by Rainbow School
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毛糸のパンツと母原病
いま改めて調べてみて分ったのですが「母原病」という言葉は、小児科医の久徳重盛さんが、1979年に『母原病――母親が原因でふえる子どもの異常』という本を出されて、それがベストセラーになったことから知られるようになったんですね。私の記憶ではもっと前から聞いていたような気がしていました。

今はあまり言われなくなった言葉なのでしょうか? でも私から見れば、「心」の問題を抱えている人が増えていると言われる中で、今こそこの「母原病」にスポットを当てるべきだと思います。私には、中学3年まで「夜尿症」という悩みがあったのですが、家を出た途端にピタッとそれが止んだ。結局それは「母原病」だったんです。だからよく解るのです。

先日、ある女性から面白い話を聞きました。その方にはお兄さんがいらっしゃったのですが、3歳の時に病気で亡くなってしまった。それを経験したお母さんは、後から生まれた彼女が病気になることをとても心配して、学校に行かせる時には手編みの毛糸のパンツをはかせたというのです。ところが彼女は、学校でスカートめくりにあってからかわれ、それで登校拒否になってしまったのだそうです。

さてそこまでは、単なる可哀想な話なのですが、その先が興味深い。その時分には、実際、彼女もしょっちゅう扁桃腺を腫らすなどして病弱だったそうです。しかし今から考えてみると、母親の心配性の念が、自分の病弱を実現させていたように思うと言うのです。つまり、自分の体が、無意識のうちに母親の「期待」に応えてしまったというわけです。

これはあり得る話です。「ネガティブ+否定」のパターンは、ネガティブを強化する方向にしか働かない、と何度も書いて来た通りです。「病気(ネガティブ)」に「ならないように(否定)」と「願う(念じる)」ことが、逆効果を生んでしまうのです。これはその典型例です。

現在の彼女は、そういう幼少時の体験もあったせいか、その後努力を積んで、今では大変なスタミナを持つ強靭な肉体に生まれ変わっています。「母原病」をプラスのエネルギーに変えたんですね。でもこういう人は少ない。「母原病」を「母原病」だったと知らずに悩んでいる人が多いです。

「母原病」がなぜ起こるかと言えば、「愛」と「愛情」を錯覚しているからです。「愛」と「愛情」との区別がついていないのです。一般に「愛情」を注いで子どもを育てると言いますが、それが「愛」だと思い込んでいるわけです。しかし、「愛」と「愛情」とは違うものです。

「愛情」というのは文字通り、そこに「情」が絡んでいる。この「情」は誰のものかといえば、親のものであって、子のものではないのです。そこにスレ違いが起きる。「こんなに愛情を注いでいるのに」とか、「こんなにあの子のことを心配しているのに」とか。でも子どもにしたら、それは重たいプレッシャーでしかないのです。

子どもは、力関係からいえば親よりはずっと弱い。ですから親の感情を先回りして「なんとかお母さんの期待に応えなきゃ」とか、「叱られないようにして、いい子でいなくちゃ」と考えて、それがストレスとなって、本来の「自由」を押し込め、「母原病」を発症してしまうのです。

「情」のウエイトが高い「愛」は、結局その人のエゴなんです。自分の思い通りにしたいという。だから、それが実現されない時には、「私がこんなに思っているのに」とか、「まったく、親の心子知らずとはよく言ったものだわ」とか言って、「愛」だと思っていたものが、「恨み」や「憎しみ」にたちまち変わってしまうのです。

これは、恋愛や夫婦関係にも言えることですが、「恨み」や「憎しみ」に変わったものは、結局、本当の「愛」ではなかったという、見事な証拠になっているわけです。

本当の「愛」というものは、いちいち口うるさくしたりはしないものです。余計な心配をせずに、ただ成長を願って、見守るというのが本当の「愛」。それは一見、冷ややかに見えるかも知れません。なぜなら「情」がありませんので。でもね、みなさんが「神様」と呼んでいる存在の「愛」は、まさにそのようになっているんですよ。
ミスティシズムとオカルティズムの違い
「ミスティシズム(Mysticism)」と「オカルティズム(Occultism)」は、スピリチュアルなことに興味がある人の間でも、たぶん同じような感覚で捉えられているのではないかと思います。けれども私は、それを明確に区別したいと思います。

「Mysticism」は「神秘主義」と訳されることが多いようです。「Occultism」も同様に「神秘主義」と訳されたりしていますが、オカルティズムのオカルトはラテン語の occultus (隠されたもの)を意味する言葉から派生したもので、そのことだけを考えたら同じに思えるかも知れませんが、私としては「心霊主義」と訳すのが適切だと考えています。

両者はいったい何がどう違うのでしょうか。それは視点の置きどころが違うのです。両者とも、超自然的な存在や法則性を捉えようとする知識体系であることには違いがないのですが、その視点が上から見ているのと、下から見ているのとの違いです。そして、この視点の置きどころの違いが、同じものを理解しようとしているのに180度の違いを生んでしまうのです。

これまでにも何度か書きましたが、いわゆる「この世」と「あの世」というものは、表裏ということではなくて、連続的につながっているものです。グラデーションになっていると言えば解りやすいでしょうか。このグラデーションの違いが何に起因するかと言うと、それは「振動数」なのです。精神世界ではバイブレーションとか波動という言われ方をよくします。

「この世」と「あの世」を含めた全宇宙を構成している元素(原子の意味ではありません)は、ただ一つであり、この元素の「振動数」の違いによって、「あの世」から「この世」までが階層的に構成されているのです。この階層は、大きく七段階あり、各階層がさらに七段階に分かれるという入れ子構造になっています。

「振動数」が高くなるほど、いわゆる「神」と呼ばれる存在に近くなって行き、逆に「振動数」が低くなると、しだいに物質化という現象が起こって、我々が今いる「この世」が出現するのです。ですから人の「死」というものはなく、「魂」が「振動数」を低めて肉体を持ったり、逆に高めて霊界に帰ったりしているだけなのです。

さてそうしますと、この「振動数」の違いはグラデーションになっていますから、途中段階では「物質」と「非物質」という境界がかなりあいまいな領域が生じます。これは先に言った七段階構造のちょうど真ん中、下から数えて四番目に当たります。そこでこれを「第四霊性密度」(密度というのは「振動数」と同じ意味)と言います。

*一般には「四次元」と言っており、私も時々そう言うことがありますが、数学的な次元(Dimension)と混同してしまうので注意を要します。「Dimension」は運動方向の数を規定したものですが、「霊性密度(Spiritual Density)」はあくまで「振動数」です。両方とも頭文字が「D」のため、「3D」「4D」と書いたりもして、これもややこしいですが、注意してください。

物理学の方では、電磁波は「波」の性質と「粒子」の性質の両方を持つということが実験的に確かめられています。これは一種の不思議現象ですが、神秘学から言いますと、電磁波の振動数の帯域が、ちょうど「第四霊性密度」の領域にあるために、そのようなあいまい現象が起きているのです。

また、電磁波だけではなく、この「第四霊性密度」の領域では、その他の不思議現象、いわゆる「心霊現象」が起こります。俗にいう幽霊が出るのもこの領域です。これはその上の「第五霊性密度」にすんなり行けなくて、中間で彷徨っている「魂」です。UFOが突如出現したり消えたりするのは、振動数を上げたり下げたりして、非物質化と物質化を行っているからなのです。

このように、「第四霊性密度」の領域では、「この世」から見て、様々な不思議現象が出現いたします。その時に、これをどちら側から見るか、という違いなのです。「ミスティシズム(神秘主義)」は上から見るのです。一方の「オカルティズム(心霊主義)」は下から見ているのです。

「ミスティシズム(神秘主義)」というのは、超古代から伝わった智恵で(正確に言えば、「時間」というものはないので、いつの世でも普遍的な智恵ということになりますが)、その観点から言えば、「宇宙の法則」の全体というものが解っていますから、いわゆる「不思議現象」は、不思議でも何でもない、当たり前のことに過ぎないのです。

ところが、「この世」側から見ますと、「宇宙の法則」に関する智恵をほとんどの人が持っていないために、「第四霊性密度」で起きることが、不思議現象、超常現象、心霊現象、として捉えられてしまうのです。これが「オカルティズム(心霊主義)」です。

「オカルティズム」というのは、全体のことがあまりよく解っていなくて、超常現象をワーワー騒いでいるだけなのです。そして残念なことに、巷に溢れる書籍や情報の99パーセントは、「オカルティズム」の視点から書かれているのです。その方が、刺激的で人々の注目を集めるからです。ホンモノよりもニセモノを好むという、人間の特性に合っているとも言えます。

また、世に霊能力を持った人は多いですが、自称「霊能者」のうちの9割方は、低級霊や動物霊をチャネリングしていると見て間違いありません。この人たちの特徴は、あなたの家系に自殺者が居てその霊が取り憑いているといったような、恐怖を与えるような霊言を下ろして来ることです。そうやって、恐怖にかられた人間たちが右往左往するのを見て、低級霊たちはほくそ笑んでいるわけです。

はっきり言っておきますが、光の存在たちは、そのようなことは絶対にいたしません。そんなことはできないのです。そもそも自分の中に、恐怖というものがない。なぜなら、万物は陰陽で構成されており、輪廻転生することによって宇宙全体が成長して行くという「真理」を知っているからです。「ミスティシズム(神秘主義)」の奥義を理解しているのです。

好きなものを止めろと言う権利はもちろん私にはありませんが、私の立場から言えば、超常現象とか、UFOとか、幽霊や悪魔や、占いや予言に夢中になっても、霊性の向上ということのためには何の役にも立たないとだけは申し上げておきます。むしろ、ご自分の波動を大きく下げてしまう可能性の方が高い。逆に言えば、自分の波動が低いからこそ、そっちに興味が行ってしまうとも言えます。

そんなことよりも、みんなが楽しく暮らせる社会の、理想を想い描いて、自分を解放し、自分の隠れた能力を引き出し、他の人々の役に立つような生き方を、日々楽しく朗らかに実践する方が、どれほど価値あるものか。それこそがホンモノなのだと、あなたが生きるべき道なのだと、申し上げたいです。
作用・反作用の法則
力学の「作用・反作用の法則」というものをご存知でしょう。作用に対しては、それと同等の反作用が働くというものです。これは物理学(物質界における理を研究)に表れた一つの「真理」と言えます。なぜそれが「真理」なのかと言えば、その根本には、宇宙のあらゆるものが陰陽二極から生じているという、もっと深い「真理」が隠れているからです。

さて、この「作用・反作用の法則」は、「心」にもそのまま当てはまるということを、ぜひ知っておいてください。たとえば身近な例では、「眠ろう、眠ろう」と焦ると、ますます頭が冴えて眠れなくなってしまうのに対し、「どうせ眠れないんだから、今夜は本でも読もうか」と割り切ると、たちまち眠りに落ちてしまうといった具合です。

イヤなこと、忘れたいことを、いくら振りほどこうとしても、振りほどこうとすればするほど、逆にそこから意識が離れなくなってしまう。そんな経験を誰しもがお持ちでしょう。それはみな、この「作用・反作用の法則」が働くためなのです。「作用・反作用の法則」が、意識のますますの集中を、フォーカス・ポイントに生み出すのです。

あなたのこれまでの人生の中で、記憶の底に刻み付けられた、非常に大きな影響を与えた事柄は、あなたが強く受認したものか、逆に強く反発したものか、必ずどちらかになっているはずです。受け入れることも、斥けることも、ともに「心」に同じ働きを与えてしまうのです。このことを、ご自分の経験に照らし合わせてまず認めてください。

私が、「悪や魔に対抗するな」といつも言っていることの理由の一つは、まさにそこにあります。悪や魔を斥けようとした瞬間から、「作用・反作用の法則」が働き、逆に悪や魔があなたの中に入り、あなたをいつの間にか虜にしてしまうのです。そうではなくて、「ま、そういうこともあるよね」という程度に、ネガティブなことは受け流すテクニックというものが重要になってくるのです。

そしてさらに言えば、そんなものに動じない、もっと楽しく、有意義で、人々のためになるし自分のためにもなる、明るく輝くマイプロジェクトに集中し、そんなものを追い出してしまうことが肝心です。その意味で、そうしたマイプロジェクトを持っていない人は、帰る場所がなく、外からのネガティブな影響を受けやすいと言えます。

「暗闇は存在しない」と前にも書きました。暗闇は存在するものではなく、単に光が当たっていないという状態に過ぎないのです。その無いはずの暗闇に抗うから、暗闇を自分の中に認めることになってしまうのです。このたとえがお解りでしょうか? あなたがいつも光を発していれば、暗闇など周囲に現れようはずがないわけです。だから、あなたも、光の存在になれ!
「知力」をつける
幼児教育、小学校教育において一番大切なことは、「知力」をつけることだと思います。「知力」というのは、自分で情報を集めて、分析し、そして判断する力です。今の学校教育にそういう視点があるかどうかは分かりませんが、おそらくないでしょう。数式を覚えたり、歴史の年号を暗記したりすることを、みんな教育と思っているのではないでしょうか。

しかし、そんなものをいくら覚えても、大人になってから殆ど役に立たない。社会はいろんな職種の人で構成されていて、そこで求められる知識はどれもスペシャルなものです。知識というのは、必要に迫られて学んだ時にスッと入ってくるもので、「必要性」というものをどう感じているかがポイントなのです。

この「必要性」が、「テストでいい点を取るため」ではどうしようもない。そこにモチベーションを感じる人のみが、知識の習得に励むことになり、そこに興味を持てない人は、学習意欲そのものを失ってしまう。さらに酷いと思うのは、その結果をもって優劣を付けることであり、頭のいい人と悪い人が分けられ、どちらも自分をそんなもんだと思い込んで行く。

しかし、一流会社の平社員になるためには、一流大学を卒業していなければならないが、起業して社長になる場合には、学校に行く必要性すらないということは指摘しておきたい。その道のオーソリティーになるには、好奇心と、想像力と創造力、そして熱意があればいいのであって、それは誰にでも可能性があるということ。それを伝えるのが、教育だと自分は思う。

大人たちを見ていると、子どもの時に「知力」を養う訓練をして来なかった弊害が、いかに広く蔓延しているかと思うことが多々あります。想像ができない、類推ができない。ですから意識を冒険させてやることができなくて、いつも自分の狭い領域に落ちてしまう。そのくせ、権威がある者にはなびき、その者が言うことを信じ込んでしまう。

いわゆる「頭のいい人」と、「知力のある人」とは違うということ。「知力」を養えば、世の中を違った角度で見られるようになり、教養も深まるし、自縛から自由になれるのです。ですから、日々「知力」を付ける訓練をしていただきたい。ポイントは、一つの情報を得た時に、関連する別のものを想い浮かべることです。
誠意に応えるコミュニケーションを
昔、小さな事務所を持っていたころ、アシスタントの人たちに口を酸っぱくして言っていた言葉があります。
「誠意には、誠意で応えろ!」
若い時分には、みな自分のことで頭がいっぱいで、他の人の気持ちまで考える余裕がありません。そのことは理解できます。だからこそ、なおさらこれを言うのです。

人の誠意を理解できないほど、鈍感になってはなりません。

コミュニケーションというのは、言うまでもなく、相手があって成立することです。ところが、自分の要求だけをする人が多いんですね。eメールの環境が整ったのはいいのですが、面と向かって話をする機会が減少し、コミュニケーションの訓練があまりされなくなってしまいました。そういう弊害もあるのでしょう。

相談事、お願い事を投げかけられ、こっちは少しでも力になりたいと、無い時間からひねり出し応えてあげても感謝の言葉一つないことが多いです。別に感謝が欲しい訳ではないですが、その人の心の余裕の無さを、転換してあげられなかったなと思うのです。

そうかと思えば、いくつかの選択肢を提案してあげても、どれも自分の意に添わないとなると、返事もよこさないという人も多い。こちらは投げかけたことに対して責任を感じて、いったいどういう選択をするのかなと待ち構えて準備しているのですが、その気持ちをすっぽかされる。

今の時代感覚がそういうもので、若者同士では、別段気にも留めないで会話が成立しているのかも知れません。その辺は私には解りません。しかし私としては、良くないことだな、と思っています。私が、古いんでしょうか?

我が息子も、時々、こういうお願いの仕方をしてくることがあります。
「◯○をしてくれちゃったりなんかしますか?」
その度に「そういうお願いの仕方はないよ。人にものを頼む時は、真正面から『これこれのことをお願いできないでしょうか?』と言いなさい。そして相手がそれをしてくれた時には、感謝の言葉を述べなさい」と言うんですけどね。

まあ、私は身内だからいいんですけれど、息子が仕事先で、他の人に同じようなことを仕出かしていやしないかと、案じているんです。
誠意に応えるコミュニケーションを心掛けるようにしましょうよ。
「変化」するということ
あなたは今のご自分を変えたいですか? それとも変えたくないですか?
今の自分を変えたいと悩む人がいます。自ら積極的に変わろうとする人もいます。一方で、変化が怖いという人もいます。今の自分を守り抜くべきだと思っている人もいます。そうかと思えば、所詮人間なんて変わりようがないよ、という人もいます。いったいどれが、良い生き方なのでしょうか?

先ず申し上げたいのは、変化したい・したくない、に関わらず、あらゆるものは変化するものだということです。変化は必然なのです。朝がくれば陽が昇り、夕刻には西に沈んで、代わりに夜が訪れる。川は流れ、風が吹き、春夏秋冬があり、作物が実り、生き物が誕生し、成長して、そして死を迎える。この「変化」に逆らうことは、何人(なんぴと)たりともできません。

ですから、この事実は認めなくてはなりません。「変化」に抵抗しても、全くの無意味だということです。「人間なんて変わりようがない」という人は、観察を充分にしておらず、頭でそういう理屈を組み立てているのです。よく見れば「変わりようがない」どころか、日々「変化」していることは、疑いようのない事実です。

だとすれば、それを素直に認めた上で、「変化」をこっちのものにしてしまえば良いのです。今を守ろうとするから怖くなり、今を否定するから「変えたい」と悩み、行動しようとしないから「変化」を自分で支配できないのです。そうではなくて、今の自分を肯定し、明日の自分を想像し、そこに向かって行動することです。

その連続こそが自分であり、ある時間で比較した際に、前後で「変化」が感じられるという、それだけの話なのです。ですから、「変化」しなければと思う必要もなく、ただ「魂」の声に耳を傾けて、直感に従って毎日を楽しみながら行動するだけでいいのです。あれこれ悩んでしまうのは、自分を信じ切ることができずに、社会が発信する声に耳を傾けているためなのです。

そんな雑音などは全部切り捨てておしまいなさい。あなたはあなたです。
社会があなたの何を知っているというのでしょう? あなたの「変化」に対して、何をどう保障してくれるというのでしょう? 不特定多数の人に向けた脅しに、屈服してどうするんですか? あなたにはあなたにしか出来ない役目があるんですよ。

それにね、とっておきの話を教えてあげましょう。努力の甲斐があって、あなたが人間的に大きく成長できたとしましょう。でもそれは、「変化」したというよりも、「思い出した」ということなんですよ。
生まれる前に、ご自分で設定してきた課題を。
「教え」を「戒律」にしてはならない
「教え」というものは、ある道を極めた者が吐露した心情や哲学です。それは、その人が、その時点で掴んだもので、「真理の法則」に近づけば近づくほど、普遍性を持った内容になっていくのです。ですから、そういうものは、人の心に浸み通る力を持っています。

しかし、真面目な人の中には、この「教え」を「戒律」に変えて、自分の中に入れてしまう人が少なくありません。「教え」を語る者が、過去の偉人や神格化された人物であった場合にはなおさらで、その肩書きに負けて、無条件でそれを「戒律」にしてしまいがちです。また、そうするようにと指導する人も多い。

でもそれをやったら、自己の「魂」の自由を制限することになってしまいます。自分が納得できないもの、しっくりこないものは、堂々と「イヤだ」と言っていいのです。「私はそうは思わない」と言って、反抗していいのですよ。たとえどんなにエラい人のご託宣であったとしても‥‥。

「戒律」は守らなければいけないものなのか? 私はそうは思いません。たとえば、第二次大戦中のナチスはどうなのでしょうか? 党員がみんな「戒律」を守ったからこそ、ああなってしまったのではありませんか?

現在のドイツ軍には、その反省もあって、自分の良心に照らして「これはやってはいけない」と心底思ったら、上官の命令に従わなくてもいいという決まりがあるのだそうです。それを知ったとき、私は驚きました。えっ! 軍隊なのに? スゴイ!

自分が納得できていないものなのに、背景にある意味をよく理解できていないものなのに、どうしてわざわざ自分で「戒律」に仕立て上げ、自分を従わせる必要があるのでしょうか? 本来自由な自分の「魂」を、なんで自分で拘束しようとするのでしょうか?

「戒律」に従った方が、行動原理が示されるので「楽だ」と考える人もたぶんおられるのでしょう。しかし、自分の「魂」の自由を封印していたら、「楽」どころか、しだいしだいに苦痛が溜まっていき、最後は爆発してしまいます。病気や事件として表われて。

そうなってもまだ気づかずに、これは自分がまだまだ甘いせいだ、「戒律」をちゃんと守らないせいだ、とさらに深みにハマる人もいる。まったく、なんと愚かなことでしょうか?

ですから、どんな「教え」にも従うな、と言ってあげたい。自分の「魂」の叫びを素直に聞け、と言いたい。そして「魂」が共感するときにだけ、「その通り!」「私もそう思う」「同じことを自分は言いたかったんだ」と言えばいい。その瞬間、それはもう他人の「教え」ではなく、あなたが発する言葉になったのです。
奴隷への道 ---- 自由意志の誤った使い方
人に自由意志が与えられているというのは、天が与えてくれた最大のギフトです。それなのに、却って自分を持て余すという人が多いようです。一方で、アグレシッブな人の中には、せっかくのギフトを、他人を支配しよう、奴隷化してその上に君臨しようと考える人も出てきます。こういう人たちは頭がよく、それを実現させるために巧妙な戦略をとってきます。

そのとき、自由意志の行使の仕方を、幼少時から訓練されずに来た人というのは、簡単にその戦略にハマってしまうのです。「そんなバカな?」と思われるかも知れませんが、自ら進んで奴隷となる道を選択していく。むしろ喜んで、奴隷となっていくのです。しかしそれも、自由意志の行使の結果なのです。

一昔前の支配者は、暴力で脅し、体の自由を奪って拘束し、人を奴隷化しました。しかし、今の支配者は(アフリカの一部地域を除いて)そんなことはしません。ではどうするかというと、教育によって、自由意志そのものを拘束するのです。これを「洗脳(Brainwash)」と言います。(ちなみに「マインド・コントロール」というのは、英語の誤用)

体を拘束したのでは、自由な「心」が反抗心を膨らませ、そのうちに暴動を起こしてしまうかも知れません。しかし自由意志そのものを拘束してしまったら、その人は喜んで、自分から進んで奴隷であり続けようとするのです。

その方法はこうです。ヒエラルキー(ピラミッド型の階層構造)を設定して、その頂点を極めるのが人間としての望ましい生き方だ、ということを徹底して吹き込むのです。「どうだい? 君もそうなりたくはないかい?」。そして頂点に君臨する者が、いかに金を持ち、豪華な家に住み、人々の尊敬を集め、周囲を思い通りに動かせるかを、見せつけるのです。

でもちょっと考えてみれば、その論理の幼稚さに気づくはず‥‥‥‥なのですが、あんまり気づかないんですねぇ、これが。

宝くじで「1億円が30本!」などと言いますけれど、それを支えるためには、どれだけの掠め盗られる人が必要なのか。一人3,000円として100万人ですよ。ですから、親切を考えたら「1億円が30本! でも投資額平均3,000円として、当たらない人が100万人!」と言わなくちゃいけない。でも、後半は言わないんですよね。

それと同じで、例えばある居酒屋チェーンのオーナーがしきりと「夢」を強調しているんですけれど、どこに「夢」があるんだと。「俺のようになりたくないか?」と言って、もし全員がその「夢」を実現したら、従業員はゼロになって、チェーンは崩壊してしまいますよ。チェーンというのは、たくさんの奴隷によって成り立つ仕組みなんですから。

ところが、こんな簡単なことが見破れないんです。子供の時から、ありとあらゆる場所、機会、そしてメディアによって、「ピラミッドの頂点を極めるのが、人間としての望ましい生き方だ」と、さんざん吹き込まれて育ってしまい、それ以外は考えられなくなっているからです。

でも冷静になって考えてみてください。今の不況は、物が無いことではなくて、物があり余っているのに、売れないことから起きているんです。物があり過ぎるのは、生産効率が昔と比べて格段に高くなったからです。その裏には機械による生産が進んだだけでなく、人間を低賃金でコキ使う、人間のロボット化もすさまじい勢いで進行しているんです。

でも賃金が安いので、その人たちは、まともに物を買えない。こういう馬鹿なことがグローバル経済の名の下に世界規模で起きているんです。この発想を変えなくちゃダメです。いったいそれで得をしている者は誰なのか? 支配者が提示する価値観に乗れば乗るほど、支配者を太らせ、自分たちは貧しくなるということに、もういい加減に気づきましょうよ。

みんなが仲良くシェアーするという考えに一斉に変われば、食料や衣服やその他の過剰生産はする必要がなくなり、その分、追い立てられるように働く必要もなく、時間に余裕ができて、人生を楽しめ、不平等が是正され、かつ環境に対する負荷も軽減できるようになるのです。そこにこそ、パラダイスがあることに気づきませんか?

なぜ、それを目指そうとしないのでしょうか? 支配者の口車に乗るのは、もういい加減に止めにしませんか?
「それ」が父ではなく「理法」だと知った時、なぜ自分は驚喜したのか
「真理」を求め、ひたすら「心」の平安を願っていた時期、私は二つの教団を渡り歩きました。一つ目は信者数30万人超の大きな教団で仏教系でした。ここで13年間お世話になりました。二つ目は宗教とは言ってはいませんでしたが、実質はキリスト教系の宗教と言ってよく信者数は200人ほどでした。ここには5年間おりました。

どちらもその時期の自分を支えたものであり、今日の知識の基礎を築くことになったということには感謝しているのですが、結局は殻の中には収まりませんでした。仏教系の教団はヒエラルキーの構造を持っていましたが、13年間居て、自分は万年最下層で終わりました。そういうものには全く興味が無かったのです。

キリスト教系の団体は構成員が少なかったので、私は古い先輩方を押しのけてたちまち頭角を表し、そのことで逆に妬みを受け、最後は自分の方でそこを去る決心をしました。その団体では「神様」と「信仰」というものを非常に強調していたのですが、そういう経験があって、「これではダメだ」と思うようになったのです。

ご承知のように、仏教では「神」という概念を設定してはおりません。それは考えたところでどうせ解らないのだから、それよりは「自分の人間性や霊性を高めろ」というのが仏教系の基本思想です。いわゆる「自力」です。

ところがキリスト教系は、宇宙の全部が「神」の懐に抱かれているのだから、全部お任せすればいいのであって、「ただひたすら神に頼め」というのが基本思想です。いわゆる「他力」です。こうして、「自力」と「他力」の二つの考え方に接することができたのは、今の自分にとって非常に役に立ちました。

現在の考え方を言えば、両方とも正しくて、そして「自力」と「他力」の両方がバランス良く必要なのだという結論です。どちらか一方に偏っているからいけないのです。「自力」と「他力」というのは、同じことの「視点」の違いに過ぎないのです。だから、どちらも色メガネで見ることを止めればいいのです。

さて、私が経験したキリスト教系の団体では、当然のことながら、信者たちの多くは「神」と「父」をダブらせて見ていました。そこに、その団体の代表である霊能者の姿がさらにダブり、「神」と「教祖」と「父」とがまさに三位一体となって捉えられていたのです。

すると、こういうことが起きるのです。誰がいちばん「父」を愛しているか、誰がいちばん「父」からの愛を貰っているか、という「愛」の獲得競争です。そこに私も巻き込まれてしまい、妬みを買って、いわれなき中傷まで流され、最後はこの男を潰してやろうと憎悪の炎を燃やす人まで現れて来ました。

またこの霊能者が、信者さんたちに、過去世における自分との関係を不用意に下ろして語るものですから、いろんな時代での本妻や二号や妹だったという人がいっぱい出現して、それぞれが火花を散らすという、端から見れば「なんじゃコレは?」という、笑えない話になってしまっていたのです。

誕生した子どもが、最初に受け取る「愛」は、両親からのものです。ですから、両親からの「愛」を適切に受けられなかった、という感情を持つ人が非常に多いということは解るのです。私もその一人だったと言っていいでしょう。

ですが、それを霊界にイメージする「神」に仮託してはなりません。『聖書』でしばしば「神」を父になぞらえて語っているのは、創造者と被創造物との関係を、もっとも簡単に解らせるには、父と子という親子関係で示すのが、方便として手っ取り早かったからです。当時の人々は、ほとんど無学だったことに注目してください。

しかし、この世に生まれて、両親との間で、満たされぬ「愛」への渇望や憎悪の感情が、もししこりとして残ったとするならば、それはあなたが生きているうちに、《現実的な問題として》処理し、乗り越えなければならないのです。まさに、それこそが、この世に生を受けていることの意味なのですから。

現実で起きていることは、きちんと現実に向き合わなければなりません。そうでない限り乗り越えることはできず、霊性の向上もありません。ですからその代償行為として、自分がイメージする霊界の父に仮託するようなことは、慎まねばならないのです。なぜなら、幻想の父はいないのであって、それは現実逃避でしかないからです。

「神」と呼ぶものが「父」ではなく、「理法」だと知った時、なぜ私が驚喜したのかと言えば、これ以上の公平さはないからです。誰にでも等しくそれは作用する。そこに、「父」の概念を超えた、もっと大きな「愛」、普遍的な「愛」、無償の「愛」があることに気づいたのです。

「神」を「父」になぞらえてしまったら、誰がいちばん愛しているか、誰がいちばん愛されているか、という「愛」の獲得競争に陥ってしまいます。「神」という言葉をみな共通して使っているので一見普遍的なように感じるかも知れませんが、実態は極めて個人的でエゴイスティックです。そこで、そこから「愛」とは真反対の、「嫉妬」や「憎悪」が生まれてくる。

そうではないということです。「理法」は冷徹ではありますが、そこには信じられないほどの、もっと大きな「愛」、人智を超えた「愛」があるということに気づいて欲しいのです。
「それ」はご自身への依存を許さない
宇宙を、一体なにものが創ったのかは、この先も永遠に不明ですが、創造者と創造物(=原因と結果)はつねに一対一で対応するというこの世の因果律を当てはめると、やはりそこには「創造主」と呼ばれるなにものかが居られるとしか考えられません。またこの存在は、時代を超えて通用する普遍的なメッセージをしばしば送って来ることから、意識を持って居られるということは間違いないようです。

しかしその存在は、自分自身を「神」と言ったことは一度もなく、「神」と名付けたのは人間たちなのです。霊界でもただ「それ(that)」と呼ばれていて、絶対的な存在として敬われてはおりますが、「それ」が何であるかは、明らかにされたことはありません。

けれども、『ヨハネの福音書』のよく知られた次のセンテンスに、「それ」が何であるかの大きなヒントが示されています。

初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。

この「言葉」というのは、原書のギリシャ語では「ロゴス(logos)」となっており、これは英語の「logic」の語源です。ですから、日本語への翻訳によって「言葉」とされてしまったわけですが、本来は「理法」と訳すべきだったのです。ということで、訳し直して縮めるとこうなります。

初めに理法があった。
理法こそが神であった。
万物はこの理法によって成ったのであり、
理法によらずに成ったものはひとつもなかった。

これ以上のシンプルさはなく、シンプルであるがゆえに、あまねく普遍性を持つ、これは「真理」だと言えるのです。さて問題は、それを人間たちが「神」と呼んだことです。そこに「神」概念を付与することによって、いろんな「神」が誕生してしまったのです。多くはそこに、父や母のイメージを仮託して、人格神を作り、それを敬うようになって行きました。

自分をいつも見守っていて、庇護してくれる、絶対的な親としての「神」です。これは、あながち間違いとは言えません。半分は正しい。理法が万物を創ったのであれば、創られた存在の一つとしての自分は、その理法の内にあるからです。理法から出ることは適いません。このことを突き詰めた考え方を「絶対他力」と言います。ですから、「絶対他力」の考え方自体は正しいのです。

しかし「創造主(それ)」を、「理法」と捉えるのか、はたまた「人格神」と捉えるのかによって、「絶対他力」の意味合いは180度違って来てしまうのです。「人格神」と捉えた場合には、そこに父(or 母)を仮託しているので、どうしても「依存」ということから抜けられない。また「依存」を「信仰心」と言って、正当化してしまうということも起きてしまいます。

では、「それ」は、自身への「依存」を許すのでしょうか? 許すはずがありません。なぜなら「創造主(それ)」は、「人格神」ではなくて「理法」だからです。「人格神」というのは、人間が勝手に作ったイメージに過ぎません。つまり偶像です。そして、これを拝むことを偶像崇拝と言うのです。砂上の楼閣に過ぎないものをみんな一生懸命拝んでいるわけです。

よしんば、そうすることによって「苦悩」が晴れるのならまだいいです。しかし、私が観察したところによると、ますます「苦悩」を深める、「苦悩」に落ちてそこから這い上がる力まで失ってしまう人が多いのは残念でなりません。そのような人は、「創造主(それ)」を「理法」とは認めたくはないのですね。どうしても、人間的な、温かな父(or 母)であって欲しいのですね。

しかし、私などは、違う感覚を持っているのです。「創造主(それ)」の正体が「理法」であると知ったとき、すべての謎が解けて、パーっと目の前が開け、ありがたさというものがしみじみと体に入って来た。そして、「頑張るぞ」「自分をもっと活かすぞ」というアグレッシブな決意というものが、ふつふつと内側から沸き上がって来ました。

何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる(西行)

もし「それ」が、自身への「依存」を許すのなら、なぜ「それ」は、あなたというものを手許から手放したのでしょうか? ずっと、自分の家に置いておけばよかったではありませんか? 手許からあなたを手放し、あなたに自由意志を与えたのは、とりもなおさず「旅に出ろ」ということではありませんか? それなのに、どうして「旅」のチャンスを活かそうとはなさらないのですか?

放蕩息子の帰還」のたとえ話を思い浮かべてください。なぜ父は、放蕩息子の帰還を祝宴を上げてまで喜んだのでしょうか? なぜ、家にずっと居て、父とともに真面目に暮らしていた兄は、帰還した放蕩の弟に、逆に嫉妬したのでしょうか? そこをよく考えてみてください。