by Rainbow School
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自己のルーツ
自分はどこからやってきたのか? 誰しもが、そのことを考える時期があると思います。多くの人は、そこで先ず「家系」というものを考えるでしょう。自分の最も近い祖先は、親です。顔も両親のパーツを引き継いでいます。今日では、そこに遺伝子の連続があるということが明らかになっており、その意味では「家系」に自己のルーツがあることは間違いありません。

血は水よりも濃い」「血は争えない」といったことわざもあるように、「血」のつながりを重んじる人は少なくありません。私の名字もそれほど多くはありませんが、変わった名字を持つ人は、一族がどこからどのようにして拡散していったかということに、大いに興味を持たれることでしょう。そしてそれが発見できた時、どこか腑に落ちるものがあることでしょう。

でも神秘学から言えば、それはさほど重要なことではありません。人は輪廻転生するのであり、肉体は、その時々で選んだ乗り物だからです。乗り物だから無意味と言っているわけではなくて、それを選んだ理由もちゃんとあるのですが、自己のルーツというのは、あくまで「魂」の連続、つまり前世にあるのだということです。

今世の縁というのは、キャスティングを変えたドラマであり、前世で親子関係であったものが今世では逆になったり、兄弟姉妹になったり、性別を入れ替えたりして、いろんな役柄に着くことによって、その役柄の意味を学習していきます。時には家族の中に敵(かたき)同士が生まれ、骨肉の争いに発展するなんてこともあります。

ですから、「血」のつながりに重きを置く必要はありません。仲のよい家族の場合はいいのですが、不仲の場合は、「血」のつながりを意識することが却ってプレッシャーとなり、わだかまりを引き起こします。「どうして私の親はこうなんだ」とか「どうしてうちの子はこうなんだ」とか。しかしそれが、「今世劇場」なのだということが理解できれば、「今世の配役を精一杯やろう」と思えるはずです。

このように、自己というものを、また人間というものを、「霊主体従」でいつでも考察するようにしていれば、日常で生じる様々な問題を解く、大きなヒントがつかめます。偶然出会った人と、恋愛に発展し結ばれた理由。ファースト・インプレッションから親しみを感じ、その後大の仲良しになってしまった理由。反対にそばに居るだけで、逃げ出したいような不吉な予感がする理由、等々。

こういったことがだんだんと分かってくるに連れて、前世から来世へと連続する自分というものが何なのかが分かるようになっていきます。これが、本当の意味でのルーツの発見です。と同時に、「霊主体従」で生きることによって、客観的なものの見方が生まれ、他者を許し、自分も許せるようになっていくのです。
自己満足
絵描きは、どの時点で筆を置くのでしょうか。作家は、どこまで書いたら〈終わり〉にするのでしょうか。表現活動というものは、いずれ、どこかで終わりにしなければなりません。けれども「一応の完成を見た」なんて言葉もあり、その時点ではこれでいいと思っていても、後に加筆したり、修正したりする作家も多い。

結局のところ、「自己満足」できるかどうかに掛かっています。世間ではよく「自己満足で終わってはいけない」などと言いますが、最後の最後は「自己満足」。エンタテイメント産業の場合は、他者評価を気にせざるを得ないかも知れませんが、そちらが主になってしまうと、作家の不満足度は大きくなる。そこで映画では、ディレクターズカット版というものがよく登場する。

最後の最後は、やっぱり「自己満足」である。このことは、人生の最期の瞬間を考えてみればよく分かると思うのです。死ぬ間際になって、「ああ、いい人生だった」と思えるかどうか。それを決めるのはいったいどんなことなのか。まさか、この期に及んで、他者の評価を気にするわけはないでしょう。「ああこれで、俺の銅像も建つんだなぁ」なーんて。

「自己満足」というのは、つまるところ「魂」の成長の実感です。死の床にあるときに、考えられるのはそれしかない。財産をどれだけ増やしたかとか、賞をどれだけ貰ったかとか、背がどれだけ伸びたかとか、そんなものは成長じゃない。成長できたという「自己満足」は、ただ一つ、「魂」の成長しかない。

ですから、死ぬ瞬間を思い描いて、それを今という時点に引っ張ってくればいいわけです。人生というのは連続したドラマであって、それは今世だけではなく、前世から来世へと繋がっていく壮大なオペラなのです。その今の一瞬を、半歩でいいから、「ああ、私も成長したな」という「自己満足」を目指して行動すればいいのです。

その行動の軌跡が人生であり、半歩の連続が百歩になり千歩になり、死ぬ瞬間には「ああ、よくやった」と思えるようになるわけです。

よい仕事をするためには、「自己満足」のハードルを高く掲げることが必要です。しかし、それを達成できなかったからといって、落ち込んでしまっては元も子もありません。それよりは、だんだんと近づいている、半歩進んでいる、ことを肯定的に自己評価してあげましょう。

いま目の前にある成果、結果は不変です。でもそれで落ち込むのと、ちょっと前に進んだと思うのとでは、その後のモチベーションが大いに変わってきます。なかなか「自己満足」が得られないという人は、厳しすぎる自分を許し、ちょっとでも成長している部分を探し出して、そこを評価してみてください。

半歩の成長の連続が人生を決める。そのことを思い出して、肯定的評価を自分に与えれば、また次の一歩への勇気が湧いてきますから。
産業と失業
人類史上、最初の「産業革命」が起こったのは、18世紀末のイギリスにおいてでした。ジェームズ・ワットが発明した新方式の蒸気機関が、それまでの馬や水力に変わる強力な動力源となり、工業化が多方面に一気に進んだのです。これによって、人類は大量生産を可能にし、それまでとは違ったライフスタイルと社会構造を造り上げるに至りました。

人類史上最初の工業化を、特に「革命」と呼ぶのは、そのような意味からです。工業化は、その産業に従事する労働者を必要とし、労働者は賃金を得て購買力を持つようになったことから、大衆消費が生まれました。これが善循環のサイクルを作って、人々がしだいに豊かになり、中産階級というものを成長させていったのです。

太平洋戦争終結直後のアメリカは、まさにその絶頂期にあり、映画や白黒テレビで、日本人はそのライフスタイルを垣間見て、余りの格差に驚き、こぞって憧れを抱いたのです。この渇望感が、その後の日本の工業化を強く推し進めたといっても過言ではないと思います。結局のところ、国が豊かな時代というのは、中産階級が豊かであるということが、現在の中国を見ても言えると思います。

産業の勃興期というのは、新しい成長市場が生まれるので、投資家はもちろんのこと、一般人もこぞって目を輝かせます。マスコミもそのような視点から、あたかもニュー・フロンティアが到来するような報道の仕方をしています。そして政治や産業界はきまって、これによって◯兆円の市場拡大が見込まれ、◯万人の雇用が創出される見込み、と説明します。

ところが、現代においてはこれは全くのまやかしなのです。確かに新産業の勃興によって、そこに従事する人間が新たに必要となります。しかし同時に、それを上回る失業者が誕生してしまうことについては、ほとんど説明がないのが常なのです。

コンピュータの登場は、コンピュータ関連産業の従事者を新たに生み出しましたが、それまで手計算の為に必要とされていた多くのオフィスワーカーを失業に追い込みました。工場におけるロボットの登場も、多くのブルーワーカーを不必要な存在にさせてしまいました。

コンピュータの登場以降は、たとえどんな「産業」が生み出されたにせよ、それ以前よりは格段に効率化と生産性が向上しているために、総合的な数においては必ず雇用の減少を生みます。あなたが、企業のオーナーであった場合を考えてみてください。利益向上を図るためには、人件費比率をできるだけ下げようとするのではないでしょうか?

生産性が向上するのはよいことです。ところがその裏には、雇用の減少と賃金の低下という問題が当然のごとく含まれているのです。収入が減っているのに、物だけはどんどん生み出される。これではデフレになるのも当然です。

かつての先進国であったヨーロッパ、アメリカ、日本では、今や中産階級がみんな没落してしまいました。そして人間の労働は、コンピュータやロボットでは(今のところ)できない仕事、たとえば機械の補助やサービス業などに、しだいに限られて来ているのです。この限られた職業を巡って国家間の競争(グローバル化)があるために、全世界で大量の失業者が生まれているのです。

半世紀前の未来予測で、人間の労働時間は、未来には平均4時間くらいになると予測した経済学者がいます。彼は、その分余暇時間が増えて、人類はハッピーになると言いたかったようですが、実際にはそうなってはいません。予測通り生産性は飛躍的に向上しているのに、逆にアンハッピー度が増している。いったいそれはなぜでしょうか?

生産性向上によって得られた利益を、資本家と多国籍企業が全部吸収してしまい、労働者に分け与えようとはしないからです。貿易の自由化、労働市場の自由化、そして金融による支配によって、ごく一部の企業だけが儲かる仕組みが形作られ、その企業からの賄賂を貰った政治家たちが国を動かしている。このカラクリに気づき、彼らの甘言にもう乗らないようにしなければなりません。

NHKニュースでキャスターが「次は経済情報です」と言うと、当然のように株価情報が流される。いつの時代から「経済=株価」になったのでしょうか? 今の経済活動は資本家のことしか考えていないということが、ここに見事に表れています。アベノミクスも、その成功失敗を株価で語る。そのことに何の疑問も感じていない経済評論家。おかしいでしょう?

いったい何のための経済なのでしょうか? 誰のための経済なのでしょうか? 新しい産業が勃興しても、特定の企業の株価が上がっても、大量の失業者と賃金の低下を招いていては何にもなりません。ネット書店がどれだけの書店を潰したでしょうか? 音楽のダウンロードがどれだけのレコード店を潰したでしょうか? チェーン店がどれだけの洋服屋と食べ物屋を潰したでしょうか?

人間を不在にし、労働者を貶めるこれらの成長産業はもう要らないのです。これからは、人間の個性を活かす仕組み、生産者と消費者が直接に出会える仕組み、に還っていくべきです。
「見える」ということ
最近、セミナーの席で「透視実験」を行っています。A4サイズのクラフト封筒に写真を入れてホワイトボードに貼り、その中身を透視して貰う実験です。すると、6〜8割くらいという高い精度で、写真の何らかの特徴を捉えた回答が、参加者から出てきます。形、画面構成、生き物であるかないか、大自然の風景、といったものにはよく反応します。中にはズバリ当てる人もいて、お題を出しているこっちがビックリ!する。

「見る」という行為は、先ず外界にある物の反射光を、角膜と水晶体が捉えて、眼球の奥の網膜に像を映します。光はプリズムを通すと七色の(実際はグラデーションになっている)スペクトルに分解できることはご存知ですね。木々の葉っぱが緑なのは、緑以外の色を吸収して、緑だけを反射しているためです。白は全部を反射し、黒は全部を吸収する。だから黒いものはエネルギーを多く吸収して暖かくなるのです。

さて、網膜にはその光をキャッチする細胞がびっしりあって、外部から入ってきた光を、電気信号に変換します。しかし網膜の細胞には大きさがありますから、それよりも小さいものは見分けることができません。ミジンコや細菌やウイルスは、通常状態では、目で見ることはできないのです。しつこいようですが「目に見えるものしか信じない」という人は、これらの存在を信じない、中世時代に置かれたままの人ということになってしまいます。

網膜で変換された電気信号は、神経回路を伝わって脳に送られ、そこで解釈されます。これが、私たちが一瞬で行っている「見る」という行為です。この解釈の時に、脳は自分の中に蓄積されたデータを参照します。大勢の中から知人を見分けられるのはそのためです。しかしその機能は時にはこんなこともしでかします。幽霊の存在を信じている人は、幽霊を「見る」のです。壁のシミや影に、人は容易に顔を見出します。

このように、「見る」という行為は、外部にある存在を純粋に客観的に捉えることは出来ません。それは不可能です。眼球というセンサーの能力、神経回路の状態、脳の解析能力、その人に蓄積された参照データ、これらによって何重にもバイアスが掛かっていて、その人の主観を構成するのです。ですから、その意味では、確かなものはなに一つないとも言えるのです。

さて、ここで考えていただきたいのです。「見る」ということと、「見える」ということは違うということを。「見える」というのは、脳内における電気信号の解釈なのです。「見る」という行為にあたっては、通常はその信号を眼球というセンサーを通して送ります。しかし、眼球を使わずに別のところから信号を与えたとしても、その処理が行われれば「見える」ということになります。これが、瞑想を行った時や、夢で、映像が「見える」理由です。

何かを「見る」センサーは、実は眼球だけではないのです。私たちは、「見る」ための器官は眼球しかないと思い込んでいるために、そのセンサーを通過した・しないで、見える・見えないを決めこんでいます。しかし退化したとはいえ、第六感もある。仏像の額にある「第三の目」は、それを表しています。この部位にあるアジナー・チャクラ、内分泌腺の位置では松果線で、可視光線以外のバイブレーションをキャッチすることができるのです。

冒頭に書いた実験は、それを証明するものです。5〜6人集まる機会がありましたら、余興のつもりでやってみてはどうでしょう。回答者に紙を渡しておき、感じたことや思い浮かんだ映像を、解釈を交えることなく、文字や絵で書いてもらいます。色、形、構図、匂い、手触り、温度、音、硬さ、そういった感覚をつかむようにすると、入りやすいようです。軽いお遊びのつもりでやってみてください。
Q&A「目に見えないものは信じない」という人に対して‥‥
Q:「目に見えないものは信じない」という人に対して、霊的世界のことをどうやって解って貰ったらよいでしょうか? という質問を頂きました。

A:先ずこれは、いつも言っているように、「信じる」必要はないということです。逆に「信じてはいけない」ということ。「疑って、疑って、とことん疑い抜け」と私は言うのです。

「目に見えないものは信じない」という人は、逆に言えば「目に見えるものは信じる」という立場なのですね。でも、どうしてそれが信じられるというのでしょうか? そういう人は、物事を深く考察してみたことがないのです。

人間の「見る」という行為には、しばしば錯覚が伴うことが知られています。次の絵は、有名な「老婆と婦人」というだまし絵ですが、あなたの目にはどんなふうに見えるでしょうか。「老婆と婦人」を同時に見ることができますか? たぶん、意識をスイッチすることでしか見えない筈です。この簡単な実験から分かるように、人は、自分が見たいものを見るのです。

老婆と婦人

それに、「目に見えないものは信じない」というのであれば、全盲の人は一体どうなるのでしょう? 全盲の人にとっては、周囲のすべては幻覚だとでも言うのでしょうか? このように、単純に「目に見えないものは信じない」などと言っている人は、考察が甘い。逆に言えば、社会の常識にすっかり洗脳されていて、疑うことを知らないということです。

さらに言えば、目に見えないものなどいくらでもあります。空気は目に見えるでしょうか? 電気は目に見えるでしょうか? 磁力は目に見えるでしょうか? 放射能は目に見えるでしょうか? 思考は目に見えるでしょうか? 心は目に見えるでしょうか? 命は目に見えるでしょうか?

「目に見えないものは信じない」のであれば、それらは存在しないとでも言うのでしょうか? おそらくそんなことはない筈です。なぜでしょうか。知っているからです。“I know” です。“I believe” ではないのです。全盲の人が日常生活を送れるのも、信じているわけではない。どこに何があるかを「知って」いるからです。

ここで、原始人になったことをちょっと想像してみてください。原始人が電気や磁力や放射能の働きを見たとしたら、何と思うでしょうか? きっとそれらを、聖霊の魔力のなせる技と思ったことでしょう。原始人は、それらの原因に関する知識を、まだ習得していないからです。

しかし、現代人は知っている。空気の存在を疑う人は居ません。それは、水に入ったら息ができなくなるという経験や、フラスコ内で燃焼実験をしたことや、学校でその素性が窒素と酸素、その他の混合気体であることを習ったからです。放射能に至っては、普通の人はほとんど知識以外のものを持ち得ません。

また、思考や、心や、命は、みんながその言葉を曖昧に使っているだけであって、学者であろうと、それがどこから発生して、何によって構成され、どういう働きを持っているかを、明確に述べられる人は誰も居ないのです。あなたは答えられますか? 思考や、心や、命がなんであるかを。

私は、「信じている」わけではないのです。おそらく私以上に疑り深い人間はいないでしょう。疑って、疑って、疑い抜いた先に、でもどうしても解らない不可思議、それも秩序立った法則的な不可思議というものがある。そのことは、誰しも認めざるを得ません。さてそれをどう考えるか、ということなのです。

たとえば「宇宙」です。「宇宙」がなぜあるのか? どうしてできたのか? 誰が創ったのか? 「宇宙」はやがてどうなるのか? 何も解りません。「ビッグバン」も仮説というだけであって、誰も見た人はいない。では「宇宙」はないのか? いや、あるということは認めざるを得ません。しかも、なぜこのような、秩序立った世界が存在するのかは、全くの謎です。

ですが、私は「知っている」のです。古代から伝わる知恵が、私にも与えられるようになったからです。“I know” であって、“I believe” ではないのです。もし「信じ」たのだとしたら、それは宗教になってしまいます。そうではありません。「信じる」必要はない。空気の素性を知ったように、不可思議な世界の背後にある「真理」というものを、ただ知っただけなのです。

それは、たった一つの根源的な法則から発していて、そのことが理解できれば、宇宙のことも、思考や、心や、命がなんであるかということも、すべての背後には「真理の法則」が働いているということが「ああ、なるほど」と解るのです。私は、その法則の一端を、毎日お伝えしています。

それを知りたいと思うことも、いやけっこうと思うことも、あなたの自由意思に任されています。しかし、願わくば、中途半場で終わらせないでいただきたいのです。社会常識を簡単に信じてはいけません。疑って、疑って、とことん疑い抜いてから、あなたなりの判断を下していただきたいのです。
現実を理想で裁かない
理想と現実のギャップ。誰しもが、それを思い知らされる経験を味わったことがお有りでしょう。理想を持つのは良いことです。しかし理想を高く持てば持つほど、現実とのギャップを強く味わわざるを得ません。でも理想を持たなければ、現実を生きることは、空しい営みになってしまいます。

40代から50代にかけて、私もそのことで非常に悩みました。毎日が苦しくて、胸が張り裂けそうでした。どうして世の中というのは、こんな矛盾に満ちた世界なんだろう。どうして人々を利用したり、支配したいと考える人たちがいるのだろう。どうして生きる場である環境を破壊してまで儲けたいと思う人たちがいるのだろう。

そういう単純素朴な疑問が次々と頭をもたげ、しかしどうにもできない自分の無力感に、時には怒り、時には絶望するという毎日が長く続きました。今にして思えば、その時の自分は、現実を理想で裁いていたんですね。それで「許せない」という気持ちが、自分の中で風船のように膨らんでいき、自己制御できないほどになっていました。

しかし、世の中には、善なる者と悪なる者が居るのじゃないんですね。どの人にも、善的なものと悪的なものが同居している。理想を持つのは良いことですけれども、世の中の悪や不正を「絶対に許せない」などと思った瞬間というのは、自分の中の悪的なものが同調し、反応しているわけなのです。その悪の力を見出し、認めているからこそ「許せない」と思うのです。

結局、理想と現実のギャップという悩みは、自分の中の善的なものと悪的なものの葛藤だったのだと、ある時気がつきました。それから、気持ちがスーッと楽になった。でも理想を失ったわけではありません。むしろ前よりも、もっと理想に生きるようになりました。変わったのは、「許せる」ようになったのです。これが、自分を許し他人も許す、ということの意味だと解りました。

世の中の悪や不正に目をつむるということではないのです。理想に生きようとすれば、それに反する行為に対しては、やはり間違いをちゃんと指摘し、是正していくように運動していくべきです。そうでなければ、具体的に世の中は良くなっては行きません。言わなければ気づかないし、行動しなければ変わらないのです。

しかしそうした間違いが起こるのも、人類が発展途上にあるからだと思えるようになりました。それで、怒りも絶望も消えた。何より、自分自身も同じ発展途上の人間であって、「許し」が必要だったということに気づいたわけです。怒りや絶望は、必要のない、ムダなエネルギーの使い方だったということに気づいたのです。

理想と現実のギャップはある。あるけれども、そこに怒りや絶望を持つ必要はない。ガチガチにならず、ちょっとした間違いは許し、なおかつ理想に生きる。ただただ理想に生きる。それがどれほど心を楽しに、かつ暮らしを楽しくさせてくれるものか。現実を理想で裁かない。あなたも、それを実験してみて欲しい。
人間が創り得なかったもの ----- それが無償の愛
昨日、私はこう書きました。あなたの周囲にあるもので、人間が創り出さなかったものは果たしてあるでしょうかと。するどい人は、例外があることにお気づきだったでしょう。そう、自然、命、宇宙です。確かに人間は、生活の諸道具を自分たちの手で創り出しました。すべての材料を、自然の中から得て。

しかし、自然そのものと、命と、宇宙は、人間が拵えたものではありません。これは重要な点です。ではいったい誰が創ったのでしょう? 謎です。これは永遠に解けない謎です。人智の理解を超えているのです。けれどもそこで、その3つは人間が創ったものではない、ということをいったいどれだけの人々が真剣に受け止めているでしょうか?

私たちは、自然環境の中に生き、宇宙の中に生き、他の命を殺していただかなければ一瞬たりとも生きていくことはできません。ですから、それらを利用することは、宿命づけられています。人類という種にとって、第一の課題は「生き残ること」なのです。今の人類の姿形は、生き残りによって、環境適応した結果であることは間違いありません。

では、自然の利用、宇宙の利用、他の命の利用は、どの程度までなら許されるのでしょうか? 無制限なのでしょうか? 少し考えてみれば解るように、この3つを利用し尽くしてしまったら、人間はもう生きられないということです。生きていける環境もなく、命をつなぐ食べ物もないのです。そのことから、利用にあたってはバランスが大切だということが判ります。

ところが、今の時代の大きな問題は、そのバランス感覚を失った利用に人類が手を染めるようになったことです。自然破壊、宇宙開発、食料資源の食べ尽くしが止みません。それどころか、命そのものの操作を考え出し、「人類の夢」などと言って、これを社会が賞賛している有り様です。

なぜ、そんなことができるのでしょうか? 自然、命、宇宙は全部タダだからです。奪い取られたことへの見返りを、決して求めないのです。ですから、それをできるだけ多く奪い取り、それを加工し、そこに金銭的価値をつけた者が、巨万の富を築けるのです。そして、富を元に人類を支配できるのです。

これほどの無智が果たしてあるでしょうか? 自然、命、宇宙は、決して求めない。それはどういうことかお解りですか? これこそが「無償の愛」ではありませんか。それなのに、その愛の大きさに、いささかも感謝することなく、なお奪い取ろうとする愚かさよ。与えても与えても、放蕩息子は気づかないのです。

社会が振りまく「成功イメージ」や、マスコミが宣う「人類の夢」などに惑わされないでください。生きる意味を、生きている意味を、シンプルに考えれば、どう行動すればいいかが、自ずと解るはずです。無智であってはいけません。直感を呼び覚まし、人間本来の生き方に立ち還るのです。
世界の情勢は、人間の「心」の反映
毎日ニュースを観る。そして世界情勢は一体どうなっているのだろうかと眼を凝らす。ある場所でこういう事件が起こった。誰かがこんな発言をした。気象はこんなふうに予想される。それらを見たり聞いたりしていると、日々変化する世界情勢は、みな自分の外側にあるもので、自分とは関係なく進行しているように思えるでしょう。

でも、そうではないんですよ。今の世界情勢は、すべて人間の「心」の反映なんです。そう聞いて、たぶん頸を傾げられる方もおられるでしょう。しかし、ちょっと考えてみてください。あなたの周囲にあるもので、人間が創り出さなかったものはあるでしょうか? 住まい、その中のインテリアや道具、衣服、食べ物、すべて人間の手から生み出されたものです。

交通や金融や教育のシステム、そして政治や戦争までもが、みな人間の手から生み出されたものです。それを、こんなふうに形づくろうと構想し、決めて、実行したのはすべて人間です。結局は、人間の「心」のありようが、今の世界を形づくっているわけです。今ある世界というのは、人間の「心」の表現、その集合体なのだということです。

ですから、今の世界情勢のあり方と、あなたとは決して無関係ではありません。あなたの「心」も、その集合体の一部を為しているということです。世界の動向に大きな影響力を持った権力者という人たちが、政治、経済など各界に居るわけですが、その人たちを権力者たらしめているのは、その人々を結果的に奉り上げている大衆なのです。

権力者が善的に動けばこの世界は善いものになり、悪的に動けば悪くなるのです。それが「心」の表現ということです。今の世界が、混沌をますます深めているのは、悪を為す権力者が猛威を振るっているからに他なりません。そしてそれが止まないのは、その悪を為す権力者に同調する大衆心理の方が未だ勝っているからです。

一般大衆は、こうした権力構造を見抜くことができません。小さい頃からの教育や、マスメディアや、社会システムによって深く洗脳されていて、そこに気づくことができないのです。しかし、複雑に考える必要はありません。今の世界が、結局は人間の「心」の反映なのだと思い至れば、どうすればいいかが自ずと見える筈です。

一般大衆が、悪への同調を止めれば、悪を為す権力者は生きてはいけないのです。一人ひとりが善的に生き、周囲にその種をまた蒔けば、世界も変わるということです。急がば回れで、最後はそこしかありません。

怒りをぶつけたり、愚痴をこぼしたり、無力感に苛まれたりしても何にもなりません。理想の社会を思い描いて、先ずあなたが理想を生きることです。そうすれば、あなたの「心」がハッピーになり、周囲にもハッピーを与えられるようになり、世界がハッピーになるのです。
「老化」という集団暗示
春から秋にかけては、東京と長野の山奥との往復生活をしているのですが、東京の多摩市に帰ってくるたびに、老人の元気のなさには驚かされます。街を歩いている人はみな鬱向き加減に、いや間違えた俯き加減にトボトボ歩き、バスに乗るときはヨッコラショと重い足腰を上げる。

東京の多摩市は全国のニュータウン開発の先駆けとなった地域で、今も多くの団地があり、都市部人口の膨張期と住宅取得年齢が重なって、同じ年代の人たちがワーっと一気に集まった場所です。その人たちがいま一斉に70代、80代を迎えているわけです。財政事情の苦しい多摩市としては、これは大きな問題です。

山奥に行くと、私がいちばん若く(どひゃー)、みんな年上ということになるのですが、ヨボヨボなんて人は一人もいない。みんな80、90になっても畑に出て農作業をしています。この差はいったい何なのだろうと考えると、一つには、毎日やる仕事があるということ。それも自然の四季が相手ですから、それを感じながら仕事をすることになる。これが大きい。

そうしてもう一つは、「老化」という情報にほとんど接しないということが、大きく影響していると思います。都会に居りますと、先ず自治体が老人対策ということを先回りして考える。各種の施設を作ったり、老人向けプログラムを考えたり。言ってみれば非常に手厚い。加えて保険とか、健康食品とかのCMが雨あられのように降りかかってくる。

これらはみんな、先ず「老人」ありきの発想で、その中身は「人は年を取ったら、体が利かなくなるものだ」という刷り込みが、例外なく含まれている。これが「老化」という集団暗示を生んで、人々を潜在意識下でコントロールするようになってしまったと思います。

その人の現在の「体」の状態は、「心」の表現です。「心」が「人は老化するもの」という集団暗示に掛かっていますから、「体」もその意に沿って、そう実現すべく一斉に「老化」してしまうということです。ですから、手厚い保険は逆効果なんですね。

企業は、人を「市場」と考えますから、自社商品を売るために、絶えず「脅し」を掛けてきます。そのままだと腰が曲がるぞ、シワが増えるぞ、シミができるぞ、三段腹になるぞ、等々。これに乗っかっちゃダメなんですね。「脅し」に屈した途端、「老化」という意識が潜在意識に一つ入る。これを重ねていけば、あなたもあっと言う間に、立派な「老人」です。

そうじゃなくて、いつも元気ハツラツをイメージするんです。軽く眼を閉じて、呼吸を整えて、元気ハツラツ、自分がイキイキと輝いている姿をイメージする。もし体に不調な箇所があれば、治そうと思うのではなくて、すでに完全に機能している状態をイメージする。これを毎日やって欲しい。タダなんですから、こんなにいいことはないでしょう。
『レインボーマン』の思い出

1972年のある日のことです。当時私は実家からかなり離れた学校の寄宿舎で生活していました。週末に久々に家に帰った折、夕刻の時間帯にオフクロが編み物をしながらそのテレビ番組を観ていたのです。番組は『愛の戦士レインボーマン』といって東宝の特撮ものでした。

私もつられて途中から観たのですが、「なんじゃこれは?」とあっけにとられました。第一に、その特撮のチープさゆえにです。予算が相当にキツかったのでしょうが、同じ東宝といっても、円谷プロのウルトラ・シリーズで観ていた丁寧さとはまるで違うのです。

特撮ヒーローものと言えば、敵の怪獣、怪人、妖怪の造形が勝負どころだと思うのですが、この『レインボーマン』ではカツラを被って顔を白塗りしただけとか、パーティーグッズのゴム製のお面を被ってマントを羽織っただけといった、信じ難いような手抜きぶりなのです。

肝心のヒーロは、月光仮面に似た覆面姿。額の中心に太陽を形どったシンボルを付け、ゴム長靴にゴム手袋みたいなダサい格好をしている。オフクロが「この俳優さんは、覆面姿で目だけが出るでしょう。だから目のキレイな人を選んだそうよ。ねぇ、キレイないい目をしてるわねぇ」なんて解説する。

*主役を演じられた水谷邦久さんは、今は熱海でカメラ店とカフェを経営されているそうです。

結局この『愛の戦士レインボーマン』は、その時代では数回チラ見しただけで終わり、まともに観たことは一度もなかったのです。が、なぜか気になる存在として、私の心に強く刻みつけられることになったのです。

そのもう一つの理由は、レインボーマンの変身シーンの決めゼリフ。なんと両手で印を結ぶと、「アノクタラサンミャクサンボダイ(阿耨多羅三藐三菩提)」と、般若心経中にあるご真言を三回唱えてから、「レインボー・ダッシュ・セブン!」と言って変身するのです。

これには理由があって、アマチュアレスリングの強豪として名を馳せたヤマトタケシなる高校生が、「もっと強くなりたい、そしてプロレスラーを目指したい」とインドまで修行に行く。そこでヨガの聖者ダイバ・ダッタと出会い、資質を見抜かれて、厳しい修行の末に本人の意思に反してレインボーマンとなってしまうという設定なのです。

この本人の苦悩。自分は好き好んでそんな役割を引き受けたわけじゃないのに、誰にも正体を明かすこともできず、ひとり日本人を救うために悪と戦わなくちゃならない。これが物語全体の裏に流れる基調となっているのです。そのヤマトタケシの心情を吐露した歌が、エンディングテーマで流れる、次の「ヤマトタケシの歌」。

どうせこの世に 生まれたからにゃ
お金も欲しいさ 名も欲しい
自分の幸せ守りたい
僕だって人間だ 僕だって若いんだ
けれどもその夢 捨てさせる
この世の悪が 捨てさせる

いやはや何ともストレート。しかしこの作詞も原作も、川内康範さんだと知ると納得がいく。川内康範さんは『月光仮面』の作者であり、森進一さんの「おふくろさん」他、数々のヒット曲を世に送り出した人。その川内康範さんが、この『レインボーマン』に賭けた思いは半端じゃないのです。

レインボーマンが戦う相手は、日本国の解体と日本人抹殺を狙う秘密結社、その名も「死ね死ね団」。これは、大東亜戦争中に日本軍から痛めつけられたアジアの人々が、日本人に憎悪を抱き、その復讐のために結成した地下組織という設定。ここに、川内康範さんの、戦争に対する懺悔の念が表れているんですね。(川内康範さんは戦後、遺骨収集などの活動も行う)

70年代当時は、当然ビデオなんてものもなく、私の中では『レインボーマン』のタイトルと、それを観ていたオフクロの姿の記憶だけが残っていて、以上は、後にインターネットで調べて知ったことです。今は幸せなことにインターネットで全話が観られます。私も半分まで観たのですが、途中で飽きてしまって‥‥。┐(´ー`)┌

「死ね死ね団」は外国人のはずなのに演じているのはみんな日本人とか。タケシのオフクロが自宅でおにぎり屋をやっていて、戦いの後タケシはいつもそこに帰宅するのに、家を「死ね死ね団」が襲わないとか。日本人の精神を破壊する薬を開発したのに、それを使うに当たっては「死ね死ね団」団員が屋台のおでん屋を経営して、コップ酒に注入して飲ませるとか。とにかく突っ込みどころが満載。

細部のリアリティは、まったく子ども騙しもいいところなのに、大きな設定が、大東亜戦争の恨みとか、印パ戦争とか、M資金とか、「おたふく会」という宗教法人とか、偽札を使ったハイパーインフレ経済戦争とか、人工地震に人工津波など、ものスゴイんです。それにヨガの大聖者と「阿耨多羅三藐三菩提」が絡むんですからね、もうハチャメチャ。

でもなぜかずっと気にかかる。そこである時、私も決心したんです。
自分もレインボーマンになろうと、めざそうと。
けれども、戦うのはよくないから、自分は「愛の宣師レインボーマン」で行こうと。
これ、真面目な話です。


おまけ 歌詞(特に二番)をじっくり聞くと、川内康範さんの理想がよく解る。