by Rainbow School
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「闇の支配者」ということについて(1)
世界情勢は、いま正にカオス(混沌)の状態にあります。続発する地域紛争、近代兵器を駆使した大量殺戮。自爆テロや誘拐。それらの度に生み出されていく数百万人単位の難民。目を転じれば、環境問題が深刻さを増す一方で、従来の物質的価値に基盤を置いた欲望刺激や、経済の拡大成長志向は一向に止む気配がありません。

人々は、まるで大海に浮かぶ木の葉のように、これらの事象に翻弄され続けています。しかも、大海の全体像と実体を知らないために、自分たちが今どうなっているかさえ分からないのです。今日はその話をしたいと思います。

これから書くことは、いま世界で起きていることの、裏にある実体を理解するための参考にしていただきたいと考えてのものです。けれども、世間の常識とはあまりにも内容がかけ離れていますので、ある人にとっては目が開かれることでしょうが、ある人にはインチキ、あるいは誇大妄想のようにしか受け取られないことでしょう。

私たちが、世の中の動きを知る際の情報源としているもので最大のものは、マスコミを通じて流されるニュースです。あとはインターネットや、特別のルートを持っている人はそうした情報源、また自分の目や耳で直接確かめたといったものもあるでしょう。しかし大多数の人々は、やはりマスコミに依存している状態だと言えます。

そこには、「マスコミ情報は信用してよい」という前提が、暗黙の了解のようにしてあるのですが本当にそうなのでしょうか? 「マスコミは厳正中立である」このようなことを信じている人は、たぶんもうおられないでしょう。今や殆どの人が、産經新聞と朝日新聞とでは立ち位置が違うということくらいは知っています。

これ一つを見ても解るように、発言者というものは、よって立つ基盤の影響を必ず受けているものなのです。それが、社風であったり、スポンサーであったり、イデオロギーであったり、流行であったり、どこかからの圧力であったり、買収であったり、洗脳であったりと色々です。英語の「理解」という意味の「Understanding」は、下部に立っているものが解るという意味です。

マスコミにおいては、この下部に立っているものが私たちにはよく見えないのです。そこで私たちは、マスコミが伝える表のニュースだけを、本当のこととして認識してしまいがちなのですが実体はそうではありません。裏があるということです。戦時中の大本営発表が、意図的に国民を騙していたことは知っておられると思いますが、それは今も同じなのです。

ところが、この裏側も決して一重ではないということ。これが実にやっかいなのです。裏にはそのまた裏があるという具合で、次のようにざっと五重もの扉が控えているのです。これが、よく言われるところの「闇」です。そうしますと、人によって認識の程度が異なりますので、深いところを論じても通じない。みんな眉ツバものとか、陰謀論で片付けられてしまうのです。

その五重の扉を、 順番に見ていきましょう。

1.表がある
2.表の裏がある
3.裏の裏がある
4.裏の奥がある
5.奥の奥がある

「表」というのは、一般のマスコミで報道されているようなニュースです。大多数の人々はこれを本当のことだと捉えていて、それで満足してしまっているのですが、少数の疑り深い人は、その裏に何か隠されたものがあるんだろうと思う。例えば原発事故報道です。911テロ報道です。ところがマスコミの力は絶大ですから、多勢に無勢で、疑問を呈しても旗色が悪い。

こうした疑いを持つことは、チェック機構としては必要なものですが、日本ではその主戦場が週刊誌になってしまっています。ところが週刊誌は、政治的なことだけではなく、同一誌面で芸能人のスキャンダルやらエロネタを掲載しているために信用度が高くありません。海外では、カウンターメディアがあったり、ドキュメンタリーが盛んに作られたりしているのですが、日本ではこの分野が非常に手薄なのです。

さてそうなると、ここで一つの問題が起こります。「裏」を暴いたかに見えるものも、大衆不満の一つのガス抜きに過ぎなくて、その陰で本当の「裏の裏」は隠されてしまっているということです。見方を変えれば、「表の裏」情報も、所詮は操られたものということです。絶対的権力をマスキングするために、想定の範囲内で、大衆不満のガス抜きが行われているのです。(続く)
カタルシス
訳もなく泣いた、嗚咽した、という経験はお有りですか? 夢から覚めたら涙で目頭が濡れていた、という経験はないでしょうか? 悲しみの感情とはちょっと違う、内から込み上げてくるような体験。これがカタルシス(catharsis、原語はギリシャ語)です。カタルシスは、「心」の奥にある「魂」の浄化作用なのです。

過去に体験した辛い出来事。大多数の人は、「存在」というものを常に時空間で捉えているので、その体験が、確かに「在った」と思い込んでいます。でもその「在った」という瞬間を、いま目の前に取り出して見せることはできないのですよ。「在った」という証拠のようなものは、あなたの記憶にしかないのです。

例えば、太平洋戦争が「在った」という。しかしその体験は、一人ひとりみな違うのです。それはその人の記憶の中にしかないのです。太平洋戦争全体の記憶というものは、どこにもありません(アカシックレコード以外には)。でも私たちは、その共通部分を見つけて、そこに大まかなレッテルを貼って、あたかも共通体験をしたかのような錯覚をしているだけなのです。

幼少時に、親からこんなことをされた、あんなことをされた。大切な人を、誰々のせいで亡くしてしまった。目をかけていた人から裏切りにあった。謀略で人生を狂わされた。ある人からひどいことを言われた。そのようなことは、時間軸の中でたぶん「在った」のでしょう。でもそれは、決して全体を示しているわけではありません。あなたが切り取った記憶なのです。

新聞記事をスクラップしている人がいますよね。数多くある記事の中から、特定の記事を切り出しているのは、その人の「意識」なのです。自分が自分の意思でそれを切り出しているのです。それが、あなたの記憶です。辛い体験を切り出すから辛さが残り、楽しい体験を切り出せば、楽しい記憶が残るのです。

あの人のせいで、この人のせいで、と始終言っているような人は、結局それが好きなんですね。多くの体験の中から、その部分がとりわけ目につくので、自分の意思で切り出して、せっせと自分のスクラップブックを作っているのです。そしてそれを取り出して眺めては、辛いとか、悔しいとか、許せないとか言っているのです。それがどんなに馬鹿げたことであるか、もうお分かりでしょう。

人間はみな未熟なのです。発展途上なのです。あなたも例外ではありません。だとしたら、お互がお互いを許しあえば、それだけ心が軽くなるではありませんか。これが放下ということです。捨てるということです。苦しみを拾うから苦しくなる。憎しみをスクラップするから憎しみが消えない。それをしているのは、すべてあなただということ。

なぜそうなのか? それがあなたの「心グセ」です。どうしてそんな余計な「心グセ」を付けてしまったのでしょう。その元になった原因を見つけてください。辛いからと避け続けている限り、それは解消されません。内省するのです。もしかしたら、幼少時のある事件が元になっているのかも知れません。あるいはその深い根は、過去世の体験にあるのかも知れません。

そこに触れて、追体験をした時、一気にカタルシスが訪れます。そして長年のこだわりが、涙とともに、きれいさっぱり洗い流されてしまいます。だから、勇気を持って、内省を深めてください。外の情報ばかりを追い求めていては「魂」の成長はありません。外の情報など、所詮、どうでもいいことばかりです。
“医は仁術”は、どこ行った?
磯子でのセミナーに向かうために、横浜で根岸線に乗り換えた時のことです。乗った電車が、たまたま「女性専用車」だったのですが(日中は男性も可)、席に腰を降ろすなり、異様な感じに気がつきました。周囲を見渡すと、その車両全体が「子宮頸がん」に関する啓蒙の広告で占領されていたのです。眺めているうちに、吐き気がこみ上げて来ました。

「逆襲が始まったな」と思いました。ご承知のように「子宮頸がんワクチン」の接種に関しては、様々な副作用が報告されており、中には重篤な症状を呈している方もおられるのです。また、そもそも「ワクチン」に有効性などないとする考えもあります。今回、調べてみて驚いたのですが、厚労省も「がんそのものを予防する効果は現段階ではない」と、ちゃんと言っているのですよ。

それなのに「これはなんだ?」と思うのです。
見ていて気持ちが悪くなったのは、それが完全に「広告」の手法で訴えかけられていたからです。
もう100%が広告です。

私はかつて、広告業界に首を突っ込んでいましたので、その背後にある「戦略」というものは、全部透けて見える。「ここを、こういうキーワードや数字で刺激を与えて、落としてやろう」という悪だくみの匂いしか、そこからは漂って来ないのです。「放っておいたらがんになるぞ、なるぞ!」「おい、それでもいいのか」という脅しの言葉のオンパレードです。

ひどい。それで、いったいどうしたいのか。医者は、病気の苦しみにある人を救うのが仕事ではなかったのか。それが今や「病気を作る人」に成り下がっている。人々を、不安に駆り立て、脅し、医療機関に足を運ばせ、薬漬けにして金を巻き上げ、そして殺す。“医は仁術”という言葉は、いったいどこへ行ってしまったのだ。恥ずかしくはないのか。

「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」「醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。」(貝原益軒『養生訓』)
"I am that I am"とは?
「神」というのは人間が「それ」に対して与えた名前であって、「それ」自体は自分を「神」と名乗ったことは一度もなく、「それ」は永遠に知られざるものです。ところが、人間としてはそれでは納得がいかない。パラドックスのままではどうにも気持ちがスッキリしない。そこで人間は「神」を自分の外側に創り、これを崇め奉ったのです。

これが、過去2000年間、地中海史の基調を彩ることになった「一神教」の始まりです。ご承知のように「一神教」では「偶像崇拝」を禁じています。しかし「偶像崇拝」の本当の意味は、像に「神」を刻むことではありません。「一神教」そのものが、人間が創ったもの、つまり「偶像崇拝」に他ならないのです。

だからこそ「一神教」同士が縄張り争いをし、激しくいがみ合うのです。それが「真」のものならば、「全ては一つ」を体現しているはずです。「全ては一つ」なのですから、そこには分離はなく、したがって争いもなく、みなが仲良く平和に暮らしているはずです。それが実現していないということは、過去2000年間の宗教の試みは失敗に終わったということです。

『旧約聖書』の出エジプト記3章14節に、意味不明とされる次の言葉があります。
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)
これは、モーセに《神》がイスラエルの民を救い出すようにと促したとき、モーセが「ただ私がそれを言ったところで信用されません。どなたから言われたと答えればよいのでしょうか?」と質問した際に、《神》なるものが「こう申せ」と語った言葉です。(すみません、シャレです)

英訳では、"I am that I am" と書かれています。
ところが、日本語訳になったときに、これが「我は在りて有る者である」と訳されているのです。
在りて有る者? まったく意味不明です。実は、これは完全な誤訳なのです。
この本当の意味は、こうなのです。

最初の「I am that」の「that」は関係代名詞で、後に続く文、「I am」を表しています。
ところがこの「I am」の後ろにあるもう一つの「that」が、重なるために省略されているのです。つまり本当は、

"I am that /I am(that)" 

なのです。後ろの文の「I am that」は「私は《それ》である」という意味です。ですから《それ》が略されて「I am」となっている部分には、「《それ》と呼ばれているところの私」という意味が隠されているのです。

これらから、"I am that I am" の意味は、次のようになります。
「私は、《それ》と呼ばれているところの者、それである」

これは実に意味深で巧みな表現です。一つには、いま言った《それ》という答え(自分では「神」とは名乗っていないことに注意)ですが、もう一つは、言葉が重なっていることの意味です。これは相似形を表しているのです。つまり、ヘルメス文書にある「下なるものは上の如く、上なるものは下の如し」という「全一の法則」を、この一文が余すところなく表現しているのです。

「全一の法則」:「全部が一つ、一つが全部」ということ。一者の法則(The Law of One)とも言う。天人合一、不二一元、万教帰一、アルファでありオメガ、これらも全ておなじことを言っている。

さらに言えば、このことから、誰もがそのように宣言してよいということもまた表しています。なぜなら、万物が一つのものから分かれたかけらであり、なおかつ繋がっているからです。あなたという存在は、《それ》のかけらであると同時に、あなたの中にも《それ》の全てが含まれているのです。マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形なのです。

ですから、堂々と宣言してください。
"I am that I am" 「私は私です」と。
「神」は永遠に知られざるもの
「神」とは何か、これは永遠に判りません。「神」というのは、人間がその<不可知のもの>に付けた名前であって、「それ」が自らを「神」と名乗ったことは一度もないのです。ただしここでいう「神」は、唯一神、根元神、創造神、第一原因のことを指します。

一般に「神々」というのは、高級霊、あるいは想念が集合した意識体のことを言い、これは第一原因とは区別して考えるべきものです。ですから我々の霊魂も、輪廻転生を重ね、学習を深めることによって、いずれはこの「神々」の仲間入りをすることになるのです。

想念が集合した意識体とは、例えば「龍神」や「狐」といったものです。これらは架空のものですが、霊界はすべて想念の世界であり、多くの人が同じ想念を集中させますと、同じ波動は引き付け合うという法則によって、それらの振動エネルギーが集合し、実際に力を持つようになるのです。

つまり、「神々」は在るといっていいのです。しかし創造神はこれには当てはまりません。なぜかということを証明するために、ここでちょっと思考実験をしてみましょう。

あなたが今夜の晩ご飯を調理し、食卓にそれらを並べたとします。それらを創ったのは紛れも無くあなたです。ですからあなたが今夜の晩ご飯の創造者です。同様に身の周りの物を見渡してください。それらにはみな創造者が居て、創造者と被創造物とには対(つい)の関係が成立していることがお解りでしょう。

では宇宙を創ったのは誰でしょうか? 万物を創ったのは誰でしょうか? 自然を創ったのは誰でしょうか? 命を創ったのは誰でしょうか? ありとしあるものの創造者はいったい誰なのでしょうか?

被創造物には必ずその創造者が居るはずです。ですから、ありとしあるものの創造者も居るはずです。そこでこの創造者を「在る」と仮定してみましょう。その途端、パラドックスが生じます。なぜなら「それ」が「在る」のだとしたら、その「在る」ものを創ったのは誰かという問題が生じてしまうからです。

このようにして、人間が「神」と名づけた「それ」は、永遠に知られざるものだということが解ります。万物があるのだから、それを創った何者かがいるはずである。ところが、「それ」は、在ると言ったとたん矛盾が生じるし、無いとも言えないのです。

「神」がなんであるかは誰にも判らない。高級霊にも判らない。ただ「それ(That)」と呼ぶだけです。しかし、「それ」が創った「法則」だけは歴然と在る。「真」は判らなくても、そこから漏れ出る「理法」は判る。つまりそれが「真理」です。そしてその「真理」が言うところのものはたった一つ。

全部が一つ、一つが全部。

ただそれだけなのです。(明日に続く)
焦り
焦っている時は、自分を見失っている時です。でも本人は、その渦中にいるので、自分が焦っていることに気づかない。気づけない。ですから、周囲の人たちがそれとなく言ってあげるといい。「何をそんなに焦っているの? 焦ったところで、立場を悪くするだけよ」と。

気が焦るのは、時間軸を意識するからです。いついつまでに、こういう成果を出さなきゃいけない。自分もいつの間にか◯歳、もうそろそろこうなっていなければいけない年頃だ。このままでは先細りが目に見えている、そうならないように早めに起死回生の策を打たなければ。等々。

確かに、年代によって出来ることと出来ないことはあります。その代表例が出産です。また仕事も、常に競争というものがありますから、うかうかしていたら寝首を掻かれるということもあるでしょう。しかし、焦りだけは禁物です。焦りは、客観意識を失わせてしまいます。

「心」がやっかいなのは、自分の感情の動きを見つめる、もう一人の自分というものを、厳密には用意できないことです。焦っている自分を観察する冷静な自分というものがあり得るのか。一見して分かる通り、これは矛盾です。気が焦っていたら冷静な観察などできませんし、冷静だとしたら焦ってはいないということになってしまいます。

ですから、周囲の人たちが鏡の役目になってあげる必要があるのです。あるいは、自分の感情の動きのパターンを掴むという方法もあります。しかし、そのような方法は誰も教えてくれないし(「虹の学校」では教えています)、訓練と手痛い経験も必要なので、取り組もうとする人は非常に少ない。ここに踏み込むことが、いわゆる「心解脱行」です。

さて、焦りについては、女性よりも男性の方が引っ掛かりやすい。ただしこれは現在の肉体的な性差のことを言っているのではなくて、男っぽい魂、女っぽい魂、という意味ですが。(人は輪廻転生するので、両性を経験し、最終的には「中性」的になっていく)。

男は野望を抱くので、どうしても時間軸で物事を考えるクセが抜けません。これに対して女は、家庭の日々の仕事があり、男よりは遥かに日常を生きているので、時間軸に巻き込まれる可能性が少ないのです。

男にとっては、野望に比べれば、日常の細々したことはみなつまらないことに思え、女にとっては、なんで男がそんなものに夢中になっているのかがさっぱり解らないのです。女の方がずっと「今ここ(Be here now)」を生きており、男は「今ここ」の価値に気づけないのです。だから、あれこれ理屈を付けて「戦争」をするのはいつも男なのです。

男の、この下らない焦り、時間軸で物事を考えるクセ、を止められるのは女しかいません。ですから、女性は男性に言ってあげて欲しい。「何をそんなに焦っているの?」と。しかし昨今、私が気になっているのは、女性の社会進出と言ったときに、それがみな「男思考」を獲得した女になっていることです。

だから、女性の社会進出が進んだと言っていますが、そうじゃないんですね。「男思考」が増えたということです。社会全体は以前よりもっと男性化しているということです。ヒラリー・クリントンだって男なんです。これはダメです。「男思考」に同調していってはダメなんです。今は社会全体を、もっと女性化の方向に振ってバランスを取らなくては。
ユーモア
先日、ある市民活動グループの懇親会にお邪魔しました。私の住んで居るところはその地域とは離れているのですが、会長さんからの頼まれ事があって、時々その会にお邪魔したりしています。

レストランのテーブルで、Kさんと隣りになったのですが、Kさんとお会いするのは1年ぶりくらいです。会長さんからご病気だと伺っていたので、私は挨拶代わりに「もう、お加減はいいのですか?」と訊いてみました。

そうしたら、それは私の早とちりで、ご病気だったのはKさんではなくて、Kさんの奥さんと、実の母親だったというのです。そして4ヶ月前に、二人は相次いで亡くなったのだと。最近はやっと家事もこなせるようになってきたが、最初は預金通帳がどこにあるかも知らなかった、と言います。

私は「花の独身生活、じゃあ僕と同じですね」とKさんに言ったのですが、その後、Kさんがこう返されたのです。
「これで、嫁姑問題が一挙に解決!」
それを聞いて、同じ席に居た女性がゲラゲラ笑い出し、私は「笑いすぎだろ」とツッコミを入れたんですけど。

こういうユーモアは好きです。過ぎたことは、もうどうにも仕方のないことです。それならば、いつまでもクヨクヨせず、新しい生活に早く進みだした方がいい。そのきっかけに、ユーモアを使うのは賢いやり方です。

それで周囲の者も大いに助かる。訃報に接し、いくら周囲が悲しみへの同情を見せたところで、所詮、近親者の心情には迫れないのですから。
コントロール意識を手放さない人の末路
世の中には、「他人を従わせ、自分の思い通りに動かしたい」と考えている人が大勢います。特別そのように意識していなくても、無意識のうちにそうした態度を取っている人たちも少なくありません。リーダー・ポジションにある人の中には、その地位を錯覚して、自分では気づかないまま周囲に対していつも威圧的な振る舞いをしている人も多いのです。

子ども時代から30代前半くらいまでは、世の中の構造が皆目解らなかったので、私はそういう人たちにすっかり怯え、縮こまって生活をしていました。家族、学校、アルバイト先、就職先。どこへ行ってもそういう人たちがいた。それ以降は、縮こまるということはなくなったのですが、50代半ばまでは、まだ「心」の処理に困って腹を立てたり、大いに落ち込んだりしていました。

今は、「心」の働きやその背後にあるものがよく解るようになったので、もう感情が動かされるということはなくなったのですが、代わりに、コントロール意識の強い人と相対すると、たちまち気分が悪くなって吐き気を催すようになりました。しかしそれも、だんだんと処理できつつあります。

先日、ある人から電話が掛かってきました。その人を私は何十年も前から知っており、できれば接触したくない人でした。過去、その人の強いコントロール意識に遭って、散々な日々を送った体験があったのです。ところが電話のその人は、今ではすっかり弱っていて、被害者意識の塊に変身していました。

若い時には「周囲の者は、みなバカだチョンだ」と傍若無人に振る舞っていても、通用していた。ところが60歳を超えるともうそれが出来なくなった。世代交代が進み、地位も失うと、長年のツケで、これまで虐げられて来た人たちがみなソッポを向くようになってしまったのです。そしてそれを強引にねじ伏せようとしても、もはや自分の体力がない。

そこでその人は、思い通りにならない怒りを、被害者意識に転換し、私に「聞いてくれ」と訴えかけて来たのでした。自分が今、いかに酷い目に遭っているかと。電話の向こうで、堰を切ったように喋り続けるその人の話を、私は黙って聞いていました。気の毒だとは思いますが、でもその人に掛けて上げられる適切な言葉は、今は思いつかないのです。

その人に、自分を変えるチャンスがないと言っているのではありません。チャンスはいつでもあり、一瞬で変わる。変えられる。それがすべての人々に公平に開かれた愛です。でも、聞く耳が出来ていない人には、どんな言葉を掛けても素通りしてしまいます。逆に、聞く耳が出来た人は、どんなものからでも、自分への温かい言葉を聞くことが出来るのです。

何十年も変わらず自分に習慣づけてきた「他者をコントロールしようとする意識」を、ハッと気づいて捨てる日が、どの時点でその人に訪れるのか。その苦しみの因を作って来たのは、自分自身に他ならないということにいつ気づくのか。どん底まで行って気づくのか、それとも一生気づかないまま死んで行くのか。

だからね、最後は「素直さ」が。自分が裸になれるかどうかが、その人の人生を決めてしまうということです。そうやって「我」を張り続けていて、いったい何が得られるというのでしょうか。やがてブーメランのように返ってくる自分の「我」です。

なぜみんな受け取らないのですか? あらゆるところに「愛」が無償で転がっているのに。耳を澄ませば、それがいつでも聞こえるのに。
「逆子(さかご)」のお話
今日はあるお母さんと話をしていて「逆子(さかご)」の話が出たので、それをしましょう。胎内で頭を下に倒立していない胎児を「逆子」と言いますよね。なぜだと思いますか? 分娩の時に難産するから「逆子」と言うんだろう。多くの人はそう思っておられるかもしれませんね。その意味もあるでしょうが、本当は違うんですよ。

それにね、変だとは思いませんか? ふつう人は足を下にして立っているのが正常です。頭を下にして立つのは「逆立ち」と言います。ところが胎児は逆なのです。逆立ちしている方が正常なんですからね。不思議ですよね。

「逆子」の反対は何だと思いますか? 「眞子(まこ)」です。でも「眞子」は、今では魚卵をそう呼ぶくらいで、人間の胎児を「眞子」とは呼びませんね。でも女の子の名前にはよく付けられています。秋篠宮文仁親王と紀子妃のご長女は、眞子内親王です。

この「眞」は、音読みでは「シン」、訓読みでは「ま」または「まこと」です。「シン」は神に通じ、「ま」は魔に通じ、「まこと」はこれが本当という意味です。また「眞」の字は、「ヒ(人)」の下に「首」を逆さまにしてくっ付けたもので、逆という意味合いを持っています。だから、顚倒の「顚」の字の偏は「眞」になっています。

これらのことから、「眞」は、「逆さまになっている本当」という意味なのです。三角形を、上下に向かい合わせにして「⧖」のように書いてみてください。下が正三角形、上が逆三角形です。下は底辺を地に着けて立っている「正」の世界で、「この世」を意味します。逆三角形は天を上にしており、これが「あの世」であり「眞」の世界を示しています。

プラトンは『饗宴』の中で、「この世」は幻だと説きました。霊界を知らない人からしますと、この意味がさっぱり解らず、たぶん比喩的に何かを語っているのだろうと考えて、様々な解釈を試みようとします。が、プラトンは文字通りのことを言っただけなのです。「この世」は幻で、「あの世」の方が「眞(まこと)」なのだと。「この世」とは反対側にある世界、逆さまにある世界の方が実は本当なんだよ、とプラトンは言ったのです。

でも人々は五感の知覚にすっかり惑わされていて、幻に過ぎない物質世界を本当だと信じ込んでいる。このような時に「真理(まことの理法)」に出会うと、それがあまりにも常識とは掛け離れているので、心底ビックリしてしまう。この時の叫びが「まさか!(真逆)」なのです。自分の考えとは真逆だということです。

そして、この「まさか!」という気づきが起きた瞬間には、天からインスピレーションが下りているわけで、そこでこれを「真理」が天から降って来たという意味で、「真逆様」と言って敬ったのです。これが「まっさかさま」の語源です。

さて、胎児の話に戻ります。新生児は「真逆様」に落ちてくるのです。今は寝転んでお産をしますが、昔から「産み落とす」と言って、本来は座産が好ましく、重力を利用するので、「取り上げる」よりもずっと理に適っているのです。(韓国宮廷ドラマでは、いつも座産でしたよ)

産み落とされた新生児は、産声を上げることによって呼吸を開始します。この時に初めてプラーナ(気、根源的生命力=Vital Life Force)が入り、「魂」は、その肉体を自己のものとして使い始めるのです。

それ以前の胎内に居る間は「魂」は出たり入ったりしていて、まだ「あの世」に暮らしている。そしてお母さんになる人を見守って応援しているのです。ですから、「眞」の字で表されたように、頭を下にした逆さまの状態の方が正常だというわけですね。自然の仕組みは、このように素晴らしいシステムになっているのです。

この話、「まさか!」と思っていただけましたでしょうか?
『井浦新 アジアハイウェイを行く』を観て
BSプレミアムの『井浦新 アジアハイウェイを行く』の第1回目を観ました。トレンドには疎いので「アジアハイウェイ(Asian Highway Network)」というものがあることを知りませんでした。アジア32カ国をまたぎ、現代のシルクロードを目指して計画された全長14万kmにわたる高速道路網のことを言うのだそうです。

私はとても興味深く拝見しましたが、これが面白くないんですよ。その面白くなさが、とてもいいと思いました。普通の紀行ドキュメンタリーは、テーマを決めて風景を切り取っていくでしょう。「食」だとか「ふれあい」とか「歴史建造物」とか。それがないんです。「アジアハイウェイ」を旅するというだけの主旨だから、途中で出会うものが何でも入って来ちゃう。

でもそれはある意味、予定調和を考えないというか、落とし所を決めないというスタイルになっていて、「ちょっといい話」とか「感動」や「興奮」に辟易していた身としては、とても新鮮に感じました。それに映像がブルー基調で寒々しいのです。カラッと抜けた画がない。それが狙いなのか、本当にそういう空気の色なのかは分かりません。だから万人ウケはしないでしょうねぇ。

井浦新さんのことはあまり知りませんが、『日曜美術館』のMCをされていて、ステキな人だなぁと思っていました。今どき珍しい骨董品の匂いのする人です。まるで佐田啓二さん(中井貴一さんのお父さんね)の映画を観ているよう。だから『日曜美術館』のMC役はピッタリ。喋りが下手とかそんなことはどうでもいいんです。骨董品の匂いがするというだけで彼には他にない価値がある。

朴訥な感じは、自分の言葉を一生懸命探しているから。そこに技術を持ち込まないのは、役者としてはNGかも知れないけれど、人間としては真摯だと思います。その彼が、トルコ、グルジア、アゼルバイジャンの3カ国の旅を終えて、最後に「なんか疲れたんですよね」と漏らすのですが、その感じが、私には解るような気がしました。

これからはアジアの時代だと言われています。それは、AIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立を見ても解る通り、もっぱら経済成長を期待されてのことです。番組には、その期待を先取りした都市開発の風景と、各地域固有の民族文化が、並存して描かれています。ソ連邦時代に封殺されていた民族文化を復活しようとする人たちがいる一方で、経済発展の波が容赦なく押し寄せてくる。

経済発展の指標は結局「お金」ですから、どこの都市も、みんな顔が同じになっていく。高層ビルが立ち並び、金融センターが造られ、メインストリートには欧米の高級ブランド店が居並ぶ。そのために、古い街並みは壊され、住民は追い立てられ、それまでの暮らしを失う。いったい誰のための経済発展かということです。井浦新さんはそこに「疲れ」を感じたんじゃないのかな。

抗おうとしても抗えない時代の流れ。でもそれを考え、演出しているのは、人間なんですよね。一握りの。

第2回目は5月9日(土)午後9時から
この他に、短縮版の番組もあるようですから、よかったら観てください。
グルジアやアゼルバイジャンが紹介されることはめったにないですから、民族文化に触れるのは興味深いです。