by Rainbow School
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養生と、トレーニングの違い
自彊術体操を始めて半年ほどになります。それ以前は真向法をやっていました。真向法は6年間くらい続き、そのあと自彊術に出会って今のように置き換わりました。自彊術の中に真向法のエッセンスも入っていて、動きをさらに加える形になったのです。

私が健康体操を毎日するようになったのは、密教ヨーガ(一般に知られているようなハタ・ヨーガではなくて瞑想行)の前段として、体調を整えるための適切な運動法がないかと探していたこともあるのですが、何といっても、体が弱かったからです。

子どもの頃からへなちょこで病弱だったため、なんとか健康になりたいという思いがずっとありました。これが、もし生まれつき頑健な体を持っていたとしたら、「養生」という考えにはとても至らなかったと思います。

スポーツ選手が意外と短命に終わってしまうのは、結局そこではないでしょうか。生まれつき頑健な体を持っていて、体を鍛えるトレーニング法には長けているけれども、「養生」という考えには乏しい。

現役時代はカロリー消費量が多いので、焼肉のドカ食いなどをしても平気だったのが、引退後も食習慣が変えられずにたちまち太ってしまう。それと怪我が絶えず、その後遺症もあって、引退後は急に運動をしなくなる。そんなこんなで、頑健なゆえに不健康ということになってしまうのではないでしょうか。

「養生」というのはトレーニングとは違って、鍛える一方じゃない。最近では科学的トレーニング法が浸透してきて、食事管理や休息も重視されるようになって来てはいますが、「気」を整えるとか、陰陽のバランスを保つといった考えまではないと思います。

今、BS日テレで『宮廷女官チャングムの誓い』の再放送を観ています。話は後半に入り、チャングムが流刑地の済州島に送られ、そこで医女になるための再出発を図るというところです。

ここで、医術の師となるチャンドクに出会うのですが、チャンドクに先ず教えられるのが、患者の顔色を見る技術。顔色を青、赤、黄、白、黒に分け、かつその部位を見ることで、患者の大体の状態を把握する。

次に教えられるのが脈診。これも現在のように単に心拍数を測るというだけではなく、指先の感触だけで脈の打ち方の違いを把握する。芤脈、浮脈、緊脈、滑脈、濡脈、数脈、牢脈、完脈など、その特徴を見分けることで、脈を診るだけで様々な病変を診断するのです。

自分が子どもの頃のお医者さんは、その他にも下瞼をめくって裏を見る、ベロを出させて見る、顔の両側のリンパ節に触れる、指を重ねてトントン打診をする、ということをみんなやっていました。今、そんなことをしているお医者さんは全く見なくなりました。

病院へ行くとすぐに検査に回され、医者は上がってきたデータを見るだけ。現代の医学は、一見発達したように見えて、診断技術は後退した面もあると思います。何よりも、人間を動かしているエネルギーは「気(プラーナ)」にあり、陰陽バランスがいかに大切か、という考えが失われてしまいました。

これが、現代人の不健康を作り、替わって健康食品産業を隆盛させる元になっていると、私は思います。高齢化社会がますます進展するいま、先人たちの知恵に習い、もう一度「養生」の視点に立ち返ることが必要ではないでしょうか。

3月から毎週月曜の午前中、全4回の日程で「自彊術」の講座を企画しました。まだ数名分の空きがあるようですので、ご興味のある方は、どうぞお問い合わせください。

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あの世には、悪魔もいないし、地獄もない

以前、知り合いに勧められ、ある精神科医が書いたという興味深い本を読みました。その本は精神科医が書いたものとしては異色で、自分がやってきた治療法に対する疑問が綴られていたのです。

このお医者さんは、ある時一人の霊能者と知り合いになり、自分が治療に難儀していた患者を、この霊能者が次々と快癒させていくのを見て仰天します。一体これはどういうことか?

そのことに関しては、私は別段驚いたりはしません。ですがこの霊能者が語っていることには驚かされました。いわゆる精神疾患の原因が、全部、悪霊の憑依だと言うのです。そして瞑想を行うことは、悪霊の憑依を招いてしまうことがあるから危険だ、とまで言うのですから。

ヤレヤレ、瞑想禁止令ですか。じゃあその「霊能」とはなんなのだ? 「瞑想」のバリエーションではないですか。
この霊能者に限らず、悪霊、悪魔、魔界、地獄、を強調する霊能者は非常に多い。そして人々にたっぷり不安を与えた上で、そこから逃れる方法を伝授する。

ある人が、私という人間がどういう人物かを確かめたくて、霊能者のところに聞きに行ったんだそうです。ずいぶんと暇な人がいるものです。そうしたら、なんと「この人は、悪霊に取り憑かれている」とのご託宣が下りたんだそうな。

ハイハイ、そうでしょうとも。「悪霊」にでも取り憑かれていなきゃ、毎日3時間、こんな文章書き続けられませんよ。それはどうもご親切に。最近どうも体調が悪いと思ったら、なんだ「悪霊」のせいでしたか‥‥。

しかしここでハッキリ断言しておきたい。
霊能の強い人はいるし、この世に憑依現象だってあります。いわゆる幽霊もいる。
でも、あの世には、悪魔もいないし、地獄もない!

「霊能」というのは、五感では通常キャッチできない世界を捉える能力です。いわゆる第六感といわれるもの。これは誰もが所持している能力で、目が良い、鼻が利く、舌が肥えているなどと同じこと。要するに相対的な能力なのです。

ですから、第六感にも強い人と弱い人がいるというだけの話。あまり意識していないかもしれませんが、あなたにだってその能力はあるのです。そしてそれは、訓練によって磨くことが出来ます。

さて、その時に、目が良いことと人間性とは何の関係もないように、霊能の強さとその人の人間性とは何の関係もないということです。霊能者と接する際には、どうかこの点を思い出し、気をつけていただきたい。

ところが第六感だけは、見えない世界をキャッチする能力であるため、とかく言われたことをなんでもかんでも信じてしまう傾向に陥りやすい。

でも霊能者だからといって、宇宙の法則のに関する知識をなんでも知っているとは限りませんし、霊性が高いとも言えない。他のことと同じように、自分の間違った思い込みに左右されていたり、中には、自称霊能者の詐欺師だっているのです。

悪霊、悪魔、魔界、地獄の類は、霊能を持つ人が、とかく陥りやすい「思い込み」に過ぎないのです。なぜそんな「思い込み」が生じてしまうのか? これも、他のことと同様、今まで育って来た中で身につけた観念の一つなのです。

小さいころにお寺に行って、地獄絵図を見せられた。聖書を読んで悪魔を知った。その他、映画や小説や絵画やあらゆるところで、多くの人がそうした観念を植えつけられて育った結果なのです。

あの世には、悪魔もいないし、地獄もない。そんなものはない。
それは、見たい人が見るのです。

ここで改めて、「在る」ということを考えてみないといけません。ふつう「在る」とか「ない」とかという時、私たちは自分の「知覚認識」とは関係なく、独立して、あらかじめその物体が存在していると、みな見なしています。

しかしそれが錯覚にすぎないことは、量子力学という学問分野で、すでに証明されています。目の前にコーヒーカップが「在る」。しかしそれは、見るまでは、本当にあるかどうかは判らないのです。私たちが、それを見た時(知覚した時)、はじめてそれがそこに現れる(認識される)のです。

通常いう「あの世」、第六感でキャッチできるところの非物質的世界では、想念エネルギーがあらゆるものを瞬時に作り出してしまいます。ですから欲しいもの、見たいものが、自由自在に目の前に出現する。そのため地獄を見たい人は地獄を見るし、悪魔を見たい人は悪魔を見るということなのです。

ただし、あまりにも多くの人が、地獄や悪魔を想像(創造)しているために、その集合エネルギーが出来上がっている。しかしそれも、私たちが通常いうところの物質的に「在る」というものではない。目の前のコーヒーカップと同じように、見なければないし、見たい人は見るということです。

ですから、悪霊、悪魔、魔界、地獄、を強調する霊能者は、それを見たい人だということ。なんのことはない、自分がその観念(つまり悪霊)に取り憑かれているというだけなのです。

それに、論理的に言って、悪魔や地獄が存在することはあり得ない。

先ず宇宙の創造者はたった一つである筈です。それを人は創造神と呼ぶ。もし創造神が二つであったなら、互いを作ったのは誰かということになってしまいます。A神がB神を創ったのなら、創造神は結局Aです。逆もしかり。

だから創造者は一つ。その一つのものが、対立する天使と悪魔を、わざわざ創造するでしょうか? いったい何のために?
創造者ってのは、戦闘好きなテレビゲーム・デザイナーなんでしょうかねぇ?

天使と悪魔を創ったのは人間です。神の名を語って。だから見てご覧なさい。世界中の戦争の大部分は、異教徒の悪魔を叩き潰せと互いに主張しあって人殺しをしている。それが「我らが神のご意思なんだ」と勝手な理屈をつけてね。

これほどバカげたことはないでしょう。どうして神が、自分が創った人間を、自分で殺して喜ばなければならないのでしょうか?

ですからみなさんは、明るく、平和で、みんな仲よく、楽しく暮らせる世界だけを想像していればよいのです。その想像が、現実を見ることになるわけですから。その想像が、現実を創造することになるわけですから。

悪魔や地獄なんてアホな概念はとっとと捨てて、神の本質に目覚めなさい。創造主には愛しかない、天国しかないということに気づきましょうよ。

友だち、おらなアカンの?
Eテレ『SWITCHインタビュー 達人達【千原ジュニア× 阪本順治】』を観たのですが、『顔』という映画で、阪本順治監督が藤山直美さんに言わせたという、次のセリフが気になりました。
「友だち、おらなアカンの?」
聞けば、これは阪本順治さんの、子どもの頃からの思いだったようです。

この気持ち、よく解ります。私も友だちがいませんでしたからねぇ。
知り合いはいましたよ。でもその人たちを、「友だち」って呼んでいいものかどうか‥‥。こっちが「友だち」だと思っていても、向こうはそうは思っていないかも知れないし。知り合いが、どうなると「友だち」って言えるのか、私には分からない。

ということで、友だちがいないことは、長いあいだ自分のコンプレックスになっていました。それはやはり、「友だちというものが、いなくちゃならないんだ」という社会通念のプレッシャーに負けてしまっていたんですね。友だちがいない人間=人格障害者、と自分でもすっかり思い込んでしまい、自己肯定感が異常に低かった。

携帯電話が普及し出すと、登録してある電話番号の数を誇って「オレの友だち、300人」と言うような人が現れました。SNSが普及し出すと、もっと凄くて「私の友だち、全世界に2000人」と言う人まで現れました。
マジですか? オジサン、もう、とても着いていけまへん。

市民運動家の片岡勝さんのところに出入りしていた時、片岡さんから凄いことを教わりました。毎年、年末の年賀状シーズンになると、住所録から、J1、J2といった具合に友人の入れ替えを行うのだそうです。片岡さんのような著名人になるとお知り合いも多いでしょうから、そういう作業が欠かせないのでしょう。

でもこれは、重要なことを示唆していますよね。人間関係は変化するということです。ある時期は、仲の良い「友だち」のように感じていても、時が経つと、目指す方向や価値観が違ってきて、自然と疎遠になっていく。

自分の場合はそれを繰り返してきたので、結果的に「友だち」なんて呼べる人は、出来なかったんですね。そして、それが大きなコンプレクスだった。でも今は違います。それは「友だち」が出来たからじゃないんです。コンプレックスそのものが、雲散霧消してしまった。

今の齢になってみて解ったのは、人間関係のすべては、結局バイブレーションによるのだということ。お互いが持つバイブレーション(振動数)が近い場合は引き付け合い、離れている場合には違和感を感じる。いわゆる「波長が合う・合わない」がこれで、みんなそれとなく第六感を働かせているんですね。

すると、最初は同調していて仲がよくても、片方の波長が上がる、または下がるような生き方を始めると、両者のギャップが開いて、自然と遠去かるようになって行きます。夫婦間でこれが起こると「離婚の危機」ということになるわけですね。

それが解ってから、「友だちいないコンプレックス」がなくなりました。友人関係に心を悩ませるよりも、自分が意識して、高いバイブレーションを保持するような生き方を心がけようと思ったのです。そうすれば、その程度に応じた友人が現れるかもしれないし、現れないかもしれない。

別にそっちはもう気にしない。もし現れたら、楽しい時間が過ごせるだろうな、と思うだけですね。
人類全体が、もしも7人家族だとしたら
私ならどうする? どうしたい?
激動する今の世界情勢を見て、この問いに対する答えが、どうしても自分の中に見つからなかったとしたら、こんな思考実験をしてみてはどうでしょう。

人類全体が、7人の家族だと想像してみてください。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、そして3人の子どもたちの合計7人。

ただし、この家族がちょっと変わっているのは、互いの血縁関係はないということ。肌の色もいろいろだし、話す言葉も違う。でも一つ家に暮らす家族であることには変わりがありません。あなたは、この7人のうちの誰かです。

さて夕食の時間になりました。今日のメニューは餃子です。数は全部で30個。さあ、どうやって分ける? たぶん、あなたなら、出来るだけ平等に分けようとするんじゃないかなぁ? でも中には「早いもの勝ちだ」とか、「腕力の強い者から先に取っていくのがいい」という人もいるでしょう。

寒い冬、この家の暖房は灯油のストーブが一台あるだけ。さあ、どうする? たぶん、あなたなら、ストーブをリビングに置いて、みんなで一緒に暖まろうと声を掛けるんじゃないかなぁ? でも中には、自分の部屋に持って行ってしまい、自分だけ暖まろうとする人もいるでしょう。

一家の家計は火の車。みんな仕事がないのです。そこに久々に内職仕事が舞い込みました。さあ、どうやって終わらせよう? たぶん、あなたなら、みんなで手分けして、それぞれが得意なことをやって貰うようにするんじゃないかなぁ? でも中には、「自分が仕事を取ってきたんだから、お前らが働け」と言う人もいるでしょう。

子どもたちが兄弟喧嘩をしました。ほんの些細なことがきっかけです。さあ、どうします? たぶん、あなたなら、しこりを残さないように、話し合いの場を設けようとするんじゃないかなぁ? でも中には「あいつは信用できない」「いつ殴られたりするか分からない」と言って、自衛のための棍棒を用意する人もいるでしょう。

最近、おじいさんの元気がありません。どうも悪性のインフルエンザに罹ったようです。さあ、どうしましょう? たぶん、あなたなら、付きっ切りで看病してあげようとするんじゃないかなぁ? でも中には「うつされたら大変だ」とドアを閉め切ったり、「どうせ老い先長くないんだから」と見捨てる人もいるでしょう。

お解りですか? 今の世界情勢を作っているのは、人間の「心」なんです。マジョリティ(多数派)の「心」の表現が、「今の世界という結果」を作っているんです。いくら政治をいじろうが、制度を作ろうが、根本にある「心」が変わらなければ、世界は変わらない。ちょっと改善されたとしても、すぐにまた戻ってしまいます。

世界は、地球という家に暮らす一家です。みんなが前者のような思いやりをもって生きていれば、一家が仲良く平和で暮らせることは請け合いです。ところが、こんな分かりきったことが出来ずに、人間たちは後者を選ぶ。なぜ、やがては一家が全滅するような方向へ、向かおうとするのでしょうか?

私は、すべての人間が、根底でそれを望んでいるとは思いません。ただ知らないだけです。気づきが遅れているだけなのです。本当は、あなたと同じく、みな親切で、思いやりがあり、献身的な愛を持った人たちなのです。なぜなら、あなたも宇宙のかけらだから。メンバーの一員だから。

どうか想像力を働かせてください。私たちはみな地球に暮らす一家なのです。残念ながら今の地球のシステムでは、もっとも想像力の欠如した人間が、社会の支配層を構成するようになっています。想像力を失くせば失くすほど、エリートと呼ばれるのです。

エリートは、人々の想像力を失なわせ、自由を奪う手法に長けています。そこに巻き込まれないように、同調しないように。彼らの言にズルズル従っていたら、一家はどうなってしまうかを想像してください。そして、あなたの胸にある、本来の自分を、素直に、正直に引き出して行っていただきたいと切に思います。
日々のニュースを、大きな文脈の中でとらえる
ニュースは、その大部分が目くらましです。いま世の中で動いていることの一端をニュースが伝えていることは事実ですが、それを我々は、いつも大きな文脈の中でとらえる必要があるのです。

笹舟を作って小川に浮かべるとしましょう。この笹舟は、右に行ったり左に行ったり、時に石にぶつかったり、葦にからまったりしながら流れて行きます。ニュースというのはこの動きを逐一報道しているのです。今日は急流に巻き込まれてしまったとか、雨にたたられたとか、転覆したとか。

でも重要なのは、この笹舟の行き先はどこか、ということではないしょうか? それが、大きな文脈で捉えるという意味です。日々の事件にいちいち反応していたのでは、この文脈はとうてい見えません。だから、ニュースは目くらましなのです。

するとこう思われるかも知れませんね。
それじゃあ、いったい何を信じたらいいのだろうかと。
答えは、
何も信じる必要はないし、何も信じてはいけない。

もちろん、私が言うこともです。‥‥と言うことだって、信じてはいけない。
(はあ? なによそれ?)
要するに、外部からもたらされるものは、何ひとつ信じてはならないということ。信じていいのはただ一つ、自分の内側から聞こえて来る声だけです。

重要なのは、「あなたならどうする?」ということ。殺人事件が起きました、爆弾テロが起きました、児童虐待事件がありました、交通事故がありました、薬物事件がありました、収賄事件がありました‥‥。
さあ、あなたならどうする?

それが、あなたという人間を決める。
選択が、あなたというアイデンティティを形づくるのです。

この時、あなたの「考え」に聞くのではなく、「心」に聞いて欲しいのです。「考え」は、それまで仕入れてきた様々な価値観に左右されています。しかし「心」は、そうではありません。なぜなら、「心」は「魂」の扉だからです。ですから、自分の「心」をじっと見つめれば、自然と「魂」に行き着けるのです。

「魂」は嘘をつきません。「魂」は決して裏切りません。なぜなら、大宇宙とつながっているからです。あなたの「魂」は片時も宇宙と離れたことがなく、つねに宇宙の理法を宿しています。ただそれに、あなた方が気づいていないだけなのです。ですから「孤独」はありえません。

暗いニュース、悲惨なニュース、暴力的なニュースなどに接したら、事件の中身に眼を奪われるのではなく、「私ならどうする?」と「心」に問いかけてみてください。そうすれば自動的に、大きな、あなたが考えるよりももっと大きな文脈に辿り着けることになります。

大きな文脈は、あれこれ考えて、類推したり、探ったりする必要はありません。ただ耳を澄ますだけで、オートマティックに決まる。
なぜなら、「心」の本体は「魂」であり、「魂」はいつも「大宇宙」とつながっていて、「大宇宙」には一つの理法しか存在しないからです。
ニュースを使った愚民化政策
今はもう、ごく限られたテレビ番組しか、それも全部予約録画でしか観なくなったのですが、その操作の途中で、ニュースやニュース解説に出っくわすことがあります。

先日も、国際報道部の記者という人が、混迷するシリア情勢について、模型を使った「解りやすい解説」というのをしている場面をチラ見したのですが、これが相も変わらぬ西側(欧米)の見解に終始。アサド政権とそれを支援するロシアを悪者に仕立てて、NATOの行動を都合よく正当化して行く。

いつまでこんなことをやっているのだろうか、と思います。アメリカはもう一枚岩じゃありません。EUだってそうです。欧米の中が割れて来ているのです。大きく言えば、これまでの価値観をあくまで押し通したいグループと、それを見直して、新しい国際秩序を築こうとするグループとに。

23日、露米はシリアでの停戦に関する合意文書に調印しました。少なくとも軍部においては、アメリカもロシアと同盟を結んだということです。すでにカナダはシリアの空爆から撤退しましたし、アメリカ軍もこのような不毛な戦闘を早く終結したいのです。このように、ニュース報道とは全く違う現実がいま進展しています。

なによりアメリカの軍人たちにイヤ気が蔓延している。裏にある構造が、もうバレてしまったということです。

これまで、「正義」を振りかざして行ってきた数々の戦争が、軍産複合体が画策した陰謀に基づくものであったこと。その陰で、相手国に対しても自国内においても、罪なき人々の間に多数の犠牲者を出して来たことの不毛に、多くの人が気づくようになったのです。

その表れは、アメリカ大統領選の予備選の動きを見ても分かります。本来ならば、共和党の本命であったはずのジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事(第43代大統領ジョージ・W・ブッシュの弟)が、全く支持率が伸びず、大統領選からの徹底を表明しました。

民主党では、本命のヒラリーが、バーニー・サンダース上院議員の猛追にあって苦戦を強いられています。ブッシュ一族もヒラリーも、共にネオコンに属する人物。その一派の勢力がどんどん薄れ、もう軍をコントロールすることすら出来なくなって来ているようです。

国際政治は陰謀が渦巻く世界で、マスコミが流している表のニュースや、ニュース解説を聞いて本気にしていたのでは、今の世界情勢のことは絶対に解りません。ニュースは所詮、プロパガンダ(宣伝)の道具でしかありませんから。

裏の裏、そのまた裏のさらに奥に、今まで世界を支配してきたひと握りの者たちの「Conspiracy(共同謀議)」が隠れています。そのシナリオが段階的に降りてきて、表に見るような事件を世界中で演出しているのです。

そして報道機関そのものが、今なお彼らの手中にあるのですから、ニュースなど大衆操作のためのプロパガンダに過ぎないのです。

こう言うと、いったい何を信じればいいのか、と思われるかも知れませんが、そもそもニュースなど、見たり聞いたりする必要はないのです。

我々がニュースだと言っているものの殆どは、過去にも聞いたことがある事件の焼き直しです。たとえば国会議員が口利きで不正に金を受け取った。その議員の名前と金額が違うだけで、同様の事件は昔からずーっとあり、我々は何度もそれらを見て来ています。覚醒剤にしろ、殺人事件にしろ、テロにしろ、みんな同じこと。

重要なのは、ならば、これからどうして行くかということです。何度も同じことを繰り返しているというのは、どこかに根本的な欠陥があるわけですから、それを是正しようとするのでなければ進歩がありません。ただ、これこれが起きたと言っているだけのニュースなど、News どころか Olds に過ぎないということです。

なぜ、いま言ったような「改善」という視点にニュースが立てないのか。また立たないのか? その意味を、よく考えてみてください。これは、センセーショナルな話題に大衆を引き込んで目を奪い、それ以上、重要なことを考えさせないようにするための手法なのです。

いわゆる愚民化政策の一環です。そうやって、次から次へと刺激的ニュースを流しておけば、背後で進行しているもっと重大なことは気づかれずに済む。人の噂も七十五日で、そのうち忘れてしまうさ、というわけです。

このような大衆操作が、日々行われているということを知ってください。世界中が、今そのことに目覚めつつあるのに、日本人の大半は未だにそれを知りません。そして相変わらず、大衆操作のためのニュース報道を信じ続けています。我々は、もっと見抜く感覚を養わなければなりませんね。
良くない出来事への感謝
このことは前にも書いたことがあるのですが、28歳も終わりかけた春、私は職を探して焦燥の中にいました。それまでまともな職に就いたことが一度もなく、求人広告を見ると「28歳まで」というものが多いことに気づき、これがラストチャンスと思ったのです。

その時には、すでに結婚をしていたのですが、カミさんが耳鼻咽喉科医院のアルバイトをして生計を立てていました。私はアパートにこもり、脚本家になろうと、とりあえずピンク映画のシナリオを1本書いて某所に送りました。するとすぐに採用されて、映画化されました。監督は、まだ若かりしころの廣木隆一さんでした。

ところが、この脚本料の支払いがあったのが、忘れかけた1年後。金額は5万円でした。あの時、お金がすぐに支払われていたら、そのまま脚本家を目指していたことでしょう。でもそうはならなかった。そこで生活の苦しさに耐えかね、「もう限界だ、方向転換しよう」と思ったのです。

当時住んでいた国立の駅に行き、ゴミ箱から新聞を拾って求人欄を探しました。その中に、写真植字のオペレータの求人があって、これなら自分にも出来るのではないかと思い、飯田橋のその会社まで面接に行きました。ところが、ものの5分もしないうちに不採用を通告されてしまいました。

「ああ、俺って何の価値もないのか」と落胆してビルを出た後、電車賃がもったいないので、この近くで他に面接してくれるところがないかと新聞を広げて探すと、コピーライター募集の求人がありました。公衆電話を探して電話をすると、面接してくれるというので、そのオフィスへ行きました。

オフィスに着いて、社長と少し話をしたあと、すぐに800字ほどの文章を書かされたのには面食らいました。冷や汗を掻きながらやっと仕上げると、仮採用して貰えました。ヤッター、これでひとまずメシが喰える。脚本家を目指して、鉛筆ナメナメ引きこもっていた日々が、少しは役立ったわけです。

私はこの若い社長(当時31歳)に感謝しました。その時には、この人に一生着いて行こう、とさえ思いました。なぜかというと、学歴とか、出自とか、前歴とかに一切関係なく、チャンスをくれたからです。そんな人は初めてでした。この社長が求めていたものは、文章が書けるかどうか、ただそれだけだったのです。

その心の広さ、大胆さ、単刀直入さ、といったものに、私は非常に感動を覚えました。どん底の気分に、やっと一条の光が射したといった感じです。私は、世の中に出るのが遅れた分を取り返そうと、死に物狂いで働きました。

私が入った時には5人しか居なかった会社が、2年後には30人を超える規模となり、デザイン・プロダクションとしては比較的大きな会社に成長しました(膨張といった方がいいかな?)。私は「部長」という肩書きを付けられて、6人の部下を抱える属長となりました。

ところが、入社して半年くらいたったころから、この社長の性格的な特徴がモロに自分に響いてくるようになりました。簡単に言えば、支配的、強圧的、といった感じでしょうか。今にして思うと、私への期待だったのかも知れないのですが、とにかく毎日怒鳴られた。他のスタッフが同情してくれたほどです。

元々、陰な性格だった私は、これを溜めに溜めて、2年半経った時にとうとう爆発させてしまいました。怒りにかられて、辞表と包丁を持って会社に行ったのです(ま、包丁は余計でしたね)。採用された時には小躍りして、「この人に、一生着いて行くぞ!」と誓ったことも忘れて。まったく極端から極端だなぁ。(・・*)ゞ

この社長には弟さんがいて、この人とは仲良く一緒に働いていたのですが、退職後にこんなことを聞かされました。「あの後、アニキが『反省した』って言ったんだよ。あのアニキがだよ、『反省した』なんて‥‥」。

1週間ほどして、残した荷物を取りに行ったとき、社長の姿が見えました。まさに今、スタッフを激しく怒鳴りつけている最中で、私と目が合うと、ちょっと口ごもりました。おいおい「反省」は一週間も続かねーのかよ、と私は思いました。今度は誰がターゲットにされるのかな?

この社長との一件は、自分の中で、その後も長く尾を引いたのですが、ごく最近になって、やっと意味が解りました。入社時のエピソードは、何事にも偶然はないということ、そして、人にチャンスを与えることの大切さと、努力して才能を引き出すことの重要さを教えてくれました。

また、その後の屈辱は、自分を被害者にしてはいけないということ、隷属に甘んじる必要性はいささかもないということ、自分の直感のもとに行動すること、の重要性を教えてくれていたんだと気がついたんですね。そこに行き着くまでに、30年の時が必要だった。

それらが解った時、この社長と出会えたことの感謝、出会わされたことの感謝がふつふつと沸いて来ました。すべては、完璧だったんだね。だから、視点をズラせばいいということ。そうすれば、一見、良くないと思えることにだって、完璧さが見えて、感謝が出来るようになるってことなんだね。
あらゆる感情は、自分を前進させるツールに使うことが出来る
若いころの自分は喜怒哀楽が激し過ぎて、それを治めるのにもの凄く苦労して来ました。それが漸く落ち着いて来たなと思えるようになったのは、つい最近、3年くらい前のことです。ですから、これまでの人生の殆どを、自分の「心」をどう治めるかという試行錯誤に費やして来た、といってもいいくらいです。

それほど長い時間が掛かったのは、感情を表に出すのは良くない、それは未熟な人間のやることだ、と思い込んでいたからです。実際には、心の内部では激しい感情が渦巻いていることが多かったのですが、それを出さずに押さえつけていたので、エネルギーが反転して内側に向い、自分を責め苛む、卑下する、自己否定するというパターンに陥っていました。

でも、感情がなんのためにあるのかということを知ってから、徐々に改善して行きました。
感情がなんのためにあるのか? それは味わうためです。充分に味わうことによって、自己の身の上に起きる体験を咀嚼し栄養にすることができるのです。つまり感情は、自己を成長させるためのツールです。このツールは、思索などよりも遥かに強い力を持っているのです。

ですから、先ずは自分の感情を肯定してください。感情って、案外カワイイやつなんです。感情を隠さずに出して、存分に味わい、気持ちが落ち着いてきたら、ありのままに受け止める、というプロセスを実行してみてください。そうすれば、起きた感情を、自分を前進させるツールに使うことが出来ます。

次に上げた5つの感情も、いつまでもそこに捉われ引き摺ってしまうと、雪だるまのようにどんどん膨らんで、もっと強力なネガティブ感情に発展していってしまいます。

・羨望 → 嫉妬
・後悔 → 罪悪感
・怒り → 憎悪
・悲しみ → 鬱
・喜び → エゴ

ここに一旦はまり込むと、抜け出るのが非常に難しくなる。ですから感情を肯定して、眺めた後で、視点をズラせばいいのです。そうすれば、羨望は自己の隠れた才能発掘に繋がりますし、後悔は反省を引き出し、怒りはやる気を高め、悲しみは共感を呼び、喜びは人生の謳歌に発展させることが出来るのです。そのようにして、この「感情」というツールを上手に使うよう心がけてみてください。
「経済のグローバル化」と「意識のグローバル化」(2)
時々、人から「なぜ、経済のことや、国際政治のことを語ったりするんだ」と非難めいて言われることがあります。「スピリチュアルなことをやってる人は、普通そんなことに関心がないはずだ。美しい神の世界のことだけ語っていればいいじゃないか‥‥」そして、「読者にドン引きされちゃうよ」と心配までしてくれる。

そうかも知れません。でもね、「美しい神の世界のこと」など、あの世に帰った瞬間みんな解ること。それよりも、なぜ今この世に肉体を持って生きているか、ということです。それは、この物質世界でしか体験できないことをするため。あなたは、あなたの体験を創造し、あなたという人間の在り方を日々規定して行くのです。

人生は選択の軌跡です。一瞬々々の選択をどうするかによって、あなたという人物が定義されていく。「Aさんはコーヒーよりも紅茶が好きな人」「Bさんは野党ではなくて自民党に投票した人」といった具合に。生きていくことのあらゆる面で、選択し、あなたは自分という人間を再創造しているのです。

宇宙から見た場合の、あなたの責任とはただ一つ。自分をどのように定義づけ、創造するかということだけです。

私たちが、いま目にしている世界は、そのようにして創造された世界です。個々人の創造が集合して、全体の世界を創っているのです。あなたは、この創造するというツール(道具)を使って、自分というものを表現する。ですから、あなたは表現者です。政治や経済もまた、集合された意識が創る一つの表現物なのです。

あなたは、政治は政治家が行っていると思ってはいませんか? 違います。殺人は、殺人者が犯していると思っていませんか? 違います。大衆がいなければ政治は成り立たず、殺される人がいなければ殺人は成り立ちません。つまり、この世の現実は、みんなが参加して創っているのです。

さて、「政治」というものは、多くの人々が共に暮らしてく中で、みんなが平和で安全で幸福に暮らしていけるようにするにはどうしたらいいか、ということを協議し、実行していくためのシステムとして出来上がりました。そのために「政治」は、民衆の生活の根幹に関わる要素を、多分に含むようになったのです。

インフラの整備について、商習慣のルールについて、健康と医療について、食料について、お金の流通について、教育について、他国とのつきあい方について、国土を守る方策について、犯罪の取り締まりについて、情報伝達の仕組みについて、困っている人を助ける方策について、環境をどう守っていくかについて、etc.。

このように、私たちの暮らしの多岐にわたって、ファンダメンタル(基礎的)な部分は「政治」が鍵を握っているのです。つまり私たちは、「政治」という手のひらに乗っかって行動し、全体として「政治」というものを、みんなで創っているのです。このことに気づいていただきたいのです。

重要な点は二つあります。一つは、この世の現実は、そこに参加しているみんなで創っているということ。何かを創造する際には、その前に必ず「こうしたい」という意識があるわけですから、いま見ている現実というものは、みんなの「集合意識」が創り出したものだ、ということなのです。

この意味に気づくことが、いかに重要であるか。しかし大衆は、まだ充分に気づいてはいません。するとどうなるでしょうか? 「政治」が、これを利用しようとする者の手によって操られる可能性が出てくるのです。そして今あなた方が目にしている世界は、まさにそのような「政治」が行われてきた結果なのだということ。

そこで二つめの重要な点が出てきます。「政治」の代表者の「霊性」です。「霊性」という言葉に抵抗があるのでしたら、人間性と言ってもいいです。大衆の気づきがまだ充分でなく、「政治」を代表者にお任せにし「期待して」いる限り、この代表者たちの「霊性」のレベルの影響を、社会が強く受けてしまうということ。

つまり、いま見ている、体験している現実世界は、「政治」を操る者たちの「霊性」のバイブレーションに、大衆が呼応して出来上がった結果なのだ、ということです。

さて、あなたは今の世界を肯定していますか? みんなが、平和で安全で幸福に暮らしていける世界が、実現されていると思いますか? 今の「政治」システムを続けていて、将来にそれが実現されると思いますか?

過去、30万年もの間、人類は同じことを繰り返してきました。もうそろそろ目覚めてもいいのではありませんか? 今の世界のあり方に疑問を持っているのなら、あなたの理想の世界に変えましょう。

戦う必要はありません。戦っても変えられないのです。その根底にある「意識」が問題なのです。人々の「意識」が変わらない限り、世の中は変わらないのです。世界をかたち創っているのは、この「意識」の集合、つまり「集合意識」ですから。ですから、「集合意識」が変われば、世界が変わる。

「第三次世界大戦は起きるのだろうか?」ではないのです。「巨大地震がいつ来るだろうか?」ではないのです。「集合意識」が第三次世界大戦を望めば、第三次世界大戦は実現し、巨大地震が来て欲しいと望めば、地震は巨大化してその通りを実現するのです。

みんなが、平和で安全で幸福に暮らしていける世界を創造したい。たぶん、この考えには、世界中の人々の大多数が賛同してくれるのではないでしょうか。あとは、「集合意識」というものが世界を創造するんだ、という現実化のメカニズムを強く意識して、周囲にこのバイブレーションを伝達していけばいいのです。

さあ、あなたもその一人の伝道師になってください。光の存在となって、自身を輝かせ、人々に明るい光を届けるのだ。
「経済のグローバル化」と「意識のグローバル化」(1)
私たちがいつも使っている「経済」という言葉は、中国の古典にある「經世濟民(けいせいさいみん)」に由来しています。これは「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意味で、元来は政治行政全般を指す言葉でした。それを福澤諭吉が、英語の「economy」の訳語として当てたことから、今のような意味になったのです。

平和で、安全で、暮らしやすい社会に生きたいという思いは、誰しもが抱いている素朴な願いでしょう。憲法にも、第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われています。そのために、今日使っている意味での「経済」が、大きな意味を持っていることは疑いようがありません。

けれども、私たちはその運用を、意味づけを、間違ってきたのではないでしょうか。政治は、何よりも「経済」を良くしなければ国民の幸福はない、と言い続けて来ました。そのためには、企業が国際競争に勝たねばならない、と言って来ました。そして競争力をつけるためには、賃金の抑制は止むを得ないと言って来ました。

本当でしょうか? それは正しい論理だったのでしょうか? 今日の状況を見れば、それが「嘘」であったことは既に明らかです。1980年代までは「Japan as Number One」とまで言われた国が、1100兆円もの債務を抱え、6人に1人の子どもが貧困状態にあるというところまで転落してしまったのです。

それなのに、今なお、政治家はこのタガの外れたロジックを主張し続け、国民は騙されていることも気づかずに、「期待」をして、同じ政治を許しています。なんというお人好しなんでしょうか。日銀が「マイナス金利」という奥の手を捻り出さなければならなくなってもまだ、何かに「期待」をし続けるのでしょうか?

政治家は、「経済」活動を活発化させるためにはグローバル化の波に乗らなければならない、関税を撤廃して自由貿易を推進しなければならない、と主張します。過去30年、そのような動きが世界中で推進された結果、いま世界はどうなっているでしょう。 世界から貧困は無くなったでしょうか?

いいえ、むしろ逆ブレが加速されてしまったではないですか? 所得格差は著しく増大し、失業者が街に溢れかえり、経済が停滞し、毎年13億トン(FAOデータ)もの食料がムダに捨てられている一方で、貧しい国では餓死者が出るという、極端なアンバランスが生じているではありませんか?

いまユニクロに行くと、店頭には「着古した服を持って来てください」という表示が出されています。タンスの中の物を捨てさせないことには、新しいものが売れないのです。コンピュータ化、ロボット化で生産性が飛躍的に増大しているにも関わらず、働く人は長時間労働を強いられ、夫婦共働きでなければ家計が維持できないのです。

つまり、故船井幸雄さんが「資本主義というのは、左側にムと書いて右にダラリと書くのだ」と言った通り、「ムダ」「ムラ」「ムリ」をしなければ回らない「経済」が展開されているという、非常におかしなことになっているのです。いったい何のための「経済」でしょうか? 誰のための「経済」でしょうか?

関税が撤廃され、自由貿易が推進されると、世界中がフラットな価格競争に晒されてしまいます。望まれる品質を満たした上でもっとも安い製品が、市場を独占する可能性が高くなるのです。そのために、グローバル企業はより安い労働力を求めて、生産設備を絶えず移動させていきます。

そのたびに企業は「貧しい人々に雇用の機会を与えた」と主張します。が、実態は貧しい国の人々の労働力の搾取であり、もう片方(先進国)では、産業の空洞化と大量失業を招いています。安倍政権は「デフレ脱却」を旗印にしましたが、賃金が減り購買力が低下しているのに、物は溢れかえっているのですから、デフレが止むわけがありません。

それだけではありません。このシステムを続ける限り、グローバル企業は競争に勝つために、より安く、より多く、より広範囲に、自社製品を売り続けなければならなくなります。その行き着く先は、資源の果てしない浪費と、致命的な環境破壊です。今こうしたことが、加速度的に進行していることを注視していただきたいのです。

宇宙は一つ、世界は一つ、ではありますが、このような「経済のグローバル化」は、誤った一元化だと言わねばなりません。なぜなら、その目的は、ごく一部の限られたエリート層への富の集中にあるからです。一見、統一化のように見せて、根っこにあるものは、勝者と敗者を分ける、分離主義、分断主義に他なりません。

大多数の人々は、一元化されたシステムに組み込まれ、まるで使い捨ての部品のように扱われているのです。視点をうんと離して、宇宙から、地球で働く人々を見てください。今の人類は、社会システムに働かされる奴隷です。「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」どころか、「経済」が奴隷を生み出しているのです。

なぜ、このような事態が生じているのでしょうか? 私たちは一体どうしたらいいのでしょうか? (つづきは明日に)