by Rainbow School
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今こそ「起業を目指せ」
成人したお子さんが「自分で商売を始めたいんだけど‥‥」と言ったら、どうされます? 賛成しますか、それとも反対しますか?

GEM(グローバル・アントルプレナーシップ・モニター)というところが実施した調査によると、日本の起業率は5.2%とのこと。この数字が諸外国と比べて高いか低いかというと、非常に低いのです。GEMが調査した55ヵ国中、日本は下から5番目。

低い理由には、教育面と、制度面の二つの問題があると思います。先ず教育面では、日本の小中高大学教育というのは、そもそもサラリーマンを作るためのものになっている。集団的な秩序、右ならえを前提として、その中で競争することを教えます。個性を引き出そう、伸ばそうという考えはなく、個性的な人は落伍者として排除される傾向があります。

制度面では、開業のハードルが非常に高い。開業資金をほとんど自己資金で賄わなければならず、300万円程度を貯めるのにも何年も掛かります。銀行は担保がなければお金を貸してくれません。うまくいって借りられたとしても、今度は返済が重くのしかかってきます。

それと家賃が高過ぎる。開業してもすぐに軌道に乗るわけではありませんから、100万円程度の運転資金では、たちまち底をついてしまいます。こうしたことから、起業した会社のうち5割が3年以内に姿を消してしまいます。

さらに追い打ちを掛けるのは、借金の返済です。会社というものは本来は有限責任ですから、潰れたら負債はチャラになります。ところが日本では、中小企業が借金をする場合、オーナーがそこに個人保証することを求められます。

借りる時にはよもや倒産など考えていませんから気軽な気持ちで判を押すのですが、倒産した後にも、借金がどこまでも追いかけて来るのです。泣きっ面に蜂とは正にこのことです。○○の毛まで抜かれてしまい、一家離散の憂き目に遭うのもザラ。日本では一度失敗すると、敗者復活が難しいのです。

これでは起業のリスクを取ろうとする人など、居なくなってしまうのも当然です。でも私は敢えて、それでも今こそ「起業を目指せ」と言いたいです。

サラリーマンが幸福だった時代はとっくのとうに終わっています。平均(たいらひとし:植木等さんの『ニッポン無責任時代』の役名)が「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんダ」と歌った時代は遠い過去。めでたく正社員の椅子を得ても体を壊すまで酷使され、正社員になれない者たちは低賃金でコキ使われる。どっちにしても使い捨て要員です。

労働者がブラック企業を見捨てないからブラック企業がのさばり続けるのです。捨てられるのはいつも労働者とは限りませんよ。労働者側から企業を見捨ててやればいいじゃないですか。契約はフィフティ・フィフティ。全員で示し合わせてブラック企業を置き去りにし、自分たちで会社を起こせばいいじゃないですか。

こんなアジテーション、「無責任」でしょうか?
東京都知事選の怪
イ・ビョンフン監督の『馬医』という韓国宮廷ドラマを毎週観ています。第28回「執拗な魔の手」の中にこんなシーンがありました。主人公のペク・クァンヒョンはまたもや内医院(ネイオン)院長イ・ミョンファンの策謀に巻き込まれてしまいます。

悪代官、左議政(チャイジョン)のチョン・ソンジョの家に嫁ぎ未亡人となっていたウンソは、クァンヒョンに命を助けられた恩義から彼の身を心配してこう呟くのです。「私は両班(ヤンバン)の家に嫁いだが、それで解ったことがある。権力を握る者の言うことは決して信用してはならないということを‥‥」

安倍晋三氏率いる自民党は、政権を取ってからたった1週間後の2012年の12月、日本を原子力に頼らないという公約を方向転換しました。連立与党となった公明党も、原発をゼロにするという公約を反古(ほご)にして、インドへの原発輸出を容認する発言をしています。選挙公約など、もうあってなきがごとしです。

私は東京都民なのですが、今度の都知事選の位置づけがよく分かりません。あまり政局的なことは言いたくはないのですが、細川護煕氏出馬の意味を量りかねています。前都知事の猪瀬直樹氏は金銭スキャンダルで失脚しました。普通であれば、次には金銭問題にクリーンな人が追い風によって選ばれるのがセオリーです。

ところが、争点を「原発」にズラすことを目的として登場した刺客が細川護煕氏のような気がするのです。もし宇都宮健児氏が当選すれば、美濃部亮吉氏以来35年ぶりの革新都政の誕生となります。これを是が非でも阻止することを目的とした勢力が、背後に居るのではないかと私は疑っています。

なぜなら、「原発」は国政の問題です。東京が首都であり、いくら影響力があると言っても、国政の舵取りはできません。降って沸いた都知事選を利用し、争点を「金銭スキャンダル」から「原発」に移すことで、「原発」問題に対する庶民の不満のガス抜きと、革新都政の阻止という一石二鳥を狙ったのではないでしょうか?

それに、東京に「原発」はありません。誘致問題の当事者というわけではないのです。東京は電力を貰う一方の立場です。「脱原発」は結構なことですが、「東京都民は今後電力を欲しがらないぞ」と言えるのでしょうか? その覚悟があっての「脱原発」なのでしょうか?

東京都も一地方自治体です。その地方自治の長を決める選挙なのですから、争点は当然「都民としての暮らし」にあるべきです。それが「原発」を争点にするというのは、おかしくはないでしょうか? 代替エネルギーが用意できないのであれば、「暮らし方」そのもの、ひいては価値感までも変えなくてはなりません。

私はそれが必須条件だと思っていますが、「東京を江戸に戻そう!」という「暮らし方」のプランが提案されて、「だから原発はいらない」と言うのなら話は解るんです。でも、他県に置いた原発で電力を作って、東京都はそれを貰う一方でありながら、「脱原発」だけ言うのは筋が通らないと思います。

このように、実効性がほとんどないことを公約に掲げて都知事選に立候補することの意図が、私にはどうも解りません。唯一の合理的な解釈は、それで庶民を騙すことです。目くらましにすることです。そうお感じにはなりませんか?

ただ、本当に「脱原発」の覚悟があるのなら、「東京が範を垂れる」ということをやれないわけではありません。なぜかというと、東京都は東京電力の大株主ですから。大株主として株主総会に出席し、経営陣に「原発」の廃炉を迫ればよいわけです。細川護煕氏は、それをやれますかね? やれるんだったら選挙の意味はあります。「これが当選した私の公約であり、都民の意向だ」って言えますから。

さてそこで、冒頭の「権力を握る者の言うことは決して信用してはならない」という言葉が甦るんです。細川護煕氏は、佐川スキャンダルによってわずか9ヵ月で政権を投げ出し、1998年に引退してからは風雅に生きた人ですよ。一方の小泉純一郎氏は、竹中平蔵氏と組んで、日本の富をアメリカに売り飛ばし、日本を現在の格差社会のどん底に陥れた張本人ですよ。

その二人が組んで「脱原発」って言ってもなぁ、私は「うーん」って感じです。
走りながら癒す
衣笠祥雄さんという野球解説者をご存知ですか? 現役時代は広島東洋カープの主軸として大活躍した方です。2215試合連続出場という大記録に隠れて他の記録があまり目立ちませんが、攻走守揃ったいい選手で、MVP1度、打点王・盗塁王各1度、それに国民栄誉賞も受賞した凄い人なんですよ。

でもやっぱり衣笠祥雄さんといえば連続出場記録。愛称の「鉄人」は背番号が28だったから(後に3に変更)らしいのですが、ピッタリですよね。何が凄いかって、怪我や不調の時も「やり過ごす術」を身につけていたことだと思うんです。それがあって、ああいう立派な結果につながっているわけですよね。

これを見習いたいのです。もちろん怪我をしない、怪我に強い、そのための備えは怠らない、というのは選手として当然です。しかしそれでも怪我をすることがあるし、調子が悪い時もある。だから殆どの選手は、2215試合連続出場なんて大記録は残せないわけです。

生きていれば、好不調の波があるのは当たり前です。好調の時は何も考えなくてもいいけれど、不調になった時にどう乗り切るか‥‥。そこがポイントだということを、衣笠選手の大記録は教えてくれていると思うんですよ。

不調になった時にはどうしても気が沈む。私自身が人一倍そういうタイプで、何度も沈んできました。しかし「気分がよくなったらあれをしよう」「治ったらこれをしよう」と考えていたら、逆に回復は遠い。なぜかと言うと、「調子が悪い私」という自己暗示を強めてしまうからです。

そうじゃなくて「走りながら癒す」ということが重要なんですね。沈んでいる時には好調な人が羨ましく見えます。自分の不調がますますヒドいように感じてきます。しかしその人にだって好不調の波はあるわけで、他人と比べて今の自分を嘆いてみても仕方がありません。

たとえ不調の時にも少しでも前に進む、行動するということをし続けることが肝心です。そして行動の範囲が自然と広がった時に「あれ、そういえば最近ウツになってないぞ」と気がつくというのが、回復のパターンなのです。
走りながら癒す。そこに取り組む人と、取り組まない人とでは、その後は確実に違ってきます。
健康習慣:出来る人、出来ない人
去年の今ごろは膝が痛くて仕方がなかったのに、真冬になっても、今年はそれが出ません。昨年の6月から始めた「本山式経絡体操」が効いているようです。やり初めは痛さをこらえながらしていたのですが、一ヵ月くらいで痛みが薄らぎ、今は悪くなっても「少し痛いかな」という程度で済んでいます。

人間、体に「悪い」ということは続けられるのですが、体に「良い」といわれることはなかなか続けられません。好んで「悪い」方を選択するのですから不思議です。「悪い」と解っていても誘惑には勝てません。自分もずっとそれがダメだったのに、50歳を過ぎた辺りからやっとコントロールできるようになってきました。

以前、北海道の知り合いから頼まれて、20代のご子息を一週間ほど預かったことがありました。うちに来たこの青年は「朝になったら自分は変なことをしますが気にしないでください」と言って泊まったのですが、驚きました。早朝、全部の窓を開け放して、空手の型をじっくりやるのです。毎日ですよ。凄い!

いったいどこが違うんでしょうねぇ。若い彼に出来るのですから、「年齢」というのはあまり関係ないようです。一つ言えるのは、大病をされた経験のある人は、何らかの健康習慣を自分に課している人が多い。ということは、一度どん底に落ちないと、人はなかなか自分を矯正できないということでしょうか。

でも若い彼が、その習慣を獲得できたのはどうしてだったのでしょう? どん底に落ちた経験がなくても、出来る人には出来るんですよね。自分が50歳を過ぎてからやっとできるようになったのは、その価値が浮上したというよりも、他の誘惑への興味が薄れたということが大きい気がします。俗に言う「枯れた」?(;´_`)

世間一般の誘惑に興味がなくなった結果、相対的に「健康習慣」が前面に出て来ただけのような気がします。若い彼にはそれが子供時代から出来ていた。要は優先順位の問題のようです。そう言えば、彼には独立独歩の雰囲気がありましたね。世間一般の誘惑にはまったく興味がなさそうでした。大物かな?
「お父さん」はどこへ行った?
いまBSプレミアムで、山田太一さん脚本の『男たちの旅路』がアンコール放送されています。

『男たちの旅路』の第一回目の放送があったのは1976年の2月。このころ私は、東京に出て来て一人暮らしを始めたばかりでしたが、テレビを買うことができなかったので放送は観ていません。でもどうしても残念でならず、翌年発売された脚本集を買ってむさぼるように何度も読み返したのを覚えています。

このドラマの主人公は、特攻崩れの頑固な中年男という設定。これを自身海軍航空隊に所属し特攻隊を送り出した経験のある鶴田浩二さんが演じていました。このときの鶴田浩二さんの年齢を計算するとなんと52歳。唖然としました。今年、自分は還暦を迎えるのですが、何かすごーく変な感じです。

先ず、1976年当時には、特攻崩れの上司と、戦後生まれの若い世代との衝突というテーマが成立してたんだという驚きです。当時の私は22歳。私の父も軍隊帰りでしたが、その体験を話さなかったし、こちらとしては想像もできません。当然ながら、鶴田浩二さん側からドラマを観るという発想はありません。それが今は、年齢の近い鶴田浩二さん側から70年代の若者世代を観ているのです。

ところが二番目として、鶴田浩二さんの年齢と堂々ぶりにも驚かされてしまいました。小津安二郎監督作品や、森繁さんの『社長シリーズ』などを観てもいつも思うのですが、昔のお父さんはどうしてあんなに「お父さん」然としていたのでしょうか。逆に言えば、いつから「お父さん」は居なくなってしまったのでしょう?

自分なども情けないことにまったく威厳がないというか、「お父さん」ぽくはありません。それが果たしていいことなのかどうか‥‥。きっと女の子から見たら、「お父さん」ぽい「お父さん」の方がいいんでしょうねぇ。向田邦子さんのドラマには、その意識が色濃くありましたよね。やさしくて、包容力があって、自分を正しい方向に導いてくれる存在としての「お父さん」。

クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』にも、いっぱい「お父さん」が出て来ます。なんとニノこと二宮和也くんもちゃーんと「お父さん」になっているのですからびっくり!です。ということは、時代の雰囲気が「お父さん」を作るということなのでしょうか。きっと時代が要請するものと、本人の自覚とがぴったりシンクロしていて、「お父さん」が出来上がっていたんでしょう。

このテーマはもう少し考えてみます。
自分の仕事は自分で創る
Eテレで「戦後史証言PROJECT」というのをやっていて、毎回楽しみにしているのですが、第5回が「福島・浜通り」、第6回が「三陸・田老」、第7回が「下北半島」と、東北大震災および原発事故に関連した戦後史証言が続きました。

これを見てつくづく感じたのは、今も昔も政治は何も変わっていないということ。金と利権と嘘つきだらけ。しかしもうそれは限界であり、市民が政治を取り戻さない限り、持続可能な理想社会は実現できずに破滅に向かうしかないだろうということ。

戦後の東北地方にとっての課題は、安定した「雇用」でした。寒冷地のために収穫が充分ではなく、農業だけではとても食べていけない。ひとたび冷害が発生するとたちまち生活は困窮し、出稼ぎに頼らざるを得ず、一家がバラバラに暮らすようになる。ですから、地元に「雇用」があって家族が共に暮らせる生活は、何よりも強く求められたのです。

そこに一つの「産業」として、原発関連施設の誘致話が持ち上がった。地元の人たちから見れば、紡績会社とか家電メーカーの工場誘致話と何も変わりがなかったのです。今よりも知識も情報もない時代ですから、運営側が「安全です」と言えば、それを信じるしかない。おまけに「電源三法」によって巨額の交付金が自治体に転がり込むのです。

自治体の長としては「これで高度成長に取り残されずに済む」と考えるのも無理はありません。それで地域に「雇用」が生まれ、経済が活性化し、人々の生活が豊かになるのですから。

しかしそれでどうなったのか。よく「金だけ出す国際援助はダメだ」ということを聞くのですが、それと同じようになってしまったわけです。外からやってきた一つの産業頼み、交付金頼みの政治経済では、それがもし立ち行かなくなったときには、たちまち生活基盤が崩壊してしまうのです。アメリカのデトロイトなどはその典型です。

そしていざ崩壊すると、それを主導したエラい人たちはみな雲隠れしてしまい、損失が出れば税金に転嫁され、結局は市民がそのツケを払わされるのです。「日本人というのは総括しない」と田原総一郎さんが仰っていましたが、ミッドウェー海戦前後の軍部と、今の政治家や東電の幹部のメンタリティーはまったく同じです。

結局、マクロから発想して降ろして来た政治経済ではダメだということです。ミクロの集合が結果としてマクロを構成しているというのが、生物学的に見た場合の真理です。地元に「雇用」が欲しいのなら、そこで生活する人が自ら生み出さなければなりません。そして今、そのような動きが実際に被災地で生まれて来ているようです。

未曾有の震災を経験されて、「価値」の置き方が変わってきたのでしょう。これからは、政治家や経済人やマスコミの言うことを信じたり頼ったりしていてはダメです。彼らに対しては不服従で臨まなければなりません。自分の仕事は自分で創る。判断は自分でする。その知恵と勇気を持たなければなりません。
進む食料生産のオートメーション化
TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が結ばれたら、日本の農家はやっていけない。これに対し、それを契機として、日本の農家も国際競争力を高める努力をすべきであり、それがむしろこれからの農業の発展を促す、という言い分があります。

これだけ聞くと、前者はもう時代から取り残された人々の考えであって、後者がバラ色の未来が見える正論のような気がしてきますよね。政治や経済の全体を動かそうとする人たちは、つねにマクロでしかものを考えないクセがついているので、自分たちの考えのどこが間違っているかが解りません。

農業における国際競争力とは、いったい何を意味しているのでしょうか? 普通、競争力と言えば、同一品質の場合はより低価格、同一価格の場合はより高品質であることを差します。こうしたことから、競争をし続けて行くと、より高品質かつより低価格というところに、商品が落ち着いていきます。

これは消費者からすれば、大変よいことのように思えます。しかし問題はそれをどうやって実現するかです。いま行われているのは、大規模化、画一化、オートメーション化、それに低賃金労働者が確保できる国への移転です。(安い商品の輸入は、安い労働力へシフトしたことと同じ)

それによって何が起こるでしょうか? 食および食材の多様性の喪失、水資源およびエネルギー資源の奪い合い、大規模な環境破壊、農業従事者の減少、富める国における農業の空洞化、食の安全に対する担保能力の減少です。それらを犠牲にして、特定の人たちにだけ利益が転がり込むのです。

それを理想と考える人たちがいて、その人たちが政治、経済、マスコミを動かしているので、どうにもなりません。彼らは新たな産業の創出によって新しい雇用が生まれる、と言いますが、たいていはマヤカシです。確かに雇用は生まれますが、失われる雇用の方がずっと多いのです。なぜなら、新しい産業は常に人件費抑制を考えた仕組みを出発点とするからです。

みんなが適性に合った仕事につけて、それでそこそこ生活して行ける。それが経済の理想だと私は考えます。つまり「雇用」が何よりも大事。ところが今のマクロ経済の指導層は、「雇用」とは一応言いますけれども、「生産高」があくまで第一優先で、「雇用」は付け足しに過ぎません。

そして「生産高」を上げるためには、基本として人件費を抑制しなければならないと考えているのですから、この矛盾が解消するわけがありません。ちょっと景気が上向くと、ニュースでは雇用が改善されたと報道しますが、これもマヤカシ。増えた人たちは「雇用調整」要員にされているだけなのです。

話を戻して、食料生産のオートメーション化がいま急速に進んでいます。外食が多店舗化し、チェーン店内に、同じ食材を大量に供給する必要が増大しているからです。この分野ではオランダが先進国で、オランダの企業が開発したハウスでは根っこにくっついた部分以外は土を使っていません。必要な栄養素が必要なタイミングで送り込まれます。

植物も、養鶏所の鶏のように栽培されるようになったわけです。すべてがコンピュータによって一括管理され、驚くほどの少人数で大規模な生産が可能となりました。まさに革命と言っていいでしょう。このシステムは、環境汚染が深刻になった中国で、いま広がりを見せているようです。成功すれば大きなリターンが得られますし、農業経験がない企業にも参入が容易なのです。

農の近代化、産業化を願う人にとっては夢のような時代が来ています。ですが私は「恐ろしいなぁ」と思いました。多様性が集まって全体を構成しているのが宇宙の真理です。これを無視して一元化を推し進めれば、必ずどこかでしっぺ返しを受けます。多様性を失うことは、それだけ種の絶滅のリスクが高まるということなのです。そして、その時期が刻々と迫っていると感じています。
自分を癒したり、治したりできる人は、自分しかいない
自分を癒したり、治したりできる人は、最後の最後は自分しかいないのです。このことは、肝に銘じていただきたい。たぶん、どん底から立ち上がった経験がある人には、その意味するものが解るはずです。ところが、世間にはあまりにも強い誤解、錯覚が浸透しています。癒したり、治したりは、誰か他の人に頼らなければできないという考え方です。

こういう人たちは、自分を信頼していないので、東にいい人が居ると聞けば東に、西にいい人が居ると聞けば西に、まるで骨董の掘り出し物を探すようにしてセラピストの間を渡り歩きます。実はかつての私もそうでした。アトピーで苦しんだ5年間は、まさに色んなところを渡り歩きました。

それがあって今があるわけで、その経験は無駄ではありませんでした。が、その暗闇から脱することができたのは、冒頭の「自分で癒す、自分で治す」ということに気づかせてくれた人と、最後に出会えたからでした。その意味で、その方は私の恩人ですが、私を治してくれた人ではありません。私を気づかせてくれた人なのです。

ここを間違ってはならないと思います。AさんがたまたまBさんというセラピストと出会って、非常に大きな効果を実感したとします。それはAさんにBさんが合っていて、Bさんをきっかけにして、「自分で癒す、自分で治す」という方向に梶が切れたからなのです。ですから友人のCさんにBさんを紹介して「いいよ」と言ったところで、同じことが起きるとは限りません。

人というのは、それぞれ、体格や体質や性格や心のあり方のタイプがみな異なるのです。よいセラピストはこれを見抜きますが、「悩み」だけに着目していたら、みな一様だと思い込んでしまいます。世間一般の人にはこれが見抜けません。たとえば同じパニック障害で悩んでいたとしても、エネルギーが内側に向かうタイプと外側に向かうタイプとでは、対処法は全く異なります。

そのため、世間一般の人は、<○○さんのためを思って>まったくためにならない真逆なことをしばしばしてしまいます。「鬱の人を励ましてはならない」といったことは、だいぶ浸透して来たとは思いますが、でもどうしてなのかまでは解らないでしょう? それを解れとは言いませんし、身近にそういう人が居ないのであれば、解る必要もないと思います。

ただ、このことは頭の隅に入れておいていただけると有り難いです。自分を癒したり、治したりできる人は、結局自分しかいません。ですから悩める人を見て、出来る範囲で手助けすることはもちろんよいことですが、それを過重な責任として感じる必要はまったくありません。周囲の人間ができることは、本人に「気づかせること」だけなのです。
人を外見で判断する
格好よさとは外見でしょうか? そうです、外見です。
でもそこで、ヨージ・ヤマモトさんが語っていた次の言葉が思い出されるのです。
「格好いい服を着れば格好いいんじゃない。格好いい人が格好いい服を着るから格好いいんだ」
まさに至言です。

「人を外見で判断するな」ですって? いいえ、人は外見で判断するものだし、外見で判断できます。今のお医者さんは検査結果で判断していますが、以前のお医者さんはちゃんと外見で判断していたんですよ。血色、皮膚のつや、唇の色、目の充血度、姿勢、体の歪みなどでね。

「人は見かけによらぬもの」というのは、相手のことを言っているのではなく、自分の「洞察力」の無さを恥じる言葉です。つまり、見る側に経験が不足しているのです。人を、学齢や、肩書きや、家柄や、羽振りの良さでいつも判断するクセがついているために、「洞察力」がちっとも磨かれない。何が「格好いい」のかが、そもそも分からないのです。

さて、なぜミュージシャンは齢をとっても「格好いい」のか、が目下の私の大きな謎です。アーティストは、たいてい「格好いい」ものですが、とりわけミュージシャンが「格好いい」のはなぜか? 私の仮説としては、いろいろなアートの中でも音楽はよりシンプルで、より宇宙真理に迫っているからだと思うのです。つまり音楽とは祈りそのもの。

ベーシストでビートルズと最も親しかったミュージシャンのクラウス・フォアマンさん。ビートルズの「リボルバー」や「アンソロジー・シリーズ」のジャケットデザインを手がけたことでも有名ですが、この人のドキュメンタリーを見たら、とにかく「格好いい」。

次のサイトに、ヤングボーイだったころと、70歳を迎えたクラウス・フォアマンさんの正面写真が載っています。目の奥の、意志の輝きは少しも変わりませんね。そこが秘密なのかな?
『ローリーと釘の物語』
ある童話に、とても感銘を受けたので紹介しておきますね。
タイトルは『ローリーと釘の物語』です。

あるところに、とても難しい性格の男の子がいました。名前をローリーと言い、かんしゃく持ちで乱暴で、家族にも友だちにも思いやりがありませんでした。両親は彼の行く末をとても心配し、もっと素直で愛情深い人になれることを願って、今までいろいろなことを試みてみましたが、何一つうまく行きませんでした。

ある日のこと、お父さんが垣根のフェンスを作り直す作業をしていました。数日かかってすっかり作業をやり終えたあと、お父さんの頭に突然ある考えが浮かびました。そして、ローリーを呼ぶとこう言いました。

「ローリー、お父さんがこの金づちと釘束をお前に預けるから、これから先、むしゃくしゃしたときには誰かに当たるんじゃなくて、代わりにこのフェンスに釘を打ち込むんだよ。いいね」
そう言われて、ローリーはすぐにうなづきました。

そしてその日のうちに、出来上がったばかりの美しいフェンスに、37本の釘が打ち込まれました。それからローリーの周辺で何があったのかはわかりません。でも毎日毎日釘は打ち続けられ、数を増やしていきました。ところがしばらくすると、打ち込まれる釘の数がだんだんと減って来たのです。

そしてついに、ローリーはかんしゃくを起こすたびに、庭を走って行って釘を打ち込むより、気持ちをコントロールする方がずっと簡単だと気がついたのです。ローリーにとっては一大発見でした。お父さんを探したローリーは、息せき切ってそのことを報告しました。するとお父さんが、今度はこう言ったのです。

「よく気がついたね、ローリー。えらいぞ。じゃあ今度は、そうやって気持ちをうまくコントロールできたときには、その確認と自分へのご褒美の印に、今度は1本ずつ釘を抜いていってごらん」

それから数週間がたちました。釘の数は1本減り、2本減り、そしてとうとう全部の釘が引き抜かれました。ローリーの心の中に、何かを成し遂げたという達成感が沸き起こり、彼は喜びでいっぱいになりました。自分が変わった。以前の自分とは違う自分になった。そういう実感が満ちあふれ、彼はお父さんにその気持ちを伝えました。

お父さんはローリーの成長を喜び、彼をしっかり抱きしめると、こう言いました。
「ローリー、よくやったね。お父さんは君を誇りに思うよ。でもね、ローリー。フェンスをよく見てごらん。穴ぼこだらけだろう? 一度空けた穴は、もう元には戻らないんだよ。君が周囲に投げつけた言葉や、しでかした乱暴は、この釘と同じなんだ。後でいくら謝っても、穴はけっして塞がらないんだよ。だからそうならないように、いつも気をつけて、これからは思いやりをもってみんなに接するんだよ。できるね」

「うん」
お父さんの腕の中に抱かれて、ローリーはそう答えました。