by Rainbow School
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なぜストライキをしない?
日本の非正規雇用者の割合は4割を超し、今もなお増え続けています。年収200万円以下、貯金も出来ずにカツカツの生活を強いられているという人も多いことでしょう。厚労省は、非正規で働く人の雇用の安定や処遇の改善を図ると言っていますが、まったくもって笑止千万。では、そうなるような政治を今まで推進して来たのは誰なのか? 日本政府じゃありませんか?

政治家、役人というのは、問題を作っては「対策」と称してまた問題を作り出す。そして税金をかすめ取って懐を肥やしていく。その悪知恵に掛けては天才的だ。今やそういう才能を持った人間しか、政治家、役人になれない。何から何までとことん腐り切っている。

この超格差社会の煽りを、もっとも受けているのが若者とシングルマザーではないかと思う。これでは、結婚もできないし、少子化になるのは当たり前ではありませんか? それなのに、これもまた「少子化対策」と称して、特命担当大臣のポストまで作り、実効性のない無意味なスローガンの羅列だけのために税金を使っている。

若者は日本の将来を担うことになるわけだし、シングルマザーはその次の世代の若者を育てていく渦中にあるわけで、どうしてもっと大切に扱わないのだろうと思う。年金だって、次の世代の収入が支える構造になっているわけですから、破綻するのは目に見えている。それなのに、年金運用の失敗で8兆円もの損失を出したというのですから、どうなっているんでしょうねぇ。

もう一つ、私が不思議で仕方がないのは、デモやストライキが起きないこと。欧米では今の政治に対する不満からデモやストが頻発しているというのに、日本にはそれがない。ただじっとして、甘んじて受け入れるといった風潮です。「和の精神」にも全くほどがある、と思います。Cool Japan とか言って、オタク文化に埋没しているだけで本当にいいんでしょうかねぇ。

私は、自分が27歳までフリーター生活を送りましたから、その時の不安感や焦燥感や絶望感がよく解るんです。今とは時代状況が違うので、自分が味わった感覚と、今の若者が同じだと断じるわけにはいきませんが、若者特有の感覚というのは、そんなに違いがないんじゃないかと思うんですよね。

当時は、自分が結婚できるなんて思ってもいませんでした。社会から落ちこぼれたという疎外感と、到達できない理想へのもどかしさが一緒になってしまい、いっそのこと「もう死んでやろう」と思いながら、一袋のそうめんを朝夕に半分ずつ食べて、生きながらえて来ました。おかげで栄養失調になり、眼病になったこともあります。

自分はへなちょこだったけれども、フヌケにはならなかった。いつも怒りを抱えていて、そのエネルギーを燃やして生きてきました。

人生はいつでもやり直せますから、将来がどうのと言うつもりはないのですが、心が折れてしまうことだけが気がかりなのです。理不尽な状況を甘んじて受け入れ続けていますと、心がポッキリ折れてしまいます。そうなると、自己を変身させるエネルギーまでもが失われてしまいます。それはもったいないことですし、何よりあなたの「魂」が喜びません。

あなたには才能があるし、自分を輝かせることが出来るのですから、そこに向かって、とにかく一歩を踏み出すことが何より大切です。後先考えずに、ご自分の直感に従って行動して欲しい。あなたは独りぼっちではなく、あなたにはいついかなる時にも応援してくれる守護霊が付いているのですから、安心して、この世の生を全うしなさい。

怒ったっていいんですよ。反抗したっていいんですよ。若い炎を燃やせ。シングルマザーの苦境を叫べ。そうやって、腐り切った社会を、理想社会に変えていくんだ。
Move! Move! Move! Move!



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一生の宝となる体操
薬局で買い物をしていると、処方箋で来た客が薬剤師と会話をしているのを耳にしました。「この薬を飲んでから、足が攣らなくなった」「とても調子がいいので、もう手放せない」と言うのです。へえ、そんな薬があるのかと、びっくりしました。

私も以前は、しょっちゅうあちこちの筋肉が痙攣を起こしていました。何かを跨ごうとした拍子にズキン!と電気が走って、もう痛いのなんのって。でも、飲み薬でなんとかしようという発想はなかったなぁ。そんなものがあるとは知らなかったし、始終痙攣が起きるのは、身体が硬いからだと思っていました。

もともと身体が弱かったので、なんとか健康になりたいと、いろんなことを試して来ました。アール ミンデルの『ビタミン・バイブル』を読んで、サプリメントに凝った時期もあります。「システム料理学」を提唱されていた丸元淑生さんが推奨されていたんですよね。その丸元淑生さん、あんなに栄養学の本をいっぱい書かれていたけれど、食道がんで亡くなっちゃった。

だからというわけではないのですが、経口摂取する栄養よりも、プラーナのエネルギーの方がよほど重要ということを後になって知り、また実感するに至って、サプリメントを捨てました。捨ててみて、大して意味のないことに一生懸命だったなぁ、と恥ずかしくなりました。「捨てる」とか「手放す」というのは、出来た後から分るものなんですよねぇ。

去年の8月くらいから始めた「自彊術」体操、一日も休まず続いています。「そういえば‥‥」と気がついてみたら、リウマチの関節痛が無くなっているんですよね。手足の痙攣もほとんど起きなくなりました。アトピーは、花粉の時期と重なって眼の周囲はヒドイ状態なのですが、肘、膝などの関節部には出ていません。身体も軟らかくなったし、姿勢も断然よくなりました。

健康体操は、これまでダンベル、八段錦、真っ向法、本山式経絡体操、などに取り組んで来ました。その中で、(あくまで私の場合はということですが)著しい体調の好転を感じたのは「自彊術」が初めてです。特にだるい感じの時に、(いやだけれど)思い切ってやってみるとスッキリしてたちまち回復する。「一生の宝となる体操」というのも、まんざら嘘ではないようです。

6月の毎週土曜日、全4回で「自彊術」体操の講座を企画しました。定員6名です。まだ空きがあるようですので、お近くにお住まいで、ご興味のある方はぜひどうぞ。
あ、私が指導するんじゃないので安心してください。私でも出来た、へなちょこでもOKということだと解釈していただいて。
何事も深刻ぶらない方がいい
メッセージソングとか、チャリティーソングと言われるものがありますが、私はあれが大の苦手です。真剣にやっておられる方も多数いらっしゃるので、大っぴらには言えませんが、聞くたびに背中がゾゾーッとします。有無を言わせない、反論できない雰囲気というものがあるでしょう。ソフィスティケートされたファシズムの香りがする、と言ったら怒られるかな?

以前にも書いたのですが、子どもの時に「幸せなら手をたたこう」が歌えませんでした。どうして「幸せなら手を叩かなくてはいけないのか」が、サッパリ理解できませんでした。でもその場にいる全員が、一緒にそれを歌っている。こっちは(意地でも歌うもんか!)と思って硬い表情をしていると、「あれあれぇ、イマナリ君はお声が出ないのかなぁ」なぁんて言われる。

ああ、思い出しただけでもゾゾーッとする。今でも、なぜ「幸せなら手を叩かなくてはいけないのか」は理解できませんが、アマノジャクな性格は、その時分から変わってないってことですネ。(;´o`)ゞ

ドキュメンタリー番組が好きでよく見るのですが、最近多いのが、誰がどう見ても「不幸」「悲惨」を記録したもの。こういうのは本当に眼のやり場に困る。どん底を描いていて、あとは「感動」するしかないわけだから。私だって、悲惨な現実には胸を痛めているし、憤りも感じます。しかし、そこだけにフォーカスを当てるというのは好きじゃない。

そうじゃないと思うんですよ。どんなに「不幸」な状況であっても「悲惨」であっても、楽しいこともあれば、微笑ましいこともあれば、「なにくそ!」とか「よし、やるぞ」と思う瞬間だってあると思うんですよね。なぜって、その間も、ご飯は食べているし、夜だって眠っているわけでしょう? それが人生の営みだと私は思うんです。

不幸なことばっかり、悲惨なことばっかり、逆にキレイなことばっかり、というのはみんな嘘くさい。ゴチャゴチャしているし、滑稽だし、理不尽だし、いい加減だし、でもどっこい生きているというのが本当の人生だと思うんですよね。

例として適切かどうかは判りませんが、相原コージさんの四コマ漫画にこんなのがありました。場面は宇宙。宇宙飛行士が船外活動をしていた際に命綱が切れ、彼は宇宙空間に放り出されてしまいます。コマの絵は宇宙船からどんどん遠ざかる飛行士を描いて行きます。まさに絶対絶命というシーン。そして四コマ目。「ぷっ」と書いてある。飛行士がおならをしたんですね。

そんなものじゃないかな? というか、そうでなくちゃいけないと思うんですよ。真剣になるのはいいけれど(それは集中だから)、深刻にまでなっちゃいけない。やはり集中を解いて、リラックスする時も、人間には必要ですよ。

面白おかしく暮らすというのは、その人の「心」が面白おかしいからこそ出来ることであって、深刻ぶっていては出来ません。落ち込んでいる時には、とてもそんな気分にはなれないと思うでしょうけれども、人間、不幸な時、悲惨な時こそ、ユーモアや笑いを忘れないようにした方がいい。「心」の状態と、あなたが体験するリアリティは同じなのだから。

形から入るのでもいいから、落ち込んでいる時には「ワッハッハ」と笑ってみるのも手です。そして心の中で呟いてみてください。「ま、こんなもんよね」と。
地上に「善」と「悪」がある理由
もし宇宙に「神」と呼ぶような存在があるとすれば、どうして地上に「善」だけではなく「悪」が存在するのか? おかしいではないか? そう思われたことはありませんか? 私もこれが、長い間の疑問でした。そのことをもって「神」など存在しない、と言う方もきっとおられるでしょう。

昨日は「光」と「影(闇)」の話をしました。光あるところ必ず影があり、影あるところには光がある。これについてはご納得していただけるのではないでしょうか? しかしこれをもって、地上に「善」と「悪」がある理由とするわけにはいきません。「光」と「闇」を、「神」と「魔」に置き替えることが誤りであるように、「善」と「悪」に置き替えることもまた誤りなのです。

先ず「善」と「悪」というのは、主観的な問題に過ぎないということです。何をもって「善」と言い、何をもって「悪」とするかは、人それぞれだということ。現に、国家や民族、宗教によっても「善・悪」の基準は大いに異なります。たとえば、豚肉を食べることはどうなのか? 女性が肌を露出させることはどうなのか? お金を貸して利子を取ることはどうなのか?

同じ民族、国家の中でも、自然やエネルギーや経済に対する考え方は異なります。原発推進は「善」なのか「悪」なのか? 自然を破壊しても経済を優先すべきなのか? そうすることが人類にとっての幸福なのか? ある人にとって、それは「悪」に見えたとしても、ある人にとってはそれは「善」なのです。ですから、「善・悪」で物事をくくることはできません。

いやいや、誰が考えても「悪」というものだってあるはずだ。たとえば「殺人」はどうだ。「殺人」はどう考えたって「悪」だろう。果たしてそうでしょうか? 戦争で「殺人」をすれば賞賛されますよ。場合によっては勲章まで貰える。アメリカの歴代大統領は、「正義の闘いだ」ってみんな言っているじゃありませんか。

重要なのは「善・悪」ではありません。人が生きていくために、それがよいかどうかです。人間は自然環境の中に生きていて、そこからの恵みを得て生命をつないでいます。ですから、そのシステムを自ら破壊することは、「悪」ではなく「愚か」だということです。人を殺せば、恨みを買ったり、報復の連鎖に成りかねないのですから、やはり「愚か」です。

ですから、先ずは「善・悪」が問題なのではないと。しかし「善」と感じたり「悪」と感じたりする心はあるわけで、それが何から発生しているかと言えば、やはり「光」と「影」という双極性から発しているわけです。ここで、あなたの周囲を見回してください。あなたの周囲にあるもので、双極性を表していないものなど、なに一つありません。

昼と夜、東と西、表と裏、SとN、プラスとマイナス、右と左、上と下、オスとメス、交感神経と副交感神経、etc.。原子1個をとっても、原子核と電子があります。素粒子にも右スピンと左スピンがある。凡そありとあらゆるものが、双極性の間に出来上がっているのです。つまり万物は、陰陽の双極性の間に創られている、と言えます。

これを見事にシンボル化したものが、「陰陽太極図(タイチーマーク)」です。これは、宇宙を表しているのですが、宇宙というものは「陰」と「陽」の渦から成り立っていることを表しています。

白と黒の渦の中にも反対色の小さい丸がありますね。これはそれぞれ陽中陰、陰中陽と言って、「陰」と「陽」の中にも、反対の要素が含まれていることを示しています。

この形を、宝石に加工したものが「勾玉」です。またこの形は、受精卵の胚が発生していく際の初期の形態をも表わしています。つまり、生命の誕生ですね。さて、「陰陽太極図」は、別名「陰陽魚」とも呼ばれます。「勾玉」を魚の形に見立てたわけですが、それで何かを思い出しませんか? そうです「双魚宮」のゾディアックシンボルです。

つまり、魚座の時代とは、宇宙の双極性にフォーカスを当てた(当て過ぎた)時代だったのです。双極性自体は決して間違いではないのですが、その元は一つであるということまでは思いが至らなかったのです。そのため、「善」と「悪」の対立、「神」と「魔」の闘いという考えが、作り出されてしまったのです。

さあ、これでもうお解りでしょう。宇宙に「光」と「闇」、つまり「陽」と「陰」がなければ、万物は生じなかったのです。生命も誕生しなかったのです。もし宇宙が「光」だけだったとしたら、「光」は自らを「光」と認識することはできません。「闇」があるからこそ、「光」は「光」として自らを認識できるのです。「闇」もまた同様です。

このことから、我々が住む物質世界は、別名「相対性の世界」と呼ばれています。あらゆるものが相対性の中にあるのです。それは、自らを認識するためなのです。相対性の海の中で、あなたは、ご自分の生き方を自由に選ぶことができます。そして、選んだ結果が、明日のあなたを創るのです。「光」を目指そうとするのも、「闇」を目指そうとするのも、あなたの自由です。

お解りでしょうか? 「善」と「悪」は、あなたの感じ方の一つです。それは相対的なものに過ぎません。そこで身を焦がすよりも、自分が今「相対性の世界」に暮らしているということをしっかり認識して、「さて、どういう成長を図ろうか」と、日々の選択をしていくことがよほど重要だということ。

さてあなたは、どっちの道を行く?
「闇」と「魔」
「闇」はありますが、「魔」というものはありません。「魔」は、人間が作った完全なるフィクションです。「光」が当たらないところには「影」ができますが、全く当たらないとき、そこは「闇」になります。ですから厳密に言えば、「闇」も「在る」のではなく、単に「光」が当たっていない「状態」だと言えます。

では「魔」というものは何でしょう? あなたは「闇」が怖いでしょうか? 仮に毎日生活している家の中が真っ暗だったとしましょう。家具調度品の位置もいつものままです。違うのは、ただ「光」が当たっていないというだけ。さて、怖いですか? もし怖いとすれば、それが「魔」です。

お解りでしょうか? 「魔」は、「闇」を見て、あなたが作り出した観念なのです。

「闇」はありますが、「魔」というものはありません。「魔」は、人間が作った完全なるフィクションです。そして人間は、もう一つの壮大なフィクションを作りました。それが「神」です。「光」の側に、「神」を想像(=創造)したのです。

「光」はありますが、「それ」を「神」と呼ぶかどうかはあなたの自由。しかし、これまでに人間が作ってきた「神」概念は、相当歪んだものであることに注意しなければなりません。

それは、宗教、宗派によって、奉じている「神」が違うということだけを見ても明らかです。もし、万物の創造主を「神」と呼ぶのであれば、それは共通していなければおかしいです。あっちにもこっちにも、違う創造主がいて「我こそが本物である」と主張し合うなんて、「神」さまってそんなにおバカさんなんでしょうか?

しかし人間は、想像力を働かせて、「光」と「闇」を、「神」と「魔」の観念に置き換えてしまいました。そして、「魔」を「神」が打ち倒す、あるいは「神」が「魔」から人々を救うというフィクションを作り上げて、これを信じ込んだのです。こうして、世界各地に組織宗教が出来上がって行きました。

過去2500年くらいは「魚座の時代」でしたので、組織宗教が隆盛を誇りました。魚座は別名「双魚宮」と言い、ゾディアックシンボルは、回転するように並んだ二匹の魚によって表現されています。これは二元性を表したもので、「光」と「闇」、「神」と「魔」の観念をシンボライズしています。

けれども、水瓶座の時代に入った今は、組織宗教の時代が終わりを告げ、いよいよ万人に「真理」が明らかにされる時代になったのです。空っぽだった水瓶に「真理」の水が注がれ、「闇」に「光」が当たり、これまで隠されていた事が次々に明るみに出て来ます。

今はその転換期にあるため、世界は大混乱状態にありますが、大局的見地から言えば、この流れを止めることは誰にも出来ません。しかし、大きな流れはそうなるのですが、2000年に渡る組織宗教の強力な刷り込みと、誰しもが不安や恐怖という感情があるために、「魔」があると信じ込む人がなかなか減らないのです。

しかも、霊感の強い人の中に、「魔」を強調する人が大勢おられるというのは困ったものです。この人たちは、霊感があっても「真理」の法則に関する知識がなく、自己の感覚だけを重視して「闇」を「魔」と取り違えて語るのです。それだけならまだしも、それを周囲の人たちに吹聴してしまう。すると、不安や恐怖心を刺激するので、大衆の耳目を集め、組織を作ることができるというわけです。

ここでハッキリ言っておきますが、不安や恐怖を煽る情報は、霊能者だけでなく、どんな立場の人が言うにせよ、すべてニセモノです。宇宙に不安や恐怖など、本質的にはありません。宇宙にはただ変化と愛だけがある。それを、不安や恐怖と感じるかどうか、「魔」と解釈するかどうかは、その人しだいなのです。

どうして、宇宙に「魔」など、ありましょうか? 仮に「魔」があるとしたら、その「魔」を創ったのは誰なのでしょうか? 「神」でしょうか? だとしたら、「魔」は「神」の一部です。その場合、自分が創った「魔」と「神」が戦うというのでしょうか?

なんのために? なんのために、そんなゲームをしなければならないのでしょうか? もしそうだとしたら、我々はみな、「神」のゲームに使われる駒に過ぎなくなってしまいます。

いやいや、そうではなくて、最初から「神」vs「魔」という二元対立があったのさ、と主張する人がおられるかも知れません。ではどうして、その二つが「最初から」存在することになったのでしょうか? もし対立する二つが、あらかじめ存在したというのであれば、その二つを創った第三者が、別に存在しなけばならなくなってしまいます。

結局のところ、創造主というのは一つです。そうでなければ論理が成り立ちません。創造主は一つなのですから、もし「魔」があるとすると、それは創造主が創ったということになり、最初に仮定した推論に戻ってしまいます。このようにして、論理的に考える限り、「魔」などあり得ないということがお解りいただけるでしょう。

このように「魔」はありません。しかし「闇」があることは確かです。なぜなら「光」があるからです。一人の人間の中にも「光」と「闇」があり、「光」の多い人と「闇」の多い人がいることも確かです。それは「魂」の成長段階が違うのです。宇宙の中には、「闇」のまま進化した「魂」もいて、それらが地上の「闇」を支援していることもまた確かです。

どうして、ニュースでは、ネガティブな報道ばかりを流していると思いますか? どうして、地震やテロや病気や貧困やパンデミックの恐怖を与える情報ばかり、強調していると思いますか? それらを強調すれば、人々の中にある不安と恐怖を刺激し、注目を集めることができます。そうすれば、今度はその「対策」と称して、人々を支配できるからなのです。

この構造は、巨大かつ複雑なシステムになっていて、頂点に立つ人はほんの一握りなのですが、「闇」に惹かれる人々、「闇」に魅力を感じる人々が、そのフォロワーとして活動しています。大衆はこれらの人々に洗脳され、奴隷化状態にあります。けれども「洗脳」が行き届いているために、殆どの人が、自分が奴隷化されていることに気づいてはいないのです。

「魔」は、その「洗脳」をマスキングするための、スリ替えに利用されています。「魔」に注目を集めれば、「闇」がまさに闇に隠れてしまいます。なぜなら、人々は「真理」よりも、オカルティックなエピソードの方をより好むからです。このようにして、歴史的にも「魔」が大衆洗脳の道具として利用されて来ました。

しかし、途中でも申し上げましたが、今は「光」が強まっている時代です。今まで隠されていた「闇」がどんどん明るみに出て来ています。これを読んでくださっているみなさんは、「闇」と「魔」の違いをよく認識して、「魔」に落ちないようにしていただきたい。

「魔」に落ちないとは、恐怖心を抱いたり、下らないことに心を動かされないということです。「闇」の戦略に、ウカウカと乗らないようにね。

北朝鮮がミサイルを発射した? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか? 国内でもジカ熱感染者が見つかった? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか? 国会議員が不倫した? それとあなたの生活となんの関係があるのでしょうか?

それらの話題に関心を示せば、あなたの波動は、自らを下げることによって同調しようとします。それは結局、あなたにイライラや不快感をもたらすだけです。あなたの中の「闇」の部分ではなく、「光」の部分を目覚めさせてください。

あなたが、明るく元気に毎日を生きることが、世の中を照らす一番の「光」になるのです。このことを強くイメージして、毎日を生きてください。
疲れを取る
若い頃からとても疲れやすく、気力が続かないのが悩みの種です。どうしてこんなに疲労感を覚えるのか、未だに解明できていません。運動量的には、たいして疲れるようなことをしていないのですが、何日も疲労感が消えないことがしょっちゅうある。体力さえあれば、もっといろんなことが出来るのに‥‥。

体が疲れている時に困るのは「心」も疲れるということ。そこに、何かやらなければならないことが重なると、疲労感だけではなく、イライラ感や焦りまで顔を出してくる。こんな時は要注意です。「八つ当たり」の危険信号が灯っているよ。もし自分がそうなら、爆発しないように。周囲に疲れている人がいたら、刺激しないようにしないとね。

以前は、体の疲れと、心の疲れとの関係がよく解っていませんでした。最近になってやっと、体と心は相互に情報をフィードバックしているということまでは解りました。体を作っているのは心なのですが、体調が悪いと、その悪いという情報を心が受け止めて、また体に返しさらに悪化させるのです。その典型的な例が腰痛。腰痛の大部分は、今では心の問題であることが解っています。

大リーグに行かれた青木宣親さんが、興味深いことを仰っています。シーズン中に何度か、どうしても打てなくなる時期というものがあるそうなのですが、そういう時には気持ちも焦って来る。しかしそれはメンタルな問題ではなくて、結局はフィジカルな問題だと言うのです。

それを「心」の問題にしてしまうのは一種の逃げで、やはり体に向き合わなければならないと。きちんと体に向き合って、技術を修正していくしかないんだと。そう考えたら、逆に「心」も楽になったというのです。イチローさんも同じことを仰っているし、落合博満さんも同様の考えを徹底された人だと思います。

まぁ大リーグの一流選手と、自分の “ヘナチョコ・ボディ” とを一緒にしてはいけないのですが、そこで私も真剣に考えました。自分の体にきちんと向き合って、修正する方法を。

寝る! ただひたすら寝る。グーグー眠る。たっぷりと眠る。
今のところ、これしか方法がないようで。
決めないという決意、行動しないという行動
一度きりの人生だから。これは、人が思い切った選択行動を取る際に呟かれる常套句です。ドラマなどでもよく使われていますね。しかしこれは、もちろん間違いです。「魂」は輪廻転生しますから、人生は一度きりではありません。けれども、重大な決心をする際に使われるのであれば、この常套句にも利用価値があります。

「死んだ気になってやれ!」というのも同じですね。人間、「死んだ気」になれば、思い切ったことが出来る。しかし「死んだ気」にならなければ思い切ったことができないというのは、やはり、人は「結果」というものを気にしてしまうからです。「結果」に意味がある、と考えているからです。

「ゴチャゴチャ言ってないで、結果を出せ!」「結果が出なけりゃ何にもならん」という指導者も多いです。しかしこういう指導者はハッキリ言って二流です。もう少し分かっている人は、プロセスが大事だと考える。プロセスをしっかり経ていけば、それに応じた「結果」が生じると考える。勝負は時の運ですから完全ではないけれども、それなりの「結果」というものは出る。

さてこの時の「結果」ということなのですが、対外的なものと、自己の内部の心境変化というものの二つがあります。一般的には、対外的なものしか気にはしていませんが、「魂」の成長のことから言えば、対外的な「結果」に、意味はありません。重要なのは、その人の「心」の変化だけなのです。「心」の変化だけが、次の人生にも運ばれるのです。

「この世」で、何かを為そうとすれば、この世的な成功・失敗は当然あります。しかし、そこで何を感じたか、掴み取ったか、乗り越えたかが、唯一の価値であると知れば、一見失敗と思われたことも実は失敗ではなく、「魂」を成長させるためのプロセスであったということが解るのではないでしょうか? これはその時には解らなくても、後になると解ります。

さあ、そうなれば、あなたが何をどう考え、決意し、行動するかということが、あなたにとっての唯一のカリキュラムであるということが理解できるのではないでしょうか。

結果を気にし過ぎるあまり、チャレンジを躊躇してしまう。人間ですから誰しもそういう気持ちは起きます。でもそれをすることで、自分にどんな心境変化が訪れるだろうかと考えれば、逆にワクワクしては来ませんか?

あなたを創るのは、結局のところあなたです。あなたの決意と行動が、明日のあなたという人間を創るのです。

どうするかを決めないというのも一つの決意ですし、行動しないというというのも、一つの行動であるということに注目してください。決めないという決意、行動しないという行動は、そのプロセスに応じた「結果」を、間違いなくあなたの中に創造します。

さあ、よく考えて。あなたは、どんな人に成りたいのかな?
短命と長命

還暦を過ぎたことで、身近な人の「死」に接する機会が多くなりました。このブログを読んで下さっている方には、何度もお伝えしている通り、「死」というものは「この世」に暮らす人間が作った概念であって、「魂」の世界に「死」はありません。

それは「変化」の一局面に過ぎず、それゆえ、解っている人は「死」と言わずに、「転化」や「移行」あるいは「帰還」、英語では「Continuation」などと呼んでいます。

「魂」が連続していることはもちろんのこと、よくよく観察すれば、「肉体」の「消滅」もないことが解るはずです。「肉体」は「消滅」するのではなく、「肉体」を構成していた原子が、別の物に姿を変えていくだけです。これが「Spirit」の働きであり、「生命」の実相なのです。

渡辺淳一さんの原作を映画化した『失楽園』をご覧になった方は、次のシーンを覚えておられるでしょうか? 主人公、久木祥一郎の友人であった、平泉成さん扮するところの水口という人物が病死してしまいます。

久木は、死を目前にした水口の病室を見舞った際に、そこで人生のはかなさを意識することになります。それゆえ、エロスに身を焦がすことになる、というこれは伏線になっているのですが、その時、水口が涙を流しながら久木にこう言うのです。「人間、早いか、遅いかの違いだけなんだよなぁ」と。

そうなのです。「転化」は、早いか、遅いかの違いだけなのです。この違いは、何を意味しているのでしょうか?

あなたは、自分では眠気を催してちょっと瞼を閉じただけのつもりだったのに、目を開けたら1時間半も経過していた、という経験をお持ちではありませんか? どうしてこんな現象が起きるのだろうと思いますか? これは、「魂」の世界には「時間がない」ということを証明しています。

我々がいま暮らしている世界は物質世界です。物質があるためには、それを容れる「空間」が必要であり、「空間」が「在る」ということは、絶対ではありませんから、それは変化します。つまり我々が「時間」と呼ぶものが生まれます。このことから、「時間」と「空間」は、同じことを、別の視点から見たものだということが解ります。*絶対なるものは「無」しかありえない。

「空間」があるから「時間」があり、「時間」があるから「空間」もあるのです。この両者は不可分であり、そのことから、これを「時空間連続体」と呼んでいます。

いずれにせよ、「時間」概念があるのは、「この世」という限定された世界にいるからこそであって、それは本質ではないということです。このことが、頭だけではなく、感覚としても理解できれば、いわゆる「死」というものに対する考え方、捉え方は一変してしまいます。

ところが、そう言われても、大抵の人は解りません。宗教家でも解らない。先ず、正しい知識がありませんし、非物質的世界を知覚するセンサーを働かせようとしていない。そこで、見えないものは信じないとか(本当は、逆に目に見えないもの(=観念)をいっぱい信じ込んでいるのですが)、生半可な間違った知識を信じ込んでいるのです。

しかし、これもいつも言っていることですが、何も信じる必要はありません。逆に一切信じてはなりません。何も信じなくても、あなたは、ご自分の本質を思い出すだけで、自動的に、「生」の意味、「死」の意味、「生命」の本質を理解します。なぜなら、「真理」は一つだからです。

一つでないものは「真理」ではありません。たとえどんなアプローチをしようが、最終的には、みな同じところに到達します。なぜなら「真理」は一つだからです。しかし、そこに至るまでのスピードに、早いか、遅いかの違いがある。早い「魂」は転生回数が少なくて到達し、遅い「魂」は何度も何度も輪廻転生を繰り返すのです。

このことを知れば、一つの人生が、短命で終わったか、長命だったか、などにさして意味がないということがお解りでしょう。「魂」は、転生の前に、次の人生における学習課題を設定して生まれて来ますが、この課題を終了しない限りは「転化」はしません。つまり死のうとしても死にません。

これ以上書くと、差し障りがあるので止めにしますが、あとのことは、ご自分で考えてみて欲しい。いや、思い出していただきたいと思います。
この知恵によって、多くの人に、慰めが与えられんことを。

意識で「細胞」は変えられる
俳優の渡辺謙さんは、役者としてはもちろんのこと、人間としても傑出した方だと思います。「外見を見ればその人物が判る」というのが私の持論ですが、謙さんが役に成り切っている時に見せる深みは、謙さん自身の人間性の深さから滲み出ているものと確信します。

知性、感覚、技能が三位一体となって、すべてが高いレベルにあるという人はそうそうはいません。しかも、トップスターとなった今も、不断の努力を重ねている姿は素晴らしいの一語に尽きます。

NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」で、『渡辺謙×山中伸弥』という異色の組み合わせがあったので、興味深くこれを観ました。この番組は、二人が互いの仕事場を訪れてインタビューし合うという趣向になっているのですが、渡辺謙さんが、どうして科学者の山中伸弥さんを指名したかというと、答えは「細胞」に有ったのです。

ご存知だと思いますが、渡辺謙さんは人気絶頂にあった30代に白血病を発症し、それを克服されて今を生きられています。しかも40代になってからアメリカに渡り、国際俳優として誰からも認められる存在となりました。こんな日本人は他にはいません。工藤夕貴さんや、桃井かおりさんも頑張ってはおられますが、アジア人差別の厚い壁に阻まれています。

その謙さんが、「細胞」にとりわけ注目するようになったのは、やはり白血病体験からだったようですが、興味深いのは、役づくりにおいても「細胞」を意識すると語っておられることです。「俳優は自分の体を借りて、他の人間を生きる仕事。体の骨格や顔の造作は変えられないが、『細胞』は役に近づけていけるんじゃないか」と、謙さんは語ります。

これには、白血病の体験時に知った、「細胞」は自己増殖を繰り返すことで置き換わっていく、という科学的論拠が影響を与えているようです。脳と心臓を除き、他の体細胞は7年も経てばすっかり入れ替わると言われていますが、このことを知った謙さんは、「そうか、人間は変われるんだ」と思ったそうです。

そこで、体内のグレた子(細胞)を、1人1人諭していくような観想(イメージを描く瞑想)を行ったと言うのです。この体験があったことから、たぶん、役づくりにおいても「細胞」から役に成り切っていくという、謙さん独自の感覚を持つに至ったのでしょう。

そしてこの方法論は、神秘学から見た場合に、完全に理に適っているのです。そこが謙さんの凄いところで、生死に関わるような病気体験を経ることによって、一挙に、真理に肉迫するところまで「魂」を成長させて仕舞われたのです。

ここで、俳優という仕事がもの凄く生きてくることになります。謙さんがそれを自覚されているかどうかは解りませんが、スクリーン上の役を通じて、多くの人に「生きる」お手本を示すことに、結果的になったのです。

それは、「人間は生まれ変われる」ということです。意識のあり方によって「細胞」を変化させうるということです。現在の人間の科学では、それをまだ証明できていませんが、神秘学では神代の昔から分かっていたこと。謙さんは、それをご自分の体を通して実証して見せました。

そして山中伸弥さんも、どうやら「細胞」の奥に潜む Force を感じ取っておられるようです。一般の人から見れば、それは「不思議現象」の一つに過ぎないと思われるかも知れません。しかし、今や天文学にせよ、量子物理学にせよ、細胞学にせよ、様々な科学は、すべて非物質的世界の存在を認めざるを得なくなって来ているのです。
「変化」を創造する ---- 人生を積極的に生きる秘訣
宇宙の在りとあらゆるものはつねに「変化」しているということ。この事実だけは、誰にも止めることは出来ません。仏教ではこれを「諸行無常」(常なるものは何もない)と言っています。ですから、この法則に逆らって生きようとすることは、すべて無駄な努力ということになります。

いつまでも若くありたいと願ったり、死ぬのは嫌だと抵抗したり、好きな人と別れたくないと駄々をこねたり、手にした財産を失いたくないと秘密の金庫に仕舞い込んだり‥‥etc.。

宇宙の悠久と比べたら、そんなものがいったい何だと言うのでしょうか。エジプトの遺跡をご覧なさい。その思いがどこに残っていますか? それなのに、多くの人がこの無駄な努力に、日々大変な労力を割いています。

「変化」というものは、時に、人々に恐怖をもたらします。本来人間には、様々な環境にも適応できる知恵と、優れた能力というものが備わっています。しかしいったん適応すると、生活改善を追求して行くなかで、今度は順応し過ぎるという問題が生じてしまいます。その結果、無意識に「変化」を怖れるようになるのです。

この「怖れ」は、「変化」して欲しくないと思えば思うほど、反動として大きくなります。そこで、こういうことが言えます。万物は「変化」するのが当たり前なのですから、無駄な抵抗はせずに、先ず「変化」を認めてしまいなさい、ということ。

これが、よく言われるところの「ありのまま」です。先ず「ありのまま」を認めてしまえば、無駄な抵抗が無くなるのですから、葛藤が消えて、そこからスーッと気持ちが楽になって行くというわけです。理屈はこのように簡単なのですが、しかしこれがなかなか出来ません。

人間というのは、どうしても損得や失うもののことを考えてしまうので、「ありのまま」に成り切れないんですね。しばらくジタバタして、ようやく今の状況を認める心境になってから、初めて、なぁんだ「ありのまま」ってこういうことなのか、と気づく。そして、やっと一歩成長する。

さて、最初は「ありのまま」なのですが、それが解って来たら次に進むといい。それは、「変化」を受け入れるという段階から、クリエイトする方向へ、さらに意識づけするということです。

パッシブからアクティブへの転換です。どうやったところで「変化」というものは起こるのだから、ただ受容するのではなく、こちらから積極的に起こしてやればいいという発想です。

この意識改革は、あなたにとって非常に大きな、それこそ「変化」をもたらします。あなたが、自分で自分を支配するようになるのです。今まで、他人まかせにしていた自分の人生を、自分の手で創造するようになります。それは、奴隷状態からの、自己の解放です。「自由」の行使に向けて一歩を踏み出すのです。

自分で自分を支配することをいったん決意すれば、どんな決定事項も自分の自由意思で為したことなのですから、結果がどうであろうが、「ありのまま」をずっと受け入れやすくなります。また一見、失敗や、損に見えることであっても、誰を恨むことなく、そこに「学び」があることを見出せるようになります。

このことを、「心」に応用すれば、暴れる「心」を治めることだって出来ます。「感情」が変化するのは当たり前なのですから、先ずその「ありのまま」を認めることです。「ああ、またイライラしてるよ」とか、「鬱になっちゃってるよ」と、もう一人の自分に観察させるのです。

次に、その感情変化というものをどうクリエイトしてくかを、今度は自分で決めて行くのです。例えば「痛み」と「苦しみ」とは、同じではありません。スポーツ大会を目前に控えた選手が、足を骨折してしまった。患部はズキズキして非常に痛い。しかしそのことを「苦しい」と考えるかどうかは、その人の思考なのです。

お解りでしょうか? 起きた出来事と最初の感情は同じでも、次にそれを「苦しみ」と捉えるか、「これにも、きっと何か意味があるはずだ」と考えるかでは、その人の人生はまるで違って来るのです。実にこれこそが、人生を豊かにする秘密の「鍵」なのです。

人はどんな時でも、たとえどんな境遇にあっても、やり直せるし、自分を創造させることが出来ます。それが解れば、未来に、希望を見出せるのではないでしょうか。大切なのは「魂」の成長であり、あなたは、日々それを意識して生きるだけで、新たな自分を創造することが出来るのです。

これが、天からあなたに与えられた、「自由意志」という大いなるギフトなのです。