by Rainbow School
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コンピュータがフリーズ(凍結)!
私は、iMacというコンピュータを使っているのですが、これが頻繁にフリーズしてしまうのですね。フリーズというと、コンピュータの世界では固まって動かないことをそう呼ぶわけですが、私の場合はそうじゃないんです。文字通りFreeze! 凍結してしまって立ち上がらないのです。

最初にこの症状が出た時には焦りました。何しろ、このブログを書くことが日課になっているので、休むわけにはいかない。でも、コンピュータは立ち上がらない。マニュアルに書かれている裏技などを試してようやく回復させたのですが、ちょっと油断するとまた同じ症状が起きる。

何度か学習を積み重ねた結果、室温が3℃を下回ると凍るということが分った。たぶん、ハードディスクのオイルか何かが凝結してしまうのじゃないのかな? それとも、私が買ったパソコンがハズレだったのか。それで、究極の裏技を遂に編み出しました。パソコンをコタツの中に入れて暖める。これで立ち上がりました。

一昨日からの雪で、外は銀世界。この雪がイヤでイヤで東京に行って生活するようになったのに、今は、生まれ故郷よりもさらに雪深い奥地に来てしまいました。これも、追体験せよということなのかな?

自分が子どもの頃は、温暖化もまだ顕著ではなくて、雪がたくさん降りました。暖房は火鉢に練炭ゴタツのみ。とにかく寒かった。自分は冷え性だったので、夜は眠れませんでした。

冬景色を見ると、なぜか死んだ親父のことを思い出します。親父はもっと雪深い山村出身だったので、冬の過ごし方のノウハウを持っていました。親父というのは、家族の中ではバカにされる存在だと思うのですが、冬になると親父の足の親指がキュッと縮こまり、ベタ足をなるべく床に着けないようにして歩いていて、それをからかわれていました。

雪深い山村で少年時代を過ごした親父。昔の人は凄い根性をしていたな、と思います。東京オリンピックが開かれた1964年以降は、急に物質的に豊かになって、今の自分も、電気ゴタツはあるし、ハロゲンヒーターが一台ある。移動用に軽自動車もある。(全部中古品)

できるだけ「根性」を叩き直したいけれど、へなちょこ故、もう少ししたら山を降りるつもりです。
やりたいことが見つからない?
よく「自分のやりたいことが見つからない」という人がいますよね。でもそれは、本当に見つけようとしているのかな? そうじゃなくて、やらなくてもいいこと、どうでもいいことで、自分をいっぱいにしているために、やりたいことを見出す隙間がなくなっているだけじゃないのかな?

少し立ち止まって考えてみて欲しい。朝の連ドラ、毎日見る必要があるのかな? 定時のニュースをいつも見る必要があるのかな? 新聞を端から端まで読む必要があるのかな? 一日何十件もメールをやり取りしたり、ツイッターでつぶやく必要があるのかな? お昼休みや会社の帰りに、同僚と噂話をする必要があるのかな?

それで、心が豊かになったかい? 自分の成長を実感したかい? それならばいい。でも、そういう実感がないまま、誰かが作った時間に始終自分を合わせていたら、「自分のやりたいこと」を見出す時間なんてなくなっちゃうよ。

だからね、順番が逆なんだよ。「やりたいことが見つからない」じゃなくて、「見つからない」ように、自分を「どうでもいいこと」でいつもがんじがらめにし、忙しくしちゃっているから、やりたいことを見つける時間がなくなっているんだ。「やりたいことが見つからない」なんて、単なる言い訳さ。自分を真剣に見詰めたことがないだけ。

そうじゃなくて、「どうでもいいこと」を捨てることが先なんだよ。「何かをしよう」じゃなくて、どうでもいいことは「何もしない」が出発なんだ。これを「無為の為」(何もしないことを為す)と言う。「どうでもいいこと」を断ち切ることで、初めて、自分の「やりたいこと」が浮かび上がって来るんだ。

そしてそれは、自分の外側にはない。「やりたいこと」を探して、眼を皿のようにして、あっちを見たりこっちを見たりしていたら、それでまた自分の時間が無くなっちゃうじゃないか。

食べ物や飲み物を断ち切ってごらんなさい。喉の渇き、真の渇望というものは自分の内側から起こってくるものなんだ。それを、リンゴジュースが自分には合っているんじゃないか、いやハーブティーが合うかな、と味見を繰り返していたら、自分の渇望がどこから沸き上がってくるかさえ分らなくなってしまうよ。

現代人の不幸は、自分の内面を見詰めることをしなくなった、というところにある。とりあえずの欲求を満たすものが周囲にたくさん有り過ぎて、よりどりみどり。常にそれらに引っ掛かって心を動かされ、自分というものを見失ってしまう。

心豊かになるためには、どんどん捨てること。これが現代人には分らないんだね。だから、あなたには、大胆に捨てて貰いたい。自分の生活を見直し、「どうでもいいこと」は捨ててしまうんだ。しばらくすれば「ああ、本当にどうでもいいことだったんだ」と分る。そうすれば、その先に、自分の本当に「やりたいこと」が見つかるから。
「清貧」である必要はない
私はどこからどうみても貧乏人です。54歳の時に「もうダメだ、自分は通じない」と実感して、それまでの仕事を捨てる決心をしました。その後はアルバイトで生計を立てようと思っていたのですが、上手く行きませんでした。年齢ではねられてしまって、まずもって雇って貰えない。労働市場の過酷な実態を目の当たりにしました。

「清貧」という言葉がありますよね。自分が「清」であるかは判りませんが、「貧」であることは間違いない。ヒヒーン。他に「貧すれば鈍す」(貧乏をすると、生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる)という言葉もありますが、そうならないように「貧して、ますます鋭す」を心掛けています。略して「貧鋭」。

貧乏というのは、結局相対的なもので、絶対的な貧乏とか、絶対的な金持ちというものはないわけです。お金のない人はないなりに工夫して暮らし、ある人はそれなりに使えばいいだけのことです。私も今はこうですが、お金がある時にはそれなりに使いました。いちばんいけないのは、お金を溜め込むこと。流れをストップさせることです。

お金は、よく血液に例えられます。社会の中で健全に回っている間は健康で、そこに鬱滞、鬱血があると、社会は病気になってしまいます。甚だしい時には、動脈瘤破裂などの症状も起こすのです。

お金持ちというのは、要するに大動脈を担っているわけで、動かす血液量が多いわけです。ですから、それをストップさせたら影響が大きい。全身に血液が回らなくなる。この血液を適切に回すことで、小さな血管にも流れて行き、果ては毛細血管まで行き渡るのです。私などは、さしずめ毛細血管の役割を担っているというわけです。でもこれだって、なければ困る。

結局のところ、それぞれに応じた働きをすればいいのであって、別に「清貧」である必要はない。逆にみんなが「清貧」を目指したら、社会は困ってしまいます。

いま富者である人は、前世で人々を労ったり、施しをしていた経験があって、今世そうなっているのかも知れません。ですから、次に極貧に陥ったりしないように、その恵まれた境遇を活かして、他の人々に役立つようなお金の使い方をすればいいわけですね。残念ながら、そういう人が少ないようですけれども。
「気をゆるす」間柄はいいが、「気がゆるむ」間柄であってはマズイ
なんでも腹蔵なく話せるという人、あなたの周囲に居ますか? 先日観た『世界入りにくい居酒屋』の台南編、この店が人気なのは、料理もさることながら、店長アンディが客の人生相談に熱心に耳を傾けてくれること。心にわだかまりを抱えた人たちが、夜毎やってきてはカウンター奥の通称「説教席」に身を沈める。こういうバーがあるというのはいいですよね。

アンディが慕われる理由は、人生経験が豊富で、客が気がつかない新しい視点を与えてくれること。お世辞を言ったりすることはなく、間違っていた場合はズバリ指摘する。こういうところが結局、信頼の証なんだね。それと、口が堅いというのも大事なポイントかな。つまりアンディは、気のゆるせる人、というわけ。

もし家族の中で、そういう関係が築けている人が居たとしたら幸せだね。でも大抵はそうじゃない。なぜかというと、家族の場合は、よく知っているということが、「気をゆるす」関係ではなくて、「気がゆるむ」関係になりがちだから。よく知っているからこそ、何でも許されると勘違いして、無意識のうちに傍若無人に振る舞ってしまったりするんだよね。

自分の価値観のみで、家族の思考や行動を即座に批評したり、その時々の自分の気分をストレートに身近な人にぶつけたりする。たとえば、寝起きで不機嫌そうな顔をしたまま、すぐに当たり散らしたりする人いませんか? こんなことは、普通は初対面の人にはしないものでしょう。だから家族に対してはそれができるというのは、「気がゆるむ」という証拠なんですね。

それは、その人が甘えん坊さんで、自分をまだ客観視できていないんですね。そうすることで、自分が他の家族にどれだけ余計なプレッシャーを与えているかということに、全然気がついていないんです。これは齢を重ねても、ちっとも成熟せずに80、90になってもワガママ放題という人だって大勢いる。

こういう皺寄せは、大抵は、家族の中で最も穏やかな、おとなしい人に集中してしまう。その人は、必死に耐えているんだけれども、気づかない者たちはさらに追い打ちを掛けるように「あんたももっと主張したら」とか「グズグズしてる人は大っ嫌い」とか、勝手なことを言う。家族関係に「気遣い」がなく「気疲れ」にしかならない。

やっぱり「気遣い」が大事。日ごろの「気遣い」があってこそ「気をゆるす」関係になれるわけだから。でも、今の家族関係を変えようとしたところで、相手を変えるわけにはいかないから、自分を変えるしかありません。先ず、自分が「気遣い」を忘れて、傍若無人に振る舞っていたことに気づいたら、これからはそれを改めて「気遣い」の人になって欲しい。

逆に自分が、他の家族のワガママに振り回されていて困っていたとしたら、微笑みで受け流して欲しい。我慢を重ねて気分を悪くするよりも、心の中に微笑みを浮かべて対処するのです。そのうち、それが身に付いて、あなたは一段と大きな人になる。その時に関係が変わる。もしどうしても耐えられなくなったら、一時的に逃げたっていいんですよ。
平常心
「恐怖」というものの正体は、詰まるところ「変化への抵抗」です。しかしこれは、全く「理」に適っていません。「真理の法則」を無視した考えです。そこで理不尽な思考の結果として、葛藤の中に「恐怖」が生じるのです。

宇宙にあるものはただ「変化」だけです。実在はなに一つありません。目の前に在るように見える物は、みな仮の姿であって、どんなものも必ず「変化」して行きます。宇宙には消滅も創造もないのです。ただ「変化」だけがあるのです。

この、「宇宙は仮の姿」だということを「マヤ」と言います。お釈迦様の母親の名は「マヤ」と言うのですが、「ma」という母音は、母なるものを表す世界共通語となっています。「マヤ」に対応するものが西洋では「マリア」です。この「ma」から生じた物は、みな「マヤ」、つまり幻だということです。

ところが人は逆を考えるんですね。「変化」だけが真理なのだとは考えずに、目の前の仮の物を真実だと考えてしまい、「変化」に抵抗する。仮の物、マヤに過ぎないものを追い求めて夢中になり、せっせと蓄え、今度はそれを失うことを心配する。

勝負事を前にして「恐怖」が生じるのは、勝負の後には、明確な「変化」が約束されているからです。ところが、「勝つ」変化は望むが、「負ける」変化は望まない、という分岐点に意識を集中させると(つまり勝敗に拘ると)、正にこの理不尽さの真っ只中に自分を置くことになり、激しい緊張と「恐怖」に晒されることになる。

そこで、「勝敗は時の運」と割り切って、日頃の成果をそのまま出し切ろうというところに意識を集中させることを「平常心」と言い、勝負師たちはこれを養うわけです。勝負を前にして、勝敗に拘る心をどれだけ滅し、「平常心」で望むことができるかが、日頃の鍛錬の成果となるわけです。
人生デザイン U29
Eテレの『人生デザイン U-29』という番組を楽しみでよく観ています。「U-29」というのは「Under 29」のこと。20代の若者の、仕事を通した人生デザインのあり方を、いろんな事例を見せながら紹介しています。

私はもう還暦を過ぎていて、若い人との付き合いも縁遠くなっているために、この番組に登場する人たちの感覚が、若い人たちのマジョリティーなのかどうかは分かりません。でも、こういう人たちが居るということには、なんだかホッとします。

中でも、師を持たずに、自分一人で仕事を立ち上げて、地域の人々に喜んで貰おうと奮闘努力している人たちには、とても共感を覚えます。なにかそこに、共通感覚があるような感じを受けます。

一度会社勤めをしたけれど、すぐにドロップアウトしたような人が多くて、社会が一生懸命送り出す価値観にハマらない人ですね。社会に対して特に抵抗しているわけでもなくて、「なんか違う」という感覚なのかな?

「お金」というものは二の次で、自分がいいと思うことを、ただ素直に実現したいと行動しているところはステキだね。そんなに力が入ってなくて、飄々としている。年齢は若いんだけれど、なにかもう老人みたいです。老人感覚が最初から身についている。

そして、親世代がうっちゃって来た、古き良きものを復活させようとしたり、世代を超えたコミュニケーションを普通にしているところも素晴らしい。特定の師は居なくても、どんどん行動しているうちに、自然と手助けしてくれる人も現われるんですよね。それはやっぱり、理想イメージに対する、周囲の人々の共感なのかなと思う。

それと私が感じるのは、彼らのセンスの良さ。コンセプトが肥大し先行しているというのじゃないんです。いきなり「デザイン」でズバッと来る。表現がオシャレだということです。

オシャレと言ったって、企業がやっている見た目キレイキレイというんじゃないんですよ。あんなものちっともオシャレじゃない。感覚がオシャレだということです。壁に傷があろうが、ボロを着てようが、オシャレなものはオシャレ。

自治体がやったりすることは、みんなこれとは正反対。先ず、誰からも文句が出ないような「お題目」を掲げて、「お題目」に合致するかどうかだけを判断していく。そしてデザイン感覚はゼロ。デザインということになると、プロに頼んで、これが談合で決まっていく。だから、何をやってもオシャレじゃない!

大事なものは、センスだよ、センス。ナイスなセンスなのさ。

私は、「U-29」の彼らに「ガンバレ」なんて言わない。ハッキリ言って、くやしいよ。私も彼らを手本にして生きる。ただ今、ウエストサイズ「Under 29」インチ。
東洋で、祟り神を祀るわけ
宇宙は双極性によって成り立っていることは間違いのない事実です。身の回りのあらゆる事物を見ても、陰陽二極に拠らないものはなに一つありません。これをシンボル化したものがタイチーマーク(陰陽太極図)であり、陰陽が渦を巻いているのが宇宙の構造であるということを示しています。DNAの二重螺旋が発見されたのは20世紀の後半に入ってからですが、これを見事に証明しています。

どうして二極なのかという理由は、あまりにも深遠なために、簡単に語ることは出来ません。しかしこの双極性から「善と悪」という概念が生じていることもまた事実です。ところが、西洋と東洋とでは、「善と悪」というものに対する考え方に、大きな違いがあるのです。

西洋では、「善と悪」はあくまでも対立概念であり、悪を滅ぼす者を善とした。したがって悪と断じた者を攻撃することに正当性を与えました。このような考え方は、一神教から来ています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が信仰の対象としている神は同一で、それならば仲良くしたらいいようなものの、互いに異教徒を憎しみの対象にまでしてしまう。

この背景には、根本に間違った一神教の解釈があるのです。「神は一つ」という考え方そのものは正しいし論理的に矛盾はありません。けれどもその神を「善」なる側に置き、反対側に「悪」の親玉としてのデビルやルシファーを設定しました。そして「善」なる神を仰ぎ、近づこうと努力する者、つまり自分たちは「善」なのだとしてしまったのです。

でもこの論理は、何かおかしいことに気がつきませんか? ではデビルやルシファーを創造したのはいったい誰なのでしょう? もし宇宙創造の最初の段階からデビルやルシファーが居たのだとしたら、善の神と悪の神が存在するという二神教になってしまいます。一方「神は一つ」というロジックを貫くのであれば、デビルやルシファーも神が創ったということになります。

西洋では、このような根本的矛盾にはほっかむりして、善悪二元論を持つ一神教という概念を、二千年に渡って、広く深く浸透させて来てしまったのです。これは、本来誰もが自分の中に持っている「悪」を手なずけるには非常に都合がよかったのです。その「悪」にきちんと向き合わずに、「悪」を他者に転化して、それを攻撃すれば自分の「善」が正当化されたからです。

一方、東洋では汎神論が普及しました。これは、あらゆるものに神性が宿っているという考え方です。あらゆるものに神性が宿るということは、見方を変えれば、一神論だということがお解りいただけるでしょう。ですから汎神論の方が、むしろ本当の一神教とも言えるわけですが、西洋はこれを低俗な偶像崇拝として扱ったのです。

インドでは三大神と言って、宇宙を創造した神(ブラフマ)、出来上がった宇宙を保ち生かす神(ヴィシュヌ)、そして消滅させる神(シヴァ)を設定しました。これは宇宙の循環サイクル(輪廻)を、見事に表現しています。創造と消滅は一つのサイクルであって、どちらが「善」だとか「悪」だとかはない。それが宇宙の実相だということです。

日本では、祟り神である「艮の金神(うしとらのこんじん)」をご神体とする宗教がいくつもあります。「艮」は十二支を360度の方位に当てたときの、丑と寅の中間で、東北を差します。いわゆる「鬼門」の方位です。鬼の絵が牛の角を持ち虎のパンツを穿いているのは、この「艮」をもじったものです。

じゃあ「艮の金神」を崇めるような宗教は、悪魔崇拝なのか? そうではありません。天候一つとっても、人間にとって良い時も悪い時がある。天変地異だってある。疫病の流行や飢饉もある。それらを認めた上で、そういう力を発揮している天の存在に対し、自分の不徳を詫びて、その力を自分の善なるものに転化していただこうということなのです。

ところが西洋の場合は違う。デビルやルシファーを崇めるのは、本当に悪魔崇拝なのです。自分の悪魔的考え、支配欲に対して、その実現に向けて力を授けて貰おうとするのです。善悪二元論の一神教という、そもそもの矛盾が、そっくりそのまま悪なるものを主神とする宗教に置き換わっているわけです。

こういう感覚は、日本人にはなかなか理解し難いものがあります。が、逆に西洋から見たら、善も悪も一緒だという考え方は、理解し難いわけですね。例えば、病気に抗うのではなく、認めて共存して生きていく、などという考え方は、西洋人からすれば敗北思想であり、「なぜ戦わないんだ」となってしまうわけです。

しかし、今日の世界情勢を見れば、善悪二元論の一神教が、ここまで混乱した世界を創ってしまったということは明らかです。過去に、西洋社会で東洋を学ぼうとしたムーブメントが何度か起こったのですが、幾世紀、何世代にも渡って、あまりにも深く宗教が浸透したため、これを覆すことは殆ど不可能のように思えます。

アメリカ大統領が、就任の宣誓を行うに際し、聖書に手を置くことはご存知だと思います。ジョージ・W・ブッシュが、「悪の枢軸国」発言を行い、テロと戦うと宣言した時に、国民の7割以上が熱狂したのですが、そうなる下地が、そもそも西洋社会には色濃くあるということです。

しかし東洋には、二極性は同一のものの循環という考え方が基本にあって、祟り神までをも祀って来たということですね。我々はそのことの意味を、今こそ振り返ってみるべきだと思います。
仕事を、自己完成の「道」に変える
雇用問題については何度も書いてきましたし、現状のあり方は全くヒドイと思うのですが、「ヒドイ、ヒドイ」とばかりも言っておられません。ですから一つには、組合を作るなり、デモをするなり、悪徳企業を告発するなり、改善のための具体的な行動を起こすことが必要だと思います。

しかしもう一方で、そこまでのことはない、日々の業務でプレッシャーを感じている程度という方は、自分の心の持ちようを変える、ということに取り組んでいただくと、日々を乗り越えられると思います。

現代は世知辛く、会社経営というものが、資本と経営者と労働者を分離したために、現場と関係ない資本家は、常に自己の利益追求を株価上昇といった形で求め、経営者に対してプレッシャーを掛け続けます。無能な経営者は、これをそのまま下へ降ろし「数字を出せ」と迫るので、みんな疲弊してしまうのです。

数字というものは、確かに一つの成果の指標としてはとても分かりやすい、誰もが共通で納得できるものなのですが、数字のドレイになってしまっては本末転倒です。数字のために働き、数字に動かされるとなれば、その化け物のような数字に支配されることになって、本来の仕事のあり方が失われてしまいます。

仕事の成果というものは、さまざまなものの集合体であって、あなたのちょっとした笑顔や親切心や一言が、見えないところで結びついていることだってある。でもそういうものは、評価基準というものが立てられないんですね。株主に対してだって説明できない。しかしそこを解っていない経営者は、私はダメだと思います。

とはいえ、冒頭に書いたことと同じで「上がダメだ、オヤジがダメだ」と愚痴をこぼしてばかりいても仕方がありませんので、ここはゲリラ的な行動をとってみてはいかがかなというわけです。

それは会社の評価とは関係なく、自分に対して自分の評価を定めることです。会社の評価にただ盲目的に従っていたのでは、気づかぬうちに、いわゆる「社畜」というものになっていく。またもし会社が誤った方向に進んでいた場合に、自分もそこに積極的に加担することになってしまいます。

そうではなくて、目の前の仕事を、自分の人生の中で、身につけなければならない課題に置き換えてやっていく。忍耐力が欠けていると思う人は、これを忍耐力を身につける訓練にしようとか、コミュニケーション能力が不足している人は、これをコミュニケーション能力を向上させる機会と捉えよう、といった風に置き換えるのです。

会社の言うことなど「はい、はい」と言って、聞いたフリをしていればよろしい。そうではなくて、人間としてどうあったらいいのか、お客さんはどんなことで喜んでくれるのだろうか、それを自分の頭で考えて、その理想を実現できる人間になれる努力を(仕事通じて)することです。

そのようにすることで、出世はできないかもしれませんが、人生の終盤に入った時に、自分の成長というものを確かに実感できると思います。これこそが、我が人生の意義というものではないでしょうか。

突如会社をクビになった人は、たいていこう言います。「俺がこんなに会社に尽くしてきたのに、いったいこの仕打ちはなんだ!」と。しかしそれは、そのような錯覚に落ちていた自分が悪いのであって、会社と自分とは、単なる雇用契約に過ぎません。

「会社のために」とか「誰々のために」といった文言は、一見、犠牲的精神で素晴らしいように思うかもしれませんが、そんなものは、自分の主体性を放棄したドレイでしかありません。その会社や誰々が居なくなったら、たちまち「想い」そのものが崩壊してしまいます。

口に出す必要はありませんが、内心ではすべて「自分のために」といつも意識することが大切です。そしてそれはエゴではありません。何事も自分で責任を持ち、自分で自分を支配するということです。「自分のために」周囲の人々とも仲良く、分かち合い、愛を与えていく必要があるのです。

このようにして、目の前の辛い仕事も困難も、全部、自分を育てる修練の場に変えていくのです。そうすれば、それはやがて、仕事を超えた「道」となります。
「栄養」は食べ物それ自体ではない
私たちは物質的な肉体を持ち、その生命を維持させていくためにはエネルギーを取り込まなくてはなりません。この外部から取り込むエネルギーには、大きく二種類があります。一つは食べ物です。もう一つは、現代の科学では認められていませんが、呼吸と共に取り込んでいるプラーナです。

プラーナのことについては、これまでにも何度か書いてきましたが、「生き」とは「息」であり、人間は誕生して最初に「息」をした時から、魂を持った個人として生き始め、「息」をしなくなった時に肉体を持った存在としての活動を停止します。これが「生き」を引き取る、ということです。霊界に帰る(引き取る)わけですね。

この二種類のエネルギーのうち、どちらが重要かは、言うまでもなくプラーナです。普通の人でも、一ヶ月くらいは食物をなにも摂取しなくても生きていけますが、息は5分間くらい止まっただけで、たいていは死んでしまいます。ところが、この重要なプラーナについての知識は、一般の人には殆どありません。

さて今日は、もう一方の食物エネルギーのことですが、現代の栄養学がいかに間違っているかという指摘はこれまでにもしてきました。先ずプラーナの働きを知らないわけですから、そもそも根本的に間違っています。人体にとっては、プラーナが主たるエネルギーであって、食物というのは補助的エネルギーなのです。

だからと言って軽視してよいというわけではなく、やはり気を使うべきなのですが、その気の使い方のポイントが、現代栄養学では間違っているのです。

ここで、その基本的なポイントを挙げますと、
1.できるだけ汚染されていない、生命エネルギーに溢れた旬のものを摂る
2.少量をよく咀嚼して、楽しく、かつ喜んでいただく
3.日常の生活において、呼吸を整え、心身のバランスをよくしておく

といった点に気をつければよく、摂取する食品の種類にはそれほどこだわる必要はありません。これは人体というものが精密な化学工場であり、生きるために必要なものは自分で作り上げる能力を持っているからです。もちろん1.の点から言えば、加工食品などはできるだけ避けるべきです。

さて、現代栄養学の一番の問題は、「栄養」というものが、食べ物それ自体にあると考えているところです。その結果、バランスのよい食事を心がけるために「一日30品目を摂れ」といったスローガンを掲げたり、栄養を摂るという観点から、どうしても過食になりやすい傾向があるのです。

現代人の健康問題は、栄養不足にあるのではなく、むしろ過食によるバランスの乱れにこそあります。これは「栄養」というものの捉え方の誤りから来ており、「栄養」は食べ物それ自体にあるのではなく、人体という化学工場で、必要な要素に再構成され「自己化」していくというところにあるのです。むしろ、ここにスポットを当てなければなりません。

ですから、素材の種類や量をうんぬんするよりも、先ず精密化学工場としての自分の体が、外部エネルギーをどれだけ「自己化」できるかという能力に、「栄養」が大きく左右されるということです。これが、真の栄養学なのです。

そしてそのためには、心身を平静に保ち、平常からプラーナを充分に取り込んで、先ず生体機能を活性化させておく。その上で、楽しく、感謝して、毎食をいただく。これが最も大切だということです。
肉親の情
世間では、肉親に対する情愛が濃いことがよしとされています。だからそういう感覚があまりない人は、それを告白すると、何か後ろ指をさされるような感じがしているのではないでしょうか。かく言う私もその一人です。また逆に、不幸にして子ども時代に親の愛情を充分に受けられなかった人は、大人になってもずっと満たされない思いを抱え続けたりしています。

「肉親の情」というものは、この世で肉体を持った存在として生を受けた時に、学ばなければならない課題の一つであることは確かです。しかし、「動物を見習え」といつも言っているように、動物の親は子育て期を終えたら、子どもをさっさと独立させてしまうのです。いつまでも「肉親の情」にこだわっている親子関係はありません。

「肉親」という言葉を見ても分るように、これはあくまで「肉」の上の親子兄弟姉妹関係であって、「魂」の縁というものは、また別の次元の問題です。今世での縁者の大部分は、過去世でも縁の有った人たちで、特に家族関係は、配役を変えてまた家族を構成するケースが多い。それは先に言ったように、それを通じて色んな愛情関係を学ぶためなのです。

しかし霊界に帰ってからは違う。霊界というのは波動の高低によって完全に棲み分けされた世界ですから、この世で肉親関係だったからと言っても、霊性のレベルが違えば、当然違った階層に行ってしまう。むしろ同じ階層の同じグループにいる魂の方が通じ合えるし親しいのです。そしてそういう人とも、この世であなたは遭遇しています。

この「肉親」と「魂の友」との違いを、よく認識していただきたいのです。両者が一致している場合ももちろんあります。「肉親」の関係を別に軽視するわけではないのですが、それはあくまで、今世における役割と課題であって、そこに拘泥してしまっては本末転倒だということです。目的は「魂」の成長、霊性の向上にあることを忘れてはなりません。

守護霊に先祖の縁者が付いていることはほぼ確かですが、死んだお父さんお母さんに見守って貰いたいと思ってもそうはいかない。先祖の中でも、高いレベルに達した「魂」が、守護霊として付くということです。死んだお父さんお母さんというのは、過去世では、もしかしたら自分の子どもだったかも知れない存在です。「肉親」の縁というのはそのようなものだということです。

ところが冒頭でも言ったように、一般的には肉親に対する情愛が濃いことがよしとされていますので、この心理を利用して、霊的世界を語る者があまりにも多いのです。

先祖供養はこういう方法でとか、墓はこんなふうにとか、向きがどうたらこうたら、お札がどうした、先祖に不成仏霊が何体いる、ご先祖で恨みを残して死んだ霊が取り憑いている、等々。見えない世界であるのをいいことに、まったく言いたい放題です。最近ではここにペットまで入り込んで、亡くなったわんこが微笑んでいますよ、などと言う。

これらはみんな「肉親の情」につけ込んだもので、そこを刺激されるから「なるほど」と感激する。しかし本来ならば、動物を見習ってそこを卒業しなければならないのに、ますます「肉親の情」に拘泥するという、霊性の向上にとって、まったく逆効果をやっているということを一般の人は知りません。

霊的世界というものは、ホットなものではなく、もっとクールなものです。それは法則なのです。数学なのです。「肉親の情」をいつまでも引きずり、喜怒哀楽で常に「心」を動かしている存在が、高い次元の普遍的な存在であるわけがないではありませんか。そんなものは、ちょっと考えれば解るじゃありませんか。