by Rainbow School
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『大地の子』と上川隆也さん
BSプレミアムで、山崎豊子さん原作のドラマ『大地の子』がアンコール放送され、近ごろ骨太のドラマがなかったので、これを楽しみに観ています。このドラマの最初の放送は1995年。なんと、それからもう20年が経っているんですね。

『大地の子』には、ちょっとした思いがあります。この時期、私は、巣鴨で中国人兄弟がやっていた整体院に足繁く通っていて、彼らと『大地の子』について話し合ったのです。その時に、主演の上川隆也さんが日本人俳優だと言うと、彼らは目を丸くして驚いた。それほど、上川さんの中国語が完璧だったということです。

この役は当初は本木雅弘さんが予定されていたそうですが、長期に渡る中国ロケで有名俳優を拘束することは難しい。そこで、劇団「キャラメルボックス」の上川隆也さんに白羽の矢が当たったのだそうです。

この上川隆也さんを見つけて来た慧眼というのは、凄いと思う。私も当時、もの凄い新人俳優が居たものだと驚きました。もしこの主役が、名の知れた日本人俳優であったなら、ドラマは全く違ったものになっていたと思う。中国に取り残された戦争孤児のリアリティは、やはり無名の新人でなければ出なかったと思います。

加えて、陸一心という人物の純粋さ、ひたむきさを、上川隆也さんが完全に一体となって、全身で表現し尽くしている。陸一心はとにかくよく泣く。一つのドラマで、こんなに泣いてばかりいる主役という設定も珍しいですが、それが少しも嫌味のない感情表現になっていたのは、大したものだと思います。

最終話では、原作のタイトルにもなっている「大地の子です」という言葉が、陸一心の口から述べられ、これにも非常に感動しました。これは、陸一心(日本名:松本勝男)に、父である松本耕次が「日本に来て一緒に住まないか?」と遠慮がちに誘った際に、陸一心が答えた言葉です。そう言って、息子は父の申し出を婉曲に断り、中国に留まる決意を明らかにするのです。

でも、当時は気づかなかったのですが、この「大地の子」には、もっと大きな意味があったのだと思い至りました。この「大地」は、中国大陸ということではなくて、地球の「大地」だったのだということ。だから、中国と日本と、国は離れていても繋がっているという意味だったんですね。
「願う」と「祈る」の違い
神社仏閣に行きますと「ご祈願」という札がありまして、その言葉からも判る通り、一般には「願う」と「祈る」は一緒にされています。多くの人も願い事を祈っておられると思います。また宗教家でも「祈り」を強調される方は多いですが、それもやはり「平和を祈る」「安全を祈る」「皆の幸せを祈る」といったふうに、願い事をお祈りしているのではないでしょうか?

「祈り」は大切です。また「理想」を持つこともよいことです。しかし、「理想」の実現を願って「祈る」となった場合、いったいどのような対象に向けて「祈る」というのでしょうか?
多くの人は、疑問を持つことなく「神様」と答えるのでしょう。祈れば「神様」が願いを聞き入れてくださると思っている。

それは、「神」を「人格神」と見なしているんですね。父のような存在、母のような存在をイメージして、人間の認識、思考、感情をその対象にアナロジー(類推)しているのです。仮に「神」がそのような存在であるとした場合、その「神」は、人間と同じように、外からの情報に動かされる存在ということになってしまいます。まさに「願いを聞き入れる」とはその一つです。

しかし、自分の外側から来る情報に対して、怒ったり、同情したり、慰めたりといった喜怒哀楽を見せる存在が、果たして「神」なのでしょうか? 「神」は万物の創造者であり支配者です。その「神」にとって、外側の存在や情報などがあるわけがありません。もしあったとしたら、その「神」は「神」とは言えず、別の存在があることになってしまいます。

これは、大いなる矛盾です。ですから、「神」が「人格神」であることは、絶対にありません。論理的に言ってあり得ません。よって、「神」が願いを聞き入れることもありません。
これが、「神」が「沈黙」する存在であることの理由なのです。
どうです、ガッカリされたでしょうか?

「願い」というのは、自分勝手なものです。仮にここに、相争っているAさんとBさんが居るとしましょう。AさんBさんがともに「どうか私を勝たせてください」と神様にお願いしたとしたら、いったいどうなるのでしょう。もしあなたが神様の立場だったらどうしますか? お賽銭の多い方を勝たせますか? それともお祈りの回数で決めますか?

個々人の願いをいちいち聞いていたら、公平が保てないことがすぐにお解りでしょう。あっちにも媚を売り、こっちにも媚を売る。そんなものが「神」であるはずがないではありませんか。

何度も言うように。「神」とは「法則」なのです。いわゆる「一者の法(The Law of One)」です。「法則」だからこそ、普遍性と公平が保たれるのです。宇宙はこの法則に支配されていて、法則に則った生き方をすれば調和がもたらされ、反した生き方をすれば不調和となる。ただそれだけのことです。

「願い」は「祈る」ものではありません。自らの実践によって、行動によって、実現させていくものです。そしてその「願い」が、宇宙の法則に適ったものであった場合には、後押しがあって成就に向かって行くのです。自己の行動力を過信して、それのみで「成功」を手に入れたとしても、それが宇宙の法則に反していれば、やがてその「成功」は壊れて行くことになるのです。

法則の一つに「他人に為したことは、自分に為したことと同じである」というのがあります。この法則をよくわきまえて行動していれば調和がもたらされ、たとえどんな「願い事」をお祈りしようとも、無視した行動をとっていれば、それに応じた不調和の反作用が必ず返って来るということです。

この真理をみんな解らずに、「祈る」と「願う」をごっちゃにしてしまっているから、「願いが聞き届けられない」などと言うのです。

そうじゃないということ。
「祈る」とは、「法則」にアプローチし、これと同調することに他なりません。現実世界は粗雑なものに満ち溢れていて、これに巻き込まれ、時に生き方を見失ってしまう。そのような時に、「祈る」行為によって、「法則」と同調し、それを掴み、「魂」本来の生き方に戻すのです。

お解りいただけましたでしょうか。
これを理解された方は、どうぞ本物の「祈り」を実践していただきたく思います。


あなたにできること、できると夢見ていることは、何であれやりなさい。
大胆であることは、天から与えられた才能であり、能力であり、
そこには、魔法の力が宿ります。(ゲーテ:1749 - 1832)
結婚観・恋愛観
40代のある女性からこんな話を聞きました。その方はちなみに独身です。
大学の入学時に、親からこうきつく言われたのだそうです。「学費を出して上げるんだから、四年間しっかり勉強しなきゃダメだよ。学業が本分なんだから。言い寄る男がいたとしても、そんなのにうつつを抜かしてちゃダメだよ」と。そして、彼女はその言いつけを忠実に守ったのです。

ところがめでたく卒業したら、親から今度はこう言われた。「これで大学も無事卒業できたし、あなたも早くいい人見つけて、さっさと結婚しなさいよ」。
そこで彼女はハタと困ってしまったんですね。急にそんなことを言われても、男との付き合い方が分らない!

それを聞いて、私は「なるほどねぇ」と思いました。同じような経験をした人が、結構おられるかもしれませんね。

動物を見れば分かるように、お年ごろになれば、オスとメスはくっつくものです。それが自然な流れというものです。ところが人間は、そこに余計な観念を持ち込んで、その自然な営み、流れを断ち切ろうとする。「結婚」とか「純潔」といった概念です。なぜそんなものを押し付けようとするのか、それによって、何が得られるのか。

「結婚観」とか「恋愛観」というものは、体験をいろいろと重ねることによって、その人の中に自然と醸成されていくものです。それが人生における学びというものでしょう。その中には当然、選択ミスや判断ミスもある。しかし失敗経験こそが、その人を大きく成長させる基になるということを忘れてはなりません。

要は、あのとき「失敗」に思えた経験を、その後に、どう自分の中でプラスに転換して活かすかということです。その意味では、人生に何一つ「失敗」などありません。ですから「失敗」を怖れて、社会通念が示す既定路線、親が示す規定路線をそのまま受け入れたのでは、人生における学びがほとんど得られないことになってしまいます。

可哀想に、彼女は大学生時代に受けた親からの刷り込みが、あまりに深く入ってしまったために、その後は男性恐怖症に陥って、結局「結婚」というものが出来ずに来てしまったわけです。

社会通念など、国や地域や宗教によって大きく異なります。以前にも書きましたが、日本や韓国では結婚前の同棲はタブーですが、逆の考えの国も多い。一緒に暮らしてみて、伴侶として相応しいかを見極めずしてどうして「結婚」が出来るのかというわけです。私は、こちらの方が合理的な考え方だと思います。

ですから、個々人の思考や行動を信じずに、借り物の観念を押し付けるということは、またそれを受け入れてしまうということは、その観念に負けてしまって、自分から自由を奪い、自分で自分を牢獄に入れるということなんですよね。なぜ、自分に鍵を掛けるのですか?

あなたはどこまでも自由であり、自分で思考し、行動する権利が、あなたには本来的にあるのです。
他者を見るときには「魂」を見るように心掛ける
人間関係において様々な問題が発生してしまうのは、結局のところ、人はふだん相手の表層しか見ていないということに行き当たるのです。相手の姿形や言動です。初対面で、頭のてっぺんからつま先まで、サーっと視線を走らせる人がいる。そういう人は、もうそれがクセになっている。節度のない人になると、そこですぐに、思わず批評の言葉を発してしまう人も多いです。(お世辞を言う人も)

観察力があるという人でも、せいぜい性格というものを読もうとしている程度です。しかしそれらはみな、その個人が発しているアウトプット表現を見ているに過ぎないのです。
言っていることと、やっていることが一致しない(言行不一致)という人も多いですが、それは当然で、どちらもアウトプット表現の一形態だからです。

その人の個性をつくっているものは「性格」ではありません。正確には「魂」です。「魂」の物質世界における表出が「性格」を形作っているのです。そこから思考や行動がさらに立ち現れてくるのです。このことがみな分からないので、表面上の言動(もっと分からない人は、地位、肩書き、名声、家柄)に騙されてしまって、相手をちゃんと見抜けないのです。

相手を見るときには、表層ではなく、その人の「魂」を見るようにしてごらんなさい。ジーっと覗くようにするのではなくて、むしろボヤーっとその場の雰囲気を体感するようにするのです。表層の言動には注意を払わないようにするのです。そうすれば、相手の「魂」の状態が分かるし、その人が話す嘘もたちどころに見抜ける。

さらに言うと、「魂」を見るようにすれば、自然と慈悲の心が生じて、悔しい思いをしたり、敵愾心を燃やしたり、という余計なエネルギーを浪費せずに済むようになっていきます。

一緒に居て、リラックスできる人、ホンワカした気分になれる人、自分をさらけ出しても構わないと思える人、そういう人を友としてください。ピリピリしたり、イライラしたり、鬱になったり、吐き気がしたりする人のそばには、あえて近寄らないように。その人は、あなたの友には相応しくない人です。

と書きましたが、同じことは相手側からも言えるということに注意を払ってください。あなたが、ピリピリしたり、イライラしたり、鬱になったりしている時には、それが相手側にも影響を与えているということです。ですから、先ずあなたが、愛を持って、正直に、リラックスして生きてください。そうすれば、人間関係は自ずと改善していきます。
ああ、おまぬけシリーズ
外に出ようと思って玄関に行ったら、長靴が見当たりません。「ハテ、どこに置いたかな?」と考えて、ハタと気がついた。昨日、床を貼る工事をした時に、縁の下に置きっぱなしにしちゃったんだ。あーあ。何年後か何十年後に、床をめくることになった人が、クスッと笑って「バカだね」って言うんだろうな。

インターネットで注文したガラスが届きました。注文の度に送料が掛かってしまうので、この際、破れている窓ガラス全部を入れ替えようと、慎重に寸法を測って一挙に注文しました。荷をほどいて、さて一枚目を入れようとしたらまるで入らない。厚みが全然違うの。ガラスの厚みは4ミリが標準と思い込んでいて、まったく計算に入れていなかった。注文した全部がパー。

トイレと洗面所の排水用の穴は、壁から何ミリと決まっている。と、大工さんが教えてくれた。それを計算して穴を開け床を貼った筈なのに、設備屋さんが来て「寸法が足りないよ」と言う。ええっ? 途中で大工さんが交代したのですが、後に来た人が壁を想定以上に厚く作ってしまったのです。もうどうしようもないから、せっかく貼った床を切って管を移動するハメに。あちゃー。

こんなことの連続でメゲる、メゲる。
知り合いに「今は山奥の過疎の村で暮らしている」と言うと、大抵は「あらステキねぇ」という言葉が返って来て、大自然に囲まれた、快適で楽しいリゾートライフのようなものをイメージされちゃうんですが、そんなんじゃないんだってば。

水をどうするか、食料をどうするか、ウンチをどうするか、雨漏りやすきま風をどうするか、抜けた床をどうするか、土壁の落ちたところをどうするか、水道の凍結をどうするかという、毎日が闘いなんだってば。確かに星空は素晴らしいよ。でも、猪、キツネ、イタチ、タヌキ、ハクビシン、ネズミ、蛇、猿、鹿、熊との闘いなんだってばさ。

蝶やトンボやてんとう虫ばっかりじゃないんだよ。巨大な蛾、毛虫、カメムシ、カエル、ミミズ、便所コオロギ、バッタ、蜘蛛、熊ん蜂、アブだらけなんだよ。

でもそれが、山奥で生活するってことなんだよね。一泊二日の温泉旅行に来ているわけじゃないんだから。今はまだメゲる日もあるけれど、ちょっとずつでも前に進んでいるって信じたい。そして全部を楽しめるようにしたいな。でもまだ最大の難関が残っているぞ。零下15度、2メートルの雪に囲まれた冬の暮らしが、未体験ゾーン。
子ども時代の楽しい感覚が戻って来た
山の家の修繕作業に追われています。廃屋だったのを取得したので、とにかく直さなければならない所が山ほどある。もうこれで3年になるのですが、最初の年は、恐怖感で体が震えました。裸電球一個の下で、サバ缶を開けて食べていると、「ああ、自分は、なんてことに足を踏み入れたのか」という気持ちがこみ上げてきて、逃げ出したくなりました。

このブログで、「Be Here Now を生きる」といったことや、「後悔」の念について書いていますけれども、自分がいちばんそこを克服できなかったわけで、この2年余りの変化は自分でも驚くほどのものです。ですから、それからの自分の上に起こった変化というものは、机上の論理ではなく、すべて実体験に基づいています。

恐怖で体が震えたのは、これからしなければならいことの大変さを思って心が押し潰されたからです。地元の人に聞くと、この家は7年前にも移住を試みた女性が居たそうですが、3ヵ月もせずに出て行ったと言います。私が入居した時には、中身の入ったシャンプーのボトルが転がっていたりして生活の後が残っていましたが、その女性が出て行った気持ちはよく解るのです。

自分の気持ちに変化が訪れたのは、電気の配線をして、壁を塗り終わってから。裸電球一個の状態から脱して漆喰の白壁になったことが心を落ち着かせてくれました。一日に働く時間は四時間で、なにしろ一人でやっているため漆喰塗りに3ヵ月も掛かった。それから給湯器を入れたり、床を貼ったりして少しずつよくなって行きました。

今は次の作業を考えてやっている時が楽しい。進みが遅く、電動工具による怪我のプレッシャーもあるけれど、「Be Here Now」が、次第に自分の中に入って来ました。ふとこれは、子ども時代に味わっていた感覚と同じだと気づきました。小学校時代の私は、一日中工作に明け暮れ、次のプランでいつも頭の中がいっぱいでした。

中学を終え、進学を考えなければならなくなった時に自分が思ったのは、「一生プラモデルを作って暮らせたらいいな」と、ただそれだけでした。

将来のことなど何も考えておらず、ただ父親が命じる学校へ行ったのですが、入学してみてショックを受けた。70年安保闘争の影響を受けて学校はすぐに封鎖。同級生のアパートに行くと本が山のようにあって、それまで本など読んだこともなかった自分との成長の差を、初めて意識しました。

それから世の中のことに関する自分のあまりの無知さ加減に気づき、それらの知識を獲得しようと努力するようになりました。苦手だった歴史や地理や、全く興味のなかった経済や金融や流通や政治のことまで必死に学習しました。そうやって、入れ替わりに、楽しかった子ども時代の感覚を失って行ったんですね。

今は隠者となって、再び、世の中のことをほとんど知らない、世俗に興味を失った人間に戻りました。そうしたら、封印していた、楽しかった子ども時代の感覚が戻って来たのです。バカボンのパパではないのですが「これでいいのだ」という感じです。

途中で大きく廻り道をしたことは無駄ではなかったけれども、むしろ必然だったけれども、結局、生きていく上での価値とは何かと問えば、子ども心に過ごすということだと知ったわけです。まさにイエスの言う「幼な子のように」です。世界中の人々が子ども心に過ごせば、きっと素晴らしい社会になるのだと思います。
アメリカ帝国主義の断末魔と、傀儡日本のゆくえ
シリア政府の要請によって、ロシアがISへの攻撃を開始したことを皮切りに、世界情勢に歴史的大転換が起こっています。

軍事専門家によれば、元々ISは一ヵ月もあれば掃討できると言われていました。ところが昨年の9月10日以来、アメリカとその同盟国が5万3000回もシリアおよびイラクに出動し、6700回もの空爆を行ったにも関わらず、何の成果もなく、大量の難民をヨーロッパに流出させることになったのです。

これに対し、ロシアのIS拠点に対するピンポイント攻撃はわずか数十回で着実な成果を上げ、ISを離脱して逃亡する兵士が続出しているとのことです。武力による解決は、出来ることならない方がよいのですが、これによって難民がシリアに帰れる道が開けるのではないかと期待されています。

なぜアメリカとその同盟国は、「イスラム国の根絶」を目標に掲げながら、何の成果も上げられなかったのでしょうか。それは、目的が戦争の継続にあったからです。アメリカにとっての戦争は、兵器の在庫処分市であり、セールスの見本市でもある。アメリカが10年に1回のペースで(自国の外で)新しい戦争を始めるのは、政府を支配する軍産複合体の思惑と石油利権が絡んでのことです。

私はマスコミ報道というものを一切見ないので、最初にISという名前を知った時には、何のことやらさっぱりワケが解りませんでした。田舎に帰省した折、たまたま入ったラーメン屋でテレビが付けっぱなしになっていて、オレンジ色の服を着せられた二人の日本人の映像が映り、ISがどうとか言っているのを聞きました。店内に置いてあった新聞の一面にも大きくその写真が載っている。

私は見た瞬間、その映像も写真も合成であることが判りました。ビデオ映像の方は顔に立体感がなく、表情がまったく動いていません。写真の方は顎の下の陰と体の陰が逆向きになっている。こんなものは、日ごろから映像や写真を見馴れている人には、瞬間的に「おかしい」と判ります。解せないのは、マスコミにもそういう人が居るでしょうに、そこをスルーしていることです。

そのあと友人からメールが来て、文面に「残虐なIS」と書いてあって、あんな偽情報をみんな簡単に信じるんだと、そのことにビックリしました。

アラブの春や、それがシリアに飛び火し、自由シリア軍とアサド政権が内戦状態に突入したという辺りまでは、私もテレビで海外ニュースは観ていました。しかしその報道内容が、最初から「独裁者アサド」一色に染め上げられていることに、激しい違和感を持ちました。ウクライナ情勢で「ロシア悪者」に仕立て上げていたのと全く一緒です。

そのプロパガンダが、あまりにもストレートというかお粗末で、勘のいい人が見れば、「あ、これはデタラメだ」とすぐに判るような代物です。ところが、全マスコミがそれを垂れ流しているのですから、もうどうにもなりません。観る方は経験によって進歩しているのに、送る方は、過去にキューバのカストロやヴェトナムのホーチミンに対して行っていたのと、同じ感覚なのです。

いま国内でどういう報道がなされているかは知りませんが、アメリカが方針を転換し、アサド政権を容認する方向に舵を切り直しました。アメリカのケリー国務長官と、ロシアのラブロフ外相が協議して、両軍が協力する方向で動いているようです。カナダでは10年ぶりに政権交代が起こり、シリア爆撃からは撤退、TPPにも難色を示すなど、アメリカ離れを鮮明に打ち出しました。

自由シリア軍なるものを、日本では菅官房長官が「穏健なアサド政権反対派」と言ったのですが、いったい自由シリア軍というものがどこに居て、どういう部隊編成なのか、誰がリーダーなのか、どういう装備を持っているのか、が語られたことはありません。この組織の中心は、結局CIAが雇った傭兵部隊であり、その訓練と装備に5億ドルが費やされたことが分っています。

アメリカの狙いは、当初からアサド政権の転覆にあったわけですが、誤算だったのは、アサド政権と軍が持ちこたえたことです。もし本当にアサド大統領が単なる非道な独裁者であったなら、民衆蜂起によって政権は瓦解していた筈です。しかしそうならなかったのは、キューバやヴェトナムと同様、民衆の支持があったことを物語っています。

結局、アメリカのこの試みは失敗し、訓練した兵士の多くが装備とともにISに流れてしまった。ISというものも、イスラエルの工作機関が反イスラムのプロパガンダのために作ったもので、これにカタールとサウジアラビアが資金協力している。アメリカも武器供与していたわけですから、「テロの撲滅」といったところで、自分たちが育てたものを攻撃するはずがありません。だから成果がないのです。

アフガニスタンでの戦争は、アメリカ史上最長の14年を経過し、2016年も米軍が駐留することが決まっています。オバマ大統領が選挙公約で撤兵を約束したにも関わらずです。10月3日に起きた、国境なき医師団が勤務する病院への爆撃は、戦争継続の理由とするために、タリバンの仕業にする手はずが、バレてしまったのだという見方もあります。

ヨーロッパの人々は、大量の難民流入という脅威を前にして、その原因はどこにあったのかを、真剣に問い直しています。このようにして、国際政治におけるアメリカの自作自演行為が、至るところで明るみになってきており、もう世界の首脳たちや大衆を騙せなくなっているのです。

加えて、経済力の中心が、ヨーロッパ→北米→日本→そしてロシア・中国の時代へと、地球の自転と反対方向に移動していることに注目してください。これは歴史の循環サイクルであり、どのようにしても抗うことはできないのです。アメリカ帝国主義の時代、パックスアメリカーナの時代は、確実に終わりを迎えているのです。

しかしそのアメリカの外交に、ここに来て変化が見られるように、いまアメリカ政権内部では旧ネオコングループと、改革勢力との間で激しい綱引きが行われているようです。そのため、アメリカ政府の発言と行動に一貫性がなくなっています。決着はすでについているとの情報もありますが、西側のマスコミ報道は、まだ当分は相変わらずの状態が続くでしょう。

そんな折、8月7日のNHKスペシャルで『憎しみはこうして激化した 〜戦争とプロパガンダ〜』という番組が、また9月8日のBS世界のドキュメンタリーでは『差し迫った脅威 〜合衆国憲法と大統領権力〜』と題する番組が放送されました。

どちらも、これまでアメリカが、戦争時にいかに謀略のプロパガンダを流して来たか、そして今もそれを行っているかを描いたものです。NHKも、以前は明らかにCIAが介入したと思われる内容のものを多く放送していたのに、もしかしたら流れが変わってきているのかも知れません。

いずれにせよ、現在進行中の動きは止めようがなく、さらに真相が明るみになった時に、これまで西側の謀略プロパガンダを垂れ流して来た日本のマスコミは、いったいどうするのでしょうか? そして、アメリカの傀儡となって動いていた政治家たちは、いったいどうするのでしょう?
「霊媒体質」を持つ人
人間の本質は「魂」にあるわけですから、霊感というものは基本的には誰にも備わっています。ただ、そういうものを真っ向否定する人が居たり、社会的通念として大っぴらに認めないということがあって、自分で封印してしまっているという人が大半です。

しかし、電話や電子メールの着信音が鳴った瞬間に、誰からのものかが判ったといった経験や、同じことが重なる(シンクロニシティ)現象などは、みなさんも多く体験されていることと思います。多くの人が、驚きのもとに「偶然」と片づけている出来事も、それは決して「偶然」ではないのです。

10人に一人くらいは、この霊感が強いという方が居られます。さらに100人に一人くらいは、声が聞こえる、霊が見える、オーラが見える、予知能力がある、テレパシー能力があるといった、いわゆる「霊媒体質」を持った人が居られるのです。

どうして、人によって霊感に差があるかと言いますと、今から30万年前の現人類の起源にまで話が遡るのですが、ここでは書かないことにします。ともかくそのように差がある。さらには、前世までの取り組みによって、霊性に差が生じて来るのです。

さてこの「霊媒体質」というものなのですが、いつも言っているように、人間が持つ能力の一つの個性に過ぎません。足が速いとか、計算が得意といったことと変わりがないのです。ですから、「霊媒体質」の人間が即、人格高潔、霊性が高い存在とは限らないのです。

たとえ野球の能力に秀でていたとしても、賭博に手を出したり、覚醒剤に溺れたりといった人がいるのと同様、「霊媒体質」を持っていても、物欲、金銭欲、支配欲、名誉欲のとりこになっている人も大勢居るということを認識しておいてください。いや、むしろ見えない世界を扱っているだけに、それだけ詐欺師的な人が多いと言っても過言ではありません。

問題なのは、一般の人々がそれを見抜けずに、「霊媒体質」の人間が言うことを鵜呑みにして、信じ込んでしまうことです。「霊媒」というものは、高い「霊性」が備わってこそ本物となるのであって、低い「霊性」を持つ者には、その者のレベルに合った低い霊しか降りません。低い同士で「波長が合う」ということ、「波動の法則」です。

低い霊というのは、未浄化霊や動物霊ですが、中には悪魔的な企みを持った霊も居るのです。これらの霊は、人間の心理を刺激して、トラップを仕掛けて来ます。物欲、金銭欲、支配欲、名誉欲に訴えかけたり、恐怖の予言をしたり、肉親の情を利用したりするのです。

普通の人は、そういった刺激的なことにしか興味がないので、簡単に引っ掛かり、その「霊媒体質」の人間の言うことを丸ごと信じ込んでしまうのです。言って見れば、それも「波動の法則」であり、低い波動同士が引き合った結果ということです。

一般に「霊媒体質」の人のいけないところは、全くの不勉強だということ。ノイズを出来る限り排して「真理」を追究するという、謙虚な姿勢がほとんど見られない。自分に見えた、聞こえた、というものを精査することなくそのまま喋っている。今やインターネットで何でも調べられるのに、その手間を掛けずに言いっぱなしにしています。

霊界に関する知識や、法則に関する知識もほとんど学ぶことなく、自分の感覚だけで動いている。ですから、なんでもかんでも「憑依」のせいにしたり、ご先祖を持ち出したり、墓がどうたらこうたら、方角がどうのこうのと、勝手なことを言っている。「瞑想をすると、悪い霊に取り憑かれて危険」などと言う霊能者までいる。

最近は「遠隔」流行りで、「遠隔」であれができるこれができると言うが、どうして「遠隔」というものが可能なのか、どういうメカニズムなのかをちゃんと説明できる人はいない。みんな意味も解らずに、「遠隔」だと言ってやっている。その資格を先生から貰ったと言ってやっている。

とまあ、このような状態なのですが、私が信頼しているごく少数の本物は、こういう人たちとは全く違う。毎日の鍛錬を怠りなく行って備え、自分のエネルギーが不足気味の時には、決してセッションを行わない。波動の低い者、低い欲求には答えない。そうやって、追究している。

それは野球界でいえば、イチロー選手や王さんのようなもので、どの世界にも、一流、二流、三流が居るということです。ですから、一流と出会いたければ、自分が一流の波動を出せるように日々努力するしかないのです。
幸福になる方法
幸福になる方法は、実に簡単なことなのです。
そのときその瞬間を、常に「ああ、なんて幸福なんだ」と思うだけでいい。

食事をいただくとき、陽の光を全身に浴びたとき、暑い最中にスーッと吹く一陣の風を感じたとき、汗みどろになって飲む一杯の水、ゆったりと漬かる湯船の中、大自然の景色を見て、小鳥のさえずりを耳にして、誰かさんから親切にされて、子どもたちの笑顔を見て‥‥。

身の周りに起こるすべてのことを「ハッピーだ」と思えれば、その人は「幸福」に生きていることになるし、「ハッピーだ」と思う瞬間が、一日の中でほとんどないという人は「幸福」にはほど遠いのです。

逆転の発想というか、なにか詐欺に遭ったような気がするかもしれませんが、「幸福感」というのは、結局その人の心の感じ方の問題です。ですから周囲の出来事とは関係なく、「幸福感」のスイッチを常にONにしている人は、いつでも「幸福」だということなのです。

財布を見たら、中身は千円札が一枚だった。これを「千円しかない」と思うか「千円もある」と思うか。晩ご飯のおかずが一品だった。これを「足りない」と思うか「これで充分だ」と思うか。米びつが空で、見たらジャガイモが一個転がっていた。「こんなもの喰えん」と思うか「ああ、ありがたい」と思うか。すべて、心の感じ方次第です。

人間社会は、特に今の時代は、物欲に完全支配されていて、「あれを持て、これを手に入れろ」「そんなんじゃ足りないぞ、他人に差をつけられないぞ、勝てないぞ」と、四方八方からコマーシャルで責め立てられる。その結果、「持つこと、手に入れること」が幸福への道だと、みんな思わされているのです。

結婚だ、愛だということですら、「手に入れる」「Getする」という感覚で動いている。だから、結婚紹介所では、年収や身長や容姿や家柄が重視され、紹介料にはプレミアム価格までついている。

でも、「持つこと、手に入れること」が幸福への道だと考えている限りは、渇望感、未充足感は消えないわけですから、その人は、逆に「幸福感」からはどんどん遠ざかる道を選択しているということになります。仮に望む物が手に入ったとしても、充足感はすぐに薄れて、もっと上の物が欲しくなり、次には失うことが恐くなるのです。

賢明な方はもうお解りでしょう。「幸福」への道は、持たないことだということが。自然も、宇宙も、もともと誰のものでもありません。それらに所有権を勝手に主張しているのは人間どもなのです。自分は何ものも持たない。持っているものはすべて借り物(仮り物)に過ぎない、と観想してご覧なさい。どうせ墓場に持って行けないのですから。

そうすれば、周囲にある物、身の上に起きる出来事がすべて輝き出し、いかにありがたいものであるかが解り、あなたは「幸福」に包まれたご自分を発見するでしょう。
太陽のありがたさ
紅葉の季節となり、朝晩がかなり冷え込んで来ました。春と秋とを比べると、何か同じようなイメージがありますが、実際の気温は秋の方がずっと暖かいんですよね。でも秋は冬に向けて下っていくイメージがあるし、春は夏に向けて昇り調子のイメージがあるので、同じように感じてしまうのでしょうね。

運動会の日は晴れだったのですが、太陽が雲の陰に入った途端に肌寒く感じ、再び顔を出すと周囲がパーッと明るくなって暖かい。その差が歴然としていることに気がついて、太陽って凄いなぁ、ありがたいなぁ、としみじみ思いました。

今は、晴れの日の朝には、自分が「球天法」と名づけた呼吸法を、戸外で日の光を浴びながらやっています。ところがその私も、10年前には、太陽をできるだけ避けた生活をしていたのです。持病のアトピーのこともあったし、紫外線の害ということが当時あちこちで言われ、それをすっかり信じ込んで神経質になってしまったのです。

外出する時には、まさに「日影の道」ばかりを選んで歩いていました。これが、神経症と鬱に拍車をかけた。ますます紫外線を気にするようになり、日の光を浴びることをすっかり忘れてしまって、鬱がどんどん悪化しました。神経症がひどい時には、ふとんの中にある自分の手の位置が気になって眠れなかった。

今も外出する時には帽子を被っていますが、以前のように太陽を悪者扱いすることはもうなくなりました。それは知識として、太陽が放射するエネルギーの重要性を知ったからです。

人間を生きながらえさせてくれる根本は、結局のところ太陽エネルギーです。太陽がなければ寒くて人は生きて行けないし、周囲にあるものだって見えません。食物だって、太陽エネルギーを固定したものですから、食べるということで間接的に太陽エネルギーを貰っているわけですね。

自分がしてきた間違いを思い起こすと、世の中に溢れている情報は、紫外線の害を強調し過ぎだと思います。それは美容関連グッズを売るための戦術なのでしょうが、そのために、太陽のありがたさを忘れるようであっては、本末転倒だということですね。

朝昼夕に、太陽と会話する時間を持つといい。左手の手のひらを頭上に掲げて三回深呼吸する。その際、息を吸うのに合わせてつま先立つようにします。手のひらに、スーッと涼しいエネルギーが流れ込んで来るのが分るはずです。