自己のルーツ
2015.05.31 Sunday
自分はどこからやってきたのか? 誰しもが、そのことを考える時期があると思います。多くの人は、そこで先ず「家系」というものを考えるでしょう。自分の最も近い祖先は、親です。顔も両親のパーツを引き継いでいます。今日では、そこに遺伝子の連続があるということが明らかになっており、その意味では「家系」に自己のルーツがあることは間違いありません。
「血は水よりも濃い」「血は争えない」といったことわざもあるように、「血」のつながりを重んじる人は少なくありません。私の名字もそれほど多くはありませんが、変わった名字を持つ人は、一族がどこからどのようにして拡散していったかということに、大いに興味を持たれることでしょう。そしてそれが発見できた時、どこか腑に落ちるものがあることでしょう。
でも神秘学から言えば、それはさほど重要なことではありません。人は輪廻転生するのであり、肉体は、その時々で選んだ乗り物だからです。乗り物だから無意味と言っているわけではなくて、それを選んだ理由もちゃんとあるのですが、自己のルーツというのは、あくまで「魂」の連続、つまり前世にあるのだということです。
今世の縁というのは、キャスティングを変えたドラマであり、前世で親子関係であったものが今世では逆になったり、兄弟姉妹になったり、性別を入れ替えたりして、いろんな役柄に着くことによって、その役柄の意味を学習していきます。時には家族の中に敵(かたき)同士が生まれ、骨肉の争いに発展するなんてこともあります。
ですから、「血」のつながりに重きを置く必要はありません。仲のよい家族の場合はいいのですが、不仲の場合は、「血」のつながりを意識することが却ってプレッシャーとなり、わだかまりを引き起こします。「どうして私の親はこうなんだ」とか「どうしてうちの子はこうなんだ」とか。しかしそれが、「今世劇場」なのだということが理解できれば、「今世の配役を精一杯やろう」と思えるはずです。
このように、自己というものを、また人間というものを、「霊主体従」でいつでも考察するようにしていれば、日常で生じる様々な問題を解く、大きなヒントがつかめます。偶然出会った人と、恋愛に発展し結ばれた理由。ファースト・インプレッションから親しみを感じ、その後大の仲良しになってしまった理由。反対にそばに居るだけで、逃げ出したいような不吉な予感がする理由、等々。
こういったことがだんだんと分かってくるに連れて、前世から来世へと連続する自分というものが何なのかが分かるようになっていきます。これが、本当の意味でのルーツの発見です。と同時に、「霊主体従」で生きることによって、客観的なものの見方が生まれ、他者を許し、自分も許せるようになっていくのです。