毛糸のパンツと母原病
2015.08.31 Monday
いま改めて調べてみて分ったのですが「母原病」という言葉は、小児科医の久徳重盛さんが、1979年に『母原病――母親が原因でふえる子どもの異常』という本を出されて、それがベストセラーになったことから知られるようになったんですね。私の記憶ではもっと前から聞いていたような気がしていました。
今はあまり言われなくなった言葉なのでしょうか? でも私から見れば、「心」の問題を抱えている人が増えていると言われる中で、今こそこの「母原病」にスポットを当てるべきだと思います。私には、中学3年まで「夜尿症」という悩みがあったのですが、家を出た途端にピタッとそれが止んだ。結局それは「母原病」だったんです。だからよく解るのです。
先日、ある女性から面白い話を聞きました。その方にはお兄さんがいらっしゃったのですが、3歳の時に病気で亡くなってしまった。それを経験したお母さんは、後から生まれた彼女が病気になることをとても心配して、学校に行かせる時には手編みの毛糸のパンツをはかせたというのです。ところが彼女は、学校でスカートめくりにあってからかわれ、それで登校拒否になってしまったのだそうです。
さてそこまでは、単なる可哀想な話なのですが、その先が興味深い。その時分には、実際、彼女もしょっちゅう扁桃腺を腫らすなどして病弱だったそうです。しかし今から考えてみると、母親の心配性の念が、自分の病弱を実現させていたように思うと言うのです。つまり、自分の体が、無意識のうちに母親の「期待」に応えてしまったというわけです。
これはあり得る話です。「ネガティブ+否定」のパターンは、ネガティブを強化する方向にしか働かない、と何度も書いて来た通りです。「病気(ネガティブ)」に「ならないように(否定)」と「願う(念じる)」ことが、逆効果を生んでしまうのです。これはその典型例です。
現在の彼女は、そういう幼少時の体験もあったせいか、その後努力を積んで、今では大変なスタミナを持つ強靭な肉体に生まれ変わっています。「母原病」をプラスのエネルギーに変えたんですね。でもこういう人は少ない。「母原病」を「母原病」だったと知らずに悩んでいる人が多いです。
「母原病」がなぜ起こるかと言えば、「愛」と「愛情」を錯覚しているからです。「愛」と「愛情」との区別がついていないのです。一般に「愛情」を注いで子どもを育てると言いますが、それが「愛」だと思い込んでいるわけです。しかし、「愛」と「愛情」とは違うものです。
「愛情」というのは文字通り、そこに「情」が絡んでいる。この「情」は誰のものかといえば、親のものであって、子のものではないのです。そこにスレ違いが起きる。「こんなに愛情を注いでいるのに」とか、「こんなにあの子のことを心配しているのに」とか。でも子どもにしたら、それは重たいプレッシャーでしかないのです。
子どもは、力関係からいえば親よりはずっと弱い。ですから親の感情を先回りして「なんとかお母さんの期待に応えなきゃ」とか、「叱られないようにして、いい子でいなくちゃ」と考えて、それがストレスとなって、本来の「自由」を押し込め、「母原病」を発症してしまうのです。
「情」のウエイトが高い「愛」は、結局その人のエゴなんです。自分の思い通りにしたいという。だから、それが実現されない時には、「私がこんなに思っているのに」とか、「まったく、親の心子知らずとはよく言ったものだわ」とか言って、「愛」だと思っていたものが、「恨み」や「憎しみ」にたちまち変わってしまうのです。
これは、恋愛や夫婦関係にも言えることですが、「恨み」や「憎しみ」に変わったものは、結局、本当の「愛」ではなかったという、見事な証拠になっているわけです。
本当の「愛」というものは、いちいち口うるさくしたりはしないものです。余計な心配をせずに、ただ成長を願って、見守るというのが本当の「愛」。それは一見、冷ややかに見えるかも知れません。なぜなら「情」がありませんので。でもね、みなさんが「神様」と呼んでいる存在の「愛」は、まさにそのようになっているんですよ。