お葬式で焼香の段になると「どうぞ、お身内の方から」と促されます。一般には血縁の濃い関係が「身内」ということになるわけですが、その関係のあり方は、人それぞれです。「家族が何より大切」という人は多いのですが、実際に円満な家族関係を築いている人がどれだけいるでしょうか。
旅番組などを観ると、辺境の地で、自然と寄り添った生活をしている人々は、助け合わなければ生きていけないためでしょうか、良好な家族関係が自然とできているように思えます。それと民族的な伝統なのか、ラテン系と言われる人たちも、家族を大切にするしとても仲がいい。
結局のところ、家族関係の善し悪しは、家父長の考え方しだいだと思うのです。自然が厳しいところは、生き抜く智恵というものが自ずと育つでしょうし、民族の善い伝統というものも、家父長によって引き継がれていくということなのではないでしょうか。
しかし今の日本社会は、多くの人が都市で暮らし、核家族化によって伝統は潰(つい)えてしまい、家父長は働きづめで家におらず、家族団らんの食卓すらないという家が多い。その一方で、社会が繰り出す「ああしろ、こうしろ」「こうであらねばならない」という価値観が、雨あられのように襲って来る。
みんなそれに巻き込まれてしまって、自分というものを失い、「助け合う家族関係」という、本来の姿に立てなくなっています。それが、あろうことか「危機」に直面したときに如実に現れてしまう。いくらホットプレートで焼肉をしようが、時々一緒に回転寿しに行こうが、「危機」に面したときに、実力?というものが表面化する。
身内の誰かが重い病気になった、会社をクビになった、大学をスベってしまった、破産してしまった、恋人にフラれてしまった、心を病んでしまった。こんなときに、あなたなら、さあ、どうしますか? そのタイミングで、悪罵を投げつける身内のなんと多いことでしょう。
「だから言わないこっちゃない」「あの時こうしろって言ったでしょう」「まったく困った人ねぇ」「この人はなんにもできないんだから」「あんたの努力が足りないからよ」「いったいなに聞いていたのよ」「これからどうするの?」「もう勝手にすれば」「死ねば!」
本来ならば、身内は、「危機」を救ってくれる最も身近な、頼れる存在でなければなりません。それが逆に、身内であるがゆえに、最も鋭い刃となってしまうのです。幼いころからの自分を知ってくれている、今の自分を理解して貰える数少ない存在だと思っていたのに、逆にその身内から谷底に突き落とされるのです。
こうして出来た傷は、なかなか癒えるものではありません。それなのに、身内は、後先考えずに、簡単にこんなアクションをしてしまうのです。どこがいけないのでしょうか? それは、その言葉の背後に「支配」の欲望があるからなのです。
無論それを表立って言うわけではありません。それどころか、悪罵を投げつけている本人も、それが自分の心の奥底にある「支配」願望から出ている言葉だとは夢にも思っていません。自分の言っていることが、ただ「当たり前」「正しい」と思っているだけなのです。
人間関係を築く方法には大きく二つの方向性があります。「愛」による関係と、「支配・被支配」による関係です。この両者は、表面的にはどちらもうまくいっているように見えて、内実は真反対なのです。だから、「愛」の関係だと思って結婚したカップルが、実は「支配・被支配」の関係だったと気づいて離婚するケースが後を断たないのです。
身内は、普段着の関係でいる分、遠慮というものがなく、「支配」願望を根底に持っている未熟な魂の人間は、その瞬間に浮かんだ感情をダイレクトに身内にぶつけてしまうのです。それでも、「あ、言い過ぎた」とハッと気づいて、それを直ちに詫びることができたなら、そのネガティブを大いなる学びの機会にすることができます。
しかし、深い傷を負わせたままで終わってしまったら、身内であることがアダとなって、修正は非常に困難なものになってしまいます。できないと言っているのではありません。修正はできます。しかも一瞬で。ところが、囚われと思い込みがそれをなかなか許さないのです。
私が、お子さんが10歳を過ぎたら、ちゃん付けや呼び捨てをやめるようにお奨めしているのは、そのような家族の悲劇を回避するための便法となるからです。名前にきちんと「さん」を付けて呼ぶ。それだけで、独立した人格であるということを認めていると、意思表示することができます。
どんな人でも、たとえ身内であっても、いわゆるお腹を痛めた子であっても、自分の所有物には決してなり得ないのです。「支配」などできないのです。できないものを無理やりにしようとするから、軋轢が生まれ、人間関係がギスギスしたものになってしまうのです。
家族を「さん」付けで呼び合うことは、べったり、まったりした関係を失わせてしまうかも知れませんが、隠れた「支配」願望を正すという意味ではこれ以上簡単なものはなく、やってみれば、逆に非常にリラックスした円滑な関係が築けることに気づけると思います。