには何一つ答えを見出さない。そんな人が、大量に出現しているんだろうなぁ? ああ、もったいない。

逆境は、飛躍への扉を開けてくれる

どん底まで落ちなければ、人はなかなか気づけない。自分自身の過去の経験も踏まえて、つくづくそう思います。このことは、一人の人間だけの問題ではなくて、その集合である社会や、国家や、人類全体についても、同様に言えるのかも知れません。

 

逆境にある間は、人はあまりにも苦しくて、時に自分の運命を呪ったりもするのですが、しかし逆境には良い面もあります。それは、光の道への扉を開けてくれるからです。なぜ逆境の時に扉が開くのでしょうか? それは、満ち足りた生活の時には、人は自分の庭から外へ出ようとはなかなか思わないからです。

 

「光の道があるよ」とどんなに言ったところで、「いや結構です。今の生活で満足していますから」という答えが返ってくる。物質的にいま満たされている人には、ほとんどチャンスがないのです。「心貧しき人達は幸いである」と言われるゆえんです。

 

逆境に直面し、どん底に落ちてこそ、人は必死に「光」の射す方向を探し始める。藁をもすがる気持ちで、どこかに脱出の扉が無いだろうかと探し求める。そこで初めて、人は真剣に「光の道」を模索し出すのです。それまでは、自分の「魂」の、真の欲求には気づきもしないのです。

 

ここで大切なのは、逆境に負けないことです。自暴自棄になったり、自分の不始末を誤魔化して逃れようとしたり、「もう終わりだ」と人生を閉じてしまったのでは、何にもならない。せっかくの飛躍への扉も開かれない。チャンスをものにすることは出来ないのです。

 

良いとか悪いとかというのは、この世の基準であって、この世では確かにそれが威力を持つのですが、「魂」の世界では、それをどう体験したかのみが意味を持つのです。ですから、どんな逆境にあっても、それを「魂」の世界から見つめ直すことによって、そこには別の意味が発見できるのです。それこそが「救い」であり、「光の道」への扉なのです。

 

その時、人はジャンプできる。

 

クォンタム・ジャンプ(quantum jump)は、もともとは量子力学の用語ですが、それと同じように、人間にも「人が変わった」と言われるようなジャンプが起きるのです。このことを頭の隅に入れておいてください。そして、もし逆境に陥った場合には、このことを思い出して、決して負けないようにしてください。

変化は避けられない。だから受け入れ、創造する。

この宇宙で、誰の目にも明らかでかつ確かなことは、「万物は常に変化している」ということです。なぜ変化しているのか、その原因については解らなくても、この「無常(常なるものは何も無い)」という現象だけは、誰しもが認めざるを得ません。

 

窓の外縁のところに、いつの間にか、蜜蜂が巣を作っていました。これでは窓を開けることも出来ません。「どうしようか? 切り落としてしまおうか」とも思ったのですが、蜜蜂は受粉の手助けをしているわけだし、そのままにしておこうと思い直しました。

 

翌朝、巣を見てびっくりです。蜜蜂は一匹も見当たりません。見ると、大きなスズメバチが巣を襲って幼虫を引きずり出し、片端からムシャムシャと食べているではありませんか。そして下には、食べこぼしを狙ってコバエがたくさん集まっています。万物の流転とはこんなものかと改めて思いました。

 

さて、「変化」というものをどう捉えるかです。守るもの、守らなければならないものが多い人ほど、「変化」は受け入れ難いものになるでしょう。しかし一方で、「成長」という変化については、大部分の人が歓迎する。「成長」と「衰退」というのは、一つのサイクルとして当然起きることなのに、人間は身勝手ですから、片方だけしか歓迎しないのです。

 

「成長」を望む者は、永遠に「成長」が続けばいいと願い、いったん手にした財産は永遠に守られることを願う。この、「万物流転の法則」の絶対性を無視した、まるで幼児レベルの認識に、未だに人類の大多数が留まっているということが、人間社会の霊的次元がちっとも上がらない元凶なのです。

 

テレビにしろ、インターネットにしろ、「若返り」を謳う広告のなんと多いことでしょうか。法則から言ってあり得ないことを、広告する方も、受け取る方も、共に血眼になって追いかけている。全く馬鹿げていますね。

 

春夏秋冬があって、それで一年のサイクルというものが完成するのです。春を喜ぶのはいいですが、夏が訪れたところで流れをストップさせ、夏が永遠に続くようにと願ってもそうはいきません。そんなことは自明のことです。

 

なぜ、「秋冬」も「成長」なのだとは捉えられないのでしょうか? 自然界のものは全てそれが解っています。「生命」とは何かを解っているのです。ただ人間だけが解らない。物事の本質を知らず、自明であるにも関わらず解ろうとはせず、表層でしか捉えられないのです。

 

変化は避けられない。自分にとって良い変化が起きた時には気にも留めないでしょうが、悪い変化(ただしそれが本当に悪いとは言えない)が起きた時には、「変化は避けられない」ということを、改めて胸に刻んでください。それはただ「変化」なのです。春夏秋冬があることは当たり前なのです。

 

生きている以上、自分にとって悪い事件や事故は起こります。しかし、春夏秋冬のサイクル全てが「成長」に向かっているという、自然界の営みに思いを馳せれば、それらの事件や事故をありのままに受け入れることが出来るでしょう。

 

そしてさらに、自分の身に起こることをただ受け入れるだけの毎日ではなく、自分でハンドリングして春夏秋冬を生きることも出来るのです。自分の「心」の中の庭を、野放しにしないでください。手入れをして、植物を育て、花を咲かせてください。そして秋になったら種を取って、次の春に備えましょう。

 

守ろうとすれば「変化」が怖くなってしまいます。でも、自分で「変化」を創造すれば「変化」は楽しみに変わります。そのようにして、日々の体験を、楽しく生きていきましょう。

自然災害に「悪」のレッテルを貼っているのは人間

台風シーズンになりました。台風やハリケーンや竜巻の威力の巨大化が、近年指摘されています。世界各地で、大きな地震も頻繁に起きています。自然も、地球も、宇宙も、みんな生きているので、暑くなれば冷やそうとしますし、歪みが溜まれば解消しようとします。人間と同じようにホメオスタシス(homeostasis:恒常性)を働かせているのです。

 

ところが、こんな当たり前のことが解らない。予言者は大災害の預言ばかりに心をくだき、人々は不安を募らせながら生活している。そして、ひとたび自然災害が起こると、人間はみな「困った、困った」と言い、ひとによっては「神の怒り」ではないかという人も出てくる始末です。自然を悪者にし、大災害が起きると「神」のせいにするのです。

 

けれども、それ以前に、人間の方がいかに自然を痛めつけて来たのか? あちこちほじくり返しては穴ぼこだらけにし、地球の財産を勝手に横取りし、食料をかすめ取り、自然界にはない化学物質を大量に作っては撒き散らし、気の遠くなるような半減期を持つ放射性物質を産み出しては自然を汚染し、宇宙開発と言っては宇宙をゴミだらけにしている。

 

地球から見ればまったく身勝手もいいところで、思わず「いい加減にしろ!」と言いたくなると思うのです。それなのに未だに、経済成長しなければ幸福にはなれないと言い、エネルギー需要を賄うためには原発が必要と言い、日夜グルメに明け暮れている。「母なる大地」という言い方がありますが、人間は地球という母親に甘え過ぎではないでしょうか?

 

地球は、どんなにそこからものを奪われても、対価を要求したりはしません。いつでもタダで必要なものを供給してくれています。それをいいことに、現代の人間は、感謝もせずに早い者勝ちで奪い尽くしている。この領土は俺のものだ、領海は俺のものだ。だから、そこから取れる資源は全部俺のものだ。ここに入って来る奴らは容赦しないぞ!

 

全くなんという浅ましい兄弟同胞たちでしょうか? 同じ食卓の食べ物を分け合うことすら出来ない。母の深いため息と、嘆きが聞こえて来ませんか?

 

人間がどうしようもなく馬鹿なのは、地球は、自然は、自分たちの生存環境そのものなのに、その生存環境を慈しむどころか、自ら破壊していること。こんな生物は他にはありません。生存環境を破壊すれば、生きられなくなるのは火を見るよりも明らかですから。それなのに、この自殺行為を止めようとはしない。

 

破壊を大声で叫び、率先して行う者に、みんな同調して、気を高ぶらせて着いていく。この愚かさに、いったいいつになったら気がつくのでしょうか?

 

地球は言っていますよ。「私は、何もみんなを恐怖で震え上がらせようとしているわけじゃないんですよ。私はただ自分の役割を果たしているだけ。ただね、みんなに気づいて欲しいんです。生きるというのは、調和の世界の出来事なんだということに。」

無視できない

蒸し蒸しする暑い日々が続いています。ど田舎暮らしで困るのは(人間の立場で勝手に言っていることですが)虫の凄いこと。都会ではお目にかかれない、訳の分らない虫が、昼夜を問わずうじゃうじゃと家の中に入って来ます。何しろスキマだらけのボロ家なもので。

 

地球に存在する生物種では昆虫が最も多いそうですが、さもありなんと思わされます。一度など、夜にトントンと窓を叩く音がしたので何かと思ってみたら、どでかい蛾が光に誘われて、窓を叩いているんですね。仰天しました。でもなぜかゴキブリが全くいない。寒い冬を越せないからでしょうか?

 

虫嫌いの人には、とても田舎暮らしは出来ませんね。玄関を出た途端に蜂と鉢合わせ。川べりを歩くとアブが容赦なく襲って来て、非常に危ない。ということで、虫は無視できない。瞑想をしていると、羽音があっちからもこっちからも聞こえて来て、無私になって無心に至ろうとするのですが、なかなか集中できません。

 

月末は東京に帰るので、そうしたら、久しぶりにゴキブリに遭えるかな?

調和こそ、宇宙の「善」

これまでにも幾度か書いて来たように、「善」と「悪」というのは、万物の双極性における一つの現れであり、両者のレッテル貼りは、人間が作った「観念」なのです。

 

たとえば、「自分の身は自分で守らなければならない。だから、いつ襲って来るか分らない敵に対して、銃を携行するのは当然の権利だ」と主張するアメリカ人。反対に「銃は人殺しの道具であり、それがあるから銃犯罪がなくならないのであって、銃は規制すべきだ」と主張するアメリカ人。この両者は、どちらもそれが「善」であると思っているわけです。

 

ですから、この世における「善・悪」というのは、相対的なもので、一つの「観念」に過ぎないのです。私たちは、体の左手の側を「左」と呼ぼうと、人類の総意として決めているので、今それが「左」になったわけであり、最初にこっちは「右」と言うんだと決めていれば、左側が右側になっていたのです。ただ、左右や東西は、総意が確立されていますが、「善・悪」にはまだ総意がないのです。

 

このように「善・悪」というのは相対的なもので、宇宙はその両方を含んでいます。別の言葉で言えば、昨日書いたように、「神」はその両方を内に抱えているのです。

 

しかし、宇宙には絶対的な法則というものがあります。その第一のものは常に「変化」しているということ。宇宙を構成しているものは、すべてが回転と振動であり、回転するものは振動しますから、結局すべては振動です。他の言葉では、バイブレーション、波長、波動。言っていることはみな同じです。

 

そうしますと、「変化」の過程で、重心がズレます。振り子を想像してください。あるいは波を想像してみてください。左右に振れたり、上下に波打ったりしています。しかし長い眼でみれば、中心へと戻す運動を繰り返しているだけです。結局は「Middle Way(中道)」にバランスされるのです。これが「変化」に伴う第二の法則、「調和」です。

 

これは絶対的なもので、誰も逆らうことはできません。ですから、宇宙には「善」と「悪」が存在するのですが、この法則性に合致した行為、つまり「調和」を目指す物事については理に適っているということになります。そこで、これを地上の「善・悪」とは区別して、宇宙の「善」と呼ぶことにします。

 

地上では、「善・悪」は観念に過ぎず、どちらがどうとは基本的に言えないのですが、それを宇宙の「善」から見た場合には、それぞれの行為が、果たして「調和」の法則に合致しているかどうかを見ることで、判断がつくのです。人間社会では、この宇宙の「善」と、地上の「善・悪」とがゴッチャになっているために、しばしば論争が繰り返されるのです。

 

今の地球では、人口爆発を始めとして、エネルギーの消費量や、マネーの流通量や、資源の消費量や、コンピュータによる情報処理の量やスピード等、あらゆるものが加速度的に増大しています。それらが増大しているのは、それを「善」だと考える人々が今の世界を動かしているからです。けれどもそれに警鐘を鳴らす人もいて、そこに論争が展開されています。

 

しかし、これを宇宙の「善」の尺度から見たらどうなるでしょうか? 何かの加速度的な増大は、振り子を片方にどんどん持ち上げることですから、いつかは「調和」の法則によって、バランスされます。その時に、「調和」を回復させるために、振り子は大きく逆振りされることになります。これが何を意味しているかは、言わなくてもお解りでしょう。

 

永遠の成長、永遠の増大は、「宇宙の法則」から言ってあり得ません。宇宙の真の姿は「調和」、つまり中庸・中道の中にあるのです。けれども、そのあり得ない、永遠の成長や永遠の増大を、社会を指導する政治家や経済界や金融や識者が主張し、その「幻」を信じ込んで、血眼になっているのが、今の人類のレベルなのです。

 

人間、痛い目に遭わなければ気づかない。それは、人類全体にとってもそうなのかも知れません。

神が全智全能なら、どうしてこの世に悪が存在するのか?(2)

「神」とは、宇宙の一切合切である。であるならば、あなたも「神」である。あるいは「神」の一部である。必然的にそういう結論に達します。この結論に、最初のうちは戸惑うかも知れません。これまでの世間の常識や教えられて来たこととは、あまりにも違うからです。それに、こういう疑問も沸くでしょう。自分が「神」ならば、なぜ自分は「全智全能」ではないのか?

 

それはこのような理由によります。あなたは今、肉体を持ってこの世に存在しています。あなたの本質は「魂」にあるとしても、今は、物質世界という限定された低い振動数の中に、自身も物質である肉体を持って生きているのです。それは、高いバイブレーションの世界から見たら、まるで狭い牢獄に閉じ込められたようなものなのです。

 

したがって、今のあなたには「全智全能」を感じることはできません。しかし、この世のセンサーである肉体感覚を滅する努力をすれば、相対的に「魂」が前面に浮上して来て、宇宙とのつながりを回復し、「全智全能」の感覚をある程度は持つことが可能です。その、ほとんど唯一の手段が、いわゆる「瞑想(Meditation)」です。私も、そのようにして宇宙から智恵を得ています。

 

さて、今回のテーマである「神が全智全能なら、どうしてこの世に悪が存在するのか?」という命題に立ち返りましょう。ここで質問をします。あなたの中には、「善」と「悪」が共存してはいないでしょうか? 世の中に「悪」というものが存在するのはなぜか。それは、そもそも人間の中に、「善」と「悪」が共存しているからです。

 

一人の中に「善」と「悪」が共存しているのですから、社会の中に「善」と「悪」が共存するのは当たり前です。そこで思い出してください。あなたという存在は何だったでしょうか? あなたは「神」でした。あるいは「神」の一部でした。ということは‥‥。ほら、「神」の中に「悪」が存在するじゃありませんか。何の矛盾もありません。

 

いいですか? 「全智全能」だからこそ「悪」が存在するんですよ。もし「善」しかないのであれば、それは片端ですから、All ではありません。つまり「全智全能」とは言えません。左の反対側に右があるように、東の反対には西があるように、プラスの対極にマイナスがあるように、二つの極が揃ってこそ全部なのです。

 

「神」は、自らを体験したいがために、自らの実在である「宇宙」を創りました。そのようにして、そこで、あらゆる物事を経験しようとしたのです。ですから、人が「悪」と呼ぶものも、その中に含まれているのです。また、であるからこそ「全智全能」なのです。

 

あなたの中には、「善」と「悪」が同居しています。「善」と「悪」という分類は、万物が双極性を持っていることの一つの現れで、それをどう使うかは、あなたの自由意志に任されています。

 

あなたは「神」の一部であり、「神」が自らを体験するためのいわば手足です。このようにして、「神」は、自身の中に「善」と「悪」を体験しているのです。

 

もし「善」だけしかないとしたら、それを「善」だと認識できるでしょうか? もし「悪」だけしかないとしたら、それを「悪」だと認識できるでしょうか? できません。真っ白な世界では、白は自身を白と認識することができません。隣りに黒があるからこそ、「ああ、こっちは白なんだ」と認識できるのです。

 

以上が、「神が全智全能なら、どうしてこの世に悪が存在するのか?」という問いの答えです。「全智全能」だからこそ、「悪」が存在する。そして、あなたが「善」に生きようと、「悪」に生きようと、それは全くの自由なのです。ただし、宇宙には、絶対的な「宇宙の法則」というものがあります。法則ですから、何事もそれに従って、最後はバランスが調整されます。

 

その作用・反作用を全部ひっくるめて、それがあなたの今世における体験であり、その集合が社会の体験となり、ひいては「神」の体験でもあるのです。(完)

神が全智全能なら、どうしてこの世に悪が存在するのか?(1)

神が全智全能なら、どうしてこの世に悪が存在するのか? これは「神」というものの存在を否定する(あるいはしたい)際の命題として、しばしば投げかけられる質問です。熱心な信仰者も、この質問を浴びせかけられたら、もうグウの音も出ません。全くその通りの基本的な疑問で、私も若い頃には、それが大きな疑問のひとつでした。

 

このブログを熱心に読んで下さっている方は、すでにこの疑問に対する答えを解っていらっしゃるとは思いますが、改めて整理しておきたいと思います。

 

先ず、全智(Omniscience)、全能(Omnipotence)というのは,「神」と一般に呼ばれているものの、性質を表したものです。実は「神」の性質にはもう一つ、遍在(Omnipresence)があります。つまり、全ての「智恵」があり、全ての「能力」を持つものが、「遍(あまね)く」在る。この三位一体性を持つものを「神」と呼ぼう、というわけです。

 

「神」というのは、人間が付けたネーミングで、「それ」自体が、自身を「神」と言ったわけではありません。そもそも名前などないのです。そこで、モーセが「何と呼べばいいのか?」と訊ねた時に、「それ」は、“ I am that I am ” と答えたのです。今日では、「それ」は「一者(One)」、あるいは「全一」などと呼ばれています。

 

しかし「一者」のことを、毎回このように説明するのは回りくどいですので、このブログでも、一般化した「神」という言葉をしばしば使っています。けれども、これには危険な面があり、「神」概念はそれぞれの人の中にすでに多様な形で創られているので、その概念と衝突する、あるいはその概念に置き替えられてしまうという可能性を否定できません。

 

ですから、ここでは先ず、これから私が言う「神」が、一般に言われている「神」とは違うということ。それは「一者」または「全一」のことを言っているのだということをご理解ください。

 

さて、「神」が、全智、全能、かつ遍在のものであるとした時に、当然ながら、その中にはあなたも含まれます。なぜなら、「神」は一切合切「全て」なのですから。そうしますと、必然的に、次の結論が導きだされます。あなたも「神」である。あるいは、「神」の一部である。

 

ここが、西洋の「一神教」の世界が(故意に)誤った点です。「神」を自分とは別個の、外側にいる聖なる存在としてしまった。しかしそれでは、すぐに矛盾が生じてしまいます。「神」が「全て」ではなくなってしまいますから。全智、全能、遍在、という定義を満たしません。

 

ですから、西洋社会では、「遍在」を取ってしまったのです。「神」の性質を「全智全能」だけにして、自分の外側に「神」を置いたのです。そして、東洋の「汎神論」、八百万の神という考え方や、自然神という考え方を、低級で未開で劣ったものと見なしました。今でも、そうした思想に深く汚染された人々が西洋社会にはたくさんいます。

 

結局これが、第二次世界大戦終了までの、欧米の帝国主義による世界支配へと進んだのです。「一つの神」という定義は、一つであるがゆえに、容易に「絶対性」を持ちます。その「一つの神」を信仰している我々だけが、神の恩寵に与(あずか)れる。「一神教」は、信仰する者たちに、そのような選民思想を与えたのです。

 

しかしそうではないということ。また、全智、全能、遍在、であるということは、つまり一切合切であるということは、宇宙の全ての創造物が、一つの創造者によって創られた。しかも、創造者と創造物はイコールであるということを意味しています。これを別の言葉で言いましょう。「神」は、「神」自身を創ったのです。自分自身を体験するために。

 

創造されたものには、必ず創造者がいます。あなたの周囲を見回してください。それが解るはずです。机、その上のノート、ペン、パソコン。みんな誰かが創ったものです。では自然を創ったのは誰でしょうか? 宇宙を創ったのは誰でしょうか? 生命を創ったのは誰でしょうか? それらは勝手に生じたのでしょうか?

 

合理的に考えて、そこにはやはり創造者、つまり「神」が存在したと考えざるを得ません。では「神」は、誰が創造したのでしょうか? もし「神」を創造した別の何かがいたとすれば、創造されたそれは「神」ではなくなってしまいます。なぜなら「神」とは「全て」の筈なのですから。別の存在がいるというのは、矛盾です。

 

ですから、結局、「神」は「神」自身を創ったと結論づけるしかありません。この不思議が、「聖なる知性(Divine Intelligence)」が、全智、全能、遍在、という三位一体の性質を表す根本原因となっているのです。(続く)

博愛の人は、薄情な人のように見える

「博愛」を Wikipedia で引くと、《「博(ひろ)く愛すること」の意であり、「平等愛」のこと》と出ています。しかしこれは、私に言わせると、ちょっと違うんですね。「博く愛する」はその通りですが、「平等愛」というのは、結果としてそうなるということです。「平等愛」を目指して「博愛」を実現しようと思っても、それは無理というもので、下手をすれば偽善に流れてしまいます。

 

そうではなくて、「博愛」の前には、「無条件の愛」が無ければならないのです。「無条件の愛」であるからこそ、それは自然と「博く愛する」ことになり、結果として「平等愛」になるわけです。

 

ところが、一般に「愛」と言った場合には、それは「情愛」のことを差しています。「私だけを愛して欲しい」「あなただけを愛する」という具合に、それは限定的で、しかも「条件付き愛」(私がこうして上げるから、あなたはこう返してくれ)である場合が、大半なのです。

 

これは悪いことではありません。動物を見ても、親子愛、家族愛というのは、そこから出発しています。ペンギンやアホウドリなど、群れを作って繁殖する鳥がいますが、あれほど大きなコロニーを作っていても、餌を取りに行った親鳥は、ちゃんと我が子を見つけます。人間から見たら、全部同じに見えてしまうのに、凄い能力です。

 

ですから「情愛」というのは、繁殖と生き残りのためには必要なものです。けれども、この「情愛」を拡大していって、周囲の人々を平等に愛せば「博愛」になるかというと、それは無理なんです。「情愛」というのは、そもそも限定的なものですから、これを拡大して「博愛」を目指そうとすると、矛盾から葛藤が生じてしまいます。結果として、それは偽善的になる。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、いつも言っているようにジャンプが必要になるのです。「無条件の愛」の人に、変身しなければならないのです。ある意味、それは「情愛」を捨てて行くということでもあります。

 

楽しみにしていた韓国ドラマの『ホジュン』が終わってしまい、ちと寂しいのですが、この『ホジュン』は、イ・ビョンフン監督の作品の中でも最高のものだと思います。だからこそ、その後2回もリメイクされているのでしょう。

 

『ホジュン』では、他のイ・ビョンフン作品にはある復讐譚といった要素がなく、徹底した「博愛」と、それに対する「迫害」というものが描かれています。連続ドラマを引っ張って行く主軸を、復讐劇ではなくて、「博愛」と「迫害」という対比に据えているんですね。そこが、『チャングムの誓い』『トンイ』『イサン』『馬医』『商道』などとは違う。

 

『ホジュン』の主人公であるホ・ジュンと、その医術の師であるユ・ウィテは、共に医療を通じて「博愛」を目指しているのですが、これが周囲の人たちからは殆ど理解されません。ユ・ウィテは妻や息子からは薄情な親と思われて軽蔑され、ホ・ジュンもまた、息子からは家族のことを考えない薄情な親と思われ、非難されています。

 

宮廷の両班たちは、ホ・ジュンの才能の妬み、「博愛」が理解できずに、「裏に何か策略があるのではないか」と邪推して、ホ・ジュンを引き摺り落とそうとしたり、逆に利用しようとしたりします。ホ・ジュンの評判を聞いて押し寄せる患者たちに至っては、ただ己の病気を治して貰いたいだけで、「治せなければ罪を償って貰うぞ」と脅す始末です。

 

これらの「分からず屋」の迫害にひたすら耐えながら、ホ・ジュンは「博愛」の人であり続けようとするんですね。ここに、迫害・弾圧というものが起きる典型的な要因が示されています。要は、人は自分の眼鏡でしかものを見られない、ということです。

 

ジャンプしていない者にジャンプした者は理解できない。まさに「準備ができた者だけに、それは与えられる」と言われる通りです。普通の人には、「博愛」と「偽善」の区別すらつきません。むしろ「偽善」の方が、ストレートで解りやすい分、好まれるのです。

 

ですから、「博愛」の人というのは、「分からず屋」さんたちから見れば「薄情」に見えます。〈自分だけを愛して〉はくれないからです。もっとすると「無情」にすら思える。そこで、蔑み、小馬鹿にし、罵声を浴びせる。「博愛」であり続けようとする人は、それでもなお、そういう人たちにも「無条件の愛」を降り注いでいかなければならないのです。

 

でもね、「神」の愛というものを考えてみてくださいよ。それが、〈あなただけ〉を愛するものなのでしょうか?

 

あなたには、これまで生きて来て、「神も仏もあるものか!」と思った瞬間が、一度ならずなかったでしょうか? 一生懸命お頼みしたのに、呼びかけにちっとも応えてくれないじゃないか。なんて「薄情」なんだ。「無情」な奴なんだ。どうして苦しみばかり自分に与えるんだ。神様のバカヤロウ!

 

そう、罵声を浴びせたことがなかったでしょうか? 同じじゃありませんか。それが「博愛」、つまり「無条件の愛」の発露ということなんですよ。

「炎上」のそばには近づかないようにね

「炎上」というのは炎が燃え上がることですが、インターネット用語としてこれが使われ「サイト管理者の想定を大幅に超えて、非難や批判、誹謗、中傷などのコメントやトラックバックが殺到すること」に用いられています。別の言い方で、「祭り」ということもあるようです。どっちにしても、あんまりいいネーミングじゃないですねぇ。

 

専門用語というものは、どんなものにしろ、知っている者しか知らない、ある種の閉鎖性(それが仲間意識や優越感を抱かせたりもする)を持つものですが、その囲い込みの方向が、ネットの世界ではみんな汚いというか、ちょっとヒネくれた方向に流れて行きます。「炎上」とか「祭り」とか「フルボッコ」とか「ワロた」とか、ネットで飛び交うこういう言葉づかいのセンスは、私は大嫌いです。

 

「炎上」行為に参加する人は、それが楽しくてやっているんでしょうけれど、本人が全く気づいていない、実はもの凄い悪影響があるんですよ。それは「炎上」させている相手に対して、ということだけじゃありません。やっている人が、自分自身に対して、一つの牢獄に押し込めた上で、自傷行為を行っているんです。その恐ろしさを知らないんですね。

 

自分とは考え方がちょっと違うからと言って、匿名性をいいことに、特定の人に、なぜそれほどまでに悪罵を投げつけたりするのでしょうか? そこには、自分を誇示したい、勝ち誇りたい、やっつけてやりたい、自分の下にひれ伏させてやりたい、という単純で未熟な欲望が火を噴いていて、そういう人たちは、その感情をコントロールできないのです。

 

しかもその発端は、ちょっとした考え方の違いや、誤解・曲解から生じている。要するに、自分自身の「観念」と衝突したと感じた瞬間に反応している。これは何を意味しているでしょうか? 自分の「観念」にすっかり嵌っていて、なおかつ感情をコントロールできないのです。そして、縁もゆかりもない人に、憎悪を燃やしてネット上でこき下ろす。

 

こうした感情が、「炎上」のたびに集合意識となって膨れ上がり、その思念の塊がパワーを持って、同類の人をまた惹きつけるのです。

この状況は、何かに似ているとはお思いになりませんか?

 

ピン!と来た人は凄い。そう、幽霊ですよ。地獄をさまよい歩く不成仏霊です。「観念」の虜になって、自分ではそれに全く気づかずに、ただ憎悪をぶつける相手を探し、目をキョロキョロさせながらさまよっている。まるでそっくりじゃありませんか。

 

死霊と生き霊の違いは、ただ肉体を持っているかどうかということだけです。現代社会では、生きながら不成仏霊になりたい人がうじゃうじゃいるのです。「炎上」が創る空間はまさに地獄で、その地獄を好む生き霊たちが、類は友を呼ぶで集まっては、ゲラゲラと高笑いをして「ああ楽しい、愉快だ」と言っている。

 

これが、その人の「魂」にとって、どれほど有害なことであるかは言うまでもありません。無智とは、本当に恐ろしいものだと思います。