by Rainbow School
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夫婦の亀裂
どんな悩みや問題も、霊的世界の法則にまで迫らなければ、本当に深いところは解りません。病気のこと、人間関係のこと、お金のことから、数学や物理学や生物学や天文学に至るまでです。本当は、答えはみな用意されているのですが、そこに見向きもせずに右往左往しているのが「この世」の住人たちです。

たいていは、せっぱつまった状況になって初めて「もしかしたら、今まで考えていたこととは、違う真理があるのではないだろうか?」と思い当たるのですが、そこを掘り下げて一歩進む人と、「この世」の論理に引き戻されて、また右往左往する世界に戻って行く人がいるのです。

これが家族の中で、とりわけ夫婦間で違いが生じて来ますと、なかなかやっかいな問題を引き起こします。片方が「今までの私の生き方は間違っていたのかも。少しでも真理の道に迫りたい」と考えて行動を開始しますと、もう片方は「どうも最近おかしい。何か変な考えに取り憑かれたのではないか」と疑心暗鬼に駆られるようになるのです。

三つ又の交差点に立って、二本に分かれた道を、さてどっちを歩もうかと思う。それで試しに、夫婦で別々の道を歩み出す。最初のうちは声を掛け合って「おーい、そっちはどんな具合だ」などと、探り合いながら進むのですが、そのうち道はどんどん離れて、声も姿も見えなくなる。

ここまで至ると、価値感の違いが、生活上の隅々にまで表れて来るようになります。それは、食事の摂り方であったり、祈りや瞑想習慣であったり、と。

それを目の前にすると、拒否感の強い人は「私のパートナーは、どうもおかしな思想に洗脳されてしまったようだ。大事にならないうちに引き戻さなければ」と焦って来るし、もう片方は「どうしてあの人は、別の世界があることに気がつかないのだろう」と、これまた焦燥感を募らせて、両者の亀裂がどんどん大きくなって行くのです。

正に、私がそうでした。うちの奥さんは、私に対し「自分をちっとも楽しませてくれない。現実を見ようとしない」という恨みの思いをどんどん募らせて行き、あまりに激しい恨みから、遂には癌に罹ってあっさり死んでしまいました。これほど、極端な事態に発展する例はあまりないかも知れません。そして、そこに至るまでの地獄のような葛藤の日々。

しかし、「救い」があったのは、そのような激しい反発を見せていた彼女も、最後には感謝の言葉を残して死んで行ったことです。「私、病気になってやっと解ったの。だから、病気も悪いことばっかりじゃないよ」と、話していました。こと、ここに至って、彼女も気づいたのです。パッと掴んだのです。真理への扉を。最後に立ち上がって、彼女が窓外を見た時、空には虹が掛かっていました。

彼女の死は、ギフトで、だから私が今こうして、そのギフトを皆さんにお返ししたいと思っているのです。それが、彼女に返すことになりますから。

だからどうか、精神世界への扉をきっかけに夫婦の危機が生じても、私が経験したような「極端」には進まないように努力していただきたい。ハンドルの遊び部分を多くして、ゆるゆると相手に接し、スマイルとジョークで乗り切っていただきたいと思うのです。
地球さんの気持ち
地球環境は、これから増々ひどくなっていく一方です。地球さんの身になって考えますと、あちこちホジクリ返されたり、木を刈られたり、汚染物質をまき散らされたりして、体はもうズタズタ。

傷の手当てや、高熱を散らす必要性から、修復したり(地殻変動)、冷水や風で体を冷やしたり清めたり(台風・水害)という、自然治癒力を最大限発揮するしかなくなっている状態です。

しかし、今の中国を見ていれば分るように、どんなに環境が悪化しようとも、人間どもには経済発展をやめようという考えはありません。このまま行きますと、自分たちが住める環境が全くなくなるまで、経済発展を続けるであろうことは確実です。

これは癌細胞クンの動きと全く同じです。癌細胞クンは、ほどほどということを知りません。自分を生かしてくれている宿主が死ぬまで、経済成長を続けるのです。宿主が死んだら、自分も死ぬのに‥‥。

もちろん、全部が全部そう考えているわけではありません。しかし、政治を操る者と、金融と経済を操る者の上層部が、みなそういう考えの人たちばかりなのですから、大衆の一部がワーワー言ったところで、もうどうにもなりません。

また、日本においても「アベノミクス」を掲げる安倍首相率いる自民党政権を、有権者が選んだのですから、やはり「景気回復」「原発維持」「増税やむなし」に賛同している人が多かったということです。

今後は、物的な more and more をなお続けようとする人と、そうではない、非物質的なものの(つまり霊性の)成長を目指そうとする人との二極化傾向が、増々大きくなっていくことでしょう。

霊性の成長を目指そうとする人は、世の中の流れや圧力に屈せずに、己の道を歩んでいただきたいと思います。
すべては内側に在る
「すべては内側に在る」
ベニシアさんの「猫のしっぽカエルの手」の再放送を観ていたら、その気づきが、彼女の再出発点だったと語られていました。

イギリスの貴族の家系で、お城で生まれたベニシアさん。しかし、そのような環境で育ちながらもどこか満たされないものを感じて、彼女は放浪の旅に出ます。そしてインドに渡って、このことを知らされ、それから人生が転換してしまったのでした。

実に、私がお伝えしたいことも、究極的にはそれしかありません。
「すべては内側に在る」

芸術作品に触れても、本を読んでも、映画を観ても、人の話を聞いても、路傍の草花を見ても、見る人にしか見えないし、聞く人にしか聞こえない。
たとえどんなに輝いた言葉を送っても、見ない人、聞かない人には、届かないのです。

潜在意識の中に眠る直感だけが、それを見て、聞くことができるのです。
それは元々、あなたの中に在ったもの。
それと同じ考えや感じ方に出会った瞬間に、共鳴が起きて、何か新しい真理を手にしたり感動に出会えた気がするだけなのです。

もしそれが、人であった場合、あなたはその人を「師」と呼ぶかも知れません。それをあらゆるものに拡大すると「我以外みな師」となるのです。本も、映画も、路傍の草花もみな「師」です。しかし逆にこうも言えます。我に師はいない。どちらも正しいのです。

現代人の不幸は、その単純なことに気づけない環境に置かれてしまっているということ。外には、満たされぬ欲望を刺激するありとあらゆるものが提供されています。小川のせせらぎを聞いたり、月を眺めたりするよりも、そちらの方がずっと刺激的で楽しい。

それは、その人の内側がまだ何も掘り起こされていないということ。キラキラ輝く宝石が、地底の深くに眠ったままなのです。死ぬまでそうしておきますか? ガラクタはもういらないのじゃありませんか? 自分の中に眠る宝石探検に出かけましょうよ。

「すべては内側に在る」のです。
家元制度
世にはびこる「家元制度」。これを見ていると、人間というのは、誰かに隷属するのが好きなんだ、支配されたり、したりが結局のところ好きなんだ、と思えて来ます。きっと「自由」で居ることが、糸の切れた凧のような感じがして、怖いんでしょうね。

教えを乞うのはいいんです。でも何かや誰かを妄信したり、「先生、先生」と奉ったりするのはダメです。やっちゃいけません。何がいけないかと言うと、第一に「権威」のピラミッド構造を作ってしまう。第二にその「権威」を笠に着て、「権威」に服従するものは可愛がり、それ以外を排斥する動きに出てしまうからです。

逆に言えば、「家元制度」を採用する側は、それこそが狙いです。「権威」付けによって信奉者を増やし、ピラミッド型組織を盤石にすることで、安定した集金システムと、社会的なプレゼンス(存在感)を確立することができるからです。

しかし、それを追求すればするほど、異論を認めない、他者排斥の気運が高まって行きます。そしてそれが却って、組織の団結力を強めたりもするのです。そしてお決まりの内部抗争。「権威」付けの頂点にあるものに、誰がいちばん可愛がられているか、忠実であるか、という争いに発展し、やがて分裂してしまいます。

しかしその中身はと問えば、片方が「ここは右回りが本筋」と言えば、もう片方は「いや左回りが正当」といった類いの、実にくだらない争いです。本家と総家の看板争いや、血筋派と高弟派の争いなど、巷に溢れかえっていますが、みな「我だけが正しい」と主張して止まない。

呆れるのは、精神世界においても、「家元制度」を採用して、高い金を巻き上げている指導者が大勢いることです。言っておきますが、霊界に支配、被支配の関係はありません。高級霊に対する憧れと尊敬の念はあっても、「先生」などとは呼ばないし、基本的にみな自由です。自由意志の大原則がある。

韓国歴史ドラマの『馬医』をご覧になっている方はいらっしゃいますか? あの中の、サアム道人とペク・クァンヒョンの関係を見てください。師匠と弟子の関係ですが、「家元制度」を採っていないでしょう。

師匠は、ブランドを笠に高い教授料を取ったんでしょうか? いいえ、ペク・クァンヒョンが勝手に付いて行っただけです。師匠は、クァンヒョンにサアム派の流儀を守れと言ったでしょうか? いいえ、「お前はもうワシを超えとる」と言いました。後はお前の考えで自由にやれと言いました。

これこそが、本当の人材育成です。よき師匠とは、弟子に超えられることを無上の喜びとする者のことです。自分の支配下にピラミッドを作り、その頂点に君臨することを無上の喜びとする者とは、真逆であることがお解りでしょう。結局「家元制度」とは、教えるフリをして何も育てない制度なのです。
腹が減ると悪さに走る
もっと前に気づいてお知らせすればよかったのですが、4月24日に、NHKのハートネットTVで<「おかえり」―非行に走る子供たちの居場所―>という番組のアンコール放送がありました。私は昨年の放送時に録画して数回観たのですが、今回また観て感動を新たにしました。

*再放送が5月1日(木曜)午後1時5分にあるようです。興味ある方は観てくださいね。

番組は、広島市の公営住宅で暮らす中本さんというお母さんが、家庭で食事が満足に取れない子どもたちに自宅を開放し、30年に渡って食事を振る舞い続けて来たその活動の一端を取材したものです。

中本さんがこのような活動を始めたきっかけは、息子さんのPTA活動に関わる中で、空腹が原因で非行に走る子どもが大勢いることを知ったからだとか。うーん、凄い。
発見したことを見過ごさないで、自分の出来る範囲で、すぐに実行に移すことが出来るという人はなかなか居ません。

しごく単純なことなんですが、これが出来ない。
なぜかと言うと、自分の中の優先順位を変えなくてはなりませんから。だから、根底に無償の愛がある人しか、一歩を踏み出せないんです。

次に感銘を受けたのは、30年に渡って中本さんが活動してきて分ったことの教訓です。「子供は、腹が減ると悪さに走る」と言うのです。このシンプルな結論は、意外な盲点だったかも知れません。が、延べ200人以上の子供たちを見続けてきた人だけに説得力がありますね。

この「腹が減る」ということの意味には、文字通り「空腹」ということもあるでしょうが、それは同時に「腹が減っても満たされない」という環境にその子供たちが常時置かれていることを示しています。つまり、愛情不足です。腹も減っているが、心はもっと減っているんだということですね。

子供にとって、親の愛を確認できるいちばん身近なものは、食事どきのだんらんです。これを置いて他にはありません。動物の親がやっていることを見れば、すぐにそれが解ります。巣立つ前は、外敵から子供を守ることと食事を与えることしかしていません。そして巣立ちの時期を迎えると、狩りの仕方を教えて、あとはあっさりサヨナラです。

ところが人間の親は、有名私立の受験とか塾通いには熱心ですが、子供をハンバーガーや弁当やカップラーメンの孤食で育てていて平気なのです。そのくせ、子供が思春期になっても、成人しても、手放そうとはせずに「友達親子」を演じている。何という本末転倒でしょうか。

私も母とは確執がありましたが、それでも救われていると思うのは「食」の思い出があることです。私の母は、旨いものを知っていました。それで随分教えられた。それが今の自分の経験になっている。炊きたてのご飯で作ってくれた、「塩むすび」のおしかったこと。

海苔も巻いてない、ただの「塩むすび」ですよ。でも、それが何より大事なんです。潜在意識に刻み込まれた思い出なんです。それはセブンイレブンのおにぎりでは代替できないものなんです。しかし、現代人の親は、そんな簡単なことさえしようとしない。何を履き違えているのでしょうか?

中本さんは言います。「同じ非行に走る子でも、帰る場所がある子と、ない子では違ってくる」と。今や、ハウスはあっても、ホームのない子だらけです。ホームの基本は、食卓のだんらんなのだと、親たちには肝に銘じて貰いたい。だんらんの思い出がある子供は、大人になって、どんな目に遭っても、踏ん張っていけるのです。
「素直さ」が一番の宝
マギー審司さんという手品師がいらっしゃいますね。「耳でっかくなっちゃったー」の人です。この方はマギー司郎さんの3番目の弟子だということなのですが、弟子入りして10年後に、師匠を超える人気を獲得して突如ブレークしました。

もう何の番組だったかは忘れてしまいましたが、その頃のトーク番組で、司会者がマギー司郎さんにこう聞いたことがあります。「弟子として、マギー審司さんのどこがよかったんですか?」そうすると、マギー司郎さんが間髪入れずこう答えたんです。「彼は、素直だったんですよねー」

その答が意表を突くものだったので、こうして今でも覚えているのですが、私は当然、手品師としての素質のことを答えるのだろうと思っていました。ところが「素直だったんですよねー」と答えたことにびっくりしたわけです。でも考えて見ると、師匠側からすれば、なるほど「素直さ」ということが、一番の素質であることに違いありません。

「素直さ」と「好奇心」、この二つが人を成長させたり、また癒したりする際の原動力となるのです。「素直さ」と「好奇心」のない人は、自分自身を成長させることはできないし、癒すこともできません。「素直さ」と「好奇心」を持ち続ける限り、人は老化しませんし、成長し続けるのです。

ところが‥‥。自己流の「思い込み」や「決めつけ」を溜め込むことを、「大人になること」と錯覚している人の、なんと多いことでしょう。「あの人はこう、この人はこう」と判別し「○○であるべき、こうであらねばならない」を連発する。あーくだらない、つまらない。それが「老化」現象だということに、本人は全く気づいていないのです。

いいですか。「決めつけ」を溜め込むことは、自分の貯蔵庫の中身を増やしているんじゃないんですよ。入口の扉を、だんだんと狭くしていってるということなんです。そしてついには完全に閉じてしまう。それを「頑固」と言うのです。そんな人物が、魅力的であるわけがない。昔から、頑固ジジイ、頑固ババアが嫌われる由縁です。

では若い人たちはみな「素直」なのか? そんなことはありません。それは弟子入りしたマギー審司さんが、稀な人間だったということをみても分ります。若い人たちは、「素直」である可能性をより持っているというだけです。「素直さ」を発揮できるかどうかは、やはりその人次第なのです。
「支配」と「愛」の関係(その2)
さて、「支配」が「愛」の間違った使い方であることが解りました。でもどうして「支配」と「愛」が隣り合わせなのでしょう?
これはそのエネルギーをつかさどっている場(センター)が、同じ部位にあるからなのです。

ヨーガではこれを「アナハタチャクラ」と言います。心臓の位置にあることから、ハートチャクラと呼ぶ人も居ます。しかし物質的なものではありませんから、解剖してもそれを見つけることは出来ません。(知覚することはできます)

けれども多くの人が、「愛」と「支配」に関するエネルギーが、その場にあることを経験的に知っています。これが、心地よい、心当たり、心意気、心得、心懸かり、心変わり、心苦しい、心して、心遣い、心積もり、心強い、心無い、心ならずも、心憎い、心根、心残り、心細い、心待ち、心安い、心を奪われる、心配するなど、「心」がついた感情表現の言葉として多くが残っている理由です。

ですから「心」は「脳」にはありません。ところが、現代の脳科学者は決してそれを認めようとはせずに、全てを「脳」の機能に帰着しようとして、間違った知識を人々に植え付けています。それで心の問題が解決できればよいのですが、増々混乱を深めてきているのは、皆さんご覧の通りです。

戦争や飢餓や大災害などの悲惨な状況を見た時に、あなたは胸が痛みませんか? 「胸が締め付けられる」ような思いがするのではありませんか? 別に「脳」が痛んだりはしないでしょう? 頭痛がするときは、思考が混乱した時。それは眉間にあるアジナーチャクラの問題です。「愛」に痛む場所は、いつだって胸のチャクラなのです。

「心」という文字は、「ゝ」が4つ組み合わされて出来上がっています。これは二心房二心室を表現したもの。易でいう四象です。そして7つあるチャクラのちょうど真ん中に位置していますから「心」が「中心」を意味するようになりました。また音は「シン」ですから、「真」「神」に通じる場でもあるということです。

皆さんがよく知っているハートマーク(♡)は、二つの魂がしずくのように一緒になる様子を描いたもの。だから「愛」の象徴になっているわけですね。一方、スペード(♠︎)は、これを逆さにしたもの。一つだったものが二つに別れてしまう様子です。つまり「別離」や「二元化」を表現しています。

話を戻して、「支配」も「愛」も、同じエネルギーセンターを動かしていて、その部位は、肉体上では心臓の辺りにあるということ。この感覚は、男性より女性の方がよく解るはずです。なぜなら乳房があって授乳をするようになっているからです。それは「愛」の表現そのもの。ですから、キリスト教では聖母子像が多く描かれて来たのです。

一方の男性は、軍隊などで「胸を張れ!」などと言うように、他者支配にハートチャクラを使ってしまう傾向が強いのです。このような傾向を持つ人は、人の上に立ち成功者となる可能性が大ですが、いつかはそのエネルギーを「愛」に転換していくことを学ばなければなりません。

そうしませんと、間違った使い方でハートチャクラを動かし続けたツケが回り、体力が弱った時などに、心臓疾患でポックリ逝く可能性が出てきます。よく「あいつは心臓が強い」などと言いますが、それはその人の秀でた能力です。どうかそれを「支配」に使うのではなく、「愛」に使っていただきたく思います。
「支配」と「愛」の関係
「支配」ということの意味をもう少し見て行くことにしましょう。人はそれぞれ、姿形も、考え方も、心のありようも、みな違います。個性があるのです。この「個性がある」という特徴から、人間には常に、矛盾した二つの願望がせめぎ合うことになります。

一つは、他者より秀でたいという願望です。個性発揮の一側面です。ところが、それを推し進めただけでは孤立してしまいますので、逆に他者に同化したいという願望も生じます。これは霊界の真理から言いますと、元々一つだった魂から分かれたことによって生じる根源的な矛盾なのです。

そこで、人はこの二つの願望の中を絶えず揺れ動く訳ですが、他者より秀でたいという願望を満たしながら、同時に他者と繋がろうとするときに、「支配」という感情と行動が生まれてくるのです。これは、一見うまくいっているように思えますが、「支配」には、支配される側の人間、つまり被支配者が生じてきます。

被支配者は、自分の自由意志をうまく使えないので、支配者の支配権が及んでいる間はじっと我慢をしていますが、それが弱くなると、それまで溜めた不満を爆発させて復讐の行動に出ます。これが社会全体に及んだ現象が「革命(Revolution)」であり、家庭内で起きるものが「反抗期」です。

さて、支配者は非常に強い人のように思うかも知れませんが、実は真逆です。支配的傾向のある人の内面には、必ず怯えが隠されています。恐怖を打ち破るために「支配」という行動に出ようとするのです。その恐怖とは、自分が「支配」されるのではないか、という怯えです。これが集団的に作用したものが「戦争」です。

恐怖にかられている人は、地位、名誉、財産に代表される表面的な自己というものを捨てることができません。それが、自分自身のアイデンティティであると、固く信じ込んでいるからです。しかし、そんなものは砂上の楼閣で永遠ではありませんから、それを察知して恐怖に怯えているのです。

つまり、人を「愛する」勇気がない。「愛する」ためには、「支配」することも「支配」されることも止めなければなりませんから。それは、自己を規定している表面的なアイデンティティを捨てるということになるので、多くの人には恐怖が伴うのです。(本当は、捨てるというのは簡単なことなんですが‥‥)

このように、「支配」というのは、「愛」の間違った使い方なのです。本当の「愛」を知らないし、「愛」とはどういうものかが解っていません。まだ学習途上にある人なのです。ですから、支配的な人を見たら、そのように思って大目に見てあげましょう。大目に見てあげて、その支配の枠組みに入らないようにすることが大切です。
「弱さ」を武器にする人
他者を支配する。そう言うと、支配を目論む人間像というのは、何か強権的な力を持った人物を想像されるかも知れません。しかしそうとばかりも言い切れないのです。歴史小説などでは好んでそうした人物像が描かれますが、むしろそのような「強さ」を持った人物は意外に少ないのです。

ではどういうタイプが多いのか? 現代の日本においては、逆に「弱さ」を武器にする人が非常に多いのです。と聞くと「えっ?」と思われるでしょう。しかし周囲を見渡せば、すぐに思い当たる筈です。

身近におられませんか? 常に「ここが痛い、あそこが痛い」「具合が悪くて動けない」「私にはできない」「ひとりではどうすることもできない」などと言い続けている人が。

これは「弱さ」を武器にした支配なのです。本人には支配しているつもりはありません。自分では全く気がついていませんが、しかしそう訴え続けることによって、無意識のうちに周囲の者たちの関心を自分に引きつけようとしているのです。これは形を変えた支配です。

こういう人たちの特徴はすぐに判ります。そうやって「不調」や「能力不足」を訴えながら、それを克服する努力を何もしようとはしません。なぜなら、それが克服できてしまいますと、自分の「武器」がなくなってしまうからなのです。自分を振り向かせる手段が失われてしまうのです。

そこで、いつまででも「不調」や「能力不足」を訴え続けることになります。こういう人たちに同情してうっかり手を差し伸べますと、難なく術中に嵌ってしまいます。これを「共依存」と言います。手助けせずにはいられない依存症です。ですから、よく観察してみてください。依存性の高い人の周囲には、必ず「共依存」して支える人たちが居る筈です。

これは、一見「愛」の姿に見えますが、実際には「支配」「被支配」の関係です。健全な姿だとは、とても言えません。ですから、依存体質の強い人には、可哀想に思うかも知れませんが、手を差し伸べ過ぎてはならないのです。

それは、自分のためにも、彼らのためにもなりません。「共依存」と「依存」の関係を続けている限り、どちらも「自立」の機会を奪われてしまうことになるのですから。
「人生には3度チャンスがある」という意味
「人生には3度チャンスがある」と言います。数秘術(Numerology)カバラでも、人生上に3つの山を想定しますし、何より「山」という字が3つの連山を表しています。運勢学では、初年運、中年運、晩年運と、やはり3つに分けます。

若い頃の私は、これを人生の「好期」だと考えていました。何かの飛躍がもたらされるのではないかと思っていました。また「運命の女神には後ろ髪はない」とも言います。ですから、通り過ぎようようとした時に気づいたのではすでに遅く、やってきた女神の前髪をしっかり掴めよということです。

これはなかなか含蓄のある言葉です。そのためには、日ごろの努力が大切で、何が「好期」のサインであるかを見極める目を、充分に養っておかなければならない、ということです。たとえば、他の人が見向きもしないようなことをコツコツとやっていたら、いつの間にかその道の大家となって、お呼びが掛かるということも起きるかも知れません。

私は初年運を掴むのを失敗しました。バカな若者でした。そのせいで若年時代をほとんど棒に振り、辛酸をなめました。しかし今になって考えて見ると、そのおかげで人生の法則性について誰よりも深く調べたり考えたりするようになり、それが今日につながっているのですから、何がどうなるか判りません。

その結果、「人生には3度チャンスがある」という意味は、「この世」的な成功を意味しているのではないということが解りました。それは、自分の「性格」や「囚われ」を見直すチャンスが3度ある、という意味だったのです。事実そのようにして、私は初年、中年、晩年のスタートで性格が大きく様変わりしてしまいました。

言うなれば、一生のうちに3度の人生を生きたわけです。それによって、それまでの至らなさを反省し、自己を変えることができました。チャンスというのは、実にこのことを意味しており、「この世」的な成功も逆に失敗も、みなチャンスのために贈られたギフトだということなのです。

それが解れば「不運」に嘆く必要はもうありません。「不運」を嘆き続ける限り、自己の囚われがますますそこに貼り付き、自分で自分を悲劇のヒロインに仕立て上げてしまいます。それでは、チャンスをものにできないことになってしまいます。「不運」もギフト。そのチャンスをものにしてください。