by Rainbow School
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日々をクリエイティブに生きる
山を降りて東京に戻るために市営のバスに乗りました。このバスは平日だけの運行で、しかも前日までに予約をしないと来てくれません。オンデマンド制で料金は200円。早朝7時台のバスに乗ると、朝もやの中をクネクネと集落を巡ってバスが走ります。

乗っているのは私ひとり。目的地まではもっと短距離で行けるのですが、運行ルートが決まっているので、三倍くらいの時間を掛けて集落を回っていくのです。私のためだけのちょっとした観光です。高台から見下ろした枯れた棚田に、朝日が当たってそれはそれはきれいです。

運転手さんと二人きりなので、68歳になるという話好きの運転手さんが「ここにも前は家があったんだ」とか「ここはいま婆ちゃんひとり。子供はどの家も帰ってこないから、動けなくなったらみんな施設行きだね」とか、ずーっと村の観光ガイド?をしてくれるんです。

その中で、家の補修の話になりました。私が壁の漆喰を自分で塗ったと言うと、「ほうけ、それが本当は一番いいんだが、今はみんな化粧合板打ち付けて終わりだわね。だけどありゃダメなんだ。冬になると暖房するだろ。すると湿気を取らないもんだから壁が汗かくんだわ」と、運転手さんが言う。

それは仕方ないとして、どうしてそうするのかを聞いてちょっと驚きました。村にはもう若い人が居ないしこの先帰って来ることもない。だとしたら、どうせ修理しても金が掛かるだけだし、間に合わせでいいという考えだというのです。そして、あとは朽ちるのを待つだけだと。

確かに、それが合理的な発想というものかも知れません。そして多くの人がそうするのかも知れません。しかしそれでは楽しくないと思うのです。齢を取ったら取ったなりの楽しみが人生にはあるものだし、もっと楽しんで生きればいいのになぁと思うのです。

「楽しみ」とは、クリエイティブに生きることであって、それはお金をかけなくてもできるし、教養を深め、心を豊かにし、成長させてくれるものだと思います。私の母親は、そのようにして死ぬまでクリエイティブに生きていました。

それを、「この先、子どもなんて当てにできない」「何かやっても金が掛かるだけ」「やってもムダ」「動けなくなったら施設行き」と、自分をどんどん限定してしまったら、心から豊かさは消えるし、その限定した人生が、望みどおり?に実現してしまいます。

問題は、結果じゃないんです。結果を考えていたら、そこまでの道のりとのギャップに、たちまち足がすくんでしまいます。そうじゃなくて、歩き続けていることが重要だし、それを「楽しみ」にしていくことが、日々をクリエイティブに生きるということなんです。

be よりも being

お年寄りだけでなく、最近の若い人たちも、どうして他人がお手盛りしてくれた「楽しみ」にみなそうまで従順なのかが、私には解らないです。クリエイティブじゃない人間なんていません。そして人は、クリエイティブに生きなければ、決して充足しない生きものなのです。

自分を限定せずに、自分の中に眠るクリエイティビティをもっと表に出せば、自分を楽しく生かして、かつ社会に貢献できるようになります。お手盛りの「楽しみ」や「支援」をやんわり拒否して、従わない勇気を持ちましょう。クリエイティビティはすでにあなたの中にあるんですから。
ある居酒屋大将の財産
磯子でセミナーをした後は、参加者有志と「いつもの居酒屋」へ行くのが恒例となっています。最初のうちは、いいお店を求めてあちこちうろついたのですが、その店に決めてからは浮気をしなくなりました。

お世辞にもきれいとは言えない。のれんは出しているんだかいないんだかよく判らない。通りに何軒か飲み処が並んでいるのですが、間違いなく、いちばんみすぼらしい店でしょう。一見(いちげん)さんには、入るのに勇気が要ります。

このお店が気に入ったのは、大将のぶっきらぼうと、メニューに並んだ珍しい魚です。厨房に立つ大将はポロシャツ姿だったので、あんまりやる気も感じられず、脱サラで趣味っぽくやっているのかなぁと最初は思いました。

ところが、出て来たお通しが、八寸に見立てた平皿に三点盛りがしてあったのをみて「おお!」と思いました。気が利いているのです。「おぬし、出来るな」という感じです。それからはいつもこの店になり、大将のおこりんぼのキャラクターもだんだんと愛すべきものに変わっていきました。

その大将が、三ヵ月くらい前に亡くなったのです。体調を崩して入院されてから、あっという間でした。あとには、看病とお葬式のバタバタで疲れたおかみさんが、憔悴しきった顔で店に立っていました。

聞くと「借金が残っていることが判って、お店をやめられないのよ」とのこと。メニューは半減し、ウリだった魚の刺身は二種類くらいになっていました。とりあえず、焼き魚、煮魚、揚げ魚でしのぐといった感じです。

これが‥‥ハッキリ言って不味い。焼き魚も揚げた魚も、みんな火を通し過ぎで、すっかり脂が抜けてしまっている。他のメンバーは気にせずに食べているけど、酒呑みオヤジとしては辛い。よっぽど「おかみさん、火はこの七分(ななぶ)くらいでいいよ」と言ってあげた方が親切かと悩んだけれど、結局言わないで帰りました。

そして今月。驚きました。チコ鯛をきれいに三枚に下ろして刺身を作っている。私なんかより遥かに上手です。焼き過ぎ、揚げ過ぎは相変わらずだけど、今の八分(はちぶ)でいいよ、というところまで進歩しているんです。きっと随分努力したんだろうなぁ。

表情も明るくなり、お客も結構いる。女性客も意外と多い。「ママ、聞いたわー、大変だったわねぇ」なんて言ってる。このお客たちが、大将が残した財産なんだね。大将が亡くなっても、メニューが半分になっても、来てくれる客がいるというのは凄いことだ。

店は客によって作られるというけれど本当だね。きっと来月は、もっと進歩していることでしょう。

*磯子のセミナーは今は4人だけです。ご興味のある方はどうぞいらしてください。
来月のご案内はこちら▶︎
仕事を「属人的」なものに取り戻しましょう
浄化槽の設置工事が2日遅れで始まりました。工事をして下さる業者さんが地震の被害に遭って、その片付けのため延期となったのでした。

職人さんのユンボを操る技にしばらく見とれていました。迷うことなく、地面に描いた線から3センチと狂わないところにショベルの先をピタッと当て、どんどん土を搔き出していきます。凄いなぁ。

子どものころから職人さんの動きを見ているのが大好きでした。うちの隣には青竹を裂いて加工する職人が居て、その人が居なくなった後には、建具屋さんが入居しました。うちは母親が洋裁店をやっていて、お弟子さんが常時5、6人。女だらけでした。

ユンボを操作している人に「三次元の動きをどうやって2つのレバーで動かすんですか?」と訊いたら、即座に「あ、それ考えてたらもうダメ」と言われてしまいました。山の中に行って、とにかく半日間動かしていたら、出来るようになると言うのです。

要は、体の感覚で掴まなければダメってことですね。
職人技術はすべてそれ。だから一年や二年やっただけでは身に付かず、逆にいったん身につけてしまえば、昔は一生食うに困らなかった。

いま、そんな分野はどれだけ残されているでしょうか? なにしろ寿司までロボットが握る時代です。レストランはチンするだけで、全員がアルバイト。板前さんなんてどこにもいない。人間が、システムにこき使われているのです。

昭和歌謡の大ヒット曲に、藤島桓夫(ふじしま たけお,1927-1994)さんが歌った『月の法善寺横丁』というのがありましたが、この歌の出だしはこうでした。

♩ 包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業

つまり「技術」というものは、100パーセント「人間」に属していた(属人的だった)わけです。包丁は手に馴染んだものがいいから自分の物を持って歩くけれども、その包丁に「技術」があったわけではない。自分の身一つが、そのまま「技術」だったのです。

経営を大規模化したい経営者はこれを嫌いました。なぜなら、職人によって「技術」にバラつきが生じるし、もし職人気質(かたぎ)を振り回されたりでもしたら、コントロールが利かないからです。そこで「属人的」部分を出来るだけ排し、機械やシステムやマニュアルに置き換えていったのです。

こうして、いつしか「人間」は、機械やシステムやマニュアルにこき使われる、単なる道具にされ、いつでも取り替えが利く労働市場というものが出来上がってしまいました。これで「仕事に誇りを持て!」と言っても、無理なのではないでしょうか。

80年代以降に誕生した人たちは、「ホンモノ」が何であるかを、もうほとんど知りません。すでに身の回りにあるものすべてが「ニセモノ」で出来上がった時代に誕生し、「ニセモノ」が当たり前の中に生きてきたからです。

急須でお茶をいれることも出来ないし、出汁をひくこともできない。包丁を研ぐこともできないし、箒で床を掃くこともできない。電気釜がなければご飯を炊けないし、おむすびを作ったこともない。のれんが掛かった老舗の料理屋は怖くて入れず、どこにでもあるチェーン店の方が安心。

結局はそこに飼いならされ、廻り廻って、それが自分の個性を発揮する機会まで奪ってしまっていることに、労働者はいい加減もう気づくべきだ。ブラック企業には「ノー」と言っていいんですよ。仕事を「属人的」なものに取り戻し、手応えのあるものにして行きましょうよ。

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追伸:地面を2メートル掘ったら、硬い岩盤にぶつかってしまいました。これがあったおかげで、地震にあっても被害が無かったんですね。感謝。
地震
山にやってきました。浄化槽の工事があって、その立ち会いをするためです。22日に長野県の北部で大きな地震があったということで、その直後、何人かの方から「大丈夫か?」「被害はないか?」といったお言葉をメールや電話でいただきました。

でもその日は東京に居たし、普段ニュースを見ない生活なので、そうやって知らされるまで、地震があったことすら知りませんでした。こっちがあんまりボーッとしているので、電話をくれた人の方が焦って「心配じゃないの?」とか言うのですが、心配という気持ちは全く起きなかったのです。

地震の備えというのはあっていいと思うのですが、すでに起きたことを今さら考えたところで仕方ありません。それに東京に居るのですからどうにもならない。どうにもならないことを心配しても、心配した分だけ損というものです。心をヤキモキさせるだけで、何の得にもならない。

山の家が変わらずにデンとしている姿は、自分には見えていましたが、たとえ倒壊していたところで、「そこからまた始めりゃいいや」という感じでいました。(こちらに来て、住んでいる人に聞いたところ、震源からより遠い10キロ先では家屋が半壊したところもあったそうです)

こう言うと、災害に遭った人を冒涜するのかとお叱りを受けるかもしれないけれど、私は、自然災害は在って当たり前だと思っています。

地球だって生きていて、日々活動しているんですからね。その活動があるからこそ、作物が育ったり、木々が繁ったり、海中の営みがあったり、温泉に浸かったりできるんですから。その恵みを受けてこそ、人間も生きていけるんですから。私たちの生活は、いわば地球に完全に依存しているんです。

それなのに、恵みの方だけいただいて、自然災害はイヤだよ、というのは筋が通らない。それはちょうど、人間関係で、貰うものは貰うけど、失うのはイヤだよ、というのと同じです。ねぇ、私にいろんなものプレゼントしてちょうだい、でも怒ったらイヤよダーリン、というのと同じです。

人間は、自分の立場からばかり考えていないでしょうか? 地球の気持ちになってみれば、むしろ人間どもの方がザワザワうるさくしているのが気になることでしょう。

昔の日本人は、もっと自然と一体となって暮らしていました。だから、あちこちに神様を置いて、節度を守って暮らしていました。それが同時に、自分たちの生活を守ることでもあったのです。今はそれが見直されて、あちこちで「里山」「里海」を育む運動が行われています。

しかし、西洋的な自然観が入って来たことと、科学技術の発達によって一体感は失われ、自然は観測するもの、開発するものという、自分の外側に置く考えが広く浸透してしまったように思います。そうやって、人間は自然の観察者となってしまったのです。自分もまた自然の一部であることを忘れて。
ラーメン談義
ラーメンが好きでした。本当は今も毎日食べたいくらいなのですが、私の好きなラーメンは歴史の彼方に行ってしまいました。それで、食べられなくなっちゃった。呑み屋も、蕎麦屋も、豆腐屋も、我が愛するものたちはみんな街から消えて、つまらないチェーン店ばかりになってしまいましたねぇ。

私の家の本棚に3冊の本があります。林家木久蔵著『なるほどザ・ラーメン』(1981年)、東海林さだお編『ラーメン大好き‼︎』(1982年)、柴田書店編『東奔西走ラーメン巡り』(1984年)。3冊とも今のようなビジュアル本じゃありません。ですから出てくるお店やラーメンはみんな手書きイラスト。当時は、そんな情報しかなかったのです。

ラーメンという言い方が一般化したのは1960年代の後半からだと思います。その前は「中華そば」と言っていたし、もっと以前は「支那そば」が普通でした。今ほどスポットが当たった食べ物ではありませんでしたが、60年代の「支那そば」は庶民のご馳走で、めったに食べられない憧れの食の一つでした。

私の原点は、家から歩いて1分のところにあった光洋軒の支那そば。これがめっぽう美味かった。思い出を美化している面もあるでしょうけれど、今でも一番だと思う。何が違ったかというと、独特の香り。あの香りは、どこに行ってもない。出前を頼んで、店のおかみさんが玄関に入って来ると、途端にプーンと香りがして待ちきれなくなった。

でも、当時はみんな貧しかったので、めったに食べられるようなものではありませんでした。父が宴会で呑んだくれて帰って来ると、必ず「折り詰め」をぶら下げていたのですが、「折り詰め」の定番は鶏のモモ肉のローストで、それを食べ終わると、翌日、母親がその残った骨に煮干しを足してスープを取った。

そして、私に光洋軒まで麺を買いに行かせた。ラーメン屋さんへ、麺だけ分けて貰いに行くのです。確か一玉15円でした。そんなものでもご馳走で、だから私は、父親が呑んだくれて帰って来ると、「あ、明日またラーメンが食べられる」と嬉しかった。

東京のラーメンが今のように変節してしまったのには、大きく4つのエポックがあったと思います。その最初は、1990年代の終わりに和歌山ラーメンが入って来たこと。これがブームとなって、<ラーメンのスープは澄んでいなければならない>という常識が崩れた。

次に、ラーメンの鬼、佐野実さんがメディアに登場し、あのキャラクターが受けたこともあって、ラーメンの「情報化」が一挙に進みました。つまり、どんぶり一杯分をただ味わうというだけでなくて、麺はどこそこ産の小麦粉でかんすいがどうのこうの、細いだの太いだのちぢれてるだの、スープは何種類をブレンドしてるとか、そういうウンチクの方が重要になっていった。

そして三番目に、豚骨醤油味とつけ麺が若い人たちの間でブームとなって、先の「情報化」と合わせて、もの凄くバラエティー化が進んだ。さらに佐野実さんの影響もあって、ラーメンで起業したいという人たちも増え、そういう人たちが他店にない味を、競うようにして出していった。

そして四番目に、チェーン店化が当たり前の時代になったと思います。ことラーメンだけではなく、いま起業しようとする人たちは、最初からチェーン店化を念頭に置いて起業プランを描いている。それは、私などが知る昭和時代の経営感覚とはまるで違った発想で、業界の弱肉強食を一層強めています。

そうやって眺めてみると、ラーメンの「情報化」は、結局うまく行っていないように思います。他店にない味をいくら「情報化」して売っても、それを食べに来る客は、一度食べると、次の新しい「情報」を求めてすぐに移動してしまいますから、定着しません。だからマスコミに取りあげられた店はパッと流行って、パッと消える。

昔のラーメン店の店主は、「他店にない味」ということを第一にはしませんでした。それよりも、「食べ飽きない味」を重要視したんです。なぜなら、ラーメンは値段が高いものではなく、商圏が狭い食べ物だったからです。だから、近所に居るお得意さんに、週に何度も来て貰えるよう愛されることが何よりも重要だった。

この点、「情報化」に踊らされて失敗した人たちよりもずっと知恵があったと思います。テレビや雑誌に取り上げられたのを見て来たお客が、今度来てくれるのはいつの日か。そんな客をあてにして、一杯500円前後の日銭商売はできません。それに、特徴のあり過ぎる味は、毎日食べられるものじゃありません。

結局、昔ながらの店で、昔ながらの味を守っているところが、なんだかんだ言っても最後は強い。親が子供を連れて来て、味を覚え込ませてくれるしね。だから、畳席があるってところが案外ポイントかな。でも残念ながら、わが街にはそういう店がない。地方に行かないと見つけられないのが寂しいです。
正月不安
昨日書いたことの続きです。長い間パニックが起きなくなっていたのは、基底部にあった不安定要因に、なんとか折り合いが付けられるようになっていたからです。ところが、その日はたまたま、新たな不安定要因が襲ってきたために、一時的にパニックを起こしたのでした。

「ああ、やっぱり自分の繊細な特性はいささかも変わっていないんだ」と思いました。六十歳なのになんと繊細です!(ってダジャレですけどネ)だから今も、複数の情報がいっぺんにやってくると処理できません。普通の人ならなんでもなくこなせることができない。恥ずかしいです。

今年も残すところ一箇月あまり。実は‥‥今年いただいた年賀状をまだ見ていません。自分から年賀状を出すことは五年ほど前にやめたのですが、それでも送ってきてくださる方がいらっしゃいます。悪気はないのですが、それらを一辺に見ることができないのです。

正月不安というのが、自分の中ではまだ解消できていないんですね。一度ある年の正月に、もの凄いパニックがやってきました。動悸は止まらず、冷や汗が出て、地の底が抜けるんじゃないかと思いました。きっかけは、年末に出された来年度の景気予測です。

「景気が減速する」→「ちょうど正月で仕事が休み」→「休みが明けても仕事がないんじゃないか」→「仕事がなくなったら事務所を維持できない」→「維持できなければ自分の存在価値がない」→「もう死ぬしかない!」と、まあ、完全な鬱状態ですワ。

これは、「世の中の景気全般と、自分の周囲5メートル四方の経済活動には、直接的な関係は何もない」ということが解って、その鬱状態からは脱することができました。パチパチ。しかし、以前よりは薄れたものの「正月不安」は未だ解消できません。「正月」と聞くと、いやーな気分になるのです。

「明けましておめでとう」全然めでたくなんかない! 晴れ着、晴れないよー、お餅におせち料理、地獄だよー。
12月31日午後11時59分から、1分経ったら、急に「明けましておめでとう」なんて、変じゃないか? そんなの単なる連続なのに。人間ておかしなことするなぁ?

うちの母親は、年末におせち料理を作ると、正月三箇日は「主婦の休日だ〜」と言って、一切料理をしなかった。私は、おせちもお餅も嫌いだったから、食べるものがなくて、正月三箇日は毎年「断食」状態。凄くひもじい思いをしました。えっ、コンビニ? そんなものあるわきゃない。初売りは四日で、正月三箇日は全商店が休んだんです。

その三箇日に、公民館で子供会がある。各人お餅二個を持って集まるように言われ、行くと、大鍋でお汁粉が作ってあって、そこにお餅を入れて食べるわけです。うちのお餅は花札(花カルタ)の大きさで小さい。ところが、その倍以上の大きさのお餅を持ってくる子がいるんです。

持ってきたお餅は全部一緒にされて、別鍋で茹でられるのですが、自分のところに来るお椀にどんなお餅が入っているか分からない。そこで必死にお祈りするわけです。「神さま、どうぞ私のところには、小さなお餅を回してください。どうか、どうかお願いします。神さま」

そしてお椀を見ると、どどーんと、特大のものが入ってる。いったい誰だよ、こんなどデカイ餅を持ってくるやつは! みんなが美味しそうに二杯目をお代わりする中で、自分は半ベソかきながら、最初の一杯を少しずつ少しずつ喉に入れていくのです。あの苦しさ。喉を締め付けるような地獄の責め苦。

だから、今もお餅が苦手。お団子、桜餅、よもぎ餅、おはぎ、求肥、信玄餅、グミ、プディング、カスタードクリーム、クレームブリュレ。なんて恐ろしいものばかりなのでしょう。今年も残り一箇月あまり。ああ、また「正月不安」がやってくる。
パニック発作の要因は?
先日、久しぶりにパニックを起こしました。今年はいろんなものの当たり年です。次々と、以前経験した心身の不調がやってきます。その意味するところは解っています。同じことを経験しても、以前とは、その捉え方が大きく変わっている自分に気づく。それを今、経験させられている。

何が変わったのか。その状況に落ち込まなくなりました。「まあ、こんなもん」という処理の仕方ができるようになったのです。不調は不調として、「まあ、こんなもん」で済ませられるようになりました。

いま考えると、アトピーがいちばん酷かったときというのは、自分でどんどんアトピーを追い求めていたんですね。自分が信じられず、その先にある悪化を恐怖して、そこからなんとか脱出したいと名医を探して行脚しました。そして、皮肉なことに評判の名医にたどり着くたびに悪化していったんです。

さて、久しぶりに襲ってきたパニック。しかしそれも、長く落ち込むことなく、2時間ほどで客観的意識に立てるようになっていました。そして次には、どのようにしてパニックが起きたかを自己分析できていたのですから儲けもんです。

パニックが生じるメカニズムは次の通り。これには二つの要因が結びついて発生することが判りました。ですから、やはり「三角形の法則(▽)」が示す通りなのです。

先ず一つには、基底部に「心」の不安定状態がある。
そこに二つめとして、二律背反的な葛藤が加わると、パニックが起きるのです。

人生は選択の連続です。普段はそれをあまり意識することなく行動できているのですが、時にそれを強く意識する状況に晒されることがあります。たとえば、仕事の締め切りが迫っているのに、その締め切りに間に合いそうもない、などです。

この時、客観的意識がしっかりしていれば、少し冷静になって、そこで打開策を考えることができます。ところが、基底部に「心」の不安定状態があると、この二律背反的な葛藤が震源となり、軟弱地盤を揺すって大地震を起こしてしまうのです。

ではどうしたら、この状態を脱することができるでしょうか?
「三角形の法則(▽)」を考えてみると、上の辺のどちらか片方を無くせば、三角形は成立しないわけですから、二つの方法があるということになります。

一つは、「心」の基底部にある不安定要因を取り除く。
もう一つは、二律背反的な葛藤を避ける、ということです。

さて、おそらく多くの人は、自分がかつてそうであったように、後者の方法を取ることでしょう。しかしパニックが習い性になってしまうと、日常的なちょっとした選択行動でも、大きな負担や葛藤を感じるようになっていってしまいます。

たとえば、家から出る・出ない、電車に乗る・乗らない、などです。これを避け続けておりますと、日常生活に当然支障を来たしますし、ここまでは大丈夫という耐震性がどんどん低くなっていってしまいます。そして症状を長引かせます。

ですからやはり、自分の「心」の基底部にある不安定要因を取り除くことこそが、解決の道になります。そこで取り組みたいのは、この要因が一体なんであるかの特定です。

パニックを頻発している人は、「また起きるのではないか」という予期不安が、「心」を大きく支配してしまっているかも知れません。しかしそれは表層を覆ってしまったもので、もっと奥には、本当の原因がある筈です。そうでなければ、最初のパニック発作は起きなかった筈ですから。

ですから、気持ちが落ち着いている時に、それを眺めて分析してみましょう。不安要因は、たぶん何層にも重なっていると思います。たとえば私の場合ですと、「仕事を失う」→「事務所を維持できない」→「自分の存在基盤を失う」→「生きていけない」といった感じで、自己の存在理由がないという不安が根底にありました。

玉ねぎの皮を剥くように、それらを一枚一枚はがしていくようにして行きます。きっと、いくつかの不安要因が見つかることでしょう。それが分かれば、もう50パーセントは解決したも同じです。今まで避け続けていた問題に、向き合うことになるのですから。

そしてもっと見つめれば、それらが、結局は自分の「思い込み」「囚われ」に過ぎないことに気がつくでしょう。
師匠と弟子の関係、先生と生徒の関係、の違い
師匠と弟子、先生と生徒、同じようでいて、その関係は全く違います。もっともこれは言葉の定義次第ですので、一般的に流布されているイメージを下敷きにした上でのことだと受け取ってください。

師というものは、何かを「教える」わけではありません。自分が知っていることを「伝える」だけなのです。ですから、特定のプログラムを持っていないことが殆どです。その典型が「見て覚えろ」です。

これは今のように「教えられる」ことが当たり前となってしまった時代では、不親切のように感じられるかもしれません。ですが、実は逆で、愛に溢れた接し方なのです。なぜなら、弟子の主体性を尊重しているからです。

学びや気づきを得るのは(刈り取るのは)、あくまで自分です。その自分にはそれぞれの個性があるのです。疑問がわくところも、追求したくなるところも、得意とするところも、それぞれみな違います。またそれだからこそ多様性があってよいのです。

学びを自分のものとする主体は、あくまで個々の弟子側にあります。師というものは、その弟子の個性に合わせて、迷ったり壁にぶちあった時にヒントを与えるだけなのです。またそれしかできません。師は、弟子が、自分のものではないことを知っているからです。

ですから、師にとっての最大の喜びは、弟子が自分を超えることです。弟子は、師から伝えられたもの、得たものを、単にそのままではなく、自分の創意工夫によって、その時代時代に応じた変化や発展をさせていくことで、師を超える存在となるのです。

一方、先生と生徒の関係は、一般的には「教え」を前提としており、生徒はこの「教え」を受けること、先生はその対価として報酬と権威を手にすること、で成り立っています。

逆に言えばこういうことです。報酬と権威の両方を手にしたい人にとっては、非常に都合のよい仕組みです。そのため、ここに「家元制度」というものが生じるのです。

「教え」の中には「お墨付き」も含まれており、この「お墨付き」が高い価値を発揮します。そこで、授業料を支払った生徒は、今度はこの「お墨付き」(いわゆるブランド、肩書きなど)を武器に、同じ「教え」を伝承して、資金回収を図っていくのです。

そこでは、創意工夫が認められません。なぜなら、価値があるとみなされているのは「お墨付き」の方であって、生徒一人ひとりの個性ではないのです。ですから、新たに創意工夫をしようとする人が現れると、内部に波紋を生じ、最後は「破門」という事態に至ってしまうのです。

このように、師匠と弟子、先生と生徒、の関係は、考え方において真逆といっていいほどのものなのです。私が信じがたいのは、宗教やスピリチュアルなことを説く人々の間でも、「家元制度」に準拠した「教え」を説く人が、あまりにも多いということです。

先に書いた「師匠」の意味で、自然と「先生」と呼んでしまう分にはよいのです。しかしそうではなくて、権威にひれ伏して「先生」と呼んだり、ましてや「神様扱い」することは、慎まなくてなりません。

「先生」と呼ばれたい人は「先生」と呼びたい人によって支えられ、「神様扱い」されたい人は「「神様扱い」したい人によって支えられています。

そりゃあ、楽かも知れません。「先生」の「教え」に従っていればいいんですから。自分で考えなくてもいいんですから。創意工夫する必要もないんですから。

でもそれで、成長があるとお思いですか? いったい何のために生まれてきたのですか? その「先生」が死んだら、どうするんですか?

他者を「先生」と呼ぶことは、自分をその下に隷属させることです。自分を限定し、可能性に目をつむることです。もっと自分を信じ、自由の孤独を味わわなくてはなりません。そのためにも、「先生」ではなくて、よき「師」を見つけてください。
Be Here Now ! 奥伝
Be Here Now !
このキーワードを、これまで何度か書いてきました。その中身がどうであったかを、いま思い出すことはできませんが、ふと思いついて、今日は突っ込んだ解説をしてみようと思います。いわば、この言葉に関する奥伝です。

日本語ではよく「いま、ここ」と訳されていますよね。でもbe動詞がついているので、ニュアンスとしては「いま、ここ、なんだぜ!」といった感じでしょうか?

もっと言うと、「いま、ここ。この瞬間が全てなんだよ」という意味ですが、そのことを強調するために、極々シンプルなワードにしているわけですね。
では一体、何が「全て」だというのでしょうか?

「いま」は時間、「ここ」は場所です。ですからこれは、時空間のまさに一点、今のこの瞬間を指し示しています。それが「全て」だというのです。
ああ、ますます解らない、ですって? ちょっと待ってくださいね。

それが何を意味しているかを言う前に、まず時空間とは何かを考えてみましょう。いま私は「時空間」と書きましたが、実は時間と空間とは同じ概念の、見え方の違いを言っているだけなのです。ですから「時空間」とひと括りにして話せるのです。

空間があると、そこに物質が存在します。この物質は原子で構成されていて、原子は絶えず活動をしていますから、常なるものは何もなく、変化し続けます。変化し続けるということは、そこに時間があるということになります。

逆を考えてみましょう。もし時間があるとすれば、時間経過を証明する、変化する物の存在があるはずです。物の存在があるということは、そこに空間があるということです。このように、「時空間」というものは一つの概念の表裏を構成しているのです。

さて、私たちはこの「時空間」のある世界、つまり物質界に暮らしているがために、それが当たり前だと認識しています。ところが、全「宇宙」(この場合は、物質界を超えた世界も含む:The Universal)の中では、物質界というものは、非常に限定された狭い領域に過ぎないのです。

*宇宙物理学の最新の研究では、これまで私たちが「宇宙」と呼んでいた、物質的な星々の存在は、全宇宙を構成するエネルギーのたった4%に過ぎないことが判っています。あとの96%が何であるかは、今のところ判っていません。

私たちは、こうして毎日を物質界に生きているわけですが、人間は同時に、霊的存在でもあります。このことを頑として認めない人たちもおられますが、夢を見たとき、深い瞑想を行ったとき、直感やインスピレーションを得たときなど、誰にでもその片鱗を感じとることができます。

この霊的存在がいる領域は、非物質的世界であり、そこには私たちが認識しているような時間も空間もないのです。といっても、これは解りにくいですよね。私たちの常識を超えた概念ですから。それにいま私は「領域」という言葉を使いましたが、厳密に言えば、これも論理的矛盾です。

「領域」という言葉自体が空間概念ですからね。でも、表現のしようがないんですよ。ま、ともかく、物質がないということは、時空間がない。時空間がないから、物質がないのです。そのようにひとまずは受け取ってください。

ところで、私たちは「前世」とか「過去世」ということをよく言います。私もよくこの言葉を使います。しかしこれは、本当は正しくはないのです。なぜなら、霊的世界に時間はありませんから。

実は、私たちは、肉体を持って生活していたときの記憶を、時系列の概念の中に位置づけて、過去とか未来というように解釈しているだけなのです。その証拠に、僅か1秒前の出来事であっても、私たちはそれを捉まえたり再現したりすることはできません。

ビデオに撮れるじゃないか、と思われるかも知れません。しかしそれは、起きていたことの実体ではなく、ビデオに記録された映像です。それを見ることは、過去の再現ではなく、やはり、その記録を見ている今この瞬間があるということなのです。

このように、過去も未来もどこにも固定することはできず、私たちは、ただ「いま、ここ」を生きているだけなのです。これが「いま、ここ」の第一の意味です。

さて、では「過去世」はどこに行ったんでしょうか? 「未来世」というものはいったいどこにあるというのでしょうか? それらは幻想に過ぎず、最初から無かったものなのでしょうか?

実は、これは同時に起きているのです。「過去世」も「未来世」も。あなたという魂を構成している本体は、同時に、それぞぞれの時代の生を今まさに生きているのです。そして様々な体験を同時に行っているのです。その一つの課題を背負っているのが、現在のあなたです。

このようにして、あなたの魂の総体は、全体として、霊的な完成を目指しているのです。そして、それぞれの人生での体験は、総体としてのあなたに全部つながっているのです。お解りですか?

ところで、ふいに意味もなく、悲しい気持ちが襲ってきたり、恐怖が沸いてきたり、といった体験はありませんか? それは、別人生を歩んでいるあなたの分身である魂が、その瞬間、まさに悲しみや恐怖を体験している瞬間なのです。

そして直ちに、同時に生きているあなたに伝えられてきたのです。このことは、重要な意味を示唆しています。

過去や未来の実体は、絶対に捉まえることはできません。固定することは不可能です。あるのは、その時を、体験し、解釈した「記憶」だけなのです。こうして各人生を生きる「記憶」が、あなたの魂の総体に記録されます。

さてここからが重要なポイントです。多くの人がたとえ同じ事件に遭遇したとしても、その体験、見方、解釈は人それぞれです。そして、あなたの魂に「記憶」されるのは、事件の本体ではなくて、あなたの解釈だということです。

だとすれば、同じ事件でも、楽しい「記憶」にすれば楽しい「記憶」が、悲しい「記憶」にすれば悲しい「記憶」が、恐ろしい「記憶」にすれば恐ろしい「記憶」が刻まれることになる。これが、よく言われるところの「カルマ」の正体です。

プラトンは「この世は《映し絵》だ」と言いました。その意味は、実はこのことだったのです。人々が実体だと考えているものと、虚像だと考えているものが、実は眞逆だと言っているのです。

ついでに「眞」という文字は、反対側にある「シン、マ」という意味で、この奥義を理解した人は、世の中の見方が一変してしまいます。眞理というものは実は逆さまのところにある。そこでこれを「眞逆様(まさかさま、まっさかさま)」と言い、それを映す鏡を「眞澄鏡」と言うのです。

話を戻して、あなたの魂が体験している「思考」や「感情」は、常に、他の人生を歩んでいる分身と連携をとっています。しかも、過去の事件に実体はなく、あるのは解釈した「記憶」だけなのですから、この解釈をどうするかによって、人生が大きく変わってくることになります。

もし自分の解釈によって「囚われ」を作ってしまったら、今度はその「囚われ」に自分が縛られる人生になってしまいます。これが、「自分で蒔いた種は、自分で刈り取る」ということの意味です。

しかし、ここに大きなGIFTがあなたに用意されています。今のあなたは、他の生をいま同時に生きている全てのあなたとつながっている。しかも、どんな事件があろうとも、その「記憶」は解釈しだいなのです。だとすれば、

「いま、ここ」

この瞬間を、愛に満ちたハッピーなものにしてしまえば、あなたの全存在の「記憶」が書き換えられるということなのです。たとえ過去にどのような辛い体験があったとしても、その「囚われ」を捨て、今この瞬間をハッピーなものに感じれば、あなたの人生が変わるということです。

つまり、日々の瞬間、瞬間が、人生を変えるパワーポイントなのだということ。
これが、「いま、ここ」の第二の意味です。

苦行も信仰も必要ないのです。
ただ「いま、ここ」を、天の摂理、自然の法則に従って、他者を助け、ハッピーな気持ちで生きるだけでよいのです。
どうでしょう。素晴らしいGIFTだとは思いませんか?

では改めて、

Be Here Now !

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一度読んだだけで解らなければ、何度か読み返してください。そうすれば、入っていきます。すでに受け入れの準備が整った人には、すぐに意味が解るはずです。
「女たちのシベリア抑留」を見て
BS1スペシャル「女たちのシベリア抑留」は見応えがありました。戦後、旧満州にいた人たちがソ連軍に捕まり、シベリア開発の労働力として長期間抑留されていたという話は知っています。しかしその中に、数百人もの女性たちが含まれていたということは知りませんでした。

そもそも、シベリア抑留の話自体がこれまであまり語られて来なかったように思います。太平洋戦争をめぐる歴史証言の中では、何か脇に追いやられていた印象があります。

シベリア抑留は戦後の話であったこと、戦後の日米安保体制下では共産主義国家はみな敵国と見なされ、交流もほとんどなく、旧ソ連に関する情報が極めて乏しかったこと、映像や写真などの資料があまり残っていなかったこと、などが災いしているのかも知れません。

ですから私も、「ああ、旧ソ連の人々にも、民衆の普通の暮らしがあったんだ」という、考えてみれば当たり前のことを理解したのは、つい最近のことです。それくらい、戦後教育に洗脳されていました。

第二次世界大戦の犠牲者数を見ると、軍人と民間人を合わせた死者は、アメリカが42万人、日本が262〜312万人、ナチスドイツが700〜900万人なのに対して、ソ連は2,180〜2,800万人と、ケタ違いの多さなんですよね。実に、第二次世界大戦の犠牲者数の3分の1が旧ソ連の人々なのです。

しかし、東西冷戦の時代が終わり(今また新たな冷戦に傾きつつありますが)、ロシアも民主化が進み、スターリン時代のことを見直すことができるようになって、こうしてやっと「女たちのシベリア抑留」の事実も、調べられるようになったんですね。

なぜ、シベリア送りになった女性たちが出現したのか。これは、スターリンが出した「50万人の捕虜を確保せよ」という命令に、現場の指揮官が、とにかく頭数を合わせようとして、男女の区別なく引っ張っていったため起きたことのようです。そして、捕らえた人たちの一部を国内法によって裁き、監獄送りにしてしまった。

このような過酷な状況に、数百人の(ソ連の公式記録では367人が捕虜となり、内155人が収容所に送られた)女性たちが晒されることになったのです。その多くは、軍属の看護婦たちでした。番組では、80代、90代になった方々が当時の証言をされているのですが、今も変わらないその気高い精神には感銘を受けました。

中でもひときわ輝いているお一人が、番組の最後で、笑いながらこう語られたのが強く印象に残りました。この方は、引き上げてからの4・5年間は、夜になるといつもうなされていたそうです。

「でも、このごろ思うんだけど、人の経験できなかったことをして、自分の一生を終えるだから、いろんな経験をさしてもらって、帰って来てからは幸せに暮らして、幸せと、どん底と両方味わえて、人間としては幸せだったなと思っています。私たちの時代はいい経験させてもらったから。それでもう戦争はたくさんじゃないですか。」

顔が輝いている理由が解りました。