by Rainbow School
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雪景色
東京に雪が降りました。そんなに多くはありません。せいぜいが5センチ程度です。雪が降ると、私がいつもイヤだなぁと思うのは、近所の人が早朝からすぐに雪かきを始めること。私はズボラで放ったらかしですから、うちだけが取り残された感じになってしまい非常に目立つんです。

私は雪国出身。田舎の人は5センチ積もったからといって、雪かきなどしませんよ。ましてや東京です。二三日もすればすぐに消えてしまいます。スッテンコロリンとこけるのを未然に防ぎたいのか、そうするものだというルールでもあるのかどうか分からないのですが、東京の人間はすぐに雪をかく。

東京で雪景色なんてめったにないし、普段とは違った風景を見ると、心が刺激されるんですけどねぇ。何か、雪=厄介ものという風にしか、東京では見られていませんね。そんなことを言ったら、雪国の人の厄介さは比ではありません。今シーズンは10年ぶりの大雪で道路の脇が2メートルにもなっています。

外に出ると、空き地で子どもが雪合戦をしていました。その横を、中型犬が大喜びで雪の中を跳ね回っています。大人も、少しくらい楽しんだらいいのにと思いました。
マスコミ報道をどう読むか?
新聞、テレビのニュースを全く観なくなってから一年ほど経ちます。急にそうしたわけではなくて徐々にそうなって行きました。先ず8年前に新聞の購読を止めました。次に雑誌を買わなくなりました。その次に民放テレビを一切観なくなりました。そして3年前から国内ニュースを観るのをやめ、去年からはとうとう海外ニュースも観なくなりました。

今や全くの世間音痴です。しかしこう考えたのです。子どもたちが幸せそうなのは一体なぜだろうか? そもそもテレビニュースなどに関心がないし、気にしないからではないかと。だからこそ「今ここ」をただ生きられるのだと。そこでこれを見習って、実験してみることにしたわけです。

そして実際にやってみて、心境が一変しました。本当に子どものような好奇心の中だけに生きることができるようになったのです。もっと早く気づくべきでした。

でもそのように情報遮断して生きていても、よその家に行ったり食堂に入ったりした時にテレビが付けっ放しになっていたり、銀行やホテルのロビーに置いてある新聞が眼に入ったりすることがあります。人と会えば話題に出ることもあるし、メールでニュースを知らせてくれる人もいる。

というわけで、世の中の動きが多少は漏れ伝わって来るのですが、マスコミ報道をそのまますっかり信じている人だらけでびっくりします。戦時中の大本営発表を経験した人はさすがに少なくなっているでしょうが、福島第一原発の報道がデタラメだったことを、早くもみな忘れてしまったのでしょうか?

マスコミが流すニュースは、基本的に権力者の道具です。昔からそうであったし今も引き続きそうです。

東西冷戦時代の報道は、同盟国のアメリカはよい国、共産主義のソ連は悪い国というレッテル貼りのもとに行われていて、私もそれにすっかり洗脳されていました。その洗脳が解けたのは、湾岸戦争の裏を知り、第二次世界対戦以降の歴史を学び直してからです。しかし日本の報道パターンは今も変わりがありません。

中東情勢にしても、この裏を本当に理解するためには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、各宗教が成立した過程や救済概念の違い、国家と宗教の位置付けの違い、アラブの王族の支配の問題、部族対立の問題、イスラム教内の派閥争い、石油利権の問題、第一次世界大戦中の「サイクス・ピコ協定」のこと、シオニズムのこと、パレスチナ難民問題、ハルマゲドンのこと、イスラエルとイランの核問題、アメリカの軍産複合体のこと、イスラエルの情報機関のこと等々、いろんなことが複雑に絡み合っていて、その概要を知っていなければ、とても理解できるものではないのです。

それを「イスラム国=テロ集団」といった単純な図式で伝えようとしていることには、そのように演出したい、何者かの意図があることに気づくべきです。第一、「イスラム国」なるものが本当にあるかどうかすら定かではないのです。マスコミが二元対立を煽った時には、必ず裏があると見るべきで、それに疑いもなく乗っかってはならないのです。

それと、マスコミがスキャンダルを報道した時には、その背後で、国民に隠しておきたい重大なことが秘かに進行していると思ってください。それらは目くらましなのです。

考えてもみてください。たとえば、去年巷を賑わせた論文捏造事件ですが、あなたの生活と一体何の関係があるでしょうか? 過ぎてしまえば、どうでもいいことだったとは思いませんか。そのようなことに心を奪われていた時間というものは、全くのムダです。

島国だからでしょうか。日本人は、世界の動向をあまりにも知らないし、報道にうぶ過ぎます。しかし、疑ってばかりいては顔つきが悪くなってしまいますので、ニュースは見ないに限るのです。今はインターネットがあるのですから、調べたいことだけを、ご自分の判断で追ってみてはいかがでしょうか。
人は成功者と為らなければいけないのか? (3)
ここからは、話がもう一段飛躍します。今までのところでも受け入れられなかった人にとっては、さらに奇妙な話と映るかもしれません。この世での「成功・不成功」といったことや、それに伴って得た名声や地位などは、魂の成長から見た場合に、直接的な関係はないのです。

それらは生まれ変わりに伴って演じる配役の一つ、程度の意味合いしかありません。しかしそうした地位や名声を獲得するためには、それなりの努力が必要です。開発した能力は転生しても引き継がれるので、その能力を活かした職業やポジションに就く可能性が大いにあります。

配役というのはこういうことです。シェイクスピアの劇を考えてみましょう。『ハムレット』『リア王』『マクベス』といった物語には、王様の他に、その家族や重臣や貴族や医者や兵士や門番や道化に至るまで、たくさんの人物が登場します。

観客から見た主役は、たとえば『リア王』ならば王様ということになりますが、門番の役を与えられた役者にとってはあくまで自分が主役、その劇は自分の視線から見た世界としてしか認識できないのです。このようにして、各人が輪廻転生時の配役を、自分が主役として生きているのです。

さて王様の配役を得た人は、一国を動かしているわけですから何百万人もの人々の頂点に立っているはずです。ところがその王様とて、互いの魂に関係しているような側近の人たちはごく限られています。それこそ、その劇に登場する人物ほどしかいないのです。

輪廻転生は、これら縁のある限られた魂の中で配役を変えて行われます。夫婦だった者が次の世では性別を変えて再び夫婦になったり、次には親子関係になったり、兄弟姉妹になったり。ポジションも、大富豪だった者が次には乞食になったりもするわけです。これらは全て、その体験を通して何ものかを学ぶためにキャスティングされます。
このキャスティングを決定するものは、魂同士の縁と、いわゆるカルマの働きによります。今世誕生の意味は、前世までに果たし得なかったこのカルマを解き、宇宙の理法に則った生き方をするためにあるのです。お解りでしょうか? 自分をめぐる諸々の環境は、自分でセッティングしてきた舞台セットに過ぎないのです。

運よく地位や名誉や財産を得たとしましょう。それは、そのポジションでしか味わえない「学びを得よ」ということなのです。そしてこの「学び」の裏には、普遍的な宇宙の法則が、冷徹かつ平等に存在しているのです。

人もうらやむような大富豪でありながら、家族が骨肉の争いを繰り広げているようであったとすれば、その魂は何も学ばなかったことになってしまいます。そして次の世では、積んだカルマに応じた学習環境を自分でセッティングして、再び転生して来るのです。

「成功」を目指したければ目指しても結構です。しかし、その奴隷になってはならないのです。たとえどのような地位や環境にあったとしても、そこで掴める「幸福」はある。そしてそれは、極めてシンプルな理法に則っているのです。一切の我欲を捨てて、人々や自然に役立つことをしながら、日々を楽しく生きること。ただそれだけなのです。(完)
人は成功者と為らなければいけないのか? (2)
「成功」と「幸福」とは違う。じゃあ「幸福」とはいったい何なのか? それは、自分の持ち味が活かされて、周囲の人々や自然のために役立っていると思えた瞬間です。この感覚を持続して生きていけるようになれば、人は「幸福」の中に身を置くことができるのです。

なぜなら、他人に為すことは自分に為したことと同じであり、それがポジティブな調和の中に確立されるからです。別の見方をすれば、そのような時には、意識せずとも「個我」を滅した状態に至っているのです。その意味で、「個我」を満足させたいという「成功」とは真逆にあると言えるでしょう。

ところが、「成功者」イメージに束縛されてしまった人間にはそれが分からない。「成功」することがイコール「幸福」だと思い込んでいます。しかし運よく望むものを手に入れたとしても、「個我」から発した満足というものは長続きせずに、しばらくするともっと上が欲しくなる。このようにして際限がないのです。

企業が、つねに売上増加を目指そうとするのはそれです。国が毎年、経済成長の目標を掲げるのもそれです。その結果どうなっているでしょうか? 成長のための奴隷となったサラリーマンは吾を失うほど働かされ、国は1000兆円を超える膨大な借金を累積し、貧富の格差が広がっているのです。

このような間違いはみな、人々が自分の外側にあるものを手に入れることが「幸福」だと信じ込んでいることから生じています。社会的な「成功者」を礼賛する考え方や仕組みによって、実際にそれを実現した一部の人たちが支配層に着き、多くの人を取り込んで、巧妙な隷属状態を創り上げているのです。

大衆はこのような裏の仕組みを知りません。 マサカ!と思っています。しかし、歴史はつねにそうあったし、今でもそうなのです。大衆支配の方法が変わったのです。昔は武力で押さえつけようとしました。しかしこの方法は不満が起きやすく革命を誘発します。それよりは、マスコミを使った洗脳と愚民化の方が手っ取り早いことに気がついたのです。

さて、このような仕組みにあることを知ったとしても、それと闘ってはなりません。闘うことは土俵を同じにすることであり、相手の力を認めることになってしまいます。それで得られる益はなにもありません。神輿は担がない。無視するのが一番なのです。それが、洗脳から脱出する唯一の方法です。

冒頭に書いた「幸福」の定義を思い出してください。一人ひとりが、それを実現させればよいのです。たったそれだけなのです。そうやって「幸福」な人が一人二人と増え、それが伝染していけば、結果として世の中に「平和」と「幸福」が実現されることになるのです。(つづく)
人は成功者と為らなければいけないのか? (1)
功(いさお)を成すで「成功」。「功」は音でコウ、これは公のことで、おおやけに力をつくすことができたら「成功」です。「功成り名を遂げる」は、成功して名声を得ること。さて、人はみな成功者とならなければいけないのでしょうか? 私も、ずいぶん長い間、その思いに囚われていた時期があります。

足掛け13年ほど、ある宗教団体の末端に席を置いていた時期があったのですが、毎月の例祭というものに出席すると、そこで語られる法話の出だしが、きまって「人は、誰しも成功しなくてはなりません」だったのです。それは、後に続く法話の内容に対して強いモチベーションを抱かせる効果がありました。

しかしそうやって、いくらありがたい法話を聞いても、いざ現実の自分を見つめると「成功者」にはほど遠く、家路に着くころには、失敗者、敗残者、無能力者の烙印を押された気がだんだんしてきて、虚無感に打ちひしがれる毎日だったのです。

今はこうした言葉のカラクリが解ったのですが、人々はみな、親から、学校から、社会から、「人は成功しなければならない」というメッセージを絶えずシャワーを浴びるようにして育てられてきたので、そこに何の疑問も抱かずに、そうあらねばならないと思い込んでいる人は非常に多いのです。

しかし、社会的な「成功」と「幸福」とは、必ずしも一致しないということを改めて考えてみる必要があります。世間的に「成功者」と言われる人であっても、幸福そうに見えない人は多いですし、一度大成功を収めても淋しい晩年を送るという人も結構いるのです。

そもそも「成功」を、他者との比較において捉えているのであれば、一人の「成功者」を生むためには、その周囲にたくさんの「非成功者」がいなければいけないことになってしまいます。これは「人は誰しも成功しなければならない」という言葉と明らかに矛盾します。

さらに、10人の「非成功者」を従える人よりも、100人の「非成功者」を従える人の方が、より「成功者」としてのステータスが高いとなりますと、成功者の頂点に立つような人は、誰よりも多くの「非成功者」を生み出した人ということになります。それは結局のところ、支配と被支配との関係で構成されたピラミッド構造なのです。

つまり、ひと握りの「成功者」を生み出すためには、数多くの「非成功者」が必要なのだということ。「人は、誰しも成功しなくてはなりません」という言葉は、現実にはその実現は不可能なのに、ピラミッド構造を維持するために必要な、多くの隷属者を引き込むための、いわば騙しのテクニックとなっているのです。

その結果どういうことが起きているでしょうか? 数の上で圧倒的に多い「非成功者」の中には、かつての私がそうであったように、自分を無能、敗残者、落伍者だとすっかり思い込み、自分の可能性に蓋をしてしまう人も少なくありません。ことに極端な格差社会となった現代では、その点に眼が向けられることは殆どありません。

そしてマスコミは、相変わらず「成功者」のイメージばかりを強調し送り続けているのです。マスコミとはそういうものだからです。しかしその陰で、「非成功者」が量産されていることに気づいていただきたいのです。

何も自分から進んで、お神輿担ぎのその他大勢役になる必要はないのですよ。お神輿の上に乗れと言っているのではありません。それでは従来と同じです。祭りそのものに参加しなくてもよいと言っているのです。「成功者」イメージに束縛されて、自分を限定する愚を犯してはなりません。

「成功」と「幸福」とは違うのです。「幸福」は自由の中にしかないのです。だったら自己を解放して、直接「幸福」を掴みに行けばいいではありませんか。(つづく)
拾ったダイヤはあなたのもの
おかげさまでこのブログも、毎日200人前後の方が読んで下さっているようです。宣伝も何もしていませんし、どうやって辿り疲れた、あ間違えた、辿り着かれたのかは分かりませんが、励みになっているので、とても感謝しているんですよ。

私の役割は「真理の法則」を伝えることです。古代よりこうした役割を持った人はたくさん居て、その中には歴史的に著名な人も全くの無名人もいます。それぞれがみな、自分の持ち味にあった方法で「真理の法則」を伝えようとしているのです。

ところが残念ながら、あまり言葉(logos)が届かない。「真理の法則」そのものは単純なのですが、この世の常識とはかけ離れているために、みな関心を示さないのです。そして、スイーツを混ぜ込んだニセモノの「教え」に群がる愚をずっと繰り返して来たのです。

前にも書きましたように、何が本物かというのは「普遍性」を持っているかどうかを判断すれば解ります。「真理」は永遠ですから、また永遠でないものは「真理」とは言えないわけですから、時代を超えて生き続けるし、人や場所を限定しないものなのです。

その基準で見れば、様々な場所で聞くいわゆる「教え」の類が、ニセモノだらけであることが容易に理解できるのではないでしょうか。権威ある人々が、古代から伝わる智恵を解説したものを見ても、誤解や曲解が多くて、真理のエッセンスを汲んだものは非常に少ないのです。

それは、この世の常識から見て有益なものをそこに読み取ろうとするからです。その意味では、オーディエンスのレベルに合っていると言えるわけですが、「真理」を汲むためには、メガネそのものを掛け替えなければ本当のところは解らないわけです。反対側に入って、反対側から見た時に、初めてスーッと本物が体に入ってくるのです。

ですから、メガネを掛け替えた人には本物が解る。どんなことからも「真理」のエッセンスを拾い上げることができるのです。日常の暮らしから、自然から、誰かの一言から、書物から、映画から、インターネットから、そしてこの「気づきの啓示板」からも。

それを発見するのはあなたです。多くの人がイミテーションをダイヤだと思い込んでいるのに、既に「気づいたあなた」は、本物のダイヤをちゃんと見つけることができるのです。その時に、本物を説いた人や書物や場所を敬ってはなりません。それらは単なる役割です。敬うべきは「真理」そのものです。

見つける眼を持っていない人には、道ばたに落ちているダイヤモンドを拾えないのです。みんなガラスに見えてしまうから。ですから拾えた人というのは、あなたにその眼が備わったということです。つまり、自分の内側に秘められていた可能性に、いま自分が気がついたということなのです。それは、元々あなたのダイヤだったのです。

だから、堂々と言っていいのです。「これは私のダイヤモンドなのだ」と。それは傲慢でもなんでもないのです。そのようにして生きれば、身の周りにいかに多くの輝きが落ちているかにハッと気づかれるでしょう。そうやってあなたの宝石箱をいっぱいにしてください。世を照らす輝く光で。
「資格」よりも「参画」
私は、運転免許証以外に「資格」らしきものを何ら持っていません。世の中を生き抜くには、「資格」が何より大切だと言う人がいて、実際、血眼になって「資格」を追い求めている人たちがおられます。確かに、「資格」を所持していなければ、法律的に営業できない仕事というものがあることは事実です。

しかし法的に規制されているわけでもない分野にも、様々な「資格」を標榜する団体があって、それぞれがみな勝手に「資格」を拵え、高い金を取って、一定の基準を超えたらお墨付きを与え、さらに上に上がれるというピラミッド構造を演出しています。私が言うところの、いわゆる「家元制度」です。

これらのピラミッド構造は、単に権威付けと集金の仕組みに過ぎないのですが、金を払う側は、投資した分以上のものが返って来るに違いない、また返ってきて貰わないと困ると考えていますから、その「資格」に、大変な価値があると思い込むようになるのです。

そして、その「資格」を所持している自分は、持たない人よりも上位に位置していると自己満足し、また周囲も「先生、先生」と言って持ち上げ、同じく、そのピラミッド構造の価値観の中に、進んで入っていくのです。こうして、そのグループが成り立っているのです。

私はいつも「『資格』なんていらない、『参画』で充分」と、ダジャレで言っています。自分の意思で、考えながら、独立独歩で行動することが何より重要であって、お墨付きなど、「ああ、いい子ちゃんでした」と言ってもらう、ご褒美のアメ玉に過ぎないのです。

「資格」のない人間は「失格」なのか? とんでもない。「資格」を持つ者は模倣者に過ぎないのです。ニセモノを知らないがゆえに、本物を見分けられないのです。「いい子ちゃん」になって学び、模倣を続け、学べば学ぶほど、結局、自分を失っているということに、まるで気づいていないのです。
楽しさの伝染
先日お会いしたご婦人から「学級崩壊」のことを聞きました。その方には息子さんがおられて、今は成人されているのですが、小学生だった時に「学級崩壊」が起こったというのです。担任の先生は可哀想に鬱病となり、代わりに校長がクラスを仕切って、ようやく凌いだとのことでした。

実は私にも同じような経験があるのです。春の修学旅行を集団でボイコットして、隣のクラスの担任が行きの列車内でパニック症状を起こし、そのまま学校に来られなくなり退職してしまったのです。私もボイコット側に入っていたので、後でそれを聞いて、申し訳ないことをしたなと思いました。

起きたことは可哀想なことなのですが、今の頭で考えますと、どちらの先生もきっと「どう管理したらいいのか」ということに、神経を使われていたのだと思います。

私たちがやった集団ボイコットは、それ以前からずっと続いていた「管理」に猛反発し、修学旅行という絶好の機会に乗じて行ったものでした。当日、集合時間になっても学生が現れなければ、学校に対して強いインパクトを与えられるだろうという悪知恵を働かせたわけです。

結果的に、さらに締め付けを強くしなければならないと考える学校と、学生の行動との板挟みに遭って、その担任教師が犠牲となったわけです。しかしそうなるには下地があって、その年は70年安保に当たり、全国で学生運動が盛り上がっていたのでした。

こうした経験から解ることは、疑心暗鬼で人に接すれば、相手も疑心暗鬼で返して来るということです。今は「波動の法則」を理解しているので、それが当然のことであり、確実だと言えるのですが、若い時分にはそんなことはもちろん解っていませんでした。

こと教師に限らず、集団の長になる者が、「みんなをきちんと管理しなくちゃならないんだ」「ちゃんと評価を下さなければならないんだ」「厳しく接して欠点を指摘してあげなくちゃならないんだ」などと思い込んでいますと、顔は険しくなり、その波動が周囲にたちまち伝染します。

そしてそのエコーが自分に跳ね返ってきて、「まだ管理が充分できていない」「正しい評価を下し切れていない」「厳しさが足りない」と今度は自分を責めるようになって、ますますドツボに陥ってしまうのです。このようなことで、自分を追い詰める理由は、いささかもありません。

要は、楽しくやればよいのです。毎日苦しい顔をしている上司を見て、部下は果たして「そうなりたい」と思うでしょうか? まるで逆効果だということがお解りでしょう。管理者は楽しんではいけない、などということはありません。

自分が楽しくやれば、その楽しさが周囲に伝染し、それがエコーで返ってきて、さらに楽しくなるのです。そのような関係を目指しましょう。
科学と科学技術
20世紀後半から、「科学」は飛躍的に発達したと言われています。確かに、自分たちの周囲を眺めれば、交通や機械や通信を初めとしてあらゆる分野が激変しました。特にコンピュータの発達と続くインターネットの登場、遺伝子工学の分野は、急速な発展を見せています。

それで人類は、何を手に入れたのでしょうか? そしてこれらは、本当に「科学」の発達だと言えるのでしょうか?

「科学(Science)」は、自然界に表れた不思議現象の裏に潜む、法則性を見つけ出そうとする学問です。ですからそれを追求していくと、必ずや哲学や形而上学に接近して行きます。そしてさらには、物質を超えた世界へと踏み込まざるを得なくなるのです。

例えば太陽系の惑星の運行を考えてみましょう。コペルニクスが登場する以前は天球が地上の周りを回っていると人々は考えていたわけですが、コペルニクスは、そうではなくて地球が太陽の周りを回っていると言った。そして続くケプラーが、それが楕円軌道であることを発見しました。

今日では、その法則性を疑う人はもはやおりません。惑星軌道も非常に正確に計算され、だからこそ宇宙探査ロケットなどを打ち上げることができるのです。しかしその法則性が解ったとしても、なぜそうなのか、質量を持った物になぜ重力が発生するのか、そもそも宇宙は誰が作ったのか、などは全く解らないのです。

今、私たちの生活の周囲で起きている大変化は「科学」が発達しているのではなくて、実は「科学」を応用した「技術(Technology)」が発達(というか暴走)しているに過ぎないのです。しかしそれを錯覚して、みんな「科学」の発達と言っているわけですね。ところが実は逆であって、本来の「科学」の視点は、むしろ失われて行っている、というのが実情ではないでしょうか。

もっと言えば、自然界の不思議現象に対する畏怖の念や謙虚さが失くなってしまったのです。そして人間以外の自然は、人間のために利用して当然とする考え方が、急速にはびこってしまいました。「宇宙開発」といった呼称や、遺伝子組み換え技術は、人間が持つ暴力性を端的に表しています。

このようなものは「科学」ではないのです。「科学」の名を借りた暴力なのです。自然には、自己調整能力があることは、みなさんお解りでしょう。放っておけば、治るところに治るのが自然です。ゆえに「科学」とは、この調和の仕組みを学び、生活に応用することが本来の目的なのです。

ところが人間は、自分自身が自然の一部であり、自然に依存しなければ決して生きていけないにもかかわらず、故意に調和を破壊し、そこから収奪することばかり考えている。そしてこれを、大勢の人が「科学」の発達だと言って喜んでいる始末なのです。

なんたる阿呆でしょうか? 人間が大自然に立ち向かえる道理がありません。宇宙に立ち向かえる道理がありません。故意に振り子を大きく振ったら、その反作用がもたらされるのは必定です。その自己調整作用が自然の働きなのですから。
人間は何を食べるのがいちばん合っているのか?(2)消化器官と感覚器から
次に、消化器官を観察してみましょう。肉食動物の場合は、腸の長さが消化器全体の長さ(口から肛門まで)の3〜5倍で、胃の形状はほぼ球形をしています。草食動物の場合は、これが20〜28倍もあり、胃は大きくて複雑な構造をしています。よく知られているように、牛には胃袋が4つもあります。

雑食動物の腸の長さはこの中間で、草食の割合が多くなるほど腸の長さも長くなる傾向があります。一方、果食動物の場合は、腸の長さは10〜12倍で、胃は肉食動物よりもやや大きく、しかも腸との間に、第二の胃である十二指腸を持っています。

さて人間ですが、腸の長さは6〜10倍です。(通常3〜5倍と言われているのは、身長比ですので、口から肛門までの比でいうとこれくらい)そして十二指腸を持っていることから、やはり果食動物と考えるのが適切なのです。

通常、こうした分類を考える際には、肉食、草食、雑食の三分類で考えられていて、人間は雑食動物だとする説がほとんどです。しかし人間に近い類人猿は果食動物であり、昆虫は食べますが、ハンティングまでして肉食をすることはありません。

さてもう一つの視点、各動物の感覚器官が、食物に対して示す本能的反応について考察してみましょう。肉食動物は、血の匂いをいやがりません。それはむしろ喜びであって、獲物を見つけると目がらんらんと輝き、対象に釘付けとなって襲いかかるのです。

ところが草食動物にとっては、血の匂いはおぞましさを喚起するものであり、血のついた草は食べないのです。彼らにとってのご馳走は、若々しい水気のある草です。同様に、果食動物にとっては、フルーツの甘い匂いやナッツの食感が喜びなのです。

さて人間はどうでしょう。血生臭い匂いが大好きで、食欲をそそるという人を聞いたことがありません。血は見るのもいやという人が多いでしょう。このように、人間の感覚器官は、本来肉食を喜ぶようにはできていません。

だからこそ、香辛料で臭みを消したり、加熱したり、調味料で味を加えたりして誤魔化さないことには、肉を食べられないのです。そして、このような食文化が発達したことによって、調理された肉をだんだんと好むようになり、しだいに雑食化していったのです。

ですから、元来が雑食だったのではないのです。以上のことを考察すると、人間は肉食を控えて、果食中心の食事(穀物、豆、果物、根菜)をしていった方が理に適っていると言えそうです。