安倍政権は、スローガンだけは次々と作るのですが、それで何か実効が上がっているのでしょうか? 旧「三本の矢」は、結局どのように総括されたのでしょうか? 目標が達成されたので、新「三本の矢」に移ったということなのでしょうか? もしそうでないなら、目くらましを続けているに過ぎないことになります。
「希望出生率1.8」についても、「掛け声だけに終わらせるな」の声があるのは当然です。では具体的にどうするのか。これを「対策」で考えていては、また新しい機構が作られ、そこに役人が置かれ、予算投入によって税金が浪費されて終わってしまいます。
ここで考えてみなければいけないのは、出生率の高い低いは、経済とはあまり関係がないということです。世界全体を見てもそうですし、日本国内においても、
都道府県別で見て出生率がいちばん低いのは東京都、そしていちばん高いのが沖縄県です。
市町村別を見ると、南の島で高いことが判ります。
戦後のベビーブーム(昭和22〜24年)のころだって、敗戦直後ということもあり、庶民の暮らしは今よりも格段に貧しかった筈です。それなのにどうしてベビーブームになったのでしょう? この差は、コミュニティのある・なしに起因していた、と私は考えます。
昔は、子どもを育てるのは親ではなく、コミュニティだったのです。ですから、出産年齢に達した若い世代が安心して子どもを産めたのです。親だけではなく、コミュニティ全体が、「子は宝」という視点で、当たり前のように子どもの世話をしてくれていたのです。
実はこれが最も肝心な点です。ですから、そういう習慣がまだ残っている地域では出生率が高く、崩壊してしまった東京都は最も低いのです。
そもそも、出産適齢期にある年代というのは、子育てには適していないのです。このように言うと意外に思われるかも知れませんが、私自身を振り返ってみても、「何かが解ってきたかな」と思えるようになったのは、50歳を過ぎてからです。それまでは、人間的にまだ未熟で、社会生活を学習中という仮免許状態でした。
考えてみてください。人間は他の動物とは違って、捕食の仕方だけを覚えればいいというわけにはいきません。社会生活の仕方を学ばなければ、独立した存在として生きられないのです。
出産の適齢期が10代後半から40代半ばくらいだとして、その時に、親は社会生活の仕方を、すでに充分に学び終わっているでしょうか? そんなことはあり得ません。つまり人間は、子どもが、子どもを育てている状態なのです。実に、親子問題の根本、そして今の教育に関する問題の殆どは、ここに原因があるのです。
子どもを産むのに適した年代と、子どもに徳育を授けるのに適した年代には、ギャップがあるのです。昔の人たちには、そのことがよく解っていたので、家庭では祖父母、コミュニティでは神社仏閣にいる古老のような人、寺子屋には面倒見のいい先生がいるといった具合で、地域全体で親をサポートしていたのです。
ところが今は、それらの全てが崩壊し、子どもの教育は親世代がするものという常識や、「自己責任」といった言葉が、社会に広く蔓延してしまいました。そのため、親世代には過重な負担や義務感が生じ、それで子どもが産めなくなってしまったのです。しかしこの常識は、ここ半世紀くらいで出来上がったものに過ぎないのです。
私の子どもの頃は、親は、自分に子どもがまとわりつくと「外へ行って遊んでおいで」と言って追い払ったものです。それで平気でした。なぜならコミュニティが見てくれているという安心感があったからです。ところが今は、子どもにGPS付き携帯を持たせて見守っていないと心配でしょうがない、というまでに変わってしまいました。
学校も、ただ教員免許を持っていますというだけの、社会生活については仮免許状態の「子ども」が、「先生」と呼ばれて教育を行っているわけですから、もうどうにもなりません。加えて、社会生活の有経験者世代は、「高齢者」と一律の言葉で括って、介護保険で囲み、姥捨山に追いやってしまいました。
社会問題が発生すると、すぐに「◯◯センター」とか「◯◯制度」というものを考えるのは役人の発想です。それでまた新たな問題を作り、予算分捕り合戦を始める。そんなものは要らないということです。ただ、コミュニティの復活さえあればいい。
血縁、地縁、職場縁、すべてが崩壊してしまった現代では、あらたな「縁」によって、コミュニティを作って行くしかありません。欧米では、その機能を「教会」が果たしていたわけですが、さて、日本ではどうしたらいいのでしょうか。私はささやかなプランを持っていますが、あなたに、いいアイデアはないでしょうか?