by Rainbow School
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国家主義の台頭

ヨーロッパではいま、各国で極右政党が躍進し、ネオナチの活動も活発化しています。アメリカ大統領選でドナルド・トランプが登場して来たのにも、イギリスで労働党議員が殺害されたのにも、背景には「国家主義」の台頭があります。これは、雇用状況の悪化や難民問題の波及などによって、くすぶり続ける民衆の不満が、そうした方向に向かうからです。


過去の歴史をみても、その国の経済状態が悪化すると、必ず「国家主義」的な雰囲気というものが台頭して来ます。ヒトラーの率いたナチはその典型です。日本は現在、OECD(経済協力開発機構)加盟国中、相対的貧困率でメキシコ、トルコ、アメリカに次ぐ第4位。非正規雇用の割合も4割を超え、今や堂々たる貧困大国なのです。

 

安倍総理はそのことを認めようとはしませんが、格差は確実に広がっており、その大衆不満の一部は、人々を「国家主義」へと向かわせているのです。どうしてそういうことが起きるかと言うと、個人的な感情の苛立ちが、そのまま国家間の関係にスライドし、単純に置き替えられてしまうからなのです。


自分がいま経済的な問題やその他で痛めつけられている。どうにもイライラするし腹立たしい。ちょっと考えれば、その原因は今の政治にあるわけなのですが、構図が単純ではないために不満をぶつける矛先が判らない。ところが国際間の軋轢は、敵と味方に単純化しやすいので、自国にシンパシーを寄せ、他国をやっつけてやりたいと思うようになるのです。


政治は、この人間感情の動きを巧みに利用します。「国内に問題があった場合には、外敵を強調しろ」というのは鉄則で、日本では、北朝鮮、中国、韓国、ロシアがいつもそのターゲットにされる。これは政府の意向を借りたマスコミが、意図的に煽っているもので、その背後には、ジャパン・ハンドラーズ(日本を操るアメリカ人)の存在があります。


「国家主義」的な勇ましい発言をする者は、そこに自分の感情を仮託しているので、言うことで多少スカッとする、溜飲が下がる、という面があるのですが、不満をぶつける相手を間違えているのです。自分がまんまと利用されていることに気づいておらず、単純な感情的反応を、単純な「国家主義」的な図式に置き替えているだけなのです。


しかし、これまでにも何度も書いて来ましたが、マスコミが伝える国際報道などは嘘八百で、国際政治には必ず裏がある。その裏にはさらに裏がある。そして裏の裏には奥がある。その奥には奥の奥がある。といったふうで、とてもじゃないですが、そんな単純な図式では本当のことは理解できないのです。


ですから、「国家主義」に目覚めた方には、そこに、自分が優位に立ちたい、他者をやっつけてやりたいという感情が乗っかってはいないかを、できればチェックしていただきたいのです。


そもそも「国家」とは何でしょうか? それは単なる概念です。「国家」というものが、何か見える形でどこかにあるわけではないのです。日本は島国で単一民族ですから、「国家」と言ったときに、ある種の同一のアイデンティティ・イメージを持ちやすいことは確かです。


しかしそれが、そのまま世界の常識というわけではありません。ヨーロッパでは国境線はしょっちゅう変わって来ましたし、中東諸国などは、第一次世界大戦の最中に、オスマン帝国の分割をめぐって、イギリス、フランス、ロシアが秘密裡に協定を結び、勝手に国境を線引きしたものです。つまり「国家」など、極めてあやふやな概念に過ぎないのです。


しかし、外国旅行をするためには、現状「国家」が発行したパスポートが必要です。ですから「国家」を完全に無視することは出来ません。けれども「国家」をあまりにも強調する者には、それなりの意図があるということに注意していただきたいのです。それによって、利用されるのはいつの時代も一般の民衆なのです。それは太平洋戦争で、既に充分体験して来たはずではないでしょうか?


対立が行き着く果ては「戦争」なんですよ。ですから、そのことをよく考えて、単純な「国家主義」ではなく、世界から愛される日本人、世界から尊敬される日本人、世界のお手本になれる日本人、そのようなアイデンティティを持つにはどうしたらいいかを、未来に考えていってはどうでしょうか?

運命は変えられる

人生は選択の連続です。瞬間々々で、私たちはつねに何らかの選択をしています。その数限りなくある選択をつないだ軌跡が、結果的にその人の一生となるのです。この動かしがたい事実を、いったいどれだけの人が、意識しながらいつも過ごしているでしょうか?


一生に比べたら、目の前の一瞬など、別に取るに足らないものに思えるかも知れません。でも因果律はそうじゃないということを明確に示しています。瞬間の連続が一生を左右してしまうのです。ですから、これを意識する・しないでは、生き方が大きく変わって来ます。それを「意識して生きるように」という教えが、昔から言われている “Be here now” なのです。


なぜ意識的に生きることが大切なのでしょうか? それは、選択する際には、たとえサイコロで決めるにしても、そこに必ず理由というものがあるからです。何かの信念に則って決める人、好き嫌いで決める人、直感で決める人、損得で決める人、誰かの指示に従うことで決める人、最初から何もしないと決めている人、など理由は様々です。


しかしこうやって様々なタイプを挙げてみますと、その人の「性格」というものが、選択行動をパターン化してしまう可能性が非常に強いということがお解りでしょう。多くの人は「人の性格は変えられない」と思っています。すると、選択行動のパターンも変わらず、運命も変わらない、という結論に至ってしまいます。がしかし、これは間違いです。


性格は変わるし、変えられます。ただ、それを意識することによって。例えば、今まで「損得」で決めていたことを、今日からは「この行動は、無条件の愛と共鳴するか」という指針に照らして決めようと決意する。そして実際にそのように選択行動を改める。このようにして、行動を改めてゆくだけで、性格も変えて行くことが出来るのです。


よく、「あれ以来、人が変わった」と言われる人のことを耳にしませんか? 身の上に起きた重大事件を契機に、性格が一変してしまったという人はたくさんいます。仏様のように温厚になったと言われる人がいるかと思えば、中には廃人同然になってしまう人もいる。いずれにせよ、大事件を契機に選択行動のパターンが変わる。それを、「意識することによって」人為的に生み出せばよいのです。


そして、選択行動のパターンが変われば、そこから描く道が変わり、運命も変わるのです。運命というものは、あらかじめ決まっていて、そこに導かれて行くということではありません。そのように思うのは錯覚で、自分の悪い面の「性格」を改善しようと努力しない人が、同じ選択行動パターンが生む結果に自ずと嵌っていく、それがそのように見えるだけなのです。


選択を変えれば行く道が変わる。これは当然のことです。ですから、運命は変えられます。運命とは、あらかじめ在るものではなく、自分が描き出すものなのです。問題は「どういう運命を描きたいか」という意思。蒔いた種は自分が刈る。収穫は全部あなたのものになるのです。さて、どんな種を蒔くのか? それは、あなたの自由意思に任されているのです。

準備が出来た者にだけ、与えられるということ

生きる目的は何なのだろうか? 幸福とはなんだろうか? そもそも人生に意味があるのだろうか? 生命とは何なのだろうか? 死んだらどうなってしまうのだろうか? 存在とは何だろうか? 宇宙とは何だろうか?


果てしなく、これまで繰り返されて来た問い。その問いに、真剣に向き合おうとした時、人は、人知を超えたスピリチュアルな世界に足を踏み入れます。その答えを求めて、ある人は哲学に、ある人は宗教に、ある人は聖書や仏典に、ある人は大自然に、ある人は科学に、ある人はマスターに、ある人は霊能者に、ある人は秘教・秘儀に向かう。


私も、それらを経て、今があります。そして今に至って解ったことは、すべてが既に明らかにされているということ。秘教・秘儀など、どこにもなかったということです。ただし、人間の理解の現界がある。それと、真に価値ある情報に、なかなか辿り着けない。


「準備が出来た者にだけ与えられる」というのは、別に差別ではなく、受信能力と理解能力の問題なのです。眼の前に大切な情報があっても、受信能力がなければ素通りしてしまいますし、たとえ受信しても理解能力がなければ、間違った解釈をしてしまいます。この受信能力と理解能力の両方が揃って、初めて「与えられていた」ことに気づくのです。


その能力を磨く力となるものは、素直さ、捨てること、そして無条件の愛に目覚めることの三つです。エクササイズや瞑想や霊的学習も重要ですが、ここに掲げた三つの要素、それなしには「真理」に到達することはできません。なぜなら、これらの要素は、あなたに掛けられていた蓋を取るということだからです。自分をどんなに鍛えても、蓋がある限りは、つながれないのです。


素直さ
捨てること
無条件の愛


書けば、どれも簡単なことなのに、人間はこの簡単なことが出来ません。
素直であろうとせずにこだわりを持つ。信念を持つ。偏見を持つ。
捨てることが出来ずに、いつまでも抱える。溜め込む。
無条件の愛ではなく、条件付きの愛ばかり求める。


その結果、なくてもいい悩み、しなくてもいい苦労を、自分でつくっています。そうやって、その分、準備がどんどん遅くなる。


素直さ、捨てること、無条件の愛。この三つに、あなたは賛同しますか? 賛同した方は、今日から、それをご自分の中に意識づけてください。来るべき「準備」のその日のために。

現代に「商道」はあるのか?

イ・ビョンフン監督の韓国歴史ドラマが好きで、楽しみに観ています。特段、韓流ドラマのファンというわけではないので、放送日をチェックしたりはしないし、内容に関しても詳しくありません。でも再放送を、どこかしらの局でしょっちゅうやっているんですよね。

 

チャンネルを切り替えた際にたまたま目にして、「うっ、これは?」と思ってその後、観続けるというパターン。ですから、ぜ〜んぶ、最初の数話を見逃しているの。(ノ_・。) なぜ、イ・ビョンフン監督のドラマにだけ惹かれるかというと、主人公の生き方の中に、「理想社会の実現」という意思が同時に込められているから。


韓流ドラマといえば、裏切りとか、策略とか、恨み、妬み、怒りという人間が持つネガティブな感情と、恋物語を、これでもかとてんこ盛りにして引っ張って行くというのがお決まり。ですが、そういう部分には、もう私は興味がないのです。


イ・ビョンフン監督のドラマにも、そういうドラマを引っ張っていく要素はたっぷり散りばめられてはいますが、それを超える「理想社会の実現」という意思が、全体に貫かれていることが、他のものとはちょっと違うなと思っています。


さて、いま観ている「商道(サンド)」は、イ・ビョンフン監督作品の中では視聴率がよくなく、ご本人が失敗に終わったと仰っておられるのですが、やっぱり「華がないかなぁ」と感じます。登場する女性陣に魅力的なところがなくて、恋物語がなにかとってつけたよう。ですからその部分に来ると、盛り上がるどころかガクンと下がるんです。


まあ批評はともかく、このドラマでは、後に湾商というグループを率いることになる主人公、イム・サンオクの「商道」に対する考え方と、対立する松商グループのパク・チュミョン、チョン・チスの「商道」に対する考え方の違いがドラマを運ぶ基軸になっています。


サンオクは師であるホン・ドクチュから、「商いは人なり」ということを教えられます。人の役に立ち、人を活かし、人を育てることこそが「商道」なのだという考え方です。その下では、商取引というものは、それらを動かす血管経路で、お金はそこを流れる血液のようなものなんですね。つまり、商売は手段に過ぎない、でも無くてはならないものという考え方です。


一方、松商グループのパク・チュミョンやチョン・チスの考え方はまるで違う。目標は韓国全土の制覇にあって、商売を大きくしていくことにしか関心がない。ですから商売敵に勝ってのし上がるためにはなんだってする。あらゆる謀略を企て、政治家へは賄賂を渡し、他人の財産を乗っ取り、そして必要とあれば殺人まで行う。


この松商グループの人たちにとっては、商売のプラン、今の言葉で言えば「マーケティング戦略」というものは、つねに謀略を練ることなんですね。ですから、いつもセカセカと慌ただしくしている。一方のサンオクの方も常に機を見る戦略を立ててはいて、時には松商グループの謀略を跳ね返す成果を見せるのですが、ほとんどは痛めつけられるといった苦悩の連続です。


両者は、戦略を立てるということでは同じように見え、その駆け引きがストーリーを引っ張っていくのですが、同じように見えて実は全然違う。何が違うかというと、意思決定の際の基準となるものです。サンオクには「商即人」という哲学がありますから、迷った時にはこれに照らして決定していく。そうすると、明らかに損失を出すという場面でも、決断に悔いがないのです。


これが、謀略を主体に考えているチュミョンやチスには理解できません。自分たちの思考パターンを超えているから。そのため、サンオクの行動の裏には、自分たちが窺い知らない謀略がきっとあるに違いないと考え、その対応を練って右往左往する。その結果、墓穴を掘って自滅していくのです。発想や思考方法が、自分のパターンから一歩も出られないんですね。


結局ここが、このドラマの肝だと思うのです。私も、迷った時には「この行動は、無条件の愛と共鳴するだろうか?」と考えてください、と前に書きました。それは、目の前の損得を超えた普遍的な指針なんです。でもそれに疑いを持つ人は、そのような行動は、決して取れない。


ひるがえって今の経済界で、「商即人」という考えをもった経営者が、果たしてどれだけいるでしょうか? 経済がグローバル化し、多国籍企業が世界を席巻するようになって、他者に先んじてもっと大きくもっと儲ける、他を蹴散らして市場を独占する、という松商グループと同じ考え方が際限なく広がっています。


その過程で、人がないがしろにされ、もはや財産を奪う対象としか見なされず、労働者は使い捨てにされている。いったいこれは、誰のためのものなのでしょうか? わずか1パーセントの者たちのために人々が奴隷にされているのです。

 

癌は宿主を殺してしまったら、それ以上は生きられません。そのことを、現代の経済人は果たして知っているのでしょうか? 人間というのは、つくづく馬鹿な生き物だと思います。

気になっている問題を解消したい時に(2)

次に現実的な要素を含む問題の場合ですが、これは「観念」だけの問題とは違って、自分の意識を転換することのみでは問題を解決することは出来ないのです。この場合、構造的には、「現実的な問題」+「観念の問題」という二重構造になっていることに注目してください。つまり、自分にとって何か都合の悪いことがいま起きている。そのことを自分が思い悩む、という二重の構造です。


このときの思い悩んでいる状態は、何かの都合の悪い問題に起因しています。ということで両者の間には因果律が成立しますから、元の問題が解決すれば、自動的に思い悩んでいる状態も解消されるのです。ですから、現実的な問題は現実的に対処する、適切に手を打つ、ということが大事なのです。


ところが、問題に向き合おうとした時には、一時的に負荷が掛かるために、それが嫌で多くの人は向き合うことを避けてしまいます。その結果、問題がますます深くなる、悩みがいつまでも続く、ということになりがちなのです。ですからそこは、勇気をもって前に進むことが大切です。問題を解決しようと思わずに、新しい経験にチャレンジする気持ちになると、自分を前に押し出すことが出来ます。


さて、この「現実的な問題」+「観念の問題」という二重構造ですが、それぞれの事案によって、両者の割合がみな異なるのです。「現実的な問題」が70%で「観念の問題」が30%とか、「現実的な問題」が10%で「観念の問題」が90%といった具合にです。そして多くの場合、人は「現実的な問題」よりも「観念の問題」の方を、雪だるまのように膨らませてしまう傾向があるのです。


たとえば、会社で人員削減の発表があったとします。もしかしたら自分がその対象になってしまうかも知れない。年齢的に言ってたぶんそうなるだろう。いやそうに違いない。どうしよう。そうなったら、家族になんて言えばいいんだろうか? 家のローンもまだ残っているし‥‥。家を空け渡すしかないのか? そうなったらホームレスだ。この先どうやって生きていけばいい? もう死ぬしかない!


とまあ、極端な「観念」に進む場合だってあり得ます。なぜそう言えるかというと、私が実際そうだったのです。私の場合は自営だったんですけれども、やっぱり最後は「もう死ぬしかない!」まで行きましたもの。結局、現実的な要素を含む問題の場合も、自分の「観念」の問題が大きく左右しているということです。


さてそうなった場合、以前にも、「思念」が現実を創るという話を何度かしていると思いますが、「現実的な問題」と「観念の問題」との間で、フィードバックが起きてしまうのです。


たとえば、夫婦仲に亀裂が生じるような事件が起きたとしましょう。それで疑心暗鬼に囚われて、このままでは夫婦仲が壊れるんじゃないかと心配ばかりしていると、それが態度にも出て、実際に離婚に向けて現実を動かすということが起こり得るのです。

 

特に、体調不良や病気の場合はてき面です。「体」の調子の悪さが「心」に影響を与え、その「心」の不安定な状態が「体」の調子をさらに悪化させるように働きます。


以上を考えますと、現実的な要素を含む問題の場合には、先ず現実的問題にきちんと向き合うということが大切です。その際、出来るだけ過大視しないように、起きたことのありのままを捉えるのです。事実と、評価や感情を区別するのです。

 

そしてまだ起きていないことについては心配しないことです。たとえば交通事故に遭ったとします。そうしたら交通事故に遭ったということだけを捉える。賠償金はどうだとか、怪我は治るかとか、そんなことは考えない。


そして、心の中でこう言ってください。「なんとかなる、なんとかなる、なんとかなる!」言っていれば、実際、なんとかなるものです。

気になっている問題を解消したい時に(1)

ひとから悩み事についての相談を受けた時、また自分自身が悩んでいる時、先ずその問題が現実的な要素を含むものなのか、それとも観念だけの問題なのかを、区別してみることをお勧めしたいです。問題を抱えている当事者は、その渦中に巻き込まれた状態にあるため区別がつかないものですが、両者によって対処法は違って来るのです。


現実的な要素を含む問題とは、人間関係や金銭的なトラブル、病気、仕事に関することなどです。これらは、その問題にきちんと向き合って、現実的な解決策を講じなければ問題は解消されません。一方、観念だけの問題とは、今はもういない肉親への想いや、過去に経験した出来事による傷や恨みをいつまでも持ち続けているといったことです。


先ず後者については、その問題が、もっと言えば問題だと思っていることが、実は自分が作り出している「観念」に過ぎないのだ、ということを認識さえすれば、実にあっさりと解消されてしまうのです。しかしそうは言っても、当人は渦中にいるために、その心境にはなかなか至れません。変な話、解消出来てから初めて「自分の思い込みに過ぎなかったんだ」と気づくような具合です。


これは、よく言われる「手放す」とか「捨てる」ということなのですが、悩みのまさに渦中にいる人に対しては、「手放しなさい」「捨てなさい」といくら正論を言ったところで、聞くものではありません。このような人に対しては、「捨てなさい」と言うのではなくてて、「移す」ようにしてあげるとよいのです。


「移す」とは何かと言いますと、興味対象となるターゲットのことです。「観念」的な問題を抱えた人というのは、その問題に意識が集中して同じ輪の中をグルグルと回っている状態です。このような状態にある人は、とてもじゃないですが聞く耳を持ちません。ですから、他のターゲットに興味を移すように上手に仕向けていくのです。それによって、客観意識の代わりとするわけです。


その際に、ポジティブで楽しいものを対象とするのがコツです。悩みの渦中にある人は、「移す」ことを無意識にやろうとしているのですが、ビデオゲームやインターネットといった波動の低いものに流れてしまい、かえってイライラを増幅させている人が大半です。そうではなくて、波動が上がるものに触れて「楽しんでもいいんだよ」「君だってできるよ」と気づいて貰うことがポイントです。


具体的には、体を動かすものがいいです。軽いランニングとか、体操、太極拳、サイクリング、散歩、自然の中での散策などがお勧めです。体を動かしますと、悩み事へ集中していた意識を自然に雲散させてしまう効果があるのです。こういう人は「瞑想」を行ってはいけません。「瞑想」を、悩み克服の手段に用いようとはなさらないでください。集中が逆効果をもたらしてしまいます。


このようにして、ポジティブで、楽しめる、フィジカルなエクササイズを繰り返していけば、その人の心境にしだいに変化というものが表れてきます。そして、やがて気づく時が来ます。「そうか、自分はどうでもいいことで悩んでいたんだ」「自分で悩みを創っていたんだ」と。そうなるまで、諦めずにエクササイズを続けてください。


次に、現実的な要素を含む問題の場合ですが、これについてはまた明日に。

ミネラルショー

巷では、パワースポットとか、パワーストーンとか、パワーと付くものが大人気のようですね。先日、友人に誘われて、私も久しぶりに「ミネラルショー」に行って来ました。「ミネラル」というのは鉱物のことで、早い話が「石」の展示即売会です。平日だったのにも関わらず、人でいっぱいでした。

 

そう言えば、パワーストーンのブレスレットをしている人をよく見かけますね。オシャレとして楽しむ分にはいいとは思うのですが、神頼みならぬ「パワー頼み」のような使い方をしても、無意味とまでは言いませんが、ちょっと違うんじゃないかなと思います。

 

」については、私も一時期、随分勉強しました。でも今は、それほど強い関心は持っていません。もちろんパワーの強い物や場所というのはあります。神社に行って、御神木といわれるような古い木に近づいて行くと、さすがにグワーッと来ます。でもこういうものは、受信能力が伴ってのものです。

 

空中には様々な電波が飛び交っていますが、たとえばNHKの総合テレビを見たいのなら、テレビ受像機とアンテナがあって、かつその周波数にチャンネルを合わせなければ、その番組は見られないのです。これと同じで、目の前にパワーストーンがあっても、自分のチャンネルを開いて、かつ同調しなければ、パワーにアクセスすることは適わないのです。

 

そのことを理解すれば、パワーのある物を身につけたり側に置いたりすることよりも、先ずご自分の受信能力を磨いた方が、余程いいということがお解りでしょう。なにしろ宇宙エネルギーは無尽蔵で、そこかしこに充満しているわけですから。

重い病気から解放される道には二つある

物事には、必ず原因と結果があります。これを因果律と言います。因果律は絶対的なもので、これを無視した現象というものはありません。病気にも、当然原因があります。しかしこの原因というものは多段階になっていて、「ついに原因を突き止めた!」と思っても、それが別の原因の結果だったりします。さらにその原因すらも、別の原因の結果ということがあり得るのです。


このようにして、因果律というものは果てしなく続くのです。ですから病気の際に、この原因をどこまで遡るかという見解の差によって、対処法も違って来てしまうのです。


現代医療の主流は、これを生体内で起きる化学反応のメカニズムとして考えます。本来こう働くべきはずのものが、そのように正常に機能していない。たとえばインスリンが分泌されていない。だったら、インスリンを人工的に投与すればいいんだ、という考え方です。しかしこの考え方ですと、対処のための「薬」を、際限なく生み出すことになってしまいます。そしてよく知られたように、「薬」は毒にもなるのです。


けれども、この場合の例で言えば、インスリンが分泌されていないというのは、糖尿病の「原因」のようであって、しかしそれも何か別の原因の「結果」なんですね。それはいったい何なのか?


その奥を追究して行くと、病気の大部分の原因は、その人の「心」の問題に行き当たり、さらに奥を追究して行くと、「魂」の状態に行き当たるのです。これを逆から辿ると、「魂」が「心」を創り、「心」が「体」を創っているということがお解りでしょう。


さて、重い病気を患った場合に、その状態から解放される道には、二通りがあります。一つは治るという道です。そしてもう一つは、死を受け入れるという道です。「そんなバカな、死が解放だって?」と思われるでしょう。この両結果は、当事者にしてみれば大問題で、一見180度違うように見えます。しかし霊的に見た場合には、それほど違いはないのです。


先ず「治る」ということですが、「完治する」という結果が生じた場合、当然そこには治癒に至った原因があります。それは、病気をもたらしていた「原因」が、消滅したということです。身近な人をよく観察してみてください。その元を辿れば、結局その人の「心」が変わったということが発見できるはずです。そして「心」が変わったということは、取りも直さず「魂」が変化したということなのです。


他方「死ぬ」ということを考えてみましょう。なぜ死ぬのか? それは肉体を持っている間に、「心」の変化を充分起こせなかった、つまり「魂」の変化が生じなかったということです。それともう一つ、寿命の場合があります。あらかじめ設定した死期に達すれば、たとえ「心」の変化があったとしても「魂」は死を選びます。


けれども、死を受容する道を選んだ場合であっても、「魂」は肉体を離れると、しばらくして霊的感覚を取り戻し、因果律の深い構造を理解します。つまり、自分がなぜその病気を患って葛藤していたかという意味を、丸ごと知るのです。その時、よほどの執着がない限り、ほとんどの「魂」は病気の葛藤状態から解放されます。


この時、遺族は、悔しいとか、残念、無念といった感情を抱きがちですが、「魂」にとっては霊界の方が故郷ですから、死に逝く者にはそういう気持ちは起きません。それにこの移行過程は、呼吸停止と同時に起きるのではなく、「魂」が死期を悟った時期から始まります。これもよく観察していれば、死期を悟った人の「心」が、次第に安定してゆくのが解るはずです。


以上、結局のところ、「治る」道と「死を受け入れる」道とでは、180度違うようでいて、大した違いはないんですね。人間、いずれ死にわけですから。よく、病気に勝つとか負けるといった言い方を、多くの人がされていますが、「勝ち負け」という問題じゃないんですね。ただ後者の場合は、次の転生の時に、もう一度同じ課題を設定する可能性が大きいです。


さて、「重い病気」と言えば、現代社会は、まさに「重い病気」の状態にあります。この状態から人類が解放されるとしたら、やはり同じように二つの道があるということです。さあ、あなたは、どっちの道を選びたいですか? アトランティスで経験したことを、またやってみますか?

世界人類史に共通の遺産が見つかる理由

神殿建築やピラミッド、巨大石像といったものが世界の各地で見つかります。様式は少しずつ異なっていたとしても、そこに共通の「考え方」や「思い」といったものが見られるのはどうしてでしょう? 伊勢神宮にダビデの星(六芒星)がたくさん見られるけれども何かユダヤと関係があるのかとか、五十鈴川はイエズスのことだとか、青森県にキリストの墓があるな〜んて話もあります。


そうした話は一方でロマンを掻き立て、一方ではトンデモ話として揶揄の対象にされたりしてきました。そういう時に、ジャッジメントとして「◯◯学者」の肩書きを持つ人が登場して、あれこれ言ったりしておられます。でもみなさんが、霊界の基本というものを全く知らないで話されているんですね。


これまでにも何度か書いていますが、私が「宇宙」と言った時には、非物質的世界を含めた全体を「宇宙」と言っています。これは最新の宇宙物理学でも確認されているのですが、人間がこれまで「宇宙」と考えて来た既知のものは、実は全体の5パーセント足らずだった。残り95パーセントは未知のもので、どうやら「宇宙」の大部分は、なんだかよく分からないもので構成されているようだ。


これを◎を書いて何度か説明しましたが、我々が住んでいる物質世界というものは、非物質的世界に包含された、極めて限定的な世界なのです。何が限定されているかというとヴァイブレーション、つまり振動数です。大宇宙からみますと、非常に狭くかつ低いヴァイブレーションのみに限定されている。その限定された世界から、広い世界をジャッジするという誤りを、みんな犯してしまうんです。

 

「超常現象」という言葉は、その誤りを端的に表していて、我々が知る世界の常識から外れたもの、というレッテル貼りをしています。しかし実は逆で、我々のいる世界の方が、極めて限定されているという意味において、「宇宙」全体の中では超常的な世界なのです。しかしそれが人間には理解できない。


そこで、伊勢神宮にどうやってユダヤ人が辿り着いたのか? それは陸路か海路か? といったことを考えたり、『竹内文書』では人間が数百年も生きたことになっているが、そんなことは常識的に考えてあり得ない。だから偽物だとか、そういうことをみんな言い出す。でもね、違うんですよ。発想の前提が、最初から間違っているんです。


それはファスナーの掛け違え。ボタンの掛け違えなら「あ、いけない」と途中で気づくこともあるのですが、ファスナーだから、そのままずーーーーっと行っちゃって、間違いに全然気づかない。


ここでハッキリ言っておきます。基本的に「何でもあり」なんです。なぜ「何でもあり」なのかという話は後回しにして、とりあえず冒頭の話に戻りましょう。世界人類史に、共通の遺産が見つかる理由については簡単です。「魂」は輪廻転生しますし、宇宙の知識は一つであって、いつの時代にも、その知識にアクセスして知識や知恵を引き出せる人が、少数ながらいるからです。


ですから、世界に共通した遺産が見られるのです。また風習などに共通したものが見られるのも、たとえばユダヤ教の司祭が日本人に転生したら、と考えてみてください。陸路か、海路か、などと考えなくても伝わるということがお解りでしょう。


それと寿命ということですが、これも、今の我々の発想を当てはめて考えているからおかしな解釈になるのです。以前に『色即是空』について書いたページで、マスターになれば自分の振動数を自在にコントロール出来ると書きましたね。それによって、肉体を出現させたり消滅させたり出来る。つまり、今日我々が言う寿命をコントロール出来るのです。


古代にはそういう人がたくさんいた。それは、その時代には、霊主体従で活動をしていたからです。ですから、今日我々が言うような「生と死」というものは、それほど重要性を持たなかったのです。なぜなら、「魂」が永遠であることを知っていたからです。それに、霊的世界にはそもそも「時間」というものがないのです。


ということも含めて、最終的には「何でもあり」です。なぜかと言えば、「宇宙」の知識というものは、結局のところ全てが「思念」だからです。「思念」エネルギーの塊です。あなたが「事実」だと断定するものは、一体どこにあるのでしょうか? それが確かにあることを、あなたは証明できますか? あるのは、「事実」だと思っているあなたの「思念」だけなのです。


天狗やお狐様はいるのか、いないのか? これは愚問です。いると思えばいる。我思う、ゆえにありです。なぜなら、「宇宙」の知識というものは、結局のところ全てが「思念」だからです。お狐様というのはこういう存在だとみんなが思えば、その「思念」エネルギーが集合してお狐様が出来上がる。そしてその「思念」エネルギーが、実際に力を持つようになるのです。


ですから、これはウソだとか、インチキだとか、トンデモ話だとか言っているのは、非常に次元の低い話であって、大切なのは「真実」は何か、そこにどんな「真理」を見るか、ということなのです。フィクションであろうが、ノンフィクションであろうが、ファンタジーであろうが全く関係ない。

 

そこにあなたが、どんな「真理」を見いだすか。別の言葉で言えば「意味づけ」をするのか。それだけが、あなたにとっての「価値」なのです。

叱られる人と、叱られない人

あなたを叱ってくれる人はいますか? いるという人は幸せです。私にもおります。この世の人ではありませんが、ある日ギョッとするような叱責を受けて、ようやく目が覚めました。そのことで解るのは、叱るというのは一つの表現手段であり、それも愛の発露だということです。なぜなら、その問題に対して真剣でなければ、𠮟れないからです。


でも、年がら年中怒っているような人はどうなのか? 自分のムシャクシャした気持ちを周囲に当たり散らすような人はどうなのか? それも愛の発露なのか? そうではありませんね。それは、立場の違いの威を借りた、単なる威張りでしょう。コーチング技術の未熟さの表れです。ですから、誰かを叱るには、叱る側の人間性や成熟度が問われるのです。


一方、叱る側からしますと、叱る必要のない人、𠮟ることで伸びる人、𠮟ったら潰れてしまう人、𠮟っても仕方のない人、の4タイプがいます。これも、𠮟られる側の人間性、理解度、成長度が問われるのです。叱る側は、相手のタイプを見て接し方を変えなければなりません。でもこれが解らない人には、それがエコひいきに見えるのです。


そうしますと、愛に溢れた師と、成長意欲に溢れた弟子が出会って「𠮟られる」という場面は、非常に稀だということが分かりますね。この人に出会って、自分の運命が変わったと語る人が時々おられますが、そういう縁は、大抵は過去世から引き継いだものです。ですから、そういう𠮟ってくれる師がいる人は幸せなのです。


では、𠮟られない人は不幸せなのでしょうか? そんなことはありません。優れたコーチなら、叱る必要のない人は静かに見守っているでしょうし、𠮟ったら潰れてしまうような人には、先ず自信を持つようにと促してくれるでしょう。


𠮟られることもなければ、見守られもせず、優しい指導も受けられないという人は要注意です。もしかしたら、「𠮟っても仕方のない人」に、自分がいつの間にかなっているかも知れませんよ。反省すべき点がないか、見つめる時です。「𠮟られているうちが華」というのは本当のことです。