by Rainbow School
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病人を創り出すことに喜びを感じる人間に成り下がってしまった、医者
ひどいインターネット広告を見ました。入口が「あなたのお子さん、『片づけられない人』なのでは?」というのです。クリックすると広告ページに飛び、そこで「それって、もしかしたらADHDかも?」となるのです。あとは、「専門医に相談しなさい」「治療にいい薬があります」という、ドツボに落とし込むパターンです。

親切な第三者機関を装っているのですが、ホームページを作っているのは、れっきとしたアメリカの大手製薬会社。以前に、子宮頸癌ワクチンの接種を誘う、女性専用列車内での全面広告のことを書きましたが、あれと誘い込む手法は同じです。

マーケティングでは「市場創造」と言うのですが、顧客というのは、そこに居るのではなくて創るものなのだと。有名な話では、「洗口液」というものが登場するまでは、誰も口臭のことなど気にしていなかったと言います。さてそこで、医薬品がそれと同じことをしていいのか、ということです。医薬品の「市場創造」とは、病人を創ることになってしまいます。

私は、片づけが苦手です。時々は掃除をしますが、机の上にはいろんなものが出しっ放しでいつも散らかっています。うちの息子に至っては、片づけ能力ほとんどゼロ! じゃあそれが「もしかしたらADHDかも?」になるのかということです。「かも?」ならぬ、本音は「カモ」にしたいだけのことではありませんか?

いったい全体「片づけ」が大得意なんて人がどれほどいるのでしょうか? ほとんどの人が苦手だから、雑誌やテレビで「収納術」特集が組まれるのではありませんか? うちのカミさんは私より片づけられなくて、私は、往年のハリウッド女優デボラ・カーをもじって「ズボラ・カー」と呼んでいたくらいです。(デボラ・カーを知らないか?)

今は、生身の人間とのコミュニケーションが希薄になり、若いお母さんなどは子育てに関してインターネット情報に頼っているような状態です。そんな状況につけ込んで「あなたのお子さん、『片づけられない人』なのでは?」とやったら、思い当たる人はゴマンといる。そこで専門医(?)の診断を受けたりしたら、たちまち病気にされてしまいますよ。

精神疾患はおいしい市場です。なにしろ、誰にでも「動く心」というものがある。潜在市場は人類全体といってもいい。その「動く心」の喜怒哀楽、躁鬱、不安は、すべて「病気」と決めつけることだってできる。そして一度「病気」にしてしまえば、そこから「薬漬け」に誘い込める。しかも治らないから、「薬漬け」状態をずーっと継続できるというわけです。

私の従兄弟も医者をやっていますし、全員がと言うつもりはありませんが、今や医者は、病人を治すことに喜びを感じるのではなく、病人を創り出すことに喜びを感じる人間に成り下がってしまった。

精神科医というのは、いったい何の専門家なのでしょうか? 「心」のありかも知らない者が「心の病」の専門家と言うのだからまったくひどい。彼らがやっていることは治療ではなくて、勝手な病名を付けて「診断」するだけです。「診断」ごとに処方が決まっているから、それに応じた薬を処方することを称して「治療」と言っているだけ。

一度「薬漬け」にされてしまったら、そこから抜け出すのに2倍の以上の手間が掛かってしまいます。「薬漬け」から脱出するのと、元々の「心」の問題を手当てするのと。患者は、薬を服用していることで一応の平静が保てていると思い込むようになるので、薬物依存から抜け出すのはますます困難になる。何のことはない、「治療」は問題を複雑化させるだけなのです。

「心」は「脳」が生み出しており、「脳」の機能障害が「心の病」の原因だとする唯物論者たちに問いたい。ではその「脳」は、いったい誰が動かしているのかと。「脳」が勝手に動いて「心」が生じるのでしょうかと。荒唐無稽な論から出発した「病人」創造は、本当にやめてもらいたいものです。
なんでも「カルマ」のせいにしてはなりません
「霊界の法則」を学んでいただくことは、人生にとって必要不可欠とは言わないまでも、かなり有意義なものをもたらしてくれると確信を持って言えます。その中で「カルマの法則」というものがあり、これは人生上で起きる様々な出来事を、輪廻転生を含めた因果律として教えてくれるものです。

あなたは誰に似てると言われるでしょうか? 子供の頃は、顔を見て、お父さん似だとかお母さん似だと言われる。段々長じて性格的なものが出てくると、もう少し範囲を拡大して、お祖父さん似だとか叔母さん似などと言われる。そのどれもが「似ていること」の理由を DNA に求めたものです。しかしあなたが、最も似ている人物は、前世のあなたなのです。

このように、輪廻転生しても性格が引き継がれていく理由は、背後に「カルマの法則」というものがあるからなのです。しかし、こうした知識を得た人の中に、間違った応用をされている方が少なくないので、この機会に言っておきたいと思います。

高いところにある物を取ろうとして踏み台を用意したがうっかり足を踏み外して転げ落ち、怪我をしてしまった。この原因は「カルマ」によるものでしょうか? それは、明らかに「不注意」というものでしょう。ところが、これと似たようなことを、いちいち「カルマでしょうか?」と訊いて来られる方がいらっしゃるのです。

クルマの運転をする際には、相当な注意力と判断力が必要とされますよね。大事故になったりしたら困るので、そんなことが無いようにとみな注意をしています。そのように、ちゃんと注意していれば防げたものまで「カルマ」のせいにしてしまうのは、いくらなんでも行き過ぎです。

それともう一つ、ここには重大な心得違いがあります。「カルマ」を知ることは、我が身に起こった、一見理不尽に思える出来事であっても、過去世において自分が仕出かした行為に原因があったのだと気づくことに意義があるのです。それによって、今までの生き方を反省し、自分の性格や行動の改善につながればよいのです。

ところが、身に起きた出来事を、ただ「カルマ」のせいにしていたのでは、今まで他人のせいにしていたクセを、「カルマ」のせいに置き換えたに過ぎません。これでは何のための学習であるかが分かりません。ですから、不測の事態が起きた時に、「カルマが出た、カルマ出た」と騒いでみても、建設的とは言い難い。

そんな時には、その状態を先ず素直に受けとめて、「これは今の私に、何を学べと突きつけられた出来事なのか‥‥」とじっくり考えてみることが大切なのです。そうすることによって、「カルマ」を逆に活かすことができるのです。その瞬間から、あなたは自己変革のモードへと入り、「魂」の成長の機会が得られるのです。
世界情勢は激変している
何度も書いてきましたが、私は国内マスコミが報道するニュースを一切見ません。そうなってから久しいのですが、たまに人と会って世界情勢の話などになると、あまりにも話が合わないのでビックリしてしまいます。一体どちらが浦島太郎になってしまったのでしょう?

マスコミの力というものは本当に恐ろしい。それしか知らない人は、その情報で得た知識の上に、自分の考えを組み立てています。マスコミ報道というものは、客観性を持った正しい情報を伝えている、という暗黙の了解があるのです。これを私は「洗脳」状態と言っているわけですが、正に、国民の大多数が疑いを知らない状態に置かれている。

私たちが世界情勢と言うときの「世界」とは、何を指しているのでしょうか? まともに考えれば「地球」全体のことです。ところが日本のマスコミが言う「世界」はそうではありません。日米間に関することが7割方を占めていて、2割が隣国である朝鮮半島と中国に関すること、そして後の1割がその他の国々という、極端なアンバランス状態にあります。

ところが日本人は、今までずーっとそうだったので、それが特別おかしいことだとは思ってはいません。私は地球儀をいつもそばに置いているのですが、太平洋を挟んだアメリカは非常に遠い。それよりは、韓国、北朝鮮、中国、ロシア、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、オーストラリアなどの方がよほど近い。

それなのに、なぜアメリカなのか、ということをよく考えてみなければなりません。簡単に言ってしまえば、戦後70年も経っているのに、日本は未だにアメリカの占領下にあるということなのです。マスコミが示す「世界」が、そのような極端なアンバランスになっているということは、政治もまたそれしか考えていないという証でもあるのです。

あまりにも視野が狭く、アメリカの傀儡として立ち振る舞える者だけが、今日の日本の政治を動かしています。その陰で、日本人は、アメリカのフィルターが掛かった意図的な報道だけを見せられ、未だに広い視野から「世界」を認識できない状態にあります。その結果、激変する世界情勢と、変わらぬ「洗脳」状態とのギャップが日増しに大きくなって来ています。

アメリカは「民主主義」の盟主を自認していますが、「民主主義」を輸出したことはこれまで一度もありません。輸出してきたものは、武器であり、戦争であり、格差であり、貧困です。そのようにして、他国を侵略しては人々の生活を蹂躙し、富を略奪して来たのです。その悪の帝国アメリカとの同盟関係が、日本の外交の最重要だというのは実に情けない。

「安保関連法案」も、表向きは、周辺国の脅威を煽る勢力と、日本人を戦争に向かわせてはいけないという議論の闘いになっていますが、バックにあるのは、安倍総理がアメリカに法案成立を約束してきたからという、非常にレベルの低い、親分子分の契りでしかなく、そこに日本国と日本国民が巻き込まれているという図式です。

しかし世界の大勢は、長年のアメリカの悪だくみに「No!」を突きつけるようになっており、NATOや環太平洋諸国の同盟関係にもヒビが目立ってきています。そのような中で、日本国だけがアメリカの忠実な犬であり続けようとしている。金融においても、軍事においても、アメリカの孤立が際立ってきた中で、今なおそこにしがみつく日本政府の愚かさよ。

5年先、10年先のことを考えてみてください。沈みゆく泥舟国家アメリカと、集団的自衛権だ、TPPだ、基地移転だと議論していることの時代錯誤を。現在の動向を見れば、5年先、10年先には、世界の勢力地図が大きく塗り変わっていることは確実です。

日本はアジアの東に位置している島国です。そのことを先ず自覚して、これまでのアメリカ一辺倒を是正し、周囲の国々ともっと協調を図っていかなければなりません。それこそが、これからの時代の安全保障となるはずです。脅威を煽って武力を行使することは、人類の進むべき方向としても、もはや完全な時代遅れなのです。
嫁姑問題
嫁姑問題で悩んでいるという人の話を聞くと、根っこにある原因というのは、簡単なことなんですよね。要するに、「相手を自分の思い通りにしたいが、そうならない」という悩みです。それは、最初から無理なんですって。相手は自分とは違う、独立した人格なのですから‥‥。「思い通りにしよう」なんてことは、そもそも不可能なことです。

その不可能なことをやろうとするから「無理」が生じるわけです。「無理」というのは「理」が「無い」ということ。法則に反しているということです。

それなのに、人はなぜ不可能なことを敢えてしようとするのでしょうか? 根本にあるのは無智です。独立した肉体を持っている者は、それぞれが独立した人格(魂)であるという、当たり前のことを理解していないのです。

「そんな馬鹿な」と思われるかもしれませんが、話を聞いていると、いかに嫁(姑)が、自分を無視して気に食わない振る舞いをしているか、という話ばかりなのです。これは嫁姑問題に限らず人間関係全般に言えることですが、「相手を自分の意のままにコントロールしたい」と考えている人がかなり居る。他者を、まるで自分の所有物のように考えているのです。

第二に、人格を別個のものだと認めていても、どう付き合っていったらいいかが分からない。これは、自分の心の治め方と、人間関係を円滑にするテクニックの問題です。自己愛に溺れ、自分の感情に埋没して生きているのを当然と思っていたので、そういう訓練をあまりしてきていないのです。

ですから、第一の「他者を独立した人格と認めていない」ということと、第二の「人間関係のテクニックを知らない」ということが、ダブルである人の「悩み」を解くことは、非常にやっかいです。

せめて「そうか。違う人格だから、思い通りにしようったって無理なんだ」と気づいてくれれば、「じゃあ、どうすればいいんだろう」という段階に進める。ところが、「それじゃあとても納得いかない。悪いのは相手なんだから」という気持ちを捨てられない人は、どうにもならない。悪いけれども、もう少し悩み続けていただくしかない。

相手が、「そうか、独立した一個の人格なんだ」と気づけた後で考えて欲しいことは、自分も相手も、共に「発展途上」にある人間だという認識です。未熟を責めるのではなく、伸び代がまだいっぱいある「発展途上」人だと考えてください。そうすれば、自分に埋没することなく、自分も相手も、客観意識を持って眺められるようになります。

自分が知っていて、相手が知らないことは、教えてあげましょう。相手が知っていて、自分が知らないことは、教わりましょう。年齢や立場や上下などに関係なく。それが、人間関係を円滑にする最も簡単なテクニックです。

敵視して相手を見れば、敵視した感情が返って来ます。腹蔵なく話せば(素直に話せば)、腹蔵のない言葉が返って来ます。愛ある態度で接すれば、愛が返ってきます。これは「真理の法則」であり、絶対的なものです。

嫁憎し、姑憎し、と思っていたのは、自分がそういう光線を投げかけていたからです。それが跳ね返って来たということだけです。相手をコントロールすることはできないのです。でも自分はできます。ですから先ずあなたが、「憎し光線」を放つのを一切止めたらどうでしょうか。二人の関係が、しだいに良くなっていくことは、私が保証します。
「分かち合う」ということ
現在の世界の不幸は、「分かち合う」「分け与える」という考え方が、以前にも増して乏しくなっていることです。「Winner takes all(勝者がすべていただく)」という考え方が幅を利かせ、その一握りの成功者をヒーローとして持ち上げ、憧れの対象とし、多くの人々が後に付き従うように仕向けていくのです。

大衆はその背後にあるカラクリに気がつきません。御神輿(おみこし)に乗るには、その担ぎ手を必要とします。株で大儲けするためには、多くの損をする人が必要ですし、宝くじで一等に当選した人の影には、多くのハズレ券に投資した人たちがいるのです。

でも、誰にでもある射幸心というものを刺激されるので、「自分もその仲間入りができるかも」とその流れに参加し、「かも」が実は「カモ」にされているということに気がつかないのです。そして後になって「担がされた」と気づくのです。最初から担がなきゃいいのにねぇ。

一つの家族の夕餉を考えてみましょう。お父さんとお母さんと子ども3人の家族です。本当は揃って一緒に食べたいのだけれど、真ん中の子は部活で遅くなる。お父さんは残業でいつ帰って来るか分らない。もしかしたら、外で済ましてくるかもしれない。さて、あなたなら、今夜の食事をどう分けますか?

たぶん、多くの人が居ない人の分は別に取っておくことにするでしょう。それが「分かち合う」「分け与える」という考え方です。早い者勝ちで食べてしまうとか、ジャンケンして勝った者が全部をいただくとか、そんな家はあんまりないだろうと思うのです。ところが、社会はそうなっているのです。

さらに考えて、見ず知らずの旅人が現れ、今晩一晩だけ泊めてくれないかと言ったとします。見るとずいぶん疲れているようだし、腹も空かしているようだ。さて、あなたなら、どうしますか? たぶん、5人前の量から少しずつ出して、もう一人分を用意してあげると思います。中には、旅人を優先し「好きなだけ食べなさい」という人もおられるでしょう。

この思考実験から解ることは、考え方しだいだということです。そして、家族意識というものを、どこまで広げられるかということです。人類がみな兄弟だと思えば、「分かち合う」「分け与える」が当たり前となるかもしれません。実際そうした心根をみんなが持っていると、私は思っています。ところが社会はそうはならない。

この家の家長である父親が権力を持っていて、知らない人は危ないからむやみに接したらダメだとか、世の中は競争なのだから生き残るためには他人を出し抜かないといけないんだとか、幼い時から子どもたちに繰り返し吹き込んでいたとしたら、子どもたちはそれが「正しい」ことだと信じ込んでしまうでしょう。

今の権力者たちがやっていることは、結局それです。他国の脅威を強調し、病気や感染症や破産や老化の恐怖心を煽って大衆の目を惹き付け、生き残るためには競争に勝てというメッセージを繰り返し発する。それは、エリートというものの存在基盤を確立しておくための巧妙な戦略なのです。「さあ、みんな、御神輿の下に入れ!」というわけです。

エリートたちからすれば、「分かち合う」「分け与える」では、お金が分散してしまうので非常に都合が悪い。しかし集金する仕組みを作ってしまえば、集まったお金で人を動かすこともマスコミも動かすことができます。マスコミを通じて、エリートの価値観を絶えず大衆に吹き込んでおけば、自分たちの存在基盤も維持されるのです。

私は、人々に「分かち合う」「分け与える」という気持ちがないとは思っていません、その証拠に、日本においては、災害時にはそうした行動がほとんど自発的に起きます。しかし、その考え方は「お金」にならないために、マスコミにあまり取り上げられることはなく、主流とはならないのです。

ですから、権力者たちが発するメッセージに「No」と言って無視し、「分かち合う」「分け与える」という行動をゲリラ的に実践していくしかないのです。その小さな行動が、やがて大きなうねりとなった時に、日本は、かつての日本社会が持っていたよさを取り戻していくでしょう。
たった一つの受精卵から人間が誕生する不思議
人間が大宇宙(Macro Cosmos)の縮小版(Micro Cosmos)であることの証拠は、いろいろなところに見ることができます。人体を構成している元素もその一つで、70パーセントは水ですから、水素と酸素が大部分を占める。この他、炭素やカルシウムに加えて、微量な元素が90種類ほど見つかっています。今までに発見された原子は116ですから、人体は殆どを含んでいるということになります。

興味深いのは、受精卵から胎児への成長です。人体を構成する細胞の数は約60兆個といわれていますが、その全部が、たった一つの受精卵から出来るのです。受精卵が、2、4、8、16と倍々ゲームで卵割を繰り返し、受精後5日目には、のちに骨になったり、筋肉になったり、内臓になったりする細胞への分化が始まり、最終的には約260種類の細胞に分化するのです。

この過程は何かによく似ているとは思いませんか? 宇宙の始まりを示す理論とされる「ビッグバン」そのものではありませんか。最初の倍々ゲームの卵割などは、まさに「インフレーション理論」そのものです。ですから人体は、受精卵の「ビッグバン」で出来上がる、と言ってもいいと私は思います。

さてそこで、受精卵の前が何であったかを、ちょっと考えてみてください。これは言うまでもなく、卵子と精子の結合です。つまり、陰極と陽極の結びつきがあって、受精卵の「ビッグバン」が開始されるということになります。これもまた、実は大宇宙の成り立ちをコピーしたものになっているのです。

すなわち、宇宙の始まりを示すとされる「ビッグバン」以前にも、陰極と陽極のエネルギーがあったということです。それがブラックホールという一点に集まり、反対側に抜けていった時に、そちら側で「ビッグバン」が起こる。このようにして、宇宙は、反宇宙との間で、行ったり来たりという輪廻転生を繰り返しているのです。これもまた大きな陰陽を形成しているというわけですね。

なぜ銀河は渦巻き状なのか? これはお風呂の栓を抜いた時に渦巻きが出来るのと同じで、銀河が中心のブラックホールに向かって抜けていっているからです。抜けた先にはまた「ビッグバン」が起こって宇宙が誕生する。このようにして、まるで泡ぶくがボコボコと沸くようにして、宇宙が絶えず呼吸を続けているのです。

話を戻して、このような計り知れない大大大宇宙と、ちっぽけな人間は、相似形だということ。大きいとか小さいとかは物理的空間概念であって、それを無視してしまえば、結局は同じということです。ですから、あなたは宇宙そのものであり、自分の内面に入れば、全体宇宙とアクセスできるということを、これは示しています。

下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。エメラルド・タブレットに書かれてある一文は、この真理を、余すことなく語っています。
「悩み」のない人はいない
「悩み」のない人はいません。「悩み」の渦中にある時には、周囲の人々がみな健全に見え、自分だけが暗闇の中に落ち込んでいるように感じられるものです。それは、自分というものにフォーカスが当たり過ぎていて、客観性を見失っているためです。周囲を見ているようでいて見ておらず、ただ「比較」の部分だけが強調され、自分を過小評価してしまうのです。

誤解をして、私をそうした「悩み」から超越した人間だと思って会いに来られる人がおられるのですが、もちろんそんなことはありません。このブログでも告白しているように、「悩み」のデパートのような人間で、会った人は、半分安心して、半分がっかりして帰って行かれます。変な自慢の仕方ですが、「悩み」多きことに掛けては人後に落ちない!と言えます。

鬱病にもなった。パニック障害にもなった。不安神経症にもなった。大借金抱えた。会社を潰した。世間からお払い箱にされた。ただ、その状況からどう脱出したらいいかということを、自分を使って人体実験し、それを追究し続けて来たことでもまた、人後に落ちないと言える。それは心理学や常識的な知識とは違う、己を使った人体実験なのです。

なぜ「悩み」のない人間はいないのでしょうか? これは、人間として生まれてきたこと、そのものに理由があります。キリスト教でいう「原罪」などとは違うのですが(そもそも「原罪」などはない!)、各人の「魂」は、元々一つだったものから分かれて、地上に人間として生を受けたのです。これは、物理的な肉体というものを持ってしか出来ないことを、地上で学習するためです。

しかしその学習は少しずつしか進まないために、「魂」は課題を変えながら、何度も転生を繰り返します。このようにして、霊性を少しずつ向上させながら、「我」というものがしだいに取れて、同程度に完成された「魂」と結合してクラスターを大きくしてゆき、最後の最後は元の一つに帰るのです。これが、「魂」の壮大な旅です。

なぜそんなしちめんどくさいことをするのか、とお思いにはなりませんか? そんな旅をしても、結局元のところに戻るのだったら、最初から旅になど出なければよいではないか。交通費も掛かるし(とこれは冗談)。ごもっともです。でも、「旅に出るな」と言われて、あなたは一生、ご自分の家に居続けることはできますか? それと同じです。

いったい何が「魂」を旅に向かわせるのでしょう? それは好奇心です。知らないことを知りたい、したことのないことを体験してみたい、という気持ちです。それなくして、人は旅になど出掛けません。

これは『創世記』の中の「失楽園」のエピソードに象徴的に描かれています。アダムとエヴァは楽園を追放されたということになっていますが、その原因となったのはどんなことでしょうか? 禁断の木の実を食べたからです。それをさせたのは、好奇心以外の何物でもありません。「自由意志」というものが、禁じられた木の実を食べたいと願ったのです。

さてそのようにして、元々一つだったものから、各人の「魂」が生じました。するとどういうことが起きるでしょうか? 自分の「自由意志」を行使して元のものから離れたいという欲求と、いざ離れてしまったが「寂しい」という気持ちと、落ち着けるホームに早く「帰りたい」という欲求と、いつになったら帰れるかという「不安」が、常に同居するようになったのです。

人間のあらゆる活動は、全部、この上に載っかっていて、あっちへ行っては「悩み」、こっちへ行っては「悩み」しているだけなのです。それは全て、離れて自由になりたいという気持ちと、孤独は寂しいから家に帰りたいという気持ちの、二律背反から起きているのです。ですから、人間として生まれてきた以上、「悩み」のない人はいないのです。
明るく傷つくテクニック
生きている以上、傷つくことは仕方がありません。
家電品やパソコン関連品を買うと、新品には保護のためのカバーやフィルムが貼ってあったりします。そのままでは使えませんから、これを剥がして使うわけですが、そのうちあちこちぶつけたり引っ掻いたりして、段々と傷ついていきます。これを防止するには、使わないでおく以外には方法がありません。

人間も同じで、自分が傷つかないようにしたいと思ったら、外界との接触を一切避けるという手段しかありません。しかしこれは100パーセント信頼できる介護者が居ない限り、不可能というものです。また仮にそれが出来たとしても、人間というのは「考える」ことを止めない動物ですから、いずれ自分で自分を傷つけるという行為に及んでしまいます。

ですから、「生きている以上、傷つくことは仕方がない」と、先ずは認めることが肝心です。人生そんなもんだということです。諸行無常、生々流転。そのままであり続けるものなど何もなく、生まれるものは絶えず変化し、移り変わっていく。これは当たり前のことなのですから、「傷つく」こともまた当たり前です。

それを認めた上で、「傷つく」ネガティブを、できるだけ自分に残さないようにすればよいのです。発想の転換です。「傷つく」ことは仕方がないのですから、傷ついたという感情を長引かせたり、もう一切傷つかないようにしよう、と考えたりすることを止めて、いわば「明るく傷つくテクニック」を身につけるようにしましょうということです。

これは、いつも言っているように、一次災害でくい止めて、二次災害に発展させないようにするというところにポイントがあります。あなたが大切にしていた物に、うっかりして傷をつけてしまった。この「傷をつけた」という事実は、もう元には戻りません。それなのに、いつまでも悔やんだり、その傷をジーッと見つめ続けて、いったい何になるのかということです。

これが二次災害です。二次災害を誘発させているのは自分自身であり、それは自分を苦しませるようにしか働きません。全く非建設的な行為に過ぎないということを、よく自覚してください。つまり、一次災害をそのまま受け止めて、「ま、そういうこともあるよ」と、そこで終わりにしてしまえばよいわけです。

その具体的なテクニックについては、これまでにも紹介して来ているので、探してみてください。「心」も筋肉と同じで、負荷をかけて鍛えなければ、強くなっていきません。「傷つく」機会は、そのチャンスだと捉えて、いつまでもそこに埋没することなく、成長のバネにしていって欲しいと思います。
男性恐怖、女性恐怖、人間恐怖
「男性が怖い」という女性がいます。この気持ちは解ります。なぜなら、私は「女性が怖かった」から。この気持ちがもっと拡大されると「人間が怖い」というところにまで行き着いてしまうのでしょう。しかしよく考えてみれば、これは自分が作り上げた「観念」そのものであることが解ります。なぜなら、「男性」一般、「女性」一般、「人間」一般など、どこにも存在しないのですから。

私が生まれた家には、母親と二人の姉という三人の女がいて、それぞれ性格は違っていましたが、みんな強烈な意識の持ち主でした。母親は年中ヒステリーを起こして暴力を振るう。上の姉は小中高と学校では一番の成績で、周囲を見下し批評する癖を止めない。下の姉は、この姉に対する対抗意識むき出しで、なんでも自分の思い通りにしないと気が済まない。

上の姉にはしょっちゅう「姿勢が悪い」だの「目ばっかりギョロギョロしている」だのと言われ、下の姉には子分のように従わさせられ、母親からは竹尺で叩かれたり紐でぐるぐる巻きにされて押入れに放り込まれたりしていました。幼少時の自分にとっては、家族がほとんど全部の世界ですから、そこから「女というのは何て無神経な動物なんだ」という怒りと恐怖が形成されていったのです。

この抑圧意識は、義務教育を終えて学校の支配から解放されたと同時に、家を出るということで、取りあえずは解放されることになりました。その証拠に、中学を卒業するまでずっと夜尿症で苦しんでいたのが、家を出た途端にピタッと治まったのです。けれども「女性が怖い」という思いは、その後もずいぶん長引くことになりました。

今はもう「女性が怖い」という感覚はすっかりなくなりましたが、どのようにして変わっていったかというと、結局は訓練です。少しずつ馴れていったということです。「女性」と一括りにしたところでいろんな人がいる。「男性」と一括りにしたところでいろんな人がいる。良い人、悪い人、朗らかな人、気鬱な人、正直な人、嘘つきな人‥‥.。

先ずは「いろんな人がいる」ということを知って、相対化するということが大事だと解った。そうしないと、自分でどんどん「観念」を作り上げ、レッテル貼りをしていってしまいます。レッテル貼りではなく、その人の個性を、予断を交えずに出来るだけ客観的に見るようにしないといけない。それができれば、逆に人間に対する興味も沸いてくる、ということが解ったのです。

もちろん完全な客観性などはあり得ないのですが、一つの「決めつけ」を排除して、相手を別の可能性から見る訓練を始終することによって、「観念」に陥る危険性をかなりのていど回避できます。「観念」に落ちている時には、そのレッテル貼りが正しいとすっかり信じ込んでいるので、自分ではその間違いになかなか気づけないのです。

「男性が怖い」「女性が怖い」「人間が怖い」と、もし思っている方がいらっしゃったとしたら、他者と触れ合う機会を「訓練」だと思って、積極的にチャレンジして行ってください。傷ついた過去の体験をいつまでも抱えるのではなく、いろんな人と出会って、人間観察の幅を広げ、その傷を薄めていくのです。毒を大量の水を飲んで薄めるのです。

いつまでも「怖い、怖い」ではラチがあきません。「怖い」存在は外側にあるのではなく、あなたの内側にあって、あなた自身が作り出したものだということに気づいてください。悪い人も確かにいますが、なぁに、良い人だっていっぱいいますよ。何よりあなたがポジティブな人に変われば、周囲の人も変わって見えて来るし、付き合いも変わって来るということは、私が保証します。
出来レース
S県某市の市立病院が、この春、事務部門のスタッフ募集をしました。その病院で看護助手をしていたHさんが、このチャンスにと応募してみることにしました。一次試験は論文で、7月上旬に結果通知。一次試験合格者は、8月に二次試験として課題テーマのプレゼンテーションをすることになっていました。

一次試験の提出までにはたっぷり時間があり、Hさんは早くから準備するとともに、何度も推敲を重ねて論文を仕上げていきました。私も途中でアドバイスを求められたりしました。努力の甲斐あっていい論文が書けたので、これなら一次試験は間違いなしと踏んでいたところ、7月の10日を過ぎても通知がありませんでした。

「もしかしたら中旬という考えがないのかも知れないから、15日まで待ってそれで連絡がなければ問い合わせしてみれば?」と私は言いました。いくらなんでも15日までには通知があるだろうと思っていました。が、15日を過ぎても通知は来ません。部署に連絡しても「先週、封書で送った」との回答。けれども届いていない。

そこでHさんが再度訪問すると、今度はその場で「不合格通知」を渡されたそうです。それを聞いて、私はピーンと来ました。最初から「出来レース」だったんですね。公募や試験は体裁だけのもので、採用者は初めから決まっている。だから不採用通知を送ることすら忘れていた。Hさんはその茶番劇に真剣に向き合ってしまったというわけです。

5年ほど前でしょうか。私もこんな経験があります。ある人が「川崎市が市民活動に関する企画を募集しているので応募してみたら?」と言うので、応募したことがあります。前年までの採用企画をみたら大したことはない。企画は当時の私の本業でしたから、楽勝だと思って意気揚々と川崎市の部署まで持っていきました。

しばらくして「不採用通知」が来ました。「実現性」とか「採算性」とか、採用基準というものがあらかじめ5項目ほど定められていたのですが、「不採用通知」にはその項目を全部羅列した上で、「以上に鑑み不採用でした。」というふざけた理由がペロッと記載されていました。

あとでそれを紹介してくれた人が、「あれは、川崎市役所のOBがやっているという相談所に相談して手数料を払わないものは、門前払いなんですって」と内情を教えてくれました。
まったく、役所関係というのは、これだから嫌なんですよ。私たちなんかの発想とは全く違う。

以前、住宅都市整備公団の仕事をしたことがあったのですが、住民説明会の準備に立ち会ってみてビックリした。委員長が説明した後に「質問はございませんか?」と言った後で、質問するサクラの人間と、質問内容、順番まであらかじめ用意するんです。そして、時間切れとなって閉会するというシナリオが全部決められている。唖然としました。

私は、職員募集で「縁故採用」したって別にいいと思うんですよ。でもそれならそれで、「一応、公募の形式を取りますが、縁故者を優先採用することをご承知おきください。」とか、注釈を明記して欲しいです。川崎市の一件だって「一応、公募の形式を取りますが、当市役所OBの◯◯に、採用のコツなどをあらかじめご相談されることをお勧めいたします。」とか、書いて欲しかったです。

「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがありますが、「政治家と役人は嘘つきの始まり」だと私は思う。
嘘をついているという自覚が全然ないのか、嘘をつくことが生きがいになっているのか、その感覚は凡人にはよく解りません。