by Rainbow School
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キューブラー・ロス女史の自伝『人生は廻る輪のように』を読んで
友人から、「これ面白いよ」と言われ、エリザベス・キューブラー・ロス女史の自伝『人生は廻る輪のように(The Wheel of Life)』を渡されました。忙しくてしばらく放っておいたのですが、電車の移動時間に読み始めたら、ぐいぐい引き込まれ止まらなくなりました。

エリザベス・キューブラー・ロス女史(1926-2004)と言えば、言わずと知れた『死ぬ瞬間』の著者。この本の上梓は1969年ですが、これはその後のニューエイジ・ムーブメントに多大な影響を与えた、古典的名著の一冊と言っていいでしょう。

なにしろ、それまでは「死」についてまともに研究・考察されたものが何にもなかったのです。同時期、ヴァージニア大学精神科の教授だったイアン・スティーヴンソン博士(1918-2007)が、「生まれ変わり現象」を調査・研究しており、このお二人が学術的な死後世界探求への先駆者となったのでした。

加えてロバート・モンロー博士(1915-1995)が、「体外離脱体験」の研究を行っていたのも偶然とは思えません。それに全員がヴァージニアに関係していることも。この時期に、アメリカで、死後世界への探求が一挙に花開いたのです。注目して欲しいのは、みな精神科医であったり科学者であるということ。

それはアメリカが、プロテスタントが創った宗教国家であったことと無縁ではありません。70年代に花開いたニューエイジ・ムーブメントは、それらに対する、更なるプロテスト(抵抗運動)であったのです。ああ、それに比べて日本は、なんて平和というか、遅れているのでしょうか。

『人生は廻る輪のように』を読んで、ロス女史が、常に闘争心を燃やし続けた人であったことを知りました。おそらくその短気さが、晩年に脳梗塞をもたらしのでしょうけれど、解っていても生き方を改めない、その不屈の闘志には爽やかさまで感じて「自分もこうでなければ」と思わされました。そして何より、ここまでいくと可愛げがある。

「生と死」を考察するワークショップを連続開催しているときの、同僚医師たちの冷ややかな目。「末期患者を食い物にしている」という誤解と偏見。エイズ患者のためのホスピスを創ろうと奔走する彼女に、降り掛かる地元住民の反対運動。さらには家の焼き討ち、銃撃まで。

数々の試練に合いながらも、その度に居を移し、不死鳥のごとく甦っては疾走し続けるエネルギーにはまったくもって感嘆する。それには、溢れんばかりの愛と、そしてちょっぴりの意固地が必要だったんですね。その背後に、一貫して流れている彼女の意思は、明白で本当に力強い。

人はたとえ、どんな境遇にあっても、教訓を得て成長することができる。その機会を無視したり、ましてや取り上げてしまうことがあってはならない。そこに向き合い、援助の手を差し伸べれば、新しい気づきを得て自分も成長できるのだ。そしてそれこそが、無償の愛である。

私はそのように読み解きました。

薬指
軟膏などを塗るときには、どの指を使いますか? アトピーの痒み止めを塗ろうとして、ふとそんな疑問がわきました。試しに何人かに訊いてみると「人差し指」という声が多かったです。そりゃそうでしょうね。いちばん動きますから。

でも何で薬指なんだろう。私の母の世代では、確かに薬指を使っている人が多かった。小皿に何かを溶く場合にはたいてい薬指でした。口紅は今はみんなリップスティックだけれど、指で塗る場合には薬指を使っていましたね。

薬指は五指の中ではいちばん動きが悪い。それなのに、そんな細かな作業をさせるのはどうしてでしょう? あれこれ試しているうちに、別の考えが浮かびました。それは、日常生活でいちばん使わない指だから、というもの。

料理をしている時には、親指、人差し指、中指を最もよく使う。インド圏やイスラム圏では、右手のこの三指を使って食べ物を口に運びます。日本でも寿司をつまむのは、親指、人差し指、中指です。

だとすると、薬を塗った指は、食事のためには使いたくないですよね。それで、消去法的に薬指を使ったのじゃないかな? この指は「お薬」専用ということで。ちなみに私は、人差し指より薬指の方が長いです。
スーパーマーケットがつまらない
アメリカに行って、初めてスーパーマーケットを見た時には感動しました。食材の豊富さ、種類の多さ。野菜も肉も魚もみな色とりどりで、スパイス類やチーズ、ワインの豊富さに圧倒されました。たちまち頭の中に映像が浮かび、料理の意欲を掻き立てられました。

その当時も、日本のスーパーマーケットにはガッカリしていましたが、今やそれを通り越して、まったく行く気がしなくなりました。とにかく買いたいものが、なーんにもない!

総菜と加工食品ばっかりで、コンビニを大きくしただけの品揃え。野菜は人参、玉葱、ほうれん草といった定番ばかり。魚は全部切り身。そして各種の「たれ」と「素」だけはズラーっと並ぶ。日本のスーパーマーケットは、すっかり料理をしない人のお店になっちゃった。

「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたというんだけれど、ちっとも誇れやしない。これはつまり「絶滅危惧種」になったということ。都会の家庭にもはや「和食」はありません。そのうち、博物館にしか「和食」が無くなっちゃうよ。

料理本も雑誌の記事も、いかに手を抜くかという話ばかり。それで何を獲得できたのかな? 調理技術を失くし、四季の感覚を失くし、伝統文化を失くし、家族団らんを失くし、親の愛を失くし、味覚オンチと添加物と不健康を獲得しただけじゃないの。

心ある人は、いま方向転換しないと、取り戻せなくなっちゃうよ。
死に対する恐怖
知人のKさんが、新聞の切り抜きを送って来ました。手紙が添えられていなかったので、どういう意図か解らないのですが、私に読ませたかったのでしょう。
それは「人生案内」と題するQ&Aのコーナーで、18歳の学生さんの質問と、それに対する哲学者の回答が載っていました。

18歳の学生さんの質問とはこうです。自分はこれまで、死を忌避し続けてきた。死というものを考えると、恐怖に襲われる。自分がこんなにも死を怖れるのは、死に対して無知だからだ。死後も魂は残るのだろうか。死を悪者のように扱う概念を変えたいが、どうしたらいいだろうか。

これに対する哲学者の回答は、こういうものでした。

どうやら君は穴蔵に入ってしまったようですね。人間はいくつになっても自分が消えてなくなることへの不安から解き放たれることはありません。死には二つの側面があり、それは自分の死と、身近な人の死です。君は自分の死のことしか考えていないようですが、「死なれる」側のことも考えてみる必要があるのでは?

一読して、あんまりだと思いました。質問に何も答えていないどころか、18歳の少年を、さらに混乱させ、暗闇に放り出すようなことを平気で語っている。これが「哲学者」というものなのだろうか、と思いました。

知らないことは「知らない」、解らないことは「解らない」ときちんと言えばいいのに、「いくつになっても自分が消えることへの不安から解き放たれることはありません」だなんて。そんな仮定に過ぎないものを、一般論にして18歳に説いていいものだろうか、と憤慨しました。

人は、臨終を迎えても死にません。肉体の死後も霊魂は生き続け、魂の完成を見るまでは、何度でもこの世に転生してきます。この道理を理解し、さらには頭で解るだけでなく、自分の肉体に完全に溶け入れて一体化した後には、死が恐怖ではなくなります。

私の母は、昨年死にましたが、死の一ヵ月前には「なかなか死にきれないんです。だからもう少し迷惑かけますね」と私に言い、死の直前には「私、死ぬわね」と言って、死にました。自分が消えてなくなることの恐怖など、微塵もありませんでしたよ。

さらに言えば、肉体だって「消えてなくなる」ことはありません。灰になると消滅したように見えるだけです。死んでも肉体を構成していた原子は、バラバラになったあと別のものと化合したりして、この世に留まり続けるのです。これが、万物を構成している自然の法則です。

ふだん我々は、他の命を殺し、それをいただくことで生きています。自分が死ぬ時には、今度は他のものを生かすように、役目を果たす存在に自分がなるのです。

このようにして、命をいただいたり、あげたりすることで調和しているのが「自然」です。死は「自然」の営みであり、死があるからこそ生があるのです。ですから、怖がる必要はまったくありません。
自由と平等ということ
誰もが、「自由」と「平等」は保証されるべきものだと言います。口ではみなそう言うのですが、実際にはそれを追求しようとしない人のなんと多いことでしょうか?

「自由」とは、何ものにも束縛されないこと。
そもそも人は、本来的に「自由」な存在です。なぜなら、それを求めればこそ自我が生じたのですから。自由意志の原則、これは人間のみならず、あらゆる生物に対する最高のギフトです。

しかし、何ものにも束縛されないということは、「孤独」を引き受けるということとイコールです。これが怖いために、多くの人は、最高のギフトを受け取らず、自ら進んで「束縛」を選んでしまうのです。

そこには錯覚があります。「孤独」と「一人ぼっち」を一緒くたにしてしまう。でもこの二つは別物です。「孤独」は存在を言っていて、「一人ぼっち」は状態のことを言っている。「一人ぼっち」は誰かと接触することで解消できますが、「孤独」は解消できません。

人はそもそも「孤独」な存在だからです。これを見つめ、引き受け、さらにそれを乗り越えることが、「自由」に対する課題です。その課題をクリアできれば、「一人ぼっち」が怖くなくなるし、人間関係の対処の仕方も自ずと変わって来るのです。

でもその道理が解らないから、人々は「孤独」を見つめず、引き受けず、「一人ぼっち」の淋しさを紛らわそうと絶えず外の世界に目を向け、一喜一憂し、束縛したりされたりする道の方を選ぶのです。自分で考え行動することを放棄し、適当な指導者を見つけて、言いなりになる道を選んでしまうのです。

「平等」とは、状態を同じにすることではありません。「自由」である限り、状態が同じにはならないことは明らかです。自然界を見れば、もの凄い多様性が図られていることがお解りでしょう。そしてそれは絶えず変化し、消滅を繰り返しながら、全体として調和が取れているのです。

「平等」とは、このメカニズムが、万物に「平等」に作用しているという意味です。ですから「平等」の中では、自然界の他の生物がそうであるように、「自立」が求められるのです。つまり「平等」とは、「自立」しなければならないということとイコールです。

ところが、「自立」を拒否し、依存・共依存の関係を選択する人のなんと多いことでしょう。

「自立」にともなう困難が怖いから、課題に挑戦することを避けて、絶えず目の前のお楽しみを探し、刺激に一喜一憂し、とりこにされる道の方を選ぶのです。自分で考え行動することを放棄し、適当なお楽しみを見つけて、自分を売り渡す道を選んでしまうのです。

「自由」とは「孤独」を引き受けること。
「平等」とは「自立」の道を歩むこと、です。

この覚悟を避けていたら、成長はありません。
結婚願望
これまでこのブログで、意識的に避けて来た話題があります。それは「恋愛」に関すること。「病気」「お金」「人間関係」に次いで多い悩みが「恋愛」であることは解っていましたが、自分には語る資格がないと思っていました。何しろカミさんに、「あんたって本当に女心のわからない人ね!」と、ずーーーーっと言われ続けていましたから。

そう、女心が解らないのです。冷徹過ぎてネ。
恋の悩みというのは、結局のところ、相手が「自分の思いどおりの人であって欲しい」そして「自分のことをもっとよく解って欲しい」という二つの思いの、お互い通しのぶつかり合いです。要するに、お互いにまだ相手のことを考えられない、未熟な魂の学習段階です。

ちょっと考えれば、その二つの願望は、エゴの発露でしかないことが解るでしょう。なぜなら「自分のことをもっとよく解って欲しい」という裏側には、守りたい自分のアイデンティティというものがある。ということは、相手の思いどおりになど自分はなれないということです。

それなのに、相手に対しては「自分の思いどおりの人であって欲しい」と願うのですから、これを矛盾と言わずして、いったいなんと言うのでしょう。

でも、それを言っても理解できません。みんな自分のことしか考えられない状態にありますから。「恋」に落ちる(falling love)とは、正にそういうこと。本質を言ったところで、「そういうことじゃないのよ、今の私の悩みを聞いて欲しいのッ!」と言われてしまいかねません。だからこういうことは、女性に相談した方がいいです。

先日も、「結婚したいんだけど、いい男が全然いない」と嘆く女性に言ってあげました。「あなたは、自分が買うことばっかり考えてませんか? 結婚というのは、自分が買われることでもあるんですよ。自分という商品が、もの凄く魅力的であったとしたら、誰もあなたを放っておきゃしませんよ」

そうしたら彼女、「う〜ん、キツイ」ですって。
だから、恋愛の話は、私に相談してもムダなの。女心が解らないから。
インターネット検索の今
インターネットが登場して、それがどんなものか解りかけたとき、私は喜びました。あまりお金の掛からない自分の表現方法を見つけたからです。それと図書館へ行かなくても、色々なことが瞬時に調べられるのは、非常に有益でした。

これでマスメディアの支配構造から脱出できる、という大きな可能性を感じたのも確かです。何しろ、それまでのマスコミの偏向報道、意図的な情報操作には、全くウンザリしていましたから。新聞も民放も地上派テレビニュースを見ることも、みんな止めました。

おかげでスッキリして、却ってものごとの本質がよく見えるようになりました。ニュースを見ないので、世の中の「今」の動きについては殆ど知りません。それでも、漏れ伝わって来る情報がある。それをポツポツと置いてみると、背後にある本質が見えるのです。

歴史の年表を見ているような感じと言ったらいいでしょうか。AというポイントとBというポイントの断片的事実がある。AからBへ、どうしてそういう展開になったのか、それを探りに行くと、解明のために必要な情報だけ見つかって、裏に流れている本質が解るのです。

けれども、みんな連続的な変化に一喜一憂しているので、その時には知っている気になるのですが、そこに埋没してしまって、事件が過ぎ去ってしまったら却って何も残らないのです。「あれ、なんだったっけ?」「ああ、そんなこともあったわね」「‥‥」

そのように、私にとってインターネットは、情報への接し方を劇的に変えました。ところが‥‥

最近のインターネット広告のうるさいことといったらない。広告がいやで民放テレビを止めたのに、今度はインターネットを開くと、頼んでもいないのにどんどん追いかけてくる。そして「こっちを見ろ!」「これを買え!」と、ピカピカさせたり、クルクルさせたり、脅しをかけたり、忙しいことこの上ない。

これって、私の検索履歴や閲覧履歴を瞬時に分析して、その人に合った「おすすめ」を提案してくださっているんですよね。う〜ん、ありがた迷惑だなぁ。

と思っていたら、今や事態はもっと進んでいることを知りました。GoogleやYahooなどの大手検索サイトでは、その人に合った検索結果を表示するというのです。たとえば「エジプト」で検索したとします。日頃からニュース報道などに関心を寄せていた人の検索結果には政治的な動きに関する結果が出るのに、観光情報をよくクリックしていた人には観光に関するベストリンクが表示されるというのです。

つまり、普段のクリックの傾向に寄って、検索結果が異なるのです。普通の人は、検索結果のせいぜいトップ5くらいしか見に行きません。そうすると、それぞれの人が受け取る情報は、その人に応じた「狭さ」に集約されることになります。こうした操作を、検索エンジンのアルゴリズムが自動的に行っているというのです。

*アルゴリズム【algorithm】:コンピュータを使ってある特定の目的を達成するための処理手順。

インターネットの魅力は、マスコミからは得られない、自由でオープンな情報だったはずなのに、今やそうではなくなっているのです。富と権力を持つ者によって、大衆操作を行う道具に成り下がったマスメディア。これに加えて、インターネットではその人の関心を拡げない、狭いところに留めておく操作が行われるようになったのです。

のほほんとしていたら、我々はこうした状況の餌食にすぐされてしまいます。しかし、自分で「気をつける」くらいしか、よい対抗手段がありません。
スマートフォンはステューピッドフォン
中高一貫校の教師をしているという人から、最近聞いた話です。その学校で、スマートフォンの使用時間と学力との関係を調査してみたところ、使用時間が長い人ほど学力が低下している、という明らかな相関が認められたというのです。

これはかねがね、私が懸念していた通りの結果です。これでは「Smart Phone」ではなくて「Stupid Phone」ですよね。電話の機能は確かに賢いんでしょうけれど、それを使い続けていると、どんどんおバカになって行ってしまうのです。

理由は簡単です。自分で考え、想像し、判断する能力をしだいに奪われてしまうからです。それらは、私に代わって賢いスマホがすべて導いてくれる。自分の頭脳は訓練されないまま育ってしまうのです。まったくスマホという道具は、神のような存在です。

ここまできたら、スマホへの信仰はもう捨てられません。もしスマホに見捨てられたら、考えることも、想像することも、判断することもできない自分が、たちまち浮き彫りになってしまう。きっと不安で、落ち着かないことでしょう。

今は、全世界的に壮大な実験中。子供のころからスマホに親しんで育った人たちが、大人になったらいったいどうなるのかな? 社会はどうなるのかな? たぶん、心療内科や精神科が、今以上に大流行りするんだろうなぁ。

写真が発明されたばかりのころ、文明から遠いところに居た人々の中には、写真に撮られると「魂」が抜かれると考えた人たちも居たのですが、今はスマホで「魂」が抜かれている。そして、そのことに気がつかないスマホ中毒患者でいっぱいです。

恐ろしい点は他にもあります。若者特有の思考は「流行に乗り遅れない」こと。乗り遅れることは、取り残されること。だから、恐怖心がある。「私は私」って堂々と言えない。大多数は言えるものをまだ持っていません。だから一斉に、みな同じ方向に向かう。

それは、大衆をコントロールしたいと考えている人たちにとっては、これ以上なく、好都合なことなのです。国境を越えた、超巨大な一元化が可能ですから。だからTwitterにしろFacebookにしろ、数を拡大することばかりを煽るのです。

自分がその戦略に易々とハメられ、いつの間にかメディアの奴隷になっていることに、本人は全く気づいていません。むしろ嬉々として、自から望んで、奴隷になることを選択しているのです。これ以上の「Stupid」は、ないのではないでしょうか?

冒頭の先生の学校では、校門に入った時点で、生徒に「スマホ使用中止」の規則を設けているそうです。しかし私は、それだけを課しても問題は解決しないだろうと思っています。若者がスマホ中毒になるのは、それを超える別の魅力を発見できていないからです。

核家族化し、コミュニティも崩壊し、日常生活上の多様な「価値」を見出したり体験したりする機会は、著しく現象しました。そのような中で、いつでもどこでも外界に向けて開いている小窓は、まるでドラえもんのポケットのよう。

この「便利さ」を超える「魅力」を、周囲の大人たちが提示できるかどうか。子供たちの未来は、そこに掛かっている気がします。
色眼鏡の上手な掛け方(2)
よく「人を、色眼鏡で見てはいけない」と言います。これは偏見に対する戒(いまし)めの言葉ですが、「色眼鏡で見ない」ということは、本当に可能なのでしょうか?

前回書いたのは、実在するものとリアリティ(現実感)とは違うということです。我々にある認識は、あくまで個人個人のリアリティであって、それは人によっても違う。その意味で言えば、我々は実在というものをどうやっても捉えることはできないということです。

このことは、とても重要な事実を我々に突き付けます。「霊界」の話をすると、「そんなものウソ」だとか「ありえない」と、頑強に否定する方がいらっしゃるのですが、そういう方が「現実」だと捉えているものも、実は思った通りに「在る」かどうかは分らないのです。

確かだと言えるのは、自分の中のリアリティだけです。だとすれば、「この世」のリアリティも、「あの世」のリアリティも、「リアリティ」という意味においては、なんら差はないのです。そして少し訓練すれば、誰でも、眠っていたセンサーを働かせて、「あの世」のリアリティを実感することができるようになります。

話を戻して、この理屈から言えば、「色眼鏡で見ない」ようにすることは不可能だということです。人は必ず、外界にあるものすべてを「色眼鏡で見る」のです。他者を「色眼鏡で見る」のです。まったく困ったものですねぇ。

しかし、こう考えていただきたいのです。他人を「色眼鏡で見ない」ようにすることは不可能だけれども、いい「色眼鏡で見る」ようにするのです。

「粗(あら)探し」という色眼鏡を掛ければ、他人の「粗」ばかりが見えて来ます。でも「よいとこ探し」という色眼鏡を掛ければ、「よいところ」が見えて来る。これは大きな違いです。実に、指導者や、教育者の任にある者は、これでなければなりません。Educateの語源は、引き出すということなのですから。

そしてそれは、他者のためばかりではありません。「粗探し」の色眼鏡と、「よいとこ探し」の色眼鏡とでは、どちらが掛けていて気持ちいいでしょうか?

「粗探し」の色眼鏡を掛け続けている人は、その重さを支えるために、眉間に皺が寄ってきます。自分の心が真に満たされていないことが、表情を見れば一発で分ります。愚かなことです。「粗探し」の色眼鏡を掛け続けることで、自分で自分を追いつめているのです。

重たい「色眼鏡」は外しましょうよ。そして、軽やかな「色眼鏡」に掛け替えましょう。そうすれば、自分の心も晴れやかになるし、人間関係だって、今よりずっとよくなることは私が請け合います。
色眼鏡の上手な掛け方(1)
前回は、あるオーナーが掛けた色眼鏡のことについて書きました。今日はその続きになりますが、これから書くことは基本的な知識としてぜひ知っておいて欲しいことがらです。「認識論」に関する問題です。

我々は、自分の外側にある環境や、物や、事件や、事象を見て聞いて、自分がいつも正確に認識していると思い込んでいます。ところがそうではないのです。

自分の外側に何かが「在る」と仮定します。そのとき、先ず我々は、感覚器(眼、耳、鼻、舌、皮膚)によってそれを捉えます。次にそれを信号として脳に送ります。脳では新しく入って来た信号を、過去の体験と照らし合わせて何であるかを判断します。そして次にそれを解釈します。

我々が普段、何気なくそこに「在る」と認識しているものは、みなこのようなプロセスを経て、知覚・認識されているのです。

さてそこで、どういうことが問題になるでしょう。先ず人によって、感覚器の性能が違うということです。中には先天的にあるいは後天的に、ある感覚器を持たない人もいます。すると最初の「知覚」という段階で、すでに相当なバイアス(偏り)が掛かっているということになります。

次に、そのバイアスが掛かった信号が脳に送られた際に、「判断」というバイアスがさらに掛かります。例えば、いつも納豆を食べている人は、納豆というのはこういうものという過去データを持っています。でも初めて食べる人は「これは腐っている」と思うかも知れません。

次に、その「判断」を「解釈」します。ここで、その人の思想、信条、価値感などが大きな影響を与えることになります。発酵食品は体にいいものだと考えている人と、自分の好きなものだけ食べていればいいと考えている人とでは、「納豆」一つとっても、「解釈」がまるで違ってくるのです。

このように、外界にあるものに対する我々の認識には、何重ものバイアスが掛かっています。ですから、そこに「在る」と考えたものが、自分が考えたように在るのかどうかは実は分らないのです。「在る」と思うのは、我々の認識がそう思うからであって、思わなければ、それはないのです。

「そんなバカな」と思われるかも知れませんが、このことは日常的にしょっちゅう経験されている筈です。例えば、ある人が「ほら、いまウグイスが鳴いたよ」と言っても、それが聴こえなかった人には、近くにウグイスが居たとは思えません。同様に、オーラが見える人にはそれは在るし、見えない人にはそれは分らないのです。

実はこの、外界にある物が、在るのか無いのかという議論は昔からあって、仏教でも「一切が在る」と主張する人たちと「一切が無い」と主張する人たちとで、派閥が分裂してしまったほどです。これは両方とも極論であって、正解は今述べたように「在ると思えば在るし、無いと思えば無い」ということになります。

さて、いま見て来たように、我々が正しいと信じ込んでいる外界の認識は、極めて不確かなものであり、主観に基づくものでしかないということになります。純粋な客観などは存在し得ないのです。ところが、その主観を、客観だとみなして(思い込んで)、あれこれ議論しているのが我々なのです。

以上のことを前提に置いた上で、次のことを考えて見てください。
よく「人を、色眼鏡で見てはいけない」と言いますよね。これは偏見に対する戒(いまし)めの言葉ですが、「色眼鏡で見ない」ということは、本当に可能なのでしょうか?(明日に続く)