別にそれがブッダの教えでなくてもよいのです。有用でありさえすれば。ブッダの教えであるかないかに拘ることは一種の権威主義であり、ブッダだって2500年前の人です。ブッダ以外にもマスターはたくさんおられますし、「真理」というものは、いついかなる時代、場所にも、普遍的に働いているものだからです。
ところが、ボタンの掛け違えのようにして浸透して来た日本式仏教が、もう役に立たなくなって来ているし、むしろ弊害を起こしているとさえ、最近になって強く思うのです。弊害の一つは、「お寺さん」という言葉が代名詞になっているように、仏教がすっかり、葬式と法事の専門請負人になってしまったことです。
ブッダが考えたことは、あくまでも「生きる」ことであって、その中に、いわゆる「死」の解釈の転換というものも含まれていたわけです。つまり、肉体の「死」は終わりではなく、「魂」は永遠であって、人は輪廻転生するということ。そして、なぜ輪廻転生するかについては、深い意味があるということです。
ところが日本式仏教は、葬式仏教に特化する中で、死を悼むとか、死者の霊を弔うとか、「この世」的な視点に立って「死」を考えるという、一般人が行う解釈に引き戻してしまったのです。そして肝心の輪廻転生を説かない。それは一般人ウケするために、商売としては良かったのかも知れませんが、死後の世界、霊的世界についての知識を、相当に歪めてしまいました。
ビッグバン理論が出てきた現在、素粒子物理学が発展した現在、超ひも理論が出てきた現在、大統一理論の完成が近づいて来ている現在、多くの臨死体験者が死後世界を語り出した現在に、未だに「西方浄土に阿弥陀如来様がいらして‥‥」はないだろうと私は思うのです。そんなファンタジーを、現代の人々が信用するのだろうか? 今の人々は、霊的世界の「真実」を知りたいんだと、私は思うのです。
弊害の二つめは、「生き方の智恵」が歪められてしまったことです。日本式仏教では、人生を先ず「苦」と考える。何より「苦」が前提となっているのです。ですから「苦」を乗り越える、人生の辛さを克服するのが悟りへの道だという解釈をする。これが、相当な廻り道を人々に強いることになったと思います。私自身、40年間の廻り道をしました。
この基になったのは、「四苦八苦」と「カルマ」の理論ですが、「四苦八苦」と「カルマ」の理論は、「生き方」を説いたものではなくて、ブッダが人間観察をした際のレポートだったと私は思うのです。「あなた方が感じている『苦しみ』の大本には、実はこういう原因があるのだよ」と、明快に示した。その上で、「生き方」を説いたと思うのです。
ブッダは、最初はバラモンに着いてヨーガを学んでいましたので、ヨーガの行法は体得していました。その上で、さらに苦行を行い、その後に三昧(サマーディ:深い瞑想)に入りました。ですから、よい行いを心がけること、肉体の健康法、呼吸法、心のコントロール法、瞑想行を指導したと思います。ところが、日本式仏教には、それらが殆どないのです。抜け落ちてしまったのです。
その結果、どういうことになったかと言いますと、「『苦しみ』を乗り越えるのが修行なんだ」という考え方を、「生き方」として推奨するようになってしまいました。ですから、今でも僧侶に「苦行」を課す宗派が多いですし、一般人もその延長として「苦しみに耐えれば、先に何かある」と思い込んでいる人が大勢いるのです。
しかしこの考え方では、「人生は大いに謳歌するものだ」というラテン系のノリの人は、けっして悟りには至れないということになってしまいます。そんな馬鹿なことがあるでしょうか? 「真理」というものは人類に普遍的な筈です。それにブッダは、「六年麻麦の行」をしたあとで、「苦行」を明確に否定しています。「苦行」に成果なし、という結論を出して、瞑想行に切り替えたのです。
ところが、そこが理解されていません。「六年麻麦の行」という前人未到の「苦行」をやったという凄さの方ばかりがクロースアップされて、「それを否定した」という事実と意味はスルーされているのです。その結果、「苦しみを乗り越える」という発想の上に、様々な形而上学的な理屈が幾重にもくっつけられて、それが「仏教」だということにされてしまいました。
でも、そういう考え方はもう要らないのではないでしょうか? 現代という時代に合わないと思います。霊的世界についても、古典や神話ではなく、人々は普遍的な「真実」を知りたいと思うようになっていると私は思いますし、同様に「生き方」についても、古典ではなく、現代にフィットした「真理」を人々は求めていると思います。
『虹の学校』は、そうした人々のお役に立ちたいと考えています。