by Rainbow School
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エーリッヒ・フロムの『愛するということ』
NHK「100分 de 名著」でやっていたエーリッヒ・フロムの『愛するということ』(原題:The Art of Loving)全4回が終わりました。原題の意味は「愛する技術」ということだそうですが、フロムの主張は明快です。題名のとおり、愛するには技術が必要で、人はそれを学ばなければならないというものです。

この本が書かれたのは1956年とのことですが、本質を突いていて、今読んでもいささかも古びたところがありません。それどころか50年後の社会状況を完全に見通していたかのようです。もしかしたらフロムも「語り手」の一人であったのかも知れません。

フロムは、資本主義が「愛」を成り立たせにくくしていると言います。資本主義では、欲求は何でも「商品化」され、「愛」もまた「商品化」の対象にされてしまう。まさしく現代がそうではないでしょうか。出会いも、結婚も、出産も、子育ても、教育も、そして死んで墓場に至るまでもが「商品化」されています。

このような「商品化」に慣れてしまいますと、いつしか人はそれが当たり前だと思い込み、技術を習得する意欲も、知恵も失ってしまいます。すると、失った技術を埋めるサービスがまた新たに考案され、とうとう人はサービスなしでは何も行動できないロボットになってしまうのです。

周囲を見渡してみてください。食事も、育児も、介護も、教育も、お掃除も、何から何まで「商品化」され、人々は深く考えることもなく、それらに飛びついています。大衆はそれを「進歩」というのですが、実は著しく「退歩」していることに、全く気がついていません。

出会いや結婚は、「商品化」のプロセスで買えたとしても、夫婦間や家庭生活での「愛」を育む技術は、どこにも売っていないし、買えない。これが、離婚が急増している要因の底にある問題だと思います。つまり、「愛」は技術であり、習得して掴むものだという考えが、現代人にはそもそもない。

だから、生身の人間より、アニメが、フィギュアが、コスプレが、メイドカフェが、いいわけです。サービスをお金で買えますし、自分が傷つく心配もありませんから。
『モテキ』の藤本幸世くんは、そういう現代社会にあって、生身の人間と接触しようと必死にもがいている、愛すべき青年なのかも知れません。
生牡蠣騒動
昨日も食事を抜きました。それで少し回復して、今日は多少お腹が空き、昼夜2回食事を摂りました。でもまた失敗です。夜は抜くべきでした。お腹がクッチーナ・イタリヤーノ(膨満感というシャレです)で動くことができないし、頭も働きません。

生牡蠣に当たった後遺症から、まだ充分回復していなんですね。それなのに日曜日にまた暴飲したりして、すっかり疲れてしまいました。反省して、明日からおかゆに戻します。友人が、気を遣ってメールをよこしてくれました。

「牡蠣厳禁」ですって。うまい! 座布団三枚。
三波伸介さんの「減点ファミリー」
NHKプレミアムアーカイブズで1980年放送の『お笑いオンステージ』を観ました。今から34年前の放送ですが、保存状態もきれいで、フレッシュな感覚で当時のことを思い出しました。この番組は、日曜夜に放送されていた人気バラエティ番組で、前半が「てんぷく笑劇場」というコント、後半が「減点ファミリー」という2部構成になっていました。

改めて調べてみて、「てんぷくトリオ」の名前は「転覆トリオ」の意味で付けたことを初めて知りました。今まですっと「天福トリオ」だと思っていました。当時、由利徹さん、南利明さん、八波むと志さんの「脱線トリオ」が人気だったので、その向こうを張って「転覆トリオ」とシャレたんですね。

それと伊藤四郎さんが「てんぷくトリオ」の一員だったことをすっかり忘れていました。仲間の二人の死後、伊藤四郎さんが芸達者でシリアスからコメディまで何でもこなしたので、トリオ時代の印象が全く思い出せません。顔が強烈な三波伸介さんの印象ばかりが残っています。

さて、この三波伸介さんがMCをつとめた「減点ファミリー」を改めて観て、「ああ、いい番組だったなぁ」と思いました。シンプルな構成なんですが、先ず着眼点が面白い。最初、舞台に登場するのは子どもたちだけなんです。それで三波伸介さんが、子供たちにお父さんの顔の特徴を聞いて、似顔絵を描いていくんです。これがまた上手だった。

そして絵が出来上がると、子供たちが「お父さ〜ん」と呼んで、似顔絵の主が誰だか解るという趣向。このあと、お父さんに子供たちのことを色々聞いていくんですが、正解すると○、不正解だと×が似顔絵の上に付けられる。この間の、親子の情がよかったですね。子供たちは×が増えるとヒヤヒヤするんですが、最後は三波伸介さんが○を大盤振る舞いしてくれます。

そして、子どもたちからお父さんへの手紙が朗読され、ホロリとさせられて終わる。
健全な時代でしたねぇ。いま同じことをやって、はたして番組が成立するでしょうか。親子間に交わされるこうした情は、基本的に不変だと思いますが、いろいろヒネり過ぎてしまった現代では、単純過ぎてもう受け入れられないかもしれませんねぇ。
若きリーダーシップ
ETV特集で「被災農家を救え 若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日」という放送を観ました。震災で津波を被った宮城県亘理町の農家の、復興を追ったドキュメンタリーです。京都で「マイファーム」という農業ベンチャーを経営されていた西辻一真さんが、震災直後に被災地を訪れ、復興支援を決意するところから、地元の人たちと協力して一つの事業を立ち上げるまでの苦闘を描いています。

西辻さんは、1982年生まれということですから今年で32歳。京大卒ということで聡明であられることはもちろんですが、そのビジョンとリーダーシップには胸を打たれました。年齢は関係ないんだという思いを強くしました。志の高いビジョン、実行力、表現力、柔軟さ、そして何よりも忍耐。こういう若い世代のリーダーが登場していることは、心強い限りです。

番組中、亘理町が国の巨額の復興予算を得て作った大規模なイチゴ団地との対比が描かれます。町が計画した新イチゴ団地は、面積64ヘクタール、建設費総額110億円という巨大なもの。一方の西辻一真さんらが行っている加工用トマト栽培の売上げは、年間1000万円に届かない。まるで象と蟻のようです。

ところがこの立派なビニールハウス群。塩を被った農地ではイチゴが育たないため、やしがらと培養液を使った高設栽培法を採用。これでコストが10倍に跳ね上がっただけでなく、5年後土地を農家が買い上げることを条件にしているために300万円の拠出が必要となり、イチゴ農家の半数は加入できなかったというのです。

イチゴ団地に加入して頑張っておられる方もいらっしゃると思うので、あまり不用意なことは言えないのですが、私には、これが現代社会に今ある2つの道の象徴のように思えました。

方やマクロ発想で、上から予算を降ろして来て大規模な事業を計画。もう一方は、身の丈で、手作りで、仲間を作ってやれることから立ち上げる。しかも前者は栽培の工業化を目指し、後者は塩害にあった土地を活かすという考え方です。やり方も、思想も、180度違う。私個人としては、西辻さんらの活動の方に共感を覚えます。
ポートランド市の「シティ・コミッション制」に注目
アメリカ北西部にある都市、ポートランド市の政治制度を知って本当に驚きました。なんだ、やればできるんじゃないか、という驚きです。

「民主主義」というのは、その名の通り市民が主権を持つ政治制度のことです。英語の democracy の語源は、ギリシャ語の「デモス(人民)」に基づいています。しかしそれと、我々が慣れ親しんでいる「代議員制」とは別の概念です。「代議員制」はあくまで「民主主義」を実現させるための方便に過ぎません。

では今の「代議員制」は、「民主主義」を実現しているのでしょうか? 代議員が「選挙」で選ばれるということが、あたかも公平さを実現しているように思われていますが、その選挙で当選する人はみな「政党」に属する人たちです。

「政党」に属さなければ当選する見込みはなく、議員職は今や世襲になっています。(議員職が歌舞伎役者と同じでいいのか!)さらにヒドいのは、当選した後は公約をあっさり保古にして、やりたい放題です。(安倍政権は政権発足後たった一週間で「日本を原子力に頼らない」という公約を撤回)これで、民主主義と言えるのでしょうか?

ポートランド市の議会は独特の「シティ・コミッション制」というものによって運営されています。この制度で通常の議会に当たるものは、毎週水曜日に開かれる、市民団体からの提案を聞く会議なのです。

市民は近隣組合というものを作って、その組合員が集まり、生活改善に関する提案をまとめます。この提案を代表が持って、毎週水曜日の会議に臨みます。市は法律によって、こうした市民の提案を聞くことが義務づけられています。

一方の市側の出席者は、市民から選ばれた4人のコミッショナーと市長を合わせたわずか5人。この5人が、市民側の提案を聞いて、その場で出された提案に裁定を下すのです。この制度では、市民が政治に直接関われる割合いが非常に大きくなっている一方で、代議員は極力少なくされているのです。

その結果、政治の透明性が確保され、市民の政治意識も高まり、決定もスピーディーに進んでいきます。この「シティ・コミッション制」は1970年代から始まったということですが、自動車に頼らない都市づくりを目指し、1993年比で22%の炭酸ガスの排出量削減に成功したそうです。

自動車利用の大部分は輸送目的です。アメリカ人が食べる食物は、平均すると2000キロも離れたところから輸送されて来るとのことですが、ポートランド市ではフォーマーズ・マーケットの開催によって、地産地消を推進しました。このようにすれば、環境負荷の軽減と、健康な食と、経済コスト削減が同時に実現できるのです。

忘れてならないのは、これらが実現できたのは制度だけの問題ではないということです。そこには当然、市民の、幸福というものに対する「価値感」の変化があった。物事を小さな単位、小さな分散型の社会にしていけば、今の社会の様々な矛盾が解決できるのに、日本の今の政治が目指しているところは真逆です。

今なお、大きく、大きくしていこうとしています。TPPなどその最たるもので、貿易を自由化すれば、より豊かに、幸福になれると説く。デタラメもいいところです。いま人類が置かれた危機を何も解っていません。今の「代議員制」は、地に落ちていると思います。

●参考

「弱み」を見せたっていいじゃないか
他人に弱みは見せられない。そう言う人がいます。いつも去勢を張っていて、本心はひた隠しにし、誰かに攻撃されやしないかとたえず身構えている。こういう人は一見強そうに振る舞ってはいますが、実は自分が大変な怖がりであるということに、あまり気づいてはいません。

そこにまともに向き合ってしまっては、自分が弱い人間だということを認めてしまうことになるからです。ですから、思考はたえず外を向き、周囲の人々の心を読んで、自分に恐怖を与えている元凶は周りの人間たちだという結論を下します。するとこの結論がさらなる防御意識を強化させ、本人をガチガチに縛り付けてしまいます。

こうなってしまっては、もう立派な?被害妄想なのですが、本人には判りません。いつも言うように、その渦中に居るからです。渦の中に巻き込まれていて、自分の立ち位置がまったく判らないのです。

しかしなぜ「弱み」は見せられないのでしょうか?「弱み」を見せると、何か重大な不利益を被るとでもいうのでしょうか。人はみな自分のことに精一杯で、他人のことなどあまり気にかけてはいません。残念ながらそれが現実です。あなたが「弱み」と思い込んでいる部分も、他者からしたら「どうでもいいこと」である可能性が大です。

事実は事実としてある。しかしどこまでが客観的事実で、どこからが自分の想像であるかをしっかりと分ける必要があります。そして自分の想像こそが、自分の恐怖を創り上げている正体であるということ。決して他者のせいではないということ。そういう自分の「心グセ」の誤りに気がつかなくてはなりません。

「弱み」を見せたっていいじゃありませんか。今あなたに必要なのは、自己防衛意識を募らせることではなくて、「弱み」をさらけ出せる友人たちを持つことです。どんどん言っておしまいなさい。そうすれば楽になれるし、人生を楽しめるようになって行きますから。
今年もあたりました!
今年もあたりました! 宝くじ〜
って違う! 食ですよ食。食あたりです。見事にやられましたよ〜
一昨日食べた生牡蠣だな、こりゃ。
生牡蠣食べるときは、いつもスリル満点。
お祈りして、それから気合いを入れて食べるんですけど、あたるときはあたる。
だからいつも用心して2個までにしていたのに、今回は4個も食べちゃった。
腹痛と下痢はすぐに治まったけど、悪寒と頭痛が治まらない。
今日も断食かな。
家が余る家庭と家のない家庭と
若者のクルマ離れが深刻なようで、自動車業界は頭を悩ませているようです。これにはいくつかの要因が考えられますが、一つはクルマがもはや憧れの対象ではなくなったということがあります。単なる移動ツールになったのです。加えて、お金がなくて買えないということが、現実的問題としてのしかかっています。

自動車会社には申し訳ないけれど、私はこれはよい傾向だと考えています。それだけ環境負荷が減って行くことになりますから。
さて問題は、二番目の「お金がない」ということです。当の若者たちがどう考えているかは解らないのですが、親の経済状況によって大きな格差が生じはじめています。

今の若者たちが可哀想なのは、将来のビジョンが描けないということです。正規雇用が減っているし、勤め先が永続している保証はないし、年金受給開始年齢は先送りされるし、老齢者の介護負担が増えることはもう確実です。つまり、収入減という状況でありながら負担額だけは増加していくのです。

ところが親が家を持っているかいないかで、子どもの将来の経済状況が大きく変わってしまうだろうことが容易に予想されます。今は少子化の時代ですから、一人っ子同士が結婚すると、それぞれの親に家があった場合には、将来は家が一戸余ることになる。子どもはその余った家を、貸すなり売るなりできます。(価値があればの話ですが)

しかし、持ち家のない親の子どもは将来が大変です。離婚者が増え、母子家庭も多くなっていますが、ダブルワーク・トリプルワークをして必死に収入を得ている母親も少なくありません。そうやって必死になって稼がなくてはならない一番の理由が家賃負担です。そして義務教育が終われば、さらに学費が必要になってきます。

こうした状況を、政治家は解っているのかな?と思います。これを変えるには、土地の私有財産制を認めた今の資本主義制度を根本から改めなくてはなりません。しかしそのようなことは望み薄です。我々が出来ることは、疑似家族を作って、せいぜい助け合うくらいのものでしょうか。
便所掃除哲学
「便所掃除哲学」というものがあるのをご存知でしょうか。「便所掃除哲学」に関しては、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんが有名ですね。鍵山さんは、現在では「日本を美しくする会」というNPO法人を立ち上げられて、変わらず「便所掃除哲学」を説かれているようです。

ダスキンに確か便所掃除研修というのがあったのですが、今でも行われているのでしょうか? これは凄いですよ。会社のトイレを掃除するんじゃないんです。街に出て、見ず知らずの家の玄関をノックして、「すみません。お宅のお便所を掃除させてください」と頼み込み、その家の便所掃除をさせていただくという社員研修です。

40代のころ、私はこうした考え方をバカにしていました。その当時、私は小さな事務所を持っていて女性従業員を二人雇用していました。仕事もハードにしていましたが、掃除は私がやっていました。そればかりか、毎日食べるランチも、キッチンで私が作って提供していました。もちろん便所掃除も私がやっていました。

それは従業員がいないころからの習慣でしたし、私には変な理想主義があったのです。生活していれば、当然その環境は汚れます。集団生活では先ずそこに気づくことが重要であって、気づけば「下座」の行も自然と自発的に生まれるだろう。だからそれを敢えてルール化したり、社員研修で強制したりするなんて、とてもいやらしいことだ。と当時はそう思っていたのです。

ところが二人いた従業員のうち、一人は時々掃除をするようになりましたが、もう一人はとうとう最後まで頑として掃除はしませんでした。一度私は彼女に訊いたことがあるんです。「Aちゃんが掃除してくれているのに、君はどうして同じようにしないの?」すると彼女がこう答えました。「だってAちゃんは、私より後から入って来た人だから」

理屈になりません。でしたら私の方がもっと先輩ですし、Aちゃんが入って来る以前にも、彼女が便所掃除をしたことは一度もありません。
結局彼女は、気づけなかったのです。自分の中に眠る差別意識の矯正という課題に。

事務所に居る全員が排泄行為をしているのに、後始末は後輩だけがやればいいというのは思い上がりですし、それは差別です。日本陸軍の、初年兵より二年兵の方が上というのと一緒です。それに、便所を差別している。便所の差別は自分の肛門を差別していることと同じです。入口は愛するが、出口は愛さない。日頃あれほどお世話になっていながら、みな喰うことにしか関心がない。

私は最近になって、こういうことはやはり仕込まなくちゃ解らないのだろうか、と考えるようになりました。何より私自身の息子が、家の便所掃除を一度もしたことがない。ちゃんと教えなかったのは失敗でした。職場で、他の方々にご迷惑を掛けていなければいいけどなぁ、と思っています。 
異常気象は「心」の異常の反映なのです
2月の8日と15日、関東地方は記録的な大雪に見舞われました。都心で20センチを超える積雪は20年ぶりとのことですが、私が住む多摩地区は都心よりも気温が低く、「ここは雪国か」と見紛うほどの銀世界でした。この地に引っ越してきて以来、初めての経験です。

ちょうど時期を同じくして、イギリスではハリケーンが猛威を振るい、これまた記録的な暴風雨と水害をもたらしました。またアメリカ北東部もこの20年で最強とされる寒波に見舞われ少なくとも20人が死亡、、ニューヨーク州とニュージャージー州が非常事態宣言を発令しました。

こうした極端な現象を、最近では「極端気象」と言ったりもするようです。「異常気象」がもはや当たり前になり、さらにその上をいく極端現象までもが当たり前になりつつあるというわけです。『2012』や『The Day After Tomorrow』というディザスター・フィルム(災害映画)はご覧になりましたか? あれが現実になろうとしているわけですね。

この原因は言うまでもなく、人間の活動にあります。もっと言えば「心」とリンクしているのです。「心」の異常の総和が「異常気象」をもたらし、「心」の極端が増えたから「極端気象」が増えているのです。そう言われても、にわかにはご納得いただけないでしょう。でも、こう言えば解っていただけるでしょうか。

物事が進行する前には、必ずそれに先行して「意志」があるのです。家を建てようとしたら設計図が必要ですし、その前には「こんな家に住みたいな」という構想があります。仕事をするときにも、料理を作るときにも、先ず最初に「意志」がある。

私たち人間は、毎日様々なものを生産していますが、それをすべて人間が創造していると考えるのは思い上がりです。それどころか人間は、実は宇宙に何一つ生み出してはいません。自動車もエネルギーも衣服も料理も、すべての素材は自然から得ていて、その結合を変えているだけなのです。

複雑極まりないこの人体ですら、水と炭素の結合でほとんどが出来ているのです。すべての素材は自然の中にあり、そこから物が生まれ、結合状態を変えながら、やがて還る循環をなしているのです。

ところが思い上がった人間は、すべての素材を自然から得ておきながら、自然に対して「対価」を支払ったことがありません。全部がタダ取りです。そしてタダ取りしたものを加工し、販売することで、金儲けをしてきたのです。

今日のように人格神を設定した宗教がはびこる前はアニミズム(animism)が主流でした。世界中どの地域でも、大地の恵みへの感謝という意識が普通にあって、それを表現する祭祀も頻繁に行われていました。

自然に対し「対価」は払えないにしても、ちゃんと「感謝」はしたし、その恵みをもたらしてくれる自然は破壊しないように努めてきたわけですね。今でも日本の田舎にはそういう風習がありますが、昔の人々は「命」の成り立ちと循環ということをよく解っていたわけです。

ところが現代人は、そういう「真理」をバカにして、放擲(ほうてき)してしまいました。「ほどほど」ということの本当の意味を知らないのです。人間も自然の一部です。その中で永続的に暮らして行くためには、許される循環の規模の中で生きる、つまり「ほどほど(知足)」が必然ということです。

でも、今の世の中を見てご覧なさい。呼吸ができなくなるほど大気汚染物質を出し、放射能汚染を拡大しながらも原子力エネルギーが必要だと言い、酸素を供給してくれている森林はどんどん伐採し、植物を育ててくれる水資源は枯渇させ、たんぱく源のお魚を食べ尽くす。「ほどほど」とは、まるでほど遠い現実を。

自分たち人間が生存できない状況を、自分たちで加速させているのですから、これが「心」の異常でなくしてなんでありましょうか。お解りでしょうか?「心」の異常が「異常気象」をもたらしているという理屈を。

これは屁理屈ではないのです。人類が背負ったカルマです。人類はそうやって、これまでにも栄えた文明を何度も自らの手で破壊してきました。その末期では、科学技術が暴走し、必ず狂人の指導者が登場し、大衆がこれらを熱狂的に支持したのです。そして今まさに同じことが進行しています。

いつまでも懲りない人類。いま地球は言っていますよ。
「今までは対価など求めなかったし、見逃してやっていたが、身の程知らずには、溜まりに溜まったツケを払わせてやるからな」

*人間は何一つ生み出してはいない。すべては宇宙にすでにある。それをご理解いただいた上で、事物の前には必ず最初に「意志」があるという原則を当て嵌めてみてください。ではその完全な宇宙を作った「意志」はどこにあったのでしょう?