by Rainbow School
<< June 2015 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
ニセモノが生まれるとき
本物と偽物を分けるものとは、一体なんでしょうか? それは「化けの皮」を被っているかどうかの差だと思うのです。物自体には本物も偽物もありません。ダイヤモンドだと偽って売られたガラス玉さえも、それは本物のガラス玉であって、それを偽物のダイヤモンドにするのは、「化けの皮」を被せた人間の意思なのです。

なぜ世の中に、これほど偽物がはびこっているかと申しますと、一つには、「化けの皮」を見破る眼を持っている人が非常に少ないということです。これに欲得がからんで、「よし、それならばこれを利用して一儲けしてやろう」と考える人物が登場し、偽物を作っては世に送り出す。中には、作っている側に偽物だという自覚がない人も大勢いるのです。

しかしいつも言っている通り、それを「NO!」だと、人々が見向きもしなかったとしたら、そんな関係は成立しないわけですね。しかし今の世の中、偽物だらけというのは、結局のところ、大多数の人々が、本物よりも偽物の方が好きだ、偽物の方に心を動かされるということなのです。

最近はあまり見かけなくなりましたが、一時期は、猫も杓子も Louis Vuitton のバッグをぶら下げていました。それはヴィトンが、「LV」という非常に判りやすい「記号」をデザインしていたからです。「どう? 私は Louis Vuitton を持つ女なのよ!」と、持つだけで周囲に主張できたわけです。だからこそ、Louis Vuitton の偽物も出回ったわけで、もし「記号」が無ければあんなにも売れたかどうか。

先日、駅のプレットホームで、喪服に Chanel の「CC」マークがドカーンと入った黒のバッグを提げている女性を見かけました。彼女はきっと「私は、お葬式の時だって Chanel でコーディネイトしているんだからね。その辺の女と一緒にしないでちょうだい。私はワンランク上の女なのよ!」って、言いたかったんでしょう。

そのバッグは、確かに「本物」の Chanel なんでしょう。でもね、持っている人間が、それを「化けの皮」に使ってしまっている。そこがすでにニセモノじゃありませんか。
聖書・聖典・経の読み方
今から2200年ほど前に、天宮十二座でいうところ「魚座の時代」が始まりました。この節目の時期の前後に、今日に続く世界四大宗教の偉人、釈迦、モーセ、イエス、ムハンマドが相次いで出現したのです。それはある意味、時代の要請であったと言えなくもありません。

そして、その「教え」とするものが、今日、聖書・聖典・経といった書物として伝えられ、私たちもそれを目にすることができるわけです。がしかし、これらはいずれも語り手自らが執筆したものではありません。預言者の死後、後世になって、その弟子たちが記憶を頼りに執筆したものです。

中には、死後数百年も経ってから書かれたものもあるのです。ところが、私たちはその事実関係を一切無視して、すべてがその預言者が語ったものであるかのようにして敬おうとする傾向があるのです。たいていの宗教は、すがるものを外に求めようとしますので、その対象が、聖書・聖典・経の中にある「言葉」に向かうわけです。

その結果、「偶像崇拝はいけない」と書いてあるから、どんなに重要な文化財であっても、「像に彫ったものはみんな破壊すべし」といった、思考停止の単純な行動原理が生まれてしまうのです。これが宗教の怖ろしいところで、私たちは、今日ある聖書・聖典・経について絶対視をやめ、もっと冷静に見なければいけないと思います。

聖書・聖典・経には、いわゆる「奇跡」的な記述が多く含まれています。この「奇跡」を信じるか信じないか、ということでまた宗派が別れてしまうのですが、多くの人は、聖書・聖典・経の類を、「教え」+「神話」の集合と捉えているのではないでしょうか。そして「神話」は眉唾だとしても、「教え」にはそれなりの何か意味があると。

僧侶だけではなく、宗教学者や解説者も、みなそのように捉えていて、古い言葉からなんとか今日に通じる教訓を引き出そうとして、それらを読んでいます。しかし、私から見ますと、そういう読み方は誤りなのです。

四角を書いて、真ん中に縦棒を引き、左が「教え」右が「神話」の世界だと捉えてください。この二つによって、聖書・聖典・経の類が出来上がっていると。しかしそうではないのです。この図に横棒を引いて「田」の字にします。そして上下で捉えます。上下とは、「真理」と「歪み」です。

つまり、「教え」の中にもなるほど「真理」が半分くらいはあるけれど、「神話」と思っている世界の中にだって「真理」が半分くらい含まれているのです。釈迦が水上歩行をした、イエスが何もないところからパンを出した。これらは「神話」ではなくて、実際にそういうことがあったのです。彼らにはそれが出来たのです。

問題は、「歪み」です。聖書・聖典・経を実際に執筆した人たちは、「真理」に混ぜ込んで、相当な「歪み」をその中に入れてしまいました。その理由は、「真理」を「宗教」に変えて政治的に利用するここと、宗教教団という組織を作って財政的な基盤を確立するためでした。

このことを知らずに、人々が「宗教」を受け入れていった結果が、今日の不幸の大部分を作ってしまったのです。宗教寺院がどこも金ピカで荘厳なのはなぜでしょうか? みな信者から巻き上げたお金で建てたからです。この拝金主義と、エリート礼賛のピラミッド構造、善悪二元論対立の考えは、いずれも「真理」とは真逆の歪んだ「教え」です。

「宗教」は、人々がそのようなものに興奮することをよく知っていて、それを「真理」の中に隠して混ぜ込んだのです。そして、肝心の「輪廻転生」と「カルマの法則」は封印してしまったのです。しかし、このような時代はもう終りです。魚座は双魚宮とも言い、そのシンボルは相対した2匹の魚です。これは二元対立の宗教の時代を象徴しているのです。

いま中東とアフリカで起きている混乱は、この地を発祥とする三大宗教の力が弱まっているからこそ起きているのです。「宗教」の力で統率することが難しくなったという証拠なのです。しかし、2000年かけて染み付いた「歪み」はなかなか取れるものではありません。本当の「真理」に目覚めるまでには、まだまだ時間が掛かることでしょう。
メチャクチャな接客用語(2)・・・ラポールを築け
先日、「メチャクチャな接客用語」という一文を書いたのですが、預けた書類を受け取りにいく必要があり、同じ銀行の同じ年金担当者のところへとまた行ったのです。すると、くだんの若い女性が、「これは、前任者の方(かた)が‥‥」と言ったので、「方、じゃなくて者。身内に敬語使っちゃダメでしょ」と、ジジ臭い小言がつい口をついて出てしまいました。

すると彼女が、「私、敬語が全然ダメなんです。敬語を覚えるにはどうしたらいいですか? 入社一年目なんですけど、研修の時も『謙譲語』とか『尊敬語』とかという分類は習ったんですが、お客さんと実際どう話したらいいかは、全く教えて貰えなかったし‥‥」と、問わず語りで話すのです。それにはこっちの方がびっくりしてしまい、その率直さに好感を覚えました。

そこで私は、持論を言ってあげたのです。
「敬語を覚える必要なんかない」
「えっ」と、一瞬彼女はびっくりした表情を浮かべてこちらを見ていましたが、続けて私は言いました。

「今はもう教える人間が間違った接客用語を教えているんだから、そんなもの覚えなくていいんだよ。それよりは、何を伝えるかということが大事。それなしにいくら『なんちゃって敬語』を使われても意味がない。大事なのはハート。」

と、これもまた持論を展開したわけです。彼女は、
「でも、タメ口きいちゃったりしたらマズくないですか?」と言うので、さらに私は言ってあげた。

「そんな心配無用。それよりは、ラポールを築くことに注意を払いなさい。年金担当のあなたのお客さんはみんな高齢者でしょう。だから、むしろフレンドリーサービスで懐に飛び込んで、孫のように可愛がられることを目指しなさい」と。

ラポール(rapport)というのは「信頼関係」のこと。フランス語で「橋をかける」という意味だそうですが、それが心理学用語として転用されたものです。床屋さんや美容室の店名で、何度か見かけたこともありますが、その床屋さんや美容室は、きっとお客さんとの「信頼関係」を何よりも大事にしたいと考えたのでしょう。

コミニュケーションで何よりも重要なのは、できるだけ早くラポールを築くということです。これを、芸人などは「つかみを取る」と言っていますね。落語では、本題に入る前に「まくら」と言って、「つかみを取る」ための、身近でリラックスできる話題をちょこっと話す。ここで、笑いを取れれば、もうあとは楽。ぐんぐん引き込めるわけです。

それにラポールが出来ていると、いいことがあります。少々のミスは、大目に見てもらえますし、相手からいろんなことを教えてももらえる。これが、いくら敬語が完璧であっても、ハートのないコミュニケーションだったとしたら、そうはいきません。慇懃無礼(いんぎんぶれい:言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま)がアダとなって、ミスを責められかねません。

私は、別にタメ口でいいと言ってるわけじゃないんですよ。敬語なんて、経験の中で自然と身に付くものであって、それよりもハートに心をくだいて欲しいと言っているだけなんです。

そして、彼女に言ってあげました。「あなたにはコミュニケーションの才能がある。だって、ミスをリカバリーしてここまでの会話に変えたでしょう。それはなかなか出来るものじゃない。だからそこを伸ばしていきなさいね。」と。
「恐怖心」を克服する
私は大変な怖がりで、このことは以前にも告白しましたが、普通の人なら難なくできるようなことの多くが出来ませんでした。たとえば電話を掛けることです。用事があって「ああ、電話しなくちゃならない」と考え始めると、とたんに身体が震えてきて足がすくみ、その場に昏倒しそうになりました。

他にも多くの「恐怖」の種があって、それを克服するのが自分にとっての大きなテーマだったのですが、他の人に言えないということも、悩みを深くしました。なぜ、どうして「恐怖心」がやってくるのか分らない。しかし他の人と比べて、自分が著しく劣っていることは確かで、自分の中の劣等意識というものをパンパンに肥大させました。

小学校、中学校の時には、街を歩く時にも出来るだけ裏道を選んで、隠れて歩いていました。そんなふうになったのは、家族の中での孤独や、10歳の時に海で溺れてしまい、その後蘇生したある事件の体験を通じて「世間は怖い」と思い込むようになったからなのですが、先日、法事で田舎に帰った際に街を歩いていて、その感覚を急に思い出したのです。

そしてなぜ、誰にも遭わないように隠れて歩いていたかの意味も、一瞬にして解った。ここからは眉唾だと思っていただいても結構なのですが、私はキリスト教成立以前のローマ帝国時代に、「真理」を説く伝道師の一人でした。ところが、ローマ帝国はその活動を迫害していたために、私はいつも隠れるようにして裏道を歩いていたのです。

その時代の世では、結局ローマ軍に掴まって処刑されてしまったのですが、その後の転生でも何度も殺されていて、直前の前世では10歳の時に海に投げ込まれて死んでしまったのです。(今世は生き返ったから良かったです。(^、^;))それで、何を言いたいかと申しますと、理由のよく分らない「恐怖心」の根っこには、たいてい過去世での体験がからんでいるということです。

過去世で生き埋めになった人は、閉所や暗闇が怖く息が出来なくなる。火事で焼け死んだ人は、喉が締め付けられるような息苦しさを覚える。刺殺された人は、刺殺された箇所が傷む。といった具合で、症状が体験と関連している場合が多い。ですからこの関係が判明すると、「言い知れぬ恐怖」の「言い知れぬ」の部分が、とりあえず解消していくのです。

過去世をどうやって知ったらいいかについては、別の機会に譲りたいと思いますが、現段階では必要なタイミングで必要なことが解るとだけ申し上げておきます。さて問題は、残る「恐怖」の部分です。「恐怖」の克服に関しては、行動して馴れて行くしかありません。いつまでも「怖い、怖い」と言っているだけではラチがあかず、訓練によって馴れて行く必要があるのです。

私も、様々な訓練を自分に課して、だんだんと馴れて行くようにしてきました。その結果、電話も掛けられるようになりましたし、クルマの運転も出来るようになりました。その際に、過去世との因果関係まではハッキリしないにしても、「言い知れぬ」の部分に、過去世での体験が関係しているらしいと知ることは、「恐怖心」を和らげるのに大きな効果があります。

前に、ネガティブな感情の動きを「一次災害」と「二次災害」に分けて説明しましたが、「恐怖心」についてもこの関係が当てはまります。怒りや嫉妬のときは、最初の事件が「一次災害」で、その後の分析・解釈が「二次災害」でしたが、「恐怖心」の場合の「一次災害」は、いま起きた事件ではなく、潜在意識から呼び出された過去世の体験記憶という点が違うだけです。

さてそこで、いまある「恐怖心」は、自分が創り出した「二次災害」の部分が大きいのではないかと疑って、それをチェックしてみていただきたいのです。たとえば、暗闇が怖いとします。暗闇自体は、単に光が当たっていないということに過ぎないのですが、それを怖いと考えているのは、客観的事実をねじ曲げて、そういう「恐怖心」を育てている犯人がいるからです。それは他ならぬ自分自身です。

ですから、そこに気づいて、訓練を施すことによってこれは解消できます。馴れによって、「怖い」というスイッチを入れない感覚を学習していけばよいのです。それを繰り返していけば、やがて暗闇を楽しむ余裕も獲得できるはずです。ということで、「恐怖心」は徐々に解消できるということを信じて、チャレンジしていって欲しいと思います。

あなたが最初に立って歩いた時、きっと何度も転びながら、少しづつ上達していったのですよ。
母親の形見
5月に母親の三回忌があり田舎の実家に行ってきました。私の母親は、生涯物を作り続けた人でした。10代で東京に出て洋裁を学び、故郷に帰ってから店を出したのですが、60年代に入って既製服の時代が到来するとさっさと店を閉じ、それからは趣味の世界に没頭しました。

俳句、俳画、編み物、リボンフラワー、パンドール、陶芸、折り紙細工など(もっとあったかな?)に、夢中になってある期間を集中して行うと、パッと次に移っていくのです。作家ということではなかったので、どれもまあ85点くらいの出来なのですが、やっている時の集中力は凄まじかったです。

毎日の生活サイクルをきちんと守り、食事をする時、制作に没頭する時、手を休めてリラックスする時、を自分でコントロールして淡々とこなしていくのです。結果として、膨大な作品が生み出され、家の中を埋め尽くすほどになりました。

私もなんとかそれを真似したいとは思うのですが、とても同じようにはできない。日々の気分に左右されてしまい、毎日淡々とこなすというところまで到達できません。

そんな人でしたから、晩年になっても子供にベッタリというところがなく、私も助かったのです。私の母親は、昔から子供も孫もすべて「さん」付けで呼んでいました。時にそれがクール過ぎると映り、孫たちからは小バカにされていましたが、そんなことに臆することなく、自分のライフスタイルを守り通しました。

母親の作品はたくさんありましたが、その中から、出来のよさそうな茶碗を3つばかり貰ってきました。やっぱり85点ではあるけれど、なかなか味わいがあって素敵です。私が作ったとしても果たして60点までいけるかどうか。ですから、85点でも凄いな、頑張ったな、と感心します。

それ以来、朝にお茶を点てて飲むのが習慣になりました。早朝の一服を楽しんでいると、「まったく、いいものを残してくれたなぁ」と幸福な気分が広がり、そのたびに母親を思い出すのです。
「心」にも「ハンドルの遊び」を
クルマを運転される方なら、「ハンドルの遊び」というものをご存知でしょう。ステアリングを切っても、ある程度回さないと舵が切れない。その舵が効き始めるまでの間を「ハンドルの遊び」と言っています。この「遊び」がないと、ちょっとした動作にも、舵がピーキーに反応してしまって、運転しづらくなってしまうのです。

反対にサーキットを走るレーシングカーの場合は、「遊び」がほとんどありません。瞬間瞬間で判断をくだすレースドライバーの場合、「遊び」があると、素早いハンドリングが車体に直ちに反映されなくなってしまうからです。

これはクルマを操ることで競争をするプロだからこそのことで、一般人とは目的が違います。普通の人は、できるだけ安全に、目的地に行くことが課題です。そのためには、やはり「ハンドルの遊び」がなければならないのです。

これと同じで、「心」にも「遊び」という余裕が必要です。物事をいつも四角四面に捉えて、ああすべき、こうでなければならない、とばかり考えていたのでは、「心」の動きもギスギスとしてしまって、目的地に着くまでにくたびれ果ててしまいます。

そんなに自分を追い込まなくていいんですよ。とかく真面目な性格の人は、理想を持つのは結構なのですが、それと現状の自分とを比較して、出来ていない部分、足りない部分にばかり目を向けがちです。これではため息が出て、落ち込んでしまいます。

そうではなくて、進歩している部分を見つけて、時々は自分を誉めてやりましょうよ。紆余曲折はあったにせよ、去年より今年の自分は、確かに前に進んでいると実感できることが大事なのです。そうやって自信を持っていただきたいのです。

そのためには「心」にも「ハンドルの遊び」をしつらえてください。自分の中のある程度のアバウトさは許すのです。それができるようになれば、周囲の人たちのアバウトさも許すことができるようになり、「心」の余裕はさらに広がって楽に生きられるようになるでしょう。
「好転反応」が起こる理由
過去に何らかの波動療法に接した経験のある人は、たぶん「好転反応」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。これは、最初の治療後にいったん病状が悪化する現象です。この症状は三日ほど過ぎるとピークが過ぎて、その後しだいに治まっていくのですが、その間は前よりももっと悪くなっていくので、不安に苛(さいな)まれることになります。

波動療法には各種があって、どの療法がどの人に合うかというのは療法家の見極めによるのですが、どんな療法も原理的には一緒です。人間の肉体は、様々な器官や臓器の集合体です。これらを微細に見ていけば、最終的には、ありふれた原子の組み合わせで体が作られ、そこに生命エネルギーが流れ込むことによって生体活動が行われているということが解るのです。

物質というのはすべて固有の振動数を持っていて、人間の体はそれらの集合体ですから、言ってみればオーケストラがハーモニーを奏でているようなものです。調子が良い時には、このハーモニーも美しい調べを奏でているわけですが、体調を崩すと調和が乱れ、波動に狂いが生じてくるのです。

この、バランスを失って乱れてしまった波動を調整する手段が、いわゆる波動療法です。しかしここで言っておきますが、どんな病気や怪我でも、その原因は「宇宙の法則」に反した生き方、考え方、行動をした結果起きるものであって、たとえ療法家が外部から調整を施しても、本人に真の原因を改める気がない限り、その効果は一時的なもので終わってしまいます。

ところで、治療法の考え方には、大きく言って、アロパシー(allopathy:逆症療法)と、ホメオパシー(homeopathy:同種療法)があります。これは、ドイツ人医師のザムエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann,1755 - 1843)が、ホメオパシーを提唱した際に定義した分類法です。

アロパシーの典型例は、熱が出たら解熱剤を飲むといった類のもので、現代医療のほとんどはこの考え方に立脚しています。つまり起きている症状の逆を目指すわけですね。これに対してホメオパシーは、同種療法と訳されているのを見ての通り、熱が出たらさらに出させるというものです。

そこだけを聞くと、何かムチャクチャなことをしていると思われるかもしれませんが、これは昔から行われてきた療法です。風邪をひいた時に、生姜湯を飲んだり、卵酒を飲んだり、熱いお風呂に入ったりして治した経験はないでしょうか。これがホメオパシーです。毒をもって毒を制する、という考え方です。

アロパシーは一見合理的なように見えて、とりあえずの症状を抑えてマスキングしてしまうわけです。するとその症状を起こさせている真の原因が陰に隠れて放置されてしまい、かえって症状が長引くことになりかねないのです。私なども、昔はよく病院へ行きましたが、病院へ行って悪化したことはあっても、治った経験はほとんどありません。

冷静に見て、救急医療以外、西洋医学を基にした現代医療は、ほとんど役に立っていない。この事実に気がつく時が来ていると思っています。もし役立っているのなら、病気になる人が減っていなければなりません。ところが医療費は、毎年1兆円ずつ増えて行っている。今や国民の8割が病院で死亡しているのです。

さて、波動療法ですが、これはホメオパシーに沿った考え方であり、エネルギーを送り込んで患部を同調させることによって、隠れていた原因をむしろあぶり出すように働きかけます。この結果、治療後は以前よりももっと悪くなる、いわゆる「好転反応」が起きるのです。

しかしこれは、その療法が効いている証拠であり、むしろ「好転反応」が起きない場合は、効果なしと判断すべきなのです。
新しい家を建てるためには、先ず古い家を壊さなければ建ちません。その解体作業の際に、骨組みが壊されたり、廃材が出たりするので、体調が一時的に悪化するのです。

知らないと不安になるかもしれませんが、三日くらいは様子を見て、その間は、辛抱してみてください。
身内の功罪
お葬式で焼香の段になると「どうぞ、お身内の方から」と促されます。一般には血縁の濃い関係が「身内」ということになるわけですが、その関係のあり方は、人それぞれです。「家族が何より大切」という人は多いのですが、実際に円満な家族関係を築いている人がどれだけいるでしょうか。

旅番組などを観ると、辺境の地で、自然と寄り添った生活をしている人々は、助け合わなければ生きていけないためでしょうか、良好な家族関係が自然とできているように思えます。それと民族的な伝統なのか、ラテン系と言われる人たちも、家族を大切にするしとても仲がいい。

結局のところ、家族関係の善し悪しは、家父長の考え方しだいだと思うのです。自然が厳しいところは、生き抜く智恵というものが自ずと育つでしょうし、民族の善い伝統というものも、家父長によって引き継がれていくということなのではないでしょうか。

しかし今の日本社会は、多くの人が都市で暮らし、核家族化によって伝統は潰(つい)えてしまい、家父長は働きづめで家におらず、家族団らんの食卓すらないという家が多い。その一方で、社会が繰り出す「ああしろ、こうしろ」「こうであらねばならない」という価値観が、雨あられのように襲って来る。

みんなそれに巻き込まれてしまって、自分というものを失い、「助け合う家族関係」という、本来の姿に立てなくなっています。それが、あろうことか「危機」に直面したときに如実に現れてしまう。いくらホットプレートで焼肉をしようが、時々一緒に回転寿しに行こうが、「危機」に面したときに、実力?というものが表面化する。

身内の誰かが重い病気になった、会社をクビになった、大学をスベってしまった、破産してしまった、恋人にフラれてしまった、心を病んでしまった。こんなときに、あなたなら、さあ、どうしますか? そのタイミングで、悪罵を投げつける身内のなんと多いことでしょう。

「だから言わないこっちゃない」「あの時こうしろって言ったでしょう」「まったく困った人ねぇ」「この人はなんにもできないんだから」「あんたの努力が足りないからよ」「いったいなに聞いていたのよ」「これからどうするの?」「もう勝手にすれば」「死ねば!」

本来ならば、身内は、「危機」を救ってくれる最も身近な、頼れる存在でなければなりません。それが逆に、身内であるがゆえに、最も鋭い刃となってしまうのです。幼いころからの自分を知ってくれている、今の自分を理解して貰える数少ない存在だと思っていたのに、逆にその身内から谷底に突き落とされるのです。

こうして出来た傷は、なかなか癒えるものではありません。それなのに、身内は、後先考えずに、簡単にこんなアクションをしてしまうのです。どこがいけないのでしょうか? それは、その言葉の背後に「支配」の欲望があるからなのです。

無論それを表立って言うわけではありません。それどころか、悪罵を投げつけている本人も、それが自分の心の奥底にある「支配」願望から出ている言葉だとは夢にも思っていません。自分の言っていることが、ただ「当たり前」「正しい」と思っているだけなのです。

人間関係を築く方法には大きく二つの方向性があります。「愛」による関係と、「支配・被支配」による関係です。この両者は、表面的にはどちらもうまくいっているように見えて、内実は真反対なのです。だから、「愛」の関係だと思って結婚したカップルが、実は「支配・被支配」の関係だったと気づいて離婚するケースが後を断たないのです。

身内は、普段着の関係でいる分、遠慮というものがなく、「支配」願望を根底に持っている未熟な魂の人間は、その瞬間に浮かんだ感情をダイレクトに身内にぶつけてしまうのです。それでも、「あ、言い過ぎた」とハッと気づいて、それを直ちに詫びることができたなら、そのネガティブを大いなる学びの機会にすることができます。

しかし、深い傷を負わせたままで終わってしまったら、身内であることがアダとなって、修正は非常に困難なものになってしまいます。できないと言っているのではありません。修正はできます。しかも一瞬で。ところが、囚われと思い込みがそれをなかなか許さないのです。

私が、お子さんが10歳を過ぎたら、ちゃん付けや呼び捨てをやめるようにお奨めしているのは、そのような家族の悲劇を回避するための便法となるからです。名前にきちんと「さん」を付けて呼ぶ。それだけで、独立した人格であるということを認めていると、意思表示することができます。

どんな人でも、たとえ身内であっても、いわゆるお腹を痛めた子であっても、自分の所有物には決してなり得ないのです。「支配」などできないのです。できないものを無理やりにしようとするから、軋轢が生まれ、人間関係がギスギスしたものになってしまうのです。

家族を「さん」付けで呼び合うことは、べったり、まったりした関係を失わせてしまうかも知れませんが、隠れた「支配」願望を正すという意味ではこれ以上簡単なものはなく、やってみれば、逆に非常にリラックスした円滑な関係が築けることに気づけると思います。
「汝自身を知れ」の意味
「汝自身を知れ」
これは、ギリシャのデルフォイ遺跡にある、アポロン神殿の入口に刻まれていたとされる有名な格言です。みなさんも一度はお聞きになったことがあるでしょう。

その碑文があったという証拠は発見されていないのですが、プラトンが著作『プロタゴラス』の中で、<ソクラテスが、七賢人がデルポイのアポロン神殿に集まって、「汝自身を知れ」と「度を越すなかれ」という二つの碑文を奉納したと語った>と書いているのです。

この「汝自身を知れ」については、様々な解釈がなされているのですが、このブログでいつも言っているように、研究者たちは、やはり「この世」の視点からしか意味を推理することができません。しかしそれでは、この言葉の本当の意味は解らないのです。

以前にも別のところで書きましたように、ソクラテス、プラトン、ピュタゴラスといった人たちは、通常の人間ではなくて「語り手」であった人たちです。「語り手」とは、今の言葉で言えばチャネラーでしょうか。宇宙の真理にアクセスできてそれを語る役目を持った人です。

ですから、この人たちが語った言葉や数式は、そのようなものだという視点を持って臨まなければ、本当の理解は得られないのです。そしてそのことが解れば、「汝自身を知れ」の意味は、哲学者が解説するような小難しい解釈など全く必要としない、実にシンプルな法則を言った言葉だと解るのです。

賢明な読者は、「七賢人」が集まったというところで、ピン!と来るものがあるでしょう。「七賢人」については、具体的な名前も挙げられているのですが、諸説あってハッキリしません。「七賢人」それぞれの格言があるという説もあります。でもどうして、「汝自身を知れ」と「度を越すなかれ」の二つのみが刻まれたのでしょうか?

「七賢人」というのは、実際の人間のことではありません。これは神秘数の7、レインボーカラーの7、チャクラの数の7、宇宙の段階(霊性密度)を表す7ということ。つまり「七賢人」とは、宇宙の全てという意味なのです。ですから、それが「神殿」に集合しているわけですね。

これでもうお解りでしょう。「汝自身を知れ」とは、「あなたの本質を知りなさい。それは肉体を持った今の人格にあるのではなくて、もっと奥にある『魂』なんですよ。『魂』こそがあなた自身なのですよ。今の姿は、仮のものに過ぎないんですよ」という意味です。

ですから、「度を越すなかれ」という言葉と、対になっている意味があるのです。「あなたの本質は『魂』にあるのですからね。それをよくわきまえて、自分の『魂』が喜ぶこと以外のことをしてはいけませんよ。我欲に負けて、踏み外してはいけませんよ」と、語っているわけですね。

非常にシンプルな、真理を語った言葉であることが、これでお解りでしょう。
では「度を超す」とどうなるのか? それが、人生で味わう「苦しみ」の因になっているということなのです。
メチャクチャな接客用語
このことは何度か書いてきたと思うのですが、巷でサービスを受けようとした時に接する店員の日本語がメチャクチャです。典型的なのが「よろしかったでしょうか?」の連発。これは40代以下の人はほぼ壊滅。それが当たり前になってしまって、もはやどこがいけないのかも解らないんですね。

相手に、これから許可を求めるのに、過去形を使っている。「よろしかった」って、先にお前が決めんなよ、と言いたくなります。

それと「◯◯円からお預かりします」、これももやはスタンダード。その「から」ってなんだよ、「から」って。「から」は時間的空間的距離を表す言葉。A地点からB地点、1時から2時というふうに使う。だから、「から」なんてくっつけるのはおかしい。「◯◯円お預かりします」でいい。

それに「お預かりします」の連発も変。「預かる」はいったん預かるということだから、後でそれを返してくれるのかと。お釣りがある場合はいいよ。お釣りの精算をするまでいったん預かりの状態にしておくということですから。

でもこちらがピッタリ出しているのに「ちょうどからお預かりします」なんて言うんだから。まったくヒドイ! これは「頂戴いたします」と言うべき。今は「頂戴します」って言わなくなったねぇ。先日三越へ行って、久々にそれを聞き、若い人だったけれど感心しました。でもコンビニはもう全滅。

昨日、銀行に行ったら、窓口の女性が「駐車券の方、ご利用いただいてもよろしかったでしょうか?」って言うんだからねぇ。もうその場で卒倒しそうになりましたよ。何か「いただく」と「よろしかったでしょうか?」を付ければ、敬語になるとみんな思い込んでいるようですね。

これは、教育訓練されていないという問題ももちろんあるんですけれども(何しろ、教えている人がすでに間違った日本語使っているんですから)、「接客」ということが、単なる「業務」に成り下がってしまったことが大きいと思うのです。

私は、客の目の前で札を広げて一緒に数えさせるやり方や、「最初に大きい方を」というやり方も嫌いです。それは、間違いがないようにという配慮であることは解るけれども、店員と客との間の信頼関係というものが「ない」という前提に立っている、殺伐とした関係です。

レストランへ行って、一つしか注文していないのに「ご注文を繰り替えさせていただきます」もスタンダードになってしまった。(ハイハイ、どうぞ、ご勝手に)と、思うしかないのですが、レストランというのは、客を楽しませるところなんだ、接客もエンタテイメントなんだという発想が全くない。

私は、今のような「なんちゃって敬語」を使うくらいなら、ムリに敬語で話そうとする必要はないと思っているんですよ。それよりは、接客の瞬間を心温まるひと時にして欲しい。ニコッと笑顔を浮かべるだけでもいい。よく見かける人なら、ひとこと会話を付け加えればいい。それが高齢化時代に必要な真のサービスのあり方だと思うのです。

釣り銭を間違ったっていいじゃありませんか。それをきっかけに会話にすればいいわけで。重要なのは、ハートの信頼関係ですよ。信頼関係があれば、少々のミスでも許しあえるんです。今の社会は「クレームが怖い」というのが前提になっていて、何かギスギスした形ばかりのものになっていると思う。

こういうところが、日本人のいけないところ。型を重視して過剰に突っ走るところです。もっとリラックスして、フレンドリーにやればいいと思う。アルバイトの人は、上からの命令は「ハイハイ」と一応聞いておいて、聞いたフリをして、自分のキャラクターを活かした独自のコミュニケーションを、みんなやっていけばいいと思います。