by Rainbow School
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病は「心」のあり方が作る
平成25年度に医療機関に支払われた医療費が、過去最高の39.3兆円となり11年連続で過去最高を更新したそうです。1人当たりに換算した医療費は、年間30.8万円に上ります。この数字をどう思われるでしょうか? 高齢化社会なのだから当然だとお考えになりますか?

だとすれば、すでに術中に落ちていることになります。<11年連続で過去最高を更新>と聞くと、何かいいことのような錯覚をしてしまいますが、裏を返せば、政府、医療機関、製薬会社、民間保険会社、マスコミが共同で目論む悪循環構造が完全に定着したということを物語っています。

あなたがもし総理大臣なら、国民の健康ということについてどう考えて、どんな施策をとりますか? 私ならば、<11年連続で「医療費抑制」に成功した>と、国民に向かって胸を張って言えるような政治をしたいと考えます。でも現実はそれとは真逆です。おかしいとは思いませんか?

国の予算が足りない足りないと言いながらも、医療費は年々増大させている。医療費が増大しているということは、病人が増えているということなんですよ。医療科学が発達した、高度医療で命を救えるようになった、ワクチン摂取で予防しましょうと言いながら、これは一体どういうことでしょう?

健康志向の世の中と言いながら、ちっとも「健康」になっていないじゃないですか。むしろ「病気」になる人が年々増えているじゃないですか。

でもこれはある意味当然。昨日も、たまたま食堂でテレビを見ていたら「デング熱」の国内感染予想○万人と騒いでいる。そしてレポーターが代々木公園をバックに何か言っている。こういう脅しを次から次へと繰り出し、「何かあったら、自己判断はせずにすぐに医療機関へ」という刷り込みをし続けて来た。その結果が11年連続の「医療産業の成長」です。

質(たち)が悪いのは、こうした刷り込みの結果、「人は病気になるもの」「齢をとったら体がおかしくなるもの」「今や外界は危険なウィルスだらけ」「不安だったらワクチンを打て」「民間療法には根拠がない」「病気は唯一医者だけが治すもの」「それは薬と手術によって実現される」「しかし健康でいたいのなら、健康保険だけでは足りないよ」という、ほとんど「信仰」と言っていいほどの、間違った知識を植え付けることに成功してしまったことです。

「病は気から」というのは本当のことで、この「気」には、二つの意味があります。一つは気功でいうところの「気」、つまり根源的生命エネルギーから流れ込んで来るプラーナです。もう一つは気持ちの「気」、つまり「心」のあり方です。

人体というものは絶えず新しい細胞が生み出されていて、それは、その人の「心」のあり方を現実化します。ですから「人は病気になるもの」とその人が信じていたとしたら、それがやがて現実化していきます。加えて、プラーナの働きをむしろ阻害するような治療行為が主流となったのですから、今や二重の意味で、病人が生産されやすい状況になってしまったということです。

むろん、このような考えが受け入れられないことは覚悟の上です。それこそ「信仰」じゃないのか、とお叱りを受けるかも知れません。いま言った「気」の働きを証明することは困難ですが、現代の医療は健康を実現しない、ということは確実に証明されているのではないでしょうか。

一杯の水を飲むときにも、ただ飲むのではなく、ありがたく押し頂いて、この水が体全体に行き渡り、身も心もきれいにして活力を与えてくれるとイメージして飲むのとでは違ってくるのです。ストレスが溜まったり疲れたときには、プラーナのエネルギーが入って来ることをイメージして、静かに深呼吸してみてください。活力が戻って来ます。
稲刈りの手伝いをしてきました
田舎に行って、稲刈りの手伝いをしてきました。手伝いと言っても、今はほとんどの作業が機械化されていますので、私の役目はコンバインで摘み取った籾(もみ)を受け取り、軽トラで運んで乾燥機に入れるまでです。これを、作業場と田んぼを往復して繰り返します。

8月の下旬で早くも稲刈りというのは、このところの異常気象のため。台風時に生じたフェーン現象により、稲の生育が急に進んでしまったのだそうです。ところによっては、気温が高くなり過ぎて全滅した田んぼもあったようですよ。

台風の通過後はずっと雨続きで稲刈りをした日の前日もどしゃぶりの雨。まだ田んぼは充分乾いていなかったのですが、晴れ間を見て強行せざるを得ませんでした。暑さ対策で田植え時期は年々遅くなり、稲刈り時期は年々早まっています。今のところはなんとか凌いでいますが、温暖化の影響が顕著に見えて来たのは確かです。

それも問題なのですが、農村風景も今やすっかり変わってしまいました。村で一斉に田植えをしたり、一斉に稲刈りをしたりする風景が見られなくなったのです。機械化が進み家族総出で作業する必要がなくなったこと、若い後継者がいないこと、田んぼを止める人が増えていること、などが原因です。

東京のような消費地に居て、スーパーで食材を買っているだけでは、こういう現実はけっして見えてきません。日本の食料自給率は既に4割を切っています。自分が出来ることから、何らかのアクションを始めないと、状況は増々悪化するばかりだと感じました。
『ニッポン戦後サブカルチャー史』が面白い
NHKのEテレ金曜午後11時から『ニッポン戦後サブカルチャー史』というシリーズをやっていて、これがとても面白いのです。講師役を務めるのは劇作家の宮沢章夫さん。この方、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を主催していらっしゃったんですね。

生まれは私の2年後の昭和31年。だから、ほとんど同時代を生きてきたわけで、「そう、それそれ」ってな具合に、仰っていることがよ〜く解るのです。それにしてもさすがというか、視点の置き方と分析力は大したものです。

8月22日の第4回は「深夜ラジオと音楽革命 70年代(1)」だったのですが、この中で林美雄さん(2002年に死去)をメインに取り上げていたのは嬉しかった。

林美雄さんはTBSの社員アナウンサーで、久米宏さんとは同期だったんですよね。でも大輪のひまわりのような久米宏さんと違って、夜中にひっそりと咲く月見草でした。テレビで見ることはめったになく、起用された深夜ラジオでも主流とは言えない存在でした。

宮沢章夫さんによると、林美雄さんはNHKスタイルのアナウンサーをめざした正統派で、自分には他のアナウンサー(土井まさるさんとか)のような強い個性がないから、世の中でウケていないがいいものを紹介することに徹しようとした存在だと位置づけていました。

それで「なるほど」と思いました。顔立ちはおぼっちゃまのような童顔でとてもきれい、声も美声で実にしっかりした正統派のアナウンスをするのです。ところが語る中身は新宿ゴールデン街の路地裏文化のような話ばかりで、そのギャップが私には印象的でした。

あのユーミンもRCサクセションも、林美雄さんが取り上げてメジャーになっていったんですよ。私は1975年1月に新宿の東京厚生年金会館ホールで開かれた「歌う銀幕スター・夢の狂宴」を、新潟からわざわざそのためだけに電車賃を払って観に行きました。それくらい入れ込んでいました。

でも、林美雄さんには、いつも何か「悲しみ」の影のようなものを私は感じていました。バリバリの正統派でありながら、サブカルで花開いた。その底に「悲しみ」を感じるんです。

正統には本物はなかった。横道の埋もれた中にこそダイヤモンドの原石があるんだよね。でもそれが解るかい? その共感を求めながら、いっとき盛り上がり、ふたたび絶望して行った(宮沢章夫さんによれば、最近リスナーからのハガキがつまらなくなったと言って1980年9月に『パックインミュージック』を終了)それを感じるんです。
落ち込んだ時の対処法(3)
初期に発生した感情が治まったあとは、きっかけとなった出来事をできるだけ早く忘れてしまえばいいわけですが、これがなかなかできません。忘れよう、忘れよう、と思えば思うほど浮かび上がってきてしまうのです。ここで性格によって差が出るものですから、神経質な者は「どうして自分はこうなんだろう」と、また悩みを深くするわけです。

最初のころ、自分が考えたのは「酩酊作戦」でした。まあ、よくある話です。アルコールの助けを借りて酩酊してしまえば、それが忘れられると思ったわけです。

しかし酩酊状態が終われば、意識は自然と元に戻りだすわけですから効果が持続しません。そればかりか、覚めて来るとひどい自己嫌悪に襲われ、それを消すためにまた飲むということになってしまうのです。これでは体を壊してしまいます。

次に考えたのが「追い出し作戦」でした。「集中」する対象を別のものに振り向けられれば、結果として忘れられるだろう、そう考えたわけです。そこで本を読んだり、映画を観たりしてみた。

確かに、いっときは本や映画に心が移る。しかし1分もすればすぐにイヤなことを思い出してしまい、目は活字や映像を一生懸命追っているけれど、頭はまた事件を考えてしまうといった案配で、これもうまくいきませんでした。

だったら体を動かしてみたらどうだろうと考え、これもトライしてみました。走ったり、家事に打ち込んだり、ひたすらバットを振ったり。ところが、「動作」に使う脳と、「思考」に使う脳は並行して働かせられるということが解った。だからこそ、歩きスマホというものができるわけですね。

歩くという動作は、別に不随意筋がしているわけじゃない。ですから脳が「右足出せ、左足出せ」という信号を出している。でもそれをほとんど意識せずに動作は可能だし、その間、別のことをしっかり考えるということが人間にはできてしまうのです。

ということで、これもうまく行きませんでした。ただ、鬱になっているときなどは行動ができないわけですから、無理しても行動することには意味があります。それに体が疲れれば、睡眠を誘うという効果もあります。眠ることは、最高の癒しになりますから。

そうやって、試みはことごとく失敗に終わったわけです。結局、解決してくれるものは「時間」しかないのかな。そう諦めたとき、ふとあることに気がつきました。

このような「追い出し作戦」は無理やりやっているわけで、心に生じたネガティブな意識を打ち消すまでのパワーはなかった。それならば、ネガティブを超えるほどのポジティブな意識を持つことの方が、より重要なのではないかと。結局、「忘れる」ことが早くできる人というのは、こうしたものを持っている人だと気がついたわけです。

気分の落ち込みは、放っておいても時間が解決してくれるけれど、そこから早く脱出するには、ポジティブなアクションに切り替えるのが一番だということです。ただしそこには確信がなければならない。確信がない行動は、すぐに気持ちが揺らいでしまうからです。

では、ポジティブな確信はどうしたら持てるのでしょうか? 私は「理想」が何より大事だと思いました。大きな理想と、そこに向けた、ささやかながらも具体的なアクションです。これをすれば人々の役に立てる、世の中をよくすることができる、周囲の人々をハッピーにできる。

行動はたとえ小さくても、そのような大きな理想に向かっているんだという確信を抱きながら行動して行けば、たとえどのような嵐が来ても乗り越えられる。そう思うに至りました。(完)
落ち込んだ時の対処法(2)
私は自分自身が、感情の振幅が非常に激しくて(よく言えば感情が豊かで)、それが処理できないということに長年大きな悩みを抱えていました。そこで昨日書いたモニター意識を養う方法(ノート法)を始めました。

そのうちに、客観意識をしだいに超えて、自分の「心」を使って人体実験をやっているようなつもりになっていきました。さながら華岡青洲の妻の「心」バージョンです。そこで、いろんなことを発見することができました。

先ず感情には、瞬発的なものと、やや中期に渡るものがある。それを過ぎると、この感情は思念へと変わっていくのです。それぞれがどれくらいの期間かということを加えて整理しますと、

1)瞬発的感情(沸き上がってから早くて3時間、遅くても1日で終息する)
2)中期的感情(瞬発的感情が治まったあとも引き続く感情で、3日〜1週間程度続く)
3)長期的思念(中期的感情が続く間に、そこに自分の解釈・判断がプラスされ、感情を伴った思念として蓄積される → 長年にわたって解けない)

さて、この時間経過の中で着目して欲しいのは、(2)から(3)への移行期です。(3)の長期的思念を、スピリチュアル用語で「カルマ(Karman)」と言います。よく言われるカルマは、このように、感情的体験に自分の解釈・判断がプラスされて形成されていきます。

これは一度形成されるとなかなか解けません。なぜなら、その思念は自分が作ったものだからです。そのため、客観的視点に立てないのです。しかしよく考えてみれば、その時には、最初の体験も、その後に沸き起こった感情もすべて過ぎ去った後なのです。

すでに過ぎ去ったことなのに、自分の中に抱え込む。それを自分自身でやってしまうわけですね。これが通常の心の動きです。ですから、そういう経過を辿るということを理解した上で、(2)から(3)へと発展させないということが何よりも重要です。それで長期にわたって苦しむのは、あなた自身なのですから。

そのことを理解した上で、改めて順番に見てみましょう。先ず(1)の瞬発的感情ですが、怒りにしても、悲しみにしても、くやしさにしても、初期の感情は、山型のカーブを描いて急速に終息へと向かいます。ですからこれは出るに任せていれば、自然と落ち着いていきます。

怒りを生じても一日中怒り続けている人、悲しくても一日中泣き続けていられる人はそうそうは居ません。普通は3時間くらいで治まります。ただし、肉体的なアクシデントを伴ったりする場合は、体の細胞にも記憶が残るので、初期の感情が1日くらい尾を引きます。

その段階が過ぎると、(2)の中期的感情へと移行します。この段階では、初期の瞬発的感情はすでに終息しているのですが、自分の体験記憶の中から、同じような感情体験を無意識のうちに引っ張り出して来て、今度起きたことと結びつけ、新たな解釈を付け加えて行くようになります。

自分はいっつもひどい目に遭っているとか、いっつも苛められているとかです。
ここでポイントになるのは、自分の過去の体験記憶というものが、必ずしも今世の体験だけとは限らないことです。これには過去世における体験記憶も含まれるのです。

いえ、むしろほとんどが過去世からの記憶だと言ってもいいのです。これがカルマというものの働きです。このようにして、無意識のうちに、カルマが現在のあなたのアイデンティティを作り上げているのです。

初期の瞬発的な感情が治まって、自分が起きた出来事を解釈し始めたと思ったら、その「心」の動きに注目してください。あなたのカルマが働き出します。自分にどういう傾向があるのか、そこにいつも共通のパターンが隠れていないか。それを観察してみてください。

この間は、とても苦しい。しかし、この段階から(3)の思念へと発展させないためには、ここを何としても乗り切ることが重要です。その方法については、また明日に。
落ち込んだ時の対処法(1)
予期せぬアクシデントや体調不良、人間関係のちょっとした出来事などで、気分が落ち込む時ってありますよね。えっ、しょっちゅうですって? 困りましたねぇ。実は私もそうでした。そんな時には、その理由を追及したり、そこから脱したいといくらもがいてもダメなんです。

そうしている限り「意識」の集中が増々そこに向かってしまうからです。つまり逆効果しかもたらさない。そのことに自分が気づくまで、大変な時間を弄しました。その期間、ざっと50年。
「えっ、50年もかかるわけ?」

心配ご無用。私の場合50年も掛かったというだけで、これを読んでピン!と来てくださった人はすでにお気づきになったわけですから、第一段階は超特急でパスというわけです。
要は、自分の意識状態を客観視できるかどうか、ということです。

感情と、それを観察する別の意識(モニター意識)は、分離することが可能です。自分の感情に振り回されてしまう傾向のある人は、このことを知りません。モニター意識と感情とがいつも合体してしまって、一緒に感情の渦の中に落ち込んでいるのです。

しかし、たとえ感情が渦の中にあっても、その渦を、上から見る目を養うことは可能です。「あ、いま自分は落ち込んでいる」「私の中にグワッと怒りが沸き起こったぞ」「あ、またクセが出ちゃった」そう気づいた時には、すでにモニター意識が活動を始めているのです。

感情を抑えようとはしないでください。感情が沸き起こることは、人間として普通の営みです。 感情があるからこそ愛の表出もできるのです。 感情に蓋をしようとしたり、抑え付けたりすることは、この「普通」を破ることになります。学ぶべきは感情を抑えつけることではなく、その感情をコントロールするテクニックです。

客観視のもっとも確実な方法は、感情をノートに書き出すことです。書き出す行為は、それ自体が客観的な効果を生み出します。ですから自分の感情を書いて、さらにはその感情の変化を逐一ノートに記録するのです。書いて、書いて、書きまくるのです。悩んでいる人は、小馬鹿にしないで、どうぞやってみてください。

馴れてくれば、別にノートに書かなくてもよくなるのですが、初心のうちはモニター意識がちょっと生じたとしても、感情の渦があまりに激しいと簡単に巻き込まれて、せっかくの客観意識を手放してしまうのです。ですから、それを防止するには、目に見える形でノートに書き出すとよいのです。

これで第一段階は処理できます。しかしそれだけでは充分ではありません。自分の中に沸き起こったネガティブな感情は、依然として留まっているからです。これをどう治めて行くか。その方法についてはまた明日に。
踏んだり蹴ったり
踏んだり蹴ったりという状態に陥るときがたまにありますよね。一昨日がそうでした。三日前、クルマの後部ドアのガラスが編み目模様のようになっているを見つけました。「あれ、なんだろう?」と思って指で押したら、その指が突き抜けて、ザーッとガラス片がこぼれ落ちました。

たぶん小石でも当たったんでしょう。ガラスが粉々に割れてしまいました。以前お世話になった修理屋さんにまた連絡して修理をお願いしたのですが、そのとき初めて、窓ガラスのように切って嵌めるというわけにはいかないということを知りました。

ガラスも他の部品同様、メーカーが車種別にストックしていてそれを使うというのです。私のクルマは古い軽自動車で、それもあんまり売れなかった車種。部品の保存期間はだいたい10年だそうです。一度壊してしまうと、もう直せないというリスクがあるのです。

幸いガラスは見つかったのですが、ついでに修理屋さんに訊いてみました。「ビンテージカーなどはどうしているんですか?」と訊くと、そういう人たちはお金がいくら掛かってもいいという人だから、車種別に専門の業者が居て、10個とか20個とか新たに部品を作るんだということです。

へえー、そんな市場になっていたんですね。さて、修理代2万円は痛い出費だったけれど仕方がないと諦めて、クルマを引き取りに行ったのですが、その帰り道に、「止まれ」の一時停止無視で捕まってしまいました。

生まれて初めての交通違反です。まさに踏んだり蹴ったり。2点減点で7000円な〜り。そこはいかにも一時停止無視が頻発するように設計されていて、その設計を変えた方がいいんじゃないだろうかと思ったのですが、警察としてもそういう罠を仕掛ける場所が何箇所かは必要なんでしょう。

そのお巡りさんの給与の足しに少しはなったかなと思って、入金の用紙を貰って帰ってきました。でもそれで自分の変化というものが解りました。以前なら、踏んだり蹴ったりの状況に陥ったときには怒りとその後の落ち込みが数日間は治まらなかった。でも今回は「ああ、やっちゃった」くらいにしか思いませんでした。

どうせ払わなければならない出費は、さっさと払って忘れるに限りますね。
「命」とは何か?
「命」とは何か? この問いにあなたは答えられるでしょうか? 私たちは、日々「命」に接しています。周囲には「命」があふれていて、あまり意識することなく、その「命」を頂くことで、自分の「命」をつないでいます。

赤ちゃんが誕生すると、そこに新しい「命」ができ、呼吸や心臓が停止すると、人は死を迎え「命」を失います。「命」はいったいどこからやってきて、どこへ行ってしまうのでしょう?

私たちは、実は「命」の正体をよくは知りません。私たちが見知っているのは、あくまで生の状態と、死の状態です。

その分かれ目となる「命」が何か、どこからやってきてどこへ行くのかは、生物学者と言えども明確には答えられないのです。なぜなら「命」そのものは見えないし、単独で取り出すこともできないからです。

それなのに、「命」を創り出したいという人間の欲望は止みません。「○○細胞」を世界で初めて創ったといったことがマスコミで話題になるのも、その欲求の顕れです。細胞を形成することは可能でしょう。しかし永続する「命」を生み出すことは、人間には不可能です。

「命」は生み出せるものではなく、与えられているものだからです。それどころか、人間は何一つ生み出すことはできないのです。家を作った、自動車を作った、食事を作った。それらは自分で何かを生み出したように見えて、実は錯覚に過ぎません。それらの材料は、すべて自然界にあるものから頂いているのです。

人間が出来るのは、自然界にあるものの組成を変えることだけです。その意味で、他の自然の営みと同様のことしかできません。自然界というのは「命」の連携プレーなのです。これは、逆から言えば、人間も自然の一部であるということの証明になっています。

これが自然界の掟です。自然界では、存在するものが、その組成を変化させながら、他のものに「命」をつなぎ、全体としての「調和」が成り立っているのです。これが掟である以上、人間もそれに従わなくてはなりません。

ところが人間は、その単純な法則すら無視し、掟に従おうとはしません。人類全体が「困ったちゃん」なのです。自然界は人間よりも大きな存在です。このまま人間が「困ったちゃん」であり続ければ、自然界は「調和」を取り戻そうと、大規模な調整作用を行います。

それは人間にとっては「大災害(Catastrophic disaster)」に見えるでしょうが、自然界からすれば、掟の行使に過ぎないのです。
「○○障害」というレッテル貼りの害
ある事情から「発達障害」というものに関する資料を手渡され、読むようにと言われました。分量は多くなかったのですが、読んでいるうちにすっかり気が滅入ってしまいました。読んでいるこっちがうつ病になりそうでした。(って、まあ冗談ですけれど)

それは、妻の立場から、夫や子供の「発達障害」に関する悩みを綴ったものだったのですが、私から見ると、その妻たちの方がよっぽどおかしいんじゃないだろうかと思いました。簡単に言えば、自分の思いどおりにならない不満を募らせて雪だるまを作り、この先どうしようかと途方に暮れているのです。

客観視して見れば、それこそが、もの凄く子供っぽい態度だとは言えないでしょうか?
1)自己中心的な思考から全く離れられない。
2)自分に起こる問題は、すべて周囲の者たちのせいで起こっているという独善的思考。
3)こんなに苦しんでいる私。その理解者がどこにも居ない、という甘え。

これを更に後押ししているのが「○○障害」というレッテル貼りです。それがお墨付きとなって、「もしかしたら、私の方にも問題があったのではないだろうか?」という気づきがまるで起きないのです。ですから、いつまでも幼稚な考えに埋没してしまっている。

第一に、他者は自分の思いどおりにはなりません。別の人格であり、それぞれに個性があるのです。
第二に、人間関係の問題は一人では起きようがありません。相手だけでなく、「自分」もそこに加わって、初めて起きているということです。
第三に、他者にも「心」がある。つまり自分と同じように、相手にも感情や思考はあるということです。

いま書いた3つは、言われてみればどれも当たり前のことだとお気づきでしょう。ところが、自分が「問題を抱えている」と感じている人は、しばしばこの3つを無視してしまうのです。それが「自己中心」的考えに陥った人の特徴なのです。

今の時代の風潮として、由々しき問題だと思うのは、こうした「自己中心」的考えを助長する方向が活発化していることです。ときにはそれを「支援」と称している場合もある。「○○障害」というレッテル貼りもまた、それを助長する方向にしか働いていません。

しかし、すでにお解りのように、それらは「人間関係における本質」から目を背けさせ、無意味で間違った「集中(focus)」を生むだけなのです。このような「集中」に埋没している限り、問題を深めこそすれ、問題を解消することは不可能です。問題の雪だるまを、自分でせっせと膨らますだけです。

どうか、「人間関係における本質」に立ち返ってください。そうすれば、解決策は自ずと解るでしょう。

1)相手は、別の人格であり、相手にも「心」があるのだから、その個性を認める。
2)他者を自分の思いどおりにすることなど所詮できないし、「人間関係」は両者の間に生じるものだから、認めた個性と調和を図る道を模索する。
3)相手は自分ではないし変えられないのだから、変えられる方の自分を変えて行く。

そのように努力していただきたいと思います。
「永遠の不足」という囚われ
ずっと自分に自信がありませんでした。いつも震度2ていどでした。今でもその片鱗(?)が残っています。ひとからは「ムーニーにもいいとろあるんだから」と慰められたりもしてきたけれど、自分ではまったくピンときていませんでした。

今なら、自信を失くしている人に「あなたにはこれこれこのような才能がある」と、一般論ではなく、個別論としてズバリ言えます。それが見抜けるようになった。しかしここでは、とりあえず一般論として言っておきます。才能のない人はいない、と。

自信がない状態のとき、自分は「完璧主義者」だと思い込んでいました。こうしたい、こうあるべきという理想のイメージと、現実の自分や営みにギャップがあり過ぎる。そのことに押しつぶされそうになって、非常に悩んでいました。うまくいかないことの理由がどこにあるのか知りたいと、模索し続けました。

しかしそれは、「完璧主義」というものではなかったのです。ただ、「永遠の不足」という囚われに陥っていただけだったのです。「完璧主義」と言えば聞こえがいいかもしれませんが、実態は、自分の今よりも、優れたものや人を必ず見つけ出す才能、と言うべきていどのものだったのです。

そして、よく言われるように「完璧」などない。それは解ったと。頭では解った。でも、それでも「永遠の不足」という囚われを解消できないのです。なぜなら「理想」のかたちというイメージを捨てることができないからです。そして、やっと気がつきました。

変化の途上にこそ意味があるのだと。人も物も変化します。変化しないものは何一つありません。その真理さえ解っていれば、「理想」を捨てることはないのです。「理想」を持っていていいのです。いや「理想」は持つべきです。

そして、そこに向かって歩んでいる今ただ中に集中する。それがだんだんと出来るようになったとき、いつの間にか自分の「永遠の不足」という囚われを脱し始めていたのです。