by Rainbow School
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「矩(のり)を超える」人々
以前、デザイン会社に勤めていた時のこと。年齢は確か29歳だったと思います。社長に呼ばれて「今日からお前は、この会社と兼任になる」と言われ、私の名前が刷り込まれた名刺の束を渡されました。この時、社長は33歳でした。

数日して、赤坂にあるその会社に連れて行かれました。賃貸マンションの狭いワンルームに机が一つと電話、そして電話番の女性が一人いるだけでした。その後で、もしクライアントから電話が掛かって来たらこう答えろといったことを指示されました。

この試みは、結局うまくいかずにしばらくして頓挫してしまったようですが、ずいぶん後になって、私にもその時の事情がしだいに分かって来ました。要するにこういうことだったのです。

当時、私のいたデザイン会社は、赤坂にあったKという広告代理店から仕事を貰っていました。そのK広告代理店のビッグクライアントに日本たばこ(現在のJT)がありました。たばこ会社というのは、腐るほどお金を持っており、広告予算も莫大でした。

K広告代理店の日本たばこ担当であったチームの人間たちは、そこでこう考えたのです。自分たちが発注する広告デザインを任せる会社を、自分たちで作ろう。そしてそこから、二次下請けとなる私のいたデザイン会社に発注した形にしよう。そうすれば、中抜きができる。

詳しい事情は知らされなかったし、どうして頓挫してしまったのか、その後どうなったのかも説明されなかったのですが、ある時、K広告代理店の社員からこういう話を聞きました。「うちのオヤジ(社長)は、スイスに隠し口座を持っているんだ」。それを知ったことで、「それなら俺たちだって」と考えたようです。

K広告代理店のそのチームでは、誰かが言い出しっぺだったのでしょう。そしてチーム全員が、その企みに同調したのでしょう。さらに、私のいた会社の社長と専務もそこに同調することになった。その大本となったのは、K広告代理店社長の裏金づくりです。こうして悪だくみが次々と連鎖して行った。

矩(のり)を超えず」という言葉がありますが、悪いことだと知りながらも「バレなきゃいいだろう」とその世界に足を踏み入れて行く人が後を絶たない。天の助けか、私は深入りすることなく終わったのですが、その後いろんな人を見ていますと、一度「矩を超える」ことを味わった人というのは、その味が忘れられなくなるようです。

広告の世界ではこんなことは日常茶飯事。ですから広告を見ると、いつも私は「ああ、この裏側には、今日もたくさんの有象無象が暗躍しているんだろうな」と思ってしまうのです。
主従関係と独立
「あなたは自由が欲しいですか?」
こう問えば、大多数の人が、たぶん「はい」と答えるでしょう。
「ではあなたは、自由に生きる行動を、常に選択していますか?」
とさらに問うたら、何と答えるでしょうか?

「自由」に生きようとしてしていないものに「自由」はありません。「自由」に生きようとしてしていないのに、「自由」が実現する筈がないではありませんか。「自由」が転がり落ちてくる筈がないではありませんか。
これが、人間が抱える大きな矛盾です。

9時までに行かないと遅刻扱いになってしまう。今日の仕事をサボるわけにはいかない。学校の規則を3回破ると退学になっちゃう。自分の行動に親があれこれと口出しをする。他の異性と仲良くしていると恋人が怒る。ああ、自分には「自由」がない。

と、そういうことではないのです。「自由」というのは、自分が自分をちゃんと支配(コントロール)出来ているか、ということです。この支配権を他者に売り渡したとき、人は「自由」を失います。

誰かに何かを強制されたときや、あるいは社会や組織に従わざるを得なくなったときだけが、人が「自由」を失う瞬間ではないのです。

あなたが先生を見つける。グループに所属する。ルールを見つける。家元制度に加入して資格を得る。信念を見つける。聖典を見つける。神を仰ぐ。これらはみんな、自分の支配権を他者に売り渡したということなんですよ。

自分では、それらは、全部自分の意思で選択したとみな思っています。でもそれは、「主」たるものを見つけることによって、自分を「従」に規定してしまったということに他ならないのです。そこに真の「自由」はありません。

あなたは空に浮かんだ凧です。糸から離れて、どこへでも行ける「自由」よりも、誰かにしっかりと糸を持って貰った上で、空を漂うことの安心感、気持ち良さの方を選択したのです。糸から離れてこそ、未知なる体験ができるというのにネ‥‥。

人間っておかしいですね。「自由」が欲しいと言いながら、「自由」から遠ざかる。「魂」は「自由」を知っていた筈なのに、思い出そうとしない。
その性質を利用して、「主」の座に納まろうとする輩がうじゃうじゃいますからね。気をつけてくださいね。
内村鑑三は「語り手」の一人

NHK BS『100分 de 名著』の1月は、内村鑑三の『代表的日本人』でした。内村鑑三については教科書で知った知識しかなく、ずっと「キリスト教」信者だとばかり思い込んでいました。でもこの番組を観て、内村鑑三も「語り手」の一人であったことを知りました。

語り手:宇宙の真理を説く人。いつの時代にも登場し、表現は違っていても、そこで説かれている言葉は、時代を超えた普遍性を持っている。歴史的に著名な人も、市井の無名な人もいる。

今でこそ、イエスとキリストは違うということ、いわゆるキリスト教は純然たるイエスの教えではないこと、を知るようになりましたが、以前の私は、大多数の人と同じようにそのことに関して全く無知でした。結局、内村鑑三は「キリスト教」の信者ではなく、真のキリスト者だったんですね。そのことが、内村鑑三が語った言葉の端々に見てとれます。

内村鑑三が登場した明治は、文明開化と言われた時期で、即物的なものに人々の目が惹きつけられた時代です。そうした風潮のなかで、内村は天とのつながりという、目に見えないものを重視することを説きました。また、第一高等中学校の教師をしていたとき、発布されたばかりの教育勅語への最敬礼をしなかったとして「不敬」のそしりを受け、体調を崩して退職を余儀なくされます。

これを見ると、いつの時代もあんまり変わらないんだなぁと、つくづく思わされます。本質を見抜く目がなくて、人々が大好きなのはレッテル貼り。内村の「不敬事件」では、東京帝国大学の哲学者井上哲次郎が急先鋒となって内村を激しく攻撃しました。しかしその井上も、後に頭山満らから不敬だと批判され公職を追われているのですから、いやはや。

こんな人たちに、内村が語ったことの真の意味が、解るわけがありません。内村は、「教育」を無知な人に何かを教え込むためのものとは考えませんでした。それぞれの人には、「真の人間」としての可能性が予め備わっていて、それを「思い出させる」のが「教育」の役割だとしたのです。そして、一人ひとりの肉体的・知的・霊的特性に応じて導いてあげるのが教育者の務めだと言った。

さらに、『後世への最大遺物』と題する講演会では、「高尚なる勇ましい生涯を生きよ」と学生たちに説き、その意味をこう説明しています。「高尚なる勇ましい生涯とは、私が申すまでもなく、諸君もわれわれも、前から承知している生涯であります。」 この《前から承知している生涯》というところに注目していただきたい。これこそ、「真理の法則」が説くところ、そのものです。

そして、「先生のようになりたい」という若者に対しては、「私のようになるのではなく、私の独立を真似なさい。私が私であるように、あなたはあなたであれ」と言い、「独立」を強調しました。これもまた、「真理の法則」が説くところ、そのものです。

「不敬事件」の渦中、内村はインフルエンザに罹り、一時は生死の境を彷徨いますが、妻加寿子の看病によって回復します。ところがそれと入れ替わるようにして加寿子も倒れ、2ヶ月後には死んでしまうのです。その時の体験を、内村はこう語っています。

「私の愛する人は、生涯の目的を達しました。彼女の生涯そのものは、小さな宇宙の出来事に過ぎなかったかも知れません。でもその小宇宙は、いま彼女を霊化して、大宇宙へと導く階段へと変わったのです。」(口語訳は不肖私)

解説の若松英輔さんも奥さんを亡くされたとのことでしたが、非常に深い洞察力を持った素敵な方でした。

目に余る、近ごろのインターネット広告
新聞・テレビが衰退して、広告の主戦場がインターネットに移行して来ました。今までは広告がそれほど無かったから良かったのに、日に日にえげつなく、大胆に、攻撃的に、こちらを狙って押し寄せて来るようになってきています。テレビもウンザリだったけれど、もうインターネットもウンザリです。

知ってます? あなたに仕掛けられている広告と、私に仕掛けられている広告は違うということを。私もそんなに詳しくはないのですが、パソコンには一台一台すべてに固有の番号が割り当てられていて、こちらがインターネットにアクセスすると、直ちにそのパソコンの使用者の、閲覧履歴や通販の購買履歴などのデータがネットを介して収集されるようになっているのです。

これに、Facebookなどに、うっかりして要求されるまま個人情報を書き込んだとすると、その人の詳細なプロファイルデータと、閲覧履歴や購買履歴のデータとが一緒になって、全部集められてしまうわけです。もう筒抜けなのね。この個人情報というものは、広告する側からしたら、それはそれは革命的なものなのです。

どう革命的かというと、今までの広告は、不特定多数の人に広く撒き餌をバラまいて、その餌に喰いついてくる人を待っていた。だから当然無駄撃ちが相当多かったわけです。でも無駄撃ちが多くても、撒ける範囲の広さでカバーしていた。そこで、一度に到達できる範囲の大きいテレビが、広告媒体として一番珍重されたのです。

ところがインターネットの、個人情報を直ちに収集するというアルゴリズム(目的遂行のための方法や手順を考えたコンピュータ・プログラム)は、これを一変させてしまいました。その人のプロファイルと趣味嗜好が直ちに分析され、広告のターゲットがピンポイントで絞られるようになったのです。つまり、従来のメディアとは違って無駄撃ちが極端に減った。

収集された個人情報は瞬時にオークションに掛けられ、その情報を落札した広告主が間髪を容れずその人に合った広告(これを私は「狭告」と言っているんですが)をインターネット上の画面に表示させるという仕掛けです。これが一瞬で行われるのだから、凄いですね。

毎日、そんなこと(いかにして広告にハメてやるか)ばっかり考えている人たちが、世界中にいるわけですから、その進歩のスピードは凄まじく、冒頭に書いたような状況にいよいよなって来たようなわけです。

サイト記事の閲覧なら、必要なもの以外は見ないようにするとか、えげつないサイトには二度と行かないといった対処がまだ出来るんですが、最近「参ったなー」と思っているのは動画に表示される広告。これが、消しても消しても、決して消えない。今では、10分くらい続けて見ていると、強制的に動画の広告に入れ替わるようになっていて、これじゃ民放テレビを観ているのと変わらない。

ついさっきも(私には、自分の気分を盛り上げたり慰めたりする時の「応援ソング」というものがあるのですが、その一つの)スリー・ディグリーズの『天使のささやき』を聴いて、いい気分になろうとしていたんですよ。知ってるでしょ『天使のささやき(When will I see you again)』。

Hoo-oo ha-a ha-a hoo-oo 
Precious moments

そこにいきなり、
「思いっきり食べよう、ポリグリップ」「思いっきり生きよう、ポリグリップ」
だもんねぇ。
「貴重なひと時」がもう一瞬にして、ハーッ、フーッというため息に変わっちゃいましたよ。
現代「子育て環境」の盲点(2)
安倍政権は、スローガンだけは次々と作るのですが、それで何か実効が上がっているのでしょうか? 旧「三本の矢」は、結局どのように総括されたのでしょうか? 目標が達成されたので、新「三本の矢」に移ったということなのでしょうか? もしそうでないなら、目くらましを続けているに過ぎないことになります。

「希望出生率1.8」についても、「掛け声だけに終わらせるな」の声があるのは当然です。では具体的にどうするのか。これを「対策」で考えていては、また新しい機構が作られ、そこに役人が置かれ、予算投入によって税金が浪費されて終わってしまいます。

ここで考えてみなければいけないのは、出生率の高い低いは、経済とはあまり関係がないということです。世界全体を見てもそうですし、日本国内においても、都道府県別で見て出生率がいちばん低いのは東京都、そしていちばん高いのが沖縄県です。市町村別を見ると、南の島で高いことが判ります。

戦後のベビーブーム(昭和22〜24年)のころだって、敗戦直後ということもあり、庶民の暮らしは今よりも格段に貧しかった筈です。それなのにどうしてベビーブームになったのでしょう? この差は、コミュニティのある・なしに起因していた、と私は考えます。

昔は、子どもを育てるのは親ではなく、コミュニティだったのです。ですから、出産年齢に達した若い世代が安心して子どもを産めたのです。親だけではなく、コミュニティ全体が、「子は宝」という視点で、当たり前のように子どもの世話をしてくれていたのです。

実はこれが最も肝心な点です。ですから、そういう習慣がまだ残っている地域では出生率が高く、崩壊してしまった東京都は最も低いのです。

そもそも、出産適齢期にある年代というのは、子育てには適していないのです。このように言うと意外に思われるかも知れませんが、私自身を振り返ってみても、「何かが解ってきたかな」と思えるようになったのは、50歳を過ぎてからです。それまでは、人間的にまだ未熟で、社会生活を学習中という仮免許状態でした。

考えてみてください。人間は他の動物とは違って、捕食の仕方だけを覚えればいいというわけにはいきません。社会生活の仕方を学ばなければ、独立した存在として生きられないのです。

出産の適齢期が10代後半から40代半ばくらいだとして、その時に、親は社会生活の仕方を、すでに充分に学び終わっているでしょうか? そんなことはあり得ません。つまり人間は、子どもが、子どもを育てている状態なのです。実に、親子問題の根本、そして今の教育に関する問題の殆どは、ここに原因があるのです。

子どもを産むのに適した年代と、子どもに徳育を授けるのに適した年代には、ギャップがあるのです。昔の人たちには、そのことがよく解っていたので、家庭では祖父母、コミュニティでは神社仏閣にいる古老のような人、寺子屋には面倒見のいい先生がいるといった具合で、地域全体で親をサポートしていたのです。

ところが今は、それらの全てが崩壊し、子どもの教育は親世代がするものという常識や、「自己責任」といった言葉が、社会に広く蔓延してしまいました。そのため、親世代には過重な負担や義務感が生じ、それで子どもが産めなくなってしまったのです。しかしこの常識は、ここ半世紀くらいで出来上がったものに過ぎないのです。

私の子どもの頃は、親は、自分に子どもがまとわりつくと「外へ行って遊んでおいで」と言って追い払ったものです。それで平気でした。なぜならコミュニティが見てくれているという安心感があったからです。ところが今は、子どもにGPS付き携帯を持たせて見守っていないと心配でしょうがない、というまでに変わってしまいました。

学校も、ただ教員免許を持っていますというだけの、社会生活については仮免許状態の「子ども」が、「先生」と呼ばれて教育を行っているわけですから、もうどうにもなりません。加えて、社会生活の有経験者世代は、「高齢者」と一律の言葉で括って、介護保険で囲み、姥捨山に追いやってしまいました。

社会問題が発生すると、すぐに「◯◯センター」とか「◯◯制度」というものを考えるのは役人の発想です。それでまた新たな問題を作り、予算分捕り合戦を始める。そんなものは要らないということです。ただ、コミュニティの復活さえあればいい。

血縁、地縁、職場縁、すべてが崩壊してしまった現代では、あらたな「縁」によって、コミュニティを作って行くしかありません。欧米では、その機能を「教会」が果たしていたわけですが、さて、日本ではどうしたらいいのでしょうか。私はささやかなプランを持っていますが、あなたに、いいアイデアはないでしょうか?
現代「子育て環境」の盲点(1)
安倍政権が、「希望出生率1.8」という目標を掲げているようですね。この「希望」というのは、「若い世代の皆さま、どうか産んでくださいな」というお願いなのでしょうか? そうだとしても、どうも釈然としません。

なぜなら、第一に、出生率が低下していったのは、様々な社会的要因の結果であり、そうした社会構造を産み出してきた根本は、歴代政権が推進してきた政策にあります。その社会構造のゆがみを改めることなく、「希望出生率1.8」と旗だけを上げても、なにそれ、ということになってしまいます。

第二に、人口の減少をなぜそんなに問題視しているのかということです。地球規模でみれば人口の爆発は大きな環境問題です。ですから地球人口が減っていくことは悪いことではありません。地球からみれば、むしろよいことのはずです。それなのに、政府はなぜ問題視するのでしょうか?

これは日本国だけのことを考えていて、地球規模の発想がないからです。政府がいちばん問題だと考えているのは、労働生産人口の減少。つまり、働いて稼いでくれる世代が減ってしまうことです。そして、なぜこれが問題だと考えているかというと、将来のツケを負わせる人がいなくなってしまうからです。

1100兆円もの借金にしろ、高齢者の介護問題にしろ、年金問題にしろ、原発燃料の廃棄問題にしろ、環境汚染問題にしろ、これら全てを、次世代へのツケとすることを前提とした政治を、歴代政権が行って来たのです。言葉は悪いですが、「やり逃げ政治」だったのです。その限界の露呈が、日に日に近づいているということです。

一例を挙げましょう。年金の支給開始年齢が引き上げられましたが、5年先に延ばしたというのは、5年分が破綻したということです。5年分については、とりあえず破綻を確定したということ。破綻を認めたということ。私は1年遅れ、私より一つ下の年代は2年遅れと、段階的に移行していく。

ソフトな変化に見せてはいますが、実態は、制度そのものが成り立たないという事実をどこまで隠せるか、という段階にすでに突入しているのです。出生率の低下は、これらのツケ届けの限界の日を早めてしまいます。だから、政府としては、出生率減少の歯止めと上昇が必要だと考えるのです。

しかし、「希望出生率1.8」というブチ上げ方を見ても分かるとおり、彼らはこれを単にナンバー(数字)の問題として捉えています。ですが出産そのものは、個々の事情によるものであって、その年に生まれた赤ん坊の数を足し上げたら「出生率」というものが算出できるということに過ぎません。それを忘れています。

出生率が低下しているというのは、個々の事情の中に、子どもを産まない、あるいは産めないという環境要因が増大しているからに他なりません。
その一番の原因は何でしょうか、そしてどうしたらいいのでしょうか。これらについては、また明日に。
うわさ話
「Aさんから聞いたんですけど、◯◯なんですってね」と、目の前にいるBさんに言われ、びっくりしてしました。ハテ、どうしてそんなこと知っているんだろう? Aさんとは、もう随分長いこと会っていないのにです。しばらく考えて、共通の友人Cさんとそんな話をしたことを思い出しました。

あなたにもきっと経験があるでしょう。自分に関する「うわさ話」が、ブーメランのように自分に返って来たことが。

人はどうして「うわさ話」をするのでしょうか? どうして自分とは関係ない、他人の生活のあれこれを話題にしたがるのでしょうか? それを話題にして、何か益があるのでしょうか? 話題にすることがそれほど楽しいのでしょうか? 自分も同じようにされたら、とは考えないのでしょうか?

他人に関する「うわさ話」を10分すれば、その分数だけ、自分を見つめる時間が失われます。1時間すれば1時間、3時間すれば3時間。そうやって、自分の中に本来どうでもいい他人のことが入り込むのです。「うわさ話」が大好きな人というのは、結局、自分を見つめたくない人なんですね。

自分を見つめる訓練をしたことがなくて、そうするのが苦痛なので、「うわさ話」でヒマを潰してしまうのです。つまりは逃避です。芸能人の誰と誰がくっ付いたとか別れたとか、バスが転落して何十人も死んだとか、これらもみんな「うわさ話」。

それがあなたの生活と、一体どんな関係があるというのでしょうか? SMAPの解散とか、バスの事故のことを知らなければ、とても生きていけないとでも言うのでしょうか?

「うわさ話」をよくする人は、「自分」という主体が、そのネタを取り込んでいると思っているようですが、そうではありません。逆なんですよ。「自分」というものを、外側に流れるうたかた(泡沫)に売り渡しているんです。三日もすれば消えてしまうあぶくに「自分」を乗せて日々流している。

その人から、もし「うわさ話」の習慣を取り上げたら、いたい何が残るのでしょうか? カラッポな「自分」ではないでしょうか? それを知っているから、そういう「自分」を見つめたくないのです。向き合いたくないのです。そこで空白の部分に、関係ない他人の「うわさ話」を詰め込むのです。

このようなつまらない人と、付き合い話をすることはやめましょう。「うわさ話」(その大部分は悪口ですが)が始まったら、そっと席を離れましょう。あなたは、あなたなのですから。
上司面談で、自分の思いを正直に話してもよいか?
数日後に、職場で上司面談という機会があって、何でも話していいよと言われているのですが、今の自分の思いを正直に話して良いものでしょうか?

このような相談を、ある人から受けました。この人は、「正直」という言葉に引っ掛かって、自分の内側に葛藤を生じているようです。言いたいことはある。しかしそれを指摘したら、職場にかえって混乱が生じるかもしれない。でも言わないでいたら、自分の「正直さ」を裏切ることになる。

辛いですよねぇ。いっその事、そんな面談なんて機会がなければよかったのに‥‥と思いません? この答えは、トップ(最高権力者)が、どういう理念の持ち主であるかによって異なると思うのです。

相談者は、語るべき内容よりも、いつの間にか、自分が「正直さ」を全うすべきかどうかということに、意識の中心をスライドさせてしまっています。でも頭がいっぱいで、そのことに気がついていません。とても真面目で、真摯な人なのです。

ところが、面談相手である上司の視点は、そこにはないわけです。上司というのは、組織内の中間管理職です。あなたの「正直さ」を試しているのではなく、ガス抜きや、上の人間が気づいていない問題を把握するという目的と同時に、それを話しているあなたという人物を横目で見ているのです。

ガス抜き:組織内の不平不満が溜まって爆発する前に、吐き出させること。

ということは、何を話したところで、組織の権力者の意向によってジャッジされてしまうということです。中間管理職は権力者ではありません。中間管理職にも保身があり、半分は組織の意向で動いているのです。目の前に居るのは一人であっても、その後ろには「組織」の意向というものが控えていることを意識しないといけません。

その上司とどの程度気心が知れているかにもよりますが、なんでもさらけ出して訴えて、それがスンナリ通るほど、組織は甘くない。下手をすると、めんどくさい奴、職場の和を乱す者、危険人物、反乱分子、人格異常者、といった烙印を押される可能性だってあります。

組織というのは、所属する各人の、意識の集合体であり、集合体としてのパワーを持ちます。駅のコンコースを想像してください。人が少ない時はみんな各自の方向を歩いていますが、改札から一斉に人が出てきた時などは、この流れに逆らって歩くことは困難です。

修学旅行などでは、先頭に旗を持って歩く人がいて、その後をみんなでゾロゾロと着いていく。中には「俺は一人で、自由に歩きたいんだ」と思う人もいるでしょうが、それでは統制がとれないので、まあ従って着いていくわけです。組織というのは、所詮はそういうものです。

腐った組織をなんとか改革したいという思いは大切ですが、それを実行しようと思ったら、それなりの戦略というものが必要不可欠になって来るのです。

先ず、トップの首をすげ替えるという手があります。しかしこの方法は、末端の人々の強い支持がない場合には「独裁者」と言われて潰されてしまう懸念が高い。次に、中間管理職の誰かが、下克上によって実権を握るという方法、いわゆるクーデターというものがある。

そして最後に、末端の人々が一斉蜂起するのが革命です。下から改革しようとした場合には、同調者を集めて力にしていく(職場では、ストライキをやるなど)しか、対抗手段がないのです。以上、どの手を使うにせよ、組織の改革というものは大きなパワーを必要とし、一個人の力だけではどうにもなりません。

もし、トップ(最高権力者)に、働く人を大事にする考えや聞く耳があり、またその理念が組織全体に浸透しているのであれば、末端の一人の声が届くかもしれません。しかしそうでない場合は望み薄で、訴えたところで、やぶへびに成りかねません。

やぶへび:余計なことをしてかえって悪い結果を招くこと。

どんな改革も、結局のところ、力で捻じ曲げようとしても難しい。一時それで成功したかに見えても、曲げた木の枝も手を離したらパーンと元に戻っていってしまうように、なかなか定着しない。いつも言っているように、人間の「心」が変わらない限りは、表に現れるものも変わらないのです。

自分の「心」が変われば自分が変わり、家族の「心」が変われば家族が変わり、組織の「心」が変われば組織が変わり、人類全体の「心」が変われば人類と社会が変わるのです。

自分に「正直」であるということは、「魂」の声に従って生きるということです。なんでも打ち明けろということではないのです。自分としては「正直」に打ち明けたつもりが、単にあなたの偏見や、思い違いや、愚痴や、不平不満に過ぎないということだってある。それは、「魂」の声に従ったことになるのでしょうか?

先ずあなたが、「正直」なバイブレーションを出すように努めることです。泳げない人に、溺れた人は救えないのです。先ずあなたが、一人で泳げるようになることを目指すように。あなたが明るい灯台になれば、周囲はその光に照らされて、自ずと変わっていくようになるのです。
「小」も「貧乏」も、早く取れてくれんかな?
一念発起して、去年の暮れから、家の中のガラクタを捨て始めました。長年溜まった垢は凄まじく、捨てても捨てても尽きません。見るにみかねてか、女性陣が入れ替わりで来て掃除をしてくれるのですが、捨てる物の判断だけは自分がしなければならず、しっちゃかめっちゃかの状態が続いています。

分別作業をしていると、「あ、これはあの時の」とか「こんなものもあったっけ」と思い出すことになるのですが、今回は胸の痛みをそれほど感じずに、どんどんゴミ袋に放り込むことができました。5年前にはそれが出来なかったのに、少しは、進歩したってことでしょうかねぇ?

今回の心境の大変化は、昔やった仕事関連のものをぜ〜んぶ捨ててしまったこと。5年前にはまだ、そこに費やした多大な精力とお金のことを思い出し、とてもじゃないが捨てられませんでした。その大半は、苦さと、胸の痛みを伴うもので‥‥。でもそれも、今となっては幻なんですよね。

とにかく、いろんなことに手を出しては失敗というか、中途半端に終わってしまったことだらけで‥‥。それを他の人に話すと、大抵は、頭に「小」か、尻尾に「貧乏」とくっ付けて、ある言葉で批評されてしまうんですよねぇ。
何だと思います?

正解は「器用」。「小」も「貧乏」も、早く取れてくれないかなぁ?
えっ「まだ痛みが、ちょこっと残ってるだろう」ですって?
う〜ん、あなたは鋭い!
「克己心」と「訓練」
私が54歳で仕事を辞める決心をしたのは、一つには、自分がもう業界では通用しないということを悟ったためでした。と同時に、もう少し家事にちゃんと取り組んでみたいという願望が、沸き起こって来たのです。普通のことが普通に出来る人になる、というのが自分にとっての憧れでした。

それまでエキセントリックなことばかり追求して来たので、世の中から遊離しているという気持ちが強くあり、この辺で「男性社会」から抜け出して、早く「主婦感覚」を持たないことには、つまらんクソオヤジになってしまう、という危機感がありました。

すっかり抜け出てしまった今となっては、自分が過去にやって来たことが実にくだらないことばかりで、「男性社会」など、所詮は虚妄の産物という気がします。それよりは、三度三度のメシを、何をどうやって喰おうかと考えている方が、ずっと重要だと思うようになって来ました。

家事をするようになって気づいたのは、取り組む頻度がまるで違うということです。たとえば食事を作って食べるということを、一日3回やるとすると、一年では1,095回にもなる。これが、たとえば大学を出て田んぼをやったとします。すると、一生のうちに出来る経験回数はせいぜい60回ていどに過ぎません。

ということは、家事が大いに「訓練」になるということです。
何の?
「心」の矯正の。
「克己心」の。

食事づくりにせよ、洗濯にせよ、掃除にせよ、はたまた健康体操にせよ、瞑想習慣にせよ、毎日続けるというのは、簡単なようでいて、「克己心」がないことにはとても出来ません。ですから、徒弟制度のもとでは、入門者に先ず、掃除や下働きを徹底してやらせたのですね。

ところが今は不合理だといって、こういった「訓練」を、家庭で重視しなくなりました。メシなど別に作らなくても、腹が減ったらコンビニに走ればよい。冠婚葬祭で急に白シャツが必要な時も、その度にユニクロで買えばいい。別に洗濯してアイロン当てる必要なんかない。ぜーんぶ使い捨てだ。

これじゃあ「克己心」なんてとてもじゃないが養われませんよね。そもそも「克己心」という言葉が、今や死語になっている。私と同世代くらいまでは、そのまんま「克己(かつみ)」って名前の人が結構いたんですけどねぇ。

この点、スポーツをやって来た人は、やっぱり違いますね。スポーツの「訓練」の中で、「克己心」が磨かれているから。

家事に取り組んだおかげで、自分のような「へなちょこ」でも、随分矯正されて来ましたよ。確実に効果が現れています。このまま続ければ、どうやらクソオヤジにだけはならないで済みそうです。