by Rainbow School
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輪廻の構造
宇宙には始まりも終わりもなく、永遠の今があるだけです。けれども私たちは、物理的な世界に生きていますので、そこでは時空間が存在し、時空間のあるところでは、見かけ上の時間経過があるかのように感じられるのです。なぜなら常なるものは何一つなく、あらゆるものが変化しているからです。しかしそれとて、「今」しか、人間には知覚できないのです。

過去や未来は結局のところ意識の中にしかないのですが、人間はそれを錯覚して、時間軸上に、どうしても始まりと終わりを規定したがります。たとえば、会社の創業と解散や、鉄道の開業と廃線など。その最たるものは誕生と死ですが、それらはみな「変化」の一局面を捉えていることに過ぎなくて、大局的に見れば、すべては「輪廻」という循環の中にあるのです。

この世とあの世を含めた宇宙全体は、大きく7段階の階層構造を持っています。これを「オクターブ」と呼んでいます。「オクト」は「8」という意味で、ドレミファソラシドを考えれば分かるように、7音階の次の8番目で、一つ上の倍音に振動数が上昇します。7階層の宇宙を「オクターブ」と呼んでいるのはそのせいで、8番目になった時には、反対側の宇宙へジャンプしてしまうのです。

「8」を横にした記号が「∞(無限:infinity)」です。この無限記号を、中心に軸を置いて回転させますと、「トーラス(torus)構造」が出来上がります。分かりやすく言えばドーナツ型です。このドーナツ型が、実に、「輪廻」の構造そのものなのです。だから「無限」なのです。極小のものから極大のものまで、すべてが「トーラス構造」の渦を形成しているのです。

身近な例では台風を考えてみてください。熱帯低気圧に、付近の湿った空気が集まって中心に向けて渦を作り、渦の中心から上昇気流になることで熱帯低気圧は台風に発達します。上に抜けた空気は、雨を降らしながら今度は外側へと放出されて行きます。こうして「トーラス構造」を形づくります。

大銀河も渦ならば、DNAの二重螺旋も渦です。植物の葉っぱも渦状に付いていきます。りんごに代表される多くの果実も「トーラス構造」を形づくっています。目に見えない極微の世界では、神秘学のある派が古代より「コイロンの泡」がすべての素であるとしており、これも「トーラス構造」をしています。

なぜ、輪廻の循環が「◯(circle))」ではなく、「∞」で示されるのかと言いますと、極性があるからなのです。あらゆる物は陰陽の二極から形成されています。それによって、「∞」の構造となるのです。(分かりやすい例では、ヴァン・アレン帯に見られるような磁場)これを、東洋では陰陽太極図「☯」の形で、二極性と渦の構造を表現したのです。
まど・みちおさんの絵
作詞家まど・みちおさんのことは、以前にも一度書いたことがあると思います。童謡「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などで知られ、2014年に104歳で亡くなられました。自分は、2010年に放映されたNHKスペシャル「ふしぎがり〜まど・みちお 百歳の詩〜」を観て、この人は凄いゾと思いました。しかしそれはまだ、まどさんの凄さの半分も見ていなかったことが分かりました。

9月27日のEテレ『日曜美術館』で、「まど・みちおの秘密の絵」という番組があり、まどさんが絵も描かれていたということを初めて知りました。それはただ、自分の隠れた内面を外へ押し出すために描かれたもので、クレヨンとボールペンで描かれ、発表されることもなく、自宅の押入れに仕舞い込まれていたというのです。

その絵がまた素晴らしい。まどさん自身は、絵画技法など何も知らず、シロウトという意識をずっと持っておられたようなのですが、内面の表出が、言葉ではなく「絵」というスタイルを持っただけで、結局その素晴らしさというのは、まどさんの内面の凄さということに行き着くわけです。

ゲストが谷川俊太郎さんで、生前親しくしていた谷川さんは、まどさんのことを「宇宙的な人」と言っておられるのですが、私も同様のことを感じていました。早い話が、まどさんというのは、宇宙に近かった人、もっと端的に言えば宇宙人だったと言えると思います。まどさんが書かれた詩は、宇宙に開かれた「窓」だったのです。

そのまどさんが、50代になって詩作を離れ、およそ3年半のあいだ絵に没頭した。描いても描いても、描きたくてしかたがない。それくらい内面の感覚がどんどん溢れ出てくる。それを谷川さんは、氷山の水面下に隠れている部分と指摘されたのですが、言ってみれば、童謡で表現することは許されない、まどさんの内面のダークサイドの部分、心の動揺だったわけです。

50歳前後といえば、私もそうでしたが、自分の生き方に迷いが生じる時期です。それまでの、ただ勢いや、周囲の動きに合わせて仕事を続けてきた生き方が、しだいに出来なくなって来るのです。若いころとは違った意味で、また人生の意味を考え出すようになる。まどさんは「言葉はチャチだ」と語っていたということですが、詩人なのに、言葉では表現しきれない壁を発見してしまったわけです。

そこに絵を描く時間が挟まった。そして、ダークサイドの部分、迷いの部分を、3年半に渡って絵を描きまくることによって殆ど出し切り、そこで、表現者としてのその後の生き方が定まったわけです。自分の内面を出していくということに、さらにピュアになっていった。ここが凄いと思うのです。鍋をグツグツ煮続けて、アクを(アクは悪に通ず)を全部取りきってしまった。

いつも、人間、歳を取れば取るほどピュアにならなければいけないと思っているのですが、まど・みちおさんの生き方は、一つのお手本を示していると思います。
谷川俊太郎さんのコメントも的確で、解る人には解ると思います。

日本人は、「平和ボケ」なのではなくて「外交ボケ」
「安保関連法案」というものが成立しました。どこからどう見ても憲法違反ですから、「法治国家」というのは何なのだろうと思います。また、国会議員は「代議員」であって国民の声を代表する人であるはずなのに、国民の7割が反対する法案に自民党議員の全員が賛成するのですから、「代議員制」というのもいったい何なのだろうと思います。

日本は、「法治国家」じゃなくて、もう「放置国家」になっちゃってるのかな、と思います。そんな中で、あるタレントさんが「平和ボケ」とテレビで語ったことが、問題になっていることをインターネットで知りました。「法案反対ならば、代案を出せ」とも語ったらしいのですが、これは防衛に関する代案という意味なのでしょうか?

「平和ボケ」というのは、改憲論議の際に改憲論者の人々が、以前から使ってきた常套句です。しかし「平和」であることというのは、本当に「ボケ」症状なのでしょうか?

ここで思考実験をしてみたいと思います。A家とB家が隣り合って暮らしていました。この両家は先代からの仲良しなのですが、もっと以前にはいがみ合っていたこともあるそうです。そこにある日、外国人家族のC家が引っ越して来ました。C家の人々は、日本人とは生活習慣が違っていて、ゴミ出しなどもきっちり守らないので、AB両家は困ったなと思いました。

でもAB両家の対応は違いました。B家はわりとオープンな性格で、よく話し合えば折り合いがつけられるよと思っていました。B家は先代から、ずっとそのような生活信条で生きてきて、争いごともなく平和に暮らしていました。ところがA家は、このままではC家に何をされるか分からない。そう考えて、そこでフェンスを作って、監視カメラを設置し、番犬まで飼うようにしました。

さてその時に、B家の人々を、あなたは「平和ボケ」していると言うのでしょうか? ずっと平和に暮らしてきたことを、差し迫った「脅威」を感知できない「ボケ症状」だと断ずるのでしょうか?

そうではなくて、それは生活信条なのです。自分が何より平和を希求し、自分が平和であれば、それが周囲にも伝わるという考え方です。ところが、そんなものは甘っちょろい。C家がいつ何時襲ってくるのか分からないんだから、こっちも備えをして、時々威嚇してやって、押さえつけるようにしなければ、相手はつけ上がるばっかりなんだ、という考え方です。

両方の考え方があることは確かですし、一人の人間の中にだって、両方の考えがある。国家間の大きな問題だと考えるから、みんなワケが分からなくなってしまうのですが、根っこにあるものは、いわゆる人間関係の問題に共通したテーマに過ぎないのです。

友愛に生きようとするか、猜疑心に生きようとするかの違いだけです。「友愛の旗」を掲げる指導者を選ぶか、「猜疑心の旗」を掲げる指導者を選ぶか、の違いなのです。
そして宇宙の法則は、このように言っています。
「自分が他者に対して為したことは、必ず自分に返ってくる」

20世紀は、「猜疑心の旗」を掲げる指導者を、大衆が次々と選んできたのです。その結果がどうなったのか、それをよく考えてみてください。自分が他者に対して為したことは、必ず自分に返ってくる。その通りだということが、お解りになりませんか? このような時代は、もう終わりにしなければならないのです。人類も、いい加減、進歩しなければならないのです。

日米同盟の強化が、露中を牽制することになり、国家防衛にとってそれが不可欠という考え方は、あまりにも古過ぎるのです。それでは20世紀の延長です。
防衛論議に関する代替案を示せというのならば示しましょう。それは、どの国とも仲良くすることです。これが最高の防衛です。

ロシアと仲良くすれば中国への牽制となり、アメリカの奴隷としての立場からも脱却できるでしょうし、中国とも仲良くすれば、民衆レベルでの猜疑心の応酬も弱まって行くでしょう。さらには東南アジアやオートラリア、中南米の国々とも、そして世界中の国と日本は仲良くしていくべきです。それが出来るのは、世界中で、根本に宗教汚染というものがない日本だけなのです。

日本が、これから為すべきことはそこです。どうすれば「平和」というものが実現できるのか。そのお手本を、堂々と示すことです。それは、「平和ボケ」などという蔑称で呼ばれるようなものでは、決してないのです。ですから、そのことに自信を持って、長年の「外交ボケ」から脱するように、これから日本人は変わっていかなくてはなりません。

自由と民主主義の輸出と言いながら、実際には、建国以来93パーセントの時間を戦争に明け暮れているアメリカ。世界の警察官を自認して、実際には、世界中に破壊と無秩序を作り出しているアメリカ。その最悪の帝国との同盟強化が、一体どうして平和につながるというのでしょうか? 
「正直」に生きるということ
「正直」に生きるというのは、嘘をつかないということではないのです。嘘をついたっていいんです。方便でそうした方がいいと、自分が確信したのであれば。だいいち自分の話していることが、本当か嘘か判らずに話している人も大勢いる。中には、それが真実だと思い込んで、実は嘘を撒き散らしている人たちだって多いのです。ですから、本当か嘘かというのは尺度としては判然としません。

「正直」に生きるというのは、「魂」の声に耳を傾けて、その通りに従うということなのです。思考や感情を超えたもっと深いところにいる自分自身です。この自分自身は、いつでも宇宙意識とつながっていますから、その声に従うということは、とりもなおさず宇宙の理に沿うということになり、間違いというものが起こりようがないのです。

「正直」と言うと、普通は自分の気持ちに「正直」に、と大多数の人は考えるでしょう。しかしこれではまだまだ「正直」にはほど遠い。「気持ち」というのは、感情や思考ですから、そこにはエゴが入り込んでいます。エゴに落ちているのが大多数の人間ですから、その「気持ち」に「正直」になろうとしても、そこには限界があるのです。

ですから、「気持ちに正直に」と言った場合には、そこに「葛藤」があることを示唆しているわけですが、この「葛藤」は、自分の表層の「気持ち」と、深い部分にある「魂」の生き方とにズレが生じていて、それが落ち着かなさ、しっくり来ない感じとして浮かび上がって来るのです。

このことから、逆のことが言えます。「正直」に生きた場合には、ストレスがなく、いつも穏やかでいられるということ。ですから、「正直」に生きている人は会うとすぐに判ります。表情に曇りがないのです。たちまち打ち解けてリラックスできる雰囲気を周囲に発しています。あなたが友にすべき人は、このような雰囲気を持っている人です。

反対にリラックス感が感じられない人は、裏で謀(はかりごと)をしている人です。これもすぐに判ります。人間、一度はかりごとに手を染めますと、それがバレそうになった時には嘘をつかなければならなくなり、鋭い人に話の矛盾を突かれたりするとまた嘘を重ねるということになって、だんだんとその人は苦しくなっていってしまいます。

「不正直」というものは、連鎖を生むということに注意してください。それは、自分の中でもそうですし、周囲の仲間をも巻き込むのです。「誰にも言っちゃダメだよ」と、内緒ごとを語ろうとする人が居たら、そういう人は相手にしないでください。そもそも「誰にも言っちゃダメ」なことならば、自分が漏らさなければいいではないですか。まったくのおバカさんです。

ですから、リラックスがいちばんです。別に「正直に生きよう!」などと思わなくても、リラックスを心掛けていれば、その人は、自然と「正直」に生きることになっているのです。
「魂」のレベルにまで迫らなければ、本当の意味で「心」を治めることは難しい
このブログでは、人間の本質はあくまで「魂」にあり、霊性の向上を学ぶために、個々の「魂」は地上に何度も生まれ変わる、ということを前提としてお話しをしています。ですから、そのことに同意されない方は、抵抗があって、入って来られないだろうと推察しています。

その時々のインスピレーションでいろんなことを書いているのですが、結局「心」に関することが多い。

それは、一つには自分が、幼少期、少年期、青年期、壮年期のいずれにおいても、精神的な葛藤を人一倍抱えていて、そこからの脱出ということに大変な苦労をした。その体験を通じて掴んだものを、同じような悩みを抱えている方がもしおられるのであれば、参考にして役立てていただきたいと思って、自然とそうなっていった。

いま振り返ってみますと、各成長期で体験したものはみな原因が異なっていて、幼少期では家族との関係、少年期では社会との接触、青年期では自己確立が出来ないこと、壮年期では社会的通年や価値観とのズレ、が大きな悩みとして、自分の中に立ちはだかっていました。

その全てを体験してきたことが、今の自分の財産になっています。特に50歳前後の時期には、いわゆる中高年鬱になってひどく苦しんだのですが、その時に知ったのは、傷の舐め合いをするようなサイトや、精神科や薬へと誘うサイトはたくさん有っても、自分が本当に知りたい、教えて欲しいと願っていたものは無かったということです。

そこから、「自力」というものが始まったわけですが、最初の頃は、心の葛藤状態を取りあえず治めるテクニックのようなものを模索していました。いわば頓服薬です。それはそれで一応の成果を見て、「使える」という確証を持ったのですが、しかし物足りなかった。もっと本質的なものがあるような気がしていたのです。

その時に、少年期よりずっと探求していた「真理」と、「心理」とが結びつくということが、しだいに解っていったのです。その理由については、今ではハッキリと言うことが出来ます。「心」というものは、「脳」がつくっているのではなく、「魂」というソフトウェアが、「脳」というハードウェアを使って表出したアウトプットだということです。

このソフトウェアは、たとえ「脳」が機能しなくなったとしても(たとえば認知症)、「脳」が失われてしまっても(たとえば肉体の死)、ソフトウェア自体は生き続けており、輪廻転生によって新しい肉体を見つけると、その「脳」を使って、自分の「魂」というソフトウェアをまた動かすようになるのです。

「魂」というソフトウェア自体は連続していますので、そこで、性格や体格や顔つきや、いわゆるカルマも、次の人生に運ばれるのです。

このことを理解していないと、本当の意味で「心」を治めることは極めて難しいのです。なぜならば、「心」は単なるアウトプットに過ぎず、その人の本質は、あくまで「魂」にあるからです。「魂」が抱えている問題が解消されない限り、「心」の問題は晴れないということです。

さて冒頭で、<人間の本質は「魂」にあり、「魂」は輪廻転生する>のであるが、これに同意する人は限られるということを述べました。実にこれこそが、人間が、何度でも同じ過ちを繰り返し、転生する最大の理由でもあるのです。

「魂」にまで迫らないから、本当の意味で「心」が治められない。一つの人生を経験し、晩年を迎えても、死期の直前になっても、何も掴めず、相変わらず「心」の葛藤を抱えたまま、ひどい人になると「心」の葛藤を積み増しして、死を迎えてしまう人が大半なのです。

喉元過ぎれば熱さを忘れる」という格言がありますが、全くその通りで、「心」の悩み、葛藤を抱えた人は、手っ取り早くそれを誰かに取って貰いたいだけで、それが一時的に達成されると、もうそれ以上は、自分を見つめようとはしないのです。

ですから、問題は自分の「魂」にあるということを直視しないので、しばらくすると、また「魂」の問題部分が噴出してきて、私が「悩みのホーベース」と呼ぶものに、必ず帰って行きます。そして、「ああ、あの先生もダメだった」と、次の「悩みの取り師」を求めて、行脚を繰り返すのです。

惜しいといいますか、残念といいますか‥‥。
この世は「幻(マヤ)」であるということの意味
この世は「幻」である。あなたも何処かで、そんな教説に出会ったことがあるかも知れません。プラトンも『饗宴』の中でそのように言っているし、私もあの世の方が「真」だということは、何度も言ってきました。でも、この世が「幻」というのは一体どういうことでしょうか? この現実世界が存在しないとでも言うのでしょうか?

ちなみに、「幻」のことをサンスクリット語で「マヤ」と言います。イカサマやインチキのことを「まやかし」と言いますが、この言葉は、マヤ化すから来ているのです。

さて私も、便宜上「この世」と「あの世」という言い方をよくしていますが、「この世」と「あの世」はきっちり二分された世界ではなく、グラデーションのように連続した多次元世界を構築しています。そこで、当然ながら、両者の中間のような世界(心霊界)も存在するのです。

この多次元世界は、単に振動数の違いだけで分かれており、各世界を構成している元素的なものは、たった一つの同一のもの(振動するエネルギー)なのです。そのたった一つのものが振動数を下げて行ったときに、私たちが「この世」と呼んでいる物質世界が出来上がって来るのです。

したがって、この物質世界が「マヤ」だと言っているわけではないのです。目の前に見える物が存在しない、と言っているわけではないのです。物質世界と非物質世界は連続しており、両方とも、多次元的世界の一部を語っているだけなわけですから。では何が「マヤ」だと言うのでしょう?

これは認識論に関わって来るのです。「存在」と「認識」とは違います。目の前にコーヒーカップが在る。この「在る」という確信は、眼の知覚から得たその人の「認識」なのです。そこが暗闇だったら、あるいは眼を閉じていたら、それが本当に在るかどうかは分かりません。つまり、私たちは「認識」することしか出来ないのです。

さてそうなりますと、「認識」というものはあくまで個別のものであって、共通など決してあり得ず、極めて不確かなものであるということが分かります。ところが私たちは、その事実にほおかむりしてしまって、あたかも、すべての人の認識が同じであるかのように、日常的に振舞っているのです。これが「マヤ(幻)」なのです。

自分の「知覚」と「認識」が、物事を正しく捉えていると錯覚して、その虜(とりこ)になっている。そのことに全く疑いを抱いていないのです。つまり、自分の「認識」する世界に落ちているわけですね。これが「マヤ」です。

ひどいことには、この錯覚を利用して、人々を操ろうとする人間が居るのです。「マヤ化し」をする人間たちです。彼らはエリートを作り、人々を欲望が支配する世界に引きずり込み、競争をさせ、不安を煽り、不安を解消させるフリをして人々を支配します。

こうした支配は、何万年も前から行われていて、人類はずっとその奴隷状態にあるのです。結局それらは「マヤ」だということ。この「マヤ」に気づいて、本当の「自由」に目覚めなさいということを、プラトンをはじめとする聖人たちが繰り返し説いて来たのです。今その最終局面に、地球と人類が置かれているのです。
未来の心配をしても何にもならない
世の中には「心配性」という人が少なからずおられます。これから先、自分にとって何か良くないことが起きるのではないかと、しじゅう気にかけている。こういう人のそばに居ると、その「心配」がこっちにまで移って来ます。それほど、強いネガティブなエネルギーを放出しているということに、ご本人は気づいていません。

あらゆるものが諸行無常ですから、未来に変化というものは必ず起こります。その中には、自分にとって、良いと思われる事もあれば、悪いと思われる事も当然ある。しかし、良いとか悪いとかと考えていることは、大抵は表面的なものに過ぎず、人生の深遠にまで迫ったものではありません。

人生経験が深まるにつれて、あの時の失敗が、あの時の不運が、自分の成長にとって大いに役立ったと思える時がやってきます。全員がそうなるとは言えませんが、少なくともこうは言える。そう思えるようになった人は、人間的な成長を手にしたのだと。逆に、失敗や不運を手放せない人は、カルを積み上げることにその機会を浪費してしまったのです。

よく言う「ものは考えよう」というのは、その気づきを促す言葉になっているわけですね。未来に、変化は必ず起きる。しかしそれを生かすも殺すも、自分しだいだということです。だとすれば、起きた事はそのまんま受け止めて、そこから、自分にプラスする何かを掴めばいい。「転んでもタダでは起きない」というのはそれを言っています。

さらに言えば、自分で自分をプロデュースしていけば、起きる事を、周囲のせい、環境のせいにすることが出来なくなるので、覚悟が備わってきます。もっと行って、結果を気にせずに瞬間瞬間を楽しむ工夫をすれば、「Be Here Now(今ここ)」を生きられるのです。

実にこれこそが、幸福の極意なのです。なぜなら、宇宙には過去も未来もなく「今」しかないという真理に、自分の生き方が、ぴったりと符合することになるからです。
それなのに、未来の心配をするということは、この幸福に至る生き方を阻害するということだけでなく、幾重にも渡ったネガティブを、その人にもたらすだけになってしまうのです。

先ず第一に、心配をしている時には、当然ながら心が穏やかではいられません。そのため、この心配が体細胞に響き、体を不調に導きます。第二には、いつも言っているように、この心配の「想念」が強ければ強いほど、その心配を、実現化する方向に向かってしまうのです。

以上、未来の心配をしながら生きても、何の益にもならないということを申し上げました。ですから、そんな心配は全部捨てて、ただ「Be Here Now」を生きろ、人生を楽しめ、と申し上げておきます。
隷属の「快感」を捨てる
セミナーで瞑想の指導をしていたところ、参加者から「これはしちゃいけないというものはありますか?」という質問を受けて、一瞬戸惑いました。少し考えてみたけれども思い当たらない。するとその方が「たとえばお酒を飲んじゃいけない、とか‥‥」と助け舟を出されたので、思わず「いや、飲んだっていいと思いますよ」と答えていました。

「それはベテランの人でしょう?」
「逆です。初心の人は、お酒飲んでやったっていいんじゃないでしょうか‥‥」

私が言いたかったのは、自分で工夫してあれこれやってみればいいということです。その時点の自分にあった方法をそれぞれ工夫すればよいのであって、指導に「従う」ことはない。ごくまれに「こうしなさい」と言うこともありますが、それは他に手がないというあくまで例外であって、基本的には何でも自由というのが、私の考えです。

ところが、教育というものは「型」を嵌めるものであって、その「型」に合わせるように努力していくことが評価につながるんだ、という思想が、子供のときから繰り返し吹き込まれて来たせいで、「自由です」と言うと、逆に戸惑いの表情を浮かべられる方がいらっしゃるんですね。

これは、私などからすればとても不思議です。「自由」ということは、かけがえのない価値であると私は思うのですが、「自由」だと言われると、逆に「不安」に感じる人もおられるようです。そこで多くの人は、自ら進んで「縛られる」方向を選択して行く。その「快感」も解らないではありませんが、それこそが「不安」を手放せない元凶なのだということにまだ気づいていない。

つまりこういうことです。自分を解放したいと考えて、様々なものに目を向ける。そこで知識を増やし、指導を仰ぎ、これを順守する。その段階はあってもいいと思います。しかし、どこかでそれを捨てなければならないのです。いつまでもそのままでは、隷属の「快感」から抜け出すことはできません。

なぜなら、隷属の関係がもしも崩壊したら、自分のアイデンティティも同時に無くなってしまうという、潜在意識的な「不安」を育ててしまうからです。これは大きな矛盾です。「不安」から脱したい、自分を解放したいと望んで飛び込んだはずなのに、希求すればするほど、逆に「不安」の種を育ててしまうということになってしまいます。

宗教組織は、ある意味、この人間心理を利用している。私だって、それを利用すれば、セミナー参加者も増えるだろうし、このブログだって読者も増えるということは解っています。でも、そんなニセモノを繰り返す価値はない。そこに巻き込まれた人々が、どちらが「隷属」に対して真摯なのかという、バカげた争いをしている団体をさんざん見てきたから、そんなものはもう願い下げなのです。

隷属の「快感」を捨てるということは、その前後の一瞬においては、もの凄い勇気を必要とするでしょうが、捨ててしまえば、なんてことはないということが解ります。「なんだ、こんな簡単なことだったのか」「今まで、なんと遠回りをしてきたのだろう」。そう思うこと確実ですが、その時間とて無駄ではない。何事も一足飛びには成し得ず、その過程が自己の「成長」なのだということです。
「神」を自分の外に置くことが、なぜダメなのか
“それ”を仮に「神」と呼ぶならば、「神」は自分の内にある。このことは、当ブログで一貫して主張して来たことです。ロシアの文豪トルストイは、同様の主張を胸に秘め、ひっそりと暮らしていたドゥホボルの人々を支援するために1899年に『復活』を書き、1893年にはその名もズバリ『神の国は汝らのうちにあり』を執筆しています。

これらは、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となり、そのせいで政府からは危険人物視され、ロシア正教からは破門にされています。今の時代では、もうそんな迫害を受けることはないでしょうが、政府・社会・宗教の堕落は、今も何も変わっていないと思います。

さて、18日に、イエスが「わたしが、父に至る唯一の道」と語った意味について書いたのですが、それに関連してもう一つの重要なポイントをお伝えしましょう。なぜ、「神」を自分の外に置くことがいけないのか、という問題です。

「神」を自分の外側に置いて、その対象を拝んだり、祈ったりすることは、「神」と「我」とを分離するということに他なりません。「神」を畏れ多い存在と考えた場合には、分離は当然のように思うかも知れませんが、自己の霊性を高めて「神の国」へ至ることを目標とする人にとっては、その道は、遠い道になってしまいます。

そうではなくて、この「分離意識」を失くして一体化してしまえば、道と到達点は一致し、一つになってしまいます。これが、「神」は我が内にあり、という最大の理由なのです。この時の心境、状態を「神我一如」(しんがいちにょ:神と我は一つの如し)と言います。つまり、「神我一如」にたどり着けば、即ゴールなのだということです。

それが解ったところで、イエスが何と言ったかをもう一度振り返ってみてください。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言った。続けて、
「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と言いました。
これが、まさしく「神我一如」を語った言葉であることにお気づきでしょう。
何事も、自分のものにしない限り「本物」とは言えない
「他の人が語ったことも、自分が言えば、自分のものになる」
これは、劇作家の寺山修司さんが言った言葉で、何でそれを知ったのかは今では定かではないのですが、20代のころの私の心に、その言葉は、深く突き刺さったのです。

20代のころの自分は、世の中にうまく適合できない悩みと、将来不安を抱えて、二進も三進もいかない状態で喘いでいました。脱出口を求めて多くの本を読みましたが、自分の小ささ、確たる柱のなさがますます強調され、もうどうしてよいか分らないという状態でした。その時に、寺山修司さんのこの言葉が響いたのです。

他の人が語ったことも、自分が言えば、自分のものになる。もちろん、オウム返しに言葉を発したところで、自分のものになったとは言えません。他人が語った言葉が、自分の中にすっかり入って、「つくづくその通りだ」と、出典を忘れるほどに馴染んだ時に、初めてそれは自分の言葉になる。だから、その時には、堂々と、自分の言葉として言っていいのだということです。

でも、そこまで馴染むというのは、一体どういう心境なのでしょうか? よく「◯◯先生の言いつけをしっかり守って」なんてことが言われたりするのですが、私はこれは、ちっとも馴染んだことになっていないと思うのです。なぜなら、その人の中に、まだ「◯◯先生」が残っているから。主役は、未だに「◯◯先生」なのだから。

世間では、こうした師弟関係を美徳としていますが、そんなものはちっとも美徳じゃないと思う。一つ思考実験をしてみましょう。もしその人から「◯◯先生」を抜いてしまったら、その人はどうなるのでしょう? それでもアイデンティティを保てるのでしょうか? もしアイデンティティが崩壊してしまうようであれば、師の言葉は、その人に馴染んでいなかったという証拠になる。

人というのは、千差万別なんです。姿形も違えば心のあり方も違う。みんな個性があるということです。スポーツをやっている人はすぐに解ると思うのですが、スポーツの場合、師弟関係といったところで、弟子は師と同じことは絶対に出来ません。体がそもそも同じではないのですから。ですから、教わる部分と、自分でやらなければならない部分とが歴然としている。

精神活動においても、それは結局同じことではありませんか? それなのに、精神活動では、しばしば錯覚が起きるのです。オリジナルにしなければ本物とは言えないということを、みな疎かにしてしまうのです。そしてその結果として、「◯◯先生」への隷属を是とする雰囲気が生まれてしまう。しかしこれはダメです。そんな師弟関係は、依存体質しか育てない。

また、周囲に「先生、先生」と呼ばれて、自分がエラくなったように錯覚している先生も先生です。本当の師は、そんなものを決して許さない。それが、弟子のためにならないということをよく解っているから。師というものは、弟子に乗り越えられるためにあるのだから。乗り越えられることが、師の喜びなのだから。

他人が語った言葉、他人が発見したセオリー、他人が編み出した技術、これらはどんどん盗めばいい。パクってパクってパクリまくればいいのです。パクられて腹を立てるようでは愛がない。問題は、パクった先に、それをその人がオリジナルに転化させることが出来るかどうかです。自分の中にあるものと合体させて、オリジナルに出来るかどうか。そこが勝負どころ。

それが心底出来たと思えた時、初めて、あなたは本物になる。