by Rainbow School
|
「過去は変えられるが、未来は変えられない」
なるほど、うまいことを言うなぁと感心しました。さすがです。まさにその通りなのですが、ズバリ一言で語っているところが凄い。名言です。
普通だったら、逆でしょう。「過去は変えられないが、未来は変えられる」と、そう言うでしょう。それは、未来への希望をもたらす言葉として印象づけられるでしょう。ところが、斎藤一人さんは真逆を言うのです。ではそれは、未来の絶望を語ったものなのでしょうか?
でもそうではないらしいことは、その前に「過去は変えられる」とついていることから解ります。では、一体どういう意味なのでしょうか?
普通、人は「過去は変えられない」と思っています。それは過ぎ去った時であり、今さらどうにもならないからです。ではその「過ぎ去った時」というのは、どこに在るのでしょう? どこにも在りません。在るのはその人の「記憶」だけです。「過去」そのものは冷凍保存できないのです。
「記憶」は、その時々の事件・事象の自分の知覚に、感情や解釈を付け加えて定着させたものです。同じ事件の目撃者が100人居たとしても、「記憶」は100通りあり、決して同一ではないのです。それらの目撃談は、何があったかの傍証にはなるでしょうが、事件そのものを現在に表すことは絶対にできません。
ここで一つの例を挙げましょう。二人の人物が、海岸に沈む同じ夕陽を見たとします。片方の人は、その美しさに感動して歓喜の声を上げた。ところがもう一人は、赤い夕陽を見ているうちに過去の辛い体験が甦って来て、やるせなさに襲われた。同じ事象を前にしたとしても、感じ方とその後の「記憶」が違って来るのです。
では、どうして違うのでしょう? それは、その人が持つ思考パターン、感情パターンの「癖」です。だとすれば、いつも悲嘆に暮れている人は、未来に起きる事象に対しても、やはり悲嘆に暮れるという「癖」を持ち出すことになります。これが「未来は変えられない」という意味です。未来を創り出すのは、自分の「癖」なのです。
しかし過去は「記憶」にしかないのですから、「記憶」を変えてしまいさえすれば、「過去は変えられる」ことになります。
たとえば、子供時代に親から酷い扱いを受けたという「記憶」を持ち続けていたとしましょう。しかしその「記憶」を構成しているものの大部分は、自分が作り上げた感情なのです。事実は不確かでもう解らないのです。
これは私自身がそうだったのですが、竹尺で叩かれたり、家の前の電信柱に括り付けられたりした「記憶」、永年のわだかまりを、母親に「あれは虐待だったのではないか?」と質したところ、あっさり「若かったから」と答えられて、拍子抜けしたことがあるのです。しかし、そんなものなのか、と納得もしました。
これで私の「記憶」に変化が起きました。つまり「過去は変えられた」のです。
さて、もう一歩進めましょう。そのようにして過去を変えて行けば、思考パターンの「癖」も変わるということです。そして遂に、何事に対してもポジティブに解釈する「癖」をすっかり身につけたとしましょう。「未来は変えられない」のですから、その人の未来はポジティブなものになるしかないということです。
この推定値をそのまま鵜呑みに出来るかどうかは解りませんが、私の周囲の人たちを見ても、貧困状態にある子どもたちの問題は、相当なものであろうと感じています。ただそれが、表に出て来ない。なぜなら、貧困のあり方はそれぞれの家庭の個別の問題であり、括られた形になりにくいからです。それで、無視されてしまうのです。
子どもの貧困の問題は、ただお金がないということに留まりません。多くは片親で、親は生活費を得るためにダブルワーク、トリプルワークをして必死に働いているので、食事の手当てをする余裕がありません。そこから、孤立化が生じたり、病気になったり、やがては精神的なストレスから虐待を招いたりという負の連鎖が始まっていくのです。
そればかりではありません。学習する環境が整っていないことから、子どもは学校の授業に着いて行けなくなり、社会から排除されて行ってしまうのです。
前に、通信制中学を卒業した72歳の男女を追った、同じETV特集のドキュメンタリー『学ぶことの意味を探して』のことを書きました。この2つを観ると、言葉は悪いですが、まるで使用前、使用後のようです。
『学ぶことの意味を探して』に登場した男女は、子ども時代に教育を受けられなかったことで、その後どれだけの辛酸を舐めて来たかを語っていたのですが、いま貧困家庭にある子どもたちは、まさにその同じ入口に立たされているのです。
国は、昨年「子どもの貧困対策の推進に関する法律」を定めたということなのですが、まだ何も動いていないそうです。こうした法律を、定めないよりは定めた方がいいでしょうが、私は矛盾と憤りを感じます。熱が出たから冷ます対策を考えなければいけないという前に、熱が出ている根本原因をどうして改めようとはしないのでしょうか?
これほど多くの家庭に貧困が生じているのは、貧困を生み出す社会構造を放置しているからです。いいえ、もっと言えば、過去20年に渡って政府がそれを積極的に作り出してきたからです。貧富の格差が生じる経済政策を、意図的に推進してきたからです。その結果が今です。
そして国民から文句が出たら、初めて手当てを考える。しかしそのコストはいったい誰が負担するのでしょうか? 国や自治体がするのですか? では国や自治体の財源はどこから生じるのでしょうか? 結局は税金です。税金をいま取るか(増税)、将来にツケとして回すのか(国債)の違いだけです。
結局、国民をますます貧困に追いやっていくだけではありませんか。いったい誰のための政治なのでしょうか? その裏でいったい誰が得をしているのでしょうか?
メディアは完全にコントロールされているので、政府に都合のいい情報しか流しません。国民の殆どは真相をよく知らずに、体のいいスローガンに騙されて、自分たちの首を絞める政策を推進する政治家を、自分たち自身で選んでいるのです。選ばされているのです。
集団的自衛権が国の将来にとって重要な問題だと政府は言い、メディアがそれを報道する。では子どもの未来と、集団的自衛権と、どちらが国の将来にとってより重要な問題なのでしょうか?
子どもは、やがて国の将来を担うことになります。でもその子どもたちの多くが、切り捨ての状態に置かれているのです。そうして将来に、国が作った借金の返済を負わされているのです。今の政府、政治家が目指しているのは、一部のエリートが大衆を支配する政治です。アメリカ型の政治の追随です。そこに民主主義はありません。