by Rainbow School
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日本仏教が誤解して来たもの
日本に伝わった仏教は、ブッダの教えではありません。これは学術的にハッキリしていることです。エッセンスを宿してはいるのですが、今日ではブッダが説いたものとは相当違ったものになっています。ところが未だにほとんどの人が、それを知りません。知らないまま、それがお釈迦様が説いたことだと信じて熱心に勉強しています。

別にそれがブッダの教えでなくてもよいのです。有用でありさえすれば。ブッダの教えであるかないかに拘ることは一種の権威主義であり、ブッダだって2500年前の人です。ブッダ以外にもマスターはたくさんおられますし、「真理」というものは、いついかなる時代、場所にも、普遍的に働いているものだからです。

ところが、ボタンの掛け違えのようにして浸透して来た日本式仏教が、もう役に立たなくなって来ているし、むしろ弊害を起こしているとさえ、最近になって強く思うのです。弊害の一つは、「お寺さん」という言葉が代名詞になっているように、仏教がすっかり、葬式と法事の専門請負人になってしまったことです。

ブッダが考えたことは、あくまでも「生きる」ことであって、その中に、いわゆる「死」の解釈の転換というものも含まれていたわけです。つまり、肉体の「死」は終わりではなく、「魂」は永遠であって、人は輪廻転生するということ。そして、なぜ輪廻転生するかについては、深い意味があるということです。

ところが日本式仏教は、葬式仏教に特化する中で、死を悼むとか、死者の霊を弔うとか、「この世」的な視点に立って「死」を考えるという、一般人が行う解釈に引き戻してしまったのです。そして肝心の輪廻転生を説かない。それは一般人ウケするために、商売としては良かったのかも知れませんが、死後の世界、霊的世界についての知識を、相当に歪めてしまいました。

ビッグバン理論が出てきた現在、素粒子物理学が発展した現在、超ひも理論が出てきた現在、大統一理論の完成が近づいて来ている現在、多くの臨死体験者が死後世界を語り出した現在に、未だに「西方浄土に阿弥陀如来様がいらして‥‥」はないだろうと私は思うのです。そんなファンタジーを、現代の人々が信用するのだろうか? 今の人々は、霊的世界の「真実」を知りたいんだと、私は思うのです。

弊害の二つめは、「生き方の智恵」が歪められてしまったことです。日本式仏教では、人生を先ず「苦」と考える。何より「苦」が前提となっているのです。ですから「苦」を乗り越える、人生の辛さを克服するのが悟りへの道だという解釈をする。これが、相当な廻り道を人々に強いることになったと思います。私自身、40年間の廻り道をしました。

この基になったのは、「四苦八苦」と「カルマ」の理論ですが、「四苦八苦」と「カルマ」の理論は、「生き方」を説いたものではなくて、ブッダが人間観察をした際のレポートだったと私は思うのです。「あなた方が感じている『苦しみ』の大本には、実はこういう原因があるのだよ」と、明快に示した。その上で、「生き方」を説いたと思うのです。

ブッダは、最初はバラモンに着いてヨーガを学んでいましたので、ヨーガの行法は体得していました。その上で、さらに苦行を行い、その後に三昧(サマーディ:深い瞑想)に入りました。ですから、よい行いを心がけること、肉体の健康法、呼吸法、心のコントロール法、瞑想行を指導したと思います。ところが、日本式仏教には、それらが殆どないのです。抜け落ちてしまったのです。

その結果、どういうことになったかと言いますと、「『苦しみ』を乗り越えるのが修行なんだ」という考え方を、「生き方」として推奨するようになってしまいました。ですから、今でも僧侶に「苦行」を課す宗派が多いですし、一般人もその延長として「苦しみに耐えれば、先に何かある」と思い込んでいる人が大勢いるのです。

しかしこの考え方では、「人生は大いに謳歌するものだ」というラテン系のノリの人は、けっして悟りには至れないということになってしまいます。そんな馬鹿なことがあるでしょうか? 「真理」というものは人類に普遍的な筈です。それにブッダは、「六年麻麦の行」をしたあとで、「苦行」を明確に否定しています。「苦行」に成果なし、という結論を出して、瞑想行に切り替えたのです。

ところが、そこが理解されていません。「六年麻麦の行」という前人未到の「苦行」をやったという凄さの方ばかりがクロースアップされて、「それを否定した」という事実と意味はスルーされているのです。その結果、「苦しみを乗り越える」という発想の上に、様々な形而上学的な理屈が幾重にもくっつけられて、それが「仏教」だということにされてしまいました。

でも、そういう考え方はもう要らないのではないでしょうか? 現代という時代に合わないと思います。霊的世界についても、古典や神話ではなく、人々は普遍的な「真実」を知りたいと思うようになっていると私は思いますし、同様に「生き方」についても、古典ではなく、現代にフィットした「真理」を人々は求めていると思います。

『虹の学校』は、そうした人々のお役に立ちたいと考えています。
伊勢志摩サミットに思う
テレビのチャンネルを切り替えている時に、たまたま伊勢志摩サミットで、海をバックに演説する日本の総理大臣の姿を見ました。「最大のテーマは、世界経済」「最も懸念されることは世界経済の収縮」「率先して世界経済の成長に貢献」「アベノミクスを世界で展開」「TPPや日EU・EPAにより、自由で、公正な経済圏を世界に広げていく」‥‥

誰かが作った原稿を、ただ読まされているだけなのでしょうが、話の内容を聞いているうちに気分が悪くなり、私の中に、久しぶりに怒りの感情まで沸き起こって来ました。

この人の、現在の世界の認識というものは、いったい何なのでしょう? 今の人類にとっての喫緊の課題は、世界経済が低迷していることだと言うのでしょうか? そもそも「経済成長」とは何で、それが人類にとってどういう意味を持つのか。「経済成長」というものが永遠に可能なのかどうか。こういった哲学や論理を、この人は持っているのでしょうか?

「経済成長、 経済成長」と言いながら、日本は全く成長しないまま、失われた20年を経過して現在に至ります。毎年、収入の倍の支出の予算を組み、その借金が膨れ上がって1100兆円にもなっている。中小零細企業は業績低迷に喘ぎ、非正規労働者は4割に達し、貧困に陥る世帯が増え、若者は将来に夢を持てず、年金も破綻している。

このような傾向は、日本だけじゃありません。ヨーロッパもアメリカも韓国も似たようなものです。なぜみな同じ苦境に陥っているのかと言えば、今の「世界経済」の仕組みが、民衆のためになっていないからです。加えてヨーロッパでは、難民の問題もある。それこそが、世界の指導者が、真っ先に感じなければいけない「今の世界」の姿ではないでしょうか。

それなのに、「率先して世界経済の成長に貢献」「あらゆる政策を総動員して、アベノミクスのエンジンを、もう一度、最大限にふかしていく」とは、一体どういうことなのでしょうか? 「日本は、引き続き、民衆から搾り上げ、国家破綻するその日まで、巻き上げた金を世界を支配する富者に貢いでいく」と宣言したも同じことです。

そもそも、ロシアと中国を除いたサミットなど、今の世界情勢の中では何の意味もない。G7など過去のものです。ロシアを敵視し、中国を敵視し、BRICsを無視して、いったい何がサミットなのか? 世界支配を目論む闇の勢力に操られたマペット人形たちが、リゾート地に集まって、電話で話せば済むようなことを、敢えて宣言してマスコミを通じて流す。

このような茶番劇が、どこまで続けられると思っているのでしょうか? もう多くの人々が、カラクリに気がつき始めています。

史上最悪の原発事故を起こし、安全神話が崩壊したというのに、それ以降もまだ原発を推進しようとする。沖縄県民があれだけ反対しても米軍基地建設を粛々と進めるのだという。憲法違反だということは明確なのに、自衛隊の海外派兵の道を開く。側近の閣僚が斡旋収賄をした証拠が揃っているのに逮捕もされない。

自由と民主主義を掲げる政党の、いったいどこに自由と民主主義があるのでしょうか? ゴリ押しと、民衆からの搾取と、金権腐敗があるだけではないですか? その腐敗ぶりは、イ・ビョンフン監督の韓国宮廷ドラマに登場する両班(ヤンバン)よりもヒドい!
今さら聖書研究などして何になろうか?
聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。今から2500年前くらいを皮切りに、今日「聖人」と言われる預言者が何人も現れて、それらの「聖人」が語った言葉や行動が、周囲の者たちの手によって記述され、それらの一部が聖書・聖典となりました。

その書物が、2000年の時を経て、多くの人に今も読み継がれて来たのは、ひとえに、それらが組織宗教を支える基本原理として位置づけられて来たからです。過去2500年間は「魚座の時代」。つまり宗教が花開いた時代で、それらの聖書・聖典類は、この時代の要請にぴったりと合ったのです。ここを、取り違えてはいけないのです。

「宇宙の真理」を語った言葉は、それこそ星の数ほどもあります。いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャー(語り手)が居て、たくさんの言葉を語って来ました。その中には、注目されたものもあれば、素通りされてしまったものもあります。歴史の彼方に埋もれてしまい、「秘教」の位置づけに置かれてしまったものもあります。

そして今日でも、世界中にたくさんのメッセンジャーが居て、各々の活動をしているのです。みなさんはそのことを知って、今の自分にぴったりする言葉を、お選びになればそれでいいのです。どんな言葉も、今のあなたに響かなければ、それはあなたへの価値あるメッセージとはなりません。「響いた」言葉、それは元々あなたの中にあったものが、その瞬間に耕されたということなのです。

ここを、間違えないようにしなければなりません。しかし人間は、外に頼り、かつ「権威」に弱い。本当は「価値」というものは、自分が認めなければそれは「価値」ではない筈です。それなのに、大勢が支持するもの、大勢が認めるものを「価値」だと思ってしまう。そしてそれに従う。組織宗教は、その人間心理を巧みに利用し、そこに聖書・聖典類を位置づけたのです。

これが、今日に至り大問題となっています。言わずと知れた宗教対立です。各々が、自分たちが崇める「神」のみが正統だと主張し、「神」の名の下に戦争や殺戮や破壊を行っています。同じ起源を持つ宗教内ですら、派閥争いをするという愚かしさ。これらはみな、自分で思考判断することを停止し、「権威」に盲従するようにしつけられた結果なのです。

しかしここで、考えてみてください。「宇宙」は、昔も今も未来もあるのです。もしそこに「真理」があるとすれば、昔も今も未来も、それがあり続ける筈です。いついかなる時代でも、どんな世界であっても、どんな人にでも、普遍性を持つものだけが「真理」です。特定の時代の、特定の組織の、選ばれた人々にだけ作用するものが「真理」の筈がないではありませんか。

聖書・聖典類に、「宇宙の真理」の一端が表現されていることは確かです。しかし同時に、組織宗教が、自分たちの「権威」づけのために、内容を意図的に改竄(かいざん)したり、解釈をねじ曲げたりした部分もたっぷりと含まれているのです。それを知らないまま、「権威」に頼って盲従的にそれらを信じたら、本来の目的とは違ったところへ運ばれて行ってしまいます。

それと、今とは言葉が違うことや、当時の弾圧の影響下で、暗号によって書かれたものも多いのです。そうなると、その暗号を解きたいと思うのが人の常。しかしそこに「権威」が被さっていると、ある句を、人類の未来に関する重大な予言と解釈してしまう誤りが生じかねません。この悪影響が、もの凄く大きいのです。それこそ、世界を破壊しかねない。

これを読んで下さっているみなさんは、これからは一切の「権威」を無視して、ご自分の思考と判断で、数多あるメッセージを取捨選択し、読んでいただきたいのです。いかに「権威」ある聖書・聖典と言えども、みんな One of them に過ぎないと思っていただきたいのです。実際、そうなのですから。

いかなるメッセージにも、「権威」を与えてはならないのです。なぜなら、あなたにとってもっとも重大なメッセージは、すでにあなたの中に有るのですから‥‥。なにゆえ、外に頼る必要があるでしょうか?

「真理」は普遍的であり、普遍的なもののみが「真理」と言えるのです。ですから、いついかなる時代にも、世界中にメッセンジャーが居て、いつも「真理」の言葉を語っています。今、アセンションの時を迎えて、その内容も一段と濃くなり、多様性も増しています。

今までは暗号のように記述されていたことも、分かり易く示されるようになって来ています。情報革新は何もスマホだけの世界ではないのです。霊的世界でも、情報革新が急激な勢いで進んでいるのです。そのような時代に、何を今さら聖書研究でしょうか?

判じ物(謎解き)のように書かれた古代の書物を研究する時間があったら、今の言葉で書かれたものや、科学や、芸術や、自然に接する方がずっといい。なぜなら、それら全てがメッセージだからです。「権威」を崇める必要もなければ、「権威」に従う必要もありません。あなたは、もっともっと自分を信頼してよいのです。
深刻病
毎日生きていく中で、身の周りに起きるちょっとしたことを、私たちはどれほど「深刻」に考え過ぎているでしょうか? 生きている以上は上手くいかない時があるのは当たり前ですが、何でもかんでも問題視して、ほじくり出すのは考えものです。

上に立つ人の中には、「問題」をほじくり出すのが自分の「仕事」と思っている人も多いです。「何か問題はないか?」と言われて「ありません」と答えると、「その問題のないことが、お前の問題だ」と言われるくらい、いつも「問題」を作り出そうとする。お役所の人たちもそうですねぇ。こういう人に巻き込まれると、ほとほと疲れます。

同じ1時間なら1時間を、「ま、そういうこともあるさ」と気持ちを切り替えて生きるのと、「これは大問題だ、どうしよう?」と深刻に考えて生きるのと、一体どちらがいいでしょう? その1時間の繰り返しが、結局、その人の人生の軌跡になるわけですよ。何でもかんでも問題にし、深刻に捉えてしまう人は、きっと、人生も深刻なまま終えるのだと思います。

そんなに「深刻」にならなければいけない問題が、人生上にどれほどあるというのでしょうか? ちょっとした問題を、「深刻病」に変えているだけなのではないでしょうか? もし何かに思い悩んでいたら、「ひょっとして、これは深刻病ではないだろうか?」と自分にチェックを入れてみてください。

そして、代わりにこう言ってください。「大したことないよね」「ま、なんとかなるさ」「気楽に行こうぜ」「すべては上手くいく!」
他人のことの心配は、相手のためにも、自分のためにもならない
「あの人のことが心配なの」「親には心配かけたくない」というように、日常生活の中で「心配」することは、一般的に愛情表現の一つのようになっています。中には、自分がどれだけ「心配」してるかを、愛情のバロメータだと思っている人もいるくらいです。「私が、こんなにも心配しているのにィ‥‥ 」

「心配」は、元々は、文字通り心を配ってあれこれと世話を焼くことを言いました。それが転じて、何か起きはしないかと気にかけること、気がかり、不安を意味するようになったのです。つまり、現在進行形で使われていた言葉が、未来不安に使われるようになったのです。

でも「心配り」は大いにしてあげるべきですが(現代社会はこれが無さ過ぎ)、未来のことをあれこれ「心配」しても仕方がありません(現代社会は逆にこれが有り過ぎ)。それどころか、マイナスにしか作用しません。他人(ひと)を「心配」することは、相手のためにも、自分のためにもならないのです。

先ず、「未来」というものは「変化」だということです。これを認めなければなりません。「変化」しないものは宇宙にはなに一つ無いのです。「心配」と言った時に、それは「変化」そのものを嫌っているのでしょうか? それとも、自分にとって都合の悪い「変化」を怖れているのでしょうか?

おそらく後者なのでしょう。「変化」そのものを嫌うのは「不安」と言うのかも知れません。いずれにせよ、まだ起きてもいないことについて、自分にとって都合の悪い結果をイメージして(内観して)、それに「心」がとらわれてしまう状態が、「心配」です。

その状態を客観視してみてください。現実にはありもしない「想念」を自分で創り出し、その「想念」に、自分が今度は怖れを抱いているのです。その状態を端から見たら、ずいぶん馬鹿げているとは思いませんか? 子どもが親に面倒臭そうに言う「ンもう、心配しなくていいから〜」は、ですから「馬鹿げてますよ」と忠告しているわけですね。

さて、馬鹿げているだけではありません。「心配」は、マイナスに作用してしまうのです。「心配」で創った「想念」も、一種のエネルギー体ですから、それが現実に影響を与え、実現化する方向へと向かわせます。「心配」が強烈なとき、「心配」がたくさん集まったとき、それらはよりパワーを持って、実現化へと舵を切ります。

思念は時空を超えますから、「心配」の「想念」エネルギーも時空を超えて相手に届き、未来に望み通り(つまり「心配」した通り)のものを実現化させる可能性が高くなるのです。また「心配」する側も、本来不必要であった「心配」によって、自分で自分の心身にダメージを与えることになるのです。

ですから、ひとを「心配」することは、相手のためにも、自分のためにもなりません。それよりも、素晴らしい未来をつねにイメージしている方が、あなたの心身も健康になり、軽やかに、伸びやかに生きられるのです。またそうすれば、あなたの波動が高くなり、周囲に高い波動を集めるようになっていきます。

あなたが「心配」などしなくても、どんな人にもガイドさんがついており、もし危険が迫れば警告や回避手段を与えてくれます。そしてもっと言えば、良いことも悪いことも、みんな良いことなのです。すべてが経験であり、学びなのです。その心境があなたに訪れた時、あなたには「心配」も「不安」も、もう無くなっているはずです。
そんなあなたが誇りです
いま起きている世界の混乱を、ちょっと離れた視点から眺めてみてください。上へ、上へ、もっと上へ。そう、宇宙から青い地球を眺めるのです。すると、まるで蟻のようにうごめいている人間が見えるでしょう? 地上でいま起きている混乱は様々ですが、俯瞰して見れば、結局はみんな人間の未熟さ、欲に支配された「心」が起こしている、ということが解るはずです。

ニュースは、個々の事件を近視眼的に見ていくので、本質的なことを見失ってしまいます。各々の事件には、専門の解説者がおられて、それらの背景を独特の視点で分析してくれます。しかしそれでもまだ、それが本質に迫っているとはとても言えません。最後の最後は、冒頭で示したように、人間の「心」のあり方の問題なのです。

ところが、そう言ってしまうと、個々の事件とはあまりにもかけ離れたノーテンキなことを言っていると思われて、逆に注目されません。みんな素通りして行ってしまうのです。結局、本質に迫ることが出来ない。迫ろうとしないのが今の人間社会だということです。

  大切なものは目に見えないんだよ。
  人間たちは、そういう真実を忘れてしまっているんだ。
           --------- サン=テグジュペリ『星の王子さま』より

でも、「心」のあり方の問題だということが解れば、善なるものと悪なるもの、利他的な愛と利己的な愛、その両者のせめぎ合いにあるということ、そして未だ無智(無明、真理に暗いこと)であることが、いま地球に暮らす人類が置かれた状況、学びの課題だということが解るのではないでしょうか。

このように、いま世界で起きている様々な混乱のニュースを目にした時、そこに注視するのではなく、むしろあなたには、逆に視点を上へ上へと上げて眺めていただきたいのです。そのニュースから離れて、俯瞰して眺めるのです。

そのことで、世間からは遊離した感じがするかも知れません。また世間の人からは、ノーテンキだと言われて、小バカにされるかも知れません。しかし構うことはありません。言いたいやつには言わせておきなさい。彼らは知らないのです。何が大切で、何が本質かということを。

視点を上げるということが何を意味すると思いますか? あなたの体からちょっと離す。それが親子愛、兄弟愛、隣人愛です。もっと離す、地上100メートルくらいに。それが、友愛、博愛の視点です。もっと高く、成層圏くらいに上げてみましょう。それがあなたのガイドさん(守護霊)の視点です。もっともっと離れて銀河系を見渡すくらいになってみましょう。それが高次元の霊的存在の視点です。

ではもっと離して宇宙の果てまで行ってみましょう。そこから眺めるのです。すると全部が見えます。さてこれは誰の視点でしょうか?

そこから、人間たちはどう見えますか? バカだなぁと思いますか。それとも愛おしいでしょうか。姿形はもう見えません。「心」の状態しか見えないでしょう? その「心」に、あなたなら、どんな声を掛けるでしょうか?

ちゃんと見ているわ。あなたがいつも努力していること。それでいいのよ。ありのままのあなたが好き。あきらめないで。すべてうまくいくわ。そんなあなたが誇りです。
「瞑想」は頭をカラッポにすることでも、心を無にすることでもない
霊性開発のいちばんの手段は、何と言っても「瞑想」です。「瞑想」を習慣づける生活をすることで、あなたのチャンネルが開かれ、少しずつ、あなたはご自分が何者であったかを思い出していきます。こころ静かにできるこの体験は、充実した楽しいひと時であり、「瞑想」に親しむことによって、あなたの人生は何倍も豊かになります。

「瞑想」は、あなたが考えているほど難しいものではありません。実はあなたも、日々「瞑想」を行っているのです。それは、我を忘れて何かに集中している時、気持ちよさに心がフワッと浮いた気分になった時、インスピレーションがパッと湧いた時。これらはすべて「瞑想」のバリエーションなのです。

同じことを、これは「瞑想」なんだと意識してやってご覧なさい。その時から、あなたは「瞑想」習慣を自分のものにすることが出来ます。電車の中で、お風呂の中で、公園のベンチに座っている時に、いつでも少し意識するだけで、あなたは「瞑想」の世界に入ることが出来るのです。

「瞑想」習慣がとりわけ重要なのは、あなたがご自分の声に従うことが出来るようになることです。大多数の人は、自分の声に従うなど思いもつきません。そのため、いつも自分の外側にある情報を気にし、これに振り回され、自分自身を見失っているのです。でもそうではないということ。大切なことは全て自分の内側にあり、いつでもあなたはそこにアクセスできるのです。

あなたが友とすべきは、自分自身なのです。

「瞑想」を難しくしてしまったのは、ZENが、屁理屈をこねまわしてしまったからです。頭をカラッポにしなさいとか、心を無にしなさいとか。
これは「空」や「無」という、宇宙の成り立ちに関する概念を、無理やり「心」の状態に敷衍(ふえん)させてしまった結果の、誤解の産物なのです。

もし「瞑想」が、ZENが主張する通りのものであったとしたら、西洋には「瞑想」がないことになってしまいます。しかし実際にはそうではありません。古代エジプトから、もっと遡れば遥か以前から、「瞑想」習慣は、世界共通のものとしてあったのです。

「瞑想」状態に入っている時(ちなみに夢もそうですが)、人は肉体的存在であることを忘れています。その分、自己の本質である「魂」が浮かび上がって来るのですが、「魂」は思念が塊となったエネルギー体ですから、生命を謳歌して活発に活動しています。ですから、頭をカラッポにしようとしても、心を無にしようとしても、どだい無理なのです。

そうではなくて、「魂」の状態を遊ぶのが「瞑想」です。広義でいう「瞑想」は、その深度に応じて、リラックス → 集中 → 変性意識状態(狭義の瞑想)→ サマーディ(三昧)へと進みます。最終段階のサマーディだけは、到達するのがなかなか困難ですが、第三段階の変性意識状態までの移行は、それほど難しいものではありません。

ただし、その日の体調や、周辺環境によっても、意識状態は影響を受けるので、いつもいつも深い「瞑想」状態が得られるとは限りません。それを目標にしますと、未達の焦りが生じてしまいますので、気楽になって身を任せて、その瞬間を楽しむように心掛けてください。ちょっとしたリラックスならリラックス状態を、何かに集中しているのなら集中を楽しめばよいのです。

ZENのもう一つの悪い点は、「瞑想」を苦行にしてしまったことです。足を組んで微動だにしないように保つ。ちょっとでも動くと、パシッ!と警策で叩かれる。これでは、第一段階のリラックスに入ることすら困難です。

足を組む必要もないし、ソファーでもいいし、寝転んででもいいし、とにかく楽に親しんでください。苦行ではなく「楽行」でいいのです。むしろそうすべきなのです。
本当のあなたを発見するために。ぜひ「瞑想」習慣を楽しんでください。
大ドロ、中ドロ、こそドロ
東京都知事が、公金を私的遊興費に使ったとして問題になっています。しかしこのようなことは、それが事実であれば、次には辞めさせるようにすればよいことです。日本のマスコミというのは、そのあと必ず、重箱の隅をほじくるような個人攻撃に移行してゆくのですが、そんなものには付き合わないようにしましょう。無視、無視、無視!です。

メディアがそちら側に向かうのは、一つには、人々の妬(ねた)み、嫉(そね)み、怒りなどのエモーショナルな衝動に訴えかけることで、注目を引き付けたいとの思惑からです。しかしそれに乗ってしまったのでは、次にはあなたが、妬み、嫉み、怒りなどのネガティブな感情を自分の内に燃やすことになってしまいます。元々は、あなたの問題でなかったことなのに‥‥。

その陰で、重要なことがマスキングされて行ってしまいます。これがマスコミの二つめの狙い。公金を私的遊興費に使うような人物が、どうして211万票も得て知事になれたのでしょうか? どうして127人もいる都議会議員が、誰一人その不正を発見して是正するような行動を起こさなかったのでしょうか? 次に有権者が考えなければいけないことは、本当はその点のはずです。

ですから、マスコミに付き合ったのでは、次の「思考」が停止させられてしまいます。このようにして、自分で「考えようとしない」代わりに、つねに「妬み、嫉み、怒り」の感情に埋没するように、戦後の日本人はしつけられてきたのです。なんのために? 民主主義を機能させないために。そして人々を思い通りに操るために。

都知事を辞めさせる仕事は、都議会議員がすればいいのではないですか? そのために給料を貰っているんでしょうから。都民がしていくこと、広く民衆がすべきことは、「仕事をよこせ」「給料を上げろ」「若者に夢を持たせろ」「母子家庭が安心して暮らせるようにしろ」「汚職を許すな」等々、自分たちの声を上げることであって、マスコミの誘導に付き合うことじゃない。

今回の都知事に起きたスキャンダルは、せいぜい「こそドロ」レベルの話です。飲食店で宛名と日付のない領収書を貰うなんてことは、みんなやっていること。こそこそやるから「こそドロ」。そんな「こそドロ」レベルにワーワー言ってる陰で、「中ドロ」は裁かれないんですよ。UR疑惑の人はどうなりましたか? オリンピック利権の人はどうなりましたか?

ドロボウも、「中ドロ」レベルになると、権力の中枢にまで出世できるので、自分たちに都合のいい法律を立案し、警察、検察、マスコミを思い通りに動かせるし、裁判所の人事も操れる。ですから、悪事は全部うやむやにされ、好き放題のことが出来る。これで法治国家だと言うのだし、民主主義だと言っているのですからねぇ。

でも「中ドロ」も、権力を餌に与えられた飼い犬に過ぎず、上には上がいるんですよ。それが「大ドロ」。「大ドロ」になると、もう表には出て来ない。租税回避地(tax haven / offshore)を使い、盗みまくった金を蓄財している。『パナマ文書』で一端が明らかになりましたが、一説によるとその資金総量は、実体経済の3〜4倍にもなるんですって。

すごい世の中になったなぁと思います。大ドロボウほど出世する。出世しようと思ったら、ドロボウの子分になって、そのテクニックを磨かなくちゃならない。「こそドロ」レベルで満足しているようじゃ、肝っ玉が小さい、小さい。せめて「中ドロ」を目指さないと、立派な政治家にはなれないぞ。

同時に有権者の目も大物に向けないとね。「こそドロ」の、こそこそ話なんてどうでもいいじゃないか。それよりも、「中ドロ」「大ドロ」が支配する、この世界の構造を見抜くんだ。
理由のない「幸福」こそ究極の「幸福」
「幸福」への近道は「幸福」だと思うこと。
そう聞いて、怒り出す人がいるかも知れませんね。「人をおちょくるのか?」「ふざけるのもいい加減にしろ!」なんてね。でも「幸福」というのは、条件ではなくて感じ方なんですよ。ですから、自分が今「幸福だ」と思えば、その人は「幸福」なんです。ただそれだけ。

でも多くの人はそれが分からない。私も長い間、分かりませんでした。世の中には「不足」を指摘するものが溢れていて、(特に広告はすべてがそうですが)「足りないぞ、足りないぞ」というメッセージを数限りなく送って来ます。加えて、「何かと比べろ、誰かと比べろ」「それじゃあ負けちゃうぞ、競争に勝て」と、幼いころから耳に叩き込まれてみんな育っています。

ですから「幸福」になるためには、「条件」が必要で、それを満たさない限り「幸福」にはなれない、とみんな思い込んでいるんですね。収入が多くないと「幸福」になれない。いい結婚をしないと「幸福」になれない。家を持たないと「幸福」になれない。子どもを産まないと「幸福」になれない。円満な家庭を作らないと「幸福」になれない。etc.

でも、そういったものは全て相対性の世界の話で、年収200万円だと「不幸」で、400万円だと「幸福」なのか? 年収400万円の人は600万円の人と比べると「幸福」度は落ちるのか? 年収1000万円の人は非常に「幸福」なのか? じゃあ年収1億円という人は、超「幸福」なのか、という話になって来ます。

年収1億円だって「幸福」じゃない、まだまだ足りないと思っている人は大勢います。結婚していても「幸福」じゃないと思っている人、家を持っていても「幸福」じゃないと思っている人、子どもがいても「幸福」じゃないと思っている人、家庭を築いていても「幸福」じゃないと思っている人も大勢いる。結局、「感じ方」なんだということがこれで分かるでしょう。

◯◯◯◯ であれば、自分は「幸福」になれる。

この条件づけこそが、「不幸」の始まりなんですね。なぜなら、その人は、条件が満たされない限り、自分は「幸福」にはなれないと、終始考えることになります。すると、「幸福」とは結局「感じ方」なのですから、その「感じ方」が、いつも不足感、未充足感でいっぱいの日々を送るということになってしまいます。

「幸福」というのは、条件や理由があったらダメなんです。仮にその条件が満たされたとしましょう。その時には、自分は「幸福」だという高揚感があるかも知れません。でもすぐに相対化の海に落ちて、「もっと、もっと」とか、今度は手にしたものを「失う」ことが怖くなる。やっぱり、「不幸」の始まりへと進んでいくんです。

結局、理由のない「幸福」こそが、真の「幸福」なんです。なぜなら、その理由を持つ必要がないわけですからね。だから、いつだって「幸福」だし、その「幸福」が失われることはない。分かりますか?
ですから、「幸福」への近道は、「幸福」だと思うことなんですよ。
個人と世界は相似形

下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。

これは、『エメラルド・タブレット』の碑文に刻まれていたとされる有名な一文です。『エメラルド・タブレット』の成立および内容については諸説があるのですが、この一文の存在については、疑いがないようです。というのは、これが宇宙の構造について述べたものであって、他の言葉でもいろいろと表現されて来ているからです。たとえば、「アルファでありオメガ」「全一」などです。

この一文の「下」とか「上」というのは、霊性密度(次元)のことを表しています。万物は、針の先で刺した時よりも小さな特異点から急激に膨張して、最初に基礎的な陰陽の粒子が出来、それらが組み合わさって複雑なものが出来上がりました。これらは、今日では、インフレーション理論ビッグバン理論仮説として知られています。

本当にその通りであったかは解りませんが、神秘学の方では、古代からその智慧が普遍的なものとしてもたらされていて、これまでにも何度かお伝えして来た通り「△」のシンボルとして表現されているのです。この三角形の、頂点が宇宙の始まりである特異点、底辺が万物が存在する今の宇宙を表しているわけですね。

さて一方で、この「特異点」とは何かという議論が当然出てきます。現代科学では、それは「特異点」としか言いようがないのですが、これも古代から、それは「意思」である、と伝えられているわけです。それが、先ず最初に「言葉」があったという意味なのです。

そして、そこから「光」が生じた。光というのは「振動するエネルギー(Spirit)」を象徴したもので、この振動数が低下することによって、しだいに物質化現象が起こり、超微粒子が誕生し、やがてそれらが組み合わさって、しだいに大きな物質を生み出して行ったのです。

このこと(物質化という過程)は、現代物理学ではまだ証明されていません。しかし電磁波だけを見ますと、電磁波は振動数(別の言葉で言えば波長)が変わるだけで、電波、光、X線、ガンマ線など、様々に性質を変えます。考えてみれば不思議だと思いませんか? 電波と光の違いは振動数だけなんですよ。赤色光と青色光の違いは振動数だけなんですよ。

こうしたことから、「宇宙のすべては光」という言い方もされているわけです。「光」は「振動するエネルギー」の象徴ですし、「振動するエネルギー」は「Spirit(霊)」ですから、結局「宇宙のすべては Spirit(霊)」と言っても同じことなのです。

話を元に戻して、「Spirit」の振動数が低下していくと、物質化が起こり、物質の集合が大きくなると、さらに振動数は低下して行きます。この、物の大きさと振動数との関係に着目したのが、故大橋正雄さんで、その研究成果を『新波動性科学入門』という本に発表されました。物の大きさと振動数との関係を対数グラフにプロットすると、綺麗に一直線に並ぶのです。

この「対数」というところが、実にミソなんですね。「対数」というのは、10倍、100倍、1000倍と増える数で、普通は10のべき乗で表されます。『エメラルド・タブレット』の上下というのは、結局、このことなのです。霊性密度(次元)の上下、ということは振動数の高低、ということは波長の短長、ということは物の大きさの小大です。

*正確には10でなくてもよくて、2の3乗=8といったものも対数なのですが、解りやすくするために。

これが「対数」関係で上下する。「対数」関係で上下するということは、小さいものが大きいものに含まれるということです。一直線上で上下するということじゃない。一直線上で上下したのでは、見える風景が違ってしまいます。「対数」関係で上下すると、ビューポイントが近づいたり離れたりするだけで、見ているものは失われないのです。

大きいものは常に小さいものを含んでいて、小さいものは常に大きいものを宿している。両者は相似形をなしている。それが宇宙の構造だということ。これが、「アルファでありオメガ」や「全一」ということの意味なのです。『エメラルド・タブレット』の一文も、これとまったく同じです。極小のものと極大のものは一緒なんだよ、という意味です。

そこで、こう言えます。あなた(=小宇宙)は、大宇宙と同じなんだよ、ということです。個人と世界は相似形なんだよ、ということです。あらかじめ在る、自分ではどうしようもない、既に決定されている世界の中に、あなたは居ると思っておられるかも知れませんが、そうではありません。あなたが世界を創っているのです。

ですから、あなたは無力ではありません。あなたは、世界を変える力を有しています。もし、自分は無力だと思うと、あなたは自分の周囲に「無力に見える世界」をかたち創ってしまいます。この道理が解りますか? 毎日が退屈でつまらないと思えば、「つまらない世界」を創ります。イライラして闘争的になれば「暴力で明け暮れる世界」を創ります。

今の世界は、今の地球環境は、人々の集合意識の反映だということです。
さて、あなたはどんな「意識」を持って、どんな「世界」を創りたいと思われるでしょうか?